2019年10月10日

物語にカタルシスをどう配置するか、という話

こんな増田を読みました。


「命からがら逃げだす」を落としどころにできない所なんじゃないかと最近思った。
ナルニア国物語とか指輪物語とか、あれ行く先々で中ボス張り倒して回ったりしないだろ。
あさびらき丸のベルン領みたいな例外はあるけど、基本的に、旅の目的が最優先だから、
「やばい奴の縄張りに入ってる事に気づいたら、安全圏まで脱出する」が基本なんだよね。

スレイヤーズとかなろうとかのファンタジーは、何か知らんが、水戸黄門的というか、RPG的というか、ジャンプ的というか、
いちいち事件に首突っ込んで解決するまで先に進まないって、お前はコナン君かって展開ばっかなんだよね。


なろう系のことは良く知らないのでラノベ論に立ち入る気はないんですが、これはジャンルがどうこうというより「カタルシスを得られるスパンをどう設定するか」の話ではないかなあ、と思いました。

物語上で目的達成の効果を考えてみると、それって要は「カタルシスの配置」なんですよね。

目的達成までの間、例えばピンチがあったり、地道な努力や情報収集があったり、それこそ一時的に敵から逃げたりしてストレスがかかる。その上で、それらの努力が実って敵に勝利したり、ゴールにたどり着いたりする。そうすると読者はとても気持ちいい。

「ストレスとカタルシスをどう配置するか」というのは、どんな創作にもついて回る問題です。

基本的に、週刊連載の漫画なんかは、たとえ大目的がどーんとあったとしても、中途中途で細かく「目的達成」のカタルシスを配置する傾向がある、と思います。それはある意味当然で、カタルシスがなかなか得られない漫画だと、読者が読み続けてくれないから。増田上で出てくるコナンでも、短いと1,2話、長くても3〜4話くらいで大体一つの事件は解決しますよね。スポーツ漫画なんかも、例えば「甲子園優勝」みたいな大目的はあっても、中途中途で細かく「練習→試合」の展開を挟みますよね。

そういう点で、「細かくカタルシスを配置する展開」というのはよくあると思います。

一方、「どーんと大目的までの道のりが長く、途中でカタルシスがなかなか得られない」物語も勿論あって、それは長編小説に多いというのも確かだと思います。途中のストレスが長く大きいからこそ、最後にどーんと目的達成して感動する、という傾向もあるかも知れません。指輪物語は確かにそれに該当しそうですね。あとゲド戦記なんかも割とそうかな。

これはどっちがいい・悪いという話ではなく、物語をどう構築するか、誰にどのように訴えるか、という技術論です。細かいカタルシスがないと読んでくれない人もいれば、途中のストレス長めで最後にどーんと大目的がある展開を好む人もいる、ということです。

前者の展開に一点問題があるとすれば、「細かく目的達成のカタルシスを配置していくと、大筋の軸がブレ勝ちになる」ということかも知れません。他のことを色々やってる間に、大目的がほっぽりだしになったり、読者に大目的を忘れられてしまうというリスクです。これによって、肝心の大目的を達成することによるカタルシスが薄れてしまう可能性もあり、中途の展開で上手い感じにカバーすることが求められます。

一方、後者の問題は当然、「ストレスが長すぎると途中で読むのをやめてしまう読者が出る」ということですね。これをカバーし得るのが長編小説な訳ですが、恐らく「連載」という形式だとこれを払拭するのは難しいでしょう。もしライトノベルの展開が前者に偏っているとしたら、そういうことが原因なのかも知れません。(実際には後者の展開のラノベもそこそこありそうな気もしますが)

個人的な所感としては、この「細かい目的達成によるカタルシスと、大目的に対する軸」の描写に物凄く長けている漫画家さんとして藤田和日郎先生が思い浮かぶんですが、まあそれについてはまた別途書きたいと思います。

ということで、今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 10:51 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月04日

Kicksさんに長男のレゴ教室の話を寄稿させていただきました

段取り能力の話と、


コンテストで失敗した話と、


守破離の話です。


いや、長男が小学校3年くらいの頃からレゴ教室に通っていまして、今回寄稿依頼を頂いたので、折角なのでレゴ教室に通っている長男の話を書かせて頂きました。3本書いたら1日ごとに1本挙げて頂いたみたいで、良かったら読んでみてください。

一旦それくらいです。



posted by しんざき at 19:53 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月30日

ダライアス外伝の「SELF」は何故最高なのか、あるいは「体験」はお勧めし切れないという話

Yゾーンだった。

今でも思い出せる。今でも、あの時の緊張、興奮、衝撃を鮮烈に覚えている。もしかすると、自機を動かしたルート、レバーさばきまで体に残っているかも知れない。流石に再現までは出来る気がしないけど。

何の話をしているかというと、ダライアス外伝の話だ。


何度か書いたと思うが、ダライアス外伝は私の魂のゲームであって、このゲーム以上にやり込んだゲームは今までなかったし、少し寂しいことながら、恐らく今後の人生を見渡してもこれ以上やり込めるゲームとは多分出会えないだろう。期間としては数か月だったが、その間にどれだけの密度でダライアス外伝を遊んだか、今から考えると空恐ろしい気すらする。

で、私が初めて最終ゾーンにたどり着いたのがYゾーンだった。何故Yゾーンだったのか、というのはややはっきりしないのだが、多分「ゲーメストお勧めルート」にそのまま従うのが癪だったから、とかそんなくだらない理由だったろう。

ゲーメストお勧めルートは「A→B→D→H→L→Q→V」でフウセンウナギをラスボスに選ぶルートで、確かにHゾーンのネオンライトイリュージョンとラスボスが鎮座するVゾーン以外はそれ程難しいところがないのだが、私は後々にもこのルートをあまり遊ばなかった。単に私がヘソ曲がりだからということもあるのだが、エンディングがバッドエンドっぽくて気に入らなかったということも多分あったと思う。

当時から私がお気に入りだったルートは、「A→C→E→I→M→S→Y」というルートで、スコアを狙うのに疲れるとちょこちょここのルートに切り替えて気分転換をしていた。そして、初めて最終ゾーンにたどり着いたのも、このルートを練習している時だった。

まず、ゲーセンの話から始めるべきだろう。

当時通っていたゲーセンは「キャビン」という個人経営のゲーセンで、そこの親父は一見大雑把なように見せて、実は案外細やかな工夫をしている人だった。店の入り口に近いゾーンはどの筐体からも音が鳴り響いていてやかましかったのだが、奥の方に入るとデモ画面が無音に設定してある筐体が集まっていて、人が少ない時には自分が遊びたいゲームのBGMを割と静かに聴くことが出来た。

ダライアス外伝もそこにあった。

ダライアス外伝のBGMは、驚く程シャープで、驚く程繊細で、それまでのSTGとは全く趣を異にしていた。そんなダラ外のBGMのすばらしさに、私は圧倒されっぱなしだった。

ちょっと前こんな記事を書いた。気が向いたら読んでみて欲しい。


このゲームの最終ゾーンは、無音で始まる。

Mゾーンで「タイタニックランス」ことべレムナイトと死闘を演じて、Sゾーンで「デッドリークレセント」ことカザミダイを屠って、「ついに最終ゾーンにたどり着いた…!!」と緊張していた私の前に広がっていたのは、一面緑の森と、紫の雲に覆われたステージだった。

無音だった。ただ敵の攻撃だけはやたら激しく、やっと青勲章をとってアームを補充し一息つく間もなく、次から次へと襲ってくる敵に対処しなくてはいけなかった。

ダライアス外伝は、ステージとBGMが完全に調和して、その二つでプレイヤーに世界観を見せつけてくる。圧倒してくる、と言っても良い。ついさっきまで、「投影」の重厚なメロディでカザミダイの美しい攻撃を彩っていたゲームは、一点してひどく冷淡な顔を見せてきたような気がした。

30秒程経つと、背景が美しいジャングルに切り替わり、密林の奇妙な花々の間をシルバーホークが進む。そして、静かに、余りにも静かに、最終面のBGMがプレイヤーの耳に届き始める。静謐なピアノのようなメロディにドラムの音、時折混じる女性コーラス。

それがSELFだった。

なんというのだろう。私の感想は、「ああ、そうなのか」だったのだ。

このゲームは、このステージで終わってしまうんだなあ、と。俺は行きつくべきところに行きついたんだな、と。このBGMが、ここでこういう流れ方をするというのは、それはそういうことなんだろうな、と。全てを収束させるということなんだな、と。

何の誇張も、何の衒いもなく、私はそう納得したのだ。そう納得せざるを得ない「収束」というものが、SELFという曲にはあった。およそ「シューティングの最終面のBGM」とは思わせない程の静謐さ。無音の数十秒が、美しい背景転換が、静かに流れだしたBGMが、プレイヤーにそう感じさせたのだ。

哀惜とも諦観ともつかない私の感情を前に、Yゾーンは更なる展開を見せ、やがてラスボス「オーディアストライデント」の前で鳥を飛ばし、虹を掛ける。今でも私は、STGの最終ステージとしてこれ以上に美しいステージを知らない。


だから、私にとって、ゲームBGMというのは「体験」なのだ。


ゲームBGM には、勿論、数限りない名曲がある。ただそれだけで聴いても美しい。ただそれだけで演奏しても胸が躍る。それは勿論素晴らしいことであって、「単体で聴いても最高のBGM」という曲を、私は何曲も知っている。

けど、それでも、例えばあの日、あの時私が感じた衝撃、私が感じた哀惜というものは、あの日、あの場所にしかなかったものであり。

それは、多分ダライアス外伝のCDを聴いて、「SELF」のメロディに感動したとしても、多分味わえないものなのだ。

何故ならそこには、ステージが始まってからの無音の数十秒がないから。無音の中での激しい攻撃がないから。


大好きなゲームBGMについて、色んな人に知って欲しい。色んな人に聴いて欲しい。そして、今更その為に、わざわざ「ゲームをやってみよう!」なんて無茶を言うことは出来ない。ダライアス外伝を今から始めて、最終ゾーンまでたどり着く為に、STGをやったことがない人にどれだけリソースを投入させなくてはならないだろう?

分かるのだ。当たり前のことだ。だから、「あの体験を味わって欲しい」というのは、最初から無理な話なのだ。


ただ、もしかすると、私の「お勧め」は一方で「ネタバレ」になってしまうんじゃないか、と。あの鮮烈な感動を誰かから奪い取ってしまうことになりはしないか、と。私は、心のどこかでそんな危惧を抱いている。

思い悩みながらも、今日もこんな風に、「それでも、SELFは最高なんだよ」ということを、誰かに伝えたいなあと思ったのだ。

今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 22:40 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月24日

ポエムって言葉が「かっこいいこと言いたいだけで中身も具体性もない文章」を揶揄する単語として定着しちゃったのが悲しい

タイトルで完結していまして、ただ「悲しい」以上の話は何もないんですが。

いやまあ、ちょっと試しに「ポエム」でググってみてください。時事ネタなんで数日したら検索結果変わってるかも知れないですが。


かなしい。

別にこのケースに限らず、基本的にwebで「ポエム」って文字列をみた時、それが本来の「詩」って意味でつかわれるのをあんま見ないんですよね。それは、大抵の場合、「不明瞭で中身がない文章」とか、「ただかっこいいことを言いたいだけで何を言いたいのかさっぱり分からない文章」を揶揄する為に使われる単語になってしまっているんです。

「詩文を貶めよう」という意図で使われている訳ではない、ということは理解しているんですよ。確かに、元より詩ってめちゃ多様であって、中には抽象的で難解な文章も、あるいは実際に不明瞭な文章も存在しますから、そういう「よく分からない」という状態を総括する言葉として便利であることは分かります。

ただ、一応詩文好きの端くれとしては、ポエムって言葉が便利な罵倒語として使われるの、悲しいなあ、と。

ただでさえ詩って理解され辛いのに、こういうのでますます詩に対する偏見が広まっちゃったりしないかなあ、と。

詩を好んで読む人とか絶滅しちゃったりしないかな、と。

そんな風に慨嘆してしまう訳なんです。

いや、「ただかっこいいことを言いたいだけの、不明瞭かつ何の具体性もない文章」を表す言葉として、もうちょっと適切な言葉ってないんですかね?昔「言語明瞭意味不明」なんて言われていた人もいますけど、なんかそういう分かりやすいヤツ。


そもそも詩が「不明瞭で具体性がない」文章の代表格みたいな扱いされちゃうの、個人的には非常に納得がいきませんで、それ萩原朔太郎とか読んでも同じこと言えんの?と。文学部におけるサバンナメソッドです。

萩原朔太郎、「月に吠える」も勿論とても良いんですけど、個人的には「青猫」が超好きなんで読んでみてください。青空文庫で読めます。


いやもう明るい詩もあれば陰鬱な詩もあるんですが、「憂鬱なる花見」とか共感する人多いんじゃないでしょうか?「ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで/遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。」とか。これだけの非コミュ品性をこれだけ美しい言葉で表現できる人がいるか??

で、いやごめんなさい書いてて我慢できなくなった、やっぱ「月に吠える」も引かせてください。


例えば、だれもが恐らく国語の教科書で読んだであろう、「竹」。




光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。



いやもうなんだろうこれは。どんな脳構造をしていればこんな言葉の並びを選択出来るんでしょう?「かすかにふるえ。」で一度文章を途切れさせているところとか、もうここだけで一本詩集を読んだくらいの余韻がありますよね。これがライブだったら絶対ここで一瞬ブレイクが入って、観客席がしーーんとなった瞬間に次の演奏が始まるヤツですよ。あーーもう超好き。

ただ、勿論詩というのは本来言葉遊びであって、中原中也だとか 室生犀星の詩が素晴らしいのは当たり前のこととして、ただ「そういうものでなければ詩ではない」という話でもないと思うんですよね。別に例えば私が何か文章を書き連ねて、あるいはそれこそ今書いているこの段落文章を指して「これは散文詩だ」と言っても、いやまあそりゃなんて下手くそな詩なんだよアホかよと言われはするでしょうけど、詩という世界はそれを排撃しない。詩って広いんですよ、そりゃもう驚く程広い。

だからこそ、本来とてもひろーーーい詩を意味する「ポエム」という言葉が、総体として何かを揶揄する言葉として定着してしまっている状況が、ただただ悲しいなあ、と。

それだけの話なわけです。

今日書きたいことはこれくらいです。

posted by しんざき at 15:41 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月05日

何年も塾講師をやっていて、「作者の気持ちを答えなさい」という問題を観測したことがない

いや、存在しない、って言ってるわけじゃないんですよ。世の中広い一方私の観測範囲なんてたかが知れてるんで、どこかでそういう問題が何度も出題されていた可能性を否定はしません。

ただ、そこそこ長いこと補習塾で学校の試験の対策やら復習をやっていた人間の所感から言いますと、少なくとも受験問題や定期試験問題のレベルの話で言うと、

・「この表現における作者の意図を答えよ」とか、「このエッセイにおける作者の考えを要約せよ」みたいな問題は割と見る
・けれど、例えば小説や物語など、作者自身の人格が関わらない問題で「作者の気持ちを答えよ」みたいな問題は観測したことがない

んですよ。

いや、エッセイや随筆、評論ならそれに近い問題あり得ると思いますよ?あれは、作者が自分の経験を元に自分の思考を書いている文章なんですから、そこで作者の考えが問題になり得るのは当然です。場合によっては、作者の感情とか意図というものが問われることもあるかも知れません。それはまあ、別におかしいことではありません。それにしたって、「作者の気持ち」という問われ方はあんまりしないと思いますけど。

ただ、よく引き合いに出される「国語でこんなクソ問題が出た!!」的なお話って、大体小説とか物語文における「作者の気持ち」じゃないですか。それって、そもそも問題として成立していないんですよ。だって、その文章の中に作者は「いない」んですから、文章の中から題意を満たす答えを見出すことが出来ない。問題を作る側にしても困るんじゃないですかね?

だからこそ、「こんなアホな問題を作る教師がいた」ということで話題になるんだろうと思うんですが、教師としても問題を作る際には当然「解き方」を想定しまして、「こんなルートで解いて欲しいな」「こんなルートで間違えて欲しいな」ということを考えますから、まるっと成立しない問題を作るっていうのもそこそこ勇気がいるだろうなー、とは思うんですよ。皆さん、試験問題って作ったことありますか?あれ相当色々考えないと作れないですよ。

ですので、「作者の気持ちを答えなさい」的な問題、もし存在するにしてもまあ結構なレアケースなんだろうなーとは思うんですが、webを見ているとまあ結構な頻度で「こんなクソ問題が!!」的な話題が持ち上がるし、やたら共感を集めているんですよね。あれ、俺の観測範囲ってそんなにズレてたのかな、みたいな。

国語のクソ問題は頻繁に流布されるのに、算数や理科や社会のクソ問題は頻度が低いような気がしています。いや、算数で言うと例えば「足し算や掛け算の順序ガー」とか「さくらんぼ計算ガー」みたいな、採点基準や解き方の方にまつわる話はちょくちょく見ますけど、「問題自体がクソ」ってあんまりみないんですよね。これ、「算数や社会や理科は、クソ問題を作るにも「クソ問題」と認定するにもある程度知識が必要とされるから、国語がお手軽なターゲットになってしまっている」みたいな状況なんじゃないかと邪推しちゃうんですけど。

一つ思うのは、恐らく学校の授業や教科書レベルで観る、「この時作者はどんな気持ちだったでしょう」みたいな、答えを必要としない一種の思考練習みたいなものが、「実際に試験に出されていたら」的な発想がどっかにあるんじゃないかなーと。当たり前ですが、授業と試験は別なんで、明確な答えを出す必要がない授業であれば、「作者の気持ち」を考えさせる内容ってあり得るんですよ。そこから発想された「クソ問題」ネタが毎回出る度に受けるんで、一種の定番の流れみたいになっちゃってるんじゃないかなーというような印象があります。

もう一つの可能性として、上で書いた、評論やエッセイを対象とする「作者の考えを問う」問題を解いた記憶がある人が、「作者の気持ちを答えなさい」的なネタと混同してしまって、「そういう問題出されたことある!」となってしまうのではないか、というようにも思います。

個人的には、学校の先生がすごーーく頑張ってるのって良く知ってますし、学校教育、あるいは教師の質を貶めるようなお話はあんまりよい気分にならない為、疑わしい話はあまり広まらないで欲しいなーとか思います。

先生ってただでさえ藁人形論法の対象になりやすいんで、「いやそりゃ変な先生も中にはいるけれど、案外皆ちゃんとしてるし頑張ってるんだよ」ということを、どっちかというと広めていきたいなーと思う次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:35 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月03日

我々は何故、キン肉マンの台詞に出てくる謎のカタカナ文字列を「笑い声」と判断出来るのか

ところでキン肉マン超面白いですよね。


勿論昔のキン肉マンも少年漫画の金字塔であることに疑いはないのですが、2011年から24年ぶりに再開された、「王位争奪編」以降のシリーズの素晴らしさと言えば、現在連載されている少年漫画全てを見渡しても屈指といってしまっていいように思います。ザ・マンと悪魔将軍の決戦熱すぎましたよね?

「完璧超人始祖編」が終わった後こんな記事も書いたんですが、


この後も連載は絶好調で続いており、現在続いているオメガ・ケンタウリの六鎗客との戦いも超絶熱い展開なので、未読の方はお願いだから読んでみてください。損はさせません。


ところで、ある日私が自宅でキン肉マンを読んでいたところ、横から覗き込んでいた次女がふといいました。

「パパ、この「グロロロ」って何?」

勿論この「グロロロ」というのは「完璧:零式」ことザ・マン、またの名を超人閻魔の笑い声(まあ笑い声っぽくないところでも使っていますが)であるわけでして、私は当然のことながら

「笑い声だよ?」

と返したのですが、その時ふと気づいたのです。

もしかすると普通の人は、台詞の途中でいきなり「パゴパゴパゴ」とか「ギラギラギラ」とか書かれても、それが笑い声だと判別出来ないんじゃねえか?と。

そもそも、この「グロロロ」という文字列を、我々が当然のように「笑い声」として認識出来るのは何故でしょう?

勿論それは、かつてのパルテノンやプリズマンのように、「変わった笑い方をする超人」が一般的に登場し始め、超人の特徴づけのひとつとして「個性的な笑い方」が定着したことを、読者が前提条件として了解しているから、です。

慣れているからこそ、わかる。要するに、キン肉マンの「笑い声」という表現は、一種の「暗黙の文脈」なのです。

ただ、ふと一巻からキン肉マンを読み直してみると、「意外と最初の頃は変な笑い方ってねえな?」と思ったのです。

キン肉マンやテリーマン、ロビンマスクのようなアイドル超人が変化球的なキャラづけをしていないのはまあ不思議なことではないとして、たとえば初期のキン肉マンを見ていくと、悪役よりのゴーリキであれ、カニベースであれ、スフィンクスマンであれ、アマゾンマンであれ、特に特徴的な笑い方はしていないのです。みんな「ふっふっふ」とか「ヒヒヒ」とか「グへへへへ」とか、まあ多少悪役っぽいのも見られるとはいえ、一般的に見られるような笑い方ばっかりです。まあ、ザ・フィッシャーズは二世でなんか変わった笑い方してましたが。

キン肉マンファンの間でも著名な変な笑い方としては、やはり11巻のミスターカーメン戦、ブロッケンJrに向かって発した「マキマキ!」でしょう。ただ、実際の展開中では、カーメンは「マキマキ―」と笑っている訳ではなく、「ククク」とか「ケケケ」といった笑い方を普通にしています。劇中での「マキマキ!」は笑い声というよりは掛け声のような使い方でして、カーメンの「マキマキー」が笑い声っぽく描写されるようになるのは、遠く24年後、完璧無量大数軍編でのことです。

ちなみに、後に肉ファンの間ではアシュラマンの笑い声として著名になる「カカカカー」ですが、順番としてはブラックホールの方が早く、10巻のキン肉マンとの戦いの時点で既に使っています。ただ、これも「笑い声」としてそこまで違和感があるかというとそれ程でもなく、知らなくても「まあ笑い声かな…」と普通に理解出来そうなラインです。

サンシャインの「グォッフォフォフォフォ」がぼちぼち微妙で、後の「夢の超人タッグ編」で初期のヘルミッショネルズもこれと同じ笑い方をしています。その後「クォックォックォ」とかも笑ってますが。

実際に「違和感がある特徴的な笑い声」が頻出し始めるのは実のところ王位争奪編でして、

プリズマン「キョーキョキョキョ」
キング・ザ・100t「グオホホ」
パルテノン「ギョギョギョギョ」
モーターマン「キキキー」

辺りは、ぼちぼち「笑い方による明確な超人の特徴づけ」と言っていいでしょう。

っていうかパルテノンは本当に何でこんな笑い方なんだ?パルテノン、荘厳かつ重厚そうな見た目に反して、笑い方も変だし戦う理由も報酬金目当てだしバイクマンにガソリン入れてるし、見た目と行動が釣り合ってない超人トップ3には間違いなく入ると思うんですけど。

ちなみに、この後「変な笑い方をする超人」の数はキン肉マン二世で激増しまして、クリオネマン「キョカー」とかデッド・シグナル「グギガー」とかウォッシュ・アス「ヒャイヒャイ」とかプリクランの「リリルラー」とか、「通常の笑い声のラインを踏み越えた笑い声」の枚挙に暇がなくなっていきます。後のザ・マンの笑い方である「グロロ」自体も、デストラクションの笑い声として登場しています。この二世の「特徴的な笑い声」という表現が、ほぼそのまま38巻以降のキン肉マンに「移植」されているのです。

ここから考えると、

・キン肉マンにおける「特徴的な笑い方は、初代の悪魔超人編くらいまでは実はそれ程多くなく、王位争奪編あたりから顕著になり始め、二世で完全に「特徴づけ」のひとつとなった

ということが言えるのではないか、と考えるわけなのです。

「キャラクターの特徴づけをどうやって行うか」というのは勿論軽視出来る話ではなく、当時のゆで先生が様々に試行錯誤した結果なのかなーと思うわけなのですが、超人のバリエーションを広げるうちに、「笑い方」という要素に着目される点があったのかなと想像するとなかなか面白くありませんか?

ちなみに、キン肉マン二世の連載が始まったのは1997年な訳ですが、これとほぼ同時期に、同じく弩級少年漫画である「ワンピース」も始まっています。ワンピースも、登場キャラクターの特徴づけのひとつとして「笑い方」を採用することが多い漫画ですが、もしかすると相互に影響しあったようなところもあるのかも知れません。

まあ、なにはともあれ私が言いたいことは「キン肉マン面白いよね!!」「というか、今連載中のキン肉マンもめっちゃ面白いので皆読むべきだよ!!38巻以降が連載再開後のキン肉マンだよ!!!」というダイレクトマーケティングだけですのでよろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。








posted by しんざき at 21:54 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月28日

昔のネットの友人たちよ、俺の声は届いているか


みんな生きているか?まだゲームやってるか?

Webの片隅で、愚にもつかない話をネタにクダを巻いているか?

それともネットなんてやめちまったか?それもいいのかも知れないな。毎晩毎晩、パソコン通信の画面の向こうやら、cgiのチャット画面の向こうやらと、23時過ぎになったらしょーもない話をひたすら書き始めて、気が付いたら朝なんてこともあった。ありゃ正直体に悪かったし、多分頭にも悪かった。ただ底抜けに面白かったっていうだけのことだ。

俺はまだ、諦め悪くネットにいる。webにいる。思い出したようにくだらないことを書き連ねては、誰に届くとも思わないで、適当にブログに放流するボタンをポチっと押している。そうすると、たまに物好きな人が見てくれる。ありがたいことだけど、時間を無駄にさせてないかなーと心配にもなる。

「ああ、考えてみるとあれって今生の別れだったんだな」って思う機会が、ぽつぽつあるようになった。会ってる時は1ミリだってそんなことは思わない、ただいつもの馬鹿話をいつものように消化しているだけだけど、気が付くと10年経ち20年経ち、いつの間にやら連絡手段すらなくなって、死んで数年経ってから「え、あいつ死んでたの!?」という程度の訃報が届く。

考えてみると、昔のネット友達なんて、ハンドルネームとICQのIDくらいしか知ってるものはなかったんだ。草の根BBSがなくなって、Teacupの掲示板がなくなって、IRCチャンネルがなくなって、ICQが叩かれなくなって。そしたら、昔は毎日の様に飲んでいた連中だって、いつの間にかすっぱり連絡手段はなくなっている。それで再会出来る方が不思議だし、訃報が届くのだって奇跡の一種かも知れない。

かといって、例えばTwitterやらFacebookやら、現役のSNSで繋がっていれば、その繋がりはいつまでも健在なのか?というと、それだって全然そんな訳はない。「会おうと思えばいつでも会えるから」という意識のまま、いつの間にやら数年経ってた、なんてよくある話だ。気が付かない内にログインしなくなった人だって、知らない内にIDが消えていた人だっている。大抵はそれっきりだ。

生きている、っていうのは、「いつかまた会える」という可能性に、一つ一つ墓を建てていくことでもあるのかも知れない。最近はそう思うようになった。

だから、会える機会、会える手段がまだある人には、なるべく会う機会を作っておきたいなーと。これも、最近はそう思うようになった。だから、ちょくちょく飲み会やら、アナログゲーム会やら開くようにしている。それだってそんなにしょっちゅう出来る訳じゃないけどな。向こうだって忙しいし、俺だって、まあそれなりには忙しい。そういうもんだ。

ただ、ほんっとーーーーにハンドルネームしか知らなかったあいつら、個人情報なんて一つも知らないけど何か一緒に集まって飲んでたあいつらに、今も再会出来るかっていうと、多分それは難しいんだ。

すぐ近くにいたような気がしていたけれど、実のところ俺たちにあったのは「場」だけだった。だから、その「場」がなくなったら繋がりもなくなった。ほんの数人くらいは、今でもTwitterやらなんやらで繋がってる人もいるけれど、本当にそれくらいだ。

東京BBSが、

AEネットが、

セガBBSが、

そこから始まった色んな掲示板が、

あめぞうが、

いつの間にかその名前でしか呼ばれなくなったミラーチャットが、

IRCが、

多分俺たちの場だった。みーんななくなった。

別に、今更再会したいって程大げさな話でもない。案外、再会したって、大して話すこともないかも知れない。あの頃の思い出話くらいはしたいけど、20年も経てば多少は記憶もさび付いてくる。

ただ、俺は、「今でもあいつらは元気にやっている」と思い込みたいんだ。ネットのどこかで、相変わらずゲームをやったり、馬鹿話をしたり、喧嘩をしたりしてるんだろうなーと、ただ思い込みたいだけなんだ。

誰に届くかも知れないくだらない文章を、ボトルメールのようにwebに流すのは、考えてみると俺の得意技だった。だから、これも特に何も考えず、誰に届くのかすら期待せずに、ただwebに放り投げる。

俺は元気でやっているぞ、と。

posted by しんざき at 17:32 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月22日

小学校でグループディスカッションを見て感心した話と、先生の負荷について


こんなまとめを読みました。


私が受けた印象とはちょっと違ったので、きっと学校ごと、先生ごとに色々な事情があるんだろうなあと感じまして、思ったことを書いてみたくなりました。

アクティブラーニングに該当するのかどうかは分かりませんが、うちの長男が通っている小学校でも、ワークショップ形式の授業はやっていました。いくつかのグループに分かれて、決められたテーマについてディスカッションして、それについて発表する、というような授業です。で、学校公開の日程でもその授業は行われていました。

私が感心したのは、「喋る子が固定化することを避ける工夫」というものが色々と組まれているなあ、と感じたことです。



・グループごとに明確なタスクを持ったロールが設定されており、かつロールが持ち回り制になっていた。

ロールといっても、「喋る係」とか「調べる係」とか、そんな漠然としたものではありません。例えば「調査役」というのは、「百科事典を調べて、それに関係したことを見つけて、所定の書式にまとめて他の皆に伝える役割」でした。「聞き取り役」というのは、「その人が話した内容について、疑問に思ったことを確認して、その内容を書き留める役割」でしたし、「どんなことを確認すると良いよ」というのもある程度事前にポイントとして列挙されていました。発表する時の発表役も、記録を残す筆記役もありました。

特に良いなーと思ったのは、ある程度「テンプレ」が作られているということです。丁度こちらの記事でも書かせて頂きましたが、「子どもの自由な発想」なんてまず「表現の仕方」がある程度身についてからの話で、何もないところから「さあ自由に考えて」なんて言われても、自分の考えを上手くまとめられる子なんてそうそういません。もしかすると「もっと自由に考えさせてあげては?」という意見も出たのかも知れませんが、私はある程度「考え方」の基本を身に着けさせてあげる為に、「型」は教えてあげた方がいいよなーと思っていました。



・話し合わないでそれぞれの考えを消化する時間が作られていた。

話し合いや発表はターン制になっていたんですが、数分とはいえ、それぞれの発表の前に、自分たちの作った成果物について咀嚼して、それぞれ考えをまとめる時間が作られていました。その間に先生が各グループを回って発表のフォローをする感じになっており、考えるペースがゆっくりな子にも配慮したいい工夫だなーと思いました。



・「スキップボタン」というものが作られ、各机に置かれていた

これ特に面白い工夫だなーと思ったんですが、わざわざ「スキップボタン」とかいう段ボールの工作が、グループごとに置かれていたんです。押すとちゃんと音がするんですよ。

これ、「言葉が詰まった時、考えをまとめる為に一旦スキップする」という宣言の為に置かれていたものなんですが、先生が「言葉が詰まった子に対して「あとにする?」と助け船を出す」のではなく、あくまで「自分の意志で一旦スキップする」という形式にしてある上、見た目もキャッチーな工作になっているので、子どもとしても押すことに抵抗がない。

喋るのが苦手な子、考えをまとめるのにちょっと時間がかかる子は、当然言葉に詰まってしまうことも頻繁にあるわけで。一方、言葉に詰まってしまって、皆の視線が自分に集まり、先生にせかされる時間って物凄いプレッシャーなんですよね。子どもによっては、そのプレッシャー自体で発表が嫌になってしまう。

そんな時でも、ちゃんと制度化された「一回休み」システムがあれば、ある程度喋るプレッシャーも軽減されるのかもなーと、観ていて思ったんです。



とはいえ、長男は既に中学年でしたし、先生はベテランでしたし、かつある程度時間に余裕もあったからできた工夫なんだろうなーとは思います。これを1コマだけでやらないといけないとしたらそれは流石に無理ゲーでしょうし、先生の負荷も相当なものだったでしょう。

ああいう工夫を考えて実行に移すこと自体も恐らく大変でしょうし、多分私が見ていて気付かなかった工夫も色々とされていたのでしょう。それには感銘を受けるばかりなんですが、同時にそういうの先生の個別裁量になってしまうのも良くないなーと思うんです。

私の所感としては、

・やりようはあるし、グループディスカッション的な授業はうまく回ればとても良い授業になる
・けれど、時間はある程度ちゃんととらないといけないし、先生の負荷も恐らく凄い
・かつ、低学年に無理やりやらせるのも多分うまくいかない
・授業形式のテンプレを作りつつ、ある程度学校側・先生側にやるやらないのトリガーを持たせてあげるとよいのでは

という程度です。

ただ、小学校の先生なんて何やっても叩かれがちで、非常に損な役回りである一方、「頑張っている先生は本当に頑張っている」というのは常々思うところで、そういうのは可能な限り可視化していきたいと思うんです。

小学校の先生の負荷なんて、現状既に無理ゲーに近いと思うので、上手くやってくれている先生には深く感謝しつつ、これ以上新しい負荷がかからないような工夫は皆で考えていくべきだよなーと。

そんな風に考えた次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 09:15 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月11日

アンパンマンで暴力的に?とかいう記事を読んで思ったこと


先に思ったことを全部箇条書きにして書いてみますと、

・「子どもが漫画やアニメやゲームから悪影響を受けることがあるか」と言われれば、それは当然「なんらかの影響を受けることはあり得る」という答えになります
・というか、漫画やアニメやゲームに限らずあらゆるコンテンツは受け手に何らかの影響を及ぼす可能性がありますし、受け手に何の影響も及ぼさないようなコンテンツには存在価値がありません
・しかし、その「受ける影響」というものは程度問題であって、心配するような「悪影響」を受けるかどうかというのはそのコンテンツの描かれ方、及び受け手の感性によります
・かつ、子どもの感性や行動というものは別に受け取ったコンテンツのみから形成されるわけではなく、親の言動や周囲の環境、その他山ほどの影響から総合して形成されます
・というか、「子どもの感性や行動が、コンテンツのみから決定されるようなことがないよう適切な規範を伝える」為に「躾」とか「教育」というものがあります
・上記とは別の問題として、「子どもに悪影響を及ぼす可能性があるコンテンツ」というのは別に漫画やアニメに限らず、テレビだろうがニュースだろうが小説だろうがバラエティ番組だろうが、その他あらゆるコンテンツがそれに該当します
・上記とは更に別の問題として、暴力を想起させるような描写が即子どもを暴力的な行動に走らせるとは限りませんし、本当に暴力的な表現を子どもからシャットダウンしたいなら他にいくらでも優先度の高いものがあると思います
・上記とは更に更に別の問題として、子どもは幾らでも自分が見たいコンテンツを見る方法を編み出すので、親が制御しようとしても大体無駄です
・だから親は子どもの規範作りに真摯に向き合った方がいいですよね

大体こんな感じになります。よろしくお願いします。

ということで、書きたいことは全て先に書き切ってしまいましたので、後はざっくばらんに行きましょう。

webにおいて、「あるコンテンツが子どもに悪影響を及ぼすのではないか論」というのは大体燃えます。それは、この議論自体が、様々な要素をぐちゃっと詰め込んだ話になっているために、一つ一つの話のピントが非常にボケ安く突っ込まれやすいこと、更に、一つ一つの議論に対して別方面からのカウンターを入れやすいことに由来しています。

燃えやすい話というのはコンテンツベンダーにとって貴重ですので、まあPV稼ぎに定期的に投下されるネタでもあるのでしょう。まあ私自身、こんな記事を書いている時点で十分それに釣られてしまっている訳ですが、自分のことを棚に上げておくのは得意なので一旦棚に上げておきます。

切り分けちゃうぞおじさんとしては、上記の「あるコンテンツが子どもに悪影響を及ぼすのではないか論」には、代表的なものだけとっても下記のようなテーマが詰め込まれている場合が多いことを指摘しておきたいと思います。

・漫画やアニメやゲームが子どもに悪影響を及ぼす可能性があるか/ないか
・子どもに悪影響を及ぼす可能性があるコンテンツは漫画やアニメだけなのか
・子どもの感性や行動を決定するのは漫画やアニメによる影響だけなのか
・どの程度の暴力表現が、子どもを暴力的な行動に走らせるのか
・それらのコンテンツを子どもから遠ざけておくべきかどうか

いやー、これら、一つだけとったとしても相当ややこしい議論をしなくてはいけなそうなのに、ぐちゃっとひと塊にして語ろうとしてれば、そりゃまあ蝋燭を浮かべた油風呂に入るようなもんだろうなーとは思うんですよ。

実際のところ、「漫画やアニメが、暴力的な行動を引き起こす可能性」については、否定的な結論も、肯定的な結論も出ています。興味がある人は、メディア効果論あたりから追っかけてみてください。色んな論文が見つかる筈です。


大筋、「コンテンツが全く受け手に影響を及ぼさない」ということは流石に「そりゃねーだろ」という話だと思うんですよね。受け手の心に何らかの爪痕を残してこそのコンテンツなのであって、受け手の心に何も残さないコンテンツって何のためにあるの?とも思います。

無論、その「影響」というのが即「暴力的な行動」に結び付くかどうかというのはものすごく飛躍した話であって、その間には多分20段階くらい考えないといけないことがあります。

勿論実際のところ、暴力的なコンテンツというものは漫画やアニメやゲームに限定されるものでは全くなく、メディア全般関係ある話な訳でして、アンパンマンの心配をするくらいなら芸能人がいじめとしか思えないような行動をするもろもろのバラエティ番組の方を先に心配しろよあっちの方がよっぽど暴力的だろ、とは思わないではないです。これは恐らく色んな人が考えるところではないでしょうか。

とはいえ、これは飽くまで程度問題、全体として見ての可能性の問題ですので、実際の影響度合いは家庭によって、子どもによって変わってくるでしょう。親が、子どもの摂取するコンテンツについて心配をする、というのは分からないでもないです。

ただ、私自身の意見を言えば、

・教育や躾は、子どもが摂取したコンテンツに関わらず、子どもの行動にちゃんとした規範を作ってあげる為にあるものだと思います
・子どものコンテンツ摂取を制限しようとしても大体無駄です

という二点については、割と一般的に言ってしまっていいのではないかなーとは思っています。

まず、「アンパンマンを見て暴力的な行動に走るのでは?」という心配については、「いやアンパンマンに関わらず、暴力的な行動してたら叱らないといけないよね」とは思います。

子どもが暴力的な行動をするトリガーなんてものはそれ程星の数程あるのであって、「暴力的なコンテンツを一切遮断すれば、何があっても人を叩かない心優しい子どもに育つのか?」というのはちょっと眉に唾を付けて考えるべきではないかなーと感じます。隣の子におもちゃをとられてつかみかかってしまうとか、押されて叩き返してしまうとか、そんなんどんな子にだってあるでしょう。それが高じれば、人に暴力的な行動をとってしまうことだって、暴力的な感情を抱いてしまうことだってそりゃ発生するだろうと思います。

それに対して、「いや、それは良くないことなんだよ」とか、「それは暴力ってものなんだよ」とちゃんと教えてあげることこそが「教育」なんじゃないですかね、と。それこそ「人をぶっちゃダメなんだよ」というヤツでして、そんなんコンテンツ以前の話だよねと。

つまり、「コンテンツ摂取によって暴力的な行動をとるように」という話を聞くと、「それは教育の担当範囲じゃないのん?」と思ってしまうことがどうしても避けられないんですよ。いや、これはまあ、メディア効果論絡みでそれこそ色々あるんですけどね。

更にそれに加えて、実際のところ、子どものコンテンツサーチ能力ってのは大体の大人が想像するよりも二段くらいは高いよなあ、とも私は思うのです。隠そうとしても大体無駄じゃね?という。

ヤツら、「面白そう」と感じたものについてはものすごく貪欲ですからね。雑誌の回し読みだろうが、友達の家でのipadだろうが、そんなん幾らでも「親の目の届かないコンテンツ摂取ルート」なんてものはあるわけでして。だからこそ、「自分の目の届かないところで変なものを読んでいてもいいように、ちゃんと規範を作ってあげる」ことこそ、親が一番に考えるべきことなんじゃないかなーと、少なくとも私は思うんですけどね。

大体、あの手の「この漫画は子どもに暴力的な影響を与えるのでは…」とか言ってる人、子どもの頃何読んで育ったのかなーってのは割と不思議なんですけどね。世界名作劇場だけ読んで育ったりしたんでしょうか?いやアレも、作品によっては結構エグい描写が混じってたりしますけど…。

まあ、私自身について言えば、「子どもがよそで変なもん読んだり観てても大丈夫なように、ちゃんと「していいこと・悪いこと」の規範は作ってあげられるよう頑張ろう」と思っていますし、それ以外の感想は特にありません。よろしくお願いします。

言いたいことは大体最初に書いてしまったので、今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 20:15 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月09日

それはもしかすると、「それ一つで食事として完結する物体」に対する憧れなのではないかなあ


しかしうまいから好き、よりさらになにか、私の根源に関わることが潜んでいるような気がするんだ。
もしかしてと思ったことは、この食品はおんなじ味で安全に食べられる。大量生産できるから皆んなお腹が空いたら食べられる。という、そういうでかい話の安心だったのかなということ。私めっちゃいいやつ…本当に?
なんかこう…上手いこと説明できる人いない?


私は勿論エスパーではないので、この増田が感じていること、この増田の嗜好を完全に理解することは出来ません。

ただ、私自身も同じような感覚というか、嗜好を持っているので、もしかするとそれと同じようなものではないかなー?と推測して、それについて書いてみます。

兵糧丸、というものがあります。主に戦国時代で使われていた携行食で、忍者がよく用いていたという伝説もあります。実際には、忍者だけではなく一般の兵士もよく用いていたらしいです。


これの「材料および製造法」のところ、ちょっと参照してみて欲しいんですけれど。


主に以下のものが含まれる。

炭水化物として
晒米(水で晒した白米)
蕎麦粉
キビ粉
はったい粉
きな粉
葛粉
タンパク質、海洋性ミネラル、動物性ビタミン類、油脂成分として
脂質及びタンパク質が豊富な穀物および豆類
鰹節およびにぼし粉などの魚粉

(略)
これらにより味を整え、つなぎとする。材料としてニンジンも一部で使われていたが、実際にはトチバニンジン等が中心であり、デンシチニンジン、オタネニンジン類はあまり使われることはなかった。こうした配合のもとに材料を混合し、こねて小さい球状にまとめる。
兵糧丸はカロリーの摂取に重きが置かれている。携行でき、非常食になることから、軍用レーションあるいはスナックバー (菓子類)、半生タイプのダイエットクッキーの原型と見ることもできる。


なんというか、めっちゃわくわくしませんか? これ一つに色んな栄養が詰まっていて、これ一つ食べるだけで「食事」になるんですよ。一つ食べれば、一食分のエネルギーを得ることが出来るんです。色んな素材、色んな栄養が詰まった、「食事の玉」。実際美味いのかどうかはよく分からんが、とにかくすげえ。

もう子どもの頃なんで、何の本に書いてあったかよく覚えてないんですが、読みかじりの製法をまねて似たようなもん作って、食べてみたらあんまり美味しくなくて親に怒られたりもしたもんですけど。


あと、もう一つ妙な話なんですけど、ゲームブックってあるじゃないですか。創元推理文庫とか社会思想社のヤツ。

ファンタジー冒険もののゲームブックだと、作中に「食料」っていう描写があることがあって、そこでは大抵「食料×1」という、「食料というアイテム」が登場するんですよ。私、これにも妙に憧れまして。ドルアーガとか、ネバーランドのゲームブックなんかで、「食料」を買えるシーン、「食料」を食べられるシーンが大好きだったんですよね。

中身は恐らくそれぞれ違うんだけど、アイテムとしては一つの完結された「食料」。その「食料」を食べると食事一回分済ませたことになる。なんか、ここに得体の知れない憧れみたいなものを感じたんですよね。

これは別にゲームブックだけの話ではなく、例えば十五少年漂流記とか、ロビンソンクルーソーとか、いわゆる「冒険もの」小説にも同じようなものを感じます。

冒険もの小説って、勿論食料を確保して料理をして、みたいな描写もあるんですが、突き詰めると「どうやって生き残るか」が話の主題になるんで、たまに「食料」を「生き残れるエネルギー源のパッケージ」として描写することがあるんですよ。あと何回分の食料があるか。残りライフゲージとしての「食料」。最近だと、「火星の人」なんかもそれが顕著でしたね。

そこでは、細かいことは置いておいて、「食事」というものが「一食分の食料」としてひとまとめにされます。生き残る為の、一回分のエネルギー源。なんか、凄い重要なもの、凄い貴重なものに思えますよね?いやまあ、当事者にしてみればそりゃ貴重なのは当たり前なんですが。

私自身に関して言えば、こういう「一食分の食料」に対する憧れみたいなものが、「一つのパッケージとして完結している食べ物」に対する嗜好に紐づいている、という話なんです。


これは単なる自分での推測なんですが、根本にあるのは、恐らく「男の子回路」なのではないかなあ、と思うんです。冒険とか、サバイバルとか、そういうのに憧れる心理。

携行食とか、レーションとかって、「何が入っているのかはよく分からないが、それ一つで食事が完結する感」みたいなものがあるじゃないですか。それが、自分の中のどこかで「冒険」や「サバイバル」と紐づくんですよね。

3食の「食料」を持っていけば、1日生き残ることが出来る。20食もあれば一週間は持たせられる。これ、「兵糧丸」にせよ「食料」にせよ、子どもの頃に憧れた「冒険」が、食事というものを一つの「パッケージ」として描写していたからこそ、それによって形成された憧れなんじゃないかなーと思うんですが。

つまり、私は増田を読んで、「それだけで食事として完結する物体」 がお好きなのではないかなあ、と推測した。そして、それが私と同じ感覚であるとすれば、 「冒険やサバイバルもので言うところの、「食料」」に対する憧れがその淵源なんではないかなあと考えた、という話なんです。

勿論全然見当違いである可能性もあります。その場合はすいません。


全然関係ないんですが、冒険ものやサバイバル小説の食事シーンって、それがどんな粗末な食事であっても、めちゃめちゃ美味しそうに思えますよね。火星の人読んでたらめちゃジャガイモ食べたくなってきます。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:44 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月07日

憎悪に飲み込まれない為に、多少アンテナを低くしてもいい

いや、分かるのだ。今に始まったことではない。おそらくずっと昔から、それこそwebのあちらこちらで観測出来る問題だったのだろう。別段はてブに限った話でもない。

ただ、煙草をやめてしばらくすると、あんなに自然なものだった煙草の匂いが、ひどく我慢のならないものになることがあるらしい。もしかすると、私に起こったことも似た類のものだったのかも知れない。

はてなブックマークを使っている。外から観測しているだけなら、それこそ10年来の付き合いだ。はてブには議論好きの人が多く、共感ばかりではなく様々な意見が集まるので、自分にはない見方や意見に触れるのが面白く、ちょくちょく気になる記事のコメントを覗きにいったりしていた。


いつ頃からだったろうか。はてブを見ていて、なんか疲れるなー、と感じることが多くなった。具体的には、いわゆるほってんとり、はてブの人気エントリーのページを見ている時の話だ。

これは恐らく個人差があると思うのだが、私は怒ると疲れるし、憤ると疲れる。

「怒る」「憤る」ということに一種の快感があることは間違いない。「怒る」という行為は、一種のエンターティンメントとして動作し得る。「これはひどい」と思ったニュースを舌鋒鋭く批判した時、人は快感を感じる。切断処理をする気はない、私も同じだ。

自分が正義の側に立っているという気持ちよさ、他者を攻撃することの気持ちよさというのも勿論あるのだろうが、「感情を大きく動かす」こと自体にもある種の気持ちよさがあるのだろうな、と思う。感情を煽られると気持ち良い。それは間違いない。

ただ、私の場合、怒った際の気持ち良さに、ある種の疲労感がついて回る。私にとって、憤りというのは、何らかのMPを消費して代わりのエネルギーを得るようなものであるらしい。家の内装をはがして暖をとるようなもので、ちょっと不健康かも知れないなと思ったので、暫くの間、意識してホッテントリを見るのをやめていた。はてブの利用自体はしていたし、twitter経由で話題のページをブクマしていたりもしていたが、ホッテントリのページからは足が遠のいていた。

最近、ちょっとした機会に久々にホッテントリを見てみた時、以前とはちょっと景色が違ってみえた。具体的に言うと、ホッテントリに並ぶ記事の8割方が、何かしら「憤りを煽る」内容を含む記事だった。「ほーれ、ひどい話だろう、怒れ怒れ」と言われているような記事だった。

いや、別段、これが「最近になって変わったこと」だとは思っていない。変わったのは、多少のインターバルを置いた私の視線の方だったのだろう。それは分かる。

ただ、大げさに言ってしまうと、「これは憎悪を煽るサービスだ」と私は感じた。負の感情を伝染させるサービスだ、とも思った。


理屈は分かる。

感情を強く揺さぶる記事は、それだけ反応も大きくなる。記事を書く側にとって、「反応」というのは命綱だ。出来るだけ多くの人に見てもらうためには、出来るだけ強い反応を得る為の記事を書くのが手っ取り早い。それはずっと昔から同じだ。つまり、元より、「感情を強く揺さぶる」記事というのは注目を集めやすい。更にそれに加えて、「何か一言モノ申したくなる」記事というのは、はてブにおいて更に注目されやすくなる。つまり、「怒りを誘って、痛烈なコメントを言いたくなる」記事は元来注目されやすい。

それに加えて、はてブには「はてなスター」と「人気コメント」というシステムもある。出来るだけ早く、出来るだけ共感ないし注目を得られるコメントをした人が、スターを媒介にしてより注目を得やすくなる。そういうシステムだ。

結果的に、「出来るだけ上手く憤りを煽れる記事」であればある程、人気エントリーに集まりやすくなっていると。そういう仕組みが完成している。

それにしたってなあ、と思うのだ。

「ほーれ、怒れ怒れ」と言われるのが、私はあまり好きではない。私は単純な性格をしているので、憤りを誘うような記事を読めば憤りを感じてしまう。そして、それによって私のMPは低減する。憤りの渦に巻き込まれておぼれそうになってしまう。

これがTwitterであれば、タイムラインは自分が作るものであって、ある程度穏健な論者を自分の観測範囲に集中させることも出来る。しかし、ホッテントリではそういう真似が利かない。


ホッテントリは、便利だ。はてブには、ある程度議論好きな人たちが集まっている。そういう人たちから見て注目を集めている記事を、ぱっと見でチェックすることが出来る。アンテナの感度をよくしておくために、上手く使えば有用なのだ。

ただ、少なくとも私は、疲れすぎないようにある程度自衛を固める必要があるようだ。ご利用は計画的に、というヤツだ。

別段、はてブ自体の利用をやめる気はない。私ははてブが好きだし、自分の注目、自分の意見を残しておく一言ログとして、私が好きな人たちの観測範囲をチェックする場として、はてブは非常に便利だ。

ただ、少なくともホッテントリについては、よくよく注意して利用しなくては、憎悪の渦に容易に飲み込まれてしまうな、と私は感じた。それは、多少のアンテナの高さと交換出来る話ではない。

もしかすると世の中には、いくら憤っても疲れることなく、無限にエネルギーを得ることが出来る人がいるのかも知れない。

しかし、私と同じように、憤ることに疲労感を覚えて、「怒れ怒れ!」と言われることに食傷気味な人もいるかも知れない。

そういう人には、「時には休憩も必要だと思いますよ」と声をかけてあげたい。世の中、アンテナの感度を高くしておけば良い、というものでもない。最新ニュースを知らなかったとしても死にはしない。ただ事実だけ、起きたことだけのニュースを、それ程注目されていない事実だけを、後から淡々と拾い集めることだってできる筈だ。


ホッテントリはよくよく注意して閲覧しようと、少なくとも私は思ったのだ。






posted by しんざき at 00:45 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月01日

文章を書く人間にとって、基礎教養とは「防御力」である

周回遅れもいいところだと思うんですが、そもそも30年前のゲームを今更遊んでその感想を喜んで書く人間にとって、「周回遅れ」というのは「デフォルト」と読む言葉なので、思ったことを書きます。


私が考える限り、「基礎教養」というのは文章を書く人間にとって「防御力」であって、それ以上でも以下でもありません。


どんな分野でもそうですが、人間には得意分野・不得意分野というものがありまして、文章というフィールドも例外ではありません。ドラクエに「ちから」「かしこさ」「うんのよさ」「すばやさ」があるように、文章書きにも様々な能力値があります。

例えば、論理構成力が高くて、文章構造がやたら緻密な人がいます。

例えば、ユーモアセンスがあって、何を書かせてもめちゃ面白くなる人がいます。

例えば、着想が鋭くて、読む側に「その発想はなかった」と思わせる人がいます。

例えば、とにかく手が早くて、短い時間で記事を量産できる人がいます。

それぞれに得意・不得意があるという話であって、これは「どれが良い」という話ではありません。中にはこれらステータスの内複数に秀でている人というのもいて、ガープスでいうとCP350の化け物キャラかよと思わないでもないんですが、まあ一般的には、得意能力もあれば不得意能力もあると考えていいでしょう。

さて、このステータスの中で、「基礎教養」と言われるものはどこに働くでしょう?ゲームで言えば、例えば「昔の著名ゲーム、有名ゲームを漏れなく遊んでいる」ということは、どんな強みになるでしょう?

勿論、ゲームについての知識が広いことは、それだけで引き出しの広さに繋がります。そういう点で、「着想」や「発想」に基礎教養が利く部分もあるんですが、大筋、基礎教養の最も強い部分は、「書いていることに隙がなくなる」という点だ、と言っていいでしょう。


例えばの話、基礎教養がない人、この場合過去の著名ゲームをやっていない人には、あるゲームのある素晴らしい特徴が、「全く新しい新機軸」なのか、それとも「過去の作品の巧みな本歌取り」なのかを判断することが出来ません。

多少のリスクを推して「ゲーム業界でも他に類をみない」であるとか、「過去に全くない斬新な発想」といった表現を使ってしまうと、斬新警察の手によって「アホか!昔の〇〇と同じアイディアやないか!!」とか、「××も知らんのか知ったかぶり野郎!」といった、手ひどい罵倒が寄せられることも起こり得る訳です。正直なところ心が狭い話だなーと思ってしまうこともありますが、webの個人の寛容さを期待するわけにもいかない以上、無理からぬ部分もあります。

つまり、文章表現に「隙」が出来てしまう。これを避ける為には、例えば「全く新しい」とか「新機軸」といった言葉を封印しなくてはいけない。

相手の「攻撃」を気にして、防御的な姿勢をとらざるを得なくなるわけです。これは、ゲームで言うと、防御力に不足があるのでやむを得ず攻撃の手を弱めて回避に回らないといけない、といった状況と近似しています。


いわゆる「基礎教養」というものを抑えている人は、あるゲームのある特徴が、ゲームの歴史においてどんな立ち位置を占めているのか、ということを最初から理解出来る。だから、それについて描写する際、言葉使いに気を遣う必要が低減する。防御力が高いから読者の「攻撃」を気にする必要がなくなるわけですね。

そういう意味で、「基礎教養」をステータスに分類するとすれば、「防御力」がもっとも近いな、と私は考える次第なのです。


上記した通り、これは飽くまで「得意・不得意」の話ですので、必ずしも「基礎教養が必要か」というとそういう話でもありません。防御力が多少低くても、着想やユーモアといった攻撃力に自信があれば、十分りゅうおうを倒すことは可能でしょう。また、文章力という「わざ」が高ければ、地雷を踏みそうなワードを巧みに避けつつ、必要十分な表現をすることが出来るかも知れません。実際そういうライターさんはたくさんいます。

そういう意味では、「基礎教養」というものは、文章の隙を除く為に入手する価値がある能力だが、だからといってないと戦えないという訳でもない、という話になるのではないかなーと。私などは単純にそう思うのです。


ところで、先日こんな催しがあることを知りました。


私自身の考えは上記のような感じなのですが、別に私はゲームライターでもなんでもなく、単なる一レトロゲーマーに過ぎません。長年のライターの方々が基礎教養についてどんな話をするのかは大変興味深く、仕事の都合もつきそうなのでお邪魔しようと考える次第なのです。というか、先にこちらのイベントに興味がわいて、テーマについての思考を事前に整理しておきたくなった、という方がむしろ正解ですが。

お邪魔するのが楽しみです。

全然関係ないんですが、ガープスってアレ、キャラクターメイキングだけで1日かかりますよね。集まって取り敢えずキャラクター作るかー、ってだけで数時間潰れたりする。あれは一種の沼だと思います。

ずっと昔、ガープスで「貧乳はプラスCPなのかマイナスCPなのか」「それは周囲の嗜好によるのではないか」「容姿/魅力的で統一すればいいんじゃない?」といったトンチキな激論が発生したことがありまして、結局「貧乳が有利な特徴になるか不利な特徴になるかは、文化的嗜好に依存する」という結論になり、「どうなんだGM!!」「知るか、お前ら貧乳好きなら貧乳萌えの文化ってことにすればいいだろ」ってことに落ち着いて、世界観に「貧乳萌え」という文言が追加されたんですが、本論とは1ミリグラムの関係もないことを深くお詫び申し上げます。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:00 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月16日

子どもの危機回避能力の低下が本当に厳しいレベルなのかどうか、という話

別に目くじらを立てる程の話でもないような気はするんですが、まあ一応、

先に切り分けちゃうぞおじさんとして言わせて頂きますと、

・子どもの危機回避能力が低くなっているかどうか
・自分がやりたいことしか見えていないかどうか(≒精神年齢が低いかどうか)
・上記の原因が、我慢させていない家庭環境にあるかどうか

というのは、全て別々の問題であって、因果関係があるかどうかについては慎重に議論する必要がありそうな気がします。

ファクトで追えそうなものとして、「子どもの危機回避能力」についてですが、そちらについては統計が探せます。

引用したツイートは、「足やブランコが顔に当たり泣きだす」ということを危機回避能力と紐づけているので、「子どもが不注意で事故に遭う」というケースとある程度近似出来そうな気がします。

で、ぐぐってみると、そういう統計はすぐに見つかります。

グラフ1.png

めっちゃ右肩下がりですね。「人口十万人当たりの子ども(14歳以下)の不慮の事故死亡率」が、1980年時点では14%あるところ、2016年時点で1.9%まで下がっています。

勿論これは、人口比率における子どもの割合の減少と合わせて検討しないといけないのですが、

グラフ2.png

「年齢3区分別人口の割合の推移」等を参照する限り、「子どもの割合の減少よりも遥かに大きな減り幅で、不慮の事故による死亡事故が減っている」ということまでは言えそうです。

言うまでもないことですが、「子どもが事故に遭う確率」は子どもの注意力だけの話ではなく、ガードレールの有無であるとか、遊具の安全性であるとか、まあ周囲の環境要素によるところも大であることは容易に想定出来ますので、この統計だけを持って「子どもの注意力が上がっている」なんてことは間違っても言えません。実際、環境整備で事故が減っている側面はおそらくかなり強いでしょう。

ただ、少なくとも「子どもの不注意による事故が増えている」ということが読み取れる統計でないことは確実でして、元々がファジーである「危機回避能力」という話であれば、「別段昔と変わんねえんじゃねえの」と言える要素の方が強そうな気がしないでもありません。少なくとも、「統計だけ観ると正反対のことが起きている」ということまでは言えるでしょう。

で、以下は統計抜きの、単なる私観なんですが。

「最近の子どもの危機回避能力が下がっている = 昔の子どもの危機回避能力は今より高かった」かというと、ちょっと自分や周囲を鑑みて、容易には首肯出来ない部分があります。個人的な話をすれば、危ない場所にめっちゃ立ち入ってましたし、危険な遊びもめっちゃしてましたし、毎月のように高いところから落っこちては怪我をしていました。何を思ったか公衆トイレの屋根に上って、そっから落っこちて頭を6針縫った傷跡は今でも触って確かめることが出来ますし、周囲もまあ似たようなものでした。

経験値だけの話をすれば、「危ない場所に今よりもずっと簡単にアクセス出来た」ということは恐らく事実であって、今の子どもよりも危険な場所についての知見や経験値は高かったかも知れませんが、それを持って「危機回避能力の高さ」と紐づけることにはちょっと抵抗感があります。

自分の子供を観ていると、むしろ無暗と高いところに上りたがらない分、子どもの頃の自分よりは遥かに危機回避が出来ているような気がしてなりません。学校教育でも、「こんな場所に注意」だとか「こんな場所は危ない」といった危機対応教育は、かなり頻繁にやってくれているようです(ただしこれは、昔も同じことをやっていたところ、アホだった私が全くそれを記憶していないだけである可能性も無論あります)

子どもなんて、アクセスできるもんならいつだって危ない遊びをしたがるし、いつだって不注意で怪我をするし、痛い思いをすればギャンギャン泣くものなんじゃないかなあ、と。それはあまり、時代や親の教育と関係ないことなんじゃないかなあ、と、そんな風に思うんですよ。正直、子どもの本質がそう簡単に変わるようなもんだとも思えないのです。危機回避能力低いっつーなら昔から低かったろう、という。

だからこそ、子どもの事故を減らすにはインフラ的な対処をしなくてはいけないのであって、色んな批判もありつつ、社会はそのように進んできているわけですよね。それはまず、事実として認識するべきだと思うんですよ。

危機回避能力の高さ/低さを精神年齢と紐づけて、更にその原因を家庭の教育に安易に帰するところもちょっと簡単に納得し難いところではありまして、そういう統計があるなら見てみたいなーと思います。自分の感覚としては、今の子めっちゃ大人びてるなーと感じることの方が多いんですけどね。まあ、これは周囲の環境にもよるのかも知れませんが。

個人的には、「最近の親の教育はうんぬんかんぬん」とハードルを上げる方向よりは、「子どもの事故は減っているけれど、今でもこういうことに注意」という話の方が有益だなーとは思いますし、今後とも親の子育てのハードルはガンガン下げていきたいと考える次第なのです。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 18:12 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月06日

Seesaaは何故きょうび配偶者の有無だの子どもの有無だのを登録必須条件にしているのか

すいません、考察とかではなく、単純に疑問なんですが。


先日、Twitterのフォロワーさんが、「Seesaaでユーザー登録しようとしたんだけど、配偶者の有無やら子どもの有無やらが必須条件になっていて無理ってなった」とツイートされていました。


自分が登録した時にはそんなことを聞かれた記憶がなかったので、「え、マジか」と思いまして、ちょっと実際ユーザー登録画面を確認してみたんですが、


seesaa.png


大マジでした。上記画面で言うと、青い!マークが入力必須のマークです。一応念のため、アメーバやFC2ブログ辺りの競合サービスも別途確認してみたんですが、当然というか、配偶者やら子どもの有無やらを聞く項目は存在しませんでした。


いやまあ、ユーザー登録時に何の情報を入力させるか、というのは勿論そのWebサービスの自由ではありまして、プライバシーポリシーが遵守される限り、「入力したくなければしなければ良い」という話ではあるのかも知れませんが、それにしても「配偶者の有無」「子どもの有無」というのは、今のご時世、かなりセンシティブな情報であるような気がします。実際、ここで「無理」と思う方は、個人情報意識がある程度高い方の中にはかなり多いのではないでしょうか。


というか、私seesaaやっていて、あまり属性マーケティングをされた記憶がないんですが、これ配偶者有無や子どもの有無を聞いてどんなマーケティングに使ってるんでしょうか…。いや、これについては、単に私がseesaaブログ以外のseesaaのサービスを殆ど利用しておらず、他サービスについてよく知らないからわかってないだけかも知れないんですが。


ただ、仮に配偶者有無や子どもの有無をマーケティングに利用するにしても、そんなもんは例えばブログの記事傾向のテキストマイニングやら、記事の閲覧傾向とかから推測出来そうな気もしますし、いちいち入力させんなよそんなもんと思わないでもないです。


個人的には、諸々のリスクや利用者側の意識の変遷を考えると、「個人情報は必要最低限しか持たない」方向に倒した方がどちらかというと賢いような気がしていますし、実際そちらに倒しているサービスも結構増えているように感じています。子ども有無や配偶者有無は勿論、職業・性別・居住地辺りも入力必須というのは、ブログサービスとしては相当「たくさんとっている」方であるように見えるんですが、seesaaさんはこれどういう意図なんですかね…?


ブログサービスはもう15年くらい使わせて頂いているんで、seesaaさんにはそれなりに愛着もありまして、今後のブログサービスも継続してもらいたいと思うところ大なので、この辺は慎重に検討しつつ進めて頂きたいなーと考える次第なのです。あとスマホでブログ見た時の広告減らすオプション実装してください有料でいいんで。



今日書きたいことはそれくらいです。





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2019年06月25日

「らんま1/2」をハーレムもの漫画と捉えていいのかどうか問題

ヨタ話をします。

先日、知人と議論になりました。テーマは、「らんま1/2」をハーレムもの漫画と考えていいのかどうか

話は、「ハーレムもの漫画の系譜」というところから始まって、知人が「らんま1/2」を「ハーレムもの漫画の系譜」として位置付けたところから始まりました。

私は「らんま1/2はハーレムもの漫画ではない」という考え方なんですが、案外「ハーレムもの」の定義が曖昧で話がちょっと紛糾したため、自分用の論点整理の為にちょっと話の経緯を書いておきます。

〇知人の論点
・ハーレムもの漫画の定義は、「1人のキャラクターに対し、数多くの異性キャラクターが恋愛対象として対置されている設定のフィクション作品」である(Wikipediaより)
・らんま1/2は、メインヒロインのあかねの他、シャンプー、右京、小太刀など、ヒロイン候補のキャラクターが複数配置されており、上記の定義に当てはまる
・また、主人公である乱馬は天道三姉妹など、普段から多くの女性キャラクターに囲まれている描写がなされている
・よって、らんま1/2はハーレムもの、ないしハーレムものに類する漫画として捉えることが出来る

〇私の論点
・乱馬は確かに複数の女性に想いを寄せられているが、その描写は基本「乱馬の優柔不断さと、あかねのやきもち」というキャラクター描写・展開の為のツールでしかなく、劇中、最初から最後まであかねのヒロインの座は実質的に不動である
・つまり、らんまは「複数の恋愛対象がいる漫画」とはそもそも言えない。人間関係こそ多少錯綜しているものの、キャラクターの機能的には単純なラブコメ+それぞれにとっての当て馬的なライバル(シャンプー・良牙など)と考えて良く、これはハーレムものというより一般的な少女漫画の描写に近い
・また、天道家において、ハーレムものであればヒロインの内に含まれるべき立ち位置のかすみとなびきは、異性としての乱馬に一切興味を示しておらず、異性関係的には徹頭徹尾傍観者でしかない。これもハーレムものというには強い違和感がある要因である
・よって、らんま1/2は他のハーレムもの漫画に影響を与えている可能性こそあれ、それ自体をハーレムものとは言えない

途中話の経緯は色々ぐるぐるしたような記憶もあるんですが、簡単に整理するとこんな感じです。上記に加えて、乱馬は「性別が転換した際、男性からも思いを寄せられるケースがある」という問題もあるのですが、まあその話はややこしくなるのでちょっと置いておきます。

まず一つには、らんま1/2には確かに複数のヒロイン候補が出てくることは出てきますが、その中で「乱馬の恋愛対象」と言っていいキャラって、実はそんなに多くないんですよね。小太刀は最初からギャグキャラっぽい扱いであって、乱馬も全くその気を見せませんし、右京も当初から乱馬の意識としては「友人」であって、秘伝のスープの話とかで迫られた際にも、罪悪感と優柔不断から断り切れていないとはいえ、右京に対して恋愛的になびいている描写は殆ど見えません。

シャンプーについてはまだ、反転宝珠のエピソードなんかで乱馬の側から好意を表現するような部分はありましたが、あれもどちらかというと、恋愛感情というよりは自分の見栄とプライドからきているような話ではありました。

というか乱馬、基本優柔不断純情青年ですので、迫られてどぎまぎすること、断り切れずに曖昧な態度を見せることこそあれ、彼自身のスタンスというか心情的にはほぼ物語の終始あかねから動いていないんですよ。もうぜんっぜんフラグ立たない。実質「恋愛対象」としてのヒロイン候補って、あかねと次点としてのシャンプーくらいしかおらず、これで「ハーレムもの」というのはどうにも違和感がある。要は、ハーレムものなら本来あってしかるべき、「読者視点でのヒロイン選択肢の幅」がほぼ存在しないんです。

上でも書きましたが、「同居の三姉妹」という、ハーレムものであればヒロイン候補として真っ先に位置付けられるべき立ち位置の筈の長女かすみ、次女なびきが、実質異性としての乱馬に一切興味を示さないのも少々痛いところです。あかね自身、ライバル的な意味でかすみやなびきを意識する場面というものは、なびきのごく一部のエピソード(しかも金絡みの打算)を極少数の例外を除けばほぼ一切ありません。これも、「ハーレムものの文法」というものを考えれば、ちょっと外れ過ぎではないかなーと。


ただ、ことは定義論ですので、キャラクターの配置だけを問題にすれば、一見ハーレムものと解釈できる余地があるように見えなくもない、というのは私も考えるところです。まあ飲みの席だったんでそこまで突き詰めて考えてないんですが、皆さんいかがお考えでしょうか。

あと全然関係ないんですが、しんざき的ならんまキャラクターでの推しは雲竜あかりさんです。よろしくお願いします。

今日書きたいことは一旦それくらいです。


posted by しんざき at 07:00 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月20日

「実は生きていた展開」があんまり好きじゃないという話

全然大した話じゃないんですが。

ゲームでも漫画でも小説でも、味方であれ敵であれ、「キャラクターの死」というのは非常に大きな出来事です。キャラクターの死は、登場キャラクターにも読者にも大きな衝撃をもたらして、時には悲しみを、時には憤りを、時には感動を読者に提供します。物騒な話ではありますが、キャラクターの死というものをどう扱うか、というのは、創作者の一つの腕の見せ所でもあります。

で、たまーに、「死んだと読者に思わせておいて(あるいは明確にストーリーから退場しておいて)、実は生きていました」っていう展開があるじゃないですか。勿論ケースバイケースではあるんですが、私、そういう展開があんまり好きではありませんで。というか、「実は生きていました展開」を見ただけで、多少そのシナリオに対する熱量が下がってしまうんですよね。

皆そうかなーと思っていたんですが、実はそうでもなさそうだということに最近気付いたので、ちょっと自分の感覚を整理しておきたくなったんです。

「実は生きていた展開」が好きではない理由は幾つかあるんですが、ざっくり整理すると

・安易と感じてしまう
・蛇足と感じてしまう

の二点が大きな原因かなー、と思いました。

まず一つ目、「安易」。つまりこれ、「シナリオ作者が安易な方向に逃げた」と感じてしまうんだなーと。

キャラクターを退場させるのって、シナリオメーカーにとっては諸刃の剣です。大きな展開、大きなストーリーの起伏を作れるのと同時に、それ以降、そのキャラクターを使った展開というのは基本的に作れなくなってしまう。

キャラクターというのは、イコール「シナリオの核」ですから、生きたキャラクターが多くいれば多くいる程、シナリオメーカーはお話を作りやすくなるんですね。どれだけのキャラクターを動かしておけるか、というのは、そのシナリオを動かす上での重要なキー項目でもあります。

ですから、「キャラクターの退場」を描くというのは、かなりリスキーな行為です。そのキャラクターの人気をお話に反映する機会を失ってしまうということでもありますし、単純にストーリーの幅を狭めてしまう可能性もある。

で、その最も安易な解決法が、「キャラクターの死というイベントは演出しつつ、実は生きていたことにしておく」という解決法なんですよね。死の衝撃、時には感動というものは享受しつつ、ストーリー展開の幅は失わないで済む。ある意味では、ノーリスクハイリターンな手法なんです。

ただ、だからこそ、この「実は生きていた」って安易に使っていい展開じゃないんじゃないかなー、と思うんですよね。一つには、「ああ、楽な方向に逃げたな」と感じてしまう。一つには、「どうせ実は生きていた展開なんだろ?」と思わせて、「キャラクターの死」自体に感情移入できなくなってしまう。

私、昔出版社に出入りしていた頃、上のような話は実際に聞いたことがあります。つまり「退場シーン」自体は感動的に書いておいて、「死んだかどうかはちょっとぼかしておきませんか」って編集者さんが提案するんですよ。「そうすれば、必要に応じてキャラクターを戻せるから」と。人気キャラクターではよくある話なのかも知れません。

二つ目、「蛇足」です。

キャラクターの死、シナリオからの引き際が見事であれば見事である程、「そこで完結して欲しいなあ」と、少なくとも私は思うんですよ。キャラクターの退場が感動的な物語であったのならば、それはそこでちゃんと物語を終わらせて欲しい。その後の「続く」って、結構余計だったりするじゃないですか?

勿論これは、キャラクターへの思い入れにも、そのシナリオにもよるのかも知れません。最初から「仕組まれた一時的な退場」であることを半ば明示している場合もありますし、その場合、そもそもその退場はあんまり劇的に描写されません。そういうのが嫌なわけではないんです。

ただ、ある程度きちんとキャラクターの退場を描いて、衝撃なり感動なりを描き出したのであれば、その物語についてはちゃんとそこでピリオドを打って欲しいなーと。私自身はそんな風に思うわけなんです。


というようなことを、FF14プレイしていて思いました。

これ、FF4やってた時も思ったんですよねー。こんだけ華々しく退場したんだから、それはもう「実は生きていました」にしなくていいんじゃないかなーと…。FF2とかだと人が本当にサクサクと退場していったので余計アレなんですが。


一旦それくらいです。


posted by しんざき at 18:36 | Comment(6) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月02日

「なぜ、ゲーム攻略サイトは激減したのか?」「お前らのせいです」

単なる感想なんですが。

こんな記事を拝読しました。


いくらライターが腕利きであっても、十分な広告収入を確保できず、原稿料を支払うための原資が得られなければ、攻略記事の仕事は当然なくなってしまう。しかも、攻略記事の需要自体はあるにもかかわらず、攻略サイトの運営によって広告収入を継続的に稼ぎ、収益化するための難易度が、ネット広告の構造上とても高い。近年の攻略サイトが激減した理由は、まさにここにあるのだ。


これですね。なんというか、読んでいるだけで色々と言いたいことが出てきたんですが、既にwebでは何度も繰り返し語られてきたテーマであることも間違いない為、参考になる記事をいくつか引用させて頂きたいと思います。


基本的なサイト運営として、企業運営のゲーム攻略サイトは、安価で大量のライターを雇い、書いた分量やPV数に応じて報酬を払うという形式を取っている。
即ち、安価なライターを用いた人海戦術こそ、「企業型」最大の強みだ。ライターに支払われる報酬は、先述したとおり「分量orPV数」で基本的に決まるため、記事はとにかく「早く」「多く」という点のみ追求される。
一方、GoogleのSEO(最適化)及び、クローラーの精度にはサイトの信頼性も当然含まれており、「空白」も「パクリ」も「誤謬」といった弊害はもちろん信頼性を下げる理由になるのだが、それを補って余りある質量によって、こうした問題を誤魔化している。



核心になってきますが、もはや、初めはフレームワークだけ作って、中身は調査中にして、その中身を「何らかの形で」埋めていくことを継続的にかつ組織的に実施しているということになります。
「何らかの形で」というボカした表現をしていますが、そこにパクリや無断転載、裏のない情報などが紛れ込むことに対して、対策を取っているかということになると思います。そして、取っていないと、紛れ込んだ記事に対して指摘されているということになると思います。



GameWithが菱沼さんに説明した内容によると、マップ画像についてはトレースを認め、他の記事についてもヘイグを参照し作成していたことを認めたとのこと。中でも菱沼さんが悪質だと感じたのは記事作成の手順で、GameWith側の説明によれば、「まずはヘイグで記事を確認し、それを元にGameWithのライターが記事を作成 → 事実確認や検証は公開後に行う」という手順で作成していたそうです。つまり公開当初の段階では完全に「ヘイグの記事内容をリライトしただけ」であり、事実確認も検証もせずに攻略を書いていたということになります。


別に、冒頭の記事を書いたSqool.netさんが悪いとは言いませんし、そう思ってもいません。

ただ、何故そもそも「ゲーム攻略記事」の話なのに、「収益性」とか「PV数」の話しか出てこないのか、と。いつの間にそれが不可分になってしまったのかと。ナイーブな感想なのは承知で言うんですが、なにより「攻略記事ってそういうもんだっけ…?」と。

そして、総体としての「企業によるゲーム攻略サイト」の話として考えれば、

そもそも、以前は有志やら個人が収益あまり関係なく運営していた攻略wikiやら攻略記事やらを駆逐したのは、あなた方企業運営の、大量ライターによる攻略サイトでしょ…?

というのは、かつて自分自身攻略wikiに攻略情報を寄せ続け、一方「オレらがやってること、企業サイトに餌を提供してるだけだよな…」となってサイトが閉じられたのを幾度も経験した身としては、一言いっておきたいなあと思ったんです。

「個人や有志の遊び場が、金になると分かって寄ってきた企業に潰される」なんて事案は、どんな業界でも数限りなく発生してきたことではありますが、「ゲーム攻略」という分野においては、それが物凄いハイスピードで進行したなあ、という思いはあります。かつてはタイトルごとに存在した、有志による「攻略まとめwiki」、今では殆ど企業サイトに駆逐され尽くしていますよね。あれ、色んな情報集めて更新していくのすげー楽しいんですけど、一方物凄い手間も時間もかかるので、「(パクったかどうかはともかく)あとから現れた同一内容の企業サイト」に軽々と検索順位が追い抜かれてしまうのを見て、更新する気力が萎えてしまうのもよくわかるんですよ。

そういう事情を全部無視して「近年の攻略サイトが激減した理由は、まさにここにあるのだ」とか言われてしまうと、流石にちょっと待ってくれよと思います。そもそも個人や有志が収益無視で攻略サイトやってた時代のことは全無視ですか。視野にすら入りませんか。

今更言ってもどうしようもないことではあるのですが、「seoとPVによる収益」っていうシステムが齎したものって、益よりも害の方が大きかったんじゃねえかと思うことはあります。言ってしまえばGoogleが悪いってことにはなるのですが、「たくさんの人に見られれば見られる程お金になる」というのが、勿論ポジティブな要素もあるとはいえ、ネガティブな要素もたくさん運んできたなあ、と。ゲーム系迷惑まとめブログなんてその最たるものですが、「とにかく人を引っ張ってきた方が勝ち」になれば、そりゃevilな手段に手を染める人も増えるよなあとは思うんですよ。

せめて、今でも個人レベルで頑張っているサイト、個人のゲーム記事、ゲーム日記みたいなものは、今後も頑張って欲しいなあと思って頑張ってアクセスを送ると共に、私自身ゲーム好きの一人として、出来る範囲でゲーム記事を書いていこうと。

そんな風に考える次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 11:05 | Comment(22) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月29日

ただ、悲しむのみ

ふわっとした話をします。

何か、痛ましい事件があったとします。世界のどこかで、胸に刺さる出来事があったとします。

その事件を受けて、色んな人が色んな話をし始めます。中でも注目を集めやすいのは、「分析」や「提言」です。

例えば、その事件の原因はなんだったのか。その事件の犯人にはどんな背景があって、そんな動機でそんなことをしたのか。社会の問題か。個人の問題か。どんなことをすれば防げたのか?

勿論、そういった分析や提言は視座も粒度も様々であって、妥当だなーと思うこともあれば、それ程傾聴しなくてもいいかもな、と思うこともあります。言ってしまえば玉石混交なのであって、それがどうこうというわけではないのですが。

ただ、なんだか時々、そういった「理由付け」や「分析」それ自体が腑に落ちないというか、なんとなくそっちに立ち入りたくないな、と思うことがあるのです。これは、私自身理由をあまり明確に出来ない、もやっとした気持ちです。

「分からない」ということは恐ろしいです。「原因がない」ということは不安ですし、「防ぎようがなかった」というのはもっと不安です。

だから、我々は、痛ましい事件になんとか理由づけをしようとします。どうすれば防げたのかとか、こういうところに原因があったからこれを何とかしようとか。そういう、言ってみれば「答え」があれば、我々の気持ちは多少は落ち着くから。その答えが妥当なのかどうか、その提言が実行可能なのかどうか、そういう話は時折置いてけぼりにされます。

例えば、その惨劇を引き起こした人についての情報なんて何も確たるものはないのに、色んな人がてんでばらばらにその人を「分析」しているのを見ると、私はよく分からない居心地の悪さを覚えます。それは、今話すべきことなのかな、と。なんとなく理由づけをして聴く人を安心させることで、逆に見えなくなっていることはないのかな、と。それに巻き込まれるご遺族の気持ちを考えている人はいるのかな、と。

「どうしようもないこと」というのは実際のところあって、現実的には防ぎようがない、ただリスクとしてそこに存在することだけが確かである、そんな話は勿論居心地が悪いです。ただ、無理やり落としどころとしての「対策」を考えて、その「対策」を実施する為に多大なコストをつぎ込まなくてはいけない人を観測すると、それはそれで、同じような居心地の悪さの一因になります。それ、意味あるのかな、と。それで本当に「防げた」と思っているのかな、と。

自分の気持ちに向き合ってみると、私はエゴイストなので、やはり私の考え方は自分中心になってしまうのです。犠牲者のご家族と自分を重ね合わせてみると、そこにはただただ、無限大の悲しさだけがたゆたっています。一方で、この惨劇を受け止めなくてはいけないのが自分でなくて良かった、という、否定のしようのない安堵もあります。勿論のこと、こういうことを本当に防ぐことが出来るのか、この先もこういうことは起きるんじゃないか、という恐怖感もあります。

ただ、そういうことを全部飲み込んだ上で、今はただただ、分析も提言もせず「悲しい」とだけ言いたいのです。


何の役にも立てないけれど、ただ、悲しい。


そういう表明、そういう事件への寄り添い方があってもいいような、そんな気がします。
posted by しんざき at 23:29 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月20日

ゲームとか漫画にたまに出てくる、「時々啓示をくれて主人公を導いてくれる神様的存在」好きになれない問題

いや、実はこれもうちょっと面倒な話で、正確に言うと「啓示で主人公を導こうとするのに、その内容が都度都度情報不足で、その理由をなんとなく「高位な存在なので人間には理解し難い」っぽいものでふわっとコーティングしている神様的存在好きになれない問題」なのですが、いくら何でもタイトルが長すぎるので略しました。ご了承ください。

単なる私の好き・嫌いの話なんですけどね。

ここ最近、FF14をやっています。もともとはドマ式麻雀目当てに始めたんですが、なんだかんだで色々面白くって、蒼天のイシュガルドの3.0編クリアして、逆さの塔を攻略するところくらいまではきてしまいました。面白いですよね、FF14。

で、イシュガルド編のストーリーは大変面白かったんですが、大変面白かった中にも好きなキャラ・あまり好きでないキャラというのはいまして。

どうもこいつ好きになれないなーというのが、キャラクターというべきなのかどうかちょっと微妙なんですが、実を言うとハイデリンなんですよ。

FF14やってない人には分かんないですよね。ハイデリンっていうのは、星の意志そのものみたいな存在でして、分かりやすくいっちゃうと神様みたいな上位存在です。

で、ハイデリンはちょこちょこプレイヤーである光の戦士をマザークリスタルまで呼び出して、色んな啓示をしたり、ビジョンを見せて光の戦士の行動を導こうとします。「聞いて…感じて…考えて…」というのがお決まりのメッセージです。

細かいネタバレは避けるんですけど、この時、ハイデリンがとにかくコミュ障といいますか、「それは先に言っとけよ」とか「なんでそれ事前に伝えないの?」とか「言ってることがいちいち具体性に欠けて分かり辛いんですけど」とか思う機会がめちゃ多くって、どうも好きになれない、という話なんです。お前、聞いて感じて考えさせたいならせめてその元情報はもうちょっと具体的に整形しろや、としか。

いや、分かるんですよ。勿論世の中には「シナリオ上の都合」というものがありまして、プレイヤー、ないし主人公に渡す情報というものは色々と制限しておかなくてはいけません。いきなりこと細かにネタバレしてしまっては、面白さも緊張感も削がれちゃうよねっていう情報は、そりゃたくさんあります。それは分かるんです。

ただ、それならそれで、「その情報を今は教えない」理由にはちゃんとした事情があって欲しい。例えば情報量が多過ぎて最初に伝えると混乱してしまうからとか、伝えてはいたんだけど主人公が理解出来ていなかったとか、あるいはいっそ神様側に何かしら思惑があって、意図的に情報を伏せていたという話でもいいんです。そこにきちんと「理由」があれば納得は出来るんです。

ただ、特に理由が明示されないのに、「なんとなく上位の存在なので、人間には理解出来ない部分があるんです」みたいな感じでふわっとそこを丸められると、私にはそれが「作劇上の逃げ」みたいに感じられちゃって、あんま好きになれない傾向があるみたいだなーと思ったんです。

考えてみるとこの好き嫌いの傾向、結構昔からだなーと。神様みたいな上位存在が主人公になんとなく思わせぶりな啓示をして、けどあからさまに情報不足で、情報不足であるが故に主人公は偉い苦労を強いられて、けど情報不足である理由は作中であんまり明示されない、みたいなヤツ。これ、子どもの頃「ナルニア国物語」を読んだ頃から一貫して好きじゃなかったような気がするんですよ。

たとえ「教え導く」立ち位置であっても、例えば「神様にも限界はある」と明示されてる場合とか、神様がプレイヤーと同じ視点まで下りてきてくれる話とかなら嫌いじゃないんですよ。例えば「パルテナの鏡」のパルテナ様とか私大好きですし。

一方、むしろ神様に明確な意図があってわざと情報を隠しているとか、主人公のことなんて単なる道具としてしか考えていないとか、いっそ主人公を完全に騙して誘導しようとしている、というような理由ならそれもまた良しです。エルリックサーガのアリオッホ様とか超いい味出してましたよね。安能版封神演義の元始天尊なんかもこの傾向がありますし、クトゥルフ系までいっちゃうとまた事情が別ですが、ニャル様なんかちょっとでも信用した瞬間に主人公破滅しそう。

ハイデリン様はそこのところ、立ち位置的には(多分)明確に主人公サイドである筈なのに、どうもいちいち情報不足だし具体性がないし言ってることとやってることの整合性がないなー、とか現在思っている次第なんですが、まあこれが飽くまで伏線であって、これからの展開で「そうか、そういう事情があったのか!!」とか私が納得する可能性は否定しません。今後の展開を正座して待とうと思います。

ちなみに、全然関係ないんですが、「教え導く立ち位置の上位存在は一応いるんだけど、そいつの言うことがほのめかしばっかりでさっぱり理解出来なくて、けど後から考えるとそこにはちゃんと納得出来る事情があった」的な話で、私が一番好きなのは「ヘラクレスの栄光3」というゲームです。

このゲームのシナリオは色んな意味でとんでもないので、未プレイの方は是非遊んでみてください。めっちゃ名作ですよね、ヘラクレスの栄光3。wiiUのVCにはあったんですけど今遊べないんで、Switchで配信して欲しい。

ということで、雑然とした内容でしたが、今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 16:33 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月10日

内発的動機付けへの安易な傾斜はやりがい搾取ブラック企業への道

こんな記事を読みました。


この記事、論旨自体を批判する気はないんですが、安易に受け取ると色々とよろしくないことが起きそうなので、ちょっと指摘しておきたいことがあります。


2つ目は、報酬に関心を持つと、人は報酬獲得のため最短で手っ取り早いやり方を選ぶようになることだ。1時間勉強したらお小遣いが貰える子どもは、簡単な問題だけを1時間やり、難しい問題には挑戦しなくなる。

成果に見合う報酬は、確かに人を動機付ける。しかし仕事そのものではなく報酬に関心が向くようになり、手っ取り早い方法を選ぶようになる、ということである。

実際には内発的動機付けにも、報酬はある。それは「楽しさと達成感」である。ここで欠かせないのが「自分はこの仕事をこなせる力がある」という「有能感」だ。この有能感は、誰でもできる仕事では得られない。自分の能力を最大限に発揮し、達成したとき、初めて得られる。

例えばこれなんですけどね。

確かに、タスク達成とそのモチベーションとして、楽しさと達成感というものは重要です。達成感というものは、時として魔的な魅力を発揮することがあり、タスク実施の際のコスト、面倒くささや疲弊感といった問題を軽々と吹っ飛ばします。自律性と達成感は強力な動機づけになり得る。そこに間違いはないんです。

ただ、これは様々な実例があると思うんですが、ここで言う「達成感こそが重要」というロジックは、今まで数限りない経営者が、自他に「物理的な報酬は重要ではない」ということを納得させる為に利用してきたロジックでもあるんです。

楽しさと達成感さえあれば人は頑張ることが出来る。それなら報酬などいらないじゃないか?むしろ報酬が過剰な方が、内発的動機づけの成長を阻害するんじゃないか?

そういう話が、経営者によって「報酬を上げない」ことの理由付けに使われてきたんです。

その先に何があるか?というと、「楽しさと達成感さえあれば報酬なんかどうでもいいよね?」という、いわゆる「やりがい搾取」への道です。

違うんですよね。自立性や内発的動機は確かに重要だが、それは「それだけでいい」という話ではない。競争や報酬だけが動機づけのツールとして使われるとすれば悪影響も出るかも知れませんが、それは飽くまでバランスの話であって、0か100かの話ではないんです。どちらにいくにせよ「極端に傾斜するのはよろしくない」という話なんです。

それは勿論「人を伸ばす力」の中では当然の前提として扱われているんですが、何故だかこの話は一人歩きし勝ちでして、当然の前提の筈が何故かなかったことにされる場合があるんですよね。というか、私自身、経営幹部がこの「人を伸ばす力」の話を持ち出して、「だから報酬ではなく内発的動機づけが重要なんだ」という議論に持ち込まれてしまうのを見て「おいおいおいおい」と思った経験があります。

これが例えば、まだ「タスク達成に向かって頑張る」という行動様式が定型化されていない子どもの話であれば、内発的動機づけに傾斜することを意識するのは間違いではないかも知れません。しかし、それは飽くまで教育の話であって、労働環境の話ではない。既にある程度自分のモチベートを管理できるビジネスパーソンにとっては、経営側のそういう認識は余計なお世話ですらあります。

勿論、元記事がそういう論旨だけに偏っているかというとそういう訳でもなくて、


本当に必要なのは逆だ。統制はやめ、人の自律性を支援することが必要なのだ。

その人を「1人の人間」として認めれば、人は「自分が有能で自律的だ」と考えるようになり、内発的動機を維持できるようになる。一人ひとりが「これは自分自身で選択して行動している」と心底感じられることが必要なのだ。心理学者シーナ・アイエンガーが著書『選択の科学』で「自己決定感」が大切と述べている点と共通している。


(実際にそうであるかどうかに関わらず)自分が仕事においてある程度コントロールを握っている、と感じられるかどうかというのは非常に重要です。これについてはBooks&Appsさんの記事を一つ引かせてもらいますので、興味がある人はそちらを読んでみてください。



まあ何はともあれ、内発的動機づけは確かに重要だが、それが報酬軽視の根拠になるのはよろしくない、と思ったので念のために指摘しておきたい、と考えた次第なのでした。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 20:03 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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