2018年08月14日

何故かコンテンツを終わらせたがる人たち

こんな記事を読みました。



今更風来のシレン初めて触ってすげー楽しかったんだけど、バイト先でちらっと話したらオワコン扱いされて辛い……


風来のシレン楽しいですよね。私はシレン4中毒、というかシレン4の浜辺の魔洞中毒なので、どちらかというとシレン4をやることの方が多いんですが、SFCのシレンもまだたまにやります。掛軸裏の洞窟99Fがあまりにも無理ゲー過ぎる。ただでさえ無理ゲーなのに、あれを肉なしでやる人がいるとか本当に理解の範囲外というか、人間の可能性の奥深さを感じる他ありません。

それはそうと。

私、そもそもレトロゲーマーなんで、元来この「オワコン」って言葉あんまり理解出来ないんですが、なんか妙に「〇〇はオワコン」って言いたがる人、一時期よりは減ったけどまだたまに観測出来ませんか?

個人的には、

コンテンツが終わったかどうかをなんでお前に判定されないといけないんだバーーーーーカ

と思ってやまないんですよ。お前は何か?コンテンツ終了判定委員会の委員長か何かか?オワコン村の村人か?

元より、自分が愛好し続ける限り、コンテンツに「終わり」はありません。ゲームを遊び続ければ何かを見つけることが出来るし、そこから何かを広げることが出来る。サービスが終わったオンラインゲームか何かであればまだしも、たとえ今この瞬間誰一人遊んでいないゲームであっても、だれかに再発見されて遊ばれる可能性は決してゼロにはならない訳です。

私多分ファミコン版のイーアルカンフー一生遊ぶと思いますけど、未だに「あ、こいつこういう条件でこう動くようになってるんだ」って気づくことがあって凄いですよアレ。シレンなんてむしろまだ全然ホットコンテンツな方なんじゃないでしょうか。暗黒十字架落としの派生形未だに開発されてるし。

私はゲーム好きなんでゲームをベースにして話してますけれど、別に漫画だろうがアニメだろうが小説だろうが、他のコンテンツだろうが多分事情は異ならないと思うんですよ。


元来、コンテンツを消費するというのは、基本的には「一人の体験」だと思うんです。皆で同じコンテンツを楽しむ、同じコンテンツについて語り合うというのは勿論楽しいですが、それは「コンテンツとの一対一の対面」があってこそ成立する楽しさだと思うんですよ。だから、コンテンツに対する自分の評価というのは自分だけのものであって、人がどういっていようが本来顧みる必要はないわけです。

うるせえこのコンテンツが楽しいかどうかは俺が決めるよお前は口出すんじゃねえ

って話ですよね。

だから、自分が愛好しているコンテンツに対する「オワコン」などという言葉自体、そもそも意識に載せなくていいですよといいたいところなんですが、まあ「オワコン」という心無い言葉が自分の愛好するコンテンツに投げつけられた時、悲しくなってしまうのは分からなくもないです。

観測する限り、「オワコン」という言葉を使いたがる人たちは、

・単に自分が飽きただけ
・単に自分が楽しめなかっただけ
・自分があんまり知らないだけ

のコンテンツに対し、何故か「not for me」ではなく「オワコン」という言葉を投げつけたがるだけの人たちである割合が極めて高いので、
頭の中で「オワコン大明神」というラベルでも貼って以下は放置することを強くお勧めする次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:16 | Comment(15) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月13日

「家族サービス」が「頑張ったね」と言われることに対する違和感


いや、別に大した話じゃないんですが。

町内会の知人にちょっと年配の女性がいまして、その人に「昨日は子どもたちと〇〇に遊びに行きましてー」みたいな話をしたんですよ。
そしたら、「あらー、家族サービス大変だったわねー」みたいな言葉が返ってきたんです。「お父さん頑張ってるわねー」と。

いや、その人は100%好意で言ってくれているのは分かっているので、全然問題はないっていうか、ありがたいことではあるんですが。

ただ、「社会にとっては、「家族と遊ぶ」というのはそこまで「大変」なことなんだろうか?」「子どもを遊びに連れていく、というのはそこまで「親の犠牲」を強いるものなんだろうか?」と、ちょっと考えてしまうんですよ。

なんか、

・子どもと接する、子どもと遊ぶのは「大変」であり、どちらかというと大人にとって「辛い」こと、進んでやりたくないこと
・なんなら、「子どもを楽しませる」ことと「親の犠牲」はワンセット
・そこを敢えて頑張って遊んであげるのがいい親

という様なイメージが、かなり一般的に、広範にあるような気がします。いやまあ確かに、単純に体力的には、子どもについていくの結構大変って時もありますけどね。

ただ、「子どもと遊ぶことで、親も一緒に楽しむ」「子どもを楽しませることで親が犠牲にならない」というのが本来はあるべき姿だし、そうなってないならなんでそうなってないのかを考えて、ギャップを埋める方がどちらかというと建設的なんじゃないかと、少なくとも私は思うんですよ。一方が一方の為に犠牲になり続ける関係って、人間関係としていびつじゃないですか?


そういう意味では、そもそも「家族サービス」という言葉のニュアンスがちょっと微妙なのかも知れません。goo辞書でも、

「俗に、家族のために尽くすこと。」

とか書いてありますもんね。あ、「尽くす」ことなんだ、と。まあこれは、日本における「サービス」っていう言葉のニュアンスからちょっと歪んでるのかも知れませんが。

実際のところ、「子どもと遊ぶ」「子どもを遊びにつれていく」っていうの、楽しくないものですかね?

勿論、これは家庭それぞれ、親それぞれの話ではあって、例えばしんざきは精神年齢が小学生とそれ程異ならない為、子ども向けの遊びもかなりキャッキャ言いながら楽しめるので、子どもとの遊びを楽しむのが容易、という事情はあるのかも知れません。正直ディズニーランドめっちゃ楽しかった。

ただ、そうでないならそうでない場合でも、なんなら親と子どもで歩み寄って、親も子どももどっちも楽しめる遊び、楽しみを模索することも出来るんじゃないかなあ?あるいは、親も子どもも両方楽しめる施設とか、楽しみ方とか、そういうものがもっといろいろと提案されてもいいんじゃないかなあ?と思ったんですよ。

例えば、どっかに遊びに行くにしても、スポッチャみたいな複数の遊びが並列で楽しめるような施設が一般的であれば、子どもが遊んでいる間に親も並行して遊ぶ、みたいなことが出来るかも知れません。

親の趣味がゴルフであったら、子どもと一緒にゴルフが遊べる、みたいなことが出来ないかなー、とか。親の趣味がアナログゲームであれば、親子参加可能なアナログゲーム会がもっと一般的にならないかなー、とか。アスレチックにしても、大人用のアスレチックと子ども用のアスレチックの併設とか。

勿論、子どもの年齢によって限界もあるんでしょうけどね。

いってみれば、「家族サービス」ではなく「家族エンタメ」みたいな在り方がもっと一般的になれば、子育てというのももっと楽し気なものとして社会に認識されるのではないかと。

私は、自分自身は「育児はエンターティメント」だと思っていますし、出来ることならすべての親がそう思えるようになればいいなあと思ってはおります。

そういう点で、「親が育児の為に犠牲になって当然」というようなイメージが、どんな方向性であれ、ちょっとずつ変わっていくともっとみんなが幸せになれるんじゃないか、と。

そんな風に考えた次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 12:15 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月12日

「本来あるべき姿」について語っただけで「現実を知らない」と罵倒する人たち

いや、「理想と現実」でも「to be とas is」でも「目標と現状」でも、なんでもいいんですが。

課題を解決する為のごく基本的な手法として、ギャップ分析ってありますよね。「本来こうあるべきだよね」という理想の状態と、現時点の状態を比較して、その差異を課題として分析する手法。多分、どんな会社、どんな組織でも一般的に行うことだと思うんですが。

ギャップ分析を行う為には、当然のことながら手順がありまして、ざっくり言うと

1.To be(あるべき姿)を想定する
2.To be に対するAs is(現状)を把握する
3.To be とAs isの間の差分をギャップとして分析する
4.解決しなくてはいけないギャップの優先順を検討する
5.ギャップを埋める為の方策を検討する

という感じで、まあ1と2の順番は順不同というのが割と一般的なやり方だと思うんですが。

人間、絶対評価よりも相対評価の方が得意なものでして、単に今ある課題を挙げて解決策を考えるだけだと結構難しいんです。「ゴールはここ」「スタートはここ」「じゃあゴールにたどり着く為にはどうすりゃいいの」という順番で考えた方が、誰にとっても分かりやすい。だからギャップ分析は重要なわけです。

とはいえ、ギャップ分析を実際に進める際には、別に上の1から5を全部ワンセットでやらなくてはいけないというわけでもなくって、細切れに進めても、どれかを部分的に先取りしても別に構わないわけです。「取り敢えず今日はto beについての合意だけ取りましょう」とか、やります。全然やります。

「ある組織にとってのゴールがどこか」「あるチームのto beは何か」なんて、ちょっと考えて簡単に答えが出るものでもなくって、人それぞれ意識は違うし価値観も違うわけで、最初からピッタリ合う方がおかしいわけです。「誰が見てもto beは明確だろ」と思っていても、実はそう思っていたのはその人一人だけで、他の人は全然違うto beを思い浮かべていたりする。ゴールがあちこちに分散しているとゴール目指して走るのも結構大変なので、「To beについて議論する」というのはそれ単体でも重要な話です。

多分、ここまでの話はごく常識的なことだと思うんですよね。


ところで、最近特に医療の話をみていて感じたんですが、「本来こうあるべきだよね」という話をしている時に、何故か「現実を知らない意見」とか「現実を見ろ」という罵倒を投げたがる人がすごい多いような気がするんです。なんなんでしょうアレ。

言ってみれば、「取り敢えずto beを明確にしましょう」という話をしている時に、「お前らAs isをなんにも知らねーな!!As isの話しろよ!!」と叫んでるような人。いや、そりゃAs isの話も必要だし、As isとTo be両方そろってないとギャップ分析が出来ないのは確かですが、別にそれでTo beの話しちゃいけないってわけじゃないでしょうという。

止めなければいけないのは、「実際に施策を考える時にAs isを無視すること」であって、「To beについて議論すること」ではありません。本来こうあるべきだよね、という話をして、それについてのコンセンサスを模索するのは、それはそれでとても重要です。なのに、なんだか「To beについて話す」だけで親の仇のようにAs isを投げつけたがる人が、割と頻繁に観測出来るような気がしているんですよ。

To beの話をする人が、実際にAs isを知らないわけではありません。いや、中にはそりゃAs isを知らない人もいるのかも知れませんが、As isを明確に認識した上で、それはそれとしてTo beの話をする人もいるわけです。それに対して、一時的な上から目線を確保する為に、十把一絡げで「現実を知らない」とかいう言葉を投げつけるのは、私にはどうも妥当なことだとは思えません。

・「To beを考える」ことと「As isを把握する」ことは全然別の話であって、
・それぞれを個別に議論することはよくある話であって、
・前者の文言を見かけたからといって、脊髄反射で後者の議論をふっかける人はちょっと落ち着いた方がいい

簡単にまとめると私はそんな風に考えるんですが、皆さんいかがでしょうか。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 12:36 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月31日

「初デートでサイゼリヤはアリかナシか」という話で根本的に理解出来なかった点


これ、周囲の反応を見ている限り、どっちかというと私がずれてる側だという可能性が否定できないんですが。

ちょっと根本的に理解出来なかった点として、デート後に食事しに行く店って、「男性が決めて一方的に提案する」というやり方が一般的なんですかね…?皆さんそうやってるものなんでしょうか?

いや、「デートに行ったら食事の店が〇〇でがっかり」というのは割と古来からあるテンプレ展開でして、議論になることも多いネタだとは認識しているんですが。

これそもそも、がっかりする為には

・男女どちらか(多分主に男性)が店を事前に決定している、ないし当日になって提案する
・その情報がもう一方に開示されていない
・その店についての合意がとられていない

という三つの条件が必要だと思うんですよ。

これ、私の認識というか、私が一般的だと思っていたやり方とは割と食い違ってまして、

「え、食事しに行く店なんて男女双方で合意とってから行くもんじゃないの?」「相談なしで決めておかないといけないもんなの?」
と私は思ったんです。

いやだって、食べたいもの、行きたい店なんて人それぞれじゃないですか。もしかすると、相手の女性には以前から行きたかった店があるかもしれないし、特別好きな食べもの、嫌いな食べ物があるかも知れない。なんならアレルギーだってあるかもしれない。

で、行きたい店がある、食べたいものがあるっていうのは自分も同じですよね。個別にそれぞれの欲求がある。

まずヒアリングしてすり合わせしないのん?という。ヒアリングも相談もなしで相手を満足させないといけないなんて、どんだけ難易度高いんだよって思ったんです。

私の場合で言うと、例えば奥様とお付き合いする前後の話であれば、

・何が食べたいか、行きたい店があるかを事前にヒアリングする
・自分の希望も提示してすり合わせする
・第一候補の店を決めて合意する
・混んでいそうなら事前に第二、第三候補も決めておく

というような感じでやっていました。この時、例えば二人で「サイゼリヤ美味いよね」「サイゼリヤ行こう」ということだったらサイゼリヤいってたと思うんですよ。それでなんで「がっかり」という話になるのん、と。

これ、少なくとも私に関する限りでは、あんまり関係性の発展具合に関係ないと思うんですよね。どんな関係性だろうと、それくらいのことは事前に話すし、それくらいのことはすり合わせるでしょうっていう。

例えば初めて出かける相手だったとして、「明日何食べたいです?」「食べられないものあります?」ってことくらい事前に話さないのかなあ、と。むしろ、そういうすり合わせが出来ない相手とそれ以上関係を発展させるのって不安なんですが。

ただ、二点だけ、ちょっとずれ具合に心当たりがある点がありまして。

まず一点、私が一番長く一緒に過ごしているのは当然奥様なんですが、奥様割と「食べたいもの」の方向性が明確な人でして、希望を聞けば結構すぐ希望が出てくる人なんですよね。なんなら提案が出てくることもあるので、すり合わせの際あまり苦労することがなかった、というのが一つ。

もう一点として、私「サプライズ」って非常に苦手だし、奥様もあんまりサプライズって好きじゃないんですよ。当日いきなり店を知ってびっくり、というスリルはあんまり求めていなくって、むしろ事前に「あの店おいしそうだなー早くいきたいなー食べたいなー」と想像を膨らませておく方が好き。これは食事だけじゃなくて、誕生日とか、記念日でもそうなんですが。

なので、いわゆる「サプライズ」を好む文化であれば、「当日まで店は秘密にしておいて、当日いきなり提案してびっくりさせる」という趣向が成立するものなのかなー、とは思ったんです。いやまあ、私からするとすげー難易度高いなーと思いはしますが、そういう楽しみ方があるなら不思議だとは思わない。

まあ、このずれ具合が何に由来しているのかは、私も正直よくわからないです。別にどっちがいい、悪い、という話でもないんですが、ちょっと違和感を感じたので書いてみました。

個人的には、サプライズに極めて脆弱な生き物なので、出来れば事前すり合わせは済ませてからご飯を食べにいきたいなあ、と考える次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 16:45 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

「ワイルドカード」シリーズの邦訳再開されないかなあ

皆さん、「ワイルドカード」シリーズっていうSF小説、ご存知ですか?




「ワイルドカード」。G.R.R.マーティンを中心として、複数のSF作家が「同じ世界観を共有したSFを書く」というコンセプトで好き勝手書いている、中編〜長編SF小説です。1987年から現在まで続いています。

私はワイルドカードシリーズ凄い好きなんですが、何故か日本だと「大いなる序章」「宇宙生命襲来」「審判の日」の3集しか邦訳されてないんですよ。なんでかなーー。あんまり売れなかったのかなあ?すげえ面白いと思うんですが。

ワイルドカードシリーズは、すごくざっくり言っちゃうと「マーヴル世界観みたいな、特殊能力を持ったたくさんのヒーローが活躍するSF小説」です。

第二次世界大戦の終戦後、地球に対するタキス人の陰謀により、マンハッタン上空に「ワイルドカード・ウィルス」がばら撒かれる。そのウィルスに感染したものの90%は死亡し、生き残ったものの90%は醜く変形してしまい、僅かなものだけは特殊な超能力を発現させる。醜く変形してしまったものは「ジョーカー」と、特殊な能力を身に着けたものは「エース」と呼ばれるようになる。

いや、舞台装置だけ説明すると、今から見たらもってまわった内容に見えてしまうかも知れないんですが、「ワイルドカード」世界観って凄いシビアでディープなんですよ。ジョーカーに対する差別問題とか、終戦後の混乱期に政治利用されるエースとか、それに対する権力側の反発とか、麻薬問題とか、現実にも存在しそうな問題が遠慮なく投入される。勿論その一方で、魅力的なキャラクター、魅力的なエースたちが大活躍をするエピソードもある。

エースといっても人間なんで、当然働かないと金を稼げないし、食事をしないと飢え死にしてしまう訳です。その為に自分の能力を利用するエースもいれば、犯罪に手を染めてしまうエースも、一方賢く立ち回って経済的成功を手にするエースもいる。一方、当然のことながらその陰でジョーカーも、あるいは「ワイルドカードウィルス」と無関係に過ごしている普通の人たちも、色んな状況で色んなことをしている。

様々なSF作家がよってたかって描く、その「ワイルドカード世界観」がとても魅力的なんですよね。

第一集である「大いなる序章」は特に大きなテーマを定めず、ワイルドカードウィルスを描いた中短編の集積という作り。

第二集である「宇宙生命襲来」は、巨大な群体である「群れの母」襲来に対して立ち向かうエース、という筋立てになっておりまして、こちらも色々と熱いんですが、なんといっても第三集の「審判の日」の完成度は群を抜いています。

ワイルドカード記念日の1日、祝祭の裏で陰謀をめぐらす「天文学者」と呼ばれるエースとその一派。それに対する「フォーチュネイト」やドクタータキオンとその仲間、というエピソードが中心になるんですが、それと並行して様々なエピソード、思惑、小競り合いやトラブルが街のあちこちで起きており、それらが時に交差して、時にすれ違う。

天文学者とは何の関係もないところで巨悪と戦っている弓使いのダニエル・ブレナンとそれに巻き込まれた「生霊(レイス)」ジェニファとか、何ら能動的に動いていないのにギャング戦争に巻き込まれる「バガボンド」スーザンと下水道ジャックとか、とにかく自分の店と商店街を守りたいハイラムとか、まあ皆の行動がクロスしまくる訳です。

複数の作家がモザイクのように書いているストーリーが、読み終わってみるとちゃんと一つにまとまっている。このストーリー構築の見事さについては、G.R.R.マーティンの手腕に舌を巻く他ありません。

勿論、それぞれのエースやジョーカーのキャラクターが、「ワイルドカード」シリーズの魅力の中核であることは間違いありません。

普段はさえない中年男、しかし亀の甲羅に見立てた装甲車に乗り込んだ時だけは無敵の念動力者になる、「タートル」ことトム・タッドベリ。

精液をパワーの源泉として、精神操作、念動力など様々な力を駆使する「フォーチュネイト」。

一度ワイルドカードウィルスで命を落とした後に蘇った、目があった相手に死を送り込むことが出来る「逝去(ディマイズ)」ことジェイムズ・スペクター。

人格破綻者の科学者によってつくられたが故に死ぬほど苦労する、女好きのアンドロイド「モジュラー・マン」。

地球にワイルドカードウィルスを持ち込んだタキス人でありながら、地球の側に立ってジョーカーやエースの為に奔走するテレパス、ドクター・タキオン。

その他もろもろ、エースにしてもジョーカーにしても味があるキャラクターばかりなのですが、共通しているのが「何の活躍もしていない、普段の行状・生活についても全く切り捨てられないこと」。エースだろうがジョーカーだろうが、中にはダメ人間もいるのであって、能力に関係なく等身大の姿が描かれるのも「ワイルドカード」の魅力の一つです。個人的には、単なるヒッピーにして天才生化学者であるマーク・メドウズがお気に入り。

ということで、ワイルドカードシリーズ面白いですよねという話と、第四集以降も邦訳して欲しいなーという、ただそれだけのエントリーでした。

興味が出た方は読んでみませんか、ワイルドカードシリーズ。特に「審判の日」については損はさせません。



今日書きたいことはそれくらいです。



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posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月23日

何かを攻撃する時ガードを極端に下げてしまう現象と、はてなスターの仕組みについて気になること


こんな事例を観測しました。


経緯としては、

・「体育館のエアコンについて、2500円電気代がかかるので使うな」という教育委員会からのお達しがきた、とツイートした人がいた
・脊髄反射で教育委員会への批判が集まりまくり、RTもされまくった
・Togetterまとめに大量のブクマが集まった
・箕面市長の否定によってデマと判明した

という流れです。比較的よく見る案件ですよね。

これについては以前も書いたんですが、「何かに憤って攻撃しようとするとき、普段よりガードを下げてしまう人」ってものすごーーく多い、というか殆ど人間の本能みたいなものなんじゃねえかと私思ってまして、今回の件はその端的なサンプルなのかなーと感じたんです。

id:tyoshikiさんもおっしゃってますが、はてブの方々ってwebでもかなりリテラシー高い人たちだと思うんですよ。嘘ニュースとか、デマまとめだとか、そういう案件は良く観測されていて、普段から冷静なデマ指摘をされている人も多いと思っています。それでも時にはこういう事例が発生してしまうのは、誘い受け事例の誘因力の高さというか、「これはひどい話だ!」と感じた時の叩きたい欲求の強さみたいなものをつくづく感じるわけなんです。

以前も、「分かりやすい悪役を見つけた時はちょっと立ち止まった方がいい」という話を書きました。下記エントリーです。

手前味噌で申し訳ないのですが、繰り返しになるのもなんなので、ちょっと内容を引用します。


ただ、「分かりやすい悪役がいるニュース」については、特にガードを高くすることを徹底すべきだ、と私は考えている。

理由は二つある。
・「分かりやすい悪役がいるニュース」は、感情を煽る力が高く、物凄い勢いで拡散されてしまうケースが多いから。
・「分かりやすい悪役」が実際にはおらず、単に誤報か、あるいは情報の偏向であるケースが割と多いから。

前者の理由については、皆様経験則としてご存知なのではないかと思う。分かりやすい悪役を見て、正義感を煽られてしまう人は非常に多い。彼らは、瞬間湯沸かし器の様に頭を沸騰させた上で、ソースの確認なく情報をがんがん広めてしまう。

それがデマなのかどうかは関係なく、「ソースの確認なく情報を広める」という行為は本来とても危険なのだが、ガードが下がった人はそんなことは気にしない。あたかもあしたのジョーのごときノーガード戦法である。カウンター狙いの戦術であるならまだしも、一般的には彼らのことを「猪突猛進」と呼ぶ。


今回の事例ですと、エアコンについて理不尽な要請をつきつけた教育委員会が、非常に分かりやすい「悪役」ですよね。

やっぱり、普段から反感を持っている組織とか、反感を持っている個人が「分かりやすい悪役」になっていれば、取りあえず叩きたくなるんですよね。その気持ち自体は分かるんです。

webにおいて「分かりやすい悪役」になりやすい主体って幾つかありまして、具体的な組織で言うと「NHK、電通、JASRAC」の三つはすげー藁人形になりやすいなーと思ってます。あと、「政治家、マスコミ、教育組織」も同じような感じで、やっぱこの辺がおかしなことをしているような情報に触れると、ついつい叩きたくなってしまうんですよ。

これはよーーく分かります。私だって全然人のことは言えません。言っちゃってますけど。

これは飽くまで個人的な経験則なのですが、「うわこの話ひどい」とか「こいつ許せん!!」みたいなことを感じるエピソードについて、ソースが明確に提示されていない場合は、大体7〜8割くらいは何らかの誇張が入っているか、情報が偏向しているか、最悪話自体が創作であるケースが占めているように思います。デマとまでは言いませんが、いや冷静に考えるとそれちょっとおかしいんじゃない?なんか誇張入ってない?みたいに感じるケースはかなり多いです。

ですので、「これ許せん!!」と思った時程、ちょっと一旦立ち止まって様子を見ることにしています。ソースを確認出来そうなら確認しますし、確認出来なさそうなら追加で情報が出るまで待ちます。または、「後で反応する」ラベルをぺたっと貼っておいて一旦忘れます。

私自身は、これでデマの拡散に加担せずに済んだなーと思ったことが何度もあるんですが、損したなー、拡散しておけばよかった、と思ったことは殆どありません。

ただ、もしこれで何かを損してしまうとすれば、それは多分「速攻でその話に触れることによって得られていた筈の利益」ですよね。脊髄反射することによるメリット。先行者利益。

「速報性」というものは確かに貴重でして、何かの情報、何かの感想を、速く発信出来る人、というのはそれだけで凄い強みを持ってるな、とは思うんですよ。それは、アンテナの敏感さ、情報収集力の高さの証明でもあります。やっぱり、同じ感想を表明している人であれば、先に表明している人の方を展開したくなりますよね。



ここでちょっとはてブの話に移ります。

私、はてなブックマークは良く使いますし、個人的にも好きなサービスではあるんですよ。ただ、はてなスターに限っては正直あんまりいい仕組みじゃないんじゃないかなーと思ってまして。

つまり、

・先に反応した人程スターを集める機会が多く、そのコメントが「人気のコメント」に掲示される為、更に目立ちやすくなる
脊髄反射することに大きなメリットがあるような作りになっている

ことが気になっているんです。

冒頭であげた事例は単なる丁度いいサンプルでして、この件自体がどうこうって訳ではないんですが、Togetterのブコメページを見てみると、やっぱり「最初の5,6個のコメント」が大量にスターを集めて、人気コメントにもなっているんですよね。トップブコメは2つ目についたコメントです。

最初の方にコメントをつければつける程、たくさんの人にコメントを見てもらえる。必然、鋭いことを言っていればスターがつきやすいし、ついたスターが更に注目を集めてよりたくさんのスターを集めやすくなる。

自分のコメントにスターがつくのってやっぱり嬉しいし気持ちいいんですよね。たくさんの賛同者が自分に味方してくれるように思える快感。トップブコメになった時の気持ち良さって、やっぱ大きな魅力なんです。

つまり、はてなスターの仕組みって、基本的に先行者に大きなメリットがある構造になっているんです。

これ、うっかりすると、「ソースをいちいち確認しない」ということ、ガードを下げて脊髄反射することに対する動機づけになりかねないなーと。

はてなスターって、この先行者利益の話を置いても、「どちらかというと過激なコメントの方が受けやすい」という傾向もあるように思いまして。「より素早く、より過激なコメント」ほど可視化されやすいという、現状デメリットがかなり大きい状況になってしまっているんじゃないかなーと考えるわけなのです。

個人的には、「はてなスターはあっていいけど、「人気のコメント」欄は要らないんじゃねーか?」とか思っています。あるいは、「人気のコメント」はちょっと時間が経ってから集計する仕組みでもいいのかもしれません。

繰り返しになりますが、はてブ自体は好きなサービスですので、是非今後とも継続して欲しいところではあるんですが、重要なインフラだからこそ「デマを拡散しにくい仕組み」みたいなものはあっていいんじゃないか、と思いまして。皆さまには、「脊髄反射しないことによるメリット」について、是非検討頂けないかなーと考える次第なのです。

長くなりましたが、今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月17日

ファミコンのある風景


今から、単なる個人的な思い出話をします。

うちに「ファミコン」がやってきたのは、確か私が幼稚園の時のことでした。当時私は群馬県は高崎に住んでおり、近所に「ギャムズ」という大きなおもちゃ屋がありました。

郊外型の広いおもちゃ屋で、2階にチョロQだか、ミニ四駆だかのコースがあったことを何となく覚えています。

ファミコンを買ってもらった経緯を、今ではもうよく思い出すことが出来ません。私には5歳年上の兄がおり、恐らく兄に対する何らかのご褒美か、誕生日プレゼントか何かで買ってもらったものなのでしょう。私のゲーム趣味というものは、大方兄の影響で培われたものなのですが、それが始まったのが恐らくここだったのだろうと思います。

最初にしんざき家にやってきたソフトは、ハドソンの「ナッツ&ミルク」でした。どうも兄は「ゼビウス」が欲しかったようなのですが、当時「ゼビウス」は徹底した品薄で、ギャムズでも購入することが出来なかったのです。

当時をご存知の方であればよくお分かりだと思うのですが、ファミコンをテレビに接続する為には、それなりの高さのハードルと、割とアナログな手順がありました。「RFスイッチ」と呼ばれる薄いクリーム色の機械を、「クワガタ」と呼ばれていた端子で四苦八苦しながらテレビに接続して、VHSの2チャンネルに合わせてファミコンの電源を入れると、そこに「ナッツ&ミルク」のタイトル画面が映っていました。


私は恐らく、横で唖然として見つめていたのだろうと思います。先述した通り、しんざきは当時まだ幼稚園児で、遊びの時にもお出かけの時にも、兄のおまけ程度の存在でした。であれば、ゲームをやる際にも、恐らくおまけとしてちょこちょこ手を出させてもらう程度のものだったろう、とは思うのです。

しかしそれでも、「ナッツ&ミルク」の体験は強烈でした。

手のひらに収まる程度のカートリッジの中に、今まで見たこともなかった「遊び」が入っている。それを、同じように手のひらに載る程度のコントローラーで味わうことが出来る。

画面の中で、ナッツから逃げ回りつつ、果物を集めてヨーグルを助け出すミルクが、様々なステージを動き回っていました。まだ幼稚園児だったしんざきにとって、それは本当に「魔法の遊びの箱」であるようにしか思えなかったのです。

そこから、しんざきのファミコン人生、あるいはしんざきのゲーム人生が始まりました。

マッピーを遊びました。アイスクライマーを遊びました。バルーンファイトを遊びました。クルクルランドを遊びました。

当時ファミコンをもっていた友達と、ソフトの貸し借りをしながら、しんざきは色んなゲームを遊びました。貸すカートリッジには、持ち主がわかるよう、油性ペンで自分の名前を書きました。学校でファミコンのソフトを受け渡そうとして、先生に没収された友人もいました。そこから、ファミコンソフトの受け渡しは、公園の「秘密基地」で行うことになりました。裏取引でもしているようで、なんだかドキドキしました。

エキサイトバイクを遊びました。ギャラガを遊びました。けっきょく南極大冒険を遊びました。スカイデストロイヤーを遊びました。

毎年の誕生日のプレゼントは、兄と話し合って「どのファミコンのタイトルを買ってもらうか」を決めていました。兄にとってみれば、私の誕生日も貴重な「ファミコンのソフトを買ってもらう機会」だったのだから、私をなだめすかして説得して、うまいこと自分の遊びたいゲームを買ってもらうこともあったのでしょう。とはいえそれは、私にとって、「より難しい、複雑な、けどだからこそより一層面白い」ゲームに触れる、重要な機会でもありました。

忍者くんを遊びました。ドアドアを遊びました。ドルアーガの塔を遊びました。ヴォルガードIIを遊びました。

しんざきの当時の生活のうち、かなりの部分をゲームが占めていたことは間違いなく、今から考えると両親も随分不安だったのではないかと思います。「ゲーム」などというよくわからない遊びにどっぷりハマる長男と次男です。目が悪くならないか。成績が落ちないか。運動不足にならないか。友達と仲良く出来るのか。恐らく最低限のTPOくらいは教えられたと思うんですが、ゲーム自体を制限された記憶は私にはありません。となれば、両親も随分、不安を抱えつつも我々を好きにさせてくれていたのだと思います。

ツインビーを遊びました。ハイドライド・スペシャルを遊びました。魔界村を遊びました。ワルキューレの冒険を遊びました。

その頃、兄の興味は徐々に「ゲームセンターのゲーム」に移っていき、私がファミコンを占有する時間も増えていきました。ゲーセンのゲームの凄さを聞きつつ、まだゲーセンについていくことは出来なかった私は、それでもファミコン世界に魅了されていました。時折、兄が友人から色んなゲームをまとめて借りて来てくれることもあり、好きに遊んでいいよといってくれたこともありました。どのカートリッジにも、まだ見たことがない「遊び」が入っており、私はその世界の余りの広さに圧倒されるばかりでした。

ソロモンの鍵を遊びました。迷宮組曲を遊びました。ドラえもんを遊びました。ドラゴンクエストIIを遊びました。

本も読みましたし漫画も読んだんですが、しんざきの「趣味」「遊び」の中心に、常に「ゲーム」が存在したことは間違いありません。結果、私は子ども時代、アニメというものを観たことが殆どありません。というか、テレビ自体ほぼ観ていませんでした。テレビというものはゲームが映る機械であり、それ以外のものではありませんでした。時折両親がニュースやら野球やらを見ている時間は、専ら本を読む時間でした。

ゲームに助けられました。ゲームに励まされました。ゲームに脅かされましたし、ゲームに傷つけられました。ゲームを通じて出来た友達もいれば、ゲームをきっかけに知った知識もありました。

つまるところ私は、ゲームを食べて育ったし、ゲームに感謝しているし、私とゲームをいい関係のままでいさせてくれた、両親や兄に恩義を感じているのです。多分、私の人格のかなり根っこの方にあるのはそういう意識です。

はたから見ると、しんざきの人生は多分「ゲーム漬け」といっていいと思うんですが、それでもなんだかんだ、多分まともに社会人をやれているし、多分まともに家庭人をやれてもいる、と思います。それは恐らく、私とゲームが、周囲のおかげもあっていい関係のままでいられた為だろうと思います。

となると、今の私の役目は、私の子どもたちがゲームとのいい関係を築くにはどうすればいいかを考えることなのかなあ、と思っています。

長男は既にいっぱしのゲーマーとして色んなゲームを遊んでいますし、長女次女もぼちぼちゲームに興味を持ち始めました。この先ゲームとどう過ごしていくのか、あるいはゲームから離れるのかは、勿論彼ら彼女らの意思次第です。ただ、もしもゲームと一緒に歩もうとするならば、出来る限り「いい関係」を築けるようフォローしてあげるのが、多分私にとってのゲームへの恩返しなのだろうと。

そんな風に考えているのです。
posted by しんざき at 12:32 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月10日

シロクマ先生の記事を読んで思ったこと


こちらの記事を拝読しました。


正直なところこの記事の総論については、私とシロクマ先生の間に考え方の違いは多分殆どなく、「同感です」以外に言葉がありません。

その上で、なんとなくの感想というか、私が考えていることについて、シロクマ先生の記事をトリガーに書いてみたくなりました。雑然とした話ですがご容赦ください。


私も、恐らくシロクマ先生と同じ程度の感覚で、「金の匂いがキツいブログ」は苦手でした。

以前も書いたことがあると思うんですが、「ブログのマネタイズ」自体は全然構わないと思うのです。ウェルカム。どんどんやっていい。

個人的な話で言えば、「コンテンツの中に全然別のコンテンツが突っ込まれる」のが嫌いであるという点で広告は入れていませんし、広告に対するクリック目当てが透けて見える記事(べたべた広告貼ってあって中身が全然ないような記事とか)はあんまりおもしろくないなーとは思います。とはいえ、これは単なる個人的な好みの問題であって、別段広告自体を否定する気はありませんし、無論広告を載せることが悪いことだとも思いません。かつて、色んな人が「webの収益化」というテーマを掲げて、果たせなかったことを思い起こせば、隔世の感だなーと思うばかりです。

ただ、一時期頻繁に観測出来た、「プロブロガーになろう」とか「ブログで生きていこう」的なお題目でサロン商売をしているような人たちについては、レッドオーシャンに人を引きずり込んでおいて自分たちだけ肥え太る、という構図が透けて見えて、かなりの不快感を感じていました。本当、あの時期に「ブログで生きていくために会社辞めました」みたいなこと書いてた人たち、今大丈夫なんでしょうか。引きずり込んだ側がなんの責任も取らないだろうことだけは確実だと思いますが。

これらの動きの結果、一時期「ブログの収益化」自体がマッチポンプ的なコンテンツとして確立されてしまって、右を向いても左を見ても収益化の話ばかり、みたいな状況になっていたことは皆さんご承知の通りでしょう。

この点についても恐らくシロクマ先生と私の感覚は通底していると思っておりまして、こういった動きが最近あまり観測出来なくなった点については、安心感以外のものがありません。仮想通貨に感謝するばかりです。


それはそうと。


上記の、「広告はあんまり好きじゃない」「けどマネタイズ自体は良い」というスタンスから、私自身はずっと、「PVの形をしていない利益」「影響力の形をしていない実益」みたいなものがブログから確立出来ないかなあ、みたいなことをなんとなく考えていました。

つまり、結局のところ、ブログを直接マネタイズする方法として、一番効率が良くメジャーなものが「広告」だから、ブログにおけるマネタイズは影響力勝負になってしまうし、ともするとPV目当ての釣り記事を書くようなことにもなってしまう。であれば、「PVとは全然別のところで稼ぐ方法」みたいなものが、少なくとも対抗ルートとして一般化出来れば、それを多少なりとも希釈することが出来るんじゃないか、と。

勿論、世の中には、例えば高い専門性のブログを書いて、一般的なPVは得られなくても、研究や転職といった側面でブログを有効活用している方はいらっしゃいます。ただ、それも突き詰めてみると「範囲が限定された影響力」というものに集約される側面はありまして、そういうものを包括した上で、「PVや影響力とは切り離されたブログの力」みたいなものを一般化出来ないかなあ、と。

この話についての私の考えは、まだいまひとつもにゃもにゃとしていまして、結論は出ていません。そもそも無理な話なのかも知れません。ただ、なんとなく「こういうのどうかな?」という程度のイメージはでき始めていまして、それについてはまた改めて、もうちょっとまとめてから書いてみたいと思っています。


 ただまあ、現実の金銭や影響力とここまでシームレスになったからこそ、金銭の稼ぎよう、影響力の稼ぎようの美意識や美学が今まで以上に問われるようになった、ともいえるかもしれない。

美意識という程大したものでもありませんが、私自身は、金銭を稼ぐにしても影響力を稼ぐにしても、ブログの骨子みたいなものはきちんと保持しておきたいなあ、と思っています。

つまり、どんなにくだらないことであっても、書きたくなったことを書くし、書きたくないことは書かない。

この不倒城というブログの第一の読者は私自身であって、私が好きなものの良さをみんなに広めたり、私が書きたくなったことを書く為だけのブログである、と。私自身が自分のブログを読んだときの自己満足感こそ、このブログが描かれる原動力である、と。

そこについては今後もブレさせないつもりですし、ブレないまま続けていれば何か見えることもあるんじゃないか、と。
現在は、そんな風に考えている次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 15:41 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月05日

増田で割と凄いことが起こったような気がするので、何が起こったのか簡単に解説します(ややR18)


こんな増田を読みました。

内容を簡単に要約すると、

・増田は昔2ちゃんねるの「過激な恋愛板」に常駐していた女性
・「童貞とセックスしたい人のスレ」のようなものがあり、そこで増田がとある男性と出会った
・一旦自然消滅したけれど、その人と後々、全然別タイミングで再会して結婚した

という内容になると思います。

これだけだと、割とよくある過去体験談のエピソードという感じで、創作の可能性もそれなりに高そうだなーという話だと思います。

ただ、この時ちょっと特殊な流れが発生しました。

・2ちゃんねるの当該過去スレが発掘された
・そのスレの中で、増田が言う内容に合致された書き込みが発見された
・その内容に、「ホテルの名前」をキーにしている、というトリップが掲載されていた
そのトリップのキーが、増田が書いたホテルの名前と一致した

どういうことかというと。

2ちゃんねる、および5ちゃんねるには「トリップ」という機能があります。特定の文字列をキーにして、暗号文字列を生成する仕組みになっていて、基本的には「その文字列を知っている人」しか同じトリップを生成することはできません。一般的には、同一人物であることの証明に使われます。

今回、発掘されたスレは以下のURLです。なんと日付は2004年。14年も前のスレということになります。リンク先はR18なので注意。


ここにこんな書き込みがあります。

918 :なまえを挿れて。:04/09/14 16:04:20 ID:???
>>917
鳥つけれ。ラブホの名前とか。
あと、別に募集スレじゃないんだから俺は詳細を書いて欲しい。

919 :906 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 16:11:03 ID:???
>>918
了解です。一応メールで確認とってから書きますね。


つまり、この「◆PhQAq2ad6I」というのが、ラブホテルの名前をキーにしたトリップということですね。ちなみにこの後、相手の男性らしき人物がこんな書き込みをしており、二人が共通の知識として「ラブホテルの名前」を知っている、という証明に使われています。


951 :某 ◆jmx4KcE5/o :04/09/14 21:38:19 ID:???
てすと
952 :某 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 21:38:45 ID:???
あれ?こっちか?
953 :某 ◆PhQAq2ad6I :04/09/14 21:46:22 ID:???
>>906
えーと、その節はお世話になりましたというか、ごちそうさまでしたというかw
写真で見た印象以上に可愛い人だったんで、正直かなり緊張しました。ラブホの
名前こっちの綴りだったんだね。


ところで、元増田にはこんな記載があります。

今でもあるのかどうか分からないけれど、渋谷のセラヴィというラブホ。

ラブホの名前が出ていますね。これを、「トリップチェッカー」というWebサービスで、「#セラヴィ」という形で入力してみると、

tori.png

マジか。なんと一致してしまいました。

ここから分かることは以下の通りです。

・少なくとも、このスレの906とこの増田は、当該ラブホテルの名前を共通して知っていたことになる
・つまり、この906と増田は同一人物である可能性が極めて高い(相手の男性である可能性もある)
・つまり、この話自体が14年超しの仕込みである可能性を除けば、このエピソード全体が真実で、当時の2ちゃん時代からすべてが実際にあったエピソードである可能性がかなり高い

ということになるわけです。

勿論トリップが漏れていたという可能性はゼロではないんですが、見た感じ、話自体に大きな矛盾はないように見えるんですよ。何より14年前のスレですからね。そんなトリップわざわざ発掘して、いちいち釣りエピソードに仕上げるというのもちょっと考えづらい。

2ちゃんのトリップという機能をトリガーにして、14年ぶりに表に出てくるエピソード。しかもそれが、14年前の書き込みと紐づいて話の信憑性を上げるとか、これ結構すごくないですか?プチ「あの人は今」的なストーリーを見た気分で、私正直結構感動したんですが。

時代は変わり、昔の2ちゃんのゴミゴミとした雰囲気も今はだいぶ変わってしまったわけなんですが、時折思いがけずこういうタイムカプセルみたいな案件が出てきて、個人的にはなかなか感慨深かった、という話なのです。

何はともあれ、増田と旦那さん、そして増田のお子さんが幸せに過ごされることを、心から祈念したいと思います。心温まる話をありがとうございました。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:13 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月29日

「興味のなさ」への言い訳なんてしないで済む世界だといいなあ

「自分の興味のなさ」を語りたがる人って結構多いな、と思うんですよ。

色んな人が話題にしている〇〇や××について、例えば「私〇〇に全然興味なくて」とか。「××興味ないからスルーしてるんだけど」とか、そういうことをわざわざ語りたがる人。いや言及してる時点でスルーしてないんじゃね?と思わないでもないんですが。

しんざきは極めて興味が偏っている人間なので、恐らく色んな「興味がないこと」があるんだろうな、と思います。普段はそもそも、興味がないことっていちいち観測しないんで、自分の興味の欠如すらよく分からないんですが、皆がそのことについて語っていると、ああ、これって興味のギャップだな、と気づくことはあります。

ただ、私個人的には、自分の「興味の無さ」について語るのってあんまり好きじゃないんです。

だってそれって、コンテンツとしてあんまり面白くないじゃないですか。興味がないってことは主体的に観測していないっていうことですし、つまりその対象についての知見が溜まっていないってことです。何も知らないことについて面白いことが言えるわけないですし、盛り上がっている周囲に対して水を差す、ないし思い切り水をぶっかける行為でもあります。

私、皆が盛り上がっている状態は割と好きなので、たとえ自分に興味がない話題であっても、盛り上がっているところに水をぶっかけたくはないんですよ。そこに水をぶっかけるのが趣味、みたいな突き抜けた人も中にはいますし、そこまでいったらむしろ敬意を払っていいと思うんですけど。

だから、私自身は、「興味のなさ」を語ることについては後ろ向きです。それを語る人を止めたりはしませんが、まああんまり面白い話じゃないよな、と思っています。そんなことを語っている暇があったら、自分が興味をもっていることについて語り倒したい。イース8の話とか。

ただ、分からないでもない部分もあって。

別にこれ、日本に特有な現象でもないと思うんですけど、世の中「興味の同調圧力」みたいなものってあると思うんですよね。皆が興味を持っているものは、当然お前も興味を持っているよな?的な。皆が興味をもっていることについて、自分が興味をもっていないと驚かれる、何か異常な状態であるように思われる。

そういう状況に対して、「頑張って興味がある振りをする」ないし、「何か自分の「興味がない事情」を説明する」という対処をとらざるを得ない場合って、結構あるんじゃないかと思うんですよ。

言ってみれば、自分の「興味のなさ」についての言い訳、理由づけですよね。

興味なんてものは人それぞれでして、人に押し付けるようなものではありません。私が興味を持っていることについて、他の人が興味を持たなかったとしても、それは全く個人の自由というものです。

それに対して、無言の圧力で、「自分が何故興味がないか」をわざわざひねり出さないといけない、説明しなくちゃいけない、というのもあんまり面白くない状況だなーと思うんですよ。

自分の興味のなさを語る時、わざわざ「盛り上がっているところに水をぶっかける」目的で語る人がたまーにいます。言ってみれば攻撃的な「興味の欠如」、オフェンシブな興味なさ語りです。

一方、周囲の盛り上がりに対して、自分を守る為に興味のなさについて理由づけをせざるを得ない、という人もいます。言ってみれば防御的な興味なさ語りです。

つまり、興味のなさを語る時には、攻撃的な語り方、防御的な語り方の二面があるのではないかなーと。勿論、それとは全然関係なく、自分語りの一環として何故か興味のなさをコンテンツにしている人もいますけど。

前者は若干趣味が悪い感じではありますが、後者の防御的な興味なさ語りが強制される向きがあるとしたら、それはあまりよろしくない状態だなーと思うわけなんですよ。興味がないものは興味がない、でいいやん、と。

興味のある、なしというのは完全に個人的な問題であって、他人に容喙するような話ではありません。

興味がある同士では遠慮なく盛り上がる、けど同時に他人の興味の無さには敬意を払う。興味の無さをわざわざ語らずに済む。

そんなスタンスが一般的になるといいなあ、と思う次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 08:11 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月27日

hagexさんに「問題」や「責任」を求めようとする全ての言説に反対します。

まず大前提として、「殺されるに値する発言」というものは世の中に存在しません。どんな人間も、「こういう発言があったから」という理由で殺傷されてはいけませんし、そんな必然性もありません。だから、同じくhagexさんも、「殺されるような言動」「殺されるに値する言動」などというものは何もしていません。

その大前提を置いたうえで、じゃあhagexさんに、僅かでも「件の人に対するこういう言動は気を付ければよかったのに」というものがあったのか?ということを考えてみます。

これも前提として、今回犯行を行ったとされる人(以下容疑者と呼びます)は、はてブ周辺でひたすら、他ユーザーに罵詈雑言を投げつけている人でした。いわゆる「荒らし」行為を日常的に行っていた、と言っていいと思います。他人にやたら「低能」という言葉を投げつけることが原因で、低能先生と呼ばれるようになっていたようです。これも、別にhagexさんが呼び始めたわけではなく、hagexさんが主体的にそういう呼び方を先導しているという事実もありません。

hagexさんから件の容疑者に対する言及は、下記エントリーでまとめてくださっています。

で、本当に分からないんですが、hagexさんが容疑者に対して「いじめ」を行っていた、と主張している人は、いったい上記のどれを見てそう判断されたんでしょうか?

hagexさんは確かに、容疑者の荒らし行為に対して通報を行っていると明言されていて、下記のような記事を書かれています。この記事が直接的な原因になった、と考える人もいるようです。

上記記事をどう読んでも、

・低能先生と呼ばれている荒らしが、自分や他のユーザーに対してどのような荒らし行為を行っているか
・自分がその行為に対して通報を行っていること
・その通報を受けて、はてなが迅速にBANを行っていること

という内容以上のことは書かれていません。

一般的に言って、荒らし行為について運営側に通報を行う、というのはごく通常の対応ですし、その対応法を知らない人に対してシェアする、ということに何か問題があるとも思えません。「容疑者に対して罵詈雑言を投げかけた」というのならまだしもですが、そんな表現はどこにもありません。

これはもしかすると「原因」かもしれませんが、そこに「問題」や「責任」があったとは私は全く思いません。これに「問題」があったとしたら、世の中のあらゆる人は、ネット荒らしについての一般的な対応法を、他人とシェアすることが出来なくなってしまいます。それはいくらなんでも理不尽というものでしょう。

これがいじめだという人は、「荒らしは通報するな、通報したとしてもそれを周囲と共有するな、それはいじめだ」と言っているのでしょうか?正直意味が分かりません。

だから私は、少なくとも容疑者に対しては、hagexさんは何も「問題」があるような発言はしていないし、百歩譲っても容疑者が行ったのはただの「逆恨みによる犯行」であって、hagexさんに落ち度は何らなかった、と主張します。じゃあ他のネット著名人についてはどうなんだ、と言われれば、やはりそれが「hagexさんが容疑者に殺される」理由にはならない、としか言いようがありません。


これで殺されるなら、あなたが殺されていたかも知れませんし、私が殺されていたかも知れません。


これに限らず、殺人被害者に何か「問題」や「責任」を求めたがる人たち一般の言説が、私は嫌いです。それは単なる体のいい切断処理でしかないと思いますし、公正世界仮説はこの世から消滅して欲しいと思います。はてなでも普段はそういう「被害者に問題や責任を求める」的構図を嫌っているように見えるんですが、こういう時はなんでそういう言説が肯定されがちになるのか、私にはさっぱりわかりません。

「原因」を分析するだけならまだしも、それを「問題」や「責任」に結び付けようとする言説には、私は強く反発します。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 06:35 | Comment(28) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月25日

増田さんへ。


お手紙ありがとうございます。

今回、しんざきさんは、しんざきさん自身が言うところの「報道を通してしか殺人被害に遭ったかどうか確認出来ない程度の知り合い」未満(しんざきさんはHagexさんの本名を存じなかった)でした。にもかかわらず、Hagexさんの遭難をすばやく確信し、このタイミングでこのようなエントリを上げることができたのは、まさに被害者の実名報道があった故でした。

この点、どうお考えですか?

Hagexさんに関する記事に貼られたリンクを読んでも明らかですが、講座参加者でさえ、Hagexさんの遭難は、実名報道があって初めて確信できているのです。
(はてこは〜の人でさえ、実名報道→実名から確認できた顔写真を見てHagexさんと確信)
言い換えると、もし実名報道がなかったならば、「Hagexさんの身に何か起こったかもしれない」といった疑念・不安こそ起これども、確信は持てなかったことでしょうし、
Hagexさんの知人から知人へ、また知人へと、いずれ遭難の情報は伝われど、その情報がデマでなく、本当に間違いなく命を奪われたと確信できるまでには、現状の比でないほどの憶測と流言が飛んだことでしょう。
お答えします。被害者の実名報道は不要だと思っていますし、その考えは今も変わっていません。

理由は主に二つあります。

・自分が今回迅速に事態を知ることが出来たことに、特に重要性を感じていないこと。
・自分の知りたいという欲求よりも遺族のプライバシーの方が一般的に重要だと感じていること。

まず、今回の件については、仮に実名報道がなくてもhagexさんと同定されていたような気もします。

ただ、確かに、実名報道がされたことで情報が誤謬を許さないものになった、という点では、「実名報道のメリットを享受した」ということになるのかも知れません。その点はご指摘の通りです。

ですが、私は、実名報道のメリットを享受した現段階でも、「自分が享受したメリットよりも遺族のプライバシーの方が大事だ」と思っています。今回hagexさんのご遺族についての報道は(恐らく幸いなことに)出ていないようですし、今後出るかどうかもわかりませんが、それでもご遺族が実名報道を望まないのであれば、実名が出るべきではなかったと思います。

その結果、たとえ自分が「hagexさんが亡くなったんだ」という情報を確信出来なかったとしても、それは仕方ないことだと思います。ご遺族や、もしかするとご本人の意向の方が、私の好奇心や確信よりも重要です。その場合、何週間か経って、巡り巡って「どうやらhagexさんが亡くなったらしい」ということが分かった時点で同じようなことを書いたかも知れませんし、書かなかったかも知れません。

つまり、「すぐに確信できた」ということは、私にとってはそれ程重要なことではありません。

ただ、私は「実名報道に反対しているのだから、実名報道のメリットは一切享受しないし、実名報道に基づいた情報については一切触れない」という程スタンスを徹底出来ておりませんし、そう宣言しているわけでもありませんので、「hagexさんの訃報」という情報を受けた時点でショックのままに書きたいことを書いてしまいましたし、その時点では「これは実名報道で分かった情報なんだ」ということ自体をきちんと認識出来ていませんでした。その点は私の不明、ないし迂闊さかも知れません。今更記事を消しても仕方ないので消しませんが。

ご提示された記事で私が言いたいことは、「遺族の意向やプライバシーの方が、他の人たちの知りたいという欲求よりも尊重されるべき」ということであって、そこは今回の件があった後でも変わっていない、ということについてはご理解いただけるでしょうか。それと今朝の記事が矛盾している、ということがおっしゃりたいのであれば、私が迂闊だったせいです、すいません、としか言いようがありません。


書きたいことは以上です。
posted by しんざき at 20:34 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月18日

君と二人なら

結婚して14年経った。

私はそれ程未来予想能力が高くないので、結婚した時点で「10年後の生活」などというものは全く想像できなかった。ただ、まあなんだかんだでなんとなく幸せにはやっているのではないか、と、ごく楽観的に思っていたし、その予想については外れていない。

私と妻は一学年違いで、半年程妻の方が年上だ。元々妻と私は同じ楽器をやっている音楽仲間で、妻はケーナ吹きの先輩だった。ただ、妻はその内ケーナをあまり吹かなくなり、どちらかというとボーカルが本業になっていった。元々歌の方が好きだったそうだ。私は今でもケーナしか吹けないし、歌はろくに歌えない。

私と妻は、それ程波乱も紆余曲折もなく、ごく自然に結婚した。結婚した理由は色々あったような気もするし、そんなになかったような気もする。強いて言えば「結婚しない理由がないから」というものが一番大きかったかも知れない。私にとっては、妻と一緒にいることが一番自然であったし、その為に「結婚している」という状態が一番適していたから、結婚した。その点は多分、妻も同じようなものだったと思う。

妻は元来ロジカルかつリアリストであって、いわゆる紋切り型の(それこそ「ライトは点く?」のコピペのような)「共感だけを求める」女性というようなところは一切なかった。うっかりすると私より妻の方がロジカルであるような有様であって、妻にとって情報交換は物事を解決する為の情報交換であって、課題共有は課題を改善する為の課題共有だった。私と妻が問題を感じる点は大体同じだし、どういうゴール設定が最適か、という判断も大体ずれない。

勿論のこと、私と妻はそれぞれ独立した人間なのだから、時にお互いの都合が背反することもあるし、時にいら立ちを覚えることもあるだろう。妻のスタンスに私が賛同できないこともあれば、私のスタンスに妻が賛同できないこともあるだろう。

ただ、そういったずれというのは要は「課題」だ。根本的なところで、「課題を解決しなくてはいけない、という共通認識」「課題を解決する為の方法論の一致」というものがあれば、大体の課題は解決可能だ。その点、私は妻に全く不安を感じなかったし、今も感じていない。

だから私は、妻と二人なら、大概の問題には対処出来るし、そこそこ人生幸せにやっていけるのではないかと思った。


私は妻を愛しているし、妻は超美人で可愛いと思っているが、それより何より私が妻に感じているのは、「人生というゲームにおける共同プレイヤーとしての、圧倒的な頼もしさ」だ。「人生」プロジェクトにおけるプロジェクトメンバーとしての、圧倒的なベストマッチ感だ。

時代、というものがある。それぞれの時代にはそれぞれの課題があり、それぞれのリスクがあり、そういったリスクが我々の家庭を襲うことも、今まであったし、これからもきっとあるのだろう。どんな時代、どんな家庭にも、乗り越えるべき課題というものがあった筈だ。


けれど、君と二人なら。


あれから14年経った。しんざき家には子どもが3人生まれ、上の子は相変わらず電車好きで、将来電車の運転手になるのだと張り切っているし、下の双子は今年4月に小学校に入った。ほんの10年前は、うちにランドセルが3つ転がっている状況などとても想像出来なかった。とすれば、今から10年後の未来も、全く想像出来ないことになっているのだろう。そこについては予想がつく。

入学式に向かう

君を幸せにする、ではない。

子どもたちを幸せにする、ではない。

君と二人で、幸せになる。子どもたちに、自分で幸せになれる力を育んであげる。結果的に、家族5人で幸せになる。


私と妻のコンビなら、多分それが出来る。
posted by しんざき at 14:53 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

SUBWAYヘビーユーザーのこの俺が貴様らにSUBWAYの使い方を伝授してやる


理由は知らんが、SUBWAYの注文方法が話題になっているようだな。

最初に書いておくと、SUBWAYは美味い。メインとなる具の味わいを、暴力的な量の野菜がサポートし、それをクオリティ高いパンが挟むサンドイッチを味わうことが出来る。ファーストフード店の中でもかなり上位の美味さと言っていいだろう。

俺はこう見えても週に2,3回はSUBWAYで昼飯を食う、いわばSUBWAYのベテラン、SUBWAYのTATSUJIN(東亜プラン的表現)だ。そんな俺がSUBWAYの注文方法について分かりやすくレクチャーしてやる。

いいか?SUBWAYの注文は、以下の6段階に分かれている。

1.サンドイッチの種類を選ぶ
2.パンの種類を選ぶ
3.トッピングを選ぶ
4.野菜の量を調整する
5.ドレッシングを選ぶ
6.サイドメニューを選ぶ

なんか複雑そうに見えるが、最低限決めなくちゃいけないのは実は1だけだ

まず、店に入ってカウンターに近づいたら、店員さんが「ご注文いかがなさいますかー?」ないし「サンドイッチお決まりですかー?」とか聞いてくる筈だ。必ず自分で決断しなくてはいけないのはこの時だけだ。

お前が初心者の間は、「BLT」ないし「ローストチキン」と言っておけ。この二種類の汎用性は物凄い。SUBWAY界におけるM4シャーマンだ。

あとは全部「お任せで」とか「お勧め通りで」って言っておくだけでも大丈夫だ、特に問題はない。それだけでSUBWAYの野菜たっぷりサンドイッチを味わうことは出来る。

ここからのアドバイスは、お前を「ちょっと分かってるSUBWAYユーザー」にする為のアドバイスだ。よく聞け。



2.パンの種類を選ぶ

これな、「サンドイッチに使うパンの種類を選ぶ」ステップだ。あと、「パンをトーストする(焼く)かどうか」もここで聞かれる。ここまでは最初の、サンドイッチを頼むタイミングで一緒に言ってしまっても問題ない。「BLT、ウィートで、トーストしてください」みたいな言い方になる。

パンを選ぶのは、基本にして重要なステップだ。SUBWAY道の入り口と言っても間違いはない。

パンの種類は、「ホワイト、セサミ、ハニーオーツ、ウィート、フラットブレッド」の5種類だ。

ホワイトってのは要はプレーン、普通のパンだな。セサミはそれにゴマを付与したヤツだ。ハニーオーツはちょっと甘いヤツ、フラットブレッドはなんかモチモチしたヤツ、ウィートは茶色くて微かに香ばしい苦みがあるヤツ。で、トーストをお願いするとそれを炙ってくれる。

SUBWAYはそれぞれのサンドイッチにおススメ構築を元から用意してあってな、「お任せで」って言っておくと勝手に合ったパンを選択してくれる。なので、店員さん任せにしておいても別段問題はない。安定した味が楽しめる筈だ。

俺はゴマが好きなんで大体「セサミで、焼いてください」って言う。すると店員さんはセサミを選んでトーストしてくれる。まあ色々試してみて、慣れたらなんか一種類のパンを専用構築にしてもいいかも知れんな。



3.トッピングを選ぶ

パンを決めた次は、「トッピングいかがなさいますかー?」と聞かれる筈だ。

お前の目の前のカウンターに、チーズとかベーコンとかエビとか色々入ってるな?それがトッピングだ。サンドイッチのメインの具の他に、それを追加することが出来る。当然有料だ。

