2016年12月20日

上西小百合議員の給付型奨学金についての発言に関する突っ込みどころを整理してみる

ちょっと突っ込みどころを整理してみたい衝動に駆られたので、自分用の整理です。

下記のようなまとめを読みました。なかなか興味深い案件だと思います。


関係がありそうなツイートはこの辺です。心温まる発言が並んでいます。寒さ深まる中、心があったかくなる案件は貴重ですよね。


複数の突っ込みどころが同時に頭に浮かんできてちょっと途方に暮れてしまったので、面倒くさがらずにちゃんと整理してみようと思いました。

まず、上記ツイートについての突っ込みどころは、

・学歴別の年収については明確な統計があるのにそれを無視して「中学から働いたって稼げる」という特殊例の話をしている
・大学の教育効果を無視、ないし否定している
・給付型奨学金を受けるか受けないかは選択の問題であり、別に「中学から働く、社会に出てから勉強する」という選択肢を否定するものではないので、このツイート自体が「大反対」の理由になっていない
・そもそも上西議員は自サイトで「返済不要!給付型奨学金制度の拡充」という政策を掲げていた(アーカイブ) なお、現在はその記載は削除されている(12/20になってから削除した模様)
・自身は裕福な家庭であることを明言した上で、裕福でない家庭の選択肢を排除しようとしている

ぱっと思いつくところだとこの辺りが主要な突っ込みどころになるでしょうか。

書いてる間に突っ込みどころが増えたんですが、

・自分の考えに反する政策を支持者・有権者向けの公約に掲げていたことを明言している
・維新を離党したのは2015年4月4日であった為、そこから一年半以上の期間が経っているにも関わらず、自分の意志に反する政策を自分の公式ホームページに掲載し続け見直しもしていなかったことを明言している


いやその、正直大丈夫なんでしょうか…。認証済アカウントであることを思わず三度見しちゃうレベルの発言なんですが…。


なんかもう細かく反論するのにも徒労感があるのですが、そもそも政策は多数の国民の生活に寄与するものなので、個別の特殊例ではなく、統計で議論しないと意味がないですね。「大学行かなくても稼ぐ道はある」は政治の発言ではありません。「大学行かない方が稼げる」「大学なんて不要だ」なら政治の発言になり得るかも知れません。

そして、学歴によって年収に格差が生じることについては、当たり前ですが明確な統計が存在します。

大学・大学院卒が402.5千円(前年比1.5%増)、高専・
短大卒が308.8千円(同1.6%増)、高校卒が288.2千円(同0.5%増)、女性では、大学・大学
院卒が287.8千円(同1.1%増)、高専・短大卒が252.5千円(同1.4%増)、高校卒が207.7千円
(同1.0%増)となっており
笑うしかないくらい明確ですね。「大学に行けない」「大学を卒業できない」ことによって、統計的にこれだけの賃金差が出てしまい、さらにこれが格差の固定につながってしまう。かつ、奨学金の返済も、もとより裕福でない対象家庭にとっては大きな負担になってしまう、だから格差是正の為にも返済不要の給付型奨学金を作りましょう、というのがロジックなわけです。筋通ってますよね。


それに対して、「中学から働いたって稼げるから」「本当に勉強したいなら社会に出てからだってできるから」大反対、というのは正直いってわけが分かりません。理解するまでに3段階くらいの思考の飛躍を必要とするレベルです。アングリーバードかよ。

百歩譲ってこの政策にコミットしないとしても、利用したくない人は利用しなければ済むわけです。「中卒高卒で働く」という道が、この政策で閉ざされる訳では全くない。そういう道を選びたい人は選べばいいわけです。なのに大反対、というのはより一層わからないですね。格差を是正したくない、くらいしか理由が思いつきません。

大学自体の教育効果については議論の余地が色々とありますが、少なくとも社会的に見た大学の立ち位置は「専門的な人材養成」なので、政治に携わる人が「大学行く必要ねーよ」という発言をするとしたらそれなりの論拠が必要になりそうですね。ただでさえ研究者不足が進んでるんですが、企業の研究力の拡充とかどうするんでしょうか。


あと、これはあまりロジカルな話ではないんですが、「私はお金持ちで大学にいけました。けど貧乏な君たちは無理して大学にいく必要なんてないよ!!」というのはちょっとその、割とロックンロール寄りな発言なんじゃないでしょうか。ご本人も貧乏で苦労された上で、とかならまだ話は分かるんですが、「本人は苦労していないことを明言しつつ、他人には苦労を勧める、ないし強制」的な構図がかなり熱い。



それと、後ろに挙げているツイート、これ大丈夫なんでしょうか…仮にも現職の衆議院議員が、「有権者が参照する自分のホームページに、自分の意志に真っ向反する政策を記載していて、しかもそれは党に言われて出したもので、しかもそれを離党してからも1年半放置していた」ことを明言しちゃうってちょっとエキセントリック過ぎて今日がエイプリルフールじゃなかったかを冷静に疑っちゃうレベルなんですが…。離党した時点で政策の見直しくらいしましょうよ。



なんか書いてる内にくらくらしてきたので一旦項を閉じます。後で追記するかも知れません。



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(追記 16/12/21 07:45)

「こんな議員を当選させた有権者は〇〇」みたいなコメントいくつか見かけましたけど、上西議員は当選2回が2回とも比例での敗者復活当選ですので、「有権者が積極的に選んだ」というわけではないですね。まあ、だからこそ維新を離党した時、「なんで議員辞職しないの」と突っ込まれまくっていたわけですが。

まあ最近はテレビ活動がご活発なようですし、話題になるのは本人的にもよろしいことなんじゃないでしょうか。


posted by しんざき at 12:26 | Comment(10) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月17日

何故だ。何故、ゲームのことを「無料で当然」という人がこんなにも存在するんだ

「ゲーム内容に比べて○○円は割高」というなら、まだわかる。話はわかる。なんの問題もない。ゲームを面白いと感じるかどうかは人それぞれだ。自分の体験に対していくら払うか、というのも人それぞれだ。

私は、件のゲームを既に買った。iPhoneもってないからiPadだけど。まだ遊び尽くしたわけじゃないけれど、このゲームを1200円というのは物凄い勝負だな、と感じた。けれど、そう感じない人がいるということも理解は出来る。そこに文句はない。


だが、appレビュー欄で☆一つをつけている人たちの、「なんで全部無料じゃないのか」「途中で課金を要求されてがっかり」みたいな意見はさっぱり分からない。本当に分からない。何を、何を言ってんだこいつらは。

我々は、彼らとどう折り合いをつければ良いのか?「無料で当然」とでも言う、この考え方は一体どこから来るのだ?

ゲームはいつの間に、「無料で当然」と考える人がこんなにも多い遊戯になってしまったんだ?


まず、

まずだ、

一つだけ、当たり前のことを書かせて欲しい。当たり前過ぎて今更書くことでもないかも知れないが、


「無料で作れるゲームはこの世にない」
「無料で提供して継続出来るサービスはこの世にない」


無料で提供されているように見えるものは、必ず、何か違うところで何か違うものが支払われているんだ。それを支払うのはあなたかも知れない。私かも知れない。他の誰かかも知れない。それは広告料かも知れないし、追加課金かも知れないし、スポンサー企業の投資かも知れないし、他の何かかも知れない。ただ、「無料」というものが本来有りえないものなのだ、ということについては確認しておきたい。


その上で、例えば「基本無料で一通り遊べる。けど、追加課金でガチャとか、あるいは便利アイテムが売っている」というモデルについて考えてみよう。


このモデルは、たしかに非常に優れている。お金を払いたくない人にとっては、「お金を払わずに、一通り暇つぶし程度には遊ぶことが出来る」。深く遊びたい人にとっては、「お金を払うことで、色んな有利を得ることが出来る」メーカーにとっては、「長く遊んでもらうことで、継続的に利益を上げることが出来る」「マジコンのような被害をある程度軽減出来る」

素晴らしい。このモデルが実に優れている為に、最近はパッケージゲームでも、有料DLCの仕組みを部分的に取り入れているケースが多い。

基本無料、追加課金のモデルでも、面白いゲームは山のようにある。何よりも「ゲームを作る人たち」がそれで食べていけるのであれば、その点に文句はない。なにもない。


しかしだ、

「基本無料、追加課金」のモデルには、一つ致命的な欠点がある。


それは、「ある程度ゲームの形が決まってしまい、それにそぐわないゲームは作りにくくなってしまう」ということだ。


追加課金のモデルがある以上、そのゲームは「長く継続して遊べる、遊んでもらえる」という要素か、「1プレイ1プレイが短くて、回数をこなしてもらえる」という要素、どちらかが強くなくてはいけない。このどちらも入っていないゲームは、このモデルでは作りにくい。全く作れないというわけではないかも知れないが、とにかく作りにくい。

「基本無料で、広告で稼ぐ」というモデルのゲームでも事情は同じだ。こちらは追加課金モデル以上に、「1プレイが短く何度もプレイしてもらえる」という形式に特化されやすい。

だから、例えば「1ステージがある程度重たいSTG、アクションSTG」であるとか、「中規模程度のシナリオRPG」であるとか、「ベルトスクロールアクション」であるとか、他にも色々あるけれど、そういったゲームは非常に作られにくくなってしまった。少なくとも、ある程度リスクを取れる体力がある企業でしか作れないゲームになってしまった。



確かに、「基本無料、追加課金」というモデルは優れている。素晴らしい。このモデルがなければ、このモデルをあちこちに引き写さなければ、ゲーム業界なんてもっとずっと早く衰退していたのかも知れない。今頃は、本当の大企業以外は軒並み潰れていたかも知れない。

「基本無料、追加課金」のモデルにゲームが統一されていき、それ以外のゲームはリスクをとれる大企業しか作れなくなっていく、というのも時代の流れなのかも知れない。



だからどうした。

だからどうした。

だからどうした。


俺はゲームを買うぞ。ゲームを遊ぶぞ。ゲームを楽しむぞ。ゲームを味わうぞ。ゲームを遊び尽くすぞ。


そして、お前らに伝えるんだ。


「こんなに面白いゲームがあるんだ」ということを。「このゲームは、お金を払って遊ぶ価値があるゲームなんだ」ということを。「このゲームにお金を払っても損はしないぞ」ということを。「このゲームに使った時間は、その時間以上のものをお前らにもたらしてくれるぞ」ということを。


俺が買ったゲームを、他の人も買ってくれるように。そして、俺が買ったゲームを作ってくれたメーカーに、少しでもお金が回るように。

伝えるんだ。




伝わってくれ。

posted by しんざき at 11:01 | Comment(90) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

キャベツ太郎ソムリエが皆さんにお伝えするここ10年のキャベツ太郎格付け


2007年産:味わい芳醇にして香り濃厚な、口当たりも素晴らしい格別なキャベツ太郎
2008年産:昨年と同様に素晴らしい出来栄え
2009年産:水分の含有と舌触りが途轍もないレベルでバランスが取れた、50年に一度のレベルのキャベツ太郎
2010年産:青海苔とソース味のシナジーが絶妙な当たり年のキャベツ太郎
2011年産:豊富な収穫を背景にのど越しと歯ざわりを両立させるという難度の高い食感を実現したキャベツ太郎
2012年産:50年に一度と言われた、2009年産に匹敵する素晴らしい出来栄えのキャベツ太郎
2013年産:昨年以上に高いレベルで味わいと香りを両立させた、奇跡的な出来のキャベツ太郎
2014年産:青のりが歯につきにくい
2015年産:ここ100年で一番の出来と言わしめた素晴らしい味わいとしゃりしゃりとした口当たりが驚愕の出来のキャベツ太郎
2016年産:のど越し爽やか、舌に含んだだけで味わいが口中に広がる素晴らしいキャベツ太郎


ということなので今食べるなら2016年産がお勧めです。


posted by しんざき at 15:32 | Comment(7) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月12日

本当に「たった一つの言葉が世の中を動かし」たのか?ないし待機児童問題はややこしくなっただけ、という話


これは割と一般的に言っていいと思うんですが、メディア側の人たちは大抵「たった一つの言葉が世の中を動かした」とか、「世界を変えた一記事」みたいな構図が大好きです。





マスメディアの力の源泉は「影響力」であって、たくさんの人たちに読まれる、視聴されるというのが、直接的にも間接的にもマスメディアの権力を支えています。それだけに、「一つの報道が世の中を変えた」というのは、自分たちの影響力の大きさを象徴する構図として彼らに好まれやすいんだろうと思います。私自身、「報道をやるなら、自分の一記事で世の中を変えてやる、くらいの気概でやれ」という言葉を、実際にこの耳で聞いたことがあります。

早い話、「たった一つのセンテンスが引き金になって世の中が変わった」という筋書きは、マスコミ側の人たちの大好物なんですね。流行語大賞を見ていると、そういう意識が凄く露骨に出ているように見えまして、そういう意味では色々と面白いわけです。


で、この件はその端的な表出の一つであるような気がします。



この「保育園落ちた日本死ね」という言葉は、もともとはてな匿名ダイアリーに載っていただけの一エントリーに過ぎない訳ですが、この言葉に注目したメディアと一部政治家の方々が、激しくシングルイシュープッシュされたのは皆さま周知のとおりです。この発言者は俵万智氏ですが、彼女だけの言葉でないのは選考委員の面々を観ればお分かりでしょう。

なんでこれで山尾志桜里氏が受賞しているのかは意味不明といえば意味不明ですが、まあ今更のことなので置いておきます。


元々のはてな匿名ダイアリーの記事については、あれはあれで切実なことが書いてあって、記事としては重要な記事だったと思うんですよ。実際私、あの記事殆ど最初にブクマしたように記憶してますし。決して「見過ごしていい記事」ではなかったと思います。

ただ、この記事とは別に、この記事をプッシュした人たちについては色々思うところがあります。実際にこの「保育園落ちた日本死ね」という言葉が世の中を動かしたのか、というと、正直かなり疑問符というか、個人的にははてなマークが255個くらいついちゃう感じなんですね。むしろ待機児童問題の状況をややこしくしただけじゃないのか、という。

元々の待機児童問題がどういう問題であり、何を解決するべきであるのか、ということは、アルファブロガーであるとろろ蕎麦さんのエントリーが質量ともに充実した内容をまとめてくださっています。


で、そばさんもおっしゃっている通り、

なので、例の増田に端を発した動きもふーんで見てたんですけど、なんだか全然違う論点というか、違う私たちが困ってるのはそういう問題ではないんだ…というあさっての方向にどんどんいってしまって、なんだこれは…と思ってしまったので、ここに問題を整理しておこう、という記事です。

なのになぜか増田の人とか、それを利用する政治家さんが「私も認可に落ちた」とか言ってて、あたりめーだろそこは争点じゃないよむしろ黙っててくれとか思うわけです。

というのが「げに」という話でして。

待機児童問題自体は、ずっと以前からいろんな人達がいろんな形で解決に取り組んできた問題であって、勿論様々な形で方策もとられている一方、その方策自体が新たな問題を掘り起こしたりして、「状況自体は改善に向かっているんだけど予想外の障害も次から次へと出てきてまだまだ超大変」という状態が続いていました。一例として、下記ご参照ください。



まーこの問題自体、もともと「ロンダルキアの洞窟かよ」ってくらい入るのは大変だわ敵は強いわ落とし穴は多いわというエラい問題なわけですが、それでもたくさんの優秀な人達が解決目指して努力を続けていたわけです。


これが例えば、「皆に見過ごされていて、人も予算もついていない」というならまた話は別だったんですが、わざわざ「新たに注目を集める」必要なんてどこにもないくらいホットな問題だったのです。


それに対して、「保育園落ちた日本死ね」という言葉がどのように寄与したかというと、端的に言って「単に話をややこしくして問題を拡散させただけ」であるように思えてならないんですよね…。


そもそも、最初の時点で「日本死ねとは何事か」とか「この言葉自体が反日的」だとか、「あれは本当に母親が書いた内容なのか」とか、そんなの主要な問題と1ミリグラムも関係ないですよバカですか感満載の明後日議論が花盛りだった訳ですが、「保育園落ちた」という部分に絞っても全く理解は広まらず、認可保育園がどうとか弱者救済がどうとか、それもともとの問題じゃないですよねお願いだから黙っててください、みたいな方向にガシガシ猪突猛進してしまった訳なんです。なんなんでしょうねアレ。

おかげで、今となっては「待機児童問題」自体がうっかりするとややこしい人達の攻撃対象になってしまい、「お前も反日か!」みたいなよくわからない非難を受けかねない状況になってしまっているわけです。こういう方向に世の中を変えたかったということなら大成功ですが、余計なこと言わないで引っ込んでてください感物凄いですよね。

「単に問題をややこしくしただけ」であるように感じられるところ、「世の中を動かした言葉!!」とか言って胸を張られてしまうと、あのえーと、ちょっと豆腐の角に頭とかぶつけてください、という熱い思いを正直抑えきれないわけです。


実際のところ、「保育園落ちた日本死ね」という言葉が「いい方に」事態を改善に向けた要素ってなにか一つでもあるんですかね…待機児童問題がメインイシューになりやすくなったって、そんなもんもう10年前から変わらないでしょ今更何言ってるんスかって感じなんですが。


これは典型的な例ですが、どうも「たった一つの言葉が世の中を動かした」とメディアが言う時、その多くはメディアの自画自賛というか自意識過剰、ないし純然たる勘違いである場合が多いのではないかという気がしないでもないんですが、まあそれについてはまた項を改めたいと思います。


あ、流行語大賞自体に対してうんざりしている人は、選考委員の一覧を見るとあまり真面目に取り合おうとする気がしなくなるんじゃないかと思いますのでお勧めです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

「さむがりやのサンタ」と、大人同士の会話が好きになったきっかけという話

「さむがりやのサンタ」という絵本、ご存知でしょうか。



著者は「スノーマン」の作者として知られるレイモンド・ブリッグズ。タイトルどおり、寒いのが苦手なサンタクロースが、天候やら煙突やらにぶつくさ言いながら子どもたちにプレゼントを配る、という筋書きでして、初版は1974年だそうなので、もう相当の古典絵本の部類になると思います。

私が子どもの頃読んでいた絵本というのは、流石にもうあまり残っていないのですが、これはその内の数少ない一冊になります。買ってもらったのは、本の印刷年数から判断すると1983年。私が4才の時のようです。他にもう一冊ある「オコジョのすむ谷」という写真絵本と並んで、これは当時から、私がもっとも好きだった本の内の一冊になります。

ブリッグズの絵本を読んだことがある方ならわかると思うんですが、彼の絵本って「いわゆる絵本」というよりは漫画のような表現形態なんですよね。コマ割があり、登場人物の台詞は吹き出しで表現され、けれど絵本ならではのユーモラスなリアリティがある。

このページなんてお気にいりのページの一枚なんですが、

サンタ2.png


ページ全体が一軒の家みたいになっていて、サンタが煙突の中を降りていくところでつながっているんですよ。こういう表現、非常に面白いと思います。煙突を降りきったところで一言文句を言うサンタがまたいい味出してまして、彼全編こんな感じで愚痴と文句ばっかりです。「なんだいこの天気は!」とか「じゃまっけなアンテナだ」とか。

この絵本でのサンタは完全に「文句が多いおじいちゃん」でして、子どもが読んでもサンタの存在を非常に身近に感じられるということで、お子様にもお勧めの一冊だと思います。


ところで、この「さむがりやのサンタ」の中でも一番のお気に入りのコマというのがありまして、


サンタ1.png

これなんです。

サンタクロースは勿論世を忍ぶ仮の姿といいますか、少なくとも子どもに姿を見られてはいけないお約束みたいのがありまして、このサンタも基本夜中に隠密でプレゼントを配っているのですが。劇中で彼が唯一、自分以外の大人と会話しているのがこのコマです。絵本の中で時間経過が明示されていまして、牛乳配達が歩きだす午前5時前くらいの出来事のようです。


私、このコマが子どもの頃からすっごい好きなんですよ。


なんというんでしょう。「サンタの存在が当たり前であることが、このコマ一つで表現されている」とか、「サンタの苦労が周囲に認識されていて、ねぎらいの言葉をかけられる対象になっている」とか、「サンタと牛乳配達の人がまるで顔見知りみたいにフレンドリーに話している」とか、このコマの持ち味ってのは色々ありまして、それはそれで十分いいコマなんですが。

子どもの頃の私がこのコマを気に入った最大の理由は、単純に「事情がわかっている大人同士が、一言で十分なコミュニケーションをとっている」ということがかっこいいコマだったから、なんじゃないかと思うんです。

サンタクロースが、まるで1人の職業人であるかのように描かれており、その苦労もその楽しさも十分に表現されているのが、この絵本の一番の魅力なのは間違いないと思うんですが。「サンタクロース」と「牛乳配達の人」が、お互い1人の職業人、プロとして、たった一言の短い会話を交わす。この一言だけで十分、過不足のないコミュニケーションが出来ている。

そういうところに、子どもの頃の私はなんともいえない「かっこよさ」を感じたんじゃないかなあ、と、今では他人事のように分析するわけです。これ以降、私は「プロ同士の事情が分かった短い会話」を好むようになるんですが、多分その原体験がこれだと思います。


という話をかなり昔に奥様にしてみたところ、「腐の才能があるってことだよ」と言われたような記憶があるんですが。やめて!私に変な才能を見出さないで!!


ということで、土曜は子どもたちを連れてじいじばあばと食事をしてきまして、その道すがら「サンタが町にやってくる」を聴いていて、上のような話を思い出したという、それだけの話でした。


今日書きたいことはそれくらい。





posted by しんざき at 08:30 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月30日

大学時代の過ごし方についての某氏のツイートに反応してみます

単著が新たに出版されるということで、恐らく注目を集められたい時期だろうとも思いますし、心からのお祝いの意志を込めて釣られてみようかなーと思いました。

元発言はTwitterなんですが、特にTwitterでご本人に言及したつもりはなかったところ何故かこの数時間の内にいつの間にかブロックされていたので、引用でご勘弁ください。

あたしは大学時代、つまらない授業をほっぽってアルバイトに精を出し社会勉強をし、そのお金で海外放浪して世界を知った。学生時代という時間の使い方の生産性は、すべての授業に出る生活より圧倒的に高かった。「さぼらず授業にでるのが良いこと」と思ってる人、それって本当に自分のアタマで考えた?
素晴らしいご意見ですね。何が最適なのか自分で思考して、もっともベネフィットが得られる行動を自分自身で選択する、ということの大事さをひしひしと感じます。

「いやアルバイトと社会勉強と海外放浪に時間使うならそもそも大学行かなくてええやん。大学入るのは自分のアタマで考えた選択じゃなかったの?」とか、

「授業出ないなら大学行く意味って学歴くらいしかないと思うけれど、自分の力で生きていくに当たって学歴はどんな役に立ったの?」とか、

単純に学費とか授業料もったいなくね?学費払いながら授業さぼってバイトってコストパフォーマンス悪くね?」とか、

「もし親が学費を出していたとしたら親のお金にフリーライドした上で授業サボりまくるのはどうなのかって気がするけど全額自費だったんですよね?」などといった突っ込みがあまりにもありきたり過ぎて、そんな疑問をつい抱いてしまう自分の思考回路の卑小さを感じずにはいられません。誠に申し訳ありません。


「ある時間を何に使うか」「その時間で何を得るのか」というのは勿論個人の選択であって、人の数だけ答えはあります。「何をどれだけ得られたのか」という指標こそあれ、誰かの選択を他の誰かが否定することは出来ない、というのは確実でしょう。コストの議論こそあれ、「授業でない」という選択も尊重されるべきものだと思います。


ただその上で一般論として申し上げますと、聞く耳と学ぶ気さえあれば、「大学の授業で得られるもの」というのは正直山ほどあると思います。そして、その過半は、同じく生かす気さえあれば社会に出てからも生きるものばかりです。

以前こんな記事を書きました。手前みそな上にちょっと長いですが引用してみます。面倒だったら引用部分は読み飛ばしてください。


・自分が選んだ専攻分野についての専門的な知識やスキル

・自分で自分に必要な知識を取捨選択する、という経験

・上記から得られる、「自分にはどんな知識が必要なのか?」ということを考える経験

・その知識は実際に必要だったか?という、ごく短い期間でのフィードバック

・「古い知識や知見を元に、新しい知見を創出する」という経験

・レポート・論文を書く際の文章構成力、論旨整理力、語彙力

・論文を書く際の、資料の検索の経験

・論文を書く際の、「出典を明示する」経験、引用・出典の重要性

・論文を書く為に人が書いた論文を読む、という経験

・書籍のタイトルから、自分の必要としていそうな内容を適当に推理する技術

・上記に由来する、難解な文章から必要な情報だけを短時間で引っ張り出す技術

・レポートを書く際、「教授は学生に何を書かせることを望んでいるのか?」という、相手の意図を読み解く経験

・「更にその上を行く為にはどうすればいいか?」という、相手の隠れた希求を推理する経験

・評価基準が明確でない中での、自分の評価を高くする為にはどうするべきか、ということを推測する経験

・評価を得やすい講義はどれか?といった情報を得る為の、情報探索・情報取得の経験

・場合によっては、上記から得られる人間関係・ネットワーク構成の経験

・有用なノート・メモの取り方

・「持ち込みアリ」の試験に臨む際の、有用な資料を用意するという技術

・質問することを通じて自分をプレゼンする、という経験

・その他豊富なプレゼン及び議論の経験(受ける授業にもよる)

・授業を受ける為に必要な、タイムマネジメントの方法

・難易度が高い講義をなんとか潜り抜ける為の手の抜き方
長くなりましたが、多分これでも全然挙げきれてないと思うんです。

これらは殆ど「授業に真面目に出ることによって」得られるスキルですし、大部分は「主体的に学ぶ気さえあれば、どんな大学でも得られるスキル」です。

生産性の多寡を比較する気は特にないのですが、私自身は自分の大学での時間を非常に有意義だったと思っていますし、今の自分の生活を直接的に支えてくれる経験だったとも思っています。

正直、大学に真面目に通うことについての時間・お金のコストパフォーマンスって滅茶苦茶高いと思いますよ。あれだけ集中的に、体系だって色んな知識を学び、それを昇華させていく経験が詰める場って、人生において他にないです。まあ、全部の授業に真面目に出たのかっていうとそりゃそういうわけでもないですが…。

「授業がつまらない」という場合の責任の半分くらいは授業を運営する側の責任ですが、もう半分くらいは受ける側のスタンスに帰責されるんじゃないかなあ、というのが私の所感です。主体的に向き合いさえすれば、大学の授業ってすげえ面白いですよ。自分より詳しい専門分野の人のお話は、それがなんであれ面白いものです。

二言くらいでまとめると、


・どんな時間の過ごし方でどんな経験を得るのか、というのは人それぞれの選択であり、他の人の主体的な選択を批判することは出来ない
・生かす気さえあれば、どんな環境でもその後に役立つスキルやノウハウを得ることは出来る


ということになるんじゃないかなあ、と私は思うのです。


それとはあまり関係ないんですが、冒頭ツイートで挙げた某氏については、なんだかすごい数の人が「アレ俺もブロックされてる」みたいなことをおっしゃっており。「タイムラインは自分で作るもの」ということを考えると、「自分に都合が悪い情報を発信する人については徹底的にブロックする」というスタンスは、Twitterの利用法として非常に適した形態の一つではないかと、そちらについても感服した次第です。素晴らしいと思います。


ということで、今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 10:52 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

シャドバ大会の件雑感と、「誠意の欠如」が即炎上に直結する時代になったなあ、という話

シャドウバースの大会周りの騒動を観測してました。




細かい点は上記エントリーを上から順に読んでいただければわかると思うんですが、ざっくりとポイントをまとめると、

・第一回FRESH!杯というシャドウバース大会開催の際、運営の事前の連絡に色々な不手際があった
・賞金の掲示についても、当初賞金を出すように匂わせておきながら、十分な告知なくその掲示を削除していた
・全体を放送配信すると告知しておきながら、AブロックとBブロックの扱いに当初から明らかな差異があり、Aブロックのみ放送配信を行った
・その原因について機材トラブルの為であると疑わしい弁明をした(スタッフの言い分と齟齬が見られた)
・上記について、表面的な言い分のみのお詫びエントリーをアップした(ちょこちょこ細かく修正して絶賛火に油注ぎ中)

という辺りが主なところになるでしょうか。Twitterなどで出場選手のアカウントを漁ってみると、冒頭エントリーの筆者である「ちょもす」さんの言葉をおおむね裏付ける発言が複数観測出来ましたので、恐らく運営に主たる問題があるという見方でいいのでしょう。

他参加者様の記事一例。


「スタッフによって大会ルールが変わるのが面白かったです」の一言にあふれる糞大会感に微笑みが止まりません。


先に確認しておきたいんですが、これ、問題があるのは大会の運営主体である「AbemaTV」(とそのサポート会社?)であって、シャドウバースの運営母体であるCygamesではないですからね。勿論根っこは同じサイバーエージェントなわけですが、組織そのものは全然別であって、大会自体Cygamesのまともな協力があったのかも怪しいところなので、即いっしょくたにCygamesやシャドウバースの批判に持ち込むのはちょっと無茶でしょう。Cygames肝入りの全国大会「RAGE」についてはちゃんとした運営だったみたいですし。


とはいえ、経緯を見る限り、Fresh杯の運営による参加者への扱いについては「ちょっとこれどうなの」と思える部分が多々ありますし、一般的なゲーム大会の運営についての知識やノウハウ、参加者ゲーマーへのリスペクトが欠けていた、という指摘も、その後の展開を観れば妥当であるように思います。Bブロックの経緯など見ていると、早い話ゲーマーを「放送の素材」としてしか扱っていなかった、ように思えるんですね。

大会運営にしてもその後の対応にしても、参加者に対する誠意が全く観測出来ない、少なくとも周囲からそういう風に見えるのは確かだなあと。


今回の件については一言、「AbemaTVがダメダメ過ぎた」で片づけてしまってもいいような気はするんですが、教訓として「誠意がないことが即バれて炎上する時代になったなあ」ということは強く感じます。


今回の件にしても、ちょもすさんの記事が注目されたのは「企業側の誠意のなさが如実に感じ取れる案件であり、多くの人がゲーマー側に心情的な味方をしたから」であることは間違いありません。「企業側の誠意のなさ」は、自分を消費者と考えている人たちにとって、非常に燃えやすい「感情の燃料」になり得るんですね。

考えてみると、最近の幾つかの炎上案件についても、「企業の誠意の無さをどれだけ感じ取りやすいか」というのが一つの大きなキーになっていたように思います。

例えばPCデポ炎上の一件とか。


今まさに燃えている、welqの件とか。


まだ事案継続中で、本来炎上するようなことだったのかどうかまだ微妙なところですが、ホクレンのバターの件なんかも性格としてはそうでしたよね。



例えばニュースサイトやらメディアが炎上を演出するようなときも、「企業側がいかに誠意に欠けているか」を明確にライトアップするような手法が目立ちつつあります。これはこれで視聴者としては「迂闊な感情煽られ」に警戒しなくてはいけないところなんですが、企業側は企業側で、「「誠意に欠けている」と思わせてしまったら命取りである」ということについては強く認識しておかなくてはいけないんじゃないかなあ、と。一回耳目を惹ければそれでOK、みたいな案件なら別ですが、継続な信頼度が必要な場合とか、炎上なんて大ダメージですからね。

勿論、誠意にも向き先というものがあります。顧客の側を向いた誠意、株主の側を向いた誠意、傍観者の側を向いた誠意、色々あるでしょう。「どこに向けた誠意か」ということについても、視聴者側は敏感です。

冒頭案件についても、今回注目を引いている向きが「ゲーマー側に感情移入する」向きであることを読み取って、即「参加したゲーマーの方々への誠意」をもうちょっとアピールしていれば、事態はもうちょっとシンプルになったんじゃないかなあ、と思ったりもするんですが、まあAbemaTVそんなに好きじゃないんで別にいいです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 12:12 | Comment(8) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月20日

小学校図書室でラノベが禁止された件について、小学校教師に聞いてみた


ちょっと興味が沸いたので、このまとめを知人の小学校教師(30代後半)に読んでもらって、所感を聞いてみました。


当該の教師はゲームはある程度遊ぶ人で、いわゆるサブカルにも多少理解がある人だと思ってください。ただ、ラノベは殆ど読んだことない筈です。

以下はその人の話の内容箇条書き。


・朝読書での禁止が直接の理由みたいだね

・うちの学校は規制とかないけれど、何年か前に「朝読書ではケータイ小説を禁止にすべき」みたいなこと言った先生はいたみたい。その時は、「ケータイ小説は文章が滅茶苦茶で、子どもの文章力発達に悪影響がある」みたいな話だった

・「一部の本だけを例にあげてジャンル全体を禁止にするのはどうなのか」という意見が出て、その後もなんやかんやあったんだけど、結局ケータイ小説ブームがすぐ下火になってあんまり問題にならなくなった

・ただ、学校全体で規制みたいなことはしてないんだけど、先生個別に朝読書の本について指導してることはあると思う。元々漫画はダメだし、高学年だと「絵ばっかりの本はダメ」っていう先生はふつうにいる。図鑑だめとかね。怪傑ゾロリは絵ばっかりだからダメ、みたいな話もあった

・高齢の先生だと、「そもそもラノベって何?」って人の方が多いと思う

・ただ、エロには過敏な人多い。親御さんからクレーム来たりするしね。生徒がスマホでエロ画像かなんか回し見して、なぜか学校に怒鳴り込んできた親御さんとか前いた

・俺ラノベよく知らないけど、表紙で露出度高いのとか、ちょっとエロいのとかたまにあるじゃない、そういうの持ってきてた子がいて、それを見た先生が「ラノベ=エロ小説」みたいな感じでいっしょくたにしちゃって、その本持って職員会議でぶちあげたりしたんじゃないの

・クレーム対策、とかいうと結構話通っちゃうんだよね。「親からクレームが来るかも」って言われると思考停止しちゃう人、ホント多い。そこは問題だと思う

・前のケータイ小説の時は「一部の例でジャンル全体を判断するべきじゃない」っていう人が古株の中にいたから止まったけど、そういう止める人がいなかったり、ぶち上げた先生の発言力が強かったら「学校全体でジャンルまとめて規制」ってことになるかも知れない。そうなったら図書室も、ってことになるよね

・「本なんて読んでる暇あったら勉強」って先生は俺が知ってる限りはいないなあ。忙しくてあんまり本読めない、って人はたくさんいるけど。本大事だよね。


ということでした。ケータイ小説の下りは興味深いですね。私は「ケータイ小説であろうと、子どもが読みたがるなら規制するべきではない」「ただし、他にもいろいろ面白い本はあるよというのは教えてあげたい」というスタンスですが、まあ国語の先生なんかがケータイ小説に拒絶感を持つのは理解できなくもないです。

本好きになるために何より大事なことは、「読みたい」を邪魔されないこと、だと思うんですよね。それがどんな本であれ、そこを入り口に本自体が好きになってくれれば、教育として実に望むべき形なんじゃないのかなーと。

ラノベについても同じく、どんな形であれ子どもが本読む気になるんであれば歓迎すべきだと思うんですけどねー。活字に貴賎なしですよ。流石に年齢制限つきの本だったらどうかって感じですが、そんなあからさまなエロ小説持ってくる子もいないだろうと思うんですが。

ここ最近、またサブカル的なものに対する攻撃が激しくなっているように思うので、そういうものについての対話が出来るといいなーと個人的には思います。

あと、「親からクレーム来るかもって言われると思考停止しちゃう人」っていうフレーズが個人的に印象に残りました。最近、一部の人のクレームでいろんな事態が動くことがしょっちゅう観測出来るなあと思ってまして、そういうの良くないよなーあんまりとは思ってます。クレームによる全体抑圧、みたいな。


ちなみに、私はそもそも「朝読書」という言葉自体が耳慣れなかったんですが、調べてみたら今9割くらいの小中学校がやってるみたいですね。1988年くらいから全国に広がったみたいですが…私が小学生の時はなかった気がするなあ。




今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 18:08 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月18日

「きつい言葉やショッキングなワード」で稼げるのは安易な注目だけ


思うところは色々あるんですけれど、一点だけ。

残念ながらインターネットの記事というのは、きつい言葉や、非常にショッキングなワードがないと振り向いてもらえない世界っていう一面があって。

ここはちょっと、違うなーと。全く違うなーと。

「きつい言葉がないと振り向いてもらえない」わけじゃないんですよ。「きつい言葉を使うと安易に注目されやすくなる」というだけなんですよ。きつい言葉を使わないでも、きちんと書き続ければちゃんと見てもらえるんですよ。

言ってしまえば、「きつい言葉やショッキングなワード」に頼ろうとするのは、正攻法では注目を集められないから安易に注目を集めようとする逃げでしかない、とすら言えると私は思います。

昔こんな記事を書きました。



確かに、口汚い言葉というのは目立ちますし、それだけで人が寄ってきます。けれど、それは「単なる注目のドーピング」というだけであって、決して説得力をブーストしたりはしないし、論の正しさを補強したりはしない。むしろ、「ああ、この人は論と関係ないところで何かを貶めようとする人なんだ」という蔑視の対象になるだけです。

「口汚いことで得られる注目」って何の意味もないんですよね。いや、PVだか収益だかには反映するのかどうか知りませんけれど、議論自体については何も寄与しない。何も解決させない。むしろ、本来するべき議論の邪魔になるだけです。今回の件なんか、まさにそうでしたよね。


そんなものが欲しいと私は思わないし、誠実な書き手であればそんなものを望むべきではない、とも私は思います。


「きつい言葉や、非常にショッキングなワードがないと振り向いてもらえない」などといってしまった時点で、この人は言葉の使い手としての信頼性を完全に投げ捨てていると思いました。言葉の使い手なら、「きつい言葉を一切使わないできついことを書く」ことが出来て然るべきですし、そうするべきではないのか、と。


今後も「口汚い言葉」に頼った書き方は極力避けていきたいなーと思った次第です。

posted by しんざき at 23:49 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

ルドルフとスノーホワイトかんそう文

 ぼくが一ばんすきな本は、ルドルフとスノーホワイトです。
 でも、ぼくは、ルドルフシリーズが全部すきです。ぼくがルドルフシリーズがすきな理由は、へいわな中でも、大ぼうけんや、たたかいがあって、おもしろいからです。ぼくが一ばんおもしろいと思ったたたかいは、ルドルフとイッパイアッテナの、デビルとのたたかいです。なぜおもしろいかというと、ルドルフは、すごいことを思いつくからです。そのすごいことは、ルドルフとイッパイアッテナを読むと分かります。
 でもぼくはそれでも、ルドルフとスノーホワイトがすきです。その理由は、二つあります。まずひとつ目は、ブッチーが、ミーシャとけっこんして、そのミーシャが子ねこをうんだことです。でもある日、子ねこのうちの一人のメスねこの、チェリーがゆくえふめいになります。
 二つ目は、ブッチが、子ねこのうちの一人のオスの、ラッキーを、さがしに行って、そのなわばりのねこにおそわれたことです。そのあとルドルフが、そのねこにあやまってもらいに行きます。
 この二つの理由で、ぼくはルドルフとスノーホワイトがすきです。そして、これからもずっと、ルドルフとスノーホワイトを読みたいです。



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この記事は小学三年生が書きました。


(掲載は本人の希望です)
posted by しんざき at 20:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブログ読書感想文:「ルドルフとスノーホワイト」

猫になったこと、ありますか?


絵本。小説。児童書。なんでもいいんですが、真剣になって読ませてくれる本の共通点は「入り込むことで別の世界を見せてくれる、体験させてくれる」ことです。私たちは、真剣に本を読むことで、「ほかの誰かになる」ことが出来ます。


例えば、「十五少年漂流記」を読むことで、私たちは無人島に漂流した少年になって、生き残る為に全力を尽くすことが出来ます。

例えば、「指輪物語」を読むことで、私たちはビルボやサムになって、中つ国で生死を賭けた冒険をすることが出来ます。

例えば、「ウは宇宙船のウ」を読むことで、私たちは宇宙船に憧れる少年になって、ロケットの打ち上げを見上げることが出来ます。


「他のだれかになれる」。本には色んな素晴らしいところがありますが、その中でも私は「他のだれかになれる」ことが特にお気に入りです。その為に本を読んでいる、というところだってあるかも知れません。


ところで、本を読むことでなれる「他のだれか」は、何も人間に限りません。時には宇宙人や、ロボットや、お魚や、お化けや、動物になることだって出来ます。

もちろん、猫になることだって。例えば「猫のダヤン」。例えば「百万回生きた猫」。例えば「11ぴきの猫」。例えば「長ぐつをはいたねこ」。例えば「のらねこぐんだんパン工場」。私たちを「猫にしてくれる」本というのは、案外たくさんあります。

ただ、そんな中でも、一番はっきりと、リアルに、そして何より楽しく「猫になれる」本が、私にとっては何かというと「ルドルフとイッパイアッテナ」であり、そのシリーズの4作品なのです。


今回は、その「ルドルフとイッパイアッテナ」のシリーズの中でも、4冊目の「ルドルフとスノーホワイト」の話をしようかと思います。




○「ルドルフとスノーホワイト」の背景

まず最初に、ちょっとシリーズのおさらいをさせてください。

ルドルフとイッパイアッテナのシリーズは、主人公の黒猫・ルドルフの視点で進みます。とある地方の町で普通の飼い猫をしていた黒猫・ルドルフは、ある時魚屋のトラックに飛び込んで気絶してしまい、知らない間に長い旅をして、東京の下町にたどり着きます。右も左もわからなかったルドルフは、そこでボス猫であったイッパイアッテナと出会い、「野良猫としての生き方」と「教養」を教わり始めます。


「ルドルフとイッパイアッテナ」「ルドルフともだちひとりだち」の二作が、「ルドルフの成長物語」だったことは間違いないでしょう。

ルドルフは、この二作品を通じて様々な経験を積み、純粋さも保ちつつ、強くしたたかに成長します。幾つか武勇伝を積んだルドルフは、いつのまにやら猫達の間でも、一目おかれる大物になりつつあります。テリーに「ルドルフ親分」と呼ばれそうになって、言いくるめて「ルドブン」にさせているルドルフには、妙な居心地の悪さが見えます。

「いくねこくるねこ」と「スノーホワイト」の魅力の4割くらいは、根っこは変わらず、けれど大きく成長したルドルフを含め、「イッパイアッテナ」「ともだちひとりだち」で登場した猫たちの「その後」がみられることだと言っていいでしょう。


あ!この子、今こんなことしてるんだ!とか。

あ!あいつ、元気にやってたんだ!とか。


読者にとっての「ルドルフとスノーホワイト」のキーワードは、「再会」。黒猫ルドルフの、ボス猫イッパイアッテナの、ブルドッグのデビルの、ブチ猫ブッチーとミーシャの「その後」が見られることが、かつて「猫になった」私たちにとっては何よりのご褒美なのです。



○「ルドルフとスノーホワイト」の「生活感」。

これはシリーズ共通の話なのですが、「ルドルフとイッパイアッテナ」シリーズの何よりも大きな特徴は、「猫たちの生活」の描写が素晴らしいことです。そこには本当に、「ああ、猫たちってこういう生活をしてるのかもなあ」「猫たちって普段、こういうことを考えているのかもなあ」という納得感のある風景が描かれています。


例えば、スズメを捕まえる腕を競ったり。

例えば、餌をもらいやすい人間の家について談義をしたり。

例えば、喧嘩相手を脅かす口上を考えたり。


時には一緒に遊び、時には喧嘩し、時には協力し、時には別れる。猫たちが生活していれば、確かにこういうことを話すことになるかもなあという描写が、辺り一面に散りばめられているのです。


それぞれの猫、犬間の「人間関係」ならぬ「猫犬関係」とでも言うべきものがその見どころの一つで、例えばルドルフ、イッパイアッテナ、デビルたちとの掛け合い、情報交換の様子が実にリアルというか、猫・犬ならではの生活感にあふれています。「ルドルフとイッパイアッテナ」当時は仲たがいしていたデビルも、すっかりルドルフ達の仲間になり、犬ならではの特技を使ってルドルフたちを助けてくれるのも「スノーホワイト」の魅力の一つです。

そして、タイトルにもなっている白猫の「スノーホワイト」。今回から新たに登場する彼女が、ルドルフたちとどんな猫犬関係を築くのかも、この作品の重要なポイントの一つです。


「ルドルフとイッパイアッテナ」の頃からルドルフの友達になっていたブッチーは、いつの間にやら子持ちのお父さんになっています。ブッチーとミーシャの間に生まれた、クッキーやラッキー、チェリーといった子猫たちも、今回のお話の中では重要な立ち位置を占めています。私たち読者から見ると、ルドルフは「成長した子猫」なのですが、彼ら子猫たちにとってのルドルフは「ルドルフおじさん」であり、いろんな経験を積んできた立派な先輩です。

「ルドルフに対する子猫の視線」というのは、「ルドルフとスノーホワイト」のまさに中心になってくるポイントでして、今回発生する事件では、とある猫が「ルドルフがかつて経験したこと」をまさにそのままなぞることになります。繰り返される猫たちの歴史。そんなところでも、私たちは作中の時の流れと、そこに実在している「生活」を感じることが出来ます。



〇まとめ:ルドルフからの手紙

かつて、「ルドルフの成長物語」だったルドルフシリーズは、「いくねこくるねこ」と「スノーホワイト」で「再会と、その後」の物語になりました。では、この次はなんの物語になるのでしょうか。

こんなにも楽しく「猫になれる」シリーズが、この後どんなキーワードの物語になるのか、私は楽しみで仕方がないのです。

齋藤洋先生は、「ルドルフとイッパイアッテナ」のシリーズを「ルドルフから来た手紙を小説にした」ものだ、と語っています。
その言葉を借りれば、斎藤先生に新しい「ルドルフからの手紙」が届くことを楽しみに、この感想文を締めたいと思います。


新しい「手紙」でも、楽しく猫になれますように。みなさんも、機会あれば是非「猫になってみる」体験をされることをお勧めいたします。



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この記事は、長男(9歳)との読書感想文勝負の為に書かれたものです。


今日読み比べします。

posted by しんざき at 17:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月06日

名古屋楽しかったです、ただ「運転しやすい」は信じがたい

こんな記事を読みました。


んーどうなんですかね?私昔、10年くらい名古屋に住んでたことありますけれど、住んでる分には楽しかったですよ。ゲーセン多かったし。いや、20年くらい前の話ですけど。

個人的なお勧めスポットは東山植物園ですかね。


ここ、動物園はそこそこ有名なんですけど、植物園が結構マイナーなんですよ。けど散歩をする分にはいい場所ですし、すげー広い割に人少な目ですし、色々と考えごとしながら一人でぼーっとするには絶好の場所でした。中学生以下は入園無料だったんですよ。自転車で来れる距離だったんで、特に中学の時はちょくちょく来てました。

あと、せきやってラーメン屋がありまして、ラーメン自体はごくスタンダードな醤油ラーメンなんですけど、チャーシューが暴力的にブ厚くて、チャーシューの為にラーメンの他の部分すべてがあるって感じで大好きでした。今でもたまに名古屋行くと食べにいきます。場所が変わって、個人的にはちょっと行きにくくなったけど。


ただ、
車で旅行をする人にはすごくおススメです。道が広くて車線が多いので、すごくドライブしやすいんです。
「これはない」と申し上げたい。いや、数年前から劇的に交通状況が改善してたら話は別ですけど、名古屋って運転マナー的には結構修羅の国で、名古屋で運転するの今でもすっげえ怖いですよ。。。一つ離れた車線から、いきなり右車線に割り込んでくるの心臓に悪いからやめて欲しい。


ということで。

posted by しんざき at 08:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月04日

「子どもはどんな作品でファンタジーの文法を学ぶのか」という話

先日twitterで、こんなお話を観測しました。

ここでいう「魔術やゴブリン、エルフなどのクリーチャーが出てくる作品」というのは、いわゆるトールキン的世界観に基づく王道ファンタジー、と考えていいんじゃないかと思います。

・魔術ないし魔法の描写がある
・ゴブリン、エルフ、トロール、ノーム、ドラゴンなど、デミ・ヒューマンやモンスターが登場する

というあたりを取りあえずの定義にしてみましょう。


子どものころから、ごく自然に「魔術やゴブリン、エルフなどのクリーチャーが出てくる作品」に触れてきた人間としてはちょっとピンとこないところもあったのですが、確かに言われてみると、そういう作品に全く触れてこなかった人にとっては、色々と「知らない文法」が存在するんだろうなあ、とは思いました。

ゴブリンって何?トロールって何?ドラゴンって何?魔術って手品と何が違うの?という人がいても全然不思議はありません。

では逆に、「どの年代で、どういう作品が「王道ファンタジー」の入り口になり得るのか?」ということについて、自分及び周囲の何例かの観測でちょっと考えてみました。

恐らく代表的なカテゴリーとしては、

・幼児〜児童向けアニメ
・絵本
・児童小説
・ゲーム
・小説、ライトノベル、漫画


これくらいになるのではないかなーと思います。


〇幼児〜児童向けアニメ

絵本と並んで、乳幼児期から触れることが多そうなカテゴリー。「ファンタジーの原体験」となると、これと絵本がおそらく一番多いんじゃないでしょうか。

今まさにうちの双子(4歳)は、ディズニーアニメである「ちいさなプリンセスソフィア」や「アナと雪の女王」などでファンタジーな世界観や魔術とか魔法といった概念を学習しているのですが、やはり「ディズニーアニメがファンタジーの入り口だった」という人はそれなりの数いるのではないかと。「白雪姫」「シンデレラ」みたいな古典も未だに見られてますしね。

他には、年代にもよりますが「オズの魔法使い」や「ニルスのふしぎな旅」のような子ども向けオリジナルアニメが入り口になった人もいそうです。いわゆる魔法少女ものは、世界観を考えるとちょっとカテゴリーが異なるでしょうか。

ジブリはもうちょっと対象年齢が高いような気はしますが、うちの双子は「となりのトトロ」は喜んで見ています。「ハウルの動く城」であるとか、女の子だったら「魔女の宅急便」が来てもおかしくはないですね。他、ムーミンなんかもそれに近いものがありそう。


〇絵本

読み聞かせをしてもらっている乳幼児の中には、絵本がファンタジーの入り口になった、という子も結構いるのではないかと。動物が喋るのはデフォルトですし、王道ファンタジー的な世界観の絵本も少なくありません。

たとえば「エルマーのぼうけん」。「もりのこびとたち」。「三匹やぎのがらがらどん」にはトロールが出てきますし、「まほうつかいとねこ」には魔女が出てきます。ガチガチなファンタジー世界観の絵本というのはむしろ少ないかもしれませんが、「ファンタジー的要素」が豊富に含まれる絵本というのは枚挙に暇がありません。

知人のお子さんは、「かいじゅうたちのいるところ」を読んで以来ファンタジーものの作品にハマったそうです。そういう例もあるのかと。


〇児童小説

ここも多種多彩です。絵本や児童向けアニメにあまり触れていなかった家庭であれば、ここが「ファンタジーの原体験」になってもおかしくはありません。

言うまでもない「ホビットの冒険」もうちょっと対象年齢層は上がりますが「指輪物語」を皮切りにして、「ナルニア国物語」「ゲド戦記」「はてしない物語」「獣の奏者」「リンの谷のローワン」「エラゴン」「不思議の国のアリス」などなどなど、古今東西ファンタジー児童小説は山ほどあります。

私自身は、初めて本格的なファンタジー作品に触れたというのは、エンデの「はてしない物語」を読んだ時だったかもしれません。ナルニアは若干宗教色強いですが、ファンタジー的王道世界観という意味では文句のつけようがありません。勿論ゲド戦記は、「魔術」「魔法」という概念については出色のファンタジー小説。

最近だと、世界観自体は現代(+異世界)ですが、「ハリー・ポッター」でファンタジーに初めて触れたという子どももいるかも知れないですね。


〇ゲーム

80年台以降は、「ゲームがファンタジーの原体験だった」という人も結構増えてそうな気がします。

PCゲーが初体験という人は流石に少ないでしょうが、ファミコンで言えば、言うまでもない「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」の他、「ハイドライドスペシャル」「ワルキューレの冒険」「ゼルダの伝説」「ドルアーガの塔」あたりがファンタジーの原体験だった、という人はそんなに珍しくないでしょう。もうちょっと時代を下れば、テイルズやブレスオブファイア、ポポロクロイスやアーク・ザ・ラッド辺りが入り口だった人もいるのかも知れません。

「ウィザードリィ」や「ウルティマ」で初めてファンタジーに触れた、という人がいてもおかしくはありません。流石に88版ではないと思いますが。。。

「テーブルトークRPGで初めてファンタジーに触れた」という人は流石に希少な気はしますが、一応「D&D」や「T&T」「ソードワールド」などの海外・国産TRPGの存在も挙げておきます。変わり種でいうと、「ソーサリー!」や「火吹山の魔法使い」みたいなゲームブックから入った人もなかにはいるかも知れません。


〇小説、ライトノベル、漫画

これらは、多分もうちょっと年上向けのカテゴリーになります。上記の「子ども向けアニメ、絵本、ゲーム、児童小説」に接触してこなかった上で、という前提になりますので、「原体験」という意味では既にだいぶふるい落とされているかも知れませんが、勿論これらカテゴリーには山ほどファンタジー作品があります。

漫画で言えば、恐らく「ダイの大冒険」や「魔法陣グルグル」なんかはファンタジー世界観系の代表的なところなのだろうと思います。時代を下って、手塚作品で「リボンの騎士」辺りが原体験になっていた子もいたかも知れません。


一方小説やライトノベルの分野には、「ガチガチのファンタジー作品」というのはむしろ山ほどあります。すげー多いです。

例えば「ロードス島戦記」や「ルナルサーガ」。「スレイヤーズ」「風の大陸」といったライトノベル黎明期の作品から、「十二国記」「カイルロッド」「魔術師オーフェン」のようなちょっとだけあとの作品、「ゼロの使い魔」のような比較的最近の作品まで、ファンタジーものはライトノベルの代表的なジャンルの一つとして位置づけられています。海外で言うと、エルリック・サーガなんかもありますよね。

一通りファンタジー世界観を抑えたうえでのパロディとして、という側面もありますが、「フォーチュンクエスト」も広い年代に人気がある作品です。「コクーン・ワールド」なんかも同じカテゴリかも知れないですね。

多分小学校高学年から中学校くらいになってからだとは思いますが、幼児期〜少年期にファンタジー作品に触れてこなかった、という人の中には、これらライトノベルが「ファンタジーの原体験」になった人もいるのも知れません。



ということで、ダラダラ書いて参りました。

特に結論ということもないんですが、仮に冒頭のツイートの知人の方が「今から」ファンタジー作品を初めて読むのであれば、私であれば「はてしない物語」をお勧めいたします。子どもが読んでも大人が読んでもすげー面白い、ファンタジー児童小説名作中の名作です。




今日書きたいことはこれくらい。


posted by しんざき at 13:43 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月29日

無断転載やパクりが何故「悪いこと」なのか、可能な限り簡単に説明する

それは、元の作品やテキストを作った人から、いろんな利益や権利を「奪う」「傷つける」「横取りする」ことだから、なのです。これを「著作権侵害」といいます。

著作権侵害はれっきとした犯罪でして、罰則もあります。罰金が発生することもあります。

誰かが著作権侵害をすることによって、例えば「その作品を作った人」が本来得られる筈だった称賛、金銭的利益、知名度といったものが、他の人に横取りされたりします。それは、その作品を作った人にとっての不利益になります。

作品やテキストを作れる人が不利益を受けると、結果的に作品を作れる人、作品を作ろうと思う人が減る可能性があります。作品を作れる人が減れば、世の中から面白い作品が減ります。だから無断転載やパクりは、結果的にみんなの首を絞めること、自分の首を絞めることでもあります。

パクる人、無断転載をする人たちは、要するに「自分では何も面白いものを作れないけどチヤホヤされたい、お金を儲けたい」という人たちなので、そういう人たちの為に「自分で面白いものを作れる人たち」が損をして、面白いものを作れる人が減ってしまうのは大変な損失です。だから、パクリや無断転載は糾弾されなくてはいけません。なによりも、面白いものを作れる人が増え続ける為に、ということです。



以上の話は、「著作権侵害」という言葉を思いっきりはしょって説明したことです。思いっきりはしょっているだけに細部は色々とアレなので、以下、もうちょっとだけ細かく説明してみます。既に著作権が何かわかっている方には当たり前のことしか書いてませんが、ご容赦ください。


1.「著作権」ってそもそも何なの?


一言でいうと、小説や、音楽や、絵や、映画、写真などの「著作物」を作った人が持っている権利のことです。

「著作権」という言葉には色々な権利が含まれているのですが、これもざっくり言うと「ある著作物を作った人だけが、その著作物を利用出来るんです」という言葉になると思います。

その著作物を作ったと主張出来る人も、その著作物を公表出来る人も、その著作物に自分の氏名を表示できる人も、その著作物を改変出来る人も、その著作物を売って儲けることが出来る人も、全て基本的には「作った人(著作者と言います)」だけだよ、というルールが著作権法です。



2.「著作物」って何なの?ただの文章も著作物っていうの?

言います。ただし、例外もあります。

著作物の定義は、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」です。著作物にも色々な種類がありまして、論文や小説、音楽、歌詞、絵画、彫刻、漫画などの他、写真やプログラム、建築物なんかも著作物の範疇に含まれます。他にも色々あります。


上記の定義に当てはまらない、例えば単なる事実の記録、絵や図の模倣品、ごく短い表現や文章などは著作物として認められないことにはなります。

(その為、例えばtwitterのツイートが著作物にあたるのかどうか、といった点についてはいろんな見解があります。リツイート機能を使わないツイートパクリがTwitterの規約違反であることについては変わりありませんが)



3.著作者自身がWebで公開しているんだったら、それを転載したりパクるのは自由じゃないの?

全然違います。

著作権法には、「公衆送信権等」という権利が定義されています。「著作者は、その著作物について、公衆送信(自動公衆送信の場合にあつては、送信可能化を含む。)を行う権利を専有する。」つまり、「著作物をたくさんの人に送信したり、あるいはインターネットでダウンロードできる状態にする権利は著作権者しか持ってないよ」ってことなんですね。


なので、例えば著作権者以外がWebに著作物をアップすれば、それは基本的に著作権法違反です。著作権者自身が公開しているかどうか、はなんの関係もありません。



4.著作権者以外が著作物を扱ったら例外なく著作権法違反なの?

例外もないことはないです。

著作権には、「著作権の制限」という項目が定められています。こういうケースの場合、それは著作権の範囲外だよ、という項目ですね。


ここでは、例えば「教科書に掲載するのはセーフ」であるとか、「自分だけで楽しむならセーフ」「営利を目的としない音楽演奏ならセーフ」みたいなセーフ条項も設定はされています。

ちょっと重要なのは「引用」の項目ですね。

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

引用の条件については「自分の主張が主であり、著作物は従でなければならない」「引用箇所が明確でなければならない」といった明確な条件がありますので、まあ丸パクリが引用にならないことについて疑問の余地はありません。ちょっとだけ語尾を変えたり、一行だけ感想を付け加えたり、というのも引用には当たらないでしょうね。


あともう1点、「著作者の許諾があるならセーフ」という条項もあるにはありますが、これも無断転載に適用されないことは言うまでもないでしょう。




5.まとめると何が言いたいの?

ここ最近、「パクり」「無断転載」という事例を観測することがあまりに多く、しかも割と若年の人に「著作権」という言葉の理解自体がないケースも散見されましたので、可能な限りシンプルに書いてみたい欲求に駆られました。自分の子どもに説明する時なんて言おうかな、という意識でもあります。

言いたいことは

・ややこしい部分もあるけれど、取りあえずパクリや無断転載はダメだよ!!!
・著作者がイヤな気分になると結局めぐりめぐって自分が困るからみんな無断転載はやめようね!!
・無断転載や丸パクリで金儲けしてる人たちはお願いだから滅びてください

という3点だけであり、他には特にないことを最後に申し添えておきます。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 17:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

大人になるってことは、思ったほど「大人になる」ってことじゃなかった

ちょっととりとめもない話になるかも知れません。


私は子どもの頃、「大人になる」ということについて、「出来上がる」ということなのかな、というイメージをなんとなく持っていました。少なくとも、「積み上げてきたものが、一通り積み上がる」ということではあるんだろう、というイメージを持っていました。


私の周囲にいた大人たちは、皆ある程度以上きちんとしていて、自分を制御出来ていて、自信に満ちていて、私に話す内容も説得力がある。少なくとも、子どもの頃の私にはそう見えていました。彼らは、少なからず「出来上がった」人間に見えました。

私が、かなり幸運な環境にいたということは確かなんでしょう。私の目から見ても、「反面教師」と言えるような大人は殆ど観測出来ませんでした。私はそこまで抑圧されることもありませんでしたし、倫理的におかしいんじゃないか?と思うような行為を見ることも殆どありませんでした。

だから私は、「大人」というもののイメージを、「なんだかすごくしっかりしたものだ」という形で持ち続けることが出来ました。

私は子どもの頃から、要らないことをあれこれ考え、たまには思い悩み、ただ大体はいい加減で、これ以上ないくらい自分に甘く、基本的に怠け者でした。必死だったこともあったような気はしますが、大体の場合、なんだかんだゆるゆると切り抜けてきたように、今となっては思います。


20歳になり、30歳になりました。私は独立して、結婚して、1回転職して、3人の子どもを持って、今では自分が家族を支えなくてはいけない身になりました。


当たり前のことなのかも知れないですが、私の精神は子どもの頃からの地続きで、大きく変わったという気は全くしていません。「大人になった」ということが「出来上がる」ということなのだとしたら、少なくとも主観的には、私は全く「出来上がって」いません。

私は相変わらず、要らないことをあれこれ考え、たまには思い悩み、ただ大体はいい加減で、これ以上ないくらい自分に甘く、基本的に怠け者のままであり続けています。私が、「大人になったなあ」と自分で思えたことは、これまで一度もありません。


ただ、ひとつ、なんとなく分かったのは、多分昔私の周囲にいた大人たちも、程度の差こそあれ、今の私とそんなに違いはしなかったんだろうなあ、ということです。

私の「大人フィルター」とでもいうべきものが強くって、しばらくの間忘れていたけれど、そういえば時には、彼らがしょーもないことを愚痴っていたこともあったような気がする。妙にテンションが低いなーと思ったことも、疲れてるなーと思ったこともあったような気がする。それでも、子どもの目から見れば、彼ら大人は十分以上に大人だったわけですが。


おそらく彼らも、あれこれ思い悩み、時にはいい加減で、怠け者で、会社に行きたくない日もあって、それでも頑張って「子どもの前での大人」をやり続けていたんだろうなあ、と、今となっては思うのです。


大人というのは、「出来上がった人」「積み上がった人」では、多分なかった。いや、中にはそういう大人もいるのかも知れないのですが、どうやらそういう大人ばかりではなかった。


とすると、大人になるというのは結局どういうことだったんだろう。


今でも答えは出ていません。ただ、自分が大人であろうとそうでなかろうと、自分に出来ることだけを真剣にやろう、ということだけは決めています。


子どもに対して真剣に接しよう。
自分で生きる力を身に着けられるように、自分で考える力を身に着けられるように、過干渉でなく、不干渉でなく、出来る接し方をしよう。
出来る範囲で健康に気を付けよう。
家族が食べられる程度に収入を確保し続けよう。


幸いなことに、私の人生の方向性は、守るものを持つ以前よりはずっと単純になりました。今の私は、自分がどっちに進んで行きたいのか、何の疑いもなく確信出来ています。

だから私は、自分が進んで行きたい方向に進み続けようと思っています。

怠け者でありながら、あれこれ思い悩みながら、それでも自分が信じた方向になんとか進んでいく内に、いつか「大人になった」と思えるかも知れない。


そんな風に思う次第なのです。
posted by しんざき at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

子どもの泣き声を完全に防げないとしたら、どんな妥協案があるんだろう


正直なところ、結論が出る話でもないんですが。


こんなお話を読みました。


これ、どうしたもんなのかなー、と。妥協案ってどっかにあるのかなーと考え込んでしまいまして。

リンク先のご家庭の場合、最終的に引っ越しをされて、それで事態を収束されたわけですが、引っ越しなんて本来なら最終手段ですし、金銭的、その他の事情で引っ越しが出来ない家庭の場合、これ本当に詰んじゃうよなーと。そういう場合どうすればいいんだろう、と。


先に自分の立場を明示しておくと、しんざきは3児の父です。上が小3の男の子、下が4歳の長女次女の双子。幸い今までは、周囲が子育て家庭ばかりでお互い様だったこともあり、また騒音が大きな問題にならない環境で、泣き声がしんどい時期は過ぎ去りつつあります。ご理解のある周囲に感謝するばかりです。


で、冒頭リンクの話に戻るんですが。

ブコメを見ても、大多数の人は子どもの泣き声に寛容でいてくださっています。それは本当にありがたいことで、実際殆どの場合、子どもの泣き声って許容して頂いていると思うんです。ご許容頂いている皆さま、本当にありがとうございます。


ただ、中には勿論、「そうはいっても騒音は騒音」「自分の子どもならともかく、他人の子どもの泣き声まで我慢出来ない」というご意見もありまして、いや正直、そのご意見もよくわかりまして。

親としては、申し訳ございません、努力してるんですが限界がありまして、なんとかご理解を、という他ないんですが、今回のケースの「隣人」という方も、結局はその辺、どうやっても許容出来ないケースだったのだろうと推測されます。



まず第一に、これは一般的に言ってしまっていいと思うんですが、子どもの泣き声を「完全に」防ぐことは正直不可能なんです。


もちろん、子どもによってある程度個人差はありますし、年齢によってもだいぶ変わってはきますが、少なくとも生後六カ月〜1,2歳くらいの時期であれば、何をどう頑張っても大泣きすることを防ぐことが出来ないケースは頻繁にあるでしょう。3歳くらいから多少コントロールが出来るようになる子もいますが、それだってもちろん個人差があります。

親は勿論、子どもが大泣きしたらあの手この手で泣き止ませようとするわけですが、それにしたって限界があります。乳児の頃なんて躾がどうとか以前の問題ですし、気を引いて泣き止ませようにもそもそも周囲のものを見てもくれない、なんてこと全然珍しくありません。

たとえ気を引くことが可能な子どもであっても、毎度毎度おやつで釣る訳にもいかないですし、ギャン泣きしてる子どもにテレビ見せたってiPad見せたって泣き止まない時には泣き止みません。余程分かりがいいお子さんを育てているご家庭以外、これは大抵の親御さんに理解していただけると思います。


つまり、

「どんなに頑張っても努力しても、子どもの泣き声を防ぐことが出来ないケースはある」
「その頻度は、子どもによっても変わるし年齢によっても変わる」

という二点は、ある程度前提として考えるべきだと思うんですね。子どもは「泣くのが普通」なんです。これ、別に「だから泣き止ませようと努力しなくてもいい」という話でもないですし、「親の開き直り」ととられてしまうとちょっと困ってしまうんですが。最大限泣き止ませようと努力した上で、それでも泣くのがふつう。

リンク先の隣人の方が、それを承知されていたのかどうかはちょっと分かりません。わかっていても我慢出来ないものは我慢できない、ということもあるでしょうし。


その上で。


冒頭リンクのご家庭は、記述内容を見ても、恐らく通り一遍の対策は全てやられたのだろうと推察します。子どもが泣き始めたら窓も閉められたでしょうし、何か気を引こうとも試みられたでしょうし、例えばトイレやお風呂場にこもって防音を試みられたこともあったでしょう。

が、恐らく建物の防音性の関係もあり、それでも泣き声が隣家に届くことを防げなかった。恐らく、ご近所付き合い的にも難しいところがあったのではないかと推測します。


こういうケース、本当にどうすればいいんでしょうね?どこかに「引っ越す」以外の落としどころってないんでしょうか?


・親は泣き止ませる為に最大限努力している
・が、完全に泣き声を防ぐことは出来ていない
・住居の防音性が優れていない

という状態で、仮に

・金銭的、その他の問題で引っ越しも出来ない


としたら、一体どんな解決法があり得るのか。

揶揄ではなく、割と真面目に、「隣人」側に立つ人に「どんな落としどころを期待するのか」というところを伺ってみたいなーと思いました。妥協点って存在するのかなあ。突き詰めると本当に、警察事案になってしまうので何か平和な解決法はないのかと考えてはいるんですが。


今回の件とは直接関係ないんですが、以前、「公共の場で泣く赤ちゃんについて」は下記のような記事を書きました。



頑張って育児をされている親御さんのハードルが、少しでも下がることを願って止みません。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 10:12 | Comment(13) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月12日

創作における「リアリティ」の意味と、細かいことが気になる人、気にならない人のお話


この記事で書きたいことをまとめると、以下のような感じになります。


1.漫画や小説、映画などの創作における「リアルな設定」「考証」「リアリティ」といったものは、要するに視聴者を没入させる為の手段であって、目的ではありません

2.リアリティがどこまで気になるか、言い方を変えるとどこから「嘘っぽく」感じてしまうかというのは、ファールラインの問題であって、ジャンルによりますし人によります

3.嘘っぽく感じようが、リアルに感じようが、それは感覚の違いの話なので、お互い否定しない方が平和だと思います

4.自分の「面白い」「つまらない」という感覚を信じるのが大事ですよね


よろしくお願いいたします。


ということで、大体言いたいことはまとめてしまったので、以下は補足です。


まず最初に、リアリティとは何なのか。辞書的にいうと「真実性」とか「迫真性」とかいうことになるんですが、要するに「いかに本当っぽく思えるか」「いかに現実のように思えるか」というのがリアリティの本義である、筈です。

それが実際に現実である必要は全くなく、「視聴者・読者がそこに現実を感じるかどうか」がリアリティなので、ファンタジーものだろうがSFだろうが「リアリティ」のあるなしという話はついてまわります。ドラゴンボールだろうが、ジョジョだろうが、ウルトラマンだろうが、「リアリティ」論はテーマになり得ます。

リアリティがあれば、読者はその作品に没入出来る。リアリティがなければ、視聴者はその作品に没入出来ない。基本的に、創作の受けとり手は「その作品に没入出来れば出来る程」その作品を楽しむことが出来るので、「リアリティが優れている」作品の方が楽しみやすい傾向があるんですね。

要は、「リアリティがあるかないか」というのは、「その作品に没入してもらう為」の手段であり、尺度です。歴史を忠実に再現しようということが目的の作品でもない限り、リアリティそれ自体は「楽しんでもらう」為の手段であって、別に「リアルそのものを描く」ことは目的ではない、という話なんですね。ここまでは、別に一般的に語ってしまっていいと思います。


で。


漫画やゲームの話をしていると、たまーに「リアリティ」について驚く程感覚が違う人がいて、ちょっとびっくりすることがあります。


例えば、設定上の瑕疵について細かく指摘して、「この作品はダメ」と断言する人。

例えば、ちょっとした人物描写の行き違いについて論じて、「描写が嘘っぽい」と批判する人。


これ、別に「それはダメ」って話じゃないんです。ただ、私があんまり細かいアラや瑕疵に気づかないというか、たとえ気づいても全体として没入出来ればあまり気にならない方なので、正直「なんでそんな細かいこと気にすんのかな?」って感じてしまうことが多かったんですね。ここに、妙なすれちがいがある。


最近気づいたんですが、

・「リアリティ」を損なっていると感じるファールラインというのは、場所も感度も人によって物凄く違っていること
・更に、人によっては、ファールラインを越えた時点で、その作品全体を嘘っぽく感じてしまうこともあるということ
・更に更に、わずかでも「嘘っぽさ」を感じた時点で、作品全体を「つまらない」と感じてしまう人もいるということ

この辺が、その「すれちがい」の原因だと思うんです。


ちょっと前、こんな増田を読みました。


正論です。言われてみたら、そりゃそうですよね。って話なんですが
どうもこの、リアリティないセンサーが発達してる人が一定数いて
そういった人達は、リアリティないセンサーに反応が出てしまうと
急激に映像作品がつまんなく見えてしまうように感じ取れました。

騙された側は素直に騙されて、よかったよかったと言うので問題ないんですが
騙されなかった人達は
「みんな騙されるな!言うほど面白くないぞ!目を覚ませ!これはリアリティがないぞ!!」
って言ってしまうんですよね。


これ、凄くいろーーーんな作品に同様のことが言えると思っていまして。

私はゲームが好きなので、ゲームにたとえて話すんですが。例えば昔、「エースコンバット」というゲームについて、やはり「リアリティ」を問題にする人たちが実際にいました。


いわく。戦闘機にこんなにたくさんミサイルが積めるわけがない。いわく。戦闘機がこんな飛び方が出来るわけがない。いわくレーダーが云々、速度が云々、通信が云々。

そういったことを一通り指摘して、エースコンバットというゲームを「駄作」と断定するのが、そういった論の着地点でした。最近は流石にあんまり観なくなりましたが、「1」や「2」の頃は割とよく見る論調だったんです。


いやもう、指摘自体は全然間違いじゃないんですよ。「本物の戦闘機」というものをゴールとするならば、そりゃあエースコンバットはゴールを描写してはいないんです。

ただ、少なくとも私は、別に「本物の戦闘機」なんて求めてないんですよね。ただ、「戦闘機に乗ってる気分」「敵を撃墜している気分」になれればいい。もっといえば面白ければいい。その点、エースコンバットというゲームは、私にとって物凄く「リアリティ」がある作品だったんです。

要は、見ている部分も、求めているものも、問題としている部分も全然違ったんですね。まあ、なかには単に「戦闘機についての知識」を誇示したいだけの人もいたのかも知れませんが、そういった人たちにしても、エースコンバットが「not for me」だったことは間違いない事実でしょう。


これはちょっと極端な例なんですが、漫画でもゲームでもアニメでも映画でも、いろーーーんなジャンルで同じことが起きてるんじゃないかなあ、と。


例えば細かい科学考証なんて気にならない人もいて、けれど気になる人には気になって気になって、気づいた瞬間「こんなことも考証できてないのか、駄作だな」って思ってしまう。細かい人物の設定や感情描写に気づかない人もいて、けれど気になる人には気になって気になって、気づいた瞬間「これ矛盾してるじゃないか、つまんねー」って思ってしまう。


こればっかりは、要はファールラインの問題、「not for me」になってしまうかどうかのしきい値の問題であって、いい、悪いの話ではないんじゃないかと。


ただ、上の増田でも書いてあるんですが、時には「気になる人」が「目を覚ませ!これはリアリティがないぞ!!」と周りに呼びかけ始めてしまって、そこで「気にならない人」との間で衝突や軋轢が発生してしまうこともあるようなんですね。ジャンルによっては戦争になることもありますし、まああまりリアリティのあるなしで喧嘩してもしょーもないと私は思うんです。

「この作品にはリアリティがない!!」と感じて、そう主張するのは、全然問題ないと思うんです。ただ、他の人が感じている「リアリティ」までぶっ壊しにかかるのは、ちょっとどうかと思わないでもないです。別に、「自分が気になることが気になっていない人」にまで、水をぶっかけて回る必要はないんじゃないかな、と。


大事なことは、「自分の感覚を信じること」「けれど他人の感覚は否定しないこと」なのではないか、と。


私自身は、正直いって「細かいことはあまり気にならない人」ですし、それで損をした記憶があまりないので、今後も細かいことは気にしないで作品を享受しようと思っています。そして、「面白い」と思ったら細かいことを気にしないままに「これ面白いぞ!!」と主張します。「つまらない」と思ったらそう主張するかも知れませんが。


けれど、「細かいことが気になる」人の感じ方を否定はしませんし、それはそれで尊重しますただし、自分が「面白い」と感じたことについては妥協しませんし、たとえ「これはリアリティがないぞ!!」という意見に接しても、それを受けて評価を翻したりもしません。

そういうことも含めて、みんな「自分の感じ方」を主張出来る場所としてブログやってるといいんじゃないかなーとも思うんですが、まあそれは余談。

大体の人はそうしているんじゃないかなあ、と思いもするんですが。水をぶっかけあってプライベート・ライアンの世界になるよりは、そういったスタンスの方が世の中平和なんじゃないかなあ、と思った次第なわけです。



皆が幸せになれることを願ってやみません。



ということで、今日書きたいことはそれくらい。



posted by しんざき at 22:35 | Comment(6) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

「ジ・アトラス」における「ジ」がものすごくかっこいいという話

今からちょっと、すげー伝わりにくいであろう話をしようと思います。精一杯頑張りますが、私の言語能力には(割と低いところに)限界がありますので、伝わる人にだけでも伝わって欲しいという気持ちでいっぱいです。

英語の定冠詞の「ザ」ってあるじゃないですか。The。ザ・グレート・ラグタイムショーとかロウ・オブ・ザ・ウエストとか、あとバック・トゥ・ザ・ミーの出っ歯とかでみなさんにも著名ですよね。

で、あれ、母音の前だと発音変わったりするじゃないですか。ザじゃなくて、ジ、とかズィ、に。これ正確に言うと、母音の前だけじゃなくて強調の度合が強い場合にも変化したりするらしいですけど、まあ細かいことはどうでもいいんです。

この「ジ」って、私の個人的な感覚によると、明らかにザよりかっこいいと思うんですけど、まずこの段階で伝わりますでしょうか。伝わってますかね。あ、前列右側あたりのお客さん、大丈夫ですか?

いやほら、例えばジ・エンブリオンとか、ジ・エンドとか、ジ・オとか、センター・オブ・ジ・アースとか、なんというか凄く「ジ」が輝いてみませんか?ジ・オがザ・オだったらいやじゃないですか。お前どこのサオ竹やさんだよ、ってなりません?シロッコが「たけやーーー、さおだけーーーー」とか言ってるところとか想像すると、素直にジュピトリスでこつこつ頑張っとけばよかったのにジャミトフさん暗殺したりするからそんなことになるんだよ、とか思いますよね。思いませんか。うん、思わないかも。


で、そんな「ジ」のかっこよさブーストの中でも、最強にかっこいいというか、最も「ジ・」という定冠詞が光り輝いているのが


ジ・アトラス


あまりにもかっこいいのでもう一回書きます。


ジ・アトラス


だと思う、というのが今回の記事で私が言いたいことなわけです。めちゃくちゃかっこよくないですか?ジ・アトラスって言葉。超声に出して読みたい日本語ナンバーワンですよ。日本語じゃないけど。

だいたい、英語のタイトルをカタカナ日本語にすると妙にださくなる、というケースって多いと思うんです。「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」とか書くとあんまりかっこよくないと思いませんか?

けれど、ジ・アトラスに限っていえばカタカナの方が原題よりも遥かにかっこいいと私は思うんですよ。 「The Atras」よりも「ジ・アトラス」の方がかっこいい。間違いない。

なんでしょう、このかっこよさ。合計わずか5文字という絶妙なシンプルさ、「アトラス」という言葉自体の強そう感、更にそこに濁点が加わることによるパワーアップ感もさることながら、やはり「ジ」という語感のその圧倒的な力強さが核心的なパワーを発していると私は思うんですけど。


勿論いうまでもなく、ジ・アトラスは大航海時代をテーマにしたゲームなんですけれど、光栄の大航海時代なんかとは全然趣が異なり、「提督を派遣して世界の未踏領域を探索させるんだけど、提督が持って帰った報告を信じるか信じないかで世界自体が変化する」という独特なシステムで超面白いわけです。どんな突拍子もない報告であろうと、それを信じるとその通りの世界になる。なんかわけのわからないクリーチャーがいる大陸が出来たり、逆にアメリカ大陸が存在しなかったり、すごいおもしろ世界が作れたりするわけです。VCで出ないんでしょうか、ジ・アトラス。出たら買うんですが。


ということで、言いたいことはタイトルの時点で全ていったのでこれくらいにしておきます。


posted by しんざき at 16:18 | Comment(5) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

貧乳好きとロリコンを混同することは断固許容できない

タイトルで言いたいことの8割程は言いましたので、以下は補足です。忙しい方はブラウザのバックボタンとかで前のページに戻られること強くをお勧めします。

まず前提として、法に反したり人に迷惑をかけたりしない限り、趣味・嗜好はその人の自由であり貴賎はない、ということは確認させて頂ければと思います。天は趣味の上に趣味を作らず。嗜好の上に嗜好を作らず。犯罪に走らない限り、嗜好を否定出来る者は誰もいません。

その上で主張させて頂きますと、

「貧乳好きとロリコンははっきりと違う嗜好であって、混同されるべきものではない」

ということは申し上げておきたいです。


先日、こんな記事を書きました。


この記事の骨子は、要するに「貧乳好きには、ピュア貧乳好きと貧乳コンプレックス好きの大きな二つの派閥があって、その二つは結構別物だよ」ということでした。

で、この記事に対する反応で、「貧乳って要するにロリコンだろ?」というような、いささか短絡的な反応をする方がいらっしゃったのです。

これについては、私は明確に「否」と申し上げておきます。確かに、この二つの嗜好を同時に持っていらっしゃる方もいるかとは思いますが、少なくとも同じものではない。

もう少し言いますと、少なくとも「貧乳コンプレックス好き」について言えば、ロリコンとは明確に一線を画している嗜好だと申し上げることが出来ます。


何故なら、「貧乳コンプレックス好き」の骨子である、「膨らんでいない胸に対するコンプレックス」は、少なくともある程度成長期を過ぎていないと発生しにくいものだから(全く発生しないとまでは言いませんが)。

貧乳コンプレックスは要は精神的な特徴です。そして、多くの場合、貧乳コンプレックスは周囲との比較、あるいは「あるべき自分」との比較によって発生するべきものです。

そこから考えると、貧乳コンプレックスは、むしろ成長期を過ぎた大人の女性とこそ相性が良い。胸の大きさを気にする大人の女性とか、貧乳コンプレックス好きにおいては極めて一般的な嗜好対象であるわけです。必ずしもロリコンと貧乳コンプレックス好きが矛盾するわけではないのですが、方向性としては相反すらしています


ピュア貧乳好きにしても、「大人の女性の貧乳」を強く好む方は多くいらっしゃるでしょう。「全体として小さい」よりも、「体格は普通だが胸だけ小さい」という方が発生するギャップは大きい。そういったギャップにこそ魅力を感じる方も数多くいる、という厚生省の調査結果もある程です。嘘ですが。


貧乳とロリコンを同一視する向きについては、見解の是正を強くお願いすると共に、いずれの陣営からも迫害の対象になることが多いロリ巨乳好きなどという趣味に関しても、「趣味に貴賎なし」という精神で暖かく見守るべきなのではないか、と主張して、まずは私の意見とさせていただきたいと思います。よろしくお願い致します。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 23:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月31日

「報酬が出れば、お金目当ての人が来るかもしれない」という一言に見る「無償の熱意信仰」について

Twitterで、いのちの電話についてのこんな話を拝見しました。

元ツイートは、こちらの方のツイートですね。すいません、ツイート引用したら引用記事の画像表示がめちゃくちゃ大きくなってしまったんで、リンクでご勘弁を。いのちの電話の人手不足の話題の他、確かに記事中に「報酬が出れば、お金目当ての人が来るかもしれないと質の低下を懸念」という文言が確認できます。

はやい話、元記事は「お金目当ての人」を単純に落として、「お金目当てではない人」を無条件に持ち上げている文章のように見えます。

いのちの電話は、ボランティアであるどころか、相談員になる為に有料の講義を受ける必要がありますね。受講料は4万5000円かかるようです。人の生き死ににかかわる仕事ですから、きちんとしたスキルが必要なのはわかるんですが、決して安い値段ではないですよね。

下記は相談員の募集ページ。


これ、ある程度一般化しちゃっていいと思うんですけど、「報酬目当てではない、自発的なやる気、熱意」みたいなものを、なぜか無条件に「報酬目当てのやる気、熱意」よりも高く評価しちゃう意識、って結構あちこちで見られるような気がするんですよ。報酬が出ないというのにやりたいというのは、これはよほど熱意があるに違いない!という感じの意識ですかね。

「お金目当てではなく、お金抜きででもやりたいという人の方が誠実であり、熱意があり、信頼できる」という信仰。「無償の熱意信仰」とでも言うべきでしょうか。


確かに、「無償でも奉仕する」という熱意、ないし自己犠牲精神は尊いものだ、とは思います。そこを否定するつもりはありません。それに、もちろん「いのちの電話」について言えば、そもそもお金が入ってくるような事業ではないので、現実問題無償の相談員に頼る他ない、という事情は多分あるんでしょうけど。


それでも、「報酬が出れば、お金目当ての人が来るかもしれない」というテキストについては、私はちょっと疑問を感じます。そもそも、「お金目当て」というのはそんなに忌避されるべきものなのか?という話ですよね。


これについては、ご存知の方も多いと思うんですが、漫画「らーめん才遊記」において、芹沢先生が非常に印象的なセリフをおっしゃっています。

芹沢.png

面白いですよね。らーめん才遊記。いや、漫画としては私「らーめん発見伝」の方が好きなんですが、芹沢達也先生のファンブックとしては才遊記の方が優れているかもしれません。本筋ではないんでここでは詳しく書きませんが。

金の介在しない仕事が一概に無責任になるかどうかはともかくとして、「お金が介在してこそ責任が発生する」ということについては、私は芹沢先生のセリフを全面的に支持します。「お金をもらうからにはきっちりやらなきゃな」というのは、私だってそう思いますもん。

そこから考えると、「お金目当ての人」を「仕事を頼む対象」として忌避するのは、それはちょっと妥当ではないですよね。少なくとも、仕事を頼む側としては、「無償で頼む」という以上「無償で頼めること」以上を期待してはいけないと思うんですよ。

もっと言ってしまうと、「なんでそこまで「ボランティア」ってことを神聖視するのかなあ?」と。

少なくとも「不況が長引くにつれて、ボランティアをやめて仕事を始める人が出るなど徐々に減少し」なんてことはお金を出していない以上当たり前のことですし、そんなわかりきったことを前に「人手不足」なんていってるのはちょっと思考回路が春模様過ぎるんじゃないかと考えざるを得ません。「無償で時間を割いてくれる」人は、「無償で時間を割くことが出来る」人がいなくなれば当然存在しなくなります。当たり前です。


繰り返しになりますが、「ボランティア(=無償労働)」自体を否定するつもりはないんですよ。無償で人の為に働いている人たちはえらいなーと思いますし、現実問題そういったボランティアの人々の働きによって支えられているインフラだってある訳ですしね。いのちの電話だって、相談員にお金を払うようなスキームではおそらくやっていけないんでしょう。


ただ、「お金目当ての人が来るかも」という言葉で、無条件に「無償の労働」の方を持ち上げるのは、それはちょっと違うんじゃないかなあ、と。仕事に対して責任を感じる感じないという話でいえば、そりゃ「お金目当ての人」の方がきちんと責任を感じやすいのが当然なんじゃないかなあ、と。そして、本当に人手が必要なのであれば、ちゃんとスキームを考えてでも有償労働の方にシフトするのが本来あるべき姿なんじゃないかなあ、と。


そんな風に思った次第なのです。
posted by しんざき at 12:55 | Comment(8) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする