2016年08月19日

単なるパズル問題に「これが解けたらIQ○○以上」とか言って流すの正直やめて欲しい


「こういう面白い問題があるよ!」じゃ目を引きにくいからって、「IQ○○以上」とかいう無根拠なラベルつけるの、IQに対する誤解に拍車をかけそうなので正直やめて欲しいです。


と、言いたいことはタイトルと上の一行で完結してしまったんですが、一応若干補足してみます。


こういうこというと、「あんなの本気にしてるやつなんかいるの?」とか、「いいじゃん単なるお遊びなんだから」とか擁護する人、大体いるんですが、「本気にしてる人」は必ず一定数以上いるんですって。問題としては、(無根拠なものに一見科学的なラベリングをしているという意味で)血液型による性格診断とか、ニセ科学みたいなものに近いです。変な差別感情を生んでしまいかねないところとか、本来科学的に信頼できるものの信頼度を巻き添えで落としてしまったり、といったところも同じです。


今更いちいち説明するまでもないことかもしれませんが、一応念のため、念のために書いておきますと、


・IQにはいくつかの種類・いくつかの計測方法がありますが、いずれも複数の(一般的にはかなり大量の)質問に答えて統計的に結果を導くもので、「これが解けたらIQいくつ」とか言えるものではありません
・必然的に、「IQ○○の問題」「IQ××以上の問題」とかいうものもこの世に存在しません
・「IQを計測する」という場合には、「それがどんな種類のIQで」「どの計測方法を用いるのか」が必ず明確に存在する筈です(明示されているかはともかく)
・そういう基準がないものは単なるおまじない、ないし占いです


「何当たり前のこと書いてんだ」と思われるかもしれませんが、「当たり前のこと」が案外「当たり前のこと」として認識されていないことを、我々は何度も眼前に見ています。


元より、「IQ」とか「知能指数」というのは、扱っている領域が領域であることもあり、色々と誤解・混同されがちです。

たとえば、一番大きな括りでも、IQには「生活年齢に対して精神年齢がどれだけ成長しているか」を基準としたもの(いわゆる従来のIQ)と、「同じ年代の集団の中でどの程度知能が発達しているか」を基準としたもの(DIQ)の二種類があります。で、それに対して、例えばビネー式とかウェクスラー式とか、ウェクスラー式の中にも更に何種類もあったりとか、いろんな計測方法、統計基準があるわけです。細かく知りたい人は後で挙げる参考書籍でも読んでみてください。

IQが高いからといって無条件に勉強が出来るわけではありませんし、IQと相関がある分野もない分野もあります。なにせ「頭の良さ」「知性」という、ただでさえ曖昧な領域の話なので、IQの意味や概念というのは非常にデリケートなのです。


そんなところに、PVやRT数稼ぎなんて目的で、変なものを叩き込んで欲しくないなあ、と。



別に「こういう面白い問題があるよ!解いてみて!」でいいじゃん、と思う訳です。「これ解けた人すげえ!」だけで十分じゃん、と思う訳です。

それだけだとなかなかRTしてもらえなかったりブクマがもらえなかったりするからといって、「IQ」というれっきとした科学的な指数、しかも色々と誤解されがちな指数を客引きに利用するのはやめて欲しい、と思う訳です。それだけです。


単にパズル問題を楽しんでいるだけの人には申し訳ないですが、こういう指摘は継続的にした方がいいと思ったので書いてみました。いや、問題としては面白いんですけどね。ホントに。


ちなみに、もし知能指数や知能検査についてある程度まとまった情報が欲しいという方がいたら、個人的には下記の書籍をお勧めします。


新しい知能観に立った―知能検査基本ハンドブック -




特に、知能検査の毀誉褒貶や様々な問題点にまで触れた、辰野先生の「知能検査基本ハンドブック」は良書だと思います。上記で触れた、知能指数に関する様々な誤解についても触れられています。

滝沢先生の「発達心理学からみたIQ」は、元々教育心理学寄りの方ですので、教育心理学に興味がある方には面白いと思います。


今日書きたいことはそれくらい。
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2016年08月17日

【ブログ読書感想文】「プラネテス」のロックスミスさんをテーマに、「責任の取り方」について考えてみる。

プラネテスのお話です。既出話かもしれませんが、まあwebに既出はつきものなので勘弁してやってください。

この記事のお品書きは下記のような感じになります。


1.「プラネテス」の紹介とロックスミスさんの登場
2.ロックスミスさんの特殊性
3.ロックスミスさんの「責任」とは何だったのか
4.ロックスミスさんとクヌート王子の比較論



順番にいきましょう。当然ながらネタバレが含まれますので、未読の方はご注意ください。えらい長文なのでお暇な時にでもどうぞ。

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posted by しんざき at 00:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月15日

失礼な質問は失礼な質問であって、取材だからといってそれは免罪されない


何点か気になることがあったので、釣られてみます。



指摘したいことを箇条書きでまとめてしまうと、下記のような感じになります。

・「「なれ合い」の関係ではない」というのは、「失礼なだけの質問(というか揶揄)をしても許される」という意味ではない
・裏にどんな意図があり、結果があったとしても、失礼な質問は失礼な質問であってそれが免罪されたりはしないし、失礼さを指摘されるのは当然である
・マスコミが他者に対して失礼な言葉を投げかけても許されるべきである、といいたいのであれば、マスコミも他者からの失礼な言葉を許容すべきであり、それを許容しないのはダブルスタンダードである
・選手間の人間関係を切り出したいのであれば、他に適切な質問がいくらでもある
・そもそも質問自体が単なる揶揄であり、それほど優れた質問だとは思われない
・選手に失礼な質問を投げかけることで、取材嫌い・マスコミ嫌いの選手を増やし、今後の取材に支障を来す可能性を無視している
・タイトルが意味不明。なにとなにが「完全に逆」なのか本文中に記載がない


大体これくらいのことを考えました。


まず第一に、「失礼な言葉を投げかけて、それに対する反応を引き出す」ということが、非常にメディア側に偏った論理でして。「取材だから」という理由が、「人間と人間の対話における倫理」というものに優先されるとしたら、それはおかしいと思うんですよね。取材の為なら失礼なこと言っていいの?「いい」というのだとしたら、それは誰が決めたの?という話でして。


それに加えて、単純に技術的な話にしても、「マスコミの取材嫌いの人がますます増える」ことによるデメリット、リスクは考えないのかなーと、その点は単純に不思議です。

先日も、吉田沙保里選手が今後の取材に際し報酬を要求する方針、みたいなニュースが出て、これもメディア側の理屈で偉い不評寄りに書かれていましたけれど、いい悪いの話ではなく、今後もこういう話ってどんどん増えると思うんですよ。かつて、広く情報発信するルートが極めて限られていた時代であればともかく、現状「影響力」っていうものはどんどん多様化する方向に動いているわけで、その分「取材によって得られるメリット」というのは相対的に縮小していきます。それに対して、「取材によって発生するデメリット・リスク」というものがどんどん大きくなっていけば、取材を忌避する向きってますます増えていって、色々やりにくくなっていくんじゃないかなーと思うんですが。


別に法律で禁止されているわけでもありませんから、「失礼な質問をしてはならない」とまでは別に思いませんが、「失礼さは失礼さで、批判されるのは当然だし、それによって嫌われるリスクってのも勿論承知してるんですよね?」っていう話ではあります。

あと、

皆さんは「マスゴミが!」と口汚く罵りますが、どこの国の記者の質問かは分かりませんが、彼の質問によって

・内村選手は反論の機会を得て
・2位・3位の選手がどれだけ内村航平という選手をリスペクトしていて
・彼らの受け答えから、彼ら3人の競技以外の側面・人間関係まで垣間見えた

気はしませんか?

これ、内村選手は反論というか単に言下に否定しただけだし、オレグ選手がその場で明確に反論してくれたのは単にそれが「分かってない」質問だったからであって、質問自体が「良い質問」だったとは全く思わないんですが。「こいつ、分かってねーな」と思われる質問が「良い質問」とはとても言えない、ということは一般的な認識ですよね?

体操の採点基準って、例えば「芸術点」みたいな外から見て分かりにくい基準ではなく、「難度」と「実施」の二つに分かれて、極めて明確に採点基準が設けられているので、実際に「審判の好き嫌い」が割り込む余地って正直あまりないんですよね(全くないとまでは言いませんが) 。

参考までに、国際体操連盟発表の採点規則がまとまったページを貼っておきますので、興味がある方は見てみてください。


こういうことを理解した上で、更に例えばボーダーライン上の採点についての細かい突っ込みとかが出来るのであれば、それは「良い質問」「鋭い質問」と言ってもいいかもしれませんが、単に「審判の好き嫌い」くらいにしか言及できないのであれば、それは程度が低いだけの揶揄です。


あと、枝葉の突っ込みなんですが、

「海外メディアが内村選手に「失礼な質問」をしたって?いや、それは完全に逆です。」

「何」と「何」が完全に逆なのか、私の読解力ではいまいち読解できなかったんですが、本文中に記載ってあったでしょうか。読み落としていたんだったら申し訳ないですが。


まあ、気になったことはそれくらいです。

posted by しんざき at 16:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月07日

念のため言っておきますが、EM菌はニセ科学で「すら」ありませんからね

例えばこれ、EM菌のご本尊である比嘉照夫氏の、れっきとした記名記事なわけですが。


そのためには何かいいことや、危険から身が守られたり、最悪な状況が、逆に力となって最善の結果が現れた場合、それらはすべてEMのおかげであると考えることがスタートです。すなわちEMは神様だと考えることです。

1.EM製品を身に着けていたので交通事故に遭っても大事に至らなかった。
2.EM生活をしていると大きな地震が来てもコップ一つも倒れなかった。
3.EM生活をしていると電磁波障害が減り、電気料金も安くなり、電機製品の機能が高まり寿命も長くなった。
4.EMを使い続けている農場やゴルフ場の落雷が極端に少なくなった。
5.EM栽培に徹していると自然災害が極端に少なくなった。
6.EM生活を続けていると、いつの間にか健康になり人間関係もよくなった。
7.EMを使い続けている場所は事故が少なく安全である。
8.学校のイジメがなくなり、みんな仲良くなった。
9.動物がすべて仲良くなった。
10.すべてのものに生命の息吹が感じられるようになった。
11.EMで建築した家に住むようになり、EM生活を実行したら病人がいなくなった。
12.年々体の調子がよくなり、頭もよくなった。
13.EMの本や情報を繰り返しチェックし確認する。
14.いろいろな事が起こっても、最終的には望んだ方向や最善の結果となる。

これを読んでも「ん?何か変じゃね?」とか「いやいや、ごめん、何いってんのこの人?」と思わない人は、恐らく日本において多数派ではない、と私は信じたいです。

こんな、「交通事故に遭っても大事に至らない」なんて、交通安全のお守りみたいな話を科学的に証明出来ると考える人が、一体この世のどこにいるんですかって話です。

要するにEM菌って根っこから宗教なんですよ。「疑似科学なのかどうか」議論する意味すらないです。元々世界救世教との関係性を指摘されてはいますが、ご本尊の発言を見ていてもマジモンの宗教。「いいことはEMのおかげにし、悪いことが起こった場合は、EMの極め方が足りなかったという視点を持つようにして」とか本気で言っちゃう人が提唱者ですからね。

それを、なんか実効性もまともな検証もない論文群とか、微生物群がどうとか、ちょっと調べただけだと「肥料かなんかかな?」と思わせる程度にはカバリングして、あちこちに潜り込ませてるのがEM菌のフォロワーの皆さまです。少なくとも、宗教的な意味でEMを信奉していない皆さまには、「EM菌は宗教である」という認識はきちんと持っておいていただきたいです。

特に、小中学校や幼稚園での活動については本当に大きな問題だと思っていて、上記のような認識をもっておらず、なんとなく「有用な菌類なのかな?」という程度に考えている公的機関の関係者の皆さまには、


「今のところ、子どもたちへの害は確認されていない。なぜこのように大騒ぎになっているのか……」

正直武雄市云々はどうでもいいんですが。上記のような宗教的な要素が、れっきとした教育機関に入り込んできた時保護者がどう感じるか、それくらいの視点はもっておいていただきたいです。健康被害がどうとかの問題ではないです。


以下は参考記事。


そうなんですよねー本当に…。


今日書きたいことはそれくらい。




posted by しんざき at 13:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポケモンGOの今後についての期待と、よくわからないポケモンGOくさし記事についての所感

色々おもしろいなーと思ったので、書いてみます。

  


最初に確認しておきたいのは、「ポケモンGO自体はまだ全然「これから」のコンテンツ」ということです。



非常に強力な集客の仕組みを持っていながら、ポケモンGOはまだそれを殆ど前面に出していません。伝説ポケモンも実装されていません。そんなのは当たり前の話で、リリースされて一月そこそこしか経っておらず、しかもユーザー集めは順調にいっているという段階で、そんな強力なテコ入れをする必要など地球上に存在しないわけです。


一方、ポケモンGOではバグも発見されていますし、これが修正の対象となっていることも既に公表されています。


https://twitter.com/PokemonGoApp/status/761301330967326720?ref_src=twsrc%5Etfw


バグの対策にかぎらず、オンラインゲームというのはアップデートを繰り返して徐々にシステムやコンテンツを整備・拡充していくものですので、これから幾つものアップデートが打たれて、コンテンツの質量ともに充実していくであろうことは既定路線です。伝説ポケモンの実装は何かしらのイベントと一緒にリリースされるでしょうし、恐らく新ポケモンの追加リリースもされるのでしょう。企業や商店とのタイアップのフレームワークが公表されるかも知れませんし、現在ポケストップなどで問題とされていることについて、様々な対策が打たれることも予想出来ます。


個人的には、対人戦の要素、中間ゴールの要素をもっと充実させて欲しいなーとは考えておりまして、野良の対人戦と絡めて「ポケモンバトル」的なものが実現すると面白いだろうなと思っているのですが、まあそんなこと開発チームが考えていないわけがないので、今後に注目したいところです。



最初期にすごい勢いでわーーーっと流行るというのはコンテンツとしての強力さの証明であり、一方飽きるのが早い人がすぐ離れるのはどんな分野でも当たり前のことなので、「飽きた」という声を現段階で拾い集めることに意味は全くありません。母数がこれだけ多ければ、合わない人、飽きる人もそりゃそれなりの数いるでしょ、というだけの話です。


アクティブユーザー数の統計については、こちらがよくまとまっています。


「ポケモンGO」男性のアクティブユーザー数はTwitter超え【ヴァリューズ調査】

http://markezine.jp/article/detail/24902



早い話、「ユーザーをものすごい数抱えていて、かつコンテンツが充実するのはこれから」という状態な訳です。プラットフォームとしての期待値はものすっごい高いと思います。



ただ、web上では「ポケモンGOくさし」がひとつのジャンルとして成立しているようで、まあ私みたいに釣られる人が多いからなんでしょうけれど、あまり出来がよくないくさしも散見されます。


ポケモンGOが広告を使っていないため、広告業界から敵視されている云々、という話も聞きますが、「流行ってるものに取り敢えずケチをつけたい」という程度のものもみられて、そういうのは本当にしょうもないなあというか、何も生み出せない人たちなんだろうなあという感があります。


以下の記事はそんなポケモンGOくさし記事の一つのようですが、ちょっと面白いピントのずれ方をしていたので紹介してみます。


ポケモンGO、地方は「ただただ迷惑」…人増えても「金落とさず」、混乱対策のコスト増

http://netallica.yahoo.co.jp/news/20160806-07046252-bjournala


ポケモンGOは、都心部の公園や緑地、あるいはもともと人が多い都市部に人が集まりやすい仕組みになっているので、「地方の町おこし」というものを期待するようなツールではありません。「東京にはおらず、地方に行かないと捕獲出来ないポケモン」など、少なくとも今の時点では一匹も存在しません。「ポケモンGOプレイヤーが、ポケモンGOのために、都市部からわざわざ地方に足を運ぶ」動機自体が存在しないわけです。


同じ地方内で、普段足を運ばない人がその地方内の商店街などに足を運ぶ効果は期待できるかもしれませんが、例えば「東京から地方へ人が流れる」効果というものは現段階ではありません。鳥取砂丘のポケストップにしたって、主要な対象層は鳥取近隣の人たちでしょう。


そのため、ここでいう「観光客を呼び寄せる効果を期待している観光協会の幹部」などという存在は、そもそも実在を疑われるわけですが、それ以外にもよくわからないところはあります。

トレーナーは現地に足を運んでも、目的はポケモンGOなのですから日帰り客も多い。そうなると、宿泊が伴わないので地元への経済効果は薄い。地元の飲食店やお土産店で消費してくれるかといえば、これも怪しい。そもそも、地方の商店は東京のコンビニエンスストアほど品揃えもよくありませんから、東京から来るトレーナーたちはコンビニでおにぎりやパンを買い込んでから来る人も多いです


上で書いた通り、ここでいう「東京からくるトレーナーたち」というのが一体何のためにこの「地方都市」に来たのかは謎ですが、例えば世田谷公園の自販機が一時的に売り切ればかりになった実例があるように、ポケモンGOプレイヤーが「地元の飲食店やお土産店で消費しない」というのは明らかに疑問です。何かそういう統計でもあるんでしょうか。


千林商店街にはポケストップが11カ所あり、商店街を歩けば自然とモンスターを集めることができる。商店街はここに着目して、商店街の危機を打開するためにキャラクターを呼び寄せるアイテム「ルアーモジュール」を絶え間なく使い、モンスターの出現率をアップさせた。モンスター目当てで、多くの人が訪れるようにする取り組みで集客を図ろうと必死だ。


これについては、30日に行われたイベントをすぐまた6日、7日に再開催しているようですので、おそらくそれ相応の効果があったのだろうと推定されます。これを見ても、ポケモンGOプレイヤーが集まることによる地元の消費効果はそれ相応にあったのでしょう。頭が良い施策だなーと感心するわけですが、


千林商店街でモンスターゲットだぜ大作戦!リターンズ!


これについて、当該記事ではさらに続けて、


同様の試みは、あちこちの観光地で試行されている。昨今、日本の観光業界は外国人観光客にターゲットを絞って集客に力を入れてきたが、早くも爆買いブームは去った。また、外国人観光客を相手にしたくても、外国語が理解できない商店主は多い。高齢の商店主にいたっては、いまだ外国人アレルギーが強く、経済効果があったとしても外国人観光客が増えることにいい顔をしない。

いきなり爆買いの話になるのが文章のつなぎ方的にさっぱり理解できないんですが…ポケモンGOプレイヤーは日本語が通じない人しかいない、とかそういう話なんでしょうか?もしかするとピカチュウ語で話しかけたら返事をしてくれるかもしれません。「ピ」と「カ」と「チュウ」だけで言語を構成してみることをお勧めいたします。


目的がポケモンGOだけでは、観光客は訪れても通り過ぎるだけで滞在してもらえない。滞在してもらえなければ、地元への経済効果は少ない。

いやだから、ポケモンGOが目的であればそもそも都市→地方に人は流れないから、増える顧客は地元繁華街への日帰り顧客だけですってば。。。


どうせ地方とポケモンGOの関連について書くのであれば、例えば希少ポケモンの巣を特定期間地方都市に作ることを提言するとか、そっちの方がまだ面白い議論になるのではないかという気もするんですが、どうなんでしょうか。



この記事だけの話ではないのですが、ポケモンGO批判記事をいろいろとみていると、「根本的にポケモンGOの仕組みを理解しないまま、なんかいい加減な知識とイメージだけで書いている」記事がいくつも発掘できてなかなか面白い感じです。いい加減記事捕獲の方がポケモン捕獲よりうっかりすると面白いんじゃないかと思うくらいです。


皆さまには、「なんとなく流行ってるものにケチをつけるだけ」の記事になど惑わされず、楽しみたいコンテンツを楽しみたいように楽しむことをお勧めいたします。



今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 10:53 | Comment(3) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月05日

不知火舞の胸揺れに感じる問題点と、「揺らすなら隠せ」という提言

以下の文章は、タイトルから想像出来る水準を更に15メートルくらいぶっちぎってくだらない話である為、読めば読んだだけあなたの時間を無駄にすること請け合いである。少しでも自分の時間を大切にする人には、下記の文章を読むことをお勧めしない。


この文章をまとめると

・不知火舞の胸揺れは、「既に露出することで存在を主張している胸が、更に揺れる」ということで、二重の自己主張という非常に「しつこい」ないし「押しつけがましい」胸揺れになってしまっている
・鮮烈な印象はギャップ効果からこそ生み出されるものであり、本来主張されていないものがさり気なく主張される、という形が望ましい
・つまり、「胸揺れ」という表現を使うのであれば、胸それ自体は隠すべきである、と強く主張したい

以上三行になる。読者諸賢にはご了承頂きたい。


まずは、参考資料として下記動画をご覧頂ければと思う。


餓狼伝説2の頃からの不知火舞のグラフィックの進化を記録しているという、人類の歴史上非常に有益な動画であって、製作者の方には敬意を表したい。


上記動画を暫く見て頂けると、当然のことながら不知火舞の胸揺れ表現がどのように変遷してきたか、ということも理解出来るであろう。

餓狼伝説2・ガロスペ時点では、顕著に胸揺れ表現が観測できるのは勝利ポーズ時のみであるところ、KOF'94以降は普段の立ちグラフィックから揺れまくっていることを見てとって頂けるのではないかと思う。全体的に言って、餓狼の本シリーズよりも、KOFやカプエスなどのお祭りゲームの方が、より舞の衣装の露出が上がっているということも同時に確認出来る。


ここで問題としたいのは、特にKOFなどの舞で顕著なのだが、舞の胸揺れ表現が非常に「押しつけがましい」ものになってしまっているのではないか、という問題だ。


そもそも、ゲームやアニメにおける「胸揺れ」表現というものが、キャラクターの動きを胸に仮託することで、胸の存在をより一層強調するものであることは論を俟たないだろう。

自然に胸が動くことによって、視聴者の視線を胸に集める。動きがない状態よりも動きがあった方が注意をひきやすいことは、カエルが餌を捕食する際動いていないものを視認できないという例を挙げるまでもなく、生物の本能としての常識である。

それに対して、ゲームやアニメには、「水着その他の露出度が多い衣装を使ってキャラクターの肌色度数を上げる」という表現も存在する。こちらも同じく、露出度が上がった肌色部分に対して、特に男性読者の視線を集めやすくする効果を持っていることは、今更いちいち議論をする必要もないところであろう。


早い話、描画表現において、「胸を揺らす」という表現と「露出度を上げる」という表現は効果が被っているのである。相乗効果というものの存在を否定はしないが、本来あるべき「ギャップ効果」というものを台無しにしてしまうのではないか、というのが私の持論だ。

舞.png

一目瞭然であるが、不知火舞というキャラクターの衣装の露出度はもとより非常に高い。餓狼2の時点でも大概だったと思うが、KOFなどではその傾向がより一層顕著になっている訳である。

そこに対して、更に「露骨な胸揺れ」という表現手法を追加した結果、我々は、いや少なくとも私は、「ほーら露出度が高い胸が揺れてるぞー。見ちゃうだろー」という、製作者のあけすけな意志を感じてしまうのだ。これが、私が「不知火舞の胸揺れは非常に押しつけがましい」と感じる理由である。


これが例えば、「普段は露出度が低い衣装を着ているキャラクターが、たまの水着姿で揺れる」というのであれば、その表現を受け入れるにやぶさかではない。衣服を着ている状態では胸が大きいことに気付かれていなかった、などという状況であれば更に言うことはない。

が、不知火舞というキャラクターは、単体で既に「格ゲー女性キャラの露出度アップ」の象徴のような高露出度キャラクターである。ゲームをしている限り、彼女は24時間体制で露出度が高い。そこにギャップ効果など生まれようがなく、表現上非常に勿体ないことをしてしまっているのではないか、とすら思えるのだ。(同じことは、例えばデッドオアアライブなどのような3Dゲームにも言える)


私は提言したい。つまり、

「揺らすなら隠せ」

と。

普段露出度が低い、うっかりすると胸の存在を忘れがちな頃に、ふとした胸揺れ表現によって鮮烈に印象づけられる胸の存在。それこそがプレイヤーに対して、強烈なギャップ効果をもたらし得るものになり、その胸揺れ表現の尊さが増すのではないか、と私は考える。

例えば私は、同じSNKキャラで言えば「麻宮アテナ」のグラフィックを非常に高く評価しているのだが、

アテナ.png

こういった露出度が低い、更に言えば胸自体の存在感も控えめであるところに、わずかな胸揺れ表現がつく。そういったところにこそ、人は感動とやすらぎを感じるのではないだろうか?(シリーズの一部タイトルの勝利ポーズでは揺れていた筈である)

普段強調されないものが、ふとした瞬間にクローズアップされる。そういった表現こそ大いに尊ばれるべきである、と、つまり私が言いたいことはそこに尽きるのだ。

ちなみに、アテナのグラフィック自体は、個人的に'95時点のものが至高ではないかと考える。残念ながら、'95ではアテナに胸揺れ表現らしきものはなかった筈である。更に付け加えると、同じくSNKのサムライスピリッツでは、初代サムスピでのみ、ナコルルの時間切れ負けポーズに胸揺れ表現があった筈である。そういった表現については大きく称揚して然るべきであろう。

ちなみに、「実際には胸揺れ表現はなかったんだけど、もしこのキャラにさり気ない胸揺れがあったらすっごい感動したのになあ」というキャラ代表は、天外魔境真伝の絹です。よろしくお願いします。(ここだけ敬体)

ということで長々と書いてきた。結論については既に最初に書いてあるので、ここでは単に、このブログをしんざき奥様も観測しているという事実のみ記して結句としたい。

今日書きたいことはこれくらい。

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posted by しんざき at 19:25 | Comment(20) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

本当に参考にすべき失敗例は、基本的に可視化されない


先に書きたいことをまとめておくと、

・可視化されているのは生き残った人だけ、あるいはまだ失敗していない人だけ
・本当に大きなリスクは言及されないし、それらのリスクに引っかかった人は単に観測できなくなる
・今可視化されている例からだけ判断し、追いかけるのは危険
・何かにチャレンジする時はちゃんと事前に想像力は働かせた方がいい
・あなたにチャレンジを勧める人は、あなたの人生に対してなんの責任も負わない

の5点になります。忙しい人は上記だけ読んでブラウザを閉じてやってください。


今から当たり前のことを書きます。


何かにチャレンジする時には、当然のことながら、リスクとリターンを考えるべきです。最大リスクにはどんなものがあるのか。それに対して得られるリターンは何か。どんなチャレンジをする際も、その辺は最低限考えておいて然るべきです。

なので、本来、「リターンにはどんなものがあるのか」というのと同じくらい、「リスクにはどんなものがあるのか」という情報は大事なわけです。


ただ、別にwebに限らないと思うんですが、何かのチャレンジについて、「本当に参考にすべき失敗例」が可視化される機会は滅多にありません。本当にありません。


可視化されているように見える失敗例は、殆どの場合

・ある程度成功している人、ある程度軌道に乗っている人が、「俺にもあんな苦労があった」的に、自己顕示の一環として開示する失敗例
・集客などのフックの為に用意された、致命的とは言えない失敗例

のどちらか、あるいはその両方です。


本当に致命的な、「最大リスク」に該当するような失敗例を経験してしまった人は、単にいなくなります。正確には、ごく短い期間で観測できなくなります。

凄く期間を置いてから、また観測できるようになる(復活する)ことも稀にはありますが、そんな場合でも、本当に参考になる「失敗事例」を聞くことが出来る機会は稀です。やはり人間、取り返しがつかないような失敗については触れたくないし思い出したくもない、ということなんでしょうか。

一言でいうと、「失敗例は成功例よりもずっと見えにくい」んです。


例えば、webにおいて、何人かの人たちが新しい試みをするとします。ばーーっとその試みのリターンが喧伝されます。とても華やかに見えます。

けれど、その試みにおいて、「本当に失敗してしまった人」は単に「あれ?そういえばあのひと、最近みないね?」という程度にwebから消えてしまうだけなので、一部の華やかそうに見える成功例だけが可視化され続ける、ということになります。


チャレンジをすることは悪いことではありません。ですが、チャレンジをする際、成功例「だけ」を参考にするのはとてつもなく危険です。しかし、世の中「参考にすべき失敗例」はなかなか見えにくいようにできています。

だから、チャレンジをする前に、「そのチャレンジに伴うリスクは何かな?」という点については、きちんと想像力を働かせなくてはいけない、ということになるわけです。



大体想像して頂けると思いますが、私は今、例えば「ノマド・ライフ」であるとか、もうちょっと古くは「1円起業」のような、ちょっと前にいち時期流行って、最近あまり聞かなくなったものを思い浮かべています。

あの頃、盛んにそれらの言葉を喧伝していた人たちは、今ではまた別なものを喧伝し続けています。そして、そういった言葉に乗っかって「別の道へのチャレンジ」をしてきた人たちの中で、まだ観測できる人はほんの一握り、いや一握り以下です。

それらの一握りに入っていない人は、「これこれこういった成功をした」「これこれこういった失敗をした」という形跡すらなく、ただただ見えなくなりました。web上に存在しなくなりました。たまに、「あれ?あのひとそういえば最近観ないな?」と思って検索をすると、更新が途絶えて二年くらい経つブログが観測される、という程度の状況です。殆どホラーです。


そして現在は、そういった手あかがついたバズワードの他に、新しい魅力的な言葉がまた色々と考えだされ、喧伝され始めているように思います。


繰り返しになりますが、チャレンジすることは悪いことではない、と思います。ただ、「成功例だけを判断材料にチャレンジする」ことは、決して賢明なこととは言えません。そして、あなたに数々の成功例を提示する人達は、あなたの人生に対してなんの責任も負いません。


失敗例は極めて観測し辛い、ということだけは念頭に、皆様には「よいチャレンジ」をしていただければと思う次第です。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 11:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

殺人事件被害者の実名報道について、またいつも通りのメディア側論法が出てきたんで思ったことを書く

以前も似たようなこと書いたんですが。


この論法、観る度に新鮮な不快感に包まれますし本当によくわからないんですが、

相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人が刺殺された事件をめぐり、神奈川県警は障害者への配慮などを理由に被害者の実名公表を拒んだ。戦後最大級の犠牲者を出した殺人事件にもかかわらず、「誰が亡くなったのか」という事実確認に障壁を設け、被害者の足跡や遺族の思いなどを世に伝える機会を奪った形だ。

さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。

「メディアが実名を報道するかどうかは、警察ではなくメディアが責任を持って判断することだ。当局による恣意(しい)的な情報選別は、都合の悪い情報の隠蔽(いんぺい)にもつながりかねない。『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」と批判している。

遺族が公表を希望しているならともかく、「公表されないことを強く希望」しているわけですよね。

糾弾されるべき対象の情報ですらなく、何の罪もない殺人事件の「被害者」の情報なんですよね。

「『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」なんて言葉がさらっと出てきてますけど、遺族感情以上に優先されなくてはいけないことって一体なんなんでしょうか。「実名報道がされない」ことによって失われるものって、そんな重要なものなんでしょうか。

「社会が悲しみや怒りを共有」って、それ自体何がどう重要なのかよくわからないいい加減なマジックワードですけれど、単に「無抵抗な被害者がこれこれこういう経緯で殺されました」では怒りや悲しみが共有されないんですか。そこに実名が付け加えられることによって、いったい何が新たに共有されるんでしょうか。

今回の件なんて、もし被害者の実名情報が公開されでもしたら、被害者遺族にこころない誹謗中傷がわんさか寄せられるなんてこと、いつも以上に明白なのに、そんな被害者遺族の事情なんてどうでもいいってことなんでしょうか。被害者遺族の生活が破壊されることよりも、実名報道によって共有されるものの方が重要ですか。


この手の「被害者実名報道の是非」の話が出る度に、上記に列挙したような疑問が沸いてきますし、それについて納得できる回答に出会ったことがありません。


今回の事件が、規模的にも戦後最大の事件ということでもあり、非常に痛ましい事件であることについては何の疑いもありません。
ただ、そうであればこそ、せめて「そっとしておいて欲しい」と願う被害者遺族のプライバシーくらい守られるべきなんじゃないかと。

今回のような事件を「防止」するような施策を考えることは非常に難しい気もしますが、仮に「今後の対策」を考えるにしても、そこに被害者の実名情報が一体なぜ必要なのかと。


結局のところ、被害者の実名情報や個々のプライバシー情報が「コンテンツ」として扱われている、というのが現在の実情であって、それが被害者遺族のプライバシーよりも重要だとは私にはどうしても思われない、というのが私の考えなわけです。


今回の事件、事件が発生したのが障害者施設だったということで、普段の報道とだいぶ雰囲気が異なることは間違いないように思います。
それが「障害者差別」だと言われればそうなのかも知れないですが、それならば「他の殺人事件についても被害者や被害者遺族のプライバシーが守られる」という方向で平等にするべきですし、是非今後そのような方向に動いて欲しいと強く願っています。


手前みそですが、以前似たようなテーマで書いた記事は下記の通りです。



今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 08:57 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

ブログが主なのか、ブロガーが主なのか。


ここしばらく感じていた違和感をようやく言葉に出来たので、ちょっと書いてみようかと思います。


私は、ブログが主で、ブロガーが従だと思っていました。今でもそう思っています。


一般的なものであれば、「人があって、創作がある」のかもしれないですが、少なくともブログにおいては、「ブログがあって、ブロガーはそのおまけ」だと思っています。


何故ならインターネットだから。


すいません、この「何故ならインターネットだから」という言葉、私にとっては「これだけで説明が済む」っていうくらい大きな力を持ったマジックワードなんですが、普通の人にとってはそうでないことが予想されるので、もうちょっと補足します。



私は11年「不倒城」を書き続けており、不倒城にそれなりに思い入れを持っています。一番重要なのは「書きたいこと書く」ですが、結果としていろんな人に不倒城を読んでもらえれば嬉しいなーと思っていますし、不倒城の知名度が上がれば嬉しいなーと思っています。(注:この場合不倒城は「レトロゲームブログである不倒城」のことを指しますが、一旦それは置いておきます)

ただ、別にそこに、このブログを書いている「しんざき」という名前がくっついている必要はないのです。このブログを書いているのがしんざきだというのはどうでもいいことであって、何ならしんざさでもシソザキでもなんら問題はなく、極論しんざきと不倒城を結びつけるものが何ひとつなくたって構わないと思っています。


しんざきというネット上の人格は確かに存在しており、それはそれで色んな活動をしていますが、それはケーナ吹きであり、人狼プレイヤーであり、一レトロゲーマーであり、キャベツ太郎ソムリエの名前であって、「不倒城」の筆者である必要は全くない、とでもいうのでしょうか。


言ってみれば、私には間違いなく承認欲求がありますが、その承認欲求は「しんざき」ではなく徹頭徹尾「不倒城」を向いているのです。不倒城には有名であって欲しいですが、「しんざき」が有名になる必要はビタイチないのです。

何故ならインターネットだから。


私が知っているインターネットは、かつて「顔がない世界」でした。


顔がない人たちが、いろんな面白いことを書いて、書いて、書いて、それで私が好きなインターネットが出来上がっていました。そこに書かれたものを誰が書いたのかはさっぱりわかりませんでしたが、けれどそこに書いてある数々の「面白いもの」が、私は好きでした。

インターネット上のテキストは、そのテキスト自体が重要なものであって、そのテキストを「書いた人」が問題になるのは、そのずっとずっとずっと後でした。「え、○○を書いてたのってあなただったの!?」ということが驚きになることはあっても、「××さんが書いた○○」なんて看板が重要になることは稀有なことでした。


それがあまりに自然なことだったから、ブログがあったとして、「ブロガー」が露出する必要なんて全くないんじゃないか、とすら私は思っているのです(現実問題、流石にそれではいろいろと不便過ぎるので、最低限の繋がりは保っていますし、ブログ内でもしんざきを名乗ってはいますが)



「ブロガーのブランドイメージ」という言葉を、私がさっぱり理解出来なかったのは、つまりそういうことなのです。

ブロガーはブログを有名にしたいものなんじゃないの?と私は思っていたのです。ブロガーが、ブログではなく、自分の「イメージ」を作る必要がどこにあるの?と。

ブロガーが、ブログを離れて、ブロガー単品として活動しはじめるに至っては、完全に私の認識と主客が逆転してしまって、漫画全く描かないのに何故か言論人として有名になってる漫画家、みたいなイメージを抱いてしまっていました。すいません誰とは言いませんが。




ただこれ、いい悪いの話ではなく、単に文化の違いなんだと思います。私がかつて「顔がない」インターネットに余りにも馴染みすぎていたのと同じように、「まず顔があって、そしてブログがある」という文化に馴染んでいる人も多いんだろう、とは想像が出来ます。


文化の違いを無理にすり合わせる必要はありませんし、スタンスを無理に変える必要もありません。そういう意味では、「あ、これ文化の違いだ」と気づけたので、私は随分気楽になりました。


私はこれからも不倒城でレトロゲーム記事とそれ以外の記事を書き続けますが、皆様もしよろしければ、それらは「しんざきの記事」ではなくあくまで「不倒城の記事」だと認識頂ければ幸いです。


そして、ずっとずっと未来、いつかどこかで、「え、あれ書いてたのお前だったの!?」という言葉を少しでも聞くことができれば、それは私にとって本望というしかないなあ、とそんな風に思うのです。


posted by しんざき at 00:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月07日

ブログ記事の一番上に挿入されている、なんか雰囲気だけで本文とは何の関係もない画像って何の為にあんの?

言いたいことがタイトルだけで、本文で書くことが何もなくなってしまったので、以下キャベツ太郎のおいしさについて書きます。

長男から「パパ頑張ってね!」といってこれをプレゼントされた


・キャベツ太郎はソース味が美味しい
・超おいしい
・キャベツ太郎を食べる時に手が汚れるという人は素人
・袋を開けた後、袋をコップのようにして口に流し込むように食べると良い
・上記の食べ方をする為に、小袋で食べることが望ましい
・とにかく美味しい
・歯が汚れないように食べるには若干習熟がいるので、まあ最初は出来なくても気にしなくて良い
・私くらいになると歯も汚れないで食べられる
・小袋は30袋498円とかで業務スーパーで売っている
・コストパフォーマンスが激高い
・通常のキャベツはひと玉100円とかするのに、キャベツ太郎は30玉くらい入った小袋が30円で買えてキャベツに比べて約100倍のコストパフォーマンス
・すごい
・劇的に美味しい
・会社の近所のコンビニがキャベツ太郎を入荷する気配がない
・「キャベツ太郎を入荷するべき」というアンケートを地道に投入していたらある日アンケート箱がなくなった
・担当者おなかこわせ
・まあなんにせよキャベツ太郎は美味しい

以上、よろしくお願い致します。

posted by しんざき at 09:45 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

北海道の件について三行だけ

「断片的な情報を元に外野が騒いで親を断罪するのは、単に断罪者が気持ちよくなるだけで子どもの為には絶対ならんから、後は当事者と公的機関に任せて外野は騒ぐのやめようよ」

と心から思いますし、それが「ネグレクト・体罰を肯定する態度」と同一視されるとしたら同一視する人がおかしいと思います。


外野としては「ああ、無事だったんだ、良かった良かった」だけで十分だし、それ以上のことは踏み込まなくていいと思うんですけどね。けど騒ぐ人は騒ぐんだろうなあ。断罪するの気持ちいいだろうしなあ。

posted by しんざき at 18:40 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月29日

ネットゲームデータベース設計むかしばなし、あるいはとんでもないMMORPGの設計の話

むかーしむかし、あるところに、ネットワークエンジニア兼データベースエンジニアがおりました。元々はネットワークが専門だったのですが、色んな仕事を片付けているうちにデータベースもやることになり、某高額なDB試験のゴールドまでとってしまったというハイスペックなエンジニアでした。

彼のことを、仮にCさんと呼ぶことにします。

Cさんは、某アルファベット三文字の有名SI会社に勤めていたのですが、どうした風の吹き回しか、本人は殆どゲームをやらないのにゲーム会社に転職して、当時まだ日本で幾つかのタイトルが出始めていたばかりの、MMORPGという世界に活躍の場を移すことになりました。

周りの人間は、彼のことを物好きだなーと言っておりました。私もそう思います。

Cさんは、そのMMORPGで、最初にドすげえ事態をなんとか片付けなくてはいけませんでした。

それは、「本来であればクライアントやアプリケーションサーバで分散処理をすべき色々な処理を、何から何まで全部DBのストアドプロシージャにやらせていた為、ちょっとでもユーザーからのリクエストが増えるとロードバランスもクソもなく一瞬でDBに全部の負荷が載ってきて、イベントなどやろう日には百発百中システムが止まる」という凄まじい阿鼻叫喚地獄絵図でした。

その辺の顛末は、もう8年くらい前ですが、こちらの記事に書きました。興味がある方はどうぞ。

SI業界からネットゲーム業界に移った知人に色々話を聞いてきた。

・同一処理エリア内にプレイヤーキャラが20人以上いるとクライアントが固まっていた。
・クライアントが固まると一部のプロセスがゾンビになる場合があったので、スタッフがkillコマンドを直に流して落としていた。クライアントとの通信が切れたらアラームが発生するソフトがそれだけの為に作られ、24時間体制のシフトが組まれていた。
・無謀にもその状況で公式イベントを開催してみたら、DBサーバのCPU使用率が98%から落ちなくなり、ロードアベレージが100を越えた(1未満であることが望ましい値)。
・参加していたプレイヤーのクライアントソフトが一つ残らず落ちた。怖くて誰も2ちゃんを開けなかった(MMORPGのスタッフには、自分のゲームのスレに常駐している人が結構多いそうである)。
・kill -9 を流してもプロセスが落ちない。
・仕方ないのでサーバをリブートしようとしてもなかなか落ちてくれないので、どうしようもなくなって電源を落としたらDBが立ち上がらなくなった。


地獄絵図である。



これは、負荷分散とかスケールアウトといったことについて技術的知見をもったアーキテクトが一人たりとも開発チームにいなかったことが原因で起きた事態であり、端的に「それまでのゲーム開発」と「オンラインシステム開発」に求められるスキルが異なることを示していたのだろう、と思います。もう結構な昔話ですので、最近のMMORPGでこんなことはさすがにないんだろうと思います。よく知りませんが。

で、そんな彼から、当時もう一つ、データのモデル設計についての面白い話を聞いていました。

それは、Cさんがデータのキャッシングについての知識と小技をフル稼働して、なんとかシステムのパフォーマンス問題を小康状態にした、その矢先のことでした。

開発メンバーが深刻な顔を付き合わせて、なにやら相談していました。「RMT」とか「ユーザーからのクレーム」といった単語が途切れ途切れに聞こえてきます。

Cさんは、手近なメンバーに聞いてみました。分からないことをすぐ率直に聞けるのは有能さの証です。

「なにかあったんですか?」

「あーいや、ユーザーからの突き上げが凄くってですね。。。RMTの調査と規制、ずっと先伸ばしにしてたんですけど、いい加減なんとかしないとってことで」

ゲームを殆ど遊ばないCさんは、当然RMTという言葉も知りませんでした。

「RMTってなんです?」

「リアルマネートレード。早い話、現金でゲーム内のお金やアイテムを入手するってことでして、規約では禁止されてるんですが」

現在ほど明確な指針は当時まだなかったようですが、RMTを放置すると業者やbotによる通常プレイヤーへの圧迫が起きる上、反社会的勢力の資金源になる場合もあり、ベンダーにとっては当時から頭痛の種でした。

「しかし、まず調査が一苦労なんですよね。。。」

「? えーと、要は怪しいトレードをピックアップすればいいんですよね?確かにそこから通常取引との識別は難しいかも知れませんが、集中してそういう取引を行っているユーザーを特定すれば」

Cさんの感覚では、そこまで困難な話にも思えません。

「ええまあ、なのでそれ用のログ解析ツールを作ろうとしているんですが」

「ログの解析...?」

いまいち分かりません。何故わざわざログを解析する必要があるのか。

「トレードの履歴をまとめてピックアップすればいいんですよね?簡単なSQLで解決出来そうですが」

「SQLって、DBで検索するってことですか?」

そりゃそうです。何のためのDBなのか。

「ええまあ、一応パフォーマンスの問題がまだありますから、メンテナンス時間中にやった方がいいでしょうが」

「いや、トレードの履歴はログにしかありませんから、DBから検索するのは無理だと思いますが...」

「...はい?」

よくきいてみたところ、ド衝撃の事実が判明しました。このシステム、プレイヤーの位置情報とかその時点のステータスとかエリア内のオブジェクトの状態とか、クソどーでもよさそうなデータをDB管理していたくせに、なんとプレイヤーの所持金の出納データをDBで持っていなかったのです。

どういう話かといいますと。

例えば、銀行の現金残高のデータなんかは、必ず「全ての入出金データ」と「その合計をサマリーしたデータ」を別々のテーブルでそれぞれ管理しています。いつ、誰がいくら入金・出金したかという一件一件のデータが前者で、それら全てを合計したものが後者。こういう持ち方をすることで、最新のデータは一瞬で呼び出すことが出来ますし、一方履歴も全て追えるので、データの保証も常時行うことが出来ますし、「○月×日の所持金はいくらだったか」といったことも簡単に調査することが出来る訳です。ごく一般的なデータモデルです。

しかし悲しいかな、そのときの開発スタッフにはそういう知識がある人がいませんでした。彼らにとって、プレイヤーの所持金というものは、飽くまで「最新のデータだけ保持しておけばいい箱」でしかありませんでした。確かに、ドラクエやFFのようなオフラインRPGであれば、「いつ時点の所持金が幾らか」などということをセーブロードなしで再現する必要など発生しません。履歴管理の必要性など、そもそも設計段階で話題に挙がることすらなかったのです。

一応トレードの履歴はサーバーのログ管理機能でログに残ってはいるというものの、ログの書式も機能によってバラッバラで、しかもロギングの資料もなく、まずは機能ごとのログの解析が必要という有り様。端的に言って地獄です。

プレイヤーの所持金データをちょっとみれば分かることだったのですが、なにせ「ER図(DBの設計書)はないんですか?」と聞いてみたら「必要な資料なんですか?すいません、そういうの分かる奴がいないんで、調べて自分で作って頂けると...」と言われた現場です。全力でパフォーマンス問題に傾注していた彼は、まだその辺まで手がつけられていませんでした。

そして、でかい問題を解決した直後に降ってわいたこの問題が、やはりCさん以外に解決出来る問題でないことは明らかでした。Cさんの残業時間が入社直後の二ヶ月連続で250時間を越えることが確定した瞬間です。

結局この問題は、突貫でログ解析ツールをつくり、履歴テーブルを急造してそこにレコードを放り込もうとした矢先、ログを直近一週間分しか保持していないことが判明するという急転直下のひどいオチを迎える訳ですが、最終的には最新の状態を1レコードにしてそれ以降のデータのみ履歴で持つようにしたそうです(当然それ以降のデータしか調査・巻き戻しは出来ない)。大変ですよね。

Cさんはまだ同じ業界にいらっしゃいまして、さすがにこの当時ほどひどい事態は見なくなったということなのですが、今でもぽつぽつ面白い話は聞くことが出来ます。機会があれば(あとCさんの許可がもらえれば)また紹介したいと思います。


遠い、遠いオンラインRPGのお話でした。
posted by しんざき at 22:49 | Comment(7) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月27日

何故サミット会場に、日本が世界に誇るソウルフードであるキャベツ太郎を置かないのか本当に理解出来ない


きのこがどうだたけのこがどうだ言っている場合ではなく、本来こういう場に置くとすればやおきんのキャベツ太郎一択である筈で、外国人記者はスシどころか「キャベツ太郎ないの?? ノーーーーーーーーッ!(エコーつき)」と絶叫し続けているであろうことは全く想像に難くなく、それらの絶叫により今頃サミット会場は阿鼻叫喚の地獄絵図を呈していることが想定され、これは近隣の騒音問題を惹起する可能性すらある問題で、それら外国人記者のサイレントマジョリティ的な声を全国民に伝えないのはもはや報道の怠慢と言うもおこがましいレベルであり、政府は可及的速やかにやおきんに対して十分な量のキャベツ太郎を提供するよう要請すべきであってそのついでに日本でも数少ないキャベツ太郎ブロガーである私にキャベツ太郎の供与を行うことが望ましく要するにキャベツ太郎たべたい。



長男から「パパ頑張ってね!」といってこれをプレゼントされた


posted by しんざき at 10:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

「京大出て専業主婦なんてもったいない」という話について問題を切り分けてみた、あるいは主婦が「もったいない」といわれるのがよくわからない


このエントリーを拝読しました。


コメントを含めて、どうも幾つかの問題が割と面倒な感じに絡んでるなーと思ったので、余計なお世話とは思いつつも、ちゃんと切り分けてから考えてみたい欲求に駆られました。

ただ、テーマ自体がいわゆる「個人的な問題でも一般化したい病」に類するものなので、あまり建設的な議論にはならないと思います。ご承知の上お読みください。





恐らくこの話は、大きく四つくらいの問題に切り分けることが出来ると思います。


○出る大学と歩む道によって、「もったいない」というべき状態は発生するか
○発生するとして、それを他人が指摘することをどう評価するか
○主婦という生き方は「もったいない」といわれるようなものなのか
○学歴や生き方に伴ってマウントをとったりとられたりする件について


順番にいきます。


○出る大学と歩む道によって、「もったいない」というべき状態は発生するか

学んだ分野のカテゴリーや専門性と、それを学んだ動機、費用などによって変わってきます。

「もったいない」というのは何かというと、要するにコストとリターンがかみ合っていないことです。そして、その「かみあっていない」というのを評価する主体と評価軸は、視点によって変わります。

コストは単純に、その大学に入って卒業するに至るまでの、学業や研究に対する努力、時間的コスト、精神的コスト、金銭的コストなどがそれに当たるでしょう。自分ひとりで完結する話ではないのが若干厄介ですが、ちょっと頑張れば数値化することも可能かも知れません。


リターンについては色々面倒くさいです。これは「場合と視点による」という話になります。

三つくらい例示してみましょう。


やや曖昧なワードですが、例えば「社会」という視点で評価するとしたら。極端な例で言えば、「日本でほんの数人しか研究していない分野で、成果次第では大きな社会発展の種になる」というような専攻分野をとっていた人が、卒業してから完全にその研究をやめてしまった、というようなことであれば、「社会的にもったいない」というようなテーゼは成立するのかも知れません。あるいは、今完全に人手不足の分野で、その専攻をとった人はその分野の道を歩むことが期待される、という分野であれば、同じく「(社会的に)もったいない」と言えるかも知れません。

記事を拝読する限り、ブログ主様の専攻分野が上に該当するかというと、多分しなさそうな気がします。教授がもったいながるなら、まあ20歩くらい譲ってわからなくもないんですけどね。


例えば経済的な側面で評価するとしたら、「学歴を生かして就職していれば得られたかも知れない金銭的なリターン」というものがあって、それが得られなかったことについて「もったいない」という余地があるのかも知れません。もっとも、これも現在の社会状況から言えば、いい大学を出たからといって即高収入に通じるわけでもなし、どの程度働けば幾らのリターンと決まっているわけでもなし、随分と曖昧な話ではあります。


完全に主体的に、つまり一人称視点で評価するとすれば、リターンは「自分が今、満足しているかどうか」の一点になります。この視座で見る限り、自分の現在のあり方に満足しているのであれば、「もったいない」という言葉は根本的に筋違いでしょう。一方、例えば「大学入学前に強力な動機があり、それに中途で挫折してしまった」というようなことがあれば、現在の満足に若干の瑕疵が発生するかも知れません。

そして、これに関する限り、ブログ主様は現在の生き方に十分満足されているようには見受けられます。つまり、ブログ主様的には、一人称視点での「もったいない」という言葉は全く当たらない、ということになります。

それに対して、無理に前者二つの曖昧な「もったいない」という言葉を押し付けられているので、ご自分の意識とのギャップに不快感を感じられている、ということなのでしょう。多分ですが。





○発生するとして、それを他人が指摘することをどう評価するか

いやまあ、他人が口出すような話じゃねーよなー、と(そういう意味ではこの記事自体どうかという話ですが)。


これが例えば、国策プロジェクトによる奨励学生が選択した道とかであれば、ある程度上のような評価も意味を持ってくるのかも知れないですが。そうではない、少なくともご自分(あるいはご親族)の納得と努力の上で選んだ道であれば、少なくとも「一人称の評価」以外を適用するような筋合いはないでしょう。

この記事含め、他人の「もったいない、もったいなくない」という話については、「知るか黙ってろボケ」の一言で万事解決するのではないかと考えられます。あるいは、「お前は私の指導教官か?」でもいいかも知れません。どちらでも、わずか10文字前後で済むのでお勧めです。



○主婦という生き方は「もったいない」といわれるようなものなのか

実は、そもそもこれが良くわからないんですよね。

専業主婦という生き方って、つまりご結婚されて家庭を切り盛りされているわけで、別にニートやってるわけじゃないじゃないですか。言ってみれば、旦那さんを含め、家庭の運営というワンパックで評価されるべき「職業」であって、一概に生産性が低いみたいないわれ方をするのどうなのかなーと。

「学歴と直接結びついていない」という話であれば、上で書いたような専門的な分野を除いて、「学歴ときっちり結びつく」「大学で学んだことがそのまま役立つ」と言い切れる職業が、世の中にどれだけ存在するのか。少なくとも「学歴と直接結びついていない」職業は主婦だけではない、ということは断言出来ます。


しんざき家で言えば、しんざき奥様は現在専業主婦というカテゴリーに入ると思うんですが、子どもは育てるわ、掃除はするわ料理はするわ洗濯はするわ、物凄い生産性ですよ。いや勿論、専業だろうが兼業だろうが家事は家庭内で分担するものではありますが、それでも「家庭が職場」というのは「家にいる間中ずっと職場にいる」ということでして、仕事から完全に離れられるタイミングが極めて希少です。奥様のタスクとか、下手すると私よりずっと大変なんじゃないかと思うくらいですよ。


少なくとも私に関する限り、奥様が「専業主婦」というタスクをこなしてくれていなかったら、今よりずっと低い生産性でしか仕事を出来ないのは疑いないわけで。100歩譲っても、「専業主婦」という職業の生産性は夫婦セットで評価されるべきではないでしょうか。


勿論、「専業主婦」という職種の中で生産性の多寡というのはあるのかも知れませんが、少なくとも「専業主婦」という一言で「他の生き方よりも生産性や貢献度が低い」みたいな評価をされるの、どう考えても意味がわかりません。主婦という仕事は、もっと誇りを持って語られていいと思います。

主婦という職業に対するイメージって、多分男女間対立の一つのネタとして変な風に煽られてるようなところあると思うんですが、まあそれについては項を改めます。



○学歴や生き方に伴ってマウントをとったりとられたりする件について

コメント含めて色んなところで、上から目線とか下から目線とか、斜め上から胸そらし目線とか、よくわからないユークリッド幾何学的な角度が乱舞しているように思えます。


どうも、学歴や職業、生き方に絡んで自分の考えを開示すると、ここぞとばかりにマウントをとりにきたり、あるいは「マウントをとられた」と考えてよくわからない憤り方をする人がかなり多いように感じられます。

学歴というのは、言ってしまえば単なるラベルであって、本来であればそこまでデリケートに扱われるべき話でもないと思うんです。ただ、現実問題、「隠しておいた方が無難な属性」になってしまっている嫌いがあるなーと。

しょーもない話だと思うんですけどねー。お互いに、「お前らの人生と俺の人生には1ミリグラムの関係もない」という前提で考えた方がいいのではないかなー、とは。



ということで。切り分けちゃうぞおじさんとして、なんとなく切り分けられたような気はするので満足してこの辺で〆ます。皆様ごきげんよう。

posted by しんざき at 07:01 | Comment(5) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月23日

我々はスネ夫という存在を過小評価しているのではないでしょうか


劇場版の大長編ドラえもんには「弱音枠」というものがあり、そこをほぼ毎回スネ夫が担当しています。


以下、無駄に長文なのでお暇な時にどうぞ。



劇場版大長編ドラえもんには、「中盤以降にのび太(あと場合によってはジャイアン、しずか)が覚醒する」という、お定まりの特徴があります。序盤、導入時にはいつも通りのダメのび太であって、ドラえもんのひみつ道具を私欲の為に使ったり、学校やのび太ママのお小言から逃避したりといった行動に走り、それがメインストーリーに流れ込んでいくことも良くある話です。

が、ストーリーがある程度進行し、ドラえもん一行の大ピンチや劇中の友人キャラクターの危機などが迫ると、のび太は周囲のメンバーに率先して、それらピンチに立ち向かっていくことになります。

例えば、「日本誕生」では、さらわれたククル達を助けようと真っ先に周囲を説得するのがのび太であったり、とか。
例えば、「宇宙開拓史」では、コーヤコーヤ星のピンチをジャイアンたちに知らせるも一度は説得に失敗し、自分とドラえもんだけでもロップルたちを助けようとしたり、とか。
例えば、「宇宙英雄記」では、一度は海賊に不覚をとった中、アロンたちやポックル星をなんとしても助けよう、と最初に声を挙げるのがのび太だったり、であるとか。


この時、しずかちゃんは大体の場合積極的にのび太を援護しようという立ち位置ですし、ジャイアンも多くの場合、多少文句を言いつつも友情の為に率先して協力する、といったパターンが専らです。


これは、「普段はダメだけどいざという時には勇気を出すのび太」であるとか、「普段は乱暴だけどいざという時には友情に篤いジャイアン」といったギャップ効果によって、観客に強い印象を残す演出であろうと思われます。これは昔からの演出ではありますが、ここ最近の劇場版を見ていると、


・新・のび太の大魔境
・のび太の宇宙英雄記
・新・のび太の日本誕生
・新・のび太の鉄人兵団
・のび太と奇跡の島
・のび太の人魚大海戦


と、「ひみつ道具博物館」以外のすべてで、若干形を変えながらも上記パターンは継続していましたので、現在でも定番の演出だと言ってしまっていいでしょう。


その際の典型的なパターンはこんな感じになります。


1.のび太やドラえもん、ないし友人たちのピンチが描写される。
2.のび太(ジャイアンである場合もある)が、そのピンチ打破の為に行動に出ることを主張する。例えば敵のアジトに乗り込む、友人たちを救出する、といった内容。
3.スネ夫がそれに対して弱音を吐いて反対する。
4.しずかやジャイアンがのび太に同調する。
5.スネ夫も仕方なく賛同する。


この、

3.スネ夫がそれに対して弱音を吐いて反対する。


という箇所、これが私の考える「弱音枠」です。

我々は通常、この「弱音枠」に「スネ夫の情けなさ」のみを読み取りがちです。

元来スネ夫は、原作・アニメ・劇場版問わず、視聴者の共感や高評価を誘うようなキャラクターではありません。普段はジャイアンの腰ぎんちゃくのような立ち位置に終始し(時には立場が逆転することもあるのですが)、ジャイアンよりも陰湿にのび太をいじめ、自分の家庭が裕福であることを鼻にかけ、ことあるごとに自慢する。

そういった彼がごくナチュラルに精神的弱さを出すことで、視聴者は「ああ、やっぱスネ夫は情けないな」「一方のび太は、普段は情けないけどいざという時は勇気があるな」と印象づけられることになります。

元より、これが製作者側の意図でしょうし、そのように視聴者が感じることはおかしなことではありません。


ただ、こと劇場版ドラえもんに関する限り、「大事な場面で弱音を吐く」というのは、十分に勇気がいることなのではないか、と私は思うのです。


たとえば、「のび太の宇宙英雄記」で、のび太一行(のび太、スネ夫、ジャイアンの三名)は一度宇宙海賊に敗北してしまいます。その後、ドラえもんに救出された後で、その後どうやって反撃するかを相談する中、スネ夫が恒例の弱音を吐き、ポックル星を放っておいて帰ることを主張します。


「普通の子どものぼくたちが宇宙海賊なんかに勝てるわけないじゃないか!」

で、これも恒例の通り、ほっといて帰ることを主張するスネ夫を、ジャイアンやしずか、のび太が勇気ある発言をして、スネ夫も最後には説得される訳なんですが。


これ、冷静に、客観的に考えるとスネ夫の発言100%正しいと思うんですよ。

宇宙海賊に敗北した後ですよ?ドラえもんに救出されてなんとか難を逃れた後だとはいえ、海賊がヌルくなければ本来殺されてても全くおかしくなかった状況の筈です。それなのに、空気に流されるまま「頑張って皆の笑顔を守り抜こう!」とか結論が出るのはどう考えてもおかしい。本来、敗北後には敗北の原因分析と、改めての戦力比較が必要になる筈なのです。

発言としては「冷静な諌言」というよりは泣き言に近かったですが、「一旦立ち止まって考えよう」的な方向の言葉としては、誰かが発言しなくてはいけない言葉だった、といっても良いのではないかと思います。


「宇宙英雄記」の話は典型的なパターンの一つですが、みんなががーっと盛り上がっている中で、一番勇気がいるのは、むしろこういう「総意に逆行する弱気な発言」であったりします。空気に流されてみんなに同調していた方が、少なくともその場では波風が立たない。これは仕事の場でも同じでして、どんな形であろうと「おいちょっと待て」的な発言を提示できる人材は貴重です。


そもそも、スネ夫は元来「空気を読む」キャラクターです。空気を読むと言っても褒められた話ではなく、ジャイアンを上手いことコントロールしたり、大人におべっかを使ったりといった、我田引水の為の空気の読み方なんですが、それでも彼が「その場の空気を上手いこと読んで、自分の思うように状況をコントロールできる」キャラクターの一人であることは疑いがありません。

そんなスネ夫が、ピンチの後の相談シーンで、周囲の「それでもポックル星を助けないと!」という雰囲気を感じ取れていないわけがありません。


それでも。空気を読みながらも、「おいちょっと待てお前ら」とばかりに、場の空気に対するアンチテーゼを提出できる。いってみれば「弱音ぢから」とでもいうべきこのスネ夫の能力を、我々はもう少し評価するべきなのではないかと私は思うのです。


劇の配役や演出的に考えても、「弱音枠」で弱音を吐けるキャラクターは、ほぼスネ夫一人しか存在しません。なにせ、劇の中盤以降、のび太は「適切な弱音を吐ける」キャラクターではなくなってしまいます。ジャイアンはいうに及ばず、しずかちゃんすら劇場版では「その場の空気に逆行する冷静な発言」をしない傾向があります。

それ以外のキャラクターを引き立てるという、演出上の問題だけでも、スネ夫は絶対に必要なキャラクターだと思うのです。我々はスネ夫の重要さをもっと認識するべきなのではないでしょうか。


まあ結果的には、ドラえもんのひみつ道具がチート能力を発揮して事態を打開してしまうケースが殆どなのですが。仕方ないですね。


一応まとめておくと、


・劇場版の定番パターンとして、「みんなが盛り上がる中弱音を吐くスネ夫」というのがあります
・「周りが盛り上がっている中弱音を吐ける」というのは結構勇気がいることです
・弱音を吐ける配役、というもの自体も意外と重要です
・我々はスネ夫を再評価すべき
・けどファミコン版ドラえもんのSTG面のスネ夫は正直あんまり使えないです
・全然関係ないけど日本誕生のしずかちゃんの原始人服は基本的にエロいと思います(二回目)


というどうでもいい感じの結論になるわけです。よかったですね。

今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 19:34 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月19日

初心者にも(ある程度)お勧め出来る、8つのラヴクラフト作品について

近年、いわゆる「クトゥルフもの」ないし「クトゥルーもの」はすっかりライトサブカルとしての市民権を得た感があります。


太古から宇宙に存在した、恐るべき旧支配者たちとそれにかかわる人間たちの物語。かつてはH.P.ラヴクラフトと、彼の数人の友人作家との間で描かれていた「ラヴクラフト宇宙」のエピソードは、例えばゲームのモチーフになり、ライトノベルのモチーフになり、漫画のモチーフになり、アニメやエロゲーのモチーフになりと、サブカル畑の至るところに出現するようになっています。


最近では、「World of warcraft」を元ネタとするオンラインカードゲーム「Hearthstone」にも、「クトゥーン」を始めとする「古き神」たちが出現し、ランダム20ダメージを飛ばしたり断末魔ミニオンをまとめて甦らせたりと猛威を振るっている始末です。ン=ゾスおなかこわせ。


昨今、「ラヴクラフトは読んだことないけど、クトゥルフ神話って言葉だけは知ってる」という人が相当数いらっしゃることは想像に難くありません。

ただ、これも有名な話ですが、ラヴクラフトは決して「神話」としてのクトゥルフのエピソードを描いたわけではありません。というか、実はラヴクラフトの作品で、クトゥルフやナイアルラトホテップなど、クトゥルフ神話で著名な名前がちょっとでも出てくる作品は意外と希少です。多分、全体の2割無いくらいじゃないでしょうか?

彼が描いたのは、「人間よりも遥かに昔から存在するものたち」と人間の関わりをテーマとした「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」。それを「邪神」や「神話」といった形に、主にラヴクラフトの死後に整形していったのは、オーガスト・ダーレスを始めとする後続の作家たちなのです。(※ラヴクラフト自身、ダーレスの創作を気に入ってはいたようで、ダーレスへの激励の手紙や協力の痕跡が残っているそうです)


そういう話を聞いて、


「クトゥルフものの原点って気になるけれど、ラヴクラフトって難しそうだし…」


と思うクトゥルフもの初心者が、恐らく日本全国に2800万人くらいはいると考えられます。いるよね?




ラヴクラフトが書く文章に不思議な魅力があることは間違いないことなのですが、正直な話、ラヴクラフトの作品が(訳も含めて)かなり難解であり、慣れない人には非常に読みにくいことは否定が出来ない事実です。

ただ、クトゥルフもののルーツをたどるとすれば、ラヴクラフトの作品を避けて通ることは決して出来ない訳で、ここでは

ラヴクラフト作品の中でどれが初心者向けなのか、どれが難解過ぎるのか、

というお話を主に書いていきたいと思います。


そもそもラヴクラフト全集自体がとても初心者向けとは言えない


という点は唯一些少の問題ですが、まあ気にしないことにします。


○比較的初心者にも読みやすいラヴクラフト作品

○長かったり難解だったりで読解には若干努力が必要だが、話自体は面白いラヴクラフト作品

○読解にかなりの努力が必要だが、クトゥルフもののルーツを追うには抑えておきたいラヴクラフト作品

○sanチェックをしたい初心者にお勧めなラヴクラフト作品

の4カテゴリーに分けて紹介していきます。



○比較的初心者にも読みやすいラヴクラフト作品

「宇宙からの色」(ラヴクラフト全集4巻に収録)

個人的には、ラヴクラフトの短編・中編の中でも屈指の傑作に数えられるべき作品ではないかと思います。展開もわかりやすいですし、完成度も高く、話の展開、読んだ後の絶妙な後味の悪さも含めて、ラヴクラフト節が満載です。

時は1882年。アーカム近郊の農夫ネイハムの自宅近くに隕石が落ちたことをきっかけに、ネイハムの周囲では奇妙な事件が起こり始めます。不快な味がする作物、奇妙な生育をした動物たち、そして不可思議な色。

ラヴクラフトのこの手の作品の特徴は、「怪異の存在がヴェールの裏に隠れており、決して正体が明かされはしないこと」「一見逃げ道がありそうなのに、得てしてその逃げ道は選ぶことが出来ない、あるいは逃げ道として成立していないこと」あたりだと思うんですが、この作品でもそれが十分に発揮されています。ホラーとラヴクラフト宇宙観の適度なブレンド具合も良好。



「神殿」(ラヴクラフト全集5巻に収録)

第一次世界大戦中、敵の攻撃を受けて漂流するUボート。ある事件を境に、Uボートは漂流を始め、乗組員は徐々に正気を失っていく。ただ一人確固とした意志を保ち続ける、Uボートの艦長たる主人公は、やがて海底で奇妙な光景を目にする。

怪異の中にも幻想的な、ラヴクラフト作品の中でも美しい描写が特徴の一遍です。「異様な状況の中でも、徹頭徹尾冷静な主人公」と、彼の手記という視点から様々な恐怖が仄めかされる構成が素晴らしい。

ラヴクラフト作品の中でも例外的に、「最後まで正気を失わない、少なくとも最後まで主体的に狂気と対面し続ける」人物が主人公でして、彼の気骨には一種感銘を受けます。個人的には、短めの作品の中では「宇宙からの色」に次いで気に入っている作品。



「アウトサイダー」(ラヴクラフト全集3巻に収録)

廃墟のような広大な城に、たった一人で住む主人公の視点で進む物語。
ただ一度空を見てみたいという一心で、黒い塔をひたすらに上り、城からの脱出を試みる主人公が見たものとは。

ラヴクラフトの最高傑作として挙げる人も多い一作。

エドガー・アラン・ポーの影響を強く受けた、と解説されることの多い作品ですが、私自身は、なによりその「暗い森と、広大な城」「そこから続く尖塔」といった舞台の、その圧倒的な描写に驚かされます。この作品については、いわゆるラヴクラフト宇宙観はそれほど関係がないのですが、頽廃的な中でもどこか悲しいそのエンディングは、通常のホラーがお好きな方にもお勧め出来る作品です。




○長かったり難解だったりで読解には若干努力が必要だが、話自体は面白いラヴクラフト作品

「クトゥルフの呼び声」(ラヴクラフト全集2巻に収録)

大伯父の遺産を整理していた主人公は、ある時奇妙な粘土板と、記事を見つける。その粘土板に描かれた存在の情報を追ううちに、おぞましい事実が徐々に明らかに。

TRPGのタイトルにもなっている、クトゥルフ神話の代名詞的な作品です。ラヴクラフトが「ルルイエ」と「クトゥルフ」という存在を直接、具体的に描き出した、多分唯一の作品でもあります。クトゥルフ神話の原点を追うという意味でラヴクラフトを読むなら、この作品を外すことは出来ないでしょう。

この作品で注目すべきなのは、やはりなんといっても「ルルイエ」の描写だと思います。様々なところでネタになる、「ラヴクラフト的な描写」がこれでもかこれでもかとばかりに前面に打ち出されています。「ああ、この表現ってここが初出だったのか!」と納得すること請け合い。


「時間からの影」(ラヴクラフト全集3巻に収録)

3巻の最後に収録されている長編です。「イースの大いなる種族」や「盲目のもの」など、後々クトゥルフ神話の中でも重要な立ち位置になってくる存在が多く描写される、ラヴクラフト宇宙観の中でも特に重要な一作。

「数年の間、まったくの別人になっていた」教師が主人公。自分を取り戻した後、切れ切れに思い起こされる記憶と悪夢をたどって、彼と仲間たちはオーストラリアの遺跡を探索することになります。その中で彼が見たものとは。

この作品は、何といってもオーストラリアの遺跡探索時の描写と、徐々によみがえっていく主人公の記憶が交錯するシーンが一番の見所です。「恐ろしいエピソードが語られるのだが、一番恐ろしいのはそれ自体ではなくまた別のもの」という、ラヴクラフト得意の手法が用いられる作品でもあります。

物凄い時間スケールで交差するエピソードが、終盤にかたっぱしから回収されていく、その構成の巧みさはSFファンの審美眼にも耐えるものだと思います。ただ、やはり描写が細かくて読みにくい部分は若干あり。


「ダニッチの怪」(ラヴクラフト全集5巻に収録)

マサチューセッツ州のとある頽廃的な村、「ダニッチ(ダンウィッチ)」で起きた怪事件と、その事件にまつわるウィルバー・ウェイトリーについての物語。

上記の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」と並んで、ラヴクラフト宇宙観の中心に位置づけられる作品の一つです。これは言ってしまっていいと思うのですが、クトゥルフ神話の中でも中心的な存在として描かれる、「ヨグ=ソトース」の存在が明らかになる作品でもあります。

「ダニッチの怪」や後のランドルフ・カーターものの作品を読んでいると、ラヴクラフトは、クトゥルフよりもむしろヨグ=ソトースを「邪神」的な存在として描いていた、ような節があります。ダーレスは更にそれを発展させて、「クトゥルフ神話」に組み込んだようです。

「ダニッチの怪」についていえば、中盤までウェイトリー家の異様さが語られた後、ヘンリー・アーミテッジ博士が登場してからが物語のクライマックス。アーミテッジ博士を含めた三博士による、ダニッチの捜索と怪異との対峙は必見です。



○読解にかなりの努力が必要だが、クトゥルフもののルーツを追うには抑えておきたいラヴクラフト作品

「狂気の山脈にて」(ラヴクラフト全集4巻に収録)

ラヴクラフト作品の中でも、一、二を争う長さの大長編にして、クトゥルフ神話の直接的なルーツといっても過言ではない重要な作品です。

岩石調査の為に南極を訪れた主人公一行は、二手に分かれた調査中に、高度に進化した生物の痕跡を発見する。世紀の大発見だと興奮する一行だったが、やがて生物の調査を行っていた隊との連絡が途切れてしまう。彼らの捜索に向かった主人公の見たものとは。

南極探検ものとしても成立しそうな程、探検についての描写が詳細で、スケールが大きい作品です。主人公が「狂気山脈」を探索するくだりについては、次に何が見つかるのか?そこに何があるのか?というのを想像して、冒険ものと同質のスリルを味わうことが出来ます。

そんな中、ラヴクラフト宇宙観に基づく存在が明らかにされる、物語終盤の展開は、ラヴクラフト作品屈指の完成度といっても良いと思います。

ただ、とにかく内容が細かく、かつ長い。描写が緻密なだけに、読み通すにはそれなりの時間と根性が必要です。ただ、読み通した時の充実感と面白さは保証しますので、気が向いた方は是非ご一読を。

個人的には南極洞窟の中の巨大ペンギンがお気に入りです。



○sanチェックをしたい初心者にお勧めなラヴクラフト作品

「未知なるカダスを夢に求めて」(ラヴクラフト全集6巻に収録)

ラヴクラフト全集6巻は危険です。上に書いたような作品を一通り読み終わって、更にラヴクラフト世界を味わってみたいと思った人が、最後にたどり着くべき地点です。

いわゆる「ランドルフ・カーターもの」といわれる作品が複数おさまっており、その集大成ともいえるカーターの冒険作品が、この「未知なるカダスを夢に求めて」です。夢の国における危険に次ぐ危険、それらと時には対峙し、時には回避するカーターの大冒険は読み応え満載です。

ただ、大長編なのに章立てが全くなく全部が一続きになっているとか、一人の人物の台詞が数ページにわたって続くとか、その構成は相当エキセントリックになっており、読者に若干のsanチェックを求めます。

「ラヴクラフト宇宙観」にどっぷり漬かった人であれば、「あー!ここでアレが出てきた!」「あー!今度はコレが出てきた!」とキャラクターものめいた楽しみ方をすることも可能ですが、まだ漬かりが浅い人には (;゚д゚) な顔になる可能性が否定できません。心してご一読をお勧めします。「凍てつく荒野のレン」とか「這いよる混沌」といった言葉に親和性の高い方は是非。


あと書けてない作品も相当数ありますが、上記が気に入った人たちは、

・インスマスの影
・チャールズ・ウォードの奇怪な事件
・無名都市
・ダゴン

辺り読んでみるといいと思います!!


ということで、大概長くなりました。

結論として、

ラヴクラフトは初心者向けとはとてもいえないけれど覚悟して読めば超面白いよ!

という一言を結句としたいと思います。

今日書きたいことはそれくらい。





posted by しんざき at 19:42 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月17日

いつからアンパンマンごときにバイキンマンが殺せると錯覚していた?


バイキンマンの本体がその名の通りばい菌、つまり雑菌であるとすれば、アンパンチやアンキック、アンチョップなどの物理攻撃が通用するような相手ではない。微生物をいくらぶったたいても殺し尽くすことは出来ない。むしろ、普段アンパンチで吹っ飛ばされて「ばいばいきーーん!」とか言っているバイキンマンの方が、アンパンマンに気をつかってやられてあげているのだと判断出来る。

雑菌を殺す方法は勿論数多あるが、その種別は物理的方法と化学的な方法に大別出来る。

【物理的方法】
・高温処理/焼却
・紫外線殺菌
・パルス光殺菌
・高圧殺菌/真空殺菌(真空パックなど)
・超音波殺菌
など

【化学的方法】
・ガス滅菌
・酸化剤、エタノール、抗菌薬などによる薬物殺菌
・酸/アルカリ殺菌
など

たとえばパン工場の面々にペニシリンマンやクレゾールマンがいたとしたら、彼らにはバイキンマンを殺せる可能性があるが、当然そんな人材はいないのであって、せいぜいカレーパンマンに含まれているであろうスパイスの抗菌作用に期待するのが関の山だ。食料品畑のアンパンマンやメロンパンナちゃん、食パンマンでは菌の苗床になって終わりである。(実際に、彼らは何度もカビルンルンの跋扈を許している)

舐めプをしているのはアンパンマンたちではない。バイキンマンの方なのだ。

ジャムおじさんの勢力で唯一バイキンマンを殺せる可能性があるとしたら、それはパン工場の窯による高温処理に他ならない。

最終兵器、窯。敵のラスボスに唯一対抗できるのは、パン工場のボスであるジャムおじさんその人であった!!!!そう考えると、アンパンマンのラストシーンがバイキンマンを道連れに親指立てながらパン窯に沈んでいくジャムおじさんの姿になることは全く想像に難くなく、考えるだけで目から流れ落ちる涙を止めることが出来ない。

こう考えると、アンパンマン陣営の首領にこそバイキンマンを殺せる可能性を託した、やなせ先生の深慮遠望には感嘆せざるを得ない。これに感動するのは一人私のみであろうか。


全然関係ないのだが、うちにあるアンパンマンの絵本で、「おやつの前に手を石鹸で洗わなかったバイキンマンを皆で非難して、バイキンマンだけお腹を壊す」という筋書きのものがあるんだけど、多分バイキンマン石鹸で手を洗ったりしたら死ぬし、あれ極めて悪質ないじめだと思う。


一言で言いたいことをまとめると、

パン工場陣営は、バイキンマンと本気で戦う気があるならクレゾールマンや次亜塩素酸ナトリウムマンを招聘しろ

という一言だけであって、他にいいたいことは特にない、ということを最後に申し添えておく。


今日書きたいことはそれくらい。












posted by しんざき at 09:19 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月12日

岩明均先生の「雪の峠、剣の舞」は想像を絶する程面白いので皆さんに全力でおススメしようとおもいます。



歴史ものの創作で何よりも難しいのは「何でもない出来事を面白く書く」ことではないかなあ、とおもうのです。


歴史上重要な出来事であれば、それを面白く描き出すことはそこまで困難なことではないかも知れません。重要なイベントには、重要な出演キャラクターが複数関わっているものです。キャラクターが大物ばかりであって、主要キャラクターたちには大小無数のエピソードと数々の脇役たちが関わっているのですから、そこから「面白そうなこと」を抽出することは難しくない。勿論、それをどう描写するかは創作者の腕の見せ所なわけですが。


それに対して、「歴史上地味な出来事を面白く描き出す」というのは困難を極めます。地味というのは、大勢から注目される程のエピソードが発生しなかったということでもあり、つまり「エピソードの面白さ」だけで勝負することが出来ない。どんなエピソードが実際には存在したのか?ということを細かく検証し、足りないところを想像で補い、全体を矛盾なく構成し、更にそれを詳しくない読者にも面白く感じられるように描写しなくてはならない。

この過程が、まるで強風の中針の穴に糸を通すような困難事であることは、皆さんご想像いただけるとおもいます。


ところで、「寄生獣」や「ヒストリエ」「七夕の国」などで著名な岩明均先生は、それをある短編漫画でごく自然に、ごくあっさりとやってのけています。


「雪の峠・剣の舞」。単行本は2001年刊行、2004年に文庫化。「雪の峠」と「剣の舞」の、二編の歴史漫画を納めた、一巻完結の中編集です。しんざきが今まで読んだ一巻完結の漫画の中で、面白さと完成度のバランスについてはぶっちぎりトップではないか、とおもっている一冊でもあります。



「剣の舞」もひっじょーーーに面白いです。主要キャラクターが疋田文五郎(景兼)と上泉信綱、といえばわかる人にはそれだけでわかるでしょうが、フィクションを取り混ぜつつもカタルシスと切なさをバランスよく盛り込むその手腕は、勿論それだけで岩明先生の物凄さがわかる作品ではあります。


ですが、このエントリーでは、特に「雪の峠」についてのお話を中心に書かせて頂こうとおもいます。


・地味なエピソードと、すさまじいまでの「お話」のまとまり具合。


「雪の峠」のテーマというか、お話の中核は「佐竹家の築城」です。合戦でもなければ、群雄割拠の群像劇でもありません。


皆さんよくご存知の通り、佐竹家は元々常陸(現在の茨城県)を拠点としていた戦国時代の大名であって、関が原で中立、ないしやや西軍寄りの立ち位置をとった結果、紆余曲折の末出羽国(現在の秋田県)に転封されました。

佐竹氏は、「鬼義重」と言われた義重が当時既に当主から退いており、佐竹義宣が後を継いでいました。関が原の戦いでは東軍西軍いずれにつくか、親子間で意見の対立があったとも言われていますが、作中では最終的には西軍寄りの立ち位置を保った形になっており、その結果としての改易に家内でも不満の声が上がっている状態でした。

そんな中、出羽国における佐竹家の居城の場所を定めたいという評議が義宣より持ち上がり、それをきっかけに佐竹家の旧臣と、新勢力となる義宣の部下の間で対立が持ち上がることになります。


城を、どこにするか。


多くの「歴史もの」の創作、しかもテーマを絞った短編としては、かなり地味な部類のテーマであることはお分かり頂けるかと思います。無論徳川家も関わってはきますが、主要な登場人物の9割は佐竹家内部の人々に限られます。話のスコープは極めて限定されているわけです。


地味なテーマ。歴史上そこまで(一般的には)著名でもないエピソード。なら、お話も地味なのか?

というと、それがもうものすっげえ面白いのです。


まず、上で書いた「新当主である義宣とその腹心たち」と「義重時代から家中をしきってきた旧臣たち」それぞれのキャラクターと関わり具合がひっじょーーに面白い。リアリティがあり、どこか無機質でありながら、それぞれ非常に人間くさい、この絶妙な味わいを出せるのは正しく岩明先生ただ一人ではないか、と私はおもいます。


主役格となるのが佐竹家の新当主、佐竹義宣とその腹心、「渋江内膳」。渋江内膳は、渋江政光の通称であって、出羽久保田藩の家老となって藩政の改革を行った、実在の人物です。


こちらが佐竹義宣で、

義宣.png

こちらが渋江内膳。

内膳.png

渋江内膳は勿論優秀な人物であって、作中でも経済の勘所をよくわきまえた能吏として描写されてはいるのですが、一見するとそこまで「切れる」人物には見えない描き方がされています。のんびりした所作で、一面「七夕の国」の主人公南丸洋二のようなおっとりとした雰囲気があります。

新たに家中をまとめる秩序を作ろうと、佐竹義宣と渋江内膳を中心とした何人かのグループは、経済的な側面を重視した新たな府を、出羽は窪田に築こうとします。


一方、いわゆる「武断派で、頭の堅い旧臣」の代表格として描かれているのが、川井伊勢守。

伊勢.png

川井伊勢守以外にも、旧臣派閥として描写されるキャラクターは何人かいます。彼らは、関が原の戦いにおいても東軍につくことを主張した人たち。当然、義宣が決めた西軍寄りの態度、およびそれに端を発する改易には不満を持っています。また、長年の戦国時代の考えが抜けず、経済的な考え方はよくわからない。更に、渋江内膳を始めとした新参者が、自分たちより中核に近い位置で藩政に関わっているのがとてもとても気にいらない。


そして、客分家臣という立ち位置故か、川井たちとは若干距離を置いているようにも見えますが、義宣・内膳のグループには対立することになる梶原美濃守。

梶原.png


かつて足利義氏に仕えていた関係で、作中の時代では既に故人となっている上杉謙信とも面識があるという設定になっています。上杉謙信のエピソードをしょっちゅう旧臣たちにねだられて、ちょっと辟易しているのが上の画像。めっちゃイケメンおじいちゃんです。

彼は築城や軍略に明るく、川井ら旧臣たちに担がれて、渋江内膳の提案に対する反対案を提出し、内膳や義宣に対する旧臣たちの発言力を確保しようとすることになります。

お話は、主にこの梶原美濃守と、渋江内膳の知恵比べを中心として進むことになります。


この対立関係のリアリティがすごい。


新当主としての地位を固めたい義宣。

義宣を助けつつも、家中になるべく波風を立てたくない内膳。

喧嘩する気満々の川井ら旧臣。

川井らに若干呆れつつも、本気を出して内膳案を潰そうとする梶原美濃守。


その他、一見旧臣の味方をするように見せかけつつも、内心では義宣に助け舟を出そうとする前当主・義重(史実では「鬼」と呼ばれた猛将だったらしいですが、この作品中では優しいおじいちゃんという感じです)や、内膳の応援をしてくれる筆頭家老の和田安房守を含めて、おのおのの感情の動き、行動の仕方が実に味があり、まるで現在の会社組織における人間関係を見ているかのように細やかなのです。


この短編、徹頭徹尾「関が原後」の時代小説でありながら、会議あり書類作成あり飲みニケーションありと、随所随所で現代のサラリーマン生活を思い出させるようなところもあります。新進気鋭のサラリーマン、渋江内膳に明日はあるのか!?


老練な梶原美濃守に追い詰められ、知恵を絞る渋江内膳。彼が打つ秘策とは。


この辺の知恵比べの妙味、また最後にもってくる爽やかなカタルシスには、そんじょそこらの時代漫画では味わえないくらいの清清しさがあります。実話を下敷きにしつつも、きっちり漫画的なカタルシスを読者に提供しつつ漫画的に閉める岩明先生のテクニックは、ほんとーに物凄いと私はおもうわけです。


ちなみに、上の方で「サラリーマン的」と書きましたが、この作品、最後の解決法まである種現実の会社組織で使えそうな「組織論」的な解決法になっています。「そうだよなー。そりゃこの人にそういわれちゃどうしようもないよなー」というような、問答無用の説得力があります。

興味をもたれた方は、是非ご一読を。



・一方、「剣の舞」についても少し。

こちらはこちらで、「雪の峠」よりはだいぶヒロイックな感じですが、疋田文五郎という強力なキャラクターを中心に、見事にまとまったお話になっています。

実在の剣豪をそのまま描くのではなく、まったくの架空キャラクター「ハルナ」を主役に据えている辺りが岩明先生一流のテクニック。実話に即したリアリティという点では「雪の峠」に譲るかも知れませんが、重たさと気楽さ、そしてどこか寂漠とした悲壮感が絶妙にブレンドされている辺り、こちらも十二分に「歴史漫画」としての名作に数えるべき完成度になっているとおもいます。

取りあえずハルナはかわいいとおもいますので、雪の峠に興味を持った方はこちらも是非。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 23:50 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月11日

既婚ブロガーは配偶者にブログを開示しておいた方が絶対いいと思います


ひと昔前なら話は別かも知れないですが、今の時代には、近しい身内(特に配偶者)にはブログを開示しておいた方がメリットが大きい、と思うわけです。

私が思う、「配偶者にブログを開示する」ことのメリットは下のような感じです。


1.自分と対等の立場の人として、客観的な視点や助言を提示してもらえる
2.炎上しそうな記事の防波堤になってくれる
3.奥様に読ませられないような記事はそもそもネットに公開するべきではない
4.相互理解の一助、コミュニケーションの素材にもなる
5.ブログ関連で仕事やオフ会などがあった時の話が早い


順番にいきます。


1.自分と対等の立場の人として、客観的な視点や助言を提示してもらえる

以前も何度か書いていますが、「自分の文章を客観的な視点で読む」というのは、プロの作家さんにとってすらひっじょーーーに難しいことです。普通の人にとっては殆ど不可能事であると言って間違いありません。

むかーし、こんなことを書きました。

「自分が読む自分の文章」と、「他人が読む自分の文章」は完全な別物である。
自分が自分で読む程には、自分の文章は面白くないのだ。

面白い、面白くないだけの話ではなく、自分の考えに明確な誤りがあったり、事実誤認がはっきり紛れ込んでいる時ですら、自分ひとりでは気づきにくいのです。プロであれば、編集者さんが仕事としてその辺のチェックを行ってくれるんですが、素人ではなかなかそういう訳にもいかないです。

そんな時、「自分ではない人」が、事前に自分の文章を読んでくれるというのは、非常に非常に大きなことです。

しんざきは、子育てについての文章とか、ちょっと入り組んだ雑文を書く時には、しばしばしんざき奥様に「ねえねえ、時間ある時にちょっとこれ読んでみてくれない?」と聞きます。ありがたいことに、しんざき奥様はブログを書くことに理解をもってくれていますし、不倒城に興味をもってくれてもいます(多分)ので、大抵記事を読んでくれますし、色々と気づいた部分を教えてくれます。そして、そういう「気づいた部分」は、大体の場合私が「気づけなかった」部分でもあります。


ただしレトロゲーム記事だけはほぼ一顧だにしてくれません。レトロゲームブログなのに。なんということでしょう。

あと、しんざき奥様はスポーツにほぼなんの興味もないので、スポーツ系のネタを書いた時にも多分読んでくれないと思います。あんまり書かないですが。



2.炎上しそうな記事の防波堤になってくれる
3.奥様に読ませられないような記事はそもそもネットに公開するべきではない

この二つは関連しています。

今の時代、ブログでひどい内容を書いてしまって、それを責める反応が大量にやってきて大炎上してブログ閉鎖、というケースは枚挙に暇がありません。
炎上狙いでPV稼ぎだー、というアレな人についてはまあどうでもいいですが、一般的な感覚の人にとっては、「ついうっかり変なことを書いて炎上」という事態は防ぎたいところでしょう。

特にアクセスが欲しいブロガーは、ついつい記事の内容を先鋭化させてしまい勝ちです。それに伴って、一般的な感覚でのファールラインをつい忘れてしまうこともあるかもしれません。

そういう意味で、ブログ炎上を事前に防ぐ、ないし「こんなこと書いていいの?」と一般的な視点で一言聞いてくれる他人の存在というものは、とても大きいのではないかと私は思うのです。


また、内容としても、一番身近な身内に読ませることをためらうような内容は、そもそもたくさんの他人に開示していいような内容ではない、ことが多いと思われます。まあ、人によっては「身近だからこそ開示したくない」話というのもあるのかもしれませんが、どっちにしても夫婦間で隠しごとになるようなことを、不特定多数の他人に大声で発表するのはちょっとどうなのかと思います。

配偶者の存在が安全ブレーキになる、という側面も、おそらくあるのではないかと。

しんざきはしんざき奥様の倫理感やバランス感覚を非常に信頼していますので、万一変な記事を書きそうになったら止めてくれるんじゃないかと思います。まあ、そもそも炎上するような記事を不倒城で書いた記憶がありませんが。

なお、しんざきは割とオープンな性格でして、このブログに書いてあるようなしょーもないことは普段の生活でもくっちゃべっていますので、特に隠すメリットはありません。



4.相互理解の一助、コミュニケーションの素材にもなる

以前も書きましたが、結婚生活に限らず、身近な人とうまく過ごす為の必須要件は「関心量の調節」だと思います。

手前味噌ですが、ちょっと引用してみます。


お互いへの関心のバランスが悪いと、コミュニケーションのバランスが崩れる。一方は反応欲求を満たすことが出来ず、一方は発信欲求を満たすことが出来ず、不満はどんどん蓄積されていく。

相手が関心をもっていることへの関心が薄いと、無理解のペースが速まる。相手が何を楽しんでいるか分からないから、楽しい時間を共有出来ない。相手が何に苦労をしているかが分からないから、相手のペース配分に納得することも出来ないし、相手の疲れに共感することも出来ない。仕事にかまけている旦那の家庭が上手くいかないのは、その多くが「関心の配分」の調整ミスに由来している。

勿論普段の会話もそうなんですが、「自分がなんについて、どんな関心を持っているか」ということを伝えるために、ブログというツールはまさにうってつけです。なにせ、「自分が興味をもっているものについて書く」のがブログなのですから、これ以上のツールはありません。


自分が興味をもっていること、それについて語っていることを開示する。それについて会話する、対話する。そういったことが、日常生活においてコミュニケーションを深める、重要な一助になることは間違いありません。


5.ブログ関連で仕事やオフ会などがあった時の話が早い


話が早い気がするんですが、しんざきについていえばブログ関連で仕事をすることもオフ会に出ることも滅多にないのであまりメリットではありません。誰かお声がけください。



というような感じで、奥様や旦那様にブログを共有することは、非常にメリットだらけだと思うのです。

「客観的に読んでくれる、対等の立場の人がいる」というだけでも大きなアドバンテージだと思いますので、既婚ブロガーで配偶者にブログを内緒にしている方は、是非ご検討を。


ちなみにしんざきは、時にはかなりアホな内容の記事(こういうのとか)も書いており、それもしんざき奥様の目には留まっていると思うのですが、そっとスルーしてくれています。奥様優しい。


今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月10日

「科学に誠実な人の話はなぜ届きにくいのか」という話、あるいはなるべく分かりやすく「科学」について書く


特に疑似科学界隈でよく問題になるのですが、「科学に誠実な人のいうことはわかりにくく、科学に不誠実な人のいうことはわかりやすい」という厄介な特性があります。


分かりやすいことは、聞き入れられやすいことでもあります。分かりにくいことは、たとえ妥当であってもなかなか耳を傾けられないことでもあります。つまり、「妥当な内容の方がみんなに聞き入れられにくく、妥当でない内容の方がみんなに聞き入れられやすい」という、ひじょーーに厄介なジレンマが発生してしまいます。


何故かというと、「科学的に誠実な人程、「そんなものにはなんの効果もない」「それは頭っから間違っている、でたらめである」という分かりやすい断定をしにくい」という問題がある為です。

以下、その辺の話をしてみたいと思います。



@.科学って何?というお話

そもそも科学ってなんなの、という話から始めます。

一般の人は「科学」と聞くといわゆる「科学者」だとか「実験」だとか、理系っぽいものを思い浮かべるかもしれませんが、実際には人文科学や社会科学といったフィールドもあり、理系から文系まで、「科学」という言葉は非常に広い範囲を射程に収めています。ただ、ここでは主に「自然科学(物理学とか化学といった、いわゆる理系学問)」についての話が中心になります。


科学というのは、要するに手法、方法のことです。Civ4でいうところの科学的手法という奴です。また、科学的手法に則って集められた系統だった知識、それ自体のことでもあります。

ざっくり書くと


1.仮説を立て、
2.誰にでも明らかな根拠(再現可能な実験や観察)を元に、
3.その仮説について適切な方法で考察・推論・検証を行い、
4.根拠(エビデンス)に則ったことが明確な結論を出す。


このプロセスをきちんと回して得られた結論こそ、「科学的に正しい」と言える、という話なわけです(実際には確率的な部分や統計的な部分もあったり色々面倒くさいですが、話がややこしくなるので一旦おいておきます)。

一番重要なところは、


2.誰にでも明らかな根拠(再現可能な実験や観察)を元にしなくてはいけない


という点であって。どんな分野でも、「誰にでも明らかな根拠」を欠いた知識や結論は、科学的に正しいものとはみなされません。

たまに勘違いしている人がいるようなんですが、科学の根幹は飽くまで上記の「フロー、手続き」ですので、それによって得られた知識を絶対の真実と考えたりはしませんし、そこに含まれていないものを「間違い」と言ったりもしません。ある「科学的な正しさ」が後から同じく科学的な手続きによって否定されることは実によくあることですし、まだ「科学的に正しい」と認められていないことでも、それが後から「科学的に正しい」と認められる可能性も否定しません。

ただ、「それは現時点で科学的に検証されている」「それは現時点では科学的に検証されていない」というだけです。


A.じゃあ「科学的に正しいもの」って何?というお話


「科学的に正しいもの」とみなされる為の労力というのはそんなに軽いものではなく、ただ「実験をして結果が出ました」だけではなんの意味もありません。その内容は、きちんと論文にして、いろんな人に査読(論文のチェックや追試)をしてもらって、といった幾つものステップを踏まないと認められないのです。


例えば、だれか一人が「こんな実験やった!こんな結果が出た!」と言っていたとしても、エビデンス(証拠)が明確でなかったり、他の人達が追いかけでその実験をやって再現できなかったとしたら、それは「科学的に正しいもの」とはみなされません。

例えば、何人かの人が「これは体にいい気がする!」と言っていたとしても、きちんとした実験が行われていなかったり、査読された論文が残ったりしていなければ、それは「科学的に正しいもの」とはみなされません。



要するに、「みんながちゃんと試して、検証して、「これは正しい!」って言えるものだけ「正しい」と信じようね」というスタンスが科学の根底であって、そこを外れたものは(その時点では)信用に値しない、というのが科学なのです。


一人の知恵や経験は間違うこともあるけれど、みんなの分析や考察があるなら信用出来る。当たり前のことですよね。

自然科学で言えば実験と検証。人文科学で言えば文献や統計だったりしますが、その辺の話は科学一般すべて共通している筈です。



科学に誠実な人であればある程、「それは正しい」「それは間違っている」という言い切りを行うことに慎重です。なぜかというと、上記の1〜4までが科学の根底となる手続きである以上、


実験が行われて論文になっていないものはそもそも科学とは言えないし、

「正しい」「間違っている」どちらにしても、きちんと実験・検証しないと妥当だということは出来ないし、正しい可能性も、間違っている可能性も否定できないから。


なので、「それは現時点では科学的に検証されたことではない」という言い方しかできない場合が非常に多い、ということなんですね。

「正しい」というのと同じように、「間違っている」ということにもコストがかかります。反証するのも大変ですし、後から反証が覆る可能性だってないとは言えない。だから、「間違っている!」「でたらめだ!」という言葉は発しにくいのです。

それでも、そういったコストを敢えて背負って、妥当でないことに「妥当でない」ときちんという人は、大変尊敬に値すると私は思います。


B.不誠実なのに分かりやすい、という話


科学に不誠実な人は、上記のようなことを気にしません。

何の実験も行われていないのに、数人の「効いた気がする!」という話を元に「体にいい○○食品!!」と謳ってしまったり。

身内の回し読みだけで、信頼出来る査読を経ていないてきとー論文を元に「万能の××菌」などと謳ってしまったり。

場合によっては、本来そういう意味ではない論文の意味を曲解して、「△△が体にいい!!」などと謳ってしまったり。


何が厄介かって、そういう言い切り、断言は何より「分かりやすい」んですね。実験がどうとか査読論文がどうとか、しちめんどーくさい留保がついていない。「体にいい!」「なぜなら○○が××だから!(根拠なし)」おおそうなのか、いいじゃないか、と。


そして、それに反対する人のいうことはなんだかわかりにくい。実験?論文?査読?なんのこと?論文ならあるって言ってるじゃないの、中身まで知らないよ、と。


分かりやすいことは、受け入れられやすいことでもある。わかりにくいことは、受け入れられにくいことでもある。

それ自体は仕方ないことかも知れません。


ただ、我々が覚えておかないといけないことは、

「分かりやすいからと言ってそれが妥当だとは限らない」

ということであり、何かを信用するのであれば、昔からのきちんとした方法論に則ったものを信用した方がいいんじゃないの、ということだと思うんです。

疑似科学という、「分かりやすさ」を盾にいい加減なものでお金儲けをする人たちに騙されない方が、社会がもうちょっと素敵になるんじゃないかと、私は思うのです。



まとめておきます。


・科学というのは別に難しい話ではなく、ざっくりいうと「誰にでも検証可能な根拠に則って話しましょうね」ということです
・いわゆる疑似科学には、その「誰にでも検証可能な根拠」がくっついていない、ないしひじょーにいい加減です
・けど、面倒な留保がついていない分わかりやすいんですよね
・「分かりやすい」からといって頭から信用せず、「それは科学的なものなのか?」ということは、常に気にするべきだと思います


大体上記4点くらいが私の言いたいことになります。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 09:48 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする