2019年02月07日

マナーコンサルタントの言う「お気持ち全面配慮」というスタンスがひどいと思った件

「他人の気持ちに配慮する」とか、「他人を不快にさせない」ということが重要でない、とは言いません。社会生活を営む以上、人と関わらないで生活をすることは不可能なんですから、お互いなるべく快適に過ごせた方がいいことは間違いないでしょう。会う人会う人、ゼンツッパで快不快を戦わせるのも面倒な話です。

ただ、これは飽くまでファールラインの話であって、どこかに必ず「それ以上配慮する必要はない」「それは配慮を求める方がおかしい」というラインがある。このラインを厳密に定めることは確かに難しいですが、少なくとも「いやそんな配慮を求められるのはおかしいのでは?」ということを指摘する、自分にとってのファールラインを明示して調整することは必要でしょう。

相手の「不快なお気持ち」を無限に気遣う必要はない。相手の「不快なお気持ち」をあらゆるシーンに渡って優先するのは、それは単にファールラインの提示と調整から逃げているだけ、言ってみればお気持ち奴隷根性です。

なんの話をしているかというと、この記事の話です。

この記事、「ああ、マナー講師とかいうのは、こういうスタンスでマナーを粗製乱造しているのか」ということがよく分かって、ある意味貴重な記事だと思うんですが。

ちょっと記事を一部引用します。



ファミリーレストランで食事の後、薬を飲もうとしたところ、隣の子連れ客に「人前で薬飲むのはマナー違反」と注意されたうえ、「食事中に薬を飲むなんて気持ち悪い」と心無い言葉を浴びせられたのだという。

また、ごまちゃんは、その後のツイートで、「ご高齢の方の中には“人前で薬を出すのはみっともない”という認識で育った方も一定数いるよう」とも書き込んでいる。


このまとめの話ですね。

具体的な内容についてはともかくとして、ざっと反応を見る限り、「そんなマナー聞いたことねえよ」という反応が大半を占めていることは分かります。つまり、少なくともこの「人前で薬を飲むのはマナー違反」という認識は、多数の人によって共通認識が形成されたものではなく、マナーなんだかそうでないんだかよく分からない「ファールライン上の話」であることが明白です。

個人的な感覚としても、「薬を飲む必要性」というのは人それぞれ、場合によっては生きるか死ぬかの話であって、それに対して「人前で飲むべきではない」などという言葉を投げかけるのは理不尽要求以外の何者でもないと感じます。人前で飲むことを避ける為にその人が死んだら一体だれが責任取るんですかって話です。

ただ、それに対して、冒頭記事の「マナーコンサルタント」の方はこうおっしゃるんですよ。


「薬を飲む側の人」は、飲まないと体調に関わるから飲みたいですし、飲まないといけない。
どうすればいいのかといいますと、レストランや職場など周りに人がいる場所で薬を飲んでいると、周りの人に体調の心配をさせたりとか、薬を飲むことを不快に思う人がいるかもしれないと想像して、緊急度に応じて、飲む場所やタイミングを考える。

命や体調に関わることだと思いますので、基本的に飲んでもいいですよね。
ただ、世の中には様々な考え方をなさる方もいるので、これを不快に思う人もいるということをわかった上で、自身がどのように飲むのか、そこにマナーが問われるのかもしれません。


これ、要するに、「相手の要求が理不尽かそうでないかは一切判断せず、ただただ不快な気持ちが発生する可能性に配慮せよ」と言ってるんですよ。「飲んでもいい」に「基本的に」だの「マナーが問われるのかも」などという留保をごてごてとくっつけているんです。

私はこれ、当たり前の話だと思うんですが、世の中の全ての他人の気持ちに配慮することは出来ません。何を快・不快に思うかという感覚は想像以上にバラエティに富んでいまして、「不快だ!」という言葉は予想外の経路、予想外のタイミングですっ飛んできます。もしかすると、ただあなたが息をしているだけで不快さを感じる人もいるかも知れません。そんなもんに全て配慮していたら、およそ社会的活動と言えることは、本当に何一つできなくなります。

つまり、理不尽な「お気持ち」に対しては、「そのお気持ちはファールライン外なので、配慮する必要もないし配慮する気もありません」と伝えなくてはいけないし、それに基づいて調整しなくてはいけません。それをしないで無制限に「お気持ち」に配慮するのは単なるお気持ち奴隷です。

で、このマナーコンサルタントの人、自分でこういう風に言ってるんですよ。


昔、こういったことをマナーとして言っている人がいたのかもしれません。
私は、九州で生まれ育って年齢は50歳を過ぎていますが、初耳でした。
高齢だから、ということではなく、周囲からそう言われて育ったとか、その人自身の考え方が影響しているのではないでしょうか。

つまり、この人自身「そんなマナー聞いたことねえ」と認識している。つまり、「そこにマナーの必要性はあるのか」という、ファールラインの判定をするべきシーンであるということを、本来認識している筈なんです。

それなのに、この人の結論は


決めつけることなく、今回のケースでいえば、薬を飲む側も、それを不快に思う側も、互いにさりげなく配慮し、受けとめ合える社会になればよいですね。


なんですよね。「そんな配慮必要ねえよバカかよ」と言えないんです。

何故かというと、それはおそらくこの人が「マナーで食っている」側の人だから。新しい「マナー」は、自分達の飯のタネになる可能性があって、マナーが増えれば増える程「マナー講師」は助かるから。「誰も知らなかったけど、実はこういうマナーがあるんですよ」というのは、マナー講師の存在感を示す為の絶好のチャンスだから。

ここで例えば「いやそんなもんマナーじゃないですし配慮する必要ないですよ」と切って捨てることが出来れば、私は「ああ、マナーコンサルタントっていっても理不尽なお気持ちには理不尽とちゃんと言えるんだな」と感心したかも知れません。けどそうではなかった。マナーコンサルタントという人は、理不尽に対して「それは理不尽ですよ」と言えなかった。

そんな人たちが拾い上げてくる「マナー」に、一体どれだけの意味や価値があるのか、と思ってしまいますよね。

無意味なマナーって、こうやって粗製乱造されていくんだなあと。

悪いことに、「マナー」の認識というものは感染します。「あ、こういうマナーがあったのか、知らなかった」と思ってしまった人は、その「マナー」の存在を価値判断に含めてしまいます。マナーを知る前ならなんとも思わなかったことを、「あ、この人マナー違反だな」と不快に感じてしまうんです。

「マナーを増やす」ということは、「不快のトリガーを増やす」ということと同義なんです。

そして、「単に自分の不快を押し付けたいだけの人」は、しばしば「マナー」という棍棒を持ち出してきます。「マナー」と言われると、なんか多数の人の共通認識がそこにあるような気になる。実際には単にその人の不快だけの問題だったとしても、なんか「裏付け」があるような気になってしまうんです。説得力のドーピングです。

だとすると、そんな意味不明な「マナー」が間違っても根付かないように、「いやそのマナーおかしいよ」と誰かが指摘しないといけないんじゃないかと思うんですよ。

重ねて言いますが、「お気持ち」に配慮することが全く不要だとは言いません。しかし、この世の全ての「お気持ち」に配慮することは不可能であって、ファールラインのすり合わせはきちんと行わなくてはいけません。

それを放棄したお気持ち全面降伏勢の言説に、私は価値を感じません。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月29日

IT技術者が「この最新のシステムを使えば解決する」とは絶対言わない理由


・「最新のシステム」と「最新の(面白そうな)技術」はイコールではないから
・「最新のシステム」とやらには恐らくドキュメントも技術情報も殆ど蓄積されていなさそうで、技術調査が死ぬほど大変だから
・「最新のシステム」とやらは恐らく全く技術的に枯れておらず、バグやら不具合やらAPI不備やらがわんさか発見されそうな予感がするから
・というか「最新のシステム」という言葉自体が意味不明正体不明であって、それがパッケージソフトなのか開発プラットフォームなのかwebフレームワークなのかさっぱり分からないから
・そういうさっぱり分からない言葉の使い方はまともなIT技術者ならまずしないから
・「最新のシステム」とやらをお題目に仕事をとってきた営業は、おそらく技術的な知識がろくになく、技術者がコミットしていない場所で要らん約束やら要らん仕様追加やらをわんさかとってきそうな予感がするから
・「最新のシステム」という言葉だけでクライアントの期待が無駄に膨らんで、実際の技術要件とは全くかけ離れた地点で無意味にハードルが上がりそうな予感がするから
・「最新のシステム」とやらいう正体不明な言葉につられるクライアントの業務要件は恐らくろくに整理されておらず、「何か魔法のような技術で我々の抱えているなんだかよくわからない課題が魔法のように解決されないか」といった妄想を抱いている可能性が高いから
・必然的に、後から後から整理されていない要件が無作為に追加されていくアリ地獄プロジェクトになることが容易に予想されるから
・必然的に、開発案件のリスクがバカ高になりそうだから
・というか最新の興味深い技術をいじりたいのであれば出来あいのシステムをもってくるのではなく自分で一から色々作りたいから
・というか技術の興味深さと「新しい」「古い」はあまり関係がなく、単に新しい技術だからといってエンジニアが飛びつくとは限らないから

ぱっと思いついた理由はこれくらいです。


posted by しんざき at 21:06 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月04日

Webにおける告発案件ってもうちょっとちゃんと制度設計・運用した方がいいんじゃないですかね…

ふわっとした話で申し訳ないんですが。

なんというか、特にどの分野って限ったことじゃないんですが、現在の色々な告発案件のwebにおける表出って、

・告発内容の真偽や事実関係の調査は基本的に置いてけぼりにされる
・炎上した場合、告発対象に誹謗中傷が大量に集まり、関係者の個人情報まで根ほり葉ほり暴かれる(場合によってはもっとひどいことになる)
・暴かれた個人情報や誹謗中傷はwebで永続化される
・結果的に、告発に伴う炎上、ないし私的制裁が社会的な制裁として動作する
・炎上するかどうかは告発内容の妥当性や正当性、また告発の論拠ではなく、告発のカテゴリーや、告発内容がどれだけ読者の情緒に訴えるものだったかで左右される

という状況になっているように思えてならないんですよ。

これ、つまり、「読む側の情緒に訴えることさえ出来れば、事実無根の告発であっても簡単に相手を社会的に破滅させることが出来る」一方、「読者の情緒に訴えることが出来ない、ないし注目をひかないカテゴリーの告発案件は、正当な告発であっても一顧だにされず放置される」っていうことですよね。

これ、告発対象は当然のことながら、告発する側にとってさえ、いい状況であるように思えないんですよ。Win - WinどころかLose - Loseなんじゃねえかって。スマイリー菊池氏の中傷案件と同じようなことが、より規模を拡大して誰にでも降りかかり得る状況ってことですよね。

勿論、告発案件には「告発する側」と「告発される側」がそれぞれ存在しまして、そこをどう扱うかについてはバランスが重要です。一般的に、日本では今まで、どのカテゴリーであれ告発者が多くのリスクを背負う、その割に被告発者が安易にリスクを免れる状況が多くを占めていたように思いますし、そういう意味で告発者の選択肢として「web上での告発」というものが増えるのは間違いではないのでしょう。

勿論、webでの告発を基点に、今までであれば被告発者が逃げ切っていたような案件でもきちんと問題化された話もあるわけで、そういうメリットを否定する気はないんです。

ただ、それにしたって今の状況は、ちょっと極端に振れ過ぎなんじゃないのかなあと。少なくとも、「告発をチラ読みした人たちが寄ってたかって脊髄反射で告発対象を炎上させにかかる」件については、ちょっと皆さんもうちょっと落ち着いてかかった方がいいんじゃないかなあと。

じゃあどうすればいいの、って話なんですが。どうすればいいんでしょうね。

理想を言えば、

・当然のことながら告発者のプライバシーは守られる
・一方、被告発者に関しても、一定の範囲以上の個人情報は開示されない
・なんらかの組織、ないし仕組みによって告発案件の正当性や妥当性が確認される
・正当性が確認された告発案件は法的措置にまわされる

みたいな感じがあるべき姿なんだと思いますが。そう簡単にはいかないんだろうなあ。

とにかく私の考えとしては、「今まで見逃されていた被告発者がのうのうと逃げ切る」のと同じ程度に、「完全に無実の人が事実無根の告発にさらされていわれない社会的制裁を受ける」ことが恐ろしいですし、自分でも、あるいは誰でも、そういう状況に陥ることはあり得るんだ、という事実が怖くて仕方がないわけなんです。実際、現時点でもスマイリー菊池事件の再生産って色んなところで起きているんじゃねえか、っていう不安があるんですよ。

それがどんなカテゴリーのどんな案件であれ、可能な限り感情的にならずに、どんなスタンスが妥当なのかを探っていきたいなー、と思う次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 11:32 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月31日

不倒城・2018年に書いた記事のまとめ

なんか、気が付いたら2018年もあと1日だけみたいですね。ちょっとびっくりしました。なんか日付カウンタの周り早くないですか?

取り敢えず今年も適当なことを書いたりイーアルカンフーをしたり長男長女次女と遊んだりした一年だったわけですが、なんとなく今年書いた記事をまとめておこうかなーと思いました。振り返りながらいくつかピックアップしてみます。選ぶ基準は完全無欠に「なんとなく」なのでご了承ください。PVとか把握しとらんのです。



昨今の肌色面積が増加していくタイプのパワーアップ形式に対して、一つの警鐘を鳴らす目的で書いた記事です。いや実際、脱衣が着衣に勝る点って風呂入った後に面倒くさいことにならないことくらいしかないと思うんですが、皆さんその辺どう思われますか?もっと着衣パワーアップに増えて欲しい。



イース8は間違いなく、今年遊んだ全てのゲームの中でトップ3に入るゲームでした。面白過ぎた。ダーナのヒロイン力は驚愕する程に高いのですが、それでも個人的にはラクシャさんを推します。



ドラクエ3の妄想許容度についてのお話。いややっぱり、RPGって色んな「自分の思い」を詰め込んでこそ100%楽しめるジャンルだと思うんですよね。あと、「百万ゴールドの男」はマジで名作なので皆読むといいと思います。



この手は今でも頻繁に使いますし、なんなら小5の長男にも勢いで通用してしまうので大変お勧めです。やっぱ育児は楽しんでなんぼだと思うわけです。



アオアシテラ熱い。後述しますが、「リボーンの棋士」含めて今スピリッツがやたらいい感じで推移しているように思います。



今は「興味ドリブン」という方式というか、スタンスについて色々と考えたり試したりしていて、その一つの側面がこれです。その内なんかまとめて書きます。



割とガチで、「星をみるひと」ってファミコンで「パラノイア」をやろうとした、ある意味で歴史作だと思うんですよ。いや、遊びやすいとは口が裂けても言えませんが。



たまにゲームブックネタ書いたと思ったらこんな細かい話ですいません。次「ディノン」シリーズについて書こうかと思っているんですがしばらく後になるかも知れません。先にカボチャ男書こうかなあ。



大魔境熱い。熱すぎる。サベール隊長との一騎打ちのシーンとか超好きです。



これ、最近ますます思うこと増えたんでまた書くかも知れません。「自分の思う正しい姿」以外を罵倒し倒すの、正直どんどん世界を狭くする行為だと思うんですよね…。



ラ・ムラーナ、マジでおもしろ辛かった。間違っても人にはお勧め出来ませんが、けど私はこのゲーム好きです。ただ、遊ぶために大量のMPが必要になることは確実。2、いつやろうかなあ…。
あとキャッスルエクセレントは名作中の名作。switch onlineで出ないだろうか。



最近の「神話・民話クロスオーバー」ものの隆盛をみていると、桃太郎伝説とかヘラクレスの栄光とかはもうちょっと振り返られてもいいと思うんですよ。いや、ヘラクレスの栄光については、1は色々エキセントリックなところもある作品なんですが。新桃伝についても書きたい。



今のスピリッツの個人的2大漫画、アオアシとリボーンの棋士。土屋さんが萌えキャラであることは間違いない。まだ読んでない人はぜひ。



祝・ワートリ連載再開。なんつーか、これだけ中断した後だというのに、全くキャラクターの挙動に違和感がないどころか展開が完璧過ぎるの本当物凄いですよね。続きが楽しみ過ぎます。みんなジャンプSQ買いましょう。



ロックマンシリーズのレベルデザイン、マジで物凄いと思うんですよね。考えれば考える程楽に進めるようになっている。カプコンの底力を感じる他ありません。



ということで、適当にピックアップしてみました。

来年も特に変わらない適当なスタンスで適当にやっていきますので、皆さん適当によろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 00:24 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月27日

海に泳ぎ出した、小さな蛙の話


昔話をする。

私は昔、割と真面目にゲームの為に生きていた。ゲームを遊ぶ為にバイト代を稼いでいたし、学校と部活以外の空き時間は基本的に全てゲームに突っ込んでいたし、ゲームが出来るか否かで進路を決めていた。

小学校の後ろ半分から中学、高校まで、10年近く名古屋にいた。名古屋は気に入っていたし、そのまま名古屋に住んでもそこそこ楽しく暮らせたと思うのだが、私はある時期から「東京に行く」と頭から決めてかかって、名古屋に暮らし続けるという選択肢を完全に頭から追い出してしまった。


笑い話として聞いて頂いて構わないのだが、その理由は実は二つしかない。

・地元のゲーセンに、自分より上手い人がいなくなったから。
・東京に新声社があったから。

この二つだ。本当にこの二つだけで、私は自分の進路を完全に決め打ってしまった。


まず一つ目として、私は当時、いわゆる「地元のゲーセンでは負け知らず」という存在だった。といってもそれ程守備範囲が広かったわけではない、幾つかのSTGと幾つかの格闘ゲームが人よりちょっと得意だったというだけの話なのだが、少なくとも「地元のゲーセン」という非常に狭い井戸の中で「蛙の一匹」ではあった。

そして、当時は今より遥かにゲームにおける上昇志向をもっていた私は、「もっとうまいヤツらと切磋琢磨したい」などと思い込んでしまった。恐るべき意識の高さである。成層圏を突破していそうだ。

時期も悪かった。当時、私がゲーセン内で一方的に「ライバル」とみなしていた人たちは、相次いで引退したり引っ越したり、そのゲーセンに顔を見せることが少なくなってしまっていた。格ゲーが飽和しつつあった時代だったこともあり、そのゲーセン内で対戦が盛り上がることも減りつつあった。意識高い高校生が勘違いしてしまう土壌は整っていたのだ。

当時の私が住んでいたのは名古屋の端っこの方で、栄や名駅など、名古屋の中心地に出るのは聊か時間がかかった。勿論のこと、八事や大須、金山など、有名ゲーセンがある地域に出るのはもっと時間がかかった。そういった有名ゲーセンに行けば自分よりゲームが上手い人などごろごろいたのだが、どうせこんなに手間がかかるなら、もっと人がたくさんいる東京に行った方がいいじゃねえか、と思った。それはもう一つの理由で補強された。


もう一つ、私は当時、アーケードゲームの攻略雑誌である「ゲーメスト」という雑誌を愛読していた。私は「ゲーメスト」に、「大人が本気でゲームをやる」ということの意味を学んだし、ゲームを攻略するというのがどういうことなのか学んだ。

そのゲーメストを出版していたのが、ゲーメストライターを複数抱えていたのが、新声社だ。

ゲーメストの記事は基本的にすべてが記名の記事で、数々のゲーメストライターに、私は当然の如く憧れた。「アディオスToshi」さんが、「松ちゃん」さんが、「K-TAN」さんが、「C-LAN」さんが、私の憧れだった。

そういったライターたちが集まる場所が、東京にある。これが、本当に、もう一つの東京行きの原動力だった。

実際のところ、新声社で働きたいとか、ゲーメストに記事を書いてみたいとか、あるいはゲーム業界で食っていきたいとか、そう思ったことはないように記憶している。私にとって、ゲームは飽くまで「遊ぶ」ものであって、「それで飯を食いたい」と思うものではなかった。それについては今でも首尾一貫している。

そうして私は東京に行った。「東京に住める」「東京のゲーセンに通える」ということが一番重要なのであって、受験やら進学やらは実のところ、私の中ではおまけだった。だから、大学に入った後の自分の能力にはビタイチ幻想をもっていなかった。あんな奴らに勝てるわけねえじゃん、と思っていた。私にとって、自分の主戦場はそこではなかった。

結果から言うと、私の進路は、私が名古屋で想像していたものからは若干ずれた。私は新宿モアに通い、西口スポランに通い、渋谷会館に通い、馬場のTILTに通い、当初の想定通り「上には幾らでも上がいる」ということを散々思い知らされた。それはそれで勿論楽しかったのだが、私はケーナとも出会い、塾講師としてのバイトにも出会い、大学での勉学も意外に面白いことを知り、その他諸々、ゲーム以外の要素も自分の人生に抱えることになった。

私は今でもゲームが大好きで、色んなゲームを全力で遊んでいるが、今は昔程の意識の高さをゲームに持つことはなくなってしまっている。これは堕落だろうか?もしかするとそうかも知れない。

ただ、今でもたまに、当時のうだるような熱気を思い出して、懐かしいなーと思うことがある。

対戦で勝てずに歯噛みして、何度も何度も何度も勝ち筋をイメトレした。

自分が知らなかった稼ぎ方を知って、慌ててメモしようとしたらノートを持ってきていなくて、店員に頼み込んでゲーセンノートのページを1枚分けてもらった。

格ゲーの大会で1回戦負けを喫して、帰りに飲みつけないビールを一缶買って呷った。

渾身のスコアが数十万点差で置いていかれ、そのゲーセンの1位にすらなれなかった。

何度となく挫折して、時にはちょっとだけ成果を出して。ひたすらそれを繰り返した生活は、なんだかんだで底抜けに楽しかったと思う。あれを味わえたというそれだけで、自分が選んだ道は結局一から十まで正しかったのだと断言できる。


これは小さなカエルの話。小さなカエルが、大海に泳ぎ出した。結局大魚にはなれなかったけれど、ほんの一時期、本気で海を泳いだ。

ただそれだけの昔話だ。


posted by しんざき at 17:54 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月10日

聖闘士星矢のメイン青銅5人の内誰か一人女性化させるとしたら誰にするべきか問題

なんか騒ぎになっていました。
勿論この件自体色々と論点はありまして、「30年前の歴史作の根本設定を今更変えないといけない程、「メインキャラに男しかいない」というのは問題なのか」とか、「じゃあメインキャラに女性しかいない作品も同じように問題なのか」とか、「じゃあセーラームーンの誰かひとりが男性化するとか一体誰が得するんだ(得する人もいるかも知れないが)」とか、「女性聖闘士が仮面の下の素顔見られた時の掟設定の問題どうすんだ」とか、様々に複雑な話を孕んでいると思うんですよ。

ただ、その辺のところを全部一旦置いておいて、「何故よりによって女性化するのが瞬なのか」という話が厳然として存在するわけです。

つまり、瞬は元々「中性的なキャラクター」「女性的な側面を持たされた男性キャラクター」であって、そこがキャラクター表現上の大きな特性だった。設定的な戦闘力は実は非常に高いのですが、物語の役割上は「ヒロイン」的な役柄を振られることもしばしばあり、むしろ「古典的なヒロインっぽい役割」を男性が担っている、というところにこそ、そのキャラクターの真髄があったわけです。時には女性っぽいところに対する意外性もありながら、どちらかというとジェンダーバイアスに逆行しているキャラクターだったんです。

「女性的な役割を振られた男性キャラクター」をわざわざ女性にしてしまっては、キャラクターの持ち味を殺すことは当然として、ジェンダーバイアスの解消どころか、むしろ正反対の効果を生みはしないか、と。同じ女性にするにしてもそれは瞬にするべきじゃなかっただろう、なんとなく違和感少なそうだから瞬を女性にとか逃げてんじゃねえよ、という話な訳です。

本記事では、「仮に青銅5人の誰か一人をどうしても女性化しなくてはならないとしたら誰を女性にするべきか」という点を考察する為に、一人一人女性化した場合のメリット要素・デメリット要素・メリットなのかデメリットなのかわかりゃしねえ要素を考えていきたいと思います。よろしくお願いします。



〇星矢が女性化した場合のメリット・デメリット
【メリット】
・主人公が女性になるという強烈なインパクト
・キャラクターとしても、ドジっ子要素がある熱血少女キャラに出来なくもなさそう

【デメリット】
・3枚目的な役回りを女性キャラクターでは描写しにくそう
・全青銅中一番痛い目に遭う役回りでもある為その辺も大丈夫なのか
・沙織さんとの微妙な関係性を描写出来なそう

【メリットデメリット不明】
・星華との関係性をどう表現するか、という問題も一応あるが正直劇中の存在感はあまりないのでそんなに問題にならなそう

星矢は「何度倒れてもより強くなって立ち上がる」という王道系主人公ですので、劇中非常に頻繁に死にかけます。ガンガン流血しますし重傷も負います。ある意味ではジェンダーバイアス以上にキツい絵ヅラですが、その辺を女性主人公として消化できるのか、というのは割と大きな問題となりそうです。また、役回り的には3枚目的な描写もそれなりの頻度あり、そこに女性キャラがハマるかどうかという問題もあり、女性化適性はあまり高くないといえるかも知れません。

〇紫龍が女性化した場合のメリット・デメリット
【メリット】
・ビジュアル的にはあまり違和感がなさそう
・物静かな女性キャラクターに仕上げるのはそれ程難しくなさそう

【デメリット】
・星矢についでエグい負傷が多い
・割と頻繁に死にかける

【メリットデメリット不明】
・よく脱ぐ
・春麗との関係が百合百合しくなる
・龍峰の存在どうすんの?

取り敢えず、紫龍といえばしょっちゅう上半身裸になるキャラですので、女性化した時にはその描写をどうするのかが一つの争点になるでしょう。らんま1/2でやってたんだから大丈夫だよな????という話が通るかどうかは難しい問題です。

また、紫龍にはヒロイン的存在として春麗がいまして、結構劇中描写が多い上に後のシリーズでは息子の龍峰までもうけているのですが、その辺どうすんのというのは一点問題になるかも知れません。白銀との戦闘が顕著ですが、星矢についで重傷を負うことが頻繁なキャラクターですので、そこを女性キャラクターで解決できるかどうか、という問題も残ります。


〇氷河が女性化した場合のメリット・デメリット
【メリット】
・ビジュアル的には最も違和感がなさそう
・ヤコフをヒロイン的存在として利用出来そう

【デメリット】
・ミステリアスロシアハーフ美女という設定がちょっとコテコテ過ぎる

【メリットデメリット不明】
・カミュに氷漬けにされた時の絵ヅラがエロそう

意外に無難そうな気がするのが氷河です。キャラクター的には、当初から周囲となれ合わないミステリアスな雰囲気をまとっており、無口でクール、けど実は熱いというキャラクターも女性キャラクターとしてもそこまで違和感がなさそうです。忘れがちですが、氷河にはホームタウンとなるコホーテク村にヤコフというショタっ子がオプションとして付属しており、彼との関係性も美味しいかも知れません。
強いて言うと、ビジュアル的に無難過ぎて意外性と面白みがないというのが問題といえば問題になりそうです。


〇一輝が女性化した場合のメリット・デメリット
【メリット】
・瞬に対するお姉ちゃんとしての保護欲をうまく描写出来そう
・ビジュアル的、役回り的な意外性が大きい
・役回り的にはジェンダーバイアスを解消する効果が最も大きそう

【デメリット】
・シャカ戦の描写だけちょっと微妙かも知れない

【メリットデメリット不明】
・エスメラルダとの関係性が百合百合しくなる

Twitterで話題になっていたのがこのパターンです。確かに、原作での一輝の役回りは、最序盤の黄金聖衣編を除けば「美味しいところで出てくる最強の実力者」という立ち位置でして、味方のピンチに登場する頻度も最も高く、ジェンダーバイアスを解消したいなら最も効果的に思えるところです。瞬を守っている絵ヅラもお姉ちゃんぽくて非常に良し。幼少時の孤児院でのエピソードとかちょっと女の子じゃ描きにくそうですが、まあ物語全般から見れば細かいところなのでフォローは可能でしょう。ビジュアル的にも、原作の一輝は極めて男性的なビジュアルですので、ギャップによる意外性を喚起しやすそうに思います。
デスクィーン島でのエスメラルダとの関係がどう見ても百合になりそうですが、それはそれで特殊な需要を呼ぶ可能性が高いかも知れません。青銅女性化候補の最右翼といっても良さそうです。

唯一、天舞宝輪でじわじわと一輝の五感を奪ったシャカが変態っぽくなりそうという問題はあるかも知れませんが、深く考えないことにしておきます。



ということで、もろもろ考えてみると、青銅聖闘士の誰かひとりを女性化するとしたら本命が一輝で対抗が氷河ということに落ち着くのではないか、という、物凄くどうでもいい結論が導けそうです。よかったですね。>私

ただ、この手の性別反転ものは、80年代から星矢ものを描いている同人お姉さまたちなら既に当然のものとして消化していそうな気もわずかにします。大丈夫なんでしょうか。その辺、識者のお話を伺ってみたいところです。

まあ、それ以前の問題として「そもそも女性化する必要どこにあんの?」という思いがよぎりまくるのは否定できないところなのですが、まあそれは本記事の趣旨から外れるので置いておきます。

聖闘士星矢: Knights of the Zodiacが(事前の雑音に関わらず)名作になることを願いつつ、それとは全然関係なく聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話は滅茶苦茶面白いのでぜひ皆さんに読んで頂きたい、ということを最後に申し添えたい次第です。みんな!!マニゴルドのかっこよさを堪能しようぜ!!!


取り敢えず今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 18:48 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月04日

Paypayは何故金額手入力などというUIを採用してしまったのか

スキャン決済の機能はオミットして、バーコード決済に統一するべきじゃないかと思うんですが…。


なんか大規模なポイントバックキャンペーンをやっていて話題になってるみたいですね。

電子マネー決済の選択肢が増えるのは悪いことではないと思うんですが、なんか皆がpaypaypaypayと騒いでいるので、興味が出てちょっと調べてみたんです。

そしたらなんか、アプリを利用した決済手段が二通りあるとのこと。

1.バーコード決済
2.スキャン決済

バーコード決済は、

1.アプリでバーコードを表示する
2.店側がバーコードを読み取る

で決済完了なので、こちらは別段問題ないんですが。

もう一方のスキャン決済が、かなりとんでもない仕様であるように見えるんですがこれどうなんでしょう。

1.店で掲示されているQRコードをアプリからスキャンする
2.会計金額をアプリで入力する
3.店員に確認してもらって入力完了

なんじゃこりゃ。

客側に余計な手順を付与し過ぎというか、ぱっと考えてみても、

・QRコードをスキャンする手間がかかる
・計算完了後に数値を入力しないといけない為、単純に入力に時間がかかり、電子マネー決済のメリットである即時性が失われる
・誤入力が発生した場合更に訂正時間がかかる
・誤入力を検出する手段が店員の確認という属人的なものであり、ヒューマンエラーの可能性がつきまとう
・多めに金額を入力してしまった、等の場合にクレームや法的リスクが発生することもあり得そう


というくらいのデメリットはありそうに思うんですが…。

他のどれを置いておくとしても、「スキャンと数値入力という余計な手間がかかる」という一点だけでも致命的で、スピーディに決済できるという電子マネー決済の最大のメリットを、この要素だけで楽勝でオーバーキルしてしまっているわけです。入力ミスとか起こったら、後ろの行列が凄いイライラしてくるのが目に見えちゃうんですが。

勿論ヒューマンエラーの可能性も重大で、「人がやることには必ず誤りが紛れこむ」ので、人間の介入する余地はなるべく小さくしたいわけです。レジ打ちすらミスすることがあるというのに、客の数値入力に誤りが発生しない訳がないですし、それを「店員が目視する」という形で確認するというのも筋悪過ぎるという以外の言葉がありません。なんか他にやりようないんでしょうか。

逆に、この方法のメリットというか、嬉しい点って何なんですかね…?この手の「人力に寄せる」という方向性のメリットって、大抵の場合「余計な機能を開発しないで人にやらせる分開発コストを抑えられる」というものなんですけれど、既にバーコード決済が存在する以上、金額の計算と連携機能をオミット出来るっていうメリットもないでしょうし、マジでこの決済手段のメリットがちょっと思いつかないんですが…

ちょっとこれは自分で試してみないといけないと思いまして、実際にpaypayをインストールしてみたんですが、今何かしらトラブルが起きているみたいでクレジットカードが登録出来ませんでしたガッデム。というか、通常のクレジットカードからはチャージできず、銀行から、ないしYahoo!カードからチャージするしかないという仕様もちょっとどうにかしてください。クレジットカードなんて何枚も持ちたくないです。。。

まあ、インフラや仕様についてはこれからどんどん洗練されていくのだろうと思いますし、滑り出しに多少トラブルがあるのは致し方ないとも思うんですが、少なくともスキャン決済はかなりのダメダメ仕様に思えるので、少なくともバーコード決済が使える店舗ではスキャン決済はそもそも受け付けないとか、そういう風に落とした方がいいように思います。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 15:28 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月03日

「クックドゥを「手抜き」と考える頑迷な彼氏・夫」という構図について


こんな記事を読みました。

「家事の手抜き」や「家の味」について色々と自己定義して、妻に負担をかける夫の話、として読んだ人が多かったようで、随分ステレオタイプな夫だなーと私は感じました。女性のマイルールという形ではありますが、色々と毀誉褒貶のある中華料理の素についても触れられています。

まず先に前提として書いておきたいのですが、私は「家事の手抜き」というものは一切批判されるようなことではなく、むしろ家事なんて手を抜いてなんぼだと考えています。

家事にとられる時間は必要最低限であることが理想であり、私は家事の手を抜きたいし奥様にも可能な限り手を抜いてもらって、自分の時間に使って欲しいと思っており、その為の行動も色々としています。勿論夫婦間で手抜きの許容ラインは変わってきますので、そこは互いに相談しつつ、気になる分を気になる側が埋めればよかろうと思っています。

ただ、それとは全然違う問題として、「クックドゥは手抜き」という概念、それに伴う「クックドゥのような合わせ調味料を手抜きと考える頑迷な男性」という構図が一つのインターネットミーム、というか定番炎上ネタとして定着してきているなー、という印象があります。

「クックドゥのような合わせ調味料を手抜きと考える男性」を設定して、その不合理性を批判する、時には手ひどくやり込める、というお話を、web上では割と頻繁に観測するなあと。これはつまり、そういうお話に憤る人が多い、そういうお話がプチ炎上することが多いということでもあって、冒頭記事もその一つの変形ケースに該当すると考えて良いかと思います。

「炎上しやすいネタ」というものは学習されるものであって、今までは可視化されなかった実在のエピソードが、続々と可視化され始めます。で、それに伴って、架空のエピソードというのも後付けで発生するのが常です。そこから考えると、実在のケースに混じって、架空の「クックドゥを手抜きと批判する夫」というものも、おそらくそれなりの数存在するのだろう、と思います。これは仕方のないことです。

逆に、Web上の「クックドゥは手抜き」という情報を見て、「そうか、クックドゥは手抜きなのか」と学習し、それを家庭内に持ち込む夫、というのももしかすると存在するのかも知れません。面倒な話ではあります。

勿論、インターネットから離れた実生活でも、合わせ調味料を「手抜き」と考える人は存在するのでしょうし、それに罪悪感を感じる人も、それに批判的に接する人もいるのかも知れません。記憶頼りでちょっと引用が出来ないのですが、例えば「あなたにホの字」のような少女漫画でも、主人公が軽い自己卑下として「料理はクックドゥ…ずるい?」といった発言をちょこちょこしている描写があったと記憶しています。つまり、インターネット以前から合わせ調味料を「手抜き」と考える概念自体は存在した、ということです。

私自身は、クックドゥのような合わせ調味料を「手抜き」と考える人を実際に観測したことが一度もないのですが、当然のことながら、私の観測範囲は大して広くもなく、実在性も架空性も証明することは不可能です。

この「クックドゥを手抜きと批判する夫」という概念、インターネット上では一体どの辺で定着したのでしょうか。

インターネットミームとしての「「クックドゥは手抜き」と主張する旦那・彼氏」という概念については、ある程度追っかけることは可能だろうと考え、軽く調べてみました。

私が確認できた限り、web上で最も古い「クックドゥに対する批判的なテキスト」は、予想通り2ch上に存在しました。これです。


1 : 困った時の名無しさん[] 投稿日:02/03/22 21:27
クックドゥの中華調味料ってなんであんなに添加物だらけなんでしょう。
豆板醤も甜麺醤も雑味だらけで少ない調味料で仕上げたい時には使えたもんじゃない。
舌がざりざりして後味悪すぎるし、
本格中華とか言ってんならもちっとマシな調味料作ってほしいです。
で、よろしかったら皆様の懇意にしてる調味料メーカー(中華に限らず)
教えてくださいな。

5 : 困った時の名無しさん[] 投稿日:02/03/23 00:51
調味料に頼ってるドキュンがクソスレたてんな! クックドゥシリーズのメニューなんざ
そこら辺の料理本読んで添加物なくても作れるモノばかりじゃねーか。
 それもしないクソ1は添加物だらけの調味料食って、味覚障害、胃がん発症して逝ってよし。


