2018年09月25日

「世界大学ランキングに日本の大学はたった〇校」系のネタで教育を語る意味はあるのか


いや、大した話じゃないんですけど。

たまーに、ビジネス系の記事で、日本の大学のレベルの低さを持ち出すネタの一つとして「世界大学ランキング」の話が枕に使われることがあります。世界から見ると、日本の大学はたったこれだけしかランクインしていない!!レベルが低い!!世界に目を向けろ!!的なアレですよね。

最近だと、「世界大学ランキングで、100位以内にランキングしている日本の大学はたった2校」という話を聞くことがあります。たった2校、と言われると、確かに問題な気がしますね?

ところで、当たり前の話なんですが、ランキングには当然集計している組織があって、そのランキングそれぞれの基準、傾向、性質を持っている筈です。

そして、「世界大学ランキング」というものは、実際には色んな組織が色んな基準でやっていまして、有名なものもあれば無名なものもあります。「これは有名だろう」と言い切っても誰からも文句が出なさそうなものに限っても、多分4つか5つくらいはあります。

例えば、イギリスの高等教育専門誌である「タイムズ・ハイアー・エデュケーション」が行っている、「THE世界大学ランキング」。2018年分が先日発表されまして、このランキングで100位以内にランクインしている日本の大学は東大と京大だけですね。各国学者のレビュー、学生一人あたりの教員数、教員一人あたりの論文引用数なんかが重視されているランキングです。


次に、同じくイギリスの大学評価機関であるクアクアレリ・シモンズが発表している、世界大学ランキング。ちょっとややこしいんですが、上記の「タイムズ・ハイアー・エデュケーション」も、2010年頃まではクアクアレリ・シモンズと共同でランキングを作っていたんですよ。集計方法とか、いろいろ批判があって分裂したんですけど。


ちなみに、このQSランキングでは、東大京大に加えて東工大、大阪大学、東北大学の3つが100位以内にランクインしています。計5つです。評価指標の内訳なんかはTHEの方とあんまり変わらないんですけどね。

The Center for World University Rankings (CWUR)がやっている「CWUR世界大学ランキング」。これは、学術研究や教育の質、卒業生の質なんかも考慮に入ったランキングでして、日本の大学がかなり高めに評価されています。東大は12位。他、京大と阪大が100位以内にランクインしています。


トムソン・ロイターがやっている「Top 100 ranking of the most innovative universities」。これ、2017年集計なんで他のランキングよりちょっと古いんですが、「科学技術への貢献度と世界経済への影響力を算出し、ランキングしたもの」だそうで、なんとトップ100内に日本の大学が8つもランクインしています。つっても、ランキング自体が相当北米に偏ったものなんですけど。日本の大学はレベルが低い!情けない!!って言いたい人たちからはあんまり引用されないですね。




ちなみに先日は、「東大がQSランキングで過去最高ランクを更新」なんて話が一部で話題になってましたね。


一方、ロイターのランキングで日本勢が軒並み後退、なんて記事もありましたけど。


いや別に、「日本の大学は言われている程レベルが低くない」なんて言いたい訳じゃないですよ。

「世界大学ランキング」に〇校しかランクインしていないから問題、みたいな論調はちょっとアホらしいなあ、というか。ランキング自体、基準もバラバラなら立ち位置もバラバラであって、場合によってはその機関の立ち位置、思想までランキングに影響したりします。一つ一つの指標を参考にするならともかくとして、総括して「日本の教育レベルの低さ、高さ」を論じるネタとしてはあんまり適してないんじゃないですかってことが言いたいんです。

要は、「世界大学ランキング」を、元ネタの明示もなしに引き合いに出して、単純に危機感を煽ったり既存の体制を批判したりする向きには、ちょっとばかり眉に唾つけて聞いた方がいいんじゃないかと。

勿論、教育の質、大学のレベルというのは大変重要な問題であって、憂慮すべき問題でもあります。基礎研究の重要性とか、大学の予算の問題とか、研究者が研究に集中できない環境だとか、大学について議論すべき課題、改善すべき問題点なんてものは山ほどあるでしょう。

ただ、それを語る時に重視するべきなのは、多分「グローバル」だとか「世界に目を向けているかどうか」とか、そういう言葉では多分ない。世界大学ランキングなんて、教育問題を語る上では正直単なるノイズであって、極論どうでもいい。

私自身は、一方では大学の教育レベルについて憂慮げな話をするくせに、もう一方では「1年から就活の許可を」とか「オリンピックボランティアの為に大学も配慮を」とか、大学の講義や研究にひとかけらの敬意も持たない要請ばかりして、くだらないノイズでますます研究者から研究の時間を奪っているあの辺の界隈をどうにかすることが、大学教育を改善する上で割と重要な一歩だったりするんじゃねえかと思っているんですが、皆さんいかがお考えでしょうか。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:07 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月11日

憤るのは疲れる

ちょっと雑然とした話をする。愚痴の類であって、特に結論が出るような話ではない。

世の中には、山ほどの対立項、山ほどの思想的態度、山ほどのアンモラルな行為が溢れている。それらは、特に連帯することも連携することもなく、てんやわんやの状態で存在しており、互いにぶつかったりすれ違ったりしている。

時折それらにスポットが当たる。頭がいい人たちが、対立項を分かりやすくクローズアップして、極端なゼロイチを放り込む。あるいは、どこかで誰かが行ったアンモラルな行為が、また別の誰かに見いだされて、急きょスポットライトを当てられる。

そんな時、怒りたい人たちが大量に寄ってきて、どちらかの立ち位置に肩入れして、ガンガン怒りマークを投げつけ合う。プライベートライアンのオープニングみたいなものだ。

正直、ちょっとしんどいな、と感じる。

別に今に始まったことでもない、ずっと以前からの話だ。この状況も、私の性向も、10年前と変わったかと言われたら正直それ程変わらない。

まず前提にあるのが、「憤るのは気持ちいい」ということなんだろうと思う。正確には、「憤って、何かを攻撃するのが気持ちいい」ということだろうか。

これは多分、人間全般にある程度普遍的な話なんだと思う。私も別に例外の振りをするつもりはない。なんらかのエピソードに対して、「これはひどい」と感じて、ひどい理由や自分の考えをスカーーンと投げつける。それは、確かに、一種の娯楽として機能する。感情を大きく揺り動かすこと自体に一種の快感があるし、そこからマウントをとって他人を叩くのも気持ちいい。それはそうなんだろう。私だってそうだ。


ただ、その行為は一種の焼畑農業のようなもので、ある程度のMPを消費する。そして、そのMP消費の度合は、多分人によって違う。極めて低いMPで、効率よく憤ることが出来る人もいれば、憤ること自体に大量のエネルギーを必要とする人もいる。

私は、昔から、怒るのがちょっと苦手だ。憤ることに、多分人よりちょっと多くのエネルギーを必要とする。怒ると、疲れる。だからあんまり怒りたくない。

別に怒らない訳ではないのだ。憤らない訳でもないのだ。私は聖人君子でもなんでもない。ひどいニュースに突き当たると腹も立つし、一言言ってやりたくなる。実際に何かしら、一言ぶつける記事を書くこともある。ただ、腹を立たせることはイコール腹を空かせることでもあるので、出来ればあまり腹を立てたくない、という気持ちもある。

「怒りを誘う」メソッドがあまりにも定着し過ぎたような気はする。つまり、「どういうアプローチをすれば、色んな人が怒ってくれるのか」という文法が、既存のマスメディアだけではなく、一般のユーザーにまで知れ渡ってしまった。

怒りを誘う情報を見つけてきて、それにちょっと味付けをして、ぽんっとおいておくと、色んな人が寄ってきて怒ってくれる。色んな人に知られれば知られる程、メディアの影響度は増す。「知られる」ということはそれ自体が大きなメリットだ。だから、色んな人が「怒りを誘う」メソッドを利用する。結果的に、「怒りを誘う」情報が大量に可視化される。

「怒りを誘う」情報は、それ自体、私のような人間にはMPを減少させる地雷のようなものだ。パペットマンの大群と言っても良い。

時には怒るのもいいし、憤りに任せて記事を書くのもいいが、正直、ちょっとしんどい。最近は、「これを読むと憤りを誘われそうだな」と感じた情報をしばしばスルーするようになってしまった。ブロガーとしてはあんまりよくない傾向だと思う。

皆はしんどくないんだろうか。皆はMPをすり減らさないで怒れるんだろうか?

世の中には、いくら憤ってもまるで疲れた様子を見せず、常に憤りと、憤りを誘うような情報を出力し続ける人もいる。そのMPが無尽蔵なのか、あるいは精神的耐久性がバカ高いのか、どっちにしてもすごいなーと思う。とても真似できない。

今のwebは、どちらかというとそういう人が脚光を浴びるように出来ているのかも知れない。

ただ、多分世の中には、私と同じように「憤ると疲れる」という人もちょこちょこはいる筈で、そういう人はそういう人で、多分ちょこちょこ地雷を避けたり、時には地雷を踏みぬいたりしながら生きている筈なのだ。

どちらかというと日陰者の類になるのかも知れないが、私も日陰者の一種として、どちらかというとそういう人達と気が合うような、あまり疲れない記事を引き続き書いていければいいなーと。

そんな風に考えている次第なのである。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 07:24 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月29日

非常口マークの人の姿勢について長いこと勘違いしていたかも知れない


先に断っておくが、以下の話はあなたの想像を更に5割程上回ってどうでもいい話であって、あなたに新しい知見を提供することは一切ない。時間を大切にする人はここから先を読み進めるべきではない。

まず、私は非常口マークの人の正式名称を知らない。その為、ここでは便宜的に「非常マン」という呼称で統一させていただきたいと思う。なかなかいいネーミングではないだろうか、非常マン。なんとなく強そうな響きすらある。

さて、非常マンのマークとは、皆さんよくご存じの下記のようなマークである。

ブログ用

このマークには解釈上の問題がある。「非常マンがシルエットでしか表現されていない」「その為非常マンの具体的な姿勢については見る側が推測するしかない」という問題である。

私は、この非常マンを初めてみた瞬間、恐らくは幼稚園か小学校くらいの時点から、もう30年以上にわたって、非常マンの姿勢について「非常マンはこっちを向いてポーズをとっているのだ」と認識していた。これは、私にとってはもはや刷り込みに近い根本的な認識であって、ここから発想を飛躍させるのは、私にとって非常な努力を必要とすることなのだ。

この認識について分かりやすく図示すると、下記のようなことになる。

非常マン1.png

お分かりいただけるだろうか。つまり、私にとって非常マンは、「ドアを開けた時の光を背景にして、こちらを向いて軽快なポーズをとっているちょっと陽気な人」という認識だったのだ。これはもう、子どものころからの認識であるのだから仕方ない。

ところで、最近になって、というか本当についさっき、ふと思った。「冷静に考えると、非常マンって部屋から脱出してるんじゃねーか?」「部屋から脱出するときにこのポーズってのはちょっとおかしくねーか?」と。

繰り返しになるが、上記の認識は私にとって、もう30年来の固定観念だ。人間の脳は、自分の常識をそう簡単に疑えるようにはできていない。それに対して、僅かでも疑問を持つことが出来た私の発想飛躍力を称揚していただきたい。

つまり、

「非常マンは実は向こうを向いて走っているところなのではないか?」

という疑念が、まるで降ってわいた天啓のように脳裏に浮かんだのである。

分かりやすく図示するとこういうことになる。

非常マン2.png

念のため絵に注釈をつけさせていただいた。お分かりいただけるだろうか。

そう、非常口マークは、そもそも「何か危険があったときはここから逃げるんだよ」というマークであるのだから、冷静に考えれば「その部屋から脱出する人」を描写している筈なのだ。なんとなれば、「君は逃げ方が分からないかも知れないけれど、こんな感じで走って逃げてね」という見本図であるかも知れない。

部屋から逃げる時に、「体をこちらに向けてなんか変なポーズをとりながら逃げる」というのは、どう考えても適切ではないのだ。うっかりすると、お前はこっちに向かってアピールしてる暇があったらとっとと部屋から出ろよ邪魔だろ、という話なのだ。

そこから考えると、二つ目の絵のような状態であれば、「ドアを開けて部屋から走り出ていく人の図」として全く違和感がない。これは、もしかするとこちらの方が正しいのかも知れない、と、30年来の私の固定観念に強力な揺さぶりがかかっている次第なのである。

非常マンについて知見がある皆さんに伺いたい。非常マンは、こちらを向いているのだろうか?それとも向こうを向いているのだろうか?

常識を疑うことには非常なエネルギーを必要とする。だが、今の私は、今までの自らの固定観念に正面から向き合い、必要とあらば根本から修正を図る覚悟だ。

識者のご意見を期待すること大である。

今日書きたいことはそれくらいです。


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posted by しんざき at 07:14 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月24日

部活廃止論、なんかやたら受けるけれどいくら何でも暴論じゃないですか

こんな記事を読みました。


人数に対する費用が少ないとか、こんなんで足りんのか、効果あんのかといった、規模についての議論は当然あると思いますが、「教員の負担」が明確に問題として認識されていること、施策が打たれれば拡張の話も出来ること等考えると、基本的にはいい話、いい方向性ではあるんじゃないかなーと思ったんですよ。

ただ、はてブ等見ていると、


なんか「部活廃止しろ」という文言がやたら受けてるんですよね。なんか、部活を目の敵にする人がやたら多いなーと。単に極論程受けやすいって話なのかも知れませんけど。

今問題になっているのは、

・教員の負担、残業の増加、負担に対する報酬がないこと
・地域によっては、部活動に興味がない生徒でも部活を強制される場合があること

の二点であって、であれば

1.教員の負荷軽減の為の施策を考える
2.適切な報酬を出す方法を考える
3.部活動全入の強制をやめる

ことを考えるべきであって、そこで「部活ごとやめましょう」っていうのは「ゴキブリが出たから家ごと燃やそう」みたいなもんでしょうと。というか部活憎悪してる人多すぎじゃありませんかと。

部活のメリットというものは、ぱっと考えただけでも

・生徒にとって、安価で様々な趣味・技術にアクセスする場になり得る
・部活内での技術継承・ノウハウ継承の流れがある
・クラス以外の居場所があることで、クラスでうまくいかない生徒の精神の安定に寄与する場合がある

くらいは思いつきます。勿論、学校によって、部活によって、個別の事情は色々あると思うんですけどね。


まず第一に、「そもそも部活がないとその趣味の存在自体意識しねえ、知らねえ」って子、結構たくさんいるんじゃないかと思うんですよ。

皆部活っていうと、野球部とかサッカー部とか、あるいは吹奏楽部とかメジャーなものを思い浮かべがちなんですが、例えばもっとマイナーなスポーツとか、あるいは種々雑多な文化部だって立派な部活なわけです。ハンドボールとかバドミントンくらいのレベルですら、「部活がないとスポーツとして意識しない」って人、多いと思いますよ。なんとなく囲碁将棋部に入って、将棋のついでに囲碁にも触れて囲碁の面白さに目覚めた、って人、私が知ってるだけでも何人かいます。

そういう「趣味との出会い、アクセスの機会」っていうのを丸々捨てるんですか、という話がまず一点あります。

「地域のスポーツクラブにいけばいいやん」という話も分からないではないんですが、サッカーや野球くらいのメジャー具合ならまだしも、

・当然費用がかかる
・ある程度マイナーな競技・活動では、そもそもその地域にその団体が存在するか分からない
・学校での部活程生徒との接触がなく、そもそもある程度主体的にその種目に興味をもっていないと選択肢にならない

そもそも「最初は囲碁に興味がなかった人」が碁会所いきますか、って話です。あと、「通える距離にハンドボールやってる団体ありますか」ってことでもあります。小さな自治体なんかでは、「学校の部活がそのスポーツの唯一の受け皿」なんてことも全然珍しくないでしょう。

勿論スポーツだけの話ではなく、新聞部だって文芸部だって、なんならパソコン部だって鉄研だって立派な部活です。中身は真面目なこともあるし、ダラダラ遊んでるだけの部活もあるかも知れませんが、まあ「趣味への入り口」としての部活動という側面はあるし、そこから広がっている裾野も当然ある。中学のパソコン部や文芸部と同じようなことが地域の団体で出来ますか、っていうのはいくら何でも現実的じゃないでしょう。

一方、部活廃止ってことにもし本当になったら、真っ先に切られるのがそういう良く分からない活動であることは想像に難くないわけです。

「クラス以外の居場所」が重要ではないか、という話もあります。自分が所属する組織、団体が複数あった方がメンタルに好影響を及ぼしやすい、という話もだいぶ一般的になってきましたよね。子どもの居場所と精神安定性についての論文を拝見したのでリンクしておきます。


一般的なイメージからしても、クラスの人間関係がうまくいっていない子が、部活を居場所にして救われる例って結構あるんじゃないかと思うんですよ。というか、私の観測範囲でも何例かそういう例があります。

一方、そういう子が「部活」なしで、例えば地域団体のような「別の居場所」を探せるかというと、まあ勿論色んな例があるでしょうが、怪しい側面はあると思うのです。


ギルティだと考えられるのは「趣味を強制されること」であって、そういう意味で「部活動の強制」という向きは滅んでいいと思います。今でも一部の県では部活全入強制が一般的らしいですね。

ただ、「自由に選択出来る」という前提の上なら、選択肢が多いことは望ましいことだと思うんですよ。


本当に問題なのは、「部活が必ず顧問の教員を必要とすること」「顧問にされた教員が正規の業務以外の仕事で疲弊すること」「部活動の指導に対しての報酬が出ないこと」であって、であれば例えば「指導は地域や民間に委託しよう」とか「部活指導員を個別に設けよう、その人数を増やそう」とか「顧問の活動はきちんと残業にしよう、ちゃんと残業代を出そう」とか、そういう議論を活発にするべきですよね。

そのスタート地点としては、冒頭挙げた施策なんかはまあ悪くない線なんじゃないかと。もっと予算必要だろとは私も思うんですけどね。

「教員への部活動の負担」というものが社会的に認知されるのは良いことだと。

そんな風に考えるわけなんです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 06:43 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月21日

高知県立大学の件について、気になったところがあったので電話で確認させて頂いた

昨日書いた件の続きです。


大学側のお知らせにおける文章と、高知新聞の報道内容が一部食い違っているように思い、ちょっと詳細を確認したかったので、高知県立大学永国寺キャンパスにお電話させて頂き、お話を伺えました。お忙しい中、大変丁寧にご対応頂きました。

私が確認したかったのは3点、

大学のお知らせでは、図書館は1.5倍程度の広さに拡張され、収蔵能力も同程度と記載されているが、これが高知新聞の報道における「旧館よりも建物が小さいため全ての蔵書を引き継げない」という記載と食い違っている。これについての大学の見解。また、旧/新図書館の収蔵能力はそれぞれどの程度か

・大学のお知らせでは、除却の決定後も「池図書館への配架移転や教員研究室、学生研究室への移管などを行い、大学としての有効活用にも努めて」いると記載されている。この対象は3万8000冊の中に含まれているのか(つまり、3万8000冊が丸々焼却されたわけではないと解釈できるが、その解釈は正しいか)

・除却の際検討した基準は公開されているか

です。

それについて、担当の方から下記のようにご回答いただきました。

・お知らせの記載通り、建物は1.5倍程度に拡張されている。本の収蔵能力について、旧図書館では開架23万冊程度のところ、新図書館では開架22万冊となっており若干減少はしている。しかし、稼働棚を増やすことが出来、大きな本でなければ収蔵冊数の拡張が可能である為、同程度の収蔵能力と記載した。

・除却決定後、各研究室に書籍を引き取ってもらった分等はある。その為、3万8000冊が全て焼却されたわけではないという認識で正しい。ただし、引き取られた書籍の冊数、詳細などは把握していない為、実際に何冊が移管されたかということについては明言出来ない

・除却基準はweb等では公開していない。ただし、破損度合、価値、重複の有無などを、除却業務の範囲内で総合的に検討して判断している

ということで、概ね私の疑問については解消されました。担当の方からのご説明は大変明確で、ちゃんと仕事されているなーというか、業務として整理されているなーという印象を受けました。


以下は全部総合しての私見なのですが、

・高知新聞の記事は飛ばしに近い。少なくとも、図書館移転に伴う通常の除却を大げさに書き立てて煽る意図はあったように思える
・3万8000冊が丸々焼却されたわけではない為、その点も記事の記載に問題がある
・本は除却されるものだし、除却された本を丸々誰かに引き取ってもらえるわけでもないのだから、ある程度焼却されるのは仕方ないし叩くことじゃないんじゃないですか、という意見は変わらず
・ただ、「本が燃やされる」という事象だけを見て感情的に反応してしまう気持ちも多少分からないでもない
・図書館の移転に伴って収蔵能力を向上させるべきだったのではないか、という議論はまあ成立すると思う
・どっちにしても脊髄反射叩きはしない方がいいと思う

これくらいになります。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月20日

「考え無しに愚行を行う組織」という物語と、それに魅惑される人たち

確かに、組織は時に愚行を行うものですし、愚行を行った組織は批判されるべきです。そこに文句はないんです。

ですが、「一見すると愚行のように思える行動」が本当に愚行なのかどうか、本当に考え無しで行われたものかどうかについては、それなりに慎重な検討が必要です。「本当に無能な人たちの集まり」という組織は、もしかするとあるのかも知れないですが、そこまで多数を占めている訳ではありません。大体の組織の大体の措置は、専門職の人たちのそれなりの検討と思考を経て決定されているものです。

そしてメディアは、時として「組織の検討や思考」を四捨五入して、組織の行為を「考えなしの愚行」っぽく演出することがあります。我々が「一見すると愚行のように思える行為」を見かけたとして、その裏に何かしらの検討はなかったのか、その検討が四捨五入されていないか、それらも含めて愚行といえるのかどうか、ということはちょっと考えてもよいのではないかと思うのです。

先日、こんな記事を見かけました。高知新聞の記事ですね。


高知県立大学(野嶋佐由美学長)が、永国寺キャンパスの図書館が昨春新設される際、旧館よりも建物が小さいため全ての蔵書を引き継げないとして、約3万8千冊に及ぶ図書や雑誌を焼却処分にしていたことが8月16日までに分かった。中には戦前の郷土関係の本をはじめ、現在は古書店でも入手が難しい絶版本、高値で取引されている本が多数含まれている。焼却せずに活用する方策をなぜ取らなかったのか、議論になりそうだ。

ログインすると、実際に処分された書籍についてもうちょっと細かいことが読めますが、まあ大筋、高知新聞が言いたいことは上記のセンテンスに集約されていると考えて良いでしょう。

ちなみに、上記記事に対する、はてブの反応は下記のような感じです。


人気コメントは、一部を除いて罵倒の大合唱ですね。「本を燃やした」という点に対するセンセーショナルな批判、郷土資料の保存に対する批判、「旧館よりも建物が小さい」という点にたいする非難、よりどりみどりです。

で、これに対する高知県立大学の声明が出ていまして、以下のような感じです。

本学の蔵書は、歴史的には高知女子大学、高知短期大学、旧高知女子大学保育短期大学部の図書を統合しつつ、このたび高知工科大学の一部の図書を含めたものであり、永国寺キャンパスの整備にあわせて新図書館を新しく開館いたしました。この新図書館は、広さを約1.5倍としたうえで、旧図書館にはなく、近年求められているディスカッションルームや集いスペースなどのグループ学習室を新たに設置し、座席数も大幅に増やすなど、大学図書館としての機能を充実させました。一方で、蔵書の収蔵能力は旧図書館と同程度を保ちつつ、将来も増加し続ける蔵書のことも考慮し、大学として慎重に検討を行い、3.8万冊程度を除却するという決断をいたしました。

除却にあたっては、複数の司書と分類ごとに専門性のある教員が、破損により補修不能であるものや重複しているため保存の必要がないものなど学内規程に定める除却の基準に基づき、除却候補リストを作成しました。その後、全学の教員に確認する工程を繰り返すなど、時間をかけて手続き的にも慎重に行った結果、重複図書約18,700冊、雑誌約12,700冊、書籍約6,600冊、合計約3.8万冊を除却することを決定しました。そして、この決定後、池図書館への配架移転や教員研究室、学生研究室への移管などを行い、大学としての有効活用にも努めてまいりました。

そもそも謝罪する必要あることなのかな、という気もするんですが。

これを見ていると、なんで高知新聞がああいう報道を出したのか、ちょっと疑問を感じます。少なくともこの辺の記述については、明確に報道と食い違っていると思えます。

・図書館はそもそも小さくなっておらず、蔵書能力も旧図書館と同程度にあった
・除却の判断は規定に則って検討され、決定されている
・除却せずに活用する方法の模索、他研究室への移管なども行われていた

これ見ると、端的に高知新聞の勇み足というか、ごくシンプルにただの煽りだったんじゃねえか、と思わざるをえなかったりするんですが。

ちょっと細かい点について確認してみたくて永国寺キャンパスに問い合わせのお電話をしてみたのですが、残念ながら20日までは夏季休業とのことでした。これについてはまた明日以降問い合わせをしてみます。

そもそもの前提として、「図書館において、本の除却というのは定例業務」であることは間違いないんですよね。新しい本は常に増え続けており、図書館のスペースも司書さんのリソースも無限ではない以上、新しい本を所蔵する為にはどこかで既存書籍を除却することが必要です。それがダメだという人は、場所とリソースを無限にする道具を四次元ポケットから出してきてくださいって話になります。

で、除却した本を寄贈したり売却したりという話も勿論ないわけではないと思うんですが、それだって簡単な話では決してなく、

・数万冊の本を一気に受け入れられる組織や書店や図書館がそうそうその辺に転がっているわけではない
・分散して受け入れ先を探すならそのコストや事務手続きも膨大な量になる
・その上で、そもそも受け入れ手が見つからない書籍もどうしても発生するし、その期間も時間的コスト、場所的コストは発生し続ける

となると、それ相応の量の除却というのはどうしても発生するし、その結果として焼却処理が発生することも別段不思議なことではないと思うんですよ。

除却対象の選定基準は様々ではありますが、大抵の場合きちんとした検討の上できちんと明文化されて、それに則った運用をされています。

ちなみに、この辺については匿名ダイアリーで解説をしてくれている人もいました。下記の記事です。


その辺考えると、学内での移管というのも相当な手間だったのではないかと思うんです。つまり、それ相応の手間と検討を経て、その上で決定された措置であることは間違いない。

少なくとも、

・(除却書籍の選択についての是非などで)批判の余地が全くないとまでは言えないが、大学図書館の業務としては普通に考えられる範疇であり、間違っても愚行とまでは言えない

とまでは言ってしまっていいんじゃないかなーと思うんです。


ここから先は一般論というか、webでの反応についての私見なんですが。

どうも、「組織は考えなしの愚行を行うもの」という先入観というか、「愚行を行う組織に対する強い攻撃意識」みたいなものがどっかにあって、高知新聞もそれを煽ることを狙ってああいう記事を書いたんじゃねえか、という感触があります。

焼却せずに活用する方策をなぜ取らなかったのか、議論になりそうだ。

辺りの記述を見ていると、いかにも「大した検討もなしに多くの貴重な書籍を燃やした!!これはひどいことだ!!!!」っていう感情を惹起したい、という記述に見えるんですよね。「みんな、ひどいことをした組織を叩こうぜ!」という煽りが感じられる。で、はてブとかでも、その注文通りの反応をしている人たちが多数いるわけなんです。

ただそれ、叩かれる方にとってみればたまったもんじゃないだろうなーと。検討なんて散々してきたし、活用する方策もとってきたし、その上で残った書籍を除却するっていうのに、まだなんか活用する方策があるなら実際やってみてくれよ、っていう感想なんじゃないかと、はたから見ているとそんな心配をしてしまうくらいなんです。

勿論、「愚行を行う組織」というものが世の中に存在しないわけではないですし、結果として「愚行が行われた」ならば、それは相応の批判を受けて然るべきです。そこは間違いないんです。

ただ、叩くなら叩く、批判するなら批判するで、もうちょっと慎重に構えてもいいんじゃないですか、と。本当にそれは愚行なのか、本当にそれは考えなしで行われた措置なのか、それが今見えている情報だけで判断出来るんですか、と。

「愚行を行う組織」というものは、いかにも「叩く対象」として魅力的です。名誉棄損も形成しにくいし、なんとなく改善に寄与する建設的なことが言えそうな気もするし、「正義」の側に立ちやすい。そこはまあ分かります。ただ、それだけに、「愚行を行う組織」を仕立て上げて、そこに対する批判を煽ろうとする向きも割と頻繁に発生します。

批判をダイレクトに届ける環境があるからこそ、その運用については慎重であっていいんじゃないかと。特に、いかにも炎上を煽りたそうなメディアを見ていると、私としては「条件反射で対象を叩く前に、ちょっと立ち止まってみませんか?」という思いを結構強くもってしまうわけなんですが、皆さんいかがでしょうか。


取り急ぎ、今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月14日

何故かコンテンツを終わらせたがる人たち

こんな記事を読みました。



今更風来のシレン初めて触ってすげー楽しかったんだけど、バイト先でちらっと話したらオワコン扱いされて辛い……


風来のシレン楽しいですよね。私はシレン4中毒、というかシレン4の浜辺の魔洞中毒なので、どちらかというとシレン4をやることの方が多いんですが、SFCのシレンもまだたまにやります。掛軸裏の洞窟99Fがあまりにも無理ゲー過ぎる。ただでさえ無理ゲーなのに、あれを肉なしでやる人がいるとか本当に理解の範囲外というか、人間の可能性の奥深さを感じる他ありません。

それはそうと。

私、そもそもレトロゲーマーなんで、元来この「オワコン」って言葉あんまり理解出来ないんですが、なんか妙に「〇〇はオワコン」って言いたがる人、一時期よりは減ったけどまだたまに観測出来ませんか?

個人的には、

コンテンツが終わったかどうかをなんでお前に判定されないといけないんだバーーーーーカ

と思ってやまないんですよ。お前は何か?コンテンツ終了判定委員会の委員長か何かか?オワコン村の村人か?

元より、自分が愛好し続ける限り、コンテンツに「終わり」はありません。ゲームを遊び続ければ何かを見つけることが出来るし、そこから何かを広げることが出来る。サービスが終わったオンラインゲームか何かであればまだしも、たとえ今この瞬間誰一人遊んでいないゲームであっても、だれかに再発見されて遊ばれる可能性は決してゼロにはならない訳です。

私多分ファミコン版のイーアルカンフー一生遊ぶと思いますけど、未だに「あ、こいつこういう条件でこう動くようになってるんだ」って気づくことがあって凄いですよアレ。シレンなんてむしろまだ全然ホットコンテンツな方なんじゃないでしょうか。暗黒十字架落としの派生形未だに開発されてるし。

私はゲーム好きなんでゲームをベースにして話してますけれど、別に漫画だろうがアニメだろうが小説だろうが、他のコンテンツだろうが多分事情は異ならないと思うんですよ。


元来、コンテンツを消費するというのは、基本的には「一人の体験」だと思うんです。皆で同じコンテンツを楽しむ、同じコンテンツについて語り合うというのは勿論楽しいですが、それは「コンテンツとの一対一の対面」があってこそ成立する楽しさだと思うんですよ。だから、コンテンツに対する自分の評価というのは自分だけのものであって、人がどういっていようが本来顧みる必要はないわけです。

うるせえこのコンテンツが楽しいかどうかは俺が決めるよお前は口出すんじゃねえ

って話ですよね。

だから、自分が愛好しているコンテンツに対する「オワコン」などという言葉自体、そもそも意識に載せなくていいですよといいたいところなんですが、まあ「オワコン」という心無い言葉が自分の愛好するコンテンツに投げつけられた時、悲しくなってしまうのは分からなくもないです。

観測する限り、「オワコン」という言葉を使いたがる人たちは、

・単に自分が飽きただけ
・単に自分が楽しめなかっただけ
・自分があんまり知らないだけ

のコンテンツに対し、何故か「not for me」ではなく「オワコン」という言葉を投げつけたがるだけの人たちである割合が極めて高いので、
頭の中で「オワコン大明神」というラベルでも貼って以下は放置することを強くお勧めする次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:16 | Comment(15) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月13日

「家族サービス」が「頑張ったね」と言われることに対する違和感


いや、別に大した話じゃないんですが。

町内会の知人にちょっと年配の女性がいまして、その人に「昨日は子どもたちと〇〇に遊びに行きましてー」みたいな話をしたんですよ。
そしたら、「あらー、家族サービス大変だったわねー」みたいな言葉が返ってきたんです。「お父さん頑張ってるわねー」と。

いや、その人は100%好意で言ってくれているのは分かっているので、全然問題はないっていうか、ありがたいことではあるんですが。

ただ、「社会にとっては、「家族と遊ぶ」というのはそこまで「大変」なことなんだろうか?」「子どもを遊びに連れていく、というのはそこまで「親の犠牲」を強いるものなんだろうか?」と、ちょっと考えてしまうんですよ。

なんか、

・子どもと接する、子どもと遊ぶのは「大変」であり、どちらかというと大人にとって「辛い」こと、進んでやりたくないこと
・なんなら、「子どもを楽しませる」ことと「親の犠牲」はワンセット
・そこを敢えて頑張って遊んであげるのがいい親

という様なイメージが、かなり一般的に、広範にあるような気がします。いやまあ確かに、単純に体力的には、子どもについていくの結構大変って時もありますけどね。

ただ、「子どもと遊ぶことで、親も一緒に楽しむ」「子どもを楽しませることで親が犠牲にならない」というのが本来はあるべき姿だし、そうなってないならなんでそうなってないのかを考えて、ギャップを埋める方がどちらかというと建設的なんじゃないかと、少なくとも私は思うんですよ。一方が一方の為に犠牲になり続ける関係って、人間関係としていびつじゃないですか?


そういう意味では、そもそも「家族サービス」という言葉のニュアンスがちょっと微妙なのかも知れません。goo辞書でも、

「俗に、家族のために尽くすこと。」

とか書いてありますもんね。あ、「尽くす」ことなんだ、と。まあこれは、日本における「サービス」っていう言葉のニュアンスからちょっと歪んでるのかも知れませんが。

実際のところ、「子どもと遊ぶ」「子どもを遊びにつれていく」っていうの、楽しくないものですかね?

勿論、これは家庭それぞれ、親それぞれの話ではあって、例えばしんざきは精神年齢が小学生とそれ程異ならない為、子ども向けの遊びもかなりキャッキャ言いながら楽しめるので、子どもとの遊びを楽しむのが容易、という事情はあるのかも知れません。正直ディズニーランドめっちゃ楽しかった。

ただ、そうでないならそうでない場合でも、なんなら親と子どもで歩み寄って、親も子どももどっちも楽しめる遊び、楽しみを模索することも出来るんじゃないかなあ?あるいは、親も子どもも両方楽しめる施設とか、楽しみ方とか、そういうものがもっといろいろと提案されてもいいんじゃないかなあ?と思ったんですよ。

例えば、どっかに遊びに行くにしても、スポッチャみたいな複数の遊びが並列で楽しめるような施設が一般的であれば、子どもが遊んでいる間に親も並行して遊ぶ、みたいなことが出来るかも知れません。

親の趣味がゴルフであったら、子どもと一緒にゴルフが遊べる、みたいなことが出来ないかなー、とか。親の趣味がアナログゲームであれば、親子参加可能なアナログゲーム会がもっと一般的にならないかなー、とか。アスレチックにしても、大人用のアスレチックと子ども用のアスレチックの併設とか。

勿論、子どもの年齢によって限界もあるんでしょうけどね。

いってみれば、「家族サービス」ではなく「家族エンタメ」みたいな在り方がもっと一般的になれば、子育てというのももっと楽し気なものとして社会に認識されるのではないかと。

私は、自分自身は「育児はエンターティメント」だと思っていますし、出来ることならすべての親がそう思えるようになればいいなあと思ってはおります。

そういう点で、「親が育児の為に犠牲になって当然」というようなイメージが、どんな方向性であれ、ちょっとずつ変わっていくともっとみんなが幸せになれるんじゃないか、と。

そんな風に考えた次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 12:15 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月12日

「本来あるべき姿」について語っただけで「現実を知らない」と罵倒する人たち

いや、「理想と現実」でも「to be とas is」でも「目標と現状」でも、なんでもいいんですが。

課題を解決する為のごく基本的な手法として、ギャップ分析ってありますよね。「本来こうあるべきだよね」という理想の状態と、現時点の状態を比較して、その差異を課題として分析する手法。多分、どんな会社、どんな組織でも一般的に行うことだと思うんですが。

ギャップ分析を行う為には、当然のことながら手順がありまして、ざっくり言うと

1.To be(あるべき姿)を想定する
2.To be に対するAs is(現状)を把握する
3.To be とAs isの間の差分をギャップとして分析する
4.解決しなくてはいけないギャップの優先順を検討する
5.ギャップを埋める為の方策を検討する

という感じで、まあ1と2の順番は順不同というのが割と一般的なやり方だと思うんですが。

人間、絶対評価よりも相対評価の方が得意なものでして、単に今ある課題を挙げて解決策を考えるだけだと結構難しいんです。「ゴールはここ」「スタートはここ」「じゃあゴールにたどり着く為にはどうすりゃいいの」という順番で考えた方が、誰にとっても分かりやすい。だからギャップ分析は重要なわけです。

とはいえ、ギャップ分析を実際に進める際には、別に上の1から5を全部ワンセットでやらなくてはいけないというわけでもなくって、細切れに進めても、どれかを部分的に先取りしても別に構わないわけです。「取り敢えず今日はto beについての合意だけ取りましょう」とか、やります。全然やります。

「ある組織にとってのゴールがどこか」「あるチームのto beは何か」なんて、ちょっと考えて簡単に答えが出るものでもなくって、人それぞれ意識は違うし価値観も違うわけで、最初からピッタリ合う方がおかしいわけです。「誰が見てもto beは明確だろ」と思っていても、実はそう思っていたのはその人一人だけで、他の人は全然違うto beを思い浮かべていたりする。ゴールがあちこちに分散しているとゴール目指して走るのも結構大変なので、「To beについて議論する」というのはそれ単体でも重要な話です。

多分、ここまでの話はごく常識的なことだと思うんですよね。


ところで、最近特に医療の話をみていて感じたんですが、「本来こうあるべきだよね」という話をしている時に、何故か「現実を知らない意見」とか「現実を見ろ」という罵倒を投げたがる人がすごい多いような気がするんです。なんなんでしょうアレ。

言ってみれば、「取り敢えずto beを明確にしましょう」という話をしている時に、「お前らAs isをなんにも知らねーな!!As isの話しろよ!!」と叫んでるような人。いや、そりゃAs isの話も必要だし、As isとTo be両方そろってないとギャップ分析が出来ないのは確かですが、別にそれでTo beの話しちゃいけないってわけじゃないでしょうという。

止めなければいけないのは、「実際に施策を考える時にAs isを無視すること」であって、「To beについて議論すること」ではありません。本来こうあるべきだよね、という話をして、それについてのコンセンサスを模索するのは、それはそれでとても重要です。なのに、なんだか「To beについて話す」だけで親の仇のようにAs isを投げつけたがる人が、割と頻繁に観測出来るような気がしているんですよ。

To beの話をする人が、実際にAs isを知らないわけではありません。いや、中にはそりゃAs isを知らない人もいるのかも知れませんが、As isを明確に認識した上で、それはそれとしてTo beの話をする人もいるわけです。それに対して、一時的な上から目線を確保する為に、十把一絡げで「現実を知らない」とかいう言葉を投げつけるのは、私にはどうも妥当なことだとは思えません。

・「To beを考える」ことと「As isを把握する」ことは全然別の話であって、
・それぞれを個別に議論することはよくある話であって、
・前者の文言を見かけたからといって、脊髄反射で後者の議論をふっかける人はちょっと落ち着いた方がいい

簡単にまとめると私はそんな風に考えるんですが、皆さんいかがでしょうか。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 12:36 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月31日

「初デートでサイゼリヤはアリかナシか」という話で根本的に理解出来なかった点


これ、周囲の反応を見ている限り、どっちかというと私がずれてる側だという可能性が否定できないんですが。

ちょっと根本的に理解出来なかった点として、デート後に食事しに行く店って、「男性が決めて一方的に提案する」というやり方が一般的なんですかね…?皆さんそうやってるものなんでしょうか?

いや、「デートに行ったら食事の店が〇〇でがっかり」というのは割と古来からあるテンプレ展開でして、議論になることも多いネタだとは認識しているんですが。

これそもそも、がっかりする為には

・男女どちらか(多分主に男性)が店を事前に決定している、ないし当日になって提案する
・その情報がもう一方に開示されていない
・その店についての合意がとられていない

という三つの条件が必要だと思うんですよ。

これ、私の認識というか、私が一般的だと思っていたやり方とは割と食い違ってまして、

「え、食事しに行く店なんて男女双方で合意とってから行くもんじゃないの?」「相談なしで決めておかないといけないもんなの?」
と私は思ったんです。

いやだって、食べたいもの、行きたい店なんて人それぞれじゃないですか。もしかすると、相手の女性には以前から行きたかった店があるかもしれないし、特別好きな食べもの、嫌いな食べ物があるかも知れない。なんならアレルギーだってあるかもしれない。

で、行きたい店がある、食べたいものがあるっていうのは自分も同じですよね。個別にそれぞれの欲求がある。

まずヒアリングしてすり合わせしないのん?という。ヒアリングも相談もなしで相手を満足させないといけないなんて、どんだけ難易度高いんだよって思ったんです。

私の場合で言うと、例えば奥様とお付き合いする前後の話であれば、

・何が食べたいか、行きたい店があるかを事前にヒアリングする
・自分の希望も提示してすり合わせする
・第一候補の店を決めて合意する
・混んでいそうなら事前に第二、第三候補も決めておく

というような感じでやっていました。この時、例えば二人で「サイゼリヤ美味いよね」「サイゼリヤ行こう」ということだったらサイゼリヤいってたと思うんですよ。それでなんで「がっかり」という話になるのん、と。

これ、少なくとも私に関する限りでは、あんまり関係性の発展具合に関係ないと思うんですよね。どんな関係性だろうと、それくらいのことは事前に話すし、それくらいのことはすり合わせるでしょうっていう。

例えば初めて出かける相手だったとして、「明日何食べたいです?」「食べられないものあります?」ってことくらい事前に話さないのかなあ、と。むしろ、そういうすり合わせが出来ない相手とそれ以上関係を発展させるのって不安なんですが。

ただ、二点だけ、ちょっとずれ具合に心当たりがある点がありまして。

まず一点、私が一番長く一緒に過ごしているのは当然奥様なんですが、奥様割と「食べたいもの」の方向性が明確な人でして、希望を聞けば結構すぐ希望が出てくる人なんですよね。なんなら提案が出てくることもあるので、すり合わせの際あまり苦労することがなかった、というのが一つ。

もう一点として、私「サプライズ」って非常に苦手だし、奥様もあんまりサプライズって好きじゃないんですよ。当日いきなり店を知ってびっくり、というスリルはあんまり求めていなくって、むしろ事前に「あの店おいしそうだなー早くいきたいなー食べたいなー」と想像を膨らませておく方が好き。これは食事だけじゃなくて、誕生日とか、記念日でもそうなんですが。

なので、いわゆる「サプライズ」を好む文化であれば、「当日まで店は秘密にしておいて、当日いきなり提案してびっくりさせる」という趣向が成立するものなのかなー、とは思ったんです。いやまあ、私からするとすげー難易度高いなーと思いはしますが、そういう楽しみ方があるなら不思議だとは思わない。

まあ、このずれ具合が何に由来しているのかは、私も正直よくわからないです。別にどっちがいい、悪い、という話でもないんですが、ちょっと違和感を感じたので書いてみました。

個人的には、サプライズに極めて脆弱な生き物なので、出来れば事前すり合わせは済ませてからご飯を食べにいきたいなあ、と考える次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 16:45 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

「ワイルドカード」シリーズの邦訳再開されないかなあ

皆さん、「ワイルドカード」シリーズっていうSF小説、ご存知ですか?




「ワイルドカード」。G.R.R.マーティンを中心として、複数のSF作家が「同じ世界観を共有したSFを書く」というコンセプトで好き勝手書いている、中編〜長編SF小説です。1987年から現在まで続いています。

私はワイルドカードシリーズ凄い好きなんですが、何故か日本だと「大いなる序章」「宇宙生命襲来」「審判の日」の3集しか邦訳されてないんですよ。なんでかなーー。あんまり売れなかったのかなあ?すげえ面白いと思うんですが。

ワイルドカードシリーズは、すごくざっくり言っちゃうと「マーヴル世界観みたいな、特殊能力を持ったたくさんのヒーローが活躍するSF小説」です。

第二次世界大戦の終戦後、地球に対するタキス人の陰謀により、マンハッタン上空に「ワイルドカード・ウィルス」がばら撒かれる。そのウィルスに感染したものの90%は死亡し、生き残ったものの90%は醜く変形してしまい、僅かなものだけは特殊な超能力を発現させる。醜く変形してしまったものは「ジョーカー」と、特殊な能力を身に着けたものは「エース」と呼ばれるようになる。

いや、舞台装置だけ説明すると、今から見たらもってまわった内容に見えてしまうかも知れないんですが、「ワイルドカード」世界観って凄いシビアでディープなんですよ。ジョーカーに対する差別問題とか、終戦後の混乱期に政治利用されるエースとか、それに対する権力側の反発とか、麻薬問題とか、現実にも存在しそうな問題が遠慮なく投入される。勿論その一方で、魅力的なキャラクター、魅力的なエースたちが大活躍をするエピソードもある。

エースといっても人間なんで、当然働かないと金を稼げないし、食事をしないと飢え死にしてしまう訳です。その為に自分の能力を利用するエースもいれば、犯罪に手を染めてしまうエースも、一方賢く立ち回って経済的成功を手にするエースもいる。一方、当然のことながらその陰でジョーカーも、あるいは「ワイルドカードウィルス」と無関係に過ごしている普通の人たちも、色んな状況で色んなことをしている。

様々なSF作家がよってたかって描く、その「ワイルドカード世界観」がとても魅力的なんですよね。

第一集である「大いなる序章」は特に大きなテーマを定めず、ワイルドカードウィルスを描いた中短編の集積という作り。

第二集である「宇宙生命襲来」は、巨大な群体である「群れの母」襲来に対して立ち向かうエース、という筋立てになっておりまして、こちらも色々と熱いんですが、なんといっても第三集の「審判の日」の完成度は群を抜いています。

ワイルドカード記念日の1日、祝祭の裏で陰謀をめぐらす「天文学者」と呼ばれるエースとその一派。それに対する「フォーチュネイト」やドクタータキオンとその仲間、というエピソードが中心になるんですが、それと並行して様々なエピソード、思惑、小競り合いやトラブルが街のあちこちで起きており、それらが時に交差して、時にすれ違う。

天文学者とは何の関係もないところで巨悪と戦っている弓使いのダニエル・ブレナンとそれに巻き込まれた「生霊(レイス)」ジェニファとか、何ら能動的に動いていないのにギャング戦争に巻き込まれる「バガボンド」スーザンと下水道ジャックとか、とにかく自分の店と商店街を守りたいハイラムとか、まあ皆の行動がクロスしまくる訳です。

複数の作家がモザイクのように書いているストーリーが、読み終わってみるとちゃんと一つにまとまっている。このストーリー構築の見事さについては、G.R.R.マーティンの手腕に舌を巻く他ありません。

勿論、それぞれのエースやジョーカーのキャラクターが、「ワイルドカード」シリーズの魅力の中核であることは間違いありません。

普段はさえない中年男、しかし亀の甲羅に見立てた装甲車に乗り込んだ時だけは無敵の念動力者になる、「タートル」ことトム・タッドベリ。

精液をパワーの源泉として、精神操作、念動力など様々な力を駆使する「フォーチュネイト」。

一度ワイルドカードウィルスで命を落とした後に蘇った、目があった相手に死を送り込むことが出来る「逝去(ディマイズ)」ことジェイムズ・スペクター。

人格破綻者の科学者によってつくられたが故に死ぬほど苦労する、女好きのアンドロイド「モジュラー・マン」。

地球にワイルドカードウィルスを持ち込んだタキス人でありながら、地球の側に立ってジョーカーやエースの為に奔走するテレパス、ドクター・タキオン。

その他もろもろ、エースにしてもジョーカーにしても味があるキャラクターばかりなのですが、共通しているのが「何の活躍もしていない、普段の行状・生活についても全く切り捨てられないこと」。エースだろうがジョーカーだろうが、中にはダメ人間もいるのであって、能力に関係なく等身大の姿が描かれるのも「ワイルドカード」の魅力の一つです。個人的には、単なるヒッピーにして天才生化学者であるマーク・メドウズがお気に入り。

ということで、ワイルドカードシリーズ面白いですよねという話と、第四集以降も邦訳して欲しいなーという、ただそれだけのエントリーでした。

興味が出た方は読んでみませんか、ワイルドカードシリーズ。特に「審判の日」については損はさせません。



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2018年07月23日

何かを攻撃する時ガードを極端に下げてしまう現象と、はてなスターの仕組みについて気になること


こんな事例を観測しました。


経緯としては、

・「体育館のエアコンについて、2500円電気代がかかるので使うな」という教育委員会からのお達しがきた、とツイートした人がいた
・脊髄反射で教育委員会への批判が集まりまくり、RTもされまくった
・Togetterまとめに大量のブクマが集まった
・箕面市長の否定によってデマと判明した

という流れです。比較的よく見る案件ですよね。

これについては以前も書いたんですが、「何かに憤って攻撃しようとするとき、普段よりガードを下げてしまう人」ってものすごーーく多い、というか殆ど人間の本能みたいなものなんじゃねえかと私思ってまして、今回の件はその端的なサンプルなのかなーと感じたんです。

id:tyoshikiさんもおっしゃってますが、はてブの方々ってwebでもかなりリテラシー高い人たちだと思うんですよ。嘘ニュースとか、デマまとめだとか、そういう案件は良く観測されていて、普段から冷静なデマ指摘をされている人も多いと思っています。それでも時にはこういう事例が発生してしまうのは、誘い受け事例の誘因力の高さというか、「これはひどい話だ!」と感じた時の叩きたい欲求の強さみたいなものをつくづく感じるわけなんです。

以前も、「分かりやすい悪役を見つけた時はちょっと立ち止まった方がいい」という話を書きました。下記エントリーです。

手前味噌で申し訳ないのですが、繰り返しになるのもなんなので、ちょっと内容を引用します。


ただ、「分かりやすい悪役がいるニュース」については、特にガードを高くすることを徹底すべきだ、と私は考えている。

理由は二つある。
・「分かりやすい悪役がいるニュース」は、感情を煽る力が高く、物凄い勢いで拡散されてしまうケースが多いから。
・「分かりやすい悪役」が実際にはおらず、単に誤報か、あるいは情報の偏向であるケースが割と多いから。

前者の理由については、皆様経験則としてご存知なのではないかと思う。分かりやすい悪役を見て、正義感を煽られてしまう人は非常に多い。彼らは、瞬間湯沸かし器の様に頭を沸騰させた上で、ソースの確認なく情報をがんがん広めてしまう。

それがデマなのかどうかは関係なく、「ソースの確認なく情報を広める」という行為は本来とても危険なのだが、ガードが下がった人はそんなことは気にしない。あたかもあしたのジョーのごときノーガード戦法である。カウンター狙いの戦術であるならまだしも、一般的には彼らのことを「猪突猛進」と呼ぶ。


今回の事例ですと、エアコンについて理不尽な要請をつきつけた教育委員会が、非常に分かりやすい「悪役」ですよね。

やっぱり、普段から反感を持っている組織とか、反感を持っている個人が「分かりやすい悪役」になっていれば、取りあえず叩きたくなるんですよね。その気持ち自体は分かるんです。

webにおいて「分かりやすい悪役」になりやすい主体って幾つかありまして、具体的な組織で言うと「NHK、電通、JASRAC」の三つはすげー藁人形になりやすいなーと思ってます。あと、「政治家、マスコミ、教育組織」も同じような感じで、やっぱこの辺がおかしなことをしているような情報に触れると、ついつい叩きたくなってしまうんですよ。

これはよーーく分かります。私だって全然人のことは言えません。言っちゃってますけど。

これは飽くまで個人的な経験則なのですが、「うわこの話ひどい」とか「こいつ許せん!!」みたいなことを感じるエピソードについて、ソースが明確に提示されていない場合は、大体7〜8割くらいは何らかの誇張が入っているか、情報が偏向しているか、最悪話自体が創作であるケースが占めているように思います。デマとまでは言いませんが、いや冷静に考えるとそれちょっとおかしいんじゃない?なんか誇張入ってない?みたいに感じるケースはかなり多いです。

ですので、「これ許せん!!」と思った時程、ちょっと一旦立ち止まって様子を見ることにしています。ソースを確認出来そうなら確認しますし、確認出来なさそうなら追加で情報が出るまで待ちます。または、「後で反応する」ラベルをぺたっと貼っておいて一旦忘れます。

私自身は、これでデマの拡散に加担せずに済んだなーと思ったことが何度もあるんですが、損したなー、拡散しておけばよかった、と思ったことは殆どありません。

ただ、もしこれで何かを損してしまうとすれば、それは多分「速攻でその話に触れることによって得られていた筈の利益」ですよね。脊髄反射することによるメリット。先行者利益。

「速報性」というものは確かに貴重でして、何かの情報、何かの感想を、速く発信出来る人、というのはそれだけで凄い強みを持ってるな、とは思うんですよ。それは、アンテナの敏感さ、情報収集力の高さの証明でもあります。やっぱり、同じ感想を表明している人であれば、先に表明している人の方を展開したくなりますよね。



ここでちょっとはてブの話に移ります。

私、はてなブックマークは良く使いますし、個人的にも好きなサービスではあるんですよ。ただ、はてなスターに限っては正直あんまりいい仕組みじゃないんじゃないかなーと思ってまして。

つまり、

・先に反応した人程スターを集める機会が多く、そのコメントが「人気のコメント」に掲示される為、更に目立ちやすくなる
脊髄反射することに大きなメリットがあるような作りになっている

ことが気になっているんです。

冒頭であげた事例は単なる丁度いいサンプルでして、この件自体がどうこうって訳ではないんですが、Togetterのブコメページを見てみると、やっぱり「最初の5,6個のコメント」が大量にスターを集めて、人気コメントにもなっているんですよね。トップブコメは2つ目についたコメントです。

最初の方にコメントをつければつける程、たくさんの人にコメントを見てもらえる。必然、鋭いことを言っていればスターがつきやすいし、ついたスターが更に注目を集めてよりたくさんのスターを集めやすくなる。

自分のコメントにスターがつくのってやっぱり嬉しいし気持ちいいんですよね。たくさんの賛同者が自分に味方してくれるように思える快感。トップブコメになった時の気持ち良さって、やっぱ大きな魅力なんです。

つまり、はてなスターの仕組みって、基本的に先行者に大きなメリットがある構造になっているんです。

これ、うっかりすると、「ソースをいちいち確認しない」ということ、ガードを下げて脊髄反射することに対する動機づけになりかねないなーと。

はてなスターって、この先行者利益の話を置いても、「どちらかというと過激なコメントの方が受けやすい」という傾向もあるように思いまして。「より素早く、より過激なコメント」ほど可視化されやすいという、現状デメリットがかなり大きい状況になってしまっているんじゃないかなーと考えるわけなのです。

個人的には、「はてなスターはあっていいけど、「人気のコメント」欄は要らないんじゃねーか?」とか思っています。あるいは、「人気のコメント」はちょっと時間が経ってから集計する仕組みでもいいのかもしれません。

繰り返しになりますが、はてブ自体は好きなサービスですので、是非今後とも継続して欲しいところではあるんですが、重要なインフラだからこそ「デマを拡散しにくい仕組み」みたいなものはあっていいんじゃないか、と思いまして。皆さまには、「脊髄反射しないことによるメリット」について、是非検討頂けないかなーと考える次第なのです。

長くなりましたが、今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月17日

ファミコンのある風景


今から、単なる個人的な思い出話をします。

うちに「ファミコン」がやってきたのは、確か私が幼稚園の時のことでした。当時私は群馬県は高崎に住んでおり、近所に「ギャムズ」という大きなおもちゃ屋がありました。

郊外型の広いおもちゃ屋で、2階にチョロQだか、ミニ四駆だかのコースがあったことを何となく覚えています。

ファミコンを買ってもらった経緯を、今ではもうよく思い出すことが出来ません。私には5歳年上の兄がおり、恐らく兄に対する何らかのご褒美か、誕生日プレゼントか何かで買ってもらったものなのでしょう。私のゲーム趣味というものは、大方兄の影響で培われたものなのですが、それが始まったのが恐らくここだったのだろうと思います。

最初にしんざき家にやってきたソフトは、ハドソンの「ナッツ&ミルク」でした。どうも兄は「ゼビウス」が欲しかったようなのですが、当時「ゼビウス」は徹底した品薄で、ギャムズでも購入することが出来なかったのです。

当時をご存知の方であればよくお分かりだと思うのですが、ファミコンをテレビに接続する為には、それなりの高さのハードルと、割とアナログな手順がありました。「RFスイッチ」と呼ばれる薄いクリーム色の機械を、「クワガタ」と呼ばれていた端子で四苦八苦しながらテレビに接続して、VHSの2チャンネルに合わせてファミコンの電源を入れると、そこに「ナッツ&ミルク」のタイトル画面が映っていました。


私は恐らく、横で唖然として見つめていたのだろうと思います。先述した通り、しんざきは当時まだ幼稚園児で、遊びの時にもお出かけの時にも、兄のおまけ程度の存在でした。であれば、ゲームをやる際にも、恐らくおまけとしてちょこちょこ手を出させてもらう程度のものだったろう、とは思うのです。

しかしそれでも、「ナッツ&ミルク」の体験は強烈でした。

手のひらに収まる程度のカートリッジの中に、今まで見たこともなかった「遊び」が入っている。それを、同じように手のひらに載る程度のコントローラーで味わうことが出来る。

画面の中で、ナッツから逃げ回りつつ、果物を集めてヨーグルを助け出すミルクが、様々なステージを動き回っていました。まだ幼稚園児だったしんざきにとって、それは本当に「魔法の遊びの箱」であるようにしか思えなかったのです。

そこから、しんざきのファミコン人生、あるいはしんざきのゲーム人生が始まりました。

マッピーを遊びました。アイスクライマーを遊びました。バルーンファイトを遊びました。クルクルランドを遊びました。

当時ファミコンをもっていた友達と、ソフトの貸し借りをしながら、しんざきは色んなゲームを遊びました。貸すカートリッジには、持ち主がわかるよう、油性ペンで自分の名前を書きました。学校でファミコンのソフトを受け渡そうとして、先生に没収された友人もいました。そこから、ファミコンソフトの受け渡しは、公園の「秘密基地」で行うことになりました。裏取引でもしているようで、なんだかドキドキしました。

エキサイトバイクを遊びました。ギャラガを遊びました。けっきょく南極大冒険を遊びました。スカイデストロイヤーを遊びました。

毎年の誕生日のプレゼントは、兄と話し合って「どのファミコンのタイトルを買ってもらうか」を決めていました。兄にとってみれば、私の誕生日も貴重な「ファミコンのソフトを買ってもらう機会」だったのだから、私をなだめすかして説得して、うまいこと自分の遊びたいゲームを買ってもらうこともあったのでしょう。とはいえそれは、私にとって、「より難しい、複雑な、けどだからこそより一層面白い」ゲームに触れる、重要な機会でもありました。

忍者くんを遊びました。ドアドアを遊びました。ドルアーガの塔を遊びました。ヴォルガードIIを遊びました。

しんざきの当時の生活のうち、かなりの部分をゲームが占めていたことは間違いなく、今から考えると両親も随分不安だったのではないかと思います。「ゲーム」などというよくわからない遊びにどっぷりハマる長男と次男です。目が悪くならないか。成績が落ちないか。運動不足にならないか。友達と仲良く出来るのか。恐らく最低限のTPOくらいは教えられたと思うんですが、ゲーム自体を制限された記憶は私にはありません。となれば、両親も随分、不安を抱えつつも我々を好きにさせてくれていたのだと思います。

ツインビーを遊びました。ハイドライド・スペシャルを遊びました。魔界村を遊びました。ワルキューレの冒険を遊びました。

その頃、兄の興味は徐々に「ゲームセンターのゲーム」に移っていき、私がファミコンを占有する時間も増えていきました。ゲーセンのゲームの凄さを聞きつつ、まだゲーセンについていくことは出来なかった私は、それでもファミコン世界に魅了されていました。時折、兄が友人から色んなゲームをまとめて借りて来てくれることもあり、好きに遊んでいいよといってくれたこともありました。どのカートリッジにも、まだ見たことがない「遊び」が入っており、私はその世界の余りの広さに圧倒されるばかりでした。

ソロモンの鍵を遊びました。迷宮組曲を遊びました。ドラえもんを遊びました。ドラゴンクエストIIを遊びました。

本も読みましたし漫画も読んだんですが、しんざきの「趣味」「遊び」の中心に、常に「ゲーム」が存在したことは間違いありません。結果、私は子ども時代、アニメというものを観たことが殆どありません。というか、テレビ自体ほぼ観ていませんでした。テレビというものはゲームが映る機械であり、それ以外のものではありませんでした。時折両親がニュースやら野球やらを見ている時間は、専ら本を読む時間でした。

ゲームに助けられました。ゲームに励まされました。ゲームに脅かされましたし、ゲームに傷つけられました。ゲームを通じて出来た友達もいれば、ゲームをきっかけに知った知識もありました。

つまるところ私は、ゲームを食べて育ったし、ゲームに感謝しているし、私とゲームをいい関係のままでいさせてくれた、両親や兄に恩義を感じているのです。多分、私の人格のかなり根っこの方にあるのはそういう意識です。

はたから見ると、しんざきの人生は多分「ゲーム漬け」といっていいと思うんですが、それでもなんだかんだ、多分まともに社会人をやれているし、多分まともに家庭人をやれてもいる、と思います。それは恐らく、私とゲームが、周囲のおかげもあっていい関係のままでいられた為だろうと思います。

となると、今の私の役目は、私の子どもたちがゲームとのいい関係を築くにはどうすればいいかを考えることなのかなあ、と思っています。

長男は既にいっぱしのゲーマーとして色んなゲームを遊んでいますし、長女次女もぼちぼちゲームに興味を持ち始めました。この先ゲームとどう過ごしていくのか、あるいはゲームから離れるのかは、勿論彼ら彼女らの意思次第です。ただ、もしもゲームと一緒に歩もうとするならば、出来る限り「いい関係」を築けるようフォローしてあげるのが、多分私にとってのゲームへの恩返しなのだろうと。

そんな風に考えているのです。
posted by しんざき at 12:32 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月10日

シロクマ先生の記事を読んで思ったこと


こちらの記事を拝読しました。


正直なところこの記事の総論については、私とシロクマ先生の間に考え方の違いは多分殆どなく、「同感です」以外に言葉がありません。

その上で、なんとなくの感想というか、私が考えていることについて、シロクマ先生の記事をトリガーに書いてみたくなりました。雑然とした話ですがご容赦ください。


私も、恐らくシロクマ先生と同じ程度の感覚で、「金の匂いがキツいブログ」は苦手でした。

以前も書いたことがあると思うんですが、「ブログのマネタイズ」自体は全然構わないと思うのです。ウェルカム。どんどんやっていい。

個人的な話で言えば、「コンテンツの中に全然別のコンテンツが突っ込まれる」のが嫌いであるという点で広告は入れていませんし、広告に対するクリック目当てが透けて見える記事(べたべた広告貼ってあって中身が全然ないような記事とか)はあんまりおもしろくないなーとは思います。とはいえ、これは単なる個人的な好みの問題であって、別段広告自体を否定する気はありませんし、無論広告を載せることが悪いことだとも思いません。かつて、色んな人が「webの収益化」というテーマを掲げて、果たせなかったことを思い起こせば、隔世の感だなーと思うばかりです。

ただ、一時期頻繁に観測出来た、「プロブロガーになろう」とか「ブログで生きていこう」的なお題目でサロン商売をしているような人たちについては、レッドオーシャンに人を引きずり込んでおいて自分たちだけ肥え太る、という構図が透けて見えて、かなりの不快感を感じていました。本当、あの時期に「ブログで生きていくために会社辞めました」みたいなこと書いてた人たち、今大丈夫なんでしょうか。引きずり込んだ側がなんの責任も取らないだろうことだけは確実だと思いますが。

これらの動きの結果、一時期「ブログの収益化」自体がマッチポンプ的なコンテンツとして確立されてしまって、右を向いても左を見ても収益化の話ばかり、みたいな状況になっていたことは皆さんご承知の通りでしょう。

この点についても恐らくシロクマ先生と私の感覚は通底していると思っておりまして、こういった動きが最近あまり観測出来なくなった点については、安心感以外のものがありません。仮想通貨に感謝するばかりです。


それはそうと。


上記の、「広告はあんまり好きじゃない」「けどマネタイズ自体は良い」というスタンスから、私自身はずっと、「PVの形をしていない利益」「影響力の形をしていない実益」みたいなものがブログから確立出来ないかなあ、みたいなことをなんとなく考えていました。

つまり、結局のところ、ブログを直接マネタイズする方法として、一番効率が良くメジャーなものが「広告」だから、ブログにおけるマネタイズは影響力勝負になってしまうし、ともするとPV目当ての釣り記事を書くようなことにもなってしまう。であれば、「PVとは全然別のところで稼ぐ方法」みたいなものが、少なくとも対抗ルートとして一般化出来れば、それを多少なりとも希釈することが出来るんじゃないか、と。

勿論、世の中には、例えば高い専門性のブログを書いて、一般的なPVは得られなくても、研究や転職といった側面でブログを有効活用している方はいらっしゃいます。ただ、それも突き詰めてみると「範囲が限定された影響力」というものに集約される側面はありまして、そういうものを包括した上で、「PVや影響力とは切り離されたブログの力」みたいなものを一般化出来ないかなあ、と。

この話についての私の考えは、まだいまひとつもにゃもにゃとしていまして、結論は出ていません。そもそも無理な話なのかも知れません。ただ、なんとなく「こういうのどうかな?」という程度のイメージはでき始めていまして、それについてはまた改めて、もうちょっとまとめてから書いてみたいと思っています。


 ただまあ、現実の金銭や影響力とここまでシームレスになったからこそ、金銭の稼ぎよう、影響力の稼ぎようの美意識や美学が今まで以上に問われるようになった、ともいえるかもしれない。

美意識という程大したものでもありませんが、私自身は、金銭を稼ぐにしても影響力を稼ぐにしても、ブログの骨子みたいなものはきちんと保持しておきたいなあ、と思っています。

つまり、どんなにくだらないことであっても、書きたくなったことを書くし、書きたくないことは書かない。

この不倒城というブログの第一の読者は私自身であって、私が好きなものの良さをみんなに広めたり、私が書きたくなったことを書く為だけのブログである、と。私自身が自分のブログを読んだときの自己満足感こそ、このブログが描かれる原動力である、と。

そこについては今後もブレさせないつもりですし、ブレないまま続けていれば何か見えることもあるんじゃないか、と。
現在は、そんな風に考えている次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 15:41 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月05日

増田で割と凄いことが起こったような気がするので、何が起こったのか簡単に解説します(ややR18)


こんな増田を読みました。

内容を簡単に要約すると、

・増田は昔2ちゃんねるの「過激な恋愛板」に常駐していた女性
・「童貞とセックスしたい人のスレ」のようなものがあり、そこで増田がとある男性と出会った
・一旦自然消滅したけれど、その人と後々、全然別タイミングで再会して結婚した

という内容になると思います。

これだけだと、割とよくある過去体験談のエピソードという感じで、創作の可能性もそれなりに高そうだなーという話だと思います。

ただ、この時ちょっと特殊な流れが発生しました。

・2ちゃんねるの当該過去スレが発掘された
・そのスレの中で、増田が言う内容に合致された書き込みが発見された
・その内容に、「ホテルの名前」をキーにしている、というトリップが掲載されていた
そのトリップのキーが、増田が書いたホテルの名前と一致した

どういうことかというと。

2ちゃんねる、および5ちゃんねるには「トリップ」という機能があります。特定の文字列をキーにして、暗号文字列を生成する仕組みになっていて、基本的には「その文字列を知っている人」しか同じトリップを生成することはできません。一般的には、同一人物であることの証明に使われます。

今回、発掘されたスレは以下のURLです。なんと日付は2004年。14年も前のスレということになります。リンク先はR18なので注意。


ここにこんな書き込みがあります。

918 :なまえを挿れて。:04/09/14 16:04:20 ID:???
>>917
鳥つけれ。ラブホの名前とか。
あと、別に募集スレじゃないんだから俺は詳細を書いて欲しい。

919 :906 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 16:11:03 ID:???
>>918
了解です。一応メールで確認とってから書きますね。


つまり、この「◆PhQAq2ad6I」というのが、ラブホテルの名前をキーにしたトリップということですね。ちなみにこの後、相手の男性らしき人物がこんな書き込みをしており、二人が共通の知識として「ラブホテルの名前」を知っている、という証明に使われています。


951 :某 ◆jmx4KcE5/o :04/09/14 21:38:19 ID:???
てすと
952 :某 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 21:38:45 ID:???
あれ?こっちか?
953 :某 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 21:46:22 ID:???
>>906
えーと、その節はお世話になりましたというか、ごちそうさまでしたというかw
写真で見た印象以上に可愛い人だったんで、正直かなり緊張しました。ラブホの
名前こっちの綴りだったんだね。


ところで、元増田にはこんな記載があります。

今でもあるのかどうか分からないけれど、渋谷のセラヴィというラブホ。

ラブホの名前が出ていますね。これを、「トリップチェッカー」というWebサービスで、「#セラヴィ」という形で入力してみると、

tori.png

マジか。なんと一致してしまいました。

ここから分かることは以下の通りです。

・少なくとも、このスレの906とこの増田は、当該ラブホテルの名前を共通して知っていたことになる
・つまり、この906と増田は同一人物である可能性が極めて高い(相手の男性である可能性もある)
・つまり、この話自体が14年超しの仕込みである可能性を除けば、このエピソード全体が真実で、当時の2ちゃん時代からすべてが実際にあったエピソードである可能性がかなり高い

ということになるわけです。

勿論トリップが漏れていたという可能性はゼロではないんですが、見た感じ、話自体に大きな矛盾はないように見えるんですよ。何より14年前のスレですからね。そんなトリップわざわざ発掘して、いちいち釣りエピソードに仕上げるというのもちょっと考えづらい。

2ちゃんのトリップという機能をトリガーにして、14年ぶりに表に出てくるエピソード。しかもそれが、14年前の書き込みと紐づいて話の信憑性を上げるとか、これ結構すごくないですか?プチ「あの人は今」的なストーリーを見た気分で、私正直結構感動したんですが。

時代は変わり、昔の2ちゃんのゴミゴミとした雰囲気も今はだいぶ変わってしまったわけなんですが、時折思いがけずこういうタイムカプセルみたいな案件が出てきて、個人的にはなかなか感慨深かった、という話なのです。

何はともあれ、増田と旦那さん、そして増田のお子さんが幸せに過ごされることを、心から祈念したいと思います。心温まる話をありがとうございました。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:13 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月29日

「興味のなさ」への言い訳なんてしないで済む世界だといいなあ

「自分の興味のなさ」を語りたがる人って結構多いな、と思うんですよ。

色んな人が話題にしている〇〇や××について、例えば「私〇〇に全然興味なくて」とか。「××興味ないからスルーしてるんだけど」とか、そういうことをわざわざ語りたがる人。いや言及してる時点でスルーしてないんじゃね?と思わないでもないんですが。

しんざきは極めて興味が偏っている人間なので、恐らく色んな「興味がないこと」があるんだろうな、と思います。普段はそもそも、興味がないことっていちいち観測しないんで、自分の興味の欠如すらよく分からないんですが、皆がそのことについて語っていると、ああ、これって興味のギャップだな、と気づくことはあります。

ただ、私個人的には、自分の「興味の無さ」について語るのってあんまり好きじゃないんです。

だってそれって、コンテンツとしてあんまり面白くないじゃないですか。興味がないってことは主体的に観測していないっていうことですし、つまりその対象についての知見が溜まっていないってことです。何も知らないことについて面白いことが言えるわけないですし、盛り上がっている周囲に対して水を差す、ないし思い切り水をぶっかける行為でもあります。

私、皆が盛り上がっている状態は割と好きなので、たとえ自分に興味がない話題であっても、盛り上がっているところに水をぶっかけたくはないんですよ。そこに水をぶっかけるのが趣味、みたいな突き抜けた人も中にはいますし、そこまでいったらむしろ敬意を払っていいと思うんですけど。

だから、私自身は、「興味のなさ」を語ることについては後ろ向きです。それを語る人を止めたりはしませんが、まああんまり面白い話じゃないよな、と思っています。そんなことを語っている暇があったら、自分が興味をもっていることについて語り倒したい。イース8の話とか。

ただ、分からないでもない部分もあって。

別にこれ、日本に特有な現象でもないと思うんですけど、世の中「興味の同調圧力」みたいなものってあると思うんですよね。皆が興味を持っているものは、当然お前も興味を持っているよな?的な。皆が興味をもっていることについて、自分が興味をもっていないと驚かれる、何か異常な状態であるように思われる。

そういう状況に対して、「頑張って興味がある振りをする」ないし、「何か自分の「興味がない事情」を説明する」という対処をとらざるを得ない場合って、結構あるんじゃないかと思うんですよ。

言ってみれば、自分の「興味のなさ」についての言い訳、理由づけですよね。

興味なんてものは人それぞれでして、人に押し付けるようなものではありません。私が興味を持っていることについて、他の人が興味を持たなかったとしても、それは全く個人の自由というものです。

それに対して、無言の圧力で、「自分が何故興味がないか」をわざわざひねり出さないといけない、説明しなくちゃいけない、というのもあんまり面白くない状況だなーと思うんですよ。

自分の興味のなさを語る時、わざわざ「盛り上がっているところに水をぶっかける」目的で語る人がたまーにいます。言ってみれば攻撃的な「興味の欠如」、オフェンシブな興味なさ語りです。

一方、周囲の盛り上がりに対して、自分を守る為に興味のなさについて理由づけをせざるを得ない、という人もいます。言ってみれば防御的な興味なさ語りです。

つまり、興味のなさを語る時には、攻撃的な語り方、防御的な語り方の二面があるのではないかなーと。勿論、それとは全然関係なく、自分語りの一環として何故か興味のなさをコンテンツにしている人もいますけど。

前者は若干趣味が悪い感じではありますが、後者の防御的な興味なさ語りが強制される向きがあるとしたら、それはあまりよろしくない状態だなーと思うわけなんですよ。興味がないものは興味がない、でいいやん、と。

興味のある、なしというのは完全に個人的な問題であって、他人に容喙するような話ではありません。

興味がある同士では遠慮なく盛り上がる、けど同時に他人の興味の無さには敬意を払う。興味の無さをわざわざ語らずに済む。

そんなスタンスが一般的になるといいなあ、と思う次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 08:11 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月27日

hagexさんに「問題」や「責任」を求めようとする全ての言説に反対します。

まず大前提として、「殺されるに値する発言」というものは世の中に存在しません。どんな人間も、「こういう発言があったから」という理由で殺傷されてはいけませんし、そんな必然性もありません。だから、同じくhagexさんも、「殺されるような言動」「殺されるに値する言動」などというものは何もしていません。

その大前提を置いたうえで、じゃあhagexさんに、僅かでも「件の人に対するこういう言動は気を付ければよかったのに」というものがあったのか?ということを考えてみます。

これも前提として、今回犯行を行ったとされる人(以下容疑者と呼びます)は、はてブ周辺でひたすら、他ユーザーに罵詈雑言を投げつけている人でした。いわゆる「荒らし」行為を日常的に行っていた、と言っていいと思います。他人にやたら「低能」という言葉を投げつけることが原因で、低能先生と呼ばれるようになっていたようです。これも、別にhagexさんが呼び始めたわけではなく、hagexさんが主体的にそういう呼び方を先導しているという事実もありません。

hagexさんから件の容疑者に対する言及は、下記エントリーでまとめてくださっています。

で、本当に分からないんですが、hagexさんが容疑者に対して「いじめ」を行っていた、と主張している人は、いったい上記のどれを見てそう判断されたんでしょうか?

hagexさんは確かに、容疑者の荒らし行為に対して通報を行っていると明言されていて、下記のような記事を書かれています。この記事が直接的な原因になった、と考える人もいるようです。

上記記事をどう読んでも、

・低能先生と呼ばれている荒らしが、自分や他のユーザーに対してどのような荒らし行為を行っているか
・自分がその行為に対して通報を行っていること
・その通報を受けて、はてなが迅速にBANを行っていること

という内容以上のことは書かれていません。

一般的に言って、荒らし行為について運営側に通報を行う、というのはごく通常の対応ですし、その対応法を知らない人に対してシェアする、ということに何か問題があるとも思えません。「容疑者に対して罵詈雑言を投げかけた」というのならまだしもですが、そんな表現はどこにもありません。

これはもしかすると「原因」かもしれませんが、そこに「問題」や「責任」があったとは私は全く思いません。これに「問題」があったとしたら、世の中のあらゆる人は、ネット荒らしについての一般的な対応法を、他人とシェアすることが出来なくなってしまいます。それはいくらなんでも理不尽というものでしょう。

これがいじめだという人は、「荒らしは通報するな、通報したとしてもそれを周囲と共有するな、それはいじめだ」と言っているのでしょうか?正直意味が分かりません。

だから私は、少なくとも容疑者に対しては、hagexさんは何も「問題」があるような発言はしていないし、百歩譲っても容疑者が行ったのはただの「逆恨みによる犯行」であって、hagexさんに落ち度は何らなかった、と主張します。じゃあ他のネット著名人についてはどうなんだ、と言われれば、やはりそれが「hagexさんが容疑者に殺される」理由にはならない、としか言いようがありません。


これで殺されるなら、あなたが殺されていたかも知れませんし、私が殺されていたかも知れません。


これに限らず、殺人被害者に何か「問題」や「責任」を求めたがる人たち一般の言説が、私は嫌いです。それは単なる体のいい切断処理でしかないと思いますし、公正世界仮説はこの世から消滅して欲しいと思います。はてなでも普段はそういう「被害者に問題や責任を求める」的構図を嫌っているように見えるんですが、こういう時はなんでそういう言説が肯定されがちになるのか、私にはさっぱりわかりません。

「原因」を分析するだけならまだしも、それを「問題」や「責任」に結び付けようとする言説には、私は強く反発します。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 06:35 | Comment(25) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月26日

何故「ドラえもん のび太の大魔境」が私にとって大長編ドラえもん最高傑作なのか


先に断っておきますが、この記事には漫画原作版「のび太の大魔境」のネタバレが含まれます。

もしまだ「ドラえもん のび太の大魔境」を読んだことがない人がいるのであれば、ひとつうそつ機で騙されたと思って買って読んでみてください。画像掲示の為にリンクは張りますが、別に下リンクからでなくてもいいので。超面白いです、のび太の大魔境。


以前も書いたんですが、私の「大長編ドラえもん」歴は、「のび太のアニマル惑星」辺りで一旦途切れて、夢幻三剣士とかブリキの迷宮とかをちょこちょこ読んで、その後長男の影響で「ひみつ道具博物館」辺りから復活した、という感じの経緯になります。最近のは漫画原作がないので読んでないんですが、漫画原作がある時代のものはすべて漫画原作で読んでいます。

その範囲内で、「私が好きな大長編ドラえもん」を順位づけすると、以下の通りとなります。

1.のび太の大魔境
2.のび太の宇宙開拓史
3.宇宙小戦争
4.海底鬼岩城
5.日本誕生

次点で鉄人兵団、魔界大冒険、竜の騎士、恐竜辺りが僅差で並んでいます。

「宇宙開拓史」や「宇宙小戦争」の最大の魅力が、なんといっても「強力な敵役と、そこに追いつめられての大ピンチからの大逆転」であることは間違いないと思います。以前もその辺については記事を書きました。以下、気が向いたらご参照ください。
ギラーミンさんとの決闘展開超熱かったですよね。

一方、のび太の大魔境は、そこまで「超強力で魅力的な敵役」というものは出てきません(いや、ダブランダーとかサベール隊長とか、それなりにいい味出してるんですが、流石にギラーミンやドラコルルに比べれば一歩譲ると思います)。それでも、大魔境は私の中で最高の名作になっています。

本記事では、「私はなぜ大魔境がそんなに好きなのか」という話を、つらつらと書いてみたいと思います。

私が考える限り、大魔境の素敵ポイントは6個くらいあります。

・冒険の動機と「未知の地域の探検」が一直線につながっていて、単純に冒険自体がわくわくする
・ひみつ道具が使えなくなる展開がごく自然で素晴らしい
・ピンチと、そこからの脱出によるカタルシスがシリーズ中でも屈指
・ピンチ脱出に係る伏線と、その伏線の回収が完璧
・キャラクターそれぞれの活躍がきっちり描かれていて素晴らしい
・食事シーンが戦慄するまでに美味そう

以下、折り畳みます。

続きを読む
posted by しんざき at 07:27 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月25日

増田さんへ。


お手紙ありがとうございます。

今回、しんざきさんは、しんざきさん自身が言うところの「報道を通してしか殺人被害に遭ったかどうか確認出来ない程度の知り合い」未満(しんざきさんはHagexさんの本名を存じなかった)でした。にもかかわらず、Hagexさんの遭難をすばやく確信し、このタイミングでこのようなエントリを上げることができたのは、まさに被害者の実名報道があった故でした。

この点、どうお考えですか?

Hagexさんに関する記事に貼られたリンクを読んでも明らかですが、講座参加者でさえ、Hagexさんの遭難は、実名報道があって初めて確信できているのです。
(はてこは〜の人でさえ、実名報道→実名から確認できた顔写真を見てHagexさんと確信)
言い換えると、もし実名報道がなかったならば、「Hagexさんの身に何か起こったかもしれない」といった疑念・不安こそ起これども、確信は持てなかったことでしょうし、
Hagexさんの知人から知人へ、また知人へと、いずれ遭難の情報は伝われど、その情報がデマでなく、本当に間違いなく命を奪われたと確信できるまでには、現状の比でないほどの憶測と流言が飛んだことでしょう。
お答えします。被害者の実名報道は不要だと思っていますし、その考えは今も変わっていません。

理由は主に二つあります。

・自分が今回迅速に事態を知ることが出来たことに、特に重要性を感じていないこと。
・自分の知りたいという欲求よりも遺族のプライバシーの方が一般的に重要だと感じていること。

まず、今回の件については、仮に実名報道がなくてもhagexさんと同定されていたような気もします。

ただ、確かに、実名報道がされたことで情報が誤謬を許さないものになった、という点では、「実名報道のメリットを享受した」ということになるのかも知れません。その点はご指摘の通りです。

ですが、私は、実名報道のメリットを享受した現段階でも、「自分が享受したメリットよりも遺族のプライバシーの方が大事だ」と思っています。今回hagexさんのご遺族についての報道は(恐らく幸いなことに)出ていないようですし、今後出るかどうかもわかりませんが、それでもご遺族が実名報道を望まないのであれば、実名が出るべきではなかったと思います。

その結果、たとえ自分が「hagexさんが亡くなったんだ」という情報を確信出来なかったとしても、それは仕方ないことだと思います。ご遺族や、もしかするとご本人の意向の方が、私の好奇心や確信よりも重要です。その場合、何週間か経って、巡り巡って「どうやらhagexさんが亡くなったらしい」ということが分かった時点で同じようなことを書いたかも知れませんし、書かなかったかも知れません。

つまり、「すぐに確信できた」ということは、私にとってはそれ程重要なことではありません。

ただ、私は「実名報道に反対しているのだから、実名報道のメリットは一切享受しないし、実名報道に基づいた情報については一切触れない」という程スタンスを徹底出来ておりませんし、そう宣言しているわけでもありませんので、「hagexさんの訃報」という情報を受けた時点でショックのままに書きたいことを書いてしまいましたし、その時点では「これは実名報道で分かった情報なんだ」ということ自体をきちんと認識出来ていませんでした。その点は私の不明、ないし迂闊さかも知れません。今更記事を消しても仕方ないので消しませんが。

ご提示された記事で私が言いたいことは、「遺族の意向やプライバシーの方が、他の人たちの知りたいという欲求よりも尊重されるべき」ということであって、そこは今回の件があった後でも変わっていない、ということについてはご理解いただけるでしょうか。それと今朝の記事が矛盾している、ということがおっしゃりたいのであれば、私が迂闊だったせいです、すいません、としか言いようがありません。


書きたいことは以上です。
posted by しんざき at 20:34 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月18日

君と二人なら

結婚して14年経った。

私はそれ程未来予想能力が高くないので、結婚した時点で「10年後の生活」などというものは全く想像できなかった。ただ、まあなんだかんだでなんとなく幸せにはやっているのではないか、と、ごく楽観的に思っていたし、その予想については外れていない。

私と妻は一学年違いで、半年程妻の方が年上だ。元々妻と私は同じ楽器をやっている音楽仲間で、妻はケーナ吹きの先輩だった。ただ、妻はその内ケーナをあまり吹かなくなり、どちらかというとボーカルが本業になっていった。元々歌の方が好きだったそうだ。私は今でもケーナしか吹けないし、歌はろくに歌えない。

私と妻は、それ程波乱も紆余曲折もなく、ごく自然に結婚した。結婚した理由は色々あったような気もするし、そんなになかったような気もする。強いて言えば「結婚しない理由がないから」というものが一番大きかったかも知れない。私にとっては、妻と一緒にいることが一番自然であったし、その為に「結婚している」という状態が一番適していたから、結婚した。その点は多分、妻も同じようなものだったと思う。

妻は元来ロジカルかつリアリストであって、いわゆる紋切り型の(それこそ「ライトは点く?」のコピペのような)「共感だけを求める」女性というようなところは一切なかった。うっかりすると私より妻の方がロジカルであるような有様であって、妻にとって情報交換は物事を解決する為の情報交換であって、課題共有は課題を改善する為の課題共有だった。私と妻が問題を感じる点は大体同じだし、どういうゴール設定が最適か、という判断も大体ずれない。

勿論のこと、私と妻はそれぞれ独立した人間なのだから、時にお互いの都合が背反することもあるし、時にいら立ちを覚えることもあるだろう。妻のスタンスに私が賛同できないこともあれば、私のスタンスに妻が賛同できないこともあるだろう。

ただ、そういったずれというのは要は「課題」だ。根本的なところで、「課題を解決しなくてはいけない、という共通認識」「課題を解決する為の方法論の一致」というものがあれば、大体の課題は解決可能だ。その点、私は妻に全く不安を感じなかったし、今も感じていない。

だから私は、妻と二人なら、大概の問題には対処出来るし、そこそこ人生幸せにやっていけるのではないかと思った。


私は妻を愛しているし、妻は超美人で可愛いと思っているが、それより何より私が妻に感じているのは、「人生というゲームにおける共同プレイヤーとしての、圧倒的な頼もしさ」だ。「人生」プロジェクトにおけるプロジェクトメンバーとしての、圧倒的なベストマッチ感だ。

時代、というものがある。それぞれの時代にはそれぞれの課題があり、それぞれのリスクがあり、そういったリスクが我々の家庭を襲うことも、今まであったし、これからもきっとあるのだろう。どんな時代、どんな家庭にも、乗り越えるべき課題というものがあった筈だ。


けれど、君と二人なら。


あれから14年経った。しんざき家には子どもが3人生まれ、上の子は相変わらず電車好きで、将来電車の運転手になるのだと張り切っているし、下の双子は今年4月に小学校に入った。ほんの10年前は、うちにランドセルが3つ転がっている状況などとても想像出来なかった。とすれば、今から10年後の未来も、全く想像出来ないことになっているのだろう。そこについては予想がつく。

入学式に向かう

君を幸せにする、ではない。

子どもたちを幸せにする、ではない。

君と二人で、幸せになる。子どもたちに、自分で幸せになれる力を育んであげる。結果的に、家族5人で幸せになる。


私と妻のコンビなら、多分それが出来る。
posted by しんざき at 14:53 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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