2017年01月19日

「ゲームがアップデートされる」ということがいかに凄いことなのか、皆もっと認識した方がいい

昔、ファミコンで「なんてったって!ベースボール」というゲームがあったんですよ。みなさん覚えてますか?


1990年にサン電子から発売された野球ゲームなんですけど、その一番のウリが「親ガメカセット、子ガメカセット」システムだったんです。

本体のソフトの後ろに拡張スロットがあって、そこに子ガメカセットを差し込むことで、追加の最新データで遊べますよ、っていうシステムです。

概念としては、今でいう「DLC」の走りですよね。まあ、子ガメカセットだけでもそれなりの値段するってこともあって、どうもあんまり売れなかったようで、結局子ガメカセットって「OBオールスター」と「'91開幕版」の二本しか発売されなかったんですけど。


早い話、「ゲームの内容を後から追加する」っていうのは、かつてそれだけ大がかりな仕組みが必要なことだったんですよね。


特に家庭用ゲーム市場において、ゲームというものは基本「買ったら買ったっきり不変のもの」であって、例えばどんなに大きなバグがあっても、どんなゲーム上の問題があっても、それが「後から解決する」ということはほぼありませんでした。当然、「追加データが出てゲームが拡充される」ってことも、上記のような極少数の例外を除くと、ほぼあり得ないお話でした。

ディスクシステムで何本か出てた「書き換え版」だって、あれ半分新作みたいなものでしたからね。


それが、現在では、DLCあり、アップデートあり、バグフィックスあり、追加コンテンツありと、「ゲームは後から内容が拡充されるのが普通」という世界になっています。むしろ、「最初の段階でゲームがすべて評価出来るとは限らない」というところまで来ています。


これ、簡単なようですけど、ものすっげえ話だと思うんですよ。開発者にとっても、ゲーマーにとっても。


たとえバグが入り込んでしまっても、バグフィックスでやり直しが効く。「もっとこんな風に遊びたい!」「こんなシナリオが欲しい!」みたいな声にも、答えられる可能性がある。ゲームが、遊んでいる内に、更に面白くなっていく。こんなこと、かつてのファミコン時代・スーファミ時代には、想像することすらできませんでした。パソコンのゲームですら、後からパッチやPKがリリースされることはあっても、ここまで「アップデートが当たり前」の世界ではなかったと思います。


「アップデート」「追加コンテンツ」だけの話ではありません。ラグが少ない通信対戦。物凄い発展性をもったAI。kinectのような新しい入力体系や、その可能性。AR、VRの例を挙げるまでもなく、今この瞬間にも、ゲーム業界は「ゲームの可能性を広げる新しい技術」を眼前に見続けています。


昔、こんな記事を書きました。


・映画並みの綺麗な音、映像
・ワイヤレスコントローラー
・カラーの携帯機、ソフトは据え置き機のものがそのまま使える、テレビも見られる、ワイヤレス対戦
・画面に合わせて床が稼動するファミリートレーナー
・ゲームキャラと同じ動作をするコントローラー
・立体視出来るグラフィック
・実際に乗り込んで上下左右に動く筐体
・架空の世界に住む人達を、実際に通信回線でプレイヤーが演じるゲーム
・通信回線で色んな人と遊ぶRPG
・オンラインカジノ

こうしてみると、全く描写通りではないにせよ、殆どの「夢」が色んな形で実現していることが分かる。

確かに、「この時代をゲーム好きで生きることが出来て良かった」っていう時代が、かつてありました。80年台、90年台のあの時代、自由にゲームに触れることが出来たのは、私の人生においてかけがえのない財産という他ありません。今でも、「あの時代にリアルタイムでゲームが出来た人たち、凄いうらやましい」という声を聞くことは頻繁にあります。

ドルアーガの塔が、ゼビウスが、パックランドが、リブルラブルが、リアルタイムにゲーム業界に現れた時代。ダライアスが、奇々怪界が、バブルボブルが、ナイトストライカーが、リアルタイムにゲーム業界に現れた時代。

私にとっても「うらやましい」過去もありますし、「少しでもその時代にいられて良かった」と思う時代も勿論あります。


ただ、今の時代だって、いやこれから先の時代だって、十分に「ゲーマーにとって夢のような時代」であり続けているんじゃないかなあ、と。わくわく出来るような夢がかない続けている時代なんじゃないかなあ、と。

技術だけの話ではなく、すげえ面白いゲームも次から次へと生まれ続けているんじゃないかなあ、と。VRだって、ポケモンGOだって、それに当てはまるんじゃないかと。

我々ゲーマーは、今の時代、次から次に様々なゲームが生まれて、それが凄い面白いということを、もっと誇ってもいいと思うんです。他の時代に生きたゲーマーに対して、「どうだ、俺たちの時代はこんな凄いゲームが遊べるんだぞ!」と言っていい。それくらい、面白いゲームって今もたくさん出続けていると思うんですよ。


誇りを持って、ゲームを遊ぼう。


これから先、一体どんな「夢」が生まれて、そして叶っていくのか。一人のゲーマーとして、これからもそれを楽しみにしつつ、ゲームを遊び続けたいと思うわけです。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 06:54 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

陰謀論を簡単に信じちゃう人は、実務的な想像力があまりない人なのではないか


例えばここに、「○○という薬品が認可されないのは、既存の薬品が売れなくなって困る製薬業界の陰謀」「製薬業界が圧力を掛けているから、○○が認可されない」といった陰謀論が転がっていたとします。webでも割とよくみるタイプの陰謀論ですよね。


これを聞いた時、一般的な、あるいは実務的な想像力がある人は、大体これくらいの疑問は感じると思います。


・薬品の認可はどこの省庁のどの部署がやってるの?
・その省庁の、どのレベルの人たちに、どれくらい圧力をかければ認可に影響を及ぼすことが出来るの?
・その圧力は、どの会社の、どんな部署の人たちが、どれくらい組織的にやってるの?その予算は?予算の監査は?
・そもそも圧力って具体的に何?
・コンプライアンスチェックはどうやってかいくぐってるの?
・○○が認可されると、具体的に既存の薬品はどれくらい売れなくなるの?
・それを避けることによるベネフィットは、圧力をかける為のリスクやコストと見合うものなの?そういう見積もりって誰がやってるの?
・なんで陰謀論以外の、明示的な証拠を伴ったスキャンダルにならないの?報道も抱き込んでるの?その予算は?予算の監査は?
・ちなみに、今までも色んな新薬が認可されてるけど、それによって売れなくなった薬品はなかったの?そっちはどういう基準でスルーしたの?


いや、例えば、の話なんですけどね。

陰謀論の種類にもよりますが、多くの陰謀論は「実務的なディテール」が非常に曖昧です。「××の陰謀」という、その××の中身をちゃんと明示していないものがひじょーーに多いんですね。

いやまあ当たり前といっちゃ当たり前の話で、実務的なディテールまで明確になっていればそれは陰謀論ではなく明示的な告発ですから、そもそも陰謀論としてカテゴライズされないわけですが。それでも、「どう見ても最低限必要な情報」がそこに全く存在しない、という感覚にはかなりびっくりすることがあります。


例えばの話、上記の新薬の認可陰謀論の話であれば、実際に統括しているのが厚労省であり、その中に薬事・食品衛生審議会というものがあり、新薬の認可なんかはここで最終的に承認されているみたいだな、ということは、調べれば殆ど一瞬でわかります。

もうちょっと具体的に言うと、医薬品医療機器総合機構という厚労省所管の独立行政法人で信頼性の調査やGMP適合性調査を行って、そこで作られた報告を元に薬事・食品衛生審議会の部会で承認されてるみたいですね。



で、この審議会は議事録やら委員名簿やら添付資料やらも一通り公開されておりまして、誰でも観ることが出来ます。


一例として、下記のような議事録があります。



当然、議事録にはバイネームで具体的な出席者まで記録されています。この中のどれくらいの人数を抱き込めば審査に影響を及ぼせるのかはよくわかりませんが、地位も相当な収入もある人たちを、具体的に相当数買収する、ないし表に出ないような形で圧力をかけるのはそこそこ大変そうな気がします。誰にいくら払えばいいんだよ、って話ですね。

ちなみに、医薬品医療機器総合機構の審査業務についても、こちらであらかた概要を確認することが出来ます。審査・安全業務委員会については、同じく議事録が公開されています。流石に審査中の情報が公開されることはない筈ですが、運営自体はクリアに行われているように見受けられます。






陰謀論の特徴の一つとして、「陰謀論の主体となっている組織や構成員が非常に曖昧」というものがあります。たとえば「政府」とか「官僚」とか「○○業界」とか「マスコミ」とか、ぼやっとした組織や団体が主語になることが実に多いんですね。

しかし、組織にしても団体にしても、実際には人の集まりであって、実在する人間が動かしています。何故か、陰謀論が「人」を責める方向に行くことってなかなかないんですよ。(例外もありますが。首相の名前があがる陰謀論とか)

上の例で言えば、医薬品医療機器総合機構にせよ薬事・食品衛生審議会にせよ、中身もやっていることも構成人員もクリアになっているんだから、怪しいところがあれば直接構成人員に当たって調査することすらできそうなのに、陰謀論をとなえる人たちはなぜかそれをしない、という話です。最初から姿が見えているものを、わざわざ曖昧な形にして陰謀論に仕立てている訳です。


圧力云々の話だけではありません。行政法人には勿論業務監査が入りますし、企業の側にも当たり前ですが監査があります。コンプライアンスチェックもあります。実際に何かおかしなお金の流れを作ろうとすれば、かいくぐらないといけないチェックは相当数に登りますが、それをくぐり抜けるだけのベネフィットが本当に企業側(これも、具体的にどの会社のどの部署?という話もありますが)にあるの?という話も当然あります。で、それについての「怪しい」という話が、何で内部の証拠つきのリークという形でなく、外部のよくわからない人たちの陰謀論という形でしか出ないのか、という話もあります。


要は、「製薬業界が圧力を掛けているから、○○が認可されない」という陰謀論は、ほんの10分くらいネットを漁るだけで、「これどうなってんの?」という疑問点が山ほど出てくる、という話なんです。


そういう疑問点の辻褄を全部合わせることを考えれば、「単に治験で効果が認められないから新薬として承認されてないだけなんじゃないの?」と考える方が、多分妥当ですよね?少なくとも私はそう思うんですが。



これらは全部「例えばの話」ではあるんですが。陰謀論の大体8割から9割くらいは、似たような過程で似たような疑問に突き当たります。「この陰謀論、具体的にはこういう人たちが対象になってるってすぐわかるけど、なんでわざわざ曖昧にしてんの?」であるとか。「予算とかコンプラチェックとか監査とかどうなってんの?」とか。


いや、勿論すべての陰謀論がそう、というわけではないので、中には実際にあたっている陰謀論もあるのかも知れないですが。少なくとも、webやらtwitterやらで流布されている陰謀論の大多数は、実際にちょっと「具体的な中身を想定」すれば、一瞬で「あれ?なんかおかしいぞ?」ということがわかるものばっかりであるように思います。


陰謀論を簡単に信じてしまう人たちが、何故そういう具体的な疑問を抱かないのか、私には単純に不思議です。上の新薬絡みの話でいえば、まっとうな審議を経て薬品を承認している審議会に疑問を抱くなら、何故その前に陰謀論の方に疑問を抱かないんですか?という話ですね。

一応断っておきたいんですが、「ちゃんとした組織の行為に疑問を挟むべきではない」という話ではないですよ。上の新薬承認の話だって、問題点は恐らく色々あるんでしょう(総務省からの審査速度改善についての勧告とか、話出てましたよね)。 ただ、「根拠がよくわからない陰謀論よりは既存のフローや組織の方がなんぼか信頼性はあるんじゃないの?」ということです。


世の中では、陰謀論を信じ込みやすい人を「想像力豊かな人」と言ったりすることがありますが、私はどちらかというと逆で、あまり想像力が豊かでない人の方が多いんでないかなーと感じます。時には、陰謀論の方について、「その陰謀論、なんかおかしくないか?」であるとか、「その陰謀論を唱えることで、唱えている人はなんか得してないか?」といった方向での疑問を感じてみるのもいいんじゃないかなあ、と思う次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 20:16 | Comment(24) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

俺たちは「not for me」を配りあいながら生きている


先に断っておきますが、雑感というか、あんまりまとまった話ではないです。



「あ、ここは俺がいる場所じゃなくなったな」って思うことがあります。

「あ、この漫画、俺が読みたいって思う作品じゃなくなっちゃったな」って思うこともあります。


好みは人それぞれ、読みたいものも人それぞれ、書きたいものも人それぞれ。最初の段階で「これは俺向きじゃない」って思うことは勿論あるけれど、後から「最初は好きだったけど、最近はちょっと触れたいと思うコンテンツじゃなくなっちゃったな」と思うようになることも、そりゃあると思うんです。


それは寂しいことだけど、仕方ないことでもある。必然ですらある。変化しないコンテンツは、既に完結したコンテンツだけです。場合によっては、完結したコンテンツすら、「後からニュアンスが変化する」という形で変化することはあり得るかもしれません。

変化する限り、「向き不向き」は必ず発生する。だから、後から「not for me」になったとして、それは寂しいけれど必然のことなんです。もしかすると、昔は「not for me」だったものが、変化して自分好みのコンテンツになることだってあるかも知れない。悪いことばかりでもない。


何を書いてるんだと思われるかも知れませんが、きっかけは下記の匿名ダイアリーの記事を読んだことです。




書いてあることについては今更繰り返しませんし、私も前




こんな記事書いたんで、共感するところは共感するところなんですが。

ただ、考えてみると、「変化にともなって自分が見たいコンテンツではなくなる」ってことがあり得るのは、別にはてブみたいなwebサービスに限らんなあと。なんでもそうだと。この不倒城っていうブログだって、誰かの「not for me」になったことはそれこそ山のようにあるんだろうなあ、と。


いや、ソーシャルブックマークみたいなwebサービスと個人ブログを比べてどうすんだ、ってことは一応理解してますよ。ただ、別にブログがどうだwebサービスがどうだというよりもっと広範な、コンテンツ一般の話というか。あんま厳密な話ではないんです。


「コンテンツ」というもやっとした枠で考えると、色んな人が色んなコンテンツを抱えて生きているし、それらは生きている限り変化し続けるものだろうなあ、と。となると、お互いに「好みから外れる」ことは当然あるし、「新たに好みになる」ということも当然あるんだろうなあ、と。


不倒城を「あんまり読みたいコンテンツじゃなくなったな」と思う人はたくさんいるでしょうし、多分それと同じくらい「読みたいコンテンツになってきたな」と思ってくれる人もいるんじゃないかな、と。


それはいい悪いの話ではなく、当然、必然の変化なんだろうなあ、と。


だから、自分が誰かの「not for me」になることは、悲しいことかも知れないけれど、恐れるべきことではない。誰かが自分の「not for me」になることも、寂しいことかも知れないけれど、諦めるべきことでもある。


いつかまた「not for me」でなくなる時がくることを、あるいは別の「for me」が見つかることを期待して。今日も、誰かにとって「for me」になるといいなあと思う記事を、せっせとボトルに詰めてwebの海に放流しようと思うわけです。


それだけです。

posted by しんざき at 10:48 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

「究極超人あ〜る」をげんしけん好きな人に勧めるのは間違っているかも知れない

ちょっと前なんですが、こんな記事を見かけました。



究極超人あ〜る、ご存知ですか?ゆうきまさみ先生が描かれた、いわゆる写真部であるところの「光画部」と、そこに現れたアンドロイド「R・田中一郎」を中心とした高校ドタバタコメディです。サンデーへの掲載が1985年からの3年間なんで、もう30年前の漫画ってことになりますが。



私自身は「究極超人あ〜る」が好きですが、ある作品が面白いかどうかは人それぞれです。そして、「面白くない」と感じたものを無理に面白がる必要はないんじゃねーの、とも私は思います。だから、究極超人あ〜るが面白くない、という話なら全然かまわないと思うんです。

ただ、この方がどうなのかは知りませんが、私の知人でも以前、「究極超人あ〜るの何が面白いのかよくわからん」と言っている人がいたんです。

その人とちょっと話をしまして「あー」と思ったことなんですが、彼、「げんしけんが好きだったらこれも読んどけ」って言われてあ〜るを勧められたらしいんですね。

確かにありましたよね以前。「げんしけん」や「銀の匙」みたいな、緩めのサークルもののルーツとして、究極超人あ〜るが取り上げられた文脈。

それはちょっと「入り方」を間違えたかもな、と私、思ったんです。期待していたものがそこにない、というちょっと不幸な入り方。もしかしたら同じようなルートをたどってしまった人、結構いるんじゃないかと。


確かに、「オタク系サークルの日常をクローズアップした作品」として究極超人あ〜るを考えれば、げんしけんのルーツとして考えてもおかしくはないと思うんです。実際、げんしけんの作中でも、割と最初の方であ〜るのオマージュとおぼしき描写がいくつかありましたよね。


ただ、漫画の立て付けというか、物語の類型としては、げんしけんと究極超人あ〜るって全然違います。正反対に近いと思います。

何故かというと、げんしけんが「日常をクローズアップした群像劇」であるとすれば、究極超人あ〜るは「異邦人ものコメディ」であるからです。



「げんしけん」には勿論様々なキャラクターが登場し、様々な人間模様を繰り広げます。ただ、彼らはほぼ例外なく「作中の日常」にパッケージされた人達、言い方を変えると「(変わったところはあっても)普通の人達」であって、個々に色々なドラマや事情を抱えてはいるものの、それらが作品世界の枠を踏み越えることはありません。「異常」があっても「異質」はない、とでもいうんでしょうか。かつ、げんしけんは「群像劇」であり、だれか一人を中核に一本のストーリーを構成した物語ではありません。途中からはラブコメ的要素もかなり濃くなります。


一方、「究極超人あ〜る」は、R・田中一郎という「異邦人」をクローズアップして、彼が出力する異常性、異質性を物語の中核として話が進む作品です。

あーる1.png

1巻におけるあ〜るの登場シーン。学ランの自転車姿で池から飛び出してくる、というのは相当インパクトがある登場の仕方ですよね。

彼は首が抜けますし、首が周りますし、怪力を発揮して鉄格子をあっさり曲げますし、味方コートからバスケのゴールを何十本も連続して決めますし、懐から電源プラグを取り出してお米を炊きます。何故ならアンドロイドだから。

そして、あ〜るの作品中でもそれはきちんと「異常なこと、異質なこと」であり、周囲は(慣れることはあっても)きちんとそれに振り回されます。あ〜るは実にオーソドックスな「異邦人」なのです。

勿論個々のストーリーとしては、さんごやしいちゃん、鳥坂先輩やその他のキャラクターがクローズアップされることもありますし、Rの影が薄いことも勿論あるんですが、基本的なお話の作りは大体Rが何かしらのトラブルの焦点になることを起点に動きますし、Rの産みの親である成原博士は随所随所で滅茶苦茶なトラブルを起こしますし、物語はR・田中一郎が池から登場することに始まり、彼が池から登場するところで終わります。


以前も書きましたが、「異邦人もの漫画」というのはいわゆる異人類型の物語構成を使った漫画でして、勿論いろんな名作があります。オバQしかり、うる星やつらしかり、レベルEしかり、ワッハマンしかり。




定義はというと多分

・ある世界観や文化から隔絶された「異邦人」が主人公、あるいは準主人公といったメインキャラである

・異邦人が生み出す軋轢が、周囲または異邦人自身の戸惑いを生み、それが頻繁に物語の主軸になる

という辺りになるかと思います。特に初期の究極超人あ〜るはピッタリここに当てはまるんですね。中盤以降はあ〜るの影が薄いこともありますが、それでも随所随所で彼は異質性を前面に出しますし、物語の起点になります。


あ〜るは、「自分の異質性で周囲を戸惑わせる」タイプの異邦人です。彼が「周囲との軋轢に戸惑う」描写は、多分作中で1回もない筈です。あ〜るの異質性で周囲がドタバタするのを見て、読者は楽しむ。

あーる2.png

ことあるごとに首を引っこ抜かれるあ〜る。関係ないですが、「でかい頭だな君は」のコマは、遠く「機動警察パトレイバー」で、後藤隊長と太田さんの最初の会話としてセルフオマージュされます。

また、基軸がコメディだから当然と言えば当然なんですが、究極超人あ〜るの人間関係の描写はかなりさらっとしてるんですよね。光画部の面々は仲は良いんですが、個々で仲が深まったり逆に仲違いしたり、という描写は滅多にありません。唯一それっぽいのは3巻のしいちゃん光画部離脱の辺りくらいでしょうが、それもすぐ元の鞘に収まります。あ〜るが何を考えてるのかは終始よくわかりませんし、ラブコメ展開も(全くという訳ではないのですが)殆どありません。

その点も、例えばげんしけんが「緩いながらも段々と変遷していく人間関係、人間模様」を一つの重要なエッセンスにしているのとは大きく異なるところで、げんしけん好きな人にあ〜るをお勧めしにくい理由の一つでもあります。


そこから考えると、「げんしけんが好きな人」よりも「オバケのQ太郎が好きな人」の方が、究極超人あ〜るという漫画を楽しめる確率は遥かに高いのではないか、と私は考えるわけなのです。いや、私はどっちも好きですが。


最初に書いた通り、私自身は「究極超人あ〜る」が好きなんですが、内容自体は結構ベタなコメディなんで、好き嫌いは人によって分かれそうな気はします。ベタな学園ドタバタものが好きな人であれば、結構読んで損はしないんじゃないかと思いますので、未読な方はいかがでしょうか。7巻でしたっけ、京都・奈良への修学旅行編とか好きです。


