エルネスト・カブール氏が亡くなった、ということを聞いて、自分でも予想していた以上の衝撃を受けて、1時間ばかり呆然としていた。
呆然としたまま、そろそろ寝るか、となったが、今の呆然とした心境をそのまま書いておくことも自分の為には必要かも知れない、と思って、寝る前にこの記事を書くことにした。
自分の中である程度以上アーティストの存在が大きくなってしまうと、その人の名はもはや脳内で一般名詞になってしまう。例えば漫画業界やアニメ業界における手塚治虫の偉大さについては今更語るまでもないが、手塚治虫を「手塚先生」などと書いてしまうと、なんだか却って気恥ずかしいというか、必死になって背伸びをしているような居心地の悪さを感じてしまう。織田信長のことを「信長さん」などとは呼ばない道理だ。
エルネスト・カブールも私にとってそういう存在で、だからこの記事ではカブール氏のことをエルネスト・カブールと呼び捨てで書いてしまうが、どうかご承知おきいただきたい、
エルネスト・カブールについて一言で言うと、「チャランゴの神様みたいな人」であって、「日本のフォルクローレ業界を形作った最重要人物の一人」ということにもなると思う。カブールがいなければ日本の(あるいは世界の)フォルクローレシーン自体が存在しなかった、というのは、言い過ぎでもなんでもない、単なる事実だろう。
カブールの演奏は、それくらいのパワーとエネルギ―と繊細さに溢れていて、聴く者誰をも圧倒してならなかった。フォルクローレなど聴いたことがない、それどころか音楽自体にそれ程興味がなかった私でも、Los JairasやMaestro del charangoなど聴いていれば、そのあまりの音の存在感に、「なんだこれすげえ」と圧倒される他なかった。
バスケをやるつもりで、バスケサークルを観に行ったらいつの間にか誘拐同然に音楽サークルに連れていかれた。説明会でもあるのかと思って座ってみたら、受付の筈の先輩らしい人に「で、何?」と聞かれた。それが私とフォルクローレの出会いだ。恐ろしいディスコミュニケーション、一般に考えれば大事故の部類の出会い方だと思うのだが、私は割ととんちきに「この落差を許容する組織はすごいなーなどとのんきに構えていた。
そんな中、「まあその辺の適当に聴いてみたら?」と勧められて、適当にカセットを選んで再生始めたのが、恐らく「緑の大木」だったのだと思う。
音に圧倒された。
このチャランゴという楽器はこんなに色んな音が出る楽器なのか、ごく無造作にバッキングもフロントもやってのける、当たり前のように音楽の中心地点にいる楽器なのか。
「無造作」というのが本当にすごく大きなポイントで、雰囲気からすると仲良く合わせ連をやっているようにしか聞こえない。それなのに聞こえてくるのはとんでもない密度のチャランゴ音、わけの分からない高速ハイコード、のんきそうに「ん?おれおじいちゃんだよ?」という顔をしながら、ぴったりずれないソロパートをあっさりと弾き切る。
すぐに気づいた。あのテープをかけても、このテープを書けても、どれを再生しても同じチャランゴの輝くような音色が遠慮なく飛び出してくる。当初何も知らなかった頃の自分は、フォルクローレとはエルネスト・カブールがチャランゴを弾くジャンルなのか、と勘違いすらしたし、強ちそれは間違っているとも言い切れなかった。
部室には大量のテープがあったのだが、その傾向はやはりある程度偏っていて、カブールの音など聴き放題に近い状態だったのだ。ここで、「フォルクローレって何?」ということがそもそも分からない新入生は、一見親切そうな、その実口元に小さなほほえみを浮かべた先輩たちによってたやす認知をゆがめられる。フォルクローレとは「これ」なのだよ、と。お前が逝く世界は「ここ」なのだよ、と。そしてそれは強ち間違いでもないのだ。
私自身は途中、ホセ・ホセロ・マルセロやルーチョ・カブール(エルネストの弟だ)、ロス・カルチャキスなんてテープを発掘してきて、「これもフォルクローレですよね?」「そういう説もある」などという議論をしていた・「いいじゃないかカルチャキス。素朴で、それなのにおしゃれで、たまにコードがわけわからん飛び方して。
つまり、あの空間が、「自分の音楽的アイデンティティを獲得するための、一種の草刈り場みたいなところだったことは間違いないだろう。「じゃあこれを聴いてみろ」は一種の宣戦布告であって、「これだけ?思ったより聞きやすかったわ」は一種の勝利宣言だった。
ただただ正直なことをいうなら……「フォルクローレ」という世界に入りはじめた私は、フォルクローレの可能性自体を舐めていたのだ。この楽器で一体どれだけの音が出せるもんなんだ?ということが分かっていなかった。そこに遠慮なく超絶技巧のチャランゴを突きつけていって、そもそも「超絶技巧」というのは大体これくらいの音は出せるということだから覚えてrおいてね」と教育をしてくれたのがカブールだった、
俺たちは何日もカブールを聴き、ときどきルーチョを聴き、コンドルカンキを聴き、Rumijjajtaを聴き、Inti・illimaniを聴いた。なんなんだこれは。地獄の底みたいな存在感と存在感の誤爆勝負だな。
どっちにしても、勝負は最初からついていた。エルネスト・カブールはすぐそこにいたのだ。「チャランゴの演奏」というだけじゃない、「チャランゴが全面に出ると音楽はどうなるか」「その格好良さの中で他のメンバーはどう自分を表現するのか」ということを、俺たちはとにかく楽しみつくした。
だから、結局あそこは「カブール道場」というようなところだったのだ。
少なくとも俺の5年の中の数十時間にカブールは潜んでいる。俺は普段チャランゴを弾かないけれど、多分ケーナの音にさえ、カブールの影響は間違いなく刻まれているのだ。「こいいう音もありなんだな」という、ただそれだけの要素で。
だから、少なくともあの二年。学生会館の二階の狭い部屋で、俺や先輩たちがいる部室に入りこんできて、適当にテープを再生して「あ、これもカブールじゃんヤバ」などと言っていた人は、もうその時点でカブールの弟子になってしまったといってしまってもよかった……しっかりした立ち位置を、例えば俺にとってのカルチャキスをみつけらなければ、それはカブールだ。
どうだった?お前にとっての音はどうだった?お前が一番好きな音はなんだった?ペルーか?エクアドルかチリか?ノルテ・ポトシか?
ちょっとした大学サークルに、カブールの影響は明らかに過剰な程に入り込み、けれど「過剰」で終わらず、様々な影響を外に持ち出していく。
それが、カブールだった。そんなカブールが死んだ。
だから私は悲しい。カブールかよ!が失われるのが悲しいわけじゃない。こっちにむき身の刀を向けているような、カブールの音楽、けれどそこにはいま、「カブールの死」という「意味」がべったりと張り付いてしまって、今までのようには楽しく音源と音源を遊ばせられないのではないかと思うからだ。
ただ、「死んだカブール」は悄然とした思いで聞かれるかも知れないし、案外そうでもないかも知れない。本人の死などなんの関係もなしに、「カブール!いぇーー!」となるのかも知れない。これは私にもちょっと分からない。
今度、一度話に行ってみようか。懐かしいの部室に。偉大なチャランゴ弾きが一人死んだけど、それでここの音楽は変わったかい?という話をしに。
私に出来ることなんてそれくらいかも知れない。