2008年04月27日
結婚生活を割と愉快に過ごす為のたった一つのキーワード。
大事なのは、関心量の調節、だと思う。というか、本当にそれだけだと思う。
最近幾つか、「結婚が上手くいかなかった人」の視点で書かれたお話を読んだ。この視点が注目を集めていることを見ていると、結婚に全然不満を持っていない人の視点も一応書いておいた方がいい様な気がしてきた。
なので書く。
例えば結婚生活が上手くいっている話とか、上手くいっていない話とか、色んな人のお話を聞く。色んな人のお話を読む。
決まって思うことがある。結婚生活が上手くいっていない人というのは、つまり関心量に大きな食い違いが出てしまっている様に見えるなあ、と。
関心というのは、大きく言うと勿論お互いへの関心である。更には、お互いが関心をもっているものへの関心、でもある。
AさんがBさんに関心をもつ。あるいは興味をもつ。何をしているのか、どんな人間なのか知りたいと思う。
全ての人間関係はそこから始まる。お互いへの関心のバランスが良ければ、お互いにとって丁度いい距離感が形成出来る。相手がやっていることへの関心をもっていれば、相手が体験している楽しさが分かる。相手が体験している苦労も分かる。気配りも思いやりもその後の話だ。
お互いへの関心のバランスが悪いと、コミュニケーションのバランスが崩れる。一方は反応欲求を満たすことが出来ず、一方は発信欲求を満たすことが出来ず、不満はどんどん蓄積されていく。
相手が関心をもっていることへの関心が薄いと、無理解のペースが速まる。相手が何を楽しんでいるか分からないから、楽しい時間を共有出来ない。相手が何に苦労をしているかが分からないから、相手のペース配分に納得することも出来ないし、相手の疲れに共感することも出来ない。仕事にかまけている旦那の家庭が上手くいかないのは、その多くが「関心の配分」の調整ミスに由来している。
奥さんの家事の苦労に旦那の理解がないというのも、旦那が集めていた鉄道模型を捨ててしまったとかいう話も、同じく「関心の配分」の調整ミスに由来している。
子育てが原因で家庭に不和、みたいな話をよく聞く。これは何が原因かというと、多分、子供に対する関心量のアンバランスだ。妻が子供に抱いている程の切実な関心を、夫が持てない。そうすると、夫にとってみれば「妻の自分に対する関心量」が純減したとしか感じられず、妻にとってみれば「自分がもっている重要な関心」を共有出来ない。当然色んなすれ違いを生む。旦那には子育ての苦労がよく分からないし、興味ももてない。奥さんは子供のことで頭が一杯で、そこまで旦那に関心を払えない。これで人間関係が上手くいく筈がない。
人間のキャパシティというものは、つまり関心の許容量である。どんな分野でもそうだ。そして、相手に関心が持てる人、相手がやっていることに関心を払い続けられる人であれば、いい関係を築く為の第一条件は既にクリアしていると思う。
「愛の反対は無関心」という言葉は、多くの人がその意味を誤解している。愛と関心は、実際の所はほぼ同義語なのである。反対語になるのは当たり前のことであって、それ以上でもそれ以下でもない。夫婦喧嘩が時として夫婦関係をよくするというのも、多分同じ様な原理なんだろうと思う。喧嘩は相手への関心なしでは成立しないから。
まとめると。夫婦の両方か、少なくとも片方が、上手く関心を配分出来る人であれば、夫婦生活というのは割と円満に進むんじゃないか、と、私はそんな風に思う。
さらに簡単にまとめると、こんな風になる。
あなたの隣で過ごしている人に、興味を持ち続けてください。結構面白いですよ、その生き物。
私に関する限り、私のすぐ隣に私以外の生き物が生きているというのは、それだけで十分な驚異だ。最近では更にもう一人、私以外の生き物が隣に増えた。これも物凄い驚異だ。しかもこの生き物達は、日々、少しずつ変わり続けている。昨日までの研究事例が、どういう訳か今日は通用しなくなったりしていることが割と頻繁にある。これも恐るべき驚異だ。
これから先も、私は色んな物に色んな関心を持つだろう。それでも私は、この生き物達への関心を、多分生涯失わないでいられると思う。
2008年04月22日
ふと気付いてみると中間管理職であったらしい私が思うこと。
良く考えてみると、どうも私は中間管理職らしい。色々と妙な立ち位置にいることはいるけど、改めて検討してみるとどうも中間管理職である様なのだ。ちょっとびっくりした。
私は単なるアプリ・DB屋であり、しかも怠惰な人間である。OracleやPostgresのことはまあそれなりに分かるが、人事や経営戦略のことなどさっぱり分からないし、第二人者でいられるんならそれに越したことはないよな、とも思っている。けどまあ、「ここでアタマやってね」といわれれば頑張るし、上司から無茶を言われれば弾き返しもする。
なんとかやっている。会議なんて出ないでコード書いていたいけど、まあ、なんとかやっている。
で、折角自分の立場に気付いたので、最近考えたことを折りに触れて書いていこうかと思った。
・部下の評価項目、というものが極めてウザい件。
どの辺が成果主義だよ、とか思った。
いや、なにやら年俸査定の為に部下評価なるものをごちゃごちゃとやらなくてはいけないのだが。「仕事の内容がどれだけ充実しているか」「服務規律を遵守しているか」くらいならまだしも、「部門の一員として適切に行動しているかどうか」とか聞かれても何のことだかさっぱり分からん。評価基準は一体どこですか。
そこまでならまだしも、「部署に対してどれだけの改善提案をしているか」とか、「会社への帰属意識について」とか、どうなんだ。何が悲しくて会社への帰属意識を評価対象にせねばならんのか。帰属意識なんて1ミリグラムもなくても、仕事さえちゃんとやってくれてれば私には何の文句もないんだが。
偉い方々と話していて思ったのだが、どうも社歴が古くて地位が高い人程、「会社への帰属意識」を評価対象にすることに違和感を覚えない傾向がある様だ。そりゃまあ本人に会社への一体感があるのは構わないが、それを部下にまで求めろと言われてもなあ。
自分の仕事を期間内にちゃんと仕上げているかどうか、雰囲気悪くしてないかどうか、それくらいで十分じゃん。いや、もっと言うと「こいつに辞められるとどれくらい困るか」の一項目だけでも十分なんじゃないだろか。
そう思ったので、管理の偉い人にその旨直言してみた。「あー、確かに君んとこにはあんまり当てはまらないかも知れないけどねー。」と曖昧に笑われた。どこの部署だと当てはまるんだろう、この項目。
「お仕着せの評価項目をコピペして使うのは、どう考えても意味不明なので即刻やめるべきです」と改善提案しとこう。
・叱り方について。
これは良く分かんない。
会社の偉い人からは、「上手い叱り方を覚えろ」とことあるごとに言われる。「ちゃんと叱れているか」ともことあるごとに言われる。
だが、比較的寡黙なシステム屋集団である私の部署において、どういうシーンで部下を叱るべきなのか、ということ自体が私にはいまひとつ分からない。そもそも、叱るべき場面にあまり遭遇していない様な気もする。私の基準が緩いだけなのかも知れないが。
これは単なる私の推測なのだが、どうも会社の偉い人々は「取り切れなかったバグ」を「叱るべきミス」であると考えているんじゃないか、と思える様なフシがある。
無論のこと、バグは必ず発生するものなのであって、それを取り切れなかったのはテストの方に問題がある。テスト項目のこことここを見直して下さい、と言えば十分なところで、叱る必要があるとは私には思えない。その辺は色んな機会に説明しているのだが、どうもピンとこない様でもある。
一応、らしくないなあと思った時には、「○○さんらしくないんじゃないですか」と言う様にはしている。叱ってるのかどうかはともかくとして。
取り敢えず、今回思ったこと、以上。
2008年04月07日
二次創作を「煽る尺度」について。
前回のエントリーが頭の中で発展して、幾つか思いつきが沸いてきたのでちょっと書きとめておく。
テーマは「ある創作が同人に向いているかどうか、の尺度について」。例によって、既出かどうかは気にしないことにする。
・創作には、「それを元にした二次創作が生まれやすいかどうか」という尺度があると思う。
多分、キーワードは「意欲」なんだろう。
それがどの様な形のものであれ、二次創作というものは妄想から発生する。例えば漫画、あるいはゲームや小説、なんでもいい。ある一次創作に触れて、そこをスタート地点にしてもくもくと妄想が沸いてくる時、そこには既に二次創作の種が育っている。
漫画の「まだ見ぬ展開」を妄想することも、ゲームで「もうひとつのエンディング」を妄想することも、広い意味では二次創作の内だ。小説の主人公に自分を準える、進行上で死んだ人物が生きていたらどうなっていたかを想像する、その程度の妄想なら多くの人が経験している筈だ。
妄想がある種の臨界点を突破した時、おそらく人は二次創作への道を本格的に歩み出す。ある人は同人作家への道を歩み、ある人はWebでネタ創作を書き散らすなどという行為に走り、あるいは大成し、あるいは道半ばにして黒歴史へと葬る。
人は誰しも、同人作家としてのある程度の資質を備えているのである。恐ろしいことである。
さて。「妄想がある種の臨界点を突破」するとして、その「臨界点」の位置は一体何の要素で決まるのだろう。
私が考える軸は二本。「容量」と「集積」である。
・創作における「容量」とは何か。
つまり、妄想の自由度。ある創作にどの程度の穴があるか、どの程度の俺様設定をつぎ込む余地があるか、という軸が、まずひとつである様な気がする。
例えば。キャラクターに関する自由度、というものを想定してみる。
ここに、ある創作の主人公、例えばAというキャラクターがいたとする。このAというキャラクターにどれだけの設定が明示されているのか、というのは当然、作品ひとつひとつで大きく異なる。
話し方から考え方、性格、生まれや育ちから好みの異性のタイプまで、何から何まで細かく設定してある創作であれば、当然読者に残された「想像の余地」というものは小さくなる。レトロゲームのRPGの主人公の様に、極端な話名前しか決まっていません、という様な場合には、勿論「想像の余地」というものは大きくなる。
「かゆい所に手が届く」設定であればある程、妄想が育つ余地は小さくなるというのが一般的な傾向だろう。勿論、これを逆手にとった意外性パロディ(デスノートコラみたいな)というものが生まれる場合もあるのだが、それは取り敢えず置く。
あるいは。シナリオに関する自由度、というものを想定してみる。
例えば一本の筋道をもった小説であれば、当然のことながら辿るストーリーも一本である。そこには、無限の「もしこうなったら」というシナリオ上の妄想の余地が残される。キルヒアイスが死なない世界を想像するのも、犬猿の仲の男女をくっつけるのも読者に許された「妄想の自由」である。
一方。マルチエンディングのゲームであれば珍しくないことだが、ゲーム上で辿りうる「シナリオ」が多ければ多い程、当然読者に残された「妄想の余地」も目減りする。当然だ、妄想するまでもなく「その展開」は既にそこにあるのだから。妄想の根源は意欲であり、欲望である。読者の妄想を煽る為には、読者を満腹にさせてはいけないのだ。
キャラクターと同じく、「かゆい所に手が届く」シナリオであればある程、おそらく妄想が育つ余地は小さくなる。「こうなればいいのに」であるとか、「こういう展開が見たいのに」といった欲望を誘う創作の方が、おそらく二次創作を誘発する度合いは高いのだ。
こうして考えてみると、前回エントリーで話に出た「エロ同人」というのは、つまり「シナリオに関する自由度」というゾーンに存在する話題だったことが分かる。エロいシナリオというものが至れりつくせりで存在する創作には、エロいシナリオを妄想する余地は存在しない。エロいシナリオが全く存在しない時、エロいシナリオを妄想する余地は最大化する。ギャップが煽る欲望というのは、つまりここに尽きるのだろう。
じゃあ、設定が少なければ少ない程、つまりは容量が大きければ大きい程二次創作は作られやすいのか?といわれると、必ずしもそうでもない気がする。
そこで出てくるもう一本の軸が、「集積」である。
・妄想は共有することで成長する。
二次創作を創る人というのは、往々にして同じ趣味の人同士で集い、コミュニティを形成する。Webで少しキャラクターの名前を検索すれば、「○○同盟」であるとか、「○○WebRING」といったものが、それこそ星の数程引っかかる筈だ。
二次創作を煽る強力な要因として、「同好の士」というものの存在はどうもかなり大きい様に思える。同じ趣味の友人、同じ妄想を語り合える知人。良きにつけ悪しきにつけ、平安時代の昔から、妄想は「口に出され」「語り合われる」ことによって成長するものの様である。
いつの時代も、革命は妄想に始まり、集積によって現実となるものであり、日本でいうと幕末の志士達はこぞって同人作家であった。一次創作が幕府の秩序であり、そこから「こうであったらいいのに」という妄想が結実した結果が討幕である。
で。上の段にあった「容量」が大きければそれだけでいい、訳ではない理由として、この「共有」というものが絡んでくる。何故かというに、「共有」する為には核となるものが必要だからだ。
以前書いたが、例えばWizardryは、上記「容量」については無限の広さをもったハコである。TRPGが丸々一個ゲームカートリッジの中に納まっていると考えていい。文字と数字だけで形成されたキャラクターが、ゲームを介して自分の脳内で生き生きと動き出す楽しさというのは、そんじょそこらのゲームで味わえるものではない。
ところが。勿論「友の会」やアンソロジー、様々な創作小説が存在するとはいえ、その裾野の世界的な広さ程には、Wizardryの二次創作は広範ではない。というか、単一では様々な創作が存在するのだが、それらをまたいだ「共有物」というものがあまり目立たない、という言い方になるのかも知れない。
その理由が、「自由度が高過ぎる為に、妄想が拡散する傾向がある」ということなんじゃないかと私は思うのだ。妄想に核がない、という言い方になるんだろうか。個人個人のイメージが自由過ぎる為、ユーザーをまたいだ妄想が育たない。
一方で、同じRPGでも最低限のビジュアル・設定がある作品では、時として物凄い規模での集積が行われることがある様だ。例えばドラクエIIIであるとか、ちょっとWebを漁ればあるわあるわ、各職業の男女のリストと創作の山。試みに「Wizardry 創作」「ドラクエIII 創作」でぐぐってみるだけでもざっくりとした規模差は分かる。機種依存文字を排除し、シリーズの壁をとっぱらってもこの検索数である。
多分、「丁度いい設定量」「程良いビジュアル量」という軸があるのだろう、と思う。ある程度統一されたビジュアルと設定があれば、妄想は集積されることによって、それ自体を核にして成長する。
「二次創作の素材」として優れているかどうか、という観点では、例えば「世界樹の迷宮」の方がWizardryより上なのかも知れない、ということが言えるだろう。
と、メモ書きのつもりだったのにエラい長くなったのでちょっとまとめてみる。
・二次創作の創られやすさには、「妄想の自由度」と「妄想の核があるかどうか」という、二つの軸がある様な気がする。
・妄想の自由度の中にも色々な種類がありそうな気がする。
・ドラクエIIIのWebRINGの範囲の充実っぷりは異常。というか、「戦士×魔法使い」で1ジャンルとか、私の想像の範囲外の出来事なんですけど。
・Webはある意味黒歴史の集積である様な気がする。
最後あんまりまとめと関係ないな。まあこのブログもところどころ黒歴史な気もするが、私は今日も気にせずに書きたいことを書く訳である。
二次創作についてなんとなく思ったこと、以上。
2008年04月03日
エロゲーを漫画化したりしなかったりする時の話。
まっ昼間からどうなんだと思わないでもない話題だが、特に気にせずに思いついたことを書く。一応折りたたんで。
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2008年03月25日
「真ん中」を探すこと。
私の思考法の基本は、「真ん中探し」だと思った。
以下、当たり前のことなのかも知れないけれど、ブログに何かを書く時の自分のスタンスについて、ふと考えてみた内容。
二人の人が激しく言い争っているとする。私は、自分の立場や心情は取り敢えずぶん投げておいて、まず「真ん中はどこか」を考えたくなる。一方の立場に立って考えるより、双方の立ち位置を確認して、双方にとって妥当な地点というのは存在するのか、存在するとすればそれはどこなのか、ということを考えたくなる。
あるテーマについて、皆の意見が激しく一方に偏っているとする。私は、それに同調したり反対するよりも先に、やはり「真ん中はどこか」を考えたくなる。皆の立ち位置の正反対を仮定して、双方にとって妥当な位置と、何故皆の立ち位置がこうも偏っているのか、突き詰めたくなる。
実効的か、と言われると、正直あんまり実効的ではない。役に立つか、と言われると、正直あんまり役に立たない。中庸と言えば聞こえはいいが、多くの場合、真ん中探しは議論の収束に寄与しない。
ただ。世の中に、「絶対評価」ですぱっと解答が出せる問題は、多分凄く少ないと思う。殆どの問題は、小学校の通信簿の様に、飽くまで「相対的に」1から5までを採点するのがせいぜいであって、だから基準としての「3」を誰かが探すことには、それなりの意味があると私は思う。自分が1をつけるか5をつけるか、というのはまた別な話。
だから、真ん中を探している。皆普通にしている思考なのかも知れない、とも思うけど。
で。
思考として「真ん中」であろうとする時、その過程には多分二つある、と思う。
一つは、「ある立場」と「ある立場」を結んだ線分の真ん中の地点を探そうとする、言ってみれば一次元の真ん中。もう一つは、視点をメタに引いて話の構造自体を分析しようとする、言ってみれば二次元の真ん中。
あるテーマについて、「この答えは1だ」と言っている人と「この答えは10だ」と言っている人がいて、「じゃあ5くらいが妥当なんじゃないかなあ」と考えて検証するのが一次元。「そもそもその問題は足し算なのか掛け算なのか、実は割り算だったりするんじゃないか」という疑問を提起するのが二次元。私の中ではそういうことになっている。
どっちが役に立つか、というと、多分どっちも微妙である気はする。ただ、思考として面白いのは後者だと思う。議論をしている当事者にとってよりどうでもいいのも後者だと思う。まあ、どんな議論でも外野の声なんか多かれ少なかれ邪魔だと思うから、こればっかりは仕方ない。
私は哲学に関する知識がぜーんぜんないので、上にうだうだと書いた様な方向性を何とラベリングすればいいのかよく分からない。相対主義、というものともちょっと違う様な気がするが、多分何か名前はあるんだろう。気が向いたらもうちょっと調べてみる。
今日も「真ん中」を探しつつ、特に結論の出ない話。
2008年02月22日
時代を越える、モテエリートの恐怖
ふと思ったのだが、この世に生きるありとあらゆる人々は、モテエリートの系譜に属しているんではあるまいか。
以下、遺伝学って何ですか食べ物ですか、的な思考法で話を進める。
考えてもみよ。我々の両親を始め、我々直系のご先祖様は一人残らず、遺伝子競争に打ち勝って子孫を残すことに成功した人々ばかりなのである。これ、改めて考えると結構凄いことなんじゃないだろうか。100%ですよ、100%。一件の漏れもなく。
普通の統計なら、「90%」とか言われると「超高い」って印象がある。「95%」とか言われると「全部じゃん」とすら思う。それが100%て。おかしい。統計的に何か騙されている気がする。誰かズルしてるんじゃないだろうか。
ここまで「遺伝子競争勝者」の血というものが凝縮されていると、生き残った人々の潜在的モテ力(もてぢから)というものは実は凄いんじゃないだろうか。なにしろ、「子作り競争に勝利して子孫を残した人100%」という血統が保証されている。もう超エリート。
周り中エリートしかいないから現代ではあんまり目立たないけど、多分石器時代とか、もうちょっと人間生まれたてーの頃とかにタイムスリップしたら、周りとの格差は物凄いことになるに違いない。なにしろ周りの連中毛だらけ。手先も不器用で石器しか使えない。現代人超モテるんじゃね?
なにしろヤツら、会話も素で「ウホ」とか「ホヒー」言ってるんですよ多分。求愛の台詞が「モヘフー」とかだったりするんですよ多分。どうですかコレ。いやイメージだけど。小粋な会話とか、空気読むとかそんなレベルの問題じゃない。
すげーモテなそう。現代人の自称非モテとか、一体どの口で言ってるんですかってくらいモテなそう。技術力の無さに裏打ちされた、圧倒的非モテ小宇宙。むしろ現代の自称非モテの人は、石器時代の人類、特に当時モテなかった非モテサピエンスの人々に対して「調子に乗ってすみませんでした」と頭を下げるべき。
それはそうと、ちょっと思考を進めてみる。全体としての潜在的モテ力が継続して上昇し続けている、しかもそれは今後とも100%というレートを保ち続けるということは、2000年後とか更によりいっそう恋愛競争社会って熾烈なものになってるんじゃね?
もしかすると、今から1万年くらい後には、その時代の「非モテ」でさえ、現代社会から見ればガイアに輝けと囁かかれてるくらいの圧倒的モテ力(もてぢから)を有しているかも知れない。これはヤバい。何しろ1万年差だ、ドラえもんと現代の技術力の差、なんて生易しいものじゃない。1万年間、恋愛勝者の血を100%という純度で凝縮し続けた非モテ。一体どれ程スーパーサイヤ人なのか想像もつかない。
彼らにしてみれば、現在の我々なんて石器時代の人類程度のモテ力しか持っていないのだ。彼らとの格差は想像するしかないが、もしかすると小指をちょいと振るだけでモテてしまう程のモテ力なのかも知れない。髪の毛一本ふっとふくと床から勝手に子供が生まれてしまうくらいの遺伝能力なのかも知れない。超ヤバい。神様、モテ遺伝子の歴史は人類を孫悟空にしてしまいました。
そんな彼らが万一現代社会にきたりしたら、もう市場寡占状態は確定的である。現代社会は1万年後のモテ遺伝子に席巻されてしまうのだ。どうするんだよ一体。絶対的モテの前には、人類は等しく相対的非モテである。
ということで、やっぱタイムマシンは開発されない方が世の中平和だよね、という話でした。
今タイムマシンを開発してる人は断念すべき。マジで。遍くモテ・非モテの為に。
以下、遺伝学って何ですか食べ物ですか、的な思考法で話を進める。
考えてもみよ。我々の両親を始め、我々直系のご先祖様は一人残らず、遺伝子競争に打ち勝って子孫を残すことに成功した人々ばかりなのである。これ、改めて考えると結構凄いことなんじゃないだろうか。100%ですよ、100%。一件の漏れもなく。
普通の統計なら、「90%」とか言われると「超高い」って印象がある。「95%」とか言われると「全部じゃん」とすら思う。それが100%て。おかしい。統計的に何か騙されている気がする。誰かズルしてるんじゃないだろうか。
ここまで「遺伝子競争勝者」の血というものが凝縮されていると、生き残った人々の潜在的モテ力(もてぢから)というものは実は凄いんじゃないだろうか。なにしろ、「子作り競争に勝利して子孫を残した人100%」という血統が保証されている。もう超エリート。
周り中エリートしかいないから現代ではあんまり目立たないけど、多分石器時代とか、もうちょっと人間生まれたてーの頃とかにタイムスリップしたら、周りとの格差は物凄いことになるに違いない。なにしろ周りの連中毛だらけ。手先も不器用で石器しか使えない。現代人超モテるんじゃね?
なにしろヤツら、会話も素で「ウホ」とか「ホヒー」言ってるんですよ多分。求愛の台詞が「モヘフー」とかだったりするんですよ多分。どうですかコレ。いやイメージだけど。小粋な会話とか、空気読むとかそんなレベルの問題じゃない。
すげーモテなそう。現代人の自称非モテとか、一体どの口で言ってるんですかってくらいモテなそう。技術力の無さに裏打ちされた、圧倒的非モテ小宇宙。むしろ現代の自称非モテの人は、石器時代の人類、特に当時モテなかった非モテサピエンスの人々に対して「調子に乗ってすみませんでした」と頭を下げるべき。
それはそうと、ちょっと思考を進めてみる。全体としての潜在的モテ力が継続して上昇し続けている、しかもそれは今後とも100%というレートを保ち続けるということは、2000年後とか更によりいっそう恋愛競争社会って熾烈なものになってるんじゃね?
もしかすると、今から1万年くらい後には、その時代の「非モテ」でさえ、現代社会から見ればガイアに輝けと囁かかれてるくらいの圧倒的モテ力(もてぢから)を有しているかも知れない。これはヤバい。何しろ1万年差だ、ドラえもんと現代の技術力の差、なんて生易しいものじゃない。1万年間、恋愛勝者の血を100%という純度で凝縮し続けた非モテ。一体どれ程スーパーサイヤ人なのか想像もつかない。
彼らにしてみれば、現在の我々なんて石器時代の人類程度のモテ力しか持っていないのだ。彼らとの格差は想像するしかないが、もしかすると小指をちょいと振るだけでモテてしまう程のモテ力なのかも知れない。髪の毛一本ふっとふくと床から勝手に子供が生まれてしまうくらいの遺伝能力なのかも知れない。超ヤバい。神様、モテ遺伝子の歴史は人類を孫悟空にしてしまいました。
そんな彼らが万一現代社会にきたりしたら、もう市場寡占状態は確定的である。現代社会は1万年後のモテ遺伝子に席巻されてしまうのだ。どうするんだよ一体。絶対的モテの前には、人類は等しく相対的非モテである。
ということで、やっぱタイムマシンは開発されない方が世の中平和だよね、という話でした。
今タイムマシンを開発してる人は断念すべき。マジで。遍くモテ・非モテの為に。
2008年02月18日
「通説・権威を否定するメソッド」について。
10年くらい前、出版社にバイトで出入りしていた頃、「ハウツー本を売るコツ」みたいなことを聞きかじったことがあった。
その内の一つに、「一般的に信じられている通説、あるいは権威の言葉をまず否定する」というものがあったことを、奥様が図書館から借りてきた育児のハウツー本を、横から覗きこんでいて思い出した。
通説の質についてとか、そのハウツー本の内容が適しているのかどうか、という話は取り敢えずおいておく。ハウツー本自体は、有益なノウハウと無益なノウハウがごった煮になっていることが分かりきっているのだから、有益だと思った分だけ齧ればいい。それだけのことである。
説得力のお話なのだ。
「通説を否定するメソッド」が有効な理由はたった一つ。「「気付き」という感覚がとってもキモチイイから」。
通説は、広く流布されているからこそ通説と呼ばれる。「大体こうすればいいんだよ」というセオリー、ある程度固定化された「有効な方法論」というものが通説だ。その通説が「科学的な方法で検証されているかどうか」というのは、この際あんまり関係ない。ただ、通説が則っている土台について、読者があまり詳しく知らなければそれでいい。
「本に書いてるし偉そうな人がそう言ってるし、まあ何となく正しいんだろう」という程度の知識が、ターゲットとしては最適だ。
その通説を、ある程度の材料(必ずしも科学的である必要はない)と一緒に否定してみせるとどうなるか。「通説」の土台にそこまで精通している訳ではない多くの読者は、「へえ、そうなのか」とまず感じるのだ。人によっては、「なるほど!」とか「知らなかった!」という感じ方に直結する人もいる。
これがとってもキモチイイ。
気付きの快感、というか。常識を裏切られた嬉しさ、というか。どうも、人は「借り物の固定観念」に対して新しい見方を提示された時、凄く心を動かされるものらしいのだな。たとえ、その「新しい見方」の根拠が必ずしも十分でなくても。
この時、「借り物」というのが重要で、否定されるのは「自分で考えた結果」ではなく、「権威が言っているから何となく正しいのだろう」という程度の知識、でなくてはならない。
以前、扇動されやすい人というエントリーを拝読したことがある。ちょっと引用してみよう。
読者の既存の知識をひっくり返す、という手法は、書き手にとって実に有効な武器なのだ。
以上の話を思い出したのは、きっかけとしては奥様が読んでいた「育児のハウツー本」をチラ見した為、ではある。そこには、「保健所で通常言われている育児知識」に対する色んな批判が書いてあり、その話の持って行き方自体は、私が昔学んだ「権威の否定メソッド」に沿ったものだった、様に思う(ちゃんと読んだ訳じゃないけど)。
ただ、そのハウツー本と奥様双方の名誉の為に書き添えておくと、奥様はその程度の気付きで感動する程素直な読み手ではないし、そのハウツー本は十分に説得力のある書き方をされていたし、実際にそのハウツー本に書かれている方法論は正しいのかも知れないし、通説を疑ってみること自体は悪いことではない。
むしろ、十分に慎重な考え方で通説を疑ってみることは、知識を深めることにも繋がるし、新たな発見にも繋がる。実にいいことだ、と私自身思う。
ただ、いずれにせよ、ただ「通説を疑ってみる」だけで、ある程度の人が「気付き」に感動してしまうという事実は厳然としてそこに存在する。「気付き」を提供するハウツー本は、なにしろ売れるのだ。売れてしまうのだ。そして、それに伴って困った影響が出てしまう場合、というのも、どうも、ありそうなのだ。
以下、ことによるとちょっと荒れるかなあ、という話なのだが。まあこんな零細ブログなら大丈夫かなあ、と思いつつ。
最近はてブでちらほらと、「千島学説」というものについて見る機会があった。内容自体は、Wikipediaに簡単なものがまとめられていたから、興味がある人はそちらをさらっと見て頂けばいいのではないかと思う。
Wikipedia:千島学説
細かい論評は避けるが、いわゆる「通説」の土台にある程度親しんだ人であれば、こういう説を信奉するようになることは多分あるまい、と思う。
で、幻影随想さんで見かけたエントリと、そのコメント欄。
千島学説とその信奉者達
私にはよく分からないのだが、どうもこの説には非常に熱心な共感者さんがいる様なのだ。一度「信じる」というプロセスに至った後は、周りから攻撃を受ければ受ける程その信仰は強固になっていくのが常だから、上のコメント欄の様なやり取りは納得がいくのだが。
ただ、その人達の「入り口」がどこにあったのか、ということを考えてみると、やっぱり上の様な「気付き」だったんじゃないのかなあ、と私は想像するのだ。病気への対処法とか色々、一般に信じられていることについて「実は○○なんだよ」という気付きを与えられてしまった人が、さくっと新たな方法論に飛びついたんじゃないかなあ、と私は推測するのだ。
「権威、通説を否定する」というメソッドのキモチよさ。そして、時折そこに潜んでいる危険性。
キモチいいものだからこそ、堪能する時には慎重にせねばならんなあ、と、私はぼんやりとそんな風に思った訳である。
ちなみに、上記幻影随想さんでは、その後千島学説に突っ込んでみる1というエントリが上がっているので、興味がある人は読んでみられるといいんじゃないかと思う。
一応まとめておこう。
・ハウツー本を売りたい時には、「意外と基盤部分は知られていない通説」に喧嘩を売ってみよう!
・常識が否定されるのはすげー新鮮らしいですよ。
・通説を疑ってみること自体は、悪いことじゃないと思うんです。つーか思考法としては凄くいいと思うよ。
・ただ、アレです。根拠の質量については、慎重に検討した方がいいですよね。通説・新説、どちらにせよ。
・自分で考えよう、自分で。
余談だけど、Wikipediaの編集履歴を追っかけてみると色々と楽しいですよ。
長くなったのでこの辺で。
その内の一つに、「一般的に信じられている通説、あるいは権威の言葉をまず否定する」というものがあったことを、奥様が図書館から借りてきた育児のハウツー本を、横から覗きこんでいて思い出した。
通説の質についてとか、そのハウツー本の内容が適しているのかどうか、という話は取り敢えずおいておく。ハウツー本自体は、有益なノウハウと無益なノウハウがごった煮になっていることが分かりきっているのだから、有益だと思った分だけ齧ればいい。それだけのことである。
説得力のお話なのだ。
「通説を否定するメソッド」が有効な理由はたった一つ。「「気付き」という感覚がとってもキモチイイから」。
通説は、広く流布されているからこそ通説と呼ばれる。「大体こうすればいいんだよ」というセオリー、ある程度固定化された「有効な方法論」というものが通説だ。その通説が「科学的な方法で検証されているかどうか」というのは、この際あんまり関係ない。ただ、通説が則っている土台について、読者があまり詳しく知らなければそれでいい。
「本に書いてるし偉そうな人がそう言ってるし、まあ何となく正しいんだろう」という程度の知識が、ターゲットとしては最適だ。
その通説を、ある程度の材料(必ずしも科学的である必要はない)と一緒に否定してみせるとどうなるか。「通説」の土台にそこまで精通している訳ではない多くの読者は、「へえ、そうなのか」とまず感じるのだ。人によっては、「なるほど!」とか「知らなかった!」という感じ方に直結する人もいる。
これがとってもキモチイイ。
気付きの快感、というか。常識を裏切られた嬉しさ、というか。どうも、人は「借り物の固定観念」に対して新しい見方を提示された時、凄く心を動かされるものらしいのだな。たとえ、その「新しい見方」の根拠が必ずしも十分でなくても。
この時、「借り物」というのが重要で、否定されるのは「自分で考えた結果」ではなく、「権威が言っているから何となく正しいのだろう」という程度の知識、でなくてはならない。
以前、扇動されやすい人というエントリーを拝読したことがある。ちょっと引用してみよう。
少なからざる人が「私たちはだまされて、虚偽の歴史像を注入されていたのだ」と書いている。「憤りを覚える」とまで書いていた学生複数いた。どうも彼らの好きな自画像とは「だまされていたけど、真実の歴史に触れて目が覚めた」というものらしい。根っこは同じなのかなあ、と思う。つまり、「覚醒すること」の新鮮さがとにかく大きい。知的欲求がある程度大きい人ほど、「なるほど!」という感覚への希求は強い様な気がする。(一応上のリンクに対しては、他にも色々と考えられる要素があって、こちらでも言及している)
読者の既存の知識をひっくり返す、という手法は、書き手にとって実に有効な武器なのだ。
以上の話を思い出したのは、きっかけとしては奥様が読んでいた「育児のハウツー本」をチラ見した為、ではある。そこには、「保健所で通常言われている育児知識」に対する色んな批判が書いてあり、その話の持って行き方自体は、私が昔学んだ「権威の否定メソッド」に沿ったものだった、様に思う(ちゃんと読んだ訳じゃないけど)。
ただ、そのハウツー本と奥様双方の名誉の為に書き添えておくと、奥様はその程度の気付きで感動する程素直な読み手ではないし、そのハウツー本は十分に説得力のある書き方をされていたし、実際にそのハウツー本に書かれている方法論は正しいのかも知れないし、通説を疑ってみること自体は悪いことではない。
むしろ、十分に慎重な考え方で通説を疑ってみることは、知識を深めることにも繋がるし、新たな発見にも繋がる。実にいいことだ、と私自身思う。
ただ、いずれにせよ、ただ「通説を疑ってみる」だけで、ある程度の人が「気付き」に感動してしまうという事実は厳然としてそこに存在する。「気付き」を提供するハウツー本は、なにしろ売れるのだ。売れてしまうのだ。そして、それに伴って困った影響が出てしまう場合、というのも、どうも、ありそうなのだ。
以下、ことによるとちょっと荒れるかなあ、という話なのだが。まあこんな零細ブログなら大丈夫かなあ、と思いつつ。
最近はてブでちらほらと、「千島学説」というものについて見る機会があった。内容自体は、Wikipediaに簡単なものがまとめられていたから、興味がある人はそちらをさらっと見て頂けばいいのではないかと思う。
Wikipedia:千島学説
細かい論評は避けるが、いわゆる「通説」の土台にある程度親しんだ人であれば、こういう説を信奉するようになることは多分あるまい、と思う。
で、幻影随想さんで見かけたエントリと、そのコメント欄。
千島学説とその信奉者達
私にはよく分からないのだが、どうもこの説には非常に熱心な共感者さんがいる様なのだ。一度「信じる」というプロセスに至った後は、周りから攻撃を受ければ受ける程その信仰は強固になっていくのが常だから、上のコメント欄の様なやり取りは納得がいくのだが。
ただ、その人達の「入り口」がどこにあったのか、ということを考えてみると、やっぱり上の様な「気付き」だったんじゃないのかなあ、と私は想像するのだ。病気への対処法とか色々、一般に信じられていることについて「実は○○なんだよ」という気付きを与えられてしまった人が、さくっと新たな方法論に飛びついたんじゃないかなあ、と私は推測するのだ。
「権威、通説を否定する」というメソッドのキモチよさ。そして、時折そこに潜んでいる危険性。
キモチいいものだからこそ、堪能する時には慎重にせねばならんなあ、と、私はぼんやりとそんな風に思った訳である。
ちなみに、上記幻影随想さんでは、その後千島学説に突っ込んでみる1というエントリが上がっているので、興味がある人は読んでみられるといいんじゃないかと思う。
一応まとめておこう。
・ハウツー本を売りたい時には、「意外と基盤部分は知られていない通説」に喧嘩を売ってみよう!
・常識が否定されるのはすげー新鮮らしいですよ。
・通説を疑ってみること自体は、悪いことじゃないと思うんです。つーか思考法としては凄くいいと思うよ。
・ただ、アレです。根拠の質量については、慎重に検討した方がいいですよね。通説・新説、どちらにせよ。
・自分で考えよう、自分で。
余談だけど、Wikipediaの編集履歴を追っかけてみると色々と楽しいですよ。
長くなったのでこの辺で。
2008年02月12日
「嫌うスタンス」にまつわる色々。
ふと気付いてみると、今の私には「嫌いな人」がいない。
ここ数日妙に色々と立て込んでいて、Webでのアンテナを下げていた折。職場で例によって他部署の同僚の愚痴を聞いている時、ふと違和感を感じた。
何でこの人は、そんな簡単に人を嫌いになれるんだろうなあ、と。
同じく、ちょっと仕事が立て込んでいて、現実逃避にブログをぶらぶらとしている折。多分同じ様な違和感を感じた。
何でこの人は、そんな簡単に人格否定の文言を形に出来るんだろうなあ、と。
ちょっと雑然とした話になりそうなので、まず先に思ったことをまとめておく。
・「人を嫌う為のコスト」というものがある様な気がする。そして、それは人それぞれ、結構差があるものである様な気がする。
・私に関する限り。ろくに知りもしない人を嫌いにはなれない。そして、ある程度その人のことを知ると、結構色々と面白い部分があるので嫌いになれない。
・それは私が「色んな人を深く知ろうとしている」ということを必ずしも意味しない。「嫌うに値する関係性」というものについて、私の価値基準がちょっとずれている、ということなのかも知れない。
・ただ、それ以前に、「嫌う用途」とでも言うものが根本的に違ってたりはしねえだろか、と後から考えついた。
順番にいこう、って言う程の内容でもないけど。
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ここ数日妙に色々と立て込んでいて、Webでのアンテナを下げていた折。職場で例によって他部署の同僚の愚痴を聞いている時、ふと違和感を感じた。
何でこの人は、そんな簡単に人を嫌いになれるんだろうなあ、と。
同じく、ちょっと仕事が立て込んでいて、現実逃避にブログをぶらぶらとしている折。多分同じ様な違和感を感じた。
何でこの人は、そんな簡単に人格否定の文言を形に出来るんだろうなあ、と。
ちょっと雑然とした話になりそうなので、まず先に思ったことをまとめておく。
・「人を嫌う為のコスト」というものがある様な気がする。そして、それは人それぞれ、結構差があるものである様な気がする。
・私に関する限り。ろくに知りもしない人を嫌いにはなれない。そして、ある程度その人のことを知ると、結構色々と面白い部分があるので嫌いになれない。
・それは私が「色んな人を深く知ろうとしている」ということを必ずしも意味しない。「嫌うに値する関係性」というものについて、私の価値基準がちょっとずれている、ということなのかも知れない。
・ただ、それ以前に、「嫌う用途」とでも言うものが根本的に違ってたりはしねえだろか、と後から考えついた。
順番にいこう、って言う程の内容でもないけど。
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2008年02月07日
努力という免罪符
世の中には二種類の努力がある。成功した人の努力と、失敗した人の努力である。
そして、これら二種類の努力は、ベクトルこそ違え、どちらも「免罪符」という共通した機能を果たしていると思う。一方は失敗したという罪、一方は成功したという罪に対しての。
はてなブックマーク > 痛いニュース(ノ∀`):【論説】「頑張れば夢はかなう」は幻想
ここのコメントを見てちょっと思ったこと。テーマ:「常識を疑ってみる」。あまりポジティブな話ではないし、結論が出る様な話でもないが。
「努力したからといって成功するとは限らないが、成功した人は皆努力している」。いい言葉だ。いい言葉なんだが、これ、本当だろうか。
世の中、「努力しないで失敗した人」、というのは多分星の数程いる。ただ、その一方、「努力しないで成功した人」「努力しないで結果を出した人」というのもそれなりにはいるんじゃないか、と私は思っている。ただ、その存在が妙に可視化されていない様な、社会的に隠蔽されている様な、なんだかもやもやした感じが私には気にかかるのだ。
敢えて無根拠に一般化するが、社会には「努力しないで成果を挙げる」ことを嫌う、あるいは隠蔽する傾向がある様な気がする。
Aさんという人物を仮定してみよう。彼は、運なり天賦の才能に恵まれて、それ程努力をすることもなく何だか成功してしまった。成功の内容はなんでもいい、「大会社の重役になった」でも「Webサービスを立ち上げてみたら覿面大成功して大金持ちになった」でも「東大・京大に受かった」でもいい。
例えばこの人が、「全然勉強しないでも京大に受かりましたよー」と周囲に言うコストを考えてみるといい。反感を買うか嫉視を買うか、まあとにかく人間関係にいい影響は与えないだろう、という見当はつく。
人は、成功者の「苦労話」を聞きたがる。伝記に「苦労話」を読みたがる。先ほどのAさんも、「受験前は一日○○時間勉強しました」みたいなことを適当に言っておけば波風は立たないのだ。
何故だ。
理由は幾つも想定出来る。「成功者の努力を参考にして、自分も成功に向かって努力する為」というのが一番綺麗な答えなんだろう、と思う。思うけれど、勿論もうちょっとひねくれた見方も成立する。
・「成功者がかけたコストを自分はかけていない」という、公平感、ないしは優越感を得る為。
つまり、「あれだけコストをかければ自分でも出来るかも知れない」という公平感と、あるいはそれ以上に「自分はあんな苦労はせずに済んだ、済んでいる」という優越感が、「成功者の苦労話」を聞く裏にはあるんじゃないか、と私は思うのだ。世の成功者は、ある種の優越感というコンテンツを自分以外の人に差し出すことによって、嫉視や反感をある程度免れている。これが「成功者の努力」という名の免罪符である。そんな気がする。
「成功者の苦労話」と同じかそれ以上に、「苦労せずに成果を挙げたものの失敗話」は好まれる。例えば、会社の無能な三代目社長。金持ちのボンボンが財産を食いつぶす話。こういった話がコンテンツとして好まれるというのは、2ちゃんなりその辺の界隈なりを見ていれば分かる。つまりそれは、「成功したこと」という罪に対するコストを、別の方向から求められているという心理の表れなんじゃないか、と私は考える。
この心理を起点に、何だか世の中、色々な詐術がまかり通っている様な気がするのだ。
少なくとも私が考える限り、努力は単にコストであり、人によって適量から向いてるベクトルまで違うものでもあり、またそれ自体が美化される様な対象でもない、と思う。努力するのはいいことだけれど、努力は成果の必要十分条件じゃあない、とも思う。
努力は美徳だ。ただ、努力は何故美徳なのだろうか。
その辺が、私にはまだいまいち分からない。
参照:「個人的な問題でも一般化したい病」について
そして、これら二種類の努力は、ベクトルこそ違え、どちらも「免罪符」という共通した機能を果たしていると思う。一方は失敗したという罪、一方は成功したという罪に対しての。
はてなブックマーク > 痛いニュース(ノ∀`):【論説】「頑張れば夢はかなう」は幻想
ここのコメントを見てちょっと思ったこと。テーマ:「常識を疑ってみる」。あまりポジティブな話ではないし、結論が出る様な話でもないが。
「努力したからといって成功するとは限らないが、成功した人は皆努力している」。いい言葉だ。いい言葉なんだが、これ、本当だろうか。
世の中、「努力しないで失敗した人」、というのは多分星の数程いる。ただ、その一方、「努力しないで成功した人」「努力しないで結果を出した人」というのもそれなりにはいるんじゃないか、と私は思っている。ただ、その存在が妙に可視化されていない様な、社会的に隠蔽されている様な、なんだかもやもやした感じが私には気にかかるのだ。
敢えて無根拠に一般化するが、社会には「努力しないで成果を挙げる」ことを嫌う、あるいは隠蔽する傾向がある様な気がする。
Aさんという人物を仮定してみよう。彼は、運なり天賦の才能に恵まれて、それ程努力をすることもなく何だか成功してしまった。成功の内容はなんでもいい、「大会社の重役になった」でも「Webサービスを立ち上げてみたら覿面大成功して大金持ちになった」でも「東大・京大に受かった」でもいい。
例えばこの人が、「全然勉強しないでも京大に受かりましたよー」と周囲に言うコストを考えてみるといい。反感を買うか嫉視を買うか、まあとにかく人間関係にいい影響は与えないだろう、という見当はつく。
人は、成功者の「苦労話」を聞きたがる。伝記に「苦労話」を読みたがる。先ほどのAさんも、「受験前は一日○○時間勉強しました」みたいなことを適当に言っておけば波風は立たないのだ。
何故だ。
理由は幾つも想定出来る。「成功者の努力を参考にして、自分も成功に向かって努力する為」というのが一番綺麗な答えなんだろう、と思う。思うけれど、勿論もうちょっとひねくれた見方も成立する。
・「成功者がかけたコストを自分はかけていない」という、公平感、ないしは優越感を得る為。
つまり、「あれだけコストをかければ自分でも出来るかも知れない」という公平感と、あるいはそれ以上に「自分はあんな苦労はせずに済んだ、済んでいる」という優越感が、「成功者の苦労話」を聞く裏にはあるんじゃないか、と私は思うのだ。世の成功者は、ある種の優越感というコンテンツを自分以外の人に差し出すことによって、嫉視や反感をある程度免れている。これが「成功者の努力」という名の免罪符である。そんな気がする。
「成功者の苦労話」と同じかそれ以上に、「苦労せずに成果を挙げたものの失敗話」は好まれる。例えば、会社の無能な三代目社長。金持ちのボンボンが財産を食いつぶす話。こういった話がコンテンツとして好まれるというのは、2ちゃんなりその辺の界隈なりを見ていれば分かる。つまりそれは、「成功したこと」という罪に対するコストを、別の方向から求められているという心理の表れなんじゃないか、と私は考える。
この心理を起点に、何だか世の中、色々な詐術がまかり通っている様な気がするのだ。
少なくとも私が考える限り、努力は単にコストであり、人によって適量から向いてるベクトルまで違うものでもあり、またそれ自体が美化される様な対象でもない、と思う。努力するのはいいことだけれど、努力は成果の必要十分条件じゃあない、とも思う。
努力は美徳だ。ただ、努力は何故美徳なのだろうか。
その辺が、私にはまだいまいち分からない。
参照:「個人的な問題でも一般化したい病」について
2008年02月05日
大衆感覚とか、本のタイトルに関する感覚とか。
「大衆感覚」ってやつがわからない
どうなんだろう。
私が昔お世話になっていた編集者さんの言葉を引用すると、こうなる。
「スコープは狭ければ狭い程いい」
「平均に受けてもしょうがないんですよ。平均値って存在しない値のことなんですから」
「10人中5人になんとなく受ける題名より、10人中1人が必ず手にとる題名の方がいい。手にとってもらいさえすれば、本はそこから広がるものなんです」
どっちが正しいのか、あるいはどっちが適しているのかは良くわかんない。ただ、そんな言葉を発する編集者さんにお世話になっていた身の私としては、「大衆感覚」という言葉にはあまり価値を感じない。存在しない客層を想定してどうすんだろ、とか思ったりする。いや、他所様で成功しているえらい人の台詞に文句をつけるのもアレだけど。
話は変わるが。先日から自宅にあって、私がすげー感心した本の題名。
「七月に生まれた赤ちゃんの本」
なんというピンポイント、なんという具体性。思わず唸った。
内容はどんな感じかというと。7月に生まれた赤ちゃんに関して、8月にはどんな様子、9月にはどんな様子、といった描写とアドバイスが一年分書いてあるだけの本なのだが、この題名のメリットを考えると計り知れない。
・非常にピンポイントでありながら、当てはまる境遇のお母さんは思わず手にとりたくなる具体性をもっている。しかも客層は狭くない。
・手にとった人にとっての適合性、実用性がある程度保証されている。範囲が具体的なので具体的に役立つ内容が書きやすい。
・「新生児が産まれた直後」という、実用本を探したくなるタイミングを的確に捉えている。
・内容を少し変更しただけで、同じスコープをもった本が12冊作れる。
一石四鳥どころか、もうちょっと考えてみればあと2、3羽落ちてくるんじゃないか、というくらいの勢いである。素晴らしい。やったもん勝ち、という気もしないではないけど。
昼休みに思ったこと、以上。
参照:「ピンポイント」のメカニズム。
どうなんだろう。
奇をてらわなくていいから、一般大衆にとってわかりやすい企画を立てろ。かっこつけなくていいから、一般大衆にとってわかりやすい書名をつけろ。方法論の違いなのか、あるいはジャンルの違いなのかも知れないが。
私が昔お世話になっていた編集者さんの言葉を引用すると、こうなる。
「スコープは狭ければ狭い程いい」
「平均に受けてもしょうがないんですよ。平均値って存在しない値のことなんですから」
「10人中5人になんとなく受ける題名より、10人中1人が必ず手にとる題名の方がいい。手にとってもらいさえすれば、本はそこから広がるものなんです」
どっちが正しいのか、あるいはどっちが適しているのかは良くわかんない。ただ、そんな言葉を発する編集者さんにお世話になっていた身の私としては、「大衆感覚」という言葉にはあまり価値を感じない。存在しない客層を想定してどうすんだろ、とか思ったりする。いや、他所様で成功しているえらい人の台詞に文句をつけるのもアレだけど。
話は変わるが。先日から自宅にあって、私がすげー感心した本の題名。
「七月に生まれた赤ちゃんの本」
なんというピンポイント、なんという具体性。思わず唸った。
内容はどんな感じかというと。7月に生まれた赤ちゃんに関して、8月にはどんな様子、9月にはどんな様子、といった描写とアドバイスが一年分書いてあるだけの本なのだが、この題名のメリットを考えると計り知れない。
・非常にピンポイントでありながら、当てはまる境遇のお母さんは思わず手にとりたくなる具体性をもっている。しかも客層は狭くない。
・手にとった人にとっての適合性、実用性がある程度保証されている。範囲が具体的なので具体的に役立つ内容が書きやすい。
・「新生児が産まれた直後」という、実用本を探したくなるタイミングを的確に捉えている。
・内容を少し変更しただけで、同じスコープをもった本が12冊作れる。
一石四鳥どころか、もうちょっと考えてみればあと2、3羽落ちてくるんじゃないか、というくらいの勢いである。素晴らしい。やったもん勝ち、という気もしないではないけど。
昼休みに思ったこと、以上。
参照:「ピンポイント」のメカニズム。
2008年02月04日
もっともタメになる初心者用言語?ファミリーベーシックだろ、常識的に考えて・・・
Wikipediaファミリーベーシック
めくるめくファミリーベーシックの世界
レトロゲーム万里を往く その33 〜鬼子・ファミリーベーシック〜
ファミリーベーシックの良いところ。
・使用出来る命令が凄く少ないので覚えやすい。
・使用可能なメモリが凄く少ない(1982バイト)ので全体を把握し易い。
・使用可能なメモリが凄く少ない(1982バイト)のでメモリの大切さ、メモリのケチりかたを切実に覚えることが出来る。
・使用可能なメモリが凄く少ない(1982バイト)ので、V3(4096バイト)に切り替えると出来ることが物凄く広がった様な錯覚を味わうことが出来る。
・音楽制作環境、グラフィック制作環境が一緒についてきてとてもお徳。
・行番号つきの記述しか受け付けないので、ちょっと気が利いたことを実装しようとすると、アルゴリズムを執念深く熟考しないと実装出来ない。その為、プログラマーとしての思考力がつく。
・フラグ処理とか実装しようとすると死にそうになるのでプログラマーとして打たれ強くなる。
・整数演算しかサポートしていなくて分かりやすい。ちょっと頑張れば暗算でも勝てるので自信がつく。浮動小数点演算?何スかそれ。
・3行書いただけでマリオが走る。プログラミングの成果が視覚的に表現されていてやる気が出る。
・DEF SPRITEとかDEF MOVEとか、変な方言をたくさん覚えられるのでプログラマーとしての専門性が高まる。
・マリオやノコノコなど、事前に用意されたスプライトしか使用出来ないので、著作権的にやばそうなことをしても任天堂に怒られない。
ファミリーベーシックの良くないところ。
・どこにも売ってない。
ということで、良いところがたくさんあるのに良くないところが一つしかないファミリーベーシックは、とても初心者向けの言語だと思うのです。
皆、ファミリーベーシックでプログラムしようぜ!
参照:初心者向けの言語
最もタメになる「初心者用言語」は JavaScript。
最もタメになる「初心者用言語」はScheme!CommentsAdd Star
めくるめくファミリーベーシックの世界
レトロゲーム万里を往く その33 〜鬼子・ファミリーベーシック〜
ファミリーベーシックの良いところ。
・使用出来る命令が凄く少ないので覚えやすい。
・使用可能なメモリが凄く少ない(1982バイト)ので全体を把握し易い。
・使用可能なメモリが凄く少ない(1982バイト)のでメモリの大切さ、メモリのケチりかたを切実に覚えることが出来る。
・使用可能なメモリが凄く少ない(1982バイト)ので、V3(4096バイト)に切り替えると出来ることが物凄く広がった様な錯覚を味わうことが出来る。
・音楽制作環境、グラフィック制作環境が一緒についてきてとてもお徳。
・行番号つきの記述しか受け付けないので、ちょっと気が利いたことを実装しようとすると、アルゴリズムを執念深く熟考しないと実装出来ない。その為、プログラマーとしての思考力がつく。
・フラグ処理とか実装しようとすると死にそうになるのでプログラマーとして打たれ強くなる。
・整数演算しかサポートしていなくて分かりやすい。ちょっと頑張れば暗算でも勝てるので自信がつく。浮動小数点演算?何スかそれ。
・3行書いただけでマリオが走る。プログラミングの成果が視覚的に表現されていてやる気が出る。
・DEF SPRITEとかDEF MOVEとか、変な方言をたくさん覚えられるのでプログラマーとしての専門性が高まる。
・マリオやノコノコなど、事前に用意されたスプライトしか使用出来ないので、著作権的にやばそうなことをしても任天堂に怒られない。
ファミリーベーシックの良くないところ。
・どこにも売ってない。
ということで、良いところがたくさんあるのに良くないところが一つしかないファミリーベーシックは、とても初心者向けの言語だと思うのです。
皆、ファミリーベーシックでプログラムしようぜ!
参照:初心者向けの言語
最もタメになる「初心者用言語」は JavaScript。
最もタメになる「初心者用言語」はScheme!CommentsAdd Star
2008年01月28日
「3個で400円のリンゴ」と「2個で300円のリンゴ」を比較してみる。
さて、ここで問題です。「3個で400円のリンゴ」と「2個で300円のリンゴ」どちらが高いでしょう?
答えは勿論、「3個で400円のリンゴ」ですね。400円と300円、普通に考えればどちらが高いかは一目瞭然。一個当たりの値段なんて知ったこっちゃありません。純粋に「買うのに幾らかかるのか」という視点をもった時、どう考えても前者の方が100円高いのです。こんなもんは絶対値の問題、算数の問題、引き算の問題である筈なのです。
世間に「前者の方が安い」と考える人が一定数、というかかなりの数存在するというのは、まったくもって私の理解の埒外の事象です。
「でも、3個必ず食べるなら400円のが安いじゃん」て。違うやろ。そこは、「3個必ず食べるなら」ではなくて「3個必ず必要なら」と考えるべきなのです。
あなたは本当に3個のリンゴを必要としているのですか?実は2個で十分こと足りるところ、「一個当たりの値段」というものに惑わされて、ついつい3個のリンゴを買っていないですか?あまつさえ、一度には食べ切れずに「3個の新鮮なリンゴ→1個の古いリンゴ」などという価値の暴落を引き起こしてはいないですか?冷蔵個に「一個当たりが安いから」という理由で買った食べ物が古くなっていませんか?
そんなあなたは、「単価の罠」にハマっていると私は思うのです。
思うに、われわれは普段「単価」という言葉に惑わされ過ぎなのではないでしょうか。「お得」という単語に惑わされ過ぎなのではないでしょうか。
単価という考えを持ち出す限り、我々は必ず「一個多い方」を買わざるを得ません。分母が大きい程単価が下がるのは当たり前のことなのですから。2個のりんごで十分お腹一杯になる場合には、3個のりんごを買うのはお得どころか有害ですらあるのですが、「単価」という概念に毒された人はそれに気付きすらしません。なんという販売者の権謀、なんというラベリング効果。
つまり、単価至上思想には、二つの致命的なデメリットがあると思うのです。
・必要・不必要に関わらず消費量をかさ上げしてしまう点。
・総額で考えれば、明らかに支出が多くなってしまう点。
私は思う訳です。安いか高いかを判断するなら総額で考えるべきだ、と。買うか買わないかを考えるなら必要・不必要で考えるべきだ、と。
冷凍庫を開けて凍ったおかずが転がり落ちてくる時、そう思う訳です。
って、最近西村和雄とか読む必要に迫られてるんで予習してるんですけど、ミクロ経済学ってこういうこと勉強するんですよね?
あ、全然違いますか。そうですか。
答えは勿論、「3個で400円のリンゴ」ですね。400円と300円、普通に考えればどちらが高いかは一目瞭然。一個当たりの値段なんて知ったこっちゃありません。純粋に「買うのに幾らかかるのか」という視点をもった時、どう考えても前者の方が100円高いのです。こんなもんは絶対値の問題、算数の問題、引き算の問題である筈なのです。
世間に「前者の方が安い」と考える人が一定数、というかかなりの数存在するというのは、まったくもって私の理解の埒外の事象です。
「でも、3個必ず食べるなら400円のが安いじゃん」て。違うやろ。そこは、「3個必ず食べるなら」ではなくて「3個必ず必要なら」と考えるべきなのです。
あなたは本当に3個のリンゴを必要としているのですか?実は2個で十分こと足りるところ、「一個当たりの値段」というものに惑わされて、ついつい3個のリンゴを買っていないですか?あまつさえ、一度には食べ切れずに「3個の新鮮なリンゴ→1個の古いリンゴ」などという価値の暴落を引き起こしてはいないですか?冷蔵個に「一個当たりが安いから」という理由で買った食べ物が古くなっていませんか?
そんなあなたは、「単価の罠」にハマっていると私は思うのです。
思うに、われわれは普段「単価」という言葉に惑わされ過ぎなのではないでしょうか。「お得」という単語に惑わされ過ぎなのではないでしょうか。
単価という考えを持ち出す限り、我々は必ず「一個多い方」を買わざるを得ません。分母が大きい程単価が下がるのは当たり前のことなのですから。2個のりんごで十分お腹一杯になる場合には、3個のりんごを買うのはお得どころか有害ですらあるのですが、「単価」という概念に毒された人はそれに気付きすらしません。なんという販売者の権謀、なんというラベリング効果。
つまり、単価至上思想には、二つの致命的なデメリットがあると思うのです。
・必要・不必要に関わらず消費量をかさ上げしてしまう点。
・総額で考えれば、明らかに支出が多くなってしまう点。
私は思う訳です。安いか高いかを判断するなら総額で考えるべきだ、と。買うか買わないかを考えるなら必要・不必要で考えるべきだ、と。
冷凍庫を開けて凍ったおかずが転がり落ちてくる時、そう思う訳です。
って、最近西村和雄とか読む必要に迫られてるんで予習してるんですけど、ミクロ経済学ってこういうこと勉強するんですよね?
あ、全然違いますか。そうですか。
2008年01月25日
漫画家さん入れ替え思考実験と、らんま1/2についてのお話。
ということで、いつも通り割とてきとーな話題に戻ろうかと思う。
漫画に関する思考実験というのは色々あるが、最近たまに考えるのは、「あの漫画の設定であの人が描いていたら」というシミュレート、というか妄想である。これがなかなか面白い。
デスノートを島本和彦が描いたら「それはそれ!これはこれ!」とか言うLが見られるかな、とか。テニスの王子様を鳥山明が描いたらもしかしたらあんまり変わらないかも知んない、とか。そういう感じの。
まあ、Webにはこの手のネタを挙げている人が多分たくさんいるだろう。どうせブログはネタと既出で出来ているのだ。ここから、ちょっとレトロげに話題を絞る。
話は「らんま1/2」について、である。知らない人にはわけわかんねー話になることがたやすく想定出来るが、あんまり気にしていない。
・らんまにまつわるいくつかの妄想。
らんま1/2、という漫画がある。高橋留美子が1987年からサンデーに連載した漫画で、主人公が「水をかぶると女性になり、お湯をかぶると男性に戻る」という特異体質を背負っていることが特徴のラブコメである。
参照:Wikipedia:らんま1/2
高橋留美子がその地位を不動のものにした作品、と言っていいだろうと思う。彼女はこれに先立って「うる星やつら」「めぞん一刻」というヒット作品を世に送り出している訳で。連載漫画が二作ヒットすれば大御所と言われる業界にあって、犬夜叉まで描いている氏の大御所っぷりはいまさら言うまでもない(勿論、この定義に従うと手塚治虫や藤子不二雄は大御所どころかS級妖怪になるが)
高橋留美子は勿論ラブコメの大家であるから、らんまも素っ頓狂な設定を縦横無尽に生かし切り、格闘漫画のエッセンスも相当分に加えた、すげえ完成度の高い長寿作品に仕上がっていた。後半は若干ダレたかも知れないが、日常系長寿漫画の宿命だと言ってしまえばそれまでである。この漫画を自然な形で仕上げられるのが、果たして高橋留美子以外に存在したか、というのは割と興味深いテーマになりそうである。
ということで、らんま1/2という素っ頓狂な設定の作品を、他の作家さんに描かせてみたらどんな感じになるか、ちょっと妄想を繰り広げてみたよ。
浦沢直樹が描いた場合 :序盤から呪泉郷の由来に関わる謎・伏線が張られまくるが、20巻辺りで主人公が失踪する。
車田正美が描いた場合 :途中から女性キャラが登場しなくなる。
福本伸行が描いた場合 :博打王キングの回が単行本6冊くらい続く。
花咲アキラが描いた場合:格闘ディナーの回が単行本12冊くらい続く。
大友克洋が描いた場合 :良牙が獅子咆哮弾を完成させた拍子に東京が崩壊する。
原哲夫が描いた場合 :上記の展開の後、なんか全体的に凄いことになる。
青山剛昌が描いた場合 :毎回殺人事件が起こる。(もしかするとチャンバラものになるかも知れないが)
江川達也が描いた場合 :最終巻で夢から覚める。
新沢基栄が描いた場合 :最終巻で夢から覚める。
島本和彦が描いた場合 :7巻くらいで、その場の勢いで呪泉郷に関する設定が消滅。そのまま野球漫画になる。
赤松健が描いた場合 :女性キャラが、どういう訳か全員乱馬と同じクラスに在籍する。
なかなかうまくいかないもんだな。ゆうきまさみやあずまきよひこが描いたらあんまり違和感ないだろうか。意外なところで、沙村広明なんか結構普通の作品に仕上がりそうな気もする。
冨樫義博が描いた場合?そうだな、超絶ひねりが利いた内容になるかも知れないけど、取り敢えず季刊連載になるんじゃないかな。
と、ここまで書いた所で、というか赤松先生が描いた場合の妄想をしてみて、二点疑問に思った。
・らんまは、いわゆる「ハーレム系漫画」なのか?そうでないとすればその差はどこにあるのか?
・何故、開始当初はヒロインの三分割を企図された様に見える、なびき・かすみがラブコメ中に参加しなかったのか?(なびきは後半にちょっとフェイントがあるが)
以下、参照URL。
参照:ハーレム漫画の祖は?
参照:Wikipediaの定義
なんかWebでは結構書いてる人がいそうな気がするなあ。ちょっと調べてみてから、気がむいたらまた書いてみる。
取り敢えずまとめとして、島本和彦先生が描いたデスノート超読みてえってことで。
いや、朝目新聞さんにそれっぽいパロディがあるにはあるんだけど。割と素で読みたいんですけど。「心に棚をつくれッ!!」とか言う月マジ見てみたい。
漫画に関する思考実験というのは色々あるが、最近たまに考えるのは、「あの漫画の設定であの人が描いていたら」というシミュレート、というか妄想である。これがなかなか面白い。
デスノートを島本和彦が描いたら「それはそれ!これはこれ!」とか言うLが見られるかな、とか。テニスの王子様を鳥山明が描いたらもしかしたらあんまり変わらないかも知んない、とか。そういう感じの。
まあ、Webにはこの手のネタを挙げている人が多分たくさんいるだろう。どうせブログはネタと既出で出来ているのだ。ここから、ちょっとレトロげに話題を絞る。
話は「らんま1/2」について、である。知らない人にはわけわかんねー話になることがたやすく想定出来るが、あんまり気にしていない。
・らんまにまつわるいくつかの妄想。
らんま1/2、という漫画がある。高橋留美子が1987年からサンデーに連載した漫画で、主人公が「水をかぶると女性になり、お湯をかぶると男性に戻る」という特異体質を背負っていることが特徴のラブコメである。
参照:Wikipedia:らんま1/2
高橋留美子がその地位を不動のものにした作品、と言っていいだろうと思う。彼女はこれに先立って「うる星やつら」「めぞん一刻」というヒット作品を世に送り出している訳で。連載漫画が二作ヒットすれば大御所と言われる業界にあって、犬夜叉まで描いている氏の大御所っぷりはいまさら言うまでもない(勿論、この定義に従うと手塚治虫や藤子不二雄は大御所どころかS級妖怪になるが)
高橋留美子は勿論ラブコメの大家であるから、らんまも素っ頓狂な設定を縦横無尽に生かし切り、格闘漫画のエッセンスも相当分に加えた、すげえ完成度の高い長寿作品に仕上がっていた。後半は若干ダレたかも知れないが、日常系長寿漫画の宿命だと言ってしまえばそれまでである。この漫画を自然な形で仕上げられるのが、果たして高橋留美子以外に存在したか、というのは割と興味深いテーマになりそうである。
ということで、らんま1/2という素っ頓狂な設定の作品を、他の作家さんに描かせてみたらどんな感じになるか、ちょっと妄想を繰り広げてみたよ。
浦沢直樹が描いた場合 :序盤から呪泉郷の由来に関わる謎・伏線が張られまくるが、20巻辺りで主人公が失踪する。
車田正美が描いた場合 :途中から女性キャラが登場しなくなる。
福本伸行が描いた場合 :博打王キングの回が単行本6冊くらい続く。
花咲アキラが描いた場合:格闘ディナーの回が単行本12冊くらい続く。
大友克洋が描いた場合 :良牙が獅子咆哮弾を完成させた拍子に東京が崩壊する。
原哲夫が描いた場合 :上記の展開の後、なんか全体的に凄いことになる。
青山剛昌が描いた場合 :毎回殺人事件が起こる。(もしかするとチャンバラものになるかも知れないが)
江川達也が描いた場合 :最終巻で夢から覚める。
新沢基栄が描いた場合 :最終巻で夢から覚める。
島本和彦が描いた場合 :7巻くらいで、その場の勢いで呪泉郷に関する設定が消滅。そのまま野球漫画になる。
赤松健が描いた場合 :女性キャラが、どういう訳か全員乱馬と同じクラスに在籍する。
なかなかうまくいかないもんだな。ゆうきまさみやあずまきよひこが描いたらあんまり違和感ないだろうか。意外なところで、沙村広明なんか結構普通の作品に仕上がりそうな気もする。
冨樫義博が描いた場合?そうだな、超絶ひねりが利いた内容になるかも知れないけど、取り敢えず季刊連載になるんじゃないかな。
と、ここまで書いた所で、というか赤松先生が描いた場合の妄想をしてみて、二点疑問に思った。
・らんまは、いわゆる「ハーレム系漫画」なのか?そうでないとすればその差はどこにあるのか?
・何故、開始当初はヒロインの三分割を企図された様に見える、なびき・かすみがラブコメ中に参加しなかったのか?(なびきは後半にちょっとフェイントがあるが)
以下、参照URL。
参照:ハーレム漫画の祖は?
参照:Wikipediaの定義
なんかWebでは結構書いてる人がいそうな気がするなあ。ちょっと調べてみてから、気がむいたらまた書いてみる。
取り敢えずまとめとして、島本和彦先生が描いたデスノート超読みてえってことで。
いや、朝目新聞さんにそれっぽいパロディがあるにはあるんだけど。割と素で読みたいんですけど。「心に棚をつくれッ!!」とか言う月マジ見てみたい。
2008年01月23日
面接官をやり始めて分かったことと、思ったこと。
ここしばらく、新卒・中途問わず面接の場に出たり、別の面接官の人と色々話したりした。
で、色々と、面接する側に立ってみて初めて分かることが結構あるなあと思ったりもした。ちょっとメモっておく。
○面接側の事情について思ったこと。
・「縁」とは、特筆するべき事由が特にない時、強引に理由付けをする為に存在する言葉。
・面接をする側にもモチベーションと切迫具合というものがある。
・本当に人手不足の場合と、採用計画の消化過程にある場合では、切迫具合がまったく異なる。人を見る目にもかなりの差が出る。
・面接官に人を見る目があると思ったら大間違いである。また、面接官が現場を熟知していると思ったら大間違いである。
・特に中小企業において、面接という仕事は往々にして面接官の本業ではない。面接官は、大抵の場合他にもどっさりと仕事を抱えている。つまり、面接という場にやる気なく臨んでいる人も割といる。
・「弊社を希望された理由は?」とか。はっはっは。いや、別にその、真面目に考えてくれなくてもいいんです。最大の理由が「お金が要るから」あるいは「前の職場がヤだったから」であることは誰もが知っています。言ってみれば適切な建て前の作り方。
・往々にして、重要なのはアピールの内容ではなく、アピールの仕方。特に新卒の場合、面接官はそれ程アピールの内容自体には興味をもっていなかったりする。
・面接官が「求めている」ポイントは、実際の所あんまり多くない場合がままある。せいぜい二つか三つ。ただ、勘所は人によって違う。
・総合すると、運。これ。最強。
○自分でやっていて思った「面接のコツ(笑)」的なもの。
・はったりは割とすぐ分かる。が、無理がキツくない範囲での、いわば「適切な」はったりはむしろ評価を上げる。「ああ、この人はこちらが期待していることを読み取る能力があるんだな」「このくらいまでははったりをしても済むと思っているんだな(つまり、入社後その程度の仕事は振っても文句を言われんな)」と考えるからである。
・ここから考えると、「後からでも頑張れば何とか出来る」という辺りが適切なはったりのライン、かなあ。
・面接官の属性を読んで、ポイントがどこかを推測する。質問のテンプレートがあるか、ないか。やる気はあるかないか。テンション高いか低いか。若いかおっちゃんか。現場の人か、バックオフィスの人か。
・面接官のやる気を計る。やる気がない面接官に気合満々で話を聞かせようとしても往々にして空回りする。力加減重要。
・特に中途の場合、自信たっぷりな面接官には控えめに、自信なさげな面接官には自信たっぷりに接すると良いことが多い様な気がする。人材応募の人から自信たっぷりに「見える」という時点で、その面接官のスタンスはある程度推して知れる。自信なさげな面接官は多分あんまり慣れてない。割とはったりが通る。
・重要な質問をさり気なく聞きたがる人が多い様な気がする。ひと段落ついた後の「何気ない」質問に注意した方がいいと思う。
・一通り質問が終わった後の、「砕けた空気」での会話を最重視している人というのがいた。相手にどう合わせるか。タイミング重要。
・買い物で、二つの同じ程度の品物を選ぶ場面を想像してみるといい気がする。面接官は、往々にしてその程度の思考レベルに話を矮小化する。二つの違いはどこだろうか。あなたはどこで決めるだろうか。
○面接官をする時に私が気をつけていること、気をつけた方がいいと思っていること。
・面接を受ける人は、自分のことをいくら飾ってもいい。いくら飾っても、どうせ大した影響はない。でも、面接をする側が会社を飾るのはダメ。絶対。
・会社の悪いところは全部言う。私は基本的に脳みそお花畑、絶望的にポジティブかつ恐竜並みに鈍感な人間なので、悪いところに気付いていない部分もすげー多いと思う。でも無理してでも言う。会社に入ってから「話が違う」と感じるのは、本人だけでなくあらゆる人にとって不幸である。
・「何か質問あります?」という聞き方はあんまり良くない様な気がする。どうすれば相手がまだ思い当たっていない質問を引き出せるか。基本的には、相手の前の会社・あるいは他に受けている会社について色々聞いてみて、相手の組織評価能力を探ると同時に、「じゃあうちはどうなんかな」という方向に持っていくのが良い気がしている。
○俺みたいなヤツが面接官をしている会社の面接を受ける時、気をつけるべきこと。
・ごめんなさい、目が血走ってても見逃してやってください。別段仕事がキツい訳でもなんでもなく、久々にイメージファイトなんぞにはまって寝不足なだけなんです。
すいません今日は早めに寝ます。
で、色々と、面接する側に立ってみて初めて分かることが結構あるなあと思ったりもした。ちょっとメモっておく。
○面接側の事情について思ったこと。
・「縁」とは、特筆するべき事由が特にない時、強引に理由付けをする為に存在する言葉。
・面接をする側にもモチベーションと切迫具合というものがある。
・本当に人手不足の場合と、採用計画の消化過程にある場合では、切迫具合がまったく異なる。人を見る目にもかなりの差が出る。
・面接官に人を見る目があると思ったら大間違いである。また、面接官が現場を熟知していると思ったら大間違いである。
・特に中小企業において、面接という仕事は往々にして面接官の本業ではない。面接官は、大抵の場合他にもどっさりと仕事を抱えている。つまり、面接という場にやる気なく臨んでいる人も割といる。
・「弊社を希望された理由は?」とか。はっはっは。いや、別にその、真面目に考えてくれなくてもいいんです。最大の理由が「お金が要るから」あるいは「前の職場がヤだったから」であることは誰もが知っています。言ってみれば適切な建て前の作り方。
・往々にして、重要なのはアピールの内容ではなく、アピールの仕方。特に新卒の場合、面接官はそれ程アピールの内容自体には興味をもっていなかったりする。
・面接官が「求めている」ポイントは、実際の所あんまり多くない場合がままある。せいぜい二つか三つ。ただ、勘所は人によって違う。
・総合すると、運。これ。最強。
○自分でやっていて思った「面接のコツ(笑)」的なもの。
・はったりは割とすぐ分かる。が、無理がキツくない範囲での、いわば「適切な」はったりはむしろ評価を上げる。「ああ、この人はこちらが期待していることを読み取る能力があるんだな」「このくらいまでははったりをしても済むと思っているんだな(つまり、入社後その程度の仕事は振っても文句を言われんな)」と考えるからである。
・ここから考えると、「後からでも頑張れば何とか出来る」という辺りが適切なはったりのライン、かなあ。
・面接官の属性を読んで、ポイントがどこかを推測する。質問のテンプレートがあるか、ないか。やる気はあるかないか。テンション高いか低いか。若いかおっちゃんか。現場の人か、バックオフィスの人か。
・面接官のやる気を計る。やる気がない面接官に気合満々で話を聞かせようとしても往々にして空回りする。力加減重要。
・特に中途の場合、自信たっぷりな面接官には控えめに、自信なさげな面接官には自信たっぷりに接すると良いことが多い様な気がする。人材応募の人から自信たっぷりに「見える」という時点で、その面接官のスタンスはある程度推して知れる。自信なさげな面接官は多分あんまり慣れてない。割とはったりが通る。
・重要な質問をさり気なく聞きたがる人が多い様な気がする。ひと段落ついた後の「何気ない」質問に注意した方がいいと思う。
・一通り質問が終わった後の、「砕けた空気」での会話を最重視している人というのがいた。相手にどう合わせるか。タイミング重要。
・買い物で、二つの同じ程度の品物を選ぶ場面を想像してみるといい気がする。面接官は、往々にしてその程度の思考レベルに話を矮小化する。二つの違いはどこだろうか。あなたはどこで決めるだろうか。
○面接官をする時に私が気をつけていること、気をつけた方がいいと思っていること。
・面接を受ける人は、自分のことをいくら飾ってもいい。いくら飾っても、どうせ大した影響はない。でも、面接をする側が会社を飾るのはダメ。絶対。
・会社の悪いところは全部言う。私は基本的に脳みそお花畑、絶望的にポジティブかつ恐竜並みに鈍感な人間なので、悪いところに気付いていない部分もすげー多いと思う。でも無理してでも言う。会社に入ってから「話が違う」と感じるのは、本人だけでなくあらゆる人にとって不幸である。
・「何か質問あります?」という聞き方はあんまり良くない様な気がする。どうすれば相手がまだ思い当たっていない質問を引き出せるか。基本的には、相手の前の会社・あるいは他に受けている会社について色々聞いてみて、相手の組織評価能力を探ると同時に、「じゃあうちはどうなんかな」という方向に持っていくのが良い気がしている。
○俺みたいなヤツが面接官をしている会社の面接を受ける時、気をつけるべきこと。
・ごめんなさい、目が血走ってても見逃してやってください。別段仕事がキツい訳でもなんでもなく、久々にイメージファイトなんぞにはまって寝不足なだけなんです。
すいません今日は早めに寝ます。
2008年01月18日
「わっふるわっふる」をTumblrに応用すればいいんじゃね、とふと思った一月の夜。
思いつきをそのまんま書く。
もう一回Tumblr論を書きます
neodenjinさん経由で読んだよ。
途中の議論を全て遠いお空の彼方にすっ飛ばしているのでアレだが。
「リブログすることによってアクセスを横取りする形になる」という問題に関する限りは、思わせぶりなところで引用を止めるというテクニックによって凄い勢いで解決出来るんじゃないかと思ったり思わなかったりしたけれどもダメですか?
ほら、こんな感じで中途半端な引用をされると、ついつい元URLクリックしたくならないですか?なりませんかそうですかそうですね。今猛烈な勢いで反省してますのでちょっと待ってください。
でもアレじゃね。例えば画像のリブログに関して、上半分だけTumblr側に表示するとかそういうテクニックが開発されれば、元URLのアクセスに関してはうなぎのぼりになるんじゃね。例えばエr
(省略されました... 全てを読むには心の中でそっとわっふるわっふると呟いて下さい)
折角だから、この手法をわっふるメソッドと名づけよう。既出かどうかなんて知ったこっちゃありません。
もう一回Tumblr論を書きます
私が無断転載することで原作者がしょんぼりするのならできるだけ対応したいのです。現状がアクセスを掠め取っているのなら、それを改善したいのです。
neodenjinさん経由で読んだよ。
途中の議論を全て遠いお空の彼方にすっ飛ばしているのでアレだが。
「リブログすることによってアクセスを横取りする形になる」という問題に関する限りは、思わせぶりなところで引用を止めるというテクニックによって凄い勢いで解決出来るんじゃないかと思ったり思わなかったりしたけれどもダメですか?
「お前は俺の獲物メソッド」は、ライバルキャラを違和感なく主j不倒城:求:「お前を倒すのはこの俺だ!」とか敵味方の友情フラグ立てておいて、さくっと本当に殺っちゃう人
ほら、こんな感じで中途半端な引用をされると、ついつい元URLクリックしたくならないですか?なりませんかそうですかそうですね。今猛烈な勢いで反省してますのでちょっと待ってください。
でもアレじゃね。例えば画像のリブログに関して、上半分だけTumblr側に表示するとかそういうテクニックが開発されれば、元URLのアクセスに関してはうなぎのぼりになるんじゃね。例えばエr
(省略されました... 全てを読むには心の中でそっとわっふるわっふると呟いて下さい)
折角だから、この手法をわっふるメソッドと名づけよう。既出かどうかなんて知ったこっちゃありません。
2008年01月08日
言語という契約。
言語を共有するということ
面白い見方だなあ、と思った。思ったけれど、そういえば大学の頃はこういう理屈にばっかり触れていた様な気もする。単位をとったりとらなかったりしていた気もする。
生成文法とかについてはどうせ触れてくれている人がいるので、ちょっと粗っぽく書く。
言語というのは何かというと、契約である。というか、「たくさんの約束事の集合」である。
主語とか述語とか、助詞だ助動詞だSVCだ何だというものは、全て「こういう風に使いましょう」というルールの塊に過ぎない。同じく、あらゆる単語や熟語についても、「この言葉はこういう意味で使いますよ」という数限りないルールが存在する。
ことばを学ぶということは、ルールを学ぶことでもある。ことばを話すということは、ルールを確認し合うということでもある。
そしてこのルールは、生まれた経緯が多分に自然発生的なものであるが故に、結構変動が激しい。新しい言い回しが作られた時、言語というルールはちょっぴり揺れる。その揺れを複数の人が共通知識として認知した時、言語というルールはちょっぴり動く。だから日本語は変化する。
実は我々は、常に「定義を確認しあって」いるのである。
意識していようといまいと、我々は「日本語文法というルールを理解して、それに基づいてお話します」という契約を結び、それに従って生きている。
同じルールに従うものは、同じ土俵に立てる。例えば、野球というゲームが成立する為には、両方のチームが野球のルールに従う必要がある。片方のチームだけボクシングのルールに従っていた場合、そこに「野球」は成立しない。「双方が一つのルールに従って行動すること」が、あるゲームを成立させる為の最低条件となる。
コミュニケーションもこれと同じである。
この辺りは、商法だの刑法だの、HTMLやプログラム言語まで含めて全て同じだ。社会とは何かというと、一番基底になる部分に「言語」というルールをもった、複数のルール体系の集合である。常識とか、礼儀とか、作法とか、そういったものも一つのルール体系だ。同じルールに従う場所に、やり取りが生まれる。
なんかややこしい話になったな。
ちなみに、言語というルールを身につける過程、という話については、Mlas(エムラス)というのが面白い。日本女子大学の須賀教授が研究されていた、「言語を覚える人口知能」である。うちの奥様の話だと、今年退官されるらしい。
コンピューターで言語習得の仕組みを探る
ヴァーチャルインファント―言語獲得の謎を解く
あと、チョムスキーの「言語と認知」は一度読んでみるべきだとは思う。
そうじゃなくて、定義を一度も確認しあったことがないのに、
分かる、って、なんでそんなことができちゃうの?
どういう仕組みでそうなってるの?
なんで伝言ゲーム状態にならないの?
面白い見方だなあ、と思った。思ったけれど、そういえば大学の頃はこういう理屈にばっかり触れていた様な気もする。単位をとったりとらなかったりしていた気もする。
生成文法とかについてはどうせ触れてくれている人がいるので、ちょっと粗っぽく書く。
言語というのは何かというと、契約である。というか、「たくさんの約束事の集合」である。
主語とか述語とか、助詞だ助動詞だSVCだ何だというものは、全て「こういう風に使いましょう」というルールの塊に過ぎない。同じく、あらゆる単語や熟語についても、「この言葉はこういう意味で使いますよ」という数限りないルールが存在する。
ことばを学ぶということは、ルールを学ぶことでもある。ことばを話すということは、ルールを確認し合うということでもある。
そしてこのルールは、生まれた経緯が多分に自然発生的なものであるが故に、結構変動が激しい。新しい言い回しが作られた時、言語というルールはちょっぴり揺れる。その揺れを複数の人が共通知識として認知した時、言語というルールはちょっぴり動く。だから日本語は変化する。
実は我々は、常に「定義を確認しあって」いるのである。
意識していようといまいと、我々は「日本語文法というルールを理解して、それに基づいてお話します」という契約を結び、それに従って生きている。
同じルールに従うものは、同じ土俵に立てる。例えば、野球というゲームが成立する為には、両方のチームが野球のルールに従う必要がある。片方のチームだけボクシングのルールに従っていた場合、そこに「野球」は成立しない。「双方が一つのルールに従って行動すること」が、あるゲームを成立させる為の最低条件となる。
コミュニケーションもこれと同じである。
この辺りは、商法だの刑法だの、HTMLやプログラム言語まで含めて全て同じだ。社会とは何かというと、一番基底になる部分に「言語」というルールをもった、複数のルール体系の集合である。常識とか、礼儀とか、作法とか、そういったものも一つのルール体系だ。同じルールに従う場所に、やり取りが生まれる。
なんかややこしい話になったな。
ちなみに、言語というルールを身につける過程、という話については、Mlas(エムラス)というのが面白い。日本女子大学の須賀教授が研究されていた、「言語を覚える人口知能」である。うちの奥様の話だと、今年退官されるらしい。
コンピューターで言語習得の仕組みを探る
ヴァーチャルインファント―言語獲得の謎を解く
あと、チョムスキーの「言語と認知」は一度読んでみるべきだとは思う。
2008年01月03日
センター試験対策にまつわる軽いTIPS。
そういえばセンター試験の季節かぁ。何もかも皆懐かしい。
自分で受けた時のことよりも、どちらかというと家庭教師で色々と教えていた頃のことを思い出した。折角なので思い出したことをちらっと書いてみる。
センター試験に限らず、選択問題がメインになる試験を勉強する際には、ちょっとしたコツ、というか辿るべきプロセスがある。どこの予備校でも言ってたりするのか知らんが。
「正解の選択肢はどうでもいいから、間違いの選択肢をきちんとチェックしましょう」というプロセスである。勿論、自分がその問題を解けたかどうか、というのはあまり関係がない。
1.何故「正解の選択肢が合っているのか」を確認する。
2.何故「他の選択肢が間違っているのか」を確認する、あるいは考える。
3.出題者は、「どこで間違って欲しいと思って」その選択肢を用意したのか、を推測する。
言うまでもなく、重要なのは3番だ。
経験則ではあるのだが、特に国語や英語などの読解問題において、「間違わせ方のバリエーション」というものは意外な程少ない。出題者も人間だから、問題に関して無限のアイディアを持っている訳ではないというのも勿論なのだが。それ以上に、正解の選択肢に関して工夫を凝らす余り、間違いの選択肢については通りいっぺんのパターンしか用意していない、という状況が結構多いんじゃないかと私は思う。
「間違わせ方」という一点に絞ってみると、出題者の意図は割と簡単に読めるのだ。正解の選択肢からは「何が正解か」という情報しか得られないが、間違いの選択肢からはその問題の出題意図が読み取れる、という言い方をしてもいい。
予備校や家庭教師のバイトをしてみると、1番までしかやっていない人が割と多かった。というか、すげー多かった。上記の様なお話と同じく、「ある文章を読んだ時、自分ならどういう問題を作るか」という視点で読んでみても色々と参考になるので、余裕がある受験生の人はやってみるといいんではあるまいか。まあ、この時期にそこまでやってる余裕があるのかどうか知らないが。
取り敢えず、受験生の皆さまは体を壊さない程度に頑張ってくだせえ。
2007年12月18日
「かっこいい悪役」クラスの作り方
はい、今日もコーディングの時間です。一人前のストーリーエンジニアを目指して皆さん頑張りましょう。
まず、おさらいします。昨日は「悪役」クラスの宣言と、属性・メソッドの勉強をしましたね。
名前、性別、容姿、強さ、読者からの評価といった、「登場人物」クラスが有している基本的な属性に加えて、所属組織、捨て台詞の定型、勝った時のカタルシスといった追加属性、及び「主人公との戦闘」「主人公の成長」といったメソッドの実装まで勉強しました。
今日は、昨日作った「悪役」クラスを継承して、「かっこいい悪役」クラスを作ってみましょう。
ストーリーを盛り上げる為に悪役・敵役は必要不可欠ですが、それだけだとお話は深まりません。ストーリーを深める為には、悪役にも魅力が必要なのです。強くてかっこいい悪役が読者に感情移入され、時には「○○を殺さないで」などというはた迷惑なお便りが届くくらいになってこそ、そのストーリーは輝くのです。
宣言部分はこんな感じです。悪役クラスを継承することで、悪役クラスで実装したメソッド・属性はそのまま使えます。
public class かっこいい悪役 extends 悪役{ }
記法がJavaくさい?HAHAHA、何を言ってるんですか。講師はJavaなんて一行も書けませんよ。
悪役クラスで既に実装したメソッドでも、かっこいい悪役クラスで新たに書き直せば、悪役クラスで生成した人物とはまた違った効果を発揮させることが出来ます。
例えば、同じ「主人公との対決」メソッドでも、通常の悪役インスタンスの場合一瞬で「戦闘後」メソッドがコールされてしまうところ、かっこいい悪役インスタンスから呼ばれた場合は「ライバル認定」だとか「水入り」といった様々なメソッドに派生させることが出来ます。これを多態性(ポリモーフィズム)といいます(多分)
取り敢えず、かっこいい悪役クラスに新たに実装するべきメソッドを考えてみましょう。
かっこいい悪役の肝は、大きく分けて二つあります。「突き抜け」と「ギャップ」です。
「突き抜け」とは、その名の通り「貫徹していることによる魅力」。悪役には悪役なりの論理や美学が備わっている訳ですが、それが通常の悪役に比して遥かに強調されている、あるいは首尾一貫していることによるかっこよさです。ひたすら強くて揺れないゾーマ様型の悪役もそうですが、パトレイバーの内海課長の様な、ある種の狂気をもった悪役も「突き抜けた」悪役と言えるでしょう。
一方、ギャップというのは「普段との落差」による魅力。ただひたすら強いことで「結果としてかっこよくなっている」悪役もいますが、「普段は純粋な悪役なのだが、たまに意外な描写がある」ことによって、悪役の魅力は増します。
ギャップには色々な種類があります。普段苦みばしった悪役キャラがたまにいいことやアホなことをする、実は甘いもの好きだったりする、といった要素もギャップの内ですし、「もっと強い敵が出てきて共闘」などといったよくあるパターンも「普段とのギャップ」に含まれます。悪役に意外な過去があった、意外な背景があったというのもギャップの中に含まれるでしょう。
以前紹介した「お前は俺の獲物メソッド」などは、ロジックを殆どいじらなくても悪役クラスに実装出来る、優秀なギャップ実現メソッドといえます。
「お前は俺の獲物メソッド」の中身を書いてみましょう。
public void お前は俺の獲物() throws Exception{
if(状況.主人公の危機){
super.突然の登場();
状況.援軍();
存在感++;
悪役としての動機--;
作中の立場--;
}
}
いい感じですね。見て分かる通り、使うごとに存在感は上がっていきますが、作中の立場と悪役としての動機が薄くなっていくので注意してください。ここでは表記していませんが、「共通の敵」メソッドをコールしてもいいかも知れません。Exception投げてるのにtry catch書いてないのは、多分そういう仕様です。
あと、重要なのがやられ際の所作です。退場する際に毅然としていることで読者に強い印象を残す、「死に際の見せ場」というのも悪役の重要な機能です。忘れずに実装しておきましょう。
ということで今回の講義はここまでです。サンプルコードは以下の通りです(getter,setterはスペースの関係上省略してあります)。今回書けなかった各メソッドの実装はまた次回の講義で行いますので、皆さん予習しておいてください。
public class かっこいい悪役 extends 悪役{
private String 美学;
private String 戦う目的;
private int 存在感;
private int 悪役としての動機;
private int 作中の立場;
private int 頭の切れ味;
private String 名台詞;
public void お前は俺の獲物() throws Exception{
}
public void 劇場版ジャイアン() throws Exception{
}
public void 悪役の過去() throws Exception{
}
public void 力こそ全て() throws Exception{
}
public enemy 共通の敵出現() throws Exception{
}
public void 一時的な共闘() throws Exception{
}
public void 死に際の見せ場() throws Exception{
}
}
まず、おさらいします。昨日は「悪役」クラスの宣言と、属性・メソッドの勉強をしましたね。
名前、性別、容姿、強さ、読者からの評価といった、「登場人物」クラスが有している基本的な属性に加えて、所属組織、捨て台詞の定型、勝った時のカタルシスといった追加属性、及び「主人公との戦闘」「主人公の成長」といったメソッドの実装まで勉強しました。
今日は、昨日作った「悪役」クラスを継承して、「かっこいい悪役」クラスを作ってみましょう。
ストーリーを盛り上げる為に悪役・敵役は必要不可欠ですが、それだけだとお話は深まりません。ストーリーを深める為には、悪役にも魅力が必要なのです。強くてかっこいい悪役が読者に感情移入され、時には「○○を殺さないで」などというはた迷惑なお便りが届くくらいになってこそ、そのストーリーは輝くのです。
宣言部分はこんな感じです。悪役クラスを継承することで、悪役クラスで実装したメソッド・属性はそのまま使えます。
public class かっこいい悪役 extends 悪役{ }
記法がJavaくさい?HAHAHA、何を言ってるんですか。講師はJavaなんて一行も書けませんよ。
悪役クラスで既に実装したメソッドでも、かっこいい悪役クラスで新たに書き直せば、悪役クラスで生成した人物とはまた違った効果を発揮させることが出来ます。
例えば、同じ「主人公との対決」メソッドでも、通常の悪役インスタンスの場合一瞬で「戦闘後」メソッドがコールされてしまうところ、かっこいい悪役インスタンスから呼ばれた場合は「ライバル認定」だとか「水入り」といった様々なメソッドに派生させることが出来ます。これを多態性(ポリモーフィズム)といいます(多分)
取り敢えず、かっこいい悪役クラスに新たに実装するべきメソッドを考えてみましょう。
かっこいい悪役の肝は、大きく分けて二つあります。「突き抜け」と「ギャップ」です。
「突き抜け」とは、その名の通り「貫徹していることによる魅力」。悪役には悪役なりの論理や美学が備わっている訳ですが、それが通常の悪役に比して遥かに強調されている、あるいは首尾一貫していることによるかっこよさです。ひたすら強くて揺れないゾーマ様型の悪役もそうですが、パトレイバーの内海課長の様な、ある種の狂気をもった悪役も「突き抜けた」悪役と言えるでしょう。
一方、ギャップというのは「普段との落差」による魅力。ただひたすら強いことで「結果としてかっこよくなっている」悪役もいますが、「普段は純粋な悪役なのだが、たまに意外な描写がある」ことによって、悪役の魅力は増します。
ギャップには色々な種類があります。普段苦みばしった悪役キャラがたまにいいことやアホなことをする、実は甘いもの好きだったりする、といった要素もギャップの内ですし、「もっと強い敵が出てきて共闘」などといったよくあるパターンも「普段とのギャップ」に含まれます。悪役に意外な過去があった、意外な背景があったというのもギャップの中に含まれるでしょう。
以前紹介した「お前は俺の獲物メソッド」などは、ロジックを殆どいじらなくても悪役クラスに実装出来る、優秀なギャップ実現メソッドといえます。
「お前は俺の獲物メソッド」の中身を書いてみましょう。
public void お前は俺の獲物() throws Exception{
if(状況.主人公の危機){
super.突然の登場();
状況.援軍();
存在感++;
悪役としての動機--;
作中の立場--;
}
}
いい感じですね。見て分かる通り、使うごとに存在感は上がっていきますが、作中の立場と悪役としての動機が薄くなっていくので注意してください。ここでは表記していませんが、「共通の敵」メソッドをコールしてもいいかも知れません。Exception投げてるのにtry catch書いてないのは、多分そういう仕様です。
あと、重要なのがやられ際の所作です。退場する際に毅然としていることで読者に強い印象を残す、「死に際の見せ場」というのも悪役の重要な機能です。忘れずに実装しておきましょう。
ということで今回の講義はここまでです。サンプルコードは以下の通りです(getter,setterはスペースの関係上省略してあります)。今回書けなかった各メソッドの実装はまた次回の講義で行いますので、皆さん予習しておいてください。
public class かっこいい悪役 extends 悪役{
private String 美学;
private String 戦う目的;
private int 存在感;
private int 悪役としての動機;
private int 作中の立場;
private int 頭の切れ味;
private String 名台詞;
public void お前は俺の獲物() throws Exception{
}
public void 劇場版ジャイアン() throws Exception{
}
public void 悪役の過去() throws Exception{
}
public void 力こそ全て() throws Exception{
}
public enemy 共通の敵出現() throws Exception{
}
public void 一時的な共闘() throws Exception{
}
public void 死に際の見せ場() throws Exception{
}
}
2007年12月11日
「やりたいこと」が沸いてこない人もいる。
ニコ動で人気が出れば仕事で評価されなくてもいい
ちょっと思うところがあったのでメモ。
大きな企業に入って働いてー、出世してー、という「いわゆる成功のビジョン」が色んなところでぶっ壊されてきたなあ、と。自分がやりたいことをしよう、と言われ続けてきたなあ、と。
「働いて出世するのが良い人生とは限らない」というのは実にその通りだ。自分がやりたいことをやれ、というのも全くその通りなんだが、実際の所、やりたいことが特にない人というのも、どうやら世の中には割といる。
そういう人の為には、「やりたいこと」を無理やり考えさせるよりは、「いわゆる成功のビジョン」というのを一応提示してあげた方がずっといい。「いわゆる幸せのビジョン」というものを見せてあげた方がずっといい。目標があるかないかでは楽しさが違う、という意味では本人の為でもあるが、むしろ本人よりも周囲の人々の為に。
「取り敢えず目指すもの」があり、その為にパワーを使ってくれた方が、周りに迷惑をかけないで済む。冒頭リンクの様な満たされない社会欲に悩まされることもないし、時には周囲にその成果をフィードバックしてくれたりもする。周囲の為なのだ。
そこんとこを誤魔化して、「本人の本当の幸せの為に」という口当たりのいいお題目の元、無理やり「やりたいこと」をひねり出させようとしたって、そりゃ上手くいかないだろう。やりたいことっていうのは、デフォルトで誰にでもあるものじゃないんだから。沸いて来るときは勝手に沸いて来る、そうでない時はいくら掘っても出てこない、そんなものなんだから。
いわゆる付の「成功のビジョン」というものが社会の共通認識として存在すれば、それはある種の受け皿として働く。別にそれが人生の唯一解だなどと主張する必要はない、ただ「そこにある」だけでいいのだ。「デフォルト値としての目標」が存在すればいい、ということだけ。
「好きなこと」「やりたいこと」というものは、多分温泉に似ている。どこを掘っても吹き上がってくる人もいれば、掘っても掘っても出てこない人もいる。デフォルトで「やりたいこと」を常備している人には、その辺が理解しにくいんじゃないかと思うことがある。
多分、私も、気付かなかったのだ。
子供に何を伝えようか、気が早い話だが、ちょっと迷う。彼は「沸いてくる」人だろうか。それとも、幾つか分かりやすい例を示してあげた方がいいのだろうか。少なくとも、「沸いてくる」ところに変な蓋を被せてしまう様な、そんなことだけはしたくない。
息子を顔の前にもってきて、お前は将来何がしたいんだろうなー、と話しかけてみた。しかめっつらをして、「んまーー」と言った。
目下彼は母乳が飲みたいらしい。
ちょっと思うところがあったのでメモ。
バリバリ働いて出世するのが良い人生とは限らないというゆとり的な風潮も手伝ってか、特に仕事で評価されることも求めない。そういえばそうだったなー、と思った。色んなところでずっと語られてきたことだと思うんだけど、すとんと腑に落ちた。
大きな企業に入って働いてー、出世してー、という「いわゆる成功のビジョン」が色んなところでぶっ壊されてきたなあ、と。自分がやりたいことをしよう、と言われ続けてきたなあ、と。
「働いて出世するのが良い人生とは限らない」というのは実にその通りだ。自分がやりたいことをやれ、というのも全くその通りなんだが、実際の所、やりたいことが特にない人というのも、どうやら世の中には割といる。
そういう人の為には、「やりたいこと」を無理やり考えさせるよりは、「いわゆる成功のビジョン」というのを一応提示してあげた方がずっといい。「いわゆる幸せのビジョン」というものを見せてあげた方がずっといい。目標があるかないかでは楽しさが違う、という意味では本人の為でもあるが、むしろ本人よりも周囲の人々の為に。
「取り敢えず目指すもの」があり、その為にパワーを使ってくれた方が、周りに迷惑をかけないで済む。冒頭リンクの様な満たされない社会欲に悩まされることもないし、時には周囲にその成果をフィードバックしてくれたりもする。周囲の為なのだ。
そこんとこを誤魔化して、「本人の本当の幸せの為に」という口当たりのいいお題目の元、無理やり「やりたいこと」をひねり出させようとしたって、そりゃ上手くいかないだろう。やりたいことっていうのは、デフォルトで誰にでもあるものじゃないんだから。沸いて来るときは勝手に沸いて来る、そうでない時はいくら掘っても出てこない、そんなものなんだから。
いわゆる付の「成功のビジョン」というものが社会の共通認識として存在すれば、それはある種の受け皿として働く。別にそれが人生の唯一解だなどと主張する必要はない、ただ「そこにある」だけでいいのだ。「デフォルト値としての目標」が存在すればいい、ということだけ。
「好きなこと」「やりたいこと」というものは、多分温泉に似ている。どこを掘っても吹き上がってくる人もいれば、掘っても掘っても出てこない人もいる。デフォルトで「やりたいこと」を常備している人には、その辺が理解しにくいんじゃないかと思うことがある。
多分、私も、気付かなかったのだ。
子供に何を伝えようか、気が早い話だが、ちょっと迷う。彼は「沸いてくる」人だろうか。それとも、幾つか分かりやすい例を示してあげた方がいいのだろうか。少なくとも、「沸いてくる」ところに変な蓋を被せてしまう様な、そんなことだけはしたくない。
息子を顔の前にもってきて、お前は将来何がしたいんだろうなー、と話しかけてみた。しかめっつらをして、「んまーー」と言った。
目下彼は母乳が飲みたいらしい。
2007年11月19日
求:「お前を倒すのはこの俺だ!」とか敵味方の友情フラグ立てておいて、さくっと本当に殺っちゃう人
戦士の魂がさっぱり分からない。
そもそも世の中には、「貴様を倒すのはこの俺だ!」が大氾濫している。し過ぎている。その氾濫っぷりは、7月中旬のナイル川と比較して遜色ない。
その辺の少年漫画やゲームを紐解いてみるといい。特に戦闘格闘ものには、一家に一人は以下の様なルートを辿るライバルキャラがいる。大体いる。
1.「お前は殺す!」→2.「お前を殺すのはこの俺だ!」→3.「俺以外のヤツがお前を殺すのは許さん!」
この遷移を、仮に「お前は俺の獲物メソッド」と呼称してみよう。既にもっといい名前がついてたらすいません。
このメソッドを検証した際、私は改めて思うのだ。「分からん」と。
1番はまあ分かる。任務なんだか個人的恨みなんだか定かではないが、ライバルキャラも人の子だ。死んでもらいます、な気分になる時だってまああるだろう。執念深く主人公を付け狙うのも別に悪いことではない。
2番から既に私にとっては怪しい。死んでもらいます、な訳である。死んでもらいたい訳である。いいじゃん、別に自分で手ぇ下さなくたって。俺がライバルキャラだったら、主人公が他人の手にかかっちゃうの全然ウェルカム。すげえノープロブレム。超歓迎しちゃう訳だが。この辺なのか、戦士の美学って。難しいヤツらだな。
3番なんか、もう完全に私の理解の埒外である。ここに至ると、苦戦してる主人公をライバルキャラが助けちゃったりするのだ。「お前を倒すのは俺だと言っただろう!」ってヤツだ。いいのかよお前。執念はどうした。死んでもらいます、は一体どこのお空の彼方に飛んでいった。お前、実は「お前は俺の獲物」って言いたかっただけちゃうんかと。
およそ、3番まで遷移した上で、「じゃ、そういうことで」とか言いながら主人公にとどめをさすライバルキャラを、私は見たことがない。いや、私の見識が狭いだけで、実はごろごろいるのかも知れませんが。
「お前は俺の獲物メソッド」は、ライバルキャラを違和感なく主人公側に引き込む為の、作者の罠である。世のライバルキャラよ、思いとどまれ。「お前を殺すのはこの俺だ!」と言ってはいけない。言ってしまったが最後、「ノリで助けてしまったらなんかとどめさしにくい空気になっちゃったよ、あれー?」という渡辺さん状態になってしまうこと請け合いである。
そこで話はタイトルに戻るわけである。どっかにいませんか、そういう友情フラグクラッシャー。
つくづく戦士の美学とか戦士のプライド、戦士の魂というものはよく分からない。
ただまあ、私がこの「戦士の魂」を理解できない理由というのは、自己分析を進める内に段々わかってきた。
前々からうすうす思っていたが、実は私の職業は忍者ではないかと思うのだ。
「何をうすらとんちきなことを言っておるのだ」と思った人、気持ちは分かるが、ブラウザを閉じるのはちょっと待って欲しい。私が、自分のことを忍者であると思うにいたった理由は幾つもある。
・冬でも割と薄着。が、寒さに対する防御力は極端に高い。(アーマークラス的な条件)
・罠の解除とか苦手。超外し損なう。女性との会話で踏んじゃいけない地雷とか、解除出来た試しがない。(盗賊と忍者の間の越えられない壁的な条件)
・重たいものを装備出来ない。具体的には、ケーナやマウスより重くなると圏外。(戦士と忍者の間の越えられない壁的な条件)
・横断歩道をおばあちゃんが渡ろうとしていても、比較的手をとって助けたりしない。(GoodとEvilの壁的な条件)
これだけ忍者的条件が揃っているのだ、流石にこれは忍者だろう。かなりの忍者だ。不遜な言い方になってしまうが、世間一般の忍者の方、クリティカルヒットの練習ばかりしていないで私を見習って欲しいくらい忍者である。自分ではSE兼ケーナ吹きと自覚していたのだが、まあ最近は農家も多くが兼業だ。兼業忍者というのも別段珍しくはあるまい。
ということで、私が「戦士の美学」というものを理解出来ない理由は、背後からのクリティカルヒット上等な忍者だからなのではないか、という物凄くどうでもいい結論が導き出せた訳である。よかったですね。>私
後半部分はどうでもいいとして、一応まとめておく。
・「お前を殺すのは俺だ!」というルートを経た上で、きちんと初志貫徹するライバルキャラは凄く少なそうな気がする。
・戦士の美学よくわかんない。
・「お前は俺の獲物メソッド」は作者の罠。
あ、標題の友情フラグクラッシャーについては、引き続き情報募集してますので誰か教えてください。友情フラグをたてた上でさくっと主人公を殺っちゃうライバルキャラ、どっかにいませんか?
そもそも世の中には、「貴様を倒すのはこの俺だ!」が大氾濫している。し過ぎている。その氾濫っぷりは、7月中旬のナイル川と比較して遜色ない。
その辺の少年漫画やゲームを紐解いてみるといい。特に戦闘格闘ものには、一家に一人は以下の様なルートを辿るライバルキャラがいる。大体いる。
1.「お前は殺す!」→2.「お前を殺すのはこの俺だ!」→3.「俺以外のヤツがお前を殺すのは許さん!」
この遷移を、仮に「お前は俺の獲物メソッド」と呼称してみよう。既にもっといい名前がついてたらすいません。
このメソッドを検証した際、私は改めて思うのだ。「分からん」と。
1番はまあ分かる。任務なんだか個人的恨みなんだか定かではないが、ライバルキャラも人の子だ。死んでもらいます、な気分になる時だってまああるだろう。執念深く主人公を付け狙うのも別に悪いことではない。
2番から既に私にとっては怪しい。死んでもらいます、な訳である。死んでもらいたい訳である。いいじゃん、別に自分で手ぇ下さなくたって。俺がライバルキャラだったら、主人公が他人の手にかかっちゃうの全然ウェルカム。すげえノープロブレム。超歓迎しちゃう訳だが。この辺なのか、戦士の美学って。難しいヤツらだな。
3番なんか、もう完全に私の理解の埒外である。ここに至ると、苦戦してる主人公をライバルキャラが助けちゃったりするのだ。「お前を倒すのは俺だと言っただろう!」ってヤツだ。いいのかよお前。執念はどうした。死んでもらいます、は一体どこのお空の彼方に飛んでいった。お前、実は「お前は俺の獲物」って言いたかっただけちゃうんかと。
およそ、3番まで遷移した上で、「じゃ、そういうことで」とか言いながら主人公にとどめをさすライバルキャラを、私は見たことがない。いや、私の見識が狭いだけで、実はごろごろいるのかも知れませんが。
「お前は俺の獲物メソッド」は、ライバルキャラを違和感なく主人公側に引き込む為の、作者の罠である。世のライバルキャラよ、思いとどまれ。「お前を殺すのはこの俺だ!」と言ってはいけない。言ってしまったが最後、「ノリで助けてしまったらなんかとどめさしにくい空気になっちゃったよ、あれー?」という渡辺さん状態になってしまうこと請け合いである。
そこで話はタイトルに戻るわけである。どっかにいませんか、そういう友情フラグクラッシャー。
つくづく戦士の美学とか戦士のプライド、戦士の魂というものはよく分からない。
ただまあ、私がこの「戦士の魂」を理解できない理由というのは、自己分析を進める内に段々わかってきた。
前々からうすうす思っていたが、実は私の職業は忍者ではないかと思うのだ。
「何をうすらとんちきなことを言っておるのだ」と思った人、気持ちは分かるが、ブラウザを閉じるのはちょっと待って欲しい。私が、自分のことを忍者であると思うにいたった理由は幾つもある。
・冬でも割と薄着。が、寒さに対する防御力は極端に高い。(アーマークラス的な条件)
・罠の解除とか苦手。超外し損なう。女性との会話で踏んじゃいけない地雷とか、解除出来た試しがない。(盗賊と忍者の間の越えられない壁的な条件)
・重たいものを装備出来ない。具体的には、ケーナやマウスより重くなると圏外。(戦士と忍者の間の越えられない壁的な条件)
・横断歩道をおばあちゃんが渡ろうとしていても、比較的手をとって助けたりしない。(GoodとEvilの壁的な条件)
これだけ忍者的条件が揃っているのだ、流石にこれは忍者だろう。かなりの忍者だ。不遜な言い方になってしまうが、世間一般の忍者の方、クリティカルヒットの練習ばかりしていないで私を見習って欲しいくらい忍者である。自分ではSE兼ケーナ吹きと自覚していたのだが、まあ最近は農家も多くが兼業だ。兼業忍者というのも別段珍しくはあるまい。
ということで、私が「戦士の美学」というものを理解出来ない理由は、背後からのクリティカルヒット上等な忍者だからなのではないか、という物凄くどうでもいい結論が導き出せた訳である。よかったですね。>私
後半部分はどうでもいいとして、一応まとめておく。
・「お前を殺すのは俺だ!」というルートを経た上で、きちんと初志貫徹するライバルキャラは凄く少なそうな気がする。
・戦士の美学よくわかんない。
・「お前は俺の獲物メソッド」は作者の罠。
あ、標題の友情フラグクラッシャーについては、引き続き情報募集してますので誰か教えてください。友情フラグをたてた上でさくっと主人公を殺っちゃうライバルキャラ、どっかにいませんか?



