2018年05月14日

保守・運用の仕事の大切さを説明するのは、保守・運用の仕事の内なのか?


そらちょっと違うんじゃねえかなあ、と思うんですよ。

ちょくちょく思いついたことを書いて寄稿させて頂いているBooks&Appsさんに、こんな記事を書かせて頂いたんです。


この記事自体は、

・保守運用の仕事分かりにくいよね
・けど、分かりにくいってだけで表層な理解しかされずに、経営サイドに切られちゃうことがあるよ
・そういう場合大抵大炎上してめっちゃダメージになるよ
・切るなら切る、評価しないなら評価しないで、そうすることによるリスク、ベネフィットってものはきちんと把握した上でやらないといけないよね

ということが言いたかった記事でして、どっちかというとマネジメント側の話として書いたんですが。

この記事に対しての反応として、例えばtwitterとかで

・保守・運用をする側が、もっとその仕事の重要さをアピールするべき
・作業員が自分の必要性や専門性を主張するべき

とおっしゃる方がいまして。実のところ、以前からそういう風に、「評価されてない・必要性を認識されていないのは仕事をしている側の責任」という文脈に触れるケースは結構多いんです。

それ、本当にそうなのかなあ?と。もうちょっといっちゃうと、それは個人の評価の問題と、企業や組織のリスク・ベネフィット評価の問題をごっちゃにしているんじゃないかなあ?と思ったんです。

確かに、それが個人の評価の問題の話であれば、「自分はどれくらい貢献した」「自分の仕事はどれだけ重要なんだ」というのを評価する側にアピールするのは、ビジネスパーソンとしての個人の職責の内です。評価されたかったら、評価されるべき材料を提示しなくてはいけない。そこは間違いありません。

しかし、今回問題になってくるのは、「システムの保守運用」という仕事、それ自体です。

そのシステムに対する保守運用があることで、会社はどのようなベネフィットを得ているのか?

保守運用を切った場合、会社にはどのようなリスクがあるのか?

それは、切った場合のコストと見合うものなのか?

これらは全て、そこに働いている人個別の評価とは関係なく、組織を運営する上でのリスク評価、コスト評価の話です。

それ、何をどう考えても、主体となるのは経営側、マネジメント側なんじゃないかなあ?と。その評価が出来るか出来ないかっていうのはマネジメント側のリテラシーの問題であって、その責任を現場側に求めるのはおかしいんじゃないかなあ?と思うんですよ。

勿論、保守運用は上記記事でも書いた通り、そこそこ専門的な仕事であって、「何をやっているのかよく分からん」というのはある程度致し方ないところではあります。そりゃそうです。

ただ、「その仕事をすることでどんな効果があるのか」「何が守られているのか」「それをしないとどんなことが起きるのか」という諸要素を把握する時に、仕事の細かい内容なんて把握する必要ないと思うんですよ。少なくとも、保守運用を行わないとシステムの維持管理が出来ないこと、そのシステムがまともに動かないと何が起こるのか、その程度のことを把握しておくのはマネジメント側の当然のリテラシーなんじゃないでしょうか?

百歩譲っても、そういった情報、リスク、コストの把握、それはマネジメント側が主体となってヒアリングするなり情報収集するなりして把握するべき問題であって、「主張しなかった現場が悪い」となるべき問題ではない。「現場が主張しなかったんだから切られても仕方ない」なんて結論をつけるべきではない。

私はそんな風に思ったんです。

私自身、立ち位置を考えるとすればどちらかというとマネジメント側の問題であって、恐らく価値を理解出来ていない仕事も、重要性を把握出来ていないスキルも色々とあるんだろうなあと。

ただ、それについては、マネジメント側の責務としてきちんと把握しにいって、自分のリテラシーを高めていかなくてはいけないと。

そう考える次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:07 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月10日

ゲーム実況動画を楽しめない理由をもうちょっと掘り下げてみる


シロクマ先生から言及頂いていました。


不倒城は基本的にぼっちブログであって、他ブロガーさんと交流させて頂く機会が極めて少ないのですが、お声がけいただけると喜びます。折角なのでお返事を書こうかと思います。

ただ、シロクマ先生もこうおっしゃっている通り、



ここまで書いてみて、ゲームについての一般論をしんざきさんから演繹するのは意味がないような気がしてきた。それよりも、しんざきさんという一人のゲームプレイヤーのゲーム観やゲームモチベーションをもっと伺いたいとか、その異質性の成り立ちを知ってみたい気持ちが湧いてきてしようがない。


おそらく私自身の例はそこそこ特殊例かも知れず、いわゆる「ゲーマー」の中でも一般化しにくいケースかも知れません。それはご承知の上で読んで頂ければと思います。

さて。

前回、この記事では私は、単に「他人のプレイを楽しむというチャネルが自分の中にない」「ゲームは自分にとって「遊び」に近い」「人の遊びを見ても、自分が遊びたくなるだけ」と書きました。これはこれで私の中では正しいのですが、「何故そうなったのか」ということについては、そこまで掘り下げなかったつもりではあります。「楽しめる」理由を掘り下げるのは好きなのですが、「楽しめない」理由を掘り下げてもあまり面白い話にはならなそうな気がした為でもあります。

私には、「自分で遊ぶの楽しいぜ!」「みんなも遊ぼうぜ!」と呼びかける意図はあるのですが、とはいえ「ゲームを観る」楽しさを否定する意図は全くないのです。私に楽しめないとしても、それは飽くまで私だけの話であって、私以外のたくさんの人たちがゲームプレイ動画を楽しむのであれば、それは良いことだと思っています。楽しんでいる人に水をぶっかける意図は全くありません。


その前提の上で敢えて、私個人が「楽しめない理由」を敢えてもうちょっと掘り起こしてみますと、大きく二つの理由があるような気がしてきました。

その内一つは、シロクマ先生もこう書いて頂いている、


 この記事にもあるように、しんざきさんは『ダライアス外伝』に心臓を捧げていた時期があり、ハイスコア目指してPDCAサイクルをガンガン回していたという。その最中において、ゲームは自分でやるもの・自分で戦うものという意識が強まっていたことに疑問はない。

 それでも、『ダライアス外伝』とそこまで向き合う前後の時期に、ゲーセンなり駄菓子屋なりで仲間やプレイを観戦したり、年上のプレイヤーに憧れたりした時期はなかったのだろうか?

まさにこの話に関係しています。

「スパる」っていう言葉、皆さまご存知でしょうか?かつて、ゲーセンではごく一般的な用語だったのですが、最近はあまり聞かなくなっているような気がします。

要は「他人のプレイをこっそりと観察して、稼ぎや攻略テクニックを学習する(=スパイする)こと」なんですけど、スパイなんて言葉が使われてる通り、昔はこれ、「良くないこと」「道義にもとること」として扱われていたんですよ。つまり、他人からテクニックを盗んで、ライバルを出し抜こうとする行為だと思われていたんですね。

恐らく地域差もあれば店舗ごとの意識の差もあったのだろうとは思うのですが、少なくとも私が認識する限り、私が住んでいた地域って、この「スパる」行為についての警戒感、拒否感がかなり強い地域だったんです。

なるべく人が少ない、「スパられる」心配が少ない時間にプレイする、だとか。スパイ防止の為、店員と仲良くなって閉店後にプレイするだとか、仲間に視線を塞ぐ壁になってもらう、ギャラリーを排除してもらうなんて話すら、全然珍しくない文化圏でした。

時には、スパったスパらなかったで喧嘩が起きた、ゲーセン出入り禁止になったなんて話も聞いたことがあります。実際目撃した訳じゃないんで、ホントかどうかは知らないですけどね。

「得点稼ぎくらいでアホらしい」と思う人も、恐らくいるのではないでしょうか?ただ、少なくとも昔のスコアラー界隈では、それは全然アホらしいことでもなんでもない、真剣な、熾烈な情報戦だったんですよ。

当たり前ですが、youtubeもなければ、スーパープレイのビデオが簡単にみられるわけでもなかった時代の話です。

正直に書いてしまえば、私もあの手この手で他人のプレイを「スパった」ことはあります。わざわざ普段とは違うゲーセンに遠征して、見てない振りをしてこっそりと他人のプレイを観察したこともあれば、重要な稼ぎのヒントをその過程で見つけ出したこともありました。

ただ、それは少なくとも私にとっては、どこまでも「後ろめたい」行為であったし、道義にもとることをやっているなーという自覚もあったのです。

それは、何をどうひっくり返しても「楽しい」行為ではなかった。本来ならやってはいけないことを、勝つために必要だから仕方なくやっている。そういう意識でした。

一時期、ダライアス外伝は本当に、私の生活の全てといっても差し支えがないくらいのゲームタイトルでした。ただ、それだけに、この時期ダライアス外伝に絡んでおこなった行為、努力、工夫は、いい面も悪い面も含めて、その後もずっと尾を引くくらいの影響を私の中に残しているようなのです。

あれ以来、「他人のゲームプレイを観る」という行為が「楽しい」カテゴリーから外れてしまった、ある意味では「後ろめたい」行為にすら直結してしまった、という側面は、よくよく考えてみるとそこそこありそうな気がします。少なくとも、スーパープレイの動画を見る時に、私がどこかで「あー昔ダラ外でスパったなー」という記憶を思い出してしまうことは間違いのない事実です。一種のトラウマかも知れません。

もしかすると確かに、スコアのことなど何も気にしなかった子どもの頃、他人のプレイを目を輝かせて見ていた時期が私にもあったかも知れません。ただ、その感覚を塗りつぶすくらい、ダラ外に血道を上げた時期が自分の中で強烈だった、ということも本当なのだろうと思います。

そういう点では、例えば私が子どものゲームプレイを眺めることを「ゲーム観戦というよりは子ども観察」というのも、ある意味では自分をごまかしているのかも知れません。私は長男とゲームの話をするのが好きですし、時には長男のゲームプレイ内容を興味深く追いかけることもありますが、それを「子ども観察」とわざわざ換言するというのは、「ゲーム観戦ということにしたくないから」と無意識で思っているから、という可能性もあります。まあ、自分ではそこまで大げさな話ではないつもりではありますが…


で、シロクマ先生の個別の疑問にお答えすると、


 上掲リンク先を読む限り、しんざきさんが『ダライアス外伝』をやり込んでいたゲーセンは、ハイスコア狙いがそれほど盛んではなかったけれども絶無でもないように読めた。絶無でないなら、ゲーセンで仲間ができた可能性や、巧いプレイヤーのプレイに見惚れる可能性はあったかもしれない。


上記のような次第でして、「ゲーセンにはハイスコア仲間もいればライバルもいたが、お互いのプレイを観るのはマナーとして意図的に避けていた」というのが正解です。お互いのスコアは、ランキング画面でスコアネームだけで確認することが常でした。それはそれで結構楽しい人間関係ではありました。


 それとも、しんざきさんは他者に全く見向きもせず、非常にストイックにゲームをプレイしていたのかもしれないし、そこまでストイックになれなければ、有名店でない場所で『ダライアス外伝』で全一を獲ることなど、不可能だったのだろうか?

他人のプレイには非常に興味がありましたし、情報収集はむしろ積極的に行っていました。有名店でない店で、有名スコアラーに人脈がある訳でもない身としては、そうでもしなければ全一なんて無理だったろうなあ、と思います。



ただ、上記とはまた全然違うレベルの話として、私がただただ単純にゲームが好きであること、そして特に「自分が遊ぶ」ということにこそゲームの楽しさを強く強く見出していること、そこは先日の記事に書いた通りでして、それ以上の話ではありません。私は単に、ゲームを遊ぶのが好きなのです。動画を見る時間があったらゲームを遊びたくなるのです。

シロクマ先生がおっしゃるところの、「ゲームはプレイしてナンボ」精神は今後とも強く強く保持していきたい、出来れば回りにもそれを広めていきたいと。そう考える次第です。

ところで。

上の方で私は、「大きく二つの理由がある」と書きました。これ以降はもう完全に、ゲームすらあんまり関係ない個人的な事情なんですが、私コンテンツとしての「声」が実は苦手なんです。。。

これはなんでなのかよく分からないんですが、動画だろうがテレビ番組だろうがアニメだろうが劇だろうが、「声が出る視聴コンテンツ」ってそれだけでちょっと苦手で、例えばゲームでもオフに出来るボイスは必ずオフにしちゃうんですよ。アニメがあんまり楽しめない理由も大部分がそれです。

得意か苦手かっていうと苦手、っていうだけで、摂取出来ないって程じゃないので、例えば子どもたちを連れてアニメ映画観に行ったりすることもあるんですが。「実況動画」というカテゴリについて言うと多分それも楽しめない原因の一つで、撮影主さんの声が全く入っていないプレイ動画でないとそもそもあんまり観れなかったりします。

この原因は本当に謎なんですが、もしかすると下記のような話が関係してるのかも知れないなーとはなんとなく思います。


ただまあ、これは余談です。

ということで、今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 16:24 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月08日

俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ


たとえば、ゲームが好きだという話をすると、この間こんな実況動画が…みたいな話をされることがある。

たとえば、ゲームセンターCXというテレビ番組の話を振られる。面白かったねーという話になる。

その度に、ちょっとだけ心が痛む。それは、「ゲーム」というコンテンツに対する捉え方の違い、一つの文化を広い側面で楽しめる者と、楽しめない者の差、ほんのちょっとした心のささくれだ。

何故かというに、私には「知らない人がゲームプレイをしているところを見て楽しむ」という嗜好が全くないからだ。他人のゲームプレイの動画を見ても私は楽しめないのだ。ゲームプレイにくっついた、小粋な会話を楽しむことも出来ないのだ。ただただ自分が遊びたくなるだけなのだ。「動画を見る時間があったらゲームがやりたい」と思うばかりなのだ。

これは勿論、例えばゲーム実況動画という文化を否定するものではない。むしろ逆で、ゲーム実況動画がゲームの裾野を広げたという点については、「ゲーム」というものがようやく、野球やサッカーのように「ただ遊ぶだけではなく見て楽しむ」というチャネルを広範に手に入れたものだと、喜ぶべきことだと思っている。

裾野は広い方がいいし、入り口は入りやすい方がいい。同じゲームという文化を楽しむのであれば、その楽しみ方はなるべく多面的であるべきだ。色んな楽しみ方が成立していいし、色んな楽しみ方が許容されていい。

ただ、それとは全く別問題、別会計として、私の中には「ゲーム実況」を楽しむというチャネルが存在しないのだ。これはむしろ、私がゲームを遊ぶ際のキャパシティがより偏狭であるということに他ならない。例えば私は、長男がゲームを遊ぶところを観察するのは好きだが、それは飽くまで「子ども観察」であって「ゲーム観戦」ではないのだ。ゲーム観戦に限っていえば、私はただひたすら「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」と思うばかりなのだ。

何故なのだろうか。

これは飽くまで私に限っての話なのだが、私はおそらく、どこまでもゲームを「コンテンツ」ではなく「遊び」として捉えているのだと思う。これはもう根本的な認識、体質とでもいうべきものであって、多分今更上書きしようにも出来ないことなのだ。

つまり、私にとってのゲームというものは、公園でやる鬼ごっこであり、かくれんぼなのだ。それは飽くまで「自分が入って、自分が遊んで、初めて成立する楽しさ」であって、外から見ていて楽しめる種類のものではないのだ。

私はおそらく、あまりにも「遊ぶ」楽しさにどっぷりと漬かり過ぎたのだろう。それはACTの楽しさであり、STGの楽しさであり、RPGの、SLGの、AVGの楽しさだ。あと一歩でステージをクリアできる時にタコミスで自機が死んだときの身をよじるような悔しさ、超強力な敵ボスを青息吐息でやっと倒し切った時の達成感、吐きそうな試行回数の末にようやくレアアイテムを手に入れた時の嬉しさ、難解なパズルステージの解法をあれこれ試してようやく見つけた時の驚嘆。

それら全ての対象が「私」であって、自分以外を向いているとそれを楽しむことが出来ないのだ。一種の麻薬中毒のようなものなのかも知れない。

それに対して、プロ野球やプロサッカーのような「コンテンツ」としてのスポーツであれば、「自分がプレイする」よりも「見て楽しむ」ということがメインとなることは当然である。現在、ゲームに対してそのようなスタンスで接することが出来る人も、恐らく以前よりずっと増えているのだろう。

それは良いことなのだと思う。

ただ、私自身について言えば、「自分で遊んでこそのゲーム」だというスタンスは恐らく変えようもないことだと思うし、出来ることなら「見る専」の人たちにも、「見る」を入り口として「遊ぶ」楽しさにも目覚めて欲しい、ガンガンゲームを買って遊んで欲しい、と考える次第なのである。


posted by しんざき at 07:24 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月12日

聖闘士星矢の展開以外で12星座を覚えることが出来なくて困っている

今からどうでもいいことを書きます。


しんざきは割と残念な記憶力の所有者でして、物事をなかなか覚えることができません。ダライアス外伝の敵出現パターンとか、パーツ破壊の順番とかなら覚えられるんですが、一般的に必要そうな知識は記憶するのに一苦労します。

で、そんな中の一つ、割と一般的に潰しが利きそうな知識として、「12星座の順番」というものがあります。おうし座から始まってうお座で終わるアレです。

皆さん覚えてますか?順番に言えますか?12星座。あれ、子どもがいると、唐突に「わたしはなに座でしょう!」とか聞いてくることがあるので、結構考えることが多いんですよ。

で、当然のことながら私は正攻法ではとても12個もの順列を記憶することができませんので、何か別なもので記憶を代替させようとするじゃないですか。たとえば干支であれば、「ねずみのちゅーすけさん、うしにのって おまいりよ」みたいな歌がありますので、咄嗟に思い出すことも出来るわけなんですが、12星座はそれに該当するものがないんです。いや、もしかしたらあるのかも知れないですが私が知らないんです。

そこで出てくるのがアレです。そうアレ。


聖闘士星矢 黄金聖闘士編


現在の30代〜40代男性であれば、恐らく7割から8割が影響されているであろうお化けコンテンツが聖闘士星矢です。最近は色々リメイクもされているわけでして、もしかすると10代の少年ズにも多少はタイトルが知られているのかも知れません。

12星座の間に重大なヒエラルキーを作ってしまった罪深い漫画でもありまして、獅子座や乙女座がデカい顔をする一方、蟹座や魚座が肩身が狭い思いをしたりもしましたよね。あったあった。かに座はマニゴルドが超かっこよかったので多少救済された側面もありますが、デストールが追加攻撃を仕掛けてきて色々アレでしたよね。いやまあデストール強いし結構いい味出してはいるんですけど。

私は黄金聖闘士編の展開ならほぼ完ぺきに覚えているので、黄金聖闘士と星矢たちが戦う順番を思い出すことによって、12星座の順番をシミュレートすることが出来るんですよ!!!超便利!!!!

順番に考えてみましょう。

まず最初に、白羊宮にムウがいます。ムウは当然星矢たちの味方なので、最初は戦わず、黄金聖闘士の強さについての説明だけをしてくれます。これ、最初にガチで戦わないチュートリアル的なキャラがいるってゲーム展開的に素晴らしいですよね。車田先生の星座配置能力が光ります。

次に出てくるのがアルデバランです。彼、元々ちょっと葛藤があったこともあって、若干星矢成長の噛ませっぽい演出をされてしまったところもあるんですが、まあ羊→牛という展開的には特に問題はない。

次に…謎の顔が黒い聖闘士てめえサガちゃんと双児宮にいろよ俺が覚えられないじゃねえかこの野郎、と思わないでもないですが、彼が立場的に双児宮にいられないのは理解出来ますので仕方ないとしましょう。

そして安定のデスマスク、アイオリア、シャカの並びが続きます。かに座→しし座→乙女座の流れですね。デスマスクは言うに及ばず色々とアレなんですが、アイオリア→シャカの並びが実力的にヤバイ。青銅側のチートキャラ一輝を当てざるを得なかったシャカの強さは、当時ちびっ子たちの度肝を抜いたところです。

その次が氷河の師匠でもあるカミュ。みずがめ座ですね。ここで氷河は、師匠の手で氷の棺に閉じ込められてしまうわけです。

その次にさそり座のミロ、無人の人馬宮、やぎ座のシュラが続きまして、更にみずがめ座のカミュ、魚座のアフロディーテ…


ん、今みずがめ座2回無かったか?


そう。これが「黄金聖闘士で12星座覚えるよシステム」の最大にして最凶のトラップ。

「カミュが何故か宝瓶宮をほっといて天秤宮まで降りてきてたよ問題」

なのです。


てんびん座の童虎は皆さんご存知の通り廬山でお座りマスコットと化しておりましたので、天秤宮は本来無人の筈だったのですが、カミュが余程暇だったのか、氷河を戦いから降ろす為という口実でわざわざ出張して来やがりまして、そのせいで登場する順番が崩れてしまったのです。なんということでしょう。干支の詩でいえば、

「おうまはぽっくりこ、ひつじとかけくらべ、さるもあとからおいかける」

であるべき筈のところ、

「おうまはぽっくりこ、とりが突如乱入したのちひつじとかけくらべ、さるもあとからおいかける」

になっているようなものです。このようなアクロバティックな歌を前に、子どもたちは一体どのように振る舞えばいいのでしょうか。てめえカミュ!!宝瓶宮で大人しくしてろよ俺の記憶に重大な支障が出るだろ!!!!


ということで、「黄金聖闘士の順番で12星座を覚える時は、天秤宮にカミュが出張してきたことをきちんと覚えていないと大混乱に陥る」という問題について書いてみました。皆さんには是非、当該トラップを無事にくぐり抜け、健やかな12星座記憶生活を過ごして頂きたいと考えること大です。

なお、「聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話」は、手代木史織先生の手によるスピンオフ作品なのですが、内容が本気で熱い上にかに座のマニゴルドが超かっこいいので、未読の方は是非ご一読いただきたいと思うところ大です。特にかに座の方は是非。

極めてどうでもいい内容でしたが、今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 07:26 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

「勝つ」以外に楽しむ道がないゲームの弊害

こんな記事を拝読しました。


 対人ゲームと言うものの第一目標が「相手に勝つ」という事である以上、冷酷な事を言うようですが「勝つこと以外を目的にするプレイヤー」の居場所は狭いものであり続けると私は考えています。

 勝てなくてやめようと思っていたそのゲーム、頼むから強キャラ・強カードを使ってくれ。

 そしたらまた少し楽しく遊べるようになるかもしれないからさ。

おっしゃるところはわかるんですよ。確かに、「負けっぱなしだと面白くない、そのゲームを続けられない」「なら(特に初心者は)素直に強いキャラ、強いカードを使え」という筋立ては、実際のところ正しいと思います。

ただ、それに対してもう一つ問題があるのは、

・みんなが強キャラ・強カードだけを使っているとそれはそれで楽しめないし文句を言う人がたくさん出てくる

ということだと思うんです。

格ゲーでも、デジタルカードゲームでもなんでもいいんですが、「完全に公平なゲームバランス」などというものは実際のところないものねだりでして、どうやっても「強いカード」「弱いキャラクター」というのは出てきてしまいます。カードの強弱を全部真っ平にしたらそれ本当に面白いのか?というと勿論そんなことは全然なく、ある程度「強さ」を偏らせてキャラクターやカードの間に勾配を設けるのは、ゲームの面白さの中での必要条件ですらあります。

その為、ある程度「強キャラ」「強カード」「強い構築」というものはどうしても出てきてしまう。勿論程度というものはありますが、そこまでは前提と考えていいと思います。

そんな中、みんなが「強キャラ」だけを選択してしまうと、今度は「同じキャラ、同じ構築とばかり当たって面白くない」という文句が絶対に出てくるんですよ。

これは、「勝ちだけにこだわる」という人が多ければ多い程、また「強弱の勾配」が強ければ強い程明確な傾向になります。だから、あらゆる対戦ゲーム、あらゆるDCGは、「なるべく強弱の勾配を抑える、けどキャラクター・カード間の勾配やバラエティ自体はちゃんと作って、それを楽しめる」という、まるで綱渡りやシーソーゲームのようなゲームバランシングをし続けることになり、ちょっとでもバランスが崩れれば環境が強キャラ一色になって非難の嵐、みたいな話になるわけです。


これ、どうすればいいんですかね?


ちょっと話をDCGに絞った上で、一つの理想を言えば、

・どんなキャラ・どんな構築を使っても、プレイング次第で一定以上の勝率が得られる

という状態は一つの目指すべき地点と言えるのでしょう。「どんな構築を使っても」という時点で、「じゃあ全バニラでも勝てんのか」って話になってないものねだり感凄いので、まあ落としどころとしては「なるべくたくさんの構築で一定以上の勝率が得られる」くらいになるんでしょうけど。


ただ、もう一つの話をすれば、

・「勝てなければ面白くない」という地点にたどり着くのが速すぎる、それ以外の遊びの幅が狭すぎる

というのは一点、割と根本的な問題じゃないかと思うんですよ。


先日、冒頭の記事とはまた別に、こんな記事を拝読しました。


 勝って当たり前、負ければストレス。ゲームを始めた直後からこんな状態でゲームを続けて上手になるわけがない。楽しくないものに対して理解を深めようとする人間はなかなかいないはずだ。

  デジタルTCGからカードゲームを始めて「勝ちたい」と思うようになるのと、リアル紙ゲームからカードゲームを始めて「勝ちたい」と思うようになるのには、多くの場合はバックグラウンドが大きく異なっており、更にそこに至るまでの期間に大きすぎる差がある。


正直私、これ結構同感でして。「ゲームを始めると、殆ど即「勝つか負けるか」だけの空間に放り込まれてしまって、しかもweb上の情報もそれに特化している」って、今のDCGに共通する病だと思うんですよ。ハースでもシャドバでもドラクエライバルズでも、ゲーム名でぐぐると合わせて「最強デッキ」とか「tier」が提案されるようなご時世ですしね。

「勝った時の気持ち良さを最大化する」というのは、DCGとしてとても重要な要素だと思います。間違いないです。


ただ、それとは別に、「勝ち負けと別のところで楽しめる要素を充実させる」ということも、「勝つか負けるか」以前のところでユーザーを救済するべき要素として、重要な話だと思うんですよね。これがあれば、それこそ「勝ち負け」というゼロイチの世界に飛び込む前に、カードゲーム自体の楽しさを学べるかも知れない。

例えばHearthstoneであれば、アドベンチャーモードや酒場の喧嘩がある程度その役目を担っていると思います。まあ、酒場の喧嘩の場合結局勝ち負け絡んじゃいますけど。DQライバルズなんかは、正直現在ランキングモードっていう勝ち負け修羅道以外の楽しみ方が殆どないですね。現行環境のバランス自体は割といい感じだと思うんですが。

例えばDQライバルズで言えば、少なくともストーリーモード・アドベンチャーモードみたいなものは最低限導入するべきだと思いますし。デッキのオリジナリティが評価されるシステムとか、突拍子もないようなコンボが重要視されるシステムとか、あるいはそれこそドラクエ6的な「デッキのベストドレッサー」みたいなものを追及するモードとか、そういう要素があってもいいんじゃないかと思うんですよ。


ジョニー・ティミーに関わらず、「勝つ・負けるとは別の地点でも楽しめる」要素が更に充実してくれることを祈ってやまないわけです。


ちなみに、更にもう一つのソリューションとして、「負けても楽しい」という要素を導入するというソリューションもあるにはありまして、私はその一つの解答が「非ダメ脱衣」だと思っているんですが、これはまあだいぶ余談です。


被ダメ脱衣、いいですよね。魔界村はちょっとノーサンキューですけど。

ちなみに勿論ドラクエライバルズに被ダメ脱衣を導入しろという話ではなく、ゼシカやミネアならまだしもトルネコが脱ぐとか誰得感凄いので、それとは別の方向性を期待するところ大です。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:31 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月10日

妊娠・出産が「罪」でしかない社会

先日、こんなニュースを見ました。

一方、学校の勧めの結果、自主退学した32件のうち、生徒や保護者が通学や休学、転学を希望していたのに学校が退学を勧めたのが全日制で12件、定時制で6件の計18件あった。残りは、生徒らから明確な希望がなかったという。
 学校が退学を勧めた理由は、「母体の状況や育児を行う上での家庭の状況から、学業を継続することが難しい」が18件、「学校の支援体制が十分ではなく、本人の安全が確保できない」が8件、「本人の学業継続が、他の生徒に対する影響が大きい」5件、その他が1件だった。
これなんですけど、私、割と身近で同じようなケースを観測したことがあるんですよ。関係的には友人の妹なんですけど、やはり高校在学中に妊娠してしまって、本人や家族はなんとか高校に残れないかって希望したんだけど結局退学になってしまった、ってヤツですね。

勿論観測例としては1ケースだけなんで、一般化するつもりはさらさらないんですが、この記事で受けた印象とは結構食い違っていたなーと思いまして。

上の例でいうと、

・「本人の学業継続が、他の生徒に対する影響が大きい」5件

というケースに当てはまるのかも知れないんですが、退学をするよう言われた時の主要な理由が、

・校内の風紀が乱れて他の生徒への悪影響になるから

ということだったらしいんですよ。これ、実際に先生にそういわれたらしいですよ?

つまり、「妊娠」という行為というか結果自体が「悪」であって、それが他の生徒にまで波及する、風紀が乱れる、という話ですよね。それ、どうなのかなあ、と。

いや、確かに、「高校在学中に妊娠」というのが、色んな意味でデメリットが大きく、本来避けた方が望ましいことである、というのは分かるんですよ。体育の授業だって出られないでしょうし、生徒同士の接触も問題になるかも知れませんし、当然常時体調不良がデフォルトのような状況なので、学業にもマイナスの影響が出るでしょう。それが望ましくないことは理解出来る。そういう意味で、「学校の支援体制が十分ではなく、本人の安全が確保できない」という理由ならまだわかる。

けど、「ほかの生徒に悪影響が」って、まるでセックスと妊娠を「穢れ」みたいなものとして捉えて、それが広がるのを防がなくては、みたいな考え方ですよね?

実際今でも、「在学中のセックスなんてとんでもない」っていう考え方の先生はいますし、そこから「性教育自体を忌避する」みたいな斜め上の方向に繋がることもありますよね。七生養護学校事件でしたっけ。「寝た子を起こすことになる」みたいな、いやお前流石にそれはロジック自体がおかしいだろ的なヤツ。


ただ、そこまではいかなくても、妊娠という行為自体が「罪」であり、その「罰」として退学させる、みたいな向きは、正直かなり広範にあるような気がしているんですよ。実際、件の知人妹とその親御さんも、感覚的には完全に「懲罰」という認識で退学まで追い込まれてしまったそうなんです。妊娠させた側の責任はどうなんだ、とかそういう話以前に、そもそもなんで学校で「責任」という議論になるのか、という話なんです。


避けるべき妊娠というものは確かにあるし、その為に性教育をする。

ただ、それはそれとして、妊娠自体は決して悪いものではないのだから、万一妊娠してしまった場合はそのサポートをして、どうするべきなのかを考える。


そういう訳にはいかないんですかね?と思ったんです。妊娠自体を「罪」として扱ってちゃ、そりゃ少子化なんて解決するわけないだろ当たり前じゃん、みたいな。


上の高校のケースとはまた状況が全然違うんですが、最近は仕事関係での妊娠についてのニュースも立て続けに見ました。



これもまあ、高校生と社会人では状況は全然違うものの、「妊娠することを罪と捉える」という構図は似ていますよね。

結局根底には、セックスと妊娠というものを尊重しないというか、「制御出来なかった結果」「過ち、過失」みたいにしか認識していない向きがあって、それが「妊娠は罪」という構図を生み出しているんじゃないかなあ、と、そんな風に思ったんです。


少子高齢化は問題か?と聞けば、多分大体の人は「問題だ」と答えるでしょう。

ただ、その反面、妊娠を「皆でサポートするべき良い状態」と捉えることが出来る、そういう認識って実は全然広まっていないんじゃねえか、と。少子化対策以前の問題なんじゃねえか、と、ちょっと懸念を覚えた次第なんです。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 07:36 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月09日

「〇〇50選」とか「△△100選」とかじゃなくて渾身の数選を読みたい。なんなら一選でいい。

タイトルで完結しているんですが。

ほら、あるじゃないですか。〇〇におススメ出来る漫画100選、だとか。△△なゲーム50選、みたいなそういうアレ。大量のタイトルと、良くて数行くらいのコメントががーーっと羅列されてる系の記事。

ああいう記事好きな人もいるかも知れないですし、活用している人ももしかしたらいるのかも知れなくて、それ自体を否定する気はないんですが。ただ、少なくとも私自身は、ああいう記事を読んで「面白かった」とか「参考になる」って思ったことが一度たりともないんですよ。

何というかあの手の記事って、量が余りにも多すぎて、一つ一つの作品に対する思いが完全に希釈されてるように思うんですよね。

それはただタイトルを羅列してるだけやん、と。単なるカタログなら出版社のサイトなりamazonなり見た方がよっぽどいいやん、と。

いや、ああいう記事を書いている人たちが、一つ一つのタイトル、一つ一つの作品が好きだということを疑うわけじゃないんですよ。中には検索順位がどうとかアフィ目当てとか邪推する人もいるかも知れませんが。私は疑いません。

ただ、50とか100とかいう数字は、思いを込めるには多分ちょっとデカ過ぎる。

少なくとも私は、ブログを見に行くときは、それを書いた人の個人的な思いが読みたいわけなんですよ。その人にしか書けないこと、その人が感じたことを知りたい。おススメな作品なのであれば、その人が何をどう感じて、どうお勧めと思うに至ったのかを知りたい。タイトルの羅列を読みたいという欲求は全然ない。

「俺はこれが好きだ!!!」

という叫びを読みたいわけなんです。

そこから考えると、「お勧めの〇〇」っていうタイトルで読みたいタイトル数はせいぜい4,5タイトルだなあ、と。というかなんなら一作のお勧めに全てをかけてもらえるのが一番面白そうだなあ、と。

ちょっと誤解されがちなんですが、私、「皆が知らない名作についての記事が読みたい」という訳では全然ないんですよ。いや、皆が知らない名作を掘り起こす記事はそれはそれで読みたいですが、なんなら誰もが知っているメジャータイトルについての感想、レビューでも全然かまわない。むしろ、メジャータイトルについてどういうアプローチで接するかって、その人独自のスタンスが出てめっちゃ面白くないですか。


ということなので、皆さまに置かれましては、「お勧め〇〇n選」という記事でのnの数は控えめにしていただけると私は楽しいなあ、という話なわけでした。よろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。



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2018年03月23日

ジャンプでゴルフ漫画を連載することがいかに難しいか、という話


皆さん、「ライジングインパクト」って覚えてますか?



小柄でありながら天性の飛ばし屋でもある「ガウェイン・七海」を主人公とするゴルフ漫画。今はマガジンで「七つの大罪」を描いている鈴木央先生の作品です。

登場人物の何人かは「ギフト」という特殊能力を持っていて、ガウェインは450ヤード飛ばすわ、ランスロットは70ヤードのパットでも沈めるわ、トリスタンは風の影響を完璧に見切って120ヤードチップインさせるわ、まあ言ってしまえば超人ゴルフ漫画だったんですけど、当時凄い面白かったですし、私の認識では結構人気もあったと思うんですよ。面白かったですよね?

ただ、その「ライジングインパクト」ですら、ジャンプでは苦戦したようで。一度打ち切り→読者の要望で復活→再度打ち切りっていうルートをたどってるんですよ。


ジャンプで「一度打ち切られた漫画がそのまま本誌で復活」っていうのも相当特殊な状況ですから、まあ凄い熱意があるファンがたくさんいたんだろうと思うんですけど、それでもアンケートでは安定した順位がとれなかったってことですよね。あんだけ面白かったし、少年読者に分かりやすい工夫も色々されてたんだけどなあ。

ジャンプでのゴルフ漫画ってもともとそんなに数は多くなくって、多分「ホールインワン」と「隼人18番勝負」とライパク辺りが主要なところだと思うんですが、他にありましたっけ?ホールインワンも2年で終わってますし、隼人18番勝負も1年で終わっちゃってます。

「プロゴルファー猿」は言うまでもなく、「青空しょって」や「DANDOH!!」を擁するサンデーや、「あした天気になあれ」や「空の昴」が人気を博したマガジンに比べると、元々少年誌の中ではゴルフ漫画が不遇だったのがジャンプ、ともいえると思うんですよ。


で、皆さんお分かりの通り、現在ジャンプでは「ROBOT×LASERBEAM」が連載されています。「黒子のバスケ」で大人気になった藤巻忠俊先生の次回作です。


まず前提なんですが、ROBOT×LASERBEAM、私はすげー面白いと思ってるんですよ。

主人公の鳩原呂羽人も、「ゴルフ自体は素人だけど、一点集中型の凄い能力をもっている」っていう設定も王道だし、それでいてキャラクターは独特で、性格的にも好感が持てて。能力の見せ方にも、周囲からの認められ方にもカタルシスがあったし、周囲のわき役陣も最初っからすごいいい味出してた。鷹山とのライバル展開も、更にその上をいく朱雀恭介なんかのキャラクターの出し方も自然で、読んでいて気持ち良かった。

ただ、これも皆さんお分かりの通り、ROBOT×LASERBEAMは現在掲載順でも最後方グループ常連ですし、展開にも物凄いテコ入れが入っていまして、栄藍学院高校は殆どすっ飛ばされて三足飛びくらいにプロになってしまった。いきなりの3年後展開にはさすがに「そうくるかー」と思ってしまいました。


これ、藤巻先生的にはおそらく「高校編をもっとゆっくり描きたかった」というご希望があったと思うし、ほぼ出番がすっ飛ばされてしまった栄藍高校の先輩の面々も、ロボがプロを目指す展開も、プロテストに挑戦する顛末も、もっとゆっくり読みたかったなーと言う感想は正直捨てきれないんですよ。あの先輩たちも含めての高校生活とか、絶対楽しそうじゃないですか?

ただ、それでも恐らく、ジャンプ読者の間で広い人気がとれたのかっていうと厳しかったんだろうし、だからこそのテコ入れ展開なのか、あるいはほかの事情で超速展開になっているのか、いずれにせよやむにやまれぬ事情での今の展開だろうとうは思いますし。

これだけ面白くても人気がとれないのか、という点で、つくづく「ジャンプでのゴルフ漫画」って難しいんだなあ、と。また、黒子を描いた作者さんの次回作にもある意味容赦をしないジャンプは、まあ流石ということなのかなあとも、やや複雑な感情とともに考えるわけです。



個人的にはちょっと色々忸怩たる思いがありまして、私「ロボレーザービーム面白い」とは折に触れて言ってたんですけど、例えば不倒城でがーっと押したかっていうと、正直あんまり触れてないんですよね。

いや、勿論不倒城の影響力なんて吹けば飛ぶ程度のものなので、それを書くことで何か影響があったかっていうと死ぬほど怪しいところではありますが、それでも何人かの方は、それを読んで「お、こんな漫画があるのか、面白そうだな」と思ってくれたかも知れませんし。何より、「もっと書けばよかったなあ」と今になって思うこともなかったと思うんですよ。

自分で「好きなものは軽率に好きと言っていけ」などと言いながらこの体たらく、反省すると共に、今後とも面白いと思ったコンテンツは反射神経で褒めていきたいと、そういう風に考えた次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:33 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

仮想通貨のおかげでブログ収益化界隈がだいぶ静かになったので仮想通貨に感謝している

ただの雑感です。

私の観測範囲の問題もあるのかも知れませんが、最近「ブロガーサロン」とか「ブログ収益化」とか「ブログで不労所得」みたいな話、あんまり見なくなったような気がしません?はてブのhotentryとかからは明らかに減ったなーって感じてまして。

ちょっと前までは、「ブログ開始〇カ月で△万PVを達成した私の手法」とか、「1年で×万円の収益を達成」とか、なんかそういうnot for me感が振り切れている記事がその辺にゴロゴロ転がっていて、踏まないにしても歩きづらいなーと感じることがしばしばあったんですが、最近そういうのだんだん見かけなくなってきたんですよ。

風通しが良くなって凄しやすくなってきたなー、と思っていたんですが、なんかその辺の界隈の人、ここ数カ月で皆仮想通貨界隈に行っちゃったらしいんですね。ああなるほどそっちですかほうほう、まあ良いことですねって感じで。

正直個人的な所感としては、現時点の仮想通貨って、投資商品としては単に死ぬほどボラティリティが高いだけで、投資家保護の体制が全くできていないハイリスク商品っていう印象しかないんですけど、まあ凄い話題になって、それいけーーーって感じで大量の人たちが流入したっぽいですよね。

別にマネタイズは悪いことではありませんし、出来る人はルールの範囲内でどんどんやればいいって思ってはいるんですが、個人的にはあんまりお金のにおいが強すぎる環境も過ごしにくいなーって思ってまして。そういう意味では、お金のにおいを感知して移動する人たちにはガンガン仮想通貨に集まって欲しいし、その方が界隈が平和になると思うんです。ゲーム系迷惑サイトとかも仮想通貨系迷惑サイトにジョブチェンジしてくれないかしら。

ここひと月くらいまた静かになりつつあるみたいなんですけど、出来ることならもっともーーーっと盛り上がって、界隈で絶好調にお祭りを繰り広げていて欲しいなーと考える次第です。仮想通貨がんばれ。もっとがんばれ。


あんまり関係ないけど、今の行政処分乱射の流れって本当に投資家保護の体制構築につながるんですかね?個人的な所感としては、ちゃんと業界団体とかできてある程度投資家保護のフローが出来るまで、3年くらいはかかりそうな気がしているんですが…


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 06:59 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

「チーズバーガー二つ買った方がダブルチーズバーガー買うより安いやん」とか言ってるヤツは何もわかってない

まず第一に、「チーズバーガー二つ」は「ダブルチーズバーガー」の代替にはならない。絶対に、ならない。味が違う。食感が違う。重量感が違う。何もかも違うのだ。

「ダブルチーズバーガーを食べる体験」と、「チーズバーガーを二つ食べる体験」は全く別のものだ。どちらが好きかというのは好みの問題だから、別に「チーズバーガー二つの方が好き」という人を否定はしないが、後者で前者の代替が出来ると思っている人は完全に何かを勘違いしている。

ダブルチーズバーガーは、口に含んだ時のあの充実感、パティとチーズが贅沢に絡み合うあの重量感が何よりのポイントなのだ。チーズバーガーを二つ食ったところで、あの充実感は再現出来ない。再現できるとしたらカロリー程度のものだ。

贅沢っていったって、たかが340円の贅沢やん、ってか?その通り、たかが340円の贅沢だ。340円が「たかが」なら、何故チーズバーガー二個との差額、80円程度を「たかが」と呼ばないのか?


「チーズバーガーをバラしてダブルチーズバーガーに組み替えればええやん」ってか?それも全然違う。

ダブルチーズバーガーに必要なものはバランスであって、具のバランス、ケチャップのバランス、パティのバランス、どれが失われてもダブルチーズバーガーにはならない。ダブルチーズバーガーは、最初からダブルチーズバーガーとして形成されなくてはいけない。つまり、そもそも味が再現出来ない。

仮に味が再現できたとして、「チーズバーガーを二つバラして、それを元通り組み合わせる」という面倒くさい作業に関するコストはどう評価するんだ?手を動かすコストだってれっきとした人件費だぞ。マックのテーブルでわざわざ手をケチャップまみれにしながらリビルド作業をするのか?

余ったバンズは食うのか?捨てるのか?捨てるなんて勿体ないことをしたくないし、バンズだけ食うなんていう余計な体験もしたくない。それは、「食事」という体験のバリューを純粋に下げる行為だ。折角の「食事」という体験に、余計な体験など混ぜ込みたくないのだ。


「ダブルチーズバーガーよりチーズバーガー二個の方が安いやん」と言っている人は、要は原価厨だ。構成物の金銭的コストだけを見ていて、それ以外のコスト、あるいはバリューというものを全く評価していないのだ。こういう人が往々にして、リンゴ2個あれば足りるところを、「まとめて買った方が一個当たりのコストが安いから」などといってリンゴ5個をまとめて買って、3個を腐らせたりする。

物事は、コストとバリューという二つの側面から考えなくてはいけない。単に「コストを安く」ということだけ考えていては、バリューがどんどん犠牲になっていく。それに何より、「コスト」というのは単に金銭コストだけでなく、作業コスト、時間コスト、精神的コストから移動コストまで、ありとあらゆるものがコストなのだ。


だから私はこういう。

コストが金額だけだと思うな、と。

コストだけでなくバリューを見ろ、と。

そのコストを削ることで、それ以上のバリューを削ってはいないか、と。


「ダブルチーズバーガーよりチーズバーガー二個の方が安いやん」というのは、典型的な「金銭コストしか見ておらず、他の種類のコストも、バリューも考慮していない」発言だ。少なくとも私はそう思う。


あと全然関係ないけど、ダブダブチ美味しかったよね。常設にして欲しい。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 18:17 | Comment(25) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

twitterのお気に入り数インフレ展開がひどい

単なる昔話です。

さてここに「さまざまなめりっと」があります。まなめさんとかいうコーラしか飲まない変わった人が、その日のトップfavツイートを収集していたサイトです。

ちょうど大体8年前の、2010年3月17日のトップfavツイートがこちらです。


トップfavが、error403さんのこのツイートで、まなめりっと掲載時のfav数が114favですね。error403さん、最近お元気でしょうか。

お分かりでしょうか。100fav越えたら普通にトップfavツイートが狙えたし、数十favでも平気でランクイン出来たんです。というか、当時の感覚では、数十favを越えたら既に「バズ」であって、無茶苦茶たくさんの人に見られたツイート、という感覚でした。せまーーい世界だったんです。

ちなみに、まなめりっとが昔はてなグループで運営していた頃に遡れば、もっと以前のトップfavツイートも参照することができます。例えばこれは2010年の9月のトップfavツイートですね。


この時は私も載ってるんですが、確か台風で電車が止まりまくった時で、皆台風ネタで盛り上がってた記憶があります。その時もたった67fav。今から考えれば本当に「たった」ですよ。

ふぁぼったーというのは面白いサービスで、皆からfavをもらったツイートが1時間に1回くらいの頻度で更新・掲載される、言ってみれば人気が出たツイートを可視化するサービスでした。当時、「ふぁぼったーに載りたいから面白いこと言う」という動機を持っていた人はたくさんいましたし、それがtwitter継続の大きなモチベーションになっていた人もいたんですよ。また、favが自動的に収集されて即晒されるので、ツイートパクリ問題もそこまでひどくはなかった、気がします。全くないってわけじゃなかったんですが。

で、こちらが直近の人気ツイートランキングです。


1位のお気に入り数が14万5000。万。万て。数十やせいぜい100ちょっとだったのがたった8年で14万て。お前な、ドラゴンボールだって、戦闘力12万のギニューが出てくるまで、作中世界で13年かけてるんやぞ。ドラゴンボールより戦闘力のインフレペースが速いって一体どれくらいインフレさせてるねん。

バズるツイートについても、昔よりはインパクトのある画像ネタやら、役立つライフハックネタが増えたような気はします。ただこれについては、別に頭をひねってなんか面白いこと言う人が減ったわけではなく、ユーザーのボリュームゾーンとそのボリュームゾーンが好むツイートの傾向が変わった、というだけの話なのでしょう。パクツイが流行った一時期、「どうせパクられるから」と、ネタを盛んに投下していた人も結構な数去ってしまいましたが、まあそれも今更の話ではあります。

まあこれ自体は別に悪い話ではなく、twitterが一般にも普及したこと、twitterの利用人数が単純に増えたこと、それによってretweetを介した拡散力が広範になったことを示していると思います。良いことなんです。


ただ、twitter老害としては、多少昔が懐かしいなーと思うこともあります。

「お気に入り」ではなく、「fav」だったあの頃。

うさ山さんとかダ・ヴィンチ恐山さんとかerror403さんとかが、大体ふぁぼったーの上位陣を占めていた、あの頃。常連は決まっていても、ほんのちょっとのバズでいきなりその日の上位ツイートに掲載されることもあった、あの頃。

ほんの5favのツイートでも、「赤ふぁぼ」と呼ばれて喜ばれていたあの頃。3favですら紫に色分けされて、なんとなく敢闘賞のような雰囲気を出していたあの頃。

公式の機能としてRTがサポートされていなくって、引用したツイートがそのまま流されて自分にリプライが飛びまくってぶちキレそうになっていたあの頃。RTが「公式RT」と「非公式RT」などというよく分からない分類をされて、何故かしつこく「非公式RT」を使い続ける人も絶えなかった、あの頃。


「あの頃に戻りたい」などとセンチメンタルなことをいうにはちょっと血なまぐさすぎる思い出ではあるのですが、まるで小さな大喜利小屋のようなあの頃の独特な空気というものを、誰かがどこかに書き残しておいてもいい。

そんな風に思って、こんな昔話を書いたわけです。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 07:31 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月09日

「アオアシ」の武蔵野戦があまりにも素晴らしいエピソード過ぎるので紹介させてください

どうもしんざきです。なんか最近ずーっとこれ言ってる感じですが、アオアシが超面白いんですよ。

「パパが読んでる本は面白い本」という認識を持っている長男も最近ハマりました。長男サッカーやめちゃったんで、「またサッカーやりたくなったりする?」って聞いてみたら「プロは別腹だから」というなんだかよく分からない回答が戻ってきました。良く分かりませんが特に問題はないそうです。

で、先日こんな記事を書いたんです。

アオアシの基本的な展開が、「才能はあるが洗練されていない主人公の成長と超克の物語」であることは間違いありません。「粗削りな才能を徐々に磨いていき、周囲に認められていく主人公」という筋書きは、スポーツものにおいて一つの王道です。何度か書いている「さすが」と「まさか」の面白さでいうと、バランス的に「まさか」に寄った筋書きですよね。
アオアシが、主人公の青井葦人を中心とした物語であることは間違いのない事実でして、アシトの能力、努力、成長、弱さ、強さ、全部ひっくるめてアオアシという作品の魅力の中核であることは議論を俟たないと思います。試合中の思わぬタイミングでのアシトの活躍気持ちいいですよね。

で、9巻から11巻まで、ほぼ丸々三冊をかけて描かれるのが、アシトが所属するエスペリオンユースと、武蔵野蹴球団ユースとの一戦です。9巻序盤の武蔵野偵察から、11巻の武蔵野戦決着までが、「武蔵野戦編」と言っていいでしょう。





この「対武蔵野戦」というのが、アオアシという作品の中でも出色の「群像劇」でして、現在のところ間違いなく作中ベストゲームであろうと思われたので、ちょっと紹介してみたくなりました。


以下は、ネタバレになりますので折りたたみます。画像は引用の要件を満たす形で引用します。



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2018年03月08日

自分が好きなものを嫌っている人がいたら、その100倍「俺はこれが好きだ!!!」と叫ぶのが良いと思った

私自身のスタンスを先にまとめておくと、

・私が好きなものを嫌うことは勿論あなたの自由です
・ですから、私と関係ないところで、私が好きなものについて「嫌い」と言われていたとしても、別にわざわざ反論しに行ったり説教しに行ったりはしません
・ただし直接私に言われたら私に対する意見とみなして反論はするよ
・ただ「嫌い」というだけなら何の問題もないけど、何か誤った根拠で批判しているのを見かけたら、「それは間違ってるよ」とは指摘するかも知れないです
・私が好きなものに対して「嫌い」という意見を観測したら、「私はこういう理由で好き」というのをすげー主張するかも知れないです

というくらいの感じです。よろしくお願いします。

以前こんなこと書いたんです。


残念ながら、世の中には「自分が嫌いなものを、他人がほめていることが許せない」という人たちが結構いるようで。

ただたんに「このゲームが面白い!」と言っているだけの記事に、なんでこんな言葉を吹き付ける人がいるんだろうなあ、と。大変に面倒くさい人たちだなあ、と。他人の「面白い!」を、一体どういう根拠で否定しようとしているんでしょうか、と。


上の記事で書いた意見は特に変わっていません。今でも、他人の「これ好き!!」を探し出してわざわざ水をぶっかけに行く人は、40時間くらいひどい腹痛にでも悩まされて欲しいと思っています。

今も変わらず、「だれかがそれを嫌っているかも知れない」ってことは全くくみ取らず、自分の好きなものについては「これ超好き!!!!」と主張していこうという所存ですし、そうし続けているところではあります。最近だと特にイース8とアオアシをベタ褒めしています。

ただ、それとは反対ベクトルの話もちょっとありまして。

「自分が好きなものを嫌いと言っている人が許せない人」というのもいるよね、それは「自分が嫌いなものを好きと言っている人が許せない人」を裏返しにしただけで、やってることは変わらないよね、ということを、先日話してたんです。

別に、批判に対して反論してはいけない、わざわざ反論すべきではない、という話じゃないんですよ。投げかけられた批判には反論していいですし、もし誤った論拠があれば誤っていると指摘していい。売られた喧嘩なら値段に応じて買うべきです。

ただ、世の中には、ただ自立的に「〇〇が嫌い」と言っているだけの人に対して、「俺は〇〇が好きなんだ!!〇〇が嫌いだなんて許せない!!」という感じで、ただ「自分が好き」というだけの理由で、その「嫌っている人」をぶん殴りにいく人が結構観測出来るなあと思っていまして、それはちょっと違うんじゃねえかなあ、と思うんです。


当たり前のことですが、「好き」「嫌い」というのはその人の自由です。それを止める権利、それを「間違っている」という権利は誰にもない。何かを好きになる、何かを嫌いになることを阻害する権利は誰にもない。

なので当然、「〇〇は嫌いだ」ということを表明するのも自由なんですよ。

だから、「嫌い」と言っているだけの人に対してわざわざ文句をつけにいくのは、「好き」と言っているだけの人にわざわざ文句をつけるのと同じように理不尽な話だよなあ、と思ったんです。


誰かが「〇〇が嫌い」と言っている人を見かけたとして、その〇〇が好きな人がやるべきことは、「〇〇が嫌いだなんて許せない!」と憤って殴りつけにいくことではなくて、「自分は何故/いかに〇〇が好きなのか」をその100倍くらい表明しまくることではないかなあ、と。それによって、「嫌い」に共感する以上に「好き」に共感する人を捕獲することができれば、それで大勝利と言っていいんじゃないかなあと。

少なくとも私にとってはそっちの方が性に合っていますし、例えばメタルマックス2Rが嫌いだと言っている人や、ダライアス外伝が嫌いだと言っている人を見かけたら、それぞれの作品がいかに素晴らしいかというツイートを30連投くらいしようかなーと考える次第なわけです。よろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。

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posted by しんざき at 07:33 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

「ニセ科学批判は危険」と言っている人が勘違いしていること

こんな記事を拝読しました。


全体としてみれば言いたいことは色々あるのですが、一点指摘するとすれば、
なぜこれが「危険」かというと、そうした「批判」こそが「カルト化」を助長することになるからです。

ホメオパシーの効果を信じている人が、「科学的に言ってホメオパシーには効果はない」とネット上で言われたからといって、果たして納得するでしょうか?

むしろ、「現代科学を信奉する人間にはホメオパシーの価値は分からない」と考え、「現代科学忌避」の傾向を強めるだけではないでしょうか?
この点については、「ニセ科学批判批判」の人が割と頻繁に利用する傾向がある論法であるように見受けられます。

この論法が一点勘違いしている、というかもしかすると意図的に見落としているかも知れないことは、


・ニセ科学批判は、カルトになるような熱心な信奉者に向けたものではなく、それ以外の大多数の「保留者」ないし「存在や問題点を知らない人」に向けたものである


ということです。

確かに、例えば現状既にホメオパシーを熱心に信奉している人であれば、Web上でのホメオパシーに対する反論を見たとして、それが信奉を捨てるきっかけになるかどうかというのは怪しいところです。場合によっては、よりカルト化を強める、ということもあるかも知れません。

ホメオパシー自体は、もはや「効果が証明されていない」のではなく「プラセボ以上の効果がないことが科学的に証明されている」段階であって、欧州科学アカデミー諮問委員会(EASAC)の声明やら、日本医学会の会長談話とその支持やら、その他色んなエビデンス付きの検証が出ています。

代表的な検証を一つリンクします。


ただ、それらを受けても「既存医療サイドの陰謀」的な決めつけを行う人はいますし、そういう人たちにはもはやロジカルな説得は届かないのでしょう。それは確かです。

ただし、世の中には大多数の

・ホメオパシー自体を知らない
・ホメオパシーを勧められたが、まだ信じ切れていない、迷っている
・なんとなく怪しいと思っているが、言い切る根拠がない

人たちがいるのであって、そういう人たちに対しては「プラセボ以上の効果はないんだよ」ときちんと情報を提示してあげることが必要ですし、重要です。ぐぐった時に「あ、ホメオパシーって別に謳っているような効果はないんだ」という材料を見つけられることが重要ですし、それが重要であることが分かっているからこそ、信奉者の人たちが熱心にそうした批判記事を攻撃するわけです。

仮にそうした「ニセ科学批判」が行われなくなったとして、カルト化は止まるのか?というと全然そういうことはなく、単に粛々と信奉者の人たちが一見科学の体裁をとった記事をwebにアップし続けて、今まで判断を保留していた人たちを信奉者側に引っ張り込むだけの話です。

だから、「ニセ科学批判」は「危険」でもなんでもなく、「極めて重要」なのです。信奉者を説得する為ではなく、保留している人達、存在自体を知らない人たちを引き留める為に、重要なのです。



それともう一点、これも信奉者側の人が使う論点として代表的なものなので指摘しておきますが、

以上、見たように、プラシーボ効果しかない療法であっても、

現に「役に立つ」と思っている人がいる以上、それは「確かに役に立っている」
のですから、それだけで、十分に社会的な意義があると言えます。

ホメオパシーは、プラセボ効果しかないから批判されている訳ではありません。医療ネグレクトを煽り、重大な事故につながっているから批判されているのです。ホメオパシーを担いでいる人達が、「これにはプラセボ効果しかないから、通常医療をまず受けて、それと併用する形で使ってね」と公言しているなら誰も批判しません。

冒頭記事でもまさに触れられている、山口市の死亡事故なんてその代表的なものですが、


ホメオパシーが医療ネグレクトを起こしている事例は、Webをちょっと検索しただけでも色々観測出来ます。オーストラリアでは、死亡事故に伴ってホメオパスの両親に有罪判決が出たこともありました。



また、そもそもプラセボ効果自体、非常に議論が分かれるものであって、現状でも比較対照試験以外に用いられることは稀ですし、対照試験における利用についてすら倫理的に認められないのではないかとする議論もあります。



早い話、「プラセボ効果はあるかも知れないんだからOK」というのは全然妥当ではないのです。その点についてはご認識頂いた方がいいのではないかと思いました。


まあ、冒頭記事については、見た感じもっと適切な批判コメントもあるところ、反論しやすいコメントに対してしか反論していないように見受けられますので、この記事が届くかどうかもちょっと分かりませんが、一応意見を呈しておきます。


今日書きたいことはそれくらいです。







posted by しんざき at 08:12 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月21日

ところでスピリッツの「アオアシ」がめっちゃ面白いです

いや面白いんですよこれが。以前からおもしれーおもしれーとは言っていたんですが、特にここ数カ月の展開がより面白さにブーストかけてきてまして、今連載している週刊漫画の中では、個人的なトップ3に入ってきました。


ということで、今日はアオアシの面白さについてつらつら述べさせて頂こうと思うわけです。多少ネタバレが混じるのはご容赦ください。

アオアシは、ビッグコミックスピリッツで連載しているサッカー漫画です。数あるサッカー漫画の中でも、プロチームの下部育成組織である「ユースチーム」を描いていることが特徴です。

主人公の青井葦人は、愛媛の公立中学でサッカーをやっていたところ、粗削りの才能を「エスペリオンFC」ユースチーム監督の福田に見いだされ、紆余曲折の末エスペリオンのユースチームに参加することになります。そこで彼は、様々なプレイヤーとぶつかり合い、時には協力して、チームと自分自身を成長させていくことになります。


アオアシの基本的な展開が、「才能はあるが洗練されていない主人公の成長と超克の物語」であることは間違いありません。「粗削りな才能を徐々に磨いていき、周囲に認められていく主人公」という筋書きは、スポーツものにおいて一つの王道です。何度か書いている「さすが」と「まさか」の面白さでいうと、バランス的に「まさか」に寄った筋書きですよね。

手前味噌で申し訳ないですが、ちょっと以前書いた記事から引用します。

「まさか」のカタルシスというのは、要するに逆転のカタルシスだ。最初周囲から見くびられていた主人公が、「まさか」と思われる中強敵を倒すことによる気持ちよさ。弱かった主人公が、努力して超強くなる気持ちよさ。大ピンチに陥った仲間チームが、「まさか」と思われる大逆転をして勝利を収める気持ちよさ。

まあ戦闘もの少年漫画なんか、最終的には予定調和的に主人公が勝つものが大多数だとは思うけれど。それでも、そこに至る「まさか」という気持ちよさを演出するのは作者の腕の見せ所であり、この気持ちよさの大小がその漫画の面白さに影響する部分は大きいと思う。
ただ、アオアシの面白いところは、そこだけの話ではなく。いやむしろその「まさかのカタルシス」というのは副次的な話でして。


この漫画、「主人公の成長と覚醒具合」がすっごい絶妙なんです。


主人公のアシトは、地元の中学サッカーで無双出来る程度の実力は最初からあるのですが、きちんとした練習をしたことがなく、ユースチームの中ではフィジカルも技術も全然ダメな部類です。パス回しも苦手なら、ドリブルもフェイントも勿論いまいち。

で、この漫画の凄いところは、「その弱点については安易に成長しないし、解決しない」んですよ。

勿論、アシトのテクニックも全く成長しない訳ではなく、元来サッカー練習についてはひたむきなアシトは、色々試行錯誤してテクニックを身に着けようとしていくわけで、それも多少は実を結ぶんですが。ただ、テクニックはそんなに急に成長したりはしないし、フィジカルはそもそも根本的に解決しない。「フィジカル強い選手に当たったら当たり負けるよ」というのはどうしようもない訳です。

ではアシトはどういう側面で成長・あるいは覚醒するのかというと、それは「視野と戦術」

実はアシトには、「物凄い視野の広さ」という潜在能力がありまして、それこそフィールド上のありとあらゆる動きを拾い上げて、的確なボールの動かし方を考えることが出来るのです。

aoashi2.png

まずはここの、いわば「覚醒具合」が凄く絶妙で面白い。当初は戦術も分からなければ、自分の能力の意味にも気づいていなかったアシトは、技術面で散々苦労しながらも、色々なきっかけで自分の能力を活かせるようになっていき、周囲もアシトの視野の広さやコーチングの的確さに気付き始めます。これについては本当に少年漫画的で、様々な場面で絶妙なカタルシスがあります。「こいつ、只者じゃないな」と主人公が周囲から評価されていくのは、それこそ「まさか」のカタルシスの王道です。

一方で、テクニカルやフィジカルの問題は全然解決していないというか、周囲のレベルの高さに比べればアシトは素人同然なので、アシトは相変わらず色んな点で苦労しますし、そこから這い上がろうとあがきますし、少しずつ成長していきます。こちらの練習や成長具合については、凄い描写や展開がリアルなんですよ。それこそ普通のサッカー少年の世界。

いってみれば読者は、「少年漫画の主人公としての成長」と、「普通のサッカー少年の成長」を同時並行で読めるわけです。両方味わえて面白さ二倍。ここが多分、私がアオアシを面白いなーと感じるところの根本的なポイントだと思います。

また、主人公のアシトのキャラクターもとても良い。劇中当初は「才能頼りで調子に乗る俺様キャラクター」的な描写もあるのですが、自分のテクニック不足、フィジカル不足については彼、とにかく自覚が速いし、そこから逃げないんです。どうすれば克服できるか?どうすればそれをカバーできるかを真剣に考えるし、躊躇なく他人に頭を下げて教えを乞うし、適切なアドバイスはきちんと受け入れる。スポーツ漫画の主人公としてとても好感が持てます。


周囲のキャラクターもいい味を出してるキャラばっかりで、特にユース監督の福田は、アシトの特性を最初の時点から読み切って、劇中中盤でアシトに対して重大な選択肢を提示します。これもまた、サッカー漫画として「そうくるか」という物凄い展開でして、是非実際に読んで確かめて頂きたいと思うわけですが、まあ福田さんの「出来るヤツ」感物凄い。

アシトのサッカー仲間も、例えば当初アシトに当たりがキツかったり、色々衝突したりもするんですが、根本的にはいいヤツばっか感がありまして、その辺打ち解けていく描写も素敵だと思います。最近だとAチームの桐木の「変な名前。」が名言だったと思います。

まあ阿久津さんはなかなかデレないというか、アシトを敵視する悪役ポジションを保持しているわけですが、なにせアシトがとにかくひたむきなのでその内色々あるんだと思います。

あとヒロインがとてもかわいい。メインヒロインは多分二人いまして、

aoashi1.png

一人はエスペリオンの親会社である「海堂電機」社長令嬢である杏里、通称お嬢。普段冷静な語り口なんだけど、特にアシトが絡んで活躍したりするとあっさり冷静さをかなぐり捨てて盛り上がるのがかわいい(かわいい)。サッカーFCの監督を志しているキャラクターでもあり、サッカー知識も豊富でありながら劇中の他キャラクター程ではなく、読者視点での解説役になったりもします。


aoashi3.png

あと、お嬢よりもアシトとの付き合いが長い一条花。諸事情で上の画像ではぶすっとしていますが、スポーツ栄養士を目指している女の子で、こちらも衒いなくアシトを応援するキャラ。感情表現が素直でとてもかわいい(かわいい)。


目下、本誌ではこれまた超熱い展開になってきておりまして、アシトがAチームの試合に出ることになりそうでおいおいこれどうなるんだ、的な素晴らしい熱量なので皆さんにも紹介したくなった次第です。皆さんよかったらアオアシ読んでみてください。後悔はさせません。



今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:44 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

ことあるごとに「ひどい話でしょう!さあ、怒って!!」と言われる世界を見ているような気がする

なんていうのかな。いや、全然大した話じゃない、単なる雑感なんですが。


多分、元来人間には、「憤りたい」「怒りたい」あるいは「怒ると気持ち良い」「激しく感情を揺さぶられると気持ち良い」という側面があるのだろう、と思います。「怒りたい」という欲求。

例えば、なんか倫理的にひどい話を観測して、それに対して舌鋒鋭くばっさり批判するとすかっとする、というのはよくわかるんです。嘘つきを発見して、その嘘つきを徹底的に責めると気持ちいいってのもまあ分かるんです。

特に、相手が無条件に倫理的否定の対象になる場合、言ってみれば「正しさ」という大義名分に基づいて怒れる訳で、それがまた怒りんぼ欲求を惹起するんですね。未だ、やれ怒れーーみたいな。

それ自体は今更の話ですし、別にそれが悪いってわけでもないんです。自分はそうじゃない、それに該当しない、なんていうつもりもありません。例えば、迷宮組曲でタイトル画面の連射機能しか記憶に残っていない人がいたとしたら、そりゃ私だって怒ります。


ただ、

「これちょっと、「読者に怒って欲しい」という書き手側の狙いが見え見え過ぎませんかね…?」
「いやそれ、そんなに怒るとちょっと注文通り過ぎませんかね…?」

みたいに感じることが結構多いんですよ。昔からそういうのはあったんですけど、肌感としては、最近とみに増えました。


たとえば、なんでしょ。気分的にあんまり具体的なリンクを貼りたくないんですが、相撲関係のああいうのとか。

あるいは、子どもの歌に関するそういうのとか。

学校の制服に関するアレなのとか。


いや、なにせ多くの人が怒っている点についてはそりゃ相応の理由がありまして、それ自体はもっともだと思うんです。そらまあそうですよね、という。正論だと思うんです。

そういった正論から、色んな状況が改善されることも当然あるわけで、別にそれが無意味だとは全然思わないんです。

ただ、あまりに話のもっていき方があからさまというかなんというか、「これひどいでしょ。理不尽でしょ。さあ怒れ」って言われているような気になることが多くって、なんつーか、まるでコーンを口に詰め込まれているガチョウみたいな気分になることがあるんですよね。


たとえば、議論としてはもうちょっと落ち着いた論建てにも出来そうなところ、「悪いヤツの悪い点」がこれでもかと明確に描かれていると、「ああ、これ「怒れ」っていうポイントなんだなー」と感じてしまうことが多いです。今に始まった話でもないんですけどね。

ひどい話があって、それに怒る人がいるのは、自然なことなんで仕方ないと思うんです。

ただ、ちょっとまずいことに、「怒りを誘える話」って受けるんですよね。バズりやすい。話題になりやすい。つまり収益になっちゃう、「怒らせる」ということに対してインセンティブが出来ちゃうんです。

で、あまりにも「さあ怒れ!」的な話がバズりまくっていると、本来そこまで怒るような話でなくても、無理やり「怒らせられる」話に仕立てようとする人が出てくるんですよね。私、そういうのはあんまり好きじゃないんです。

それが行き過ぎると、本来いなかった「分かりやすい悪役」を設定して、それに無理やり怒らせようとする人まで出てくると思うんですよ。

以前、下のような記事を書きました。

前者の理由については、皆様経験則としてご存知なのではないかと思う。分かりやすい悪役を見て、正義感を煽られてしまう人は非常に多い。彼らは、瞬間湯沸かし器の様に頭を沸騰させた上で、ソースの確認なく情報をがんがん広めてしまう。

それがデマなのかどうかは関係なく、「ソースの確認なく情報を広める」という行為は本来とても危険なのだが、ガードが下がった人はそんなことは気にしない。あたかもあしたのジョーのごときノーガード戦法である。カウンター狙いの戦術であるならまだしも、一般的には彼らのことを「猪突猛進」と呼ぶ。

これ、なんでこういうことが起きるのかっていうと、やっぱり「怒りを煽れば煽る程バズりやすいし受けるから」だと思うんですよね。「読者に怒ってもらう」ことによって得られる利益が凄く大きい。

そこから考えると、素直に怒りを誘われるのもちょっと考えものだなーと。「憤るにしても、もう少し冷静に話しませんかね…?」って思っちゃうんですよね。「優しい気持ちで話し合いましょう」っていうやつ。


トムとジェリーってあるじゃないですか。あれの歌詞で、「トムとジェリー 仲良く喧嘩しな」ってフレーズがあって、私アレ物凄い名言だと思ってるんですけど。

喧嘩するにしても、どっかで余裕を残しておくというか。「思わず憤りたくなるようなひどい話」を提示されても、ちょっと冷静に構えていた方が、多分いざ「そこにはいない分かりやすい悪役」を提示された時、「ん?これちょっとおかしいぞ?」と思えるし、結果的にお話を提示する側も「あ、これはちゃんと議論を作らないとな」となって、色々平和だと思うんですよ。


怒ることが気持ちいいにしても、ちょっと一呼吸、余裕をもって怒りませんか、と。


それだけの雑感でした。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:31 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月31日

インターネットでは言いたいことが言えるけど、殴ったら殴り返される

この増田を読みました。


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先日、どこかの掲示板にプロ野球選手の嫁をブスだと書きこんだOLが名誉毀損で訴えられてニュースになった

これはもうインターネットに気軽に書き込むことが許されなくなるってことだろうなと思った
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また、ネットは道徳に縛られない考えを書き込むことで発想に広がりが出る場所だとも思っていた

ディベート的な議論において道徳ってほんと邪魔なんだけど、現実の日本だとそれは難しい

ネットならそれが出来たけど、もう無理だろうな

インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラルの押し付けと言葉狩りが強化された

増田と言えどもどこから訴えられるかわかったものではない

僕らはすべての発言に責任を持たなければいけなくなったし、道徳に目配せして書き込まなければいけない

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で、ちょっと問題を切り分けたい欲求が働きました。切り分けちゃうぞおじさんです。

まずこの増田は、もしかしたら意図的にかも知れないんですが、二つの問題を混同して語っているような気がするんですよ。

・「ブス」といった罵倒が名誉棄損として訴えられるようになったこと
・webにおける言論が道徳的なものに縛られるようになってきたこと

それぞれの項目が事実として妥当なのかどうかはともかくとして、仮に妥当だったとしても、この二つの事項は全然別の話です。

まず一つ目については、これはごく単純な話で、「誰かを殴ったら殴り返される可能性があるよね」というだけのことです。これに道徳とか関係ありません。

私、件のプロ野球選手の話は観測してませんでしたけど、誰かに「ブス」と言ってそれが訴えられたとしたら、それはその発言が非道徳的だったからではなく、その発言が特定の誰かをぶん殴る発言だったからです。幾ら非道徳的であったとしても、ターゲットを取らないのであればそれが名誉棄損になることはありません。

そういう意味では、

・SNS等によって、誰かを殴る発言が可視化されやすくなったこと
・名誉棄損などの裁判についての情報が広まって、心理的に訴えやすくなったこと

という二点による影響はもしかしたらあるかも知れず(全然検証してませんが)、その点で「名誉棄損などで訴えられやすくなった」ということは妥当なのかも知れないですが、それは根本的にはインターネットによる影響ではありません。単に「殴っているのが見つかりやすくなった」というだけの話です。インターネット以前の世界であっても、罵詈雑言が履歴に残って可視化されれば訴えられていたでしょう。

私自身は、人を殴っておいて、殴った側が「殴っただけなのに殴り返されるなんて!」と騒いでいる世界はあまり愉快だと思えないので、この風潮は別に悪いことじゃないんじゃないかなーと思っています。殴るんなら殴り返される覚悟はしとけよ、って話です。


で、それとは別の問題として。もう一個の話についてですが、

罵倒させろという意味ではありません。ディベートの態度ではなく、論理の展開に道徳によるブレーキが必要ないという話です

  人前でディベートをするとなると、道徳的に疑われるような仮説を引っ込めなければなければなりません

  ディベートだからと言っても現実ではある程度のコードがあるわけです

これとか、これ以降に続く議論の例についての話なんですけど、そういう「非道徳的な発言」ってしにくくなってますかね?

誰かを直接的に殴っていない限りにおいて、単に非道徳的な発言をしただけで訴えられているケースって、少なくとも私は知らないです。あの人もその人も、めっちゃひどい発言たくさんしてるけれど、少なくともそれだけで訴えられてはいないですよね?

勿論、非道徳的な発言をすることで発言が炎上したり、あるいは(私が今書いているこの記事のように)発言に対する突っ込みが飛んでくるケースってのは勿論ありますし、それはもしかすると昔より増えているのかも知れないですが、

インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラルの押し付けと言葉狩りが強化された

増田と言えどもどこから訴えられるかわかったものではない

増田が気にしているのは「訴えられること」なんですよね?であれば、別に愚痴やら非道徳的な発言やらであっても、具体的な対象をぶん殴っていない発言であれば、書き込むだけなら誰からも訴えられることはないと思うんですが…。「こいつは殺人を肯定している!名誉棄損だ!!」とか言って訴えられてるケースって、どこかで見たことあります?

 その他の発言についても締め付けが厳しくなり、客観性のない発言や、客観的でも誰かを傷つけると判断されれば

  名誉毀損で訴えられる可能性が強くなったという趣旨です
増田は追記でこうも書いていますが、これもちょっとあんまり妥当だと思えません。要は、客観的な発言であっても、「その発言によって俺は傷ついた!」と言い出す人がいるかも知れない、それによって訴えられるかも知れない、という話ですよね?

この話のトリガー自体が、「具体的な人物に対する「ブス」という発言が訴えられたこと」であって、そこから「具体的な対象をとらない雑な発言が訴えられること」の間には相当な距離があります。少なくとも、増田が心配しているような、「非道徳的な発言が出来なくなる」という問題と、この話が即結びつくことはないんじゃないかと。



勿論、いわゆる「炎上」というものは、受けてしまった側にとっては大変なストレスですし、そういうストレスを受けてしまう機会が増えることによって発言しにくくなってしまう、というケースはもしかするとあるのかも知れません。それは否定しません。

先日でも、童貞いじりがどうとかで大炎上してた人が色々騒いでましたよね。あれは、発言した人にとってみれば「この程度の発言で炎上するなんて」という意識だったのかも知れません。

ただ、
  しかし非道徳的な言論が許されれば以下のような議論もできます

  A 「絶対にバレないLINEグループ等なら自由に言っても良い」

  B 「それはバレなければ赤信号を渡ってもいいという理屈ではないか」

  A 「その通りだ。事故が起きるか起きないかが問題なのだ。来もしない車を待つことに何の意味がある」

  B 「ルールというものは、個別に存在するのではない。共同体の価値観に敬意を持てるかどうかが大事なので、小さな例外も認めるべきではない」

この例が適切かどうかはともかくとして、こういう「非道徳的だけど冷静」な議論自体は別に全然しにくくなっていないんじゃないかなあ、と感じてはいます。ちゃんと議論立てが出来ていさえすれば、それが無秩序に炎上することってむしろ殆どないような気がするんですよ。


強いていうと、「脇が甘い、雑な発言は炎上しやすくなった」という辺りが、現状の論評としては一番妥当なのかも知れず、そういう意味で「雑な発言をネットに書き込みにくくなった」と嘆くのであれば話は分かります。実際、そういう側面はあるような気がしますし、どんな発言がどういう経緯で炎上するか予測しにくい部分もあって、もう少し炎上に至るまでのマージンというか、余裕みたいなものはあってもいいんじゃないかなーと感じます。

ただ、それ自体は多分「ブス」発言が訴えられることとは全然別次元、別トリガーの問題なので、別建てで考えた方が良いような気がしてなりません。



まあ、犯罪自慢とか殺人予告とかそういうアレならともかくとして、単に脇が甘い発言をして炎上するだけなら別に死ぬ訳でも無し、webにおける立場が悪くなることすらそれ程ないので、増田にせよ私にせよ、深く気に病むことなくバンバン脇が甘い発言をして、適度にこんがり焼けてればいいんじゃねえの、と思った次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 08:07 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月23日

「ゲスな報道は読者の需要があるから」と嘯くマスコミの欺瞞

まず先に前提として書いておくと、私は基本、有名人の不倫や浮気というものに一切興味が湧きません。

浮気だ不倫だというのは極めて個人的な問題であって、個人レベルではごく単純に「不倫はいかんやろ」とは思うものの、その内情がマスコミによって暴き立てられることに必然性は全くないものと考えています。

これが、人格や人間性が選挙の際判断材料とされる政治家であればまだしも、タレントやら芸能人やらの不倫報道については、単にゲスだなーとしか感じません。そういう人、案外多いんじゃないでしょうか。


正直結婚や恋愛、出産のようなめでたい話であっても、それが個人的なものである限りは興味が湧きませんし、そういう報道がなくなっても全く何の問題もないと思ってはいます。誰が恋愛して、誰が結婚して、誰が浮気して、誰が不倫したとしても、それはその当事者の問題であって外野が騒ぐことじゃないんじゃないの、と思います。

ただ、これについては飽くまで個人的な所感なので、そういうものを知りたがる人もいることを理解はしておりますし、それが悪いという訳ではありません。好奇心の方向性は人それぞれです。


上記のような事情がまずある為、今回何やら有名な人の不倫が問題になったらしいことも、文春が騒ぎになっているらしいということも、個別の話としてはよく分かりません。ゲスだなーと思うだけです。


ただ、これに伴って、「こういうゲスな報道が行われるのは、結局それを知りたがる視聴者がいるから」という論法をメディア側の人が使うのは、それはおかしいだろうと思います。


何故かというと、そういう「ゲスな内情を知りたがる視聴者」を育てているのはまさにメディアであって、その論法はいわば「育成責任」を完全に放擲していると考えるからです。



久田氏はTABLOの編集長ですね。いや、この件に関して同じような発言をされているのは久田氏だけではないので、久田氏個人がどうこうという話ではないのですが。

ただ、ここでいう、「不倫報道がなくならないのは読む側の需要があるから」という形で読者側に責任転嫁されることについては、私は強い違和感を感じます。

いやだって、そういう需要を、そういう記事を読みたがる読者を育てているのはあなた方じゃないですか、と。


例えば、マスコミの議題設定効果については、過去色んな議論がありました。個人的には竹下俊郎氏の「メディアの議題設定機能」をお勧めしますが、例えばこの辺の記事には議題設定効果についての話がサマリーされています。

マスコミの持つ『議題設定(agenda-setting)』の効果とは、マスメディアがある特定の話題・争点・関心事を“議題(アジェンダ)”として取り上げて繰り返し伝えたり強調したりすることによって、大衆(人々)がその特定の話題・争点に興味を持つようになったり、重要性(優先度の高さ)を認識したりするようになる効果のことである。

画一的な情報を一方的に大量伝達して、大衆(人々)に『公共的意味合いのある共通の情報・知識・話題』を提供することがマスメディアの役割の一つとされる。だが、この議題設定効果によって、マスメディアが積極的に繰り返し伝えるニュースには人々は興味を持って議論しやすくなるが、マスメディアがほとんど取り上げないニュースは、人々から『初めから存在しないニュース』であるかのような無関心な扱いを受けるリスクが高くなってしまうのである。

経済学的な需給関係と違って、「興味」は育ちます。メディアが繰り返し繰り返し、高いニュースバリューを伴って報道を行うことによって、その話題に興味を持つ人は増える。その話題のニュースバリューが上がり、その話題がより受けるようになる。

単に「事実を伝える」だけであれば、「〇〇と××が不倫していた」だけでも、「△△で□□氏が殺人被害にあった」だけで十分なわけじゃないですか?それに対して、色々ゴテゴテと、あの手この手で周辺事情を書きたてることによって、より視聴者の見方をセンセーショナルな方向に誘導する。不倫報道があると、反射的に「あれはどうなってるのか」「これはどうなってるのか」と興味を発展させるような視聴者が必ずいるし、そのフックはまさにメディア自身が作っているわけです。

それ、まさにあなた方が「読者を育てて」いるじゃないですか、と私は思うんです。


不倫報道がゲスだという認識が本当にあるのであれば、その扱いを小さくしていけばいい。ただ「知る権利」を満たすだけであれば、事実を単純に報道するだけでもそれは十分果たされます。その単純な事実を知った読者が勝手に盛り上がるなら、それは確かに読者の勝手でしょう。

それをガンガンメディア側が、センセーショナルな方向に盛り上げるのは、要はそういう需要を保持したい、更に煽りたいからじゃありませんか。

なのに、一体どの口で「需要がなければ報道はされない」なんて言えるんでしょうか。




興味の方向性という話からは若干ずれますが、マスコミが「読者を育てる」「読者のリテラシーに影響を与える」機能を持っているという話は、マスコミ側の論者も自分でそう言っています。


例えば朝日は、明治大学の斎藤氏にこういうことを書かせています。

そして、朝日新聞の「ひと欄」のように、人物を取り上げたようなコラムは社会的に意味のある生き方を教えることができますし、子どもたちは自分の将来について具体的かつ主体的に考えるようになります。また、「声」のような読者投稿欄では、ひとつのテーマについて複数の意見が寄せられます。そうした記事を読むことで、複数の意見を受け入れる許容力や、複眼的な思考力が身につきます。

 情報は常に変化していて、正しいと思っていたことがそうでなくなることもある、ということも、新聞を読み続けていれば理解できるはずです。情報はうのみにせず、ある種の「揺らぎ」を持ちながら是正していくことを、自然と学ぶことができると思います。


また、例えば日本新聞協会が運営している日本のNIEなんかでは、「教育に新聞を」って高らかに謳ってるんですよ。


NIE(Newspaper in Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)は、学校などで新聞を教材として活用することです。1930年代にアメリカで始まり、日本では85年、静岡で開かれた新聞大会で提唱されました。その後、教育界と新聞界が協力し、社会性豊かな青少年の育成や活字文化と民主主義社会の発展などを目的に掲げて、全国で展開しています。


報道が読者を育てる、教育する、ということは、報道の中の人ですら主張している。

報道教育、結構なことです。リテラシー教育、大事です。

ただ、教育するならするで、教育の中身にはきちんと責任をもって欲しい。


百歩譲っても、「ゲスな記事を読みたがる読者」と「ゲスな記事を作り続けるマスコミ」は連帯責任、ないし並列責任であって、一方が「こちらに責任はない」「読者が知りたがってるから報道をしているだけだ」というのは絶対におかしい。

マスコミ側の人間が、「ゲスな報道は読者の需要のせい」と言っているのであれば、それは欺瞞以外の何者でもない、と考える次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 08:22 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月18日

昔ファミリーベーシックってものがあったんだよ

あったんですよ。



皆さんやってましたか?覚えてますか?ファミリーベーシック。

ベーマガの特選プログラムのコーナーとか、Dr.Dの投稿プログラム添削とか、懐かしいですよね。

「君だけのゲームが作れる!!」「君のゲームでマリオが動く!!」っていう言葉が最大の売りだった、ゲームプログラミングツール。1984年という、ファミコンの歴史からするとド初期に叩き込まれた、曲りなりにも開発プラットフォーム。

しんざきは、兄の門前の小僧で、このファミリーベーシックを遊んでいました。

しんざきと兄は5歳違いでして、当時兄は既に小学校高学年でした。一方私は幼稚園からようやく小学校に上がる頃。

それでも、「任天堂のファミリーベーシック入門」とか、「ぼくらのファミコン入門」とか見ながら、何時間もかけて参考プログラムをぽちぽち打ち込んで、散々エラーで怒られて、ついにRUNさせたらコントローラーでマリオが左から右に動いたりしたんですよ。


いや、これ、笑うところじゃありませんよ。

「自分が打ち込んだプログラムで、画面上のマリオがコントローラー操作に基づいて動いた」

んです。

当時、本当にこれだけでもドすげえ感動しましたし、たとえプログラミング入力に数時間かけて遊ぶのは10秒、という状況だったとしても、あれは間違いなく、私にとっては「ゲーム開発」以外の何者でもなかったんです。

そこから、何だかんだで、私数年はファミリーベーシック続けてました。

勿論そんな大したゲームが作れたわけではないです。プレイヤーに数字を入力させて、ランダムな数字を当てさせる数字当てゲームとか、サンプルプログラムをちょっといじってパラメーターを変えただけのゲームとか、精々そんなもんです。

ただ、今私が一応システム関係の仕事をしていて、最近はあんまりですけどなんだかんだコードも書いてたのも、根っこには間違いなくあの「ファミリーベーシック」があったと思うんですよね。

我々は、ファミリーベーシックで変数定義を学んだ。

関数を学んだ。

ルーチンを学んだ。

アルゴリズムを学んだ。

DEF MOVEを、IF THENを、行番号とGO TO を、CGSETを学んだ。エラー処理を、デバッグを学んだ。

たとえそれが、どんなに切れ端の知識であって、時にはファミリーベーシック以外ではなんの応用も出来ない知識だったとしても、あれって「何かの始まり」ではあったと思うんです。


ファミリーベーシックって、結局どれくらい普及したんでしょう?wikipediaの記載では40万台は売れたってことですけど、これがV3やらバージョン違いも全部合わせた数字なのか、国内だけなのか世界なのか、その辺はよく分かりません。

ただ、勿論、当時ファミリーベーシックを買った子どもたちが、皆が皆ゲームを作れたか、っていうと恐らく全然そんなことはないんです。

「ゲームプログラムモード」がハードル高いものだということは、任天堂も最初から分かっていたんでしょう。だから、大本のファミリーベーシックは、カリキュレーターモードとか占いとか、プログラムモード以外の遊びを入れざるを得なかった。ゲームプログラム以外の最低限の遊びも含めざるを得なかった。多分、「占いやミュージックモードをちょっと遊んで終わり」くらいの子どももたくさんいたんじゃないでしょうか?

ただ、ファミリーベーシックで任天堂がユーザーに言いたかったメッセージって、間違いなく

「作れ!!作ると面白いぞ!!!」

だったと思うんですよ。そこは、多分そこだけは間違いない。

あの時、実際に「作った」ファミっ子がどれだけいたのか。それは勿論想像するしかありませんが、少なくともそのメッセージが届いた子どもたちが、私を含めて複数人いたことは間違いない。そして、そういう子どもたちの中には実際、「作ると面白いぞ」という言葉を実感し、最終的には作る側に回った子どももいたんです。ゲームでこそないものの、私もその端くれです。

作るの面白いよ、というメッセージ。勿論、他にも多くのメーカーが発し続けてきたメッセージではありますけれど、任天堂にとっても、そのメッセージって多分特別言いたいことであり続けているんだろうなーと思ってたんですよ。マリオペイントしかり。miiスタジオしかり。最近でも、マリオメーカーなんてその代表例でしたよね。

で、NINTENDO Laboを見たんです。



姿も違うし、出来ることも、出来る範囲も、実際にやることもぜーーんぜん違うけれど。

これはもしかすると、時代を越えてもう一度「作れ!!!!」ということをユーザーたちに叫んでいる、ファミリーベーシックの再来なんじゃないかなーと。

かつてのファミリーベーシックと同じように、ハードルの高さを感じる人も、買ったはいいけどすぐ押し入れにしまっちゃう人もたくさんいるだろうけど。

その中で、多少の人数には「作れ」というメッセージがダイレクトに届いて、数十年後に全然違ったフィールドで何かを作るようになる子どももいるのかも知れないなー、と。

そんな風に思ったんです。




posted by しんざき at 13:12 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月12日

「チェイサー」の5巻がマジで面白い

超面白かったです。


いや、ゆーてもチェイサーは本誌に載ってる時は本誌買って全部読んでるので、話自体は把握してたんですが、やっぱ単行本という形でまとめて読むとまた格別だなあ、という話でして。

「チェイサー」自体については、下記記事で色々書いてるんでそちら参照してください。いや、今連載されてる色んな漫画の中でも、トップ3には余裕で入るくらい面白いと思うんですよ、チェイサー。


で、チェイサーは、勿論手塚治虫先生の同時代伝記とでもいうべき漫画であって、手塚先生の「チェイサー」である、同じく漫画家の海徳光一という人物を主人公としています。

チェイサーの面白さは、何と言っても「海徳先生が手塚先生を意識する時、「チェイス」する時のドタバタ感」という言葉に集約されると思うのですが、この5巻ではそこに重大な転機が訪れます。

つまり、少年漫画業界における手塚人気に陰りが出てしまい、一方海徳先生が「少年ジャンプ」で大ヒットし、作中の少年漫画人気では手塚先生を越えてしまうのです。

作中でも語られることですが、手塚先生には、一時期少年漫画業界での人気が低迷していたことがあります。1960年代後半から1970年代の前半、作風が厭世的になった頃ですね。

で、5巻の大筋はこの時期の話なんですが、海徳先生の方は、ちょうどこの時期に「俺のドラゴンボウル」というボーリング漫画を「ジャンプ」で描いて、これを大ヒットさせてしまいます。劇中、日本にボーリングブームを巻き起こした人物として、海徳先生は一躍時の人に。この辺り、実際にあったボーリングブームと絡めてくるあたりが、コージィ先生つくづく上手いですよね。

勿論この時期、手塚先生は「火の鳥」「奇子」「きりひと賛歌」なども同時並行で著していたわけであって、青年漫画の世界ではまだまだ物凄い存在だった訳なんですが、少なくとも少年漫画というフィールドでは、海徳先生は手塚治虫に完全に「勝って」しまう。

ところが、海徳先生の手塚コンプレックスは、解消されるどころか、うっかりすると更に悪化してしまうわけです。

元々手塚先生のインテリジェンスに憧れていたところのある海徳先生は、「おれのドラゴンボウル」が徹底して子ども向けの、いってみれば「おバカ」な漫画であることにコンプレックスを持ちます。「火の鳥」や「きりひと賛歌」を見て、「俺はこんなおバカなことを書いていていいのか!?」と葛藤しちゃうわけです。


この辺の葛藤の描写が、また上手いし超面白いんですよ。


この巻では、5巻におけるもう一人のメインキャラともいえる、ジャンプの編集者である日下(ひげ)氏が活躍します。彼のスタンスは単純明快。「少年漫画はインパクトと分かりやすさがなにより重要」「少年漫画で人気出たヤツが漫画業界で一番偉い」というのが彼の持論であって、時々ブレそうになる海徳先生を強引に引き戻すのは彼の手腕です。手塚先生のインテリジェンスに憧れて、「俺も少しはそういうのを描くべきなんじゃ!?」と迷う海徳先生を、「そっちにいかないでください!!」と無理やり引き戻すドタバタは素晴らしいとしか言いようがありません。「手塚賞」がジャンプに導入された時のやり取りなんかはもうニヤニヤが止まりませんでした。

日下氏は、「少年漫画にインテリジェンスなんて導入したら子ども読者を逃がすだけ」という思考で一貫しているんですよね。で、「俺のドラゴンボウル」が大人気なんで、彼としては何としてもそこを外したくない。あの手この手で海徳先生をおだてつつ、フラフラとインテリジェンスを追い始めようとする海徳先生を強引に引っ張り戻すわけです。


日下氏の、「「子どもっぽい」ことから逃げないでください!!」というのは、作中でもトップクラスの名言だと思います。


大体海徳先生、手塚治虫を意識するあまり、うっかりすると自作以上に手塚作品の方が気になっちゃうんですよね。一躍時の人となってしまった自作の人気に戸惑いつつ、むしろ「手塚治虫の凋落」という事象の方にショックを受ける海徳先生のキャラクターは、やはり今作最大の味です。俺のドラゴンボウル読みたい。


この辺、「少年漫画というフィールドでは手塚先生を凌いでしまった」海徳先生の戸惑いと葛藤、あと日下氏とのやり取りや日下氏の強引なフォローや路線誘導が、チェイサー5巻のハイライトであることは論を俟たないでしょう。日下氏という、一本筋の通った考え方というか、物差しが提示されるからこそ、海徳先生の葛藤や逡巡が余計に際立つんですよね。


で、5巻も終盤、「俺のドラゴンボウル」の人気にも陰りが見えてきた頃。手塚治虫はすっかり少年漫画業界での立場を凋落させてしまい、どの雑誌も手塚漫画を載せたがらない、というところまで来てしまいます。本質的には単なる手塚ファンである海徳先生すら、「少年漫画で生き恥をさらさないで青年漫画に集中してくれ」と言うくらいです。

さすがに海徳先生も、ぼちぼち「少年漫画では俺の方が上」という自信を持った時に、こんな話が伝わってきます。

「手塚先生がチャンピオンで連載を始めるらしい」
「チャンピオンの編集長が、「手塚の死に水は俺がとる」と言っている」

はい、この辺が、伝記ものの一番面白いところですよね。我々は、この後、チャンピオンに何が載るのかを知っている。

そう、「ブラック・ジャック」がついにその姿を現すのです。


というところで、5巻はここまで。いやーー面白い。面白いですチェイサー。展開もさることながら、単行本の引きのタイミングも絶妙。

取りあえず皆さん、「チェイサー」はまだ5巻しか出てませんし、読んでない人はちょっと騙されたと思って読んでみませんか?手塚治虫先生の伝記として読んでも、海徳先生という漫画家の出世物語として読んでも、ドタバタ感がすげー楽しめますよ。






気が向いた方は是非どうぞ。画像つけたいから貼ってますが、別に上のリンクから買わなくていいんで。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:25 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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