2018年07月05日

増田で割と凄いことが起こったような気がするので、何が起こったのか簡単に解説します(ややR18)


こんな増田を読みました。

内容を簡単に要約すると、

・増田は昔2ちゃんねるの「過激な恋愛板」に常駐していた女性
・「童貞とセックスしたい人のスレ」のようなものがあり、そこで増田がとある男性と出会った
・一旦自然消滅したけれど、その人と後々、全然別タイミングで再会して結婚した

という内容になると思います。

これだけだと、割とよくある過去体験談のエピソードという感じで、創作の可能性もそれなりに高そうだなーという話だと思います。

ただ、この時ちょっと特殊な流れが発生しました。

・2ちゃんねるの当該過去スレが発掘された
・そのスレの中で、増田が言う内容に合致された書き込みが発見された
・その内容に、「ホテルの名前」をキーにしている、というトリップが掲載されていた
そのトリップのキーが、増田が書いたホテルの名前と一致した

どういうことかというと。

2ちゃんねる、および5ちゃんねるには「トリップ」という機能があります。特定の文字列をキーにして、暗号文字列を生成する仕組みになっていて、基本的には「その文字列を知っている人」しか同じトリップを生成することはできません。一般的には、同一人物であることの証明に使われます。

今回、発掘されたスレは以下のURLです。なんと日付は2004年。14年も前のスレということになります。リンク先はR18なので注意。


ここにこんな書き込みがあります。

918 :なまえを挿れて。:04/09/14 16:04:20 ID:???
>>917
鳥つけれ。ラブホの名前とか。
あと、別に募集スレじゃないんだから俺は詳細を書いて欲しい。

919 :906 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 16:11:03 ID:???
>>918
了解です。一応メールで確認とってから書きますね。


つまり、この「◆PhQAq2ad6I」というのが、ラブホテルの名前をキーにしたトリップということですね。ちなみにこの後、相手の男性らしき人物がこんな書き込みをしており、二人が共通の知識として「ラブホテルの名前」を知っている、という証明に使われています。


951 :某 ◆jmx4KcE5/o :04/09/14 21:38:19 ID:???
てすと
952 :某 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 21:38:45 ID:???
あれ?こっちか?
953 :某 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 21:46:22 ID:???
>>906
えーと、その節はお世話になりましたというか、ごちそうさまでしたというかw
写真で見た印象以上に可愛い人だったんで、正直かなり緊張しました。ラブホの
名前こっちの綴りだったんだね。


ところで、元増田にはこんな記載があります。

今でもあるのかどうか分からないけれど、渋谷のセラヴィというラブホ。

ラブホの名前が出ていますね。これを、「トリップチェッカー」というWebサービスで、「#セラヴィ」という形で入力してみると、

tori.png

マジか。なんと一致してしまいました。

ここから分かることは以下の通りです。

・少なくとも、このスレの906とこの増田は、当該ラブホテルの名前を共通して知っていたことになる
・つまり、この906と増田は同一人物である可能性が極めて高い(相手の男性である可能性もある)
・つまり、この話自体が14年超しの仕込みである可能性を除けば、このエピソード全体が真実で、当時の2ちゃん時代からすべてが実際にあったエピソードである可能性がかなり高い

ということになるわけです。

勿論トリップが漏れていたという可能性はゼロではないんですが、見た感じ、話自体に大きな矛盾はないように見えるんですよ。何より14年前のスレですからね。そんなトリップわざわざ発掘して、いちいち釣りエピソードに仕上げるというのもちょっと考えづらい。

2ちゃんのトリップという機能をトリガーにして、14年ぶりに表に出てくるエピソード。しかもそれが、14年前の書き込みと紐づいて話の信憑性を上げるとか、これ結構すごくないですか?プチ「あの人は今」的なストーリーを見た気分で、私正直結構感動したんですが。

時代は変わり、昔の2ちゃんのゴミゴミとした雰囲気も今はだいぶ変わってしまったわけなんですが、時折思いがけずこういうタイムカプセルみたいな案件が出てきて、個人的にはなかなか感慨深かった、という話なのです。

何はともあれ、増田と旦那さん、そして増田のお子さんが幸せに過ごされることを、心から祈念したいと思います。心温まる話をありがとうございました。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:13 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月29日

「興味のなさ」への言い訳なんてしないで済む世界だといいなあ

「自分の興味のなさ」を語りたがる人って結構多いな、と思うんですよ。

色んな人が話題にしている〇〇や××について、例えば「私〇〇に全然興味なくて」とか。「××興味ないからスルーしてるんだけど」とか、そういうことをわざわざ語りたがる人。いや言及してる時点でスルーしてないんじゃね?と思わないでもないんですが。

しんざきは極めて興味が偏っている人間なので、恐らく色んな「興味がないこと」があるんだろうな、と思います。普段はそもそも、興味がないことっていちいち観測しないんで、自分の興味の欠如すらよく分からないんですが、皆がそのことについて語っていると、ああ、これって興味のギャップだな、と気づくことはあります。

ただ、私個人的には、自分の「興味の無さ」について語るのってあんまり好きじゃないんです。

だってそれって、コンテンツとしてあんまり面白くないじゃないですか。興味がないってことは主体的に観測していないっていうことですし、つまりその対象についての知見が溜まっていないってことです。何も知らないことについて面白いことが言えるわけないですし、盛り上がっている周囲に対して水を差す、ないし思い切り水をぶっかける行為でもあります。

私、皆が盛り上がっている状態は割と好きなので、たとえ自分に興味がない話題であっても、盛り上がっているところに水をぶっかけたくはないんですよ。そこに水をぶっかけるのが趣味、みたいな突き抜けた人も中にはいますし、そこまでいったらむしろ敬意を払っていいと思うんですけど。

だから、私自身は、「興味のなさ」を語ることについては後ろ向きです。それを語る人を止めたりはしませんが、まああんまり面白い話じゃないよな、と思っています。そんなことを語っている暇があったら、自分が興味をもっていることについて語り倒したい。イース8の話とか。

ただ、分からないでもない部分もあって。

別にこれ、日本に特有な現象でもないと思うんですけど、世の中「興味の同調圧力」みたいなものってあると思うんですよね。皆が興味を持っているものは、当然お前も興味を持っているよな?的な。皆が興味をもっていることについて、自分が興味をもっていないと驚かれる、何か異常な状態であるように思われる。

そういう状況に対して、「頑張って興味がある振りをする」ないし、「何か自分の「興味がない事情」を説明する」という対処をとらざるを得ない場合って、結構あるんじゃないかと思うんですよ。

言ってみれば、自分の「興味のなさ」についての言い訳、理由づけですよね。

興味なんてものは人それぞれでして、人に押し付けるようなものではありません。私が興味を持っていることについて、他の人が興味を持たなかったとしても、それは全く個人の自由というものです。

それに対して、無言の圧力で、「自分が何故興味がないか」をわざわざひねり出さないといけない、説明しなくちゃいけない、というのもあんまり面白くない状況だなーと思うんですよ。

自分の興味のなさを語る時、わざわざ「盛り上がっているところに水をぶっかける」目的で語る人がたまーにいます。言ってみれば攻撃的な「興味の欠如」、オフェンシブな興味なさ語りです。

一方、周囲の盛り上がりに対して、自分を守る為に興味のなさについて理由づけをせざるを得ない、という人もいます。言ってみれば防御的な興味なさ語りです。

つまり、興味のなさを語る時には、攻撃的な語り方、防御的な語り方の二面があるのではないかなーと。勿論、それとは全然関係なく、自分語りの一環として何故か興味のなさをコンテンツにしている人もいますけど。

前者は若干趣味が悪い感じではありますが、後者の防御的な興味なさ語りが強制される向きがあるとしたら、それはあまりよろしくない状態だなーと思うわけなんですよ。興味がないものは興味がない、でいいやん、と。

興味のある、なしというのは完全に個人的な問題であって、他人に容喙するような話ではありません。

興味がある同士では遠慮なく盛り上がる、けど同時に他人の興味の無さには敬意を払う。興味の無さをわざわざ語らずに済む。

そんなスタンスが一般的になるといいなあ、と思う次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 08:11 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月27日

hagexさんに「問題」や「責任」を求めようとする全ての言説に反対します。

まず大前提として、「殺されるに値する発言」というものは世の中に存在しません。どんな人間も、「こういう発言があったから」という理由で殺傷されてはいけませんし、そんな必然性もありません。だから、同じくhagexさんも、「殺されるような言動」「殺されるに値する言動」などというものは何もしていません。

その大前提を置いたうえで、じゃあhagexさんに、僅かでも「件の人に対するこういう言動は気を付ければよかったのに」というものがあったのか?ということを考えてみます。

これも前提として、今回犯行を行ったとされる人(以下容疑者と呼びます)は、はてブ周辺でひたすら、他ユーザーに罵詈雑言を投げつけている人でした。いわゆる「荒らし」行為を日常的に行っていた、と言っていいと思います。他人にやたら「低能」という言葉を投げつけることが原因で、低能先生と呼ばれるようになっていたようです。これも、別にhagexさんが呼び始めたわけではなく、hagexさんが主体的にそういう呼び方を先導しているという事実もありません。

hagexさんから件の容疑者に対する言及は、下記エントリーでまとめてくださっています。

で、本当に分からないんですが、hagexさんが容疑者に対して「いじめ」を行っていた、と主張している人は、いったい上記のどれを見てそう判断されたんでしょうか?

hagexさんは確かに、容疑者の荒らし行為に対して通報を行っていると明言されていて、下記のような記事を書かれています。この記事が直接的な原因になった、と考える人もいるようです。

上記記事をどう読んでも、

・低能先生と呼ばれている荒らしが、自分や他のユーザーに対してどのような荒らし行為を行っているか
・自分がその行為に対して通報を行っていること
・その通報を受けて、はてなが迅速にBANを行っていること

という内容以上のことは書かれていません。

一般的に言って、荒らし行為について運営側に通報を行う、というのはごく通常の対応ですし、その対応法を知らない人に対してシェアする、ということに何か問題があるとも思えません。「容疑者に対して罵詈雑言を投げかけた」というのならまだしもですが、そんな表現はどこにもありません。

これはもしかすると「原因」かもしれませんが、そこに「問題」や「責任」があったとは私は全く思いません。これに「問題」があったとしたら、世の中のあらゆる人は、ネット荒らしについての一般的な対応法を、他人とシェアすることが出来なくなってしまいます。それはいくらなんでも理不尽というものでしょう。

これがいじめだという人は、「荒らしは通報するな、通報したとしてもそれを周囲と共有するな、それはいじめだ」と言っているのでしょうか?正直意味が分かりません。

だから私は、少なくとも容疑者に対しては、hagexさんは何も「問題」があるような発言はしていないし、百歩譲っても容疑者が行ったのはただの「逆恨みによる犯行」であって、hagexさんに落ち度は何らなかった、と主張します。じゃあ他のネット著名人についてはどうなんだ、と言われれば、やはりそれが「hagexさんが容疑者に殺される」理由にはならない、としか言いようがありません。


これで殺されるなら、あなたが殺されていたかも知れませんし、私が殺されていたかも知れません。


これに限らず、殺人被害者に何か「問題」や「責任」を求めたがる人たち一般の言説が、私は嫌いです。それは単なる体のいい切断処理でしかないと思いますし、公正世界仮説はこの世から消滅して欲しいと思います。はてなでも普段はそういう「被害者に問題や責任を求める」的構図を嫌っているように見えるんですが、こういう時はなんでそういう言説が肯定されがちになるのか、私にはさっぱりわかりません。

「原因」を分析するだけならまだしも、それを「問題」や「責任」に結び付けようとする言説には、私は強く反発します。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 06:35 | Comment(27) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月25日

増田さんへ。


お手紙ありがとうございます。

今回、しんざきさんは、しんざきさん自身が言うところの「報道を通してしか殺人被害に遭ったかどうか確認出来ない程度の知り合い」未満(しんざきさんはHagexさんの本名を存じなかった)でした。にもかかわらず、Hagexさんの遭難をすばやく確信し、このタイミングでこのようなエントリを上げることができたのは、まさに被害者の実名報道があった故でした。

この点、どうお考えですか?

Hagexさんに関する記事に貼られたリンクを読んでも明らかですが、講座参加者でさえ、Hagexさんの遭難は、実名報道があって初めて確信できているのです。
(はてこは〜の人でさえ、実名報道→実名から確認できた顔写真を見てHagexさんと確信)
言い換えると、もし実名報道がなかったならば、「Hagexさんの身に何か起こったかもしれない」といった疑念・不安こそ起これども、確信は持てなかったことでしょうし、
Hagexさんの知人から知人へ、また知人へと、いずれ遭難の情報は伝われど、その情報がデマでなく、本当に間違いなく命を奪われたと確信できるまでには、現状の比でないほどの憶測と流言が飛んだことでしょう。
お答えします。被害者の実名報道は不要だと思っていますし、その考えは今も変わっていません。

理由は主に二つあります。

・自分が今回迅速に事態を知ることが出来たことに、特に重要性を感じていないこと。
・自分の知りたいという欲求よりも遺族のプライバシーの方が一般的に重要だと感じていること。

まず、今回の件については、仮に実名報道がなくてもhagexさんと同定されていたような気もします。

ただ、確かに、実名報道がされたことで情報が誤謬を許さないものになった、という点では、「実名報道のメリットを享受した」ということになるのかも知れません。その点はご指摘の通りです。

ですが、私は、実名報道のメリットを享受した現段階でも、「自分が享受したメリットよりも遺族のプライバシーの方が大事だ」と思っています。今回hagexさんのご遺族についての報道は(恐らく幸いなことに)出ていないようですし、今後出るかどうかもわかりませんが、それでもご遺族が実名報道を望まないのであれば、実名が出るべきではなかったと思います。

その結果、たとえ自分が「hagexさんが亡くなったんだ」という情報を確信出来なかったとしても、それは仕方ないことだと思います。ご遺族や、もしかするとご本人の意向の方が、私の好奇心や確信よりも重要です。その場合、何週間か経って、巡り巡って「どうやらhagexさんが亡くなったらしい」ということが分かった時点で同じようなことを書いたかも知れませんし、書かなかったかも知れません。

つまり、「すぐに確信できた」ということは、私にとってはそれ程重要なことではありません。

ただ、私は「実名報道に反対しているのだから、実名報道のメリットは一切享受しないし、実名報道に基づいた情報については一切触れない」という程スタンスを徹底出来ておりませんし、そう宣言しているわけでもありませんので、「hagexさんの訃報」という情報を受けた時点でショックのままに書きたいことを書いてしまいましたし、その時点では「これは実名報道で分かった情報なんだ」ということ自体をきちんと認識出来ていませんでした。その点は私の不明、ないし迂闊さかも知れません。今更記事を消しても仕方ないので消しませんが。

ご提示された記事で私が言いたいことは、「遺族の意向やプライバシーの方が、他の人たちの知りたいという欲求よりも尊重されるべき」ということであって、そこは今回の件があった後でも変わっていない、ということについてはご理解いただけるでしょうか。それと今朝の記事が矛盾している、ということがおっしゃりたいのであれば、私が迂闊だったせいです、すいません、としか言いようがありません。


書きたいことは以上です。
posted by しんざき at 20:34 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月18日

君と二人なら

結婚して14年経った。

私はそれ程未来予想能力が高くないので、結婚した時点で「10年後の生活」などというものは全く想像できなかった。ただ、まあなんだかんだでなんとなく幸せにはやっているのではないか、と、ごく楽観的に思っていたし、その予想については外れていない。

私と妻は一学年違いで、半年程妻の方が年上だ。元々妻と私は同じ楽器をやっている音楽仲間で、妻はケーナ吹きの先輩だった。ただ、妻はその内ケーナをあまり吹かなくなり、どちらかというとボーカルが本業になっていった。元々歌の方が好きだったそうだ。私は今でもケーナしか吹けないし、歌はろくに歌えない。

私と妻は、それ程波乱も紆余曲折もなく、ごく自然に結婚した。結婚した理由は色々あったような気もするし、そんなになかったような気もする。強いて言えば「結婚しない理由がないから」というものが一番大きかったかも知れない。私にとっては、妻と一緒にいることが一番自然であったし、その為に「結婚している」という状態が一番適していたから、結婚した。その点は多分、妻も同じようなものだったと思う。

妻は元来ロジカルかつリアリストであって、いわゆる紋切り型の(それこそ「ライトは点く?」のコピペのような)「共感だけを求める」女性というようなところは一切なかった。うっかりすると私より妻の方がロジカルであるような有様であって、妻にとって情報交換は物事を解決する為の情報交換であって、課題共有は課題を改善する為の課題共有だった。私と妻が問題を感じる点は大体同じだし、どういうゴール設定が最適か、という判断も大体ずれない。

勿論のこと、私と妻はそれぞれ独立した人間なのだから、時にお互いの都合が背反することもあるし、時にいら立ちを覚えることもあるだろう。妻のスタンスに私が賛同できないこともあれば、私のスタンスに妻が賛同できないこともあるだろう。

ただ、そういったずれというのは要は「課題」だ。根本的なところで、「課題を解決しなくてはいけない、という共通認識」「課題を解決する為の方法論の一致」というものがあれば、大体の課題は解決可能だ。その点、私は妻に全く不安を感じなかったし、今も感じていない。

だから私は、妻と二人なら、大概の問題には対処出来るし、そこそこ人生幸せにやっていけるのではないかと思った。


私は妻を愛しているし、妻は超美人で可愛いと思っているが、それより何より私が妻に感じているのは、「人生というゲームにおける共同プレイヤーとしての、圧倒的な頼もしさ」だ。「人生」プロジェクトにおけるプロジェクトメンバーとしての、圧倒的なベストマッチ感だ。

時代、というものがある。それぞれの時代にはそれぞれの課題があり、それぞれのリスクがあり、そういったリスクが我々の家庭を襲うことも、今まであったし、これからもきっとあるのだろう。どんな時代、どんな家庭にも、乗り越えるべき課題というものがあった筈だ。


けれど、君と二人なら。


あれから14年経った。しんざき家には子どもが3人生まれ、上の子は相変わらず電車好きで、将来電車の運転手になるのだと張り切っているし、下の双子は今年4月に小学校に入った。ほんの10年前は、うちにランドセルが3つ転がっている状況などとても想像出来なかった。とすれば、今から10年後の未来も、全く想像出来ないことになっているのだろう。そこについては予想がつく。

入学式に向かう

君を幸せにする、ではない。

子どもたちを幸せにする、ではない。

君と二人で、幸せになる。子どもたちに、自分で幸せになれる力を育んであげる。結果的に、家族5人で幸せになる。


私と妻のコンビなら、多分それが出来る。
posted by しんざき at 14:53 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

SUBWAYヘビーユーザーのこの俺が貴様らにSUBWAYの使い方を伝授してやる


理由は知らんが、SUBWAYの注文方法が話題になっているようだな。

最初に書いておくと、SUBWAYは美味い。メインとなる具の味わいを、暴力的な量の野菜がサポートし、それをクオリティ高いパンが挟むサンドイッチを味わうことが出来る。ファーストフード店の中でもかなり上位の美味さと言っていいだろう。

俺はこう見えても週に2,3回はSUBWAYで昼飯を食う、いわばSUBWAYのベテラン、SUBWAYのTATSUJIN(東亜プラン的表現)だ。そんな俺がSUBWAYの注文方法について分かりやすくレクチャーしてやる。

いいか?SUBWAYの注文は、以下の6段階に分かれている。

1.サンドイッチの種類を選ぶ
2.パンの種類を選ぶ
3.トッピングを選ぶ
4.野菜の量を調整する
5.ドレッシングを選ぶ
6.サイドメニューを選ぶ

なんか複雑そうに見えるが、最低限決めなくちゃいけないのは実は1だけだ

まず、店に入ってカウンターに近づいたら、店員さんが「ご注文いかがなさいますかー?」ないし「サンドイッチお決まりですかー?」とか聞いてくる筈だ。必ず自分で決断しなくてはいけないのはこの時だけだ。

お前が初心者の間は、「BLT」ないし「ローストチキン」と言っておけ。この二種類の汎用性は物凄い。SUBWAY界におけるM4シャーマンだ。

あとは全部「お任せで」とか「お勧め通りで」って言っておくだけでも大丈夫だ、特に問題はない。それだけでSUBWAYの野菜たっぷりサンドイッチを味わうことは出来る。

ここからのアドバイスは、お前を「ちょっと分かってるSUBWAYユーザー」にする為のアドバイスだ。よく聞け。



2.パンの種類を選ぶ

これな、「サンドイッチに使うパンの種類を選ぶ」ステップだ。あと、「パンをトーストする(焼く)かどうか」もここで聞かれる。ここまでは最初の、サンドイッチを頼むタイミングで一緒に言ってしまっても問題ない。「BLT、ウィートで、トーストしてください」みたいな言い方になる。

パンを選ぶのは、基本にして重要なステップだ。SUBWAY道の入り口と言っても間違いはない。

パンの種類は、「ホワイト、セサミ、ハニーオーツ、ウィート、フラットブレッド」の5種類だ。

ホワイトってのは要はプレーン、普通のパンだな。セサミはそれにゴマを付与したヤツだ。ハニーオーツはちょっと甘いヤツ、フラットブレッドはなんかモチモチしたヤツ、ウィートは茶色くて微かに香ばしい苦みがあるヤツ。で、トーストをお願いするとそれを炙ってくれる。

SUBWAYはそれぞれのサンドイッチにおススメ構築を元から用意してあってな、「お任せで」って言っておくと勝手に合ったパンを選択してくれる。なので、店員さん任せにしておいても別段問題はない。安定した味が楽しめる筈だ。

俺はゴマが好きなんで大体「セサミで、焼いてください」って言う。すると店員さんはセサミを選んでトーストしてくれる。まあ色々試してみて、慣れたらなんか一種類のパンを専用構築にしてもいいかも知れんな。



3.トッピングを選ぶ

パンを決めた次は、「トッピングいかがなさいますかー?」と聞かれる筈だ。

お前の目の前のカウンターに、チーズとかベーコンとかエビとか色々入ってるな?それがトッピングだ。サンドイッチのメインの具の他に、それを追加することが出来る。当然有料だ。

先に行っておくと、SUBWAYのサンドイッチは、どれもそれなりのボリュームがある。野菜もたっぷり入るしメインの具もそこそこ多い。だから、特別腹が減っていなければトッピングを追加する必要はない。「なしで」とか「大丈夫です」とか言っておけばいい。

もしちょっとプラスアルファが欲しい、かつお前がチーズ嫌いでないのであれば、まず「クリームチーズ」を選んでみることをお勧めする。これは本当に大体のサンドイッチをパワーアップさせる。生ハムだろうが、エビアボカドだろうが、なんならローストビーフだろうがそれなりに合う。

肉を食いたい気分ならベーコンを追加すればいいだろう。ツナとエビはそこそこ主張が強いから気をつけろ。アボカドはかなりオールマイティなトッピングだが、個人的にはローストチキンに合わせるのが特にお勧めだ。



4.野菜の量を調整する

その次に、「野菜いかがなさいますかー?」とか「お嫌いな野菜ありませんかー?」とか聞かれる筈だ。

SUBWAYでは野菜の量を調整することが出来る。例えばお前がトマト嫌いなら、「トマト抜きで」と言えば抜いてくれるし、「多めで」と言えばがつっと量を増やしてくれる。このご時世にレタス多めにしてもらうことも可能だ。「全部多めで」って言うことも出来るが、本当に結構な量になるからそこだけ気をつけろ。特段希望がなければ「そのままで」とか「普通で」と言っておけばいい。

ちなみに、ピクルスやオリーブなど、ノーマルルートなら入れない野菜を追加してもらうことも出来る。オリーブはどのサンドイッチにも合うのでお勧めだ。辛いのが好きならホットペッパーを追加してもらうことも出来るらしいな。これはやったことないので俺にも何とも言えんが。



5.ドレッシングを選ぶ

今度はサンドイッチにかけるドレッシングを選ぶステップだ。ここでも、実はサンドイッチごとにおススメのドレッシングは決まっていて、店員さんは同時に「このドレッシングがお勧めです」ということを言ってくる。特にこだわりがなければ、「お任せで」と言っておけば問題はない。

敢えてここを曲げるとすれば、バジルソース、ないしバルサミコソースがお勧めだ。バジルソースはフレッシュかつスパイシーな味わいがどのサンドイッチにも合う。万能だ。バルサミコソースはわずかな酸っぱさがいいアクセントになるだろう。ターキーブレストのお勧めソースだが、ローストチキンなんかにも良く合うな。



6.サイドメニューを選ぶ

ここまでくると、お前はほぼレジの目前まで移動している筈だ。サイドメニューは最後、このタイミングで選ぶ。ドリンク、ポテト、スープなんかがあり、セットメニューもある筈だ。更にポテトには複数のフレーバーがある。

俺の圧倒的お勧めは「ポテト + ドリンク」のセットを頼んで、更にポテトにチーズのフレーバーをつけてもらうことだ。

SUBWAYのポテトはそこそこボリュームがあるタイプで、例えばマックやロッテリアの細いポテトとは全く趣が異なる。そこにチーズフレーバーをつけることによって、絶妙に漂うジャンクフード感。野菜たっぷりのサンドイッチが齎す暴力的なヘルシーさを希釈して、極めて高度なバランスをとってくれるというわけだ。

他のサイドメニューに目を向ければ、ミネストローネはマジで美味い。ただ、それだけで\360とそこそこのお値段がするので、総合すると結構な価格帯になってしまうという点で危険な選択肢だ。懐に余裕がある時に選択するといい。


さて、ここまでで、お前にはもうSUBWAYを攻略する為の基礎知識は備わった筈だ。SUBWAYの野菜たっぷり肉たっぷりのサンドイッチを満喫するもよし!お勧めをちょっとずつ曲げて「分かっている感」を醸成するもよし!自分なりのSUBWAY道を進んでいってほしい。

ちなみに俺の個人的なお勧め構築を書いておくと、

・ターキーブレスト、セサミ、トーストありで
・トッピングはクリームチーズ
・野菜はそのまま
・ソースはバジルソース
・ジンジャーエールとポテトチーズフレーバーのセット

以上だ!この組み合わせはマジ美味いので一度試してみてくれ!

今日書きたいことはそれくらいだ。
posted by しんざき at 07:14 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Surface proを買いました・使用感とか簡単にレビューする


普段外出先で使っていたノートPC、もう5,6年ものなんですが、いい加減調子悪くなりまして。

その反面、外で書きものやら仕事やらやる機会は増えていたので、新しくノートPCなりタブレットPCなり買おうかなーと思ったんです。

で、下記のような条件で考えました。

・自宅にはメイン機になるデスクトップPCがあるので、ノートはサブマシン的な位置づけ・
普段持ち歩くのでなるべく軽いのがいい、出来れば充電アダプタも持ち歩きたくない
・可能な限りライティングがしやすいマシンがいい
・動画処理性能は別段求めない(動画あんまりみないので)
・最近仕事で使い始めたPythonの開発の為に、anaconda3 + Pycharmをなるべくサクサク動かしたい
・練習で使うことがあるのでsibelius(楽譜作成ソフト)を動かしたい

メイン機がWindowsなので、じゃあまあWindowsタブレットにでもするかーということで、最近知人が使っていて
便利そうだったSurface proを選択。

選択したのはFKH-00014 [Surface Pro Core i7/512GB/メモリ16GBモデル]で、タイプカバーを一緒に購入しました。

注文して2日くらいで到着。なんか新しいガジェットが到着した時って異様にわくわくしますね?


とどいたー

折角なので、簡単に使用感レビューのようなことをしてみたいと思います。

先に結論を書いてしまうと、私が想定していた目的には、Surface proはがっちり適合しました。最適解に近かったような気がします。

中身は完全にWindowsですので、基本的にWindowsで動かせるソフトは全て動かせます。そこは想定内だったのですが、起動・終了などの動作についても実にサクサクで、基本的には電源を押してから数秒でログイン画面に遷移出来る、という感覚。

私が動かしたかったAnaconda3 + Pycharmも問題なくサクサク動きました。まだガリガリでかいデータを数値処理とかはしてないですが、まあ本番の分析をこのマシンでやったりはしないのでそこは大した問題ではないでしょう。

plot.png

ついちょっと手が滑ってSteamのCiv4 BTSもインストールしてしまったのですが、こちらも問題なく動作しました。ちょっと文字が小さいですが、これは単にグラフィックオプションの問題でしょう。プレイに支障がないのは確認済。バリバリ重いFPSとかはどうか分かりませんが、軽めのゲームだけならゲーミングPCとしても利用出来そうです。

civ4_2018.png

重いゲームも動くのかもしれないけどまだ試してない。まあ私の場合、PCゲームは殆どメイン機でしかやらないのでそこはあんまり重要ではないのですが。

TYPEカバーの使用感は非常に良好。好みの問題もあると思うのですが、キーストロークが重すぎず、けどキーを押したという感覚はしっかりあるキーボードが好きなので、私の好みにはベストマッチしました。TYPEカバーの使用感が良すぎて、タブレットモードを殆ど使わないくらい。

ブログ用

使い始めた当初は、ファンクションキー使うときFn押しながらじゃないといけないの不便だなーと思ったんですが、これは単に私が知らなかっただけで、Fnキーを一回押したらFnキー押した状態で固定されました。らくちん。

強いて個人的に不便なことを挙げれば、Windowsキーが左側にしかないので、Windows + Lキーで画面ロックするときにちょっと不便、ってことくらいでしょうか?あまり当てはまる人がいなさそうですが…。

普段はこんな感じで、テーブルなりデスクの上に置いて使うことが多いのですが、

ブログ用

例えばバスや電車の中、あるいは机がない状況などだと、こんな感じで膝の上において使う場合もあります。伝われ。

サーフェス.png

背面のキックスタンドの角度を調整すれば、割と狭いスペースでもキーボード付きで使用出来ます。自宅で、リビングと私の部屋の階が違うので、PC作業をする時は子どもたちと話ができなかったのですが、リビングでだらーっと座って腿にSurface置いとけば子どもの相手しながらでも作業ができるので両立出来るようになりました。

デスクで使うときは大体マウスを装着して使うのですが、膝の上において使う時はマウスなしです。当初はキーパッドでせこせこ操作してたんですが、「タッチスクリーン使えばええやん」と気づいた後は、殆どパッドは使わなくなりました。PCモードでもタブレットと同じような感じでタッチスクリーン使えるのマジ便利。

重さの話なのですが、本体重量は800g弱、typeカバーが300gっていうところなので、合計すると1kgを越えます。持った時の重量感は「AtariのLynxよりちょっと重い」というところ。ただ、バッテリーの持ちがかなり良く、ちょっと出歩くくらいなら充電アダプタを持ち歩く必要がないので、その分感覚的にはかなりサクサクと持ち歩けます。

バッテリーの持ちについては、多分使い方によっていろいろ変わってくると思うんですが、私の場合「ブラウザとtween + テキストエディタをいくつか立ち上げて、wi-fiつなぎっぱなしの状態で、6時間くらい使ってまだ20 〜 30%くらい残ってた」という感じでした。多分7,8時間くらいは問題なく連続稼働出来るんじゃないでしょうか?これについては一回ちゃんと検証してみてから追記します。

ハード的にはほとんど不満はないんですが、唯一挙げるとしたら「充電器があんまりイケてない」という点。専用端子の充電器で、互換性があんまり高くありません。USBで充電できるようにして欲しかったっていうのは流石にないものねだりかもしれませんが、せめてもうちょっと軽いとよかったなーと。


ということで、長々書いて参りました。

結論を簡単にまとめると、

・そこそこ大きな買い物だったけど個人的には満足
・Typeカバーのキータッチ超つかいやすい
・タッチスクリーンとデスクトップの併用が想像していよりも便利だった
・LYNXより若干重い

そんな感じになります。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月14日

保守・運用の仕事の大切さを説明するのは、保守・運用の仕事の内なのか?


そらちょっと違うんじゃねえかなあ、と思うんですよ。

ちょくちょく思いついたことを書いて寄稿させて頂いているBooks&Appsさんに、こんな記事を書かせて頂いたんです。


この記事自体は、

・保守運用の仕事分かりにくいよね
・けど、分かりにくいってだけで表層な理解しかされずに、経営サイドに切られちゃうことがあるよ
・そういう場合大抵大炎上してめっちゃダメージになるよ
・切るなら切る、評価しないなら評価しないで、そうすることによるリスク、ベネフィットってものはきちんと把握した上でやらないといけないよね

ということが言いたかった記事でして、どっちかというとマネジメント側の話として書いたんですが。

この記事に対しての反応として、例えばtwitterとかで

・保守・運用をする側が、もっとその仕事の重要さをアピールするべき
・作業員が自分の必要性や専門性を主張するべき

とおっしゃる方がいまして。実のところ、以前からそういう風に、「評価されてない・必要性を認識されていないのは仕事をしている側の責任」という文脈に触れるケースは結構多いんです。

それ、本当にそうなのかなあ?と。もうちょっといっちゃうと、それは個人の評価の問題と、企業や組織のリスク・ベネフィット評価の問題をごっちゃにしているんじゃないかなあ?と思ったんです。

確かに、それが個人の評価の問題の話であれば、「自分はどれくらい貢献した」「自分の仕事はどれだけ重要なんだ」というのを評価する側にアピールするのは、ビジネスパーソンとしての個人の職責の内です。評価されたかったら、評価されるべき材料を提示しなくてはいけない。そこは間違いありません。

しかし、今回問題になってくるのは、「システムの保守運用」という仕事、それ自体です。

そのシステムに対する保守運用があることで、会社はどのようなベネフィットを得ているのか?

保守運用を切った場合、会社にはどのようなリスクがあるのか?

それは、切った場合のコストと見合うものなのか?

これらは全て、そこに働いている人個別の評価とは関係なく、組織を運営する上でのリスク評価、コスト評価の話です。

それ、何をどう考えても、主体となるのは経営側、マネジメント側なんじゃないかなあ?と。その評価が出来るか出来ないかっていうのはマネジメント側のリテラシーの問題であって、その責任を現場側に求めるのはおかしいんじゃないかなあ?と思うんですよ。

勿論、保守運用は上記記事でも書いた通り、そこそこ専門的な仕事であって、「何をやっているのかよく分からん」というのはある程度致し方ないところではあります。そりゃそうです。

ただ、「その仕事をすることでどんな効果があるのか」「何が守られているのか」「それをしないとどんなことが起きるのか」という諸要素を把握する時に、仕事の細かい内容なんて把握する必要ないと思うんですよ。少なくとも、保守運用を行わないとシステムの維持管理が出来ないこと、そのシステムがまともに動かないと何が起こるのか、その程度のことを把握しておくのはマネジメント側の当然のリテラシーなんじゃないでしょうか?

百歩譲っても、そういった情報、リスク、コストの把握、それはマネジメント側が主体となってヒアリングするなり情報収集するなりして把握するべき問題であって、「主張しなかった現場が悪い」となるべき問題ではない。「現場が主張しなかったんだから切られても仕方ない」なんて結論をつけるべきではない。

私はそんな風に思ったんです。

私自身、立ち位置を考えるとすればどちらかというとマネジメント側の問題であって、恐らく価値を理解出来ていない仕事も、重要性を把握出来ていないスキルも色々とあるんだろうなあと。

ただ、それについては、マネジメント側の責務としてきちんと把握しにいって、自分のリテラシーを高めていかなくてはいけないと。

そう考える次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:07 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月10日

ゲーム実況動画を楽しめない理由をもうちょっと掘り下げてみる


シロクマ先生から言及頂いていました。


不倒城は基本的にぼっちブログであって、他ブロガーさんと交流させて頂く機会が極めて少ないのですが、お声がけいただけると喜びます。折角なのでお返事を書こうかと思います。

ただ、シロクマ先生もこうおっしゃっている通り、



ここまで書いてみて、ゲームについての一般論をしんざきさんから演繹するのは意味がないような気がしてきた。それよりも、しんざきさんという一人のゲームプレイヤーのゲーム観やゲームモチベーションをもっと伺いたいとか、その異質性の成り立ちを知ってみたい気持ちが湧いてきてしようがない。


おそらく私自身の例はそこそこ特殊例かも知れず、いわゆる「ゲーマー」の中でも一般化しにくいケースかも知れません。それはご承知の上で読んで頂ければと思います。

さて。

前回、この記事では私は、単に「他人のプレイを楽しむというチャネルが自分の中にない」「ゲームは自分にとって「遊び」に近い」「人の遊びを見ても、自分が遊びたくなるだけ」と書きました。これはこれで私の中では正しいのですが、「何故そうなったのか」ということについては、そこまで掘り下げなかったつもりではあります。「楽しめる」理由を掘り下げるのは好きなのですが、「楽しめない」理由を掘り下げてもあまり面白い話にはならなそうな気がした為でもあります。

私には、「自分で遊ぶの楽しいぜ!」「みんなも遊ぼうぜ!」と呼びかける意図はあるのですが、とはいえ「ゲームを観る」楽しさを否定する意図は全くないのです。私に楽しめないとしても、それは飽くまで私だけの話であって、私以外のたくさんの人たちがゲームプレイ動画を楽しむのであれば、それは良いことだと思っています。楽しんでいる人に水をぶっかける意図は全くありません。


その前提の上で敢えて、私個人が「楽しめない理由」を敢えてもうちょっと掘り起こしてみますと、大きく二つの理由があるような気がしてきました。

その内一つは、シロクマ先生もこう書いて頂いている、


 この記事にもあるように、しんざきさんは『ダライアス外伝』に心臓を捧げていた時期があり、ハイスコア目指してPDCAサイクルをガンガン回していたという。その最中において、ゲームは自分でやるもの・自分で戦うものという意識が強まっていたことに疑問はない。

 それでも、『ダライアス外伝』とそこまで向き合う前後の時期に、ゲーセンなり駄菓子屋なりで仲間やプレイを観戦したり、年上のプレイヤーに憧れたりした時期はなかったのだろうか?

まさにこの話に関係しています。

「スパる」っていう言葉、皆さまご存知でしょうか?かつて、ゲーセンではごく一般的な用語だったのですが、最近はあまり聞かなくなっているような気がします。

要は「他人のプレイをこっそりと観察して、稼ぎや攻略テクニックを学習する(=スパイする)こと」なんですけど、スパイなんて言葉が使われてる通り、昔はこれ、「良くないこと」「道義にもとること」として扱われていたんですよ。つまり、他人からテクニックを盗んで、ライバルを出し抜こうとする行為だと思われていたんですね。

恐らく地域差もあれば店舗ごとの意識の差もあったのだろうとは思うのですが、少なくとも私が認識する限り、私が住んでいた地域って、この「スパる」行為についての警戒感、拒否感がかなり強い地域だったんです。

なるべく人が少ない、「スパられる」心配が少ない時間にプレイする、だとか。スパイ防止の為、店員と仲良くなって閉店後にプレイするだとか、仲間に視線を塞ぐ壁になってもらう、ギャラリーを排除してもらうなんて話すら、全然珍しくない文化圏でした。

時には、スパったスパらなかったで喧嘩が起きた、ゲーセン出入り禁止になったなんて話も聞いたことがあります。実際目撃した訳じゃないんで、ホントかどうかは知らないですけどね。

「得点稼ぎくらいでアホらしい」と思う人も、恐らくいるのではないでしょうか?ただ、少なくとも昔のスコアラー界隈では、それは全然アホらしいことでもなんでもない、真剣な、熾烈な情報戦だったんですよ。

当たり前ですが、youtubeもなければ、スーパープレイのビデオが簡単にみられるわけでもなかった時代の話です。

正直に書いてしまえば、私もあの手この手で他人のプレイを「スパった」ことはあります。わざわざ普段とは違うゲーセンに遠征して、見てない振りをしてこっそりと他人のプレイを観察したこともあれば、重要な稼ぎのヒントをその過程で見つけ出したこともありました。

ただ、それは少なくとも私にとっては、どこまでも「後ろめたい」行為であったし、道義にもとることをやっているなーという自覚もあったのです。

それは、何をどうひっくり返しても「楽しい」行為ではなかった。本来ならやってはいけないことを、勝つために必要だから仕方なくやっている。そういう意識でした。

一時期、ダライアス外伝は本当に、私の生活の全てといっても差し支えがないくらいのゲームタイトルでした。ただ、それだけに、この時期ダライアス外伝に絡んでおこなった行為、努力、工夫は、いい面も悪い面も含めて、その後もずっと尾を引くくらいの影響を私の中に残しているようなのです。

あれ以来、「他人のゲームプレイを観る」という行為が「楽しい」カテゴリーから外れてしまった、ある意味では「後ろめたい」行為にすら直結してしまった、という側面は、よくよく考えてみるとそこそこありそうな気がします。少なくとも、スーパープレイの動画を見る時に、私がどこかで「あー昔ダラ外でスパったなー」という記憶を思い出してしまうことは間違いのない事実です。一種のトラウマかも知れません。

もしかすると確かに、スコアのことなど何も気にしなかった子どもの頃、他人のプレイを目を輝かせて見ていた時期が私にもあったかも知れません。ただ、その感覚を塗りつぶすくらい、ダラ外に血道を上げた時期が自分の中で強烈だった、ということも本当なのだろうと思います。

そういう点では、例えば私が子どものゲームプレイを眺めることを「ゲーム観戦というよりは子ども観察」というのも、ある意味では自分をごまかしているのかも知れません。私は長男とゲームの話をするのが好きですし、時には長男のゲームプレイ内容を興味深く追いかけることもありますが、それを「子ども観察」とわざわざ換言するというのは、「ゲーム観戦ということにしたくないから」と無意識で思っているから、という可能性もあります。まあ、自分ではそこまで大げさな話ではないつもりではありますが…


で、シロクマ先生の個別の疑問にお答えすると、


 上掲リンク先を読む限り、しんざきさんが『ダライアス外伝』をやり込んでいたゲーセンは、ハイスコア狙いがそれほど盛んではなかったけれども絶無でもないように読めた。絶無でないなら、ゲーセンで仲間ができた可能性や、巧いプレイヤーのプレイに見惚れる可能性はあったかもしれない。


上記のような次第でして、「ゲーセンにはハイスコア仲間もいればライバルもいたが、お互いのプレイを観るのはマナーとして意図的に避けていた」というのが正解です。お互いのスコアは、ランキング画面でスコアネームだけで確認することが常でした。それはそれで結構楽しい人間関係ではありました。


 それとも、しんざきさんは他者に全く見向きもせず、非常にストイックにゲームをプレイしていたのかもしれないし、そこまでストイックになれなければ、有名店でない場所で『ダライアス外伝』で全一を獲ることなど、不可能だったのだろうか?

他人のプレイには非常に興味がありましたし、情報収集はむしろ積極的に行っていました。有名店でない店で、有名スコアラーに人脈がある訳でもない身としては、そうでもしなければ全一なんて無理だったろうなあ、と思います。



ただ、上記とはまた全然違うレベルの話として、私がただただ単純にゲームが好きであること、そして特に「自分が遊ぶ」ということにこそゲームの楽しさを強く強く見出していること、そこは先日の記事に書いた通りでして、それ以上の話ではありません。私は単に、ゲームを遊ぶのが好きなのです。動画を見る時間があったらゲームを遊びたくなるのです。

シロクマ先生がおっしゃるところの、「ゲームはプレイしてナンボ」精神は今後とも強く強く保持していきたい、出来れば回りにもそれを広めていきたいと。そう考える次第です。

ところで。

上の方で私は、「大きく二つの理由がある」と書きました。これ以降はもう完全に、ゲームすらあんまり関係ない個人的な事情なんですが、私コンテンツとしての「声」が実は苦手なんです。。。

これはなんでなのかよく分からないんですが、動画だろうがテレビ番組だろうがアニメだろうが劇だろうが、「声が出る視聴コンテンツ」ってそれだけでちょっと苦手で、例えばゲームでもオフに出来るボイスは必ずオフにしちゃうんですよ。アニメがあんまり楽しめない理由も大部分がそれです。

得意か苦手かっていうと苦手、っていうだけで、摂取出来ないって程じゃないので、例えば子どもたちを連れてアニメ映画観に行ったりすることもあるんですが。「実況動画」というカテゴリについて言うと多分それも楽しめない原因の一つで、撮影主さんの声が全く入っていないプレイ動画でないとそもそもあんまり観れなかったりします。

この原因は本当に謎なんですが、もしかすると下記のような話が関係してるのかも知れないなーとはなんとなく思います。


ただまあ、これは余談です。

ということで、今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 16:24 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月08日

俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ


たとえば、ゲームが好きだという話をすると、この間こんな実況動画が…みたいな話をされることがある。

たとえば、ゲームセンターCXというテレビ番組の話を振られる。面白かったねーという話になる。

その度に、ちょっとだけ心が痛む。それは、「ゲーム」というコンテンツに対する捉え方の違い、一つの文化を広い側面で楽しめる者と、楽しめない者の差、ほんのちょっとした心のささくれだ。

何故かというに、私には「知らない人がゲームプレイをしているところを見て楽しむ」という嗜好が全くないからだ。赤の他人のゲームプレイの動画を見ても私は楽しめないのだ。ゲームプレイにくっついた、小粋な会話を楽しむことも出来ないのだ。ただただ自分が遊びたくなるだけなのだ。「動画を見る時間があったらゲームがやりたい」と思うばかりなのだ。

これは勿論、例えばゲーム実況動画という文化を否定するものではない。むしろ逆で、ゲーム実況動画がゲームの裾野を広げたという点については、「ゲーム」というものがようやく、野球やサッカーのように「ただ遊ぶだけではなく見て楽しむ」というチャネルを広範に手に入れたものだと、喜ぶべきことだと思っている。

裾野は広い方がいいし、入り口は入りやすい方がいい。同じゲームという文化を楽しむのであれば、その楽しみ方はなるべく多面的であるべきだ。色んな楽しみ方が成立していいし、色んな楽しみ方が許容されていい。

ただ、それとは全く別問題、別会計として、私の中には「ゲーム実況」を楽しむというチャネルが存在しないのだ。これはむしろ、私がゲームを遊ぶ際のキャパシティがより偏狭であるということに他ならない。例えば私は、長男がゲームを遊ぶところを観察するのは好きだが、それは飽くまで「子ども観察」ないし「子どもを通してのゲーム体験」であって「ゲーム観戦」ではないのだ。ゲーム観戦に限っていえば、私はただひたすら「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」と思うばかりなのだ。

何故なのだろうか。

これは飽くまで私に限っての話なのだが、私はおそらく、どこまでもゲームを「コンテンツ」ではなく「遊び」として捉えているのだと思う。これはもう根本的な認識、体質とでもいうべきものであって、多分今更上書きしようにも出来ないことなのだ。

つまり、私にとってのゲームというものは、公園でやる鬼ごっこであり、かくれんぼなのだ。それは飽くまで「自分が入って、自分が遊んで、初めて成立する楽しさ」であって、外から見ていて楽しめる種類のものではないのだ。

私はおそらく、あまりにも「遊ぶ」楽しさにどっぷりと漬かり過ぎたのだろう。それはACTの楽しさであり、STGの楽しさであり、RPGの、SLGの、AVGの楽しさだ。あと一歩でステージをクリアできる時にタコミスで自機が死んだときの身をよじるような悔しさ、超強力な敵ボスを青息吐息でやっと倒し切った時の達成感、吐きそうな試行回数の末にようやくレアアイテムを手に入れた時の嬉しさ、難解なパズルステージの解法をあれこれ試してようやく見つけた時の驚嘆。

それら全ての対象が「私」であって、自分以外を向いているとそれを楽しむことが出来ないのだ。一種の麻薬中毒のようなものなのかも知れない。

それに対して、プロ野球やプロサッカーのような「コンテンツ」としてのスポーツであれば、「自分がプレイする」よりも「見て楽しむ」ということがメインとなることは当然である。現在、ゲームに対してそのようなスタンスで接することが出来る人も、恐らく以前よりずっと増えているのだろう。

それは良いことなのだと思う。

ただ、私自身について言えば、「自分で遊んでこそのゲーム」だというスタンスは恐らく変えようもないことだと思うし、出来ることなら「見る専」の人たちにも、「見る」を入り口として「遊ぶ」楽しさにも目覚めて欲しい、ガンガンゲームを買って遊んで欲しい、と考える次第なのである。


posted by しんざき at 07:24 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

「勝つ」以外に楽しむ道がないゲームの弊害

こんな記事を拝読しました。


 対人ゲームと言うものの第一目標が「相手に勝つ」という事である以上、冷酷な事を言うようですが「勝つこと以外を目的にするプレイヤー」の居場所は狭いものであり続けると私は考えています。

 勝てなくてやめようと思っていたそのゲーム、頼むから強キャラ・強カードを使ってくれ。

 そしたらまた少し楽しく遊べるようになるかもしれないからさ。

おっしゃるところはわかるんですよ。確かに、「負けっぱなしだと面白くない、そのゲームを続けられない」「なら(特に初心者は)素直に強いキャラ、強いカードを使え」という筋立ては、実際のところ正しいと思います。

ただ、それに対してもう一つ問題があるのは、

・みんなが強キャラ・強カードだけを使っているとそれはそれで楽しめないし文句を言う人がたくさん出てくる

ということだと思うんです。

格ゲーでも、デジタルカードゲームでもなんでもいいんですが、「完全に公平なゲームバランス」などというものは実際のところないものねだりでして、どうやっても「強いカード」「弱いキャラクター」というのは出てきてしまいます。カードの強弱を全部真っ平にしたらそれ本当に面白いのか?というと勿論そんなことは全然なく、ある程度「強さ」を偏らせてキャラクターやカードの間に勾配を設けるのは、ゲームの面白さの中での必要条件ですらあります。

その為、ある程度「強キャラ」「強カード」「強い構築」というものはどうしても出てきてしまう。勿論程度というものはありますが、そこまでは前提と考えていいと思います。

そんな中、みんなが「強キャラ」だけを選択してしまうと、今度は「同じキャラ、同じ構築とばかり当たって面白くない」という文句が絶対に出てくるんですよ。

これは、「勝ちだけにこだわる」という人が多ければ多い程、また「強弱の勾配」が強ければ強い程明確な傾向になります。だから、あらゆる対戦ゲーム、あらゆるDCGは、「なるべく強弱の勾配を抑える、けどキャラクター・カード間の勾配やバラエティ自体はちゃんと作って、それを楽しめる」という、まるで綱渡りやシーソーゲームのようなゲームバランシングをし続けることになり、ちょっとでもバランスが崩れれば環境が強キャラ一色になって非難の嵐、みたいな話になるわけです。


これ、どうすればいいんですかね?


ちょっと話をDCGに絞った上で、一つの理想を言えば、

・どんなキャラ・どんな構築を使っても、プレイング次第で一定以上の勝率が得られる

という状態は一つの目指すべき地点と言えるのでしょう。「どんな構築を使っても」という時点で、「じゃあ全バニラでも勝てんのか」って話になってないものねだり感凄いので、まあ落としどころとしては「なるべくたくさんの構築で一定以上の勝率が得られる」くらいになるんでしょうけど。


ただ、もう一つの話をすれば、

・「勝てなければ面白くない」という地点にたどり着くのが速すぎる、それ以外の遊びの幅が狭すぎる

というのは一点、割と根本的な問題じゃないかと思うんですよ。


先日、冒頭の記事とはまた別に、こんな記事を拝読しました。


 勝って当たり前、負ければストレス。ゲームを始めた直後からこんな状態でゲームを続けて上手になるわけがない。楽しくないものに対して理解を深めようとする人間はなかなかいないはずだ。

  デジタルTCGからカードゲームを始めて「勝ちたい」と思うようになるのと、リアル紙ゲームからカードゲームを始めて「勝ちたい」と思うようになるのには、多くの場合はバックグラウンドが大きく異なっており、更にそこに至るまでの期間に大きすぎる差がある。


正直私、これ結構同感でして。「ゲームを始めると、殆ど即「勝つか負けるか」だけの空間に放り込まれてしまって、しかもweb上の情報もそれに特化している」って、今のDCGに共通する病だと思うんですよ。ハースでもシャドバでもドラクエライバルズでも、ゲーム名でぐぐると合わせて「最強デッキ」とか「tier」が提案されるようなご時世ですしね。

「勝った時の気持ち良さを最大化する」というのは、DCGとしてとても重要な要素だと思います。間違いないです。


ただ、それとは別に、「勝ち負けと別のところで楽しめる要素を充実させる」ということも、「勝つか負けるか」以前のところでユーザーを救済するべき要素として、重要な話だと思うんですよね。これがあれば、それこそ「勝ち負け」というゼロイチの世界に飛び込む前に、カードゲーム自体の楽しさを学べるかも知れない。

例えばHearthstoneであれば、アドベンチャーモードや酒場の喧嘩がある程度その役目を担っていると思います。まあ、酒場の喧嘩の場合結局勝ち負け絡んじゃいますけど。DQライバルズなんかは、正直現在ランキングモードっていう勝ち負け修羅道以外の楽しみ方が殆どないですね。現行環境のバランス自体は割といい感じだと思うんですが。

例えばDQライバルズで言えば、少なくともストーリーモード・アドベンチャーモードみたいなものは最低限導入するべきだと思いますし。デッキのオリジナリティが評価されるシステムとか、突拍子もないようなコンボが重要視されるシステムとか、あるいはそれこそドラクエ6的な「デッキのベストドレッサー」みたいなものを追及するモードとか、そういう要素があってもいいんじゃないかと思うんですよ。


ジョニー・ティミーに関わらず、「勝つ・負けるとは別の地点でも楽しめる」要素が更に充実してくれることを祈ってやまないわけです。


ちなみに、更にもう一つのソリューションとして、「負けても楽しい」という要素を導入するというソリューションもあるにはありまして、私はその一つの解答が「非ダメ脱衣」だと思っているんですが、これはまあだいぶ余談です。


被ダメ脱衣、いいですよね。魔界村はちょっとノーサンキューですけど。

ちなみに勿論ドラクエライバルズに被ダメ脱衣を導入しろという話ではなく、ゼシカやミネアならまだしもトルネコが脱ぐとか誰得感凄いので、それとは別の方向性を期待するところ大です。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:31 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月10日

妊娠・出産が「罪」でしかない社会

先日、こんなニュースを見ました。

一方、学校の勧めの結果、自主退学した32件のうち、生徒や保護者が通学や休学、転学を希望していたのに学校が退学を勧めたのが全日制で12件、定時制で6件の計18件あった。残りは、生徒らから明確な希望がなかったという。
 学校が退学を勧めた理由は、「母体の状況や育児を行う上での家庭の状況から、学業を継続することが難しい」が18件、「学校の支援体制が十分ではなく、本人の安全が確保できない」が8件、「本人の学業継続が、他の生徒に対する影響が大きい」5件、その他が1件だった。
これなんですけど、私、割と身近で同じようなケースを観測したことがあるんですよ。関係的には友人の妹なんですけど、やはり高校在学中に妊娠してしまって、本人や家族はなんとか高校に残れないかって希望したんだけど結局退学になってしまった、ってヤツですね。

勿論観測例としては1ケースだけなんで、一般化するつもりはさらさらないんですが、この記事で受けた印象とは結構食い違っていたなーと思いまして。

上の例でいうと、

・「本人の学業継続が、他の生徒に対する影響が大きい」5件

というケースに当てはまるのかも知れないんですが、退学をするよう言われた時の主要な理由が、

・校内の風紀が乱れて他の生徒への悪影響になるから

ということだったらしいんですよ。これ、実際に先生にそういわれたらしいですよ?

つまり、「妊娠」という行為というか結果自体が「悪」であって、それが他の生徒にまで波及する、風紀が乱れる、という話ですよね。それ、どうなのかなあ、と。

いや、確かに、「高校在学中に妊娠」というのが、色んな意味でデメリットが大きく、本来避けた方が望ましいことである、というのは分かるんですよ。体育の授業だって出られないでしょうし、生徒同士の接触も問題になるかも知れませんし、当然常時体調不良がデフォルトのような状況なので、学業にもマイナスの影響が出るでしょう。それが望ましくないことは理解出来る。そういう意味で、「学校の支援体制が十分ではなく、本人の安全が確保できない」という理由ならまだわかる。

けど、「ほかの生徒に悪影響が」って、まるでセックスと妊娠を「穢れ」みたいなものとして捉えて、それが広がるのを防がなくては、みたいな考え方ですよね?

実際今でも、「在学中のセックスなんてとんでもない」っていう考え方の先生はいますし、そこから「性教育自体を忌避する」みたいな斜め上の方向に繋がることもありますよね。七生養護学校事件でしたっけ。「寝た子を起こすことになる」みたいな、いやお前流石にそれはロジック自体がおかしいだろ的なヤツ。


ただ、そこまではいかなくても、妊娠という行為自体が「罪」であり、その「罰」として退学させる、みたいな向きは、正直かなり広範にあるような気がしているんですよ。実際、件の知人妹とその親御さんも、感覚的には完全に「懲罰」という認識で退学まで追い込まれてしまったそうなんです。妊娠させた側の責任はどうなんだ、とかそういう話以前に、そもそもなんで学校で「責任」という議論になるのか、という話なんです。


避けるべき妊娠というものは確かにあるし、その為に性教育をする。

ただ、それはそれとして、妊娠自体は決して悪いものではないのだから、万一妊娠してしまった場合はそのサポートをして、どうするべきなのかを考える。


そういう訳にはいかないんですかね?と思ったんです。妊娠自体を「罪」として扱ってちゃ、そりゃ少子化なんて解決するわけないだろ当たり前じゃん、みたいな。


上の高校のケースとはまた状況が全然違うんですが、最近は仕事関係での妊娠についてのニュースも立て続けに見ました。



これもまあ、高校生と社会人では状況は全然違うものの、「妊娠することを罪と捉える」という構図は似ていますよね。

結局根底には、セックスと妊娠というものを尊重しないというか、「制御出来なかった結果」「過ち、過失」みたいにしか認識していない向きがあって、それが「妊娠は罪」という構図を生み出しているんじゃないかなあ、と、そんな風に思ったんです。


少子高齢化は問題か?と聞けば、多分大体の人は「問題だ」と答えるでしょう。

ただ、その反面、妊娠を「皆でサポートするべき良い状態」と捉えることが出来る、そういう認識って実は全然広まっていないんじゃねえか、と。少子化対策以前の問題なんじゃねえか、と、ちょっと懸念を覚えた次第なんです。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 07:36 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月09日

「〇〇50選」とか「△△100選」とかじゃなくて渾身の数選を読みたい。なんなら一選でいい。

タイトルで完結しているんですが。

ほら、あるじゃないですか。〇〇におススメ出来る漫画100選、だとか。△△なゲーム50選、みたいなそういうアレ。大量のタイトルと、良くて数行くらいのコメントががーーっと羅列されてる系の記事。

ああいう記事好きな人もいるかも知れないですし、活用している人ももしかしたらいるのかも知れなくて、それ自体を否定する気はないんですが。ただ、少なくとも私自身は、ああいう記事を読んで「面白かった」とか「参考になる」って思ったことが一度たりともないんですよ。

何というかあの手の記事って、量が余りにも多すぎて、一つ一つの作品に対する思いが完全に希釈されてるように思うんですよね。

それはただタイトルを羅列してるだけやん、と。単なるカタログなら出版社のサイトなりamazonなり見た方がよっぽどいいやん、と。

いや、ああいう記事を書いている人たちが、一つ一つのタイトル、一つ一つの作品が好きだということを疑うわけじゃないんですよ。中には検索順位がどうとかアフィ目当てとか邪推する人もいるかも知れませんが。私は疑いません。

ただ、50とか100とかいう数字は、思いを込めるには多分ちょっとデカ過ぎる。

少なくとも私は、ブログを見に行くときは、それを書いた人の個人的な思いが読みたいわけなんですよ。その人にしか書けないこと、その人が感じたことを知りたい。おススメな作品なのであれば、その人が何をどう感じて、どうお勧めと思うに至ったのかを知りたい。タイトルの羅列を読みたいという欲求は全然ない。

「俺はこれが好きだ!!!」

という叫びを読みたいわけなんです。

そこから考えると、「お勧めの〇〇」っていうタイトルで読みたいタイトル数はせいぜい4,5タイトルだなあ、と。というかなんなら一作のお勧めに全てをかけてもらえるのが一番面白そうだなあ、と。

ちょっと誤解されがちなんですが、私、「皆が知らない名作についての記事が読みたい」という訳では全然ないんですよ。いや、皆が知らない名作を掘り起こす記事はそれはそれで読みたいですが、なんなら誰もが知っているメジャータイトルについての感想、レビューでも全然かまわない。むしろ、メジャータイトルについてどういうアプローチで接するかって、その人独自のスタンスが出てめっちゃ面白くないですか。


ということなので、皆さまに置かれましては、「お勧め〇〇n選」という記事でのnの数は控えめにしていただけると私は楽しいなあ、という話なわけでした。よろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 12:51 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

仮想通貨のおかげでブログ収益化界隈がだいぶ静かになったので仮想通貨に感謝している

ただの雑感です。

私の観測範囲の問題もあるのかも知れませんが、最近「ブロガーサロン」とか「ブログ収益化」とか「ブログで不労所得」みたいな話、あんまり見なくなったような気がしません?はてブのhotentryとかからは明らかに減ったなーって感じてまして。

ちょっと前までは、「ブログ開始〇カ月で△万PVを達成した私の手法」とか、「1年で×万円の収益を達成」とか、なんかそういうnot for me感が振り切れている記事がその辺にゴロゴロ転がっていて、踏まないにしても歩きづらいなーと感じることがしばしばあったんですが、最近そういうのだんだん見かけなくなってきたんですよ。

風通しが良くなって凄しやすくなってきたなー、と思っていたんですが、なんかその辺の界隈の人、ここ数カ月で皆仮想通貨界隈に行っちゃったらしいんですね。ああなるほどそっちですかほうほう、まあ良いことですねって感じで。

正直個人的な所感としては、現時点の仮想通貨って、投資商品としては単に死ぬほどボラティリティが高いだけで、投資家保護の体制が全くできていないハイリスク商品っていう印象しかないんですけど、まあ凄い話題になって、それいけーーーって感じで大量の人たちが流入したっぽいですよね。

別にマネタイズは悪いことではありませんし、出来る人はルールの範囲内でどんどんやればいいって思ってはいるんですが、個人的にはあんまりお金のにおいが強すぎる環境も過ごしにくいなーって思ってまして。そういう意味では、お金のにおいを感知して移動する人たちにはガンガン仮想通貨に集まって欲しいし、その方が界隈が平和になると思うんです。ゲーム系迷惑サイトとかも仮想通貨系迷惑サイトにジョブチェンジしてくれないかしら。

ここひと月くらいまた静かになりつつあるみたいなんですけど、出来ることならもっともーーーっと盛り上がって、界隈で絶好調にお祭りを繰り広げていて欲しいなーと考える次第です。仮想通貨がんばれ。もっとがんばれ。


あんまり関係ないけど、今の行政処分乱射の流れって本当に投資家保護の体制構築につながるんですかね?個人的な所感としては、ちゃんと業界団体とかできてある程度投資家保護のフローが出来るまで、3年くらいはかかりそうな気がしているんですが…


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 06:59 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

「チーズバーガー二つ買った方がダブルチーズバーガー買うより安いやん」とか言ってるヤツは何もわかってない

まず第一に、「チーズバーガー二つ」は「ダブルチーズバーガー」の代替にはならない。絶対に、ならない。味が違う。食感が違う。重量感が違う。何もかも違うのだ。

「ダブルチーズバーガーを食べる体験」と、「チーズバーガーを二つ食べる体験」は全く別のものだ。どちらが好きかというのは好みの問題だから、別に「チーズバーガー二つの方が好き」という人を否定はしないが、後者で前者の代替が出来ると思っている人は完全に何かを勘違いしている。

ダブルチーズバーガーは、口に含んだ時のあの充実感、パティとチーズが贅沢に絡み合うあの重量感が何よりのポイントなのだ。チーズバーガーを二つ食ったところで、あの充実感は再現出来ない。再現できるとしたらカロリー程度のものだ。

贅沢っていったって、たかが340円の贅沢やん、ってか?その通り、たかが340円の贅沢だ。340円が「たかが」なら、何故チーズバーガー二個との差額、80円程度を「たかが」と呼ばないのか?


「チーズバーガーをバラしてダブルチーズバーガーに組み替えればええやん」ってか?それも全然違う。

ダブルチーズバーガーに必要なものはバランスであって、具のバランス、ケチャップのバランス、パティのバランス、どれが失われてもダブルチーズバーガーにはならない。ダブルチーズバーガーは、最初からダブルチーズバーガーとして形成されなくてはいけない。つまり、そもそも味が再現出来ない。

仮に味が再現できたとして、「チーズバーガーを二つバラして、それを元通り組み合わせる」という面倒くさい作業に関するコストはどう評価するんだ?手を動かすコストだってれっきとした人件費だぞ。マックのテーブルでわざわざ手をケチャップまみれにしながらリビルド作業をするのか?

余ったバンズは食うのか?捨てるのか?捨てるなんて勿体ないことをしたくないし、バンズだけ食うなんていう余計な体験もしたくない。それは、「食事」という体験のバリューを純粋に下げる行為だ。折角の「食事」という体験に、余計な体験など混ぜ込みたくないのだ。


「ダブルチーズバーガーよりチーズバーガー二個の方が安いやん」と言っている人は、要は原価厨だ。構成物の金銭的コストだけを見ていて、それ以外のコスト、あるいはバリューというものを全く評価していないのだ。こういう人が往々にして、リンゴ2個あれば足りるところを、「まとめて買った方が一個当たりのコストが安いから」などといってリンゴ5個をまとめて買って、3個を腐らせたりする。

物事は、コストとバリューという二つの側面から考えなくてはいけない。単に「コストを安く」ということだけ考えていては、バリューがどんどん犠牲になっていく。それに何より、「コスト」というのは単に金銭コストだけでなく、作業コスト、時間コスト、精神的コストから移動コストまで、ありとあらゆるものがコストなのだ。


だから私はこういう。

コストが金額だけだと思うな、と。

コストだけでなくバリューを見ろ、と。

そのコストを削ることで、それ以上のバリューを削ってはいないか、と。


「ダブルチーズバーガーよりチーズバーガー二個の方が安いやん」というのは、典型的な「金銭コストしか見ておらず、他の種類のコストも、バリューも考慮していない」発言だ。少なくとも私はそう思う。


あと全然関係ないけど、ダブダブチ美味しかったよね。常設にして欲しい。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 18:17 | Comment(25) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

twitterのお気に入り数インフレ展開がひどい

単なる昔話です。

さてここに「さまざまなめりっと」があります。まなめさんとかいうコーラしか飲まない変わった人が、その日のトップfavツイートを収集していたサイトです。

ちょうど大体8年前の、2010年3月17日のトップfavツイートがこちらです。


トップfavが、error403さんのこのツイートで、まなめりっと掲載時のfav数が114favですね。error403さん、最近お元気でしょうか。

お分かりでしょうか。100fav越えたら普通にトップfavツイートが狙えたし、数十favでも平気でランクイン出来たんです。というか、当時の感覚では、数十favを越えたら既に「バズ」であって、無茶苦茶たくさんの人に見られたツイート、という感覚でした。せまーーい世界だったんです。

ちなみに、まなめりっとが昔はてなグループで運営していた頃に遡れば、もっと以前のトップfavツイートも参照することができます。例えばこれは2010年の9月のトップfavツイートですね。


この時は私も載ってるんですが、確か台風で電車が止まりまくった時で、皆台風ネタで盛り上がってた記憶があります。その時もたった67fav。今から考えれば本当に「たった」ですよ。

ふぁぼったーというのは面白いサービスで、皆からfavをもらったツイートが1時間に1回くらいの頻度で更新・掲載される、言ってみれば人気が出たツイートを可視化するサービスでした。当時、「ふぁぼったーに載りたいから面白いこと言う」という動機を持っていた人はたくさんいましたし、それがtwitter継続の大きなモチベーションになっていた人もいたんですよ。また、favが自動的に収集されて即晒されるので、ツイートパクリ問題もそこまでひどくはなかった、気がします。全くないってわけじゃなかったんですが。

で、こちらが直近の人気ツイートランキングです。


1位のお気に入り数が14万5000。万。万て。数十やせいぜい100ちょっとだったのがたった8年で14万て。お前な、ドラゴンボールだって、戦闘力12万のギニューが出てくるまで、作中世界で13年かけてるんやぞ。ドラゴンボールより戦闘力のインフレペースが速いって一体どれくらいインフレさせてるねん。

バズるツイートについても、昔よりはインパクトのある画像ネタやら、役立つライフハックネタが増えたような気はします。ただこれについては、別に頭をひねってなんか面白いこと言う人が減ったわけではなく、ユーザーのボリュームゾーンとそのボリュームゾーンが好むツイートの傾向が変わった、というだけの話なのでしょう。パクツイが流行った一時期、「どうせパクられるから」と、ネタを盛んに投下していた人も結構な数去ってしまいましたが、まあそれも今更の話ではあります。

まあこれ自体は別に悪い話ではなく、twitterが一般にも普及したこと、twitterの利用人数が単純に増えたこと、それによってretweetを介した拡散力が広範になったことを示していると思います。良いことなんです。


ただ、twitter老害としては、多少昔が懐かしいなーと思うこともあります。

「お気に入り」ではなく、「fav」だったあの頃。

うさ山さんとかダ・ヴィンチ恐山さんとかerror403さんとかが、大体ふぁぼったーの上位陣を占めていた、あの頃。常連は決まっていても、ほんのちょっとのバズでいきなりその日の上位ツイートに掲載されることもあった、あの頃。

ほんの5favのツイートでも、「赤ふぁぼ」と呼ばれて喜ばれていたあの頃。3favですら紫に色分けされて、なんとなく敢闘賞のような雰囲気を出していたあの頃。

公式の機能としてRTがサポートされていなくって、引用したツイートがそのまま流されて自分にリプライが飛びまくってぶちキレそうになっていたあの頃。RTが「公式RT」と「非公式RT」などというよく分からない分類をされて、何故かしつこく「非公式RT」を使い続ける人も絶えなかった、あの頃。


「あの頃に戻りたい」などとセンチメンタルなことをいうにはちょっと血なまぐさすぎる思い出ではあるのですが、まるで小さな大喜利小屋のようなあの頃の独特な空気というものを、誰かがどこかに書き残しておいてもいい。

そんな風に思って、こんな昔話を書いたわけです。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 07:31 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

自分が好きなものを嫌っている人がいたら、その100倍「俺はこれが好きだ!!!」と叫ぶのが良いと思った

私自身のスタンスを先にまとめておくと、

・私が好きなものを嫌うことは勿論あなたの自由です
・ですから、私と関係ないところで、私が好きなものについて「嫌い」と言われていたとしても、別にわざわざ反論しに行ったり説教しに行ったりはしません
・ただし直接私に言われたら私に対する意見とみなして反論はするよ
・ただ「嫌い」というだけなら何の問題もないけど、何か誤った根拠で批判しているのを見かけたら、「それは間違ってるよ」とは指摘するかも知れないです
・私が好きなものに対して「嫌い」という意見を観測したら、「私はこういう理由で好き」というのをすげー主張するかも知れないです

というくらいの感じです。よろしくお願いします。

以前こんなこと書いたんです。


残念ながら、世の中には「自分が嫌いなものを、他人がほめていることが許せない」という人たちが結構いるようで。

ただたんに「このゲームが面白い!」と言っているだけの記事に、なんでこんな言葉を吹き付ける人がいるんだろうなあ、と。大変に面倒くさい人たちだなあ、と。他人の「面白い!」を、一体どういう根拠で否定しようとしているんでしょうか、と。


上の記事で書いた意見は特に変わっていません。今でも、他人の「これ好き!!」を探し出してわざわざ水をぶっかけに行く人は、40時間くらいひどい腹痛にでも悩まされて欲しいと思っています。

今も変わらず、「だれかがそれを嫌っているかも知れない」ってことは全くくみ取らず、自分の好きなものについては「これ超好き!!!!」と主張していこうという所存ですし、そうし続けているところではあります。最近だと特にイース8とアオアシをベタ褒めしています。

ただ、それとは反対ベクトルの話もちょっとありまして。

「自分が好きなものを嫌いと言っている人が許せない人」というのもいるよね、それは「自分が嫌いなものを好きと言っている人が許せない人」を裏返しにしただけで、やってることは変わらないよね、ということを、先日話してたんです。

別に、批判に対して反論してはいけない、わざわざ反論すべきではない、という話じゃないんですよ。投げかけられた批判には反論していいですし、もし誤った論拠があれば誤っていると指摘していい。売られた喧嘩なら値段に応じて買うべきです。

ただ、世の中には、ただ自立的に「〇〇が嫌い」と言っているだけの人に対して、「俺は〇〇が好きなんだ!!〇〇が嫌いだなんて許せない!!」という感じで、ただ「自分が好き」というだけの理由で、その「嫌っている人」をぶん殴りにいく人が結構観測出来るなあと思っていまして、それはちょっと違うんじゃねえかなあ、と思うんです。


当たり前のことですが、「好き」「嫌い」というのはその人の自由です。それを止める権利、それを「間違っている」という権利は誰にもない。何かを好きになる、何かを嫌いになることを阻害する権利は誰にもない。

なので当然、「〇〇は嫌いだ」ということを表明するのも自由なんですよ。

だから、「嫌い」と言っているだけの人に対してわざわざ文句をつけにいくのは、「好き」と言っているだけの人にわざわざ文句をつけるのと同じように理不尽な話だよなあ、と思ったんです。


誰かが「〇〇が嫌い」と言っている人を見かけたとして、その〇〇が好きな人がやるべきことは、「〇〇が嫌いだなんて許せない!」と憤って殴りつけにいくことではなくて、「自分は何故/いかに〇〇が好きなのか」をその100倍くらい表明しまくることではないかなあ、と。それによって、「嫌い」に共感する以上に「好き」に共感する人を捕獲することができれば、それで大勝利と言っていいんじゃないかなあと。

少なくとも私にとってはそっちの方が性に合っていますし、例えばメタルマックス2Rが嫌いだと言っている人や、ダライアス外伝が嫌いだと言っている人を見かけたら、それぞれの作品がいかに素晴らしいかというツイートを30連投くらいしようかなーと考える次第なわけです。よろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。

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posted by しんざき at 07:33 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

「ニセ科学批判は危険」と言っている人が勘違いしていること

こんな記事を拝読しました。


全体としてみれば言いたいことは色々あるのですが、一点指摘するとすれば、
なぜこれが「危険」かというと、そうした「批判」こそが「カルト化」を助長することになるからです。

ホメオパシーの効果を信じている人が、「科学的に言ってホメオパシーには効果はない」とネット上で言われたからといって、果たして納得するでしょうか?

むしろ、「現代科学を信奉する人間にはホメオパシーの価値は分からない」と考え、「現代科学忌避」の傾向を強めるだけではないでしょうか?
この点については、「ニセ科学批判批判」の人が割と頻繁に利用する傾向がある論法であるように見受けられます。

この論法が一点勘違いしている、というかもしかすると意図的に見落としているかも知れないことは、


・ニセ科学批判は、カルトになるような熱心な信奉者に向けたものではなく、それ以外の大多数の「保留者」ないし「存在や問題点を知らない人」に向けたものである


ということです。

確かに、例えば現状既にホメオパシーを熱心に信奉している人であれば、Web上でのホメオパシーに対する反論を見たとして、それが信奉を捨てるきっかけになるかどうかというのは怪しいところです。場合によっては、よりカルト化を強める、ということもあるかも知れません。

ホメオパシー自体は、もはや「効果が証明されていない」のではなく「プラセボ以上の効果がないことが科学的に証明されている」段階であって、欧州科学アカデミー諮問委員会(EASAC)の声明やら、日本医学会の会長談話とその支持やら、その他色んなエビデンス付きの検証が出ています。

代表的な検証を一つリンクします。


ただ、それらを受けても「既存医療サイドの陰謀」的な決めつけを行う人はいますし、そういう人たちにはもはやロジカルな説得は届かないのでしょう。それは確かです。

ただし、世の中には大多数の

・ホメオパシー自体を知らない
・ホメオパシーを勧められたが、まだ信じ切れていない、迷っている
・なんとなく怪しいと思っているが、言い切る根拠がない

人たちがいるのであって、そういう人たちに対しては「プラセボ以上の効果はないんだよ」ときちんと情報を提示してあげることが必要ですし、重要です。ぐぐった時に「あ、ホメオパシーって別に謳っているような効果はないんだ」という材料を見つけられることが重要ですし、それが重要であることが分かっているからこそ、信奉者の人たちが熱心にそうした批判記事を攻撃するわけです。

仮にそうした「ニセ科学批判」が行われなくなったとして、カルト化は止まるのか?というと全然そういうことはなく、単に粛々と信奉者の人たちが一見科学の体裁をとった記事をwebにアップし続けて、今まで判断を保留していた人たちを信奉者側に引っ張り込むだけの話です。

だから、「ニセ科学批判」は「危険」でもなんでもなく、「極めて重要」なのです。信奉者を説得する為ではなく、保留している人達、存在自体を知らない人たちを引き留める為に、重要なのです。



それともう一点、これも信奉者側の人が使う論点として代表的なものなので指摘しておきますが、

以上、見たように、プラシーボ効果しかない療法であっても、

現に「役に立つ」と思っている人がいる以上、それは「確かに役に立っている」
のですから、それだけで、十分に社会的な意義があると言えます。

ホメオパシーは、プラセボ効果しかないから批判されている訳ではありません。医療ネグレクトを煽り、重大な事故につながっているから批判されているのです。ホメオパシーを担いでいる人達が、「これにはプラセボ効果しかないから、通常医療をまず受けて、それと併用する形で使ってね」と公言しているなら誰も批判しません。

冒頭記事でもまさに触れられている、山口市の死亡事故なんてその代表的なものですが、


ホメオパシーが医療ネグレクトを起こしている事例は、Webをちょっと検索しただけでも色々観測出来ます。オーストラリアでは、死亡事故に伴ってホメオパスの両親に有罪判決が出たこともありました。



また、そもそもプラセボ効果自体、非常に議論が分かれるものであって、現状でも比較対照試験以外に用いられることは稀ですし、対照試験における利用についてすら倫理的に認められないのではないかとする議論もあります。



早い話、「プラセボ効果はあるかも知れないんだからOK」というのは全然妥当ではないのです。その点についてはご認識頂いた方がいいのではないかと思いました。


まあ、冒頭記事については、見た感じもっと適切な批判コメントもあるところ、反論しやすいコメントに対してしか反論していないように見受けられますので、この記事が届くかどうかもちょっと分かりませんが、一応意見を呈しておきます。


今日書きたいことはそれくらいです。







posted by しんざき at 08:12 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

ことあるごとに「ひどい話でしょう!さあ、怒って!!」と言われる世界を見ているような気がする

なんていうのかな。いや、全然大した話じゃない、単なる雑感なんですが。


多分、元来人間には、「憤りたい」「怒りたい」あるいは「怒ると気持ち良い」「激しく感情を揺さぶられると気持ち良い」という側面があるのだろう、と思います。「怒りたい」という欲求。

例えば、なんか倫理的にひどい話を観測して、それに対して舌鋒鋭くばっさり批判するとすかっとする、というのはよくわかるんです。嘘つきを発見して、その嘘つきを徹底的に責めると気持ちいいってのもまあ分かるんです。

特に、相手が無条件に倫理的否定の対象になる場合、言ってみれば「正しさ」という大義名分に基づいて怒れる訳で、それがまた怒りんぼ欲求を惹起するんですね。未だ、やれ怒れーーみたいな。

それ自体は今更の話ですし、別にそれが悪いってわけでもないんです。自分はそうじゃない、それに該当しない、なんていうつもりもありません。例えば、迷宮組曲でタイトル画面の連射機能しか記憶に残っていない人がいたとしたら、そりゃ私だって怒ります。


ただ、

「これちょっと、「読者に怒って欲しい」という書き手側の狙いが見え見え過ぎませんかね…?」
「いやそれ、そんなに怒るとちょっと注文通り過ぎませんかね…?」

みたいに感じることが結構多いんですよ。昔からそういうのはあったんですけど、肌感としては、最近とみに増えました。


たとえば、なんでしょ。気分的にあんまり具体的なリンクを貼りたくないんですが、相撲関係のああいうのとか。

あるいは、子どもの歌に関するそういうのとか。

学校の制服に関するアレなのとか。


いや、なにせ多くの人が怒っている点についてはそりゃ相応の理由がありまして、それ自体はもっともだと思うんです。そらまあそうですよね、という。正論だと思うんです。

そういった正論から、色んな状況が改善されることも当然あるわけで、別にそれが無意味だとは全然思わないんです。

ただ、あまりに話のもっていき方があからさまというかなんというか、「これひどいでしょ。理不尽でしょ。さあ怒れ」って言われているような気になることが多くって、なんつーか、まるでコーンを口に詰め込まれているガチョウみたいな気分になることがあるんですよね。


たとえば、議論としてはもうちょっと落ち着いた論建てにも出来そうなところ、「悪いヤツの悪い点」がこれでもかと明確に描かれていると、「ああ、これ「怒れ」っていうポイントなんだなー」と感じてしまうことが多いです。今に始まった話でもないんですけどね。

ひどい話があって、それに怒る人がいるのは、自然なことなんで仕方ないと思うんです。

ただ、ちょっとまずいことに、「怒りを誘える話」って受けるんですよね。バズりやすい。話題になりやすい。つまり収益になっちゃう、「怒らせる」ということに対してインセンティブが出来ちゃうんです。

で、あまりにも「さあ怒れ!」的な話がバズりまくっていると、本来そこまで怒るような話でなくても、無理やり「怒らせられる」話に仕立てようとする人が出てくるんですよね。私、そういうのはあんまり好きじゃないんです。

それが行き過ぎると、本来いなかった「分かりやすい悪役」を設定して、それに無理やり怒らせようとする人まで出てくると思うんですよ。

以前、下のような記事を書きました。

前者の理由については、皆様経験則としてご存知なのではないかと思う。分かりやすい悪役を見て、正義感を煽られてしまう人は非常に多い。彼らは、瞬間湯沸かし器の様に頭を沸騰させた上で、ソースの確認なく情報をがんがん広めてしまう。

それがデマなのかどうかは関係なく、「ソースの確認なく情報を広める」という行為は本来とても危険なのだが、ガードが下がった人はそんなことは気にしない。あたかもあしたのジョーのごときノーガード戦法である。カウンター狙いの戦術であるならまだしも、一般的には彼らのことを「猪突猛進」と呼ぶ。

これ、なんでこういうことが起きるのかっていうと、やっぱり「怒りを煽れば煽る程バズりやすいし受けるから」だと思うんですよね。「読者に怒ってもらう」ことによって得られる利益が凄く大きい。

そこから考えると、素直に怒りを誘われるのもちょっと考えものだなーと。「憤るにしても、もう少し冷静に話しませんかね…?」って思っちゃうんですよね。「優しい気持ちで話し合いましょう」っていうやつ。


トムとジェリーってあるじゃないですか。あれの歌詞で、「トムとジェリー 仲良く喧嘩しな」ってフレーズがあって、私アレ物凄い名言だと思ってるんですけど。

喧嘩するにしても、どっかで余裕を残しておくというか。「思わず憤りたくなるようなひどい話」を提示されても、ちょっと冷静に構えていた方が、多分いざ「そこにはいない分かりやすい悪役」を提示された時、「ん?これちょっとおかしいぞ?」と思えるし、結果的にお話を提示する側も「あ、これはちゃんと議論を作らないとな」となって、色々平和だと思うんですよ。


怒ることが気持ちいいにしても、ちょっと一呼吸、余裕をもって怒りませんか、と。


それだけの雑感でした。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:31 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月31日

インターネットでは言いたいことが言えるけど、殴ったら殴り返される

この増田を読みました。


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先日、どこかの掲示板にプロ野球選手の嫁をブスだと書きこんだOLが名誉毀損で訴えられてニュースになった

これはもうインターネットに気軽に書き込むことが許されなくなるってことだろうなと思った
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また、ネットは道徳に縛られない考えを書き込むことで発想に広がりが出る場所だとも思っていた

ディベート的な議論において道徳ってほんと邪魔なんだけど、現実の日本だとそれは難しい

ネットならそれが出来たけど、もう無理だろうな

インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラルの押し付けと言葉狩りが強化された

増田と言えどもどこから訴えられるかわかったものではない

僕らはすべての発言に責任を持たなければいけなくなったし、道徳に目配せして書き込まなければいけない

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で、ちょっと問題を切り分けたい欲求が働きました。切り分けちゃうぞおじさんです。

まずこの増田は、もしかしたら意図的にかも知れないんですが、二つの問題を混同して語っているような気がするんですよ。

・「ブス」といった罵倒が名誉棄損として訴えられるようになったこと
・webにおける言論が道徳的なものに縛られるようになってきたこと

それぞれの項目が事実として妥当なのかどうかはともかくとして、仮に妥当だったとしても、この二つの事項は全然別の話です。

まず一つ目については、これはごく単純な話で、「誰かを殴ったら殴り返される可能性があるよね」というだけのことです。これに道徳とか関係ありません。

私、件のプロ野球選手の話は観測してませんでしたけど、誰かに「ブス」と言ってそれが訴えられたとしたら、それはその発言が非道徳的だったからではなく、その発言が特定の誰かをぶん殴る発言だったからです。幾ら非道徳的であったとしても、ターゲットを取らないのであればそれが名誉棄損になることはありません。

そういう意味では、

・SNS等によって、誰かを殴る発言が可視化されやすくなったこと
・名誉棄損などの裁判についての情報が広まって、心理的に訴えやすくなったこと

という二点による影響はもしかしたらあるかも知れず(全然検証してませんが)、その点で「名誉棄損などで訴えられやすくなった」ということは妥当なのかも知れないですが、それは根本的にはインターネットによる影響ではありません。単に「殴っているのが見つかりやすくなった」というだけの話です。インターネット以前の世界であっても、罵詈雑言が履歴に残って可視化されれば訴えられていたでしょう。

私自身は、人を殴っておいて、殴った側が「殴っただけなのに殴り返されるなんて!」と騒いでいる世界はあまり愉快だと思えないので、この風潮は別に悪いことじゃないんじゃないかなーと思っています。殴るんなら殴り返される覚悟はしとけよ、って話です。


で、それとは別の問題として。もう一個の話についてですが、

罵倒させろという意味ではありません。ディベートの態度ではなく、論理の展開に道徳によるブレーキが必要ないという話です

  人前でディベートをするとなると、道徳的に疑われるような仮説を引っ込めなければなければなりません

  ディベートだからと言っても現実ではある程度のコードがあるわけです

これとか、これ以降に続く議論の例についての話なんですけど、そういう「非道徳的な発言」ってしにくくなってますかね?

誰かを直接的に殴っていない限りにおいて、単に非道徳的な発言をしただけで訴えられているケースって、少なくとも私は知らないです。あの人もその人も、めっちゃひどい発言たくさんしてるけれど、少なくともそれだけで訴えられてはいないですよね?

勿論、非道徳的な発言をすることで発言が炎上したり、あるいは(私が今書いているこの記事のように)発言に対する突っ込みが飛んでくるケースってのは勿論ありますし、それはもしかすると昔より増えているのかも知れないですが、

インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラルの押し付けと言葉狩りが強化された

増田と言えどもどこから訴えられるかわかったものではない

増田が気にしているのは「訴えられること」なんですよね?であれば、別に愚痴やら非道徳的な発言やらであっても、具体的な対象をぶん殴っていない発言であれば、書き込むだけなら誰からも訴えられることはないと思うんですが…。「こいつは殺人を肯定している!名誉棄損だ!!」とか言って訴えられてるケースって、どこかで見たことあります?

 その他の発言についても締め付けが厳しくなり、客観性のない発言や、客観的でも誰かを傷つけると判断されれば

  名誉毀損で訴えられる可能性が強くなったという趣旨です
増田は追記でこうも書いていますが、これもちょっとあんまり妥当だと思えません。要は、客観的な発言であっても、「その発言によって俺は傷ついた!」と言い出す人がいるかも知れない、それによって訴えられるかも知れない、という話ですよね?

この話のトリガー自体が、「具体的な人物に対する「ブス」という発言が訴えられたこと」であって、そこから「具体的な対象をとらない雑な発言が訴えられること」の間には相当な距離があります。少なくとも、増田が心配しているような、「非道徳的な発言が出来なくなる」という問題と、この話が即結びつくことはないんじゃないかと。



勿論、いわゆる「炎上」というものは、受けてしまった側にとっては大変なストレスですし、そういうストレスを受けてしまう機会が増えることによって発言しにくくなってしまう、というケースはもしかするとあるのかも知れません。それは否定しません。

先日でも、童貞いじりがどうとかで大炎上してた人が色々騒いでましたよね。あれは、発言した人にとってみれば「この程度の発言で炎上するなんて」という意識だったのかも知れません。

ただ、
  しかし非道徳的な言論が許されれば以下のような議論もできます

  A 「絶対にバレないLINEグループ等なら自由に言っても良い」

  B 「それはバレなければ赤信号を渡ってもいいという理屈ではないか」

  A 「その通りだ。事故が起きるか起きないかが問題なのだ。来もしない車を待つことに何の意味がある」

  B 「ルールというものは、個別に存在するのではない。共同体の価値観に敬意を持てるかどうかが大事なので、小さな例外も認めるべきではない」

この例が適切かどうかはともかくとして、こういう「非道徳的だけど冷静」な議論自体は別に全然しにくくなっていないんじゃないかなあ、と感じてはいます。ちゃんと議論立てが出来ていさえすれば、それが無秩序に炎上することってむしろ殆どないような気がするんですよ。


強いていうと、「脇が甘い、雑な発言は炎上しやすくなった」という辺りが、現状の論評としては一番妥当なのかも知れず、そういう意味で「雑な発言をネットに書き込みにくくなった」と嘆くのであれば話は分かります。実際、そういう側面はあるような気がしますし、どんな発言がどういう経緯で炎上するか予測しにくい部分もあって、もう少し炎上に至るまでのマージンというか、余裕みたいなものはあってもいいんじゃないかなーと感じます。

ただ、それ自体は多分「ブス」発言が訴えられることとは全然別次元、別トリガーの問題なので、別建てで考えた方が良いような気がしてなりません。



まあ、犯罪自慢とか殺人予告とかそういうアレならともかくとして、単に脇が甘い発言をして炎上するだけなら別に死ぬ訳でも無し、webにおける立場が悪くなることすらそれ程ないので、増田にせよ私にせよ、深く気に病むことなくバンバン脇が甘い発言をして、適度にこんがり焼けてればいいんじゃねえの、と思った次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 08:07 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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