あと大戸島さんごさんは可愛いと思います。



長々書いて参りました。1ミリグラムも新年っぽさがないエントリーでしたが、今更のことなので気にしないことにします。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 12:46 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月04日

読者のニーズなんて一かけらも気にしないブログ書きでありたい

なんというんでしょう。正直なところ、潮流そのものはなかなか変えようがないとも思いますし、個人が頑張ってどうにかなる話でももはやない、とも思うんです。

同じようなスタンスの人に増えて欲しいとか、ブログ書きとしての矜持ということですらありません。ただ、私はこうして行きたいという話、言ってしまえば単なる所信表明というか、方針の確認です。


なんの話かというと、webにおけるPV至上主義の話です。


Twitterでこんな記事を教えて頂きました。



大統領選のようなマクロな話から、welqやまとめサイト、あるいははてブのようなミクロの話まで、2016年という年はほんとーに、
いやという程「PV至上主義」の弊害を見せつけられた年だった、と思っています。正確には、以前から山のように積みあげられていた弊害が、これ以上ないくらい可視化された年、というべきでしょうか。


興味をひく記事がいい記事だ、読まれる記事がいい記事だ、読ませたい、読まれたい。たくさんの人に話題にして欲しい。


その欲求やスタンス自体が悪いとは思いません。書いたら読んで欲しいというのは自然な欲求ですし、それが収益と結びつくなら余計そういう欲求が表出しやすくなるもんでしょう。

ただ、その結果として、剽窃や盗作が横行したり、ねつ造や炎上狙いの記事・発言が飛び交ったり、どこかで見たような記事が相互ブクマでホッテントリに載りまくったりしているのをみていると、「もうちょっと何とかならんのかなあ」と思ってしまうのは致し方ないところなのではないかと思うわけです。

てっけんさんのツイートを引用します。

これ、てっけんさんは企業のメディアやwebメディアを想定されていると思うんですが、個人のブログでもほぼ同じような状況が多々見られると思っているんですね。昔からブログやらニュースサイトやらやっている人達が警句を発しても、「え?何が悪いの?」「老害が嫉妬してなんか言ってる」くらいにしか捉えられていないことが多いように思います。


もう10年以上前のことですが、「ブログを書く目的」は、「書きたいという欲求」と「反応が欲しいという欲求」の二つに支えられている」という話を書いたことがあります。


私は当時、「書きたいという欲求と反応が欲しいという欲求、二つがバランスを崩すとあんまりよくないことが起きるんじゃないかなあ」と思っていました。そこから考えると、現在の状況、「反応が欲しいという欲求」が収益モデルと結びついて大きく肥大化し、いろんな弊害が発症してしまっているメディアやブログが多くみられる、ような気がしています。


個別個別に、たとえば剽窃や盗作を取り締まったり、著作権侵害を訴えたりといった対応をすることは可能ですが、根本的なところで「PV至上主義」とでもいうような潮流が堅持されている限りは、同じような弊害はずっと発生し続けるでしょう。Googleが根っこから検索ロジックを変更したり、あるいはアドセンスの方針がどかーーんと変わったりしない限りは、状況が大きく変わることは期待出来そうにありません。


だから、せめて自分は、そういうところに飲み込まれないでいたいなーと。


書きたいという欲求に忠実に、読者のニーズなんてひとかけらも気にせず、自分に書けること、自分にしか書けないことを書き続けていきたいなーと。読んでもらえるのはありがたいことですが、たくさんの人に読んでもらえたとしたらそれは飽くまで「私が書きたいこと」が何かを堀当てた結果であって、始めから鉱脈を狙って既存の炭鉱を掘り返しまくったり、あるいはよその炭鉱から鉱石を盗んでくるようなことはしたくないものだなあ、と。


「「ニーズ」に死を」とまでは思いませんが、元々あちこちにある「受けそうな傾向」「受けそうな記事」を探るよりは、そんなこととは全然関係ないところで好き勝手やっていた方が、新しい何かにつきあたる可能性は高いんじゃないか、と。


誰に勧めるわけでもありませんが、少なくとも自分はずっとそういうスタンスでやってきたし、今後ともそういうスタンスでやっていきたい、と思うわけなのです。


読者の皆様にこういうのも申し訳ないのですが、私はみなさんのニーズを一切斟酌しません。今までもこれからも、自分が思いついたこと、自分が書きたくなったことだけを書きます(あとレトロゲームの記事)。それでも「なんかこれ面白そうだな」と思ったら読んでやってくださいませ。



今日書きたいことはそれくらいです。


あ、あと全然関係ないですけど個人的かつピュアな欲求としてNAVERまとめには潰れて欲しいです。ご検討の程、よろしくお願いいたします。

posted by しんざき at 13:24 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

しんざきが個人的にオススメする2016年不倒城のおすすめエントリー

どうもしんざきです。2016年もぼちぼち終わりですね。

しんざきは年末年始は父母・義父母宅で過ごすことが恒例になっておりまして、奥様こどもたちと一緒に、昨日から私方の実家に来ております。年始は奥様実家にお邪魔する予定です。

2016年もそれなりの数の記事を書かせていただきました。今ざっと数えたら221個くらい書いたようですが数え間違いの可能性は否定しません。3個より多い数はたくさんで十分だ。

で、一応年の瀬ということで、今年書いた記事でオススメの記事をいくつかピックアップしてみたいと思います。


○レトロゲーム系でオススメの記事

当ブログのメインコンテンツです。たまに知らない人もいるんですが、しんざきはレトロゲームブロガーなんです。皆さんご存知でしたか?
基本的に当ブログでもっともパワーを注ぐ記事なんですが、パワーを注げば注ぐほど読まれにくくなります。不思議。



任天堂初期のゲームの中で、「協力プレイの体裁だけど実は対戦の方が熱い」ゲームって色々ありますよね。マリオブラザーズ然り、アイスクライマー然り、クルクルランド然り。うっかりするとアーバンチャンピオンみたいな正式な対戦ゲーより熱かったりする。

そんな中でもバルーンファイトは本当に出色なんで、日本全国のバルーンファイト対戦シーンにもっと盛り上がって欲しいと思って書きました。皆さんバルーンファイト対戦しましょう。



ふと必勝作戦メチャガイドを読みながら思ったことを書きました。この経験をした人はほんとーにたくさんいる、と私は信じている。俺たちは一人じゃない。
ゲームが変わっても、プレイヤーが変わっても、あのころの攻略本は変わらない。



このテーマ、いつかやろうやろうと思ってずーっと忘れてたんですよね。もうちょっと勢力が分散してくれればもっと面白かったんですが、結果的には黒圧勝という感じでした。けど俺は白派閥だ。



SFC版幽白本当に面白かったし、もっとこのタイプのゲーム出ていいとつくづく思ってるんですよ。妖力アップ系の特技は熱い。熱いが隙がでかすぎて正直あんまり使えない。「邪眼の力をなめるなよ!」はなんだかんだで名言だと思います。



プレイした上で語りたいですね。今までも、これからも。


○子育て系でオススメの記事

なんだかんだで育児系の記事も結構書いてます。レトロゲームブロガーですが三児の父です。


電車の中はマジカルワールド。長男はほっといても電車好きとして楽しめるようになりましたが、長女次女はまだまだ退屈しています。今後とも技を磨いていきたい。



これ、個人的には本当に理解できなかったんですが、読者の反応を見ると「あーいるいる」って感じで結構びっくりしました。礼儀をきちんと子供に伝える子育てがしたいなあ。



スプラトゥーンのお話。適度にかかわるのであれば、ゲームをすることだっていい経験になるんじゃないかと思ってます。


○漫画とかその他のゲームについてのオススメ記事


新しいゲームが出た時の攻略界隈はいつも本当にわくわくしますが、civ6のスタートダッシュは本当に感動しました。直近だとちょっと停滞しちゃってる感はありますが、今後も期待したい。



ドラえもんは本当に偉大です。魔境編についてもまたその内書きたい。



ダラバーCS、本当に最高ですマジで。ダライアスの新作が遊べて、しかもちゃんと面白いとか幸せすぎる。



そんな大した話ではないんですが。神トラの氷の神殿はホント難関だった。



本当に!!面白いので!!!あと内膳の奥さんかわいい。


○それ以外のオススメ記事


切なる願いとして。私は、私に書けることしか書けないし、私に書けることは私にしか書けないと思っています。



こういうくだらない記事の方が正直筆は乗ります。20分くらいで書いたんじゃなかったっけか。



昔のMMORPGは結構色んな意味で魔境だったみたいです。最近どうなのかは知りません。


その他、たくさんの人にブックマークされた記事についてはこちらなど参照していただければ。正直ブックマーク数の多寡ってその記事が面白いかどうかをあまり保証しないとは最近思うようになってきたんですが。

はてなブックマーク:不倒城の人気エントリー

あと、今年はBooks & Appsさんに寄稿するようになりました。何書いてもいいといわれているので思いついたことを適当に書いてます。たまに「これメディアの方向性的に大丈夫なのか?」と思うことも結構あるんですが、心広く許容していただいてます。よかったらどうぞ。


この辺は結構たくさんの人に読んでいただいたみたいです。






ということで。今年書いた内でのオススメ記事についててきとーに書いてみました。

来年もくだらない記事をいろいろ書いていきたいと思いますので、皆さんよろしくお願いします。よいお年を。

posted by しんざき at 17:03 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

岩明均作品で一番美人なヒロインは「雪の峠・剣の舞」の渋江内膳の奥さんではないのか

いや、私、岩明ヒロインって全般的にすげー可愛いと思っている派閥なんですが、その中でもトップなのが内膳奥さんなのではないか、という意見の持ち主でございまして。


「雪の峠、剣の舞」については以前も書きました。私自身はこの作品を、岩明先生の短中編の中でも、いや日本の一巻完結型の短中編全部を見渡してもトップクラスに面白い一作だと考えております。

以前書いたエントリーは↓です。


以下、一応画像が多いので折りたたみます。

続きを読む
posted by しんざき at 21:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月20日

上西小百合議員の給付型奨学金についての発言に関する突っ込みどころを整理してみる

ちょっと突っ込みどころを整理してみたい衝動に駆られたので、自分用の整理です。

下記のようなまとめを読みました。なかなか興味深い案件だと思います。


関係がありそうなツイートはこの辺です。心温まる発言が並んでいます。寒さ深まる中、心があったかくなる案件は貴重ですよね。


複数の突っ込みどころが同時に頭に浮かんできてちょっと途方に暮れてしまったので、面倒くさがらずにちゃんと整理してみようと思いました。

まず、上記ツイートについての突っ込みどころは、

・学歴別の年収については明確な統計があるのにそれを無視して「中学から働いたって稼げる」という特殊例の話をしている
・大学の教育効果を無視、ないし否定している
・給付型奨学金を受けるか受けないかは選択の問題であり、別に「中学から働く、社会に出てから勉強する」という選択肢を否定するものではないので、このツイート自体が「大反対」の理由になっていない
・そもそも上西議員は自サイトで「返済不要!給付型奨学金制度の拡充」という政策を掲げていた(アーカイブ) なお、現在はその記載は削除されている(12/20になってから削除した模様)
・自身は裕福な家庭であることを明言した上で、裕福でない家庭の選択肢を排除しようとしている

ぱっと思いつくところだとこの辺りが主要な突っ込みどころになるでしょうか。

書いてる間に突っ込みどころが増えたんですが、

・自分の考えに反する政策を支持者・有権者向けの公約に掲げていたことを明言している
・維新を離党したのは2015年4月4日であった為、そこから一年半以上の期間が経っているにも関わらず、自分の意志に反する政策を自分の公式ホームページに掲載し続け見直しもしていなかったことを明言している


いやその、正直大丈夫なんでしょうか…。認証済アカウントであることを思わず三度見しちゃうレベルの発言なんですが…。


なんかもう細かく反論するのにも徒労感があるのですが、そもそも政策は多数の国民の生活に寄与するものなので、個別の特殊例ではなく、統計で議論しないと意味がないですね。「大学行かなくても稼ぐ道はある」は政治の発言ではありません。「大学行かない方が稼げる」「大学なんて不要だ」なら政治の発言になり得るかも知れません。

そして、学歴によって年収に格差が生じることについては、当たり前ですが明確な統計が存在します。

大学・大学院卒が402.5千円(前年比1.5%増)、高専・
短大卒が308.8千円(同1.6%増)、高校卒が288.2千円(同0.5%増)、女性では、大学・大学
院卒が287.8千円(同1.1%増)、高専・短大卒が252.5千円(同1.4%増)、高校卒が207.7千円
(同1.0%増)となっており
笑うしかないくらい明確ですね。「大学に行けない」「大学を卒業できない」ことによって、統計的にこれだけの賃金差が出てしまい、さらにこれが格差の固定につながってしまう。かつ、奨学金の返済も、もとより裕福でない対象家庭にとっては大きな負担になってしまう、だから格差是正の為にも返済不要の給付型奨学金を作りましょう、というのがロジックなわけです。筋通ってますよね。


それに対して、「中学から働いたって稼げるから」「本当に勉強したいなら社会に出てからだってできるから」大反対、というのは正直いってわけが分かりません。理解するまでに3段階くらいの思考の飛躍を必要とするレベルです。アングリーバードかよ。

百歩譲ってこの政策にコミットしないとしても、利用したくない人は利用しなければ済むわけです。「中卒高卒で働く」という道が、この政策で閉ざされる訳では全くない。そういう道を選びたい人は選べばいいわけです。なのに大反対、というのはより一層わからないですね。格差を是正したくない、くらいしか理由が思いつきません。

大学自体の教育効果については議論の余地が色々とありますが、少なくとも社会的に見た大学の立ち位置は「専門的な人材養成」なので、政治に携わる人が「大学行く必要ねーよ」という発言をするとしたらそれなりの論拠が必要になりそうですね。ただでさえ研究者不足が進んでるんですが、企業の研究力の拡充とかどうするんでしょうか。


あと、これはあまりロジカルな話ではないんですが、「私はお金持ちで大学にいけました。けど貧乏な君たちは無理して大学にいく必要なんてないよ!!」というのはちょっとその、割とロックンロール寄りな発言なんじゃないでしょうか。ご本人も貧乏で苦労された上で、とかならまだ話は分かるんですが、「本人は苦労していないことを明言しつつ、他人には苦労を勧める、ないし強制」的な構図がかなり熱い。



それと、後ろに挙げているツイート、これ大丈夫なんでしょうか…仮にも現職の衆議院議員が、「有権者が参照する自分のホームページに、自分の意志に真っ向反する政策を記載していて、しかもそれは党に言われて出したもので、しかもそれを離党してからも1年半放置していた」ことを明言しちゃうってちょっとエキセントリック過ぎて今日がエイプリルフールじゃなかったかを冷静に疑っちゃうレベルなんですが…。離党した時点で政策の見直しくらいしましょうよ。



なんか書いてる内にくらくらしてきたので一旦項を閉じます。後で追記するかも知れません。



-----------------------------------------------------------------------
(追記 16/12/21 07:45)

「こんな議員を当選させた有権者は〇〇」みたいなコメントいくつか見かけましたけど、上西議員は当選2回が2回とも比例での敗者復活当選ですので、「有権者が積極的に選んだ」というわけではないですね。まあ、だからこそ維新を離党した時、「なんで議員辞職しないの」と突っ込まれまくっていたわけですが。

まあ最近はテレビ活動がご活発なようですし、話題になるのは本人的にもよろしいことなんじゃないでしょうか。


posted by しんざき at 12:26 | Comment(10) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月17日

何故だ。何故、ゲームのことを「無料で当然」という人がこんなにも存在するんだ

「ゲーム内容に比べて○○円は割高」というなら、まだわかる。話はわかる。なんの問題もない。ゲームを面白いと感じるかどうかは人それぞれだ。自分の体験に対していくら払うか、というのも人それぞれだ。

私は、件のゲームを既に買った。iPhoneもってないからiPadだけど。まだ遊び尽くしたわけじゃないけれど、このゲームを1200円というのは物凄い勝負だな、と感じた。けれど、そう感じない人がいるということも理解は出来る。そこに文句はない。


だが、appレビュー欄で☆一つをつけている人たちの、「なんで全部無料じゃないのか」「途中で課金を要求されてがっかり」みたいな意見はさっぱり分からない。本当に分からない。何を、何を言ってんだこいつらは。

我々は、彼らとどう折り合いをつければ良いのか?「無料で当然」とでも言う、この考え方は一体どこから来るのだ?

ゲームはいつの間に、「無料で当然」と考える人がこんなにも多い遊戯になってしまったんだ?


まず、

まずだ、

一つだけ、当たり前のことを書かせて欲しい。当たり前過ぎて今更書くことでもないかも知れないが、


「無料で作れるゲームはこの世にない」
「無料で提供して継続出来るサービスはこの世にない」


無料で提供されているように見えるものは、必ず、何か違うところで何か違うものが支払われているんだ。それを支払うのはあなたかも知れない。私かも知れない。他の誰かかも知れない。それは広告料かも知れないし、追加課金かも知れないし、スポンサー企業の投資かも知れないし、他の何かかも知れない。ただ、「無料」というものが本来有りえないものなのだ、ということについては確認しておきたい。


その上で、例えば「基本無料で一通り遊べる。けど、追加課金でガチャとか、あるいは便利アイテムが売っている」というモデルについて考えてみよう。


このモデルは、たしかに非常に優れている。お金を払いたくない人にとっては、「お金を払わずに、一通り暇つぶし程度には遊ぶことが出来る」。深く遊びたい人にとっては、「お金を払うことで、色んな有利を得ることが出来る」メーカーにとっては、「長く遊んでもらうことで、継続的に利益を上げることが出来る」「マジコンのような被害をある程度軽減出来る」

素晴らしい。このモデルが実に優れている為に、最近はパッケージゲームでも、有料DLCの仕組みを部分的に取り入れているケースが多い。

基本無料、追加課金のモデルでも、面白いゲームは山のようにある。何よりも「ゲームを作る人たち」がそれで食べていけるのであれば、その点に文句はない。なにもない。


しかしだ、

「基本無料、追加課金」のモデルには、一つ致命的な欠点がある。


それは、「ある程度ゲームの形が決まってしまい、それにそぐわないゲームは作りにくくなってしまう」ということだ。


追加課金のモデルがある以上、そのゲームは「長く継続して遊べる、遊んでもらえる」という要素か、「1プレイ1プレイが短くて、回数をこなしてもらえる」という要素、どちらかが強くなくてはいけない。このどちらも入っていないゲームは、このモデルでは作りにくい。全く作れないというわけではないかも知れないが、とにかく作りにくい。

「基本無料で、広告で稼ぐ」というモデルのゲームでも事情は同じだ。こちらは追加課金モデル以上に、「1プレイが短く何度もプレイしてもらえる」という形式に特化されやすい。

だから、例えば「1ステージがある程度重たいSTG、アクションSTG」であるとか、「中規模程度のシナリオRPG」であるとか、「ベルトスクロールアクション」であるとか、他にも色々あるけれど、そういったゲームは非常に作られにくくなってしまった。少なくとも、ある程度リスクを取れる体力がある企業でしか作れないゲームになってしまった。



確かに、「基本無料、追加課金」というモデルは優れている。素晴らしい。このモデルがなければ、このモデルをあちこちに引き写さなければ、ゲーム業界なんてもっとずっと早く衰退していたのかも知れない。今頃は、本当の大企業以外は軒並み潰れていたかも知れない。

「基本無料、追加課金」のモデルにゲームが統一されていき、それ以外のゲームはリスクをとれる大企業しか作れなくなっていく、というのも時代の流れなのかも知れない。



だからどうした。

だからどうした。

だからどうした。


俺はゲームを買うぞ。ゲームを遊ぶぞ。ゲームを楽しむぞ。ゲームを味わうぞ。ゲームを遊び尽くすぞ。


そして、お前らに伝えるんだ。


「こんなに面白いゲームがあるんだ」ということを。「このゲームは、お金を払って遊ぶ価値があるゲームなんだ」ということを。「このゲームにお金を払っても損はしないぞ」ということを。「このゲームに使った時間は、その時間以上のものをお前らにもたらしてくれるぞ」ということを。


俺が買ったゲームを、他の人も買ってくれるように。そして、俺が買ったゲームを作ってくれたメーカーに、少しでもお金が回るように。

伝えるんだ。




伝わってくれ。

posted by しんざき at 11:01 | Comment(92) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

キャベツ太郎ソムリエが皆さんにお伝えするここ10年のキャベツ太郎格付け


2007年産:味わい芳醇にして香り濃厚な、口当たりも素晴らしい格別なキャベツ太郎
2008年産:昨年と同様に素晴らしい出来栄え
2009年産:水分の含有と舌触りが途轍もないレベルでバランスが取れた、50年に一度のレベルのキャベツ太郎
2010年産:青海苔とソース味のシナジーが絶妙な当たり年のキャベツ太郎
2011年産:豊富な収穫を背景にのど越しと歯ざわりを両立させるという難度の高い食感を実現したキャベツ太郎
2012年産:50年に一度と言われた、2009年産に匹敵する素晴らしい出来栄えのキャベツ太郎
2013年産:昨年以上に高いレベルで味わいと香りを両立させた、奇跡的な出来のキャベツ太郎
2014年産:青のりが歯につきにくい
2015年産:ここ100年で一番の出来と言わしめた素晴らしい味わいとしゃりしゃりとした口当たりが驚愕の出来のキャベツ太郎
2016年産:のど越し爽やか、舌に含んだだけで味わいが口中に広がる素晴らしいキャベツ太郎


ということなので今食べるなら2016年産がお勧めです。


posted by しんざき at 15:32 | Comment(7) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月12日

本当に「たった一つの言葉が世の中を動かし」たのか?ないし待機児童問題はややこしくなっただけ、という話


これは割と一般的に言っていいと思うんですが、メディア側の人たちは大抵「たった一つの言葉が世の中を動かした」とか、「世界を変えた一記事」みたいな構図が大好きです。





マスメディアの力の源泉は「影響力」であって、たくさんの人たちに読まれる、視聴されるというのが、直接的にも間接的にもマスメディアの権力を支えています。それだけに、「一つの報道が世の中を変えた」というのは、自分たちの影響力の大きさを象徴する構図として彼らに好まれやすいんだろうと思います。私自身、「報道をやるなら、自分の一記事で世の中を変えてやる、くらいの気概でやれ」という言葉を、実際にこの耳で聞いたことがあります。

早い話、「たった一つのセンテンスが引き金になって世の中が変わった」という筋書きは、マスコミ側の人たちの大好物なんですね。流行語大賞を見ていると、そういう意識が凄く露骨に出ているように見えまして、そういう意味では色々と面白いわけです。


で、この件はその端的な表出の一つであるような気がします。



この「保育園落ちた日本死ね」という言葉は、もともとはてな匿名ダイアリーに載っていただけの一エントリーに過ぎない訳ですが、この言葉に注目したメディアと一部政治家の方々が、激しくシングルイシュープッシュされたのは皆さま周知のとおりです。この発言者は俵万智氏ですが、彼女だけの言葉でないのは選考委員の面々を観ればお分かりでしょう。

なんでこれで山尾志桜里氏が受賞しているのかは意味不明といえば意味不明ですが、まあ今更のことなので置いておきます。


元々のはてな匿名ダイアリーの記事については、あれはあれで切実なことが書いてあって、記事としては重要な記事だったと思うんですよ。実際私、あの記事殆ど最初にブクマしたように記憶してますし。決して「見過ごしていい記事」ではなかったと思います。

ただ、この記事とは別に、この記事をプッシュした人たちについては色々思うところがあります。実際にこの「保育園落ちた日本死ね」という言葉が世の中を動かしたのか、というと、正直かなり疑問符というか、個人的にははてなマークが255個くらいついちゃう感じなんですね。むしろ待機児童問題の状況をややこしくしただけじゃないのか、という。

元々の待機児童問題がどういう問題であり、何を解決するべきであるのか、ということは、アルファブロガーであるとろろ蕎麦さんのエントリーが質量ともに充実した内容をまとめてくださっています。


で、そばさんもおっしゃっている通り、

なので、例の増田に端を発した動きもふーんで見てたんですけど、なんだか全然違う論点というか、違う私たちが困ってるのはそういう問題ではないんだ…というあさっての方向にどんどんいってしまって、なんだこれは…と思ってしまったので、ここに問題を整理しておこう、という記事です。

なのになぜか増田の人とか、それを利用する政治家さんが「私も認可に落ちた」とか言ってて、あたりめーだろそこは争点じゃないよむしろ黙っててくれとか思うわけです。

というのが「げに」という話でして。

待機児童問題自体は、ずっと以前からいろんな人達がいろんな形で解決に取り組んできた問題であって、勿論様々な形で方策もとられている一方、その方策自体が新たな問題を掘り起こしたりして、「状況自体は改善に向かっているんだけど予想外の障害も次から次へと出てきてまだまだ超大変」という状態が続いていました。一例として、下記ご参照ください。



まーこの問題自体、もともと「ロンダルキアの洞窟かよ」ってくらい入るのは大変だわ敵は強いわ落とし穴は多いわというエラい問題なわけですが、それでもたくさんの優秀な人達が解決目指して努力を続けていたわけです。


これが例えば、「皆に見過ごされていて、人も予算もついていない」というならまた話は別だったんですが、わざわざ「新たに注目を集める」必要なんてどこにもないくらいホットな問題だったのです。


それに対して、「保育園落ちた日本死ね」という言葉がどのように寄与したかというと、端的に言って「単に話をややこしくして問題を拡散させただけ」であるように思えてならないんですよね…。


そもそも、最初の時点で「日本死ねとは何事か」とか「この言葉自体が反日的」だとか、「あれは本当に母親が書いた内容なのか」とか、そんなの主要な問題と1ミリグラムも関係ないですよバカですか感満載の明後日議論が花盛りだった訳ですが、「保育園落ちた」という部分に絞っても全く理解は広まらず、認可保育園がどうとか弱者救済がどうとか、それもともとの問題じゃないですよねお願いだから黙っててください、みたいな方向にガシガシ猪突猛進してしまった訳なんです。なんなんでしょうねアレ。

おかげで、今となっては「待機児童問題」自体がうっかりするとややこしい人達の攻撃対象になってしまい、「お前も反日か!」みたいなよくわからない非難を受けかねない状況になってしまっているわけです。こういう方向に世の中を変えたかったということなら大成功ですが、余計なこと言わないで引っ込んでてください感物凄いですよね。

「単に問題をややこしくしただけ」であるように感じられるところ、「世の中を動かした言葉!!」とか言って胸を張られてしまうと、あのえーと、ちょっと豆腐の角に頭とかぶつけてください、という熱い思いを正直抑えきれないわけです。


実際のところ、「保育園落ちた日本死ね」という言葉が「いい方に」事態を改善に向けた要素ってなにか一つでもあるんですかね…待機児童問題がメインイシューになりやすくなったって、そんなもんもう10年前から変わらないでしょ今更何言ってるんスかって感じなんですが。


これは典型的な例ですが、どうも「たった一つの言葉が世の中を動かした」とメディアが言う時、その多くはメディアの自画自賛というか自意識過剰、ないし純然たる勘違いである場合が多いのではないかという気がしないでもないんですが、まあそれについてはまた項を改めたいと思います。


あ、流行語大賞自体に対してうんざりしている人は、選考委員の一覧を見るとあまり真面目に取り合おうとする気がしなくなるんじゃないかと思いますのでお勧めです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

「さむがりやのサンタ」と、大人同士の会話が好きになったきっかけという話

「さむがりやのサンタ」という絵本、ご存知でしょうか。



著者は「スノーマン」の作者として知られるレイモンド・ブリッグズ。タイトルどおり、寒いのが苦手なサンタクロースが、天候やら煙突やらにぶつくさ言いながら子どもたちにプレゼントを配る、という筋書きでして、初版は1974年だそうなので、もう相当の古典絵本の部類になると思います。

私が子どもの頃読んでいた絵本というのは、流石にもうあまり残っていないのですが、これはその内の数少ない一冊になります。買ってもらったのは、本の印刷年数から判断すると1983年。私が4才の時のようです。他にもう一冊ある「オコジョのすむ谷」という写真絵本と並んで、これは当時から、私がもっとも好きだった本の内の一冊になります。

ブリッグズの絵本を読んだことがある方ならわかると思うんですが、彼の絵本って「いわゆる絵本」というよりは漫画のような表現形態なんですよね。コマ割があり、登場人物の台詞は吹き出しで表現され、けれど絵本ならではのユーモラスなリアリティがある。

このページなんてお気にいりのページの一枚なんですが、

サンタ2.png


ページ全体が一軒の家みたいになっていて、サンタが煙突の中を降りていくところでつながっているんですよ。こういう表現、非常に面白いと思います。煙突を降りきったところで一言文句を言うサンタがまたいい味出してまして、彼全編こんな感じで愚痴と文句ばっかりです。「なんだいこの天気は!」とか「じゃまっけなアンテナだ」とか。

この絵本でのサンタは完全に「文句が多いおじいちゃん」でして、子どもが読んでもサンタの存在を非常に身近に感じられるということで、お子様にもお勧めの一冊だと思います。


ところで、この「さむがりやのサンタ」の中でも一番のお気に入りのコマというのがありまして、


サンタ1.png

これなんです。

サンタクロースは勿論世を忍ぶ仮の姿といいますか、少なくとも子どもに姿を見られてはいけないお約束みたいのがありまして、このサンタも基本夜中に隠密でプレゼントを配っているのですが。劇中で彼が唯一、自分以外の大人と会話しているのがこのコマです。絵本の中で時間経過が明示されていまして、牛乳配達が歩きだす午前5時前くらいの出来事のようです。


私、このコマが子どもの頃からすっごい好きなんですよ。


なんというんでしょう。「サンタの存在が当たり前であることが、このコマ一つで表現されている」とか、「サンタの苦労が周囲に認識されていて、ねぎらいの言葉をかけられる対象になっている」とか、「サンタと牛乳配達の人がまるで顔見知りみたいにフレンドリーに話している」とか、このコマの持ち味ってのは色々ありまして、それはそれで十分いいコマなんですが。

子どもの頃の私がこのコマを気に入った最大の理由は、単純に「事情がわかっている大人同士が、一言で十分なコミュニケーションをとっている」ということがかっこいいコマだったから、なんじゃないかと思うんです。

サンタクロースが、まるで1人の職業人であるかのように描かれており、その苦労もその楽しさも十分に表現されているのが、この絵本の一番の魅力なのは間違いないと思うんですが。「サンタクロース」と「牛乳配達の人」が、お互い1人の職業人、プロとして、たった一言の短い会話を交わす。この一言だけで十分、過不足のないコミュニケーションが出来ている。

そういうところに、子どもの頃の私はなんともいえない「かっこよさ」を感じたんじゃないかなあ、と、今では他人事のように分析するわけです。これ以降、私は「プロ同士の事情が分かった短い会話」を好むようになるんですが、多分その原体験がこれだと思います。


という話をかなり昔に奥様にしてみたところ、「腐の才能があるってことだよ」と言われたような記憶があるんですが。やめて!私に変な才能を見出さないで!!


ということで、土曜は子どもたちを連れてじいじばあばと食事をしてきまして、その道すがら「サンタが町にやってくる」を聴いていて、上のような話を思い出したという、それだけの話でした。


今日書きたいことはそれくらい。





posted by しんざき at 08:30 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月30日

大学時代の過ごし方についての某氏のツイートに反応してみます

単著が新たに出版されるということで、恐らく注目を集められたい時期だろうとも思いますし、心からのお祝いの意志を込めて釣られてみようかなーと思いました。

元発言はTwitterなんですが、特にTwitterでご本人に言及したつもりはなかったところ何故かこの数時間の内にいつの間にかブロックされていたので、引用でご勘弁ください。

あたしは大学時代、つまらない授業をほっぽってアルバイトに精を出し社会勉強をし、そのお金で海外放浪して世界を知った。学生時代という時間の使い方の生産性は、すべての授業に出る生活より圧倒的に高かった。「さぼらず授業にでるのが良いこと」と思ってる人、それって本当に自分のアタマで考えた?
素晴らしいご意見ですね。何が最適なのか自分で思考して、もっともベネフィットが得られる行動を自分自身で選択する、ということの大事さをひしひしと感じます。

「いやアルバイトと社会勉強と海外放浪に時間使うならそもそも大学行かなくてええやん。大学入るのは自分のアタマで考えた選択じゃなかったの?」とか、

「授業出ないなら大学行く意味って学歴くらいしかないと思うけれど、自分の力で生きていくに当たって学歴はどんな役に立ったの?」とか、

単純に学費とか授業料もったいなくね?学費払いながら授業さぼってバイトってコストパフォーマンス悪くね?」とか、

「もし親が学費を出していたとしたら親のお金にフリーライドした上で授業サボりまくるのはどうなのかって気がするけど全額自費だったんですよね?」などといった突っ込みがあまりにもありきたり過ぎて、そんな疑問をつい抱いてしまう自分の思考回路の卑小さを感じずにはいられません。誠に申し訳ありません。


「ある時間を何に使うか」「その時間で何を得るのか」というのは勿論個人の選択であって、人の数だけ答えはあります。「何をどれだけ得られたのか」という指標こそあれ、誰かの選択を他の誰かが否定することは出来ない、というのは確実でしょう。コストの議論こそあれ、「授業でない」という選択も尊重されるべきものだと思います。


ただその上で一般論として申し上げますと、聞く耳と学ぶ気さえあれば、「大学の授業で得られるもの」というのは正直山ほどあると思います。そして、その過半は、同じく生かす気さえあれば社会に出てからも生きるものばかりです。

以前こんな記事を書きました。手前みそな上にちょっと長いですが引用してみます。面倒だったら引用部分は読み飛ばしてください。


・自分が選んだ専攻分野についての専門的な知識やスキル

・自分で自分に必要な知識を取捨選択する、という経験

・上記から得られる、「自分にはどんな知識が必要なのか?」ということを考える経験

・その知識は実際に必要だったか?という、ごく短い期間でのフィードバック

・「古い知識や知見を元に、新しい知見を創出する」という経験

・レポート・論文を書く際の文章構成力、論旨整理力、語彙力

・論文を書く際の、資料の検索の経験

・論文を書く際の、「出典を明示する」経験、引用・出典の重要性

・論文を書く為に人が書いた論文を読む、という経験

・書籍のタイトルから、自分の必要としていそうな内容を適当に推理する技術

・上記に由来する、難解な文章から必要な情報だけを短時間で引っ張り出す技術

・レポートを書く際、「教授は学生に何を書かせることを望んでいるのか?」という、相手の意図を読み解く経験

・「更にその上を行く為にはどうすればいいか?」という、相手の隠れた希求を推理する経験

・評価基準が明確でない中での、自分の評価を高くする為にはどうするべきか、ということを推測する経験

・評価を得やすい講義はどれか?といった情報を得る為の、情報探索・情報取得の経験

・場合によっては、上記から得られる人間関係・ネットワーク構成の経験

・有用なノート・メモの取り方

・「持ち込みアリ」の試験に臨む際の、有用な資料を用意するという技術

・質問することを通じて自分をプレゼンする、という経験

・その他豊富なプレゼン及び議論の経験(受ける授業にもよる)

・授業を受ける為に必要な、タイムマネジメントの方法

・難易度が高い講義をなんとか潜り抜ける為の手の抜き方
長くなりましたが、多分これでも全然挙げきれてないと思うんです。

これらは殆ど「授業に真面目に出ることによって」得られるスキルですし、大部分は「主体的に学ぶ気さえあれば、どんな大学でも得られるスキル」です。

生産性の多寡を比較する気は特にないのですが、私自身は自分の大学での時間を非常に有意義だったと思っていますし、今の自分の生活を直接的に支えてくれる経験だったとも思っています。

正直、大学に真面目に通うことについての時間・お金のコストパフォーマンスって滅茶苦茶高いと思いますよ。あれだけ集中的に、体系だって色んな知識を学び、それを昇華させていく経験が詰める場って、人生において他にないです。まあ、全部の授業に真面目に出たのかっていうとそりゃそういうわけでもないですが…。

「授業がつまらない」という場合の責任の半分くらいは授業を運営する側の責任ですが、もう半分くらいは受ける側のスタンスに帰責されるんじゃないかなあ、というのが私の所感です。主体的に向き合いさえすれば、大学の授業ってすげえ面白いですよ。自分より詳しい専門分野の人のお話は、それがなんであれ面白いものです。

二言くらいでまとめると、


・どんな時間の過ごし方でどんな経験を得るのか、というのは人それぞれの選択であり、他の人の主体的な選択を批判することは出来ない
・生かす気さえあれば、どんな環境でもその後に役立つスキルやノウハウを得ることは出来る


ということになるんじゃないかなあ、と私は思うのです。


それとはあまり関係ないんですが、冒頭ツイートで挙げた某氏については、なんだかすごい数の人が「アレ俺もブロックされてる」みたいなことをおっしゃっており。「タイムラインは自分で作るもの」ということを考えると、「自分に都合が悪い情報を発信する人については徹底的にブロックする」というスタンスは、Twitterの利用法として非常に適した形態の一つではないかと、そちらについても感服した次第です。素晴らしいと思います。


ということで、今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 10:52 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

シャドバ大会の件雑感と、「誠意の欠如」が即炎上に直結する時代になったなあ、という話

シャドウバースの大会周りの騒動を観測してました。




細かい点は上記エントリーを上から順に読んでいただければわかると思うんですが、ざっくりとポイントをまとめると、

・第一回FRESH!杯というシャドウバース大会開催の際、運営の事前の連絡に色々な不手際があった
・賞金の掲示についても、当初賞金を出すように匂わせておきながら、十分な告知なくその掲示を削除していた
・全体を放送配信すると告知しておきながら、AブロックとBブロックの扱いに当初から明らかな差異があり、Aブロックのみ放送配信を行った
・その原因について機材トラブルの為であると疑わしい弁明をした(スタッフの言い分と齟齬が見られた)
・上記について、表面的な言い分のみのお詫びエントリーをアップした(ちょこちょこ細かく修正して絶賛火に油注ぎ中)

という辺りが主なところになるでしょうか。Twitterなどで出場選手のアカウントを漁ってみると、冒頭エントリーの筆者である「ちょもす」さんの言葉をおおむね裏付ける発言が複数観測出来ましたので、恐らく運営に主たる問題があるという見方でいいのでしょう。

他参加者様の記事一例。


「スタッフによって大会ルールが変わるのが面白かったです」の一言にあふれる糞大会感に微笑みが止まりません。


先に確認しておきたいんですが、これ、問題があるのは大会の運営主体である「AbemaTV」(とそのサポート会社?)であって、シャドウバースの運営母体であるCygamesではないですからね。勿論根っこは同じサイバーエージェントなわけですが、組織そのものは全然別であって、大会自体Cygamesのまともな協力があったのかも怪しいところなので、即いっしょくたにCygamesやシャドウバースの批判に持ち込むのはちょっと無茶でしょう。Cygames肝入りの全国大会「RAGE」についてはちゃんとした運営だったみたいですし。


とはいえ、経緯を見る限り、Fresh杯の運営による参加者への扱いについては「ちょっとこれどうなの」と思える部分が多々ありますし、一般的なゲーム大会の運営についての知識やノウハウ、参加者ゲーマーへのリスペクトが欠けていた、という指摘も、その後の展開を観れば妥当であるように思います。Bブロックの経緯など見ていると、早い話ゲーマーを「放送の素材」としてしか扱っていなかった、ように思えるんですね。

大会運営にしてもその後の対応にしても、参加者に対する誠意が全く観測出来ない、少なくとも周囲からそういう風に見えるのは確かだなあと。


今回の件については一言、「AbemaTVがダメダメ過ぎた」で片づけてしまってもいいような気はするんですが、教訓として「誠意がないことが即バれて炎上する時代になったなあ」ということは強く感じます。


今回の件にしても、ちょもすさんの記事が注目されたのは「企業側の誠意のなさが如実に感じ取れる案件であり、多くの人がゲーマー側に心情的な味方をしたから」であることは間違いありません。「企業側の誠意のなさ」は、自分を消費者と考えている人たちにとって、非常に燃えやすい「感情の燃料」になり得るんですね。

考えてみると、最近の幾つかの炎上案件についても、「企業の誠意の無さをどれだけ感じ取りやすいか」というのが一つの大きなキーになっていたように思います。

例えばPCデポ炎上の一件とか。


今まさに燃えている、welqの件とか。


まだ事案継続中で、本来炎上するようなことだったのかどうかまだ微妙なところですが、ホクレンのバターの件なんかも性格としてはそうでしたよね。



例えばニュースサイトやらメディアが炎上を演出するようなときも、「企業側がいかに誠意に欠けているか」を明確にライトアップするような手法が目立ちつつあります。これはこれで視聴者としては「迂闊な感情煽られ」に警戒しなくてはいけないところなんですが、企業側は企業側で、「「誠意に欠けている」と思わせてしまったら命取りである」ということについては強く認識しておかなくてはいけないんじゃないかなあ、と。一回耳目を惹ければそれでOK、みたいな案件なら別ですが、継続な信頼度が必要な場合とか、炎上なんて大ダメージですからね。

勿論、誠意にも向き先というものがあります。顧客の側を向いた誠意、株主の側を向いた誠意、傍観者の側を向いた誠意、色々あるでしょう。「どこに向けた誠意か」ということについても、視聴者側は敏感です。

冒頭案件についても、今回注目を引いている向きが「ゲーマー側に感情移入する」向きであることを読み取って、即「参加したゲーマーの方々への誠意」をもうちょっとアピールしていれば、事態はもうちょっとシンプルになったんじゃないかなあ、と思ったりもするんですが、まあAbemaTVそんなに好きじゃないんで別にいいです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 12:12 | Comment(8) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月20日

小学校図書室でラノベが禁止された件について、小学校教師に聞いてみた


ちょっと興味が沸いたので、このまとめを知人の小学校教師(30代後半)に読んでもらって、所感を聞いてみました。


当該の教師はゲームはある程度遊ぶ人で、いわゆるサブカルにも多少理解がある人だと思ってください。ただ、ラノベは殆ど読んだことない筈です。

以下はその人の話の内容箇条書き。


・朝読書での禁止が直接の理由みたいだね

・うちの学校は規制とかないけれど、何年か前に「朝読書ではケータイ小説を禁止にすべき」みたいなこと言った先生はいたみたい。その時は、「ケータイ小説は文章が滅茶苦茶で、子どもの文章力発達に悪影響がある」みたいな話だった

・「一部の本だけを例にあげてジャンル全体を禁止にするのはどうなのか」という意見が出て、その後もなんやかんやあったんだけど、結局ケータイ小説ブームがすぐ下火になってあんまり問題にならなくなった

・ただ、学校全体で規制みたいなことはしてないんだけど、先生個別に朝読書の本について指導してることはあると思う。元々漫画はダメだし、高学年だと「絵ばっかりの本はダメ」っていう先生はふつうにいる。図鑑だめとかね。怪傑ゾロリは絵ばっかりだからダメ、みたいな話もあった

・高齢の先生だと、「そもそもラノベって何?」って人の方が多いと思う

・ただ、エロには過敏な人多い。親御さんからクレーム来たりするしね。生徒がスマホでエロ画像かなんか回し見して、なぜか学校に怒鳴り込んできた親御さんとか前いた

・俺ラノベよく知らないけど、表紙で露出度高いのとか、ちょっとエロいのとかたまにあるじゃない、そういうの持ってきてた子がいて、それを見た先生が「ラノベ=エロ小説」みたいな感じでいっしょくたにしちゃって、その本持って職員会議でぶちあげたりしたんじゃないの

・クレーム対策、とかいうと結構話通っちゃうんだよね。「親からクレームが来るかも」って言われると思考停止しちゃう人、ホント多い。そこは問題だと思う

・前のケータイ小説の時は「一部の例でジャンル全体を判断するべきじゃない」っていう人が古株の中にいたから止まったけど、そういう止める人がいなかったり、ぶち上げた先生の発言力が強かったら「学校全体でジャンルまとめて規制」ってことになるかも知れない。そうなったら図書室も、ってことになるよね

・「本なんて読んでる暇あったら勉強」って先生は俺が知ってる限りはいないなあ。忙しくてあんまり本読めない、って人はたくさんいるけど。本大事だよね。


ということでした。ケータイ小説の下りは興味深いですね。私は「ケータイ小説であろうと、子どもが読みたがるなら規制するべきではない」「ただし、他にもいろいろ面白い本はあるよというのは教えてあげたい」というスタンスですが、まあ国語の先生なんかがケータイ小説に拒絶感を持つのは理解できなくもないです。

本好きになるために何より大事なことは、「読みたい」を邪魔されないこと、だと思うんですよね。それがどんな本であれ、そこを入り口に本自体が好きになってくれれば、教育として実に望むべき形なんじゃないのかなーと。

ラノベについても同じく、どんな形であれ子どもが本読む気になるんであれば歓迎すべきだと思うんですけどねー。活字に貴賎なしですよ。流石に年齢制限つきの本だったらどうかって感じですが、そんなあからさまなエロ小説持ってくる子もいないだろうと思うんですが。

ここ最近、またサブカル的なものに対する攻撃が激しくなっているように思うので、そういうものについての対話が出来るといいなーと個人的には思います。

あと、「親からクレーム来るかもって言われると思考停止しちゃう人」っていうフレーズが個人的に印象に残りました。最近、一部の人のクレームでいろんな事態が動くことがしょっちゅう観測出来るなあと思ってまして、そういうの良くないよなーあんまりとは思ってます。クレームによる全体抑圧、みたいな。


ちなみに、私はそもそも「朝読書」という言葉自体が耳慣れなかったんですが、調べてみたら今9割くらいの小中学校がやってるみたいですね。1988年くらいから全国に広がったみたいですが…私が小学生の時はなかった気がするなあ。




今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 18:08 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月18日

「きつい言葉やショッキングなワード」で稼げるのは安易な注目だけ


思うところは色々あるんですけれど、一点だけ。

残念ながらインターネットの記事というのは、きつい言葉や、非常にショッキングなワードがないと振り向いてもらえない世界っていう一面があって。

ここはちょっと、違うなーと。全く違うなーと。

「きつい言葉がないと振り向いてもらえない」わけじゃないんですよ。「きつい言葉を使うと安易に注目されやすくなる」というだけなんですよ。きつい言葉を使わないでも、きちんと書き続ければちゃんと見てもらえるんですよ。

言ってしまえば、「きつい言葉やショッキングなワード」に頼ろうとするのは、正攻法では注目を集められないから安易に注目を集めようとする逃げでしかない、とすら言えると私は思います。

昔こんな記事を書きました。



確かに、口汚い言葉というのは目立ちますし、それだけで人が寄ってきます。けれど、それは「単なる注目のドーピング」というだけであって、決して説得力をブーストしたりはしないし、論の正しさを補強したりはしない。むしろ、「ああ、この人は論と関係ないところで何かを貶めようとする人なんだ」という蔑視の対象になるだけです。

「口汚いことで得られる注目」って何の意味もないんですよね。いや、PVだか収益だかには反映するのかどうか知りませんけれど、議論自体については何も寄与しない。何も解決させない。むしろ、本来するべき議論の邪魔になるだけです。今回の件なんか、まさにそうでしたよね。


そんなものが欲しいと私は思わないし、誠実な書き手であればそんなものを望むべきではない、とも私は思います。


「きつい言葉や、非常にショッキングなワードがないと振り向いてもらえない」などといってしまった時点で、この人は言葉の使い手としての信頼性を完全に投げ捨てていると思いました。言葉の使い手なら、「きつい言葉を一切使わないできついことを書く」ことが出来て然るべきですし、そうするべきではないのか、と。


今後も「口汚い言葉」に頼った書き方は極力避けていきたいなーと思った次第です。

posted by しんざき at 23:49 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

ルドルフとスノーホワイトかんそう文

 ぼくが一ばんすきな本は、ルドルフとスノーホワイトです。
 でも、ぼくは、ルドルフシリーズが全部すきです。ぼくがルドルフシリーズがすきな理由は、へいわな中でも、大ぼうけんや、たたかいがあって、おもしろいからです。ぼくが一ばんおもしろいと思ったたたかいは、ルドルフとイッパイアッテナの、デビルとのたたかいです。なぜおもしろいかというと、ルドルフは、すごいことを思いつくからです。そのすごいことは、ルドルフとイッパイアッテナを読むと分かります。
 でもぼくはそれでも、ルドルフとスノーホワイトがすきです。その理由は、二つあります。まずひとつ目は、ブッチーが、ミーシャとけっこんして、そのミーシャが子ねこをうんだことです。でもある日、子ねこのうちの一人のメスねこの、チェリーがゆくえふめいになります。
 二つ目は、ブッチが、子ねこのうちの一人のオスの、ラッキーを、さがしに行って、そのなわばりのねこにおそわれたことです。そのあとルドルフが、そのねこにあやまってもらいに行きます。
 この二つの理由で、ぼくはルドルフとスノーホワイトがすきです。そして、これからもずっと、ルドルフとスノーホワイトを読みたいです。



---------------------------------------------------------
この記事は小学三年生が書きました。


(掲載は本人の希望です)
posted by しんざき at 20:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブログ読書感想文:「ルドルフとスノーホワイト」

猫になったこと、ありますか?


絵本。小説。児童書。なんでもいいんですが、真剣になって読ませてくれる本の共通点は「入り込むことで別の世界を見せてくれる、体験させてくれる」ことです。私たちは、真剣に本を読むことで、「ほかの誰かになる」ことが出来ます。


例えば、「十五少年漂流記」を読むことで、私たちは無人島に漂流した少年になって、生き残る為に全力を尽くすことが出来ます。

例えば、「指輪物語」を読むことで、私たちはビルボやサムになって、中つ国で生死を賭けた冒険をすることが出来ます。

例えば、「ウは宇宙船のウ」を読むことで、私たちは宇宙船に憧れる少年になって、ロケットの打ち上げを見上げることが出来ます。


「他のだれかになれる」。本には色んな素晴らしいところがありますが、その中でも私は「他のだれかになれる」ことが特にお気に入りです。その為に本を読んでいる、というところだってあるかも知れません。


ところで、本を読むことでなれる「他のだれか」は、何も人間に限りません。時には宇宙人や、ロボットや、お魚や、お化けや、動物になることだって出来ます。

もちろん、猫になることだって。例えば「猫のダヤン」。例えば「百万回生きた猫」。例えば「11ぴきの猫」。例えば「長ぐつをはいたねこ」。例えば「のらねこぐんだんパン工場」。私たちを「猫にしてくれる」本というのは、案外たくさんあります。

ただ、そんな中でも、一番はっきりと、リアルに、そして何より楽しく「猫になれる」本が、私にとっては何かというと「ルドルフとイッパイアッテナ」であり、そのシリーズの4作品なのです。


今回は、その「ルドルフとイッパイアッテナ」のシリーズの中でも、4冊目の「ルドルフとスノーホワイト」の話をしようかと思います。




○「ルドルフとスノーホワイト」の背景

まず最初に、ちょっとシリーズのおさらいをさせてください。

ルドルフとイッパイアッテナのシリーズは、主人公の黒猫・ルドルフの視点で進みます。とある地方の町で普通の飼い猫をしていた黒猫・ルドルフは、ある時魚屋のトラックに飛び込んで気絶してしまい、知らない間に長い旅をして、東京の下町にたどり着きます。右も左もわからなかったルドルフは、そこでボス猫であったイッパイアッテナと出会い、「野良猫としての生き方」と「教養」を教わり始めます。


「ルドルフとイッパイアッテナ」「ルドルフともだちひとりだち」の二作が、「ルドルフの成長物語」だったことは間違いないでしょう。

ルドルフは、この二作品を通じて様々な経験を積み、純粋さも保ちつつ、強くしたたかに成長します。幾つか武勇伝を積んだルドルフは、いつのまにやら猫達の間でも、一目おかれる大物になりつつあります。テリーに「ルドルフ親分」と呼ばれそうになって、言いくるめて「ルドブン」にさせているルドルフには、妙な居心地の悪さが見えます。

「いくねこくるねこ」と「スノーホワイト」の魅力の4割くらいは、根っこは変わらず、けれど大きく成長したルドルフを含め、「イッパイアッテナ」「ともだちひとりだち」で登場した猫たちの「その後」がみられることだと言っていいでしょう。


あ!この子、今こんなことしてるんだ!とか。

あ!あいつ、元気にやってたんだ!とか。


読者にとっての「ルドルフとスノーホワイト」のキーワードは、「再会」。黒猫ルドルフの、ボス猫イッパイアッテナの、ブルドッグのデビルの、ブチ猫ブッチーとミーシャの「その後」が見られることが、かつて「猫になった」私たちにとっては何よりのご褒美なのです。



○「ルドルフとスノーホワイト」の「生活感」。

これはシリーズ共通の話なのですが、「ルドルフとイッパイアッテナ」シリーズの何よりも大きな特徴は、「猫たちの生活」の描写が素晴らしいことです。そこには本当に、「ああ、猫たちってこういう生活をしてるのかもなあ」「猫たちって普段、こういうことを考えているのかもなあ」という納得感のある風景が描かれています。


例えば、スズメを捕まえる腕を競ったり。

例えば、餌をもらいやすい人間の家について談義をしたり。

例えば、喧嘩相手を脅かす口上を考えたり。


時には一緒に遊び、時には喧嘩し、時には協力し、時には別れる。猫たちが生活していれば、確かにこういうことを話すことになるかもなあという描写が、辺り一面に散りばめられているのです。


それぞれの猫、犬間の「人間関係」ならぬ「猫犬関係」とでも言うべきものがその見どころの一つで、例えばルドルフ、イッパイアッテナ、デビルたちとの掛け合い、情報交換の様子が実にリアルというか、猫・犬ならではの生活感にあふれています。「ルドルフとイッパイアッテナ」当時は仲たがいしていたデビルも、すっかりルドルフ達の仲間になり、犬ならではの特技を使ってルドルフたちを助けてくれるのも「スノーホワイト」の魅力の一つです。

そして、タイトルにもなっている白猫の「スノーホワイト」。今回から新たに登場する彼女が、ルドルフたちとどんな猫犬関係を築くのかも、この作品の重要なポイントの一つです。


「ルドルフとイッパイアッテナ」の頃からルドルフの友達になっていたブッチーは、いつの間にやら子持ちのお父さんになっています。ブッチーとミーシャの間に生まれた、クッキーやラッキー、チェリーといった子猫たちも、今回のお話の中では重要な立ち位置を占めています。私たち読者から見ると、ルドルフは「成長した子猫」なのですが、彼ら子猫たちにとってのルドルフは「ルドルフおじさん」であり、いろんな経験を積んできた立派な先輩です。

「ルドルフに対する子猫の視線」というのは、「ルドルフとスノーホワイト」のまさに中心になってくるポイントでして、今回発生する事件では、とある猫が「ルドルフがかつて経験したこと」をまさにそのままなぞることになります。繰り返される猫たちの歴史。そんなところでも、私たちは作中の時の流れと、そこに実在している「生活」を感じることが出来ます。



〇まとめ:ルドルフからの手紙

かつて、「ルドルフの成長物語」だったルドルフシリーズは、「いくねこくるねこ」と「スノーホワイト」で「再会と、その後」の物語になりました。では、この次はなんの物語になるのでしょうか。

こんなにも楽しく「猫になれる」シリーズが、この後どんなキーワードの物語になるのか、私は楽しみで仕方がないのです。

齋藤洋先生は、「ルドルフとイッパイアッテナ」のシリーズを「ルドルフから来た手紙を小説にした」ものだ、と語っています。
その言葉を借りれば、斎藤先生に新しい「ルドルフからの手紙」が届くことを楽しみに、この感想文を締めたいと思います。


新しい「手紙」でも、楽しく猫になれますように。みなさんも、機会あれば是非「猫になってみる」体験をされることをお勧めいたします。



-----------------------------------------------------

この記事は、長男(9歳)との読書感想文勝負の為に書かれたものです。


今日読み比べします。

posted by しんざき at 17:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月06日

名古屋楽しかったです、ただ「運転しやすい」は信じがたい

こんな記事を読みました。


んーどうなんですかね?私昔、10年くらい名古屋に住んでたことありますけれど、住んでる分には楽しかったですよ。ゲーセン多かったし。いや、20年くらい前の話ですけど。

個人的なお勧めスポットは東山植物園ですかね。


ここ、動物園はそこそこ有名なんですけど、植物園が結構マイナーなんですよ。けど散歩をする分にはいい場所ですし、すげー広い割に人少な目ですし、色々と考えごとしながら一人でぼーっとするには絶好の場所でした。中学生以下は入園無料だったんですよ。自転車で来れる距離だったんで、特に中学の時はちょくちょく来てました。

あと、せきやってラーメン屋がありまして、ラーメン自体はごくスタンダードな醤油ラーメンなんですけど、チャーシューが暴力的にブ厚くて、チャーシューの為にラーメンの他の部分すべてがあるって感じで大好きでした。今でもたまに名古屋行くと食べにいきます。場所が変わって、個人的にはちょっと行きにくくなったけど。


ただ、
車で旅行をする人にはすごくおススメです。道が広くて車線が多いので、すごくドライブしやすいんです。
「これはない」と申し上げたい。いや、数年前から劇的に交通状況が改善してたら話は別ですけど、名古屋って運転マナー的には結構修羅の国で、名古屋で運転するの今でもすっげえ怖いですよ。。。一つ離れた車線から、いきなり右車線に割り込んでくるの心臓に悪いからやめて欲しい。


ということで。

posted by しんざき at 08:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月04日

「子どもはどんな作品でファンタジーの文法を学ぶのか」という話

先日twitterで、こんなお話を観測しました。

ここでいう「魔術やゴブリン、エルフなどのクリーチャーが出てくる作品」というのは、いわゆるトールキン的世界観に基づく王道ファンタジー、と考えていいんじゃないかと思います。

・魔術ないし魔法の描写がある
・ゴブリン、エルフ、トロール、ノーム、ドラゴンなど、デミ・ヒューマンやモンスターが登場する

というあたりを取りあえずの定義にしてみましょう。


子どものころから、ごく自然に「魔術やゴブリン、エルフなどのクリーチャーが出てくる作品」に触れてきた人間としてはちょっとピンとこないところもあったのですが、確かに言われてみると、そういう作品に全く触れてこなかった人にとっては、色々と「知らない文法」が存在するんだろうなあ、とは思いました。

ゴブリンって何?トロールって何?ドラゴンって何?魔術って手品と何が違うの?という人がいても全然不思議はありません。

では逆に、「どの年代で、どういう作品が「王道ファンタジー」の入り口になり得るのか?」ということについて、自分及び周囲の何例かの観測でちょっと考えてみました。

恐らく代表的なカテゴリーとしては、

・幼児〜児童向けアニメ
・絵本
・児童小説
・ゲーム
・小説、ライトノベル、漫画


これくらいになるのではないかなーと思います。


〇幼児〜児童向けアニメ

絵本と並んで、乳幼児期から触れることが多そうなカテゴリー。「ファンタジーの原体験」となると、これと絵本がおそらく一番多いんじゃないでしょうか。

今まさにうちの双子(4歳)は、ディズニーアニメである「ちいさなプリンセスソフィア」や「アナと雪の女王」などでファンタジーな世界観や魔術とか魔法といった概念を学習しているのですが、やはり「ディズニーアニメがファンタジーの入り口だった」という人はそれなりの数いるのではないかと。「白雪姫」「シンデレラ」みたいな古典も未だに見られてますしね。

他には、年代にもよりますが「オズの魔法使い」や「ニルスのふしぎな旅」のような子ども向けオリジナルアニメが入り口になった人もいそうです。いわゆる魔法少女ものは、世界観を考えるとちょっとカテゴリーが異なるでしょうか。

ジブリはもうちょっと対象年齢が高いような気はしますが、うちの双子は「となりのトトロ」は喜んで見ています。「ハウルの動く城」であるとか、女の子だったら「魔女の宅急便」が来てもおかしくはないですね。他、ムーミンなんかもそれに近いものがありそう。


〇絵本

読み聞かせをしてもらっている乳幼児の中には、絵本がファンタジーの入り口になった、という子も結構いるのではないかと。動物が喋るのはデフォルトですし、王道ファンタジー的な世界観の絵本も少なくありません。

たとえば「エルマーのぼうけん」。「もりのこびとたち」。「三匹やぎのがらがらどん」にはトロールが出てきますし、「まほうつかいとねこ」には魔女が出てきます。ガチガチなファンタジー世界観の絵本というのはむしろ少ないかもしれませんが、「ファンタジー的要素」が豊富に含まれる絵本というのは枚挙に暇がありません。

知人のお子さんは、「かいじゅうたちのいるところ」を読んで以来ファンタジーものの作品にハマったそうです。そういう例もあるのかと。


〇児童小説

ここも多種多彩です。絵本や児童向けアニメにあまり触れていなかった家庭であれば、ここが「ファンタジーの原体験」になってもおかしくはありません。

言うまでもない「ホビットの冒険」もうちょっと対象年齢層は上がりますが「指輪物語」を皮切りにして、「ナルニア国物語」「ゲド戦記」「はてしない物語」「獣の奏者」「リンの谷のローワン」「エラゴン」「不思議の国のアリス」などなどなど、古今東西ファンタジー児童小説は山ほどあります。

私自身は、初めて本格的なファンタジー作品に触れたというのは、エンデの「はてしない物語」を読んだ時だったかもしれません。ナルニアは若干宗教色強いですが、ファンタジー的王道世界観という意味では文句のつけようがありません。勿論ゲド戦記は、「魔術」「魔法」という概念については出色のファンタジー小説。

最近だと、世界観自体は現代(+異世界)ですが、「ハリー・ポッター」でファンタジーに初めて触れたという子どももいるかも知れないですね。


〇ゲーム

80年台以降は、「ゲームがファンタジーの原体験だった」という人も結構増えてそうな気がします。

PCゲーが初体験という人は流石に少ないでしょうが、ファミコンで言えば、言うまでもない「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」の他、「ハイドライドスペシャル」「ワルキューレの冒険」「ゼルダの伝説」「ドルアーガの塔」あたりがファンタジーの原体験だった、という人はそんなに珍しくないでしょう。もうちょっと時代を下れば、テイルズやブレスオブファイア、ポポロクロイスやアーク・ザ・ラッド辺りが入り口だった人もいるのかも知れません。

「ウィザードリィ」や「ウルティマ」で初めてファンタジーに触れた、という人がいてもおかしくはありません。流石に88版ではないと思いますが。。。

「テーブルトークRPGで初めてファンタジーに触れた」という人は流石に希少な気はしますが、一応「D&D」や「T&T」「ソードワールド」などの海外・国産TRPGの存在も挙げておきます。変わり種でいうと、「ソーサリー!」や「火吹山の魔法使い」みたいなゲームブックから入った人もなかにはいるかも知れません。


〇小説、ライトノベル、漫画

これらは、多分もうちょっと年上向けのカテゴリーになります。上記の「子ども向けアニメ、絵本、ゲーム、児童小説」に接触してこなかった上で、という前提になりますので、「原体験」という意味では既にだいぶふるい落とされているかも知れませんが、勿論これらカテゴリーには山ほどファンタジー作品があります。

漫画で言えば、恐らく「ダイの大冒険」や「魔法陣グルグル」なんかはファンタジー世界観系の代表的なところなのだろうと思います。時代を下って、手塚作品で「リボンの騎士」辺りが原体験になっていた子もいたかも知れません。


一方小説やライトノベルの分野には、「ガチガチのファンタジー作品」というのはむしろ山ほどあります。すげー多いです。

例えば「ロードス島戦記」や「ルナルサーガ」。「スレイヤーズ」「風の大陸」といったライトノベル黎明期の作品から、「十二国記」「カイルロッド」「魔術師オーフェン」のようなちょっとだけあとの作品、「ゼロの使い魔」のような比較的最近の作品まで、ファンタジーものはライトノベルの代表的なジャンルの一つとして位置づけられています。海外で言うと、エルリック・サーガなんかもありますよね。

一通りファンタジー世界観を抑えたうえでのパロディとして、という側面もありますが、「フォーチュンクエスト」も広い年代に人気がある作品です。「コクーン・ワールド」なんかも同じカテゴリかも知れないですね。

多分小学校高学年から中学校くらいになってからだとは思いますが、幼児期〜少年期にファンタジー作品に触れてこなかった、という人の中には、これらライトノベルが「ファンタジーの原体験」になった人もいるのも知れません。



ということで、ダラダラ書いて参りました。

特に結論ということもないんですが、仮に冒頭のツイートの知人の方が「今から」ファンタジー作品を初めて読むのであれば、私であれば「はてしない物語」をお勧めいたします。子どもが読んでも大人が読んでもすげー面白い、ファンタジー児童小説名作中の名作です。




今日書きたいことはこれくらい。


posted by しんざき at 13:43 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする