2017年12月13日

失敗を恐れない精神を作るために、ゲームオーバー有りのゲームを遊ぶのは有効なのではないか

こんな記事を読みました。

で、その後もその生き方が変わらず社会人になるとね…

「本当に本当に全く自分では動かないマン」になったりするのよ!!!
正解が分からない限りは僕たちは停止していますマンになるのよ!!!
ケース的にはかなり極端なケースのようにも思いますし、実際こういう子がどれくらいいるのかって話はよく分からないんですが。

基本、仕事にせよ趣味にせよ、「成功体験」から学べるものというのはたかが知れておりまして、「失敗体験から何を学ぶか」というのが極めて重要になってきます。失敗から学べる経験値って本来物凄い多いんですよね。

そういう意味では、ガンガン「失敗」の場数を踏めた方が成長は遥かに速くなりますし、「平然と失敗出来る」という精神性は物凄い強みになります。まとめではプログラミングの話も出ていますが、プログラミングに限らず、スクラップ&ビルドって物事の基本だと思うんですよね。

で、私自身は、基本的に失敗上等失敗ウェルカムというか、まず色々失敗してから物事進めよう、怒るヤツがいても知るかバーカって程度には失敗に馴染んでいるわけで、「平然と失敗出来る」スキルについてはそこそこのものを持っていると自負している訳ではあるのですが。

これがどこで育ったものかということを考えると、いや勿論「成功しか許さない」みたいな教育を受けていなかったということもあるんですが、一つには「ゲームで死にまくった」体験が結構根深いところにあるような気がしてきました。


いや、昔たくさんあったじゃないですか、死にゲー。いわゆる「死んで覚えろ」っていうゲーム。ゲームオーバー上等、みたいなヤツ。

スペランカーを真面目にプレイしていた人たちの中で、主人公の死体を積み上げていないものはいない訳です。コンボイの謎だってそうだし、ロックマンだって魔界村だってストライカーズ1945だってプリンスオブペルシャだってそうなわけです。

ああいうゲームは、何度も何度も何度も死んで、その度にそこから何かを学び取って、死屍累々の主人公の屍の上で達成感を掴みとることがゲームの本義なわけですよね。大体のゲーマーは、そういう意味で「失敗体験を繰り返す経験」ってものにはなじんでいると思うんですよ。

割と真面目に、「失敗体験から何かを学ぶ」体験を積み重ねられる機会って重要だし、失敗がちゃんとデザインされたゲームって、それをノーリスクで体験できる場面としては結構よく出来てるんじゃねーか?と思ったりするわけなんです。

少なくとも私自身についていえば、チャンピオンシップロードランナーで死にまくり、カラテカで死にまくり、ロックマン2で死にまくり、ガンバードで死にまくり、バトルガレッガで死にまくり、あと少しで目標達成出来そうなところで血の涙を流す、という体験をさんっっっざん繰り返してきましたし、それでなにがしかの精神的タフネスを手に入れることはできたんじゃないかなー、と。


で、今のゲームにそういう要素がないかというと、別にそういうことはないんですよね。最近で言うと例えばゼルダだって、あれある意味超死にゲーじゃないですか。何度死んでもすぐ直近に戻れる、っていう意味では、ある意味理想的な部類の失敗体験累積ゲームですよね。うちの長男も、今ちょうどゼルダで英傑たちの詩にハマってるんですけど、順調にリンクの死体を積み上げては「きーーーー!!!」って悔しがってるんで、大変いい経験をさせてあげられていると思うわけです。


「失敗するのは悪いことでもなんでもなく、むしろ有益なサイクルの一部なんだ」


ということを、実質的にはノーダメージで学ぶことが出来る。ゲームってええやん!!って話ですよね。

そういう意味で、みなさんにはガンガン死にゲーを遊ぶことを推奨していきたいと思いますし、ドラゴンズレアとか今からでもいかがですか?タフネスが鍛えられることについては保証します。


ただしロマンシアだけは許さない、絶対にだ。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 17:50 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月08日

しんざきにとってラヴクラフト作品は何故怖くないのか


主語小さい記事です。

いや、twitterではネタとしてこういうこと書きましたけど、

実際には触手がどうとか触腕がどうとかって、多分枝葉の問題だと思うんですよ。

だって、ラヴクラフト作品で「触手」「触腕」みたいな描写が出てくる、というか「宇宙的怪異」がある程度直接描写される話ってごくごく一部ですもんね。多分、全体の2割あるかないかってところなんじゃないでしょうか?クトゥルフ神話全体だったらもっと一杯あるんですけどね。

これはどちらかというと「ホラー」というジャンルの受け取り方とか、楽しみ方の話なんですが。


私、ホラーの肝って、「踏み外させ方」だと思うんですよ。


つまり、「さっきまで日常だったのに、いつの間にか日常を踏み外していた」という、いってみれば浮遊感。あれなんかおかしいぞおかしいぞ、と思いながら読み進めて、どこかで「既に日常を踏み外して落下していた」という感覚。後から読み返して、「ここだったのか」と気づく戦慄。

少なくとも私が、ホラーを読んで「怖さ」を感じるところってそこなんですよね。

怖いホラーって、凄く「日常」を描くのが上手いと思うんですよ。ついさっきまで和気あいあいと、ごく普通の日常を送っていたのに、ある瞬間から異様な情景に、異様な世界になる。日常描写がリアルであればある程、それが「実は壊れていた」と気付く時の恐怖感が大きくなる。

いわば、日常風景でゲージ溜めて、そのゲージで一気に超必を撃つ、みたいな話なんだと思うんです。少なくとも私は、「日常ゲージ」がある程度溜まってないとあんまり怖くない。それも、「怖くなるぞ怖くなるぞさあ怖くなるぞ」っていう前振りがある怖さじゃなくって、「あれ、なんか変だな…日常の筈なのに…あれ?あれ?」ってなる方が怖い。

要するに、物語序盤からすぐ怖い話が始まったり、「怖くなるぞ」っていうタメが明確な作品ってあんまり怖くないんです。

で、そういう意味では、ラヴクラフト作品って「日常ゲージ溜め」はあまり行われないんですよね。勿論タイトルにもよるんですが、割と早い段階で「日常」は終わるし、場合によっては最初の時点で既に日常が終わっていたりする。「怪異の存在明示」が結構早いんです。

ただ、これは決して「ラヴクラフト作品がつまらない」という訳ではないということは念押しさせてください。私にとって、「ホラーとしての」ラヴクラフト作品はあまり怖くない、というだけの話であって、「宇宙的怪異」を描いているラヴクラフト作品は十分面白いですし、楽しめます。「時間からの影」とか「宇宙からの色」とか超面白い。

ただ、飽くまで「ホラーとして」の話であれば、「冷気」とか「家のなかの絵」なんかはかなり怖いと思います。ムニョス先生こわい。あと「神殿」も結構こわいかも。

ちなみに、以下は初心者の方におススメ出来るラヴクラフト作品の記事なんで、よかったら読んでみてください。面白いですよ。ラヴクラフト。たまにSAN値は削られますけど。





ところで、全然話が飛ぶんですが、私レイ・ブラッドベリの作品って大好きで。特に大好物なのが「何かが道をやってくる」と「10月はたそがれの国」の二作なんですけど。

ブラッドベリって、そもそも別にホラー作家ではなくって、時にはSFを、時にはファンタジーを書くっていう感じの、言ってみれば「幻想作家」なんですけど。

ただ、ブラッドベリの「踏み外させ方」って物凄いと思うんですよ。正直そこらのホラー小説よりよっぽど怖い。「あれ?あれ?日常の筈なのに…」からの浮遊感がすごーーーい上手いんです。

そういう意味で、上でも挙げた「10月はたそがれの国」と「何かが道をやってくる」は超お勧めです。よかったら一度読んでみてください。



「10月はたそがれの国」については以前書きました。その時も「踏み外させ方」の話をしました。



「何かが道をやってくる」についてはまたその内ちゃんと書こうと思います。


ということで、今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 07:37 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

ネタバレ強度の高いジャンルと低いジャンル

当たり前のようですが、ネタバレをされると面白さが減少してしまう作品・ジャンルと、ネタバレをされても特に面白さに影響しない作品・ジャンルというものはあるよなーと思ったのです。

ネタバレの是非、みたいな話はちょくちょく見かけます。「ネタバレ勘弁して!ヘタにSNS見るとネタバレ踏むから見れない!」という人がいる一方、「私はネタバレ全然平気!むしろして欲しい!」みたいな人も時折観測出来ます。最終的には個人の好みの話です。

私に関して言えば、そりゃ作品というか、作品の作りによるんじゃないかなあ、と思いました。そこから、もしかするとネタバレ好きかそうでないかというのは、好きな作品のジャンルによっても変わってくるんじゃないかなあ、とも思いました。

まず、「作品によるネタバレ強度」という話をします。


〇前提

ここでは、ネタバレについて、「結末や作中の重要な展開について事前に知らされてしまうこと」と定義します。
多分普通の定義だと思います。


〇ネタバレ強度の低いジャンル、高いジャンルとは何か

一言で言うと、「その展開について初めて知った時の驚きが、その作品を視聴した時の面白さに占める割合」が大きければ大きい程、その作品のネタバレ強度は低い、ということになると思います。

分かりやすい例でいうと、多くの推理小説は、「ある事件に含まれる謎について、登場人物と一緒に解き明かしていく」「その謎が解けた時の心理的快感を楽しむ」という構造になっています。

勿論作品にもよるのですが、推理小説を読んだ時の「面白さ」の中では、「謎が解けた時の爽快感」というものが割と大きいです。「そうだったのか!」という納得感。「まさかそうくるとは!」という驚き。それらについては、登場人物と一緒に徐々にその謎にたどり着いていくことが、面白さの前提条件になってくるわけであって、事前に謎の中核を知ってしまうと驚きが低減してしまうことは間違いありません。勿論、受け取り手の好みとか、読み方にもよるんですけどね。

だから、多くの推理小説はネタバレ強度が比較的低い、ということになる訳です。

ただ、これは勿論、作品の作り方によっては全然変わってくる話でして。例えば「刑事コロンボ」みたいな作りのサスペンスは、近いジャンルの作品でありながら、「犯行の瞬間や犯人の正体は初めから視聴者に提示されている」という特徴を持っています。視聴者は事件の核心は既に知った上で、コロンボがその謎を解き、犯人を追い詰めていく過程を楽しむ、という構造になるわけです。

勿論、タイトルによってはこれにミスリードが加わったり、あるいは追い詰めていく過程でも色々重要な展開が発生することはあるんですが、少なくとも「別れのワインの犯人は誰誰だよ」みたいなネタバレをされても、特に作品自体の面白さが減ずることはないでしょうし、「こういうトリックで犯行を行っていた犯人を、コロンボが追い詰めて逮捕するよ」と結末をバラされても、基本的には「そりゃそうなるわな」としか思わないでしょう。コロンボのネタバレ耐性は比較的高い、ということになります。

関係ないですが、別れのワインめっちゃ名エピソードですよね。あれと祝砲の挽歌、あと「二枚のドガの絵」が個人的な三大コロンボ名タイトル。

恐らく、サスペンス、謎解き要素が強い作品、展開の起伏が激しい作品であればある程、ネタバレ強度は低くなる筈です。ジャンルとしてそういう要素が強いのは、推理もの、SF、ミステリー辺りを筆頭として、セカイ系、能力バトルもの辺りが後に続く感じでしょうか。


一方で。


逆に、「ネタバレ強度が比較的高いジャンル」というのも多分あって、例えば日常系漫画とか、あるいは料理漫画とか、話の起伏や展開にそれ程意外性がない、意外性を面白さの中核にしていない、あるいはある程度決まった定型パターンがある作品は、事前にネタバレをされてもそれ程面白さに影響を及ぼさないことが多いです。

例えば、「よつばと!」みたいな作品では、そもそもネタバレをすること自体が難しいでしょう。ネタバレをするような「結末」とか「重要な展開」というものが存在しないし、そういう楽しみ方をする作品でもないからです。「よつばが牧場で羊に喧嘩売った」とバラされたとして、よつばと!の面白さがどう減ずるか、というのは難しい問題です。

料理漫画も、勿論エピソードごとに色々な展開があるのですが、大筋「美味しそうな料理やその作成過程を楽しむ」という作品であれば、ネタバレ強度は高いことが多いでしょう。まあ、料理漫画っても千差万別なので、例えば「鉄鍋のジャン」みたいな展開の起伏が激しい漫画であれば、ネタバレのダメージも出てくるかも知れないですが。

似たような話として、実際の歴史をモデルとした時代小説、時代漫画みたいなものも、ネタバレ強度は相当高いと言っていいでしょう。仮想史みたいな例外もありますが、「信長が本能寺で死ぬ」というネタバレを聞いて怒る人は多分そんなに多くないでしょうし、作中殆どのエピソードは大体の概略をみんな知っている訳です。

そこから考えると、ジャンルの中に例外的なタイトルもあることは前提として、「このジャンルは大体ネタバレ強度高い」「このジャンルは大体ネタバレ強度低い」という話は、グラデーション的に分類出来そうな気がします。


〇私見・ネタバレ強度高いジャンル・低いジャンル

作品のジャンルは思いついたままに書いているだけであって、特に整理はしていません。

ネタバレ強度高い↑

日常系
史実系歴史もの
エッセイ系
料理系
スポーツ系
バトル系
恋愛もの
オカルト・伝奇系
SF
ミステリー/推理もの

ネタバレ強度低い↓

ざっくりした傾向はこんな感じになるんじゃないかなー、と。

で、多分なんですが、ネタバレ強度が高い作品を普段愛好している人は、そもそもネタバレからのダメージを受けること自体があまりないので、ネタバレについての意識も必然低くなる、みたいな傾向があるんじゃないかなーと思うんですよ。

勿論これは人による話であって、中には推理ものを愛好しつつもネタバレどんとこい、みたいな人も当然いると思います。ただ、ネタバレに対するスタンスを議論する上では、「その人が好むジャンルは、ネタバレに対する強度が高いジャンルか、低いジャンルか」ということは、一点計算してもいいように思ったわけなんです。


私自身の話をすれば。

しんざきが一番好んでいるジャンルは海外SFでして、ジャンルとしては相当ネタバレに対して脆弱です(勿論タイトルにもよります)。ただ、しんざき自身は、そこまでネタバレに敏感ではありません。踏んでしまったら踏んでしまったでまあしょうがないかな、くらいの感じです。

作品の魅力を語る上では、どうしても最低限のネタバレに触れてしまうことというのはありまして、そういう際は事前に断るようにはしています。ただ、面白さの核心部分に「驚き」がある作品であれば、やはり何も知らない状態でその作品に触れて頂きたいわけで、それをどこまで書くかは常に頭を悩ませるテーマであります。

厄介なことに、「「ネタバレ注意」という言葉自体が、すでにある程度ネタバレになってしまう問題」というものがあるんですよね。例えば「一見日常系なんだけど、ネタバレ注意と言われた」という時点で、ああ、その作品には何かしらの裏があるんだな、ということが分かってしまうわけで、勘がいい人だと色々推測出来ちゃうわけなんです。これはひじょーーに厄介な問題だと思います。

不特定多数に声が届いてしまう以上は、最低限のネタバレマナーには留意しないといけないなあ、と。あれこれ悩みながら作品紹介をする日々なわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 12:39 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

「議論」「討論」に対する妙な偏見は、一体どこから来ているのだろう

単純な疑問であって、特に結論出してどうこうという話ではないんですが。

昨日、こんなツイートを見かけました。

討論と対話の違い、ということなんですが、これ、パッと見で違和感を感じませんか?

「声の大きい人有利」とか、「考え方が変わらない」とか、それ、明らかに討論じゃないだろ、と。それは討論もどきというか、「討論のやり方を知らない人が考える間違った討論のイメージ」でしかないだろ、と。

議論や討論というものは、根本的には「違う考え同士をすり合わせることで、新しい知見や妥当な結論を導き出す」為にやることだ、と思います。ディベートって言葉も、だいぶ一般的になりましたよね。


ゴールとして「新しい知見や妥当な結論を導きだす」ということが共有されていれば、「声の大きい人有利」だとか「気まずい雰囲気になる」とかいう話はすいません何語ですか?という程度に意味不明ワードになります。相手の話を大きな声でかき消して、一体どんなすり合わせが出来るんですかという話だし、勝つとか負けるとかいう問題ではないのだから気まずくなりようがないですよね。

ただ、この「新しい知見や妥当な結論を導きだす」というゴールが、案外共有されていないというか、もしかすると常識ですらないのではあるまいか、と。

以前、似たようなことを書きました。


手前味噌ですが、少し引用してみます。
「新しいものを見つける」という議論の目的の為には、積み上げが必要だ。Aという知見に対して、Bという知見を加えることによって新しいCという視点を見つける。前の言葉、前の論点に色んなものを少しずつ積み上げていく。それが議論だ。というか、「積み上げ」が存在しないと議論にはならない。

ところが、どうも「積み上げる議論」ではなく、その場その場で言葉を投げつけあって、その言葉の勢いのあるなしで「勝ち負け」を判断する、言ってみれば「言葉のぶつけっこ」を議論と考える人が、たまーにいる様な気がする。そういう人にとっては、何か新しい知見を導き出すことではなく、相手の弱点を探り出して、とにかく相手をへこませることが「勝ち」だったりする。

つまり、この「言葉のぶつけっこ」がまさに討論であり、議論である、という勘違いは想像以上に広かったりしねえかと思ったのです。

冒頭のツイートを見て、一つ思い出した増田がありました。これです。

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。

これ、都議会議員選挙に先立つ、今井絵里子氏の「批判なき選挙、批判なき政治」という言葉に反応してた人達を評して書かれた記事なんですけど、実は私、これ見て結構「あ、妥当かも」と思ったんですよ。

ある考えに対する新しい知見っていうものは、そもそも批判とワンセットで導出されるものの筈であって、そこから考えると議論や討論に「批判」は必要不可欠なものである筈なんですけれど、確かに「批判」を「悪いもの、和を乱すもの」と捉える人は、いる。存在する。

一点この増田と私の意見が異なるところは、これは別に「低知性・低学歴」の表出ではなく、ちゃんと教育を受けて、大学を出て、うっかりすると大学でディベートの授業を受けた人の中にすら普通に存在するんじゃないか、と思っているところなんですけど。

で、この二つの、つまり「批判を悪いものと考える」向きと「討論を言葉のぶつけっこと勘違いする向き」って、もしかすると地続きなんじゃないか、と思ったんですよ。

批判というものは相手を傷つけることであって、するべきではないこと。
討論というものは相手の考えを否定すること。
議論というものは相手をやりこめること。
相手をやりこめるから、嫌な気分になる。考えが変わらない。

だから「討論ではなく対話をしましょう」などという、よく意味が分からない謎の結論に着地してるんじゃねえか、と。

当たり前のことなんですけど、批判と人格否定はイコールではないですよね?いくら相手の意見を批判したところで、その人自体を否定したことにはなりません。私はその意見に与しないけれど、あなたがその意見を言うことを否定するものではない。それは、ディベートにおける基礎のキ、レベル1の魔法使いでもメラくらい覚えてるよね、というレベルの必須事項です。


けれど、「人格否定と批判を、実施レベルで分離出来ない人」というのは、実は想像以上に多いんじゃねえか、と。


ちょっとまだちゃんと確認出来ていないんですが、冒頭ツイートの画像も、れっきとした大学教授が書かれたものである、という話も観測しております。つまりこれは、必ずしも教育や知性の問題ではない。むしろ、考え方や認識の方向性に、割と根本的なところで断絶がある層があったりするんじゃねえか、と。そんな風に思うのです。


ここで、単純な日本人論にするのはあまり妥当な結論に結びつかないような気がします。「日本人の性質」とか「和を以て貴しとなす」とかいうのは、主語をでかくし過ぎて話をぼやっとさせるワードです。個人的には、断絶があるとしたら、むしろ小中学校くらいの割と早い内に受けた教育に何か淵源があるんじゃないか、と考えています。すいませんまだあんまり根拠ないんですけど。

ただ、幾つか確実なこととして、

・批判と人格否定はワンセットではないんですよ
・だから、討論と批判が不可分だったとしても、それは「相手を否定すること」「相手をやりこめること、傷つけること」ではないんですよ
・逆に、批判という体で人格否定をしている人は、根本的に議論や討論が出来ていない人なのでそう考えて対応すれば(あるいは対応しなければ)いいと思います

ということについては、当たり前のようなんですが、ちょこちょこ確認しておいても損はなさそうだなーと考えたのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:09 | Comment(15) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月01日

OTCGにおけるカードの弱体化について私の理解を書いてみます

いわゆるカードのナーフ(弱体化)の必要性について考えてみます。大した話ではないです。


例えばHearthstoneとかShadowverse、直近だとドラゴンクエストライバルズのような、

・カードを集めてデッキを作る
・デッキを作ってオンラインで対戦する

という形式のカードゲームがあります。オンライントレーディングカードゲーム(以下OTCG)と呼ばれることが多いです。トレーディング要素ないのに何でトレーディングカードゲームなん?と言われても私は知りません。カード分解して違うカード作ることもトレードと考えるからでしょうか。

大本のM:TGの頃からの一種の伝統ですが、OTCGではしばしば対戦のバランスが崩れて環境がエラいことになり、カードの強さの調整が入る、ということがあります。色々ありましたよね。MoMaの冬とかメグリムジャーとかヨーグモスの意志とか。あったあった。

今回は、その「バランスが崩れる」「だから調整する」ということについて、私の理解をなんとなく書いてみます。


〇OTCGの「望ましいバランス」とは一体どんな状態なのか

まず前提として、望ましいバランスというのは、「なるべく多くの人が「面白い」と感じるバランス」ということになると思います。全員を満足させるゲームは存在しませんが、満足している人が満足していない人よりもかなり多い、という状況は多分作れるでしょう。

もう一つ前提として、多くの人は「勝とうとする」「負けっぱなしだと面白いと感じない」という前提もあります。デッキ構築にせよカード選択にせよ、殆どの人は「勝ち」を意識して吟味するもので、本当に純粋に「好きなクラス、好きなカードだけを使う」という人はかなりの少数派である、ということですね。

その上で、つきつめると、OTCGでは下記のような状態が「望ましいバランス」の要件になることが多いような気がしています。


・勝敗の結果について、「運ではなく実力によるものだ」と納得、ないし錯覚しやすい
・極端に強いクラス・極端に強いデッキタイプというものが存在せず、環境に多くのタイプのデッキが存在している


つまり、「勝敗が極端に運要素に偏っておらず」「色んなデッキを目撃することが出来る」状態が、いわゆる「いいバランス」だ、という話です。多分一般的な話ですよね?

これが崩れるのはどんな時かというと。たとえば、

・極端に強いカード・ないし強いカードのメタカードが存在し、どのデッキもそれを意識した構築になる、ないしデッキタイプが限定されてしまう
・少数のクラスに強いカードが偏在しており、その少数以外のクラスのデッキを滅多に見かけない
・コントロールが極端に強い、あるいはアグロが極端に強いなど、デッキの傾向が制限されてしまっている
・先手/後手など、実力に関係なく運によって決定される要素が勝敗を大きく左右してしまう(先手/後手の勝敗バランスが悪い)
・極端に先出し有利なカードがあり、「先に特定のカードを引いた方が勝ち」というような状態になってしまう

上記のような時、「このOTCGはバランスが良くない」と多くの人が感じる状況になる、と思います。

上記は飽くまで「バランス」の話なので、これだけが面白さの要件になる、ということではありません。UIの快適さとか、カードを使っている時の爽快感とか、これ以外の要素も色々あるでしょう。

昔は、「強いカードがレアリティの高いカードに集中していない(つまり、課金が勝敗の上での必須要素になっていない)」ということもよく言われていましたが、最近ではそこまで見ないような気がします。「Pay to win」とか最近あまり聞かない言葉ですけど、どうなんでしょうね?まだ現役なんでしょうか?

ぶっちゃけた話、運営も利益が上がらないゲームは継続しようがないわけで、ある程度客に課金をしてもらうよう誘導するのはそりゃ仕方ないでしょーとは思わないでもないです。あまりに露骨だと色々批判されるのかも知れませんが。


〇では、運営はどんな状態を目指せばいいのか

上記「いいバランス」を目指すという話からすると、

・極端に強いカードが存在せず、様々なカードやデッキタイプを採用する、ないし活躍させる余地がある
・強いカードが少ないクラスに集中しておらず、様々なクラスで勝ちを狙うことが出来る
・先手/後手の有利不利をなるべく平準化するシステムを導入する

ということになると思います。言うだけならタダですよね。

勿論、「極端に強い」という言葉にも明確な基準があるわけでもなく。勿論使用率やら勝率やらは正確なデータが取れるとしても、必ずしも「〇〇%以上なら修正が必要」とか一概に言えるものでもないわけです。

二点、問題点として、

・デッキタイプやクラス使用率が偏る要因は、必ずしもバランスだけではない
・強いカードがなければいいという話ではなく、「ある程度強いカード」はOTCGの面白さの為に必要である

ということは言えると思います。

極端に強いカードが出るといけないから、ということで強いカードをかたっぱしから潰していては、ゲームから爽快感がどんどん失われていきます。地味なカードばっかで面白くねえ、という奴ですよね。なんだかんだで、強いカードを上手く場に着地させた時の爽快感というものは、OTCGにおいて重要なものです。「ある程度尖ったカードが多い方が面白い」という人も多いです。それに、その強いカードを軸にしていたデッキが使用されなくなってしまえば、却ってデッキの多様性が失われてしまうということになる可能性もあります。

また、現在はWebやSNSで簡単に情報が流通する時代でして、強いデッキの構成、強いクラスの情報なんかも簡単に出回ります。「他にも強いデッキはあるのに、有名な人が〇〇というクラスのデッキレシピを公開したからいきなりそのクラスに使用率が偏る」みたいなケースも、ことによるとあるかも知れません。研究が進んでいるクラスとそうでないクラスで大きく勝率が異なる、なんてことも珍しくありません。

まあなんか、単純に使用率や勝率が偏ってれば修正すればいいのかというとそういう訳でもなく、同じく単純に強いカードを弱体化してればゲームのエッジってのはどんどん失われていくもので、ゲーム自体が面白くなくなっちゃって元も子もない、みたいなことも起こり得ると考えると、OTCGのバランス調整ってのはつくづく高難度ゲーだなーと思うわけです。色々考えて調整しても、それがユーザー全員を満足させられるかなんていうと到底無理なわけで、「つまんねーー!!」と叫ぶ声が大きな人は決していなくなることがありません。大変ですよね。


〇「弱体化」によってバランスをとるのは、多分「必要悪」だということ

とはいえ、そういうことを考えあわせた上でも、「極端に強いカード」がうっかり世に出てしまうことを止めることはできませんし、そのカードが環境を席捲していたとしたら、やはりなんらか対応はしなくてはいけないと思うわけです。

上でも書いた通り、「カードを弱体化する」というのは、イコール「そのゲームのエッジをそぎ落とす」ということでもあります。ゲームの面白さを減殺することもある諸刃の剣であり、しかもそれでバランスがとれるという保証はなく、ユーザーによってまた別の強カードが発見されてそっちに人が集まって終わり、なんてことになる可能性もあります。リスクは高いのに効果は保証されていない。厳しいですよね。

ただ、実際のところカードごとに「適正な強さ」というものは本来ある筈で、適正な水準を大幅に上回っているカードであれば、やっぱそのままほっとくというわけにもいかないと思うんですよ。

カード間のバランスを調整する際には、単純にそのカードを弱体化するだけではなく、「そのカードに対するメタカードを出す」「他のカードも強くすることで一強状態をなくす」といったものも考えられますが、当然ながらそれぞれにメリット・デメリットがあります。結局そのメタカードが必須になってしまったら意味がないとか、エッジが効きすぎて余計バランスが世紀末になるとか、そういう場合ですよね。

そこから考えると、やはりバランス調整の際の最も安全な札は、「必要最低限のカード弱体化」であるということにならざるを得ないのかなあ、と思うんです。特に、リアルカードゲームと違ってエラッタが出しやすいというのは、OTCGの大きな強みの一つですしね。

リスクは大きいしリターンも不確定だし、非常に大変な仕事だとは思うのですが、ゲームを面白く維持する為の必要悪として、開発運営の皆さんには慎重にカードのナーフというものを検討していただきたいと思う次第なのです。勿論、そもそもナーフを必要とするような状況にならなければそれが一番いいんですけどね。


〇そういえばドラクエライバルズでカード能力の調整が入るらしいですね



どのカードが調整されるのかなーー。


ということで、今日書きたいことはそれくらいです。







posted by しんざき at 13:13 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月21日

「ビートマニア」の思い出

そういえば昨日は20,Novemberでしたね。


初代ビートマニアの稼働が1997年だったので、今年は20年目の11月20日ということになります。あれから随分時間が経ったものですね。

毎年私は、この時期になると思い出したようにPS版のBeatmania 2nd mixと専用コントローラーを引っ張り出してきて、一通りの曲を遊びます。3rd mixのsuper high wayで早くも挫折したなんちゃって音ゲーマーの、まあ一種の儀式のようなものです。

初代ビートマニアが登場した時の衝撃は、今でもよく覚えています。当時の私は、主にGダライアスに血道を上げながら時折マジドロ3やジャスティス学園で気分転換をする、といったムーブをしていた筈なのですが、ゲーセンに突如登場したデカい筐体、それまでのゲームとは全く雰囲気の違うBGM、その反面ゲーム自体は直感的で実に分かりやすく、なんかものすげえゲームが出たなーと思ったことを覚えています。

ビートマニアは、「なんだかよくわからないけれどとにかくかっこいいゲーム」でした。「遊んでるだけでかっこいい」「遊んでること自体がかっこいい」とでもいうべきでしょうか。それくらい、あの5鍵のコントロールパネルと、デカいモニターに流れるノーツ、そして真ん中の画面のアニメーションのインパクトは凄かった。パラッパラッパーに触れておらず、音ゲーといえばいきなりミュージシャンとオトッキーくらいしか知らなかった私には、Beatmaniaはものすげえ新機軸のゲームに見えました。

覚えてらっしゃる方もいるかと思うのですが、97年、98年からしばらくは、Beatmaniaには毎回行列ができていましたし、行列に並ばないギャラリーも山ほどいたのです。当時は、初代のラスボス曲であった20,Novemberを普通にクリアしただけでギャラリーから拍手が起きていましたし、それは2nd mixが出てからも暫くは続きました。

しんざきは、Beatmania初代は(余りに人が大量に並んでいたから)殆ど出来ていないんですが、その続編、Beatmania 2nd mixについてはそこそこ遊びました。Ska a go goまでは死にそうになりながら制覇して、3rd mixでnine secondsやsuper high wayに押しつぶされて挫折した、それがしんざきの短いBeatmania歴です。

本記事では、Beatmania 2nd mixで、特にやりこんだ曲についてなんとなく語ってみようかと思います。全曲書くわけではないです。


〇STAGE1

・jam jam reggae (Funky jam Cookie mix)


初代から存在するjam jam reggaeのmix版です。しょっぱな無音でノーツが落ちてきて、一つ目のノーツを叩いた瞬間に曲が始まるという構成が印象的です。定番のヒゲ親父がチャームポイント。

STAGE1の4曲の中では、間違いなくノーツ数も難易度も一番で、初心者が間違えて選択してしまうと詰む系ステージだと思われます。ただこの曲、リズムも軽快だし手の動きも面白いし、ある程度慣れてからの「俺叩けてる」感が凄くって一面の曲では一番好きなんですよねー。名譜面だと思います。


・Beginning of life


ambient。正直、曲自体はそこまで好きってわけじゃないんですが、ノーツの判定が緩く、一面の曲の中で一番パーフェクトを取りやすいっていう点で、点数を狙う時はこの曲ばかりやっていたので頭にしみついています。ターンテーブルがあるu gotta grooveよりこっちの方が遥かにパーフェクト取りやすかったです。

PS版の2nd mixって、先の方のstageで遊べる曲が、その前のstageで取れた点によって変わってくるんですよ。確か一面で90000点とらないと二面でKonamixが出てこないんですよね。この曲からKonamixにいくのが個人的な定番コースでした。


〇STAGE2

・Do you love me?


バラード。星は2なんですけど、個人的にはとても二面の曲とは思えないくらい難しかったです。譜面も難しいし、なんかやたら判定厳しいんですよね。星4のKonamixはおろか、うっかりすると三面のミニマルテクノよりこっちの方が苦手だったりしました。これ絶対難易度詐欺だろ感。

メロディは凄くいいと思うんですけどねー。途中のキーボード連打パートとか好きでした。


・Salamander Beat Crush mix


Konamix。後のシリーズでも連綿と続く伝統です。やはり出だしの沙羅曼蛇が素敵という他ありません。

stage3でミニマルテクノをプレイするには、konamixでは80000点以上取らないといけないんですよね。何故かこの曲が個人的に一番得意だったので、stage2では大抵konamixを遊んでました。後半のずらし押し懐かしい。


〇STAGE3

・OVERDOSER (Driving Dub mix)


大好きな一曲です。リズムも楽しくノリもよく、とにかく叩いていて面白い。ノーツはすごーーく多いんですけど、変則パターンがある訳ではないので、数パターン叩けるようになればその組み合わせで大体最後までいける、という点も中級者に優しい局でした。あと判定自体houseより甘い気がする。

後半、次から次に振ってくるパターンをパターンごとに処理する、という感覚が、自分がシーケンサになったみたいでとても楽しい。最終面でRAVE (2nd MIX)を遊びたい時は、houseの条件がやたら厳しいので大体この曲を選んでました。


・20, november(single mix)

動画は記事冒頭。言わずと知れた名曲中の名曲。なんだかんだで、当時Beatmaniaの看板といってもいいくらい知名度が高かったと思います。

やはり中盤と終盤のボーカル + オルガンパートが登竜門でした。それに先立つ十六分連射、あれ上手く叩けた時の爽快感がヤバい。今の難易度から見ると笑っちゃうような譜面なんでしょうけど、当時はアレで十分難しかったんだよ!!クリア出来たら拍手が起きてたんだよ!!!

最後に一つターンテーブルで終わる譜面は、今見ても「完成度。」の一言しか言えないくらい完璧でした。11月20日すごい。


〇STAGE4

・Deep Clear Eyes


個人的には2nd mix最高の名曲。いやめちゃくちゃかっこよくないですかこの曲?

次から次へ落ちてくるノーツを必死に処理している間に、ふとどこかから聞こえてくる美しいオルガンパート、っていう感じの中盤がもう構成的にすごすぎる。その後のストリングのメロディまで含めて、譜面全部で聴かせる構成がもう物凄いと思うんですよ。今でも、Drum'n Baseっていったら取りあえずDCE、っていうくらい印象深い曲です。


・Acid Bomb


一方のハードテクノ。いや難しかった。めちゃくちゃ苦戦しました、この曲。多分skaよりクリアできるまでの時間長かったんじゃないだろうか。

いや、落ちてくるノーツはすごい単純なんですけど、リズムがガンガン可変して、しかも判定厳しくって、生来リズム感がない私にはGood出すのも一苦労って感じだったんですよ。刻むリズム自体はかっこいいんですけどねー。

後半の「タッタッタッタッタッタッタッタッタッタ…」って感じでずっと同じリズム刻む中他のノーツ叩かないといけない、みたいなところは今でも鬼門です。


・e-motion(2nd MIX)


初代から存在するraveのアレンジバージョン。よりメロディパートに寄った譜面を叩くことが出来ます。これもかなりのお気に入り。

元々のメロディもいいんですけど、メロディは変わらず叩く譜面のパートが変わる、という、「アレンジっていってもこういうアレンジの仕方もあるのか…!」的な衝撃がありました。終盤、左右に綺麗に分かれたドラムパートをバシバシ叩いていくのもお気に入り。


・Ska a go go 


そして、恐らく全国のBeatmaniaプレイヤーは全員が全員初見で眼を疑ったであろう、皆大好きSKA a go go。言わずと知れた、という感じではありますが、軽快な裏拍とか、途中で急に曲のスピードが変わるギミックとか、色んな面で後々の音ゲーに与えた影響は物凄かったと思います。

特に最後の滝なんかは、「いやこれ人間が叩けるようにできてないだろ…何考えてんだコナミ…」以外の感想がなかったんですが、1鍵2鍵とそれ以外を分離するテクニックとか、覚えていくとなんか本当に叩けるようになっちゃって、音ゲーすげーーってなりましたね。いやsuper high wayで挫折したんですけどね。


ということで、がーーーっと書いて参りました。折角11/20だったので、ちょっと思い出語りでもしてみようかと思った次第で、それ以上の意味はあんまりないです。


今日書きたいことはそれくらいです。










posted by しんざき at 07:27 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月15日

実名報道についての反応で思ったこと。

昨日の記事の続きです。

今回は割とちゃんと皆さまの反応を読ませて頂いてまして、といってもブックマークとか量が多すぎて正直全部読み切れてないんですが、実名報道不要という向きの反応を多数いただきつつ、ぽつぽつ「こういう理由で実名報道は必要では」という話も頂いております。

昨日の件は、単純に「知ってどうするのか」という疑問だったので、個別の理由の是々非々とは別に、そういった回答を頂くのはありがたいことです。

その上で、そういった個別の論点において、改善すべきところがあれば改善すべきだし、「それは本当に実名報道の必然的な理由になるのか?」ということも考えてみても良いのでは、と思いました。

今日はそれら、いただいた反応について、個別に思ったことを書きます。


・殺人事件の被害者が、もしかすると縁者、知人ではないか?実名報道が行われないとそれが判明しない、という話

「何かあった時に知らせるべき知人」というものが、それぞれの案件について何人くらいいるのかは分からないですが、一般的には何十人、何百人というレベルに収まるのではないかなーと思います。

何十人、何百人という程度の数の人に情報を知らせるのに、下手すると何十万人、何百万人というレベルに伝わる可能性がある「報道」という手段を取るのは、それちょっとオーバーキルではないでしょうか。少なくとも、「知人に知らせる手段」としての報道というのは、明らかにスケール的にも適切でないように思います。

それに加えて、「何故報道になるような事件の情報だけを知りたいのでしょう?」という疑問もあります。事故でも病気でも、かつての知人が亡くなったのは一緒やん、と。報道されるような事件じゃなかったら結局同じなんじゃないですか、という。

数十年前であれば、そもそも他に伝える手段がなかった(新聞に故人の氏名が掲載されていた時代です)から仕方がなかったのかも知れないですが、今の時代、クローズドの連絡手段も、SNS含めて山のようにあります。何故いつまでもメジャー報道で実名を知らせないといけないんですか、というのは考えてもいいように思います。

まあ、そもそも「自分に何かあった時にこの人には知らせて欲しい」というのは本来故人の意思であるべきであって、故人が既に意思を表明出来ない場合は、それは故人の遺族に帰するべきじゃないかなあ、と私は思うんですが。つまり、遺族が伝えたい人にだけ伝える、というのが本来あるべき姿なんじゃないですかね?


・国民に知る権利がある以上、重大事件の詳細は報道されるべきだという話

知る権利があるのは確かかも知れませんが、それと同じように知られない権利というものもあります。一般的にプライバシー権と呼ばれるヤツですね。「知る権利」という言葉が出てきたのは1945年以降の筈ですから、1890年から既に議論されているこちらの権利の方が歴史は古いです。(参照:Wikipedia)

どちらの権利が優先されるかというのは難しい問題ですが、少なくとも知る権利が一方的にプライバシー権に優越する、というのはおかしいのではないでしょうか。現在は、故人にはプライバシー権が発生しないという解釈の元、遺族のプライバシー権もなしくずしに「知る権利」に一方的に侵害されている状態ですね。


・実名報道が行われなかったら警察発表や実際の事件などが検証出来ない、という話

「検証」に対して「実名報道」が必須条件になる理由が分かりません。検証をするならするで、然るべき立ち位置の人が正確な資料に則ってするべきであって、それこそニュース番組や新聞の情報なんて不正確な可能性もあって検証になんて使えたものじゃないでしょう。裁判資料でも、警察発表資料でも、報道以外でアクセス可能な情報(しかもより正確なヤツ)はいくらでもあります。


・正確な報道が行われなかったら、いい加減な憶測に基づいたデマが繁殖するかも知れない、という話

それはいい加減な憶測に基づいたデマを流す人間を非難するべき問題であって、実名報道の是非とは関係ない話であるように思います。というか現状、実名に伴うもろもろの情報が流れた方が、よりデマやらねつ造情報やらの展開が加速する、という状況に近いですよね。観測範囲の問題もあるかも知れませんが、実名報道がされなかった神奈川の事件では、少なくとも今回の事件のような状況にはなっていません。



ざっと思ったのは以上のような内容です。

あと、

・実名の報道
・被害者の個人情報(卒アルだの人となりだの)

は別であって、前者はいるが後者は要らない、というご意見の方もいたようです。私個人的には、前者と後者は地続きであって、明確に区別する必要は必ずしもないのではないか、そもそも前者から不要なのではないか、というスタンスです。まあ後者をメインにセンセーショナルに事件を盛り上げようとする報道は、その遥か以前の段階で大っっっっっ嫌いですが。


以上のような話の上で、最終的な私のスタンスは、

・少なくとも遺族が故人の情報を公開しないことを望んでいる場合は、報道機関はそれを尊重するべきだし、もしそれを破ったら何らかの罰則を付することを検討しても良いのではないか

というものであり、そういった方向に話が流れてくれるといいなあ、と考える次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 06:50 | Comment(13) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月14日

殺人事件被害者の実名って、知ってどうするんですか?

ほんとーーーーーに理解出来ないことが一点あるので、ちょっと追加で書かせて頂ければと思うんですが。

この記事を読みました。


遺族が実名報道をやめて欲しいと、各報道機関に要望したのに、その要望が殆どの報道機関に黙殺されて、今ガンガン実名報道されてますよ、という話です。ちょっと前、報道機関に対して報道の自粛を要請する張り紙を家の前に貼っていた被害者遺族の話も、何故かきっぱり報道されている、ということが起きていました。

加害容疑者の話は一旦おきましょう。私、本来は加害容疑者の実名報道も不要ではないかと思っているんですけど、まあそれは別の問題なんで一旦置いておきます。

皆さんにお聞きしたい、と思ったんです。


実際のところ、被害者の実名って、知りたいですか?


被害者の実名、生い立ちやら人となりやら学生時代の生活やらって、そんなに情報として、コンテンツとして魅力的なものなんでしょうか?皆が「知りたい」と思うものなんでしょうか?

例えば被害者の感情とか、生活が破壊されるとかどうとか、そういう前提を一切無視したとして、「殺人事件被害者の個人情報」って情報として興味深いものですか?


私には、まずこの部分が根本的に理解出来ないのです。それ、知ってどうするんだ?と。

例えば、「何故その事件が発生したか、という分析に被害者の情報が必要」ということであれば、少なくとも私の感覚では、「それ匿名でも報道出来るやないですか」としか思えないのです。「AさんはTwitterでこれこれこういう発言をしていて」という情報で、特に事件分析が妨げられる訳でもないですよね。

以前、相模原殺傷事件の時に出てきた話では、


「誰が亡くなったのか」という事実確認に障壁を設け、被害者の足跡や遺族の思いなどを世に伝える機会を奪った形だ。

さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。
これについても、「匿名だと悲しみや怒りを共有できないんですか?」としか思いませんでしたし。

例えば「実名が報道されないと、知り合いが殺されたのかどうかが分からない」みたいな話であれば、「報道を通してしか殺人被害に遭ったかどうか確認出来ない程度の知り合いの安否情報って、遺族の生活より重要なんですか?」としか思いませんでしたし。

例えば「実名がないと、事件の悲惨さが伝わらない」という話であれば、「事件の悲惨さを描写するのに、何故被害者が鈴木さんか田中さんかという情報が必要なんですか?」としか思いませんでしたし。実名がないと悲惨さが伝えられないとしたら、それは伝える方の能力不足でしょ、とすら思います。

結局のところ、これらについて私は、「それは何故遺族感情や遺族の生活よりも優先されるんですか」ということが、本当に、さっぱり理解出来ないのです。

結局、ここまで何度も何度も、遺族の要請や感情を放っておいての実名報道が繰り返されるということは、その情報を「知りたい」と思う人がそれだけ多いということなのでしょう。その情報にそれだけの、報道機関にとってのコンテンツとしての価値があるということなのでしょう。

私には、まず、その「価値」が分からない。被害者がなんという名前だったのか、全く知りたいと思わない。


バイアスがかかっていることは認めます。私は、心情的にだいぶ殺人事件被害者側に肩入れしているので、何か私が認識していなかった理由が提示されたとして、やっぱり「それは何故遺族感情や遺族の生活よりも優先されるんですか」と思うでしょう。出来れば、「皆思った程被害者の実名になんか興味ないよ」という話になってくれればいいなあ、と思います。

ただ、それはそれとして、ここまで同じことが何度も何度も何度も何度も何度も何度も起こるということは、やはりなんだかんだで「殺人事件被害者の実名報道」には何かしらのニーズがあるのだろう、ということも分かります。

ちょっとこれ、もし「メディアの皆さんが思っている程、皆はこの情報を知りたいと思っていなかった」ということであれば、なにかしら報道姿勢の改善につながる話が出来るかも知れないですし。あるいは、私の方の価値判断というか、興味の傾向が根本的にずれているのなら、それはそれでちょっと問題だなーと思ったので、勢いだけでこの記事を書かせて頂いた次第です。

被害者遺族の皆さんに、一刻も早く平穏な生活が戻ることを、心から祈念してやみません。


今日書きたいことはそれくらいです。


以下は以前書いた記事。





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(追記 11/15)
続きを書きました。




posted by しんざき at 15:42 | Comment(27) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

コミケで徹夜をする連中には、自分たちがコミケを終わらせようとしているんだという自覚をもって欲しい

ぼちぼちコミケの時期が近づいてきまして、今年も色々とアレな人達が観測出来るようになってきています。twitterで、徹夜行為を呼びかけるばかりか、サークルチケットを餌にして整理券取得の参加を募るとかいう、どこをどう間違えたらこういう阿保な発想が出来る脳になるんだろう、という感じの話を観測しました。

ちょっと、改めて当たり前のことを書くんですが。

コミケにおける徹夜参加者問題というのは、ずっと以前から問題として継続している、極めて厄介な問題です。どうもやっている本人たちは自分が悪いことをしていると思っていない、ただ「なんかうるさく言っている連中がいる」程度にしか認識していないっぽいという点で、逆に問題は深刻です。

コミケ準備会は、コミケの前日から来場して会場周辺でたむろっている迷惑参加者のことを、「徹夜組」と呼称してはいません。「列内で仮眠したから徹夜ではない」とかいう屁理屈を防止する為に、「深夜来場者」と呼んでいます。

そして、深夜来場は別に黙認されている訳でも風物詩として定着している訳でもなんでもなく、厳然とした「禁止行為」であり、「ルール違反」であり、一歩間違えれば一撃でコミケを廃止に追い込む爆弾でもあります。

どうも、コミケってその余りの大規模さから勘違いされている節があるような気がするんですが、その立て付けは飽くまで「コミックマーケット準備会という民間団体が主催する、単なる民間イベント」であって、有限会社コミケットが準備会を支援する構成になってはいるものの、その開催基盤は開催規模に比べて信じられない程脆弱であるということは、少なくともコミケ参加者は当然の前提として認知していなくてはいけないと思うんですよ。有限会社コミケットって、社員10名以下ですよ。

私、以前から、コミケに参加する人は一度はこのページじっくり読んでみるべきだなーと思ってるんですけど。


確かにコミケ参加者は物凄い人数ですし、準備会を支援する人たちはボランティアスタッフを始めとしてたくさん存在しますが、別に国の支援がある訳でもないし、大企業が運営団体に名を連ねているわけでもない。堅牢なバックボーンに守られているイベントってわけじゃないんです。

つまり、警察やら消防から「やめなさい」と言われればコミケは一発で開催出来なくなるし、ビッグサイトやら会場側から「もううちで開催しないでください」と言われれば一発で路頭に迷う、という話なんです。実際、今までも何度もコミケは開催の危機を迎えていますし、現時点でも2019年や2020年にコミケ本当に開催できるのか、って未解決問題が発生してますしね。

で、上のWikipediaの記載から引用してみるんですけど。

「徹夜組」の中にはかなりの少年が含まれており、東京都青少年の健全な育成に関する条例により深夜徘徊とされ補導対象になる。
周辺の不良や暴走族、あるいは手癖の悪い徹夜参加者による窃盗・恐喝などの「徹夜組」を標的にした犯罪がたびたび発生しており、警察からも毎回厳重な注意を受けている[45][46]。
深夜の周辺の建物・敷地への進入、芝生や看板などの設置物の破壊、ゴミの散乱について各所からクレームを受けている[45]。コミックマーケット71では、会場近隣のホテルテナントの案内看板を深夜来場者が損壊させる事件が発生した[46]。

これですね、「今までは運が良かった」という訳でもなんでもなく、現在は閾値に向けてどんどん危機ゲージが上がってきている状態でしかなく、閾値を越えたら一発で赤信号がつく、って認識するべき状態だと思うんです。例えば大規模な補導があったり、犯罪がエスカレートして傷害や殺人に発展でもしたら、現時点でも一撃レッドカードだと思いますよ。

正直、コミケに対する徹夜参加を誇らしげに話してる連中に対しては、「お前らはコミケの参加者面するな」としか思いませんし、徹夜自体がコミケ開催に対するテロ行為であるということは、参加者全員が認識しておくべきだと思うんです。

ご存知の通り、コミケは「参加者全員が作るイベント」です。主催団体があって、その主催団体が用意してくれるイベントにお客様として参加出来るイベントではない。であれば、コミケの運営の障害になる問題は、参加者自身が「自分たちの問題」として認識するべき問題であって、解決する為にはどうすればいいのかなーと考えるべきなんじゃないかと。私自身は、せめてもの草の根活動としてこういう記事書いてるわけなんですけど。

特にここ2,3年は、オリンピックを間近に控えてコミケ自体「これからどうすんの」という話が極めて深刻性をもって継続されていますし、以前以上にデリケートな状況だと思います。とすれば、効果があろうがなかろうが、徹夜をやっている連中に対してやめろこのバカと声をかけていくことは継続して必要な作業なんじゃないのかなあと。

3日目終了時の、「ただいまをもって、コミックマーケット〇〇の日程を全て終了いたします!」というアナウンスと拍手を、今後も聞き続けられますように。深夜来場以外の参加者の皆さんには、実り多い参加であることをお祈り申し上げる次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:21 | Comment(13) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月25日

「足を引っ張る味方」の役割について、あるいはワールドトリガーすごいよねという話

こんなまとめを目撃しました。


物語における「トラブルメーカー」とか「足を引っ張る味方役」みたいなものを提起して、その存在についての好き嫌い、みたいな話ですね。これ自体は、最終的に好みの問題だと思うのでどうこういう話ではないのですが。


ただ、物語上の役割として「トラブルメーカー」「足を引っ張る味方役」について考えてみると、「展開に起伏がつけやすい」「「ピンチからの脱出」を演出する小道具として便利」ということは一般的に言えると思います。


何度か書いてるんですが、創作には、割と大きな面白さ配分として「まさか」と「さすが」の二つの気持ち良さというものがある、と私は思っています。「まさか」というのが、ピンチからの逆転とか、舐められている主人公が力を見せつけたり大成長して周囲をびっくりさせる、要は逆転の気持ち良さ。「さすが」というのが、最初から強いと認められているキャラクターが評価通りの活躍をする、要は信頼の気持ち良さ。

で、今回は特に「まさか」の話なんですけど。

物語上で「まさか」を演出する為には、「味方の立ち位置を下げる」ないし「敵の立ち位置を上げる」ことのどちらかが必要になります。「逆転させるんなら、まずどっちかが有利/不利にならないとダメじゃん!」という話。当たり前のことですよね。この立ち位置というのは、元々の強さだったり、展開上の有利不利であったり、とにかく物語上の「その時点の有利さ」だと思ってください。

この「立ち位置の上げ下げ」をどれくらい説得力を持って行うか、というのは、その作者さんの腕の見せ所です。ここで説得力がないと、そのお話は急に嘘くさくなってしまいます。「頭脳戦の筈なのに敵がバカ過ぎ」って言われちゃったり、「展開が都合良すぎ」とか言われちゃうお話は、ここで「立ち位置の上げ下げ」を上手く行えていない、と考えることが出来ると思います。

で、この時、「立ち位置を下げる手段」のパターンって色々あるんですけれど、その時「足を引っ張る味方」「トラブルメーカー」って、お話の構成上凄い便利なんですよ。

勿論お話には色んなパターンがあるんですけれど、

・そのキャラクターのフォローや反発という形で、ごく自然に他のキャラの評価を上げることが出来る
・相対的に他のキャラクターの有能さ・頭の良さを強調することが出来る
・キャラクターの個性づけを強調することが出来る
・場合によってはそのキャラを排除、ないし何等かのマイナスを付与する(そのキャラがひどい目にあうとか)ことで読者の溜飲を下げることが出来る
・「敵を有利にする」要素だけに頼らずに済む

この辺りはぱぱっと挙げることが出来ます。例えば、「頑迷で物分かりの悪い味方の無能上司」みたいなキャラだったら、そのキャラを手ひどくやりこめることで味方キャラの株を上げる、とか。「味方の中の、力自慢だけど頭は悪い」みたいなキャラだったら、ピンチを作った上で戦闘で活躍させることで挽回させる、とか。

あと、結構大きなところで「頭がいいキャラを作る為には、頭が悪いキャラとの対比がないと難しい」という問題がありまして。相対的な頭の良さを演出する為に、敢えて頭が悪いキャラを出す、というのはよくある手段です。


まあ、勿論描写の良い悪い好き嫌いはあると思うんですけど、「足を引っ張る味方」というのは、ストーリーテリング上ではとても便利な存在なんだよ、というのは言えると思います。


ところで。

いきなり話がものすっごい飛ぶんですけど、ワールドトリガー、みなさんご存知ですか?面白いですよねワートリ。葦原先生がご快復して続きを描いて頂けるのを心待ちにしております。


以前、ワールドトリガーについてはこんなことを書きました。


で、このワールドトリガーを読んで、もう一つ凄いなーと思ったのが、この漫画「足を引っ張る味方」とか「立ち位置を下げる為に、敢えて無能描写されてるキャラ」というのが、本当に殆どいないんですね。いや、勿論やられ役的なキャラはいないこともないんですが、いかにもトラブルメーカーとか、いかにも無能そうなキャラっていうのが、いない。話が通じないキャラがいない。


例えばボーダーで言うと、ボーダー内の人たちって皆基本凄い「ちゃんと仕事をしている人たち」ばっかりで、わざわざ足を引っ張るような「イヤなキャラ」というのが本当にぜんっぜんいないんですよ。

時には主役勢と敵対することもあるけれど、ちゃんと話も通じるし交渉も出来るし、必要に応じて柔軟な姿勢も見せるボーダー上層部とか。鬼怒田さんなんか、最初は「頑迷キャラかな?」と思わせておいて、実はぜんっぜん有能なキャラでしたしね。

誰もかれも、戦況を的確に判断して、きちんと押し・引きが出来ているA級・B級上位隊員勢とか。

勿論ミスをしないわけではないけれど、一人ひとりがちゃんと自分の仕事をわきまえて行動しているC級・B級中位・下位隊員勢とか。新三バカですら、まあすごいちっこい部分ですけど仕事してるわけです。

「話が分からない」「自分の仕事をしていない」というキャラが、いない。強いて言うと太刀川チームの唯我なんてギャグキャラめいた感じですけれど、彼も別に物語の役割上では「足を引っ張る」キャラクターではなく、むしろ三雲を鍛えるのに協力する方のキャラクターですし。色々わがまま言うという点では香取さんとかちょっとトラブルメーカー寄りの描写でしたけど、それでもランク戦中はきちんと自分の仕事をして、最大限自分のチームの得点を取る為に最善の行動をしようとしてますしね。


これ、特にアフトの大規模侵攻の時の描写が顕著で、「敵も味方も全員、ちゃんと自分の仕事をしている」「誰も「足を引っ張る」ヤツがいない」「その上で、味方がちゃんと大ピンチになる」「その上で、ちゃんと逆転のカタルシスもある」という、よく考えると物凄いことをやってると思うんですよね。アフトクラトル側も、まあエネドラがちょっと暴走キャラですけど、ちゃんと「敵をひきつける」という仕事は遂行していて、ボーダーの指揮官まで引っ張りだしている。皆物凄い「有能な強敵」なんですよ。

「勝負」の描写をする時、「勝因と勝因のぶつかり合い」だけで逆転を描き切るのってかなり難しいんですよね。

勝因って、書くの結構難しいんです。現実でも、勝因のない勝利はあっても、敗因のない敗北はない、とか言いますしね。「どっちかが強かった」だけだと話は作りにくいし、逆転のカタルシスも演出しにくい。

どちらかというと、どちらかに明確な「敗因」があった方が、読者も分かりやすいし、勝敗に説得力をつけることも出来る。で、その「敗因」にも、無能な味方とか、トラブルメーカーのミスって本来便利に使えるんですけれど。

けれどワールドトリガーの、特に大規模侵攻戦って、「誰もミスらしいミスをしてない」んです。これ凄い。「敗因」がない。相手をひきつける役はひきつける役で、ちゃんと戦略上での得点を挙げてる。それでも、随所随所で相手の仕事を上回る仕事をするキャラクターがいて、結果として「ピンチからの逆転」で主役側が勝利を収めている。


こういう展開をきちんと描ける人って、そうざらにはいないんじゃないかと思います。


勿論、上で書いた通り「味方の足を引っ張るキャラ」って物語展開上は凄い有用な要素ですし、私自身はそんな嫌いでもないんで、「そういうキャラがいない方がいい」ってことは全然ないんです。いていいし、使われていい。

けれど、「そういうキャラが全くいない」上で「ちゃんとした逆転」を描いている、ワールドトリガーってのはつくづく凄い作品だなーと、ついベタ褒めしたくなった次第なわけです。

繰り返しになりますが、葦原先生の一刻も早いご快復を祈念しております。

今日書きたいことはそれくらいです。











posted by しんざき at 06:49 | Comment(10) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月18日

デマかそうでないかに関わらず、ネット私刑は法整備して取り締まるべき

ねとらぼさんの、この記事を読みました。

神奈川県の東名高速道路で2017年6月、ワゴン車が大型トラックに追突され夫婦が死亡した事故で、無関係な企業が「容疑者の勤務先」としてネット上で拡散され、中傷や嫌がらせの電話が殺到するといった被害が起こっていることが分かりました。
これですね、ちょっと、当たり前のようで重要な前提を確認しておきたいんですが。

まず、

「無関係だろうがそうでなかろうが、私人が事件の容疑者や身内に私刑を行うのは犯罪」

ですよね?ここブレちゃいけないですよね?

これ、そもそも嫌がらせの電話を受けているのは、事件の容疑者と何の関係もない企業なので、それはそれでひど過ぎる話なんですけれど、「たとえこれが本当に容疑者の関係者だったとしても、あるいは容疑者本人であったとしても、個人情報を晒したり、嫌がらせの電話をしたりするのは犯罪以外の何者でもない」というのは当然の認識としてみんなが持っておかないといけないと思うんですよ。

これ、私、以前から何度か同じようなテーマのこと、書いてます。



今回のケースも、結局スマイリーキクチ氏の中傷被害事件と同じ構造ですよね。誰かが、主観的な正義感に基づいて「犯人」の個人情報探しをして、溜飲を下げる為にそれをネットに晒して。で、それに、同じく色んな「溜飲を下げたい人」が食いついて。

何度も言ってるんですが、

「私人が、誰かの個人情報を「犯罪者」「容疑者」として晒すと、どこかで絶対にデマが発生するし、それに基づいてスマイリー菊池氏のような冤罪ネット私刑が発生するし、それ以前にそもそも私刑はやってはいけないこと」

なんですよ。

どんなひどい事件であろうと、感情に任せて「犯人探し」「身内探し」なんてやっちゃいけないし、それに基づいて晒された情報なんて信じちゃいけないし、勿論拡散してもいけないし、ましてその情報を元に身内叩きなんて絶対やってはいけないことなんです。

これ、「いつどんなタイミングで、自分が標的になるか分からない」ことですからね?これを書いている私だって、読んでいるあなただって、本当にどんな拍子で、「容疑者」「容疑者の身内」として糾弾されることになるか分からない。そして、それに対して反撃、ないし防御するのは本当に難しい。ヘタすると半永久的に、身に覚えのない「犯罪」の「犯人」として、自分の顔や名前が晒され続けかねないんです。

大げさでもなんでもなく、我々はそんなケースをもう何度も何度も見ている。


これが例えば、「万引き犯の顔写真を店が晒した」みたいな話になると、とたんに「よくやった!」とか「警察が動かないから仕方ない」みたいな意見が出てくるの、正直個人的には理解不能です。間違えるんですよ?警察ですら間違えることがあるのに、店が間違えない保証がどこにあるんですか?

もし間違えて、その無関係な他人に「犯人叩き」が始まったら本当に取返しが付かないし、たとえ間違えていなかったとしても「その容疑者を無関係の皆で寄ってたかって叩く」ことに一体どんな正当性があるんですか?

例えば、宮崎勤事件で、彼の父親が周囲からの中傷に耐えかねて自殺してしまった件とか、ちょっと前にもtwitterなんかで話になってましたよね。まああの時は報道もひどいものでしたけれど、無関係の人たちによる中傷被害もホントひどいものでした。

司法と何の関係もないところで、「単に誰かを叩いて気持ちよくなりたいだけの人」が、(犯罪とは無関係かも知れない)私人に対して私刑を行う。これが正当化されるケースなんて存在するんですか、っていうのが私にとっては物凄く疑問です。


そこから考えると、「(実際に容疑者、容疑者の身内であるかどうかに関わらず)誰かの個人情報を、何かの事件に結び付けてネットに晒す」「その晒しを見て、対象に対して何かしらの嫌がらせを行う」という、いわゆるネット私刑って、速やかに法整備を行ってきちんと取り締まらなくてはいけないんじゃないかと強く思います。


今回のような、ある意味実際の事件以上におぞましいネット私刑が、出来るだけwebで発生しないようになることを祈念しております。


今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 07:32 | Comment(19) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

仲間・身内と一緒だと途端に頭を下げられなくなる人


そういう生態の人がいる。実際に、いる。

以下、そんな厳密な話でもないことはご承知おき頂きたい。雑感だ。

こういう人は、一人だと意外な程大人しい。礼儀正しい、とまではいかないことも多いが、まだ割と大人しい。注意されたらふてくされながらも謝るし、強く出られたら逃げる。

が、例えば仲間の前とか、彼女の前なんかだと途端に豹変する。自分の非がいかに明確でも認めないし、注意されたら逆ギレするし、時には暴力的に恫喝することもある。


これ、いろいろ観察したり話を聞いていると、「仲間と一緒なので気が大きくなる」というシンプルなものとはどうもちょっと違うらしい。


むしろ逆だ。「仲間の前で頭を下げることになると、仲間の間での序列が下がるようで、それに耐えられない」「仲間に弱みを見せられない」「仲間の前で注意されると、恥をさらされたようで無性に腹が立つ」という心理のようなのだ。勿論、「強く出ても集団であれば反撃されにくい」という前提条件みたいなものはちゃんと計算しているのだろうが、本人の気分的には防衛意識に近い、らしい。主観的には、「立場を守る」「自分を守る」為にやっていることなのだ。

だから彼らは、「別に相手を脅すつもりではなかった」と言う。「注意されたから反撃しただけ」と言う。飽くまで「反撃」なのだ。


身内の前で注意されること、非を認めることに耐えられない。


こういう話は、私が関東圏のとある田舎に住んでいた頃、町内会の知人から聞いた話だ。町内会というのは、どうも地域によって年齢層にかなりの開きがあるようで、私が今住んでいる東京区内では60未満の人など私を含めて数える程しかいないのだが、その田舎町では20代、30代の人もそこそこの人数、いた。多分、小さな町の中だけで人材が還流しているので、小さな規模ながらもそこそこ世代交代が回っているということなのだろう。

田舎町の町内会というのはなかなか面白い組織であって、本当に色んな職種、色んな世界の人間が集まる。地元の有名校の校長先生と、暴走族をやっていたらいつの間にか40近くなっちゃいました、みたいな人が普通に同じ場所でビール飲んだりしている。あの空間は結構面白い。

ただ、そんな中でも私は、この「仲間・身内と一緒だと途端に頭を下げられなくなる人」の存在を、田舎のオラついている人たちの間だけで観測出来る習性だと思いこんでいた。いわゆる「DQN」と言われるような人の特徴だ、と。


どうもそうでもなさそうだ、と思うようになったのは割と最近のことだ。


東京に出てからも、形を変えて、この手の習性は結構な範囲で観測できるようだということを知った。下記は、私が実際に観測した、「子どもの前では謝れない」というお父さんの話だ。



東京で、普通に会社勤めで、普通に立場もある人の話だ。この人と上記の人たちの共通点は、


・普段は大人しい
・身内の前では急に謝れなくなる
・謝ることを「弱みを見せること」だと考えている
・謝れない時に態度が妙に攻撃的になる


この辺りだ。どうも、心理傾向的に根差しているものは同じものである、ような気がする。

そう気づいた時、ちょっと怖くなった。

上記のお父さんの話を書いた時も、「自分はそうではない」と私は思っていた。非を認めることは、むしろお手本として子どもに見せるべき姿だ、と思っていたし、今でもそう思っている。

けれど、この心理傾向がそう特殊なものではないということは、多かれ少なかれ誰にでもそういう傾向はあり得る、ということだ。自分は無関係だと断言するのは難しいということだ。

謝ることは恥ではない。非を認めるのは恥ではない。

しかし自分は、本当に「身内の前で謝ることを恥と考える」傾向と無縁なのだろうか?


webでは「謝ったら死ぬ病」という言葉があって。明らかに非があるのに、それを指摘する人に対して妙に攻撃的になり、絶対に非を認めない、という人はそんなに珍しくない。

で、そういう人と、例えばDMで、一対一でやり取りすると、案外大人しかったり、非を認めることが普通に出来る人だったりする。

これも、言ってみれば「身内(フォロワー)が見ている前で謝ることは出来ない」という、一種の共通した心理傾向なんじゃないかなーと、なんとなく私は想像する。


仲間・身内と一緒だと途端に頭を下げられなくなる症候群というのは、実は極めてありふれた症例なのではないか。自分がその症例と無縁かどうかというのは、誰しも慎重に判断するべきことなのではないか。


東名高速の事故の話を見て、なんとなくそんな風に考えたのだ。


posted by しんざき at 23:49 | Comment(10) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

ゲームハードというものは、多分一人一人にとって違うものなんだ

これは反省を込めての話なんですが。

昨日の記事につけて頂いたブクマコメントを見ていて、つくづく感じ入ったことがありまして、

「みんなにとってそれぞれのセガサターンがあるんだなあ」

ということなんです。


サターンって面白いハードでして、セガサターンの話が始まったとなると、なんか色んな人がわらわらとやってきて、自分にとっての「サターンの名作」について語り始めるんですね。そういえばこの記事でもそうでした。


皆さんが挙げるタイトルって、当たり前ですけど皆人それぞれで。一人ひとりにとって「自分のセガサターン」というものがあって。

これは多分、サターンだけでなくどんなハードでも同じだと思うんですが、ハードから得られる体験って10人いれば10人違うんですよ。一つのハードに無数のソフトがあって、どのソフトを遊ぶかによって丸々体験は変わってくるので、当たり前といえば当たり前なんですが。

だから、私にとってのセガサターンは「主にSTG、特に移植ものSTG、あとガーヒー他プラスアルファのセガサターン」だった訳なんですが、それは他のセガサターンに否定されるものでも、他のセガサターンを否定するものでもなく。

そういう意味では、「セガサターンといえばギャルゲー」という言葉がたとえ単発だったとしても(単発ではなかったわけなんですが)、それはそれで「誰かにとってのセガサターン」だったと思うんですよ。そういう意味で、早とちりだけでなく狭量だったなー、と反省することしきりなわけです。


実際サターンのギャルゲー名作もたくさんありますしね。ウィザーズハーモニー、エターナルメロディ辺りは私も通った道です。エターナルメロディはめっちゃ面白かったけど、アレももう20年以上前なんですね。。。あとこれは私の知人の話なんですけど、「俺にとってのラブプラスはRoommate 井上涼子だけだ」っていって頑なに井上涼子との愛を育み続けてた人がいました。懐かしいですね。

誰かにとってのセガサターンが、他の誰かにとってのセガサターンを否定してはいけない。それは地獄への道だ。

そう反省した次第です。申し訳ございませんでした。


けどもし「サターンはギャルゲーだけ」という言い方をする人がいたら、にっこり笑顔で大量のサターン名作をお勧めする所存です。よろしくお願い致します。

一旦以上です。


posted by しんざき at 07:16 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

ビッグコミックスペリオールの「チェイサー」がとても面白いです

ところでしんざきは結構漫画を買いますし読みます。ジャンルは雑食ですが、ややスポーツ系漫画多めかも知れません。

で、今週刊連載している漫画も勿論読んでいて、その中でも特に安定して面白い五作を挙げろと言われれば、多分「キン肉マン」「ベイビーステップ」「アオアシ」「チェイサー」「火ノ丸相撲かDr.Stoneのどちらか」を挙げると思います。5つ目が諦め悪いですがそこは勘弁してください。どっちも面白いんですよコレが。

勿論私はこれといってマイナー趣味でもないですし、特に漫画通というわけでもないのでよく聞く名前ばかりだとは思うのですが、そんな中でも「チェイサー」だけは、何故かブログ等でのレビューであまり名前を聞かないような気がしています。面白いのに。

ということで、今日は「チェイサー」について、みなさんにおススメする記事を書いてみたいと思います。


「チェイサー」。ビッグコミックスペリオールに、月一、ないし隔月で連載。この辺は若干不定期で、載っている時と載っていない時がある、というような印象です。

作者はコージィ城倉先生。いわずと知れた「おれはキャプテン」や「砂漠の野球部」などの野球漫画の他、たとえば「グラゼニ」や「江川と西本」などで漫画原作もこなしていらっしゃいます。江川と西本も面白いですよね。あれもスペリオールですけど。

どんな漫画かというとこの漫画、「漫画家視点での漫画業界漫画」です。もう少し言ってしまうと、「昭和時代の漫画家から見た手塚治虫伝記」という言い方も出来るかも知れません。

この作品の主人公は、「海徳光市」という「それなりに人気のある漫画家」。それなりに人気といっても、物語開始当初から少年画報や冒険王を含めた三誌に連載を持っているので、現在の視点から言うと結構な人気漫画家のように思えます。彼は、(自称)特攻隊くずれという経歴を持っており、特に戦闘機の漫画を得意としています。

ただ、この海徳先生、実は重度の手塚ファンであり、かつ自分ではそれを認めていないという「手塚コンプレックス持ち」。

チェイサー003.png

こんな感じで、口では色々と手塚漫画に駄目出しをして、「手塚治虫を認めていないオレ」という演出をしているわけなんですが、

チェイサー002.png

実は、手塚治虫の殆どの作品を所有していて、手塚漫画についてであればバリバリ語れちゃうような人なわけです。

まずは、この海徳先生の二面性の描写がものすごーーく面白い。

海徳先生自身、既にそれなりに人気がある漫画家だというのに、彼はいつまで経っても手塚コンプレックスが抜けません。締め切りに苦労する訳でもない、特段切羽詰まらなくても作品が描けるくらいの筆力があるというのに、わざわざ手塚治虫のやり方を真似して、その結果色々と失敗をしたりする。

チェイサー001.png

例えばこの辺は、手塚治虫の有名な伝説の一つである、「複数作の編集者を待たせて、作品毎順番にページを書き上げていく」というアレを模倣したものですね。上でも書いたように、海徳先生自身は別に遅筆ではないので、こんなギリギリなことをしなくても作品を完成出来るんですが、彼の手塚コンプレックスが「俺だってこれくらい出来る!こういう風にやってみたい!」と思わせてしまうわけです。旅館から逃げ出すところまでやってしまったりとか。あなた別に逃げ出す必要ないでしょ。

この漫画、特に一巻から二巻は「視点を変えた手塚伝記」的な部分が強く、手塚治虫の様々なエピソードを、「ああ、当時の漫画家だったらこういう風に感じたのかな」という物凄いリアリティと、海徳先生のコンプレックス描写で、超サクサクと読ませてくれます。

単なる手塚伝記とはまた違った、「同時代のライバル」の眼から見た巨匠・手塚治虫。手塚先生本人が劇中に登場する機会はあまりないのですが、それでも全編に漂っているその存在感は、当時の漫画業界の中での手塚先生の存在感をそのまま感じさせてくれます。ああ、同時代、同業界から見た手塚治虫ってきっとこうだったんだろうな、という程のリアリティ。これはもうコージィ城倉先生の手腕としか言いようがありません。

手塚治虫という人は紛れもない「天才」だった訳で、「同時代から見た天才というのは何者なのか」を描いている作品でもあると思います。

一方で「チェイサー」は、「海徳光市という漫画家」の活躍譚、出世物語としても極めて高い完成度を見せてくれます。

手塚コンプレックスを抱え、巨匠の影を常に意識しながらも、なんだかんだで頑張って仕事をこなす海徳先生。連載も増やし、アシスタントも増え、結婚もし、時には波乱もありながら、彼は昭和の漫画業界を泳ぎぬいていきます。あれこれ新作の構想を練るエピソードやアニメ化のエピソード、連載作の人気の浮き沈みのエピソードなんかは、手塚コンプレックスの描写抜きでも、そのまんま「漫画家漫画」として成立する緻密さを備えています。

海徳先生、なんだかんだで実力はあるので、仕事すればちゃんと人気出るし、時には連載作が大ヒットして一躍時の人になっちゃったりもするんですよね。4巻以降はどう考えても「大御所」といっていいくらいの人気漫画家になっている筈なのに、それでも手塚コンプレックスを解消出来ず、様々手塚治虫の模倣を行い、時には「自分の作品のことはともかく手塚漫画が気になる」というくらい手塚ファン丸出しの海徳先生。

彼のキャラクターの一つとして、「自分の漫画の人気については意外と淡泊」という特徴がありまして、いや勿論人気のあるなしで一喜一憂したりはするんですが、そのモノサシもなんだかんだで手塚漫画だったりするので、色々な意味で首尾一貫していて好感が持てます。


「どんだけ人気が出ても天狗にならない(特にそう心掛けているわけではなく手塚コンプレックスのせい)」というのは、海徳先生というキャラクターの、一つの大きな好感部分だと思います。


連載中の現段階では、手塚作品の人気の落ち込みに伴い、ようやく手塚コンプレックスが解消されてきた(ように見える)海徳先生。時は1973年。虫プロ商事と虫プロダクションが倒産し「ああ、手塚もそろそろ終わりかな…」という空気が流れる中、ここでついに、「手塚先生がチャンピオンで連載を始めるらしい」という話が出てきまして、もうアレですよ。皆さんお分かりのアレです。おおついに伝説のアレがくるのか!!!というところなわけでして、海徳先生の反応が大変楽しみです。どうなるのかなあ。

ちなみに、「チェイサー」については、コージィ城倉先生のインタビュー記事も出ており、今でも参照できます。こちらです。



海徳先生は、劇中あちこちで「この人物は実在した」と描かれているのですが、だれか一人を特にモデルにしたわけじゃないみたいですね。戦闘機ものっていうことで最初は新谷かおる先生をちょっとイメージしたりしたんですが、時期からなにから色々違いますしねー。

ということで、何はともあれ「チェイサー」は大変面白いので、みなさん今からでも単行本買って読みましょう。まだ4冊しか出てないので簡単に集められると思います。画像出すのに便利なんでAmazonリンク使ってますが、別に下記リンクからじゃなくていいんで。

チェイサー(2) (ビッグコミックス) -
チェイサー 3 (ビッグコミックス) -


今日書きたいことはそれくらいです。



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posted by しんざき at 07:23 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月30日

この音、好きですか?嫌いですか?

ちょっと興味本位で記事を書いてみます。

まず、何も言わずに、ちょっとこの動画を見てみてください。というか、音を聴いてみてください。


「tarqueada(タルケアーダ)」という様式の曲です。「タルカ」という笛をみんなで吹きながら奏でる音楽で、お聴きの通り、例えばピアノとかギターのような、西洋音楽の音階とは全く違った音がすると思います。


しんざきはケーナ吹きです。なんだかんだでケーナを吹き始めて20年くらいになりまして、ケーナを使って南米民族音楽を演奏したり、あるいはゲーム音楽を演奏したりしています。


で、ケーナというのは勿論もともと南米はアンデスの楽器でして、特に南米の伝統音楽である、いわゆる「フォルクローレ」と関連が深いです。ボリビア、ペルー、チリといった辺りの伝統音楽はしんざきの大好物です。ルミリャフタとかイリャプーとかカルカスとかキラパジュンとかインティ・イリマニとか超かっこいいですよね。いや、一番好きなのは実はカルチャキスなんですけど。

で、フォルクローレの中でもケーナは割と西洋音楽と相性がいい楽器で、というか現在の一般的なケーナは、西洋音階に適合した形でチューニングされているのが普通です。一番よく見るケーナはG管っていいまして、ト長調(F#)の音階が吹きやすいようチューニングされています。

ただ、アンデスの土着の楽器、もっと伝統的な形の音楽がありまして。アウトクトナ音楽っていうんですけど、伝統的な祭事や儀式とともにあった音楽、西洋音楽が伝わってくる以前からアンデス地方に存在する音楽です。

ですから、アウトクトナの音って西洋音階とは全く合致しないんですよね。ドレミファソラシドに全然乗ってないんです。独特の音だなーっていうのは聴いて頂ければ分かると思います。

その為、例えばずっとピアノをやっていて絶対音感がある方とか、西洋音楽に親しんでいる方には、この音楽はすげー違和感があって気持ち悪いらしい、聴くのも苦手な人も結構いるらしい、という風に聞いていました。ただ、実際にフォルクローレをやっていない人に、アウトクトナ音楽の感想を聞いたことがなかったので、ちょっとお聞きしてみたいと思った次第です。どうですかね?

しんざきはもともと、高校までは殆ど音楽と縁がない人間でして、ピアニカを吹いた記憶すら殆どなかったもので、フォルクローレやアウトクトナ音楽にもあっさり馴染めました。いやホント、リコーダーすら満足に吹けなかった私が、なんだかんだで楽器の世界にどっぷり浸かっているのですから、人生なかなか分からないものです。

ちなみに、アウトクトナ音楽っていってもいろいろありまして。勿論、同じタルケアーダでも色んな曲があります。例えば私は、タルケアーダの中でもこの曲が一番好きです。歌もいい感じですよね。なんか久々にタルカ吹きたくなってきた。


ということで、興味本位のエントリーでした。

今日書きたいことはそれくらい。







posted by しんざき at 23:09 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月27日

え、これ悪文ですか?どこが?


昨日の記事の続きです。

「悪文」の定義は、大辞林に拠れば「難解な言葉を使ったり,文脈が乱れていたりして,理解しにくい文。へたな文章。」ということでして、要は「理解しにくい」ということがポイントになるので、まあ時代時代で基準も変わってくるのだろう、というのは分かるのですが。

それでも、

「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」


「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」

が「悪文」呼ばわりされてしまうのは個人的にはかなり違和感があります。

ただ複文と単文をつなげてるだけでしょ、これ。しかも読みやすくする為に構文的な読点まで使っている。これが「悪文」になっちゃうなら、世の中どれだけ悪文だらけなのかって話ですよ。青空文庫に収録されている、ちょっと前の文学作品なんて悪文のアジトみたいなもんじゃないでしょうか。

あと、「和牛が人気の牛肉」という表現が分かりにくいって言われてしまうと、属格の「の」全否定ですかって感じでちょっと途方に暮れてしまうんですが…。

ちょっと構文上複雑なだけの文章にいちいち「悪文」というレッテルを貼っていくと、やがては単文の組み合わせでしか文章が構成できなくなっていくんじゃねえかと。あまりにも「一見した時の読みやすさ」という軸に基準が寄り過ぎなのもいかがなものかなーと感じます。


あと、「読点は言葉と言葉の関連を区切るために使われます」という言葉に引っかかっている人がいらっしゃったみたいです。読点の仕事は勿論それだけではありませんが、読点には構文上の役割もちゃんとあります。

出典が気になる人は、web上であれば、村越行雄先生の論文がいくつかあるのでご参照ください。この辺お勧めです。


書籍で言えば、野内良三先生の日本語作文術あたりをお勧めします。本としても面白いです。


ただ、読点の役割が混沌としているのは確かでして、本当に単純に語調を区切る為に使ったり、特に意味がない読点を入れても文法上の間違いになるわけでもないので、「通常」という言葉はちょっと強かったかも知れないですね。すいません。

あとこの問題とは全然関係ないですが、三上章先生の「象は鼻が長い」という作品、日本語構文の奥深さを学ぶ為に絶好の名著なんで、興味ある方は是非お読みください。損はさせません。



今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:01 | Comment(24) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

中高生の読解力テストの問題は特に悪い問題ではありません

この記事を読みました。

1.「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」

という文と、
2.「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」

という2つの文の指す意味は同じかどうか、という問題。
答えは「同じ」らしい。

簡単に解説します。

この問題は、一言で言うと「文章の構造を読み解く力を試す問題」です。文章の構造というのは、具体的には「どの言葉がどこにかかるのか」という話です。

例文となっている文章を改めて並べてみましょう。

1.「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」

2.「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」

最初の「輸出が伸び悩む中でも」というのは、どちらの文にも共通している言葉なので一旦除外して考えていいでしょう。

除外した上でもう一回並べてみると、

1.和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。

2.和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。


ぱっと見ごちゃっとした文章を比較しつつ読み解くには、まず共通した結論部分を見るのがポイントです。

この文章の結論は、「〇〇は好調だ。」という形になっています。何かが好調みたいですね。何が好調なんでしょうか?

ここで、「AやBは好調だ」という、二つの言葉に対して共に「好調だ」という結論がついている構造に気が付けるかどうかがポイントです。「Aは好調だ」と「Bは好調だ」という二つの文章を合体させて、「AやBなどは好調だ」という一つの文章にしているわけですね。

となると、例文1と例文2、それぞれでAとBの中身が変わっているかどうかを考えれば、二つの文章が同じ意味になるかどうかが分かります。この問題のポイントはそこだけです。


で、例文1において、AとBの中身はそれぞれ下記のような感じです。

・和牛が人気の牛肉
・和食ブームを反映した緑茶や日本酒

これらはそれぞれ、「和牛が人気の」「牛肉」というペア、「和食ブームを反映した」「緑茶や日本酒」というペアの二つに分けることが出来ます。


じゃあ、例文2の方は、AとBの中身はどうなっているでしょう?

・和食ブームを反映した日本酒や緑茶
・和牛が人気の牛肉

これ、例文1と変わらないですよね。単に「日本酒や緑茶」と「緑茶や日本酒」で順番が違っているだけでして、言っている内容は等価です。

つまり、例文1と例文2は、「AとBは好調だ」と「BとAは好調だ」といれかえているだけであって、意味としては「同じ」と判断できる、ということになります。


以下、冒頭の文章の方の疑問にお答えします。
「輸出が伸び悩む中でも、和牛が人気の牛肉や、和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」
「輸出が伸び悩む中でも、和食ブームを反映した日本酒や緑茶、和牛が人気の牛肉などは好調だ。」
2の文では、[和食ブームを反映した]のは[日本酒][緑茶][牛肉など]ということになるが、
1の文では、[和食ブームを反映した]のは[日本酒][緑茶]であって、
[牛肉]は和食ブーム以前から好調であるというふうに読み取れる。
通常、読点は言葉と言葉の関連を区切るために使われます。一般的には、読点で区切られている部分で言葉の関連は一旦切り離されます。おそらく、この点を明確に意識されていないことが誤解を生んでいるのかな、と思いました。

この文章において、「和食ブームを反映した日本酒や緑茶」と「和牛が人気の牛肉」の間は読点で区切られている上、「日本酒や緑茶」にかかるのは「和食ブームを反映した」という言葉、「牛肉」にかかるのは「和牛が人気の」という言葉で、それぞれ充足しています。言い方を変えると、読点でわざわざかかりが明確にされています。

つまり、2の文であっても「和食ブームを反映した」という言葉は「日本酒や緑茶」にしかかかりません。「和食ブームを反映した日本酒や緑茶」と「和牛が人気の牛肉」は読点で区切られているのでそれぞれ独立した言葉だ、ということになります。(ちなみに、ちょっとややこしいのですが、仮に「和牛が人気の」という言葉がなく、「和食ブームを反映した日本酒や緑茶、牛肉などは好調だ」という文章だった場合、「和食ブームを反映した」という言葉は牛肉にもかかります。これは読点の使い分けですが、この問題にはあまり関係しないので割愛します)


「和食ブームを反映した緑茶や日本酒などは好調だ。」という文。

「和食ブームを反映して、緑茶や日本酒などは好調だ。」なら通ります。

上で書いた通り、通常読点は言葉と言葉の関連を区切るために使われます。元の例文の場合、「和食ブームを反映した」という言葉と「緑茶や日本酒」の間に読点がないので、「和食ブームを反映した」という言葉は「緑茶」と「日本酒」両方にかかるものだ、ということが分かります。特に文法的におかしなところはありません。

後者の「和食ブームを反映して、緑茶や日本酒などは好調だ。」も、別に文章として問題はありませんが、和食ブームという言葉は緑茶や日本酒に直接はかかっていない形になるので、ニュアンスは若干変わってきます。「和食ブーム」という広い言葉をふわっと使って、その中の例として緑茶や日本酒を提示する、ということなら後者の文章の方が適していると思います。

上記の例文だと、「和食ブーム」と「緑茶や日本酒」を直接関連づけているので、後者の文章よりも言葉同士の関連が強くなります。


ブームというのはにわか人気のことですから、
2つの文は”牛肉が好調な時期の長さ”という点で違うと言えるはずです。

上で書いた通り、「和食ブームを反映した」がかかるのは「日本酒や緑茶」ですので、牛肉には直接関連しません。また、ブームがにわか人気という意味だということは、文章の構造を読み解くというこの問題とは特に関係がありません。


緑茶や日本酒はもともと和食のものなので、和食ブームを反映するというのは常識的に考えたら不思議な文章です。

和食が和食ブームを反映して好調になることは特に不思議ではないと思います。洋食が和食ブームを反映して好調になった場合は不思議です。

また、「和牛」が特定のブランドを指す名前で、「国産牛」とは違うということをどれだけの人が知っているのだろうかとも思いました。
「和牛」=「国産牛」のことだと思っている中高生には、
「和牛で人気の牛肉が輸出で好調」という文章は難解になると思います。

和牛が特定のブランドを指す名前だというのは、「文章の構造を読み解く」という点ではこの問題と特に関係がありません。



ということで、国語的には特に悪問ではないと思われるところ、「問題が悪い」と断言されるのはちょっと違う気がしたので解説させていただきました。

以上、簡単にご説明しました。よろしくお願いいたします。

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続きを書きました。



posted by しんざき at 16:50 | Comment(18) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

「科学万能主義」みたいなものを勝手に脳内で設定してシャドウボクシングしてる人


たまに見るんですが。

これは断言していいと思うんですが、「科学は絶対的に善であり、間違うことはない」「科学は万能である」と思っている人がいたとしたら、その人は「科学って何?」というところからよく分かっていない人です。

そして、私が知っている限り、ちゃんと論拠をもってニセ科学批判をしている人の中にそういう人は一人もいないと思うんですが、どういう訳か、「科学万能主義」「科学絶対主義」みたいなものをワラ人形に据えて、それを批判するという人は結構頻繁に目にします。


例えば先日、科学万能主義が云々、ということを枕に、牛乳有害説を取りあげている人を見かけました。どうもあまりアクセスを送らない方が良さそうな案件だったのでリンクは貼りませんが。

まあ牛乳については、乳糖不耐症の人とかもいるし、体質に合わない人は飲まない方がいいんじゃないの、けど牛乳自体が有害って言うのは明白におかしいよね、という程度の意見なんですが。私が知っている限り、牛乳有害説を批判している人の中に「科学は万能である」という人は一人も観測出来ないので、具体的には誰を指しているのか教えてもらえると嬉しいなーと思いました。

ちょっと前にはこんなツイートも観測しました。



「ニセ科学批判の人、かなりの割合でそうなっている印象がある。」ということなんですが、これも同じく、ニセ科学批判界隈の人で「科学は絶対的に善であり、間違うことはない」と言っている人を観測したことが一度もないので、出来れば具体名を挙げてもらえればなーと思います。


科学というのは凄く広い言葉なんで、一言で説明するのは難しいのですが、共通する方法論というのはあります。科学的方法とか、科学的手法とか言われるヤツです。



細かく解説すると長くなるんでざっくり書きますと、「測定可能性」「再現性」「論理的整合性」辺りがここで取り上げたいキーワードになります。

つまり、

・実験によって測定することが出来、
・同じ条件であれば、誰がやっても同じ結論を導くことが出来、
・証拠を元に、きちんと筋道だった結論が得られること

を科学の対象とするんだよ、という話ですよね。まあ分野によっても色々変わってはきますし、ここで書いてあることが全てじゃないのは当然ですが。

これって、裏返すと、

・一人で証拠もなしに勝手に導いた結果は科学的に正しいとは認められない
・反証の機会を提供しないものは科学的に正しいとは認められない

っていうことですよね。

つまり、「一人でやると間違えるから、色んな人が検証して、皆が正しいと賛同出来るものを正しいと考えましょう」というのは、科学の重要な考え方の基盤なんです。「人間は間違えるから、皆で確認しましょう」っていう考え方なんです。

ある事象が「科学的に正しい」と一旦認められたとしても、それが後から覆されることっていうのは全然珍しいことではありません。科学は、常に検証するものですし、常に反証可能性を考慮するものです。

現実、論文は色んな人に検証・確認(査読と言います)してもらえないと妥当だとは認められないし、一度認められたものが後からひっくり返されたりもする。

一人、あるいは仲間内だけで勝手に「正しい」と言っていることよりも、皆で「正しいかな?正しいかな?」と議論され続けられているものの方が信頼できる。多分当たり前のことですよね?


その辺のことが分かっている人であれば、間違っても「科学は万能である」とか「科学は絶対である」なんてことは言えない筈なんです。逆に、「万能も絶対も存在しないから、その時点でなるべく妥当だといえることを「正しい」と考えようね」というのが科学、という風に言ってもいいかも知れません。まあこれも随分ざっくりした話なんですが。


ただ、いわゆる科学的方法と相性が悪いものを信奉している人達にとっては、「科学絶対主義」「科学万能主義」というものが存在した方がどうも都合がいいらしいんですね。

「偏狭な」「自分たちの理屈以外を認めない」「他の考え方を許容しない」というようなイメージが科学にあった方がぶん殴りやすいし、「科学から迫害されているけど実は正しい私たち」を演出しやすい、ということなんでしょうか。科学を「権威」と設定して、敢えてその権威を否定してみせることで注目を稼ぐ、元々その分野をよく知らない人に「そうだったのか!」と思わせて信用させる、といったテクニックを使われる人も散見されます。


そういうの好きじゃないなあ、と。


私はどちらかというと科学的方法を信頼している方なので、科学を何か勘違いしたワラ人形にしようとしている人たちがいると気になりますし、「科学ってそういうもんじゃないと思いますよ」と言いたくなります。そういう人たち自身はもう手遅れだったとしても、もし同じように科学を誤解している人がいれば、出来れば誤解を解きたいなーと考えている次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 06:55 | Comment(26) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

「映画大好きポンポさん」の感想と、「まさか」と「さすが」の同時並行バランス、という話

「映画大好きポンポさん」を買いました。


いや、実はPixivに掲載されていた版で既に読んでいたんですが、大変楽しませて頂きましたし、長男やしんざき奥様も好きかもなーと思って書籍版で買っておこうと思ったんです。相変わらず面白かったですし、長男も大変楽しく読んでおりました。「ブラドックが出てきてから特に面白かった!」だそうです。

で、長男とも話していて、この作品は「まさか」と「さすが」のバランスがとても素晴らしいなーと思ったので、ちょっとそれについて書いてみたくなりました。ネタバレが混じるのでお気をつけください。

私は、漫画や小説の面白さを考える時に、「まさか」と「さすが」の二つのカタルシスが結構重要だと考えていて、以前からちょくちょくこれについての話をしています。あ、カタルシスというのは、まあ「気持ち良さ」という程度に読み替えてください。

まずは定義の話をします。


1.「まさか」と「さすが」のカタルシス、とは。

「まさか」というのは、要は逆転の気持ち良さ。周囲から評価されていない、あるいは弱い立ち位置のキャラクターが、「まさか」と思えるような大活躍をしたり、素晴らしい成長振りを見せたり、強敵に大逆転勝利をしたり。今まで舐められていたキャラが周囲を瞠目させる、といった展開は、この「まさかのカタルシス」の定番の展開です。「弱いキャラが大逆転すると気持ちいいよね?」という話です。


一方、「さすが」というのは、要は信頼の気持ち良さ。最初から高い評価を受けている、あるいは強い立ち位置のキャラクターが、期待通りの、あるいは周囲を納得させるような活躍をした時の気持ち良さ。師匠系立ち位置のキャラが無双したり、周囲が「流石〇〇だ」とつぶやくような活躍をした時の気持ち良さがこちらです。「強いキャラが大活躍すると気持ちいいよね?」という話です。

この二つの使い方が上手い、あるいはバランスが良い漫画や小説には、読者を気持ちよくさせる瞬間がたくさん含まれています。特に少年漫画の名作は、大体がこの二つを巧みに使い分けている漫画ばかりだと私は考えています。

これを前提に、「映画大好きポンポさん」について考えてみましょう。


2.「映画大好きポンポさん」におけるキャラクターの立ち位置。

映画大好きポンポさんには、主役といって良さそうなキャラクターが多分2人います。

一人が、タイトルにもなっているポンポさん。彼女は、映画界の巨匠ペーターゼン(多分ウォルフガング・ペーターゼンから名前を取っているのでしょう)の孫娘で、幼少の頃からその薫陶を受け、映画に関する才能からコネクションからリーダーシップから、様々な物を受け継いでいます。彼女は、「泣かせ映画で観客を感動させるより、おバカ映画で感動させる方がかっこいい」という持論の持ち主で、B級映画に分類されるような映画を作ってはヒットさせる、映画製作の達人として描写されます。

もう一人が、ポンポさんの助手のジーンくん。彼は、子どもの頃から「映画の中だけが僕の世界だった」という映画マニアで、ポンポさんから「ダントツで眼に光がなかった」と言われる、まあ言ってしまえば卑屈で自己評価が低いキャラクターです。物語は、彼の才能の開花を軸として動きます。

他、ミスティアやナタリー、あるいはブラドックといったキャラも勿論メインキャラクターなのですが、まずはこの二人、非常に対照的な二人のキャラクターが「映画大好きポンポさん」の主役、といっても特に問題ないでしょう。


3.「映画大好きポンポさん」における「まさか」と「さすが」の配分。

で、みなさんお分かりかと思うんですが、この漫画において、ポンポさんは「さすが」のキャラクターであり、ジーンくんは「まさか」のキャラクターです。二人は、漫画における役割を完全に分割しています。

ポンポさんは、インタビュー冊子で作者さん自身が語っているように、言ってみれば「無敵」のキャラクターであって、作品世界においては最初から最後まで最強です。映画というフィールドにおいて、作る作品作る作品全てヒットし、真面目に脚本を書けばサクっと大作を完成させるポンポさん。彼女は、周囲からの評価通りの活躍を軽々と飛び越え、ナタリーやジーンくんといったキャラクターの救済までこなしてしまいます。この漫画におけるスーパーヒーローです。

一方のジーンくんは、物語開始当初、周囲からなんの評価も受けておらず、自己評価の低さもしばしば描写されます。彼は、ただ一人ポンポさんによって、「社会に居場所がない人間特有の追い詰められた目をしている」というところを買われ、クリエイターとしての潜在能力の大きさに期待されています。

そんなジーンくんの(漫画的な)見せ場が、以下の二か所であることは多分間違いないでしょう。

・「MARINE」の予告映像を作り、コルベット監督とポンポさんから評価された場面
・マーティン・ブラドックの指揮の経験についてすらすらと語り、ブラドックから感心される場面

これ、「映画マニアとしての彼の才能、知識がまさに周囲から認められた瞬間」であって、彼の人生が結実した場面であると同時に、「弱い主人公が周囲の評価を覆す大活躍をして、周囲に認められる」その瞬間でもあるんですよね。まさに、上記でいうところの「まさかのカタルシス」のお手本のようなシーンだと思います。そして最終的に、ジーンくんは彼の周囲だけではなく、映画界において大きく評価されることになる訳です。

ポンポさんが活躍すると、読者には「強いキャラクターが期待通り活躍する」さすがのカタルシスが提供されます。

ジーンくんが活躍すると、読者には「弱いキャラクターが周囲の評価を覆す大逆転をする」まさかのカタルシスが提供されます。

映画大好きポンポさんという漫画において、「まさか」と「さすが」のカタルシスは、キャラクターごとに完全に分断されています。これは例えば、ミスティアとナタリーの二人の関係でも(ポンポさんとジーンくん程明確ではないですが)言えることです。

「映画大好きポンポさん」は、勿論描写自体上手いし背景知識も深いしとても面白い訳ですが、少なくとも私が楽しめた理由の一番大きなところは、この「カタルシスの配分」だと思っています。

キャラクターの役割を分けることによって、「まさか」と「さすが」のカタルシスを同時並行で読者に感じさせる、この物語展開はとても上手いなーと。読んでいて気持ちいいなーと。そんな風に、勝手に感心した次第なのです。


ちなみに、キャラクターの役割が「まさか」と「さすが」で分割されている作品自体は他にもたくさんありまして、例えば初期の「はじめの一歩」なんかその典型だったと思います。鷹村が「さすが」のキャラクターで、一歩が「まさか」のキャラクターでしたよね。一歩が段々強くなってしまって、キャラクターの役割配分が途中から上手くいかなくなっちゃった感も多少あったりもするんですが。SLAM DANKとかアイシールドなんかもそんな感じ(「まさか」キャラと「さすが」キャラの分割同時描写)でしたかね?


「映画大好きポンポさん」の話に戻りますと、各キャラクターの好きな映画三作について、おまけ漫画で掘り下げられていたのも個人的に面白かったです。特にポンポさんが痛快。

私自身は、映画自体あんまり見てないんで好きな映画三作っていうと子猫物語とゴジラとゴーストバスターズ(初代)とかになっちゃいますが、好きなレトロゲーム三作なら色々書けるかも知れません。


まあなにはともあれ、映画大好きポンポさん面白いですよねーと。PIXIV発の漫画っていうのも盛り上がって欲しいなーと思ったんで、長々書かせて頂いた次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。










posted by しんざき at 07:00 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月08日

敵役におけるドヤ顔問題、あるいはバーン様すごいよねという話


ドヤらない凄み、というものがある気がするのだが、大した話ではない。


「DRAGON QUEST-ダイの大冒険-」、という漫画がある。その名の通りドラゴンクエストの世界観を下敷きにした、少年ジャンプ漫画の金字塔の一角だ。連載は確か、1989年から1996年までの7年間だった筈なので、もう20年以上前の漫画ということになる。

元より、レベルアップあり、仲間あり、中ボスやら魔王ありというドラゴンクエスト世界観が、ジャンプ漫画のフォーマットと極めて相性が良かったということは論を俟たないだろう。時には敵が味方になる展開あり、時には意気地がなかった味方が覚醒する展開あり、時には仲間との死別ありと、稲田浩司先生の描写力もあいまって、実に熱い漫画だったと思う。


ところでここにバーン様がいる。


バーン様は、物語当初のボス格として提示される魔王ハドラーの、更に上に立つ存在であって、ドラクエ3で言えばバラモスに対するゾーマ様に当たる。主人公であるダイ達の前に立ちふさがる、最後にして最大最強の壁である。

ゾーマ様と同じく、バーン様も絶大な威厳とカリスマの持ち主であって、数ある「少年漫画のラスボス」の中でも、インパクトの強さや印象深さという視点では指折りの存在ではないだろうか。なんか世間ではアニメ評論のコラ素材に使われまくったりしているらしいが、まあそれはこの際どうでもいい。

で、細かいことはネタバレになるので簡単に触れるが、バーン様には老人形態と若者形態がある。老人形態でも十二分に強いのだが、若バーン様になると更にものっそいパワーアップする。

ここで注目したいのは老バーン様なのだが、彼には「殆どドヤらない」という特徴がある。普通の少年漫画ならドヤ顔をしてもよさそうな場面で、全くドヤ顔をしないのだ。むしろ淡々としているのだ。

ネットでは非常に有名なシーンなのだが、こんなコマがある。

バーン様.png

バーン様の強烈な火球を見て「メラゾーマか」と勘違いをしたダイ達に対して、「今のはメラゾーマではない…」という前置きをしてから放った一言がこれである。大魔王の魔力をもってすれば、基本呪文のメラでさえ恐ろしい威力になるという、バーン様の凄み、バーン様という壁の強大さを端的に表した名シーンであると思う。

この時のこの表情、お気づきと思うが、バーン様全くドヤってない。むしろ淡々とした、「魔王が強いのは当たり前やん…説明すんのメンドくさ…」とまで言いたげな無表情。


これこそがバーン様の凄みではないかと思うのだ。


つまり、バーン様にとって「大魔王が物凄く強い」などということは当たり前のことであって、それをいちいち強調する必要などないのだ。ダイ達が力の差を見せつけられて委縮しようがしなかろうが、それすらバーン様にはどうでもよく、自分が絶対的優位なのは当然のことなのである。そこでいちいち得意げな顔になる必要などないのだ。

ここだけの話ではなく、この後の「これが余のメラゾーマだ」のところでも、僅かに口角は挙がっているものの、ドヤ顔という程のドヤ顔は見られない。それでいて、「鍛え上げて身につけた強大な力で弱者を思うようにあしらう時気持ちよくはないのか?」と、特に優越感を誇ること自体は否定しないのがバーン様である。この重厚さ、懐の深さが、バーン様の威厳の源泉であると考えるのはそれ程おかしいことではないだろう。まあ老人顔である影響もあるかも知れないが。


一般的な少年漫画のボス格というのは、むしろ主人公たちの絶望を煽るような場面で、ドヤ顔をすることの方が多い。例えば、これもweb上では超絶著名なドラゴンボールの敵ボスフリーザ様。

フリーザ様.png

このドヤ顔はどうだ。別にそれが悪いという話ではなく、ドラゴンボールの敵役というのは割と頻繁にドヤ顔をするのだが、フリーザ様はその傾向が特に顕著である。ドヤ顔に手足をつけて戦闘力53万を投与するとフリーザ様になる、といっても過言ではない。

といっても、フリーザ様は勿論これはこれで完成されたキャラクターであり、相手を積極的に絶望させにかかるところも含めてフリーザ様の個性なのであって、悪役としてのフリーザ様がバーン様に劣る、とかそういう話ではない。

ただ、「ドヤるかドヤらないか」という軸自体はおそらく存在し、少年漫画における多くの敵役が「どちらかというとドヤる」という特徴を持っている中、バーン様のドヤらなさは特筆すべきであり、そこがバーン様の魅力の重要な一部分である、という話をしたかった次第である。(若バーン様については実は若干のドヤ分がある気もするのだが、まあ今回は老バーン様の話なので割愛する)

あと、もう一つ「敵ボスが全くドヤ顔をしない」という作品について、私は聖闘士星矢の可能性を考えているのだが、こちらについてはまた色々と材料を集めて語りたいと思う。あの人たち大抵めっちゃ真顔で決めポーズとってるんでドヤ分少ない気がする。先に断っておくが、デスマスクは例外。


今日書きたいことはそれくらい。



posted by しんざき at 07:13 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする