2020年07月08日

「〇〇を許さない空気」という言葉をちょっと批判されたくらいで発してしまう率

こんな記事を拝読しました。


「売れていないのは宣伝不足」 「もっと宣伝すれば売り上げも伸びるはず」
このような理論は正しいと思いますし、作者や編集者がそう考えるのも当然だと思います。
ですが、そんなクリエイター達に言いたいことがある。

そもそも作品の質が悪いから売れないのでは、と。

宣伝は大事だと思いますが「つまらない作品は売れない」という理論も正しいはずです。


続けて、作者と編集者に言いたいことがあります。

「つまらない作品、売れなくて当然の作品を「買ってください」と宣伝してどうするのか」ということです。


もう一点、合わせて作家の皆様に言いたいことは「読者に作品をつまらないと評価する権利を与えてほしい」ということです。

「作家は思っている以上に繊細です。水を与えなければ枯れてしまいます」

「心無い読者の批判で筆を折る作家がどれだけいることか」

「ラノベを批評したら作者に個人情報を晒された」

「合わないと思った人は何も言わずにブラウザバックしてください」

「ラノベレビュー動画が削除された」

「ライトノベルに評論家など不要」


ネットで検索すると出てきたページの見出しの文章です。とにかく今は批評を許さない空気になっている。それはとても恐ろしいことだと私は思っています。


上記の辺りの引用部分を読んで私が思ったことを簡単にまとめると、

・「つまらない作品は売れない」という側面を否定はしませんが、実際には「つまらない面白い以前に、そもそも読者に届いていないし認知されていない」作品の方が圧倒的に多いです

・面白いつまらないは個人の判断ですので、ある作品について誰かが「つまらない」と思ったとしても、それが他の誰かにとって「面白い」作品である可能性は絶対に消えません

・批評を許さない空気なんて存在しますかね…??

・「批評をしたらその批評に対して批判された」「批評に対する批判を見かけた」というくらいで、「〇〇を許さない空気」と言ってしまうのはちょっと無理があるんじゃないかと思います

・けど「〇〇を許さない空気」って言う時、「〇〇っていったら特定の誰かに怒られた」っていうくらいの原因だったってこと結構あるよね

以上になります。よろしくお願いします。

さて、最初に書きたいことは全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。

まず、当然の前提というか間違いないところから始めるんですが、

「絶対的に、誰が読んでも面白い作品」が存在しないのと同様、「絶対的に、誰が読んでもつまらない作品」というものも存在しません。

面白い、つまらないというのは相対的な尺度であって、しかもその尺度は人によって違います。誰の手も経ていないweb小説やらweb漫画ですら、「刺さる人には刺さる」コンテンツが多々あるのです。

まして商業のライトノベルなんて殆どがちゃんと編集さんの手を経て商業ラインにのっているわけで、「誰が読んでもつまらない作品」などむしろ稀有でしょう。大体の作品は、「面白いところもあればつまらないところもある」「刺さる人には刺さる」という程度の面白さは担保されています。

ただ、世の中には、出版はしてみても数百冊も売れないで大爆死、みたいな作品が山のようにあります。刺さる人にすら届かない作品が山のようにあります。

読まれてないので、「つまらない」という評価すらされません。けれど、売れません。なんででしょうね?

それは、単純に「刺さる人に届いてないから」です。「面白い/つまらない」の判断をする為には、そもそも手にとってある程度読まないといけない訳です。

顧客が購買行動に至るまでは、

認知→興味・感心→比較・検討→購入・申込

というルートをたどりますが、現代の出版マーケティングにおいて、まずこの最初の段階、「認知してもらう」というところまでたどり着くのが一番難しい、というのは常識中の常識です。そもそも現時点ですら届いてないんです。そこでSNSでの宣伝機会すら奪われてしまっては、誰にも認知されず人知れず埋もれる作品は更に増えるでしょう。

・つまらない/面白いは人それぞれであり、そもそも認知されなければ評価されない
・認知されるためのハードルが一番高い

上記二点から、

「つまらない作品は宣伝するな」というのは端的に暴論です。

というのが一点目の話。

で、実は二点目の方がもうちょっと気になったんですが。

「読者に作品をつまらないと評価する権利を与えてほしい」

ということなんですが…「つまらない」ということを許さない空気なんて、実際のところ存在してますかね?

そりゃまあ確かに、「ライトノベルに評論家など不要」みたいな文言はぐぐれば出てきますが、それ以上に「××という作品はクソ」という文言もぐぐればザクザク出てきます。ちょっと試しに「ライトノベル つまらない」でぐぐってみてください。作品けなしてるテキストどんだけ見つかりますか?

こういう、「つまらないと評価している記事がいくらでも存在する」環境で、「批評を許さない空気になっている」って言われてもいまいちピンとこないっていうか、正直何の話をしてるんだろうと思っちゃうんですよ。

いや、ありますよ?批評に対するカウンターってのは普通にあります。「〇〇って作品が面白くない!!!!」って大声で叫んだら、確かに〇〇好きの人が大挙してやってくることもあるでしょう。もしかするとぷち炎上する可能性だってあるかも知れません。

けど、

「批判にカウンターが帰ってくることがある」
「探せば、批判に対する批判のテキストが見つかる」

っていう状況を、「〇〇を許さない空気」みたいに言っちゃっていいのかなあ?と。

批判をする自由があるなら、批判に対して批判を重ねる自由だってあるでしょう。それを、「批判を批判するな!」って話にしちゃうと、それこそ「批判に対する批判を許さない空気」ってことになっちゃいませんかね、と。

現在のポリコレ関連くらいまでいったら、そりゃ「〇〇を許さない空気」まで言っちゃってもいい案件も出てくるかも知れませんが、実際のところ、現状日本「〇〇を許さない空気」の「〇〇」に当てはまるものって、少なくとも言論に限って言えばそうそうないような気がするんですよ。「炎上しやすい案件」「燃えやすい案件」くらいならあると思いますけど。

もちろん、表現者ってものは百の賛同よりも一の批判・罵倒の方を心に残してしまうものですから、多少賛成意見があったとしても怒られの方にばっかり意識が言ってしまう、というのはありがちな話です。結果的に、「〇〇について書くといつも怒られが発生する!」「〇〇を許さない空気だ!」って言いたくなっちゃうこともあるのかも知れないですけど。それちょっとあんまり妥当じゃないんじゃないかなあと。

私の言いたいことをまとめると、大体そんな感じになります。


コンテンツの批判も、コンテンツに対する「好き」の表明も、気軽に出来る世の中であり続けるといいなあ、と。

そう考える次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 23:39 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月14日

あんまりよろしくないのは、「なぜそう思うの?」と聞くことじゃなくて、「否定する為に質問をすること」だと思います。けど元々の話がなんかおかしい

この記事拝読したんですけどね。


友人のお母さんは「自分の頭でなんでだろう?と考えさせましょう」的な、たぶん当時流行った教育法をえらく信奉していたようで
「なんでそのゲームが欲しいの?」
「なんで〇〇くんと遊びたいの?」
「なんで宿題する前にゲームをするの?」
「なんでそれが食べたいの?」
とにかく何かを強く注意されたり、直接否定されたことはほとんどないんだけどあらゆることに理由を求められたことがトラウマだったそうで。
大人となり親になった今でも、自分の感情の前にその理由を求める癖があって何事も冷めてみているというか素直に受け止められない・楽しめないと言っていた。
これ本当にかわいそうだわ。
自分のプライドを守るために子供を理屈で論破するのはだめ。
それだったら鬼!と言われようと、ちゃんと「ダメなものはダメ!!」と感情的に怒る父ちゃん・母ちゃんのほうがよっぽど精神衛生上よろしいと思う。


なんかよくわからんなーと思ったんでちょっと整理したくなりました。

まず、「この増田が考えていること」と「友人に聞いた話」が微妙に歪んでいる可能性があるような気がしまして。

増田は

「自分のプライドを守るために子供を理屈で論破するのはだめ。」

と言ってるんですが、それ自体は「友人の話」と独立している増田の感想ですよね?友人は、「あらゆることに理由を求められた」だけではなく、その後に「理屈で論破」されていたんでしょうか?これ、ワンセットなのかどうかでかなり話が変わってくると思うんですけど。

仮に、「友人」が理由を求められた後に必ず「理屈で論破」されていたとしたら、そもそも問題点は「なぜそう思うの?」と聞くことじゃなくて、「否定する為に質問をすること」にあります。

これ、例に書いてある質問の内容、全て子どもの欲求でして、「ゲームがしたい」とか「〇〇くんと遊びたい」みたいな「やりたいこと」です。これに対して理由を求めた上でそれを否定したとしたら、それは「一応理由は聞いたけど、子どもの欲求は抑え込みたい」という親のアリバイ作りであって、そりゃあんまりよろしくありません。

どんな理由を答えたとしても結局否定されるんなら、子どもはそもそも理由を答えたくなくなるし、理由を考えたくもなくなります。無力感の学習ってヤツですね。これを何度も何度も繰り返されたら、最終的には欲求を口にするのもイヤになるでしょう。

「否定する為に質問すること」がよろしくないのは当たり前です。これは「考えさせること」の問題とはちょっと違う。

ただ、よくわからないのは

「大人となり親になった今でも、自分の感情の前にその理由を求める癖があって何事も冷めてみているというか素直に受け止められない・楽しめないと言っていた。」

という記載なんですよね。何事も楽しめないっていうのはどうなのかなーと思うんですけど、なんでも「理由づけ」とワンセットで否定されていたら、そもそもこういう思考になるのかなーと。いや、絶対ならないとは言いませんけど、先ほど話した「否定されること」が友人と話した内容と独立していることもあいまって、本当に「論破」されてたのかなーってのが結構疑問なんですよ。無力感を学習していたらむしろ「考えない」方向にいきますよね。

増田の思考内では

「理由を考えさせること」


「それを否定すること」

がワンセットになっているようで、だからこそ

「それだったら鬼!と言われようと、ちゃんと「ダメなものはダメ!!」と感情的に怒る父ちゃん・母ちゃんのほうがよっぽど精神衛生上よろしいと思う。」

という結句になっていると思うんですけど、それと友人の悩みって微妙にずれてるような気がするんです。これ、増田が友人の話を適当に自分の思考に引き寄せてる可能性ないかなってちょっと不安なんですけど。

個人的には、「否定とワンセットになっていないなら、考えさせることは基本的にいいこと」

だと思いますけど、ただそもそも「理由のない欲求というものも子どもには多分にあり、そういうものについて無理やり理由づけをするのはあんまり意味がない」とも思います。「お菓子喰いたい」という欲求に一体どんな理由があるんだよって話です。

「自分の頭で「なんでだろう」と考えさせる」って、元よりそういう話じゃないと思うんですよね…正しいとか正しくないとかいう話じゃなくって、これも、増田が示しているサンプルが、そもそも友人の話を正確に反映しているのかどうかはちょっと疑問なんですが…。


それくらいです。




posted by しんざき at 09:53 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月13日

小湊鐵道さんの件について雑感

〇何が起きたのか
・小湊鐵道株式会社さんの公式Twitterアカウントが、とがったツイートで人気を博していた
・5/12に全ツイート削除(リプライと引用ツイートを除く)
・アカウント担当者さんが以下のようなツイート(主旨としては、「担当を外された」「始末書を書かされた」「ガイドライン等はなかった」といった内容)

・もともとのフォロワー・ファンだった人たちの一部が吹き上がって、「#小湊鐵道中の人の不当解任に抗議します」といったタグまで作って抗議中

下記はねとらぼさんが小湊鐵道さんに問い合わせた結果。


会社側の言い分によると、「とがったツイート自体を問題視したわけではない」「会社の内部情報に関わるようなツイートをしており、注意していた」「ガイドラインを作っていなかったのは会社側の問題(ただし担当者がそういったものを作る責任者でもあった)」とのこと。

〇考えたこと
・Twitterについての戦略変更、担当者変更は会社側の意志によって実施されることであって不当もなにもない
・ただ、コンテンツを育てる立場としては、「過去のツイートを削除する」(それも全削除ではなくリプライを残しており、いかにもTwitterについての識見不足を露呈)というのは悪手だったと思う
・会社の言い分と担当者の言い分、どちらがより妥当なのかはちょっと分からない。ただ、一般論として、社内情報を書くのは当然ながらコンプライアンス違反であって、それは処罰の正当な理由となる
・担当者さんの最後の数ツイートについては、気持ちは分かるけどちょっとそれを書くのはどうなのかな…と思った
・不当解任つったって別に不法に解雇されたわけでも労基に違反しているわけでもなく、「不当解任」という方向で抗議してる人たちはちょっと落ち着いた方がいいと思う。抗議すればする程中の人の立場やばくなんないかな…
・ただそれはそれとして、会社のやり方のまずさを批判するのは特段問題ないと思う
・Twitterにおけるマーケティングが孕んだレピュテーションリスクを可視化した好例だなーと思った


〇補足
ということで、言いたいことは上で全部書いたので、以下は補足です。

まず、今回の件が炎上案件になってしまったのは、もちろん公式アカ担当者さんのツイートが発端ではあるんですが、なにより「守旧的な、頭の固い、かつSNSのことなんて何もわかっていない古臭くてブラックな上層部」という匂いを発生させてしまったことと、そういうのを叩くのが大好きな人たちに見つかってしまったことの二点が非常に大きいと思います。

特に

・過去のツイートを削除
・しかも、リプライは見逃している

などという行為は、コンテンツ維持の視点で悪手であるだけでなく「Twitterのこと何もわかってねーぜ」ということを大声で喧伝しているようなもので、これについては悪手中の悪手といっていいでしょう。恐らくこれがなければここまでの話になっていなかったんじゃないでしょうか。

恐らくTwitterについてある程度知見があったのが担当者さんだけだったんだろうなーということは容易に推測出来、であればまずどんな形でも引継ぎを進めておくべきだった。その上で、社内情報が含まれるツイートだけ精査して削除し、あるタイミングで管理権限を移行し、担当者変更については淡々とツイートすればそれで済んでいた。

これについては、Twitterでマーケティングをする多くの企業が悪い例として認識するべき事案だなーと考えるばかりです。

小湊鐵道さんのツイートについて、私自身以前から拝見はしていたものの、どれが「社内情報」に当たるのかまでは観測しておりませんでした。とはいえ、一般論として「Twitterの担当者さんが、とがったリプライをする余り筆が滑ってしまう」というのはよくあることでして、アカウントのノリとしては多少コンプライアンス違反を踏んでしまうことはあり得る話だなーと思ってはおりました。

「フォロワー数のノルマを課せられたまま投げっぱなしにされていた」というのは、状況見ても恐らくその通りだったんだろうなーと思いまして、そこについてはまことにご苦労されたんだろうなーとご同情を禁じ得ません。ノルマを課せられて、大きな成果を殆ど一人で挙げたのに、あるタイミングでいきなり全部消されてアカウントごと取り上げられてしまう。物凄くお悔しいだろうなあ、と思います。「気持ちは凄く分かる」という感じです。

ただ、今回の炎上案件については、明らかに一SNS担当者としての枠を外れた話であって、ビジネスパーソンとしては「ちょっとそこまで書いちゃうのはどうなのかな…」と思いはしました。思いっきりレピュテーションリスクを顕在化させてしまっている。

これが実際企業の内部告発とかだったらまだしも、やってることは(少なくとも見えている範囲では)不法でも脱法でもなんでもない話であって、それを「勇気ある告発」みたいに扱うのはちょっと無理があると思うんですよね。

そういう意味で、まるで内部告発者を祭り上げるような抗議をしている方々におかれましては、「いやちょっと落ち着かれた方がいいのでは…」と思うところ大です。もともとのファンの人たちが「寂しい!」「やめないで!やめさせないで!」といった声をあげるのは当然のことであって、それはどんどんやっていいと思うんですけど、そもそも元々小湊鐵道さん自体知らなかったような人たちが、「頭の固いおっさんたちに不当な扱いをされた可哀そうなTwitter担当者を救え」みたいな感じでお祭りを始めるのは正直ちょっとどうかと思うんですよね。ちょっと、担当者さん自身妙な方向で追い込まれないか割と心配です。

「どんな形でSNSにおけるレピュテーションリスクが発動するか分かったもんじゃない」というのは本当に心から実感するところでして、そこについてはあらゆる企業が襟を正すべきところだなーと考えるわけです。Twitterこわい。

小湊鐵道さんがどんな判断をされるのかは当然分かりませんが、みんながなるべく不幸にならないような着地点が見いだされることを願ってやみません。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 12:59 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月13日

秋葉原通り魔事件の母親の話から「察して」批判、ツイフェミ批判にまでつなげるのはさすがに無理筋では

どうも、切り分けちゃうぞおじさんです。

こんなTogetterまとめを読みました。


で、このまとめでは大筋幾つかの問題がいっしょくたに語られていて、ちょっとヒートアップし過ぎじゃないかなーと思ったので、問題の切り分けを試みてみたくなりました。

結論から先に申し上げると、私は上記のまとめについて、下記のように考えています。

・考えていることを言葉にするのは確かに大事だし、「察して欲しい」というスタンスは特に日常生活において弊害が大きい
・しかし、それを即「虐待」とか「教育虐待」と紐づけて語るのは行きすぎ、やり過ぎ
・秋葉原通り魔事件の母親がやっていることは「察して」以前に純然たる虐待
・子どもの夢や行動に過剰な規制を加えることと上記の話は全く別の問題
・もちろんフェミニストがどうとかも完全に別の問題
・それら全てをいっしょくたにまとめているのはあんまり肯定的に受け取れない
・「察して欲しい」という言葉に必要以上に悪いイメージを植え付けるのは反対

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまいましたので、あとはざっくばらんに行きましょう。

まず、上記セルフまとめについてなんですが、全体を概観すると、「察して欲しい」という言葉を秋葉原通り魔事件と紐づけて教育虐待にまで紐づけ、更に情報遮断教育についての批判からファミニスト批判にまで繋げようとする構成になっているように思います。

まず重要な前提として認識しておきたいことなのですが、加藤智大氏の母がやっていたことは察して欲しい」以前に純然たる虐待であって、「察して」などという言葉で表現出来るのはそのほんの僅かな一側面にすぎない、ということです。

秋葉原事件の記録については様々な記事・記録が公になっています。私が個人的に読んだのは中島岳志氏の「秋葉原事件 加藤智大の軌跡」でして、詳しくまとまっていてわかりやすいのでご興味ある方には一読をお勧めしたいのですが。


加藤氏の母親が加藤氏に対して虐待や教育遮断に近いことを行っていたのは事実のようですが、例えば「泣くと口にタオルを詰める」だとか、「10回泣くと屋根裏部屋に閉じ込める」だとか「質問に答えられないとビンタ」などというのは、「察しろ」などということ以前の問題です。「理由を説明しないで罰だけを加える」というのはもちろん子どもにとって理不尽な思いを残しやすい話ではありますが、これらはたとえ「理由を懇切丁寧に説明した上でもやってはいけないこと」です。というか、加藤氏の母親がやっていたことは殆どがそうです。

そして、これらの行為が「察して欲しい」という感情に立脚しているかどうか、などという検証はまだ誰もやっていません。虐待が行われているからといって、イコール「それは、自分がして欲しいことを言葉にして伝えられないからだ」などと短絡することは出来ません。

また、(これについては上記まとめでも&でくくって表現されてはいますが)加藤氏が「アニメ」「漫画」といった様々なコンテンツを遮断されて育ったこと、またことあるごとに人格否定をされていたことも話には挙がっています。当たり前ですが、これについては完全に「察して欲しい」とは別の問題であって、いっしょくたに語るのは適切ではありません。

更にいうと、加藤氏におけるコンテンツ遮断は記録を見る限り相当極端なレベルであって、「情報遮断」「コンテンツ遮断」の類例として考えるのもあまり適切ではないと考えます。

一方で、加藤氏の人格形成に母親の虐待が大きく影を落とした形跡は確かに見受けられますが、加藤氏の凶行は決してそれだけが原因とは言えず、それ以外にもさまざま複雑な原因がある、ということは上記書籍でも語られているところです。

それを一概に「察して母」などという言葉でくるんで即凶行と紐づけるような書き方をするのは、ちょっと話の持って行き方として乱暴すぎます。

要は、「察して」という言葉と紐づけて語るには、加藤氏の母親の例は適切ではないということ。それが最初に言うべきことです。「そういうレベルの問題じゃないよ」って話です。



これはこのまとめだけの話ではないのですが、「察してちゃん」といった言葉に代表される通り、「言葉にはしないまま相手に理解を求める」というスタンスは、現在特にweb上で、かなり悪いイメージをまといつつあるようです。

これについても、私はちょっとだけ懸念をもっています。

「察して欲しい」というスタンスが日常生活でコミュニケーションに齟齬をきたし得ること、またそれが子どもの情操教育に悪影響を与える可能性がある(飽くまで可能性の話であって、そういう方向での統計だった研究があるのかどうか確認出来ていませんが)ことについては私も賛同する立場ですが、だからといってそれが即子どもの人格を決めるわけでもありません。

子どもの成長、家庭の在り方というのは千差万別であって、一言で概括することは出来ません。中には、言葉でのコミュニケーションを苦手としている親だって子どもだっているでしょう。時には「お互いに察する」というコミュニケーションが、その人間関係では最適だった、ということもあり得るかも知れません。

これは何でもそうなんですが、あるスタンスのイメージを悪くし過ぎて、本来殴られる必要がない人まで殴りつけてしまうのはちょっと避けたいよなーと。

個人のレベルとしては「なるべく言葉にしよう」というスタンスですし、自分の子どもにもそうやって教えてはいますが、だからといって「言葉を介しないコミュニケーション」を一概にレッテル付けするのもあんまりよくないよなー、と私などは考えるのです。



で、その後、まとめ主さんはフェミニスト批判、ツイフェミ非難のツイートを積極的にピックアップされているわけですが、これはいくら何でも公平性を欠くんじゃないかなーと思うところはあります。




当たり前のことですが、いわゆる「ツイフェミ」と呼ばれる人たちにもさまざまな主張のグラデーションがあり、それらはいっしょくたに批判出来るものでもありません。

私も、子どもに対するコンテンツ遮断や、多少でも性的要素を持ったコンテンツに対するクレームといった事象には反対の立場です。だからといって、それらの事象を秋葉原通り魔事件と紐づけて、「察して妻」だ「察して母」だといったレッテリングと関連づけた上で批判することが妥当とはとても思えません。関連情報をちょっと読めば分かる話ですが、加藤氏の母がやったコンテンツ遮断は、たとえば宇崎ちゃん問題のような議論とは全くレベルが異なるものです。

極端な例と紐づけて相手のイメージを貶めて、それを持って非難して溜飲を下げるというのは、それこそ宮崎勤を例にとってオタク批判するのとどう違うの?という気がします。まあそういう議論をやっている人がいるのはお互い様なんでしょうけど、同じレベルに落ちることもないよなーと思う次第です。

色々書きましたが、書きたいことは最初に全部まとめてあるのでそれ以降のは補足です。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:03 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月20日

俺にとってのインターネットと、昔からのゲーム環境の変遷の話

こんな記事を拝読しました。


「ブログはオワコン」と叫ばれて久しい。今思えば、「個人がインターネットでそこそこの長文を書く」という文化は、地上での鬱屈や呪詛といった負の感情と密接な関係にあったのだろう。日常生活で溜め込んだもの、あるいは、そこでは満たされない何か。それをインターネットに「見つける」ことで、バランスを保っていた。そんな世代が確かにあったと、私は信じたい。
しかし、現実とインターネットの距離が近くなり、あるいは同一となった今、「長文を書いてまで吐き出したい何か」は、鳴りを潜めたのだろう。もうここは相対的に、昔ほど「特別な場所」ではない。Tik Tok や Instagramでエモり合うのが、今の「インターネット=現実」なのだ。

特に結論が出る話とかではないですし、返歌にすらなっていないかも知れないですが、まあ書きたくなったので書きます。

なんとなくですけど、似たような思いを昔どっかでしたなーと思いまして、ちょっと自分で考えてみたらゲーセンの話でした。

皆さん、子どもの頃ゲーセンいってました?以前も一度書いたんですけど、私、近所に凄い好きなゲーセンがあったんですよ。キャビンっていうんですけど。

昔のゲーセンって、今から思うと物凄ーくピンポイントな、スコープが限定された遊び場だったと思うんですよね。ゲームしか置いていない空間。会話なんて一切ない空間。たばこ臭くって、時には妙なもめごとがあって、怖くって、けれどそこに行かないと絶対遊べないゲームがたくさんあって。「行きづらいしハードル高いけど、いざ行ってみると底抜けに楽しくって定住したくなっちゃう」くらい面白い場所だったんです。

狭いネタ程よく刺さる、って言いますけど、当時ゲームなんて日陰の文化もいいところで、だからこそ「ゲーマー」っていう自分の属性に妙な誇りと帰属意識を感じていたんですよね。学校やら家庭やらで色々うまくいかないことがあっても、取り敢えずゲーセンでゲームをしている間は自分は「ゲーマー」でいられた。すっごい大げさにいうと、ゲーセンって自己実現の場だったんですよね。

で、当たり前のことですが、時代は変わりますし、ゲームの環境も変わります。

個人経営の小さなゲーセンは、やがてメーカー経営のアミューズメントパークに収斂していき、街から姿を消していきました。

「ゲーセンでしかできないゲーム」は、一部の大型筐体ゲームを除けばほぼなくなり、大体のゲームは家庭で、あるいはなんならスマホで出来るようになりました。

オンライン環境が想像も出来なかった程に充実し、どんなゲームでも家庭でダウンロードし、自宅ですぐ遊べる時代になりました。
ゲームのプラットフォームも大きく変遷し、スマホでお手軽に遊べるゲームが大隆盛しました。

ゲーム自体、昔よりずっと一般的になり、子どもがやっても叱られず、大人がやっても白い目で見られない文化になりました。

ゲームが一方的な都合の良い悪役にされることも、昔に比べればずっと少なくなりました。(今でも全くないわけではないですが)

これら、ゲームっていう文化について言うと、大筋「良い方向」に変化してきている部分の方が大きいと思うんですよ。ゲームが昔より遥かに手軽に遊べるようになった一方、別にディープなゲームやコアなゲームが消えた訳ではなく、Steamとかインディーズのゲームとかにアンテナを張れば幾らでもディープなゲームが見つかります。ゲーマーとしては、過去に類を見なかった程ゲームにハマりやすい時代なんですよね、今。

ただまあ、「いい時代になったなあ」と思いつつも、ほんの少し、昔を懐かしむ気持ちもあります。びくびくしながらゲーセンに通って、ゲーセンでしかできないタイトルに目を輝かせて、50円玉リソースを全霊でつぎ込んではゲームの世界に魅せられていた時代。「いい時代だった」なんて一言じゃとても括れない、タバコ臭いし血なまぐさい時代でしたが、あれはあれでまあ楽しかったなあ、と。

それは単なる思い出。私の思い出だけの話であって、正直、別段「あの頃に戻りたい」とすら思わないんです。だって今新しいゲーム遊ぶの楽しいし、昔遊んだゲームも今遊んで楽しいもん。「これから俺はどんなゲームを遊べるのか」という未来に比べれば、昔のゲーム環境がどうとか、些細な話ではあるんです。

で、私は今でもゲームを遊んでいますし、ゲームっていう文化に育てられてきたと思っていますし、ゲームに心から感謝しているし、なにがしかゲームに恩返し出来るといいなあ、とも思っていると。そういうわけなんです。

***

私はブログを2004年に初めまして、それ以前から個人のwebページを作ったりはしてたんですが、まあとにかく色々書き散らしてきました。で、ゲームを取り巻く環境と同じような感覚を、インターネットにも感じているんですよ。なんか訳の分からんこと書いてる人たちがたくさんいて、お互いに手斧を投げつけあって、時にはわけのわからん炎上が始まって、去年までアルファだった人がいきなり綺麗さっぱり消失して。

あの頃から比べると、とんでもなくインターネットは身近になったけど、あの頃のアレはアレでまあ楽しかったなーと。ただ、「あのころに戻りたい」かというと、そりゃちょっと微妙だなーと。

匿名のまま好きなことを書けるという環境は確かに滅茶苦茶貴重であって、そういう意味でインターネットは今でもずっと私にとって「特別の場所」で、周囲の環境がどう変わっても、自分の中でのその位置づけになにかしら変化があったのかというと、あんまりそういう気もしないのです。

それはちょうど、私の周囲にゲーセンがなくなっても、ゲームが今でも私の一番の趣味であり続けていることと似ています。

冒頭記事で書いて頂いている、

n=1 が「許される」環境、それが、私にとってのブログなのだ。この日常を止めることなんて出来ない。


という言葉については全力で首肯するところなんですが、結局インターネットは昔より遥かに広くなったのであって、別段俺一人好きなことをだらだら書きなぐっていても、誰に遠慮することもないだろうと。

ブログはオワコンという人が何万人いようが知ったことではなく、俺はここで、俺にとってのインターネットで思いついたことを好きなように書き続けるし、読みたい人は読めばいいし読みたくない人は別に読まなければいいんじゃないの、と。

そんな風に考えているわけなのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 09:48 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月17日

俺がファミリーベーシックを学んだ時に詰まったこと

拝読しました。


「初学者が何かを学ぶ過程」というものは非常に貴重な知見であって、知識を得た後では分からないこと、気づかないことに気づかせてくれることがしばしばあります。

経験者にとって、一番分からないのは「何が分からないのか」ですので、その情報が詰まった「分からなかった頃の話」というものは非常に貴重なのです。

そこで、私も初学時代の頃をちょっと振り返ってみようかと思ったんですが、私のプログラミング初学時代というのは小二の頃に触ったファミリーベーシックですので、ちょっと初学過ぎました。

ただ、当時は本当に色んな本を読みあさったり、ベーマガに載ってためちゃ長いプログラムを丸々全部打ち込んで0とOを打ち間違えてエラーが出て泣いたりしていたので、当時何に悩んだのかは割とはっきり覚えています。知見として役に立つかどうかはともかく、ちょっと懐かしいので当時のことを思い出して書いてみようと思います。内容のレベルが低すぎるのは小学校低学年の考えることだからと勘弁してやってください。

以下、承前。



〇そもそも「入力したプログラムを後から実行する」ということの意味がよく分からなかった

何を言ってるか分からねーと思うんですが、要は対話式の逐次実行しか分からなかったんですね。CLSって入力すると画面がクリアになる。BEEPって入力すると音が鳴る。言った通りのことをファミコンがしてくれる。うん、これはいい。

けど、じゃあ、 「10」 って入れてから入力すると何ですぐ実行されないのか?意外とどの参考書にもこれが書いてなかったんですよ。

で、行番号つけて入力してると、当然ながら段々画面はスクロールしていって、最初の方の行番号は画面から消えるじゃないですか?けどRUNするとちゃんと最初の方の命令が実行される。これは何でなんだ?と。当たり前ですがメモリとか記憶領域とかの知識もないので、最初プログラムってのは画面内に見えているものだけだと思ってたんですよ。

これについては、後々ベーマガで見かけた、「プログラミングというのは「計画書」を作ってあげることなんだ」みたいな表現を見て、そっか、自分が書いたものをファミコンが覚えていて後からその通り実行してくれてるんだな、的に納得しました。


〇「定義」と「動作」の違いが分からなかった

例えばMOVEとDEF SPRITEなんですけど、そもそも「何かを用意する」と「その何かを動かす」というのは別々にすることなんだよ、というのが最初全然分からなかった。というかDEF MOVEとか「動作を定義する命令」もあったんですけどそれ以前の問題ですね。DEF MOVEってその場でSPRITE呼んで動かすことも出来るんで、じゃあこれだけでいいじゃん、なんで処理分けるのとか思ってました。

これについては、確か「用意したキャラクターの色をゲームの展開に合わせて変える」みたいなプログラムがあって、そこで「あ、先にキャラクターだけを用意して、その状態を色々変えることが出来るんだな…」みたいなことでそのメリットというか、意味を納得したような記憶があります。


〇処理があっちこっち動くことの意味がよく分からなかった

GOTOとかGOSUBとか、「今いる場所から別の場所にいってそこの命令を処理して、またメインの流れに戻ってくる」みたいな命令の意味が最初さっぱり分かりませんでした。とにかく、「処理を飛ばして別のところに行く」という概念が理解出来なかった。アルゴリズムの一番基本的な部分ですよね。

これ解決したの実はゲームブックのおかげで、ゲームブックで項番飛ぶの「あ、これファミリーベーシックじゃん!!!」って納得して色んな疑問が一気に氷解したんですが、ゲームブックがなければずっと分からないままだったかも知れない。ゲームブックは偉大。

〇繰り返し処理が本当にさっぱり分からなかった

ファミリーベーシックだとFOR I=1 TO 10 STEP(繰り返す処理):NEXTみたいな感じで書くんですけど、要はfor文ですよね。これ、当時は何度解説読んでもわけわからなくって。多分、「同じ一文の中で処理がループする」「処理を抜ける為のカウンタがあってそれがインクリメントされていく」みたいな概念が難しかったからだと思うんですけど、かなり後まで繰り返し処理がうまく使えなかったんですよ。

これいつから分かるようになったのかよく覚えてないんですが、結局「なんとなくこう書くもんだから書いておこう」みたいに何度も書いてる内に、なんとなく「この回数分この処理が何度もぐるぐるするってことかな…」みたいに分かるようになったような気がします。



なんか改めて思い出すと分かってなさ過ぎて色々とアレですが、まあ初学者には違いなかったと思うのでそのまま書いてみます。ファミリーベーシック楽しかったですよね。

取り敢えずアルゴリズム的な「処理があっちこっち飛ぶ」ことを理解するのにゲームブックはマジ最適だったと思うのでみんなゲームブック読むといいと思います。特に創土社のヤツ。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 16:23 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月07日

そもそも多様性ってメリットじゃなくてコストなんですよね

こちらの記事を読んで思ったことというか、私の理解をそのまんま書きます。特に反論とかではないです。


「画一的である事はいけない事だってよく言われてるけど、いったい何が悪いの?もの凄く便利じゃない?」
この発言は多様性を尊ぶ人たちからかなりウケが悪かったと記憶している。
が、反論する人たちは「画一性悪・多様性善」というような事をトートロジーするだけで、一切合切合理的に反論できていなかった。

多分なんですけど、「完全にマジョリティ」という人にとってはそもそも「多様性」なんて不要なんですよ。

人間、自分に近いもの程理解しやすい、自分に近い人と程気持ち良く過ごせるのはまあ一般的な話でして。「自分と全然違う」誰かと過ごす為にしなくてはいけない気遣い、許容しなくてはいけない慣習の違い、しなくてはいけない調整なんて、もしやらずに済むなら誰もやりたくない訳です。

同じような属性、同じような考え方の人たちしかいなくって、ずっとその人たちと暮らしていけばいいのであれば、そこに「多様性」なんて必要ありません。画一的で何が悪いの、別に誰も困らないしいいじゃんね、という話ですよね。それは当然のことです。

多様性って要は「マイノリティの存在を尊重し、許容する」ということですから、マジョリティの立ち位置にある人にとっては、基本的には何の得にもならないんですよ。

ただ、実際のところ、人間の価値観とか属性とかってそんなシンプルに割り切れるものじゃないんですよね。「自分はマジョリティ」と思っている人だって、ある側面から見れば思いもよらないマイノリティかも知れないし、あるいは何かのきっかけであっという間にマイノリティになるかも知れない訳です。

例えば、ずっと田舎に住んでいた人が、仕事の都合でいきなり都会に引っ越したら、その人はその場におけるマイノリティになります。

例えば、ごく一般的な趣味しか知らなかった人が、突如あるマイナーな創作にハマり込んでその創作の熱狂的な信奉者になったら、その人は趣味というフィールドにおけるマイノリティになります。

例えば、ごく一般的なサラリーマンが、いきなりリストラに合ってホームレスになってしまったら、その人は経済的なマイノリティになります。

自分が、いつ、どんな状況でマイノリティになるか分からない。あるいは、現時点で既に、マイノリティである一部分を持っているかも知れない。

それを認識している人たちにとっては、多様性に対する寛容は一種の「安全保障」になります。自分のマイノリティとしての側面を許容して欲しいから、自分もマイノリティを許容するよ、尊重するよ、みんなも尊重しようよってことですよね。

つまり、多様性って、「みんなを幸せにすることが出来る社会的なメリット」ではなくって、「誰かを不幸にしない為の社会的なコスト」なんです。ある種の安全保障税みたいなもんです。

そういう意味で、


だから「多様性」は必ずしも幸福をもたらさない。


というのは当然なんですよね。

私は、自分の中にはマイノリティな部分も結構あると思っていますし、またいつ何がきっかけでどんなマイノリティになるか分かったもんじゃない、と思っています。

だから多様性を尊重しますし、多様性を許容する社会の方が望ましいと思っています。

一方、「多様性なんて不要」という考え方や、「俺に都合の良い多様性だけ認める」と考える人がいることも理解出来ますし、まあそういう考え方はそういう考え方で仕方ないと思っています。それだって多様性の内ではありますしね。

ただ、自分がマイノリティになった時の為に、多様性の重要さについては折に触れて言っていきたいし、出来ればみんながそれを理解してくれればいいなあと思っている。

そんな程度です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:20 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月30日

「一生聴いてられるパズルゲームBGM選手権」でクレオパトラフォーチュンのShinin' Queenが俺の中でトップになった

皆さんspotifyのID持ってますか?持ってなかったらちょっとすいませんが取得してきて下記聴いてみてください無料のフリープランでも聴けると思うんで。それかiTune'sで「Shinin' Queen」で検索していただいてもいいです。


いや、アレなんですよ、もちろんパズルゲームの曲にも名曲ってたくさんあって、パズルボブルだってプチカラットだってぷよぷよだってもじぴったんだってテトリスだって落っことしパズルとんじゃんだっていい曲山ほどあるんですけど、自分の中でトップ3を敢えて挙げるとしたら、

パズルボブルの「パオパオ島へいこう!」か、

「すーぱーぷよぷよ」の「morning of puyopuyo」か、

クレオパトラフォーチュンの「Shinin' Queen」の、

三つの内のどれかだなーとは思ったんですよ。

私の中で「一生聴いてられるパズルゲームBGM」の基準って多分三つあって、

・ゲームのフレーバーと曲調がマッチしており、ゲームへの没入感を邪魔しない
・1ループが長すぎず、適度に尺がある
・テンションが上がる盛り上がりどころ、ないしタメがある
・メロディが覚えやすく、印象的な中毒性がある

の、あれ四つだな、まあいいや、多分この四つなんですけど、やっぱこの全てで圧倒的な超絶ハイパフォーマンスを出してきてるのってShinin' Queenだなーーーって。一言で言うと超絶名曲だなーーーーーって。


いやまず、冷静になって聴いてみて頂きたいんですけど、この曲のキモって0:45なんですよ。0:45。わかります?あのほんの一瞬のブレイク。

ここで、0:30から始まった、これだけですごくメロディアスなフレーズが、一瞬止まって完全に静寂、そこでいきなりメインフレーズがピアノっぽい音でフレームインしてくるじゃないですか?これがですね。もう。もう尊い。もうここでテンションが振り切れる。滅茶苦茶盛り上がる。細かすぎて伝わらない物まねで織田信長の物まねやったら背後からご本人が登場した時くらい盛り上がる。

0:07くらいから流れてる、なんか舌ったらずな感じのよくわからないボイスというかコーラスもまたいいんですよね。皆さんご存知か分からないんですが、クレオパトラフォーチュンって背景に出てくるパトラ子っていう女の子がひたすらに可愛いゲームなんですが、そのパトラ子のキャラクターとも全く矛盾せず、むしろゲームのフレーバーに完全に没入させてくれる。0:13くらいの「ティティティティティティティッ」って感じの謎のボイスもいいですよね。素晴らしい。本当に素晴らしい。

いうまでもなく、メロディ自体もめちゃいいんですよね。ひたすら中毒性があるのに、自己主張が強いかというとそういうわけでもなく、ちゃんと存在感がある中でも控え目。聴いてて全く疲れない、というかMPが減らない。むしろ逆に増える。ノれるけどノらせすぎないっていうんですかね、このテンションの煽り方と、一方テンションを煽る中でも聴いている側の緊張感を高めないバランス、本当に絶妙だと思いませんか?

で、1:15くらいからの収束のさせ方、というかループのさせ方もまた味わい深いんですよね。メロディを構成する楽器も増えて、上げたテンションをそのまま駆け抜けるのかと思うと、最後に音数を減らしてアウトロの四つの音を聴いている側の頭に見事に刻み付けるテクニック。これだけでこの曲最高ですよ。ホント。優勝です。

ということで、「クレオパトラフォーチュンの曲はもう本当に素晴らし過ぎるし中毒性めちゃ高いしパトラ子がとても可愛いので皆クレオパトラフォーチュンをやれ」という話です。ゲームとしては「囲み」と「揃え」の二要素を高度にバランシングしているところがとても面白いしパトラ子が可愛いです。タイトーメモリーズとかで遊べます。

あと本当に全然関係ないけど落っことしパズルとんじゃんの女の子が超絶可愛いしあと曲も素敵なのでみんなとんじゃんをやれ。

今日書きたいことはそれだけです。







posted by しんざき at 23:25 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

「何度も同じ質問をするな」という人たちの謎の自信について

Books&Appsさんに寄稿したこの記事の補足というか、追加で思ったことについて書きます。


これ、基本的には「質問する側の心理的安全性」に帰結する話でして、質問自体のハードルを可能な限り下げないと質問なんて出なくて当然だよっていうことだと思っているんですけれど。

世の中には、何故か逆に「質問する側のハードルを無暗に上げようとする人たち」が結構な数いるよなーということを、この話題に頂いた反応から思い出したんです。

これ、例えば「同じことを何度も聞くな」とか、「聞いたことはちゃんと一度で理解しろ」という人、実際全然珍しくない数いるんですよね。私も言われたことありますし、横で聞いたこともあります。横から「そういう言い方やめた方がいいと思いますよ」と指摘して喧嘩になったこともあります。

これ、そういう言い方をする人の話を実際に聞いてみると、ほぼ「きちんと真剣に聴いていたら一度で理解出来る筈」「だから、何度も同じことを聞くということは、真剣に聞いていないということ」っていう思考だったんですよ。統計とった訳じゃないんで断言はできないですが、多分割と典型的な考え方なんだろうと思います。

私、これについては、二点明確に「違う」と思うところがありまして。


・仮に相手が真剣に聞いていたとして、自分が理解するに十分な説明を出来ている、という保証は一体どこにあるのか。
・理解力は人それぞれなのに、「何度も聞くな」というプレッシャーをかけることで理解力が上がる要素が一体どこにあるのか。


この二つが、私にはどうも分からないんですよ。

まず一点、「何度も同じことを聞くということは、真剣に聞いていないということ」という思考が、既にどうにも理解出来なくて。それ、「自分は一回真剣に聞けば理解出来る、必要十分な説明を出来ている」という自信はいったいどこから来るのかなあ、と。

私なんか粗忽な性格ですから、何を説明するにも絶対一つ二つは見逃しているトピックがあるだろうなーって思ってますし、だからむしろ一回説明しただけで「分かりました」とか言われると不安になるんですよ。「いや俺本当にちゃんと説明出来たっけ?」という。だから、「一度説明しただけで十分って俺絶対思わないんで、「前もいったやん」とか絶対言わないんで、何度も同じこと聞いてね」って口酸っぱく言ってるんですが。

「真剣に聞いて一度で理解しろ」っていうのは、裏返せば「真剣に聞けば一度で十分理解出来る説明を俺はしているぞ」ってことですよね。それ、相手の知識状況やら理解力やら、必要な情報やら環境やら、全部を計算に入れた説明が出来ているってことじゃないですか。マジすごい。

だから、「自分の説明を聞いた上で何度も同じような質問をするのは許さん」という時点で、まずものすげえ自信だな、というのが一つ。


そしてもう一つ、たとえ1から10まで説明出来ていたとしても、それを理解出来るかどうかは当然聞き手の理解力やら前提知識によって変わってくるわけで、それをただ「真剣に聞く」だけで解決できるという根拠はいったいどこにあるのかな、と。根性論で理解力が上がるなら幾らでも根性論採用するんですけど、大抵の人はプレッシャーかかると逆に理解力が下がるような気がするんですよね。

いや、確かに、説明していて「今この子真剣に聞いてないな」と分かるときとかはありますよ?ただ、そういう時に言うべきことは「今ちょっと気が散ってるみたいだから、ちゃんと集中して聞いてね」という一言であって、「同じことを二度聞くな」というハードル上げではない。どう教えてもどうにもならなかったら人事に相談するべきであって、結局ハードルを上げることにメリットなんて何もないような気がするんですよ。

そこで、わざわざ心理的ハードルを上げて、質問が出にくくなるようなデメリットを自分でしょっちゃう理由って一体なんなのかな、というのがもう一つ。

何よりまずい点として、この「一度で理解しろ」的教育を受けてきた人って、更に自分もその教育を再生産しちゃうような気がするんですよね。実際、「オレも若い頃はそう教育されてきた」っていうスタンスの人って、想像以上に多いような気がしているんですよ。結果、質問をすること自体ハードルの高い、プレッシャー型新人教育が蔓延してしまう。これもまあ一種の生存バイアスだと思いますけど。

理解力の低い人をバンバン切り捨てても後から後から新人がくるような状況ならまだいいかも知れないですけど、もうそういう時代でもないじゃないですか、今。正直なところ、余程ハードルを下げていても、自分の仕事が進まなくなる程質問が来ることなんてないんだから、めいっぱいハードル下げてなんぼだと思うんですよ、私。

だから私は、例えば新人を教える立場になった時は、まず「最初は何も分からなくて当然」「まず「何が分からないか」を明確にしていくことが目標」「「さっきも言ったけど」とか絶対言わないから同じことを何度でも聞け」って口酸っぱく言うところから始めています。なんなら、「説明が理解出来ない時は説明してる側が悪いと思え」とまで言います。それは、多分その新人が育ってからも、そういう考え方で下と接した方がきっと教育成功率が高くなるだろう、と思うから。

そんな感じで、それなりの人数の新人がある程度働けるようになってきている、とは思うんですが。とはいえやっぱりまだまだ粗忽で説明不足な点は全く治っていないんで、今後も精進していこうと思う次第なわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 13:21 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月10日

物語にカタルシスをどう配置するか、という話

こんな増田を読みました。


「命からがら逃げだす」を落としどころにできない所なんじゃないかと最近思った。
ナルニア国物語とか指輪物語とか、あれ行く先々で中ボス張り倒して回ったりしないだろ。
あさびらき丸のベルン領みたいな例外はあるけど、基本的に、旅の目的が最優先だから、
「やばい奴の縄張りに入ってる事に気づいたら、安全圏まで脱出する」が基本なんだよね。

スレイヤーズとかなろうとかのファンタジーは、何か知らんが、水戸黄門的というか、RPG的というか、ジャンプ的というか、
いちいち事件に首突っ込んで解決するまで先に進まないって、お前はコナン君かって展開ばっかなんだよね。


なろう系のことは良く知らないのでラノベ論に立ち入る気はないんですが、これはジャンルがどうこうというより「カタルシスを得られるスパンをどう設定するか」の話ではないかなあ、と思いました。

物語上で目的達成の効果を考えてみると、それって要は「カタルシスの配置」なんですよね。

目的達成までの間、例えばピンチがあったり、地道な努力や情報収集があったり、それこそ一時的に敵から逃げたりしてストレスがかかる。その上で、それらの努力が実って敵に勝利したり、ゴールにたどり着いたりする。そうすると読者はとても気持ちいい。

「ストレスとカタルシスをどう配置するか」というのは、どんな創作にもついて回る問題です。

基本的に、週刊連載の漫画なんかは、たとえ大目的がどーんとあったとしても、中途中途で細かく「目的達成」のカタルシスを配置する傾向がある、と思います。それはある意味当然で、カタルシスがなかなか得られない漫画だと、読者が読み続けてくれないから。増田上で出てくるコナンでも、短いと1,2話、長くても3〜4話くらいで大体一つの事件は解決しますよね。スポーツ漫画なんかも、例えば「甲子園優勝」みたいな大目的はあっても、中途中途で細かく「練習→試合」の展開を挟みますよね。

そういう点で、「細かくカタルシスを配置する展開」というのはよくあると思います。

一方、「どーんと大目的までの道のりが長く、途中でカタルシスがなかなか得られない」物語も勿論あって、それは長編小説に多いというのも確かだと思います。途中のストレスが長く大きいからこそ、最後にどーんと目的達成して感動する、という傾向もあるかも知れません。指輪物語は確かにそれに該当しそうですね。あとゲド戦記なんかも割とそうかな。

これはどっちがいい・悪いという話ではなく、物語をどう構築するか、誰にどのように訴えるか、という技術論です。細かいカタルシスがないと読んでくれない人もいれば、途中のストレス長めで最後にどーんと大目的がある展開を好む人もいる、ということです。

前者の展開に一点問題があるとすれば、「細かく目的達成のカタルシスを配置していくと、大筋の軸がブレ勝ちになる」ということかも知れません。他のことを色々やってる間に、大目的がほっぽりだしになったり、読者に大目的を忘れられてしまうというリスクです。これによって、肝心の大目的を達成することによるカタルシスが薄れてしまう可能性もあり、中途の展開で上手い感じにカバーすることが求められます。

一方、後者の問題は当然、「ストレスが長すぎると途中で読むのをやめてしまう読者が出る」ということですね。これをカバーし得るのが長編小説な訳ですが、恐らく「連載」という形式だとこれを払拭するのは難しいでしょう。もしライトノベルの展開が前者に偏っているとしたら、そういうことが原因なのかも知れません。(実際には後者の展開のラノベもそこそこありそうな気もしますが)

個人的な所感としては、この「細かい目的達成によるカタルシスと、大目的に対する軸」の描写に物凄く長けている漫画家さんとして藤田和日郎先生が思い浮かぶんですが、まあそれについてはまた別途書きたいと思います。

ということで、今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 10:51 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月04日

Kicksさんに長男のレゴ教室の話を寄稿させていただきました

段取り能力の話と、


コンテストで失敗した話と、


守破離の話です。


いや、長男が小学校3年くらいの頃からレゴ教室に通っていまして、今回寄稿依頼を頂いたので、折角なのでレゴ教室に通っている長男の話を書かせて頂きました。3本書いたら1日ごとに1本挙げて頂いたみたいで、良かったら読んでみてください。

一旦それくらいです。



posted by しんざき at 19:53 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月30日

ダライアス外伝の「SELF」は何故最高なのか、あるいは「体験」はお勧めし切れないという話

Yゾーンだった。

今でも思い出せる。今でも、あの時の緊張、興奮、衝撃を鮮烈に覚えている。もしかすると、自機を動かしたルート、レバーさばきまで体に残っているかも知れない。流石に再現までは出来る気がしないけど。

何の話をしているかというと、ダライアス外伝の話だ。


何度か書いたと思うが、ダライアス外伝は私の魂のゲームであって、このゲーム以上にやり込んだゲームは今までなかったし、少し寂しいことながら、恐らく今後の人生を見渡してもこれ以上やり込めるゲームとは多分出会えないだろう。期間としては数か月だったが、その間にどれだけの密度でダライアス外伝を遊んだか、今から考えると空恐ろしい気すらする。

で、私が初めて最終ゾーンにたどり着いたのがYゾーンだった。何故Yゾーンだったのか、というのはややはっきりしないのだが、多分「ゲーメストお勧めルート」にそのまま従うのが癪だったから、とかそんなくだらない理由だったろう。

ゲーメストお勧めルートは「A→B→D→H→L→Q→V」でフウセンウナギをラスボスに選ぶルートで、確かにHゾーンのネオンライトイリュージョンとラスボスが鎮座するVゾーン以外はそれ程難しいところがないのだが、私は後々にもこのルートをあまり遊ばなかった。単に私がヘソ曲がりだからということもあるのだが、エンディングがバッドエンドっぽくて気に入らなかったということも多分あったと思う。

当時から私がお気に入りだったルートは、「A→C→E→I→M→S→Y」というルートで、スコアを狙うのに疲れるとちょこちょここのルートに切り替えて気分転換をしていた。そして、初めて最終ゾーンにたどり着いたのも、このルートを練習している時だった。

まず、ゲーセンの話から始めるべきだろう。

当時通っていたゲーセンは「キャビン」という個人経営のゲーセンで、そこの親父は一見大雑把なように見せて、実は案外細やかな工夫をしている人だった。店の入り口に近いゾーンはどの筐体からも音が鳴り響いていてやかましかったのだが、奥の方に入るとデモ画面が無音に設定してある筐体が集まっていて、人が少ない時には自分が遊びたいゲームのBGMを割と静かに聴くことが出来た。

ダライアス外伝もそこにあった。

ダライアス外伝のBGMは、驚く程シャープで、驚く程繊細で、それまでのSTGとは全く趣を異にしていた。そんなダラ外のBGMのすばらしさに、私は圧倒されっぱなしだった。

ちょっと前こんな記事を書いた。気が向いたら読んでみて欲しい。


このゲームの最終ゾーンは、無音で始まる。

Mゾーンで「タイタニックランス」ことべレムナイトと死闘を演じて、Sゾーンで「デッドリークレセント」ことカザミダイを屠って、「ついに最終ゾーンにたどり着いた…!!」と緊張していた私の前に広がっていたのは、一面緑の森と、紫の雲に覆われたステージだった。

無音だった。ただ敵の攻撃だけはやたら激しく、やっと青勲章をとってアームを補充し一息つく間もなく、次から次へと襲ってくる敵に対処しなくてはいけなかった。

ダライアス外伝は、ステージとBGMが完全に調和して、その二つでプレイヤーに世界観を見せつけてくる。圧倒してくる、と言っても良い。ついさっきまで、「投影」の重厚なメロディでカザミダイの美しい攻撃を彩っていたゲームは、一点してひどく冷淡な顔を見せてきたような気がした。

30秒程経つと、背景が美しいジャングルに切り替わり、密林の奇妙な花々の間をシルバーホークが進む。そして、静かに、余りにも静かに、最終面のBGMがプレイヤーの耳に届き始める。静謐なピアノのようなメロディにドラムの音、時折混じる女性コーラス。

それがSELFだった。

なんというのだろう。私の感想は、「ああ、そうなのか」だったのだ。

このゲームは、このステージで終わってしまうんだなあ、と。俺は行きつくべきところに行きついたんだな、と。このBGMが、ここでこういう流れ方をするというのは、それはそういうことなんだろうな、と。全てを収束させるということなんだな、と。

何の誇張も、何の衒いもなく、私はそう納得したのだ。そう納得せざるを得ない「収束」というものが、SELFという曲にはあった。およそ「シューティングの最終面のBGM」とは思わせない程の静謐さ。無音の数十秒が、美しい背景転換が、静かに流れだしたBGMが、プレイヤーにそう感じさせたのだ。

哀惜とも諦観ともつかない私の感情を前に、Yゾーンは更なる展開を見せ、やがてラスボス「オーディアストライデント」の前で鳥を飛ばし、虹を掛ける。今でも私は、STGの最終ステージとしてこれ以上に美しいステージを知らない。


だから、私にとって、ゲームBGMというのは「体験」なのだ。


ゲームBGM には、勿論、数限りない名曲がある。ただそれだけで聴いても美しい。ただそれだけで演奏しても胸が躍る。それは勿論素晴らしいことであって、「単体で聴いても最高のBGM」という曲を、私は何曲も知っている。

けど、それでも、例えばあの日、あの時私が感じた衝撃、私が感じた哀惜というものは、あの日、あの場所にしかなかったものであり。

それは、多分ダライアス外伝のCDを聴いて、「SELF」のメロディに感動したとしても、多分味わえないものなのだ。

何故ならそこには、ステージが始まってからの無音の数十秒がないから。無音の中での激しい攻撃がないから。


大好きなゲームBGMについて、色んな人に知って欲しい。色んな人に聴いて欲しい。そして、今更その為に、わざわざ「ゲームをやってみよう!」なんて無茶を言うことは出来ない。ダライアス外伝を今から始めて、最終ゾーンまでたどり着く為に、STGをやったことがない人にどれだけリソースを投入させなくてはならないだろう?

分かるのだ。当たり前のことだ。だから、「あの体験を味わって欲しい」というのは、最初から無理な話なのだ。


ただ、もしかすると、私の「お勧め」は一方で「ネタバレ」になってしまうんじゃないか、と。あの鮮烈な感動を誰かから奪い取ってしまうことになりはしないか、と。私は、心のどこかでそんな危惧を抱いている。

思い悩みながらも、今日もこんな風に、「それでも、SELFは最高なんだよ」ということを、誰かに伝えたいなあと思ったのだ。

今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 22:40 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月24日

ポエムって言葉が「かっこいいこと言いたいだけで中身も具体性もない文章」を揶揄する単語として定着しちゃったのが悲しい

タイトルで完結していまして、ただ「悲しい」以上の話は何もないんですが。

いやまあ、ちょっと試しに「ポエム」でググってみてください。時事ネタなんで数日したら検索結果変わってるかも知れないですが。


かなしい。

別にこのケースに限らず、基本的にwebで「ポエム」って文字列をみた時、それが本来の「詩」って意味でつかわれるのをあんま見ないんですよね。それは、大抵の場合、「不明瞭で中身がない文章」とか、「ただかっこいいことを言いたいだけで何を言いたいのかさっぱり分からない文章」を揶揄する為に使われる単語になってしまっているんです。

「詩文を貶めよう」という意図で使われている訳ではない、ということは理解しているんですよ。確かに、元より詩ってめちゃ多様であって、中には抽象的で難解な文章も、あるいは実際に不明瞭な文章も存在しますから、そういう「よく分からない」という状態を総括する言葉として便利であることは分かります。

ただ、一応詩文好きの端くれとしては、ポエムって言葉が便利な罵倒語として使われるの、悲しいなあ、と。

ただでさえ詩って理解され辛いのに、こういうのでますます詩に対する偏見が広まっちゃったりしないかなあ、と。

詩を好んで読む人とか絶滅しちゃったりしないかな、と。

そんな風に慨嘆してしまう訳なんです。

いや、「ただかっこいいことを言いたいだけの、不明瞭かつ何の具体性もない文章」を表す言葉として、もうちょっと適切な言葉ってないんですかね?昔「言語明瞭意味不明」なんて言われていた人もいますけど、なんかそういう分かりやすいヤツ。


そもそも詩が「不明瞭で具体性がない」文章の代表格みたいな扱いされちゃうの、個人的には非常に納得がいきませんで、それ萩原朔太郎とか読んでも同じこと言えんの?と。文学部におけるサバンナメソッドです。

萩原朔太郎、「月に吠える」も勿論とても良いんですけど、個人的には「青猫」が超好きなんで読んでみてください。青空文庫で読めます。


いやもう明るい詩もあれば陰鬱な詩もあるんですが、「憂鬱なる花見」とか共感する人多いんじゃないでしょうか?「ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで/遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。」とか。これだけの非コミュ品性をこれだけ美しい言葉で表現できる人がいるか??

で、いやごめんなさい書いてて我慢できなくなった、やっぱ「月に吠える」も引かせてください。


例えば、だれもが恐らく国語の教科書で読んだであろう、「竹」。




光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。



いやもうなんだろうこれは。どんな脳構造をしていればこんな言葉の並びを選択出来るんでしょう?「かすかにふるえ。」で一度文章を途切れさせているところとか、もうここだけで一本詩集を読んだくらいの余韻がありますよね。これがライブだったら絶対ここで一瞬ブレイクが入って、観客席がしーーんとなった瞬間に次の演奏が始まるヤツですよ。あーーもう超好き。

ただ、勿論詩というのは本来言葉遊びであって、中原中也だとか 室生犀星の詩が素晴らしいのは当たり前のこととして、ただ「そういうものでなければ詩ではない」という話でもないと思うんですよね。別に例えば私が何か文章を書き連ねて、あるいはそれこそ今書いているこの段落文章を指して「これは散文詩だ」と言っても、いやまあそりゃなんて下手くそな詩なんだよアホかよと言われはするでしょうけど、詩という世界はそれを排撃しない。詩って広いんですよ、そりゃもう驚く程広い。

だからこそ、本来とてもひろーーーい詩を意味する「ポエム」という言葉が、総体として何かを揶揄する言葉として定着してしまっている状況が、ただただ悲しいなあ、と。

それだけの話なわけです。

今日書きたいことはこれくらいです。

posted by しんざき at 15:41 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月05日

何年も塾講師をやっていて、「作者の気持ちを答えなさい」という問題を観測したことがない

いや、存在しない、って言ってるわけじゃないんですよ。世の中広い一方私の観測範囲なんてたかが知れてるんで、どこかでそういう問題が何度も出題されていた可能性を否定はしません。

ただ、そこそこ長いこと補習塾で学校の試験の対策やら復習をやっていた人間の所感から言いますと、少なくとも受験問題や定期試験問題のレベルの話で言うと、

・「この表現における作者の意図を答えよ」とか、「このエッセイにおける作者の考えを要約せよ」みたいな問題は割と見る
・けれど、例えば小説や物語など、作者自身の人格が関わらない問題で「作者の気持ちを答えよ」みたいな問題は観測したことがない

んですよ。

いや、エッセイや随筆、評論ならそれに近い問題あり得ると思いますよ?あれは、作者が自分の経験を元に自分の思考を書いている文章なんですから、そこで作者の考えが問題になり得るのは当然です。場合によっては、作者の感情とか意図というものが問われることもあるかも知れません。それはまあ、別におかしいことではありません。それにしたって、「作者の気持ち」という問われ方はあんまりしないと思いますけど。

ただ、よく引き合いに出される「国語でこんなクソ問題が出た!!」的なお話って、大体小説とか物語文における「作者の気持ち」じゃないですか。それって、そもそも問題として成立していないんですよ。だって、その文章の中に作者は「いない」んですから、文章の中から題意を満たす答えを見出すことが出来ない。問題を作る側にしても困るんじゃないですかね?

だからこそ、「こんなアホな問題を作る教師がいた」ということで話題になるんだろうと思うんですが、教師としても問題を作る際には当然「解き方」を想定しまして、「こんなルートで解いて欲しいな」「こんなルートで間違えて欲しいな」ということを考えますから、まるっと成立しない問題を作るっていうのもそこそこ勇気がいるだろうなー、とは思うんですよ。皆さん、試験問題って作ったことありますか?あれ相当色々考えないと作れないですよ。

ですので、「作者の気持ちを答えなさい」的な問題、もし存在するにしてもまあ結構なレアケースなんだろうなーとは思うんですが、webを見ているとまあ結構な頻度で「こんなクソ問題が!!」的な話題が持ち上がるし、やたら共感を集めているんですよね。あれ、俺の観測範囲ってそんなにズレてたのかな、みたいな。

国語のクソ問題は頻繁に流布されるのに、算数や理科や社会のクソ問題は頻度が低いような気がしています。いや、算数で言うと例えば「足し算や掛け算の順序ガー」とか「さくらんぼ計算ガー」みたいな、採点基準や解き方の方にまつわる話はちょくちょく見ますけど、「問題自体がクソ」ってあんまりみないんですよね。これ、「算数や社会や理科は、クソ問題を作るにも「クソ問題」と認定するにもある程度知識が必要とされるから、国語がお手軽なターゲットになってしまっている」みたいな状況なんじゃないかと邪推しちゃうんですけど。

一つ思うのは、恐らく学校の授業や教科書レベルで観る、「この時作者はどんな気持ちだったでしょう」みたいな、答えを必要としない一種の思考練習みたいなものが、「実際に試験に出されていたら」的な発想がどっかにあるんじゃないかなーと。当たり前ですが、授業と試験は別なんで、明確な答えを出す必要がない授業であれば、「作者の気持ち」を考えさせる内容ってあり得るんですよ。そこから発想された「クソ問題」ネタが毎回出る度に受けるんで、一種の定番の流れみたいになっちゃってるんじゃないかなーというような印象があります。

もう一つの可能性として、上で書いた、評論やエッセイを対象とする「作者の考えを問う」問題を解いた記憶がある人が、「作者の気持ちを答えなさい」的なネタと混同してしまって、「そういう問題出されたことある!」となってしまうのではないか、というようにも思います。

個人的には、学校の先生がすごーーく頑張ってるのって良く知ってますし、学校教育、あるいは教師の質を貶めるようなお話はあんまりよい気分にならない為、疑わしい話はあまり広まらないで欲しいなーとか思います。

先生ってただでさえ藁人形論法の対象になりやすいんで、「いやそりゃ変な先生も中にはいるけれど、案外皆ちゃんとしてるし頑張ってるんだよ」ということを、どっちかというと広めていきたいなーと思う次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:35 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月03日

我々は何故、キン肉マンの台詞に出てくる謎のカタカナ文字列を「笑い声」と判断出来るのか

ところでキン肉マン超面白いですよね。


勿論昔のキン肉マンも少年漫画の金字塔であることに疑いはないのですが、2011年から24年ぶりに再開された、「王位争奪編」以降のシリーズの素晴らしさと言えば、現在連載されている少年漫画全てを見渡しても屈指といってしまっていいように思います。ザ・マンと悪魔将軍の決戦熱すぎましたよね?

「完璧超人始祖編」が終わった後こんな記事も書いたんですが、


この後も連載は絶好調で続いており、現在続いているオメガ・ケンタウリの六鎗客との戦いも超絶熱い展開なので、未読の方はお願いだから読んでみてください。損はさせません。


ところで、ある日私が自宅でキン肉マンを読んでいたところ、横から覗き込んでいた次女がふといいました。

「パパ、この「グロロロ」って何?」

勿論この「グロロロ」というのは「完璧:零式」ことザ・マン、またの名を超人閻魔の笑い声(まあ笑い声っぽくないところでも使っていますが)であるわけでして、私は当然のことながら

「笑い声だよ?」

と返したのですが、その時ふと気づいたのです。

もしかすると普通の人は、台詞の途中でいきなり「パゴパゴパゴ」とか「ギラギラギラ」とか書かれても、それが笑い声だと判別出来ないんじゃねえか?と。

そもそも、この「グロロロ」という文字列を、我々が当然のように「笑い声」として認識出来るのは何故でしょう?

勿論それは、かつてのパルテノンやプリズマンのように、「変わった笑い方をする超人」が一般的に登場し始め、超人の特徴づけのひとつとして「個性的な笑い方」が定着したことを、読者が前提条件として了解しているから、です。

慣れているからこそ、わかる。要するに、キン肉マンの「笑い声」という表現は、一種の「暗黙の文脈」なのです。

ただ、ふと一巻からキン肉マンを読み直してみると、「意外と最初の頃は変な笑い方ってねえな?」と思ったのです。

キン肉マンやテリーマン、ロビンマスクのようなアイドル超人が変化球的なキャラづけをしていないのはまあ不思議なことではないとして、たとえば初期のキン肉マンを見ていくと、悪役よりのゴーリキであれ、カニベースであれ、スフィンクスマンであれ、アマゾンマンであれ、特に特徴的な笑い方はしていないのです。みんな「ふっふっふ」とか「ヒヒヒ」とか「グへへへへ」とか、まあ多少悪役っぽいのも見られるとはいえ、一般的に見られるような笑い方ばっかりです。まあ、ザ・フィッシャーズは二世でなんか変わった笑い方してましたが。

キン肉マンファンの間でも著名な変な笑い方としては、やはり11巻のミスターカーメン戦、ブロッケンJrに向かって発した「マキマキ!」でしょう。ただ、実際の展開中では、カーメンは「マキマキ―」と笑っている訳ではなく、「ククク」とか「ケケケ」といった笑い方を普通にしています。劇中での「マキマキ!」は笑い声というよりは掛け声のような使い方でして、カーメンの「マキマキー」が笑い声っぽく描写されるようになるのは、遠く24年後、完璧無量大数軍編でのことです。

ちなみに、後に肉ファンの間ではアシュラマンの笑い声として著名になる「カカカカー」ですが、順番としてはブラックホールの方が早く、10巻のキン肉マンとの戦いの時点で既に使っています。ただ、これも「笑い声」としてそこまで違和感があるかというとそれ程でもなく、知らなくても「まあ笑い声かな…」と普通に理解出来そうなラインです。

サンシャインの「グォッフォフォフォフォ」がぼちぼち微妙で、後の「夢の超人タッグ編」で初期のヘルミッショネルズもこれと同じ笑い方をしています。その後「クォックォックォ」とかも笑ってますが。

実際に「違和感がある特徴的な笑い声」が頻出し始めるのは実のところ王位争奪編でして、

プリズマン「キョーキョキョキョ」
キング・ザ・100t「グオホホ」
パルテノン「ギョギョギョギョ」
モーターマン「キキキー」

辺りは、ぼちぼち「笑い方による明確な超人の特徴づけ」と言っていいでしょう。

っていうかパルテノンは本当に何でこんな笑い方なんだ?パルテノン、荘厳かつ重厚そうな見た目に反して、笑い方も変だし戦う理由も報酬金目当てだしバイクマンにガソリン入れてるし、見た目と行動が釣り合ってない超人トップ3には間違いなく入ると思うんですけど。

ちなみに、この後「変な笑い方をする超人」の数はキン肉マン二世で激増しまして、クリオネマン「キョカー」とかデッド・シグナル「グギガー」とかウォッシュ・アス「ヒャイヒャイ」とかプリクランの「リリルラー」とか、「通常の笑い声のラインを踏み越えた笑い声」の枚挙に暇がなくなっていきます。後のザ・マンの笑い方である「グロロ」自体も、デストラクションの笑い声として登場しています。この二世の「特徴的な笑い声」という表現が、ほぼそのまま38巻以降のキン肉マンに「移植」されているのです。

ここから考えると、

・キン肉マンにおける「特徴的な笑い方は、初代の悪魔超人編くらいまでは実はそれ程多くなく、王位争奪編あたりから顕著になり始め、二世で完全に「特徴づけ」のひとつとなった

ということが言えるのではないか、と考えるわけなのです。

「キャラクターの特徴づけをどうやって行うか」というのは勿論軽視出来る話ではなく、当時のゆで先生が様々に試行錯誤した結果なのかなーと思うわけなのですが、超人のバリエーションを広げるうちに、「笑い方」という要素に着目される点があったのかなと想像するとなかなか面白くありませんか?

ちなみに、キン肉マン二世の連載が始まったのは1997年な訳ですが、これとほぼ同時期に、同じく弩級少年漫画である「ワンピース」も始まっています。ワンピースも、登場キャラクターの特徴づけのひとつとして「笑い方」を採用することが多い漫画ですが、もしかすると相互に影響しあったようなところもあるのかも知れません。

まあ、なにはともあれ私が言いたいことは「キン肉マン面白いよね!!」「というか、今連載中のキン肉マンもめっちゃ面白いので皆読むべきだよ!!38巻以降が連載再開後のキン肉マンだよ!!!」というダイレクトマーケティングだけですのでよろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。








posted by しんざき at 21:54 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月28日

昔のネットの友人たちよ、俺の声は届いているか


みんな生きているか?まだゲームやってるか?

Webの片隅で、愚にもつかない話をネタにクダを巻いているか?

それともネットなんてやめちまったか?それもいいのかも知れないな。毎晩毎晩、パソコン通信の画面の向こうやら、cgiのチャット画面の向こうやらと、23時過ぎになったらしょーもない話をひたすら書き始めて、気が付いたら朝なんてこともあった。ありゃ正直体に悪かったし、多分頭にも悪かった。ただ底抜けに面白かったっていうだけのことだ。

俺はまだ、諦め悪くネットにいる。webにいる。思い出したようにくだらないことを書き連ねては、誰に届くとも思わないで、適当にブログに放流するボタンをポチっと押している。そうすると、たまに物好きな人が見てくれる。ありがたいことだけど、時間を無駄にさせてないかなーと心配にもなる。

「ああ、考えてみるとあれって今生の別れだったんだな」って思う機会が、ぽつぽつあるようになった。会ってる時は1ミリだってそんなことは思わない、ただいつもの馬鹿話をいつものように消化しているだけだけど、気が付くと10年経ち20年経ち、いつの間にやら連絡手段すらなくなって、死んで数年経ってから「え、あいつ死んでたの!?」という程度の訃報が届く。

考えてみると、昔のネット友達なんて、ハンドルネームとICQのIDくらいしか知ってるものはなかったんだ。草の根BBSがなくなって、Teacupの掲示板がなくなって、IRCチャンネルがなくなって、ICQが叩かれなくなって。そしたら、昔は毎日の様に飲んでいた連中だって、いつの間にかすっぱり連絡手段はなくなっている。それで再会出来る方が不思議だし、訃報が届くのだって奇跡の一種かも知れない。

かといって、例えばTwitterやらFacebookやら、現役のSNSで繋がっていれば、その繋がりはいつまでも健在なのか?というと、それだって全然そんな訳はない。「会おうと思えばいつでも会えるから」という意識のまま、いつの間にやら数年経ってた、なんてよくある話だ。気が付かない内にログインしなくなった人だって、知らない内にIDが消えていた人だっている。大抵はそれっきりだ。

生きている、っていうのは、「いつかまた会える」という可能性に、一つ一つ墓を建てていくことでもあるのかも知れない。最近はそう思うようになった。

だから、会える機会、会える手段がまだある人には、なるべく会う機会を作っておきたいなーと。これも、最近はそう思うようになった。だから、ちょくちょく飲み会やら、アナログゲーム会やら開くようにしている。それだってそんなにしょっちゅう出来る訳じゃないけどな。向こうだって忙しいし、俺だって、まあそれなりには忙しい。そういうもんだ。

ただ、ほんっとーーーーにハンドルネームしか知らなかったあいつら、個人情報なんて一つも知らないけど何か一緒に集まって飲んでたあいつらに、今も再会出来るかっていうと、多分それは難しいんだ。

すぐ近くにいたような気がしていたけれど、実のところ俺たちにあったのは「場」だけだった。だから、その「場」がなくなったら繋がりもなくなった。ほんの数人くらいは、今でもTwitterやらなんやらで繋がってる人もいるけれど、本当にそれくらいだ。

東京BBSが、

AEネットが、

セガBBSが、

そこから始まった色んな掲示板が、

あめぞうが、

いつの間にかその名前でしか呼ばれなくなったミラーチャットが、

IRCが、

多分俺たちの場だった。みーんななくなった。

別に、今更再会したいって程大げさな話でもない。案外、再会したって、大して話すこともないかも知れない。あの頃の思い出話くらいはしたいけど、20年も経てば多少は記憶もさび付いてくる。

ただ、俺は、「今でもあいつらは元気にやっている」と思い込みたいんだ。ネットのどこかで、相変わらずゲームをやったり、馬鹿話をしたり、喧嘩をしたりしてるんだろうなーと、ただ思い込みたいだけなんだ。

誰に届くかも知れないくだらない文章を、ボトルメールのようにwebに流すのは、考えてみると俺の得意技だった。だから、これも特に何も考えず、誰に届くのかすら期待せずに、ただwebに放り投げる。

俺は元気でやっているぞ、と。

posted by しんざき at 17:32 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月22日

小学校でグループディスカッションを見て感心した話と、先生の負荷について


こんなまとめを読みました。


私が受けた印象とはちょっと違ったので、きっと学校ごと、先生ごとに色々な事情があるんだろうなあと感じまして、思ったことを書いてみたくなりました。

アクティブラーニングに該当するのかどうかは分かりませんが、うちの長男が通っている小学校でも、ワークショップ形式の授業はやっていました。いくつかのグループに分かれて、決められたテーマについてディスカッションして、それについて発表する、というような授業です。で、学校公開の日程でもその授業は行われていました。

私が感心したのは、「喋る子が固定化することを避ける工夫」というものが色々と組まれているなあ、と感じたことです。



・グループごとに明確なタスクを持ったロールが設定されており、かつロールが持ち回り制になっていた。

ロールといっても、「喋る係」とか「調べる係」とか、そんな漠然としたものではありません。例えば「調査役」というのは、「百科事典を調べて、それに関係したことを見つけて、所定の書式にまとめて他の皆に伝える役割」でした。「聞き取り役」というのは、「その人が話した内容について、疑問に思ったことを確認して、その内容を書き留める役割」でしたし、「どんなことを確認すると良いよ」というのもある程度事前にポイントとして列挙されていました。発表する時の発表役も、記録を残す筆記役もありました。

特に良いなーと思ったのは、ある程度「テンプレ」が作られているということです。丁度こちらの記事でも書かせて頂きましたが、「子どもの自由な発想」なんてまず「表現の仕方」がある程度身についてからの話で、何もないところから「さあ自由に考えて」なんて言われても、自分の考えを上手くまとめられる子なんてそうそういません。もしかすると「もっと自由に考えさせてあげては?」という意見も出たのかも知れませんが、私はある程度「考え方」の基本を身に着けさせてあげる為に、「型」は教えてあげた方がいいよなーと思っていました。



・話し合わないでそれぞれの考えを消化する時間が作られていた。

話し合いや発表はターン制になっていたんですが、数分とはいえ、それぞれの発表の前に、自分たちの作った成果物について咀嚼して、それぞれ考えをまとめる時間が作られていました。その間に先生が各グループを回って発表のフォローをする感じになっており、考えるペースがゆっくりな子にも配慮したいい工夫だなーと思いました。



・「スキップボタン」というものが作られ、各机に置かれていた

これ特に面白い工夫だなーと思ったんですが、わざわざ「スキップボタン」とかいう段ボールの工作が、グループごとに置かれていたんです。押すとちゃんと音がするんですよ。

これ、「言葉が詰まった時、考えをまとめる為に一旦スキップする」という宣言の為に置かれていたものなんですが、先生が「言葉が詰まった子に対して「あとにする?」と助け船を出す」のではなく、あくまで「自分の意志で一旦スキップする」という形式にしてある上、見た目もキャッチーな工作になっているので、子どもとしても押すことに抵抗がない。

喋るのが苦手な子、考えをまとめるのにちょっと時間がかかる子は、当然言葉に詰まってしまうことも頻繁にあるわけで。一方、言葉に詰まってしまって、皆の視線が自分に集まり、先生にせかされる時間って物凄いプレッシャーなんですよね。子どもによっては、そのプレッシャー自体で発表が嫌になってしまう。

そんな時でも、ちゃんと制度化された「一回休み」システムがあれば、ある程度喋るプレッシャーも軽減されるのかもなーと、観ていて思ったんです。



とはいえ、長男は既に中学年でしたし、先生はベテランでしたし、かつある程度時間に余裕もあったからできた工夫なんだろうなーとは思います。これを1コマだけでやらないといけないとしたらそれは流石に無理ゲーでしょうし、先生の負荷も相当なものだったでしょう。

ああいう工夫を考えて実行に移すこと自体も恐らく大変でしょうし、多分私が見ていて気付かなかった工夫も色々とされていたのでしょう。それには感銘を受けるばかりなんですが、同時にそういうの先生の個別裁量になってしまうのも良くないなーと思うんです。

私の所感としては、

・やりようはあるし、グループディスカッション的な授業はうまく回ればとても良い授業になる
・けれど、時間はある程度ちゃんととらないといけないし、先生の負荷も恐らく凄い
・かつ、低学年に無理やりやらせるのも多分うまくいかない
・授業形式のテンプレを作りつつ、ある程度学校側・先生側にやるやらないのトリガーを持たせてあげるとよいのでは

という程度です。

ただ、小学校の先生なんて何やっても叩かれがちで、非常に損な役回りである一方、「頑張っている先生は本当に頑張っている」というのは常々思うところで、そういうのは可能な限り可視化していきたいと思うんです。

小学校の先生の負荷なんて、現状既に無理ゲーに近いと思うので、上手くやってくれている先生には深く感謝しつつ、これ以上新しい負荷がかからないような工夫は皆で考えていくべきだよなーと。

そんな風に考えた次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 09:15 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月11日

アンパンマンで暴力的に?とかいう記事を読んで思ったこと


先に思ったことを全部箇条書きにして書いてみますと、

・「子どもが漫画やアニメやゲームから悪影響を受けることがあるか」と言われれば、それは当然「なんらかの影響を受けることはあり得る」という答えになります
・というか、漫画やアニメやゲームに限らずあらゆるコンテンツは受け手に何らかの影響を及ぼす可能性がありますし、受け手に何の影響も及ぼさないようなコンテンツには存在価値がありません
・しかし、その「受ける影響」というものは程度問題であって、心配するような「悪影響」を受けるかどうかというのはそのコンテンツの描かれ方、及び受け手の感性によります
・かつ、子どもの感性や行動というものは別に受け取ったコンテンツのみから形成されるわけではなく、親の言動や周囲の環境、その他山ほどの影響から総合して形成されます
・というか、「子どもの感性や行動が、コンテンツのみから決定されるようなことがないよう適切な規範を伝える」為に「躾」とか「教育」というものがあります
・上記とは別の問題として、「子どもに悪影響を及ぼす可能性があるコンテンツ」というのは別に漫画やアニメに限らず、テレビだろうがニュースだろうが小説だろうがバラエティ番組だろうが、その他あらゆるコンテンツがそれに該当します
・上記とは更に別の問題として、暴力を想起させるような描写が即子どもを暴力的な行動に走らせるとは限りませんし、本当に暴力的な表現を子どもからシャットダウンしたいなら他にいくらでも優先度の高いものがあると思います
・上記とは更に更に別の問題として、子どもは幾らでも自分が見たいコンテンツを見る方法を編み出すので、親が制御しようとしても大体無駄です
・だから親は子どもの規範作りに真摯に向き合った方がいいですよね

大体こんな感じになります。よろしくお願いします。

ということで、書きたいことは全て先に書き切ってしまいましたので、後はざっくばらんに行きましょう。

webにおいて、「あるコンテンツが子どもに悪影響を及ぼすのではないか論」というのは大体燃えます。それは、この議論自体が、様々な要素をぐちゃっと詰め込んだ話になっているために、一つ一つの話のピントが非常にボケ安く突っ込まれやすいこと、更に、一つ一つの議論に対して別方面からのカウンターを入れやすいことに由来しています。

燃えやすい話というのはコンテンツベンダーにとって貴重ですので、まあPV稼ぎに定期的に投下されるネタでもあるのでしょう。まあ私自身、こんな記事を書いている時点で十分それに釣られてしまっている訳ですが、自分のことを棚に上げておくのは得意なので一旦棚に上げておきます。

切り分けちゃうぞおじさんとしては、上記の「あるコンテンツが子どもに悪影響を及ぼすのではないか論」には、代表的なものだけとっても下記のようなテーマが詰め込まれている場合が多いことを指摘しておきたいと思います。

・漫画やアニメやゲームが子どもに悪影響を及ぼす可能性があるか/ないか
・子どもに悪影響を及ぼす可能性があるコンテンツは漫画やアニメだけなのか
・子どもの感性や行動を決定するのは漫画やアニメによる影響だけなのか
・どの程度の暴力表現が、子どもを暴力的な行動に走らせるのか
・それらのコンテンツを子どもから遠ざけておくべきかどうか

いやー、これら、一つだけとったとしても相当ややこしい議論をしなくてはいけなそうなのに、ぐちゃっとひと塊にして語ろうとしてれば、そりゃまあ蝋燭を浮かべた油風呂に入るようなもんだろうなーとは思うんですよ。

実際のところ、「漫画やアニメが、暴力的な行動を引き起こす可能性」については、否定的な結論も、肯定的な結論も出ています。興味がある人は、メディア効果論あたりから追っかけてみてください。色んな論文が見つかる筈です。


大筋、「コンテンツが全く受け手に影響を及ぼさない」ということは流石に「そりゃねーだろ」という話だと思うんですよね。受け手の心に何らかの爪痕を残してこそのコンテンツなのであって、受け手の心に何も残さないコンテンツって何のためにあるの?とも思います。

無論、その「影響」というのが即「暴力的な行動」に結び付くかどうかというのはものすごく飛躍した話であって、その間には多分20段階くらい考えないといけないことがあります。

勿論実際のところ、暴力的なコンテンツというものは漫画やアニメやゲームに限定されるものでは全くなく、メディア全般関係ある話な訳でして、アンパンマンの心配をするくらいなら芸能人がいじめとしか思えないような行動をするもろもろのバラエティ番組の方を先に心配しろよあっちの方がよっぽど暴力的だろ、とは思わないではないです。これは恐らく色んな人が考えるところではないでしょうか。

とはいえ、これは飽くまで程度問題、全体として見ての可能性の問題ですので、実際の影響度合いは家庭によって、子どもによって変わってくるでしょう。親が、子どもの摂取するコンテンツについて心配をする、というのは分からないでもないです。

ただ、私自身の意見を言えば、

・教育や躾は、子どもが摂取したコンテンツに関わらず、子どもの行動にちゃんとした規範を作ってあげる為にあるものだと思います
・子どものコンテンツ摂取を制限しようとしても大体無駄です

という二点については、割と一般的に言ってしまっていいのではないかなーとは思っています。

まず、「アンパンマンを見て暴力的な行動に走るのでは?」という心配については、「いやアンパンマンに関わらず、暴力的な行動してたら叱らないといけないよね」とは思います。

子どもが暴力的な行動をするトリガーなんてものはそれ程星の数程あるのであって、「暴力的なコンテンツを一切遮断すれば、何があっても人を叩かない心優しい子どもに育つのか?」というのはちょっと眉に唾を付けて考えるべきではないかなーと感じます。隣の子におもちゃをとられてつかみかかってしまうとか、押されて叩き返してしまうとか、そんなんどんな子にだってあるでしょう。それが高じれば、人に暴力的な行動をとってしまうことだって、暴力的な感情を抱いてしまうことだってそりゃ発生するだろうと思います。

それに対して、「いや、それは良くないことなんだよ」とか、「それは暴力ってものなんだよ」とちゃんと教えてあげることこそが「教育」なんじゃないですかね、と。それこそ「人をぶっちゃダメなんだよ」というヤツでして、そんなんコンテンツ以前の話だよねと。

つまり、「コンテンツ摂取によって暴力的な行動をとるように」という話を聞くと、「それは教育の担当範囲じゃないのん?」と思ってしまうことがどうしても避けられないんですよ。いや、これはまあ、メディア効果論絡みでそれこそ色々あるんですけどね。

更にそれに加えて、実際のところ、子どものコンテンツサーチ能力ってのは大体の大人が想像するよりも二段くらいは高いよなあ、とも私は思うのです。隠そうとしても大体無駄じゃね?という。

ヤツら、「面白そう」と感じたものについてはものすごく貪欲ですからね。雑誌の回し読みだろうが、友達の家でのipadだろうが、そんなん幾らでも「親の目の届かないコンテンツ摂取ルート」なんてものはあるわけでして。だからこそ、「自分の目の届かないところで変なものを読んでいてもいいように、ちゃんと規範を作ってあげる」ことこそ、親が一番に考えるべきことなんじゃないかなーと、少なくとも私は思うんですけどね。

大体、あの手の「この漫画は子どもに暴力的な影響を与えるのでは…」とか言ってる人、子どもの頃何読んで育ったのかなーってのは割と不思議なんですけどね。世界名作劇場だけ読んで育ったりしたんでしょうか?いやアレも、作品によっては結構エグい描写が混じってたりしますけど…。

まあ、私自身について言えば、「子どもがよそで変なもん読んだり観てても大丈夫なように、ちゃんと「していいこと・悪いこと」の規範は作ってあげられるよう頑張ろう」と思っていますし、それ以外の感想は特にありません。よろしくお願いします。

言いたいことは大体最初に書いてしまったので、今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 20:15 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月09日

それはもしかすると、「それ一つで食事として完結する物体」に対する憧れなのではないかなあ


しかしうまいから好き、よりさらになにか、私の根源に関わることが潜んでいるような気がするんだ。
もしかしてと思ったことは、この食品はおんなじ味で安全に食べられる。大量生産できるから皆んなお腹が空いたら食べられる。という、そういうでかい話の安心だったのかなということ。私めっちゃいいやつ…本当に?
なんかこう…上手いこと説明できる人いない?


私は勿論エスパーではないので、この増田が感じていること、この増田の嗜好を完全に理解することは出来ません。

ただ、私自身も同じような感覚というか、嗜好を持っているので、もしかするとそれと同じようなものではないかなー?と推測して、それについて書いてみます。

兵糧丸、というものがあります。主に戦国時代で使われていた携行食で、忍者がよく用いていたという伝説もあります。実際には、忍者だけではなく一般の兵士もよく用いていたらしいです。


これの「材料および製造法」のところ、ちょっと参照してみて欲しいんですけれど。


主に以下のものが含まれる。

炭水化物として
晒米(水で晒した白米)
蕎麦粉
キビ粉
はったい粉
きな粉
葛粉
タンパク質、海洋性ミネラル、動物性ビタミン類、油脂成分として
脂質及びタンパク質が豊富な穀物および豆類
鰹節およびにぼし粉などの魚粉

(略)
これらにより味を整え、つなぎとする。材料としてニンジンも一部で使われていたが、実際にはトチバニンジン等が中心であり、デンシチニンジン、オタネニンジン類はあまり使われることはなかった。こうした配合のもとに材料を混合し、こねて小さい球状にまとめる。
兵糧丸はカロリーの摂取に重きが置かれている。携行でき、非常食になることから、軍用レーションあるいはスナックバー (菓子類)、半生タイプのダイエットクッキーの原型と見ることもできる。


なんというか、めっちゃわくわくしませんか? これ一つに色んな栄養が詰まっていて、これ一つ食べるだけで「食事」になるんですよ。一つ食べれば、一食分のエネルギーを得ることが出来るんです。色んな素材、色んな栄養が詰まった、「食事の玉」。実際美味いのかどうかはよく分からんが、とにかくすげえ。

もう子どもの頃なんで、何の本に書いてあったかよく覚えてないんですが、読みかじりの製法をまねて似たようなもん作って、食べてみたらあんまり美味しくなくて親に怒られたりもしたもんですけど。


あと、もう一つ妙な話なんですけど、ゲームブックってあるじゃないですか。創元推理文庫とか社会思想社のヤツ。

ファンタジー冒険もののゲームブックだと、作中に「食料」っていう描写があることがあって、そこでは大抵「食料×1」という、「食料というアイテム」が登場するんですよ。私、これにも妙に憧れまして。ドルアーガとか、ネバーランドのゲームブックなんかで、「食料」を買えるシーン、「食料」を食べられるシーンが大好きだったんですよね。

中身は恐らくそれぞれ違うんだけど、アイテムとしては一つの完結された「食料」。その「食料」を食べると食事一回分済ませたことになる。なんか、ここに得体の知れない憧れみたいなものを感じたんですよね。

これは別にゲームブックだけの話ではなく、例えば十五少年漂流記とか、ロビンソンクルーソーとか、いわゆる「冒険もの」小説にも同じようなものを感じます。

冒険もの小説って、勿論食料を確保して料理をして、みたいな描写もあるんですが、突き詰めると「どうやって生き残るか」が話の主題になるんで、たまに「食料」を「生き残れるエネルギー源のパッケージ」として描写することがあるんですよ。あと何回分の食料があるか。残りライフゲージとしての「食料」。最近だと、「火星の人」なんかもそれが顕著でしたね。

そこでは、細かいことは置いておいて、「食事」というものが「一食分の食料」としてひとまとめにされます。生き残る為の、一回分のエネルギー源。なんか、凄い重要なもの、凄い貴重なものに思えますよね?いやまあ、当事者にしてみればそりゃ貴重なのは当たり前なんですが。

私自身に関して言えば、こういう「一食分の食料」に対する憧れみたいなものが、「一つのパッケージとして完結している食べ物」に対する嗜好に紐づいている、という話なんです。


これは単なる自分での推測なんですが、根本にあるのは、恐らく「男の子回路」なのではないかなあ、と思うんです。冒険とか、サバイバルとか、そういうのに憧れる心理。

携行食とか、レーションとかって、「何が入っているのかはよく分からないが、それ一つで食事が完結する感」みたいなものがあるじゃないですか。それが、自分の中のどこかで「冒険」や「サバイバル」と紐づくんですよね。

3食の「食料」を持っていけば、1日生き残ることが出来る。20食もあれば一週間は持たせられる。これ、「兵糧丸」にせよ「食料」にせよ、子どもの頃に憧れた「冒険」が、食事というものを一つの「パッケージ」として描写していたからこそ、それによって形成された憧れなんじゃないかなーと思うんですが。

つまり、私は増田を読んで、「それだけで食事として完結する物体」 がお好きなのではないかなあ、と推測した。そして、それが私と同じ感覚であるとすれば、 「冒険やサバイバルもので言うところの、「食料」」に対する憧れがその淵源なんではないかなあと考えた、という話なんです。

勿論全然見当違いである可能性もあります。その場合はすいません。


全然関係ないんですが、冒険ものやサバイバル小説の食事シーンって、それがどんな粗末な食事であっても、めちゃめちゃ美味しそうに思えますよね。火星の人読んでたらめちゃジャガイモ食べたくなってきます。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:44 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月07日

憎悪に飲み込まれない為に、多少アンテナを低くしてもいい

いや、分かるのだ。今に始まったことではない。おそらくずっと昔から、それこそwebのあちらこちらで観測出来る問題だったのだろう。別段はてブに限った話でもない。

ただ、煙草をやめてしばらくすると、あんなに自然なものだった煙草の匂いが、ひどく我慢のならないものになることがあるらしい。もしかすると、私に起こったことも似た類のものだったのかも知れない。

はてなブックマークを使っている。外から観測しているだけなら、それこそ10年来の付き合いだ。はてブには議論好きの人が多く、共感ばかりではなく様々な意見が集まるので、自分にはない見方や意見に触れるのが面白く、ちょくちょく気になる記事のコメントを覗きにいったりしていた。


いつ頃からだったろうか。はてブを見ていて、なんか疲れるなー、と感じることが多くなった。具体的には、いわゆるほってんとり、はてブの人気エントリーのページを見ている時の話だ。

これは恐らく個人差があると思うのだが、私は怒ると疲れるし、憤ると疲れる。

「怒る」「憤る」ということに一種の快感があることは間違いない。「怒る」という行為は、一種のエンターティンメントとして動作し得る。「これはひどい」と思ったニュースを舌鋒鋭く批判した時、人は快感を感じる。切断処理をする気はない、私も同じだ。

自分が正義の側に立っているという気持ちよさ、他者を攻撃することの気持ちよさというのも勿論あるのだろうが、「感情を大きく動かす」こと自体にもある種の気持ちよさがあるのだろうな、と思う。感情を煽られると気持ち良い。それは間違いない。

ただ、私の場合、怒った際の気持ち良さに、ある種の疲労感がついて回る。私にとって、憤りというのは、何らかのMPを消費して代わりのエネルギーを得るようなものであるらしい。家の内装をはがして暖をとるようなもので、ちょっと不健康かも知れないなと思ったので、暫くの間、意識してホッテントリを見るのをやめていた。はてブの利用自体はしていたし、twitter経由で話題のページをブクマしていたりもしていたが、ホッテントリのページからは足が遠のいていた。

最近、ちょっとした機会に久々にホッテントリを見てみた時、以前とはちょっと景色が違ってみえた。具体的に言うと、ホッテントリに並ぶ記事の8割方が、何かしら「憤りを煽る」内容を含む記事だった。「ほーれ、ひどい話だろう、怒れ怒れ」と言われているような記事だった。

いや、別段、これが「最近になって変わったこと」だとは思っていない。変わったのは、多少のインターバルを置いた私の視線の方だったのだろう。それは分かる。

ただ、大げさに言ってしまうと、「これは憎悪を煽るサービスだ」と私は感じた。負の感情を伝染させるサービスだ、とも思った。


理屈は分かる。

感情を強く揺さぶる記事は、それだけ反応も大きくなる。記事を書く側にとって、「反応」というのは命綱だ。出来るだけ多くの人に見てもらうためには、出来るだけ強い反応を得る為の記事を書くのが手っ取り早い。それはずっと昔から同じだ。つまり、元より、「感情を強く揺さぶる」記事というのは注目を集めやすい。更にそれに加えて、「何か一言モノ申したくなる」記事というのは、はてブにおいて更に注目されやすくなる。つまり、「怒りを誘って、痛烈なコメントを言いたくなる」記事は元来注目されやすい。

それに加えて、はてブには「はてなスター」と「人気コメント」というシステムもある。出来るだけ早く、出来るだけ共感ないし注目を得られるコメントをした人が、スターを媒介にしてより注目を得やすくなる。そういうシステムだ。

結果的に、「出来るだけ上手く憤りを煽れる記事」であればある程、人気エントリーに集まりやすくなっていると。そういう仕組みが完成している。

それにしたってなあ、と思うのだ。

「ほーれ、怒れ怒れ」と言われるのが、私はあまり好きではない。私は単純な性格をしているので、憤りを誘うような記事を読めば憤りを感じてしまう。そして、それによって私のMPは低減する。憤りの渦に巻き込まれておぼれそうになってしまう。

これがTwitterであれば、タイムラインは自分が作るものであって、ある程度穏健な論者を自分の観測範囲に集中させることも出来る。しかし、ホッテントリではそういう真似が利かない。


ホッテントリは、便利だ。はてブには、ある程度議論好きな人たちが集まっている。そういう人たちから見て注目を集めている記事を、ぱっと見でチェックすることが出来る。アンテナの感度をよくしておくために、上手く使えば有用なのだ。

ただ、少なくとも私は、疲れすぎないようにある程度自衛を固める必要があるようだ。ご利用は計画的に、というヤツだ。

別段、はてブ自体の利用をやめる気はない。私ははてブが好きだし、自分の注目、自分の意見を残しておく一言ログとして、私が好きな人たちの観測範囲をチェックする場として、はてブは非常に便利だ。

ただ、少なくともホッテントリについては、よくよく注意して利用しなくては、憎悪の渦に容易に飲み込まれてしまうな、と私は感じた。それは、多少のアンテナの高さと交換出来る話ではない。

もしかすると世の中には、いくら憤っても疲れることなく、無限にエネルギーを得ることが出来る人がいるのかも知れない。

しかし、私と同じように、憤ることに疲労感を覚えて、「怒れ怒れ!」と言われることに食傷気味な人もいるかも知れない。

そういう人には、「時には休憩も必要だと思いますよ」と声をかけてあげたい。世の中、アンテナの感度を高くしておけば良い、というものでもない。最新ニュースを知らなかったとしても死にはしない。ただ事実だけ、起きたことだけのニュースを、それ程注目されていない事実だけを、後から淡々と拾い集めることだってできる筈だ。


ホッテントリはよくよく注意して閲覧しようと、少なくとも私は思ったのだ。






posted by しんざき at 00:45 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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