2002年のスレッドです。ざっと読んだ感じ、この時点では「合わせ調味料に含まれている食品添加物や化学調味料に対する批判」が話のメインであって、クックドゥによって省ける家事の手間についての批判的な議論は見受けられません。ただ、食品添加物に対する批判的なスタンスは、1980年代から非常に広範なネタであり続けたので、この「添加物に対する素朴な警戒感」がクックドゥのような合わせ調味料自体に対する嫌悪感に繋がっている可能性は当然あります。関係ないけどスレ後半に突然登場する山崎渉が懐かしすぎる。


53 : 山崎渉[(^^)] 投稿日:03/05/28 15:28
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉


もう少し時代を下ると、こういうテキストが発見出来ます。

2010年のインターエデュ。

【1755608】回鍋肉・海老チリをCOOKDOで作るのは手抜きでしょうか

回鍋肉は豆板ジャン等いろいろ中華みそが必要なため、COOKDOを使っています。夫はCOOKDOは手抜きだから、そんなもので作るくらいなら
華せい楼で買ってきたほうがましとまで言い放ちました。


ここで、クックドゥを「手抜き」という言葉と同じ文脈に出す表現と、「クックドゥを手抜きと考える夫との衝突」というミームが登場しました。色々調べてみたのですが、観測出来た限りでは、この2010年という日付はインターネット上におけるこのテーマのタイムスタンプとしてはそれなりに早い方であるように見受けられます。ただし、この時点ではまだ、この話題が広範囲にバズる様子は見られません。

ちなみに、「批判する側の声」に注目してみると、ある時点までは「同じ主婦の立場から、クックドゥのような手抜きを批判する」というような文脈の方が多くみられ、実際に「クックドゥを手抜きとして批判している男性」本人がweb上で観測されるケースは多くありません。下記は前者の例。2012年のYahoo!知恵袋です。


Twitter上でのミームとしては、2013年に「彼氏・夫とのクックドゥをめぐる衝突」がバズっているケースが発見出来ます。これ以前でも、「クックドゥと手抜きを紐づけている発言」は複数発見出来たのですが、「頑迷な彼氏・夫」のエピソード形式で大規模にRTされているものは、これ以前だと発見出来ませんでした。

ちなみに、上記のツイートは2016年のこちらのツイートをきっかけに再度注目され、様々なサイトに取り上げられて広範囲で再燃焼し始めます。

こちらのツイート、RT数はそれ程でもないんですが、まとめサイト等複数のサイトで取り上げられており、Google検索結果にかなり広範な足跡を残しています。おそらく、「Cookdoに対して批判的に接する男性」の発言としての、ある種のモデルケースとして捕捉された面があるのでしょう。これがどうも、web上におけるこのテーマの一つの転機になっているような嫌いがあります。


これ以降、「「クックドゥは手抜き」と主張する旦那・彼氏」というエピソードは定期的に発生するようになり、割と広範な炎上をするケースも増えていることを考えると、「旦那・彼氏側」の本人が出現して注目された2016年を、「「クックドゥは手抜き」と主張する旦那・彼氏」ミームの一つのマイルストーンとして考えることも出来そうに思います。


ということで、ざーっとですが、webにおける「クックドゥを手抜きだと批判する夫・彼氏」という構図について追いかけてみました。

個人的な意見としては、冒頭書いた通り「家事は手間を省いてなんぼ」だと思っておりますので、合わせ調味料だろうがなんだろうが、手間を省ける側面があるのであればガンガン使っていくべきだと考えておりまして、それに伴う罪悪感みたいなものがもし存在するのであれば、可能な限り払拭していって頂きたいなあと考えること大な訳です。

世間の家庭人の皆さまが、可能な限り楽に家事に接することが出来ることを願って止みません。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(17) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月26日

エンジニアにクソスペックのPCが割り振られていた現場についての個別事例について

n=3の話をします。

こんな記事を拝読しました。

なるほど、NTTの人材がGAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)に引き抜かれている事をNTT側は苦く思っているらしい。


という記載と、まさに




転職先はGoogleで今月5日からsearchのチームに参加しました。引き続きアウトプットしていく予定なのでよろしくお願いします。


という記載が味わい深いですよね。ブログ主さんの今後のご活躍を祈念するばかりです。

それはそうと、実は一点思ったことがありまして、それが

セキュリティに限らず、研究所以外の場所ではソフトウェアの開発をしているというのにメモリが4GBとか未だにHDDドライブを使っているとかそんな非人道的な環境での作業を強いられている部署もある

メモリとSSDの数万円をケチって何百万円分の人月稼働をドブに捨てているかという自覚を持てない人間が指揮を執っている可能性すらある

という部分についてなんです。

色んな退職エントリを読んでいると、退職事由の中でもそこそこの順位につけそうなものとして「PCスペックのクソさ」というのが結構観測出来るんですよ。

実際のところ、人件費に比べればPCのパーツ代金なんて吹けば飛ぶようなものでして、例えばメモリの話でいうと、きょうび8GBのメモリだって、安いやつなら5000円ちょっとで買えちゃうわけです。SSDだってSATAの480GBのヤツがせいぜい数千円です。1TBでも高くて1,2万ってところでしょう。




エンジニアのPCスペックってものは開発のパフォーマンスにガチ直結するものでして、遅ければ遅いぶんだけパフォーマンスはダダ下がりします。PCの前で処理待ちしている時間でも、刻々と人件費はかかり続けている訳なんです。単純な時間効率の話ばかりではなく、勿論待ち時間におけるストレスも、それで中断される思考コストも全くバカにはならないわけでして、「メモリ不足」なんて事象が発生した時点で開発現場として完敗している、と考えてよろしいのではないかと思います。

なのに、「開発メンバーにクソスペックのPCしか割り当てられていない」とか、「Eclipseの起動に5分かかる」とか、「ブラウザだけでメモリを使い切る」とか、今でも割とよく観測する話なんですよね。実際のところ、「エンジニアのPCに対するパーツ増強の費用」って、費用対効果で言うと滅茶苦茶高いレベルだと思うんですが、何故これを軽視している企業がしばしば見受けられるんでしょうか?

これは私個人の経験なんですが、「エンジニアにクソスペックのPCが割り振られており、しかもスペック改善を申請しても全然改善されない」という現場に行き当たったことが、今までで3回あります。内2回は出向先の現場で、もう1回はプロパーとしての社内での話です。

勿論、最終的には「開発メンバーのPCスペックに関する重要性を経営層が認識していないから」という要素に帰結する話ではあるのですが、個別の事例には一応の個別の事情がある筈です。内部で色々と情報を集めて、「何故エンジニアにこんなクソスペックのPCを割り振っているのか」については、それぞれの現場で一応の結論を出しています。その時のそれぞれの事情を書いておいてみようと思います。

もしかすると一般化出来る部分もあるのかも知れませんが、基本私個人の経験談でしかないことはご了承ください。

***
1.何故かPCスペックの高いPCが職位の高い順に割り振られている

私の私見ではこれがKing ofクソ案件だったのですが、どういう訳かPCのスペックごとにレベルが分けられている上、それが「職位の高い順」に振られているのです。逆だろそれ。

つまり、(今のPCで例えると)メモリ16GB、SSD1TB、Corei7 8700KみたいなPCが社長や専務常務のPCになっておりまして、プログラマーのPCはメモリ4GB、SSDなし、CPUもCorei3どころかうっかりするとPentium Mだったりする訳でして、役員は快適なネットサーフィンが楽しめる一方、エンジニアはPC起動をする間にコーヒー淹れに行って戻ってきてもまだログイン画面が出ていない訳です。

基本的に、席位置から社員番号から内線番号から、何から何まで「まず職位順」という発想で決めている現場でして、どうも差をつけられそうな要素全てを職位ごとの差をつけるために使っているみたいなんですね。で、PCスペックについても「職位が下の人間が上の人間よりいいPCをつかうわけにはいかない」という理由があって、「上の人まで全部のPCを変えないといけないから」などという意味不明な理由でパーツ換装が却下されたりしていた訳です。

これについては流石にアホかと思ったのですが、当然のことながらプロパーSEの定着率は最悪、辞めては入れ辞めては入れという感じでした。なかなか愉快な現場ですよね。

***
2.何故か「スペックが高いと仕事以外のことで使い出す」と思われていた

これもなかなかアホらしい話なんですが、「PCスペックに余裕があるとエンジニアが余計なことを始める」などという認識を上の方が持っていたケースがありました。つまり、「例えばEclipseとブラウザが同時に立ち上がってサクサク動くとネットサーフィンとか始めて仕事しないんじゃ」という疑念を持っている、という話ですね。これは数年前の話ですが、「マイニングが出来ないようにスペックを絞っている」などという言葉も実際に聞いたことがあります。

勿論複数のソフトを同時起動出来ることによって遊び出す人が存在しないとは言いませんが、ネットサーフィンを縛りたいのならばネットのポリシーで縛ればいいのであって、それをPCのスペックで縛り出すとかちょっと正気の沙汰とは思えませんでした。それによって防止出来るものと、それによって失っているものどっちが大きいの、という判断を誰も出来ていない訳で、これも相当に頭が悪い話だったと言ってしまっていいのではないかと思います。

***
3.PCスペックと人件費が紐づくという発想がなかった

これは上の二つに比べればまだ理由としてはまともだったんですが、つまり「PCスペックによる時間毀損」という話が問題として認識されなかった、ということです。

普通の頭で考えれば、社員が働いている時間は全てイコール人件費になる、という事実が理解されていいのではないかと思わないでもないんですが、どうも「一応は残業代を払っている」会社ですら、社員が働く際の時間効率という問題が問題として認識されなかったりするんですよ。「PCスペックの問題で待ち時間が」という話をすれば、「じゃあ待てばいいじゃん」という反応が帰ってくるわけです。ちょっと会話が難しい感じですよね。

お金がかからない「時間効率改善」という言葉は上の人たち大好きだったりするんですが、ちょっとでもお金がかかる場合それは途端に優先順案件になるわけでして、これもなかなか頑迷な職場だったと言っていいでしょう。物理的にプロジェクト終わらねーよこれ、という段になってようやくスペック改善が承認されたりしまして、それもなかなかタイミング的に微妙でした。

***

上記はいずれも数年以上前の話でして、現在どうなっているのかは不明です。また、勿論PCスペック以外の点も事情は様々で、ひどい部分もマシな部分もありました。ただ、エンジニアがぽこぽこ辞めていく現場であったことは疑いなく、何故その一点だけでも「PCスペックの重要性」が認知されなかったのか、正直私には今でも分かりません。

PCスペックの重要性、エンジニアの時間効率の重要性が、どの企業の上層部にも理解され、全てのエンジニアが快適なPCスペックで働けるようになることを祈念するばかりです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 06:44 | Comment(6) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月20日

「〇〇はあるのに××がないのは何故なのか」系の考察に「いやお前が知らないだけでたくさんあるやん」というカウンターが一瞬で返される現象


に名前をつけたい。なんかもう名前あるんですかね?どなたか知りませんか?

仮にここで、当該現象に「知ったかぶり非存在考察」という名称をつけてみるとしましょう。ネーミングは適当なので気にしないでください。

知ったかぶり非存在考察は、大体以下のような要件を持っています。

・「××がない」という、非存在を考察の核にしている
・その上で、その「ない理由」をあれこれ考えている、あるいは「ない」ことを批判的に指摘している
・けど実際には「××がない」ということ自体が当人の観測不足、ないし単なる事実誤認であって、実際には××は幾らでもある
・「お前が知らんだけでいっぱいあるやん」という突っ込みが山ほどくる
・場合によっては炎上する

皆さん、こういう現象見たことないですか?結構webでは頻繁に観測されますよね。

そもそも、「ない」ことを考察の核にすることはかなりリスキーなんです。何故かというと、「反例一個で考察がおじゃんになるから」です。かつ、その「おじゃんになる」には、当人の観察力不足、観測範囲の不備指摘もワンセットになっている訳であって、論客としての信頼性にかなりのケチがつくことは避けられません。「何故××がないのか」ということを論じる際には、かなり入念な事前観測、ないし理論武装が必要になるでしょう。

まず第一に、「××は本当にないの?」ということを自分に問いかけることが重要なのです。「××がない」と感じた場合、それはかなりの確率で「単なる観測不足」なのです。

ちなみに、「××は何故少ないのか」だと多少緩和はされますが、これもリスキー度合はあまり変わりません。「少ない」ということ自体を証明する、ないし定義することが困難だからです。この場合、「少ないって具体的にはどう少ないんだよ?」という突っ込みが避けられないものとなってしまうでしょう。

それでも、人は「何故××はないのか」という考察に度々突っ込んでしまう。これは、一つには「あ、××ってないやん」という発見の衝撃が、当人にとってはそれなりに重く、また大きいものだから、ということもあるのでしょう。誤った発見であっても、それが発見であるというだけで一定の価値を持ってしまう、という話ですね。

ただ、「何故××はないのか」考察には、結構「釣り」も含まれているように思っておりまして。つまり、「実際には××が存在することを承知の上で、敢えて「何故××はないのか」を論じることによって突っ込みを誘引する」という手法ですね。

つまり、「知ったかぶり非存在考察」には「知ったかぶり非存在考察(真)」と「知ったかぶり非存在考察(偽)」の二種類がある

この二種類を見分けることはそこそこの困難事でして、基本的には推測するしかありません。「実際に知らないのかどうか」を確認することは普通出来ないからです。

例えば、私はこの記事を「知ったかぶり非存在考察(偽)」ではないか、と推測しています。

何故かというと、プロレスゲームはそもそもゲームのメジャーなシーンとは言い難く、どちらかというとマイナーなジャンルであって、そんなプロレスゲームを「たくさん」知っている元増田が、コナミの「日本大相撲」やボトムアップの「64大相撲」、あるいは「ああ播磨灘」「SDバトル大相撲」などの有名相撲ゲームをまるっと知らないというのも、ちょっとおかしな話だなーと感じるからです。この辺のタイトルは検索すれば一瞬で引っかかるわけでして、「××ってないよなー?」というのを全く調べていないというのも脇が甘い話です。

もっとも、これは所詮ただの推測であって、実際に元増田が相撲ゲームを二作しか知らなかった、という可能性を否定することはできません。

一方、こちらはちょっとガチっぽいかな、と感じました。


このまとめ自体は、非存在考察をスタート地点に、ちゃんと有益な考察にまで着地しているのですが、それはそうとスタート地点については「知ったかぶり非存在考察」と言ってよいのではないかと感じます。

これは飽くまで私の感覚なのですが、

「何かしらの思想バイアスが絡む」

かつ

「たくさんあるやん、という指摘を受けると、最初の非存在考察をなかったことにして「けど少ないし」とか「ちゃんと調べないと見えない程度だし」といったスタンスのスライドをする」

場合、ガチである可能性が高まるように感じています。


突っ込む側から見ると、「××は何故ないのか」という誤謬は非常に「ツッコミ誘因力」が高いです。つまり、「いやいっぱいあるやん」とついつい突っ込みたくなってしまう。これは何故かというに、

・考察を瓦解させるのが非常に容易だから(反例一つで瓦解させることが出来る)
・知識量的にマウンティングをとることが出来るから
・同時に「あれもある、これもある」的な、大喜利的な面白さに発展させやすいから

ではないかなーと考えています。元々炎上しやすいステージ立てなんですね。

勿論のこと、釣る・釣られるはネットの華ですので、これが悪いとは言いませんが、場合によっては「知ったかぶり非存在考察(偽)」にあっさり釣られるピチピチフィッシュ、的な立ち位置に置かれてしまうかも知れません。炎上PV稼ぎに易々利用されてしまうというのも面白くない話です。

皆さまには、「知ったかぶり非存在考察(真)」「知ったかぶり非存在考察(偽)」の存在については一応念頭に置いて頂き、快適なツッコミライフをエンジョイ&エキサイティングして頂きたいなーと考える次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:15 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月16日

さくらんぼ計算は、出来ない子を出来るようにするための最終兵器でした

これの話なんですけどね。

これ、大人が「くだらんこと」って言っちゃうのは分かるんです。6+7を計算する為に、なんでこんな面倒くさいことをするんだ?って思いますよね。実際、小学1年生の時点でも、「こんなこと何でするの?普通に計算すればいいじゃん」って思う子、結構いると思います。

ただ、このやり方自体は、一概に「くだらないこと」とは言い切れない。実際、算数の一番最初で躓いちゃう子にとって、このやり方が救いの糸になったりするケース、あるんですよ。

そもそもこれ、何のためにやるかって皆さん分かりますか?要は、「10を作れるペアを覚えましょう」「足す数を分解して、取り敢えず10を作りましょう」「残った数を10に足しましょう。そしたら簡単でしょ?」っていうやり方なんです。

***

何度か書いてるんですが、昔、補習塾で講師のアルバイトをしていました。補習塾っていうのは、進学塾の対義語みたいなもんで、学校の授業についていけない子を救い上げることを主な目的とする塾です。

そこで知ったことが、「世の中には、想像以上に初歩の段階で勉強に躓いじゃってる子がたくさんいる」ってことでした。算数は特にそれが顕著でして、躓いたところを解決出来ないままなんとなく先に進んでしまって、あとから取り返すのが困難になる程負債を抱えてしまった子、たくさんいました。小5で二桁の掛け算が理解出来ない子もいれば、中学生なのに割り算の筆算が曖昧、という子もいました。

で、「元を辿ればここで躓いたね」っていうのを一つ一つ発掘して、それを最初の方から潰していくことが主要なミッションになるんですが、その一つのポイントとして「足し算の繰り上がり」「引き算の繰り下がり」って結構バカにならない頻度であったんですよ。つまり、早い学習段階で、「繰り上がり」っていうものをいい加減に済ませてしまったばかりにあとでめっちゃ苦労する、っていう子です。小4くらいでも普通にいました。

足し算の繰り上がりって案外バカにならない概念でして、子どもって基本「自分の指」を基点に計算するんで、10を超えない足し算、引き算はそんなに苦戦しないんですね。少し繰り返してると大体丸々覚えちゃう。「頭の中に回路が出来る」ってやつです。

けど、「10を超える数」を机上で計算するのって、いきなり子どもにとってのレベルが上がるんです。つまり、「数のやり取り」というのを頭の中でやらなくてはいけなくなるからです。

***

「わかんない」ことに向き合うのって、すっごく辛いんですよ。しかも、学習の初歩の段階で、周囲がさくさく出来るようになっていって、うっかりすると先生にまで「なんでこんなことわかんないんだ?」って言われると、本人的にもすっごくストレスになる。だから、子どもによっては、6+8とかの問題の前で固まっちゃったりする。これがトラウマになって勉強自体嫌いになったりすると、更にリカバリが難しくなる。分かりやすい悪循環ですよね。

時間がない側の大人が、痺れを切らして「ほら、6+8は14でしょ?」とか言っちゃって、本人もなんとなくそれで宿題とか出しちゃって、誰も拾えないまんま学習段階が進んじゃう、とか凄いあるあるなんです。

実際、これを解決する方法って「数をこなして反射的に出来るようになる」しかないんですけど、数をこなすためにもハードルを下げてあげないといけないんですね。

その、「ハードルを下げる」手法って色々あるんですが、その一つがこの「さくらんぼ計算」なんです。私が塾で教えてた頃は、そもそも「さくらんぼ計算」とは呼んでなかったし、教えてない小学校も普通だったと思うんですけど、今学習要領とか変わったんですかね?すいませんその辺は曖昧なんですが。

このやり方、「10を作ることは出来る」「10に一桁の数を足すのは簡単」なんで、辛うじて「答えを導く」ところまではもっていけるんですよ。

これを突破口にして、とにかく数をこなす。で、パターン学習みたいな感じで、その内繰り上がりに対する苦手意識が消える。繰り上がりが分からない子を救い上げるための最終兵器だったんですよね。

ちなみにこれ、考え方自体はもっとでかい数とか、あるいは引き算にも応用できます。384 + 86を384 + (16 + 70)にしちゃう、みたいなやり方ですね。繰り上がりってとにかく引っかかりやすいところなんで、なるべく楽に計算できるようにしましょう、ってのは割とスタンダードな考え方なんですよ。

***

勿論、これは「分からない子の為の補助器具」みたいなものなんで、別に強制する必然性はありません。分かる子は普通にやっちゃえばいい。それについて異存はありません。

ただ、小学校の先生ってのも大変な仕事でして、能力も要領のよさもバラッバラな子を30人とか一度に教えないといけないんで、一人一人の学習段階を細やかに気遣うって正直結構無理ゲーに近いと思うんですよ。私なんて3,4人でも十二分にしんどかったですもん。

そういう点で、「躓く子を出すよりは低い子に合わせる」という選択をとるのは、一つの止むを得ざるやり方だと思いますし、後々の応用範囲を考えれば「取り敢えずさくらんぼ計算のやり方はきっちり覚えておきましょう」というケースが発生することも、そんなにおかしな話ではないと思います。

まあ、こういうやり方もあるよ便利だよ、けど違うやり方でやってもいいよ、という方が教え方として理想だとは思いますけどね。結構難しいんですよ色々。

算数嫌いの小学生が、一人でも算数苦手を克服出来ますように、と祈らずにはいられません。うちの長女次女もぼちぼち繰り下がりのある引き算とかやってるんで、宿題を観ながらそんなことを考えていたわけです。

「さくらんぼ計算」自体は決してくだらないやり方じゃないよ、これを早い段階で教えるっていうのもアリだと思うよっていう話でした。

今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 12:07 | Comment(12) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月14日

マッチポンプビジネスマナーを作ろう!

ビジネスマナーを作りましょう!

皆さん、読者や受講者に「そうだったのか!」「知らなかった!」と思ってもらえる題材に困っていませんか?

人間、今まで自分が特に根拠なく信じていたものについて、「実は間違っていた〇〇」という形で情報を提示されると、新しい方に大した根拠がなくても「そうだったのか!」と思ってしまいやすいものです。そういう情報はとても受けますしバズりやすいです。是非そういう情報をガンガン発信出来るようになりたいですね!!

今回特にお勧めしたい分野は「ビジネスマナー」です。

ビジネス関連のTIPSというのは、マニュアル体質の人にとって特に刺さりやすく、「役立つ情報」として拾われやすい分野です。バズ成功率も自然と高まるというものです。

え?マナーなんて最初からコンセンサスがあるものであって、新しく作るようなものじゃないんじゃないか、ですって?それがそうでもないんです。

ビジネスマナーは、作れる!!

手順は大略、以下のようなものです。

1.一般的ではないビジネスマナーを「発見」する、ないし既存のなんとなく定着している所作について否定する
2.それを大々的に「実は〇〇だった××」という形で展開する
3.それを見たビジネスマンが、「そうだったのか」と信じ込む
4.そのマナーを実際に行う人が増える、ないしそのマナーを聞きかじった人が他人に対して「それ実は失礼だよ」と指摘する
5.結果的にそのマナーがなんとなく定着する

マナーが定着してしまえば、それをネタに更に一稼ぎすることができます!なんならマナー本まで書けちゃうかも!!

一番重要なのは、まずなによりも「マナー発見」のパートです。


1.一般的ではないビジネスマナーを「発見」する、ないし既存のなんとなく定着している所作について否定する


これについて、全くの創作マナーを押し出すというのも不可能ではありませんが、リアリティの観点から言うとやはり何かしらの根拠が欲しいところ。

お勧めしたいのは、「ごく狭い範囲でしか通用していないローカルルール、ないし俺ルールを一般的であるかのようにゴリ押す」という手法です。一応、曲りなりにも実際に行われている風習なのですから決して創作ではありません!

名刺の渡し方、挨拶の仕方、書類の作り方。皆さんの周りに、「なんでこんなことやってんだ?」と思えるような、よく意味が分からない風習はありませんか?それ、「マナー発見」チャンスです!

「実は〇〇というやり方は失礼だった!!」「実際には××とするのがビジネスマナー!」「実は〇〇するのが常識だった!」「きちんとした会社ではこうやっている!(実例)」といった文章がテンプレです!ビジネスマンといっても、実際には自分の所作やマナーにそこまで通じている人ばかりではなく、「実は君のそれ間違ってるで」と言われれば案外ぐらついてしまうもの!そこに、実例的で「正しいやり方」というものを提示してあげれば、同じような自信ない人たちに大バズすること間違いなし!

こじつけ的に既存の言葉や所作に「失礼」というラベルを貼るのも非常に有効ですね!「日本人の95%が知らなかった常識」といったテキストがキーワードです!え?多数派が知らなかった時点でそれは常識とは言えないんじゃないかって?大丈夫、常識は人の数だけ存在するのです!

大きくバズったところで、NHKやらyahooやらに捕捉してもらえば更にしめたもの。そこを根拠に、更に当該マナーを展開することができます!マッチポンプマナーの完成ですね!

一つポイントとして、ビジネスマナーには「賞味期限」というものがあります。新しく展開したビジネスマナーは、一定期間で下火になる場合があります。賞味期限切れのビジネスマナーはガンガン否定して再利用していきましょう。過去の自分が言った言葉を否定することを恐れないこと!どうせ誰も「誰が言ったか」なんて覚えていません。

ということで、今日は「ビジネスマナーの作り方」についてお送りしました。参考になったでしょうか?

皆さん、最後まで読んでくださってありがとうございました!
posted by しんざき at 14:27 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月08日

我々はどこかで、「努力は無条件で尊い」から「適切でない努力をするべきではない」に思考を切り替えないといけない


例えばの話、「フルマラソンを3時間以内で走らないといけない」という、割と明確な目標があるとするじゃないですか。

ゴールが明確であれば、その為に通らなくてはならない過程、しなくてはならない努力というのも、ある程度明確になる筈です。

当然ながら、長距離走を走る為には長距離走を走る為のトレーニング法というものがあります。

最初はもう少し短い距離を走って、心肺能力を鍛えると共に自分にとって適切なペースを把握して。エコノミーな走り方を身に着ける為のフォームのチェックとか、一定のペースで走った上でスパートをかける訓練とか、まあ色々「適切な努力」というものがある訳です。

で、この時、当然「いやそういうトレーニングはしないよね」というものがある訳でして。間違っても、フルマラソンを走る為にベンチプレスをやったりはしませんし、素振り1000本やったりもしませんよね。まあもうちょっとマシなところで考えても、フルマラソン走る為に100メートルダッシュ毎日10本やりましょう、というのも、全くの無意味とまではいいませんが普通に考えれば不適切な訳です。

厳然たる事実として、努力には「適切な努力」と「適切でない努力」があります。そして、「適切でない努力」をするのは、多くの場合、単に消耗するだけであまり目的に資するところはありません。


端的に言ってしまうと、目標が明確な時、不適切な努力をするのは無駄、無意味です。


当たり前の話ですよね?

ところが、ごく当たり前のことの筈なのに、案外この「当たり前」が動作していないことがあるというか。この、「フルマラソン走らないといけないのに何故かベンチプレスやってる人」レベルに不適切な努力をしている人を、ただ「努力をしている」という一点だけで賞賛する向き、賞賛する人たち、あるいは賞賛を求める人たちというのが、どうも世の中には少なくない数いるようなんですよ。


これ、「努力」という言葉を無条件で尊いもの、貴重なもの、とする思考みたいなものが、かなり根深くあるような気がしています。

勿論、成長のある段階までは、「努力は無条件に尊い」ということにしておくべきである、という側面もあります。これは、「努力」というフレームワーク、それ自体を作る為です。

以前、Books&Appsの安達さんがこんなことを書かれていました。


「迷惑な被災地支援」と「結果だけでなく努力を評価すべき」の根っこは全く同じ

例えば子供に「結果がすべて」と、テストの点数ばかりを追求させ、勉強する努力を無視していたのでは、悪影響があるだろう。実際、
「テストで良い点を取ればご褒美をあげる」と
「本を1冊よんだらご褒美をあげる」
という2種類の声かけをした時、子供の学力向上に効果があるのはどちらなのか、という実験は、「努力を評価すべき」という結論となった。


メンタル的には、「頑張ることは偉い」というメンタルの基本構造とか、「努力」というものに対するイメージモデルみたいなものがないと、多分そもそも「頑張る」ことが出来ないんですよね。努力の基底構造というか、「努力をする」というスタンス自体を形作る為には、努力はそれ自体肯定されるべきです。

また、そもそもゴールが明確でない場合は、当然努力の方向性も明確にならないのだから、どんな努力をしても何かしらのステータス向上に資するものがある、という側面もあるように思います。

だから、例えば小学校の先生は、「努力は無条件に尊い」と教えます。これ自体は、精神力の筋トレのようなものでして、否定されるようなものではないと思います。


ただ、「何かのゴールに向けた努力」ということを考えた時、「不適切な努力というものも存在する」「不適切な努力をするのは、無駄な消耗なので避けるべきである」という風に、どこかのタイミングで頭を切り替えることが、恐らく必要なんじゃないかと思うんですよ。


「努力は無条件で尊い」というスタンスのまま大人になってしまって、色んなところで悪影響が出てしまっている人、というのが、多分結構な数いるような気がします。そういう人たちは、努力それ自体を評価しようとしますし、努力が評価されないと不満を持ちます。また、他者に分かりやすい形で「努力」を見せようとします。

そういう人たちが、往々にして「フルマラソンを走らないといけない場面でベンチプレスを始める」ようなことをします。webで良く見る例でいえば、不効率な作業でひたすら残業をしながら不効率な仕事を頑張ったり、被災地支援で望まれない支援物資を頑張って送ったりということが、その分かりやすいサンプルだと言えるでしょう。

一方、「不適切な努力は評価されないし、するべきでもない」ということが分かっていれば、「じゃあ「正しい努力」というのは何だろう?」「「適切な努力」というのは何だろう?」と考えることが出来ます。言い方を変えると、「ゴールにたどり着く為の適切なトレーニング方法」というものを自分で検討することが出来ます。

この切り替えって、どこかで絶対に必要だと思うんですよね。

私自身は、成長の途中でこの切り替えを行うとすれば、その一番いいタイミングは「受験」なのではないかなあ、と思っています。受験というのは、「実はその後の人生において致命的ではないけれど、主観的には人生懸けるくらい本気で勝負をすることが出来る」という、なかなか貴重な機会です。この時いい感じのアドバイザーがいれば、うまいこと「適切な努力とは何か」という形に頭を切り替えることも出来るんじゃないか、と思っているんですよ。

ただまあ、受験に限らず、「明確に決まった目標」「その目標にどうやれば到達できるか、という思考の訓練」があれば、割とそういう切り替えは出来そうな気がしますので、機会と時期を見て、自分の子どもたちにも「今、どういう努力が一番適切か?」というアドバイスをしてみたい、と思う次第なんです。

長くなりましたが、今日書きたいことはそれくらいです。
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2018年11月02日

Webで発言すると勝手に声が大きくなってしまうことがある問題

いやこれ、分かっている人にとっては常識だと思うんですが、定期的に注意喚起が必要っていうか、分かっていない人も常時popし続けるのがwebですので、言わずもがなを承知でちょっと書いてみます。

界隈をうろついていると、「ちょっとした独り言のつもりだったのに大炎上」という案件をよく見かけます。

「ちょっと自分の心情を吐露しただけなのに、何故かたくさんの人に呼び掛けたみたいなことになってる」という状況もよく見かけます。

ブログで、SNSで、「独り言のつもりだったのに」という言葉に類する発言はしばしば観測出来ます。実際、炎上発言の多くは、往々にして「不特定多数に対する呼びかけ」ではなく「自分ひとりの思考」だったりします(勿論、皆に賛同してもらえると思って狙って発言したら意に沿わず大炎上、というパターンもしばしばありますが、ここでは置いておきます)。

当然のこととして認識しておくべきなのですが、ブログだろうがSNSだろうが、基本的に、「自分の声が広まるかどうか」を自分はコントロールすることが出来ません

それは、
・多くのフォロワーを持ったインフルエンサーに、自分の声が拾われるかどうか
・自分の声が、それを受け取った多くの人の興味を引くかどうか
・受け取った人が、その声を拡散したいという気分になるかどうか

といった、自分のコントロール外の要素に依存します。勿論、自分自身が多くのフォロワーを持ったインフルエンサーであれば話は若干違いますが、そういう人はこんなことで悩まないと思うのでここでは除外します。

これは、当然のことながら「狙った発言でも広範囲に広まるとは限らない」ということですし、逆に「全く狙ってない発言でも広範囲に広まるかも知れない」ということです。

こればっかりは、オープンで発言しようとする限りは、実のところどうしようもないことです。自分の発言は、常にガンスルーされ得るし、一方常に大拡散され得る。勿論、「今の発言は、皆に呼び掛けた訳ではなく独り言のつもりだったんだ!!」と主張するのはその人の自由ですが、それで拡散を止められることはまずありません。

厄介なことに、webに限らず、「自分の言葉が、自分の意図通り伝わるとは限らない問題」というものもありまして、文章をどのように受け取るかは基本的に受け手主体の話であって、書き手がコントロールできる範囲は限られています。「本当はこういう意図だったんだ!!」と主張することは当然可能ですが、それが拡散された発言以上に拡散されるケースは希少です。

手前味噌ですが、以前、こんなことを書きました。


言葉は伝わらない。それはもう驚く程に伝わらない。これは、本だろうがブログだろうがテレビだろうが人狼会だろうが、およそ言葉を使ってコミュニケーションをとる際の、ありとあらゆる場所で頭に入れておくべき大前提だと私は考えている。


つまり、「自分の発言が広まれば広まる程、自分の意図通りでない読み方をされる可能性も増える」ということです。当然、文字数が少なければ少ない程自分の意図も伝えにくくなるわけで、発言の一部だけが切り取られやすいTwitterなんか、伝わらない度合はより一層顕著になるでしょう。

要は、

・自分の発言は、自分にはコントロール出来ない範囲で大拡散するかも知れない
・拡散されればされる程、自分の意図通りではない形で自分の言葉が受け取られる可能性も高まる
・それに対して文句を言うことは当然可能だが、その文句が広く認識されるかどうかは運次第

ということなんです。面倒くさい話ですよね。

とすれば、「拡散される可能性があることを承知して、リスクを受け入れる」か、「拡散された時のことを考えた発言をして、なるべくリスクを低減する」か、webで発言する以上はこの二択ということになるでしょう。少なくとも、「自分の発言は、いついかなる時でも大拡散され得るし、それについて文句を言っても無駄」ということくらいは、webで発言する以上はわきまえておくべきだと思うのです。

私自身は、今の「不適切発言だ!燃やせー!!」的な、世紀末世界観チックな潮流があまり好きではありません。発言は出来るだけ意図通りに伝わって欲しいですし、発言に対する批判は出来れば落ち着いてやり取りできるといいなあと思っています。エブリディ焼畑農業、炎上即垢消しが規定ルートみたいなwebはちょっとどうかと考えざるを得ません。

ただ、私自身の希望とは別に、現状webがこうなっている、ということ自体は仕方ない事実として認識するべきですし、認識した上で自衛するかどうかを判断するべきだと思っています。だからこんな、「何を今更」みたいな記事を書いた次第です。

皆さんが快適なweb生活を送れることを願って止みません。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月30日

「グリンピース」ないし「ドンパッパ」の競技レギュレーションについて

こんな記事を読みました。


私これ、何の話をしているのか瞬時に分かったんですが、周囲の反応を見ていると結構「え、これなんのこと?」みたいな人もいた模様。皆さん分かりましたか?

ここで「グリンピース」と言われているのは、別に環境保護団体の話ではなく、ジャンケンのルールを応用した手遊びです。地域によっては「ドンパッパ」とか「ドンセッセ」とか言いまして、ルールにも若干の地域差があります。

私が把握している「グリンピース」の遊び方は次のようなものです。


1.「グリンピース!」と言いながら、ジャンケンに基づいたグー、チョキ、パーの手を出す。

2.あいこになった場合は再度「グリンピース!」をやり直す。

3.どちらかが勝った場合、勝った側が、勝った手に基づいて特定の発声をしながら次の手を出す。

その発声は、「今出した手」と「次に出す手」の二パートに分かれる。次のようなものである。

「今出した手」がグーであった場合:「ぐりんぐりん」
「今出した手」がチョキであった場合:「ちょりんちょりん」
「今出した手」がパーであった場合:「ぱりんぱりん」

「次に出す手」がグーである場合:「ぐりん!」
「次に出す手」がチョキである場合:「ちょりん!」
「次に出す手」がパーである場合:「ぱりん!」

例としては、「ぐりんぐりん、ぱりん!」といった発声になる。この時、「ぱりん!」のタイミングでパーを出す。相手も同じタイミングで、グー、チョキ、パーのいずれかを出す。

4.どちらかが勝った場合、3を繰り返す。

5.あいこになった場合、あいこになったことが分かった瞬間に、「どん!」と発声する。

6.この発声が速かった方がゲームに勝利する。


要はこれ、基本的には「あいこになった瞬間の反応の速さを競う反射神経ゲーム」なのです。「ぐりん」「ちょりん」「ぱりん」のところはこれまた地域によって色んなバリエーションがありまして、古めかしい言い方だと「軍艦、沈没、破裂」とか「軍艦、朝鮮、ハワイ」なんてのもあった筈です。おそらく、かなり昔から存在する手遊びなのでしょう。

どうでしょう?皆さん、似たような手遊び、やったことありませんか?

ところで、増田はこのゲームで「自分より強い人に会ったことがない」と豪語しています。

奇遇ですね。私もなんです。


〇競技としての「グリンピース」を考える

そもそもこのゲーム、ちょっとルールを読めば分かって頂けると思うんですが、基本的に「相手にジャンケンを勝たせるゲーム」「相手の次の手を読むゲーム」なんです。意外と高度なんです。

つまり、ジャンケンの発声は「勝った側」が行うことになっているので、負けた側は「あいこになる瞬間」だけに集中していれば良い。余計な発声をしないで済む分ゲームに有利なんですね。なので、「可能な限り相手に勝たせる」「相手の次の手を読み、相手が勝った時、次にあいこにするように立ち回る」ということがゲームの基本となります。

私も増田とは同年代でして、正直もうすぐ40になろうかという年代の人間がじゃんけん系ゲームの強さ自慢をするのってどうなの?と思わざるを得ないところではあるのですが、私はグリンピースの10本勝負で、今まで負け越したことがありません

子ども同士、子ども相手の時には当然のことながら、大人相手でも負け越したことがありません。言ってみればグリンピースガチ勢です。

ただ、勿論ガチ勢はガチ勢とぶつかって初めて格付けすることが出来る訳で、お前は今までガチ勢同士で戦ったことがあるのか?と言われれば、正直首を縦には振れません。私が今まで戦ってきた相手は、子ども、あるいはグリンピースそのものにあまり習熟していない大人であって、井の中の蛙、と言われれば反論する術を持ちません。確かに私は井の中の蛙かも知れない。しかし、その蛙が歴戦王ドドガマルではない、という保証も誰にも出来ない訳です。

正直、このグリンピースって遊び滅茶苦茶熱い上に場所もとらない道具も要らない、実に素晴らしい競技だと思いまして、出来ることならガチ勢同士の天下一武道会でも実施したいところなんですが、唯一問題があります。これ、ちゃんと勝負するとしたらジャッジが必要なんです。
ジャッジは、以下のことを判断しなくてはいけません。

・ジャンケンがあいこになったかどうかの判定、その瞬間の把握
・「どん!」という発声が起きた時、どちらが速かったかの判断
・その他、不測の事態への対応

これ、熟練者同士だと「どん!」という発声も相当拮抗することが予想され、ジャッジの技量にもそれなりのものが必要とされるでしょう。B.Bの鷹の目ではありませんが、公平な判定を下せるジャッジは必ず必要です。

そこから考えると、「ガチグリンピース統一競技レギュレーション」としては以下のようなものが提案出来ます。

・競技のルール自体は上記1〜6のものを用いる
・競技は10本先取とする
・競技は対戦者2名、ジャッジ1名の3名で実施する
・ジャッジは、一回のグリンピース勝負ごとに勝者を判定する
・ジャッジが勝敗を判定出来なかった場合、その勝負は無効とし、再度その勝負をやり直す
・明確に発声を行わなかった場合、行わなかったものの敗北と見なす
・その他、全ての判定はジャッジに従う


こんな感じでいかがでしょうか。ガチグリンピース対戦、ワンチャンあるのでは?

これを読んで、多くの皆さんがグリンピースのガチ対戦に開眼してくださることを祈念します。ガチ勢が十分に集まったら、最強グリンピースチャンピオンを決める機会も訪れることでしょう。みんなグリンピれ。そして俺を打ち負かす程に強くなれ。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 16:40 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月03日

俺たちは何故、周囲で誰も持っていないパソコンのゲームについて知っていたのか

そりゃ、

「あらゆる情報源を漁りたくなるほどゲームが魅力にあふれていたから」
「関連記事を読み漁るだけで十分遊んだ気になれていたから」

じゃないかなあ、と思うんですよ。


ちょっと私、この記事の元になった話を追い切れていないんで、背景の文脈をよく分かっていないかも知れないんですが、ちょっと懐かしくなったので一点だけ、

これについては全力で首肯します。

私は1979年生まれなので、1980年代後半は小学校低学年でしたが、「こんなゲームがマイコンで出来るらしい」「すごく面白いらしい」「けど遊ぶために何十万円もかかるらしい」というような話は大体知っていました。「Wizardry」も「ウルティマ」も、なんなら「マイト&マジック」も「バーズテイル」も、「ザナドゥ」も「ハイドライドII」も「夢幻の心臓」も知ってました。

何故かというと、当時の我々は「とにかくゲーム関連の情報に飢えていた」から。ちょっとでもゲームについての情報が載っている雑誌であればそれが何であれ面白かったですし、誰かがどっかからか手に入れてきて皆で回し読みをしていたからです。コンプティークなんて、当時は「エロ雑誌の一種」として認知すらされていましたが、エロ関係なくボロボロになるまで皆で回し読みしましたよ。ロードス島戦記のリプレイとかすげー面白かった。

だからこそ、「イース」にせよ「Wizardry」にせよ、「パソコンでしか遊べなかったゲームが、ファミコンでも遊べるようになった!!!」というのが滅茶苦茶に盛り上がる情報に化けたんだし、時には「ファザナドゥ」みたいな「アレ、思ってたのと違う…」みたいな悲劇も発生していたんですよね。いや、ファザナドゥ、あれはあれで凄い面白かったと私は思うんですけど。

手前味噌ですが、昔、こんな記事を書きました。


読むだけで遊んだ気になってましたよね。頭の中でゲームしてたし、それだけで満足出来たこともあれば、実物をやりたくてやりたくて仕方なくなることだってあった。

そういう意味では、「子どもはコロコロとかジャンプとかボンボンとか読んでたんだろ?」と思っている人がいたとしたら、「そうかも知れないけど、そうとは限らないよ」とは言っていいと思います。ログインやコンプティークはもとより、ベーマガだろうがポプコムだろうがテクノポリスだろうが、読むヤツは読んでました。


以下は余談なんですが。

これはある程度一般化して言えると思うんですが、子どもは「楽しそう」と思ったことについて物凄い貪欲ですし、凄い情報収集能力を発揮したりするんですよ。大人が、「子どもが観るコンテンツをコントロール出来る」と思っているとしたら、それは多分間違いなんです。ヤツらは、大人が見ていようがいまいがお構いなく、ありとあらゆる方法で色んなコンテンツに接して、それを楽しんで、時には衝撃を受けて、自分なりに消化します。

だからまあ、勿論大人が積極的に様々なコンテンツを提示する必要はないにせよ、「子どもが摂取するコンテンツ」について、あまり思い煩わなくてもいいんじゃないかと私は思うんですよねー。どうせ隠そうとしたってあいつら見つけ出しますし、受け取ったコンテンツはそれなりに消化してそれぞれ成長しますよ。皆さんも、昔からろくでもないコンテンツ摂取して、それでもちゃんと大人になったでしょ?いや、そうでもない、という人もいるのかも知れませんが。

まあ、昔マイコンゲーム雑誌とか皆で回し読みするの楽しかったよね、という、それだけの話でした。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:19 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月25日

「世界大学ランキングに日本の大学はたった〇校」系のネタで教育を語る意味はあるのか


いや、大した話じゃないんですけど。

たまーに、ビジネス系の記事で、日本の大学のレベルの低さを持ち出すネタの一つとして「世界大学ランキング」の話が枕に使われることがあります。世界から見ると、日本の大学はたったこれだけしかランクインしていない!!レベルが低い!!世界に目を向けろ!!的なアレですよね。

最近だと、「世界大学ランキングで、100位以内にランキングしている日本の大学はたった2校」という話を聞くことがあります。たった2校、と言われると、確かに問題な気がしますね?

ところで、当たり前の話なんですが、ランキングには当然集計している組織があって、そのランキングそれぞれの基準、傾向、性質を持っている筈です。

そして、「世界大学ランキング」というものは、実際には色んな組織が色んな基準でやっていまして、有名なものもあれば無名なものもあります。「これは有名だろう」と言い切っても誰からも文句が出なさそうなものに限っても、多分4つか5つくらいはあります。

例えば、イギリスの高等教育専門誌である「タイムズ・ハイアー・エデュケーション」が行っている、「THE世界大学ランキング」。2018年分が先日発表されまして、このランキングで100位以内にランクインしている日本の大学は東大と京大だけですね。各国学者のレビュー、学生一人あたりの教員数、教員一人あたりの論文引用数なんかが重視されているランキングです。


次に、同じくイギリスの大学評価機関であるクアクアレリ・シモンズが発表している、世界大学ランキング。ちょっとややこしいんですが、上記の「タイムズ・ハイアー・エデュケーション」も、2010年頃まではクアクアレリ・シモンズと共同でランキングを作っていたんですよ。集計方法とか、いろいろ批判があって分裂したんですけど。


ちなみに、このQSランキングでは、東大京大に加えて東工大、大阪大学、東北大学の3つが100位以内にランクインしています。計5つです。評価指標の内訳なんかはTHEの方とあんまり変わらないんですけどね。

The Center for World University Rankings (CWUR)がやっている「CWUR世界大学ランキング」。これは、学術研究や教育の質、卒業生の質なんかも考慮に入ったランキングでして、日本の大学がかなり高めに評価されています。東大は12位。他、京大と阪大が100位以内にランクインしています。


トムソン・ロイターがやっている「Top 100 ranking of the most innovative universities」。これ、2017年集計なんで他のランキングよりちょっと古いんですが、「科学技術への貢献度と世界経済への影響力を算出し、ランキングしたもの」だそうで、なんとトップ100内に日本の大学が8つもランクインしています。つっても、ランキング自体が相当北米に偏ったものなんですけど。日本の大学はレベルが低い!情けない!!って言いたい人たちからはあんまり引用されないですね。




ちなみに先日は、「東大がQSランキングで過去最高ランクを更新」なんて話が一部で話題になってましたね。


一方、ロイターのランキングで日本勢が軒並み後退、なんて記事もありましたけど。


いや別に、「日本の大学は言われている程レベルが低くない」なんて言いたい訳じゃないですよ。

「世界大学ランキング」に〇校しかランクインしていないから問題、みたいな論調はちょっとアホらしいなあ、というか。ランキング自体、基準もバラバラなら立ち位置もバラバラであって、場合によってはその機関の立ち位置、思想までランキングに影響したりします。一つ一つの指標を参考にするならともかくとして、総括して「日本の教育レベルの低さ、高さ」を論じるネタとしてはあんまり適してないんじゃないですかってことが言いたいんです。

要は、「世界大学ランキング」を、元ネタの明示もなしに引き合いに出して、単純に危機感を煽ったり既存の体制を批判したりする向きには、ちょっとばかり眉に唾つけて聞いた方がいいんじゃないかと。

勿論、教育の質、大学のレベルというのは大変重要な問題であって、憂慮すべき問題でもあります。基礎研究の重要性とか、大学の予算の問題とか、研究者が研究に集中できない環境だとか、大学について議論すべき課題、改善すべき問題点なんてものは山ほどあるでしょう。

ただ、それを語る時に重視するべきなのは、多分「グローバル」だとか「世界に目を向けているかどうか」とか、そういう言葉では多分ない。世界大学ランキングなんて、教育問題を語る上では正直単なるノイズであって、極論どうでもいい。

私自身は、一方では大学の教育レベルについて憂慮げな話をするくせに、もう一方では「1年から就活の許可を」とか「オリンピックボランティアの為に大学も配慮を」とか、大学の講義や研究にひとかけらの敬意も持たない要請ばかりして、くだらないノイズでますます研究者から研究の時間を奪っているあの辺の界隈をどうにかすることが、大学教育を改善する上で割と重要な一歩だったりするんじゃねえかと思っているんですが、皆さんいかがお考えでしょうか。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:07 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月11日

憤るのは疲れる

ちょっと雑然とした話をする。愚痴の類であって、特に結論が出るような話ではない。

世の中には、山ほどの対立項、山ほどの思想的態度、山ほどのアンモラルな行為が溢れている。それらは、特に連帯することも連携することもなく、てんやわんやの状態で存在しており、互いにぶつかったりすれ違ったりしている。

時折それらにスポットが当たる。頭がいい人たちが、対立項を分かりやすくクローズアップして、極端なゼロイチを放り込む。あるいは、どこかで誰かが行ったアンモラルな行為が、また別の誰かに見いだされて、急きょスポットライトを当てられる。

そんな時、怒りたい人たちが大量に寄ってきて、どちらかの立ち位置に肩入れして、ガンガン怒りマークを投げつけ合う。プライベートライアンのオープニングみたいなものだ。

正直、ちょっとしんどいな、と感じる。

別に今に始まったことでもない、ずっと以前からの話だ。この状況も、私の性向も、10年前と変わったかと言われたら正直それ程変わらない。

まず前提にあるのが、「憤るのは気持ちいい」ということなんだろうと思う。正確には、「憤って、何かを攻撃するのが気持ちいい」ということだろうか。

これは多分、人間全般にある程度普遍的な話なんだと思う。私も別に例外の振りをするつもりはない。なんらかのエピソードに対して、「これはひどい」と感じて、ひどい理由や自分の考えをスカーーンと投げつける。それは、確かに、一種の娯楽として機能する。感情を大きく揺り動かすこと自体に一種の快感があるし、そこからマウントをとって他人を叩くのも気持ちいい。それはそうなんだろう。私だってそうだ。


ただ、その行為は一種の焼畑農業のようなもので、ある程度のMPを消費する。そして、そのMP消費の度合は、多分人によって違う。極めて低いMPで、効率よく憤ることが出来る人もいれば、憤ること自体に大量のエネルギーを必要とする人もいる。

私は、昔から、怒るのがちょっと苦手だ。憤ることに、多分人よりちょっと多くのエネルギーを必要とする。怒ると、疲れる。だからあんまり怒りたくない。

別に怒らない訳ではないのだ。憤らない訳でもないのだ。私は聖人君子でもなんでもない。ひどいニュースに突き当たると腹も立つし、一言言ってやりたくなる。実際に何かしら、一言ぶつける記事を書くこともある。ただ、腹を立たせることはイコール腹を空かせることでもあるので、出来ればあまり腹を立てたくない、という気持ちもある。

「怒りを誘う」メソッドがあまりにも定着し過ぎたような気はする。つまり、「どういうアプローチをすれば、色んな人が怒ってくれるのか」という文法が、既存のマスメディアだけではなく、一般のユーザーにまで知れ渡ってしまった。

怒りを誘う情報を見つけてきて、それにちょっと味付けをして、ぽんっとおいておくと、色んな人が寄ってきて怒ってくれる。色んな人に知られれば知られる程、メディアの影響度は増す。「知られる」ということはそれ自体が大きなメリットだ。だから、色んな人が「怒りを誘う」メソッドを利用する。結果的に、「怒りを誘う」情報が大量に可視化される。

「怒りを誘う」情報は、それ自体、私のような人間にはMPを減少させる地雷のようなものだ。パペットマンの大群と言っても良い。

時には怒るのもいいし、憤りに任せて記事を書くのもいいが、正直、ちょっとしんどい。最近は、「これを読むと憤りを誘われそうだな」と感じた情報をしばしばスルーするようになってしまった。ブロガーとしてはあんまりよくない傾向だと思う。

皆はしんどくないんだろうか。皆はMPをすり減らさないで怒れるんだろうか?

世の中には、いくら憤ってもまるで疲れた様子を見せず、常に憤りと、憤りを誘うような情報を出力し続ける人もいる。そのMPが無尽蔵なのか、あるいは精神的耐久性がバカ高いのか、どっちにしてもすごいなーと思う。とても真似できない。

今のwebは、どちらかというとそういう人が脚光を浴びるように出来ているのかも知れない。

ただ、多分世の中には、私と同じように「憤ると疲れる」という人もちょこちょこはいる筈で、そういう人はそういう人で、多分ちょこちょこ地雷を避けたり、時には地雷を踏みぬいたりしながら生きている筈なのだ。

どちらかというと日陰者の類になるのかも知れないが、私も日陰者の一種として、どちらかというとそういう人達と気が合うような、あまり疲れない記事を引き続き書いていければいいなーと。

そんな風に考えている次第なのである。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 07:24 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月29日

非常口マークの人の姿勢について長いこと勘違いしていたかも知れない


先に断っておくが、以下の話はあなたの想像を更に5割程上回ってどうでもいい話であって、あなたに新しい知見を提供することは一切ない。時間を大切にする人はここから先を読み進めるべきではない。

まず、私は非常口マークの人の正式名称を知らない。その為、ここでは便宜的に「非常マン」という呼称で統一させていただきたいと思う。なかなかいいネーミングではないだろうか、非常マン。なんとなく強そうな響きすらある。

さて、非常マンのマークとは、皆さんよくご存じの下記のようなマークである。

ブログ用

このマークには解釈上の問題がある。「非常マンがシルエットでしか表現されていない」「その為非常マンの具体的な姿勢については見る側が推測するしかない」という問題である。

私は、この非常マンを初めてみた瞬間、恐らくは幼稚園か小学校くらいの時点から、もう30年以上にわたって、非常マンの姿勢について「非常マンはこっちを向いてポーズをとっているのだ」と認識していた。これは、私にとってはもはや刷り込みに近い根本的な認識であって、ここから発想を飛躍させるのは、私にとって非常な努力を必要とすることなのだ。

この認識について分かりやすく図示すると、下記のようなことになる。

非常マン1.png

お分かりいただけるだろうか。つまり、私にとって非常マンは、「ドアを開けた時の光を背景にして、こちらを向いて軽快なポーズをとっているちょっと陽気な人」という認識だったのだ。これはもう、子どものころからの認識であるのだから仕方ない。

ところで、最近になって、というか本当についさっき、ふと思った。「冷静に考えると、非常マンって部屋から脱出してるんじゃねーか?」「部屋から脱出するときにこのポーズってのはちょっとおかしくねーか?」と。

繰り返しになるが、上記の認識は私にとって、もう30年来の固定観念だ。人間の脳は、自分の常識をそう簡単に疑えるようにはできていない。それに対して、僅かでも疑問を持つことが出来た私の発想飛躍力を称揚していただきたい。

つまり、

「非常マンは実は向こうを向いて走っているところなのではないか?」

という疑念が、まるで降ってわいた天啓のように脳裏に浮かんだのである。

分かりやすく図示するとこういうことになる。

非常マン2.png

念のため絵に注釈をつけさせていただいた。お分かりいただけるだろうか。

そう、非常口マークは、そもそも「何か危険があったときはここから逃げるんだよ」というマークであるのだから、冷静に考えれば「その部屋から脱出する人」を描写している筈なのだ。なんとなれば、「君は逃げ方が分からないかも知れないけれど、こんな感じで走って逃げてね」という見本図であるかも知れない。

部屋から逃げる時に、「体をこちらに向けてなんか変なポーズをとりながら逃げる」というのは、どう考えても適切ではないのだ。うっかりすると、お前はこっちに向かってアピールしてる暇があったらとっとと部屋から出ろよ邪魔だろ、という話なのだ。

そこから考えると、二つ目の絵のような状態であれば、「ドアを開けて部屋から走り出ていく人の図」として全く違和感がない。これは、もしかするとこちらの方が正しいのかも知れない、と、30年来の私の固定観念に強力な揺さぶりがかかっている次第なのである。

非常マンについて知見がある皆さんに伺いたい。非常マンは、こちらを向いているのだろうか?それとも向こうを向いているのだろうか?

常識を疑うことには非常なエネルギーを必要とする。だが、今の私は、今までの自らの固定観念に正面から向き合い、必要とあらば根本から修正を図る覚悟だ。

識者のご意見を期待すること大である。

今日書きたいことはそれくらいです。


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posted by しんざき at 07:14 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月24日

部活廃止論、なんかやたら受けるけれどいくら何でも暴論じゃないですか

こんな記事を読みました。


人数に対する費用が少ないとか、こんなんで足りんのか、効果あんのかといった、規模についての議論は当然あると思いますが、「教員の負担」が明確に問題として認識されていること、施策が打たれれば拡張の話も出来ること等考えると、基本的にはいい話、いい方向性ではあるんじゃないかなーと思ったんですよ。

ただ、はてブ等見ていると、


なんか「部活廃止しろ」という文言がやたら受けてるんですよね。なんか、部活を目の敵にする人がやたら多いなーと。単に極論程受けやすいって話なのかも知れませんけど。

今問題になっているのは、

・教員の負担、残業の増加、負担に対する報酬がないこと
・地域によっては、部活動に興味がない生徒でも部活を強制される場合があること

の二点であって、であれば

1.教員の負荷軽減の為の施策を考える
2.適切な報酬を出す方法を考える
3.部活動全入の強制をやめる

ことを考えるべきであって、そこで「部活ごとやめましょう」っていうのは「ゴキブリが出たから家ごと燃やそう」みたいなもんでしょうと。というか部活憎悪してる人多すぎじゃありませんかと。

部活のメリットというものは、ぱっと考えただけでも

・生徒にとって、安価で様々な趣味・技術にアクセスする場になり得る
・部活内での技術継承・ノウハウ継承の流れがある
・クラス以外の居場所があることで、クラスでうまくいかない生徒の精神の安定に寄与する場合がある

くらいは思いつきます。勿論、学校によって、部活によって、個別の事情は色々あると思うんですけどね。


まず第一に、「そもそも部活がないとその趣味の存在自体意識しねえ、知らねえ」って子、結構たくさんいるんじゃないかと思うんですよ。

皆部活っていうと、野球部とかサッカー部とか、あるいは吹奏楽部とかメジャーなものを思い浮かべがちなんですが、例えばもっとマイナーなスポーツとか、あるいは種々雑多な文化部だって立派な部活なわけです。ハンドボールとかバドミントンくらいのレベルですら、「部活がないとスポーツとして意識しない」って人、多いと思いますよ。なんとなく囲碁将棋部に入って、将棋のついでに囲碁にも触れて囲碁の面白さに目覚めた、って人、私が知ってるだけでも何人かいます。

そういう「趣味との出会い、アクセスの機会」っていうのを丸々捨てるんですか、という話がまず一点あります。

「地域のスポーツクラブにいけばいいやん」という話も分からないではないんですが、サッカーや野球くらいのメジャー具合ならまだしも、

・当然費用がかかる
・ある程度マイナーな競技・活動では、そもそもその地域にその団体が存在するか分からない
・学校での部活程生徒との接触がなく、そもそもある程度主体的にその種目に興味をもっていないと選択肢にならない

そもそも「最初は囲碁に興味がなかった人」が碁会所いきますか、って話です。あと、「通える距離にハンドボールやってる団体ありますか」ってことでもあります。小さな自治体なんかでは、「学校の部活がそのスポーツの唯一の受け皿」なんてことも全然珍しくないでしょう。

勿論スポーツだけの話ではなく、新聞部だって文芸部だって、なんならパソコン部だって鉄研だって立派な部活です。中身は真面目なこともあるし、ダラダラ遊んでるだけの部活もあるかも知れませんが、まあ「趣味への入り口」としての部活動という側面はあるし、そこから広がっている裾野も当然ある。中学のパソコン部や文芸部と同じようなことが地域の団体で出来ますか、っていうのはいくら何でも現実的じゃないでしょう。

一方、部活廃止ってことにもし本当になったら、真っ先に切られるのがそういう良く分からない活動であることは想像に難くないわけです。

「クラス以外の居場所」が重要ではないか、という話もあります。自分が所属する組織、団体が複数あった方がメンタルに好影響を及ぼしやすい、という話もだいぶ一般的になってきましたよね。子どもの居場所と精神安定性についての論文を拝見したのでリンクしておきます。


一般的なイメージからしても、クラスの人間関係がうまくいっていない子が、部活を居場所にして救われる例って結構あるんじゃないかと思うんですよ。というか、私の観測範囲でも何例かそういう例があります。

一方、そういう子が「部活」なしで、例えば地域団体のような「別の居場所」を探せるかというと、まあ勿論色んな例があるでしょうが、怪しい側面はあると思うのです。


ギルティだと考えられるのは「趣味を強制されること」であって、そういう意味で「部活動の強制」という向きは滅んでいいと思います。今でも一部の県では部活全入強制が一般的らしいですね。

ただ、「自由に選択出来る」という前提の上なら、選択肢が多いことは望ましいことだと思うんですよ。


本当に問題なのは、「部活が必ず顧問の教員を必要とすること」「顧問にされた教員が正規の業務以外の仕事で疲弊すること」「部活動の指導に対しての報酬が出ないこと」であって、であれば例えば「指導は地域や民間に委託しよう」とか「部活指導員を個別に設けよう、その人数を増やそう」とか「顧問の活動はきちんと残業にしよう、ちゃんと残業代を出そう」とか、そういう議論を活発にするべきですよね。

そのスタート地点としては、冒頭挙げた施策なんかはまあ悪くない線なんじゃないかと。もっと予算必要だろとは私も思うんですけどね。

「教員への部活動の負担」というものが社会的に認知されるのは良いことだと。

そんな風に考えるわけなんです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 06:43 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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