2017年10月18日

デマかそうでないかに関わらず、ネット私刑は法整備して取り締まるべき

ねとらぼさんの、この記事を読みました。

神奈川県の東名高速道路で2017年6月、ワゴン車が大型トラックに追突され夫婦が死亡した事故で、無関係な企業が「容疑者の勤務先」としてネット上で拡散され、中傷や嫌がらせの電話が殺到するといった被害が起こっていることが分かりました。
これですね、ちょっと、当たり前のようで重要な前提を確認しておきたいんですが。

まず、

「無関係だろうがそうでなかろうが、私人が事件の容疑者や身内に私刑を行うのは犯罪」

ですよね?ここブレちゃいけないですよね?

これ、そもそも嫌がらせの電話を受けているのは、事件の容疑者と何の関係もない企業なので、それはそれでひど過ぎる話なんですけれど、「たとえこれが本当に容疑者の関係者だったとしても、あるいは容疑者本人であったとしても、個人情報を晒したり、嫌がらせの電話をしたりするのは犯罪以外の何者でもない」というのは当然の認識としてみんなが持っておかないといけないと思うんですよ。

これ、私、以前から何度か同じようなテーマのこと、書いてます。



今回のケースも、結局スマイリーキクチ氏の中傷被害事件と同じ構造ですよね。誰かが、主観的な正義感に基づいて「犯人」の個人情報探しをして、溜飲を下げる為にそれをネットに晒して。で、それに、同じく色んな「溜飲を下げたい人」が食いついて。

何度も言ってるんですが、

「私人が、誰かの個人情報を「犯罪者」「容疑者」として晒すと、どこかで絶対にデマが発生するし、それに基づいてスマイリー菊池氏のような冤罪ネット私刑が発生するし、それ以前にそもそも私刑はやってはいけないこと」

なんですよ。

どんなひどい事件であろうと、感情に任せて「犯人探し」「身内探し」なんてやっちゃいけないし、それに基づいて晒された情報なんて信じちゃいけないし、勿論拡散してもいけないし、ましてその情報を元に身内叩きなんて絶対やってはいけないことなんです。

これ、「いつどんなタイミングで、自分が標的になるか分からない」ことですからね?これを書いている私だって、読んでいるあなただって、本当にどんな拍子で、「容疑者」「容疑者の身内」として糾弾されることになるか分からない。そして、それに対して反撃、ないし防御するのは本当に難しい。ヘタすると半永久的に、身に覚えのない「犯罪」の「犯人」として、自分の顔や名前が晒され続けかねないんです。

大げさでもなんでもなく、我々はそんなケースをもう何度も何度も見ている。


これが例えば、「万引き犯の顔写真を店が晒した」みたいな話になると、とたんに「よくやった!」とか「警察が動かないから仕方ない」みたいな意見が出てくるの、正直個人的には理解不能です。間違えるんですよ?警察ですら間違えることがあるのに、店が間違えない保証がどこにあるんですか?

もし間違えて、その無関係な他人に「犯人叩き」が始まったら本当に取返しが付かないし、たとえ間違えていなかったとしても「その容疑者を無関係の皆で寄ってたかって叩く」ことに一体どんな正当性があるんですか?

例えば、宮崎勤事件で、彼の父親が周囲からの中傷に耐えかねて自殺してしまった件とか、ちょっと前にもtwitterなんかで話になってましたよね。まああの時は報道もひどいものでしたけれど、無関係の人たちによる中傷被害もホントひどいものでした。

司法と何の関係もないところで、「単に誰かを叩いて気持ちよくなりたいだけの人」が、(犯罪とは無関係かも知れない)私人に対して私刑を行う。これが正当化されるケースなんて存在するんですか、っていうのが私にとっては物凄く疑問です。


そこから考えると、「(実際に容疑者、容疑者の身内であるかどうかに関わらず)誰かの個人情報を、何かの事件に結び付けてネットに晒す」「その晒しを見て、対象に対して何かしらの嫌がらせを行う」という、いわゆるネット私刑って、速やかに法整備を行ってきちんと取り締まらなくてはいけないんじゃないかと強く思います。


今回のような、ある意味実際の事件以上におぞましいネット私刑が、出来るだけwebで発生しないようになることを祈念しております。


今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 07:32 | Comment(16) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

仲間・身内と一緒だと途端に頭を下げられなくなる人


そういう生態の人がいる。実際に、いる。

以下、そんな厳密な話でもないことはご承知おき頂きたい。雑感だ。

こういう人は、一人だと意外な程大人しい。礼儀正しい、とまではいかないことも多いが、まだ割と大人しい。注意されたらふてくされながらも謝るし、強く出られたら逃げる。

が、例えば仲間の前とか、彼女の前なんかだと途端に豹変する。自分の非がいかに明確でも認めないし、注意されたら逆ギレするし、時には暴力的に恫喝することもある。


これ、いろいろ観察したり話を聞いていると、「仲間と一緒なので気が大きくなる」というシンプルなものとはどうもちょっと違うらしい。


むしろ逆だ。「仲間の前で頭を下げることになると、仲間の間での序列が下がるようで、それに耐えられない」「仲間に弱みを見せられない」「仲間の前で注意されると、恥をさらされたようで無性に腹が立つ」という心理のようなのだ。勿論、「強く出ても集団であれば反撃されにくい」という前提条件みたいなものはちゃんと計算しているのだろうが、本人の気分的には防衛意識に近い、らしい。主観的には、「立場を守る」「自分を守る」為にやっていることなのだ。

だから彼らは、「別に相手を脅すつもりではなかった」と言う。「注意されたから反撃しただけ」と言う。飽くまで「反撃」なのだ。


身内の前で注意されること、非を認めることに耐えられない。


こういう話は、私が関東圏のとある田舎に住んでいた頃、町内会の知人から聞いた話だ。町内会というのは、どうも地域によって年齢層にかなりの開きがあるようで、私が今住んでいる東京区内では60未満の人など私を含めて数える程しかいないのだが、その田舎町では20代、30代の人もそこそこの人数、いた。多分、小さな町の中だけで人材が還流しているので、小さな規模ながらもそこそこ世代交代が回っているということなのだろう。

田舎町の町内会というのはなかなか面白い組織であって、本当に色んな職種、色んな世界の人間が集まる。地元の有名校の校長先生と、暴走族をやっていたらいつの間にか40近くなっちゃいました、みたいな人が普通に同じ場所でビール飲んだりしている。あの空間は結構面白い。

ただ、そんな中でも私は、この「仲間・身内と一緒だと途端に頭を下げられなくなる人」の存在を、田舎のオラついている人たちの間だけで観測出来る習性だと思いこんでいた。いわゆる「DQN」と言われるような人の特徴だ、と。


どうもそうでもなさそうだ、と思うようになったのは割と最近のことだ。


東京に出てからも、形を変えて、この手の習性は結構な範囲で観測できるようだということを知った。下記は、私が実際に観測した、「子どもの前では謝れない」というお父さんの話だ。



東京で、普通に会社勤めで、普通に立場もある人の話だ。この人と上記の人たちの共通点は、


・普段は大人しい
・身内の前では急に謝れなくなる
・謝ることを「弱みを見せること」だと考えている
・謝れない時に態度が妙に攻撃的になる


この辺りだ。どうも、心理傾向的に根差しているものは同じものである、ような気がする。

そう気づいた時、ちょっと怖くなった。

上記のお父さんの話を書いた時も、「自分はそうではない」と私は思っていた。非を認めることは、むしろお手本として子どもに見せるべき姿だ、と思っていたし、今でもそう思っている。

けれど、この心理傾向がそう特殊なものではないということは、多かれ少なかれ誰にでもそういう傾向はあり得る、ということだ。自分は無関係だと断言するのは難しいということだ。

謝ることは恥ではない。非を認めるのは恥ではない。

しかし自分は、本当に「身内の前で謝ることを恥と考える」傾向と無縁なのだろうか?


webでは「謝ったら死ぬ病」という言葉があって。明らかに非があるのに、それを指摘する人に対して妙に攻撃的になり、絶対に非を認めない、という人はそんなに珍しくない。

で、そういう人と、例えばDMで、一対一でやり取りすると、案外大人しかったり、非を認めることが普通に出来る人だったりする。

これも、言ってみれば「身内(フォロワー)が見ている前で謝ることは出来ない」という、一種の共通した心理傾向なんじゃないかなーと、なんとなく私は想像する。


仲間・身内と一緒だと途端に頭を下げられなくなる症候群というのは、実は極めてありふれた症例なのではないか。自分がその症例と無縁かどうかというのは、誰しも慎重に判断するべきことなのではないか。


東名高速の事故の話を見て、なんとなくそんな風に考えたのだ。


posted by しんざき at 23:49 | Comment(10) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

ゲームハードというものは、多分一人一人にとって違うものなんだ

これは反省を込めての話なんですが。

昨日の記事につけて頂いたブクマコメントを見ていて、つくづく感じ入ったことがありまして、

「みんなにとってそれぞれのセガサターンがあるんだなあ」

ということなんです。


サターンって面白いハードでして、セガサターンの話が始まったとなると、なんか色んな人がわらわらとやってきて、自分にとっての「サターンの名作」について語り始めるんですね。そういえばこの記事でもそうでした。


皆さんが挙げるタイトルって、当たり前ですけど皆人それぞれで。一人ひとりにとって「自分のセガサターン」というものがあって。

これは多分、サターンだけでなくどんなハードでも同じだと思うんですが、ハードから得られる体験って10人いれば10人違うんですよ。一つのハードに無数のソフトがあって、どのソフトを遊ぶかによって丸々体験は変わってくるので、当たり前といえば当たり前なんですが。

だから、私にとってのセガサターンは「主にSTG、特に移植ものSTG、あとガーヒー他プラスアルファのセガサターン」だった訳なんですが、それは他のセガサターンに否定されるものでも、他のセガサターンを否定するものでもなく。

そういう意味では、「セガサターンといえばギャルゲー」という言葉がたとえ単発だったとしても(単発ではなかったわけなんですが)、それはそれで「誰かにとってのセガサターン」だったと思うんですよ。そういう意味で、早とちりだけでなく狭量だったなー、と反省することしきりなわけです。


実際サターンのギャルゲー名作もたくさんありますしね。ウィザーズハーモニー、エターナルメロディ辺りは私も通った道です。エターナルメロディはめっちゃ面白かったけど、アレももう20年以上前なんですね。。。あとこれは私の知人の話なんですけど、「俺にとってのラブプラスはRoommate 井上涼子だけだ」っていって頑なに井上涼子との愛を育み続けてた人がいました。懐かしいですね。

誰かにとってのセガサターンが、他の誰かにとってのセガサターンを否定してはいけない。それは地獄への道だ。

そう反省した次第です。申し訳ございませんでした。


けどもし「サターンはギャルゲーだけ」という言い方をする人がいたら、にっこり笑顔で大量のサターン名作をお勧めする所存です。よろしくお願い致します。

一旦以上です。


posted by しんざき at 07:16 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

ビッグコミックスペリオールの「チェイサー」がとても面白いです

ところでしんざきは結構漫画を買いますし読みます。ジャンルは雑食ですが、ややスポーツ系漫画多めかも知れません。

で、今週刊連載している漫画も勿論読んでいて、その中でも特に安定して面白い五作を挙げろと言われれば、多分「キン肉マン」「ベイビーステップ」「アオアシ」「チェイサー」「火ノ丸相撲かDr.Stoneのどちらか」を挙げると思います。5つ目が諦め悪いですがそこは勘弁してください。どっちも面白いんですよコレが。

勿論私はこれといってマイナー趣味でもないですし、特に漫画通というわけでもないのでよく聞く名前ばかりだとは思うのですが、そんな中でも「チェイサー」だけは、何故かブログ等でのレビューであまり名前を聞かないような気がしています。面白いのに。

ということで、今日は「チェイサー」について、みなさんにおススメする記事を書いてみたいと思います。


「チェイサー」。ビッグコミックスペリオールに、月一、ないし隔月で連載。この辺は若干不定期で、載っている時と載っていない時がある、というような印象です。

作者はコージィ城倉先生。いわずと知れた「おれはキャプテン」や「砂漠の野球部」などの野球漫画の他、たとえば「グラゼニ」や「江川と西本」などで漫画原作もこなしていらっしゃいます。江川と西本も面白いですよね。あれもスペリオールですけど。

どんな漫画かというとこの漫画、「漫画家視点での漫画業界漫画」です。もう少し言ってしまうと、「昭和時代の漫画家から見た手塚治虫伝記」という言い方も出来るかも知れません。

この作品の主人公は、「海徳光市」という「それなりに人気のある漫画家」。それなりに人気といっても、物語開始当初から少年画報や冒険王を含めた三誌に連載を持っているので、現在の視点から言うと結構な人気漫画家のように思えます。彼は、(自称)特攻隊くずれという経歴を持っており、特に戦闘機の漫画を得意としています。

ただ、この海徳先生、実は重度の手塚ファンであり、かつ自分ではそれを認めていないという「手塚コンプレックス持ち」。

チェイサー003.png

こんな感じで、口では色々と手塚漫画に駄目出しをして、「手塚治虫を認めていないオレ」という演出をしているわけなんですが、

チェイサー002.png

実は、手塚治虫の殆どの作品を所有していて、手塚漫画についてであればバリバリ語れちゃうような人なわけです。

まずは、この海徳先生の二面性の描写がものすごーーく面白い。

海徳先生自身、既にそれなりに人気がある漫画家だというのに、彼はいつまで経っても手塚コンプレックスが抜けません。締め切りに苦労する訳でもない、特段切羽詰まらなくても作品が描けるくらいの筆力があるというのに、わざわざ手塚治虫のやり方を真似して、その結果色々と失敗をしたりする。

チェイサー001.png

例えばこの辺は、手塚治虫の有名な伝説の一つである、「複数作の編集者を待たせて、作品毎順番にページを書き上げていく」というアレを模倣したものですね。上でも書いたように、海徳先生自身は別に遅筆ではないので、こんなギリギリなことをしなくても作品を完成出来るんですが、彼の手塚コンプレックスが「俺だってこれくらい出来る!こういう風にやってみたい!」と思わせてしまうわけです。旅館から逃げ出すところまでやってしまったりとか。あなた別に逃げ出す必要ないでしょ。

この漫画、特に一巻から二巻は「視点を変えた手塚伝記」的な部分が強く、手塚治虫の様々なエピソードを、「ああ、当時の漫画家だったらこういう風に感じたのかな」という物凄いリアリティと、海徳先生のコンプレックス描写で、超サクサクと読ませてくれます。

単なる手塚伝記とはまた違った、「同時代のライバル」の眼から見た巨匠・手塚治虫。手塚先生本人が劇中に登場する機会はあまりないのですが、それでも全編に漂っているその存在感は、当時の漫画業界の中での手塚先生の存在感をそのまま感じさせてくれます。ああ、同時代、同業界から見た手塚治虫ってきっとこうだったんだろうな、という程のリアリティ。これはもうコージィ城倉先生の手腕としか言いようがありません。

手塚治虫という人は紛れもない「天才」だった訳で、「同時代から見た天才というのは何者なのか」を描いている作品でもあると思います。

一方で「チェイサー」は、「海徳光市という漫画家」の活躍譚、出世物語としても極めて高い完成度を見せてくれます。

手塚コンプレックスを抱え、巨匠の影を常に意識しながらも、なんだかんだで頑張って仕事をこなす海徳先生。連載も増やし、アシスタントも増え、結婚もし、時には波乱もありながら、彼は昭和の漫画業界を泳ぎぬいていきます。あれこれ新作の構想を練るエピソードやアニメ化のエピソード、連載作の人気の浮き沈みのエピソードなんかは、手塚コンプレックスの描写抜きでも、そのまんま「漫画家漫画」として成立する緻密さを備えています。

海徳先生、なんだかんだで実力はあるので、仕事すればちゃんと人気出るし、時には連載作が大ヒットして一躍時の人になっちゃったりもするんですよね。4巻以降はどう考えても「大御所」といっていいくらいの人気漫画家になっている筈なのに、それでも手塚コンプレックスを解消出来ず、様々手塚治虫の模倣を行い、時には「自分の作品のことはともかく手塚漫画が気になる」というくらい手塚ファン丸出しの海徳先生。

彼のキャラクターの一つとして、「自分の漫画の人気については意外と淡泊」という特徴がありまして、いや勿論人気のあるなしで一喜一憂したりはするんですが、そのモノサシもなんだかんだで手塚漫画だったりするので、色々な意味で首尾一貫していて好感が持てます。


「どんだけ人気が出ても天狗にならない(特にそう心掛けているわけではなく手塚コンプレックスのせい)」というのは、海徳先生というキャラクターの、一つの大きな好感部分だと思います。


連載中の現段階では、手塚作品の人気の落ち込みに伴い、ようやく手塚コンプレックスが解消されてきた(ように見える)海徳先生。時は1973年。虫プロ商事と虫プロダクションが倒産し「ああ、手塚もそろそろ終わりかな…」という空気が流れる中、ここでついに、「手塚先生がチャンピオンで連載を始めるらしい」という話が出てきまして、もうアレですよ。皆さんお分かりのアレです。おおついに伝説のアレがくるのか!!!というところなわけでして、海徳先生の反応が大変楽しみです。どうなるのかなあ。

ちなみに、「チェイサー」については、コージィ城倉先生のインタビュー記事も出ており、今でも参照できます。こちらです。



海徳先生は、劇中あちこちで「この人物は実在した」と描かれているのですが、だれか一人を特にモデルにしたわけじゃないみたいですね。戦闘機ものっていうことで最初は新谷かおる先生をちょっとイメージしたりしたんですが、時期からなにから色々違いますしねー。

ということで、何はともあれ「チェイサー」は大変面白いので、みなさん今からでも単行本買って読みましょう。まだ4冊しか出てないので簡単に集められると思います。画像出すのに便利なんでAmazonリンク使ってますが、別に下記リンクからじゃなくていいんで。

チェイサー(2) (ビッグコミックス) -
チェイサー 3 (ビッグコミックス) -


今日書きたいことはそれくらいです。



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posted by しんざき at 07:23 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月30日

この音、好きですか?嫌いですか?

ちょっと興味本位で記事を書いてみます。

まず、何も言わずに、ちょっとこの動画を見てみてください。というか、音を聴いてみてください。


「tarqueada(タルケアーダ)」という様式の曲です。「タルカ」という笛をみんなで吹きながら奏でる音楽で、お聴きの通り、例えばピアノとかギターのような、西洋音楽の音階とは全く違った音がすると思います。


しんざきはケーナ吹きです。なんだかんだでケーナを吹き始めて20年くらいになりまして、ケーナを使って南米民族音楽を演奏したり、あるいはゲーム音楽を演奏したりしています。


で、ケーナというのは勿論もともと南米はアンデスの楽器でして、特に南米の伝統音楽である、いわゆる「フォルクローレ」と関連が深いです。ボリビア、ペルー、チリといった辺りの伝統音楽はしんざきの大好物です。ルミリャフタとかイリャプーとかカルカスとかキラパジュンとかインティ・イリマニとか超かっこいいですよね。いや、一番好きなのは実はカルチャキスなんですけど。

で、フォルクローレの中でもケーナは割と西洋音楽と相性がいい楽器で、というか現在の一般的なケーナは、西洋音階に適合した形でチューニングされているのが普通です。一番よく見るケーナはG管っていいまして、ト長調(F#)の音階が吹きやすいようチューニングされています。

ただ、アンデスの土着の楽器、もっと伝統的な形の音楽がありまして。アウトクトナ音楽っていうんですけど、伝統的な祭事や儀式とともにあった音楽、西洋音楽が伝わってくる以前からアンデス地方に存在する音楽です。

ですから、アウトクトナの音って西洋音階とは全く合致しないんですよね。ドレミファソラシドに全然乗ってないんです。独特の音だなーっていうのは聴いて頂ければ分かると思います。

その為、例えばずっとピアノをやっていて絶対音感がある方とか、西洋音楽に親しんでいる方には、この音楽はすげー違和感があって気持ち悪いらしい、聴くのも苦手な人も結構いるらしい、という風に聞いていました。ただ、実際にフォルクローレをやっていない人に、アウトクトナ音楽の感想を聞いたことがなかったので、ちょっとお聞きしてみたいと思った次第です。どうですかね?

しんざきはもともと、高校までは殆ど音楽と縁がない人間でして、ピアニカを吹いた記憶すら殆どなかったもので、フォルクローレやアウトクトナ音楽にもあっさり馴染めました。いやホント、リコーダーすら満足に吹けなかった私が、なんだかんだで楽器の世界にどっぷり浸かっているのですから、人生なかなか分からないものです。

ちなみに、アウトクトナ音楽っていってもいろいろありまして。勿論、同じタルケアーダでも色んな曲があります。例えば私は、タルケアーダの中でもこの曲が一番好きです。歌もいい感じですよね。なんか久々にタルカ吹きたくなってきた。


ということで、興味本位のエントリーでした。

今日書きたいことはそれくらい。







posted by しんざき at 23:09 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月27日

え、これ悪文ですか?どこが?


昨日の記事の続きです。

「悪文」の定義は、大辞林に拠れば「難解な言葉を使ったり,文脈が乱れていたりして,理解しにくい文。へたな文章。」ということでして、要は「理解しにくい」ということがポイントになるので、まあ時代時代で基準も変わってくるのだろう、というのは分かるのですが。

それでも、

「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」


「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」

が「悪文」呼ばわりされてしまうのは個人的にはかなり違和感があります。

ただ複文と単文をつなげてるだけでしょ、これ。しかも読みやすくする為に構文的な読点まで使っている。これが「悪文」になっちゃうなら、世の中どれだけ悪文だらけなのかって話ですよ。青空文庫に収録されている、ちょっと前の文学作品なんて悪文のアジトみたいなもんじゃないでしょうか。

あと、「和牛が人気の牛肉」という表現が分かりにくいって言われてしまうと、属格の「の」全否定ですかって感じでちょっと途方に暮れてしまうんですが…。

ちょっと構文上複雑なだけの文章にいちいち「悪文」というレッテルを貼っていくと、やがては単文の組み合わせでしか文章が構成できなくなっていくんじゃねえかと。あまりにも「一見した時の読みやすさ」という軸に基準が寄り過ぎなのもいかがなものかなーと感じます。


あと、「読点は言葉と言葉の関連を区切るために使われます」という言葉に引っかかっている人がいらっしゃったみたいです。読点の仕事は勿論それだけではありませんが、読点には構文上の役割もちゃんとあります。

出典が気になる人は、web上であれば、村越行雄先生の論文がいくつかあるのでご参照ください。この辺お勧めです。


書籍で言えば、野内良三先生の日本語作文術あたりをお勧めします。本としても面白いです。


ただ、読点の役割が混沌としているのは確かでして、本当に単純に語調を区切る為に使ったり、特に意味がない読点を入れても文法上の間違いになるわけでもないので、「通常」という言葉はちょっと強かったかも知れないですね。すいません。

あとこの問題とは全然関係ないですが、三上章先生の「象は鼻が長い」という作品、日本語構文の奥深さを学ぶ為に絶好の名著なんで、興味ある方は是非お読みください。損はさせません。



今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:01 | Comment(19) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

中高生の読解力テストの問題は特に悪い問題ではありません

この記事を読みました。

1.「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」

という文と、
2.「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」

という2つの文の指す意味は同じかどうか、という問題。
答えは「同じ」らしい。

簡単に解説します。

この問題は、一言で言うと「文章の構造を読み解く力を試す問題」です。文章の構造というのは、具体的には「どの言葉がどこにかかるのか」という話です。

例文となっている文章を改めて並べてみましょう。

1.「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」

2.「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」

最初の「輸出が伸び悩む中でも」というのは、どちらの文にも共通している言葉なので一旦除外して考えていいでしょう。

除外した上でもう一回並べてみると、

1.和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。

2.和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。


ぱっと見ごちゃっとした文章を比較しつつ読み解くには、まず共通した結論部分を見るのがポイントです。

この文章の結論は、「〇〇は好調だ。」という形になっています。何かが好調みたいですね。何が好調なんでしょうか?

ここで、「AやBは好調だ」という、二つの言葉に対して共に「好調だ」という結論がついている構造に気が付けるかどうかがポイントです。「Aは好調だ」と「Bは好調だ」という二つの文章を合体させて、「AやBなどは好調だ」という一つの文章にしているわけですね。

となると、例文1と例文2、それぞれでAとBの中身が変わっているかどうかを考えれば、二つの文章が同じ意味になるかどうかが分かります。この問題のポイントはそこだけです。


で、例文1において、AとBの中身はそれぞれ下記のような感じです。

・和牛が人気の牛肉
・和食ブームを反映した緑茶や日本酒

これらはそれぞれ、「和牛が人気の」「牛肉」というペア、「和食ブームを反映した」「緑茶や日本酒」というペアの二つに分けることが出来ます。


じゃあ、例文2の方は、AとBの中身はどうなっているでしょう?

・和食ブームを反映した日本酒や緑茶
・和牛が人気の牛肉

これ、例文1と変わらないですよね。単に「日本酒や緑茶」と「緑茶や日本酒」で順番が違っているだけでして、言っている内容は等価です。

つまり、例文1と例文2は、「AとBは好調だ」と「BとAは好調だ」といれかえているだけであって、意味としては「同じ」と判断できる、ということになります。


以下、冒頭の文章の方の疑問にお答えします。
「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」
「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」
2の文では、[和食ブームを反映した]のは[日本酒][緑茶][牛肉など]ということになるが、
1の文では、[和食ブームを反映した]のは[日本酒][緑茶]であって、
[牛肉]は和食ブーム以前から好調であるというふうに読み取れる。
通常、読点は言葉と言葉の関連を区切るために使われます。一般的には、読点で区切られている部分で言葉の関連は一旦切り離されます。おそらく、この点を明確に意識されていないことが誤解を生んでいるのかな、と思いました。

この文章において、「和食ブームを反映した日本酒や緑茶」と「和牛が人気の牛肉」の間は読点で区切られている上、「日本酒や緑茶」にかかるのは「和食ブームを反映した」という言葉、「牛肉」にかかるのは「和牛が人気の」という言葉で、それぞれ充足しています。言い方を変えると、読点でわざわざかかりが明確にされています。

つまり、2の文であっても「和食ブームを反映した」という言葉は「日本酒や緑茶」にしかかかりません。「和食ブームを反映した日本酒や緑茶」と「和牛が人気の牛肉」は読点で区切られているのでそれぞれ独立した言葉だ、ということになります。(ちなみに、ちょっとややこしいのですが、仮に「和牛が人気の」という言葉がなく、「和食ブームを反映した日本酒や緑茶、牛肉などは好調だ」という文章だった場合、「和食ブームを反映した」という言葉は牛肉にもかかります。これは読点の使い分けですが、この問題にはあまり関係しないので割愛します)


「和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」という文。

「和食ブームを反映して、緑茶や日本酒などは好調だ。」なら通ります。

上で書いた通り、通常読点は言葉と言葉の関連を区切るために使われます。元の例文の場合、「和食ブームを反映した」という言葉と「緑茶や日本酒」の間に読点がないので、「和食ブームを反映した」という言葉は「緑茶」と「日本酒」両方にかかるものだ、ということが分かります。特に文法的におかしなところはありません。

後者の「和食ブームを反映して、緑茶や日本酒などは好調だ。」も、別に文章として問題はありませんが、和食ブームという言葉は緑茶や日本酒に直接はかかっていない形になるので、ニュアンスは若干変わってきます。「和食ブーム」という広い言葉をふわっと使って、その中の例として緑茶や日本酒を提示する、ということなら後者の文章の方が適していると思います。

上記の例文だと、「和食ブーム」と「緑茶や日本酒」を直接関連づけているので、後者の文章よりも言葉同士の関連が強くなります。


ブームというのはにわか人気のことですから、
2つの文は”牛肉が好調な時期の長さ”という点で違うと言えるはずです。

上で書いた通り、「和食ブームを反映した」がかかるのは「日本酒や緑茶」ですので、牛肉には直接関連しません。また、ブームがにわか人気という意味だということは、文章の構造を読み解くというこの問題とは特に関係がありません。


緑茶や日本酒はもともと和食のものなので、和食ブームを反映するというのは常識的に考えたら不思議な文章です。

和食が和食ブームを反映して好調になることは特に不思議ではないと思います。洋食が和食ブームを反映して好調になった場合は不思議です。

また、「和牛」が特定のブランドを指す名前で、「国産牛」とは違うということをどれだけの人が知っているのだろうかとも思いました。
「和牛」=「国産牛」のことだと思っている中高生には、
「和牛で人気の牛肉が輸出で好調」という文章は難解になると思います。

和牛が特定のブランドを指す名前だというのは、「文章の構造を読み解く」という点ではこの問題と特に関係がありません。



ということで、国語的には特に悪問ではないと思われるところ、「問題が悪い」と断言されるのはちょっと違う気がしたので解説させていただきました。

以上、簡単にご説明しました。よろしくお願いいたします。

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続きを書きました。



posted by しんざき at 16:50 | Comment(18) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

「科学万能主義」みたいなものを勝手に脳内で設定してシャドウボクシングしてる人


たまに見るんですが。

これは断言していいと思うんですが、「科学は絶対的に善であり、間違うことはない」「科学は万能である」と思っている人がいたとしたら、その人は「科学って何?」というところからよく分かっていない人です。

そして、私が知っている限り、ちゃんと論拠をもってニセ科学批判をしている人の中にそういう人は一人もいないと思うんですが、どういう訳か、「科学万能主義」「科学絶対主義」みたいなものをワラ人形に据えて、それを批判するという人は結構頻繁に目にします。


例えば先日、科学万能主義が云々、ということを枕に、牛乳有害説を取りあげている人を見かけました。どうもあまりアクセスを送らない方が良さそうな案件だったのでリンクは貼りませんが。

まあ牛乳については、乳糖不耐症の人とかもいるし、体質に合わない人は飲まない方がいいんじゃないの、けど牛乳自体が有害って言うのは明白におかしいよね、という程度の意見なんですが。私が知っている限り、牛乳有害説を批判している人の中に「科学は万能である」という人は一人も観測出来ないので、具体的には誰を指しているのか教えてもらえると嬉しいなーと思いました。

ちょっと前にはこんなツイートも観測しました。



「ニセ科学批判の人、かなりの割合でそうなっている印象がある。」ということなんですが、これも同じく、ニセ科学批判界隈の人で「科学は絶対的に善であり、間違うことはない」と言っている人を観測したことが一度もないので、出来れば具体名を挙げてもらえればなーと思います。


科学というのは凄く広い言葉なんで、一言で説明するのは難しいのですが、共通する方法論というのはあります。科学的方法とか、科学的手法とか言われるヤツです。



細かく解説すると長くなるんでざっくり書きますと、「測定可能性」「再現性」「論理的整合性」辺りがここで取り上げたいキーワードになります。

つまり、

・実験によって測定することが出来、
・同じ条件であれば、誰がやっても同じ結論を導くことが出来、
・証拠を元に、きちんと筋道だった結論が得られること

を科学の対象とするんだよ、という話ですよね。まあ分野によっても色々変わってはきますし、ここで書いてあることが全てじゃないのは当然ですが。

これって、裏返すと、

・一人で証拠もなしに勝手に導いた結果は科学的に正しいとは認められない
・反証の機会を提供しないものは科学的に正しいとは認められない

っていうことですよね。

つまり、「一人でやると間違えるから、色んな人が検証して、皆が正しいと賛同出来るものを正しいと考えましょう」というのは、科学の重要な考え方の基盤なんです。「人間は間違えるから、皆で確認しましょう」っていう考え方なんです。

ある事象が「科学的に正しい」と一旦認められたとしても、それが後から覆されることっていうのは全然珍しいことではありません。科学は、常に検証するものですし、常に反証可能性を考慮するものです。

現実、論文は色んな人に検証・確認(査読と言います)してもらえないと妥当だとは認められないし、一度認められたものが後からひっくり返されたりもする。

一人、あるいは仲間内だけで勝手に「正しい」と言っていることよりも、皆で「正しいかな?正しいかな?」と議論され続けられているものの方が信頼できる。多分当たり前のことですよね?


その辺のことが分かっている人であれば、間違っても「科学は万能である」とか「科学は絶対である」なんてことは言えない筈なんです。逆に、「万能も絶対も存在しないから、その時点でなるべく妥当だといえることを「正しい」と考えようね」というのが科学、という風に言ってもいいかも知れません。まあこれも随分ざっくりした話なんですが。


ただ、いわゆる科学的方法と相性が悪いものを信奉している人達にとっては、「科学絶対主義」「科学万能主義」というものが存在した方がどうも都合がいいらしいんですね。

「偏狭な」「自分たちの理屈以外を認めない」「他の考え方を許容しない」というようなイメージが科学にあった方がぶん殴りやすいし、「科学から迫害されているけど実は正しい私たち」を演出しやすい、ということなんでしょうか。科学を「権威」と設定して、敢えてその権威を否定してみせることで注目を稼ぐ、元々その分野をよく知らない人に「そうだったのか!」と思わせて信用させる、といったテクニックを使われる人も散見されます。


そういうの好きじゃないなあ、と。


私はどちらかというと科学的方法を信頼している方なので、科学を何か勘違いしたワラ人形にしようとしている人たちがいると気になりますし、「科学ってそういうもんじゃないと思いますよ」と言いたくなります。そういう人たち自身はもう手遅れだったとしても、もし同じように科学を誤解している人がいれば、出来れば誤解を解きたいなーと考えている次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 06:55 | Comment(26) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

「映画大好きポンポさん」の感想と、「まさか」と「さすが」の同時並行バランス、という話

「映画大好きポンポさん」を買いました。


いや、実はPixivに掲載されていた版で既に読んでいたんですが、大変楽しませて頂きましたし、長男やしんざき奥様も好きかもなーと思って書籍版で買っておこうと思ったんです。相変わらず面白かったですし、長男も大変楽しく読んでおりました。「ブラドックが出てきてから特に面白かった!」だそうです。

で、長男とも話していて、この作品は「まさか」と「さすが」のバランスがとても素晴らしいなーと思ったので、ちょっとそれについて書いてみたくなりました。ネタバレが混じるのでお気をつけください。

私は、漫画や小説の面白さを考える時に、「まさか」と「さすが」の二つのカタルシスが結構重要だと考えていて、以前からちょくちょくこれについての話をしています。あ、カタルシスというのは、まあ「気持ち良さ」という程度に読み替えてください。

まずは定義の話をします。


1.「まさか」と「さすが」のカタルシス、とは。

「まさか」というのは、要は逆転の気持ち良さ。周囲から評価されていない、あるいは弱い立ち位置のキャラクターが、「まさか」と思えるような大活躍をしたり、素晴らしい成長振りを見せたり、強敵に大逆転勝利をしたり。今まで舐められていたキャラが周囲を瞠目させる、といった展開は、この「まさかのカタルシス」の定番の展開です。「弱いキャラが大逆転すると気持ちいいよね?」という話です。


一方、「さすが」というのは、要は信頼の気持ち良さ。最初から高い評価を受けている、あるいは強い立ち位置のキャラクターが、期待通りの、あるいは周囲を納得させるような活躍をした時の気持ち良さ。師匠系立ち位置のキャラが無双したり、周囲が「流石〇〇だ」とつぶやくような活躍をした時の気持ち良さがこちらです。「強いキャラが大活躍すると気持ちいいよね?」という話です。

この二つの使い方が上手い、あるいはバランスが良い漫画や小説には、読者を気持ちよくさせる瞬間がたくさん含まれています。特に少年漫画の名作は、大体がこの二つを巧みに使い分けている漫画ばかりだと私は考えています。

これを前提に、「映画大好きポンポさん」について考えてみましょう。


2.「映画大好きポンポさん」におけるキャラクターの立ち位置。

映画大好きポンポさんには、主役といって良さそうなキャラクターが多分2人います。

一人が、タイトルにもなっているポンポさん。彼女は、映画界の巨匠ペーターゼン(多分ウォルフガング・ペーターゼンから名前を取っているのでしょう)の孫娘で、幼少の頃からその薫陶を受け、映画に関する才能からコネクションからリーダーシップから、様々な物を受け継いでいます。彼女は、「泣かせ映画で観客を感動させるより、おバカ映画で感動させる方がかっこいい」という持論の持ち主で、B級映画に分類されるような映画を作ってはヒットさせる、映画製作の達人として描写されます。

もう一人が、ポンポさんの助手のジーンくん。彼は、子どもの頃から「映画の中だけが僕の世界だった」という映画マニアで、ポンポさんから「ダントツで眼に光がなかった」と言われる、まあ言ってしまえば卑屈で自己評価が低いキャラクターです。物語は、彼の才能の開花を軸として動きます。

他、ミスティアやナタリー、あるいはブラドックといったキャラも勿論メインキャラクターなのですが、まずはこの二人、非常に対照的な二人のキャラクターが「映画大好きポンポさん」の主役、といっても特に問題ないでしょう。


3.「映画大好きポンポさん」における「まさか」と「さすが」の配分。

で、みなさんお分かりかと思うんですが、この漫画において、ポンポさんは「さすが」のキャラクターであり、ジーンくんは「まさか」のキャラクターです。二人は、漫画における役割を完全に分割しています。

ポンポさんは、インタビュー冊子で作者さん自身が語っているように、言ってみれば「無敵」のキャラクターであって、作品世界においては最初から最後まで最強です。映画というフィールドにおいて、作る作品作る作品全てヒットし、真面目に脚本を書けばサクっと大作を完成させるポンポさん。彼女は、周囲からの評価通りの活躍を軽々と飛び越え、ナタリーやジーンくんといったキャラクターの救済までこなしてしまいます。この漫画におけるスーパーヒーローです。

一方のジーンくんは、物語開始当初、周囲からなんの評価も受けておらず、自己評価の低さもしばしば描写されます。彼は、ただ一人ポンポさんによって、「社会に居場所がない人間特有の追い詰められた目をしている」というところを買われ、クリエイターとしての潜在能力の大きさに期待されています。

そんなジーンくんの(漫画的な)見せ場が、以下の二か所であることは多分間違いないでしょう。

・「MARINE」の予告映像を作り、コルベット監督とポンポさんから評価された場面
・マーティン・ブラドックの指揮の経験についてすらすらと語り、ブラドックから感心される場面

これ、「映画マニアとしての彼の才能、知識がまさに周囲から認められた瞬間」であって、彼の人生が結実した場面であると同時に、「弱い主人公が周囲の評価を覆す大活躍をして、周囲に認められる」その瞬間でもあるんですよね。まさに、上記でいうところの「まさかのカタルシス」のお手本のようなシーンだと思います。そして最終的に、ジーンくんは彼の周囲だけではなく、映画界において大きく評価されることになる訳です。

ポンポさんが活躍すると、読者には「強いキャラクターが期待通り活躍する」さすがのカタルシスが提供されます。

ジーンくんが活躍すると、読者には「弱いキャラクターが周囲の評価を覆す大逆転をする」まさかのカタルシスが提供されます。

映画大好きポンポさんという漫画において、「まさか」と「さすが」のカタルシスは、キャラクターごとに完全に分断されています。これは例えば、ミスティアとナタリーの二人の関係でも(ポンポさんとジーンくん程明確ではないですが)言えることです。

「映画大好きポンポさん」は、勿論描写自体上手いし背景知識も深いしとても面白い訳ですが、少なくとも私が楽しめた理由の一番大きなところは、この「カタルシスの配分」だと思っています。

キャラクターの役割を分けることによって、「まさか」と「さすが」のカタルシスを同時並行で読者に感じさせる、この物語展開はとても上手いなーと。読んでいて気持ちいいなーと。そんな風に、勝手に感心した次第なのです。


ちなみに、キャラクターの役割が「まさか」と「さすが」で分割されている作品自体は他にもたくさんありまして、例えば初期の「はじめの一歩」なんかその典型だったと思います。鷹村が「さすが」のキャラクターで、一歩が「まさか」のキャラクターでしたよね。一歩が段々強くなってしまって、キャラクターの役割配分が途中から上手くいかなくなっちゃった感も多少あったりもするんですが。SLAM DANKとかアイシールドなんかもそんな感じ(「まさか」キャラと「さすが」キャラの分割同時描写)でしたかね?


「映画大好きポンポさん」の話に戻りますと、各キャラクターの好きな映画三作について、おまけ漫画で掘り下げられていたのも個人的に面白かったです。特にポンポさんが痛快。

私自身は、映画自体あんまり見てないんで好きな映画三作っていうと子猫物語とゴジラとゴーストバスターズ(初代)とかになっちゃいますが、好きなレトロゲーム三作なら色々書けるかも知れません。


まあなにはともあれ、映画大好きポンポさん面白いですよねーと。PIXIV発の漫画っていうのも盛り上がって欲しいなーと思ったんで、長々書かせて頂いた次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。










posted by しんざき at 07:00 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月08日

敵役におけるドヤ顔問題、あるいはバーン様すごいよねという話


ドヤらない凄み、というものがある気がするのだが、大した話ではない。


「DRAGON QUEST-ダイの大冒険-」、という漫画がある。その名の通りドラゴンクエストの世界観を下敷きにした、少年ジャンプ漫画の金字塔の一角だ。連載は確か、1989年から1996年までの7年間だった筈なので、もう20年以上前の漫画ということになる。

元より、レベルアップあり、仲間あり、中ボスやら魔王ありというドラゴンクエスト世界観が、ジャンプ漫画のフォーマットと極めて相性が良かったということは論を俟たないだろう。時には敵が味方になる展開あり、時には意気地がなかった味方が覚醒する展開あり、時には仲間との死別ありと、稲田浩司先生の描写力もあいまって、実に熱い漫画だったと思う。


ところでここにバーン様がいる。


バーン様は、物語当初のボス格として提示される魔王ハドラーの、更に上に立つ存在であって、ドラクエ3で言えばバラモスに対するゾーマ様に当たる。主人公であるダイ達の前に立ちふさがる、最後にして最大最強の壁である。

ゾーマ様と同じく、バーン様も絶大な威厳とカリスマの持ち主であって、数ある「少年漫画のラスボス」の中でも、インパクトの強さや印象深さという視点では指折りの存在ではないだろうか。なんか世間ではアニメ評論のコラ素材に使われまくったりしているらしいが、まあそれはこの際どうでもいい。

で、細かいことはネタバレになるので簡単に触れるが、バーン様には老人形態と若者形態がある。老人形態でも十二分に強いのだが、若バーン様になると更にものっそいパワーアップする。

ここで注目したいのは老バーン様なのだが、彼には「殆どドヤらない」という特徴がある。普通の少年漫画ならドヤ顔をしてもよさそうな場面で、全くドヤ顔をしないのだ。むしろ淡々としているのだ。

ネットでは非常に有名なシーンなのだが、こんなコマがある。

バーン様.png

バーン様の強烈な火球を見て「メラゾーマか」と勘違いをしたダイ達に対して、「今のはメラゾーマではない…」という前置きをしてから放った一言がこれである。大魔王の魔力をもってすれば、基本呪文のメラでさえ恐ろしい威力になるという、バーン様の凄み、バーン様という壁の強大さを端的に表した名シーンであると思う。

この時のこの表情、お気づきと思うが、バーン様全くドヤってない。むしろ淡々とした、「魔王が強いのは当たり前やん…説明すんのメンドくさ…」とまで言いたげな無表情。


これこそがバーン様の凄みではないかと思うのだ。


つまり、バーン様にとって「大魔王が物凄く強い」などということは当たり前のことであって、それをいちいち強調する必要などないのだ。ダイ達が力の差を見せつけられて委縮しようがしなかろうが、それすらバーン様にはどうでもよく、自分が絶対的優位なのは当然のことなのである。そこでいちいち得意げな顔になる必要などないのだ。

ここだけの話ではなく、この後の「これが余のメラゾーマだ」のところでも、僅かに口角は挙がっているものの、ドヤ顔という程のドヤ顔は見られない。それでいて、「鍛え上げて身につけた強大な力で弱者を思うようにあしらう時気持ちよくはないのか?」と、特に優越感を誇ること自体は否定しないのがバーン様である。この重厚さ、懐の深さが、バーン様の威厳の源泉であると考えるのはそれ程おかしいことではないだろう。まあ老人顔である影響もあるかも知れないが。


一般的な少年漫画のボス格というのは、むしろ主人公たちの絶望を煽るような場面で、ドヤ顔をすることの方が多い。例えば、これもweb上では超絶著名なドラゴンボールの敵ボスフリーザ様。

フリーザ様.png

このドヤ顔はどうだ。別にそれが悪いという話ではなく、ドラゴンボールの敵役というのは割と頻繁にドヤ顔をするのだが、フリーザ様はその傾向が特に顕著である。ドヤ顔に手足をつけて戦闘力53万を投与するとフリーザ様になる、といっても過言ではない。

といっても、フリーザ様は勿論これはこれで完成されたキャラクターであり、相手を積極的に絶望させにかかるところも含めてフリーザ様の個性なのであって、悪役としてのフリーザ様がバーン様に劣る、とかそういう話ではない。

ただ、「ドヤるかドヤらないか」という軸自体はおそらく存在し、少年漫画における多くの敵役が「どちらかというとドヤる」という特徴を持っている中、バーン様のドヤらなさは特筆すべきであり、そこがバーン様の魅力の重要な一部分である、という話をしたかった次第である。(若バーン様については実は若干のドヤ分がある気もするのだが、まあ今回は老バーン様の話なので割愛する)

あと、もう一つ「敵ボスが全くドヤ顔をしない」という作品について、私は聖闘士星矢の可能性を考えているのだが、こちらについてはまた色々と材料を集めて語りたいと思う。あの人たち大抵めっちゃ真顔で決めポーズとってるんでドヤ分少ない気がする。先に断っておくが、デスマスクは例外。


今日書きたいことはそれくらい。



posted by しんざき at 07:13 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

東大後期入試ってのがあったんですよ


今ならいいかも知れないと思って、書く。ただの個人的な昔話だ。


高校の頃色々あって、バーの二階で下宿のようなことをしていた。そのバーのマスターは同性愛者であることを公言していて、バーには近所の水商売の女性がよく飲みにきていて、バーの部屋にはトイレもフロもなくて、夜になると私は近所の公園に用足しにいっていた。

この時の話は、以下の記事で書かせてもらった。バーはもうないし、マスターももういない。大した話ではないが、気が向いたら読んでみて欲しい。


私は、その頃からずっと東京に行くつもりだった。東京に行くんだ、ということだけは決めていた。理由は他愛もないものだったのだが、今は省く。

これを言うと冗談かと思われるのだが、割と真面目に、「東京の大学」というものを私は東大しか知らなかった。地元の大学についてはそこそこ知っていて、例えば名大とか、愛知大学とか、南山大学とか、中京大学とか、そういうのが地元の大学だった。ただ、東京の大学についての知識は全くなかった。

これも色々と事情があり、当初私は大学に行けるとは思っておらず、「大学に進学しつつ東京にいく」という発想が全くなかった。「大学にいく」と「東京にいく」は、二択だと思っていた。だから東京の大学についての情報収集も全然してはいなかった。

そんな私に、本当にひょいっと「東京の大学にいく」という選択肢が浮上してきた。これも人の縁というもので、細かいところは長くなるので省くが、私は人生の節目節目で大抵誰かしら、拾ってくれる人が現れる。ありがたいことだと思う。

大学は、受けるだけでも金がかかる。何校も受ける金など無論なく、「じゃあ東大にするか」と私は決めた。他に受ける大学を思いつかなかった、というだけの理由だ。受からなかったら働けばいいや、くらいに考えていた。

正直な話、受かる見込みが十分あったわけではない。高校での成績はそこそこ良かったし、自分の頭にはそこそこ自信もあったが、例えば予備校に通ってガリガリ受験勉強をしていたわけではないし、高校も別に進学校でもなんでもない。ここ30年くらいで東大に受かった人がたった二人、とかそんな感じの高校だ。まともにその辺の人たちと勝負したらまあ勝てんだろうな、とは思った。


一つ、当時の私が自信を持っていたものがあった。小論文だ。


その頃、私はゴーストライターっぽい仕事をしており、ありとあらゆるテーマで、ありとあらゆるジャンルの文章を書いていた。文章構造についての指導もイヤという程受けた。ブログでてきとーなことを書き散らしている今よりも、当時の方がよほどしっかりした文章を書いていた筈だ。

東大の入試について色々調べてみると、後期入試というものがあることが分かった。東大文三であれば、センター試験は英国200点満点、数学IAか世界史日本史地理から100点満点、後は倫理や現代社会政治経済から一つ選ぶことが出来る。

600点満点で、大体520〜530以上とれば足切りを突破出来るらしい。センターの成績は、足切りさえ突破すれば二次では問われないらしかった。

二次試験は、英語は長文読解及びそれに基づく論文、国語は同じく小論文が三問で、これなら勝負できるかも知れないと思った。センター試験の足切りにさえ引っかからなければよいのだ。論文にたどり着きさえすれば、仮にもプロとして活動している自分が、受験生に負けることはそうそうないと、大した根拠もなく信じ込んでいた。

当時の私はかなり奇天烈な成績をもらっていて、理系科目についてはホント―にまるでダメだった。物理も化学も生物も地学もさっぱり分からなかったし、数学もIIB以降についてはさっぱり自信がなかった。

一方、国語については、現代文も古文も漢文もなんでもござれ、という程度に自信はあった。英語もそれなりに出来た。世界史日本史地理には全く自信がなかったが、倫理は殆どが常識問題で、センター入試でもそこそこの勉強で9割はとれるという見込みがあった。であれば、英国数合わせて70点程度は間違えられる。

今から改めて考えると随分とまあ甘い見積もりだが、何かの間違いで私は足切りを突破して、東大文三の後期入試を受けることになった。入試会場は確か駒場だったが、最初間違えて本郷に行きそうになった。危ないところだった。


後期入試の問題は、詳細なところは覚えていないが、確かボンペイについて書いた文章を読んで「パニックについて思うところを論ぜよ」みたいな問題と、アフリカについてのエッセイを読んで「エッセイとは試みの意味である。この文章の試みについて論ぜよ」みたいな、かなり変化球な問題だったことを記憶している。


変化球なテーマには慣れている。結果から言うと、私があれこれ考えて記述した小論はなんとか二次試験を突破して、私は東大に合格することになった。受験は東大後期一本、受からなかったら就職して働くかという二択だった。

ちなみに、この後私はフランス語を選択して、入ったクラスには文三後期フラ語選択の人間が殆ど全員集められていたらしかった。妙なヤツらばかりで色々と面白かった。フランス語の単位は落とした。


というわけで、私の成績やら勉強やらは、実のところ世間一般の東大生へのイメージとはかなりかけ離れている。やったことは、どちらかというとスキル極振りの一芸入試に近い。同じように後期入試で受かった人間は何人か友人にいて、一人の例外もなく奇天烈なヤツらばかりだった。

2016年から東大は後期入試を撤廃して、代わりに推薦入試を導入した。かつての私や友人たちのように、スキル極振りの妙なヤツが入学する余地が狭くなってしまったのかと思うと、若干寂しい気もする。


いつか書こういつか書こうと思って、ずっと書きそびれていたテーマだ。私は出身大学に一応の誇りを持っているが、かといって東大生というバッジをつけて社会を歩く気はなく、自慢ととられるのも避けたいという妙な障壁があった。卒業して15年も経てば、流石に出身大学などどうでもよくなる頃で、逆にこだわらなくて良かろうと思ったので書いてみた。


今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 07:25 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

キャプテン翼2の「サイクロン」の説得力が半端ない

何を言っているのかと思われるかも知れませんが、必殺シュートの話です。

今更言うまでもなく、「キャプテン翼」においてはたくさんの必殺シュートがあります。漫画版もかなりのものでしたが、テクモのゲーム版では更にそれに輪をかけてものすごい必殺シュートが山のように出て、当時のサッカーファミっ子を魅了すること大でした。

言うまでもないドライブシュートやオーバーヘッドキックに加えて、例えば日向のタイガーショットやネオタイガーショット、松山のイーグルショット、新田のはやぶさシュート。この辺は原作漫画版でも登場したと思います。反動蹴速迅砲とかレヴィンシュートとか、すごいインパクトでしたよねアレ。


例えば、一体何がどのように回転しているのか、左右に蛇行しつつゴールに襲い掛かるザガロの「ダブルイール」。

次藤の両足をカタパルトとして立花兄弟がジャンプし必殺シュートを放つ、大技「スカイラブツイン」。長崎の人は「まかせろタイ」とか言わない。

ドイツ人なのに何故か掛け声が「ファイヤー!」なことに突っ込まれまくった、シュナイダーの「ファイヤーショット」。

「ミューラー!てめえのどてっぱらをえぐってやるぜ!」キーパー本体じゃなくてキーパーがいないところを狙ってください、日向の「ライトニングタイガー」。

球速が速すぎて消えたようにしか見えないコインブラの「マッハシュート」。


ゲームにしか登場しないものもありますし、原作でも登場したものもありますが、まあなにはともあれ、これら「必殺シュート」の数々こそが、キャプテン翼というコンテンツの極めて大きな部分を占めてきた、ということは疑問の余地がないのではないかと思います。

そんな中でも、キャプテン翼2において、主人公翼のオリジナルシュートとして登場した「サイクロン」の説得力が物凄い、という話なわけです。

ちょっとこの動画を見てください。


どういう話かといいますと、

・ヘディングが苦手なのに1000本以上のシュートを決めた、スーパーストライカーと呼ばれる「ジャイロ」という選手の話を事前に聞いた翼
・ジャイロの必殺シュートであるサイクロンは、ドライブシュート以上に降下が激しいシュートだったと聞く
・ロベルト本郷から「スーパーストライカーを目指せ」という言葉を聞く
・ジャイロの必殺シュートであるサイクロンを習得しろ、という意味だと気づく


という経緯を経て、サイクロンがどんなシュートだったかを推理する翼、という場面なんです。

で、この時翼が出した答えが、

「ボールにバックスピンをかけて真上に打ち出し、落ちてきたところにドライブシュートをかけることで回転力を増幅する」というもの。

いや、分かってますよ。分かります。おっしゃりたいところは分かります。

ただ、特にゲーム版のキャプテン翼って、「必殺シュートに対する理由付け」自体がそもそも殆ど行われないんです。イーグルショットって結局何がどうイーグルなの?とか、キャノンシュートって単に強いシュート?とか、若島津のさんかくとびって普通に飛びつくより速いの?とか、結局ゲルティスはダークイリュージョンで何やってんのアレ?あいつ人間なの?みたいなフォロー、基本一切行われないんです。

そんな中、ちゃんと「習得の過程」とか、「なんとなく物理的に可能そうな気もする理屈づけ」とか、とにかくサイクロンは「きちんと行程を踏んでいる」というところの説得力が物凄いんです

元より、キャプテン翼って漫画版の方でも、サッカーのルールはおろか、うっかりすると物理法則すらどこかにすっ飛んでいってしまう世界です。それが悪いという話ではなく、「そういうもの」なんです。そこに文句をつけてはいけません。スカイダイブシュートはちょっとあんまりだと思ったけど。

そんな中、「二重の回転」という、「言ってることはよく分からんが、なんか色々工夫すれば本当に出来そうじゃん?」感が凄いのがサイクロンなわけです。多分、ゲーム版のキャプテン翼、全部を通してもここまで「きちんと説得力を積み上げられた必殺シュート」は他にないのではないでしょうか。

ちなみに、「真上に打ち出ししてる間にインターセプトされたらどうすんの?」と思った人、そこは20年前に我々が既に通過した場所だっっ。ということで、キャプテン翼4でのヒールリフトサイクロンや、キャプテン翼5でのブーストサイクロンの習得過程を見るといいと思います。

サイクロンすごいよね!!という話でした。

今日書きたいことはそれくらいです。





posted by しんざき at 07:11 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

VALUであったインサイダーもどきが株式市場ではアウト中のアウトなので、何故アウトなのかをなるべく簡単に説明する


どうもしんざきです。株の知識は松本亨の株式必勝学で身につけました。

当エントリは、どうもVALUに参加している人の中には結構多そうな「株式というものにあまり知識がない人」向けに書かれております。内部者取引とか、株式市場の透明性、公正性といった言葉に知識がある人にとっては、読むだけ時間の無駄だと思うのでご承知おきください。


VALUというサービスがあります。ユーザーが、自分自身を株式のように上場して取引の対象に出来るサービスです。要は、「自分を対象として疑似株式を発行するよー!人気が出ると値段が上がるよー!人気が落ちると値段が下がるよー!」という仕組みですね。取引自体はBit-coinを媒介としているようです。

値段の上がり下がりがあるので、当然安い時に買って、高い時に売ったら儲かります。これを利用して一儲けを企む人も割といるようです。

VALU自身は「これは株式・有価証券ではない」(なので株式や有価証券に対する規制や法律は適用されない)という立場を取っているらしいですが、トップページを見てみると「だれでも、株式会社のように、自分の価値をトレード」とか、思いっきり株式市場を想起させるワードが書いてあります。いきなり最初の段階で不安を覚えますが、大丈夫なんでしょうか。


で、今回、VALUで下記のような問題が発生したらしいです。


思いっきり要約すると、

・ユーチューバーの人が、「俺のVALU買ったらいいこと(優待)があるよー!」と宣伝
・それを見たファンの人たちが買う
・VALUの値段が上がる
・値段が上がったところで、そのユーチューバーの人の身内の人たちが全力でVALU売り
・ユーチューバー本人も全力でVALU売り
・元の「いいことがあるよ」発言はいつの間にか削除

という流れのようですね。

パッと見た感じ、「「いいこと(優待)があるよ」と宣言しておいて値段が上がったところを売りまくる」というのはアリなの?と誰でも気にされるところではないかと思うのですが、これが仮に株式市場であれば思いっきりアウトです。もう超アウト。そのアウトだけでペナントレース全試合が自動的に終わっちゃうくらいの勢いでオーバーキルです。

今回の件と同じようなことが仮に株式市場で行われた場合、少なくとも「風説の流布」と「インサイダー取引」の二つの禁止行為にはほぼ確実に引っかかります。


「風説の流布」とは、「有価証券の価格を変動させる目的で、虚偽の情報を流すこと」です。今回の場合だと、「優待があるよー!」と匂わせて株の価格を引き上げようとしたこと、がそれに該当しますね。

「インサイダー取引」とは、「株価の変動が発生し得る情報(重要事実と言います)を事前に知っていた関係者、及びその関係者から情報を聞いたものが、事実が公表される前に取引を行うこと」。内部者取引とも言います。

今回の場合ですと、「優待の話をなかったことにしてVALUの本人が自分のVALUを売りまくった」ということ自体インサイダー取引に当たりますし、その関係者が同じタイミングで売りまくったことも真っ黒、という話ですね。百回やったら百回アウトだと思います。


株式市場には、透明性と公平性についての原則があります。株式市場に参加する人たちは全て公平でなくてはいけないし、情報は透明でなくてはいけない、つまり「誰かにしか手に入らない情報に基づいて、一部の者だけが利益を得るようなことがあってはならない」ということです。

勿論、例えば世界の様々な動きを推理して、次はここが上がる!下がる!といった読みをすることはままあるのですが、それは飽くまで「手に入れようと思えば誰にでも手に入る情報」を元にした勝負です。

情報を持ってる内部者だけが儲かる仕組みだったら、誰も市場に参加しませんよね?勝つ人が決まっている勝負に、敗者として参加するくらいバカらしいことはありません。

で、今回のような件が株式市場で起こった場合、売りまくった人たちは「利害関係者」であって、インサイダー取引があったことが強く強く疑われる、という話です。

市場にみんなが安心して参加できる、というのは、株式市場にとって、ひいてはその国の経済にとって絶対必須の条件なので、インサイダー取引というものは極めて厳しく取り締まられています。証券取引等監視委員会がすげー綿密に監視してますし、仮にその監視に引っかかったら儲けは全部没収されて、追徴金も課されます。

こういう仕組みがあるから、株式市場というものはある程度安心して参加できる市場になっているわけです。


一方、VALUは現在、「これは株式ではない」と自ら主張しているので、こういう仕組みの枠組みには入っていない。

注意事項を一通り読んでみましたが、「マジか」と思わずつぶやいてしまうくらい簡素な内容です。まあ、この辺は既に色んな人が検証していることだと思うので繰り返しませんが、


 VALUは、利益を出す投資を目的としたサービスではありません。投資目的のご利用はお控えください。

 VALUの仕組みは少し株式に似ているところもありますが、実際の株式ではありませんので、VALUを購入しても、発行者に対する経営権や支配権などを獲得するものではありません。

辺りはエクスキューズとしてもなかなか味わい深い表現ですね。あんたトップページで思いっきり「株式会社のように」って言うてるやん。。。


今回の件がどういう結末を迎えるのかはまだ分かりません(株式のルールでなくても、単純に詐欺行為に当たるような気もします)が、現時点では上記の規約しかなく、正直無法状態に近い状況だと見受けられます。だからこそ冒頭のような話も発生したわけですが、こんな中でもVALUに突っ込むというのは、なかなかチャレンジャブルな行為だなーと個人的には考えざるを得ません。

VALUに参加される皆さまには、上記のような事情はご認識の上で取引のご決断をされることを、強く推奨して止みません。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 09:52 | Comment(22) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

時をかける少女がSFだったことを、皆は覚えているのだろうか。


こんな話を読みました。





これ、ガルパンがSFかどうかということ自体は定義論になっちゃうと思うんでここでは触れないんですが、納得感がある部分はありまして。

つまり、

「かつてはガチガチのSFだったものが、他のジャンルに取り込まれ過ぎてSFとして認識されなくなってしまった現象」

というものは確かに、かなり広範にみられるんじゃねえかと思ったんです。

例えば、時をかける少女、ありますよね。2006年にリメイク版がアニメ化されたヤツ。

あれ、元をたどれば原作筒井康隆先生ですし、正真正銘のSF小説に分類されると思うんですが、2007年にロングラン興行になった時、アレを「SFの復権」って受け取った人、いたかな?って話なんです。

少なくとも私の認識では、アレ全く「SF映画」としては扱われてなかったですよね。もう完全に、ジュヴナイル、青春映画、恋愛映画としてのカテゴライズだった。宣伝にも批評にも、SFのエの字もなかった。原作そのまんまの映画化ではないとはいえ、タイムリープっていうテーマは作品の主軸になってるのにですよ?

勿論、元々「製作者がSFとして見せようとしてない」ということではあると思うんです。ただ、それってつまり「タイムリープ」というネタ自体が、特に「SF」というカテゴリーの元でなくても見せられるくらい「身近」なネタになった、ということですよね。


「SFというカテゴリーでなきゃ使えないネタ」「そのネタをメインテーマにした時点で、勝手にSFになってしまうネタ」というものがある、ないしあった、と思います。

けれどそれが、

A.頻繁に使われることで、ネタとして身近になり過ぎてしまった
B.現実世界でも実現された、ないし実現され得る状況になってしまった

といった事情で、必ずしもSFと不可分でなくなってしまった。

だから、「これよく考えるとSFだよな」という作品でも、SFとして認識されない。


多分、こういうことって結構色んなネタで発生してると思うんです。


例えば、かつて「超能力」「サイキック」というものは、SF小説の代表的な題材の一つでした。超能力というもの自体が、理屈づけはされているものの奇想天外なものであって、物語の題材として「超能力」という言葉をつかうとすれば、それはもうSFでやるしかなかったんです。例えば「虎よ、虎よ!」とか、スランとか、スキャナーズとか、SFの古典には超能力が前面に出てくる作品多いですよね。

けど今、テレパスやサイコキネシスなんてお手軽過ぎてその辺のコンビニでも買えちゃいそうなくらい身近な題材ですし、ごく普通の青春小説やらコメディやら、なんならファンタジ−でも普通に出てきます。

多分、「ミュータント」とか「動物の知性化」とか「並行宇宙」「ナノテクノロジー」といった言葉についても、今では「SFと不可分」ではぜーーんぜんなくなってると思います。それを出せばまあSFだよね、というテーマではなくなってしまった。「人格の置換」なんかもかつてはSFの題材だったと思うんですが、「君の名は。」なんて誰もSFとして考えてないですよね。

これが、「A.頻繁に使われることで、ネタとして身近になり過ぎてしまった」の例の一つだと思います。



例えば、かつて「海底二万哩」は正真正銘のヴェルヌのSF小説でした。それは何故かというと、「潜水艦」とか「海底の旅」といったものが別世界、異次元の話であって、「海底の旅」というテーマ自体SFというカテゴリーでないと扱えなかったからです。

けれど今、例えば「沈黙の艦隊」をSF漫画として認識する人は多くない、というか殆どいないでしょう。潜水艦というものは、実際に実現されて、しかもそれなりに身近なものになってしまった。SFではない、現実世界のリアルな物語として受け入れられるテーマになってしまった。ロボットとか、アンドロイドとか、サイボーグといったテーマもこれに準ずるのではないかと。

これは、「B.現実世界でも実現された、ないし実現され得る状況になってしまった」の代表的な例の一つだと思います。


これって多分、「SFでないと出来ないテーマ」というのは日々縮小され続けている、ということを意味してはいますよね。勿論SFで書いてもいいんだけど、別にSFでなくても出来るよな、という。

今「これをやったらほぼSFになるテーマ」ってどんなのがあるでしょう?星間宇宙旅行?サイバーパンク?ディストピアや、コンピューターの反乱は流石にまだSFでしょうか?異星生命との遭遇はぼちぼち怪しいかも知れないですね。


ただ、これ、別に悪いことじゃなくって、「現実がだんだんSFに追いついてきた」と考えると、結構面白い側面もあると思うんですよ。時代が追いついてきた。多分、かつてのSFの巨匠たちはみんな、「いつかホントにこういう世界になれば面白いのになあ」と思いながら作品を書いていた、と思うんです。


近い将来、ガチで宇宙旅行の話を書いてもSFとして認識されなくなりました、とかなったらすげえなあ、と皆さん思いませんか。多分そういうのが、昔からの「SFの醍醐味」っていうべきものなんだと思うんですよ。


今後の「あれ、これはSFだった筈…」という展開を今から楽しみにしているわけです。いや、コンピューターの反乱とかはちょっとノーサンキューですけど。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:55 | Comment(11) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月28日

読書感想文は、ただちに「面白かった本のお勧め文」に名目を変えるべきだと思う

以前、長男が読書感想文にえらく苦戦していた時、いろいろアドバイスをしたことがありました。Books&Appsさんに、その時の顛末を寄稿しました。リンクは下記です。


これ、小見出しがどうとか、サンプル的な構成とか、細かい話も色々したんですけれど。

一番のポイントは「読書感想文」ではなく、「面白かった本を他人にお勧めする、お勧め文」という風にとらえ方を変えたこと、だったんじゃないかなあと思うんです。

大体どんな層を観測しても、読書感想文に対する最大のハードルは、「何を書けばいいか分からない」でした。これについてはほぼ紛れがないと思います。

「書き方」というより、「書く内容」の話なんです。書き方はとっかかりにはなりますが、「何を書きたい」ということが明確でないとあまり意味はありません。

けれど、「誰かにその本をお勧めしたい?」と聞いてみると、長男からはすぐ「したい!」という言葉が帰ってくるんです。つまり、「面白さを誰かに伝える」という方向性であれば、長男はすぐに「書きたい内容」を思い浮かべることが出来る。

これについては、多分割と色んな子どもに共通した話だと思います。「面白かったものを、他の誰かにもお勧めしたい」という欲求は、多分誰にでもある。マニア気質というのか、共有欲求とでもいうんでしょうか。基本的な動機付けがあるとないとでは大違いです。

なにより、「誰かにお勧めしたいと思えるくらい面白いかどうか」という視点で本を探してほしいし、本に出会って欲しいと思うんですよね。

「感想」という言葉は、率直にいって難しいです。方向性が曖昧でよくわかりません。「感じ、思ったこと」というのはちょっともやっとし過ぎているんです。

勿論、「もやっとしたもの」を明確な形にまとめ上げる、という能力は、それはそれで必要です。ただ、それにはある程度慣れも要れば技術も必要で、「何かを読んで、それについてを文章に出力する」という行為をし始めたばかりの子どもが、いきなり要求されるべきハードルではありません。


方向性が曖昧だと書きにくい。だから方向性は明確にしてあげた方がいいし、子ども共通の欲求がそれに使えるならもっといい。

私はこれを当たり前のことだと思うんですが、どういうわけか、読書感想文についての指導はそんな感じになっていないように思います。

以下はwikipediaからの引用です。

「興味深く面白い」「とても共感した」「これまでの考えを反省した」などの肯定的、主観的または道徳的な意見・感想は良い評価を受けやすい。このような読書感想文の評価基準は青少年読書感想文全国コンクールにおいて好成績を収めた読書感想文からも読み取れる。
これなあ。いや、心当たりもないことはないんですが、興味深いとか面白いとかはともかくとして、「これまでの考えを反省」とか「とても共感」なんてことが読書に必要かなあ?と思うんですが。何故か読書感想文って、「素晴らしい本に出会って今までと変わった自分」「こんなに成長した私」を出力させたがるような気がするんですよね。

いや、RPGのステータスアップアイテムじゃないんだから、本一冊読んだだけでぐぐんと成長出来るわきゃないし、本一冊読んだ程度でころころ考え方が変わるなら、個人的にはそっちの方が心配です。

「この本に出会ってこんなに成長した私」よりも、「この本面白いぜ!!ほら!!ここが!!!こことか特に!!!!」の方がずっと書きやすいし、読んでいても面白いし、更に読書体験をつなげることが出来る、と少なくとも私は思うんですが、どうなんでしょう。


なんにせよ、今年も長男には読書感想文の宿題があるようですし、今はどの本について書こうかあれこれ考えているようですし、もし困っているようならまた様子を見つつちょこちょこアドバイスしてあげようかなあと、そんな風に考えている次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 11:19 | Comment(6) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月22日

「俺が嫌いだ」を「社会の為に、こんなものは存在してはいけない」と混同してはいけない

あんまりまとまらないかも知れませんが、ちょっと書いてみます。

子どもが出来てから、「子どもが可哀想なことになる話」がほんとーーにダメになりました。実話、創作問わず、触れるだけでダメです。見たくもないし、勿論読みたくもない。出来ることなら視界に入って欲しくない。

実話の話をするならば、無論、たとえば児童虐待なんかは法律でも禁止されていますし、あってはならないことだと思います。出来ることなら可哀想なことになる子どもがゼロになって欲しいし、社会はそうあるべくリソースを注がなくてはならない。これは、私の「見たくない」が、社会の規範と一致している例です。

けれど、例えばその手の創作についての話をするならば、「法律で規制して、存在出来ないようにするべき」だとは、私は思いません。「社会にそういう創作が存在してはならない」とも思いません。


何故なら、私の「子どもが可哀想なことになる話」に対する感情は私的なものであって、それが即「社会に存在してはいけない理由」にはならないから。私の好き、嫌いは、社会の規範とイコールではないから。


「ある創作を禁止する」というのは表現の自由に規制を入れる大事(オオゴト)であって、余程の論拠、余程の根拠が必要です。社会から何かを排斥する、というのはよっぽどのことです。

勿論、きちんとした時間ときちんとした議論を重ねて、法的な問題も当然クリアして、その結果として「ある表現に規制が入りました」ということはあり得るでしょう。それは別に問題ないと思います。


けれど、単に「俺が嫌いだ」という理由だけであれば、それは「表現の自由を規制する」論拠にはなり得ない。


ちょっと思うのは、「世の中には、私憤と公憤を区別できない人が結構多いなー」という話なのです。本当は「俺が嫌いだ」というだけの理由なのに、それをうまいことお化粧して、「こういうものは社会に存在してはならない!みんなの為だ!子どもの為だ!」と声高に叫ぶ人たち、結構頻繁に観測出来ます。

私は、そういう人たちがあんまり好きではありません。結果的に利害が一致するとしても、私はそういう人たちが嫌いです。


だって、それは私憤じゃん?と。

お前が言ってるのは、実質的には「俺が嫌いだ!」だけじゃん?と。

「俺が嫌いだ!」を、「社会の為に!」「みんなの為に!」「子どもの為に!」とうまいこと言い換えてるだけじゃん?と。

それは単に、存在しない数の力で自分の言葉を説得力ドーピングしてるだけじゃん?と。


そういう人たちがいう「〇〇な創作が社会に存在してはいけない理由」は、往々にして穴があったり、ダブルスタンダードになったりします。例えば、「こういう創作に影響されて、××な犯罪が発生するかも知れない!」という主張であれば、「いや、影響されるだけだったらこういうテレビでもこういう報道でも影響されそうだけど、そっちは何でいいの?」という話になったりします。「こういう表現が子どもを傷つける!」という主張であれば、「こっちの表現は何で傷つけないの?そのファールラインは誰がどう決めるの?」という話になったりします。

これは結局、その主張が私憤に根ざしているだけであって、きちんとした検討にも法的な論拠にも立脚していないからです。


繰り返しになりますが、「何かの表現を規制する」というのは大事なんです。少なくとも、一人の人が、ほんの数行の主張で、過不足なくその論拠を説明出来るような話ではない筈なんです。

なのに、自分の私憤を公憤にすり替えて、まるで一言で「社会に存在してはいけない理由」を必要十分説明出来たようになっている人は、ちょっと何かを勘違いしていると思います。


「俺が嫌いだ」だけなら自由です。何の問題もない。誰かが何かを嫌うのに、それこそ文句をつける筋合いはない。私だって「そういう」創作や表現は嫌いだし、見たくもありません。

けれど、「俺が嫌いだ」と「社会の為に存在してはいけない」を混同してはいけない。あなたの好き嫌いは、社会の規範とイコールではない。


私はそんな風に思うのです。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 18:14 | Comment(10) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月07日

対戦ゲームにおいて、「井戸の中の蛙」になれる井戸がなくなってしまった、という話

こんなツイートを拝見しました。


以下は単なる思い出話です。

かつてのゲーセンでは、色んな形で「店内での格付け」というものがあり、それがそのゲーセンに通う大きな動機づけになっていた、というところまでは言ってしまっていい気がしています。


例えば、格ゲーにおける対戦での格付け。対戦台を中心に発生していた、小さな小さな競争社会。「あいつ超つええ!」とか、「あいつは俺と同じくらいの腕だ!だから負けると超悔しい!」とか。「いつの間にあんなに強くなりやがって!」とか。

例えば、STGの筐体に記録されるスコアランキング。顔も知らない、アルファベット三文字だけの競争相手。一位を取れて初めて自分のスコアネームを考えたり、自分のスコアネームが次から次へ蹴落とされて、畜生次は目に物見せてやる、と誓った経験。

例えば、ホワイトボードに掲示されたゲーセン内ランキング。メストやベーマガの全国ランキングには遠く及ばないとしても、そのゲーセン内での小さなコミュニティの中では、きちんと誇ることが出来た小さな勲章。


勿論それは、小さな井戸の中、小さな蛙たち同士の話でした。ただ、井戸があるということは、その井戸の中で最強になるという目的も、その井戸から勇気を出して出ていく自由も、その井戸に帰ることが出来る安心感もある、ということです。


地元のゲーセンで負け知らずを誇ったプレイヤーが、試みに有名強豪ゲーセンに繰り出して、ぼっこぼこにされて地元に逃げ帰る、というようなことも勿論ありました。そして、それがさらなるモチベ―ションになり、色んなテクニックを持ち帰り、結果としてそのテクニックがゲーセンのレベルを更に底上げする、みたいなこともあったのです。そして時には、小さな井戸の中の小さな蛙が、本当に全国で最強の蛙になる、なんてことも起こったんです。


私も、その小さな蛙でした。名古屋の片隅の小さなゲーセンで、一部の格ゲーのタイトルではそこそこの強さで、けれど栄や名駅や、あるいは新宿や渋谷のでかいゲーセンでは全然相手にならなかった程度の蛙。ゲーセン内でダライアス外伝のスコアランキングに血道を上げて、ある月一度だけ、とあるゾーンで全国一位をとることが出来た蛙。


現在、格ゲーにせよSTGにせよその他のゲームにせよ、対戦要素やスコアランキングというものはネット経由が基本です。最初の段階から、広いネットの世界のランキングを眺めながら腕を上げることになる、という時代です。勿論ゲーセンでの店内対戦が出来るゲームは多いですし、店の中でのコミュニティや大会もあるのですが、以前のような「どこのゲーセンにもそのゲーセン内での小さなコミュニティが」という時代ではなくなりました。

「ゲーセン内順位」と「全国順位」は全然別枠で、前者もある程度ちゃんと機能してた、というのは結構大きかったのではないか、と感じます。それがどの程度のものかは別として、「競争相手が半強制的にネット全域になってしまったことの弊害」というものも、恐らくあるのだろうと思います。お山の大将程度の実力はあった人が、お山の大将になれなくなってしまった。「お山の大将」というポスト自体が消滅してしまった、と言ってもいいでしょう。

勿論、そのずっとずっと以前の段階で、「そもそも対戦相手がいない」「ゲーセンまで行くのが大変」といった問題を始めとする、様々な問題を解決したメリットの方が遥かに大きいのも確かで、その点ネット対戦やネットランキングを否定する気は全くないのです。ネット対戦がなければ、対戦ゲーというのは今より遥か以前の時点で消滅してしまっていたのではないか、とすら思います。


ただ、「広い範囲では全然認知されていないけれど、頑張れば載れて、その小さなコミュニティの中ではちゃんとした勲章になる」という程度のランキングも、そのゲームの発展においては結構大きな意味をもつものだったのではないか、と思うんですよ。

これは多分、少年漫画の展開の話にも似ています。最初はそこそこの強さの中ボスしかいないからこそ、中ボス打倒の為に強くなれる。最初からフリーザ様が観測できる中で、1巻の時点からフリーザ打倒の為に強くなれるメンタルの持ち主ばかりじゃないだろうなー、という話です。


広い広いwebの世界に、かつてのような小さな井戸を作ることは出来るのかな?その井戸の中で最強になることを誇れるような仕組みは出来るのかな?というような。

そんなことを考えた次第なのです。



posted by しんざき at 07:20 | Comment(8) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

「例のセーター」が定着しなかった理由は、本当にネタ消費速度の問題なのか?

id:orangestarこと小島アジコ先生の、この記事を拝読しました。

どんどんと、コンテンツとか話題の消費速度って上がって行ってるし、(もし、適宜流行の話題について行こうとするならば、だけれども)情報を提供する側も、それに合わせた速度が要求される。何か話題になるような出来事があったら、その6時間後には、もうそれに対する文章なり記事なりを投下しないと、見てもらえない。3日あいたら、「なぜ今更その話を…」って思われるし1週間もたてば「そういえばそんな話題もあったな…」みたいな感じ。

みんなが、コンテンツや話題をものすごい速度で後ろに放り投げるようになるのも時代の流れかもしれない。

ちょっとざっくりした話になるんですが、ご容赦ください。

これ、小島アジコ先生のおっしゃるところも分かるんですが、個人的にはちょっと違う所感を持っておりまして。

つまり、「コンテンツ消費速度が速くなったと言うより、元々一瞬で消費される様なネタでも、webのドーピング効果で可視化されるようになった」ということなんじゃないかなあ、と思っているんです。また、「webでコンテンツが定着するには、再利用性が何より重要である」ということもあるのかも知れません。


現在のwebで長く残るコンテンツやネタが存在しないかというと、実際のところそういう訳ではないんですよね。ミーム化、テンプレ化して長く消費され続けているネタって、Web上にはたくさんあります。


例えば様々なネットスラング。なんJ発のアレとか、淫夢ネタのそれとか、いい悪いはおいておいて、取りあえず完全に定着はしましたよね。


電車の車内における男性の発言がミーム化して定着したりとか、ドラマで頻繁に出てくる擬声語が定着したりとかも、webなんかではよくある話です。アニメや漫画発のも多いですね。まどマギネタとか、カイジネタとか。「ヤツは四天王の中でも最弱…」とか。最近だとけもフレのしんざきお兄さんネタとか、もう完全にwebで定着したと言ってしまってもいいんじゃないでしょうか。

あるいは、なんらかのエピソードを核にした、種々のテンプレや定型句。2ch発のミームがwebで定着した、みたいな例もありますよね。「ちょっと田んぼの様子みてくる」とか、「※ただしイケメンに限る」とか、既に「当初は2chで発祥したネタテンプレだった」ということ自体認識されていないものも今じゃ多いんじゃないでしょうか。

あるいは種々の画像ネタ。横山三国志の色々とか、神々の山嶺の食事シーンとか。デスノートの「ダメだこいつ…早くなんとかしないと…」やらヒストリエの「よくもだましたなああああ!」みたいに、漫画の一部分が定型文的に使いまわされるようになっている現象も、いい悪いはともかく「コンテンツが定着して長く消費され続けている」と言っていいんじゃないでしょうか。AAネタもこれに該当するかも知れないですね。


これ、何がキーワードになるって、多分「発展性」とか「汎用性」みたいなものがキーワードになると思うんですよ。もうちょっと言ってしまうと、「いじりやすい・使い勝手がいいネタは定着しやすい」


例えばTwitterでもfacebookでもSNSでも、ちょっとずつテンプレをいじって面白い文章を作って、それを展開して、みたいな消費形態って結構一般的ですよね。場面場面に当てはめて、二次的にウケをとれるネタは再利用しやすい、あるいは定着しやすい。二次利用が、更にどんどん拡散して、様々な人が共通してそのネタを使うようになる。そういう意味で、「ネタの消費速度が上がった」とは一概に言うことは出来なくって、むしろ一部の分野では「ネタの再利用率が以前より遥かに向上して、一つのネタが使いまわされる度合いが増えた」とすら言えると思うんですよ。


それに対して、例えば「例のセーター」って言われるものとか、「例の紐」って言われるものって、「ネタとしての再利用性、再利用の容易さに劣る」とはいえると思うんですね。絵師さんならまだ話は別ですが、一般の人があれ改変して再利用するのって無理じゃないですか多分。頑張っても、実際にその服買ってきて、着てみて、画像アップして、とかそれくらいのネタ利用しかできないわけですよ。それだけのネタに数千円払いますかっていうと、やっぱ結構ハードル高い。

つまり、例えば「奇抜な服」的なネタは、一回「うわなんだこれエロい」ってなるとその先がない。絵師さんであればその服をテーマにしてキャラクターに着せて、といった感じで再利用できるかも知れないけれど、一般の人はそういう再利用をすることが出来ない。だから定着しにくい。

これに限らず、「元々長く定着するようなコンテンツではなかった」ものってたくさんありますし、そういうのは以前からすぐ消えてた、と思うんですよ。話題にすらならなかったかも知れない。

けれど、元来「再利用できない」ことで一瞬で消えるようなコンテンツであっても、瞬間風速的には盛り上がっているのが可視化されるから、「一瞬盛り上がってすぐ消えた」ように見える。

一部のコンテンツが「一瞬で消える」ように見えているとしたら、その理由はむしろ、消費速度の速さよりもそういった「webにおける可視化」と「webでの再利用性の有無」というところにあるんじゃないかなあ、と。私はそんな風に思うわけです。


こうして考えてみると、webで何かのコンテンツを定着させたかったら、何よりも「再利用性」を重視するべきなのではないか、ということが言えるような気がしてきます。ただこれについては、もうちょっとちゃんと材料を集めないといけない気がするので、また機会を改めようかと思います。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

「キン肉マン」が38年の旅を越えてたどり着いた場所

先週、「キン肉マン」完璧超人始祖編のweb連載が、ついに、ついに最終回を迎えました。

皆さん読みましたか?完璧超人始祖編。まだ読んでない人は是非単行本を買ってでも読みましょう。損はさせません。

巻数で言うと、36巻までが王位争奪編までの、言ってみれば20世紀のキン肉マンで、37巻は外伝的な読み切り作品、38巻以降が2012年から始まった「完璧超人始祖編」のキン肉マンです。60巻がシリーズ最終巻になる、筈です。まだ出てませんが。




かつて、キン肉マンのテーマって、割と分かりやすい「逆転と超克」の物語だった、と思うんですよ。以前書いた「流石」と「まさか」で言うと、極めて「まさか」に寄った物語。


最初期のギャグ漫画時代・怪獣退治編を例外として、キン肉マンは殆ど常に、「大逆転」を主軸に据えたストーリーであり続けました。普段は「ダメ超人」としての描写を専らとしているキン肉スグルに、次から次へと襲い掛かる大ピンチ。それに対して、頼もしい仲間たちと、友情パワーや火事場のクソ力を武器にしたキン肉マンによる、大逆転と大勝利。超人オリンピック編でも、悪魔超人編でも、黄金のマスク編でも、完璧超人編でも、王位争奪編でもそうでしたよね。

キン肉マンは、常に窮地に立たされますし、常に臆病風に吹かれますし、けれど常にそこから立ち上がり、最後には窮地を打ち破る。普段かっこ悪いからこそ、かっこいい。それがキン肉マンでした。

そして、キン肉マンの「窮地の打ち破り方」の描写は、本当に卓絶していました。プロレスに「超人」という要素を掛け合わせて、既存の枠を打ち破った「超人プロレス」。そこでの駆け引き、つばぜり合い、時には搦め手、そして大逆転。この描写こそが、キン肉マンという漫画を不朽の名作にした最大の要因であることは論を俟たないでしょう。

キン肉マンは、ジャンプの三大原則である「友情」「努力」「勝利」を最も忠実に体現した漫画の一つだった、ともいえると思うんです。


ただ、旧作キン肉マンの一つの特徴として、「対戦相手は飽くまで超克の対象であり、(少なくとも一度は)否定されることになる」という点があることは否めないと思います。もうちょっとぶっちゃけると、「主人公の逆転を描く為に、敵キャラが一度は割を食うことになる」ということです。

例えば黄金のマスク編の悪魔将軍は、途中までは圧倒的な強さとカリスマを欲しいままにしましたが、終盤はあんな感じでした。バッファローマンは最後に改心してしまいましたし、ネプチューンマンは、いきなり正体を現したネプチューンキングの部下のような描写になり、最後はアレやコレやな感じでした。フェニックスは、途中まではミステリアスな強さをもった知性派だったんですが、やはり終盤は色々小悪党っぽい感じが出てしまいました。

言ってしまうと、旧作キン肉マンの唯一の「弱点」は、「敵役の立ち位置を貫徹させられなかった」あるいは「悪役が最後まで魅力的な悪役として描かれてこなかった」ことなのではないかと、少なくとも私は思うのです。これは、ゆで先生ご自身が「この作品は前作を超えるものにはならない」とおっしゃったという、キン肉マン二世でも引き続いた問題だったと思います。

これが悪かった、ってわけじゃないんです。これはこれで、キン肉マンの重要な「味」の一つではあったと思いますし、話の展開としても好みの問題です。


ところで。


以降は、核心には触れないつもりですが、一応ネタバレになるので注意して頂ければと思うのですが。

38巻からの完璧超人始祖編では、この点が完全に、完璧に、これ以上ないくらいに払拭されていました。本当に、同じ人がこの漫画を描いたのか…!?と思ってしまう程の凄まじい払拭ぶりでした。

完璧超人始祖編は、そもそも「旧作キャラが入り乱れる三つ巴戦」として始まりました。完璧無量大数軍の襲来に、正義超人の唯一の代表として孤軍奮闘するテリーマン(とジェロニモ)、そこに割って入るのがブラックホールやステカセキングという時点で、旧作ファンとしてはもう感動し過ぎて涙が止まらないくらいでしたが、何よりもすげえ!!!と思ったのが、「悪魔超人が、悪魔超人のままで完璧超人たちと戦っている」ということなんです。

彼ら、慣れあわないんですね。決して正義超人と「協力」したりはしないし、正義超人軍として戦っている訳でもない。「悪魔超人は悪魔超人であって、決して正義超人に与しているわけではない」というスタンスを、それこそ最後の最後まで崩さない。

その首尾一貫ぶりは、満を持して登場した悪魔六騎士、そして悪魔将軍の登場でピークに達します。最後の最後まで、悪魔将軍は自らのスタンスを譲らない。かつて自分を倒した男(キン肉マン)を認めながらも、決して自分を折りはせず、勿論なれ合うこともなく、自分の「目的」に忠実であり続けるのです。

そしてこれは、完璧無量大数軍、更にその上に立つ完璧超人始祖達にも同じことが言えます。たとえ敗北することになったとしても、自分が信じているものだけは決して折らない。立ち位置を変えない。


認めるけれど、折れない。勝とうが負けようが、「譲れないもの」はそのまま保持し続ける。だから、たとえ敗れたとしてもその大義は変わらないし、輝きを失わない。

私は、かつてキン肉マンで、ここまで「敵役が最後までかっこいいままだった」シリーズを他に知りません。


これ、旧作キン肉マンでは見ることが出来なかった、「最後までブレない強大な敵役」という概念そのものだったと思います。キン肉マンならではの熱い描写はそのままに、三つの勢力が最後まで輝きを失わず、それぞれの終着点にたどり着いてみせた。上記の言葉を使えば、「まさか」の熱さに、「流石」の熱さが追加された、ともいえると思います。


とにかく滅茶苦茶かっこいいんですよ、悪魔将軍も、悪魔六騎士たちも、ネメシスも、ザ・マンも、勿論他の始祖たちも。その強さ、その威風、威容もさることながら、「ブレないが故に、たとえ歩み寄らなくてもお互いに認め合うことが出来る」その一貫したスタンスが彼らを輝かせていたんだと思います。


この「ブレなさ」があったからこそ、今回の「完璧超人始祖編」の最後の戦いが、「キン肉マンとネメシス」ではなく、「悪魔将軍とザ・マン」という戦いであり。しかもネメシス編以上に熱く、印象的で、キン肉マンという作品の中でも指折りに素晴らしい一戦になったのだと私は思うわけです。

勿論、敵役のブレなさだけが「完璧超人始祖編」のすばらしさではありません。引き伸ばし、出し惜しみのなさ。「まさかそこでその伏線が回収されるのか!?」の意外性。きっちりと立ち位置を下げてからの大逆転を見せるキン肉マン。きっちりと実力を見せつける旧作強豪たちと、それ以上の活躍を見せる新キャラたち。本当に結果が予想できない、一つ一つの戦いの熱さ。随所随所で発揮されるゆで理論の「分かっている」感。ついに、ついに大敵を下してみせたザ・ニンジャ。

この隙が無さ過ぎるエンターティメント性は、現在連載中のすべての漫画を見渡しても出色のものだったと思います。


かつて旧作キン肉マンは、「逆転と超克の物語」を熱く描写することによって、不朽の名作になりました。


そして今、完璧超人始祖編は、「認め合い、しかし歩み寄らず、お互いを尊重する」物語を描くことによって、かつてのキン肉マンを越える作品になった、と私は思います。今、この時代に、キン肉マンという題材でこの作品を描き切ってみせた、ゆでたまご両先生には本当に感嘆する他ありません。今後の新シリーズも楽しみにさせていただきます。

ゆでたまご先生、まずは本当にお疲れ様でした。素晴らしい作品をありがとうございます。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

だから痴漢も痴漢冤罪も、「男性のせい」でも「女性のせい」でもありませんってば


話がループしてるような気はするんですが、ちょっと当たり前の前提を確認しておきたくなりました。当たり前の話なのでご承知の上お読みください。


私は男性であり、私にとって痴漢は大問題ですし、私の奥様は女性であり、奥様にとって痴漢冤罪は大問題です。お互いに、他人事でもなんでもありません。お互いに切実です。


私は男性ですし、通勤で電車を使っている身なので、痴漢冤罪はひとごとじゃないですし大変怖いです。痴漢冤罪(に限らず冤罪一般)が少しでも発生しなくなってくれることを望んでいますし、自分に何が出来るのかを色々と考えています。

けど、それとは全然関係なく、それと何の矛盾もせず、奥様や娘たちが痴漢に遭うかも知れないことを考えると、心底痴漢が怖いですし、痴漢を許せません。痴漢被害によって人生が狂ってしまった女性も知っていますし、娘がそんなことになったらと思うとぞっとします。


もちろんこれはしんざき奥様からも同じ話で、私が痴漢冤罪に遭って拘留されることは奥様にとっても恐怖以外のなにものでもありませんし、冤罪を許せないと思います。


まず大前提として、

痴漢は男性にとっても女性にとっても共通の敵ですし、

痴漢冤罪は男性にとっても女性にとっても共通の敵ですし、

痴漢は「男性」の犯罪ではないし痴漢冤罪も「女性」の犯罪ではない、男性と女性の対立というのはこの問題において一切起きるべきではない、ということは確認しておくべきだと思うんです。


なんかどうしても、痴漢やら痴漢冤罪の話になると「男性」と「女性」を対立項にしたがる人っているんですよね。時には、痴漢被害者を責める文脈や、男性一般の性欲を責める文脈まで出てくる始末です。

そうじゃないですよね、憎むべきは「男性」じゃなくて「痴漢」だし、「女性」じゃなくて「冤罪を作る司法・警察」や、場合によっては「作為的に冤罪を着せようとする者」ですよねって話なんです。

そりゃ率から言えば痴漢の中には男性が多いかも知れませんが、痴漢被害者に男性がいないわけじゃないし、痴漢被害者の身内にも男性はいるかも知れない。冤罪だって同じことが言えます。ここで男女対立なんて本来発生しない筈なんです。


その上で、


「痴漢と痴漢冤罪どっちが問題か」なんて議論はなんの意味もないですし、「どっちも問題です」以外に回答はない。そもそも比べるような話じゃない、と思うんです。

そんなことを、この記事や、この記事のブコメを見ていて考えました。

冤罪の話をする前に「痴漢死ね」と叫ぶ

はてなブックマーク:冤罪の話をする前に「痴漢死ね」と叫ぶ


元記事は元記事で、「冤罪よりも痴漢の方が問題だ」ってとれるようなニュアンス(皮肉っぽいですが)には決して賛成できません。ただ、ひどい痴漢が本当にひどいってのは私も認識していますし、「冤罪が被害者の人生を壊し得るのと同じように、痴漢も被害者の人生を壊し得る」ということ自体は、男性女性関係なく認識しておくべき話だとは思います。

だから私は、たとえば「痴漢よりも冤罪の方が問題」だとか(もちろんその逆も)、あるいは痴漢による被害と冤罪の被害を比べるような文言、「女性が悪い」とか「男性が悪い」とかいう文言には一切賛成出来ません。


どっちもひどいし、どっちもダメです。どっちも「男性のせい」ではありませんし、どっちも「女性のせい」ではありません。


これは、多少口酸っぱく言ってもいいことなんじゃないか、と思うんです。


勿論、痴漢がなくなれば必然的に痴漢冤罪もなくなるわけで、痴漢を撲滅出来ればそれに越したことはないんですが、これについては痴漢についての話を聞けば聞くほど正直絶望的な気分になります。。。満員電車だけの話じゃ全然ないんですよね、アレ。本当にありとあらゆる場所で発生し得る。すれ違い様に触ってくる痴漢とか、一体どうやって撲滅すればいいのか本当に見当がつかない。やいばのよろい着た方がいいんじゃないかしら。


とはいえ、きちんとした証明ノウハウの確立や誤認逮捕判明の場合の撤回、要は「司法・警察しっかりしろ」という話は痴漢に対する抑止効果にもなる筈ですので、そこについては引き続き訴えていきたい所存です。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 00:36 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする