2018年04月09日

「〇〇50選」とか「△△100選」とかじゃなくて渾身の数選を読みたい。なんなら一選でいい。

タイトルで完結しているんですが。

ほら、あるじゃないですか。〇〇におススメ出来る漫画100選、だとか。△△なゲーム50選、みたいなそういうアレ。大量のタイトルと、良くて数行くらいのコメントががーーっと羅列されてる系の記事。

ああいう記事好きな人もいるかも知れないですし、活用している人ももしかしたらいるのかも知れなくて、それ自体を否定する気はないんですが。ただ、少なくとも私自身は、ああいう記事を読んで「面白かった」とか「参考になる」って思ったことが一度たりともないんですよ。

何というかあの手の記事って、量が余りにも多すぎて、一つ一つの作品に対する思いが完全に希釈されてるように思うんですよね。

それはただタイトルを羅列してるだけやん、と。単なるカタログなら出版社のサイトなりamazonなり見た方がよっぽどいいやん、と。

いや、ああいう記事を書いている人たちが、一つ一つのタイトル、一つ一つの作品が好きだということを疑うわけじゃないんですよ。中には検索順位がどうとかアフィ目当てとか邪推する人もいるかも知れませんが。私は疑いません。

ただ、50とか100とかいう数字は、思いを込めるには多分ちょっとデカ過ぎる。

少なくとも私は、ブログを見に行くときは、それを書いた人の個人的な思いが読みたいわけなんですよ。その人にしか書けないこと、その人が感じたことを知りたい。おススメな作品なのであれば、その人が何をどう感じて、どうお勧めと思うに至ったのかを知りたい。タイトルの羅列を読みたいという欲求は全然ない。

「俺はこれが好きだ!!!」

という叫びを読みたいわけなんです。

そこから考えると、「お勧めの〇〇」っていうタイトルで読みたいタイトル数はせいぜい4,5タイトルだなあ、と。というかなんなら一作のお勧めに全てをかけてもらえるのが一番面白そうだなあ、と。

ちょっと誤解されがちなんですが、私、「皆が知らない名作についての記事が読みたい」という訳では全然ないんですよ。いや、皆が知らない名作を掘り起こす記事はそれはそれで読みたいですが、なんなら誰もが知っているメジャータイトルについての感想、レビューでも全然かまわない。むしろ、メジャータイトルについてどういうアプローチで接するかって、その人独自のスタンスが出てめっちゃ面白くないですか。


ということなので、皆さまに置かれましては、「お勧め〇〇n選」という記事でのnの数は控えめにしていただけると私は楽しいなあ、という話なわけでした。よろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 12:51 | Comment(5) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

仮想通貨のおかげでブログ収益化界隈がだいぶ静かになったので仮想通貨に感謝している

ただの雑感です。

私の観測範囲の問題もあるのかも知れませんが、最近「ブロガーサロン」とか「ブログ収益化」とか「ブログで不労所得」みたいな話、あんまり見なくなったような気がしません?はてブのhotentryとかからは明らかに減ったなーって感じてまして。

ちょっと前までは、「ブログ開始〇カ月で△万PVを達成した私の手法」とか、「1年で×万円の収益を達成」とか、なんかそういうnot for me感が振り切れている記事がその辺にゴロゴロ転がっていて、踏まないにしても歩きづらいなーと感じることがしばしばあったんですが、最近そういうのだんだん見かけなくなってきたんですよ。

風通しが良くなって凄しやすくなってきたなー、と思っていたんですが、なんかその辺の界隈の人、ここ数カ月で皆仮想通貨界隈に行っちゃったらしいんですね。ああなるほどそっちですかほうほう、まあ良いことですねって感じで。

正直個人的な所感としては、現時点の仮想通貨って、投資商品としては単に死ぬほどボラティリティが高いだけで、投資家保護の体制が全くできていないハイリスク商品っていう印象しかないんですけど、まあ凄い話題になって、それいけーーーって感じで大量の人たちが流入したっぽいですよね。

別にマネタイズは悪いことではありませんし、出来る人はルールの範囲内でどんどんやればいいって思ってはいるんですが、個人的にはあんまりお金のにおいが強すぎる環境も過ごしにくいなーって思ってまして。そういう意味では、お金のにおいを感知して移動する人たちにはガンガン仮想通貨に集まって欲しいし、その方が界隈が平和になると思うんです。ゲーム系迷惑サイトとかも仮想通貨系迷惑サイトにジョブチェンジしてくれないかしら。

ここひと月くらいまた静かになりつつあるみたいなんですけど、出来ることならもっともーーーっと盛り上がって、界隈で絶好調にお祭りを繰り広げていて欲しいなーと考える次第です。仮想通貨がんばれ。もっとがんばれ。


あんまり関係ないけど、今の行政処分乱射の流れって本当に投資家保護の体制構築につながるんですかね?個人的な所感としては、ちゃんと業界団体とかできてある程度投資家保護のフローが出来るまで、3年くらいはかかりそうな気がしているんですが…


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 06:59 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

「チーズバーガー二つ買った方がダブルチーズバーガー買うより安いやん」とか言ってるヤツは何もわかってない

まず第一に、「チーズバーガー二つ」は「ダブルチーズバーガー」の代替にはならない。絶対に、ならない。味が違う。食感が違う。重量感が違う。何もかも違うのだ。

「ダブルチーズバーガーを食べる体験」と、「チーズバーガーを二つ食べる体験」は全く別のものだ。どちらが好きかというのは好みの問題だから、別に「チーズバーガー二つの方が好き」という人を否定はしないが、後者で前者の代替が出来ると思っている人は完全に何かを勘違いしている。

ダブルチーズバーガーは、口に含んだ時のあの充実感、パティとチーズが贅沢に絡み合うあの重量感が何よりのポイントなのだ。チーズバーガーを二つ食ったところで、あの充実感は再現出来ない。再現できるとしたらカロリー程度のものだ。

贅沢っていったって、たかが340円の贅沢やん、ってか?その通り、たかが340円の贅沢だ。340円が「たかが」なら、何故チーズバーガー二個との差額、80円程度を「たかが」と呼ばないのか?


「チーズバーガーをバラしてダブルチーズバーガーに組み替えればええやん」ってか?それも全然違う。

ダブルチーズバーガーに必要なものはバランスであって、具のバランス、ケチャップのバランス、パティのバランス、どれが失われてもダブルチーズバーガーにはならない。ダブルチーズバーガーは、最初からダブルチーズバーガーとして形成されなくてはいけない。つまり、そもそも味が再現出来ない。

仮に味が再現できたとして、「チーズバーガーを二つバラして、それを元通り組み合わせる」という面倒くさい作業に関するコストはどう評価するんだ?手を動かすコストだってれっきとした人件費だぞ。マックのテーブルでわざわざ手をケチャップまみれにしながらリビルド作業をするのか?

余ったバンズは食うのか?捨てるのか?捨てるなんて勿体ないことをしたくないし、バンズだけ食うなんていう余計な体験もしたくない。それは、「食事」という体験のバリューを純粋に下げる行為だ。折角の「食事」という体験に、余計な体験など混ぜ込みたくないのだ。


「ダブルチーズバーガーよりチーズバーガー二個の方が安いやん」と言っている人は、要は原価厨だ。構成物の金銭的コストだけを見ていて、それ以外のコスト、あるいはバリューというものを全く評価していないのだ。こういう人が往々にして、リンゴ2個あれば足りるところを、「まとめて買った方が一個当たりのコストが安いから」などといってリンゴ5個をまとめて買って、3個を腐らせたりする。

物事は、コストとバリューという二つの側面から考えなくてはいけない。単に「コストを安く」ということだけ考えていては、バリューがどんどん犠牲になっていく。それに何より、「コスト」というのは単に金銭コストだけでなく、作業コスト、時間コスト、精神的コストから移動コストまで、ありとあらゆるものがコストなのだ。


だから私はこういう。

コストが金額だけだと思うな、と。

コストだけでなくバリューを見ろ、と。

そのコストを削ることで、それ以上のバリューを削ってはいないか、と。


「ダブルチーズバーガーよりチーズバーガー二個の方が安いやん」というのは、典型的な「金銭コストしか見ておらず、他の種類のコストも、バリューも考慮していない」発言だ。少なくとも私はそう思う。


あと全然関係ないけど、ダブダブチ美味しかったよね。常設にして欲しい。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 18:17 | Comment(25) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

twitterのお気に入り数インフレ展開がひどい

単なる昔話です。

さてここに「さまざまなめりっと」があります。まなめさんとかいうコーラしか飲まない変わった人が、その日のトップfavツイートを収集していたサイトです。

ちょうど大体8年前の、2010年3月17日のトップfavツイートがこちらです。


トップfavが、error403さんのこのツイートで、まなめりっと掲載時のfav数が114favですね。error403さん、最近お元気でしょうか。

お分かりでしょうか。100fav越えたら普通にトップfavツイートが狙えたし、数十favでも平気でランクイン出来たんです。というか、当時の感覚では、数十favを越えたら既に「バズ」であって、無茶苦茶たくさんの人に見られたツイート、という感覚でした。せまーーい世界だったんです。

ちなみに、まなめりっとが昔はてなグループで運営していた頃に遡れば、もっと以前のトップfavツイートも参照することができます。例えばこれは2010年の9月のトップfavツイートですね。


この時は私も載ってるんですが、確か台風で電車が止まりまくった時で、皆台風ネタで盛り上がってた記憶があります。その時もたった67fav。今から考えれば本当に「たった」ですよ。

ふぁぼったーというのは面白いサービスで、皆からfavをもらったツイートが1時間に1回くらいの頻度で更新・掲載される、言ってみれば人気が出たツイートを可視化するサービスでした。当時、「ふぁぼったーに載りたいから面白いこと言う」という動機を持っていた人はたくさんいましたし、それがtwitter継続の大きなモチベーションになっていた人もいたんですよ。また、favが自動的に収集されて即晒されるので、ツイートパクリ問題もそこまでひどくはなかった、気がします。全くないってわけじゃなかったんですが。

で、こちらが直近の人気ツイートランキングです。


1位のお気に入り数が14万5000。万。万て。数十やせいぜい100ちょっとだったのがたった8年で14万て。お前な、ドラゴンボールだって、戦闘力12万のギニューが出てくるまで、作中世界で13年かけてるんやぞ。ドラゴンボールより戦闘力のインフレペースが速いって一体どれくらいインフレさせてるねん。

バズるツイートについても、昔よりはインパクトのある画像ネタやら、役立つライフハックネタが増えたような気はします。ただこれについては、別に頭をひねってなんか面白いこと言う人が減ったわけではなく、ユーザーのボリュームゾーンとそのボリュームゾーンが好むツイートの傾向が変わった、というだけの話なのでしょう。パクツイが流行った一時期、「どうせパクられるから」と、ネタを盛んに投下していた人も結構な数去ってしまいましたが、まあそれも今更の話ではあります。

まあこれ自体は別に悪い話ではなく、twitterが一般にも普及したこと、twitterの利用人数が単純に増えたこと、それによってretweetを介した拡散力が広範になったことを示していると思います。良いことなんです。


ただ、twitter老害としては、多少昔が懐かしいなーと思うこともあります。

「お気に入り」ではなく、「fav」だったあの頃。

うさ山さんとかダ・ヴィンチ恐山さんとかerror403さんとかが、大体ふぁぼったーの上位陣を占めていた、あの頃。常連は決まっていても、ほんのちょっとのバズでいきなりその日の上位ツイートに掲載されることもあった、あの頃。

ほんの5favのツイートでも、「赤ふぁぼ」と呼ばれて喜ばれていたあの頃。3favですら紫に色分けされて、なんとなく敢闘賞のような雰囲気を出していたあの頃。

公式の機能としてRTがサポートされていなくって、引用したツイートがそのまま流されて自分にリプライが飛びまくってぶちキレそうになっていたあの頃。RTが「公式RT」と「非公式RT」などというよく分からない分類をされて、何故かしつこく「非公式RT」を使い続ける人も絶えなかった、あの頃。


「あの頃に戻りたい」などとセンチメンタルなことをいうにはちょっと血なまぐさすぎる思い出ではあるのですが、まるで小さな大喜利小屋のようなあの頃の独特な空気というものを、誰かがどこかに書き残しておいてもいい。

そんな風に思って、こんな昔話を書いたわけです。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 07:31 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

自分が好きなものを嫌っている人がいたら、その100倍「俺はこれが好きだ!!!」と叫ぶのが良いと思った

私自身のスタンスを先にまとめておくと、

・私が好きなものを嫌うことは勿論あなたの自由です
・ですから、私と関係ないところで、私が好きなものについて「嫌い」と言われていたとしても、別にわざわざ反論しに行ったり説教しに行ったりはしません
・ただし直接私に言われたら私に対する意見とみなして反論はするよ
・ただ「嫌い」というだけなら何の問題もないけど、何か誤った根拠で批判しているのを見かけたら、「それは間違ってるよ」とは指摘するかも知れないです
・私が好きなものに対して「嫌い」という意見を観測したら、「私はこういう理由で好き」というのをすげー主張するかも知れないです

というくらいの感じです。よろしくお願いします。

以前こんなこと書いたんです。


残念ながら、世の中には「自分が嫌いなものを、他人がほめていることが許せない」という人たちが結構いるようで。

ただたんに「このゲームが面白い!」と言っているだけの記事に、なんでこんな言葉を吹き付ける人がいるんだろうなあ、と。大変に面倒くさい人たちだなあ、と。他人の「面白い!」を、一体どういう根拠で否定しようとしているんでしょうか、と。


上の記事で書いた意見は特に変わっていません。今でも、他人の「これ好き!!」を探し出してわざわざ水をぶっかけに行く人は、40時間くらいひどい腹痛にでも悩まされて欲しいと思っています。

今も変わらず、「だれかがそれを嫌っているかも知れない」ってことは全くくみ取らず、自分の好きなものについては「これ超好き!!!!」と主張していこうという所存ですし、そうし続けているところではあります。最近だと特にイース8とアオアシをベタ褒めしています。

ただ、それとは反対ベクトルの話もちょっとありまして。

「自分が好きなものを嫌いと言っている人が許せない人」というのもいるよね、それは「自分が嫌いなものを好きと言っている人が許せない人」を裏返しにしただけで、やってることは変わらないよね、ということを、先日話してたんです。

別に、批判に対して反論してはいけない、わざわざ反論すべきではない、という話じゃないんですよ。投げかけられた批判には反論していいですし、もし誤った論拠があれば誤っていると指摘していい。売られた喧嘩なら値段に応じて買うべきです。

ただ、世の中には、ただ自立的に「〇〇が嫌い」と言っているだけの人に対して、「俺は〇〇が好きなんだ!!〇〇が嫌いだなんて許せない!!」という感じで、ただ「自分が好き」というだけの理由で、その「嫌っている人」をぶん殴りにいく人が結構観測出来るなあと思っていまして、それはちょっと違うんじゃねえかなあ、と思うんです。


当たり前のことですが、「好き」「嫌い」というのはその人の自由です。それを止める権利、それを「間違っている」という権利は誰にもない。何かを好きになる、何かを嫌いになることを阻害する権利は誰にもない。

なので当然、「〇〇は嫌いだ」ということを表明するのも自由なんですよ。

だから、「嫌い」と言っているだけの人に対してわざわざ文句をつけにいくのは、「好き」と言っているだけの人にわざわざ文句をつけるのと同じように理不尽な話だよなあ、と思ったんです。


誰かが「〇〇が嫌い」と言っている人を見かけたとして、その〇〇が好きな人がやるべきことは、「〇〇が嫌いだなんて許せない!」と憤って殴りつけにいくことではなくて、「自分は何故/いかに〇〇が好きなのか」をその100倍くらい表明しまくることではないかなあ、と。それによって、「嫌い」に共感する以上に「好き」に共感する人を捕獲することができれば、それで大勝利と言っていいんじゃないかなあと。

少なくとも私にとってはそっちの方が性に合っていますし、例えばメタルマックス2Rが嫌いだと言っている人や、ダライアス外伝が嫌いだと言っている人を見かけたら、それぞれの作品がいかに素晴らしいかというツイートを30連投くらいしようかなーと考える次第なわけです。よろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。

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posted by しんざき at 07:33 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

「ニセ科学批判は危険」と言っている人が勘違いしていること

こんな記事を拝読しました。


全体としてみれば言いたいことは色々あるのですが、一点指摘するとすれば、
なぜこれが「危険」かというと、そうした「批判」こそが「カルト化」を助長することになるからです。

ホメオパシーの効果を信じている人が、「科学的に言ってホメオパシーには効果はない」とネット上で言われたからといって、果たして納得するでしょうか?

むしろ、「現代科学を信奉する人間にはホメオパシーの価値は分からない」と考え、「現代科学忌避」の傾向を強めるだけではないでしょうか?
この点については、「ニセ科学批判批判」の人が割と頻繁に利用する傾向がある論法であるように見受けられます。

この論法が一点勘違いしている、というかもしかすると意図的に見落としているかも知れないことは、


・ニセ科学批判は、カルトになるような熱心な信奉者に向けたものではなく、それ以外の大多数の「保留者」ないし「存在や問題点を知らない人」に向けたものである


ということです。

確かに、例えば現状既にホメオパシーを熱心に信奉している人であれば、Web上でのホメオパシーに対する反論を見たとして、それが信奉を捨てるきっかけになるかどうかというのは怪しいところです。場合によっては、よりカルト化を強める、ということもあるかも知れません。

ホメオパシー自体は、もはや「効果が証明されていない」のではなく「プラセボ以上の効果がないことが科学的に証明されている」段階であって、欧州科学アカデミー諮問委員会(EASAC)の声明やら、日本医学会の会長談話とその支持やら、その他色んなエビデンス付きの検証が出ています。

代表的な検証を一つリンクします。


ただ、それらを受けても「既存医療サイドの陰謀」的な決めつけを行う人はいますし、そういう人たちにはもはやロジカルな説得は届かないのでしょう。それは確かです。

ただし、世の中には大多数の

・ホメオパシー自体を知らない
・ホメオパシーを勧められたが、まだ信じ切れていない、迷っている
・なんとなく怪しいと思っているが、言い切る根拠がない

人たちがいるのであって、そういう人たちに対しては「プラセボ以上の効果はないんだよ」ときちんと情報を提示してあげることが必要ですし、重要です。ぐぐった時に「あ、ホメオパシーって別に謳っているような効果はないんだ」という材料を見つけられることが重要ですし、それが重要であることが分かっているからこそ、信奉者の人たちが熱心にそうした批判記事を攻撃するわけです。

仮にそうした「ニセ科学批判」が行われなくなったとして、カルト化は止まるのか?というと全然そういうことはなく、単に粛々と信奉者の人たちが一見科学の体裁をとった記事をwebにアップし続けて、今まで判断を保留していた人たちを信奉者側に引っ張り込むだけの話です。

だから、「ニセ科学批判」は「危険」でもなんでもなく、「極めて重要」なのです。信奉者を説得する為ではなく、保留している人達、存在自体を知らない人たちを引き留める為に、重要なのです。



それともう一点、これも信奉者側の人が使う論点として代表的なものなので指摘しておきますが、

以上、見たように、プラシーボ効果しかない療法であっても、

現に「役に立つ」と思っている人がいる以上、それは「確かに役に立っている」
のですから、それだけで、十分に社会的な意義があると言えます。

ホメオパシーは、プラセボ効果しかないから批判されている訳ではありません。医療ネグレクトを煽り、重大な事故につながっているから批判されているのです。ホメオパシーを担いでいる人達が、「これにはプラセボ効果しかないから、通常医療をまず受けて、それと併用する形で使ってね」と公言しているなら誰も批判しません。

冒頭記事でもまさに触れられている、山口市の死亡事故なんてその代表的なものですが、


ホメオパシーが医療ネグレクトを起こしている事例は、Webをちょっと検索しただけでも色々観測出来ます。オーストラリアでは、死亡事故に伴ってホメオパスの両親に有罪判決が出たこともありました。



また、そもそもプラセボ効果自体、非常に議論が分かれるものであって、現状でも比較対照試験以外に用いられることは稀ですし、対照試験における利用についてすら倫理的に認められないのではないかとする議論もあります。



早い話、「プラセボ効果はあるかも知れないんだからOK」というのは全然妥当ではないのです。その点についてはご認識頂いた方がいいのではないかと思いました。


まあ、冒頭記事については、見た感じもっと適切な批判コメントもあるところ、反論しやすいコメントに対してしか反論していないように見受けられますので、この記事が届くかどうかもちょっと分かりませんが、一応意見を呈しておきます。


今日書きたいことはそれくらいです。







posted by しんざき at 08:12 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

ことあるごとに「ひどい話でしょう!さあ、怒って!!」と言われる世界を見ているような気がする

なんていうのかな。いや、全然大した話じゃない、単なる雑感なんですが。


多分、元来人間には、「憤りたい」「怒りたい」あるいは「怒ると気持ち良い」「激しく感情を揺さぶられると気持ち良い」という側面があるのだろう、と思います。「怒りたい」という欲求。

例えば、なんか倫理的にひどい話を観測して、それに対して舌鋒鋭くばっさり批判するとすかっとする、というのはよくわかるんです。嘘つきを発見して、その嘘つきを徹底的に責めると気持ちいいってのもまあ分かるんです。

特に、相手が無条件に倫理的否定の対象になる場合、言ってみれば「正しさ」という大義名分に基づいて怒れる訳で、それがまた怒りんぼ欲求を惹起するんですね。未だ、やれ怒れーーみたいな。

それ自体は今更の話ですし、別にそれが悪いってわけでもないんです。自分はそうじゃない、それに該当しない、なんていうつもりもありません。例えば、迷宮組曲でタイトル画面の連射機能しか記憶に残っていない人がいたとしたら、そりゃ私だって怒ります。


ただ、

「これちょっと、「読者に怒って欲しい」という書き手側の狙いが見え見え過ぎませんかね…?」
「いやそれ、そんなに怒るとちょっと注文通り過ぎませんかね…?」

みたいに感じることが結構多いんですよ。昔からそういうのはあったんですけど、肌感としては、最近とみに増えました。


たとえば、なんでしょ。気分的にあんまり具体的なリンクを貼りたくないんですが、相撲関係のああいうのとか。

あるいは、子どもの歌に関するそういうのとか。

学校の制服に関するアレなのとか。


いや、なにせ多くの人が怒っている点についてはそりゃ相応の理由がありまして、それ自体はもっともだと思うんです。そらまあそうですよね、という。正論だと思うんです。

そういった正論から、色んな状況が改善されることも当然あるわけで、別にそれが無意味だとは全然思わないんです。

ただ、あまりに話のもっていき方があからさまというかなんというか、「これひどいでしょ。理不尽でしょ。さあ怒れ」って言われているような気になることが多くって、なんつーか、まるでコーンを口に詰め込まれているガチョウみたいな気分になることがあるんですよね。


たとえば、議論としてはもうちょっと落ち着いた論建てにも出来そうなところ、「悪いヤツの悪い点」がこれでもかと明確に描かれていると、「ああ、これ「怒れ」っていうポイントなんだなー」と感じてしまうことが多いです。今に始まった話でもないんですけどね。

ひどい話があって、それに怒る人がいるのは、自然なことなんで仕方ないと思うんです。

ただ、ちょっとまずいことに、「怒りを誘える話」って受けるんですよね。バズりやすい。話題になりやすい。つまり収益になっちゃう、「怒らせる」ということに対してインセンティブが出来ちゃうんです。

で、あまりにも「さあ怒れ!」的な話がバズりまくっていると、本来そこまで怒るような話でなくても、無理やり「怒らせられる」話に仕立てようとする人が出てくるんですよね。私、そういうのはあんまり好きじゃないんです。

それが行き過ぎると、本来いなかった「分かりやすい悪役」を設定して、それに無理やり怒らせようとする人まで出てくると思うんですよ。

以前、下のような記事を書きました。

前者の理由については、皆様経験則としてご存知なのではないかと思う。分かりやすい悪役を見て、正義感を煽られてしまう人は非常に多い。彼らは、瞬間湯沸かし器の様に頭を沸騰させた上で、ソースの確認なく情報をがんがん広めてしまう。

それがデマなのかどうかは関係なく、「ソースの確認なく情報を広める」という行為は本来とても危険なのだが、ガードが下がった人はそんなことは気にしない。あたかもあしたのジョーのごときノーガード戦法である。カウンター狙いの戦術であるならまだしも、一般的には彼らのことを「猪突猛進」と呼ぶ。

これ、なんでこういうことが起きるのかっていうと、やっぱり「怒りを煽れば煽る程バズりやすいし受けるから」だと思うんですよね。「読者に怒ってもらう」ことによって得られる利益が凄く大きい。

そこから考えると、素直に怒りを誘われるのもちょっと考えものだなーと。「憤るにしても、もう少し冷静に話しませんかね…?」って思っちゃうんですよね。「優しい気持ちで話し合いましょう」っていうやつ。


トムとジェリーってあるじゃないですか。あれの歌詞で、「トムとジェリー 仲良く喧嘩しな」ってフレーズがあって、私アレ物凄い名言だと思ってるんですけど。

喧嘩するにしても、どっかで余裕を残しておくというか。「思わず憤りたくなるようなひどい話」を提示されても、ちょっと冷静に構えていた方が、多分いざ「そこにはいない分かりやすい悪役」を提示された時、「ん?これちょっとおかしいぞ?」と思えるし、結果的にお話を提示する側も「あ、これはちゃんと議論を作らないとな」となって、色々平和だと思うんですよ。


怒ることが気持ちいいにしても、ちょっと一呼吸、余裕をもって怒りませんか、と。


それだけの雑感でした。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:31 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月31日

インターネットでは言いたいことが言えるけど、殴ったら殴り返される

この増田を読みました。


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先日、どこかの掲示板にプロ野球選手の嫁をブスだと書きこんだOLが名誉毀損で訴えられてニュースになった

これはもうインターネットに気軽に書き込むことが許されなくなるってことだろうなと思った
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また、ネットは道徳に縛られない考えを書き込むことで発想に広がりが出る場所だとも思っていた

ディベート的な議論において道徳ってほんと邪魔なんだけど、現実の日本だとそれは難しい

ネットならそれが出来たけど、もう無理だろうな

インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラルの押し付けと言葉狩りが強化された

増田と言えどもどこから訴えられるかわかったものではない

僕らはすべての発言に責任を持たなければいけなくなったし、道徳に目配せして書き込まなければいけない

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で、ちょっと問題を切り分けたい欲求が働きました。切り分けちゃうぞおじさんです。

まずこの増田は、もしかしたら意図的にかも知れないんですが、二つの問題を混同して語っているような気がするんですよ。

・「ブス」といった罵倒が名誉棄損として訴えられるようになったこと
・webにおける言論が道徳的なものに縛られるようになってきたこと

それぞれの項目が事実として妥当なのかどうかはともかくとして、仮に妥当だったとしても、この二つの事項は全然別の話です。

まず一つ目については、これはごく単純な話で、「誰かを殴ったら殴り返される可能性があるよね」というだけのことです。これに道徳とか関係ありません。

私、件のプロ野球選手の話は観測してませんでしたけど、誰かに「ブス」と言ってそれが訴えられたとしたら、それはその発言が非道徳的だったからではなく、その発言が特定の誰かをぶん殴る発言だったからです。幾ら非道徳的であったとしても、ターゲットを取らないのであればそれが名誉棄損になることはありません。

そういう意味では、

・SNS等によって、誰かを殴る発言が可視化されやすくなったこと
・名誉棄損などの裁判についての情報が広まって、心理的に訴えやすくなったこと

という二点による影響はもしかしたらあるかも知れず(全然検証してませんが)、その点で「名誉棄損などで訴えられやすくなった」ということは妥当なのかも知れないですが、それは根本的にはインターネットによる影響ではありません。単に「殴っているのが見つかりやすくなった」というだけの話です。インターネット以前の世界であっても、罵詈雑言が履歴に残って可視化されれば訴えられていたでしょう。

私自身は、人を殴っておいて、殴った側が「殴っただけなのに殴り返されるなんて!」と騒いでいる世界はあまり愉快だと思えないので、この風潮は別に悪いことじゃないんじゃないかなーと思っています。殴るんなら殴り返される覚悟はしとけよ、って話です。


で、それとは別の問題として。もう一個の話についてですが、

罵倒させろという意味ではありません。ディベートの態度ではなく、論理の展開に道徳によるブレーキが必要ないという話です

  人前でディベートをするとなると、道徳的に疑われるような仮説を引っ込めなければなければなりません

  ディベートだからと言っても現実ではある程度のコードがあるわけです

これとか、これ以降に続く議論の例についての話なんですけど、そういう「非道徳的な発言」ってしにくくなってますかね?

誰かを直接的に殴っていない限りにおいて、単に非道徳的な発言をしただけで訴えられているケースって、少なくとも私は知らないです。あの人もその人も、めっちゃひどい発言たくさんしてるけれど、少なくともそれだけで訴えられてはいないですよね?

勿論、非道徳的な発言をすることで発言が炎上したり、あるいは(私が今書いているこの記事のように)発言に対する突っ込みが飛んでくるケースってのは勿論ありますし、それはもしかすると昔より増えているのかも知れないですが、

インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラルの押し付けと言葉狩りが強化された

増田と言えどもどこから訴えられるかわかったものではない

増田が気にしているのは「訴えられること」なんですよね?であれば、別に愚痴やら非道徳的な発言やらであっても、具体的な対象をぶん殴っていない発言であれば、書き込むだけなら誰からも訴えられることはないと思うんですが…。「こいつは殺人を肯定している!名誉棄損だ!!」とか言って訴えられてるケースって、どこかで見たことあります?

 その他の発言についても締め付けが厳しくなり、客観性のない発言や、客観的でも誰かを傷つけると判断されれば

  名誉毀損で訴えられる可能性が強くなったという趣旨です
増田は追記でこうも書いていますが、これもちょっとあんまり妥当だと思えません。要は、客観的な発言であっても、「その発言によって俺は傷ついた!」と言い出す人がいるかも知れない、それによって訴えられるかも知れない、という話ですよね?

この話のトリガー自体が、「具体的な人物に対する「ブス」という発言が訴えられたこと」であって、そこから「具体的な対象をとらない雑な発言が訴えられること」の間には相当な距離があります。少なくとも、増田が心配しているような、「非道徳的な発言が出来なくなる」という問題と、この話が即結びつくことはないんじゃないかと。



勿論、いわゆる「炎上」というものは、受けてしまった側にとっては大変なストレスですし、そういうストレスを受けてしまう機会が増えることによって発言しにくくなってしまう、というケースはもしかするとあるのかも知れません。それは否定しません。

先日でも、童貞いじりがどうとかで大炎上してた人が色々騒いでましたよね。あれは、発言した人にとってみれば「この程度の発言で炎上するなんて」という意識だったのかも知れません。

ただ、
  しかし非道徳的な言論が許されれば以下のような議論もできます

  A 「絶対にバレないLINEグループ等なら自由に言っても良い」

  B 「それはバレなければ赤信号を渡ってもいいという理屈ではないか」

  A 「その通りだ。事故が起きるか起きないかが問題なのだ。来もしない車を待つことに何の意味がある」

  B 「ルールというものは、個別に存在するのではない。共同体の価値観に敬意を持てるかどうかが大事なので、小さな例外も認めるべきではない」

この例が適切かどうかはともかくとして、こういう「非道徳的だけど冷静」な議論自体は別に全然しにくくなっていないんじゃないかなあ、と感じてはいます。ちゃんと議論立てが出来ていさえすれば、それが無秩序に炎上することってむしろ殆どないような気がするんですよ。


強いていうと、「脇が甘い、雑な発言は炎上しやすくなった」という辺りが、現状の論評としては一番妥当なのかも知れず、そういう意味で「雑な発言をネットに書き込みにくくなった」と嘆くのであれば話は分かります。実際、そういう側面はあるような気がしますし、どんな発言がどういう経緯で炎上するか予測しにくい部分もあって、もう少し炎上に至るまでのマージンというか、余裕みたいなものはあってもいいんじゃないかなーと感じます。

ただ、それ自体は多分「ブス」発言が訴えられることとは全然別次元、別トリガーの問題なので、別建てで考えた方が良いような気がしてなりません。



まあ、犯罪自慢とか殺人予告とかそういうアレならともかくとして、単に脇が甘い発言をして炎上するだけなら別に死ぬ訳でも無し、webにおける立場が悪くなることすらそれ程ないので、増田にせよ私にせよ、深く気に病むことなくバンバン脇が甘い発言をして、適度にこんがり焼けてればいいんじゃねえの、と思った次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 08:07 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月23日

「ゲスな報道は読者の需要があるから」と嘯くマスコミの欺瞞

まず先に前提として書いておくと、私は基本、有名人の不倫や浮気というものに一切興味が湧きません。

浮気だ不倫だというのは極めて個人的な問題であって、個人レベルではごく単純に「不倫はいかんやろ」とは思うものの、その内情がマスコミによって暴き立てられることに必然性は全くないものと考えています。

これが、人格や人間性が選挙の際判断材料とされる政治家であればまだしも、タレントやら芸能人やらの不倫報道については、単にゲスだなーとしか感じません。そういう人、案外多いんじゃないでしょうか。


正直結婚や恋愛、出産のようなめでたい話であっても、それが個人的なものである限りは興味が湧きませんし、そういう報道がなくなっても全く何の問題もないと思ってはいます。誰が恋愛して、誰が結婚して、誰が浮気して、誰が不倫したとしても、それはその当事者の問題であって外野が騒ぐことじゃないんじゃないの、と思います。

ただ、これについては飽くまで個人的な所感なので、そういうものを知りたがる人もいることを理解はしておりますし、それが悪いという訳ではありません。好奇心の方向性は人それぞれです。


上記のような事情がまずある為、今回何やら有名な人の不倫が問題になったらしいことも、文春が騒ぎになっているらしいということも、個別の話としてはよく分かりません。ゲスだなーと思うだけです。


ただ、これに伴って、「こういうゲスな報道が行われるのは、結局それを知りたがる視聴者がいるから」という論法をメディア側の人が使うのは、それはおかしいだろうと思います。


何故かというと、そういう「ゲスな内情を知りたがる視聴者」を育てているのはまさにメディアであって、その論法はいわば「育成責任」を完全に放擲していると考えるからです。



久田氏はTABLOの編集長ですね。いや、この件に関して同じような発言をされているのは久田氏だけではないので、久田氏個人がどうこうという話ではないのですが。

ただ、ここでいう、「不倫報道がなくならないのは読む側の需要があるから」という形で読者側に責任転嫁されることについては、私は強い違和感を感じます。

いやだって、そういう需要を、そういう記事を読みたがる読者を育てているのはあなた方じゃないですか、と。


例えば、マスコミの議題設定効果については、過去色んな議論がありました。個人的には竹下俊郎氏の「メディアの議題設定機能」をお勧めしますが、例えばこの辺の記事には議題設定効果についての話がサマリーされています。

マスコミの持つ『議題設定(agenda-setting)』の効果とは、マスメディアがある特定の話題・争点・関心事を“議題(アジェンダ)”として取り上げて繰り返し伝えたり強調したりすることによって、大衆(人々)がその特定の話題・争点に興味を持つようになったり、重要性(優先度の高さ)を認識したりするようになる効果のことである。

画一的な情報を一方的に大量伝達して、大衆(人々)に『公共的意味合いのある共通の情報・知識・話題』を提供することがマスメディアの役割の一つとされる。だが、この議題設定効果によって、マスメディアが積極的に繰り返し伝えるニュースには人々は興味を持って議論しやすくなるが、マスメディアがほとんど取り上げないニュースは、人々から『初めから存在しないニュース』であるかのような無関心な扱いを受けるリスクが高くなってしまうのである。

経済学的な需給関係と違って、「興味」は育ちます。メディアが繰り返し繰り返し、高いニュースバリューを伴って報道を行うことによって、その話題に興味を持つ人は増える。その話題のニュースバリューが上がり、その話題がより受けるようになる。

単に「事実を伝える」だけであれば、「〇〇と××が不倫していた」だけでも、「△△で□□氏が殺人被害にあった」だけで十分なわけじゃないですか?それに対して、色々ゴテゴテと、あの手この手で周辺事情を書きたてることによって、より視聴者の見方をセンセーショナルな方向に誘導する。不倫報道があると、反射的に「あれはどうなってるのか」「これはどうなってるのか」と興味を発展させるような視聴者が必ずいるし、そのフックはまさにメディア自身が作っているわけです。

それ、まさにあなた方が「読者を育てて」いるじゃないですか、と私は思うんです。


不倫報道がゲスだという認識が本当にあるのであれば、その扱いを小さくしていけばいい。ただ「知る権利」を満たすだけであれば、事実を単純に報道するだけでもそれは十分果たされます。その単純な事実を知った読者が勝手に盛り上がるなら、それは確かに読者の勝手でしょう。

それをガンガンメディア側が、センセーショナルな方向に盛り上げるのは、要はそういう需要を保持したい、更に煽りたいからじゃありませんか。

なのに、一体どの口で「需要がなければ報道はされない」なんて言えるんでしょうか。




興味の方向性という話からは若干ずれますが、マスコミが「読者を育てる」「読者のリテラシーに影響を与える」機能を持っているという話は、マスコミ側の論者も自分でそう言っています。


例えば朝日は、明治大学の斎藤氏にこういうことを書かせています。

そして、朝日新聞の「ひと欄」のように、人物を取り上げたようなコラムは社会的に意味のある生き方を教えることができますし、子どもたちは自分の将来について具体的かつ主体的に考えるようになります。また、「声」のような読者投稿欄では、ひとつのテーマについて複数の意見が寄せられます。そうした記事を読むことで、複数の意見を受け入れる許容力や、複眼的な思考力が身につきます。

 情報は常に変化していて、正しいと思っていたことがそうでなくなることもある、ということも、新聞を読み続けていれば理解できるはずです。情報はうのみにせず、ある種の「揺らぎ」を持ちながら是正していくことを、自然と学ぶことができると思います。


また、例えば日本新聞協会が運営している日本のNIEなんかでは、「教育に新聞を」って高らかに謳ってるんですよ。


NIE(Newspaper in Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)は、学校などで新聞を教材として活用することです。1930年代にアメリカで始まり、日本では85年、静岡で開かれた新聞大会で提唱されました。その後、教育界と新聞界が協力し、社会性豊かな青少年の育成や活字文化と民主主義社会の発展などを目的に掲げて、全国で展開しています。


報道が読者を育てる、教育する、ということは、報道の中の人ですら主張している。

報道教育、結構なことです。リテラシー教育、大事です。

ただ、教育するならするで、教育の中身にはきちんと責任をもって欲しい。


百歩譲っても、「ゲスな記事を読みたがる読者」と「ゲスな記事を作り続けるマスコミ」は連帯責任、ないし並列責任であって、一方が「こちらに責任はない」「読者が知りたがってるから報道をしているだけだ」というのは絶対におかしい。

マスコミ側の人間が、「ゲスな報道は読者の需要のせい」と言っているのであれば、それは欺瞞以外の何者でもない、と考える次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 08:22 | Comment(9) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月18日

昔ファミリーベーシックってものがあったんだよ

あったんですよ。



皆さんやってましたか?覚えてますか?ファミリーベーシック。

ベーマガの特選プログラムのコーナーとか、Dr.Dの投稿プログラム添削とか、懐かしいですよね。

「君だけのゲームが作れる!!」「君のゲームでマリオが動く!!」っていう言葉が最大の売りだった、ゲームプログラミングツール。1984年という、ファミコンの歴史からするとド初期に叩き込まれた、曲りなりにも開発プラットフォーム。

しんざきは、兄の門前の小僧で、このファミリーベーシックを遊んでいました。

しんざきと兄は5歳違いでして、当時兄は既に小学校高学年でした。一方私は幼稚園からようやく小学校に上がる頃。

それでも、「任天堂のファミリーベーシック入門」とか、「ぼくらのファミコン入門」とか見ながら、何時間もかけて参考プログラムをぽちぽち打ち込んで、散々エラーで怒られて、ついにRUNさせたらコントローラーでマリオが左から右に動いたりしたんですよ。


いや、これ、笑うところじゃありませんよ。

「自分が打ち込んだプログラムで、画面上のマリオがコントローラー操作に基づいて動いた」

んです。

当時、本当にこれだけでもドすげえ感動しましたし、たとえプログラミング入力に数時間かけて遊ぶのは10秒、という状況だったとしても、あれは間違いなく、私にとっては「ゲーム開発」以外の何者でもなかったんです。

そこから、何だかんだで、私数年はファミリーベーシック続けてました。

勿論そんな大したゲームが作れたわけではないです。プレイヤーに数字を入力させて、ランダムな数字を当てさせる数字当てゲームとか、サンプルプログラムをちょっといじってパラメーターを変えただけのゲームとか、精々そんなもんです。

ただ、今私が一応システム関係の仕事をしていて、最近はあんまりですけどなんだかんだコードも書いてたのも、根っこには間違いなくあの「ファミリーベーシック」があったと思うんですよね。

我々は、ファミリーベーシックで変数定義を学んだ。

関数を学んだ。

ルーチンを学んだ。

アルゴリズムを学んだ。

DEF MOVEを、IF THENを、行番号とGO TO を、CGSETを学んだ。エラー処理を、デバッグを学んだ。

たとえそれが、どんなに切れ端の知識であって、時にはファミリーベーシック以外ではなんの応用も出来ない知識だったとしても、あれって「何かの始まり」ではあったと思うんです。


ファミリーベーシックって、結局どれくらい普及したんでしょう?wikipediaの記載では40万台は売れたってことですけど、これがV3やらバージョン違いも全部合わせた数字なのか、国内だけなのか世界なのか、その辺はよく分かりません。

ただ、勿論、当時ファミリーベーシックを買った子どもたちが、皆が皆ゲームを作れたか、っていうと恐らく全然そんなことはないんです。

「ゲームプログラムモード」がハードル高いものだということは、任天堂も最初から分かっていたんでしょう。だから、大本のファミリーベーシックは、カリキュレーターモードとか占いとか、プログラムモード以外の遊びを入れざるを得なかった。ゲームプログラム以外の最低限の遊びも含めざるを得なかった。多分、「占いやミュージックモードをちょっと遊んで終わり」くらいの子どももたくさんいたんじゃないでしょうか?

ただ、ファミリーベーシックで任天堂がユーザーに言いたかったメッセージって、間違いなく

「作れ!!作ると面白いぞ!!!」

だったと思うんですよ。そこは、多分そこだけは間違いない。

あの時、実際に「作った」ファミっ子がどれだけいたのか。それは勿論想像するしかありませんが、少なくともそのメッセージが届いた子どもたちが、私を含めて複数人いたことは間違いない。そして、そういう子どもたちの中には実際、「作ると面白いぞ」という言葉を実感し、最終的には作る側に回った子どももいたんです。ゲームでこそないものの、私もその端くれです。

作るの面白いよ、というメッセージ。勿論、他にも多くのメーカーが発し続けてきたメッセージではありますけれど、任天堂にとっても、そのメッセージって多分特別言いたいことであり続けているんだろうなーと思ってたんですよ。マリオペイントしかり。miiスタジオしかり。最近でも、マリオメーカーなんてその代表例でしたよね。

で、NINTENDO Laboを見たんです。



姿も違うし、出来ることも、出来る範囲も、実際にやることもぜーーんぜん違うけれど。

これはもしかすると、時代を越えてもう一度「作れ!!!!」ということをユーザーたちに叫んでいる、ファミリーベーシックの再来なんじゃないかなーと。

かつてのファミリーベーシックと同じように、ハードルの高さを感じる人も、買ったはいいけどすぐ押し入れにしまっちゃう人もたくさんいるだろうけど。

その中で、多少の人数には「作れ」というメッセージがダイレクトに届いて、数十年後に全然違ったフィールドで何かを作るようになる子どももいるのかも知れないなー、と。

そんな風に思ったんです。




posted by しんざき at 13:12 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月09日

今そこにあるネット私刑、あるいはネタさえあれば私刑を執行したい人たち

こんな案件を観測しました。今方々で話題になっている、振袖業者の話です。


ひどい話ですよね。人生一度の成人式の日にこんな案件に巻き込まれてしまった新成人の皆さまは心底お気の毒だと思いますし、状況から見てもある程度計画的な倒産だった可能性は高そうです。

一方で、同じ「はれのひ」でも店舗によっては、社長に連絡がつかず、給与も遅配する中で新成人の皆さまのフォローを精一杯行ったスタッフの方もいらっしゃったようで、こういった現場を支えたスタッフに対しては、賞賛の念を禁じえません。偉いなーと思います。


何にせよ、これが詐欺案件に該当する可能性はかなり高そうであって、民事ないし刑事案件になって速やかに法的措置が取られ、被害者が適切な補償を受けられることを願って止みません。


ただ、それとは別に、「またかよ」と思った案件がありまして。


はてブで件の振袖業者の社長名について、facebookのエントリーをピックアップする記事を見かけました。

それを見て、ふと思いついて社長名をぐぐってみると、まあ出るわ出るわ。

「〇〇の顔画像や経歴は?」
「現在の居場所を特定!」
「〇〇の嫁・子どもについて」
「〇〇の住所や顔画像を特定!」
(〇〇は社長名)

みたいなタイトルの記事がずらっと。アクセス流したくないんでリンクは貼りませんが。

これ、明らかにネット私刑ですよね?

百歩譲って、当該社長が自分で公開しているfacebookの情報をピックアップするだけなら(既にネットに公開されている情報なので)まだわかるんですが、何の関係もない家族や、家族が巻き込まれかねない現住所に関して、悪意満々の論調でWebに公開することが、私刑以外のなんなんだって話なんです。


以前こんなことを書きました。


まず、

「無関係だろうがそうでなかろうが、私人が事件の容疑者や身内に私刑を行うのは犯罪」

ですよね?ここブレちゃいけないですよね?

これ、そもそも嫌がらせの電話を受けているのは、事件の容疑者と何の関係もない企業なので、それはそれでひど過ぎる話なんですけれど、「たとえこれが本当に容疑者の関係者だったとしても、あるいは容疑者本人であったとしても、個人情報を晒したり、嫌がらせの電話をしたりするのは犯罪以外の何者でもない」というのは当然の認識としてみんなが持っておかないといけないと思うんですよ。
「件の振袖業者の社長の住所」と称されるものが、本当に誤爆でなくて本人の住所だとすら現時点では全く判断出来ないと思っていて、その点もし誤爆だったらまた新しいスマイリーキクチ事件が起きることについて誰が責任とるんだ、とも勿論思うんです。

今更いちいち言うまでもなく、webに一度拡散された情報を消去することは極めて困難というか、大抵の場合不可能です。仮にデマだった場合には、勿論なんの関係もない人の住所が大量の人に拡散されて、「この犯罪者!!」という罵倒が、何も罪を犯していない一般人に投げつけられることになるのでしょう。これを理不尽と言わないでなんていうの、という話です。


ただ、仮に誤爆でなかったとして、「私人が特定個人の個人情報を晒すのは私刑以外の何ものでもない、単なる犯罪」だということを、しつこかろうが何だろうが、我々は確認しておかなくてはいけないと思うんですよ。

日本は法治国家であって、罪を犯した人間がいたとしたら、きちんと法に基づいて裁かれなくてはいけません。その為にはちゃんとしたプロセスもあれば時間も要ります。そういうのを全部吹っ飛ばして、「俺たちで叩こうぜ!!」とかやり始める向きを、私は醜悪だとしか感じません。

仮に何か情報提供をしたいことがあるのならば、それは少なくとも警察に対してするべきであって、ネットで不特定多数にさらすことで発生するメリットなんて何一つ、本当に何一つありません。

結局のところ、こういう人たちって、「叩きやすい対象」が出てきたタイミングで、「ほれきた!」と私刑を煽っているようにしか、私には見えないんですよ。


なんなんでしょうね、この、「燃やしやすい藁人形」を発見したとたんに、わーーーっと集まってきて「さあ皆叩け!!」って煽り始める光景。これものすっげえグロテスクだと思うんですが。

「嫁・子どもについて」なんて、もう明々白々に、「一族郎党まで迫害しろ」っていう意思表示以外の何者でもないじゃないですか。本人に対する私刑だって単なる犯罪ですが、例えば罪もない子息の情報を晒そうとすることに、一体どんな正当性があるっていうんでしょうか?それで自宅にじゃんじゃん電話がかかって、家庭の1個も崩壊すればそれで私刑をする人たちは満足なんでしょうか。


この、「たくさんの人の憤り」を利用して広告収入を稼ごうとする手法、なんとか滅びてくれないかなーと思うばかりなんですが。

せめてネット私刑だという指摘だけでもしておきたいと思って、本日記事を書いた次第です。

悪質な計画倒産案件や詐欺案件が減少するのと同じくらいに、ネット私刑が減少することを願って止みません。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:32 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

webは結局権威主義へと帰着するのかも知れない

思考メモ。特に建設的な結論に着地するような記事ではないです。

こんな記事を読みました。

今の時代情報強者になるのはとても難しいと思った話(ダイエット編
いや、もう検索エンジンをどう使おうが正しい情報にリーチすんの難しすぎない?って話。

正直なところ、ここで書かれていることは大筋正しいと思っており、Googleの検索結果は現状、かなりの範囲においてひどいことになっています。

どの検索ワードでもこの検索ワードでも、

・何の根拠もないライフハックもどき
・どっかからのコピペつぎはぎ
・ワードサラダ的な意味が薄い記事
・twitterから適当に拾い集めたツイートまとめ

などが上位検索結果に目白押し。Googleがハックされ過ぎていて、広告目当て、PV目当ての大量生産記事が大氾濫しているというのは、既に今更の話でもあります。

そして、ぐぐってトップに出てくる無根拠な情報を、これまた無根拠に信用してよろしくないことになる人、というのもしばしば観測出来ます。医療のアレとかデマ関連のソレとか、まあ色々思い浮かべて頂けるかと。

かつては「ググレカス」と呼ばれていたところが、「ぐぐったら情弱」と呼ばれる日はすぐそこに見えている、というか正直そういう時代に既に片足突っ込んでいると思います。

勿論希望が全くないかといえばそういう訳でもなく、例えばGoogleは先日医療や健康に関連する検索結果を改善したことについて発表しまして、こういう動きがバンバン続いてくれればまだ状況は改善するかも知れません。ただ、残念ながら現時点では、大きく状況は変わっていないと言わざるを得ません。

こういう時代、重要なテーマに対して適切な情報を手に入れる為にはどうするべきかというと、多分現実的な方向性は大きく二つあって、

・Web以外に情報の裏付けを行うことが出来るアナログなノウハウを身に着ける
・信頼出来る個人や組織をフォローして、彼らが発信する情報を信用する

のどちらかになりそうなんですよね。

アナログなノウハウは、多分それはそれで重要だと思うんです。玉石混交って言えばアナログな書籍だって新聞だってそりゃ玉石混交ですが、世の中程度の差というものがあります。書籍は少なくともほぼ必ず編集者の手を経ていることは保証されている訳であって、玉石の混在率に関しては、少なくとも現時点のWebよりは遥かにマシです。「この出版社はヤバい」「この出版社はまあ安心」という見分けも、webよりはだいぶ難易度低いでしょう。

こういった、「Webだけに頼らない情報収集のやり方」については、どこかできちんと練習するべきだし、私自身ちゃんと子どもに教えてあげたいなーと思って、機会あるごとに一緒に図書館いって調べものしたりしてるわけですが。

ただ、そうは言っても時代の流れというもので、アナログなサーチ手段についても恐らくいつかは限界が来ます。そうなると、「信頼出来る組織・人」に情報の保証を求めるというのが、恐らく一番現実的な落としどころにならざるを得ないと思うんですよ。

例えば医療の情報について言えば、現時点で厚生省が発信している情報はほぼほぼ妥当でしょうし、信頼出来る医療機関、信頼出来る医師が出している情報をキャッチすることも可能でしょう。

「この人のいうことはまあ信用出来る」「この組織の書くことはまあ信用出来る」という形で、キュレーションを誰か、何かに仮託しつつ情報のフィルタリングをする、というのが、まずまあ妥当な落としどころなのかも知れません。


で、ここからがあんまり建設的でないくねくねした話なんですが。

「人」「組織」に信用を求めてそれをフォローするって、それ多分権威主義の入り口だよなー、ということが、私の頭からはどうも離れないのです。

勿論盲従する必要はないとはいえ、「この人のいうことは信用出来る」という、いってみれば「人」に対する説得力の仮託というものから、恐らく権威主義というものは始まったんじゃないかなあ、と。それって多分、かつて我々が、いや少なくとも私を含むWebの一部の人たちが、Webに求めたものからはかけ離れた形だよなあ、と。

かつて、権威主義を否定する夢をWebに託した人たちが、巡り巡って結局権威主義に帰りつくのか。


「誰もが同じ立場で価値ある情報を発信出来るweb」という一つの理想は、失墜したままもう戻ることはないのかな、と、一抹の寂しさを覚えるのです。

まあ、今は、Googleが検索結果の健全化をガンガン進めてくれることに期待しつつ、ゲーム系迷惑サイトとかNA某まとめとかできれば消滅してくれないかなーと神社に手を合わせるだけの日々なわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:28 | Comment(6) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月04日

漢文学習がどんな役に立つのか、なるべく簡単に解説してみます

こんな記事を読みました。


日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか

何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。

おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。(中略)「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。

それでも、それでも、それでも、

やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。


えーと、この人の言いたいことを簡単にまとめると、

・古文・漢文というのは暗記ゲームであって、伝統や教養以上の実学的な意味はない
・そんな科目を受験の科目に含めるのは不適当ではないのか

ということだと思います。

これは多分、「古文や漢文って何の役に立つの?」という、よくある疑問に還元出来るのだろうなーと考えます。


そもそもの前提として、「役に立つ/立たない」という軸を勉強する意義に求めることは適当か、という話は勿論あります。

知識は、それを身に着けることそれ自体に意義がある、役立つ役立たないなんて関係ない…そういう人はいますし、そういう姿勢は正しい、尊いものだと思います。

ただ、それを承知の上でも、我々は一度は、きちんと「役立つ/役立たない」という土俵に乗ってあげないといけないと思うんですよ。

以前、こんなことを書きました。

「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す

大体において、小中高で勉強する科目なんて、殆どが「実際にめっちゃ役立ちますよ」という科目ばっかりなんですよ。それは、トレーニングとして役立つということでもありますし、実際社会に出てからめっちゃ使う、というものもあります。それをきちんと言葉にして伝えることは、大人の義務でもあると思うんです。

ということでこの記事では、古文漢文の中でも特に漢文に絞って、「何故漢文学習が必要なのか」ということを書ければと思います。


1.漢文学習はどんな役に立つのか

最初に結論から書いてしまうと、漢文というのは

「伝統や教養を身に着けるついでに、論理読解力の経験がめっちゃ積めるという超お得科目」

です。

教養というものはそれ自体確かに重要であって、しかも更なる教養にアクセス出来るスキルを身に着けることはとてもとても重要です。漢文は、それ自体「次の教養へのアクセスポイント」であり得ます。唐詩選とか十八史略とか、教養抜きにしてもめっちゃ面白いですよね。孫子とか韓非子とか原文で読めるんですよ?超面白くないですか?


けどですね、漢文って決して「教養」だけのツールではなくて、実際にドすげえ教育効果を持っているんですよ。

それは、「極めて短いスパンで、物凄い効率的に「言葉の繋がり」を追っていく練習を積めること」。一種の「読解力ドーピングツール」なんです。この点についてだけ言えば、漢文は明らかに現代文よりも効率がいいと思います。

例えばですね、何がいいかな。論語にしましょうか。


不患人之不己知。患不知人也。


すげえシンプルな一文ですよね。人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり、って読むんですけど。

これだけでも、このたった二行だけでも、「どの言葉とどの言葉が繋がっているのか」「どの字がどの字にかかっているのか」をすごーくちゃんと読まないと読めない、ってこと、分かって頂けるでしょうか?


この「不」って字はどの字にかかるんだ?

「患」は動詞っぽいけど、主語は誰なんだ?

不己知ってのはどういう順番で読むんだ?何を知ってるんだ?何を知らないんだ?



これですね、漢文ってすごい情報の密度が高くって、いちいちきちんと「言葉の繋がり」を考えないと、ぜーーったい文章全体の意味を読み解けないようになっているんです。どの言葉がどこにかかっているのか、細かいレベルまで全部必要になる。

その割に中高くらいのレベルだと凄くロジカルで構造的に堅牢な文章しか問題に出ないし、言ってること自体はシンプルで類推が容易なんで、コツさえわかってくればパッパとロジカルに読めるようになる。ちゃんと慣れることが出来れば、冗談抜きで論語なんて白文で全部すらすら読めるようになります。

この学習効果、結構物凄いと思いますよ。「文章の論理構造を読み解く」って、読解の基本じゃないですか?現代文どころか、英語でも、数学でも、社会でも、理科でも、他のどんな分野でも使っていくスキルですよね。それをすごーーく短いスパンで、ものすごい密度で反復練習出来るんです。

当たり前のことですが、難しいことをするには訓練が必要です。ややこしい言葉を読み解くには、論理構造を読み解く経験値を積まなくてはいけません。その点、「言ってることは簡単なのに、ちゃんと論理構造を読み解く訓練にはなる」のが漢文です。

つまり漢文って、「超短期読解力養成ギプス」として使えるんです。漢文が分かるってことは、イコール「言葉と言葉の繋がりについてきちんと理解している」ってことと同義、と言えるんです。



同じ勉強するなら、学習効率がいい科目をどんどん勉強していくべきですよね?

だから、科目としては本来すごーく重要だと思いますよ、漢文。教養にもなるし読解力のドーピングも出来る。超お得セットだと思いません?


漢文勉強することの直接的なメリットって他にもありまして、

・中国語がかなりの精度で普通に読めるようになる
・熟語の構造が分かって、難しい熟語の意味が推測しやすくなったり、類語や対義語が覚えやすくなる
・日本の古めの言語もある程度スムーズに理解できるようになる

この辺はかなり大きなメリットだと思います。特に3点目とか、法学部なら普通に昔の判例とか、法律文書読むのに使ったりするんじゃないですかね?法律文書なんてただでさえややこしい文章多いし、他の学部ならともかく、法学部だったら普通に漢文馴染むと思うんですが…。

あと、例えば「将来」みたいな熟語について、ああ、これは将に来らんとすの意味だな、みたいなことがナチュラルに分かって内心ドヤァ出来ます。


2.漢文学習の不幸な誤解

ただですね、冒頭増田も不幸な誤解をしてると思うんですけど、世の中、漢文のことを「暗記科目」って思ってる人って何故かすごい多いんですよね。これ、不幸なことだなーと。

確かに、漢文って読めるようになるまでに覚えたほうがいいことってありますよ。句法とか句形とか、不読文字とか特定語彙の解釈とか、まあある程度はですね。

悪いことに、中高程度の漢文だったら、暗記だけでかなりのレベルまで点とれちゃうんですよね。だから、学校教育も、「受験対策としての暗記漢文」みたいな感じになりがちなんだと思うんですけど。

レ点がどうとか一二点がどうとか、本来些末なことっていうか、漢文それ自体に必要なルールじゃないんですけどね。本来は、例えば簡単な白文から見ていって、「なんとなくこういう意味」「なんとなくこういう繋がり」みたいなところから、漢文っていう言語体系、漢文を読む楽しさを徐々に学んでいく、みたいなやり方の方がいいと思うんです。

実際、私が塾で「漢文さっぱり分からん」っていう子を相手する時は、「一回今まで授業でやってたルールは全部忘れよう」って言って、「なんとなく言葉のつながりを想像しながら白文を見ていく」ところから始めていました。それでしばらくすると「あ、漢文って案外難しくないじゃん」ってわかってくれた生徒も割といるんで、時間さえあればそっちの方がいいと思うんですよ。まあ、実際のカリキュラムではそうもいかないんだということは分かるんですが。

あと、「これ三国志に実際出てくる文章だよ!!正史だけど!!!」みたいな授業も、三国志好きな子には結構盛り上がりましたねえ。楽しみながら勉強できるといいんですけどね。

おそらく、冒頭の増田も、「ひたすら暗記する漢文勉強」しかさせてもらえなかったんじゃないかなー、と勝手に想像します。そういう教育自体には、改善の余地なしとは言いません。

ただ、「漢文は不要か必要か」って話に限っていえば、私は「明らかに必要」だと思います。だって効率いいもん。教養にもなるし。



まあ、なにはともあれ、私が言いたいことを簡単にまとめると

・漢文は教養になるうえに読解力のドーピングが出来るお得ツール
・読解力は全科目で重要なので、漢文の学習価値も割とハイレベルだと思う
・その他のメリットも割とある
・けど学校での学習形態には改善の余地もあるかもね

くらいになります。よろしくお願いします。


あ、古文についても色々似たようなことは言えるんですが、まああまりに長くなるので今回はこれくらいにしておきます。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 22:25 | Comment(18) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月03日

銀河英雄伝説の10巻でなぜか私が一番ぶわっとくるところ


この話、以前友人としたところ、「え、そこ?」みたいな反応をされたので、ちょっと書いてみたくなりました。

皆さん、銀河英雄伝説は読まれましたでしょうか?田中芳樹先生につきましては、勿論毀誉褒貶ある作品もあるのですが、まず「銀河英雄伝説」全10巻 + 外伝4巻が名作であることについては、議論の余地がないところかと思います。10巻のラストとか、読み終わった後の余韻すごかったですよね。


で、銀河英雄伝説は、勿論割とカジュアルに人が死ぬ小説でして、田中先生は「作中からキャラクターが退場する場面」を描き出すことに定評がある作家なので、言ってみれば「泣き所」みたいなものも劇中あちこちにあるのですが。

何故か、私が一番ぶわっとくるところというか、私の一番の泣き所って、キャラクターが死ぬところではないんです。

それは、10巻の劇中、作中最後の大規模会戦であるところのシヴァ星域会戦が終わった後。


「戦艦ユリシーズは生き残った。ついに最後まで生き残ったのだ」


というたった一文。

私、なんかここで妙にうるっと来てしまいまして。これが何でかなあ、と。


なんというか、長い物語がついに終局を迎える感慨、その感慨がユリシーズに集約されている見事さ、とでもいうのでしょうか。

ユリシーズは、勿論作中では最も長い期間登場し続けた戦艦の一隻でして、初登場は1巻のアムリッツァ会戦です。「トイレを壊された戦艦」などというありがたくない仇名もつけられつつ、作中でもイゼルローン組の一種の象徴というか、精神的支柱のような扱いも受けています。色々紆余曲折もあるのですが、最終的には、帝国の旗艦ブリュンヒルトに対する、イゼルローン軍の旗艦のような扱いになっていました。

で、まあ、銀英伝においては数々のキャラクターが落命するのですが、それと同様、戦艦もまあ数多く沈むわけなんですよ。ヒューべリオンも沈みました。アースグリムも沈みました。リオ・グランデもク・ホリンも沈んじゃったわけです。

ただ、銀英って、10巻以前まではあんまり、「艦」に積極的に思い入れを抱かせるような描写ってあんまりないんですよね。勿論、トリグラフの話とかパーツィバルの話とか、艦の話自体はちょこちょこ出てくるんですが、それを展開的にそこまでクローズアップはしていない、というか。艦を感情の焦点にするような描写ってあんまりない、っていうか。

それが、この10巻の終局、最後の最後に、ブリュンヒルトでもベイオウルフでも、勿論ケーニヒス・ティーゲルでもない、「ユリシーズが」最後まで生き残った、というのが。ああ、戦い抜いたんだなあ、と。

本当に終わるんだなあ、と。ここまで頑張って生き残ったんだなあ、と。


読者が「物語の終わり」を感じるポイントって、多分人それぞれ違うと思うんですけれど、私にとっては文句なくこの一文だったんですよね。別段泣かせどころでもなんでもない、むしろ描写としてはさらっと、激戦の後日談程度の話しかされていないんですが、そんなさり気ないところにこの「最後まで」という一文を盛り込んでくるのが。

田中先生、本当にこういう一文が上手いなあというかなんというか。私にとって、長いシリーズの中でも最もお気に入りの一か所になっているわけなんです。


銀英伝、今年の4月から改めてアニメ化されるらしいですね。私、アニメに対してはあまり感受性が強くないんですが、これを機に今まで原作を読んでいなかった人も、ふとした機会に手に取って頂けるといいなあと。またおいおい、お勧めエントリーでも書こうかと思う次第なわけです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 20:54 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

何故パワーアップすると脱いでいくのかが理解出来ない

着衣指向原理主義過激派としては、「脱ぐな、着ろ」という熱い思いが胸に去来することを否定できないわけです。

新年からいきなり何の話をしているのか、ついに本格的にとち狂ったかと思われるかもしれませんが、ソーシャルゲームやOTCGのカードの話です。

私の観測範囲内ですと、いわゆるソーシャルゲームやらOTCGでは、「カードがパワーアップするごとに、何故か露出度が上がっていく」という文化が、かなり一般的に定着しているように見えます。例えばカードのレベルを上げたり、カードを進化させる時に、そのカードの画像自体もマイナーチェンジするわけですが、その時ほぼ一方通行的に、キャラクターの露出度が上がる方向に衣服が変化していくのです。

これ、対象キャラクターが男性でも女性でも、大きく傾向が変わらないように思います。

およそ、ソーシャルゲームのキャラクターは、「あなた何でそんな恰好で外出歩いてるのん?」という程度に露出度が高いキャラクターがしばしばみられるのですが、それがパワーアップするとさらに脱いじゃう訳です。元から腹やら背中やら出してたところ、「水着かよ」「下着かよ」「布かよ」みたいな服装に変動していくキャラクターも全く珍しくありません。

何故なのか。

一般的に考えて、「パワーアップ」と言えば攻撃力やら防御力やらが上がる方向に行くべきであることは議論を俟ちません。もちろん、軽量化によって速度が向上するという可能性を否定はしませんが、衣服の布切れを削って乳を半分見せたとして、それが素早さにどう貢献するのかは正直よくわかりません。

普通なら重武装になるだろ、と。お前なんで半裸で戦場立ってるねん、と。わざわざ弱点増やして、うっかり台所に立ったら油がハネて火傷しかねない恰好になることにどんな意味があるのか、と。パワーアップしてフルアーマー化するZZガンダムを見習って欲しい。すごい勢いで見習って欲しい。

一点強く思うのが「寒いやろ」という点でして、これが真夏の設定ならばまだしも、うっかりすると全然冬場でも、どう考えても5秒で風邪ひきそうなスタイルにパワーアップしていることをだれも止めないわけです。誰か言ってやってください、「着ろ」と。


これは飽くまで私の嗜好の話なのですが、私は着衣原理主義過激派と呼ばれる派閥に所属しておりまして、「露出度は低ければ低いほどエロい」「具体的に言うと、プレートメールを隙なく着込んでいるくらいが一番エロい」「サムスはエンディングでも脱がないで欲しい」といった諸点で表現できるわけです。


着ている時、そこには無限の想像の、あるいは創造の余地が残される。


着衣派にとって、「服」とはそれ自体がキャンバスであって、自らの創造の翼をはばたかせるためのフィールドなのです。

然るに、「パワーアップする度に露出度が上がっていく」というのは、ただそれだけで創造の余地を次々はぎ取っていく暴挙に他ならず、嗜好を抜きにした一般論で考えてもなんで脱いでいくのかよくわからない、という話なわけです。

私は主張します。

脱ぐな、着ろ、と。

パワーアップ着衣というものが何故ないのか、と。

なんならご褒美着衣というものがあっても良い、と。着衣麻雀上等だ、と。


確かに、一般的なソーシャルゲーマー諸氏にとっては、脱衣が着衣よりも勝っているのかもしれません。ですが私自身は、彼らに着衣のすばらしさこそ知って欲しい。ソーシャルゲーム開発者の皆様には、ぜひご褒美着衣というもののご導入を一考いただきたいと、それだけを考えて当エントリを10分くらいで書きなぐっているわけです。

皆様、ぜひご検討をよろしくお願いいたします。


末筆になりましたが、新年らしさというものを2800キロメートルほど後方においてきた記事を書いてしまって申し訳ありません。本年も旧年に10倍する適当さで適当に書きなぐっていこうと思いますので、皆様適当によろしくお願いいたします。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 17:14 | Comment(19) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月29日

人をするっと褒められる人は、もっと自分の凄さを自覚した方がいい

実を言いますと、元来「褒める」ことがあまり得意ではありません。

私はどうも、人を褒める時にちょっと余計なことを考え過ぎてしまう嫌いがあるようで、

・これは適切なポイントへの褒め言葉になっているだろうか
・社交辞令ではなく本心から褒めているということがちゃんと伝わるだろうか
・却って嫌味に聞こえたりしないだろうか
・上から目線の言い方になっていないだろうか

といったことが、ついつい頭の中に浮かんでしまいます。

これらは、まあ無理なく気にすることが出来たら気にするに越したことはないんでしょうが、考え過ぎても色々とアレです。結果的に、褒め言葉を言いたいところで言い逃してしまったり、あれこれ考え過ぎて却って逆効果になってしまったりということは珍しくはありません。

私は、以前から「好きなものについては手軽気軽に好きと言うべき」であるとか、「褒め言葉は口から出せば出すほどいい」みたいなことを言っており、そうしているつもりではありますが、それはある程度努力してやっていることです。自分に言い聞かせている、とも言います。


ただ、世の中には、本当にするっと、何の衒いも迷いも照れもなく人を褒めることが出来る人がいるんですね。


殆ど反射的に、ノータイムに褒め言葉が出てくる人。ごちゃごちゃ考えなくても、自分の感嘆をそのまま口から出すことが出来る人。そういう人と話していると、冗談抜きでするすると褒め言葉が出てくるわけなんです。「〇〇すごいなー」って、そう一瞬で言えるお前がすごいわーー!!って思います。

つまりそれは、

・「良い」と思ったポイントを短期間で見つけることが出来る発見能力
・発見したポイントについて、短期間に言葉に出来る言語化能力
・言葉にした自分の嗜好やスタンスを、周囲に開示出来る素直さ

を兼ね備えている、ということであって。

「するっと褒められる」って、多分スキルなんだなーと。あるいは才能なんだなーと。決して、軽くみられる話ではないと思うんですよ。


例えばSNSでの話なんですが、勿論画面の向こうのことは見えませんので、そこに表示されている褒め言葉がするっと出てきたものなのか、あるいは考え抜かれたものなのかは分かりません。

ただ、絶対量の話で言えば、本当にすぱすぱ自然に褒め言葉をテキストに出来ている人というのはいて、そういう人を見る度に、私はすごいなーーと思います。

ただ、そういう人って、案外自分の凄さを分かっていないというか。少なくとも、「褒められる」ということを自分の凄さの一つとして認識している人って滅多にいないような気がしているんですよね。


いや、繰り返しになりますけど、それ凄いですよ。「いいところ」を見つけて、それを言語化出来て、かつそれを迷いなく開示出来る。誇りに思っていいくらいのスキルだと思います。

「人をするっと褒められる人」は、自分が凄いことをやっているんだと、またその凄いことで周囲を幸せにしているんだと、誇りに思って頂きたい。

そう考えた次第なのです。


で、まあ、ミドリガメが急にランドタートルになったりは出来ませんので、そういうスキルを持った人は凄いなーと思いつつ、私自身は引き続き努力して、なるべく素直に褒め言葉を言語化していきたいなーと思う次第なのです。


それくらいです。


posted by しんざき at 12:29 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月25日

ビデオゲーム史における五大傑作について

色々な意見の違いは当然あれど、ある程度公平に考えれば「スペースインベーダー」「テトリス」「ストII」の三タイトルはおそらく確定する筈で、後は重視する軸によって「なんでそれを入れるんだ」「いやそれよりこっちの方がふさわしいだろ」「それが入るなら何故こっちが入らないんだ」という話になるのかなー、という風に考えています。

条件としては、

・そのゲーム単体でセールス的に大きな成功を収めている
・ゲーム業界、ないしゲームジャンルに多大な影響をもたらしている
・多数の追随ゲームが存在する
・ゲームシステム、ゲーム表現などで革新的な試みを成功させている

これくらいの条件で考えてみるとどうなるのかなー、と。

で、まず第一に「スペースインベーダー」が来ることはおそらく議論の余地がないと思うんです。セールス的には言うに及ばず、まだ「ゲームセンター」という業態が存在しなかった日本に多数の「インベーダーハウス」を出現させ、純正品・コピー品を合わせるとわずか1年半で50万台を売上げてみせた。STGというゲームジャンルどころか、日本におけるゲーム業界それ自体を作ってしまった。1978年、「スペースインベーダー」のコピーを作るところから始まった会社がどれだけあるか、というのは有名な話だと思います。少なくとも、日本のゲーム業界に大きな影響を与えたゲーム、という点で言えばぶっちぎりの一位ではないかと。(参照:https://storys.jp/story/24591)

ゲームシステム的にも、「攻撃してくる複数の敵を撃ち落とす」というのは後の様々なSTGジャンルの始祖となりましたし、直接の追随ゲームも「ギャラクシアン」「シェリフ」「ムーンクレスタ」などを始め有名作がゴロゴロあります。コピータイトルの多さも指摘不要で、「STGというジャンルはスペースインベーダーから始まった」と言ってしまっても特に問題はないんじゃないかと。


一方テトリスは。セールス的には、PC版の次に発売されたファミコン版が181万本、ゲームボーイ版が空前絶後の424万本という数字は言うに及ばず、定番ゲームとしてあらゆるプラットフォームでのセールスメーカーとなっております。ゲーセンでサラリーマンを大量捕獲した、という点でもスペースインベーダーに比肩しています。

ゲームシステム的には、「それまでは、解き方を見つければ基本的には終わり、という「消費物」だったパズルゲームを「完全リサイクル製品」に変えてしまった」という点で、パズルゲームというジャンルにおいて恐るべき革新をやってのけていると思います。手前味噌ですが以下記事でも以前書きました。(参照:http://mubou.seesaa.net/article/9919709.html)

「落ち物パズル」というジャンルをたった一作で定番ジャンルに変えてしまった点、「コラムス」や「ぷよぷよ」などの数知れない有名追随ゲームを生み出している点でも文句のつけようがありません。


ストIIはというと。セールス的には、アーケードでの販売台数は正確なところがちょっと分かりませんでしたが、SFC版の国内288万本、世界累計630万本という数字は、アーケードからの移植作であることを考えれば十分驚愕すべき数字です。(参照:Wikipedia)勿論、「ダッシュ」や「ターボ」などのマイナーチェンジ版を含めて、出す移植出す移植片っ端からキラータイトルになったところも今更指摘する必要がないところです。

ゲームシステム的には、「対戦格闘」というフォーマットがそれまでになかった訳ではないのですが、6ボタンを固定採用した点、上下ガードとそれに伴う駆け引きの存在、意図しないところで生み出されたとはいえコマンドキャンセルの存在など、諸要素ひっくるめての革新性には文句をつけられないところでしょう。ゲームジャンルとしても、ストII以降のゲーム業界の動向を考えれば、「対戦格闘というジャンルの直接の祖」と言ってしまってもそこまでは怒られなさそうです。追随者の多さはもはや言及不要でしょう。


と、ここまで考えると、少なくとも「スペースインベーダー」「テトリス」「ストII」の三作については、どんなアプローチをとってもちょっと外すことができなさそうだ、と言えると思います。公平に考えれば、「ビデオゲームにおける五大傑作」というテーマにおいて、この三作品をリストから除外することは出来ない、ということです。

勿論、ただ「傑作」「歴史作」と言うだけならゲーム業界には星の数程あるわけで、あとはどの軸を優先するか、どの軸を理由に排除するかという、軽く戦争が起きそうな話になります。論者の好みが入る余地も当然あるでしょう。

セールス的な成功は前提として、例えばFPSというジャンルに与えた影響を考えて「DOOM」が挙がっても、音ゲーというジャンルを作った「ビートマニア」が挙がっても、スクロールアクションの金字塔「スーパーマリオブラザーズ」が挙がっても、戦術級シミュレーションの大定番「大戦略」が挙がっても、それ程違和感はありません。

ただ、STG、対戦格闘、パズルゲームという3つのジャンルについて言えば、「ゲームジャンルを通した業界への影響」という点で上記3作品を上回ることが出来るかどうか、という視点がどうしても入ってしまう為、他のジャンルよりもややタイトルを挙げることが困難になるかも知れません。

私自身の意見を言えば。

歴史作という点で言えば、スペースインベーダー以上に「PONG」や「スペースウォー!」を挙げる人がいる可能性は高いでしょう。セールス的には、スペースウォー!はそもそも現在考えるような流通に載っていないので別枠として、PONGについては移植作を含めたセールスもかなりの規模です。ただ、色々資料を漁ってみると、少なくとも当時のアーケード販売台数は8000台〜12000台くらいというところ、コピー製品を合わせても10万台に届かないかも知れない、という点では、スペースインベーダーなどには一歩を譲るかも知れません。(参照:Wikipedia)


RPGというジャンルではどうでしょうか?話をコンシューマーに限ってしまえば「ドラクエ」や「FF」あるいは「ポケモン」の名前も挙がるかも知れませんが、そもそもRPGというジャンルに与えた影響、ビデオゲーム外の始祖となるD&Dからの流れなどを考えれば、第一にあがりそうなのは「Wizardry」や「ウルティマ」「rogue」などのタイトルではないかと思います。

個人的には、特に「Wizardry」の名前は優先してあげたいところで、初代のappleII版が24,000本という数字は、移植版も含めて考えればセールス的には十分成功と言えるでしょう。後の様々なRPGが「Wizardry」の影響を受けている点、RPGどころか様々なアクションゲーム、アドベンチャーゲームにまでWizardryの文法に準拠したダンジョンが登場していることを考えれば、ジャンルに与える影響もまず文句のないところ。「ディープダンジョン」「女神転生」などを始めとする追随者の多さも言うまでもありません。


さて、PC畑でのもう一つの代表的ジャンル、アドベンチャーゲームから一タイトル挙げるとしたら何になるでしょうか。これについては様々な意見や評価があると思いますが、アドベンチャーゲームの歴史において、もっとも影響力が高かったパラダイムシフトが「コマンド入力の導入」だった、という点についてはおそらくそれ程異論が出ないのではないかと思っています。これによって、それまで「色んなコマンドをテキスト総当たりで入力する」ゲームジャンルだったアドベンチャーゲームが、キーボード必須のゲームではなくなった。これ、さり気なく物凄いゲームシステムの革新だったと思うんですよ。

そのシステム一つで、のちの「AVG」というゲームジャンルの作品全てを塗り替えてしまい、うっかりするとRPGにまで多大な影響を与えてしまった。当然のことながら、追随者の多さも想像を絶しています。ジャンルとして、セールス的な規模で言うと先に挙げた作品よりやや小粒になってしまうのは仕方ないところ。

そこから考えると、アドベンチャーゲーム枠として挙げるべきは、PC-6001で初めてコマンド入力方式を導入した、堀井雄二氏の「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」になるのかな、と思います。



ということで、私の視点で「ビデオゲーム史における五大傑作」を挙げるとすれば、

スペースインベーダー
テトリス
ストリートファイターII
Wizardry
オホーツクに消ゆ

になる、という話でした。


皆さんが考える「五大傑作」は何でしょうか?ちょっとした思考実験として、軽く考えてみて頂けると。

今日書きたいことはそれくらいです。











posted by しんざき at 17:37 | Comment(38) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月20日

FF3にはエーテルがなかった


この記事を読んで、ふとなんの関係も、本当に一切関係ないことを思い出した。


FF3にはエーテルがなかった。


何の話かというに、まず背景から説明しなくてはいけない。

「エーテル」というのはFF2から登場したアイテムで、キャラクター一人のMPを回復させる効果を持っていた。最初の街から既に店売りされていて、その価格は2500ギルだ。かなりの大金だったと言っていい。

付け加えると、FFシリーズでの定番アイテムとなるエリクサーは、やはりFF2では「エリクシャー」というアイテムであって、しかも後のシリーズからは考えられないことに、店で売っていた。これも同じく、最初の街の店で既に売っていた。価格は5万ギルだ。

これも、終盤になって金余りを始めるまでは「ちょっと考えられない大金」というレベルのものであって、それでも殆どの道具屋で売っている共通アイテムなので、プレイヤーはずっと、本当にプレイ中ずっと、「高嶺の花」を眺めながら買い物をすることになる。当時のスクウェアスタッフが、何を考えてこういう値段設定、商品設定をしたのかというのは、考えてみると興味深い。これも本題に関係はないのだけど。

FF2における戦闘システムは3以降とは全然違っていて、戦闘時に事前に装備しておいたアイテムしか使えない。たった二つだ。だから、装備するアイテムは相当厳選しないといけないし、そもそもアイテムを持てる数自体にもかなりの制限があったので、エーテルを持つ枠にも当然厳しいものがあった。

多くのプレイヤーにとって、エーテルは「なんかミンウが最初から1個持ってるだけのアイテム」だった筈であって、ミンウが持っているエーテルを売り払って序盤の装備に充てるのも定番の行動だった。2500ギルもするアイテムを、助けに入ってあげたパーティで速攻勝手に売り払われるミンウの気持ちはいかばかりだったろう。

ごめん、ミンウ。この場を借りて彼に深く謝罪したい。


で、FF3にはエーテルがなかった。エリクサーも店売りではなくなっていた。


実際のところ理由は単純で、「FF2の時はMPの概念があったけど、FF3ではシステムが変わって、MPから魔法使用回数制になったから」だ。魔法にはランクがあって、「このランクの魔法は何回まで使える」みたいなものが使用回数だ。Wizardryなんかと同じシステムで、FF1でも同じだった。

MP制であれば、エーテルは「MPが〇〇回復する」というシンプルなアイテムだったが、魔法使用回数制だと、回復するにしてもどう回復させるか色々複雑になる。全体の何割回復する、といったシステムにすることも出来るけれど、効果として分かりやすいアイテムだとはとても言えない。いくつ回復するのか、計算してみないと分からないというアイテムは、とてもユーザーフレンドリーとは言えないだろう。


要するに、FF2では「その気になれば店で買える」アイテムだったMP回復アイテムが、FF3では丸ごと削除された。厄介なことに、FF3ではキャンプやコテージ(フィールド上で宿泊してHP、MPを回復させるアイテム)すらなくなっていた。当然アスピルもなかった。FF3で、宿屋や回復ポイント以外でMPを回復する手段は、本当にただ一つ、これも宝箱からしか手に入らなくなったエリクサーだけなのだ。


魔法の使用回数というものは命綱だった。どのランクの魔法があとどれくらい使えるか、というのは、そのまま、あとどれくらい行動出来るか、というインジケーターになると言っていい。勿論これは、「ダンジョンを攻略して、セーブ出来るポイントまで戻ることが出来るかどうか」という話も含んでいる。我々は、ゲームを遊べる制限時間内で、なんとかダンジョンを攻略して、セーブできる箇所まで戻らなくてはいけなかったのだ。それは絶対的な制限と、その制限との戦いだった。


つまりFF3におけるエリクサーは、ただの「HPとMPを全快させるアイテム」ではなかった。

「切れかけた命綱をつないでくれるかも知れないアイテム」だった。「攻略の可能性を0%から15%に戻してくれるかも知れないアイテム」だった。唯一MPを回復出来るアイテムという立ち位置が、そうしたのだ。


「戦闘でエリクサーを使えない」というのは、少なくともFF3では何も不思議なことではない。俺たちは、一度の戦闘だけでエリクサーを消費する訳にはいかなかったのだ。FF3のシステムがそうした。


多分なのだが、かつてFF3を遊んだプレイヤーたちには、この時の記憶がある意味刷り込みのように残っているのではないか。

じりじり減り続けるMP使用回数をにらみながらエウレカを進んだ記憶。「今ここにエーテルがあれば」と、血を吐くように考えた記憶。「ミンウさんごめんなさいもうチェンジ稼ぎしません」という謝罪の記憶。

それは、俺たちの中でエリクサーというアイテムを特別なものにしている記憶だ。


今は変わった。それ以降の多くのFFタイトルにおいて、エリクサーは「そこそこ貴重だが数ある回復アイテムの中の一つ」というだけの立ち位置だ。そこでは、単純に戦術的な理由で「エリクサーを使うか使わないか」ということを検討することが許される。

ただし、一つだけ覚えておいて欲しい。


FF3には、エーテルが、なかったんだ。


あの時の記憶が、今でも俺に、「エリクサーをとっておけ」と囁き続けているのかも知れない。そんな風に思ったんだ。





posted by しんざき at 07:54 | Comment(4) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月15日

ネギトロ丼を酢飯にするべきか白米にするべきかについて

白米派です。


いや、一体何を言い始めたのかと思われるかも知れませんが、たかがネギトロ丼、されどネギトロ丼であって、我々の人生においては己の中のネギトロ丼観をいつかは見直さねばならぬ時が来ると思うのです。今、皆の中のネギトロ丼を呼び起こすんだ。

人類には、ネギトロ丼がある。人類の歴史に対するネギトロ丼の影響というものは、決して軽く見ることが出来ないものだと思うのです。

そもそもの発端は、十年近く前にさかのぼります。

私はネギトロ丼が好物で、ネギトロ丼を食べるだけの為に出かけることがしばしばありました。そんな中でも、「まぐろ市場」の渋谷三丁目店がお気に入りで、ちょくちょく行ってたんですよ。今調べたら閉店しちゃったみたいですけど。

ところがある時、いつも通りまぐろ市場でネギトロ丼を頼んだら、なんか味が違うな、と。いつもの、しょうゆとネギトロのハーモニーがダイレクトに口内にがつーーーんと響いてくる感じがないな、と。なんとご飯が酢飯に変わってたんですよ。聞いてみたら、ご要望多かったので酢飯にしました、と。選べるのかというと選べない、と。

これが個人的には衝撃でして。

完全無欠に個人の趣味の話なんですが、私、ネギトロ丼は白米であるべき派閥強硬派なんですよ。

いや、酢飯自体を否定している訳ではないんです。私も寿司は酢飯であるべきだと思います。なんとなれば、酢飯はその保存性が優れているばかりではなく、ネタの臭みを消したり、しつこい部分を低減したりと、ネタを活かすためには非常に優れた土台だと思っているからです。

ただ、少なくとも私にとっては、それは飽くまで「ネタを活かす為」の話なんですよね。ネタを主役と考えるのであれば、酢飯を使うにやぶさかではない。

ただ、ネギトロ丼って「丼」じゃないですか。つまり、ご飯は主か従かで言うとむしろ主。ネギトロ丼の主役は、私にとってはむしろご飯なわけです。

ご飯をメインとして考えた時、「ネギトロ + 醤油」というコンビは、ご飯を活かす最強のタッグとして立ち上がってくる(ワサビ?あいつは星になったよ)。ネギトロのまったりとした口当たりに、醤油の深遠なる塩気が、ご飯の美味しさをハイパーブーストする訳です。

そのコンビネーションの美しさの前では、ネタを活かす為の「酢」というものが、むしろノイズになってしまうと私は思うんですよ。ただピュアに白米であって欲しい。シンプル・イズ・ベスト。米よ、ただあるがままにそこにあれ。

白米派と酢飯派がそれぞれどれくらいいるのか、ということもさることながら、もしかすると「ネギトロ丼における主役をネギトロと考えるか、米と考えるかによって、白米派と酢飯派の割合は変わってくるのではないか?」とひらめいたので、ちょっとtwitterで聞いてみました。まだ投票時間は残ってますが、おおむねパーセンテージが固定されたのでまあ問題ないでしょう。

全然関係ありませんでした。ちくしょうハーマン!

まあ私のしょーもない仮説はおいておいて、酢飯派と白米派は勢力としてはかなり拮抗しており、わずかに白米派が上回っている、という状況のように思えます。酢飯派も結構いるんですね。

ここから考えると、店でネギトロ丼を食べる際には、本来「酢飯か白米かを選択できる」というのが最も望ましい訳であり、まぐろ市場も現在は酢飯か白米かを選べるようになっている(店舗もある?)という情報を掴んでいるので、近い内に確認しようと思っています。

一応結論っぽいことを書いておくと、

・ネギトロ丼は美味しい
・ネギトロ丼を白米にする派と酢飯にする派はかなり拮抗している
・しんざきはかなり強硬な白米派である
・米メインかトロメインかで白米派と酢飯派が分かれるんじゃないかと思ったけど全然関係なかった
・お店で選べるとよいよね
・関係ないけど磯丸水産でランチに食べられるネギトロ丼がなかなかおいしいのでお勧めです


という、極めてどうでもいい結論が導きだせるわけです。よかったですね。

今日書きたいことはそれくらいです。









posted by しんざき at 07:25 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月13日

失敗を恐れない精神を作るために、ゲームオーバー有りのゲームを遊ぶのは有効なのではないか

こんな記事を読みました。

で、その後もその生き方が変わらず社会人になるとね…

「本当に本当に全く自分では動かないマン」になったりするのよ!!!
正解が分からない限りは僕たちは停止していますマンになるのよ!!!
ケース的にはかなり極端なケースのようにも思いますし、実際こういう子がどれくらいいるのかって話はよく分からないんですが。

基本、仕事にせよ趣味にせよ、「成功体験」から学べるものというのはたかが知れておりまして、「失敗体験から何を学ぶか」というのが極めて重要になってきます。失敗から学べる経験値って本来物凄い多いんですよね。

そういう意味では、ガンガン「失敗」の場数を踏めた方が成長は遥かに速くなりますし、「平然と失敗出来る」という精神性は物凄い強みになります。まとめではプログラミングの話も出ていますが、プログラミングに限らず、スクラップ&ビルドって物事の基本だと思うんですよね。

で、私自身は、基本的に失敗上等失敗ウェルカムというか、まず色々失敗してから物事進めよう、怒るヤツがいても知るかバーカって程度には失敗に馴染んでいるわけで、「平然と失敗出来る」スキルについてはそこそこのものを持っていると自負している訳ではあるのですが。

これがどこで育ったものかということを考えると、いや勿論「成功しか許さない」みたいな教育を受けていなかったということもあるんですが、一つには「ゲームで死にまくった」体験が結構根深いところにあるような気がしてきました。


いや、昔たくさんあったじゃないですか、死にゲー。いわゆる「死んで覚えろ」っていうゲーム。ゲームオーバー上等、みたいなヤツ。

スペランカーを真面目にプレイしていた人たちの中で、主人公の死体を積み上げていないものはいない訳です。コンボイの謎だってそうだし、ロックマンだって魔界村だってストライカーズ1945だってプリンスオブペルシャだってそうなわけです。

ああいうゲームは、何度も何度も何度も死んで、その度にそこから何かを学び取って、死屍累々の主人公の屍の上で達成感を掴みとることがゲームの本義なわけですよね。大体のゲーマーは、そういう意味で「失敗体験を繰り返す経験」ってものにはなじんでいると思うんですよ。

割と真面目に、「失敗体験から何かを学ぶ」体験を積み重ねられる機会って重要だし、失敗がちゃんとデザインされたゲームって、それをノーリスクで体験できる場面としては結構よく出来てるんじゃねーか?と思ったりするわけなんです。

少なくとも私自身についていえば、チャンピオンシップロードランナーで死にまくり、カラテカで死にまくり、ロックマン2で死にまくり、ガンバードで死にまくり、バトルガレッガで死にまくり、あと少しで目標達成出来そうなところで血の涙を流す、という体験をさんっっっざん繰り返してきましたし、それでなにがしかの精神的タフネスを手に入れることはできたんじゃないかなー、と。


で、今のゲームにそういう要素がないかというと、別にそういうことはないんですよね。最近で言うと例えばゼルダだって、あれある意味超死にゲーじゃないですか。何度死んでもすぐ直近に戻れる、っていう意味では、ある意味理想的な部類の失敗体験累積ゲームですよね。うちの長男も、今ちょうどゼルダで英傑たちの詩にハマってるんですけど、順調にリンクの死体を積み上げては「きーーーー!!!」って悔しがってるんで、大変いい経験をさせてあげられていると思うわけです。


「失敗するのは悪いことでもなんでもなく、むしろ有益なサイクルの一部なんだ」


ということを、実質的にはノーダメージで学ぶことが出来る。ゲームってええやん!!って話ですよね。

そういう意味で、みなさんにはガンガン死にゲーを遊ぶことを推奨していきたいと思いますし、ドラゴンズレアとか今からでもいかがですか?タフネスが鍛えられることについては保証します。


ただしロマンシアだけは許さない、絶対にだ。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 17:50 | Comment(3) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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