2024年03月08日

名古屋にいったらまず名古屋港水族館と東山植物園と名古屋市科学館に行け(特に名古屋港水族館)

名古屋港水族館

いや、このまとめ読んだんですけど、


未だに「名古屋に観光名所がない」とか言われているのが割と信じられなくて、いや別に観光名所なんてものが必要かどうかはいったんおいておいて、名古屋のお勧めスポットとか言われたら取り急ぎ「名古屋港水族館、東山植物園、名古屋市科学館」の三つを挙げておけば十分おつりがくると思うんですよ。

この中でもまず名古屋港水族館がトップランナーであることは間違いなく、名古屋港には日本初の極地用の本格的な砕氷艦である「南極観測船ふじ」が一般公開されていてこれはこれで見どころ満載ですごいんですけど、名古屋港水族館の南館って「ふじが辿った海」をそのまま展示のテーマにしている「南極への旅」っていう展示がとにかく必見レベルで充実しているんですよ。

「日本の海」から始まって、「深海ギャラリー」「赤道の海」「オーストラリアの水辺」「南極の海」と続いていまして、私趣味で結構色んな水族館に行っているんですが、こういう「通しで一つのテーマになっている展示」としてはマジで日本でもトップクラスの質・量だと思います。その海域の様々な光景が展示やら水槽やらホログラムやら色んなもので再現されていて、深海ゾーンでは本当に自分が深海に入るような気分が味わえるし、1階から3階までの高さで巨大なサンゴ礁が再現されているのは半口開けてぼーっと見る他ないし、アデリーペンギンは可愛いし「ふじ」の旅についての情報量もものすっっっごい。

もちろん北館も十分ものすごくって、水中観覧席の視界に入らないくらいの広さはもちろん水族館好きの間では有名だと思いますが、クジラの骨格標本がどれもこれも迫力あり過ぎで、当然イルカショーやシャチショーのサービス精神もすごい。一日楽しめるどころか、きちんと見て回ったら二日潰れるくらいのボリュームです。

まず、「名古屋といったら取り敢えず名古屋港水族館だろ」というのは強く主張したい。

次に東山植物園、いや東山公園って動物園と植物園がセットになってまして動物園ももちろん楽しいんですが、ある程度大人な楽しみ方をしたいなら植物園の方を強くお勧めしたい。こちらも伊藤圭介記念館とか展示についても十分見どころがあるんですが、色とりどりの花々やら音を全部吸い込んでるんじゃないかと思えるような森林とか、木々にまぎれて散歩しているとびっくりするくらいリラックスできます。

だだっぴろい割に休日でも思った程人がおらず、日本庭園や万葉の散歩道(今リニューアルを進めているところだそうですが)なんて一日ぼーーっと散歩してても飽きない。目も楽しいし体も楽しい、その癖かなり歩くなのでいい運動にもあると、これまたガチガチのガチスポットです。

最後に当然の名古屋市科学館、まあこれまた地元の人間には有名なんですが、直径35mという世界最大(らしい)のプラネタリウムを始め、子どもから大人まで一日中楽しめまくる展示やアクティビティが満載。理工館が個人的には特にお勧めで、基本「さわって楽しめる」展示のボリュームがものすごく、錯視やら影絵やら砂模様やら、特に小学生くらいの子どもが目を輝かせる展示が山盛り、というかむしろ目を輝かせないゾーンがないので、この為だけに名古屋にいってもがっかりしない施設だと思います。

直近、3/13までプラネタリウムがメンテナンス中らしいのでそこだけ気を付けていただきたいんですが、週末に足を運べばこれまた一日かかっても回り切れないくらい楽しめることは保証できます。


ということで、まず「名古屋に旅行にいくなら絶対に外せないスポット三つ」をあげてみました。皆さん名古屋いってみてください。

最後にちょっとだけ恨み節になるんですが、私東京に来る前はかなり長い間名古屋にいまして、その間オフ会とかで名古屋にくる人の案内とかも結構したんですが、皆さん「某喫茶店に連れていけ」って口をそろえておっしゃいまして、「いやあそこはもともと中京大学の学生が腹減った時に行くところであって、別に観光名所とかじゃないと思うんですが……」といくら水族館をお勧めしても八事に向かってしまい、ガイドで付き合う私も毎回登山に付き合わされるという経験が軽くトラウマです。いや普通のメニューは普通に美味しいんだけど、なんか変に有名になっちゃったのなんなの。

一旦以上です。


posted by しんざき at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月18日

ズイショさんに反応いただいたので折角なので反応を返してみます

見方の違い、捉え方の違いはあれど、大筋大きく考え方が対立してるわけじゃないんじゃないかなーと思いました(別に考え方が対立していちゃいけないわけでもないんですが)


というか元増田書いたのズイショさんだったの気付かなかった。言われて読み直してみるとズイショさんの文章だった。この辺の感覚鈍ってるなあ。


僕はそもそもそういう「正義の告発」みたいなものが純粋な正義感からの発露であることはごくごく稀でみんなケースバイケースにシームレスに自分に都合のいい時は正義を振りかざすし自分に都合の悪い時はうやむやにするのが常だと考えてるんだと思います。

子供は純粋で善なんだからルールを信じるんだし大人はそれを揶揄するのはどうなんだと言われても、俺は子供はそんなに馬鹿じゃないよ恣意的にルールを運用するしそれを善性によるものだと寛大に受け止めてやったらつけあがるだけだぜ、と思う


ここについては同感で、子どもは純粋でも善でもないし、正義の告発が純粋な正義感からの発露であることは稀である、と私も思います。いわゆる「告げ口」というものが善意や正義に基づくケースはむしろ希少なのではないか、とも思います。

ただ、私について言うと、A君の行為が正義感に根差してるのかどうかはあまり言いたいことに関係がなかったというか、

どちらかというとズイショさんが書くところの

「大人だってホウレンソウを大事にしてるでしょ、それをチクリって揶揄するのはどうなのさ」

という方がメインテーマなつもりでした。

>「自分の基準で納得できない行為について先生に報告する」というのを「告げ口」とか「チクリ」とかってラベリングするのっていじめっ子の論理じゃないの?

と私は記載したのですが、これ別に正義感とか善とかというものとは関係なく、たとえ「自分に都合がいい」ものであっても、告げ口自体は自分の中での何らかの基準に抵触した時に行われるものだろう、と私は思うんですよ。この「基準」が実際の法律や校則と合致しているかどうかとか、良識や正義に基づいているかどうかというのは、それはそれで論点ですが「報告・共有」という行為自体の正否とは直接紐づかない。

私は情報共有・連携・開示というものを重要視というか、割と無条件に肯定している方ですので、極端な話「その子が認識しているルールがてんで間違っていたとしても、それは「ルール認識が間違っている」という方向で個別に修正されるべきものであって、「大人(先生)への相談」自体が否定されるべきじゃない」と思っているんです。

ただこれは、もちろん私が単純に言葉足らずなのであって、

>仮にルール自体、あるいはルールに対する認識がおかしいのであれば、そのルールや認識の在り方について議論をするべきで、むしろ報告/共有すること自体は正しいことなんだよ、と言わないといけないじゃないですか?

という記載だけでそう取っていただくのは難しいと思います。すいません。この点、「僕は簡潔にまとめるのは取りこぼしが発生するので苦手なので」というズイショさんのお言葉通りだと思います。

で、


ただ、自分はそういう風な逃げを打ってルールからの逸脱をやっておきながら、他人のことになると自分が得意で苦じゃない領域になると、そのルールから逃れようとするやつを糺弾したがる態度ってのは、それは褒められたもんじゃないよ


これについてはご指摘の通りで、私が「情報共有・情報連携についてのラベリング」という方向にこだわっていた為、あまりA君の行動自体を評価はしていなかった(というより一つ目の元増田の方が念頭にあった)という点はあるかもなーと思いました。

それとは別に、


大人だってホウレンソウを大事にしてるでしょ、それをチクリって揶揄するのはどうなのさと言われても、ホウレンソウがすごく健全に機能する環境って全体の何パーセントなのよと素直に思う

それと同じくらい側面的な正義に酔って自分の非を顧みることができないシーンもあるだろうと思っている。後者の方がわかりにくいから厄介だなとも思っている。


ここについては認識というか想定しているシーンがだいぶ違いそうだなーと思っていて、いやまあ私が想定している方が(子どもの学校という場を離れているという点で)当初の話とずれたのかも知れないですが、ホウレンソウが機能するかしないのかという点についてどういう認識を持っているのか、という点はすり合わせの余地があるのかもな、と感じました。

私、ホウレンソウが「すごく健全に」機能するかどうかはともかくとして、ホウレンソウによるデメリットってメリットよりは余程突き当たる機会が少ないだろうと思っていて、うまく受け取ってもらえないことこそあれマイナス方向に働くことってあんまりない、と思っているんですよ。だから、ホウレンソウはほぼ無条件にいいものだし、無条件にいいものだってことを子どもにも認識して欲しいなーと思ってました。この認識、あるいは信仰が、前回の記事を書いた直接的な動機になっています。

ただ、


「子供が何が正しいか混乱しちゃうから、親で意見を揃えなさい、なんならジジババも意見を揃えなさい、何が正しいかをちゃんと子供が理解できるように、色んな大人が色んな意見を言うんじゃなくて、みんな大人が同じ意見を言ってこれが正しいんだってちゃんと子供に思ってもらえるようにしましょう」みたいなやつあるじゃん、アレが俺すげえ嫌いで、大人にもろくにできてないことを子供にそう思い込ませようとするのが嫌なんだ。しんざきさんのホウレンソウに対する提言にも同じニュアンスを感じて、やっぱちょっと嫌なんだよな。


どうなのかな、「みんな大人が同じ意見を言って」とまでは思っていなかったと思うんですが……どっちかというと、あんまりその言い方好きじゃないなあという、アンチテーゼ、というよりむしろ個人的な感情の発露みたいなつもりでした。けどまあ私の意見も押し付けっていえば押し付けかも知れない。


あんまりまとまってないですが、一旦それくらいです。



posted by しんざき at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月17日

それを「小物」と名付けるのはなんかおかしくないですか

こんな記事を読みました。


今は中学生の息子が、なんというか、小物キャラというか卑怯者みたいな感じで辛い
昨年中学の合唱コンクールの後にクラスメイトがファミレスで打ち上げ会をやったみたいで
息子とあと何人かが知らされずにハブられたらしいんだけど、いやもうこの時点で悲しいというかアレなんだけど
息子はどこからか情報を手に入れて担任に注進して、打ち上げ会を台無しにさせたみたいで
あと学校にスマホを持ち込んでる生徒を一々教師に密告していたらしい



クラスではちょっと浮いている。
クラスの輪にはなかなか入れていないが先生がいるところでは杓子定規な意見を率先して述べてアピールしたがる。
誰が掃除をサボっていたとか学校の備品を乱暴に扱う遊びをしていたとかの告げ口をする。
なのでクラスの輪からはますます蚊帳の外にされる。


二つ目の記事は、恐らく一つ目の記事を受けての内容なんだと思います。
大筋、どちらの記事も、

「なんらかのルールを杓子定規にとらえて、それに反する行為を先生に伝える」

ことを「告げ口」とか「密告」という言い方で表現して、それを「小物感」という言葉でまとめている、という構成になっていると思います。まあ、後者の記事のボーイスカウトにおける「借りる/借りない」の話は、記事の通りに読んでもあんまり大物/小物関係ないような気はするんですけど。

まあ、「先生に言いつける」という行為が、子どもたちの人間関係の中で忌避されがち、というのは分かるんですよ。友達付き合いとかその後の空気とか、あるいは友人間での印象とかを考えれば、そういうことをしないで流す方がなんだかんだでいい結果を生む場合が多い、というのも分かる。

ただ、自分の中でちょっとあんまり納得いかないなあと思ったのは、

・「自分の基準で納得できない行為について先生に報告する」というのを「告げ口」とか「チクリ」とかってラベリングするのっていじめっ子の論理じゃないの?
・報告/連絡/相談/共有って基本的にいいことだし必要なことじゃないの?
・それをマイナスの方向にラベリングする「小物」という言葉に大人が、あるいは親が賛同しちゃうの?

という点なんです。

だって社会人としての我々は、ことあるごとに「きちんと上司に報告・相談しましょう」「リーガル違反を見逃すのは良くないことです」って教えるし、教えられるし、そういう合意を形成しているわけじゃないですか?

「ちょっとくらいのルール違反は、空気の為に見逃しましょう」というロジックって、例えば内部告発を抑圧する組織側の論理であって、要は権力者側の言い方じゃありませんでしたか?

仮にルール自体、あるいはルールに対する認識がおかしいのであれば、そのルールや認識の在り方について議論をするべきで、むしろ報告/共有すること自体は正しいことなんだよ、と言わないといけないじゃないですか?

なのに、例えばせめて「君のスタンスは正しい。けれど、そのルール自体ちょっとおかしいし、人間関係のことを考えてもそれは言わない方がいいかも」と言い聞かせるわけじゃなくて、「小物感」という言葉になっちゃうのかなあ、と。更にその論調にたくさんの人が同意しちゃうのかなあ、って思ったんです。

いやまあ、現実問題として友人たちから浮いているし生きにくそうということであれば、「こういう選択肢もあるんだよ」ということは伝えてあげた方がいいだろうし、書かれていない範囲では元増田(冒頭の記事を書いた人)もそれをやっているのかも知れませんが、

にしても「小物」という言葉はちょっと違うんじゃないかなあ、と。

そんな風に思った次第なんです。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 18:42 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月18日

車の運転滅茶苦茶怖いし、こんな怖いことをあの程度の教習でやらせていいのか、感も強い

先日、「車の運転は疲れるものなのかな?」というタイトルの匿名ダイアリーがブックマークを集めているのを見かけました。そんな過激な内容だとも思わなかったのですが、今見たら何故か消えていたので、アーカイブをリンクしておきます。


車を運転しない男性が、車を長時間運転してくれた彼女の感覚をいまひとつ実感できなくて不安になる、というような話でしょうか。「運転好きだけど終わった後は疲れる」というのはすごくよくわかるので、むしろ彼女さんの感想はごく当然で、深く勘繰るようなものでもないんじゃないか、と思いました。

以下は単なる雑感です。

しんざきは一応免許は持っていまして、旅行時にはちょくちょくレンタカーを借りて運転します。奥様がペーパードライバーなので、大抵の場合私が一人でずーっと運転します。1日数時間運転する場合も多いです。

上でも書きましたが、運転自体は好きです。

元々私の父が車関係の仕事をしていたということもあり、小さなころから車に乗る機会が多く、乗り物酔いとも無縁でした。「運転」という行為には男の子としての原初的な楽しみのようなものもあり、「自分の操作で好きな方向に乗り物が動く」という、ただそれだけで楽しさを感じることが出来ます。それに加えて、車それぞれにいろんな個性があり、運転している感覚も全然違うというのも面白い。オプション装備とか、更に男の子回路をくすぐってくれる要素もあります。


ただ、その上で運転しながら思うのは、「これよく考えるとめちゃくちゃ難易度高いし、恐ろしい行為だよな」と。


信号、歩行者、バックミラー、サイドミラー、道路標識、自車のスピードや状態、対向車、道路横の地形、道路上の障害物。運転中に目配りしないといけないポイントは山ほどあり、少しでも目を離せば何かしらのトラブルが発生する可能性がある。

更に、それらに視線を配りながら、自分が操作・管理をしないといけないポイントも山ほどある。ハンドル、アクセル、ブレーキは元より、ウィンカーやらヘッドライトやらバックライトやらサイドブレーキやらワイパーやら空調やら、これ人間が通常管理出来るUI規模なのか、と思うくらい管理しないといけないポイントは多いです。

もちろん慣れればこれらはある程度無意識でも出来るようになるもので、毎度運転する度上記のようにリストアップして対応しているわけでもないんですが、「慣れていればトラブルが減る」というわけでは決してなく、むしろどんな運転ベテランでも事故る時は事故ります。この時、全て自分の注意不足に由来する事故ならまだ納得出来るかも知れないですが、時には天災のような事故もあって、だからといって自分の責任がゼロになるわけでもない。

トラブルの大きさはよりどりみどりで、ただ物損だけで済めばまだしも、場合によっては人命が失われる可能性もある。当然、車には自分の家族も乗り合わせているわけで、家族が巻き込まれる可能性だってないとはいえない。基本的に、「何か起こった時」に責任をとれる範囲が、到底自分のキャパシティを越えているわけです。そりゃ保険には入るわけですが、お金で解決しない問題はどうにもなりません。

こうして考えると、改めて、「車の運転」ってめちゃくちゃリスキーで責任重大なことだなあ、とは考えざるを得ないんですよ。そりゃ、長時間運転すればどっと疲れます。むしろ疲れない方が不安です。

一方で、ここまでリスキーで重大なことに対して、「学び」「練習」の機会が限られ過ぎではないか、とは考えるところです。私確か一ヶ月くらいで免許とったと思うんですが、せいぜいそれくらいの研修期間で車には乗れてしまう。かつ、その後ずっと運転していなかったペーパードライバーでも、ゴールド免許で堂々と車に乗ることができてしまう。

これ大丈夫なのか、感ありますよね。そりゃ免許更新時の講習とか申し訳程度にありますけど、あれだけの講習で教習時の感覚なんて思い出せるもんか?

この辺、たとえば教習所でのペーパードライバー教習みたいな制度もあるにはあるんですが、結構なお値段がしてなかなか気楽に出来るものではないですし、もうちょっと「練習運転」が気軽に出来るような制度があるといいんじゃないかなあ、とは思った次第なんです。

自家用車さえあれば、免許試験場のコース開放なんかもあるんですけどね。車庫入れの練習とかもっと気楽にしたいんだよなあ。

皆さまにおかれましては、交通事故になど巻き込まれることも巻き込むこともなく、平穏無事な生活を送られることを心から願ってやみません。

今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 14:50 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月07日

将棋の試合後インタビューが恐ろしく良質だということはもっと知れ渡っていいのでは、と思った件

こんな記事を読みました。


それによると、男性アスリートを表現する際に最も一般的な形容詞は「最速」「強い」「偉大」「卓越した」だった。他方、女性アスリートの場合は「独身」「既婚」「妊娠中」「年増」だった。



大坂なおみ選手が勝ったのか負けたのかすら知らない状態で、プレスカンファレンスルームに駆け込むことになる。そこで、まずは、他の記者の質問を聞いて、どのような試合だったのか、想像しながら質問を考えることになる。そして、ほとんどの場合、90%の記者が同じ状態であることに気がつく。つまり、全員、何を聞いたらいいのか、途方に暮れているのである。
大坂選手からしたら、「は? それ、本気で言ってるの?」みたいな質問しか来ない。

大坂なおみ選手の、試合後記者会見拒否に絡んでの話ですよね。

男性アスリートと女性アスリートの扱いの違いの話もさることながら、テニスの試合後インタビューの低質さについては、以前から批判される文脈を観測していた記憶があります。実際、ポイントを抑えたインタビューどころか、アスリートに対する敬意すら欠いたインタビューに不快感を感じることはしばしばあります。近年はアスリート自身が自分の言葉を発信するチャネルが増えて、それでもこの状況だということを考えると、認識されにくかっただけで以前はもっとひどかったのでしょう。

facebookで書かれた記事を読むと、「何故そんなことになるのか」を解説されていて、これまた興味深いですね。「しかし、テニスの場合は、直前に10試合以上が別コートで行われており、記者が全ての試合を観ることはできない。」というのは、物理的な問題として納得感がありました。試合見ないでインタビューとかありえないだろとは思いますし、いずれにせよインタビュー対象への敬意を欠いているのは同じだと思いますが。

それはそうと、私が知っている中で「もっともクオリティが高い試合後インタビュー」は何かっていうと、将棋の試合後インタビューです。

ちょっとこの記事読んでみて頂きたいんですが、


これ読んで、インタビュアーによる質問の物凄い質の高さにちょっとびっくりしませんか?直前の試合を踏まえた質問どころか、その試合のポイントポイント、見るべき局面について適切に指摘して、それに対する的確な回答を棋士からばっちり引き出している。


△8八歩(60手目)が強い手だと感じましたが?


とか、将棋の内容みてみるとまさにここがこの勝負のポイントで、渡辺三冠もご自分のブログでこの局面を転換点として触れていらっしゃるくらいの重要な局面(本論には関係ないけど、敗北した翌日の朝にこんな記事を書ける渡辺三冠も十分物凄いと思います)なんですよね。こんな質問、自身将棋に対する理解があって、しかも試合内容を完全に把握していないと出てこないですよ。


46手目に△8三銀とぶつけて飛車をさばきにいきました。その辺りはいかがでしたか。


これも質問者自身に相当の棋力がないと出来ない質問ですよね。実際、将棋の観戦記者さんって、元奨励会員だったり学生名人だったり、自身かなりの棋力がある人って多いんですけど。(参照:Wikipedia:主な観戦記者)

さり気なさ過ぎて気付きにくいんですが、この質問も、


2月に指された朝日杯将棋オープン戦準決勝をなぞるような展開になりましたが、お互いに想定だったのでしょうか。

当然ですが過去の対戦を踏まえていないと出てこない質問です。

ただ、これって特別この試合のインタビューの質が素晴らしかったわけでもないんですよね。むしろ主要な試合後インタビューは大抵この水準。このレベルのインタビューがほぼ「当たり前」であることが、イコール将棋の報道のレベルの高さを証明していると思うんです。

将棋の観戦記者さんってフリーランスの人も多くって、この記事は無記名なのでどなたがインタビューを担当されたかまではちょっと分からなかったんですが、他の分野に比べて記者の顔が見えやすい分野である、ということも指摘出来ると思います。当然、大盤解説会や控室でがっつり他プロの解説なんかも聞きこんでいらっしゃることが専らなので、それもあってのこの質問なのでしょう。

あともう一つ、藤井棋聖・王位ってもちろん恐ろしい程将棋が強いんですが、それだけでなく非常に人格的にも安定されていて、インタビューに対する答えも実に賢明だなーって感心することが多いんです。これ、藤井二冠ご本人に寄与するところが一番大きいのは当然なんですが、それに加えて「記者が面白おかしいコメントを引き出そうとしない」というところも大きいと思うんですよね。他のスポーツならよくみかける、「相手の若さにつけこんで、うっかりしたコメントを引き出そう」という質問を見かけない。これ、アスリートに対する敬意としては最低限のものだと思うんですよ。

もちろん棋界にも過去には色々ありまして、時には「これちょっとどうなのかな…」と思わされることだって全くなかったわけではありませんが、それでも全体として見ればこれ以上ないくらい報道の質は高いと思っています。

アスリートに対するインタビューの姿勢としては、一つ将棋のそれをお手本にするべきなのではないかと。

そんな風に考えるわけです。

一旦それくらいです。






posted by しんざき at 10:51 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月28日

ちょっといい座椅子を買ったらリモートワークにおけるQOLが大変向上しました

こちらの座椅子です。


あ、スポンサードを受けてのPR記事とかではないです。こんな場末のブログに誰がスポンサードするんだって話ですが。

いやほら、コロナ騒ぎでリモート仕事が増えたじゃないですか。で、自宅のデスクトップは趣味のPCなので、仕事はちゃぶ台にノートPCを置いてやる、というスタイルが確立されていたんですよ。

で、ちょっと前まではこんな感じの、

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イオンで2000円くらいで買った座椅子に座布団とかクッションとか大量配置して誤魔化してたんですが、さすがにちょっと体力の消耗が激しくなりまして。先日、ちょっといい座椅子買うかーって決心しまして、幾つかの候補の中からこちらの座椅子を選択したんです。

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明光ホームテックさんの「腰の神様がくれた座椅子」というやつ。ちょっと名前が仰々しかったので若干躊躇したんですが、買ってみるとこれが大変いい感じで、リモートワークにおけるQOLが大幅向上しました。やっぱ靴と椅子はいいもの買わないといけないですね。

可動域が「ヘッドレスト」「座面」「フットレスト」「腰のサポート部分」と4つありまして、それぞれ14段階動くそうで。使ってみると、確かにこの4か所が自由に調整できるってでかいです。

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腰のサポート部分ってこの黒いヤツですね。座椅子って普通に座ってると段々姿勢が悪くなってきちゃうんですが、ここが腰を支えてくれるんで、長時間座っててもあんまり腰が痛くありません。一方ちょっと姿勢変えるかーってなっても、

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ヘッドレストは大体これくらいまでは傾くんで、頭を支える角度を自由に選択できます。なんならそのまま仮眠も出来る。

フットレストは

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ここら辺まで持ちあがります。足を立てかけておけるので楽ちん。

あと、ひじ掛けがついてるやつとそうでないのがあるんですが、私はひじ掛けがあるバージョンを選んで大正解でした。ちょうどちゃぶ台の高さと合うんですよねこれ。マウス持つのがめっちゃ楽。

座り心地も「柔らかすぎず固すぎず」という感じで、リラックスして座れつつ、沈み込んで眠くなったり立てなくなったりする程ではない絶妙のバランス。ノートPCでの作業が大変楽になりました。

ただ、「デカい」「わりとデカい」「存在感が強い」という点については間違いのない事実ではありまして、ある程度スペースに余裕がないとそこそこ置きにくいという問題点はあるかも知れません。

ちゃぶ台での座り仕事が多い人は検討されてみてもよろしいのでは、と考える次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 21:29 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月15日

ぼくの見た00年代ネットの風景

インターネット老害として、たまに自分の記憶について書き残しておくのも全くの無駄ではないんじゃないかなーと思ったので書きます。

00年代のネットについて、「どこで何やってたん?」と私が聞かれれば、「草の根ネットから出てきた人たちと一緒に、Teacup掲示板とwebページとCGIチャットでキャッキャ遊んでました」という答えになります。

皆さん、パソコン通信ってご存知ですか?一言でいうと、「横のつながりがないインターネット」とか、「一つのサーバ(群)だけに情報を取りにいくインターネット」みたいな感じのものなんですけど。

1990年代の前半から90年代末くらいまで、私主に「パソコン通信」で遊んでたんですよ。兄がパソコンを買って、その門前の小僧だったんですけどね。

まだそのころは、インターネットってあるにはあったんですが私の視界内ではそこまで大きくなくて、「パソコン通信の強いヤツ?よく知らんけど」くらいの印象しか持ってませんでした。メインは飽くまでパソコン通信でした。

パソコン通信ってのはサーバごとに全く文化圏が変わりまして、企業がやっているような大手のサーバもあれば、個人がやっている零細のサーバもありました。当時、個人がやっているパソコン通信のサーバを「草の根ネット」なんて呼んでいたんですが、私が主に出入りしていたのは草の根ネットの中でも最大手、恐らく当時個人が趣味でやっているパソコン通信のサーバとしては一番利用者が多かったであろう、「東京BBS」でした。

当時私はゲーセン小僧で、ゲーセンに入り浸りだったんですが、東京BBSの情報の早さってマジで凄かったんですよ。ゲーメストやベーマガのような雑誌にすらまだ載っていないような攻略情報がガンガン書き込まれていたんです。当時隠されていた超必殺技のコマンド、例えばモリガンのダークネスイリュージョンのコマンドとか、私が知ったのも東京BBS上の話です。レイストームのクレイジービットの攻略についてとか、戦闘国家の難しいマップの攻略についてとか、ジャンルも様々でした。

STGやら格ゲーやらSLGやらギャルゲーやら、ジャンルごとに色んなBBS(掲示板)があって、既存の人間関係ではとても通じないような会話がガンガン通じたんで、当時滅茶苦茶面白かったんですよホントに。どんな話題を出しても、「誰も知らない」ということがない。世の中には、ここまでマニアックな人たちがこんなにいたのか…!!って感動したもんです、当時。井戸の中の蛙が大海を知れる場所だったんです。

当時東京BBS上で私が勝手にやっていた連載みたいなものが、とある編集者さんの目に留まってゴーストライターのバイトに誘ってもらえたりもしたんですが、まあそれは置いておいて。

で、90年代後半くらいから、「ホームページ作った」って人が段々増えてきたんですよ。いや、当時は普通に「ホームページ」って呼んでたんでここでもそう呼称するんですけど。

東京BBSの掲示板上で、BBS上の友人たちの「ホームページ作ったから見に来てねー」って書き込みがちょくちょく見られるようになって。

そこから、私は明確に「インターネット」の存在を意識し始めました。「草の根ネットの友人たちがなんか始めた」というのがスタートだったんですよ、わたしには。

インターネットのつなぎ方を調べて、兄と一緒に親を説得して、プロバイダと契約してもらって。

行ってみたら、東京BBSとはまた違ったグラフィカルなページで、外国の人が来ている様子もないのに「Sorry,this page is Japanese only」とか書いてあったりしてですね。blinkで超読みにくい文章がスクロールしてたりとか、そういうアレですよ。とほほのhtml入門とかもあの頃知ったんだったかな。

当時、インターネットプロバイダーがオプションサービスとしてFTPのスペースを提供してまして、そこにHTMLを設置する人もいたんですが、やはり大きく盛り上がっていたのはgeocitiesみたいな無料のホームページサービスだったように記憶しています。それと、teacupみたいな同じく無料のCGI掲示板と、サーバに設置するCGIチャット。

特にCGIチャットの存在は大きくって、「東京BBSで絡んでた人たちと、東京BBS以上のスピード感で話せる」というのが異様に楽しくって、割とチャットに入り浸っていました。当初のメンバーは東京BBSで見知った仲間たちだけだったんですが、やがて「インターネットで初めてネットに触れた」という人たちも増えていき、その内そちらの人たちの方がメインになっていきました。

あれが、私の知る「00年代ネット」の風景です。その内ブログサービスが出始めて、私自身2004年の11月にこのブログ始めたんですけど。

99年に東京BBSの管理者さんの家で火事が起きて、一時的に東京BBSのサーバが止まっちゃって、それで完全に私はインターネットに軸足を移しちゃったんです。あれ、当時「パソコン通信の時代の終焉」みたいな扱い方されてましたねえ。

時系列の記憶がちょっとあいまいなんですが、あれと前後して「ICQ」とか「IRC」とか、個別にユーザー同士で繋がれるチャットソフトも増えていったと思います。ICQクライアント、「カッコー」とか鳴くヤツ懐かしいですよね。

それと前後して、「CGIゲーム」というのが盛り上がり初めまして、箱庭諸島とかみんなで遊んだりもしたんです。多分、flash文化隆盛のちょっと前ですね。

楽しかったですよね、箱庭諸島。同盟したり戦争したり、怪獣出てきたからミサイル撃ってもらったと思ったらそのまま島ごと全部蜂の巣にされたり。あったあった。

00年代ネットと言えばMMORPGの存在も忘れてはいけません。「FF11」とか「マビノギ」とか「RO」が盛り上がってたのもあの頃でしたよね。私自身は大航海時代オンラインの人なんですけど。海賊同士で同盟組んで中〇業者艦隊を狩ったりとか、めちゃ頑張ってた。

まあその辺もナツカシイ思い出として。

取り敢えず一つ、「2ちゃんねる」というのは巨大ではあったものの、決して「ネットの全て」どころかそこまで支配的ですらなく、2ちゃんとは全く関係のないところでも十分盛り上がっていましたよ、ということは言えると思います。

まあ、00年代ネットについてこんな記憶を持っている人もいるよ、という、それだけの話でした。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 11:39 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月08日

「〇〇を許さない空気」という言葉をちょっと批判されたくらいで発してしまう率

こんな記事を拝読しました。


「売れていないのは宣伝不足」 「もっと宣伝すれば売り上げも伸びるはず」
このような理論は正しいと思いますし、作者や編集者がそう考えるのも当然だと思います。
ですが、そんなクリエイター達に言いたいことがある。

そもそも作品の質が悪いから売れないのでは、と。

宣伝は大事だと思いますが「つまらない作品は売れない」という理論も正しいはずです。


続けて、作者と編集者に言いたいことがあります。

「つまらない作品、売れなくて当然の作品を「買ってください」と宣伝してどうするのか」ということです。


もう一点、合わせて作家の皆様に言いたいことは「読者に作品をつまらないと評価する権利を与えてほしい」ということです。

「作家は思っている以上に繊細です。水を与えなければ枯れてしまいます」

「心無い読者の批判で筆を折る作家がどれだけいることか」

「ラノベを批評したら作者に個人情報を晒された」

「合わないと思った人は何も言わずにブラウザバックしてください」

「ラノベレビュー動画が削除された」

「ライトノベルに評論家など不要」


ネットで検索すると出てきたページの見出しの文章です。とにかく今は批評を許さない空気になっている。それはとても恐ろしいことだと私は思っています。


上記の辺りの引用部分を読んで私が思ったことを簡単にまとめると、

・「つまらない作品は売れない」という側面を否定はしませんが、実際には「つまらない面白い以前に、そもそも読者に届いていないし認知されていない」作品の方が圧倒的に多いです

・面白いつまらないは個人の判断ですので、ある作品について誰かが「つまらない」と思ったとしても、それが他の誰かにとって「面白い」作品である可能性は絶対に消えません

・批評を許さない空気なんて存在しますかね…??

・「批評をしたらその批評に対して批判された」「批評に対する批判を見かけた」というくらいで、「〇〇を許さない空気」と言ってしまうのはちょっと無理があるんじゃないかと思います

・けど「〇〇を許さない空気」って言う時、「〇〇っていったら特定の誰かに怒られた」っていうくらいの原因だったってこと結構あるよね

以上になります。よろしくお願いします。

さて、最初に書きたいことは全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。

まず、当然の前提というか間違いないところから始めるんですが、

「絶対的に、誰が読んでも面白い作品」が存在しないのと同様、「絶対的に、誰が読んでもつまらない作品」というものも存在しません。

面白い、つまらないというのは相対的な尺度であって、しかもその尺度は人によって違います。誰の手も経ていないweb小説やらweb漫画ですら、「刺さる人には刺さる」コンテンツが多々あるのです。

まして商業のライトノベルなんて殆どがちゃんと編集さんの手を経て商業ラインにのっているわけで、「誰が読んでもつまらない作品」などむしろ稀有でしょう。大体の作品は、「面白いところもあればつまらないところもある」「刺さる人には刺さる」という程度の面白さは担保されています。

ただ、世の中には、出版はしてみても数百冊も売れないで大爆死、みたいな作品が山のようにあります。刺さる人にすら届かない作品が山のようにあります。

読まれてないので、「つまらない」という評価すらされません。けれど、売れません。なんででしょうね?

それは、単純に「刺さる人に届いてないから」です。「面白い/つまらない」の判断をする為には、そもそも手にとってある程度読まないといけない訳です。

顧客が購買行動に至るまでは、

認知→興味・感心→比較・検討→購入・申込

というルートをたどりますが、現代の出版マーケティングにおいて、まずこの最初の段階、「認知してもらう」というところまでたどり着くのが一番難しい、というのは常識中の常識です。そもそも現時点ですら届いてないんです。そこでSNSでの宣伝機会すら奪われてしまっては、誰にも認知されず人知れず埋もれる作品は更に増えるでしょう。

・つまらない/面白いは人それぞれであり、そもそも認知されなければ評価されない
・認知されるためのハードルが一番高い

上記二点から、

「つまらない作品は宣伝するな」というのは端的に暴論です。

というのが一点目の話。

で、実は二点目の方がもうちょっと気になったんですが。

「読者に作品をつまらないと評価する権利を与えてほしい」

ということなんですが…「つまらない」ということを許さない空気なんて、実際のところ存在してますかね?

そりゃまあ確かに、「ライトノベルに評論家など不要」みたいな文言はぐぐれば出てきますが、それ以上に「××という作品はクソ」という文言もぐぐればザクザク出てきます。ちょっと試しに「ライトノベル つまらない」でぐぐってみてください。作品けなしてるテキストどんだけ見つかりますか?

こういう、「つまらないと評価している記事がいくらでも存在する」環境で、「批評を許さない空気になっている」って言われてもいまいちピンとこないっていうか、正直何の話をしてるんだろうと思っちゃうんですよ。

いや、ありますよ?批評に対するカウンターってのは普通にあります。「〇〇って作品が面白くない!!!!」って大声で叫んだら、確かに〇〇好きの人が大挙してやってくることもあるでしょう。もしかするとぷち炎上する可能性だってあるかも知れません。

けど、

「批判にカウンターが帰ってくることがある」
「探せば、批判に対する批判のテキストが見つかる」

っていう状況を、「〇〇を許さない空気」みたいに言っちゃっていいのかなあ?と。

批判をする自由があるなら、批判に対して批判を重ねる自由だってあるでしょう。それを、「批判を批判するな!」って話にしちゃうと、それこそ「批判に対する批判を許さない空気」ってことになっちゃいませんかね、と。

現在のポリコレ関連くらいまでいったら、そりゃ「〇〇を許さない空気」まで言っちゃってもいい案件も出てくるかも知れませんが、実際のところ、現状日本「〇〇を許さない空気」の「〇〇」に当てはまるものって、少なくとも言論に限って言えばそうそうないような気がするんですよ。「炎上しやすい案件」「燃えやすい案件」くらいならあると思いますけど。

もちろん、表現者ってものは百の賛同よりも一の批判・罵倒の方を心に残してしまうものですから、多少賛成意見があったとしても怒られの方にばっかり意識が言ってしまう、というのはありがちな話です。結果的に、「〇〇について書くといつも怒られが発生する!」「〇〇を許さない空気だ!」って言いたくなっちゃうこともあるのかも知れないですけど。それちょっとあんまり妥当じゃないんじゃないかなあと。

私の言いたいことをまとめると、大体そんな感じになります。


コンテンツの批判も、コンテンツに対する「好き」の表明も、気軽に出来る世の中であり続けるといいなあ、と。

そう考える次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 23:39 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月14日

あんまりよろしくないのは、「なぜそう思うの?」と聞くことじゃなくて、「否定する為に質問をすること」だと思います。けど元々の話がなんかおかしい

この記事拝読したんですけどね。


友人のお母さんは「自分の頭でなんでだろう?と考えさせましょう」的な、たぶん当時流行った教育法をえらく信奉していたようで
「なんでそのゲームが欲しいの?」
「なんで〇〇くんと遊びたいの?」
「なんで宿題する前にゲームをするの?」
「なんでそれが食べたいの?」
とにかく何かを強く注意されたり、直接否定されたことはほとんどないんだけどあらゆることに理由を求められたことがトラウマだったそうで。
大人となり親になった今でも、自分の感情の前にその理由を求める癖があって何事も冷めてみているというか素直に受け止められない・楽しめないと言っていた。
これ本当にかわいそうだわ。
自分のプライドを守るために子供を理屈で論破するのはだめ。
それだったら鬼!と言われようと、ちゃんと「ダメなものはダメ!!」と感情的に怒る父ちゃん・母ちゃんのほうがよっぽど精神衛生上よろしいと思う。


なんかよくわからんなーと思ったんでちょっと整理したくなりました。

まず、「この増田が考えていること」と「友人に聞いた話」が微妙に歪んでいる可能性があるような気がしまして。

増田は

「自分のプライドを守るために子供を理屈で論破するのはだめ。」

と言ってるんですが、それ自体は「友人の話」と独立している増田の感想ですよね?友人は、「あらゆることに理由を求められた」だけではなく、その後に「理屈で論破」されていたんでしょうか?これ、ワンセットなのかどうかでかなり話が変わってくると思うんですけど。

仮に、「友人」が理由を求められた後に必ず「理屈で論破」されていたとしたら、そもそも問題点は「なぜそう思うの?」と聞くことじゃなくて、「否定する為に質問をすること」にあります。

これ、例に書いてある質問の内容、全て子どもの欲求でして、「ゲームがしたい」とか「〇〇くんと遊びたい」みたいな「やりたいこと」です。これに対して理由を求めた上でそれを否定したとしたら、それは「一応理由は聞いたけど、子どもの欲求は抑え込みたい」という親のアリバイ作りであって、そりゃあんまりよろしくありません。

どんな理由を答えたとしても結局否定されるんなら、子どもはそもそも理由を答えたくなくなるし、理由を考えたくもなくなります。無力感の学習ってヤツですね。これを何度も何度も繰り返されたら、最終的には欲求を口にするのもイヤになるでしょう。

「否定する為に質問すること」がよろしくないのは当たり前です。これは「考えさせること」の問題とはちょっと違う。

ただ、よくわからないのは

「大人となり親になった今でも、自分の感情の前にその理由を求める癖があって何事も冷めてみているというか素直に受け止められない・楽しめないと言っていた。」

という記載なんですよね。何事も楽しめないっていうのはどうなのかなーと思うんですけど、なんでも「理由づけ」とワンセットで否定されていたら、そもそもこういう思考になるのかなーと。いや、絶対ならないとは言いませんけど、先ほど話した「否定されること」が友人と話した内容と独立していることもあいまって、本当に「論破」されてたのかなーってのが結構疑問なんですよ。無力感を学習していたらむしろ「考えない」方向にいきますよね。

増田の思考内では

「理由を考えさせること」


「それを否定すること」

がワンセットになっているようで、だからこそ

「それだったら鬼!と言われようと、ちゃんと「ダメなものはダメ!!」と感情的に怒る父ちゃん・母ちゃんのほうがよっぽど精神衛生上よろしいと思う。」

という結句になっていると思うんですけど、それと友人の悩みって微妙にずれてるような気がするんです。これ、増田が友人の話を適当に自分の思考に引き寄せてる可能性ないかなってちょっと不安なんですけど。

個人的には、「否定とワンセットになっていないなら、考えさせることは基本的にいいこと」

だと思いますけど、ただそもそも「理由のない欲求というものも子どもには多分にあり、そういうものについて無理やり理由づけをするのはあんまり意味がない」とも思います。「お菓子喰いたい」という欲求に一体どんな理由があるんだよって話です。

「自分の頭で「なんでだろう」と考えさせる」って、元よりそういう話じゃないと思うんですよね…正しいとか正しくないとかいう話じゃなくって、これも、増田が示しているサンプルが、そもそも友人の話を正確に反映しているのかどうかはちょっと疑問なんですが…。


それくらいです。




posted by しんざき at 09:53 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月13日

小湊鐵道さんの件について雑感

〇何が起きたのか
・小湊鐵道株式会社さんの公式Twitterアカウントが、とがったツイートで人気を博していた
・5/12に全ツイート削除(リプライと引用ツイートを除く)
・アカウント担当者さんが以下のようなツイート(主旨としては、「担当を外された」「始末書を書かされた」「ガイドライン等はなかった」といった内容)

・もともとのフォロワー・ファンだった人たちの一部が吹き上がって、「#小湊鐵道中の人の不当解任に抗議します」といったタグまで作って抗議中

下記はねとらぼさんが小湊鐵道さんに問い合わせた結果。


会社側の言い分によると、「とがったツイート自体を問題視したわけではない」「会社の内部情報に関わるようなツイートをしており、注意していた」「ガイドラインを作っていなかったのは会社側の問題(ただし担当者がそういったものを作る責任者でもあった)」とのこと。

〇考えたこと
・Twitterについての戦略変更、担当者変更は会社側の意志によって実施されることであって不当もなにもない
・ただ、コンテンツを育てる立場としては、「過去のツイートを削除する」(それも全削除ではなくリプライを残しており、いかにもTwitterについての識見不足を露呈)というのは悪手だったと思う
・会社の言い分と担当者の言い分、どちらがより妥当なのかはちょっと分からない。ただ、一般論として、社内情報を書くのは当然ながらコンプライアンス違反であって、それは処罰の正当な理由となる
・担当者さんの最後の数ツイートについては、気持ちは分かるけどちょっとそれを書くのはどうなのかな…と思った
・不当解任つったって別に不法に解雇されたわけでも労基に違反しているわけでもなく、「不当解任」という方向で抗議してる人たちはちょっと落ち着いた方がいいと思う。抗議すればする程中の人の立場やばくなんないかな…
・ただそれはそれとして、会社のやり方のまずさを批判するのは特段問題ないと思う
・Twitterにおけるマーケティングが孕んだレピュテーションリスクを可視化した好例だなーと思った


〇補足
ということで、言いたいことは上で全部書いたので、以下は補足です。

まず、今回の件が炎上案件になってしまったのは、もちろん公式アカ担当者さんのツイートが発端ではあるんですが、なにより「守旧的な、頭の固い、かつSNSのことなんて何もわかっていない古臭くてブラックな上層部」という匂いを発生させてしまったことと、そういうのを叩くのが大好きな人たちに見つかってしまったことの二点が非常に大きいと思います。

特に

・過去のツイートを削除
・しかも、リプライは見逃している

などという行為は、コンテンツ維持の視点で悪手であるだけでなく「Twitterのこと何もわかってねーぜ」ということを大声で喧伝しているようなもので、これについては悪手中の悪手といっていいでしょう。恐らくこれがなければここまでの話になっていなかったんじゃないでしょうか。

恐らくTwitterについてある程度知見があったのが担当者さんだけだったんだろうなーということは容易に推測出来、であればまずどんな形でも引継ぎを進めておくべきだった。その上で、社内情報が含まれるツイートだけ精査して削除し、あるタイミングで管理権限を移行し、担当者変更については淡々とツイートすればそれで済んでいた。

これについては、Twitterでマーケティングをする多くの企業が悪い例として認識するべき事案だなーと考えるばかりです。

小湊鐵道さんのツイートについて、私自身以前から拝見はしていたものの、どれが「社内情報」に当たるのかまでは観測しておりませんでした。とはいえ、一般論として「Twitterの担当者さんが、とがったリプライをする余り筆が滑ってしまう」というのはよくあることでして、アカウントのノリとしては多少コンプライアンス違反を踏んでしまうことはあり得る話だなーと思ってはおりました。

「フォロワー数のノルマを課せられたまま投げっぱなしにされていた」というのは、状況見ても恐らくその通りだったんだろうなーと思いまして、そこについてはまことにご苦労されたんだろうなーとご同情を禁じ得ません。ノルマを課せられて、大きな成果を殆ど一人で挙げたのに、あるタイミングでいきなり全部消されてアカウントごと取り上げられてしまう。物凄くお悔しいだろうなあ、と思います。「気持ちは凄く分かる」という感じです。

ただ、今回の炎上案件については、明らかに一SNS担当者としての枠を外れた話であって、ビジネスパーソンとしては「ちょっとそこまで書いちゃうのはどうなのかな…」と思いはしました。思いっきりレピュテーションリスクを顕在化させてしまっている。

これが実際企業の内部告発とかだったらまだしも、やってることは(少なくとも見えている範囲では)不法でも脱法でもなんでもない話であって、それを「勇気ある告発」みたいに扱うのはちょっと無理があると思うんですよね。

そういう意味で、まるで内部告発者を祭り上げるような抗議をしている方々におかれましては、「いやちょっと落ち着かれた方がいいのでは…」と思うところ大です。もともとのファンの人たちが「寂しい!」「やめないで!やめさせないで!」といった声をあげるのは当然のことであって、それはどんどんやっていいと思うんですけど、そもそも元々小湊鐵道さん自体知らなかったような人たちが、「頭の固いおっさんたちに不当な扱いをされた可哀そうなTwitter担当者を救え」みたいな感じでお祭りを始めるのは正直ちょっとどうかと思うんですよね。ちょっと、担当者さん自身妙な方向で追い込まれないか割と心配です。

「どんな形でSNSにおけるレピュテーションリスクが発動するか分かったもんじゃない」というのは本当に心から実感するところでして、そこについてはあらゆる企業が襟を正すべきところだなーと考えるわけです。Twitterこわい。

小湊鐵道さんがどんな判断をされるのかは当然分かりませんが、みんながなるべく不幸にならないような着地点が見いだされることを願ってやみません。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 12:59 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月13日

秋葉原通り魔事件の母親の話から「察して」批判、ツイフェミ批判にまでつなげるのはさすがに無理筋では

どうも、切り分けちゃうぞおじさんです。

こんなTogetterまとめを読みました。


で、このまとめでは大筋幾つかの問題がいっしょくたに語られていて、ちょっとヒートアップし過ぎじゃないかなーと思ったので、問題の切り分けを試みてみたくなりました。

結論から先に申し上げると、私は上記のまとめについて、下記のように考えています。

・考えていることを言葉にするのは確かに大事だし、「察して欲しい」というスタンスは特に日常生活において弊害が大きい
・しかし、それを即「虐待」とか「教育虐待」と紐づけて語るのは行きすぎ、やり過ぎ
・秋葉原通り魔事件の母親がやっていることは「察して」以前に純然たる虐待
・子どもの夢や行動に過剰な規制を加えることと上記の話は全く別の問題
・もちろんフェミニストがどうとかも完全に別の問題
・それら全てをいっしょくたにまとめているのはあんまり肯定的に受け取れない
・「察して欲しい」という言葉に必要以上に悪いイメージを植え付けるのは反対

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまいましたので、あとはざっくばらんに行きましょう。

まず、上記セルフまとめについてなんですが、全体を概観すると、「察して欲しい」という言葉を秋葉原通り魔事件と紐づけて教育虐待にまで紐づけ、更に情報遮断教育についての批判からファミニスト批判にまで繋げようとする構成になっているように思います。

まず重要な前提として認識しておきたいことなのですが、加藤智大氏の母がやっていたことは察して欲しい」以前に純然たる虐待であって、「察して」などという言葉で表現出来るのはそのほんの僅かな一側面にすぎない、ということです。

秋葉原事件の記録については様々な記事・記録が公になっています。私が個人的に読んだのは中島岳志氏の「秋葉原事件 加藤智大の軌跡」でして、詳しくまとまっていてわかりやすいのでご興味ある方には一読をお勧めしたいのですが。


加藤氏の母親が加藤氏に対して虐待や教育遮断に近いことを行っていたのは事実のようですが、例えば「泣くと口にタオルを詰める」だとか、「10回泣くと屋根裏部屋に閉じ込める」だとか「質問に答えられないとビンタ」などというのは、「察しろ」などということ以前の問題です。「理由を説明しないで罰だけを加える」というのはもちろん子どもにとって理不尽な思いを残しやすい話ではありますが、これらはたとえ「理由を懇切丁寧に説明した上でもやってはいけないこと」です。というか、加藤氏の母親がやっていたことは殆どがそうです。

そして、これらの行為が「察して欲しい」という感情に立脚しているかどうか、などという検証はまだ誰もやっていません。虐待が行われているからといって、イコール「それは、自分がして欲しいことを言葉にして伝えられないからだ」などと短絡することは出来ません。

また、(これについては上記まとめでも&でくくって表現されてはいますが)加藤氏が「アニメ」「漫画」といった様々なコンテンツを遮断されて育ったこと、またことあるごとに人格否定をされていたことも話には挙がっています。当たり前ですが、これについては完全に「察して欲しい」とは別の問題であって、いっしょくたに語るのは適切ではありません。

更にいうと、加藤氏におけるコンテンツ遮断は記録を見る限り相当極端なレベルであって、「情報遮断」「コンテンツ遮断」の類例として考えるのもあまり適切ではないと考えます。

一方で、加藤氏の人格形成に母親の虐待が大きく影を落とした形跡は確かに見受けられますが、加藤氏の凶行は決してそれだけが原因とは言えず、それ以外にもさまざま複雑な原因がある、ということは上記書籍でも語られているところです。

それを一概に「察して母」などという言葉でくるんで即凶行と紐づけるような書き方をするのは、ちょっと話の持って行き方として乱暴すぎます。

要は、「察して」という言葉と紐づけて語るには、加藤氏の母親の例は適切ではないということ。それが最初に言うべきことです。「そういうレベルの問題じゃないよ」って話です。



これはこのまとめだけの話ではないのですが、「察してちゃん」といった言葉に代表される通り、「言葉にはしないまま相手に理解を求める」というスタンスは、現在特にweb上で、かなり悪いイメージをまといつつあるようです。

これについても、私はちょっとだけ懸念をもっています。

「察して欲しい」というスタンスが日常生活でコミュニケーションに齟齬をきたし得ること、またそれが子どもの情操教育に悪影響を与える可能性がある(飽くまで可能性の話であって、そういう方向での統計だった研究があるのかどうか確認出来ていませんが)ことについては私も賛同する立場ですが、だからといってそれが即子どもの人格を決めるわけでもありません。

子どもの成長、家庭の在り方というのは千差万別であって、一言で概括することは出来ません。中には、言葉でのコミュニケーションを苦手としている親だって子どもだっているでしょう。時には「お互いに察する」というコミュニケーションが、その人間関係では最適だった、ということもあり得るかも知れません。

これは何でもそうなんですが、あるスタンスのイメージを悪くし過ぎて、本来殴られる必要がない人まで殴りつけてしまうのはちょっと避けたいよなーと。

個人のレベルとしては「なるべく言葉にしよう」というスタンスですし、自分の子どもにもそうやって教えてはいますが、だからといって「言葉を介しないコミュニケーション」を一概にレッテル付けするのもあんまりよくないよなー、と私などは考えるのです。



で、その後、まとめ主さんはフェミニスト批判、ツイフェミ非難のツイートを積極的にピックアップされているわけですが、これはいくら何でも公平性を欠くんじゃないかなーと思うところはあります。




当たり前のことですが、いわゆる「ツイフェミ」と呼ばれる人たちにもさまざまな主張のグラデーションがあり、それらはいっしょくたに批判出来るものでもありません。

私も、子どもに対するコンテンツ遮断や、多少でも性的要素を持ったコンテンツに対するクレームといった事象には反対の立場です。だからといって、それらの事象を秋葉原通り魔事件と紐づけて、「察して妻」だ「察して母」だといったレッテリングと関連づけた上で批判することが妥当とはとても思えません。関連情報をちょっと読めば分かる話ですが、加藤氏の母がやったコンテンツ遮断は、たとえば宇崎ちゃん問題のような議論とは全くレベルが異なるものです。

極端な例と紐づけて相手のイメージを貶めて、それを持って非難して溜飲を下げるというのは、それこそ宮崎勤を例にとってオタク批判するのとどう違うの?という気がします。まあそういう議論をやっている人がいるのはお互い様なんでしょうけど、同じレベルに落ちることもないよなーと思う次第です。

色々書きましたが、書きたいことは最初に全部まとめてあるのでそれ以降のは補足です。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:03 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月20日

俺にとってのインターネットと、昔からのゲーム環境の変遷の話

こんな記事を拝読しました。


「ブログはオワコン」と叫ばれて久しい。今思えば、「個人がインターネットでそこそこの長文を書く」という文化は、地上での鬱屈や呪詛といった負の感情と密接な関係にあったのだろう。日常生活で溜め込んだもの、あるいは、そこでは満たされない何か。それをインターネットに「見つける」ことで、バランスを保っていた。そんな世代が確かにあったと、私は信じたい。
しかし、現実とインターネットの距離が近くなり、あるいは同一となった今、「長文を書いてまで吐き出したい何か」は、鳴りを潜めたのだろう。もうここは相対的に、昔ほど「特別な場所」ではない。Tik Tok や Instagramでエモり合うのが、今の「インターネット=現実」なのだ。

特に結論が出る話とかではないですし、返歌にすらなっていないかも知れないですが、まあ書きたくなったので書きます。

なんとなくですけど、似たような思いを昔どっかでしたなーと思いまして、ちょっと自分で考えてみたらゲーセンの話でした。

皆さん、子どもの頃ゲーセンいってました?以前も一度書いたんですけど、私、近所に凄い好きなゲーセンがあったんですよ。キャビンっていうんですけど。

昔のゲーセンって、今から思うと物凄ーくピンポイントな、スコープが限定された遊び場だったと思うんですよね。ゲームしか置いていない空間。会話なんて一切ない空間。たばこ臭くって、時には妙なもめごとがあって、怖くって、けれどそこに行かないと絶対遊べないゲームがたくさんあって。「行きづらいしハードル高いけど、いざ行ってみると底抜けに楽しくって定住したくなっちゃう」くらい面白い場所だったんです。

狭いネタ程よく刺さる、って言いますけど、当時ゲームなんて日陰の文化もいいところで、だからこそ「ゲーマー」っていう自分の属性に妙な誇りと帰属意識を感じていたんですよね。学校やら家庭やらで色々うまくいかないことがあっても、取り敢えずゲーセンでゲームをしている間は自分は「ゲーマー」でいられた。すっごい大げさにいうと、ゲーセンって自己実現の場だったんですよね。

で、当たり前のことですが、時代は変わりますし、ゲームの環境も変わります。

個人経営の小さなゲーセンは、やがてメーカー経営のアミューズメントパークに収斂していき、街から姿を消していきました。

「ゲーセンでしかできないゲーム」は、一部の大型筐体ゲームを除けばほぼなくなり、大体のゲームは家庭で、あるいはなんならスマホで出来るようになりました。

オンライン環境が想像も出来なかった程に充実し、どんなゲームでも家庭でダウンロードし、自宅ですぐ遊べる時代になりました。
ゲームのプラットフォームも大きく変遷し、スマホでお手軽に遊べるゲームが大隆盛しました。

ゲーム自体、昔よりずっと一般的になり、子どもがやっても叱られず、大人がやっても白い目で見られない文化になりました。

ゲームが一方的な都合の良い悪役にされることも、昔に比べればずっと少なくなりました。(今でも全くないわけではないですが)

これら、ゲームっていう文化について言うと、大筋「良い方向」に変化してきている部分の方が大きいと思うんですよ。ゲームが昔より遥かに手軽に遊べるようになった一方、別にディープなゲームやコアなゲームが消えた訳ではなく、Steamとかインディーズのゲームとかにアンテナを張れば幾らでもディープなゲームが見つかります。ゲーマーとしては、過去に類を見なかった程ゲームにハマりやすい時代なんですよね、今。

ただまあ、「いい時代になったなあ」と思いつつも、ほんの少し、昔を懐かしむ気持ちもあります。びくびくしながらゲーセンに通って、ゲーセンでしかできないタイトルに目を輝かせて、50円玉リソースを全霊でつぎ込んではゲームの世界に魅せられていた時代。「いい時代だった」なんて一言じゃとても括れない、タバコ臭いし血なまぐさい時代でしたが、あれはあれでまあ楽しかったなあ、と。

それは単なる思い出。私の思い出だけの話であって、正直、別段「あの頃に戻りたい」とすら思わないんです。だって今新しいゲーム遊ぶの楽しいし、昔遊んだゲームも今遊んで楽しいもん。「これから俺はどんなゲームを遊べるのか」という未来に比べれば、昔のゲーム環境がどうとか、些細な話ではあるんです。

で、私は今でもゲームを遊んでいますし、ゲームっていう文化に育てられてきたと思っていますし、ゲームに心から感謝しているし、なにがしかゲームに恩返し出来るといいなあ、とも思っていると。そういうわけなんです。

***

私はブログを2004年に初めまして、それ以前から個人のwebページを作ったりはしてたんですが、まあとにかく色々書き散らしてきました。で、ゲームを取り巻く環境と同じような感覚を、インターネットにも感じているんですよ。なんか訳の分からんこと書いてる人たちがたくさんいて、お互いに手斧を投げつけあって、時にはわけのわからん炎上が始まって、去年までアルファだった人がいきなり綺麗さっぱり消失して。

あの頃から比べると、とんでもなくインターネットは身近になったけど、あの頃のアレはアレでまあ楽しかったなーと。ただ、「あのころに戻りたい」かというと、そりゃちょっと微妙だなーと。

匿名のまま好きなことを書けるという環境は確かに滅茶苦茶貴重であって、そういう意味でインターネットは今でもずっと私にとって「特別の場所」で、周囲の環境がどう変わっても、自分の中でのその位置づけになにかしら変化があったのかというと、あんまりそういう気もしないのです。

それはちょうど、私の周囲にゲーセンがなくなっても、ゲームが今でも私の一番の趣味であり続けていることと似ています。

冒頭記事で書いて頂いている、

n=1 が「許される」環境、それが、私にとってのブログなのだ。この日常を止めることなんて出来ない。


という言葉については全力で首肯するところなんですが、結局インターネットは昔より遥かに広くなったのであって、別段俺一人好きなことをだらだら書きなぐっていても、誰に遠慮することもないだろうと。

ブログはオワコンという人が何万人いようが知ったことではなく、俺はここで、俺にとってのインターネットで思いついたことを好きなように書き続けるし、読みたい人は読めばいいし読みたくない人は別に読まなければいいんじゃないの、と。

そんな風に考えているわけなのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 09:48 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月17日

俺がファミリーベーシックを学んだ時に詰まったこと

拝読しました。


「初学者が何かを学ぶ過程」というものは非常に貴重な知見であって、知識を得た後では分からないこと、気づかないことに気づかせてくれることがしばしばあります。

経験者にとって、一番分からないのは「何が分からないのか」ですので、その情報が詰まった「分からなかった頃の話」というものは非常に貴重なのです。

そこで、私も初学時代の頃をちょっと振り返ってみようかと思ったんですが、私のプログラミング初学時代というのは小二の頃に触ったファミリーベーシックですので、ちょっと初学過ぎました。

ただ、当時は本当に色んな本を読みあさったり、ベーマガに載ってためちゃ長いプログラムを丸々全部打ち込んで0とOを打ち間違えてエラーが出て泣いたりしていたので、当時何に悩んだのかは割とはっきり覚えています。知見として役に立つかどうかはともかく、ちょっと懐かしいので当時のことを思い出して書いてみようと思います。内容のレベルが低すぎるのは小学校低学年の考えることだからと勘弁してやってください。

以下、承前。



〇そもそも「入力したプログラムを後から実行する」ということの意味がよく分からなかった

何を言ってるか分からねーと思うんですが、要は対話式の逐次実行しか分からなかったんですね。CLSって入力すると画面がクリアになる。BEEPって入力すると音が鳴る。言った通りのことをファミコンがしてくれる。うん、これはいい。

けど、じゃあ、 「10」 って入れてから入力すると何ですぐ実行されないのか?意外とどの参考書にもこれが書いてなかったんですよ。

で、行番号つけて入力してると、当然ながら段々画面はスクロールしていって、最初の方の行番号は画面から消えるじゃないですか?けどRUNするとちゃんと最初の方の命令が実行される。これは何でなんだ?と。当たり前ですがメモリとか記憶領域とかの知識もないので、最初プログラムってのは画面内に見えているものだけだと思ってたんですよ。

これについては、後々ベーマガで見かけた、「プログラミングというのは「計画書」を作ってあげることなんだ」みたいな表現を見て、そっか、自分が書いたものをファミコンが覚えていて後からその通り実行してくれてるんだな、的に納得しました。


〇「定義」と「動作」の違いが分からなかった

例えばMOVEとDEF SPRITEなんですけど、そもそも「何かを用意する」と「その何かを動かす」というのは別々にすることなんだよ、というのが最初全然分からなかった。というかDEF MOVEとか「動作を定義する命令」もあったんですけどそれ以前の問題ですね。DEF MOVEってその場でSPRITE呼んで動かすことも出来るんで、じゃあこれだけでいいじゃん、なんで処理分けるのとか思ってました。

これについては、確か「用意したキャラクターの色をゲームの展開に合わせて変える」みたいなプログラムがあって、そこで「あ、先にキャラクターだけを用意して、その状態を色々変えることが出来るんだな…」みたいなことでそのメリットというか、意味を納得したような記憶があります。


〇処理があっちこっち動くことの意味がよく分からなかった

GOTOとかGOSUBとか、「今いる場所から別の場所にいってそこの命令を処理して、またメインの流れに戻ってくる」みたいな命令の意味が最初さっぱり分かりませんでした。とにかく、「処理を飛ばして別のところに行く」という概念が理解出来なかった。アルゴリズムの一番基本的な部分ですよね。

これ解決したの実はゲームブックのおかげで、ゲームブックで項番飛ぶの「あ、これファミリーベーシックじゃん!!!」って納得して色んな疑問が一気に氷解したんですが、ゲームブックがなければずっと分からないままだったかも知れない。ゲームブックは偉大。

〇繰り返し処理が本当にさっぱり分からなかった

ファミリーベーシックだとFOR I=1 TO 10 STEP(繰り返す処理):NEXTみたいな感じで書くんですけど、要はfor文ですよね。これ、当時は何度解説読んでもわけわからなくって。多分、「同じ一文の中で処理がループする」「処理を抜ける為のカウンタがあってそれがインクリメントされていく」みたいな概念が難しかったからだと思うんですけど、かなり後まで繰り返し処理がうまく使えなかったんですよ。

これいつから分かるようになったのかよく覚えてないんですが、結局「なんとなくこう書くもんだから書いておこう」みたいに何度も書いてる内に、なんとなく「この回数分この処理が何度もぐるぐるするってことかな…」みたいに分かるようになったような気がします。



なんか改めて思い出すと分かってなさ過ぎて色々とアレですが、まあ初学者には違いなかったと思うのでそのまま書いてみます。ファミリーベーシック楽しかったですよね。

取り敢えずアルゴリズム的な「処理があっちこっち飛ぶ」ことを理解するのにゲームブックはマジ最適だったと思うのでみんなゲームブック読むといいと思います。特に創土社のヤツ。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 16:23 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月07日

そもそも多様性ってメリットじゃなくてコストなんですよね

こちらの記事を読んで思ったことというか、私の理解をそのまんま書きます。特に反論とかではないです。


「画一的である事はいけない事だってよく言われてるけど、いったい何が悪いの?もの凄く便利じゃない?」
この発言は多様性を尊ぶ人たちからかなりウケが悪かったと記憶している。
が、反論する人たちは「画一性悪・多様性善」というような事をトートロジーするだけで、一切合切合理的に反論できていなかった。

多分なんですけど、「完全にマジョリティ」という人にとってはそもそも「多様性」なんて不要なんですよ。

人間、自分に近いもの程理解しやすい、自分に近い人と程気持ち良く過ごせるのはまあ一般的な話でして。「自分と全然違う」誰かと過ごす為にしなくてはいけない気遣い、許容しなくてはいけない慣習の違い、しなくてはいけない調整なんて、もしやらずに済むなら誰もやりたくない訳です。

同じような属性、同じような考え方の人たちしかいなくって、ずっとその人たちと暮らしていけばいいのであれば、そこに「多様性」なんて必要ありません。画一的で何が悪いの、別に誰も困らないしいいじゃんね、という話ですよね。それは当然のことです。

多様性って要は「マイノリティの存在を尊重し、許容する」ということですから、マジョリティの立ち位置にある人にとっては、基本的には何の得にもならないんですよ。

ただ、実際のところ、人間の価値観とか属性とかってそんなシンプルに割り切れるものじゃないんですよね。「自分はマジョリティ」と思っている人だって、ある側面から見れば思いもよらないマイノリティかも知れないし、あるいは何かのきっかけであっという間にマイノリティになるかも知れない訳です。

例えば、ずっと田舎に住んでいた人が、仕事の都合でいきなり都会に引っ越したら、その人はその場におけるマイノリティになります。

例えば、ごく一般的な趣味しか知らなかった人が、突如あるマイナーな創作にハマり込んでその創作の熱狂的な信奉者になったら、その人は趣味というフィールドにおけるマイノリティになります。

例えば、ごく一般的なサラリーマンが、いきなりリストラに合ってホームレスになってしまったら、その人は経済的なマイノリティになります。

自分が、いつ、どんな状況でマイノリティになるか分からない。あるいは、現時点で既に、マイノリティである一部分を持っているかも知れない。

それを認識している人たちにとっては、多様性に対する寛容は一種の「安全保障」になります。自分のマイノリティとしての側面を許容して欲しいから、自分もマイノリティを許容するよ、尊重するよ、みんなも尊重しようよってことですよね。

つまり、多様性って、「みんなを幸せにすることが出来る社会的なメリット」ではなくって、「誰かを不幸にしない為の社会的なコスト」なんです。ある種の安全保障税みたいなもんです。

そういう意味で、


だから「多様性」は必ずしも幸福をもたらさない。


というのは当然なんですよね。

私は、自分の中にはマイノリティな部分も結構あると思っていますし、またいつ何がきっかけでどんなマイノリティになるか分かったもんじゃない、と思っています。

だから多様性を尊重しますし、多様性を許容する社会の方が望ましいと思っています。

一方、「多様性なんて不要」という考え方や、「俺に都合の良い多様性だけ認める」と考える人がいることも理解出来ますし、まあそういう考え方はそういう考え方で仕方ないと思っています。それだって多様性の内ではありますしね。

ただ、自分がマイノリティになった時の為に、多様性の重要さについては折に触れて言っていきたいし、出来ればみんながそれを理解してくれればいいなあと思っている。

そんな程度です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:20 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月30日

「一生聴いてられるパズルゲームBGM選手権」でクレオパトラフォーチュンのShinin' Queenが俺の中でトップになった

皆さんspotifyのID持ってますか?持ってなかったらちょっとすいませんが取得してきて下記聴いてみてください無料のフリープランでも聴けると思うんで。それかiTune'sで「Shinin' Queen」で検索していただいてもいいです。


いや、アレなんですよ、もちろんパズルゲームの曲にも名曲ってたくさんあって、パズルボブルだってプチカラットだってぷよぷよだってもじぴったんだってテトリスだって落っことしパズルとんじゃんだっていい曲山ほどあるんですけど、自分の中でトップ3を敢えて挙げるとしたら、

パズルボブルの「パオパオ島へいこう!」か、

「すーぱーぷよぷよ」の「morning of puyopuyo」か、

クレオパトラフォーチュンの「Shinin' Queen」の、

三つの内のどれかだなーとは思ったんですよ。

私の中で「一生聴いてられるパズルゲームBGM」の基準って多分三つあって、

・ゲームのフレーバーと曲調がマッチしており、ゲームへの没入感を邪魔しない
・1ループが長すぎず、適度に尺がある
・テンションが上がる盛り上がりどころ、ないしタメがある
・メロディが覚えやすく、印象的な中毒性がある

の、あれ四つだな、まあいいや、多分この四つなんですけど、やっぱこの全てで圧倒的な超絶ハイパフォーマンスを出してきてるのってShinin' Queenだなーーーって。一言で言うと超絶名曲だなーーーーーって。


いやまず、冷静になって聴いてみて頂きたいんですけど、この曲のキモって0:45なんですよ。0:45。わかります?あのほんの一瞬のブレイク。

ここで、0:30から始まった、これだけですごくメロディアスなフレーズが、一瞬止まって完全に静寂、そこでいきなりメインフレーズがピアノっぽい音でフレームインしてくるじゃないですか?これがですね。もう。もう尊い。もうここでテンションが振り切れる。滅茶苦茶盛り上がる。細かすぎて伝わらない物まねで織田信長の物まねやったら背後からご本人が登場した時くらい盛り上がる。

0:07くらいから流れてる、なんか舌ったらずな感じのよくわからないボイスというかコーラスもまたいいんですよね。皆さんご存知か分からないんですが、クレオパトラフォーチュンって背景に出てくるパトラ子っていう女の子がひたすらに可愛いゲームなんですが、そのパトラ子のキャラクターとも全く矛盾せず、むしろゲームのフレーバーに完全に没入させてくれる。0:13くらいの「ティティティティティティティッ」って感じの謎のボイスもいいですよね。素晴らしい。本当に素晴らしい。

いうまでもなく、メロディ自体もめちゃいいんですよね。ひたすら中毒性があるのに、自己主張が強いかというとそういうわけでもなく、ちゃんと存在感がある中でも控え目。聴いてて全く疲れない、というかMPが減らない。むしろ逆に増える。ノれるけどノらせすぎないっていうんですかね、このテンションの煽り方と、一方テンションを煽る中でも聴いている側の緊張感を高めないバランス、本当に絶妙だと思いませんか?

で、1:15くらいからの収束のさせ方、というかループのさせ方もまた味わい深いんですよね。メロディを構成する楽器も増えて、上げたテンションをそのまま駆け抜けるのかと思うと、最後に音数を減らしてアウトロの四つの音を聴いている側の頭に見事に刻み付けるテクニック。これだけでこの曲最高ですよ。ホント。優勝です。

ということで、「クレオパトラフォーチュンの曲はもう本当に素晴らし過ぎるし中毒性めちゃ高いしパトラ子がとても可愛いので皆クレオパトラフォーチュンをやれ」という話です。ゲームとしては「囲み」と「揃え」の二要素を高度にバランシングしているところがとても面白いしパトラ子が可愛いです。タイトーメモリーズとかで遊べます。

あと本当に全然関係ないけど落っことしパズルとんじゃんの女の子が超絶可愛いしあと曲も素敵なのでみんなとんじゃんをやれ。

今日書きたいことはそれだけです。







posted by しんざき at 23:25 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

「何度も同じ質問をするな」という人たちの謎の自信について

Books&Appsさんに寄稿したこの記事の補足というか、追加で思ったことについて書きます。


これ、基本的には「質問する側の心理的安全性」に帰結する話でして、質問自体のハードルを可能な限り下げないと質問なんて出なくて当然だよっていうことだと思っているんですけれど。

世の中には、何故か逆に「質問する側のハードルを無暗に上げようとする人たち」が結構な数いるよなーということを、この話題に頂いた反応から思い出したんです。

これ、例えば「同じことを何度も聞くな」とか、「聞いたことはちゃんと一度で理解しろ」という人、実際全然珍しくない数いるんですよね。私も言われたことありますし、横で聞いたこともあります。横から「そういう言い方やめた方がいいと思いますよ」と指摘して喧嘩になったこともあります。

これ、そういう言い方をする人の話を実際に聞いてみると、ほぼ「きちんと真剣に聴いていたら一度で理解出来る筈」「だから、何度も同じことを聞くということは、真剣に聞いていないということ」っていう思考だったんですよ。統計とった訳じゃないんで断言はできないですが、多分割と典型的な考え方なんだろうと思います。

私、これについては、二点明確に「違う」と思うところがありまして。


・仮に相手が真剣に聞いていたとして、自分が理解するに十分な説明を出来ている、という保証は一体どこにあるのか。
・理解力は人それぞれなのに、「何度も聞くな」というプレッシャーをかけることで理解力が上がる要素が一体どこにあるのか。


この二つが、私にはどうも分からないんですよ。

まず一点、「何度も同じことを聞くということは、真剣に聞いていないということ」という思考が、既にどうにも理解出来なくて。それ、「自分は一回真剣に聞けば理解出来る、必要十分な説明を出来ている」という自信はいったいどこから来るのかなあ、と。

私なんか粗忽な性格ですから、何を説明するにも絶対一つ二つは見逃しているトピックがあるだろうなーって思ってますし、だからむしろ一回説明しただけで「分かりました」とか言われると不安になるんですよ。「いや俺本当にちゃんと説明出来たっけ?」という。だから、「一度説明しただけで十分って俺絶対思わないんで、「前もいったやん」とか絶対言わないんで、何度も同じこと聞いてね」って口酸っぱく言ってるんですが。

「真剣に聞いて一度で理解しろ」っていうのは、裏返せば「真剣に聞けば一度で十分理解出来る説明を俺はしているぞ」ってことですよね。それ、相手の知識状況やら理解力やら、必要な情報やら環境やら、全部を計算に入れた説明が出来ているってことじゃないですか。マジすごい。

だから、「自分の説明を聞いた上で何度も同じような質問をするのは許さん」という時点で、まずものすげえ自信だな、というのが一つ。


そしてもう一つ、たとえ1から10まで説明出来ていたとしても、それを理解出来るかどうかは当然聞き手の理解力やら前提知識によって変わってくるわけで、それをただ「真剣に聞く」だけで解決できるという根拠はいったいどこにあるのかな、と。根性論で理解力が上がるなら幾らでも根性論採用するんですけど、大抵の人はプレッシャーかかると逆に理解力が下がるような気がするんですよね。

いや、確かに、説明していて「今この子真剣に聞いてないな」と分かるときとかはありますよ?ただ、そういう時に言うべきことは「今ちょっと気が散ってるみたいだから、ちゃんと集中して聞いてね」という一言であって、「同じことを二度聞くな」というハードル上げではない。どう教えてもどうにもならなかったら人事に相談するべきであって、結局ハードルを上げることにメリットなんて何もないような気がするんですよ。

そこで、わざわざ心理的ハードルを上げて、質問が出にくくなるようなデメリットを自分でしょっちゃう理由って一体なんなのかな、というのがもう一つ。

何よりまずい点として、この「一度で理解しろ」的教育を受けてきた人って、更に自分もその教育を再生産しちゃうような気がするんですよね。実際、「オレも若い頃はそう教育されてきた」っていうスタンスの人って、想像以上に多いような気がしているんですよ。結果、質問をすること自体ハードルの高い、プレッシャー型新人教育が蔓延してしまう。これもまあ一種の生存バイアスだと思いますけど。

理解力の低い人をバンバン切り捨てても後から後から新人がくるような状況ならまだいいかも知れないですけど、もうそういう時代でもないじゃないですか、今。正直なところ、余程ハードルを下げていても、自分の仕事が進まなくなる程質問が来ることなんてないんだから、めいっぱいハードル下げてなんぼだと思うんですよ、私。

だから私は、例えば新人を教える立場になった時は、まず「最初は何も分からなくて当然」「まず「何が分からないか」を明確にしていくことが目標」「「さっきも言ったけど」とか絶対言わないから同じことを何度でも聞け」って口酸っぱく言うところから始めています。なんなら、「説明が理解出来ない時は説明してる側が悪いと思え」とまで言います。それは、多分その新人が育ってからも、そういう考え方で下と接した方がきっと教育成功率が高くなるだろう、と思うから。

そんな感じで、それなりの人数の新人がある程度働けるようになってきている、とは思うんですが。とはいえやっぱりまだまだ粗忽で説明不足な点は全く治っていないんで、今後も精進していこうと思う次第なわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 13:21 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月10日

物語にカタルシスをどう配置するか、という話

こんな増田を読みました。


「命からがら逃げだす」を落としどころにできない所なんじゃないかと最近思った。
ナルニア国物語とか指輪物語とか、あれ行く先々で中ボス張り倒して回ったりしないだろ。
あさびらき丸のベルン領みたいな例外はあるけど、基本的に、旅の目的が最優先だから、
「やばい奴の縄張りに入ってる事に気づいたら、安全圏まで脱出する」が基本なんだよね。

スレイヤーズとかなろうとかのファンタジーは、何か知らんが、水戸黄門的というか、RPG的というか、ジャンプ的というか、
いちいち事件に首突っ込んで解決するまで先に進まないって、お前はコナン君かって展開ばっかなんだよね。


なろう系のことは良く知らないのでラノベ論に立ち入る気はないんですが、これはジャンルがどうこうというより「カタルシスを得られるスパンをどう設定するか」の話ではないかなあ、と思いました。

物語上で目的達成の効果を考えてみると、それって要は「カタルシスの配置」なんですよね。

目的達成までの間、例えばピンチがあったり、地道な努力や情報収集があったり、それこそ一時的に敵から逃げたりしてストレスがかかる。その上で、それらの努力が実って敵に勝利したり、ゴールにたどり着いたりする。そうすると読者はとても気持ちいい。

「ストレスとカタルシスをどう配置するか」というのは、どんな創作にもついて回る問題です。

基本的に、週刊連載の漫画なんかは、たとえ大目的がどーんとあったとしても、中途中途で細かく「目的達成」のカタルシスを配置する傾向がある、と思います。それはある意味当然で、カタルシスがなかなか得られない漫画だと、読者が読み続けてくれないから。増田上で出てくるコナンでも、短いと1,2話、長くても3〜4話くらいで大体一つの事件は解決しますよね。スポーツ漫画なんかも、例えば「甲子園優勝」みたいな大目的はあっても、中途中途で細かく「練習→試合」の展開を挟みますよね。

そういう点で、「細かくカタルシスを配置する展開」というのはよくあると思います。

一方、「どーんと大目的までの道のりが長く、途中でカタルシスがなかなか得られない」物語も勿論あって、それは長編小説に多いというのも確かだと思います。途中のストレスが長く大きいからこそ、最後にどーんと目的達成して感動する、という傾向もあるかも知れません。指輪物語は確かにそれに該当しそうですね。あとゲド戦記なんかも割とそうかな。

これはどっちがいい・悪いという話ではなく、物語をどう構築するか、誰にどのように訴えるか、という技術論です。細かいカタルシスがないと読んでくれない人もいれば、途中のストレス長めで最後にどーんと大目的がある展開を好む人もいる、ということです。

前者の展開に一点問題があるとすれば、「細かく目的達成のカタルシスを配置していくと、大筋の軸がブレ勝ちになる」ということかも知れません。他のことを色々やってる間に、大目的がほっぽりだしになったり、読者に大目的を忘れられてしまうというリスクです。これによって、肝心の大目的を達成することによるカタルシスが薄れてしまう可能性もあり、中途の展開で上手い感じにカバーすることが求められます。

一方、後者の問題は当然、「ストレスが長すぎると途中で読むのをやめてしまう読者が出る」ということですね。これをカバーし得るのが長編小説な訳ですが、恐らく「連載」という形式だとこれを払拭するのは難しいでしょう。もしライトノベルの展開が前者に偏っているとしたら、そういうことが原因なのかも知れません。(実際には後者の展開のラノベもそこそこありそうな気もしますが)

個人的な所感としては、この「細かい目的達成によるカタルシスと、大目的に対する軸」の描写に物凄く長けている漫画家さんとして藤田和日郎先生が思い浮かぶんですが、まあそれについてはまた別途書きたいと思います。

ということで、今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 10:51 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月04日

Kicksさんに長男のレゴ教室の話を寄稿させていただきました

段取り能力の話と、


コンテストで失敗した話と、


守破離の話です。


いや、長男が小学校3年くらいの頃からレゴ教室に通っていまして、今回寄稿依頼を頂いたので、折角なのでレゴ教室に通っている長男の話を書かせて頂きました。3本書いたら1日ごとに1本挙げて頂いたみたいで、良かったら読んでみてください。

一旦それくらいです。



posted by しんざき at 19:53 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月30日

ダライアス外伝の「SELF」は何故最高なのか、あるいは「体験」はお勧めし切れないという話

Yゾーンだった。

今でも思い出せる。今でも、あの時の緊張、興奮、衝撃を鮮烈に覚えている。もしかすると、自機を動かしたルート、レバーさばきまで体に残っているかも知れない。流石に再現までは出来る気がしないけど。

何の話をしているかというと、ダライアス外伝の話だ。


何度か書いたと思うが、ダライアス外伝は私の魂のゲームであって、このゲーム以上にやり込んだゲームは今までなかったし、少し寂しいことながら、恐らく今後の人生を見渡してもこれ以上やり込めるゲームとは多分出会えないだろう。期間としては数か月だったが、その間にどれだけの密度でダライアス外伝を遊んだか、今から考えると空恐ろしい気すらする。

で、私が初めて最終ゾーンにたどり着いたのがYゾーンだった。何故Yゾーンだったのか、というのはややはっきりしないのだが、多分「ゲーメストお勧めルート」にそのまま従うのが癪だったから、とかそんなくだらない理由だったろう。

ゲーメストお勧めルートは「A→B→D→H→L→Q→V」でフウセンウナギをラスボスに選ぶルートで、確かにHゾーンのネオンライトイリュージョンとラスボスが鎮座するVゾーン以外はそれ程難しいところがないのだが、私は後々にもこのルートをあまり遊ばなかった。単に私がヘソ曲がりだからということもあるのだが、エンディングがバッドエンドっぽくて気に入らなかったということも多分あったと思う。

当時から私がお気に入りだったルートは、「A→C→E→I→M→S→Y」というルートで、スコアを狙うのに疲れるとちょこちょここのルートに切り替えて気分転換をしていた。そして、初めて最終ゾーンにたどり着いたのも、このルートを練習している時だった。

まず、ゲーセンの話から始めるべきだろう。

当時通っていたゲーセンは「キャビン」という個人経営のゲーセンで、そこの親父は一見大雑把なように見せて、実は案外細やかな工夫をしている人だった。店の入り口に近いゾーンはどの筐体からも音が鳴り響いていてやかましかったのだが、奥の方に入るとデモ画面が無音に設定してある筐体が集まっていて、人が少ない時には自分が遊びたいゲームのBGMを割と静かに聴くことが出来た。

ダライアス外伝もそこにあった。

ダライアス外伝のBGMは、驚く程シャープで、驚く程繊細で、それまでのSTGとは全く趣を異にしていた。そんなダラ外のBGMのすばらしさに、私は圧倒されっぱなしだった。

ちょっと前こんな記事を書いた。気が向いたら読んでみて欲しい。


このゲームの最終ゾーンは、無音で始まる。

Mゾーンで「タイタニックランス」ことべレムナイトと死闘を演じて、Sゾーンで「デッドリークレセント」ことカザミダイを屠って、「ついに最終ゾーンにたどり着いた…!!」と緊張していた私の前に広がっていたのは、一面緑の森と、紫の雲に覆われたステージだった。

無音だった。ただ敵の攻撃だけはやたら激しく、やっと青勲章をとってアームを補充し一息つく間もなく、次から次へと襲ってくる敵に対処しなくてはいけなかった。

ダライアス外伝は、ステージとBGMが完全に調和して、その二つでプレイヤーに世界観を見せつけてくる。圧倒してくる、と言っても良い。ついさっきまで、「投影」の重厚なメロディでカザミダイの美しい攻撃を彩っていたゲームは、一点してひどく冷淡な顔を見せてきたような気がした。

30秒程経つと、背景が美しいジャングルに切り替わり、密林の奇妙な花々の間をシルバーホークが進む。そして、静かに、余りにも静かに、最終面のBGMがプレイヤーの耳に届き始める。静謐なピアノのようなメロディにドラムの音、時折混じる女性コーラス。

それがSELFだった。

なんというのだろう。私の感想は、「ああ、そうなのか」だったのだ。

このゲームは、このステージで終わってしまうんだなあ、と。俺は行きつくべきところに行きついたんだな、と。このBGMが、ここでこういう流れ方をするというのは、それはそういうことなんだろうな、と。全てを収束させるということなんだな、と。

何の誇張も、何の衒いもなく、私はそう納得したのだ。そう納得せざるを得ない「収束」というものが、SELFという曲にはあった。およそ「シューティングの最終面のBGM」とは思わせない程の静謐さ。無音の数十秒が、美しい背景転換が、静かに流れだしたBGMが、プレイヤーにそう感じさせたのだ。

哀惜とも諦観ともつかない私の感情を前に、Yゾーンは更なる展開を見せ、やがてラスボス「オーディアストライデント」の前で鳥を飛ばし、虹を掛ける。今でも私は、STGの最終ステージとしてこれ以上に美しいステージを知らない。


だから、私にとって、ゲームBGMというのは「体験」なのだ。


ゲームBGM には、勿論、数限りない名曲がある。ただそれだけで聴いても美しい。ただそれだけで演奏しても胸が躍る。それは勿論素晴らしいことであって、「単体で聴いても最高のBGM」という曲を、私は何曲も知っている。

けど、それでも、例えばあの日、あの時私が感じた衝撃、私が感じた哀惜というものは、あの日、あの場所にしかなかったものであり。

それは、多分ダライアス外伝のCDを聴いて、「SELF」のメロディに感動したとしても、多分味わえないものなのだ。

何故ならそこには、ステージが始まってからの無音の数十秒がないから。無音の中での激しい攻撃がないから。


大好きなゲームBGMについて、色んな人に知って欲しい。色んな人に聴いて欲しい。そして、今更その為に、わざわざ「ゲームをやってみよう!」なんて無茶を言うことは出来ない。ダライアス外伝を今から始めて、最終ゾーンまでたどり着く為に、STGをやったことがない人にどれだけリソースを投入させなくてはならないだろう?

分かるのだ。当たり前のことだ。だから、「あの体験を味わって欲しい」というのは、最初から無理な話なのだ。


ただ、もしかすると、私の「お勧め」は一方で「ネタバレ」になってしまうんじゃないか、と。あの鮮烈な感動を誰かから奪い取ってしまうことになりはしないか、と。私は、心のどこかでそんな危惧を抱いている。

思い悩みながらも、今日もこんな風に、「それでも、SELFは最高なんだよ」ということを、誰かに伝えたいなあと思ったのだ。

今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 22:40 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月24日

ポエムって言葉が「かっこいいこと言いたいだけで中身も具体性もない文章」を揶揄する単語として定着しちゃったのが悲しい

タイトルで完結していまして、ただ「悲しい」以上の話は何もないんですが。

いやまあ、ちょっと試しに「ポエム」でググってみてください。時事ネタなんで数日したら検索結果変わってるかも知れないですが。


かなしい。

別にこのケースに限らず、基本的にwebで「ポエム」って文字列をみた時、それが本来の「詩」って意味でつかわれるのをあんま見ないんですよね。それは、大抵の場合、「不明瞭で中身がない文章」とか、「ただかっこいいことを言いたいだけで何を言いたいのかさっぱり分からない文章」を揶揄する為に使われる単語になってしまっているんです。

「詩文を貶めよう」という意図で使われている訳ではない、ということは理解しているんですよ。確かに、元より詩ってめちゃ多様であって、中には抽象的で難解な文章も、あるいは実際に不明瞭な文章も存在しますから、そういう「よく分からない」という状態を総括する言葉として便利であることは分かります。

ただ、一応詩文好きの端くれとしては、ポエムって言葉が便利な罵倒語として使われるの、悲しいなあ、と。

ただでさえ詩って理解され辛いのに、こういうのでますます詩に対する偏見が広まっちゃったりしないかなあ、と。

詩を好んで読む人とか絶滅しちゃったりしないかな、と。

そんな風に慨嘆してしまう訳なんです。

いや、「ただかっこいいことを言いたいだけの、不明瞭かつ何の具体性もない文章」を表す言葉として、もうちょっと適切な言葉ってないんですかね?昔「言語明瞭意味不明」なんて言われていた人もいますけど、なんかそういう分かりやすいヤツ。


そもそも詩が「不明瞭で具体性がない」文章の代表格みたいな扱いされちゃうの、個人的には非常に納得がいきませんで、それ萩原朔太郎とか読んでも同じこと言えんの?と。文学部におけるサバンナメソッドです。

萩原朔太郎、「月に吠える」も勿論とても良いんですけど、個人的には「青猫」が超好きなんで読んでみてください。青空文庫で読めます。


いやもう明るい詩もあれば陰鬱な詩もあるんですが、「憂鬱なる花見」とか共感する人多いんじゃないでしょうか?「ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで/遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。」とか。これだけの非コミュ品性をこれだけ美しい言葉で表現できる人がいるか??

で、いやごめんなさい書いてて我慢できなくなった、やっぱ「月に吠える」も引かせてください。


例えば、だれもが恐らく国語の教科書で読んだであろう、「竹」。




光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。



いやもうなんだろうこれは。どんな脳構造をしていればこんな言葉の並びを選択出来るんでしょう?「かすかにふるえ。」で一度文章を途切れさせているところとか、もうここだけで一本詩集を読んだくらいの余韻がありますよね。これがライブだったら絶対ここで一瞬ブレイクが入って、観客席がしーーんとなった瞬間に次の演奏が始まるヤツですよ。あーーもう超好き。

ただ、勿論詩というのは本来言葉遊びであって、中原中也だとか 室生犀星の詩が素晴らしいのは当たり前のこととして、ただ「そういうものでなければ詩ではない」という話でもないと思うんですよね。別に例えば私が何か文章を書き連ねて、あるいはそれこそ今書いているこの段落文章を指して「これは散文詩だ」と言っても、いやまあそりゃなんて下手くそな詩なんだよアホかよと言われはするでしょうけど、詩という世界はそれを排撃しない。詩って広いんですよ、そりゃもう驚く程広い。

だからこそ、本来とてもひろーーーい詩を意味する「ポエム」という言葉が、総体として何かを揶揄する言葉として定着してしまっている状況が、ただただ悲しいなあ、と。

それだけの話なわけです。

今日書きたいことはこれくらいです。

posted by しんざき at 15:41 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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