先に行っておくと、SUBWAYのサンドイッチは、どれもそれなりのボリュームがある。野菜もたっぷり入るしメインの具もそこそこ多い。だから、特別腹が減っていなければトッピングを追加する必要はない。「なしで」とか「大丈夫です」とか言っておけばいい。

もしちょっとプラスアルファが欲しい、かつお前がチーズ嫌いでないのであれば、まず「クリームチーズ」を選んでみることをお勧めする。これは本当に大体のサンドイッチをパワーアップさせる。生ハムだろうが、エビアボカドだろうが、なんならローストビーフだろうがそれなりに合う。

肉を食いたい気分ならベーコンを追加すればいいだろう。ツナとエビはそこそこ主張が強いから気をつけろ。アボカドはかなりオールマイティなトッピングだが、個人的にはローストチキンに合わせるのが特にお勧めだ。



4.野菜の量を調整する

その次に、「野菜いかがなさいますかー?」とか「お嫌いな野菜ありませんかー?」とか聞かれる筈だ。

SUBWAYでは野菜の量を調整することが出来る。例えばお前がトマト嫌いなら、「トマト抜きで」と言えば抜いてくれるし、「多めで」と言えばがつっと量を増やしてくれる。このご時世にレタス多めにしてもらうことも可能だ。「全部多めで」って言うことも出来るが、本当に結構な量になるからそこだけ気をつけろ。特段希望がなければ「そのままで」とか「普通で」と言っておけばいい。

ちなみに、ピクルスやオリーブなど、ノーマルルートなら入れない野菜を追加してもらうことも出来る。オリーブはどのサンドイッチにも合うのでお勧めだ。辛いのが好きならホットペッパーを追加してもらうことも出来るらしいな。これはやったことないので俺にも何とも言えんが。



5.ドレッシングを選ぶ

今度はサンドイッチにかけるドレッシングを選ぶステップだ。ここでも、実はサンドイッチごとにおススメのドレッシングは決まっていて、店員さんは同時に「このドレッシングがお勧めです」ということを言ってくる。特にこだわりがなければ、「お任せで」と言っておけば問題はない。

敢えてここを曲げるとすれば、バジルソース、ないしバルサミコソースがお勧めだ。バジルソースはフレッシュかつスパイシーな味わいがどのサンドイッチにも合う。万能だ。バルサミコソースはわずかな酸っぱさがいいアクセントになるだろう。ターキーブレストのお勧めソースだが、ローストチキンなんかにも良く合うな。



6.サイドメニューを選ぶ

ここまでくると、お前はほぼレジの目前まで移動している筈だ。サイドメニューは最後、このタイミングで選ぶ。ドリンク、ポテト、スープなんかがあり、セットメニューもある筈だ。更にポテトには複数のフレーバーがある。

俺の圧倒的お勧めは「ポテト + ドリンク」のセットを頼んで、更にポテトにチーズのフレーバーをつけてもらうことだ。

SUBWAYのポテトはそこそこボリュームがあるタイプで、例えばマックやロッテリアの細いポテトとは全く趣が異なる。そこにチーズフレーバーをつけることによって、絶妙に漂うジャンクフード感。野菜たっぷりのサンドイッチが齎す暴力的なヘルシーさを希釈して、極めて高度なバランスをとってくれるというわけだ。

他のサイドメニューに目を向ければ、ミネストローネはマジで美味い。ただ、それだけで\360とそこそこのお値段がするので、総合すると結構な価格帯になってしまうという点で危険な選択肢だ。懐に余裕がある時に選択するといい。


さて、ここまでで、お前にはもうSUBWAYを攻略する為の基礎知識は備わった筈だ。SUBWAYの野菜たっぷり肉たっぷりのサンドイッチを満喫するもよし!お勧めをちょっとずつ曲げて「分かっている感」を醸成するもよし!自分なりのSUBWAY道を進んでいってほしい。

ちなみに俺の個人的なお勧め構築を書いておくと、

・ターキーブレスト、セサミ、トーストありで
・トッピングはクリームチーズ
・野菜はそのまま
・ソースはバジルソース
・ジンジャーエールとポテトチーズフレーバーのセット

以上だ!この組み合わせはマジ美味いので一度試してみてくれ!

今日書きたいことはそれくらいだ。
posted by しんざき at 07:14 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Surface proを買いました・使用感とか簡単にレビューする


普段外出先で使っていたノートPC、もう5,6年ものなんですが、いい加減調子悪くなりまして。

その反面、外で書きものやら仕事やらやる機会は増えていたので、新しくノートPCなりタブレットPCなり買おうかなーと思ったんです。

で、下記のような条件で考えました。

・自宅にはメイン機になるデスクトップPCがあるので、ノートはサブマシン的な位置づけ・
普段持ち歩くのでなるべく軽いのがいい、出来れば充電アダプタも持ち歩きたくない
・可能な限りライティングがしやすいマシンがいい
・動画処理性能は別段求めない(動画あんまりみないので)
・最近仕事で使い始めたPythonの開発の為に、anaconda3 + Pycharmをなるべくサクサク動かしたい
・練習で使うことがあるのでsibelius(楽譜作成ソフト)を動かしたい

メイン機がWindowsなので、じゃあまあWindowsタブレットにでもするかーということで、最近知人が使っていて
便利そうだったSurface proを選択。

選択したのはFKH-00014 [Surface Pro Core i7/512GB/メモリ16GBモデル]で、タイプカバーを一緒に購入しました。

注文して2日くらいで到着。なんか新しいガジェットが到着した時って異様にわくわくしますね?


とどいたー

折角なので、簡単に使用感レビューのようなことをしてみたいと思います。

先に結論を書いてしまうと、私が想定していた目的には、Surface proはがっちり適合しました。最適解に近かったような気がします。

中身は完全にWindowsですので、基本的にWindowsで動かせるソフトは全て動かせます。そこは想定内だったのですが、起動・終了などの動作についても実にサクサクで、基本的には電源を押してから数秒でログイン画面に遷移出来る、という感覚。

私が動かしたかったAnaconda3 + Pycharmも問題なくサクサク動きました。まだガリガリでかいデータを数値処理とかはしてないですが、まあ本番の分析をこのマシンでやったりはしないのでそこは大した問題ではないでしょう。

plot.png

ついちょっと手が滑ってSteamのCiv4 BTSもインストールしてしまったのですが、こちらも問題なく動作しました。ちょっと文字が小さいですが、これは単にグラフィックオプションの問題でしょう。プレイに支障がないのは確認済。バリバリ重いFPSとかはどうか分かりませんが、軽めのゲームだけならゲーミングPCとしても利用出来そうです。

civ4_2018.png

重いゲームも動くのかもしれないけどまだ試してない。まあ私の場合、PCゲームは殆どメイン機でしかやらないのでそこはあんまり重要ではないのですが。

TYPEカバーの使用感は非常に良好。好みの問題もあると思うのですが、キーストロークが重すぎず、けどキーを押したという感覚はしっかりあるキーボードが好きなので、私の好みにはベストマッチしました。TYPEカバーの使用感が良すぎて、タブレットモードを殆ど使わないくらい。

ブログ用

使い始めた当初は、ファンクションキー使うときFn押しながらじゃないといけないの不便だなーと思ったんですが、これは単に私が知らなかっただけで、Fnキーを一回押したらFnキー押した状態で固定されました。らくちん。

強いて個人的に不便なことを挙げれば、Windowsキーが左側にしかないので、Windows + Lキーで画面ロックするときにちょっと不便、ってことくらいでしょうか?あまり当てはまる人がいなさそうですが…。

普段はこんな感じで、テーブルなりデスクの上に置いて使うことが多いのですが、

ブログ用

例えばバスや電車の中、あるいは机がない状況などだと、こんな感じで膝の上において使う場合もあります。伝われ。

サーフェス.png

背面のキックスタンドの角度を調整すれば、割と狭いスペースでもキーボード付きで使用出来ます。自宅で、リビングと私の部屋の階が違うので、PC作業をする時は子どもたちと話ができなかったのですが、リビングでだらーっと座って腿にSurface置いとけば子どもの相手しながらでも作業ができるので両立出来るようになりました。

デスクで使うときは大体マウスを装着して使うのですが、膝の上において使う時はマウスなしです。当初はキーパッドでせこせこ操作してたんですが、「タッチスクリーン使えばええやん」と気づいた後は、殆どパッドは使わなくなりました。PCモードでもタブレットと同じような感じでタッチスクリーン使えるのマジ便利。

重さの話なのですが、本体重量は800g弱、typeカバーが300gっていうところなので、合計すると1kgを越えます。持った時の重量感は「AtariのLynxよりちょっと重い」というところ。ただ、バッテリーの持ちがかなり良く、ちょっと出歩くくらいなら充電アダプタを持ち歩く必要がないので、その分感覚的にはかなりサクサクと持ち歩けます。

バッテリーの持ちについては、多分使い方によっていろいろ変わってくると思うんですが、私の場合「ブラウザとtween + テキストエディタをいくつか立ち上げて、wi-fiつなぎっぱなしの状態で、6時間くらい使ってまだ20 〜 30%くらい残ってた」という感じでした。多分7,8時間くらいは問題なく連続稼働出来るんじゃないでしょうか?これについては一回ちゃんと検証してみてから追記します。

ハード的にはほとんど不満はないんですが、唯一挙げるとしたら「充電器があんまりイケてない」という点。専用端子の充電器で、互換性があんまり高くありません。USBで充電できるようにして欲しかったっていうのは流石にないものねだりかもしれませんが、せめてもうちょっと軽いとよかったなーと。


ということで、長々書いて参りました。

結論を簡単にまとめると、

・そこそこ大きな買い物だったけど個人的には満足
・Typeカバーのキータッチ超つかいやすい
・タッチスクリーンとデスクトップの併用が想像していよりも便利だった
・LYNXより若干重い

そんな感じになります。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月14日

保守・運用の仕事の大切さを説明するのは、保守・運用の仕事の内なのか?


そらちょっと違うんじゃねえかなあ、と思うんですよ。

ちょくちょく思いついたことを書いて寄稿させて頂いているBooks&Appsさんに、こんな記事を書かせて頂いたんです。


この記事自体は、

・保守運用の仕事分かりにくいよね
・けど、分かりにくいってだけで表層な理解しかされずに、経営サイドに切られちゃうことがあるよ
・そういう場合大抵大炎上してめっちゃダメージになるよ
・切るなら切る、評価しないなら評価しないで、そうすることによるリスク、ベネフィットってものはきちんと把握した上でやらないといけないよね

ということが言いたかった記事でして、どっちかというとマネジメント側の話として書いたんですが。

この記事に対しての反応として、例えばtwitterとかで

・保守・運用をする側が、もっとその仕事の重要さをアピールするべき
・作業員が自分の必要性や専門性を主張するべき

とおっしゃる方がいまして。実のところ、以前からそういう風に、「評価されてない・必要性を認識されていないのは仕事をしている側の責任」という文脈に触れるケースは結構多いんです。

それ、本当にそうなのかなあ?と。もうちょっといっちゃうと、それは個人の評価の問題と、企業や組織のリスク・ベネフィット評価の問題をごっちゃにしているんじゃないかなあ?と思ったんです。

確かに、それが個人の評価の問題の話であれば、「自分はどれくらい貢献した」「自分の仕事はどれだけ重要なんだ」というのを評価する側にアピールするのは、ビジネスパーソンとしての個人の職責の内です。評価されたかったら、評価されるべき材料を提示しなくてはいけない。そこは間違いありません。

しかし、今回問題になってくるのは、「システムの保守運用」という仕事、それ自体です。

そのシステムに対する保守運用があることで、会社はどのようなベネフィットを得ているのか?

保守運用を切った場合、会社にはどのようなリスクがあるのか?

それは、切った場合のコストと見合うものなのか?

これらは全て、そこに働いている人個別の評価とは関係なく、組織を運営する上でのリスク評価、コスト評価の話です。

それ、何をどう考えても、主体となるのは経営側、マネジメント側なんじゃないかなあ?と。その評価が出来るか出来ないかっていうのはマネジメント側のリテラシーの問題であって、その責任を現場側に求めるのはおかしいんじゃないかなあ?と思うんですよ。

勿論、保守運用は上記記事でも書いた通り、そこそこ専門的な仕事であって、「何をやっているのかよく分からん」というのはある程度致し方ないところではあります。そりゃそうです。

ただ、「その仕事をすることでどんな効果があるのか」「何が守られているのか」「それをしないとどんなことが起きるのか」という諸要素を把握する時に、仕事の細かい内容なんて把握する必要ないと思うんですよ。少なくとも、保守運用を行わないとシステムの維持管理が出来ないこと、そのシステムがまともに動かないと何が起こるのか、その程度のことを把握しておくのはマネジメント側の当然のリテラシーなんじゃないでしょうか?

百歩譲っても、そういった情報、リスク、コストの把握、それはマネジメント側が主体となってヒアリングするなり情報収集するなりして把握するべき問題であって、「主張しなかった現場が悪い」となるべき問題ではない。「現場が主張しなかったんだから切られても仕方ない」なんて結論をつけるべきではない。

私はそんな風に思ったんです。

私自身、立ち位置を考えるとすればどちらかというとマネジメント側の問題であって、恐らく価値を理解出来ていない仕事も、重要性を把握出来ていないスキルも色々とあるんだろうなあと。

ただ、それについては、マネジメント側の責務としてきちんと把握しにいって、自分のリテラシーを高めていかなくてはいけないと。

そう考える次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:07 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月10日

ゲーム実況動画を楽しめない理由をもうちょっと掘り下げてみる


シロクマ先生から言及頂いていました。


不倒城は基本的にぼっちブログであって、他ブロガーさんと交流させて頂く機会が極めて少ないのですが、お声がけいただけると喜びます。折角なのでお返事を書こうかと思います。

ただ、シロクマ先生もこうおっしゃっている通り、



ここまで書いてみて、ゲームについての一般論をしんざきさんから演繹するのは意味がないような気がしてきた。それよりも、しんざきさんという一人のゲームプレイヤーのゲーム観やゲームモチベーションをもっと伺いたいとか、その異質性の成り立ちを知ってみたい気持ちが湧いてきてしようがない。


おそらく私自身の例はそこそこ特殊例かも知れず、いわゆる「ゲーマー」の中でも一般化しにくいケースかも知れません。それはご承知の上で読んで頂ければと思います。

さて。

前回、この記事では私は、単に「他人のプレイを楽しむというチャネルが自分の中にない」「ゲームは自分にとって「遊び」に近い」「人の遊びを見ても、自分が遊びたくなるだけ」と書きました。これはこれで私の中では正しいのですが、「何故そうなったのか」ということについては、そこまで掘り下げなかったつもりではあります。「楽しめる」理由を掘り下げるのは好きなのですが、「楽しめない」理由を掘り下げてもあまり面白い話にはならなそうな気がした為でもあります。

私には、「自分で遊ぶの楽しいぜ!」「みんなも遊ぼうぜ!」と呼びかける意図はあるのですが、とはいえ「ゲームを観る」楽しさを否定する意図は全くないのです。私に楽しめないとしても、それは飽くまで私だけの話であって、私以外のたくさんの人たちがゲームプレイ動画を楽しむのであれば、それは良いことだと思っています。楽しんでいる人に水をぶっかける意図は全くありません。


その前提の上で敢えて、私個人が「楽しめない理由」を敢えてもうちょっと掘り起こしてみますと、大きく二つの理由があるような気がしてきました。

その内一つは、シロクマ先生もこう書いて頂いている、


 この記事にもあるように、しんざきさんは『ダライアス外伝』に心臓を捧げていた時期があり、ハイスコア目指してPDCAサイクルをガンガン回していたという。その最中において、ゲームは自分でやるもの・自分で戦うものという意識が強まっていたことに疑問はない。

 それでも、『ダライアス外伝』とそこまで向き合う前後の時期に、ゲーセンなり駄菓子屋なりで仲間やプレイを観戦したり、年上のプレイヤーに憧れたりした時期はなかったのだろうか?

まさにこの話に関係しています。

「スパる」っていう言葉、皆さまご存知でしょうか?かつて、ゲーセンではごく一般的な用語だったのですが、最近はあまり聞かなくなっているような気がします。

要は「他人のプレイをこっそりと観察して、稼ぎや攻略テクニックを学習する(=スパイする)こと」なんですけど、スパイなんて言葉が使われてる通り、昔はこれ、「良くないこと」「道義にもとること」として扱われていたんですよ。つまり、他人からテクニックを盗んで、ライバルを出し抜こうとする行為だと思われていたんですね。

恐らく地域差もあれば店舗ごとの意識の差もあったのだろうとは思うのですが、少なくとも私が認識する限り、私が住んでいた地域って、この「スパる」行為についての警戒感、拒否感がかなり強い地域だったんです。

なるべく人が少ない、「スパられる」心配が少ない時間にプレイする、だとか。スパイ防止の為、店員と仲良くなって閉店後にプレイするだとか、仲間に視線を塞ぐ壁になってもらう、ギャラリーを排除してもらうなんて話すら、全然珍しくない文化圏でした。

時には、スパったスパらなかったで喧嘩が起きた、ゲーセン出入り禁止になったなんて話も聞いたことがあります。実際目撃した訳じゃないんで、ホントかどうかは知らないですけどね。

「得点稼ぎくらいでアホらしい」と思う人も、恐らくいるのではないでしょうか?ただ、少なくとも昔のスコアラー界隈では、それは全然アホらしいことでもなんでもない、真剣な、熾烈な情報戦だったんですよ。

当たり前ですが、youtubeもなければ、スーパープレイのビデオが簡単にみられるわけでもなかった時代の話です。

正直に書いてしまえば、私もあの手この手で他人のプレイを「スパった」ことはあります。わざわざ普段とは違うゲーセンに遠征して、見てない振りをしてこっそりと他人のプレイを観察したこともあれば、重要な稼ぎのヒントをその過程で見つけ出したこともありました。

ただ、それは少なくとも私にとっては、どこまでも「後ろめたい」行為であったし、道義にもとることをやっているなーという自覚もあったのです。

それは、何をどうひっくり返しても「楽しい」行為ではなかった。本来ならやってはいけないことを、勝つために必要だから仕方なくやっている。そういう意識でした。

一時期、ダライアス外伝は本当に、私の生活の全てといっても差し支えがないくらいのゲームタイトルでした。ただ、それだけに、この時期ダライアス外伝に絡んでおこなった行為、努力、工夫は、いい面も悪い面も含めて、その後もずっと尾を引くくらいの影響を私の中に残しているようなのです。

あれ以来、「他人のゲームプレイを観る」という行為が「楽しい」カテゴリーから外れてしまった、ある意味では「後ろめたい」行為にすら直結してしまった、という側面は、よくよく考えてみるとそこそこありそうな気がします。少なくとも、スーパープレイの動画を見る時に、私がどこかで「あー昔ダラ外でスパったなー」という記憶を思い出してしまうことは間違いのない事実です。一種のトラウマかも知れません。

もしかすると確かに、スコアのことなど何も気にしなかった子どもの頃、他人のプレイを目を輝かせて見ていた時期が私にもあったかも知れません。ただ、その感覚を塗りつぶすくらい、ダラ外に血道を上げた時期が自分の中で強烈だった、ということも本当なのだろうと思います。

そういう点では、例えば私が子どものゲームプレイを眺めることを「ゲーム観戦というよりは子ども観察」というのも、ある意味では自分をごまかしているのかも知れません。私は長男とゲームの話をするのが好きですし、時には長男のゲームプレイ内容を興味深く追いかけることもありますが、それを「子ども観察」とわざわざ換言するというのは、「ゲーム観戦ということにしたくないから」と無意識で思っているから、という可能性もあります。まあ、自分ではそこまで大げさな話ではないつもりではありますが…


で、シロクマ先生の個別の疑問にお答えすると、


 上掲リンク先を読む限り、しんざきさんが『ダライアス外伝』をやり込んでいたゲーセンは、ハイスコア狙いがそれほど盛んではなかったけれども絶無でもないように読めた。絶無でないなら、ゲーセンで仲間ができた可能性や、巧いプレイヤーのプレイに見惚れる可能性はあったかもしれない。


上記のような次第でして、「ゲーセンにはハイスコア仲間もいればライバルもいたが、お互いのプレイを観るのはマナーとして意図的に避けていた」というのが正解です。お互いのスコアは、ランキング画面でスコアネームだけで確認することが常でした。それはそれで結構楽しい人間関係ではありました。


 それとも、しんざきさんは他者に全く見向きもせず、非常にストイックにゲームをプレイしていたのかもしれないし、そこまでストイックになれなければ、有名店でない場所で『ダライアス外伝』で全一を獲ることなど、不可能だったのだろうか?

他人のプレイには非常に興味がありましたし、情報収集はむしろ積極的に行っていました。有名店でない店で、有名スコアラーに人脈がある訳でもない身としては、そうでもしなければ全一なんて無理だったろうなあ、と思います。



ただ、上記とはまた全然違うレベルの話として、私がただただ単純にゲームが好きであること、そして特に「自分が遊ぶ」ということにこそゲームの楽しさを強く強く見出していること、そこは先日の記事に書いた通りでして、それ以上の話ではありません。私は単に、ゲームを遊ぶのが好きなのです。動画を見る時間があったらゲームを遊びたくなるのです。

シロクマ先生がおっしゃるところの、「ゲームはプレイしてナンボ」精神は今後とも強く強く保持していきたい、出来れば回りにもそれを広めていきたいと。そう考える次第です。

ところで。

上の方で私は、「大きく二つの理由がある」と書きました。これ以降はもう完全に、ゲームすらあんまり関係ない個人的な事情なんですが、私コンテンツとしての「声」が実は苦手なんです。。。

これはなんでなのかよく分からないんですが、動画だろうがテレビ番組だろうがアニメだろうが劇だろうが、「声が出る視聴コンテンツ」ってそれだけでちょっと苦手で、例えばゲームでもオフに出来るボイスは必ずオフにしちゃうんですよ。アニメがあんまり楽しめない理由も大部分がそれです。

得意か苦手かっていうと苦手、っていうだけで、摂取出来ないって程じゃないので、例えば子どもたちを連れてアニメ映画観に行ったりすることもあるんですが。「実況動画」というカテゴリについて言うと多分それも楽しめない原因の一つで、撮影主さんの声が全く入っていないプレイ動画でないとそもそもあんまり観れなかったりします。

この原因は本当に謎なんですが、もしかすると下記のような話が関係してるのかも知れないなーとはなんとなく思います。


ただまあ、これは余談です。

ということで、今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 16:24 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月08日

俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ


たとえば、ゲームが好きだという話をすると、この間こんな実況動画が…みたいな話をされることがある。

たとえば、ゲームセンターCXというテレビ番組の話を振られる。面白かったねーという話になる。

その度に、ちょっとだけ心が痛む。それは、「ゲーム」というコンテンツに対する捉え方の違い、一つの文化を広い側面で楽しめる者と、楽しめない者の差、ほんのちょっとした心のささくれだ。

何故かというに、私には「知らない人がゲームプレイをしているところを見て楽しむ」という嗜好が全くないからだ。赤の他人のゲームプレイの動画を見ても私は楽しめないのだ。ゲームプレイにくっついた、小粋な会話を楽しむことも出来ないのだ。ただただ自分が遊びたくなるだけなのだ。「動画を見る時間があったらゲームがやりたい」と思うばかりなのだ。

これは勿論、例えばゲーム実況動画という文化を否定するものではない。むしろ逆で、ゲーム実況動画がゲームの裾野を広げたという点については、「ゲーム」というものがようやく、野球やサッカーのように「ただ遊ぶだけではなく見て楽しむ」というチャネルを広範に手に入れたものだと、喜ぶべきことだと思っている。

裾野は広い方がいいし、入り口は入りやすい方がいい。同じゲームという文化を楽しむのであれば、その楽しみ方はなるべく多面的であるべきだ。色んな楽しみ方が成立していいし、色んな楽しみ方が許容されていい。

ただ、それとは全く別問題、別会計として、私の中には「ゲーム実況」を楽しむというチャネルが存在しないのだ。これはむしろ、私がゲームを遊ぶ際のキャパシティがより偏狭であるということに他ならない。例えば私は、長男がゲームを遊ぶところを観察するのは好きだが、それは飽くまで「子ども観察」ないし「子どもを通してのゲーム体験」であって「ゲーム観戦」ではないのだ。ゲーム観戦に限っていえば、私はただひたすら「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」と思うばかりなのだ。

何故なのだろうか。

これは飽くまで私に限っての話なのだが、私はおそらく、どこまでもゲームを「コンテンツ」ではなく「遊び」として捉えているのだと思う。これはもう根本的な認識、体質とでもいうべきものであって、多分今更上書きしようにも出来ないことなのだ。

つまり、私にとってのゲームというものは、公園でやる鬼ごっこであり、かくれんぼなのだ。それは飽くまで「自分が入って、自分が遊んで、初めて成立する楽しさ」であって、外から見ていて楽しめる種類のものではないのだ。

私はおそらく、あまりにも「遊ぶ」楽しさにどっぷりと漬かり過ぎたのだろう。それはACTの楽しさであり、STGの楽しさであり、RPGの、SLGの、AVGの楽しさだ。あと一歩でステージをクリアできる時にタコミスで自機が死んだときの身をよじるような悔しさ、超強力な敵ボスを青息吐息でやっと倒し切った時の達成感、吐きそうな試行回数の末にようやくレアアイテムを手に入れた時の嬉しさ、難解なパズルステージの解法をあれこれ試してようやく見つけた時の驚嘆。

それら全ての対象が「私」であって、自分以外を向いているとそれを楽しむことが出来ないのだ。一種の麻薬中毒のようなものなのかも知れない。

それに対して、プロ野球やプロサッカーのような「コンテンツ」としてのスポーツであれば、「自分がプレイする」よりも「見て楽しむ」ということがメインとなることは当然である。現在、ゲームに対してそのようなスタンスで接することが出来る人も、恐らく以前よりずっと増えているのだろう。

それは良いことなのだと思う。

ただ、私自身について言えば、「自分で遊んでこそのゲーム」だというスタンスは恐らく変えようもないことだと思うし、出来ることなら「見る専」の人たちにも、「見る」を入り口として「遊ぶ」楽しさにも目覚めて欲しい、ガンガンゲームを買って遊んで欲しい、と考える次第なのである。


posted by しんざき at 07:24 | Comment(8) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

「勝つ」以外に楽しむ道がないゲームの弊害

こんな記事を拝読しました。


 対人ゲームと言うものの第一目標が「相手に勝つ」という事である以上、冷酷な事を言うようですが「勝つこと以外を目的にするプレイヤー」の居場所は狭いものであり続けると私は考えています。

 勝てなくてやめようと思っていたそのゲーム、頼むから強キャラ・強カードを使ってくれ。

 そしたらまた少し楽しく遊べるようになるかもしれないからさ。

おっしゃるところはわかるんですよ。確かに、「負けっぱなしだと面白くない、そのゲームを続けられない」「なら(特に初心者は)素直に強いキャラ、強いカードを使え」という筋立ては、実際のところ正しいと思います。

ただ、それに対してもう一つ問題があるのは、

・みんなが強キャラ・強カードだけを使っているとそれはそれで楽しめないし文句を言う人がたくさん出てくる

ということだと思うんです。

格ゲーでも、デジタルカードゲームでもなんでもいいんですが、「完全に公平なゲームバランス」などというものは実際のところないものねだりでして、どうやっても「強いカード」「弱いキャラクター」というのは出てきてしまいます。カードの強弱を全部真っ平にしたらそれ本当に面白いのか?というと勿論そんなことは全然なく、ある程度「強さ」を偏らせてキャラクターやカードの間に勾配を設けるのは、ゲームの面白さの中での必要条件ですらあります。

その為、ある程度「強キャラ」「強カード」「強い構築」というものはどうしても出てきてしまう。勿論程度というものはありますが、そこまでは前提と考えていいと思います。

そんな中、みんなが「強キャラ」だけを選択してしまうと、今度は「同じキャラ、同じ構築とばかり当たって面白くない」という文句が絶対に出てくるんですよ。

これは、「勝ちだけにこだわる」という人が多ければ多い程、また「強弱の勾配」が強ければ強い程明確な傾向になります。だから、あらゆる対戦ゲーム、あらゆるDCGは、「なるべく強弱の勾配を抑える、けどキャラクター・カード間の勾配やバラエティ自体はちゃんと作って、それを楽しめる」という、まるで綱渡りやシーソーゲームのようなゲームバランシングをし続けることになり、ちょっとでもバランスが崩れれば環境が強キャラ一色になって非難の嵐、みたいな話になるわけです。


これ、どうすればいいんですかね?


ちょっと話をDCGに絞った上で、一つの理想を言えば、

・どんなキャラ・どんな構築を使っても、プレイング次第で一定以上の勝率が得られる

という状態は一つの目指すべき地点と言えるのでしょう。「どんな構築を使っても」という時点で、「じゃあ全バニラでも勝てんのか」って話になってないものねだり感凄いので、まあ落としどころとしては「なるべくたくさんの構築で一定以上の勝率が得られる」くらいになるんでしょうけど。


ただ、もう一つの話をすれば、

・「勝てなければ面白くない」という地点にたどり着くのが速すぎる、それ以外の遊びの幅が狭すぎる

というのは一点、割と根本的な問題じゃないかと思うんですよ。


先日、冒頭の記事とはまた別に、こんな記事を拝読しました。


 勝って当たり前、負ければストレス。ゲームを始めた直後からこんな状態でゲームを続けて上手になるわけがない。楽しくないものに対して理解を深めようとする人間はなかなかいないはずだ。

  デジタルTCGからカードゲームを始めて「勝ちたい」と思うようになるのと、リアル紙ゲームからカードゲームを始めて「勝ちたい」と思うようになるのには、多くの場合はバックグラウンドが大きく異なっており、更にそこに至るまでの期間に大きすぎる差がある。


正直私、これ結構同感でして。「ゲームを始めると、殆ど即「勝つか負けるか」だけの空間に放り込まれてしまって、しかもweb上の情報もそれに特化している」って、今のDCGに共通する病だと思うんですよ。ハースでもシャドバでもドラクエライバルズでも、ゲーム名でぐぐると合わせて「最強デッキ」とか「tier」が提案されるようなご時世ですしね。

「勝った時の気持ち良さを最大化する」というのは、DCGとしてとても重要な要素だと思います。間違いないです。


ただ、それとは別に、「勝ち負けと別のところで楽しめる要素を充実させる」ということも、「勝つか負けるか」以前のところでユーザーを救済するべき要素として、重要な話だと思うんですよね。これがあれば、それこそ「勝ち負け」というゼロイチの世界に飛び込む前に、カードゲーム自体の楽しさを学べるかも知れない。

例えばHearthstoneであれば、アドベンチャーモードや酒場の喧嘩がある程度その役目を担っていると思います。まあ、酒場の喧嘩の場合結局勝ち負け絡んじゃいますけど。DQライバルズなんかは、正直現在ランキングモードっていう勝ち負け修羅道以外の楽しみ方が殆どないですね。現行環境のバランス自体は割といい感じだと思うんですが。

例えばDQライバルズで言えば、少なくともストーリーモード・アドベンチャーモードみたいなものは最低限導入するべきだと思いますし。デッキのオリジナリティが評価されるシステムとか、突拍子もないようなコンボが重要視されるシステムとか、あるいはそれこそドラクエ6的な「デッキのベストドレッサー」みたいなものを追及するモードとか、そういう要素があってもいいんじゃないかと思うんですよ。


ジョニー・ティミーに関わらず、「勝つ・負けるとは別の地点でも楽しめる」要素が更に充実してくれることを祈ってやまないわけです。


ちなみに、更にもう一つのソリューションとして、「負けても楽しい」という要素を導入するというソリューションもあるにはありまして、私はその一つの解答が「非ダメ脱衣」だと思っているんですが、これはまあだいぶ余談です。


被ダメ脱衣、いいですよね。魔界村はちょっとノーサンキューですけど。

ちなみに勿論ドラクエライバルズに被ダメ脱衣を導入しろという話ではなく、ゼシカやミネアならまだしもトルネコが脱ぐとか誰得感凄いので、それとは別の方向性を期待するところ大です。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:31 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月10日

妊娠・出産が「罪」でしかない社会

先日、こんなニュースを見ました。

一方、学校の勧めの結果、自主退学した32件のうち、生徒や保護者が通学や休学、転学を希望していたのに学校が退学を勧めたのが全日制で12件、定時制で6件の計18件あった。残りは、生徒らから明確な希望がなかったという。
 学校が退学を勧めた理由は、「母体の状況や育児を行う上での家庭の状況から、学業を継続することが難しい」が18件、「学校の支援体制が十分ではなく、本人の安全が確保できない」が8件、「本人の学業継続が、他の生徒に対する影響が大きい」5件、その他が1件だった。
これなんですけど、私、割と身近で同じようなケースを観測したことがあるんですよ。関係的には友人の妹なんですけど、やはり高校在学中に妊娠してしまって、本人や家族はなんとか高校に残れないかって希望したんだけど結局退学になってしまった、ってヤツですね。

勿論観測例としては1ケースだけなんで、一般化するつもりはさらさらないんですが、この記事で受けた印象とは結構食い違っていたなーと思いまして。

上の例でいうと、

・「本人の学業継続が、他の生徒に対する影響が大きい」5件

というケースに当てはまるのかも知れないんですが、退学をするよう言われた時の主要な理由が、

・校内の風紀が乱れて他の生徒への悪影響になるから

ということだったらしいんですよ。これ、実際に先生にそういわれたらしいですよ?

つまり、「妊娠」という行為というか結果自体が「悪」であって、それが他の生徒にまで波及する、風紀が乱れる、という話ですよね。それ、どうなのかなあ、と。

いや、確かに、「高校在学中に妊娠」というのが、色んな意味でデメリットが大きく、本来避けた方が望ましいことである、というのは分かるんですよ。体育の授業だって出られないでしょうし、生徒同士の接触も問題になるかも知れませんし、当然常時体調不良がデフォルトのような状況なので、学業にもマイナスの影響が出るでしょう。それが望ましくないことは理解出来る。そういう意味で、「学校の支援体制が十分ではなく、本人の安全が確保できない」という理由ならまだわかる。

けど、「ほかの生徒に悪影響が」って、まるでセックスと妊娠を「穢れ」みたいなものとして捉えて、それが広がるのを防がなくては、みたいな考え方ですよね?

実際今でも、「在学中のセックスなんてとんでもない」っていう考え方の先生はいますし、そこから「性教育自体を忌避する」みたいな斜め上の方向に繋がることもありますよね。七生養護学校事件でしたっけ。「寝た子を起こすことになる」みたいな、いやお前流石にそれはロジック自体がおかしいだろ的なヤツ。


ただ、そこまではいかなくても、妊娠という行為自体が「罪」であり、その「罰」として退学させる、みたいな向きは、正直かなり広範にあるような気がしているんですよ。実際、件の知人妹とその親御さんも、感覚的には完全に「懲罰」という認識で退学まで追い込まれてしまったそうなんです。妊娠させた側の責任はどうなんだ、とかそういう話以前に、そもそもなんで学校で「責任」という議論になるのか、という話なんです。


避けるべき妊娠というものは確かにあるし、その為に性教育をする。

ただ、それはそれとして、妊娠自体は決して悪いものではないのだから、万一妊娠してしまった場合はそのサポートをして、どうするべきなのかを考える。


そういう訳にはいかないんですかね?と思ったんです。妊娠自体を「罪」として扱ってちゃ、そりゃ少子化なんて解決するわけないだろ当たり前じゃん、みたいな。


上の高校のケースとはまた状況が全然違うんですが、最近は仕事関係での妊娠についてのニュースも立て続けに見ました。



これもまあ、高校生と社会人では状況は全然違うものの、「妊娠することを罪と捉える」という構図は似ていますよね。

結局根底には、セックスと妊娠というものを尊重しないというか、「制御出来なかった結果」「過ち、過失」みたいにしか認識していない向きがあって、それが「妊娠は罪」という構図を生み出しているんじゃないかなあ、と、そんな風に思ったんです。


少子高齢化は問題か?と聞けば、多分大体の人は「問題だ」と答えるでしょう。

ただ、その反面、妊娠を「皆でサポートするべき良い状態」と捉えることが出来る、そういう認識って実は全然広まっていないんじゃねえか、と。少子化対策以前の問題なんじゃねえか、と、ちょっと懸念を覚えた次第なんです。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 07:36 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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