2017年08月16日

VALUであったインサイダーもどきが株式市場ではアウト中のアウトなので、何故アウトなのかをなるべく簡単に説明する


どうもしんざきです。株の知識は松本亨の株式必勝学で身につけました。

当エントリは、どうもVALUに参加している人の中には結構多そうな「株式というものにあまり知識がない人」向けに書かれております。内部者取引とか、株式市場の透明性、公正性といった言葉に知識がある人にとっては、読むだけ時間の無駄だと思うのでご承知おきください。


VALUというサービスがあります。ユーザーが、自分自身を株式のように上場して取引の対象に出来るサービスです。要は、「自分を対象として疑似株式を発行するよー!人気が出ると値段が上がるよー!人気が落ちると値段が下がるよー!」という仕組みですね。取引自体はBit-coinを媒介としているようです。

値段の上がり下がりがあるので、当然安い時に買って、高い時に売ったら儲かります。これを利用して一儲けを企む人も割といるようです。

VALU自身は「これは株式・有価証券ではない」(なので株式や有価証券に対する規制や法律は適用されない)という立場を取っているらしいですが、トップページを見てみると「だれでも、株式会社のように、自分の価値をトレード」とか、思いっきり株式市場を想起させるワードが書いてあります。いきなり最初の段階で不安を覚えますが、大丈夫なんでしょうか。


で、今回、VALUで下記のような問題が発生したらしいです。


思いっきり要約すると、

・ユーチューバーの人が、「俺のVALU買ったらいいこと(優待)があるよー!」と宣伝
・それを見たファンの人たちが買う
・VALUの値段が上がる
・値段が上がったところで、そのユーチューバーの人の身内の人たちが全力でVALU売り
・ユーチューバー本人も全力でVALU売り
・元の「いいことがあるよ」発言はいつの間にか削除

という流れのようですね。

パッと見た感じ、「「いいこと(優待)があるよ」と宣言しておいて値段が上がったところを売りまくる」というのはアリなの?と誰でも気にされるところではないかと思うのですが、これが仮に株式市場であれば思いっきりアウトです。もう超アウト。そのアウトだけでペナントレース全試合が自動的に終わっちゃうくらいの勢いでオーバーキルです。

今回の件と同じようなことが仮に株式市場で行われた場合、少なくとも「風説の流布」と「インサイダー取引」の二つの禁止行為にはほぼ確実に引っかかります。


「風説の流布」とは、「有価証券の価格を変動させる目的で、虚偽の情報を流すこと」です。今回の場合だと、「優待があるよー!」と匂わせて株の価格を引き上げようとしたこと、がそれに該当しますね。

「インサイダー取引」とは、「株価の変動が発生し得る情報(重要事実と言います)を事前に知っていた関係者、及びその関係者から情報を聞いたものが、事実が公表される前に取引を行うこと」。内部者取引とも言います。

今回の場合ですと、「優待の話をなかったことにしてVALUの本人が自分のVALUを売りまくった」ということ自体インサイダー取引に当たりますし、その関係者が同じタイミングで売りまくったことも真っ黒、という話ですね。百回やったら百回アウトだと思います。


株式市場には、透明性と公平性についての原則があります。株式市場に参加する人たちは全て公平でなくてはいけないし、情報は透明でなくてはいけない、つまり「誰かにしか手に入らない情報に基づいて、一部の者だけが利益を得るようなことがあってはならない」ということです。

勿論、例えば世界の様々な動きを推理して、次はここが上がる!下がる!といった読みをすることはままあるのですが、それは飽くまで「手に入れようと思えば誰にでも手に入る情報」を元にした勝負です。

情報を持ってる内部者だけが儲かる仕組みだったら、誰も市場に参加しませんよね?勝つ人が決まっている勝負に、敗者として参加するくらいバカらしいことはありません。

で、今回のような件が株式市場で起こった場合、売りまくった人たちは「利害関係者」であって、インサイダー取引があったことが強く強く疑われる、という話です。

市場にみんなが安心して参加できる、というのは、株式市場にとって、ひいてはその国の経済にとって絶対必須の条件なので、インサイダー取引というものは極めて厳しく取り締まられています。証券取引等監視委員会がすげー綿密に監視してますし、仮にその監視に引っかかったら儲けは全部没収されて、追徴金も課されます。

こういう仕組みがあるから、株式市場というものはある程度安心して参加できる市場になっているわけです。


一方、VALUは現在、「これは株式ではない」と自ら主張しているので、こういう仕組みの枠組みには入っていない。

注意事項を一通り読んでみましたが、「マジか」と思わずつぶやいてしまうくらい簡素な内容です。まあ、この辺は既に色んな人が検証していることだと思うので繰り返しませんが、


 VALUは、利益を出す投資を目的としたサービスではありません。投資目的のご利用はお控えください。

 VALUの仕組みは少し株式に似ているところもありますが、実際の株式ではありませんので、VALUを購入しても、発行者に対する経営権や支配権などを獲得するものではありません。

辺りはエクスキューズとしてもなかなか味わい深い表現ですね。あんたトップページで思いっきり「株式会社のように」って言うてるやん。。。


今回の件がどういう結末を迎えるのかはまだ分かりません(株式のルールでなくても、単純に詐欺行為に当たるような気もします)が、現時点では上記の規約しかなく、正直無法状態に近い状況だと見受けられます。だからこそ冒頭のような話も発生したわけですが、こんな中でもVALUに突っ込むというのは、なかなかチャレンジャブルな行為だなーと個人的には考えざるを得ません。

VALUに参加される皆さまには、上記のような事情はご認識の上で取引のご決断をされることを、強く推奨して止みません。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 09:52 | Comment(21) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

時をかける少女がSFだったことを、皆は覚えているのだろうか。


こんな話を読みました。





これ、ガルパンがSFかどうかということ自体は定義論になっちゃうと思うんでここでは触れないんですが、納得感がある部分はありまして。

つまり、

「かつてはガチガチのSFだったものが、他のジャンルに取り込まれ過ぎてSFとして認識されなくなってしまった現象」

というものは確かに、かなり広範にみられるんじゃねえかと思ったんです。

例えば、時をかける少女、ありますよね。2006年にリメイク版がアニメ化されたヤツ。

あれ、元をたどれば原作筒井康隆先生ですし、正真正銘のSF小説に分類されると思うんですが、2007年にロングラン興行になった時、アレを「SFの復権」って受け取った人、いたかな?って話なんです。

少なくとも私の認識では、アレ全く「SF映画」としては扱われてなかったですよね。もう完全に、ジュヴナイル、青春映画、恋愛映画としてのカテゴライズだった。宣伝にも批評にも、SFのエの字もなかった。原作そのまんまの映画化ではないとはいえ、タイムリープっていうテーマは作品の主軸になってるのにですよ?

勿論、元々「製作者がSFとして見せようとしてない」ということではあると思うんです。ただ、それってつまり「タイムリープ」というネタ自体が、特に「SF」というカテゴリーの元でなくても見せられるくらい「身近」なネタになった、ということですよね。


「SFというカテゴリーでなきゃ使えないネタ」「そのネタをメインテーマにした時点で、勝手にSFになってしまうネタ」というものがある、ないしあった、と思います。

けれどそれが、

A.頻繁に使われることで、ネタとして身近になり過ぎてしまった
B.現実世界でも実現された、ないし実現され得る状況になってしまった

といった事情で、必ずしもSFと不可分でなくなってしまった。

だから、「これよく考えるとSFだよな」という作品でも、SFとして認識されない。


多分、こういうことって結構色んなネタで発生してると思うんです。


例えば、かつて「超能力」「サイキック」というものは、SF小説の代表的な題材の一つでした。超能力というもの自体が、理屈づけはされているものの奇想天外なものであって、物語の題材として「超能力」という言葉をつかうとすれば、それはもうSFでやるしかなかったんです。例えば「虎よ、虎よ!」とか、スランとか、スキャナーズとか、SFの古典には超能力が前面に出てくる作品多いですよね。

けど今、テレパスやサイコキネシスなんてお手軽過ぎてその辺のコンビニでも買えちゃいそうなくらい身近な題材ですし、ごく普通の青春小説やらコメディやら、なんならファンタジ−でも普通に出てきます。

多分、「ミュータント」とか「動物の知性化」とか「並行宇宙」「ナノテクノロジー」といった言葉についても、今では「SFと不可分」ではぜーーんぜんなくなってると思います。それを出せばまあSFだよね、というテーマではなくなってしまった。「人格の置換」なんかもかつてはSFの題材だったと思うんですが、「君の名は。」なんて誰もSFとして考えてないですよね。

これが、「A.頻繁に使われることで、ネタとして身近になり過ぎてしまった」の例の一つだと思います。



例えば、かつて「海底二万哩」は正真正銘のヴェルヌのSF小説でした。それは何故かというと、「潜水艦」とか「海底の旅」といったものが別世界、異次元の話であって、「海底の旅」というテーマ自体SFというカテゴリーでないと扱えなかったからです。

けれど今、例えば「沈黙の艦隊」をSF漫画として認識する人は多くない、というか殆どいないでしょう。潜水艦というものは、実際に実現されて、しかもそれなりに身近なものになってしまった。SFではない、現実世界のリアルな物語として受け入れられるテーマになってしまった。ロボットとか、アンドロイドとか、サイボーグといったテーマもこれに準ずるのではないかと。

これは、「B.現実世界でも実現された、ないし実現され得る状況になってしまった」の代表的な例の一つだと思います。


これって多分、「SFでないと出来ないテーマ」というのは日々縮小され続けている、ということを意味してはいますよね。勿論SFで書いてもいいんだけど、別にSFでなくても出来るよな、という。

今「これをやったらほぼSFになるテーマ」ってどんなのがあるでしょう?星間宇宙旅行?サイバーパンク?ディストピアや、コンピューターの反乱は流石にまだSFでしょうか?異星生命との遭遇はぼちぼち怪しいかも知れないですね。


ただ、これ、別に悪いことじゃなくって、「現実がだんだんSFに追いついてきた」と考えると、結構面白い側面もあると思うんですよ。時代が追いついてきた。多分、かつてのSFの巨匠たちはみんな、「いつかホントにこういう世界になれば面白いのになあ」と思いながら作品を書いていた、と思うんです。


近い将来、ガチで宇宙旅行の話を書いてもSFとして認識されなくなりました、とかなったらすげえなあ、と皆さん思いませんか。多分そういうのが、昔からの「SFの醍醐味」っていうべきものなんだと思うんですよ。


今後の「あれ、これはSFだった筈…」という展開を今から楽しみにしているわけです。いや、コンピューターの反乱とかはちょっとノーサンキューですけど。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:55 | Comment(11) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月28日

読書感想文は、ただちに「面白かった本のお勧め文」に名目を変えるべきだと思う

以前、長男が読書感想文にえらく苦戦していた時、いろいろアドバイスをしたことがありました。Books&Appsさんに、その時の顛末を寄稿しました。リンクは下記です。


これ、小見出しがどうとか、サンプル的な構成とか、細かい話も色々したんですけれど。

一番のポイントは「読書感想文」ではなく、「面白かった本を他人にお勧めする、お勧め文」という風にとらえ方を変えたこと、だったんじゃないかなあと思うんです。

大体どんな層を観測しても、読書感想文に対する最大のハードルは、「何を書けばいいか分からない」でした。これについてはほぼ紛れがないと思います。

「書き方」というより、「書く内容」の話なんです。書き方はとっかかりにはなりますが、「何を書きたい」ということが明確でないとあまり意味はありません。

けれど、「誰かにその本をお勧めしたい?」と聞いてみると、長男からはすぐ「したい!」という言葉が帰ってくるんです。つまり、「面白さを誰かに伝える」という方向性であれば、長男はすぐに「書きたい内容」を思い浮かべることが出来る。

これについては、多分割と色んな子どもに共通した話だと思います。「面白かったものを、他の誰かにもお勧めしたい」という欲求は、多分誰にでもある。マニア気質というのか、共有欲求とでもいうんでしょうか。基本的な動機付けがあるとないとでは大違いです。

なにより、「誰かにお勧めしたいと思えるくらい面白いかどうか」という視点で本を探してほしいし、本に出会って欲しいと思うんですよね。

「感想」という言葉は、率直にいって難しいです。方向性が曖昧でよくわかりません。「感じ、思ったこと」というのはちょっともやっとし過ぎているんです。

勿論、「もやっとしたもの」を明確な形にまとめ上げる、という能力は、それはそれで必要です。ただ、それにはある程度慣れも要れば技術も必要で、「何かを読んで、それについてを文章に出力する」という行為をし始めたばかりの子どもが、いきなり要求されるべきハードルではありません。


方向性が曖昧だと書きにくい。だから方向性は明確にしてあげた方がいいし、子ども共通の欲求がそれに使えるならもっといい。

私はこれを当たり前のことだと思うんですが、どういうわけか、読書感想文についての指導はそんな感じになっていないように思います。

以下はwikipediaからの引用です。

「興味深く面白い」「とても共感した」「これまでの考えを反省した」などの肯定的、主観的または道徳的な意見・感想は良い評価を受けやすい。このような読書感想文の評価基準は青少年読書感想文全国コンクールにおいて好成績を収めた読書感想文からも読み取れる。
これなあ。いや、心当たりもないことはないんですが、興味深いとか面白いとかはともかくとして、「これまでの考えを反省」とか「とても共感」なんてことが読書に必要かなあ?と思うんですが。何故か読書感想文って、「素晴らしい本に出会って今までと変わった自分」「こんなに成長した私」を出力させたがるような気がするんですよね。

いや、RPGのステータスアップアイテムじゃないんだから、本一冊読んだだけでぐぐんと成長出来るわきゃないし、本一冊読んだ程度でころころ考え方が変わるなら、個人的にはそっちの方が心配です。

「この本に出会ってこんなに成長した私」よりも、「この本面白いぜ!!ほら!!ここが!!!こことか特に!!!!」の方がずっと書きやすいし、読んでいても面白いし、更に読書体験をつなげることが出来る、と少なくとも私は思うんですが、どうなんでしょう。


なんにせよ、今年も長男には読書感想文の宿題があるようですし、今はどの本について書こうかあれこれ考えているようですし、もし困っているようならまた様子を見つつちょこちょこアドバイスしてあげようかなあと、そんな風に考えている次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 11:19 | Comment(6) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月22日

「俺が嫌いだ」を「社会の為に、こんなものは存在してはいけない」と混同してはいけない

あんまりまとまらないかも知れませんが、ちょっと書いてみます。

子どもが出来てから、「子どもが可哀想なことになる話」がほんとーーにダメになりました。実話、創作問わず、触れるだけでダメです。見たくもないし、勿論読みたくもない。出来ることなら視界に入って欲しくない。

実話の話をするならば、無論、たとえば児童虐待なんかは法律でも禁止されていますし、あってはならないことだと思います。出来ることなら可哀想なことになる子どもがゼロになって欲しいし、社会はそうあるべくリソースを注がなくてはならない。これは、私の「見たくない」が、社会の規範と一致している例です。

けれど、例えばその手の創作についての話をするならば、「法律で規制して、存在出来ないようにするべき」だとは、私は思いません。「社会にそういう創作が存在してはならない」とも思いません。


何故なら、私の「子どもが可哀想なことになる話」に対する感情は私的なものであって、それが即「社会に存在してはいけない理由」にはならないから。私の好き、嫌いは、社会の規範とイコールではないから。


「ある創作を禁止する」というのは表現の自由に規制を入れる大事(オオゴト)であって、余程の論拠、余程の根拠が必要です。社会から何かを排斥する、というのはよっぽどのことです。

勿論、きちんとした時間ときちんとした議論を重ねて、法的な問題も当然クリアして、その結果として「ある表現に規制が入りました」ということはあり得るでしょう。それは別に問題ないと思います。


けれど、単に「俺が嫌いだ」という理由だけであれば、それは「表現の自由を規制する」論拠にはなり得ない。


ちょっと思うのは、「世の中には、私憤と公憤を区別できない人が結構多いなー」という話なのです。本当は「俺が嫌いだ」というだけの理由なのに、それをうまいことお化粧して、「こういうものは社会に存在してはならない!みんなの為だ!子どもの為だ!」と声高に叫ぶ人たち、結構頻繁に観測出来ます。

私は、そういう人たちがあんまり好きではありません。結果的に利害が一致するとしても、私はそういう人たちが嫌いです。


だって、それは私憤じゃん?と。

お前が言ってるのは、実質的には「俺が嫌いだ!」だけじゃん?と。

「俺が嫌いだ!」を、「社会の為に!」「みんなの為に!」「子どもの為に!」とうまいこと言い換えてるだけじゃん?と。

それは単に、存在しない数の力で自分の言葉を説得力ドーピングしてるだけじゃん?と。


そういう人たちがいう「〇〇な創作が社会に存在してはいけない理由」は、往々にして穴があったり、ダブルスタンダードになったりします。例えば、「こういう創作に影響されて、××な犯罪が発生するかも知れない!」という主張であれば、「いや、影響されるだけだったらこういうテレビでもこういう報道でも影響されそうだけど、そっちは何でいいの?」という話になったりします。「こういう表現が子どもを傷つける!」という主張であれば、「こっちの表現は何で傷つけないの?そのファールラインは誰がどう決めるの?」という話になったりします。

これは結局、その主張が私憤に根ざしているだけであって、きちんとした検討にも法的な論拠にも立脚していないからです。


繰り返しになりますが、「何かの表現を規制する」というのは大事なんです。少なくとも、一人の人が、ほんの数行の主張で、過不足なくその論拠を説明出来るような話ではない筈なんです。

なのに、自分の私憤を公憤にすり替えて、まるで一言で「社会に存在してはいけない理由」を必要十分説明出来たようになっている人は、ちょっと何かを勘違いしていると思います。


「俺が嫌いだ」だけなら自由です。何の問題もない。誰かが何かを嫌うのに、それこそ文句をつける筋合いはない。私だって「そういう」創作や表現は嫌いだし、見たくもありません。

けれど、「俺が嫌いだ」と「社会の為に存在してはいけない」を混同してはいけない。あなたの好き嫌いは、社会の規範とイコールではない。


私はそんな風に思うのです。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 18:14 | Comment(10) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月07日

対戦ゲームにおいて、「井戸の中の蛙」になれる井戸がなくなってしまった、という話

こんなツイートを拝見しました。


以下は単なる思い出話です。

かつてのゲーセンでは、色んな形で「店内での格付け」というものがあり、それがそのゲーセンに通う大きな動機づけになっていた、というところまでは言ってしまっていい気がしています。


例えば、格ゲーにおける対戦での格付け。対戦台を中心に発生していた、小さな小さな競争社会。「あいつ超つええ!」とか、「あいつは俺と同じくらいの腕だ!だから負けると超悔しい!」とか。「いつの間にあんなに強くなりやがって!」とか。

例えば、STGの筐体に記録されるスコアランキング。顔も知らない、アルファベット三文字だけの競争相手。一位を取れて初めて自分のスコアネームを考えたり、自分のスコアネームが次から次へ蹴落とされて、畜生次は目に物見せてやる、と誓った経験。

例えば、ホワイトボードに掲示されたゲーセン内ランキング。メストやベーマガの全国ランキングには遠く及ばないとしても、そのゲーセン内での小さなコミュニティの中では、きちんと誇ることが出来た小さな勲章。


勿論それは、小さな井戸の中、小さな蛙たち同士の話でした。ただ、井戸があるということは、その井戸の中で最強になるという目的も、その井戸から勇気を出して出ていく自由も、その井戸に帰ることが出来る安心感もある、ということです。


地元のゲーセンで負け知らずを誇ったプレイヤーが、試みに有名強豪ゲーセンに繰り出して、ぼっこぼこにされて地元に逃げ帰る、というようなことも勿論ありました。そして、それがさらなるモチベ―ションになり、色んなテクニックを持ち帰り、結果としてそのテクニックがゲーセンのレベルを更に底上げする、みたいなこともあったのです。そして時には、小さな井戸の中の小さな蛙が、本当に全国で最強の蛙になる、なんてことも起こったんです。


私も、その小さな蛙でした。名古屋の片隅の小さなゲーセンで、一部の格ゲーのタイトルではそこそこの強さで、けれど栄や名駅や、あるいは新宿や渋谷のでかいゲーセンでは全然相手にならなかった程度の蛙。ゲーセン内でダライアス外伝のスコアランキングに血道を上げて、ある月一度だけ、とあるゾーンで全国一位をとることが出来た蛙。


現在、格ゲーにせよSTGにせよその他のゲームにせよ、対戦要素やスコアランキングというものはネット経由が基本です。最初の段階から、広いネットの世界のランキングを眺めながら腕を上げることになる、という時代です。勿論ゲーセンでの店内対戦が出来るゲームは多いですし、店の中でのコミュニティや大会もあるのですが、以前のような「どこのゲーセンにもそのゲーセン内での小さなコミュニティが」という時代ではなくなりました。

「ゲーセン内順位」と「全国順位」は全然別枠で、前者もある程度ちゃんと機能してた、というのは結構大きかったのではないか、と感じます。それがどの程度のものかは別として、「競争相手が半強制的にネット全域になってしまったことの弊害」というものも、恐らくあるのだろうと思います。お山の大将程度の実力はあった人が、お山の大将になれなくなってしまった。「お山の大将」というポスト自体が消滅してしまった、と言ってもいいでしょう。

勿論、そのずっとずっと以前の段階で、「そもそも対戦相手がいない」「ゲーセンまで行くのが大変」といった問題を始めとする、様々な問題を解決したメリットの方が遥かに大きいのも確かで、その点ネット対戦やネットランキングを否定する気は全くないのです。ネット対戦がなければ、対戦ゲーというのは今より遥か以前の時点で消滅してしまっていたのではないか、とすら思います。


ただ、「広い範囲では全然認知されていないけれど、頑張れば載れて、その小さなコミュニティの中ではちゃんとした勲章になる」という程度のランキングも、そのゲームの発展においては結構大きな意味をもつものだったのではないか、と思うんですよ。

これは多分、少年漫画の展開の話にも似ています。最初はそこそこの強さの中ボスしかいないからこそ、中ボス打倒の為に強くなれる。最初からフリーザ様が観測できる中で、1巻の時点からフリーザ打倒の為に強くなれるメンタルの持ち主ばかりじゃないだろうなー、という話です。


広い広いwebの世界に、かつてのような小さな井戸を作ることは出来るのかな?その井戸の中で最強になることを誇れるような仕組みは出来るのかな?というような。

そんなことを考えた次第なのです。



posted by しんざき at 07:20 | Comment(8) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

「例のセーター」が定着しなかった理由は、本当にネタ消費速度の問題なのか?

id:orangestarこと小島アジコ先生の、この記事を拝読しました。

どんどんと、コンテンツとか話題の消費速度って上がって行ってるし、(もし、適宜流行の話題について行こうとするならば、だけれども)情報を提供する側も、それに合わせた速度が要求される。何か話題になるような出来事があったら、その6時間後には、もうそれに対する文章なり記事なりを投下しないと、見てもらえない。3日あいたら、「なぜ今更その話を…」って思われるし1週間もたてば「そういえばそんな話題もあったな…」みたいな感じ。

みんなが、コンテンツや話題をものすごい速度で後ろに放り投げるようになるのも時代の流れかもしれない。

ちょっとざっくりした話になるんですが、ご容赦ください。

これ、小島アジコ先生のおっしゃるところも分かるんですが、個人的にはちょっと違う所感を持っておりまして。

つまり、「コンテンツ消費速度が速くなったと言うより、元々一瞬で消費される様なネタでも、webのドーピング効果で可視化されるようになった」ということなんじゃないかなあ、と思っているんです。また、「webでコンテンツが定着するには、再利用性が何より重要である」ということもあるのかも知れません。


現在のwebで長く残るコンテンツやネタが存在しないかというと、実際のところそういう訳ではないんですよね。ミーム化、テンプレ化して長く消費され続けているネタって、Web上にはたくさんあります。


例えば様々なネットスラング。なんJ発のアレとか、淫夢ネタのそれとか、いい悪いはおいておいて、取りあえず完全に定着はしましたよね。


電車の車内における男性の発言がミーム化して定着したりとか、ドラマで頻繁に出てくる擬声語が定着したりとかも、webなんかではよくある話です。アニメや漫画発のも多いですね。まどマギネタとか、カイジネタとか。「ヤツは四天王の中でも最弱…」とか。最近だとけもフレのしんざきお兄さんネタとか、もう完全にwebで定着したと言ってしまってもいいんじゃないでしょうか。

あるいは、なんらかのエピソードを核にした、種々のテンプレや定型句。2ch発のミームがwebで定着した、みたいな例もありますよね。「ちょっと田んぼの様子みてくる」とか、「※ただしイケメンに限る」とか、既に「当初は2chで発祥したネタテンプレだった」ということ自体認識されていないものも今じゃ多いんじゃないでしょうか。

あるいは種々の画像ネタ。横山三国志の色々とか、神々の山嶺の食事シーンとか。デスノートの「ダメだこいつ…早くなんとかしないと…」やらヒストリエの「よくもだましたなああああ!」みたいに、漫画の一部分が定型文的に使いまわされるようになっている現象も、いい悪いはともかく「コンテンツが定着して長く消費され続けている」と言っていいんじゃないでしょうか。AAネタもこれに該当するかも知れないですね。


これ、何がキーワードになるって、多分「発展性」とか「汎用性」みたいなものがキーワードになると思うんですよ。もうちょっと言ってしまうと、「いじりやすい・使い勝手がいいネタは定着しやすい」


例えばTwitterでもfacebookでもSNSでも、ちょっとずつテンプレをいじって面白い文章を作って、それを展開して、みたいな消費形態って結構一般的ですよね。場面場面に当てはめて、二次的にウケをとれるネタは再利用しやすい、あるいは定着しやすい。二次利用が、更にどんどん拡散して、様々な人が共通してそのネタを使うようになる。そういう意味で、「ネタの消費速度が上がった」とは一概に言うことは出来なくって、むしろ一部の分野では「ネタの再利用率が以前より遥かに向上して、一つのネタが使いまわされる度合いが増えた」とすら言えると思うんですよ。


それに対して、例えば「例のセーター」って言われるものとか、「例の紐」って言われるものって、「ネタとしての再利用性、再利用の容易さに劣る」とはいえると思うんですね。絵師さんならまだ話は別ですが、一般の人があれ改変して再利用するのって無理じゃないですか多分。頑張っても、実際にその服買ってきて、着てみて、画像アップして、とかそれくらいのネタ利用しかできないわけですよ。それだけのネタに数千円払いますかっていうと、やっぱ結構ハードル高い。

つまり、例えば「奇抜な服」的なネタは、一回「うわなんだこれエロい」ってなるとその先がない。絵師さんであればその服をテーマにしてキャラクターに着せて、といった感じで再利用できるかも知れないけれど、一般の人はそういう再利用をすることが出来ない。だから定着しにくい。

これに限らず、「元々長く定着するようなコンテンツではなかった」ものってたくさんありますし、そういうのは以前からすぐ消えてた、と思うんですよ。話題にすらならなかったかも知れない。

けれど、元来「再利用できない」ことで一瞬で消えるようなコンテンツであっても、瞬間風速的には盛り上がっているのが可視化されるから、「一瞬盛り上がってすぐ消えた」ように見える。

一部のコンテンツが「一瞬で消える」ように見えているとしたら、その理由はむしろ、消費速度の速さよりもそういった「webにおける可視化」と「webでの再利用性の有無」というところにあるんじゃないかなあ、と。私はそんな風に思うわけです。


こうして考えてみると、webで何かのコンテンツを定着させたかったら、何よりも「再利用性」を重視するべきなのではないか、ということが言えるような気がしてきます。ただこれについては、もうちょっとちゃんと材料を集めないといけない気がするので、また機会を改めようかと思います。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

「キン肉マン」が38年の旅を越えてたどり着いた場所

先週、「キン肉マン」完璧超人始祖編のweb連載が、ついに、ついに最終回を迎えました。

皆さん読みましたか?完璧超人始祖編。まだ読んでない人は是非単行本を買ってでも読みましょう。損はさせません。

巻数で言うと、36巻までが王位争奪編までの、言ってみれば20世紀のキン肉マンで、37巻は外伝的な読み切り作品、38巻以降が2012年から始まった「完璧超人始祖編」のキン肉マンです。60巻がシリーズ最終巻になる、筈です。まだ出てませんが。




かつて、キン肉マンのテーマって、割と分かりやすい「逆転と超克」の物語だった、と思うんですよ。以前書いた「流石」と「まさか」で言うと、極めて「まさか」に寄った物語。


最初期のギャグ漫画時代・怪獣退治編を例外として、キン肉マンは殆ど常に、「大逆転」を主軸に据えたストーリーであり続けました。普段は「ダメ超人」としての描写を専らとしているキン肉スグルに、次から次へと襲い掛かる大ピンチ。それに対して、頼もしい仲間たちと、友情パワーや火事場のクソ力を武器にしたキン肉マンによる、大逆転と大勝利。超人オリンピック編でも、悪魔超人編でも、黄金のマスク編でも、完璧超人編でも、王位争奪編でもそうでしたよね。

キン肉マンは、常に窮地に立たされますし、常に臆病風に吹かれますし、けれど常にそこから立ち上がり、最後には窮地を打ち破る。普段かっこ悪いからこそ、かっこいい。それがキン肉マンでした。

そして、キン肉マンの「窮地の打ち破り方」の描写は、本当に卓絶していました。プロレスに「超人」という要素を掛け合わせて、既存の枠を打ち破った「超人プロレス」。そこでの駆け引き、つばぜり合い、時には搦め手、そして大逆転。この描写こそが、キン肉マンという漫画を不朽の名作にした最大の要因であることは論を俟たないでしょう。

キン肉マンは、ジャンプの三大原則である「友情」「努力」「勝利」を最も忠実に体現した漫画の一つだった、ともいえると思うんです。


ただ、旧作キン肉マンの一つの特徴として、「対戦相手は飽くまで超克の対象であり、(少なくとも一度は)否定されることになる」という点があることは否めないと思います。もうちょっとぶっちゃけると、「主人公の逆転を描く為に、敵キャラが一度は割を食うことになる」ということです。

例えば黄金のマスク編の悪魔将軍は、途中までは圧倒的な強さとカリスマを欲しいままにしましたが、終盤はあんな感じでした。バッファローマンは最後に改心してしまいましたし、ネプチューンマンは、いきなり正体を現したネプチューンキングの部下のような描写になり、最後はアレやコレやな感じでした。フェニックスは、途中まではミステリアスな強さをもった知性派だったんですが、やはり終盤は色々小悪党っぽい感じが出てしまいました。

言ってしまうと、旧作キン肉マンの唯一の「弱点」は、「敵役の立ち位置を貫徹させられなかった」あるいは「悪役が最後まで魅力的な悪役として描かれてこなかった」ことなのではないかと、少なくとも私は思うのです。これは、ゆで先生ご自身が「この作品は前作を超えるものにはならない」とおっしゃったという、キン肉マン二世でも引き続いた問題だったと思います。

これが悪かった、ってわけじゃないんです。これはこれで、キン肉マンの重要な「味」の一つではあったと思いますし、話の展開としても好みの問題です。


ところで。


以降は、核心には触れないつもりですが、一応ネタバレになるので注意して頂ければと思うのですが。

38巻からの完璧超人始祖編では、この点が完全に、完璧に、これ以上ないくらいに払拭されていました。本当に、同じ人がこの漫画を描いたのか…!?と思ってしまう程の凄まじい払拭ぶりでした。

完璧超人始祖編は、そもそも「旧作キャラが入り乱れる三つ巴戦」として始まりました。完璧無量大数軍の襲来に、正義超人の唯一の代表として孤軍奮闘するテリーマン(とジェロニモ)、そこに割って入るのがブラックホールやステカセキングという時点で、旧作ファンとしてはもう感動し過ぎて涙が止まらないくらいでしたが、何よりもすげえ!!!と思ったのが、「悪魔超人が、悪魔超人のままで完璧超人たちと戦っている」ということなんです。

彼ら、慣れあわないんですね。決して正義超人と「協力」したりはしないし、正義超人軍として戦っている訳でもない。「悪魔超人は悪魔超人であって、決して正義超人に与しているわけではない」というスタンスを、それこそ最後の最後まで崩さない。

その首尾一貫ぶりは、満を持して登場した悪魔六騎士、そして悪魔将軍の登場でピークに達します。最後の最後まで、悪魔将軍は自らのスタンスを譲らない。かつて自分を倒した男(キン肉マン)を認めながらも、決して自分を折りはせず、勿論なれ合うこともなく、自分の「目的」に忠実であり続けるのです。

そしてこれは、完璧無量大数軍、更にその上に立つ完璧超人始祖達にも同じことが言えます。たとえ敗北することになったとしても、自分が信じているものだけは決して折らない。立ち位置を変えない。


認めるけれど、折れない。勝とうが負けようが、「譲れないもの」はそのまま保持し続ける。だから、たとえ敗れたとしてもその大義は変わらないし、輝きを失わない。

私は、かつてキン肉マンで、ここまで「敵役が最後までかっこいいままだった」シリーズを他に知りません。


これ、旧作キン肉マンでは見ることが出来なかった、「最後までブレない強大な敵役」という概念そのものだったと思います。キン肉マンならではの熱い描写はそのままに、三つの勢力が最後まで輝きを失わず、それぞれの終着点にたどり着いてみせた。上記の言葉を使えば、「まさか」の熱さに、「流石」の熱さが追加された、ともいえると思います。


とにかく滅茶苦茶かっこいいんですよ、悪魔将軍も、悪魔六騎士たちも、ネメシスも、ザ・マンも、勿論他の始祖たちも。その強さ、その威風、威容もさることながら、「ブレないが故に、たとえ歩み寄らなくてもお互いに認め合うことが出来る」その一貫したスタンスが彼らを輝かせていたんだと思います。


この「ブレなさ」があったからこそ、今回の「完璧超人始祖編」の最後の戦いが、「キン肉マンとネメシス」ではなく、「悪魔将軍とザ・マン」という戦いであり。しかもネメシス編以上に熱く、印象的で、キン肉マンという作品の中でも指折りに素晴らしい一戦になったのだと私は思うわけです。

勿論、敵役のブレなさだけが「完璧超人始祖編」のすばらしさではありません。引き伸ばし、出し惜しみのなさ。「まさかそこでその伏線が回収されるのか!?」の意外性。きっちりと立ち位置を下げてからの大逆転を見せるキン肉マン。きっちりと実力を見せつける旧作強豪たちと、それ以上の活躍を見せる新キャラたち。本当に結果が予想できない、一つ一つの戦いの熱さ。随所随所で発揮されるゆで理論の「分かっている」感。ついに、ついに大敵を下してみせたザ・ニンジャ。

この隙が無さ過ぎるエンターティメント性は、現在連載中のすべての漫画を見渡しても出色のものだったと思います。


かつて旧作キン肉マンは、「逆転と超克の物語」を熱く描写することによって、不朽の名作になりました。


そして今、完璧超人始祖編は、「認め合い、しかし歩み寄らず、お互いを尊重する」物語を描くことによって、かつてのキン肉マンを越える作品になった、と私は思います。今、この時代に、キン肉マンという題材でこの作品を描き切ってみせた、ゆでたまご両先生には本当に感嘆する他ありません。今後の新シリーズも楽しみにさせていただきます。

ゆでたまご先生、まずは本当にお疲れ様でした。素晴らしい作品をありがとうございます。


今日書きたいことはそれくらいです。


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2017年05月19日

だから痴漢も痴漢冤罪も、「男性のせい」でも「女性のせい」でもありませんってば


話がループしてるような気はするんですが、ちょっと当たり前の前提を確認しておきたくなりました。当たり前の話なのでご承知の上お読みください。


私は男性であり、私にとって痴漢は大問題ですし、私の奥様は女性であり、奥様にとって痴漢冤罪は大問題です。お互いに、他人事でもなんでもありません。お互いに切実です。


私は男性ですし、通勤で電車を使っている身なので、痴漢冤罪はひとごとじゃないですし大変怖いです。痴漢冤罪(に限らず冤罪一般)が少しでも発生しなくなってくれることを望んでいますし、自分に何が出来るのかを色々と考えています。

けど、それとは全然関係なく、それと何の矛盾もせず、奥様や娘たちが痴漢に遭うかも知れないことを考えると、心底痴漢が怖いですし、痴漢を許せません。痴漢被害によって人生が狂ってしまった女性も知っていますし、娘がそんなことになったらと思うとぞっとします。


もちろんこれはしんざき奥様からも同じ話で、私が痴漢冤罪に遭って拘留されることは奥様にとっても恐怖以外のなにものでもありませんし、冤罪を許せないと思います。


まず大前提として、

痴漢は男性にとっても女性にとっても共通の敵ですし、

痴漢冤罪は男性にとっても女性にとっても共通の敵ですし、

痴漢は「男性」の犯罪ではないし痴漢冤罪も「女性」の犯罪ではない、男性と女性の対立というのはこの問題において一切起きるべきではない、ということは確認しておくべきだと思うんです。


なんかどうしても、痴漢やら痴漢冤罪の話になると「男性」と「女性」を対立項にしたがる人っているんですよね。時には、痴漢被害者を責める文脈や、男性一般の性欲を責める文脈まで出てくる始末です。

そうじゃないですよね、憎むべきは「男性」じゃなくて「痴漢」だし、「女性」じゃなくて「冤罪を作る司法・警察」や、場合によっては「作為的に冤罪を着せようとする者」ですよねって話なんです。

そりゃ率から言えば痴漢の中には男性が多いかも知れませんが、痴漢被害者に男性がいないわけじゃないし、痴漢被害者の身内にも男性はいるかも知れない。冤罪だって同じことが言えます。ここで男女対立なんて本来発生しない筈なんです。


その上で、


「痴漢と痴漢冤罪どっちが問題か」なんて議論はなんの意味もないですし、「どっちも問題です」以外に回答はない。そもそも比べるような話じゃない、と思うんです。

そんなことを、この記事や、この記事のブコメを見ていて考えました。

冤罪の話をする前に「痴漢死ね」と叫ぶ

はてなブックマーク:冤罪の話をする前に「痴漢死ね」と叫ぶ


元記事は元記事で、「冤罪よりも痴漢の方が問題だ」ってとれるようなニュアンス(皮肉っぽいですが)には決して賛成できません。ただ、ひどい痴漢が本当にひどいってのは私も認識していますし、「冤罪が被害者の人生を壊し得るのと同じように、痴漢も被害者の人生を壊し得る」ということ自体は、男性女性関係なく認識しておくべき話だとは思います。

だから私は、たとえば「痴漢よりも冤罪の方が問題」だとか(もちろんその逆も)、あるいは痴漢による被害と冤罪の被害を比べるような文言、「女性が悪い」とか「男性が悪い」とかいう文言には一切賛成出来ません。


どっちもひどいし、どっちもダメです。どっちも「男性のせい」ではありませんし、どっちも「女性のせい」ではありません。


これは、多少口酸っぱく言ってもいいことなんじゃないか、と思うんです。


勿論、痴漢がなくなれば必然的に痴漢冤罪もなくなるわけで、痴漢を撲滅出来ればそれに越したことはないんですが、これについては痴漢についての話を聞けば聞くほど正直絶望的な気分になります。。。満員電車だけの話じゃ全然ないんですよね、アレ。本当にありとあらゆる場所で発生し得る。すれ違い様に触ってくる痴漢とか、一体どうやって撲滅すればいいのか本当に見当がつかない。やいばのよろい着た方がいいんじゃないかしら。


とはいえ、きちんとした証明ノウハウの確立や誤認逮捕判明の場合の撤回、要は「司法・警察しっかりしろ」という話は痴漢に対する抑止効果にもなる筈ですので、そこについては引き続き訴えていきたい所存です。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 00:36 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月16日

ひと昔前の美少女ゲーにおける、いわゆる「天真爛漫」系キャラクターがイタい子に思えてしまうようになった問題について

単なる雑感なので、そんな厳密な話ではないのですが。

最近、Twitterのタイムラインで面白い面白いと評判になっていたゲームを、近所のゲームショップで見つけたので買ってみたんです。いや、何かってEver17なんですけれど。


なんか今amazonで見てみたら随分高くなってるみたいですね。サイバーフロントの倒産で、DL購入が出来なくなってるからなんでしょうか。3000円弱で買えたんで運が良かったです。

このゲーム自体は、どうもネタバレ厳戒ゲームのようなので、一切情報を仕入れないで遊ぼうと思っておりまして、ここでも内容について書く気はないんですが。

ただ、アレなんです。Ever17でどうという訳じゃないんですけれど、「昔の恋愛ゲー・美少女ゲーに標準的に存在した「天真爛漫系」のキャラクターを、どうも俺はイタい子と感じるようになってしまっているんじゃないか?」という疑念が生じたんです。

いや、話は天真爛漫系キャラにとどまらないんですが、取りあえず天真爛漫系キャラに限定して進めます。


美少女ゲーに大体一人はいた、「無邪気系」「甘えん坊系」「天真爛漫系」といわれるようなキャラクター。明るくて、感情表現豊かで、多くの場合はやや非常識で、多くの場合は童顔ないし主人公よりもやや年下で、場合によっては一人称や語尾、話し方なんかにやや特徴があるようなキャラクター。大体、キャラクター紹介で言うと3番目か4番目くらいに配置されていたキャラクター。

…いましたよね?割と一般的な類型でしたよね。


どうも私自身が、こういった類型のキャラクターを「ちょっとイタい子だな…」と感じるようになってしまっているようでして。あれー?昔はそこまででもなかった気がするけどなー?みたいな。

これが、私自身の加齢に伴う感性の変化によるものか、なんらかの経験によるものか、ゲーム特有の問題なのか、それとも昔からこんなもんだったのか。これが、私にはいまいちわからないのです。

仮説はいくつか思いつきます。

・単純に感性が変化、ないし劣化した
・単に恋愛ゲーをやるのが超久々だから思い出せないだけで、実は昔もそう感じていた
・昔はそもそも「イタい子」という概念、イメージが自分の中になかった為言語化されなかった
・今回やってるゲームの天真爛漫描写が他のゲームより先鋭的である
・現実に、「天真爛漫系キャラクターを模倣したイタい子」を観測した経験が反映されてしまっている


3番辺りが怪しそうな気がしてきました。

まあ、冷静に考えると、昔の恋愛ゲーも大して描写は変わっていなかったけど、昔はそこまで深く考えてなかった、という辺りが妥当なのかも知れませんが。ちょっと「あれ??」と思ったので雑感として書き留めてみました。昔から、天真爛漫系のキャラクターそこまで好きでもなかったような気はする。


あまり具体的なゲームタイトル・キャラクターを挙げていないのは、主に宗教戦争を避ける為ですのでお察しください。


まあ何はともあれ、Ever17は楽しみにプレイしようと思いますのでネタバレ禁止でよろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 12:19 | Comment(11) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月15日

兄パーティ救出大作戦:私家版「俺とWizardry」


そのパーティは、遠く遠く、地下6階の彼方に眠っていました。


しんざきには、兄が一人います。5歳年上で、ゲーム好きで、パソコン好きで、ゲーセン好きでした。しんざきのゲーム趣味は、大体において兄からの影響で身に付いたものです。子どもの頃は、私が自分の小遣いで「ファミマガ」を、兄が自分の小遣いで「ゲーメスト」を買うという形で、私たちは雑誌の守備範囲を分担していました。

兄にしてみれば、私がゲーム趣味を身につけることによって、兄弟両方のリソースをゲームに突っ込むことが出来るというのは好都合でもあったのでしょう。兄弟でありがちな「自分のゲームを弟に遊ばせてあげない」ということは、私たちの間にはあまり無く、私は大体兄のゲームも遊ばせてもらっていました。


そこに、「ウィザードリィ」がありました。


私が最初に遊んだWizardryは、ファミコン版の3。PC版で言うといわゆる#2、「ダイヤモンドの騎士」ですが、皆さんご存知の通り、PC版の#2とファミコン版の3は、「別ゲーか」と思わせるくらいの大胆な、そして絶妙なアレンジによって分かたれていました。


全てのきっかけは、兄の失敗だったのだと記憶しています。

ポイズンジャイアントの集団に奇襲されたのだったか、それともフラック相手に力尽きたのだったか、兄のパーティが地下6階、つまりWizardry3における最深層で全滅してしまったのです。

一般的なRPGと違い、Wizardryにおいては、全滅をしてもそのパーティは自動で城には帰ってきません。最後にセーブした場所に戻されることもありません。「死んでしまうとは情けない」などと叱責してくる王様はWizardryには影もカタチも存在せず、全滅したパーティの遺体は迷宮の中に残されたままになります。トレボーはそんなこといわない。


つまり、「全滅したパーティは、他のパーティを育てて救出しにいかないといけない」のです。


確かその当時、兄は受験の時期に差し掛かっており、一時的にファミコンから離れなくてはいけない状況でした。更にまずいことに、その時兄はマッピングをしていなかったらしく、地下6Fのどこに全滅した第一パーティがいるのか、彼の記憶は曖昧でした。かてて加えて、兄の作ったキャラクターは、その主要パーティ以外ろくにレベル上げをされていませんでした。

そして兄は、私にこう言いました。


このWizardryはお前に託した、と。

俺の第一パーティを救出してくれ、と。

そこから、私にとってのWizardryが始まりました。Wizardryは「13歳以上推奨」という立て付けになっており、当時私はまだ、一度も迷宮の門を叩いたことがありませんでした。RPGと言えば「ハイドライドスペシャル」や「ドラクエII」「FF3」くらいしかやっていなかった私は、Wizardryの世界の毛色の違いに度肝を抜かれました。


高いボーナスポイントを狙って、自分でパラメータの振り分けをするキャラクターメイキング。
敵が落としたアイテムを鑑定することによって手に入る新しいアイテム群。
城に戻り、宿屋に泊まって初めてキャラクターが強化されるレベルアップシステム。
慎重に慎重を重ねなければ、あっさりとパーティが全滅するゲームバランス。
手塩にかけて育てたキャラクターが、場合によっては永遠に還らぬ人となるシビアさ。


兄は、一度私がゲームを始めた後は、口出しも助言もせず、殆ど私を放っておきました。受験勉強でそれどころではなかった、ということも勿論あったと思うんですが。


説明書とにらめっこをしながら、私は本当に手探りで、二ルダの杖が眠るダンジョンを攻略していきました。アイテムを鑑定する楽しさに目覚め、見知らぬ武器を手に入れるとドキドキし、呪われた武器を間違えてさわってしまった時には悲鳴を上げ、コッズアイテムのあまりの強力さには唖然としました。

戦士のパラメーターがロードに転職する値に達した時は「ついにロードが作れる…!!」と思いましたし、属性がNだったことに気付いて頭を抱えました。育てに育てたキャラクターが灰化の末にロストした時は、一日何もする気が起きませんでした。

カシナートのけん。ごくじょうのよろい。はやわざのたんとう。いにしえのおまもり。

マンアットアームズ。ヘルハウンド。ボーパルバニー。レッサーデーモン。スモッグビースト。

私にとってのWizardry体験は、その殆どが「かっこいいアイテムとかっこいい敵キャラに魅了される」というものだったと思います。そこには、勿論末弥先生の美麗なイラストを再現したグラフィックや、羽田健太郎先生の素晴らしいBGMの強力な後押しもありました。


私の目的は、二ルダの杖を取り戻すことではなく、地下6階にたどり着いて兄のパーティを救出すること、でした。私の主観としては、私は飽くまで「救出部隊」だったのです。これは、まだ小学生だった私にとって、ある意味クリア以上の重要な目標になっていました。


ひと月だったか、ふた月だったか、どれくらい後のことだったかよく覚えていません。やがて、私のパーティの戦力は充実に充実を重ね、マイルフィックやアークメイジを退けながら、少しずつ地下6階のマッピングを進める程になりました。探索を進める内に「ミスリルのよろい」や「エクスカリバー」すら見つけることが出来ていました。まだ、「むらまさ」を手に入れることはできていませんでしたが。


地下6階の北部で「なかまをさがす」を選択した時。「さがしています.......」の後に、「ギムリ」と表示されました。


あ、


見つけた。そう思いました。その周辺には、「指輪物語」から名前をとったらしい兄のパーティの遺体が、点々と転がっていました。

ここだったのか。

その時一瞬、力が抜けました。勿論、パーティの人数を減らして少しずつ回収に来なくてはいけなかったわけで、救出ミッションがその場で終わった訳ではないのですが、これが私にとって、「Wizardry3」の当初の目的を達成した瞬間でした。


兄に報告をしにいった時、一言、「そうか、ありがとう」とだけ言われたことを覚えています。


今になって思えば、もしかするとあれは、兄の心遣いだったのかも知れません。私にWizardryという世界を見せるに当たって、彼はクリア以上の目的を私に与えてくれたのかも知れません。「マッピングしてなかった」なんて嘘だったのかも知れません。あるいは、彼は最初から「Wizardryは、クリアなんて大した目的じゃない」ということが分かっていて、それを私に教える為に、「パーティの救出」というミッションを与えてくれたのかも知れません。そういう意味では、「パーティが救出された」というのも、そこまで重要なことではなかったのかも知れません。

今、兄にこの話を振っても「そんなことあったっけ?」と言われるばかりであって、今となっては本当のことは分かりません。当然のことながら、「弟に救出を頼んだこと自体、この時点で既に忘れていた」という可能性もあります。


いずれにせよ、この時以降、私はあらゆるWizardryファンと同じ道をたどり始めました。クリアもエンディングもどうでもよく、ただひたすらダンジョンの深層に潜っては、アイテム探しとパーティの強化に熱中するようになったわけです。この頃やったゲームの記憶というのは大したもので、今でも私は、目をつぶったまま、地下1階から地下6階の「ひとりでまいれ」までたどり着くことが出来ます。小学生でもここまでハマれたというのは、ファミコン版Wizardryのアレンジ、バランス感覚が本当に素晴らしく絶妙だった、という他ありません。



長々と書いてきましたが、これが、私にとっての「俺とWizardry」という物語のすべてです。


先日、ゲームレジェンドというイベントで、「ウィザードリィの深淵 FC版WIZの30年」という本を購入させて頂きました。様々な人達が、様々な立場で「Wizardry」についてを書き綴った本で、今2017年というこの時代に「忍者増田氏」や「R・ウッドヘッド氏」へのインタビュー記事が読める、というそれだけでまるで冗談のような感動を覚えるのですが、そんな中に「俺とWizardry」というタイトルで、様々な人がWizardryの思い出を書き綴っているのを見て、私も少し書いてみたくなりました。


これからも、多くの方が充実した「俺とWizardry」の物語を作り続けていくことを、願って止みません。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

無理して「とがった意見」を書こうとしている、書かなくてはいけないと思っている人たちへ

確かに、とがった意見だとか極端な意見って、そうでない意見よりも注目される頻度は高いんですよ。それは間違いないです。

なんか「ブログの書き方」とか「アクセスを増やす為には」みたいな話を観測していると、結構な頻度で「極端な意見を断言する」とか「とがったタイトルで注目を集める」みたいなことが書いてあります。極端な意見で人を集めるのは良いこと、みたいに書いてあることもあります。

ただねえ、と思うわけです。


ちょっとたとえ話として、話を単純化してみます。

例えばあるテーマについて、1から10までの意見の濃淡があったとして。「5だと思う」とか、「4から6くらいだと思う」と言った場合、一番極端な意見からでも4〜6しか離れていない、という計算になります。

一方、「1だ!!!」ないし「10だ!!!」と叫んだ場合、極端な意見からすると8〜9くらい離れているという計算になります。

「意見を言いたくなる時」「反応したくなる時」というのは、「強く感情を揺さぶられた時」です。それは正の側でも負の側でも同じことで、つまり「すげー賛成」とか「すげー反対」と思った時には反応したくなる。特に、てめえふざけんな、と思うとついつい反応したくなっちゃう人って想像を絶する程多いわけです。で、「反対の意見」を見たら擁護してくれる「賛成の意見」も集まりやすくなるわけで。

だから、極端な意見は注目されやすいし、反応を集めやすい。実際にはもうちょっと色々グラデーションは増えますが、まあ大筋そんなもんだと思います。2ちゃんまとめサイトとか、なんの変哲もない話でも、わざわざ手を変え品を変え、とがった方とがった方に寄せていこうとしますよね。


ただ、あなたがよほど「収益のためなら・注目のためならなんでもする!!」と覚悟しているなら別なんですが、そこまででもない場合、「とがった方向に寄せる」のはちょっと考えてからの方がいいかも知れません。


何故なら、普通の人にとっては、「強い反対にさらされ続ける」というのはやっぱりなんだかんだですげー疲れることだから。

とがった方とがった方に寄せていって、それでブログの色がついてしまったり、それを自分の「持ち味」とか考えてしまうと、元の方向に戻すのはすげー難しいことだから。

何かテーマがあったとして、それについての妥当な答えが「1」か「10」かということは実際のところ少なく、「本来の落としどころ」というのは4から6くらいにあるものだから。

そして、「あ、この人、無理してとがった方向に寄せてる」とバレてしまうと、やっぱなんだかんだで飽きられるのも早いから。


とがった意見やら極端な意見で人を集めるっていうの、普通の人にとってはある種の焼き畑農業なんですよ。ブログを燃やして、人を集める。といっても、本来の焼き畑農業ならそのあと一定期間畑を休ませるものなんですが、とがった意見で人を集めて味をしめてしまうと、その後連続してとがった意見に寄せていきたくなるから、どんどんその色がブログについてしまう。ブログでは、休ませる = 人が減る、ということなので、連続して人を集めたければ燃やし続けるしかないわけです。

ただ、

極端な意見を書き続けていれば、あなたのブログにはどんどん悪意を持った目線が溜まっていきます。それは間違いない。

一部の振り切った人たちは、あなたの極端な意見に対する悪意を「相手にする価値のないアンチ」とかいって希釈しようとするかもしれないですが、それはやっぱり極端な意見に対する揺り戻しであって、「聞くべき価値のない意見」でないものも多いし、普通の人は自分に対する悪意を観測してしまったらやっぱり疲れるわけなんですよ。疲れると続かない。


それに、「極端な方向に振る」っていうのは、「妥当な場所を見つける」という方向性とははっきり矛盾するんですよね。


なんだかんだで、一番必要なことは「何が妥当なのかを考える」ということです。二つの対立した陣営があったとして、その状態を回避しようとするには、落としどころをみつけなくちゃいけない。やっぱり、真ん中あたりにちょうどいい答えが眠っている問題って多いし、実際現実ではその真ん中あたりのルートで話が進んでたりするんですよ。

とがった方向に意見を振ると、その「妥当な場所」が見つけにくくなる。妥当な場所を探す練習もできなくなる。


あと、やっぱ「いつも極端な意見を言ってる人」って見切られるのも早いですよ。特に最近は。

条件反射でついちゃう反応はやっぱありますけど、それやっぱ見てるとどんどん減っていきますもん。昔よく炎上狙い記事が注目されてたけど、最近見ない人、って結構いませんか?誰か頭に浮かんだら、見に行ってみてくださいそのブログ。すげーかわいそうなことになってますから。


極端な意見は、確かに一時的には注目されやすいです。けど、極端じゃない意見が注目されないか、っていうと決してそういうわけじゃないんですよね。

私、自己評価としてはあんまり極端なこと書いてないつもりなんですけど。書いてませんよね?すいません、いったん書いてないことにしておいてください。自分としてはなるべく「妥当なところ」を探しながら書いてるつもりなんですけど、やっぱそれだと続けるの楽ですし、長く続けてるとありがたいことに結構注目していただけるもんですよ。まあ私、このブログで一円も稼いでないんで注目されなくても別に損はしないんですけど。

といって、やっぱ最初の頃はやっぱなかなか見てくれる人もいないもんで、ついついとがった方向に寄せたくなっちゃうかもですけど。観測者っていうのは案外バカにできないもので、続けてるとそのうち観測してくれるんですよ。で、「妥当」と思われると拾ってくれるものなんです。それが積み重なって、ちょっとずつちょっとずつ、読んでくれる人が増えていく。

このブログは、そうやってずーっと続けてきた、つもりです。


とがった方向に振らないで、真ん中あたりの、妥当な場所を探しながらゆっくり続ける人がもうちょっと増えてもいいんじゃないかなー、と、そんな風に思うわけなのです。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 22:54 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

なんか最近「ネタにマジレス度」が上がってきているような気がする

いや、大した話じゃないんですが。

先日、こんな記事を拝読しました。

でも、そんな日々はあっけなく終わりました。
あなたが何の相談もなく会社を辞めてしまったから。
「ボノボのワッペンで食っていく」
あなたは言いました。私はまったく意味がわからなかった。
ボノボ? ワッペン? どういうこと? 

「これは売れるよ。仲間と作ったんだ。アイデアは俺。
ボノボ、知ってるだろ? サルの仲間。
これからはね、ボノボがくるよ。必ずくる。
ボノボブームはすぐそこまできてる」

まずちょっと皆さんとの感覚のすり合わせを行いたいんですが、この記事、ネタですよね?

いや、創作実話だとか釣りだとかケチをつけるって話じゃなくて、割と明確に「この記事はネタですよ」というメッセージを出しているネタ記事だ、と私は感じたんですよ。いわゆる突っ込み待ち記事。

ほら、昔からちょくちょくあるじゃないですか。「主人がオオアリクイに殺されて1年が過ぎました」とか、「なにやっとるん?あんたのお母ちゃんよ」みたいな、そういうアレ。「そんなわけあるかーい」という突っ込みを誘う記事、「そんなわけあるかーい」と突っ込まずにはいられない記事。アレはアレで、インターネットの文化の一種だと私は思うんですけど。

標題記事を見ていると、「働かない夫」「ネト麻ばっかり」「妻が養っている」みたいないかにもなワードを並べておいて、ああ小町系かな?と思わせたところでボノボのワッペンという、「ボノボかよ」という突っ込みを誘う辺り、かなり完成度は高いネタ記事だと思うんです。乗せておいて乗せておいて、落とす。7年間ツイッターのアイコンがそのままって、2010年以前からTwitterやってる古株ユーザーがそんなことやってて捕捉されてねえ訳ねえだろ、とかそういう話もないではないですが、まあ些少な部分だと思うんです。その後の、Twitterに書き込みをして消した、みたいな部分は、まあ小町風エッセンスに戻すスパイスみたいなもんかなー、と感じました。

正直に書きますと、私もこういう「明示突っ込み待ち系ネタ記事」を匿名で書くことって時折ありまして、それなりにブックマークを頂いたりもしているんですが、言ってみれば同業として、小町系創作実話と明示ネタ記事のちょうど間隙を狙っていくこのテクニック、かなりの増田ベテランの方の仕事だと拝察しました。美しいネタ記事は心を豊かにする。

お見事。お見事です。さぞかしコメントも突っ込みの嵐であることでしょう、とコメントを確認させて頂いたんですよ。

ところが。ところがです。

この記事を「実話」だという前提でのコメント数が、私の想像よりも遥かに多かったんですよ。




あれ?と思いまして。

これも、以前ネタ記事を書いていた経験から申し上げますと、webにおける「ネタ記事感度」って結構高いものだと思っていたんです。いや、「これはネタだ!」とか野暮な指摘をするような話ではなくって、ネタということを了解した上で、それに乗る、みたいな。「ボノボかよ」と直接は言わないで、けどボノボポイントはしっかり拾う、みたいな。「アフリカスナギツネじゃない、やり直し」みたいな。

いや、勿論、ネタと承知でそれに乗る、というコメントをしている方もいらっしゃるんです。結構いらっしゃるんです。

けれど、ここで、例えば「働かないことによる夫婦関係の悪化」とか、「何故7年も放っておいたのか」みたいな、割とガチめの小町要素の部分に突っ込んでる方って、この記事は実話だという前提でコメントされているんでしょうか?それとも、ネタだということは承知の上で、敢えて小町要素に乗る、というような、いわばボケ殺し的な高度なコメント技を使われているんでしょうか?

実は最近、こういう「違和感」を感じる機会ってちょっとずつ増えてまして。

あ、あれ?これはネタの筈…。以前からの定番のネタの筈…。みたいなものが、凄い勢いで実話拡散されていく、みたいな。結果として、どう見ても明示されたネタなのに「これは釣り記事だった!許せん!!」みたいなよくわからない方向に吹き上がっちゃう、みたいな。ネタ殺しマジレス度の上昇、みたいな。


私の感覚があまりにずれているのか?いや、今まではこれで通用していた筈なんだけど…というような、妙な違和感を感じたのでちょっと記事にしてみた次第です。釣り釣られもネットの華といえばそうなんで、まあ大した話ではないんですが…。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:13 | Comment(8) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月12日

中国では「兆」の単位が時代や場合によって違ったりする、という話

なんか話題になっていて昔を思い出したので、ちょこっと書いてみます。常識だったりしたらすみません。

中国での「一億以上の大きな数」についての漢字の用法は昔からえらいごちゃついていて、その混乱を今でも結構引きずっている、という話です。

Wikipediaに分かりやすくまとまっていますのでちょっと引用してみます。

Wikipedia:命数法

万より大きい数詞の示す値には3種類あり、統一されていなかった。下数、中数、上数である。

(中略)

その後、千万の次を億とし、十億(10^9)、百億(10^10)と続けていく方法が考案された。これを中数(ちゅうすう)という。ただし、初期の数学書に示されている中数は万万(10^8)倍ごとに新たな名称をつける方式であった。すなわち、千億(10^11)、万億(10^12)、十万億(10^13)と続き、億の万万倍を兆(10^16)、兆の万万倍を京(10^24)とする。これを万万進という。後に、万倍ごと、すなわち万万を億、万億を兆(10^12)とする万進に移行した。

(中略)

中国では、近代まで万万進と万進が混用されたままであった。それに加えて、メートル法の接頭辞のメガ(10^6)に「兆」(下数における10^6)の字をあてたため、さらに混乱が生じた。今日では、「億」は中数の10^8、「兆」は下数の10^6の意味となっており、兆より億の方が大きくなっている。

これ、「今日では」っていうのが中国全域での一般的な用法と考えていいのかまでは分からないんですが、少なくとも技術用語では「兆」って書くとメガ、つまり10の6乗のことなんですよね。10兆って書いてあると10M、つまり1千万だったりします。なので、冒頭引用させていただいた画像は、MB単位のDL進行具合を表示しているんだ、ということになります。

これだけでも割とめんどーくさい話ですよね。

ただこれ、昔は更にえらい面倒なことになってまして、同じ「兆」という漢字が、時代によっては10の6乗だったり、10の16乗だったり、10の12乗だったりしたんです。これ、同時代ですら表記が混乱してたりしたんですよ。

以前書いたことがありますが、私、大学時代の専門は国語学でして、奈良時代やら平安時代の文書の研究などをしておりました。卒論のテーマは「唐大和上東征伝」の研究です。唐の大和上、つまり鑑真の渡来について書かれた文書でして、「天平の甍」の元ネタにもなっているんですが、まあ本題とは関係ないんで一旦置いておきます。

で、特に日本の国語学って漢文研究と切っても切れなかったりしますんで、中国の古文書もちょくちょく資料として触れたりするんですよ。なにせ昔の文書なんで、大数が出てくることなんて滅多にないんですが、たまーに出てくると「ここで言う兆がどの数え方で記載された兆なのか」ということを調査しなくてはならず、そこではやとちりや見当違いをやらかしてしまうと数字で考えて最大10の10乗分くらいずれたりするんで、大変な目に遭うわけです。場合によってはなんとなく推測するしかなかったりするんで一層カオスです。

中国史は専門でないのでよくわからないんですが、おそらく過去の研究では、「兆の意味を取り違えたせいで数字的に壮絶なずれが生じて、文章の解釈が訳わからないことになった」みたいなケースもあったんじゃないでしょうか。もしかすると、解釈が誤ったまま現在に伝えられている話、なんてのもあるのかも知れません。

ちなみに、中国では万万進という、8桁ごとに単位が変わっていく制度が採用されていた時期もあるので、小学生が良く使うような「いちまんおく」とか「十万兆」みたいな数字も、実際に単位として使われていたりしました。現在の中国語でどうなのかはよく知らないんですが、10の16乗を「万万億」と表記するのは一般的な表記だそうです。

兆、という単純な漢字でも、意外な罠をはらんでいるというだけのお話でした。


今日書きたいことはそれくらい。


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(追記 04/12 19:37)
いくつか声が挙がっていたので追記しますが、「命数法」のページの「仏典の数詞」のところは読んでみて容易に眩暈を起こせるので読み物としてちょっとお勧めです。不可説不可説転。



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2017年04月07日

「ファミコンソフト交換店」についてのおぼろげな記憶のお話

今から、私が子どもの頃のとある記憶について書いてみます。ファミコン時代のほんの一時期隆盛して、そしていつの間にかいなくなっていた、とある形態の店舗についての話です。



小学校中学年くらいの頃、名古屋に住んでいました。


自宅の近所、多分自転車で数分で行ける範囲内に、「ファミコンのソフト交換店」というものがありました。店名はよく覚えていないのですが、多分カタカナ数文字の、よくあるゲーム店という風情の店名だったのだろうと思います。



「中古ショップ」ではありません。「レンタルショップ」でもありません。「ソフトの交換店」です。



ソフト交換というのはなんじゃら、と思われる方もいるかも知れません。それは、一言でいうと、「自分が持っているソフトと多少のお金を出せば、店にある他のソフトと交換してもらえる」というシステムの店舗でした。


その店に行くと、A4一枚くらいの、「ソフトランク表」をもらうことが出来ます。そこには、「Sランク」「Aランク」「Bランク」「Cランク」といったカテゴリー分けと、そのカテゴリー内の様々なソフト名が書いてあって、自由に持ち帰ることが出来ました。


で、「持っていったソフトのランクと、交換したいソフトのランクで、交換に必要な金額が変わる」というのがその店のシステムでした。


例えば、「Aランクのソフトを持っていって、Sランクのソフトと交換すると3000円」だとか。「AランクのソフトをCランクと交換すると500円」「Aランク2本でSランクが1000円」だとか。この辺、金額の記憶はかなり曖昧なんですが、商売なので当たり前の話だとは言え、交換レートはかなり店側有利になっていたと思います。ただ、当時はファミコンカートリッジ自体がかなりの金額したこともあって、それでも新品買うよりは安い、みたいな値段設定だったと思います。



まず、みなさんに聞きたいんです。


この記憶は、正しいですか?皆さんはこういう営業形態のお店、知ってますか?行ったことありますか?使ったことありますか?



私あんまり法律に詳しくないんですが、おそらくこの業態、業種的にかなり問題があったんでしょう。何らかの商法に触れたのか、お上からのお叱りがあったのか、あるいはメーカー側からの指摘なり抗議なりがあったのかも知れません。この「ソフト交換店」という業態の店が観測出来たのは、本当にほんの2〜3年でして、私の観測範囲からもあっという間に消えてしまったんです。その後も、例えばゲームに詳しい人に「こういう店、昔あったよね?」と振ってみても、「知らないなーそんな店」と返ってくるだけでした。

だから正直、自分の記憶にそこまで自信がありません。部分的には、何か別の記憶とごっちゃになってしまっている可能性もあります。



ただ、あのリストは。あのリストだけは。


ゲームのランクを並べた「交換リスト」だけは、確かに覚えている。あの安っぽい紙、「再生紙かよ」と思わず突っ込んでしまう手触り、そしてランク分けされたファミコンソフトのがーーっと並んだリストだけは、間違いなく私の記憶の中にあるのです。



私、結局この「ゲーム交換店」自体は一回も利用しなかったんです。当時は「友人同士の貸し借り」文化がまだ生きていた、ということもありました。ただ、この「ゲームのランクリスト」を見るのだけは好きで、このリストを持ってかえっては寝っ転がりながら見分して、よく「あーこのゲーム面白そうだなー」「このゲームどんなゲームかなー」と妄想にふけっていました。



覚えているんです。それは、今とはまた違った、当時の基準での「ゲームランキング」でした。



例えば、「Sランク」のカテゴリーにはドラクエIVが載っていました。スーパーマリオ3も載っていました。一方、ジャストブリードやラビリンスのような、今となってはそこまでメジャーでもないゲームが、何故か高ランクにでーーんと載っていたことも覚えています。


一方、例えばワープマンやアルゴスの戦士のような、かなり遊べる名作が何故かCランク辺りに配置されていたりもしました。カプセル戦記はBランク辺りだったと思います。

もう一回見たい、あのリスト。どこかに保存されていたりしないものでしょうか。

今となっては、何をどう評価していたのかさっぱりわからないのですが。あれは、多分間違いなく、「ランクづけがされたファミコンソフト一覧」の草分けの一つだった筈です。ただ単に「評価」がついているだけでも、そのリストを読むのは面白く、楽しく、私はよくあーだこーだ考えながらそのゲームリストを読みふけっては「プチ遊んだ気」になっていました。



あの店は、どうなったのかなーと。

あの店をやっていた人達は、あの後どうしたのかなーと。


ファミコンの大ブームの中で、ああいう店は他にもあったのかな?と。それとも、私が住んだ地域、私が住んだ街にしかなかったのかな、と。



どなたか、知っている人がいたら教えてください。「ファミコン交換店」は、あなたの街にもありましたか?



今日書きたいことはそれくらいです。


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(追記 2017/04/09)
皆さんいろいろと情報ありがとうございます!
中部・東海地方での目撃証言が多いので、もしかするともともとは東海圏での業態だったのかもしれないですね。
記憶が確認できて安心しました。

ブックマークコメントより

>藤が丘から北に行ったサンプラザの近くの「マリオ」(記憶おぼろげ)とかいうお店によくいってた。

マリオありました!!覚えてる!!!私の近所の店とは違ったかもしれませんが、行ったことは何度かある記憶があります

posted by しんざき at 22:28 | Comment(15) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月05日

「氷ざいくごて」が象徴する、「ドラえもん」というインフラの物凄さについて


先日、ドラえもん大好きな長男と一緒に南極カチコチ大冒険を観てきました。


ネタバレなしの感想だけ端的に書きますと、

「面白かった」
「ただ、いつもならもうちょっと弱音を上げそうなスネ夫のヘタレ分がちょっと足りなかった」
「やはりスネ夫はここ一番で弱音を吐いてこそのスネ夫では(一応吐いてたけど)」
「オーロラのシーンとか氷の表現とか、絵がめっちゃ綺麗だった」
「狂気山脈分もちょっとあるけど、全体としてはラヴクラフトっていうよりナウシカだった」

というくらいの感じになります。リメイクでない大長編としてはとてもよく出来ていたと思うので、気になる方は是非見に行ってみるといいのではないでしょうか。


で、まずちょっと、南極カチコチ大冒険というより、ドラえもん一般の話から入るんですけれど。一応、微妙にネタバレが混じりそうなので折りたたみます。
続きを読む
posted by しんざき at 12:28 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

かつて、「web理想主義者」だった私へ



例えば私は、かつて、「ある情報の価値は、「誰が発信したか」ではなく、その内容と信頼性で評価されるべきだ」と思っていた。


情報の評価に際して、発信者の権威なんてものを勘案するべきではない」と思っていた。「だから、発信者の属性情報なしで様々な情報を発信出来るwebは、情報を公平に評価できる場所として理想的だ」と思っていた。「情報を評価するに当たって、発信者の属性情報なんて邪魔なだけだ」とすら思っていたのだ。


他にも色々ある。例えば私は、「webでは、様々な一次ソースに直接アクセスできる人たちが、直接情報を発信することが出来る」「だから、メディアの編集プロセスなしで情報を受発信できるwebは、既存メディア以上の信頼性を獲得出来る筈だ」と信じていた。


こうして考えると、私はそこそこ純粋な「web理想主義者」だったんだ、と思う。かつて、私のような「理想」を単純に信じていた人は、web界隈だけではなくたくさんいたと思う。正直なところ、今でも多少は、上記のような理想を頭のどこかに残している部分はある。


理想と現実は常にぶつかり合うものだし、どこかで妥協点が生まれるものだ。現実が理想と背反したからといって、理想を捨てるべきだ、ということにはならない。理想を保持しつつ中庸を歩く、という選択肢だってある筈だ。


ただ、現時点での話をすれば、私にとっての「web理想主義」はだいぶ揺らいでいる。ともすれば「いや、これは現実性のかけらもない理想だったんじゃないか?」と思ってしまいそうになる程だ。


今の私は、「誰が発信したか」は結局、情報の信頼性を判断する上で不可欠な要素なんじゃないか、と思い始めている。

信頼性の高い情報を流し続けた結果、その人自身の信頼性が上がるとしたら、それは結局権威とそれ程変わらないんじゃないか、と思い始めている。

なんだかんだで、たとえ編集を経たとしても、また時に誤報があったとしても、メディアの編集を経ることによる情報の信頼性向上はwebの比ではないな、と思い始めている。


去年一年間は、かつてない程に、「webにおける理想」と「webにおける現実」がぶつかりあった年だった、と思う。いや、ぶつかり合っていたのはもうずっと前からの話だが、去年程それが強く感じられた年は、少なくとも私にはなかった。


PV目当てに炎上狙いの誤報を流し続けるまとめサイトは一向に淘汰されず、コピペまじりの薄っぺらい情報が大量生産され、しばらく見なかった炎上芸人がいつの間にやらひょっこり復活している。

情報が玉石混交なのは当然だが、程度というものはある。川原が見渡す限り石ばかりでは、玉を見つけるにもなにかしら緊急手段が必要というものではないか?


いや、勿論、その一方で「理想」を体現してくれるような情報に触れなかったわけではないのだ。既存メディアではとても見れないような論証、新聞やテレビでは読めないようなソースに触れることが出来て、これぞweb、という気分になったこともないわけではなかった。ただ、機会としてはそれはどこまでも少数派だ。


抱え込んでいる理想が削れていく過程は、水を持たずに砂漠でじりじりと灼かれる感覚に近い。正直、去年一年間はwebの情報に触れるのがつらかった。個人的な好き嫌いもあり、「ゲーム系迷惑まとめサイト消滅しないかなー」と思いながらwebをやっている時間がかなりあった。別にゲーム系に限らないが。


実際のところ、今の私はまだ、「web理想主義者」でなくなったわけではない。理想を完全に捨ててはいない。


「ある情報の価値は、「誰が発信したか」ではなく、その内容と信頼性で評価されるべきだ」

「情報の評価に際して、発信者の権威なんてものを勘案するべきではない」

「メディアの編集プロセスなしで情報を受発信できるwebは、既存メディア以上の信頼性を獲得出来る筈だ」


その通りだ。その通りであって欲しい。

理想を捨てずに、けれど現実的な道を行こうと思う。そうすることで、少しでも理想に近づくことが出来ればいいなあ、と思っている。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(6) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月07日

人生において、面白くないゲームを遊ぶことがいかに重要なのか

今からヨタ話をします。

先日、こんな記事を拝読しました。


「茶番だと感じてしまうことであっても、時には全力を出す必要が生じる」「茶番だと感じてしまうことに対して全力を出すには、ある程度練習が必要」という話だと思います。首肯します。

就活や面接に限らず、「これ意味あるのか?」とか「これは茶番では?」と感じてしまう機会、というのは人生においてしばしばあります。そして、「茶番だと感じてしまうかどうか」と、「そのイベントを乗り越える必要性」というのは、往々にして比例しません。茶番だと感じてしまってもコストとリターンを考えれば全力で当たらざるを得ない案件や、いい加減に当たるにはリスクが大きすぎる案件。色々あります。

それに対して、「たとえそれが茶番であるということが分かっていても、スイッチを切り替えてそれに全力で当たれるヤツは強い」ということは、一般論として言えると思います。茶番かどうかではなく、そのイベントを乗り越えることで得られるもの、そのイベントを乗り越えられないことで失うもの、その大小でリソースを割り振る。これ重要ですよね。


ところで、私は比較的「茶番であると認識していても全力でそれにあたる」スイッチを入れることが上手い方だと自己認識しているのですが、それは何でかというに、幼少からのゲームの経験が大きいんじゃないか、という結論が出ました。


皆さん、ゲーム遊びますか?本気で遊びますか?私は本気で遊びます。


ゲームをクリアしても実質的なものは何も得られないとして、みなさんは何故本気でゲームを遊ぶのでしょうか?

え、ゲームは楽しいから?ゲームで必要とされる負荷が小さいから?冗談でしょう、何言ってるんですか?まさか、楽しいゲーム、負荷がかからないゲームしか本気で遊んだことがないんですか?


勿論、ファミコンには、超面白いゲーム、超楽しいゲーム、人生を豊かにしてくれるゲームが山のようにありました。一方で、時には私たちは、人生を豊かにしてくれるにしてもその際かなり過大なコストを要求するゲームにも突き当たることになりました。


かつて、私は遊びました。スーパーモンキー大冒険を。ロマンシアを。ドラゴンズレアを。時空の旅人を。闘将!!拉麺男 炸裂超人一〇二芸を。


思い出した筈です。皆さんもかつて、「積極的に面白いとは断言できないゲーム」を、必死で、真剣に遊びませんでしたか?そして、それらを必死こいてクリアしては「おらぁぁぁ!!」と叫んで開発者への凱歌としませんでしたか?あ、しなかった?すいません。


私は今でもこれらのゲームが好きですが、「面白かった?」と聞かれると、20秒ほど考えるかも知れません。確かに、これらのタイトルは、楽しむ為にちょっと過大なコストをプレイヤーに求め過ぎていた。それでも私たちは、少なくとも私は、これらのゲームを真剣になって遊び、クリアしてきたのです。(ドラゴンズレアだけは自力でクリア出来ませんでしたが)

これらの、非常にコストがかかるゲームを、なぜ真剣になって遊べたのか?「買ったからには遊ばなくてはいけないから」ですか?いや正直それもないとは言わないんですが。私が考える限り、その理由は一つです。


元来、ゲームには、「目的を単純化してプレイヤーに提示する機能」と、「プレイヤー自身に目的を設定させる機能」があります。茶番の話と結びつけた言い方をすれば、「プレイヤーに強制的にスイッチを切り替えさせる機能」とでも言うべきでしょうか?


多くのゲームには、「なんの役にも立たないけれど、取りあえずクリアしたくなる目標」を提示する機能があります。それは例えば「ステージクリア」であったり、「ゲームクリア」であったり、「パーフェクトボーナス獲得」であったりします。これらは元々、そのゲームに作り込まれた機能です。

そして更に、「なんの役にも立たないけれど、プレイヤー自身に目標を拡張させる」機能もゲームにはあるのです。それは例えば「ノーミスクリア」であったり、「ハイスコア」であったり、「短時間クリア」であったりします。ゲーム自体がそれを提示していなくても、我々は勝手にゲームに目標設定をして、それに対して頑張ることが出来るのです。


この機能を持っているのがゲームだけ、という訳ではありません。ただ、ゲームが特に分かりやすいのは、ジャンルにもよりますが

・ゲーム自体が目標を可視化している(エンディング、ステージクリア、ボスの存在など)
・スコア、クリアタイムなど、それ以外の指標も可視化されていることが多い

という事情があるのではないかと思います。


言い方を変えれば、ゲームはそれ自体、「自発的な目標設定をプレイヤーに練習させてくれる」機能を持っているのです。


ゲームが楽しければ、自発的な目標設定をしなくても我々はゲームを楽しむことが出来ます。


しかし、一部のゲームについては、ある程度自発的な目標設定をしないと正直とてもやってられなかった。たとえばスーパーモンキーで言えば、いかに八戒や沙悟浄を殺さないで先に進むか、というのを一つの目標にしてみたりとか。ゴーストバスターズであればひたすらお金を溜めてみるとか。ゲームを乗り切る為に、自分で新しい目標を作って、そこをメインに遊んでいたのです。


面白くないゲームを遊び慣れると、一見面白くない状況に、楽しめる目標を見出すことが上手くなる!!!!


それこそが、私が「茶番スイッチ」を入れることに習熟した理由なのではないか、と思うわけです。ああ、エピックソニーよ、バップよありがとう。人生には、面白くないゲームを遊ぶことで身に着けられるものが実に重要でした。


ということで、茶番スイッチを入れるのが上手くない人は、今すぐにでもロマンシアを攻略サイト無しでクリアすることをお勧めする(ウィザードリィ4を攻略情報なしでクリア、でも可)訳です。みんな頑張れ。超頑張れ。

ロマンシア楽しいですよね。BGM超かっこいいし。でも許さない、絶対にだ。

あ、今日書きたいことはそれだけです。


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2017年02月24日

店側の万引き容疑者顔写真公開を許容する流れはちょっと違うんじゃないでしょうか

いや、そりゃ窃盗は決して許されることではないですけど、こういうのを許容する流れはちょっと違うんじゃないか、と思うんですよ。



これ、コメントとか見てると店側に同情的、店側の行動を許容する論調が凄く多いですけど。

まず、一番最初に確認しておきたいんですが、

「法治国家において私刑は許されない」
「私人が私人の個人情報を晒すことは私刑である」

という二点は当然の前提ですよね?


その前提を一旦スルーした上で、仮に私刑を許容したとしても、

映像をみると、男は棚の前に立ち、「SAMURAI SHO」を下のトレイに降ろし、死角に消える。そんな動きを2度繰り返し、いつの間にか店を去っていたのだ。2月13日になって逮捕された容疑者と酷似している。

その夜、『SAMURAI SHO』をまさに7本売りに来た男がいるというじゃないですか。盗品ぽいから買わなかったと言うので、慌てて男の画像を送ると“こいつです!”と断言するのです

これだけの記載でも、この「容疑者」が本当に「犯人」なのかどうかすら、確定出来る気は全然しないんですが、これ、一足とびに「犯人だ!」って情報公開しちゃっていいような状況なんでしょうか。

「犯罪者として」顔をネットに公開しちゃうって、実際に実行されたらそれもう「断罪」ですよ。実際に、罪に基づいて罰を与えちゃうわけです。

普通の警察の捜査ですら、現行犯逮捕でもなければ、捜査から逮捕まで数ヶ月から年単位かかったりするのに、わずか数日でスピード犯人確定させちゃっていいもんなんでしょうか。「警察が信頼出来ないんだから仕方ない」といってるみなさんは、お店の判断は何故無条件で信頼するんですか?


この件が「誤爆」なのかどうかはわかりません。映像の人物は、実際に正しい意味での犯人なのかも知れません。ただ、問題はこの件だけの話ではなく、私刑は駄目だという前提すら通り過ぎて、


・こういう案件を「心情的に理解出来る」といった論調で許容していると、必ず今後も同じように、映像を公開しようとするケースが発生するだろうこと
・店側の判断力は決して無謬ではなく、ケースが増えれば必ず、間違いなく「誤爆」「冤罪」も発生するだろう、ということ
・誤爆が発生した時、「犯人扱い」されてネットに公開されてしまった人物の名誉の回復は、一体誰がどうやってするのか、ということ


この三点が、私にはどうにも許容出来ないのです。この三点がある限り、こういうケースを「気持ちはわかる」という論調で許容してはいけないんじゃないか、と思うんです。


勿論、今、私の念頭にはスマイリーキクチ氏の事件があります。以前もこんな記事を書きました。




スマイリーキクチ氏の事件の際、問題となった書籍を書いた著者が話を否定した後ですら、「あいつが犯人に違いない!!」とずーーーーっと言い続けた人たちがいた訳です。一度ネットに「こいつ犯罪者」って形で顔が出たら、それ本当に致命的な事態になり得るんですよ。仮に誤爆が発生したとしたら、無実の罪でずーっと「万引き犯人」って晒され続けるの、ちょっと理不尽過ぎる状況じゃないでしょうか。


お店側が受ける被害の取り返しがつかないように、仮に誤爆が発生した場合の「誤爆被害者」の受ける被害も取り返しがつかないと思うんですが、これ「一方の為なら、もう一方が多少被害を受けるとしてもやむを得ない」みたいな天秤で判断していい話なんでしょうか。こればっかりは原則論をちゃんと保持しなきゃいけない話なんじゃないですか。


いや、窃盗が許されない、なんてことは当たり前ですよ。万引きは窃盗であって、純粋まじりっけなしの犯罪です。書店始め、「万引き」なんて軽い言葉で、物凄い被害がガンガン出ていることも分かっています。

ただ、それに対するスタンスは、「警察もっとなんとかしろ!!!」「窃盗をなんとかするにはどうすればいいんだ?」という論調でなくてはいけない。「警察がなんとも出来ないなら、私刑もやむを得ない」であってはいけない。


スマイリーキクチ氏の事件について読んだ時の絶望感を考えると、私にはそうとしか思えないのです。






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2017年02月21日

totoBIGの件は何が問題なのか、なるべく分かりやすく説明してみる


こんな記事を見かけました。




この件、ブックマークコメントなど見ていると、いまいち問題点が理解されていないのか、あるいは分かってて揶揄しているのか、ちょっとずれた責め方をしている人が何人か見受けられました。

恐らく、分かっていてネタで言っている人も多いとは思うのですが、今回のtotoBIGの問題点は、「出目操作」とか「イカサマ」といったものでは恐らくありません。当然、「奇跡的な確率」といったものでもありませんし、totoは「奇跡的な確率で偶然一致しただけだよ」とは言っていません。

じゃあ何かというと、多分バグというか、仕様がアホだった問題、だと思います。もしかすると、そこと景表法辺りが絡むのかも知れません。

スポーツくじ自体に興味はありませんし、totoをかばうつもりもないのですが、ちょっと上記のような話を見ていて、今回の問題をなるべく分かりやすく解説してみたくなりました。

以下の文章は、「疑似乱数」とか「PRNG」とか「ランダムシード」といったものについて既にご存知の方には、時間の浪費となるリスクが高いテキストです。そういった方にはブラウザの×ボタンを押すことをお勧めいたします。多分右上の方にあると思います。


〇そもそもどんな問題なの?

今回の件、そもそもの発端は、「ランダムな筈のtotoBIGくじが、2回購入した内の5口まで完全一致した」ということのようです。


totoBIGはサッカーの試合の勝敗を当てるくじですね。

もしこれが偶然の一致だとすると、確率は0.0000000000000000000000000000001%以下だそうで。下記はねとらぼさん。


これはこれでだいぶ煽った書き方でして、運営は別に「全くの偶然」とは言ってないんですが、まあそれは後述します。

で、こんなことが偶然に起こる訳がない!ランダムな筈じゃないのか!?これは不正な操作の証跡ではないか!?と問題になったのが発端、というわけです。


〇そもそもランダムって何?

ここで、コンピューターにおける「ランダム」というものについて考えてみたいと思います。

ランダムというのは、法則性がないこと、を指します。例えばサイコロの出目のように、何回振っても次の結果を予想することが出来ない時、その結果はランダムである、と言ったりします。

ランダムに作られた数列のことを、乱数といいます。どこをとっても無作為で、幾つかの数字から他の数字を予想したり計算したりすることは出来ないよ、という数列ですね。

しかし、コンピューターは元来計算機でして、中にサイコロを持っている訳ではありません。妖精さんがサーバの中でサイコロを振ってくれるわけでもありません。

その為、コンピューターは色々な方法で、「一見ランダムと変わらないけれど、深く調べると実は法則性がある」数列を生成して、それを乱数として使います。

これは、要するに「ランダムっぽい数列」であって、実際にランダムなわけではないんですが、まあちゃんと使い方を工夫すればほぼランダムと変わらないような扱いをすることが出来ます。

これを「疑似乱数」と言います。


〇疑似乱数についてもうちょっと詳しく

ランダムっぽい数列を作るには、色んな方法があります。これらを、「乱数生成アルゴリズム」と呼んだりします。

どんな方法があるかはこちらをご参照ください。


線形合同法とか、メルセンヌ・ツイスターとかが有名だと思います。勿論、これらのアルゴリズムをシステムにそのまんま実装する訳ではなく、普通はこれらのアルゴリズムを利用した、乱数生成のライブラリなりコマンドなりを使うことになります。それら、疑似乱数を生成してくれるプログラムを、擬似乱数生成器(PRNG)と呼んだりします。

本筋と全然関係ないですが、メルセンヌ・ツイスターってすげえかっこいいですよね。名前が。白銀聖闘士のミスティ辺りが技として使いそうな名前だと思います。

ここで、「ランダムシード」という言葉が出てきます。この言葉重要。


疑似乱数は、「一見ランダムっぽいけど、実は全部計算で作っている」乱数です。その為、元になる値が一致すれば、同じアルゴリズムは毎回同じ数列を吐き出します。これでは乱数として使い物にならないので、何かしら、乱数のもとになる値を変えてやらないといけません。(参考までに、これが今回の問題の一番重要なところです)

この、「乱数のもとになる値」のことを、乱数の種、ランダムシードといいます。このランダムシードを疑似乱数生成器に食べさせてやると、疑似乱数生成器は乱数っぽい数列を吐き出してくれます。それを、いろんなランダムな結果を作る為に使うわけです。

疑似乱数の質をなるべく高める為には、つまり十分ランダムな数列を得る為には、このランダムシードの扱いが一番重要です。この値をきちんと変えてやらないと、乱数は他の乱数と一致してしまいます。だから、このランダムシードは、なるべく「その場限り」の情報を元にして生成しようとするのが一般的です。

例えば、その瞬間にしか存在しない、日時分秒のデータとか。ユーザーのIDとプログラムの起動回数と日付を組み合わせたり、だとか。


要は、このランダムシードがきちんと散らばっていれば、疑似乱数はほぼ乱数と変わらない動きをするし、ランダムシードと乱数アルゴリズムがポンコツだと疑似乱数は全然乱数っぽくならないよ、という話なのです。


〇じゃあ今回のtotoBIGでは何が起きてたの?

疑似乱数とランダムシードの何かの仕様の問題で、2回のくじの内容がかぶっちゃったんじゃないの、というのが私が考える仮説です。

これは推測するしかないんですが、totoBIGでも同じく、上のような「疑似乱数」及び、何らかの「乱数生成アルゴリズム」を使っていた筈です。そして、何らかの値をキーにして、ランダムシードを生成していた筈です。他に「ランダム」を実現する方法が、(普通に使える範囲では)存在しないからです。

のランダムシードが何を元にしていたのか、というのが、今回の件で一番重要な要素です。

これは、購入する度に毎回変わるものでなくてはいけません。でないと購入する度に数列が一致してしまいます。また、購入した人ごとに変わるものでなくてはいけません。でないと、違う人が買った数列と一致してしまいます。

仮に私が乱数生成ロジックを担当する技術者であれば、「接続元のIPアドレスやMACアドレス、及び(あるなら)ユーザーIDや住所電話番号のような個々人で独自の値と、サーバの日時分ミリ秒を組み合わせて、それをランダムシードに変換すること」を考えると思います。このシードであれば、同じ人が、ミリ秒まで完全に同じタイミングで、同じパソコンと同じネット環境で、同じくじを購入しない限りは、きちんとランダムな数列が生成され、使われる筈です。こういう場合に妥当かどうかまでは知らない。

ただ、例えばこのランダムシードが、日時分までしか使っていなければ?(実は私は、この線を割と強く疑っているのですが)

1分の間に同じ人が二回購入すれば、ランダムシードの値は一致してしまいます。当然、生成される数列も一致してしまいます。その為、今回と同じような問題が発生し得る、という訳です。バカらしいですか?私もバカらしいと思うんですけど、案外バカらしいプログラムって普通に存在するものですしね。

勿論、「ランダムシードが被ってしまう」パターンは他にもいろんなものが考えられます。もしかすると、楽天経由での注文であることも関係があるのかも知れません。なんにせよ、疑似乱数が不出来なせいでランダム性に傷が生じる、というのは全然珍しいことではないのです。

つまり、今回の問題の原因は、ほぼ「疑似乱数生成器の使い方がヘボかった」ことに集約されます。天文学的な確率がどうとかはなんの関係もありません。バグ、ないし仕様の問題です。



〇今回のtoto側の対応はどうなの?

totoは、今回の件について、こんな風に発表しています。

また、コンピューターが投票内容(「1」「2」「0」)を発番する際の仕組みにおいて、重複した投票内容の出現はあり得るものであり、この事象につきましても、システムの不具合や不正な操作等によるものではないことを確認いたしました。(発番の仕組みの詳細につきましては、セキュリティ上の観点から公表しておりません。)

要は、上記のような疑似乱数生成の問題について、「バグじゃありません、仕様通りです」と言ってるんですね。

この文章自体は、「(天文学的な確率で)偶然一致しただけだよ!!」と言っている訳ではありません。つまり、totoは「嘘をついている」わけではありません。上記のような疑似乱数生成ロジックを使っているのであって、一致することは仕組み上あり得るんだよ、けど仕組み自体は教えないよ、と言っているわけです。これに納得するかどうかはともかくとして、この説明に「嘘つき!」というのは筋違いでしょう。

じゃあこれは、今までのtotoの説明と合致するのでしょうか。

ちょっとFAQを漁ってみました。ランダム生成について、こんな記載がありました。


Q165. BIGで試合結果をコンピューターがランダムに選択するシステムはどのような仕組みですか。
BIGはあくまで『くじ』として、1口ずつ「1」「0」「2」の3つの選択肢を試合ごとに1/3ずつランダムに選択する仕組みとなっています。
上記のような仕組みであるため、ある特定の数字が連続して出現する可能性やその反対で出現しない可能性もあるため、結果的にくじの組み合わせに偏りが生じる場合があります。

あんまり細かいことは書いてないですね。ただ、「ランダムに選択する」とは言っているので、「今回のような不適切な疑似乱数が発生するシステムを、ランダムと言っていいのか」という争点は発生する、のかも知れません。

ただ、ヘボい疑似乱数が他に存在しないか、というとそんなこともない訳であって、今まで疑似乱数の品質由来の訴訟やら判例やら存在しないかな?と思って、ちょっと調べてみたのですが見つけられませんでした。これは単に私の探し方が悪いだけかも知れませんので、もうちょっと追加で調べてみます。

疑似乱数自体に「ランダムとは言えない」というNG判定が出ることはほぼあり得ない(そうすると、世界中のコンピューターシステムで「ランダム」という言葉がつかえなくなってしまいます)ので、法的に今回の件がNGと出るかどうか、というのは難しい問題であるような気もします。


勿論、「totoのような大規模なくじで、疑似乱数生成ロジックがヘボかった」というのは、それ自体非常に大きな問題だと思います。その為、この辺のロジックがもう少し明確にされる、ロジック周りの改良がなされる、といった動きはあっていいように思います。そういう動きがなかったとしたら、totoくじの信頼性が低下してあんまり売れなくなる、ということもあり得るでしょう。

その辺は今後観測してみたいと思います。



ということで長々と書いて参りました。結論というかまとめとしては、


・コンピューターの「ランダム」は、一般的なイメージの「ランダム」とはちょっと違うよ
・今回の問題は、作為とか不正というよりは多分疑似乱数生成ロジックがヘボかった問題だよ
・もし法的な問題が発生するとしたら、「上のようなヘボいロジックが「ランダム」という言葉に値するか」という問題になると思うよ
・カルドセプトサーガのダイス問題?イヤな事件だったね…


という感じになると思いますが、まあ最後の件はどうでもいいです。

今日書きたいことはこれくらいです。


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(追記 2/21)
すいません、一点情報が抜けてました。今回購入されたくじ、同じタイミングで買ったものかと思ったら、別の日に購入されたものらしいですね。

だとすると私が書いた、「例えばこのランダムシードが、日時分までしか使っていなければ」というのは外れですね。疑似乱数生成とランダムシードの問題であること自体は変わらないと思うんですが、どんな実装だったんだろう。



posted by しんざき at 07:22 | Comment(34) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

そのゲームやアニメに全く触ってないのにTwitterやpixivなんかでいろんな情報に触れている間になんとなく自分でも遊んだような気になる現象

ってなんていうんでしょう。なんか正式名称みたいなものあるんでしょうか。

いや、全然大した話じゃないんですけど。

ネタバレだなんだという話ではなく、流行ってるものってなんだかんだで情報は目に入ってきちゃうんですよね。感想も見ますし、二次創作のイラストもたくさん見ますし、なんか怒ってる人とファンの戦いを見たりもしますし、皆楽しそうです。

私は、自分が触れてないコンテンツでも、皆が楽しそうにしているのを見るのは割と好きなので、見ている内になんか色々知識が溜まってきて、なんとなく自分もそのコンテンツを楽しんでいる、ないし楽しんでいたような気分になります。艦これはやってませんが鳳翔さんは可愛いと思いますし、デレマスはやってませんが蘭子さんは可愛いと思いますし、FGOはやってませんが魔神柱祭りはすごかったですね。

実際には三国志大戦とかダライアスバーストCSとか風来のシレン4とかciv6とかイーアルカンフーとかに時間を食われているが為にやっていないだけであって、特段プレイすることを忌避しているわけでもないんですが、プレイしていなくてもなんか楽しいというのは割とお得だと思います。皆さん、似たようなことありますか?

勿論実際に触ったらもっと楽しいんだろうなあとは思いますので、時間が無限にあれば是非全部のゲームをやりたい。

あと、関係ないんですがぷよm@sを見て以来アイドルマスターはいずれちゃんとやってみたいと是非思っているんですが、あれ今まで触れてない人間が最初に触るとしたらどのタイトルがいいんでしょうか。出来れば携帯機の方が助かるんですが。千早さんは育ててみたいです。

以下、まだやれてないけれど今後遊びたいゲーム一覧。

・逆転裁判5,6
・ソフィーのアトリエ
・ゴーストトリック
・ポケモンサンムーン
・モンハンダブルクロス
・オーディンスフィア
・ノーラの工房
・プリニー

本当私だけ一日が48時間欲しい。マジで。やりたいゲームが老後までに全部プレイ出来るともとても思われず、是非健康に長生きしてゲームをやりまくらなくてはいけないですね。


ということで、ただの雑談でしたけど今日書きたいことはそれくらい。



posted by しんざき at 23:21 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする