2016年05月17日

いつからアンパンマンごときにバイキンマンが殺せると錯覚していた?


バイキンマンの本体がその名の通りばい菌、つまり雑菌であるとすれば、アンパンチやアンキック、アンチョップなどの物理攻撃が通用するような相手ではない。微生物をいくらぶったたいても殺し尽くすことは出来ない。むしろ、普段アンパンチで吹っ飛ばされて「ばいばいきーーん!」とか言っているバイキンマンの方が、アンパンマンに気をつかってやられてあげているのだと判断出来る。

雑菌を殺す方法は勿論数多あるが、その種別は物理的方法と化学的な方法に大別出来る。

【物理的方法】
・高温処理/焼却
・紫外線殺菌
・パルス光殺菌
・高圧殺菌/真空殺菌(真空パックなど)
・超音波殺菌
など

【化学的方法】
・ガス滅菌
・酸化剤、エタノール、抗菌薬などによる薬物殺菌
・酸/アルカリ殺菌
など

たとえばパン工場の面々にペニシリンマンやクレゾールマンがいたとしたら、彼らにはバイキンマンを殺せる可能性があるが、当然そんな人材はいないのであって、せいぜいカレーパンマンに含まれているであろうスパイスの抗菌作用に期待するのが関の山だ。食料品畑のアンパンマンやメロンパンナちゃん、食パンマンでは菌の苗床になって終わりである。(実際に、彼らは何度もカビルンルンの跋扈を許している)

舐めプをしているのはアンパンマンたちではない。バイキンマンの方なのだ。

ジャムおじさんの勢力で唯一バイキンマンを殺せる可能性があるとしたら、それはパン工場の窯による高温処理に他ならない。

最終兵器、窯。敵のラスボスに唯一対抗できるのは、パン工場のボスであるジャムおじさんその人であった!!!!そう考えると、アンパンマンのラストシーンがバイキンマンを道連れに親指立てながらパン窯に沈んでいくジャムおじさんの姿になることは全く想像に難くなく、考えるだけで目から流れ落ちる涙を止めることが出来ない。

こう考えると、アンパンマン陣営の首領にこそバイキンマンを殺せる可能性を託した、やなせ先生の深慮遠望には感嘆せざるを得ない。これに感動するのは一人私のみであろうか。


全然関係ないのだが、うちにあるアンパンマンの絵本で、「おやつの前に手を石鹸で洗わなかったバイキンマンを皆で非難して、バイキンマンだけお腹を壊す」という筋書きのものがあるんだけど、多分バイキンマン石鹸で手を洗ったりしたら死ぬし、あれ極めて悪質ないじめだと思う。


一言で言いたいことをまとめると、

パン工場陣営は、バイキンマンと本気で戦う気があるならクレゾールマンや次亜塩素酸ナトリウムマンを招聘しろ

という一言だけであって、他にいいたいことは特にない、ということを最後に申し添えておく。


今日書きたいことはそれくらい。












posted by しんざき at 09:19 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月12日

岩明均先生の「雪の峠、剣の舞」は想像を絶する程面白いので皆さんに全力でおススメしようとおもいます。



歴史ものの創作で何よりも難しいのは「何でもない出来事を面白く書く」ことではないかなあ、とおもうのです。


歴史上重要な出来事であれば、それを面白く描き出すことはそこまで困難なことではないかも知れません。重要なイベントには、重要な出演キャラクターが複数関わっているものです。キャラクターが大物ばかりであって、主要キャラクターたちには大小無数のエピソードと数々の脇役たちが関わっているのですから、そこから「面白そうなこと」を抽出することは難しくない。勿論、それをどう描写するかは創作者の腕の見せ所なわけですが。


それに対して、「歴史上地味な出来事を面白く描き出す」というのは困難を極めます。地味というのは、大勢から注目される程のエピソードが発生しなかったということでもあり、つまり「エピソードの面白さ」だけで勝負することが出来ない。どんなエピソードが実際には存在したのか?ということを細かく検証し、足りないところを想像で補い、全体を矛盾なく構成し、更にそれを詳しくない読者にも面白く感じられるように描写しなくてはならない。

この過程が、まるで強風の中針の穴に糸を通すような困難事であることは、皆さんご想像いただけるとおもいます。


ところで、「寄生獣」や「ヒストリエ」「七夕の国」などで著名な岩明均先生は、それをある短編漫画でごく自然に、ごくあっさりとやってのけています。


「雪の峠・剣の舞」。単行本は2001年刊行、2004年に文庫化。「雪の峠」と「剣の舞」の、二編の歴史漫画を納めた、一巻完結の中編集です。しんざきが今まで読んだ一巻完結の漫画の中で、面白さと完成度のバランスについてはぶっちぎりトップではないか、とおもっている一冊でもあります。



「剣の舞」もひっじょーーーに面白いです。主要キャラクターが疋田文五郎(景兼)と上泉信綱、といえばわかる人にはそれだけでわかるでしょうが、フィクションを取り混ぜつつもカタルシスと切なさをバランスよく盛り込むその手腕は、勿論それだけで岩明先生の物凄さがわかる作品ではあります。


ですが、このエントリーでは、特に「雪の峠」についてのお話を中心に書かせて頂こうとおもいます。


・地味なエピソードと、すさまじいまでの「お話」のまとまり具合。


「雪の峠」のテーマというか、お話の中核は「佐竹家の築城」です。合戦でもなければ、群雄割拠の群像劇でもありません。


皆さんよくご存知の通り、佐竹家は元々常陸(現在の茨城県)を拠点としていた戦国時代の大名であって、関が原で中立、ないしやや西軍寄りの立ち位置をとった結果、紆余曲折の末出羽国(現在の秋田県)に転封されました。

佐竹氏は、「鬼義重」と言われた義重が当時既に当主から退いており、佐竹義宣が後を継いでいました。関が原の戦いでは東軍西軍いずれにつくか、親子間で意見の対立があったとも言われていますが、作中では最終的には西軍寄りの立ち位置を保った形になっており、その結果としての改易に家内でも不満の声が上がっている状態でした。

そんな中、出羽国における佐竹家の居城の場所を定めたいという評議が義宣より持ち上がり、それをきっかけに佐竹家の旧臣と、新勢力となる義宣の部下の間で対立が持ち上がることになります。


城を、どこにするか。


多くの「歴史もの」の創作、しかもテーマを絞った短編としては、かなり地味な部類のテーマであることはお分かり頂けるかと思います。無論徳川家も関わってはきますが、主要な登場人物の9割は佐竹家内部の人々に限られます。話のスコープは極めて限定されているわけです。


地味なテーマ。歴史上そこまで(一般的には)著名でもないエピソード。なら、お話も地味なのか?

というと、それがもうものすっげえ面白いのです。


まず、上で書いた「新当主である義宣とその腹心たち」と「義重時代から家中をしきってきた旧臣たち」それぞれのキャラクターと関わり具合がひっじょーーに面白い。リアリティがあり、どこか無機質でありながら、それぞれ非常に人間くさい、この絶妙な味わいを出せるのは正しく岩明先生ただ一人ではないか、と私はおもいます。


主役格となるのが佐竹家の新当主、佐竹義宣とその腹心、「渋江内膳」。渋江内膳は、渋江政光の通称であって、出羽久保田藩の家老となって藩政の改革を行った、実在の人物です。


こちらが佐竹義宣で、

義宣.png

こちらが渋江内膳。

内膳.png

渋江内膳は勿論優秀な人物であって、作中でも経済の勘所をよくわきまえた能吏として描写されてはいるのですが、一見するとそこまで「切れる」人物には見えない描き方がされています。のんびりした所作で、一面「七夕の国」の主人公南丸洋二のようなおっとりとした雰囲気があります。

新たに家中をまとめる秩序を作ろうと、佐竹義宣と渋江内膳を中心とした何人かのグループは、経済的な側面を重視した新たな府を、出羽は窪田に築こうとします。


一方、いわゆる「武断派で、頭の堅い旧臣」の代表格として描かれているのが、川井伊勢守。

伊勢.png

川井伊勢守以外にも、旧臣派閥として描写されるキャラクターは何人かいます。彼らは、関が原の戦いにおいても東軍につくことを主張した人たち。当然、義宣が決めた西軍寄りの態度、およびそれに端を発する改易には不満を持っています。また、長年の戦国時代の考えが抜けず、経済的な考え方はよくわからない。更に、渋江内膳を始めとした新参者が、自分たちより中核に近い位置で藩政に関わっているのがとてもとても気にいらない。


そして、客分家臣という立ち位置故か、川井たちとは若干距離を置いているようにも見えますが、義宣・内膳のグループには対立することになる梶原美濃守。

梶原.png


かつて足利義氏に仕えていた関係で、作中の時代では既に故人となっている上杉謙信とも面識があるという設定になっています。上杉謙信のエピソードをしょっちゅう旧臣たちにねだられて、ちょっと辟易しているのが上の画像。めっちゃイケメンおじいちゃんです。

彼は築城や軍略に明るく、川井ら旧臣たちに担がれて、渋江内膳の提案に対する反対案を提出し、内膳や義宣に対する旧臣たちの発言力を確保しようとすることになります。

お話は、主にこの梶原美濃守と、渋江内膳の知恵比べを中心として進むことになります。


この対立関係のリアリティがすごい。


新当主としての地位を固めたい義宣。

義宣を助けつつも、家中になるべく波風を立てたくない内膳。

喧嘩する気満々の川井ら旧臣。

川井らに若干呆れつつも、本気を出して内膳案を潰そうとする梶原美濃守。


その他、一見旧臣の味方をするように見せかけつつも、内心では義宣に助け舟を出そうとする前当主・義重(史実では「鬼」と呼ばれた猛将だったらしいですが、この作品中では優しいおじいちゃんという感じです)や、内膳の応援をしてくれる筆頭家老の和田安房守を含めて、おのおのの感情の動き、行動の仕方が実に味があり、まるで現在の会社組織における人間関係を見ているかのように細やかなのです。


この短編、徹頭徹尾「関が原後」の時代小説でありながら、会議あり書類作成あり飲みニケーションありと、随所随所で現代のサラリーマン生活を思い出させるようなところもあります。新進気鋭のサラリーマン、渋江内膳に明日はあるのか!?


老練な梶原美濃守に追い詰められ、知恵を絞る渋江内膳。彼が打つ秘策とは。


この辺の知恵比べの妙味、また最後にもってくる爽やかなカタルシスには、そんじょそこらの時代漫画では味わえないくらいの清清しさがあります。実話を下敷きにしつつも、きっちり漫画的なカタルシスを読者に提供しつつ漫画的に閉める岩明先生のテクニックは、ほんとーに物凄いと私はおもうわけです。


ちなみに、上の方で「サラリーマン的」と書きましたが、この作品、最後の解決法まである種現実の会社組織で使えそうな「組織論」的な解決法になっています。「そうだよなー。そりゃこの人にそういわれちゃどうしようもないよなー」というような、問答無用の説得力があります。

興味をもたれた方は、是非ご一読を。



・一方、「剣の舞」についても少し。

こちらはこちらで、「雪の峠」よりはだいぶヒロイックな感じですが、疋田文五郎という強力なキャラクターを中心に、見事にまとまったお話になっています。

実在の剣豪をそのまま描くのではなく、まったくの架空キャラクター「ハルナ」を主役に据えている辺りが岩明先生一流のテクニック。実話に即したリアリティという点では「雪の峠」に譲るかも知れませんが、重たさと気楽さ、そしてどこか寂漠とした悲壮感が絶妙にブレンドされている辺り、こちらも十二分に「歴史漫画」としての名作に数えるべき完成度になっているとおもいます。

取りあえずハルナはかわいいとおもいますので、雪の峠に興味を持った方はこちらも是非。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 23:50 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月11日

既婚ブロガーは配偶者にブログを開示しておいた方が絶対いいと思います


ひと昔前なら話は別かも知れないですが、今の時代には、近しい身内(特に配偶者)にはブログを開示しておいた方がメリットが大きい、と思うわけです。

私が思う、「配偶者にブログを開示する」ことのメリットは下のような感じです。


1.自分と対等の立場の人として、客観的な視点や助言を提示してもらえる
2.炎上しそうな記事の防波堤になってくれる
3.奥様に読ませられないような記事はそもそもネットに公開するべきではない
4.相互理解の一助、コミュニケーションの素材にもなる
5.ブログ関連で仕事やオフ会などがあった時の話が早い


順番にいきます。


1.自分と対等の立場の人として、客観的な視点や助言を提示してもらえる

以前も何度か書いていますが、「自分の文章を客観的な視点で読む」というのは、プロの作家さんにとってすらひっじょーーーに難しいことです。普通の人にとっては殆ど不可能事であると言って間違いありません。

むかーし、こんなことを書きました。

「自分が読む自分の文章」と、「他人が読む自分の文章」は完全な別物である。
自分が自分で読む程には、自分の文章は面白くないのだ。

面白い、面白くないだけの話ではなく、自分の考えに明確な誤りがあったり、事実誤認がはっきり紛れ込んでいる時ですら、自分ひとりでは気づきにくいのです。プロであれば、編集者さんが仕事としてその辺のチェックを行ってくれるんですが、素人ではなかなかそういう訳にもいかないです。

そんな時、「自分ではない人」が、事前に自分の文章を読んでくれるというのは、非常に非常に大きなことです。

しんざきは、子育てについての文章とか、ちょっと入り組んだ雑文を書く時には、しばしばしんざき奥様に「ねえねえ、時間ある時にちょっとこれ読んでみてくれない?」と聞きます。ありがたいことに、しんざき奥様はブログを書くことに理解をもってくれていますし、不倒城に興味をもってくれてもいます(多分)ので、大抵記事を読んでくれますし、色々と気づいた部分を教えてくれます。そして、そういう「気づいた部分」は、大体の場合私が「気づけなかった」部分でもあります。


ただしレトロゲーム記事だけはほぼ一顧だにしてくれません。レトロゲームブログなのに。なんということでしょう。

あと、しんざき奥様はスポーツにほぼなんの興味もないので、スポーツ系のネタを書いた時にも多分読んでくれないと思います。あんまり書かないですが。



2.炎上しそうな記事の防波堤になってくれる
3.奥様に読ませられないような記事はそもそもネットに公開するべきではない

この二つは関連しています。

今の時代、ブログでひどい内容を書いてしまって、それを責める反応が大量にやってきて大炎上してブログ閉鎖、というケースは枚挙に暇がありません。
炎上狙いでPV稼ぎだー、というアレな人についてはまあどうでもいいですが、一般的な感覚の人にとっては、「ついうっかり変なことを書いて炎上」という事態は防ぎたいところでしょう。

特にアクセスが欲しいブロガーは、ついつい記事の内容を先鋭化させてしまい勝ちです。それに伴って、一般的な感覚でのファールラインをつい忘れてしまうこともあるかもしれません。

そういう意味で、ブログ炎上を事前に防ぐ、ないし「こんなこと書いていいの?」と一般的な視点で一言聞いてくれる他人の存在というものは、とても大きいのではないかと私は思うのです。


また、内容としても、一番身近な身内に読ませることをためらうような内容は、そもそもたくさんの他人に開示していいような内容ではない、ことが多いと思われます。まあ、人によっては「身近だからこそ開示したくない」話というのもあるのかもしれませんが、どっちにしても夫婦間で隠しごとになるようなことを、不特定多数の他人に大声で発表するのはちょっとどうなのかと思います。

配偶者の存在が安全ブレーキになる、という側面も、おそらくあるのではないかと。

しんざきはしんざき奥様の倫理感やバランス感覚を非常に信頼していますので、万一変な記事を書きそうになったら止めてくれるんじゃないかと思います。まあ、そもそも炎上するような記事を不倒城で書いた記憶がありませんが。

なお、しんざきは割とオープンな性格でして、このブログに書いてあるようなしょーもないことは普段の生活でもくっちゃべっていますので、特に隠すメリットはありません。



4.相互理解の一助、コミュニケーションの素材にもなる

以前も書きましたが、結婚生活に限らず、身近な人とうまく過ごす為の必須要件は「関心量の調節」だと思います。

手前味噌ですが、ちょっと引用してみます。


お互いへの関心のバランスが悪いと、コミュニケーションのバランスが崩れる。一方は反応欲求を満たすことが出来ず、一方は発信欲求を満たすことが出来ず、不満はどんどん蓄積されていく。

相手が関心をもっていることへの関心が薄いと、無理解のペースが速まる。相手が何を楽しんでいるか分からないから、楽しい時間を共有出来ない。相手が何に苦労をしているかが分からないから、相手のペース配分に納得することも出来ないし、相手の疲れに共感することも出来ない。仕事にかまけている旦那の家庭が上手くいかないのは、その多くが「関心の配分」の調整ミスに由来している。

勿論普段の会話もそうなんですが、「自分がなんについて、どんな関心を持っているか」ということを伝えるために、ブログというツールはまさにうってつけです。なにせ、「自分が興味をもっているものについて書く」のがブログなのですから、これ以上のツールはありません。


自分が興味をもっていること、それについて語っていることを開示する。それについて会話する、対話する。そういったことが、日常生活においてコミュニケーションを深める、重要な一助になることは間違いありません。


5.ブログ関連で仕事やオフ会などがあった時の話が早い


話が早い気がするんですが、しんざきについていえばブログ関連で仕事をすることもオフ会に出ることも滅多にないのであまりメリットではありません。誰かお声がけください。



というような感じで、奥様や旦那様にブログを共有することは、非常にメリットだらけだと思うのです。

「客観的に読んでくれる、対等の立場の人がいる」というだけでも大きなアドバンテージだと思いますので、既婚ブロガーで配偶者にブログを内緒にしている方は、是非ご検討を。


ちなみにしんざきは、時にはかなりアホな内容の記事(こういうのとか)も書いており、それもしんざき奥様の目には留まっていると思うのですが、そっとスルーしてくれています。奥様優しい。


今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月10日

「科学に誠実な人の話はなぜ届きにくいのか」という話、あるいはなるべく分かりやすく「科学」について書く


特に疑似科学界隈でよく問題になるのですが、「科学に誠実な人のいうことはわかりにくく、科学に不誠実な人のいうことはわかりやすい」という厄介な特性があります。


分かりやすいことは、聞き入れられやすいことでもあります。分かりにくいことは、たとえ妥当であってもなかなか耳を傾けられないことでもあります。つまり、「妥当な内容の方がみんなに聞き入れられにくく、妥当でない内容の方がみんなに聞き入れられやすい」という、ひじょーーに厄介なジレンマが発生してしまいます。


何故かというと、「科学的に誠実な人程、「そんなものにはなんの効果もない」「それは頭っから間違っている、でたらめである」という分かりやすい断定をしにくい」という問題がある為です。

以下、その辺の話をしてみたいと思います。



@.科学って何?というお話

そもそも科学ってなんなの、という話から始めます。

一般の人は「科学」と聞くといわゆる「科学者」だとか「実験」だとか、理系っぽいものを思い浮かべるかもしれませんが、実際には人文科学や社会科学といったフィールドもあり、理系から文系まで、「科学」という言葉は非常に広い範囲を射程に収めています。ただ、ここでは主に「自然科学(物理学とか化学といった、いわゆる理系学問)」についての話が中心になります。


科学というのは、要するに手法、方法のことです。Civ4でいうところの科学的手法という奴です。また、科学的手法に則って集められた系統だった知識、それ自体のことでもあります。

ざっくり書くと


1.仮説を立て、
2.誰にでも明らかな根拠(再現可能な実験や観察)を元に、
3.その仮説について適切な方法で考察・推論・検証を行い、
4.根拠(エビデンス)に則ったことが明確な結論を出す。


このプロセスをきちんと回して得られた結論こそ、「科学的に正しい」と言える、という話なわけです(実際には確率的な部分や統計的な部分もあったり色々面倒くさいですが、話がややこしくなるので一旦おいておきます)。

一番重要なところは、


2.誰にでも明らかな根拠(再現可能な実験や観察)を元にしなくてはいけない


という点であって。どんな分野でも、「誰にでも明らかな根拠」を欠いた知識や結論は、科学的に正しいものとはみなされません。

たまに勘違いしている人がいるようなんですが、科学の根幹は飽くまで上記の「フロー、手続き」ですので、それによって得られた知識を絶対の真実と考えたりはしませんし、そこに含まれていないものを「間違い」と言ったりもしません。ある「科学的な正しさ」が後から同じく科学的な手続きによって否定されることは実によくあることですし、まだ「科学的に正しい」と認められていないことでも、それが後から「科学的に正しい」と認められる可能性も否定しません。

ただ、「それは現時点で科学的に検証されている」「それは現時点では科学的に検証されていない」というだけです。


A.じゃあ「科学的に正しいもの」って何?というお話


「科学的に正しいもの」とみなされる為の労力というのはそんなに軽いものではなく、ただ「実験をして結果が出ました」だけではなんの意味もありません。その内容は、きちんと論文にして、いろんな人に査読(論文のチェックや追試)をしてもらって、といった幾つものステップを踏まないと認められないのです。


例えば、だれか一人が「こんな実験やった!こんな結果が出た!」と言っていたとしても、エビデンス(証拠)が明確でなかったり、他の人達が追いかけでその実験をやって再現できなかったとしたら、それは「科学的に正しいもの」とはみなされません。

例えば、何人かの人が「これは体にいい気がする!」と言っていたとしても、きちんとした実験が行われていなかったり、査読された論文が残ったりしていなければ、それは「科学的に正しいもの」とはみなされません。



要するに、「みんながちゃんと試して、検証して、「これは正しい!」って言えるものだけ「正しい」と信じようね」というスタンスが科学の根底であって、そこを外れたものは(その時点では)信用に値しない、というのが科学なのです。


一人の知恵や経験は間違うこともあるけれど、みんなの分析や考察があるなら信用出来る。当たり前のことですよね。

自然科学で言えば実験と検証。人文科学で言えば文献や統計だったりしますが、その辺の話は科学一般すべて共通している筈です。



科学に誠実な人であればある程、「それは正しい」「それは間違っている」という言い切りを行うことに慎重です。なぜかというと、上記の1〜4までが科学の根底となる手続きである以上、


実験が行われて論文になっていないものはそもそも科学とは言えないし、

「正しい」「間違っている」どちらにしても、きちんと実験・検証しないと妥当だということは出来ないし、正しい可能性も、間違っている可能性も否定できないから。


なので、「それは現時点では科学的に検証されたことではない」という言い方しかできない場合が非常に多い、ということなんですね。

「正しい」というのと同じように、「間違っている」ということにもコストがかかります。反証するのも大変ですし、後から反証が覆る可能性だってないとは言えない。だから、「間違っている!」「でたらめだ!」という言葉は発しにくいのです。

それでも、そういったコストを敢えて背負って、妥当でないことに「妥当でない」ときちんという人は、大変尊敬に値すると私は思います。


B.不誠実なのに分かりやすい、という話


科学に不誠実な人は、上記のようなことを気にしません。

何の実験も行われていないのに、数人の「効いた気がする!」という話を元に「体にいい○○食品!!」と謳ってしまったり。

身内の回し読みだけで、信頼出来る査読を経ていないてきとー論文を元に「万能の××菌」などと謳ってしまったり。

場合によっては、本来そういう意味ではない論文の意味を曲解して、「△△が体にいい!!」などと謳ってしまったり。


何が厄介かって、そういう言い切り、断言は何より「分かりやすい」んですね。実験がどうとか査読論文がどうとか、しちめんどーくさい留保がついていない。「体にいい!」「なぜなら○○が××だから!(根拠なし)」おおそうなのか、いいじゃないか、と。


そして、それに反対する人のいうことはなんだかわかりにくい。実験?論文?査読?なんのこと?論文ならあるって言ってるじゃないの、中身まで知らないよ、と。


分かりやすいことは、受け入れられやすいことでもある。わかりにくいことは、受け入れられにくいことでもある。

それ自体は仕方ないことかも知れません。


ただ、我々が覚えておかないといけないことは、

「分かりやすいからと言ってそれが妥当だとは限らない」

ということであり、何かを信用するのであれば、昔からのきちんとした方法論に則ったものを信用した方がいいんじゃないの、ということだと思うんです。

疑似科学という、「分かりやすさ」を盾にいい加減なものでお金儲けをする人たちに騙されない方が、社会がもうちょっと素敵になるんじゃないかと、私は思うのです。



まとめておきます。


・科学というのは別に難しい話ではなく、ざっくりいうと「誰にでも検証可能な根拠に則って話しましょうね」ということです
・いわゆる疑似科学には、その「誰にでも検証可能な根拠」がくっついていない、ないしひじょーにいい加減です
・けど、面倒な留保がついていない分わかりやすいんですよね
・「分かりやすい」からといって頭から信用せず、「それは科学的なものなのか?」ということは、常に気にするべきだと思います


大体上記4点くらいが私の言いたいことになります。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 09:48 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月15日

デスゲームの運営・開発担当ですが、参加者よりも先に主催者を抹殺したいです


「主任」

「あい」

「今日の分の開発要望書来たんですが…」

「あーあー聞こえなーーーい」

「現実逃避しないでください」

「今日はもう帰って明日以降確認することにしたい」

「まだ午前9時です」

「はあ、しょーがねーな…あいつら何で要件定義書を思いつきだけで適当に作れるのかな…明後日くらいに食中毒で入院しないかな…」

「読みますね。えーと、カテゴリー:プレイヤーに与えられる能力。概要:対戦相手が下した決定を、ゲーム中一度だけ反転させることが出来る」

「どーやって?」

「私に聞かないでください。えーと、推定工数:軽微」

「なんでこっちが見積もりする前に向こうで工数決めてんだよ!!軽微なら自分らで作れや!!!」

「私にキレないで主催に直接キレてください」

「だってあいつら声怖いし…」

「電話にボイスチェンジャーでもつけたらどうですか。えーと、カテゴリー:プレイヤーに与えられる能力。概要:ゲーム中一度だけ、ゲーム内で登場した好きな数字を指定の数字に変えることが出来る」

「なにそのファジーな能力。というかそもそもゲーム内容の仕様って来てたっけ?」

「プレイヤーをどんなパターンで抹殺するかの仕様なら細かいのが色々来てるんですが」

「中学生の黒歴史ノートか」

「えーと、カテゴリー:プレイヤーに与えられる能力。概要:一度だけ、ゲームのルールに好きな文言を一行追加することが出来る」

「あ、アホか…本気でアホかあいつら…なにそれどうやって判定ロジックとか作るの…というか、「自分が勝利する」とか追記されたら一体どうするつもりなの…」

「追加したルールは相手にも公開しなくてはならない。なお、勝利条件に直接関わるような文言は追加できないものとする」

「うわすげえ適当な穴塞ぎだな。それ絶対頭いいプレイヤーに裏かかれてゲームごとぶちこわしにされるヤツ」

「ジャッジのこととか基本考えてないですよね彼ら」

「というか結局会場ってどこになったの?」

「ポリネシアの無人島を現在整備中だそうです」

「ぽ、ポリネシア…何カ月出張しないといけないんだよ…」

「せめて日本海とかにしてもらいたいですよね」

「最低限電車で通勤出来る範囲内でやってもらいたい」


プルルルルルルルル


「はい匿名開発株式会社、開発主任です。ああ、これは主催。どうもお世話になっております」

「いやな予感がする」

「はい?え、20秒先が分かる能力?いやその主催、我々は超能力開発組織ではないんですが」

「やばいいやな予感が的中した」

「いやその、そもそもゲームの仕様がもう少し明確にならないとですね、こちらとしても開発に支障をきたすんですが…」

「支障をきたすきたさないの問題じゃない」

「え、いや、漫画作品のタイトルだけ挙げられましても…主催、世の中には著作権というものが…」

「この仕事やめたい」


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「くそ、俺たちに殺し合いをさせる気か!運営のヤツら、必ず叩き潰してやる!!」

「運営は苦労してるんで、運営じゃなくて主催を叩き潰してください…」


posted by しんざき at 19:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

東大総長の式辞に関わる大変美しいブーメランについてのお話


子どもの頃、朝礼で校長先生のお話を聞くのは割と好きでした、というとびっくりされることがあります。

「偉い人のお話」という言葉を、まるで「つまらない話」の代名詞のように扱ってる人、います。

偉い人のお話なんて、子どもは基本的に左耳から右耳に通り抜けるもの、って思われてる人もいるみたいですけども、ちゃんと聞くと結構面白い話、いいこと色々言ってらっしゃるんですよ。勿論、時には退屈なこともありましたが、印象深いお話を毎週毎週よく考えてらっしゃってたなあと、大人になった今になって思います。勿論、学校によって色々なんでしょうが。


さて。


東大の入学式や卒業式の式辞というのは毎年話題になるんですが、これも上記と同じ話で、「偉い人のお話」に類すると思うんですが、きちんと読んでみると、毎年毎年、よくこれだけ力の入った式辞を考えられるなあ、と感心することしきりです。正直、こんなブログ読んでるよりよっぽどい面白いし為になります。

昨年は、平成26年度の教養学部の卒業式の式辞が話題になりました。ちょっとリンクしてみます。


一部を引用するのも気恥ずかしいところではあるのですが、強いて引用してみるとすれば、

私は大河内総長の「痩せたソクラテス」でもなく、濱田総長の「タフでグローバル」でもなく、自分自身が本当に好きな言葉を皆さんに贈って、この式辞を終えたいと思います。
それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。

きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!
もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。

辺りの言葉は、非常にユーモラスでもあり、印象深い言葉だったと思います。是非全文を読まれることをお勧めします。


で、先日の東大入学式の式辞も一部で話題になっているようです。


これも、そもそも話のテーマからして、一部引用がお勧め出来るような式辞ではないのですが、全文引用するわけにもいかないので、忸怩たる思いを抑えつつ、話題になっている部分だけ引用します。

ところで、皆さんは毎日、新聞を読みますか? 新聞よりもインターネットやテレビでニュースに触れることが多いのではないでしょうか。ヘッドラインだけでなく、記事の本文もきちんと読む習慣を身に着けるべきです。東京大学ではオンラインで新聞記事や学術情報を検索し閲覧できるサービスを学生の皆さんに提供しています。ぜひ活用してください。その上で、皆さんにさらにおすすめしたいことがあります。それは、海外メディアの報道にも目を通すことです。日本のメディアの報道との違いに注目してみてください。また、世界の中で日本がどのように見られているかということも意識してみてください。

「新聞読みますか?」という問いかけから始まってはいるものの、主眼となっているのは「記事の本文もきちんと読む習慣を身に着けるべき」という部分であって、決して単純に「新聞読みましょう」と言っている訳ではない、ということはわかって頂けると思います。というか、「オンラインで新聞記事や学術情報を検索し閲覧できるサービス」をお勧めしている時点で、全然「新聞読みましょう」とは言ってないです。むしろ逆方向です。

また、「海外の報道などにも目を通し、違いに注目してみて欲しい」という点では、前述されている「忍耐強く考え続ける力」という点とも合わせ、日本の報道を相対的に見極め、妥当性を検討することを勧める形にもなっていると思います。

で、いみじくも、ヘッドラインだけを読むと力いっぱい誤解しそうな記事があちらこちらで観測できるようになっています。



上記の式辞を、「新聞を読もう」という6文字で要約するという行為の非常にハイパフォーマンスなギャグセンスについては、みなさんお分かり頂けると思います。

まあ、メディアのヘッドライン詐欺は今更の話です。これも、記事の本文を読めばもうちょっと詳細にわかるとは思うんですけどね。

然るに、世の中にはこの部分だけを取り上げて総長の批判をされている方もいらっしゃるようで、

これはちょっとブーメランとして美し過ぎるのではないかと思わないでもないわけです。「ヘッドラインだけじゃなくちゃんと本文も読め」という式辞に対して、ヘッドラインだけの情報で批判するというのは、何かのギャグなのでしょうか。何かよっぽど東大を批判したい余り目が曇ってしまった、ということならわからなくもないですが。


まあ、皆様におかれましては、こんなへんぴなブログ記事であればまだしも、価値ある情報については、きちんと中身まで読まれることを強くお勧めします。

全然関係ないんですが、昨日の記事、記事内で力いっぱい触れているにも関わらず、アイスクライマーはどうなんだとかFF6はどうなんだといわれると、ハイセンスなギャグだなあと思って心温まりますよね。


今日書きたいことはそれくらいです。


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2016年04月04日

「好き」を表明するハードルなんて、低ければ低い程いい

なんというか、「好き」を語るのに、前提知識とか、もろもろの条件とか、そんなもんが求められるのはあんまり好きじゃないなあ、と思うんですよね。「好き」を表明するのはただでさえ勇気がいることなんだから、ハードルは可能な限り低くあって欲しい。凄く気軽に「○○が好き!」と言える世界であって欲しい。


Twitterで、こんなことを書きました。

このTweet自体は、「自称○○好きに限って、実際は大してそれを摂取していない」という批判ツイートをみてツイートしたものです。


元ツイート自体はここでは引用しませんが、多分、「あるジャンルに対する半可通」に対する批判に近い文脈だと思うんです。「SF小説好き」というなら、せめて××くらいは読んでおけよ、とか。「本屋好き」というなら、何故もっと本屋に行かないんだ、とか。そういうことを言いたくなる気分も、心情として理解出来なくはないんです。


それを踏まえた上で。


私は、その対象がジャンルであれ作品名であれ何であれ、そしてその「好き」がどんなに中途半端な内容であれ、「好き」と表明することを全肯定します。「好き」と表明する為のコストは、可能な限り低くあるべきだと考えます。



何故なら、「○○が好き」というのはゴールではなく、スタートだから。



例えば「SF小説」というジャンルであれば、「あ、これ、好きだなあ」とおもったその時から、そのジャンルに対する世界は広がっていくものだから。そして、それは自分だけではなく、それを見た他の人へも伝播していくものだから。


ジャンルの裾野っていうのは、そうやって広がっていくものでしょう。誰かが、どんなに僅かな知識であろうと、「これ好き」といったところから、その人も、他の人も、さらにそのジャンルについて知っていく。そこからもっと詳しくなっていく。

要は、「好き」は出口ではなく、入口なんです。


入口は入りやすい方がいい。入りやすければはいりやすい程、そのジャンルは栄えます。


そこを、元からそのジャンルが好きな人が、「おいおい、その程度で「好き」とか言ってんのか?」と絡んでいたら、その入口、どうなりますか。もしかしたらその「好き」を見て、そのジャンルに入ってくれていたかも知れないそれ以外の大勢の人まで、軒並み排斥することになりませんか。


そういう意味では、私は、「中途半端な知識で語る」という、いわゆる半可通ですら、一義的に否定されるべきではないと思います。

明らかに誤った知識を広めていたらそりゃ指摘した方がいいかも知れないですが、そこに純粋な「好き」があるなら、「その程度の知識で語るな」という批判は慎重であって然るべきでしょう。そういう批判を投げかけたくなったら、もっと精密な内容を自分が語ればいい。それを見て、更に他の人がそのジャンルに入りたくなったら、そりゃもう万々歳じゃないですか。


「好き」を表明することというのは、自分をさらけ出す行為でもあり、ある意味ではハイリスクですらあります。注目を引くだけなら、どちらかというと「これ嫌い」を表明した方が楽に注目を稼ぐことが出来る。ローリターンハイリスク。


けど、だからこそ、「○○が好き!」ということくらい、何も考えずに表明できる世界であって欲しいんですよね。


だから私は、「「好き」を表明するのに、一切の前提知識も条件も要らない」と強く主張したいです。


どんなに中途半端な「好き」であっても、そこからそれに続く何かが始まることを。世の中の色んなジャンルが、色んな「好き」によって栄えることを、強く祈念しております。



以下は関連エントリー。



posted by しんざき at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

30年のゲーム人生の中で、最大のショックを受けた「あの時」のことについて


「あの時」のことを語っている人がいないか、ちょっとWebを探してみたんですが、意外と少ないようです。

一人のプレイヤーとして、ちょっと当時の自分の記憶を書き出しておきたいと思います。長文ですのでお暇な時にでも。



ゲーメスト、という雑誌があります。

種々雑多、様々あるゲーム雑誌の中でも極めて希少だった、「アーケードゲーム専門誌」。ゲーセンの様々なゲームについて、紹介、攻略、考察、ネタと、あらゆる切り口での記事が載っていた雑誌。1999年の新声社の倒産により廃刊となり、後継のアルカディアも不定期発行となってから、もう一年余りが経ちました。

昔こんな記事を書きました。良かったらご一読ください。


そんなゲーメストには、ハイスコア集計のページがありました。


様々なアーケードタイトルのスコアラーがたたき出したハイスコアを、全国津々浦々の店舗対抗で集計するシステム。店舗別の全一を残したスコアには「星」というものが支給され、星をたくさん持っているゲーセン(=凄腕スコアラーがたくさんそろっているゲーセン)はスコアラーの聖地になったりしていました。当時、全国規模でのアーケードゲームのハイスコア集計をしていたのは、ゲーメストとベーマガの二誌だけだった筈です。


まだ中高生だった私は、ゲーメストのハイスコアコーナーを読んでは、「スコアラー」という人種へのあこがれを高めていました。星をたくさん持っているゲーセンにわざわざ遠征して、スコアラーの超絶プレイを垣間見たりもしていました。「ワンコインクリア」というものを青息吐息の目標としていた自分とは、まったく別の次元でゲームを遊んでいるプレイヤーたち。自分でも遊んだことのあるゲームタイトルで、「え?これどうやったの?」というスコアを平然と誌上に掲載しているプレイヤーたち。


私は、人生で一度だけ、とあるタイトルで、彼らの世界に割り込もうと血道を挙げたことがあります。


そのゲームの名前は、「ダライアス外伝」といいました。


ダライアス外伝が発売されてすぐ、そのすさまじい完成度に魅了され切った私は、すぐに「これはただワンコインクリア狙ってるだけじゃ勿体ないぞ」と思いました。ダライアス外伝の面白さは、ただ「ボスを倒す」だけで満足していたそれまでの自分を、どこか違う領域に引きずり込んでいくような魅力をもっていました。

初回プレイであっさりワンコインクリアできた「ファイアーバレル(低難易度シューとして有名)」を除けば、自分としては記録的な速さでワンコインクリアを達成出来た私は、すぐに「スコア狙い」のプレイに足を踏み入れていきました。ボスのパーツ破壊のパターンを研究しました。復活砲台の稼ぎ方を研究しました。最初の内、同じ店の見知らぬ誰かとスコア争いをしていただけの私でしたが、やがてこう考えるようになりました。



全国一を、とれないもんかな。



大それた思いつきだったと思います。それでも、このゲームなら、もしかすると遠い世界に分け入っていけるかも知れない。単なるクリアラー(クリアするだけで満足してしまう人)だった私にそう思わせるだけの力が、ダライアス外伝にはあったのです。

当時のハイスコア集計において、ダライアス外伝は、最終ゾーン別にハイスコアが集計されていました。私はそんな中でも、初回の集計時点で激戦区になっているゾーンは避け、比較的スコアラーがやり込んでいないゾーンを狙うことにしました。あちらこちらの有名ゲーセンをめぐり、時にはスコアラーのプレイをチラ見し、どのゾーンでどんなスコアが出ているかを探りつつ、ひたすらにスコア狙いを追及しました。当時ゴーストライターのアルバイトをしていたのですが、そこで得た収入はすべてダラ外につぎ込みました。当時は本当に、一日の中でダライアス外伝に触れていない時間がごく僅かだったと思います。



結果だけいうと、この努力は一度だけ実を結びました。ハイスコア集計の初期の段階のどさくさで、私はとあるゾーンで、一度だけ全国一のスコアをとることが出来たのです。ゲーセンのオヤジに登録してもらったそのスコアには、全一の証拠である「★」が、私にとっては燦然と輝いていました。私が通っていたそのゲーセンは、全国ではほぼ無名のゲーセンで、私がとったその★が、多分歴代で3つか4つ目くらいの★だったと思います。


そう、たった一度だけ。私にとってはゲーマー人生のすべてを賭けていたに等しいそのスコアは、翌月には遥かトップ集団からおいていかれるだけのスコアになっていました。一度だけの全一に満足してしまった面もあったと思いますが、それ以降、私のスコアは全国一にかすりもしなくなりました。



そんな中、「あの時」がきました。



とあるバグによる、無敵技の発覚。

早ければCゾーンで無敵になれてしまうそのバグは、何の前触れもなく、唐突にダラ外プレイヤーの間で発見されました。そして、即ハイスコアには結びつかないものの、「無敵バグ」という存在と、「バグを利用したスコアかどうか、判断する手段が基本的には無い」という事実は、ハイスコア集計においては影響がでか過ぎました。

そして、ゲーメストには、「盛り上がっているところ大変残念ですが、ダライアス外伝のハイスコア集計は今月までとします」というテキストが掲載されることになりました。


最初に見た時は、そこまでの驚きでもなかった、と思うんです。

上記した通り、私がハイスコアに絡んでいたのはごくごく初期の一回切りで、それ以降は全国レベルのスコアに全くついていけなくなっていました。無敵バグの影響でスコア集計が打ち切られたからといって、私にとって直接の影響はありません。スコア集計打ち切り自体も、例えば永パの発覚とか、カンストの達成とか、そこまで珍しいものでもありませんでした。



記事を読んで少ししてから、腹の底から、何かわけのわからない感情が浮かび上がってきました。それ程衝撃を受けたつもりでもないのに、いつまで経っても、ハイスコア集計のページを閉じることが出来ませんでした。私は、自室の床に座り込んで、ゲーメストのハイスコア集計のページを見つめながら、いつまでも訳のわからない感情と戦っていました。


それは、悔しさ、だったかも知れません。憤り、だったかも知れません。無念さ、だったかも知れません。諦め、だったかも知れません。とにかく私は、自分が最も好きである「ダライアス外伝」というタイトルのハイスコアが、もうゲーメストで集計されないのだ、というその単純な事実に、それまでのゲーム人生でも一度もなかったショックを受けたのです。


今から思うと、私は単純に、もうスコアラーたちの神業をハイスコア集計コーナーで追いかけることが出来ないのだ、ということが、ただひたすらに残念だったのだと思います。自分でも、たった一度は手をかけることが出来たステージが、失われてしまうことが悔しかったのだと思います。

それでも、時にはスコア欄にダライアス外伝のスコアが載ることはあったのですが、それに★がつくことはもうありませんでした。



あれから、大体20年くらいが経ちました。随分長い時間だったと思います。


「あの時」受けたショックは、今でも、私の30年くらいのゲーマー生活の中で、最大のものであり続けています。あれ以来、私がゲームで頂点を目指そうとすることは無くなってしまいましたが、それでもダライアス外伝のたった一度のハイスコアは、私の中で大切な財産のままです。


当時、ハイスコア欄で見かけた数々の名前たちの中には、今でもゲームを続け、ゲームにかかわり続けている人もいれば、もうとっくにゲームに触ることはなくなってしまった、という人もいるだろうけれど。

それでも、「ハイスコア」という一つの価値を追い求めて、互いに凌ぎを削ったあの経験は、本当に貴重なものだったなあ、と。「あの時」のことがあろうがなかろうが、それだけは、何年経っても変わらないのだと。


そんなことを思ったのです。

posted by しんざき at 19:56 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」と旧作の最大の違いと、そこから読み取れるもの


3/13に、長男8歳のリクエストで、一家で「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を観てきました。

結論として、「新・のび太の日本誕生」は面白かったですし、リメイクものとして見ても丁寧に作られている良作だったと思います。

ただ、何点か、旧作の「日本誕生」と大きめな差分があるなあと思いまして、ちょっとそれについて分析してみたくなりました。


下記、「日本誕生」自体は27年前の作品とはいえ、現在上映中の映画についてのネタバレですので折りたたみます。特に、「のび太の日本誕生」を旧作・新作いずれも観ていない、読んでいないという方、あるいは新・日本誕生の視聴予定がある方には、下記文章を読むことをお勧めしません。

今、旧「日本誕生」がkindleで期間限定無料で試し読み出来るようなので、最低でもそちらを先に読まれることを強く推奨します。




続きを読む
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2016年03月11日

ケーナを始めた頃の話、あるいは人生いつ何をすることになるのかわからないという話


ちょっと昔話をします。


大学に入ってすぐ、フォルクローレという音楽を演奏するサークルに入って、ケーナを吹き始めました。


実際のところ、私の楽器経験はその時点で皆無に等しく、楽器に対する親和性も高いとは全く言えませんでした。小学校のごく一時期を除くと、私が唯一触っていた楽器は小さなハーモニカで、その理由は「ハーモニカを隣の家のポチに向かって吹くと遠吠えを始めて面白い」というだけの話でした。

ハーモニカの演奏技術は「吹いたり吸ったりすると何か音が出る」という段階でした。小学校の授業でやったリコーダーも鍵盤ハーモニカも、中学に入る頃にはさっぱり忘れていました。鍵盤ハーモニカについては「あ、これがドだっけ?」というレベルでの認識は一応ありますが、リコーダーの穴をどう押さえればドが出るのかについては、今でも思い出せません。

楽譜の読み方に至っては、「えーと、この左の方のにょろっとした記号にはどんな意味があるんだ?」というレベル。これについては、一応18年音楽をやってきた今でもあんまり変わりません。


当時の私を知っている人は、私がケーナを始めたことを知って、一様に驚きました。「え、お前が楽器とかやんの?」という反応だったと思います。ニュアンス的には、「え、ジャワ原人が火とか使えんの?」という疑問と同じレイヤーでした。まったく同感です。


私は一時期長距離走をやっていて、高校の時には色々部活の掛け持ち(囲碁将棋部でモノポリーをしたりであるとか)をしていましたが、基本的には体育会系の人間のつもりでした。大学では、スポーツ青年としての立ち位置を確固たるものにする為、バスケか何かを始めるつもりでした。


そんな私がケーナを始めたのはなぜかというと、これがまた全くの偶然でした。


大学に入っての4月、サークルオリエンテーションというものが盛んにおこなわれていました。要は、各サークルの新入生の勧誘競争です。


件のフォルクローレ演奏サークルは、大学の並木道に陣取って、街頭演奏をしていました。私は、何か他のサークルの説明の列に並んだ時に、たまたまそのサークルの演奏の目の前に位置することになって、ほへーと眺めていました。


後になって分かったことですが、その時演奏されていた曲は、CUANDO FLOREZCA EL CHUNO(チューニョの花が咲く頃に)という曲でした。この曲は、私が初めてスペイン語の歌詞を覚えた曲でもあります。



単に「なんか知らんが変わった楽器ばっかだなあ」という程度の認識で見物していると、ビラを配っていた先輩が唐突に前ダッシュしてきまして、私に声をかけてきました。

「おーー!なんや興味ある!興味あるか!君はどんなサークル入りたいんや!」
「(興味あるとい訳ではなかったんだが)バスケをやろうかなーと」
「おお、そうかそうか!それは民族音楽向いてるな!!高校の時は何かやっとったんか!」
「長距離走やってました」
おお、それはケーナに向いてる!ケーナがいいな!君は!どう見てもケーナ向きや!」

この物凄いごり押し具合にはある意味感服しました。後にわかることですが、この先輩は、学園祭での民芸品販売で過去数年間の売り上げ合計を余裕で凌ぐ売り上げを挙げるという、途轍もない商才の持ち主でした。


で、その先輩に敬意を表す意味でサークル説明の部屋に立ち寄ったところ、ぼーっと受付席に座っていた女性の最初の一言が


「え?何か用?」


すごい。物凄い落差。落差のジェットコースター。テーブルマウンテンの崖かよ、と言わんばかりの凄まじいまでのテンションの差でした。ちなみに、後にわかることですが、この女性の先輩は、サークルでも最強の部類ののんびり屋さんでした。


「流石に大学のサークルにもなると、こちらの意表をつく新入生勧誘をしてくるもんだなあ」とよくわからない感銘を受けた私は、その場のノリだけで当該サークルへの入会を決めたわけです。1998年の春でした。



それから18年が経ちました。



全く主体的でない理由で始めたケーナは、今、私の人生の数パーセントを占有し、確実に人生の中で無くてはならない存在になっています。同期の中には、今でも演奏を続けている人もいれば、演奏活動から足を洗ってしまった人もいますが、ケーナのみを得物にして、ケーナ吹きとして活動を続けているのは、今では私一人です。


人生、どこで出会ったものが、どう続くものかわからんなあ、と。最近つくづくそう感じるようになりました。


今までなんの興味もなかったものが、ある日突然生活の中心になるかも知れない。今までなんの接点もなかったものが、ある日突然数十年にわたって付き合うものになるかも知れない。


一期一会という言葉とはちょっと意味が違いますが、そう考えると、なかなかおいそれと「出会い」を軽くは扱えないなあ、と思う次第なのです。


ネットのどこかで、皆さまとこの文章が出会ったとしたら、それはそれで何かの縁だと思います。今後ともよろしくお願いします。



posted by しんざき at 11:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

火ノ丸相撲は何故想像を絶する程面白いのか


とにかく火ノ丸相撲が面白いのです。



火ノ丸相撲は、週刊少年ジャンプで連載中の高校相撲漫画です。主人公の「潮火ノ丸」は、小柄な体躯でありながら極限まで体を鍛え上げ、体格のハンデをものともしない王道の相撲をとる。そんな彼が入部した、部員一名の弱小部、大太刀高校相撲部。そんな火ノ丸と、大太刀高校相撲部の活躍が描かれる漫画です。


正直申し上げまして、当初連載が開始した時は、「高校相撲の漫画かー、うっちゃれ五所瓦みたいな感じかなー。またニッチなところ来たなー」と思っていました。ニッチ狙いの短期連載なのかな、長期はちょっと難しいかもなあ、などと思ってしまっていました。

否。千遍否。私の見る目の無さをここまで痛感したことはありません。


恐らく火ノ丸相撲は、2年くらい前から現在に至るまで、今のジャンプの全漫画の中で最も「少年漫画としての王道」を行っている少年漫画です。超熱いし超面白い。


このエントリーでは、火ノ丸相撲の面白いと思う要素について列挙しまして、それら一つ一つについて説明していきたいと思います。みなさんには単行本の購入を強くお勧め致します。

私が考える、火ノ丸相撲の特に面白いと思う要素は以下の二つです。


・「逆転」と「期待通り」の爽快感のバランスが素晴らしい
・主人公やその周辺、及びライバルのキャラクター達に好感が抱きやすい
・相撲の描写の迫力がとにかく凄い
・主人公が突き当たる壁のリアリティが非常に高く、それを乗り越える為の鍛錬やパワーアップに納得感がある
・普通の相撲の描写と、いわゆる「必殺技」の描写のバランスがいい



この中でも特に、

・「逆転」と「期待通り」の爽快感のバランスが素晴らしい
・主人公、及びライバルのキャラクターに好感が抱きやすい

の二点について記載してみたいと思います。


・「逆転」と「期待通り」の爽快感のバランスが素晴らしい


特に格闘系、スポーツ系の少年漫画について、私は二つのキーワードで、その面白さの7割くらいを説明出来るんじゃないかと思っています。


私は随分前から、そのキーワードを「「まさか」の爽快感」と「「さすが」の爽快感」と呼んでいます。


「まさか」の爽快感というのは、要するに逆転が起きた時の爽快感、気持ちよさです。周囲から見くびられていた主人公や仲間たちが、強豪相手に大金星を挙げた時の爽快感。大ピンチに陥った主人公チームが、追い詰められた状況から大逆転した時の爽快感。これは、勝負ごとがメインとなっているあらゆる少年漫画で重要な気持ちよさだと思います。「まさか」の爽快感を演出するのが上手い漫画は、それだけで名作といってしまってもいいくらい読んでいて爽快感があります。


「さすが」の爽快感というのは、要するに「強い主人公・強い味方が期待通りの活躍をする」ということによる満足感です。読者が感情移入している味方側のキャラクターが、期待通りの活躍をする。圧倒的な力で強敵をねじふせる。ジョーカー的な味方キャラがものすごい描写と共に敵を一掃する。こちらの爽快感、気持ちよさも、少年漫画において重要なファクターの一つです。

昔の記事でもこの辺のところは書きました。お時間ある方は下記記事でも読んでみてください。


火ノ丸相撲は、上記「まさか」と「さすが」の配分が絶妙である上、お話の構造上、全く無理なく「まさか」と「さすが」がバランシング出来るようにできています。


この漫画の主人公である潮火ノ丸は、「かつては『国宝級・鬼丸国綱』とまで称されたが、体格に恵まれなかった為中学時代は無名だった」「中学の3年間徹底的に体を鍛え上げ、真っ向勝負を是とする相撲で高校横綱を目指す」という設定の持ち主です。まさに、「小兵がでかいヤツを、真っ向勝負でねじ伏せる」というのが火ノ丸相撲のテーマです。


「圧倒的強さを持っていても不思議ではない経歴・研鑽」と「相撲という競技において致命的とも言えるハンデ」が、お話の中核として最初から同居している。これはつまり、火ノ丸が強豪と戦うだけで、「突きつけられたハンデを打ち砕く」という「まさかの爽快感」と、「強豪である火ノ丸が活躍する」という「さすがの爽快感」が、ごく自然に演出されるということを意味します。

しかも、体格というハンデは基本的に解消されることがないものなので、今後火ノ丸がいくら鍛錬を重ねてパワーアップしても、話の構造上はずっと「小柄という体格故の大ピンチ」と「それに対しての大逆転」が不可分となります。そして、相撲という「無差別級の力と力のぶつかり合いであり、つく時には一瞬で勝負がつく」という、それこそ全く読者を油断させない題材。


これらが、少年漫画のストーリーの作り上本当に絶妙過ぎる要素だと思うんですね。


格闘もの少年漫画の基本が、「友情(仲間集め)、努力(パワーアップ)、勝利」であることは今更いう間でもないと思いますが、上記爽快感のバランスと合わせて、火ノ丸相撲のテーマはこれに完璧に合致しています。そして、それを相撲シーンの凄まじい描写力が強力にサポートする。


後述しますが、主人公である火ノ丸が非常に好感が持てるキャラクターであることもあり、読者はごく自然に火ノ丸に感情移入することが出来ます。火ノ丸が臨む試合も、ある時は圧倒的な力で相手をねじ伏せて周囲を瞠目させ、ある時は大ピンチの連続から大逆転を決める、熱い試合揃い。火ノ丸が数々の相撲に挑み、時には勝利し、時には敗北するだけでも、読者は少年漫画の醍醐味を存分に味わうことが出来る、ということです。


まずは、この「二つの爽快感のバランス」を、火ノ丸相撲という漫画の中核部分だと言ってしまいたいと思います。



・主人公、及びライバルのキャラクターに好感が抱きやすい


当然、少年漫画を彩るのは様々なキャラクター達なのですが、「火ノ丸相撲」においては、火ノ丸の周囲の人々、火ノ丸の前に立ちふさがる人々、火ノ丸に期待する人々を含め、実にいい味出しているキャラクターが満載です。

勿論、その筆頭は主人公の潮火ノ丸です。非常に相撲にひたむきで、時には強烈な殺気を放ち、時には泥臭く負の感情をあらわにすることもあるが、基本的には真面目な好青年(ちょっと機械に疎い)。

大きなハンデを抱えながらも相撲に打ち込む、という設定の関係もあるとは思うのですが、彼は普段実に前向きで真摯です。しかし一方、勝利への執着というのはとても大きく、それが試合の描写に現れることもしばしばあります。


序盤の試合で特に印象的なのは、「三日月宗近」と称される、国宝・沙田との一戦です。


中学時代敵がなかった沙田は、地区予選決勝トーナメントで相対することになった火ノ丸との相撲で、初めて味わう緊張感を楽しみます。その顔には笑みすら浮かび、火ノ丸も同じように勝負を楽しんでいるだろうと思った瞬間、


何を笑っていやがる


勝負の中での心の交流を、凄まじい殺気のこもった表情でガン拒否する火ノ丸。笑うのは勝って土俵を下りてから。普通の少年漫画であれば、お互いに勝負を楽しむライバル同士の描写も一つの王道である訳ですが、それを切って捨てる描写もこの漫画の重要な味わいの一つだと思います。


あと、この漫画って「イヤなヤツ」があまりレギュラーとして登場しないんですね。たまに出てくるイヤなヤツや軽薄なヤツは大概すぐ退場する連中ばかりで、レギュラーキャラは大概根がまっすぐな、好感が持てるキャラクターばかりです。人によっては(キャラクター的な)毒の薄さを物足りなく感じるかも知れないですが、スポーツ漫画として読んでいて気持ちいいのは重要なところだと思います。

例えば、当初はおどおどしたところが目につくばかりだったけれど、徐々に、徐々に相撲部部長としての自覚を持ち、端々で強者の風格を漂わせ始めた小関部長(最新話ではまたなんかエラいことになってますが)。

例えば、当初は典型的な「更正した悪役チンピラキャラクター」として出発しながら、様々なエピソードを経て相撲部になくてはならない存在として成長していく五條佑真。

例えば、空気が読めない設定ではあるものの、格闘技に対する真摯さは火ノ丸と通ずるものがあり、強敵とも伍する存在になる國崎千比路。

例えば、火ノ丸にあこがれ、自分も真っ向勝負の相撲をとりたいと目指しながら、勝利の為にそれすら捨てる覚悟をした三ツ橋 蛍。

例えば、相撲に対する真摯さでは火ノ丸たちにひけをとらず、軍師的な立ち位置を明確にしながら、一般常識については残念メガネ以外の何物でもない辻桐仁。

みんな、それぞれ「キャラクターが立った」連中揃いで、生き生きとしていることこの上ありません。

その他周囲の面々もみんなそれぞれ味のある連中ばかりなのですが、ここ最近では火ノ丸に目を賭けてくれる柴木山親方がお気に入り。天王寺咲さんの登場も併せて、柴木山部屋編は実に楽しいエピソードだったと思います。



と、いうことで。

他にも火ノ丸相撲の面白さ要素は山のようにあるとは思うのですが、長くなってきたので今回はこの辺で締めたいと思います。

未読の方には是非ご一読をお勧め致します。面白いですよ、火ノ丸相撲。





今日はこの辺で。

posted by しんざき at 20:02 | Comment(10) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月07日

おしっこの飛沫は本当に天井まで届くのか問題(注:疑問止まり)


今から排尿に関する話をします。汚い話で恐縮です。(ブログにおける防御線の例)

先に断っておきますが、現状これは単なる私の疑問提示でして、適切な実験・実証等をまだ実施出来ていません。具体的な実験・実証例をご存知の方は情報を頂けると幸いです。
続きを読む
posted by しんざき at 18:05 | Comment(5) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

アニメや映画やドラマを楽しむ素養が欠けている


「何かを楽しめる」というのは、才能であり、素養だと思います。何かを楽しんでいる人は、「俺にはこれを楽しむ素養があるんだ!!」と思っていいし、楽しめていることに誇りをもっていい。



これは昔からの話なのですが、私には、映画とか、ドラマとか、アニメとか、そういう「お芝居仕立て」のコンテンツを楽しむ素養というものが決定的に欠けています。


漫画は好きなのです。ゲームは好きなのです。私は漫画やゲームを山ほど摂取しますし、力いっぱい楽しむことが出来ます。


ただ、私にはアニメがあんまり楽しくない。わくわくしないのです。目前でアニメが展開しているのを見ても、ほへーと思うだけで、漫画を読んでいる時のような「これおもしれーー」感が全く感じられないのです。

ドラマやお芝居は何をかいわんや。私が最後にちゃんと通して見たアニメは、幼少時に見ていた「トムとジェリー」と「オズの魔法使い」です。

漫画やゲームが大好きという話をすると、「じゃあアニメも好きなんだよね」という話になることは多いです。どうも、一般的には、アニメは漫画やゲームと同じフィールドの趣味であるらしい。しかし、「漫画やゲームは大好きなんだけど、アニメは全く楽しめない」という、この楽しめないっぷりを人に説明するのは正直困難です。


悩むというほどのことでもないのですが、なんでじゃろうな、と思っていました。


最近になって、しんざき奥様とその話をしていたら、奥様の口からさらっとこんな言葉が出てきました。


「主体的にお話を進められないのがダメなんじゃない?」


ああ、と思いました。

そうかも。

漫画は、自分のペースで、自分が思うようにページをめくって話を進めることが出来ます。

ゲームは、自分のペースで、自分が思うようにコントローラーを操って話を進めることが出来ます。


多分私は、「自分で進める」というコンテンツに馴染みすぎて、自分がコントロールできないペースで話が進むコンテンツを楽しむことが苦手になっているのかも知れんなあ、と。


25年来くらいの疑問が、奥様のたった一言で氷解したわけです。奥様すごい。奥様かわいい。


いや、多分損してるんだろうなあとは思うんですよ。アニメも映画もドラマも、すばらしいコンテンツ揃いです。アニメを楽しんでいる人の話を聞いて、面白そうだなーと思うこともあります。ただ、いざ見てみると漫画やゲームほどには楽しめない。

こればっかりは、素養の欠如というしかないのかもなー、と。


だから私は、「アニメや映画が楽しめない代わりに、漫画やゲームを人一倍楽しむことが出来るんだ」と思うようにしています。実際、ゲームが死ぬ程面白いので、目下特にコンテンツ的な不自由は感じていません。ダラバーCS死ぬ程おもしれえ。


何はともあれ、「自分が楽しめていること」については、あらゆる人が誇りを持っていいと。私はそんな風に思うのです。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 22:06 | Comment(6) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

私が新卒採用の時にどんな準備をしたり何を考えているか、というお話


新卒採用の二次面接に駆り出されるようになって結構な期間が経ちました。どういうわけか、毎年のように人事部署からお声がかかります。


私は単なるシステム関連部署の責任者なので、本来は人事担当でもなんでもありません。当社の新卒採用では、責任者がグループ面談のような形で新卒の方とお話をするので、システムの仕事を特に希望していない新卒の人についてもちょくちょくお話をすることになります。なんだかんだで、結構な数の学生さんとお話しました。

面接するスキルがあがった気は一向にしませんが、一応毎回毎回色々考えながら面接をしてはいるということで、ちょっと「自分がどんな準備をしたり何を考えて新卒の方とお話しているか」というのを書き出してみようと思います。

「こんな考えの面接担当もいるんだ」ということで、何かの参考にでもしていただけたら。


準備その一:各部署の採用計画を確認して、どのチームに配属することを想定しているのか聞いて回る
準備その二:配属されるチームと想定される育成計画から、会社はどんな人に来て欲しいのかなーという基準を考える


当たり前のことなのですが、会社において「どのチームの人が足りないのか」というのは年度ごとに違います。そして、新卒で採用された人は人が足りていないチームに配属される、訳ではありません。なぜなら、人が足りていないチームというのは、人を育てている余裕もないから。

新卒採用に即戦力を求める人は社会人としてちょっと頭おかしいので、新人さんにはちゃんと一から仕事を覚えてもらわなくてはいけませんし、マネージャーは仕事を覚えてもらう為の育成計画を立てないといけません。で、「どのチームで」仕事を覚えてもらって、「最終的にどのチームに」配属されるのか、というのはその時々によって違うので、まずそれを確認しておかなくてはいけません。


で、これも当たり前のことなのですが、どのチームに配属されるかによって、新人さんに持っていてほしいなーと思うスキルはちょっと異なってきます。


例えば、営業部署やカスタマーサポートの部署など、直接人とお話をするチームであれば、相手の話をよく聞いて、相手の感情をくみ取る能力とか、短時間で適切な回答を返せる能力とかが重要になってくるかもしれません。

例えば、経理や総務など、事務的な作業が多いチームであれば、決められた課題をスケジュール通りにこなせる能力とか、数字に対する親和性とかが重要になってくるかもしれません。

例えば、システム開発を行うチームであれば、論理的な思考にどれだけ長けているかとか、ある程度数学的な素養があるかどうかとか、勉強が好きかどうかなんかが重要になってくるかもしれません。

どの部署に配属されるにしても、例えば学習能力とか、人と話をするのが苦にならないかとか、共通して必要とされるスキルはもちろんあるので、そういうものについてもなるべく確認したいなーと思っています。


勿論新卒の方にも配属希望はあるので、それも併せて、「この採用枠では、どんな能力がある人に特にきて欲しいかなー」というのを最初に想定して、それを他の責任者の人ともすり合わせしておきます。これが第一段階です。



準備その三:履歴書やPR表から、上記の基準に合わせて何を聞いてみたいか、また何を聞いてもらいたがっているかを考える


上記にそって、「どんな質問をすれば、上のような能力についてわかるかなー?」と考えます。その際、例えば履歴書とか、学校での成績表をよく読んでおいて、関連しそうな項目について、色々細かいことを聞いてみます。

基本的には、新卒の方にはどんどん自己アピールをして欲しいので、なるべく話しやすそうなテーマから順番に選ぶようにしています。何かしらの突っ込みどころが用意してある履歴書も多いので、そういう突っ込みどころについてはまず突っ込んでみたりもします。余りにもあからさまなのはスルーしちゃうこともありますが。

なので、面接者から投げかけられる質問は、出来れば「越えなくてはいけない障害」ではなく「アピールのチャンス」と解釈して欲しいなあ、とは思います。

学習能力や理解力があるかどうかは、仕事の分野によっても変わってくるので一概に見分けるのは難しですが、「ある分野に対して興味をもって、その分野を掘り下げることが出来るかどうか」「掘り下げた内容を人に説明することが出来るかどうか」「わからないことがあった時どのように解決しようとするか」「分からないことをどうやって発見するか、という問題把握能力」などについては、ある程度一般的な基準になるだろうと思っています。

私自身は、例えば大学での研究や勉強などのエピソードを色々聞く中で、上のような話について確認してみることが多いです。

私は自分の知らない専門分野の話を聞くのが好きなので、成績表を見て、その人の専門分野について聞くことも多いです。これは、上の方で書いた「学習能力があるかないか」を確かめる為の質問のつもりです。この時、凄く楽しそうに話す人についてはいい印象が残ることが多いです。その人は、「好きなこと」を自分の専門として、それに打ち込める人だ、と私は考えるからです。

一方、「好きだからその分野を選んだ」といっておきながら、自分の専門分野について全く楽しくなさそうに話す人もいて、若干首を傾げるときもあります。どうせなら専門分野については楽しく話すといいんじゃないかなあ、と思います。

ありきたりな質問をしてもありきたりな答えしか帰ってこないということは面接する側もわかっていますし、マニュアル通りの答えだったらマニュアル通りだとわかります。なので、一般的な「面接のコツ」とか「面接のマニュアル」的なものを読むよりは、自分の履歴書と成績表を見て、「これを見たら面接する人はどういう質問をするかなあ」、ということを考えておいた方が有益なんじゃないかと思います。面接する側の気分になるの重要です。


いわゆる面接での作法みたいなものについては、私自身が良く知らないのであんまり気にしません。私自身は服装さえほとんど気にしません。気にする人は気にするんでしょうが。



○実際に面接する時に気にするところとか気になったところとか

何点かあります。

・はきはき喋れるのはいいことですが、急いで答える必要は全然ないです。迷ったらちょっと考えてもらっても全く問題ないですし、きちんと考えて真面目に答えてもらった方が、少なくとも私はいい印象を受けます。

・緊張するのは当たり前のことなので、面接する側としてはそれは割り引いて考えます。なので、例えばちょっとした言い間違えや、ちょっとしたつまりを気にする必要は全くないです。アナウンサーじゃないんですから、噛む方が普通ですし私もよく噛みます。

・注意して聞いていれば突っ込みどころがある業界説明をしてみて、終わってから「何か分からないことはありましたか?」と聞いてみる、というのをやってみて、適切に突っ込んでくる人は注意力がある人だなーと感心します。

・自分の履歴書や成績表は、事前によく読んでおいた方がいいんじゃないかなあと思います。

・新卒の方々は、これから社会に出ようというルーキーであると同時に、大学でやってきた分野については自分以上の知識を持っているエキスパートである、と、少なくとも私は考えています。だから、自分が大学でやってきた勉強や研究については誇りをもって欲しいなー、と思います。ボランティアの経験だとか、サークル長の経験も勿論貴重なのかも知れないですが、それ以上に、「ある分野についてきちんと研究してきた」という成果を説明してもらうことが、私にはとても重要な話に思えます。

・何か質問ありますか?と言われても、そうそう質問なんか思いつかないですよね。そりゃそうです。どんな風に聞けば、「分からないこと」「聞いておいた方がいいこと」を発掘出来るか、いつも考えています。その一方で、自分でも抜けていたことについてびしっと質問が来たりすると、おおっと思います。



と。

長々書いて参りました。これから新卒採用を控えている皆さまは、大変なこととは思いますが、体を壊さない程度に頑張って頂ければと思います。もし縁があって一緒に働くことになったらよろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。


以下はかなり昔に書いた関連エントリー。


posted by しんざき at 22:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

つまづいた子に勉強を教えるノウハウ、ないし円周率は3.14がちょうど良かったというお話


昔、家庭教師やら塾講師やらで、小学生中学生に国語や算数を教えていたことがありました。


家庭教師や塾講師の仕事というのは、基本的には「子供の出来ない部分をどうやって発掘するか」という一点に尽きます。

家庭教師や塾講には、ざっくり言って二つのパターンがあります。「受験の為に、出来る子をもっと伸ばしてあげる」授業と、「学校の授業の為に、出来ない子をなんとか救い上げてあげる」授業です。

私がやっていたのは、どちらかというと学校の授業についていけなくなってしまった子の為の、救い上げの作業が専らでした。この作業には、「学校のテストで何点が取れるか」という、非常に明確な指標があります。

テストでいい点がとれるようになると、本人も親も喜んでくれて時給も上がります。テストの成績が上がらないと割とすぐに切られます。ある意味ひじょーーにシビアな世界でした。

私は、自分の研究そっちのけで、子どものテストの点数をいかに上げるかを考えていました。

子供は、自分が出来る、自分に分かる範囲の勉強については、ある程度放っておいても勝手にやってくれるもんです(少なくとも、家庭教師をわざわざつけようというくらい、子どもの教育に気をつかっている家庭では)。しかし、元々出来るところを繰り返しやっていても、50点未満を取らないようにはできますが、70点、80点をとれるようにはしてあげられません。

子供の成績を上げる為には、

1.どこでつまづいているのかを発掘する
2.つまづいている理由を検討する
3.それを解決する為にはどうすればいいかを考える
4.本人をその気にさせつつ、3で考えた解決法を実施させる

という4ステップが必要になります。これ、最初の1回をスムーズにやることが一番重要でして、「あ、すごい、分かる!」と感じてくれると、それ以降の勉強に対するモチベーションが全然変わってきます。逆に、「このにーちゃん何言ってるのかよくわかんない」と感じてしまうと、以後全然話を聞いてくれなくなります。子どもはシビアです。

だから、最初の1回で、なるべく分かりやすい形で、「つまづいているところの発掘と解決」をしてあげないといけません。ここが、教える側としての最大の腕の見せ所だったと思います。


で。


算数の話なんですけど、小学校高学年くらいで「算数が苦手」っていう子って、割とつまづいている場所のパターンが限定されているんですね。大体、小1や小2くらいには何の問題もなくできていたんだけど、小3、小4くらいの基礎的なところをなんとなく分かった気になって通り過ぎてしまって、小5や小6で応用的な部分が出て来た時には全然わかんなくなっちゃった、というパターンが殆どでした。

算数というのは積み重ねですから、苦手な子の中には、びっくりするくらい基本的なところで躓いちゃってる子も珍しくありませんでした。「分数の文章題が苦手というからよくよく聞いてみたら、実は2桁×2桁の掛け算があやふやでした」とか、よくある話でした。

以前、「割り算の筆算がわからない」という子の為にどんな風に教えていたか、という記事を書きました。


興味がある方はよかったら。「割り算ではなく、何個入るかな算として教える」というのが一番のポイントでした。


そんな中で、「図形の文章題がよくわかんない」という子が、小学校高学年から中学校初頭くらいで結構いました。

図形の文章題って、例えば補助線の引き方とか、図形の捉え方とか、そういうところでつまづいてるのかな?とか、大人としては思っちゃうじゃないですか。

勿論そういうパターンの子もいたんですが、もっと多かったのが、「図形以前に、もっと基本的な計算のところでいい加減な理解しかしていなくて、結果的に計算しても数字が合わなくって訳わからなくなってる」というパターンでした。

こういうパターンの子を見つける為に、円周率の3.14っていう数字が絶妙だったりしたんですよ。

小数第二位までの計算って、小数の計算方法がわかっている子には簡単にできて、小数の理解がいまいちな子には出来ない、一番絶妙なところなんですね。3.1、だと乗算で繰り上がりが発生しないし、計算が単純だからなんとなく計算が合ってしまう。3.142、だと分かってる子でも計算ミスがちょこちょこ起きるし、計算が煩雑になって教えにくくなる。


3.14。ちゃんとわかってないと合わない。分かってると簡単。

「数学的に正しいかどうか」というのは、勿論とても重要な話です。

ただ、小学校の算数が「教育」である以上、そこでは「教育の材料として適しているかどうか」も、同じくらい重要な指標として考慮しなくてはいけません。


円の面積の求め方って、小学校6年で勉強します。当然、円周率も6年の課程です。

けど、小4や小5の「整数の除法」とか「小数の加法・減法」「乗数や序数が小数の場合の乗法及び除法」辺りでつまづいたまま6年に入っちゃうと、他のところでてきめんにつまづきまくります。

「分からないところ」を釣り上げる為のフックが必要。そして、そのフックには「ちょうど良さ」が必要です。


ちょっと前に、3.14という中途半端な数字について、数学としての精密性とか、有効数字の意味とか、いろんなところから議論になっているのを見かけました。精密に教えないなら「おおよそ3」で別にいいじゃねえかとか、まあ色々、それぞれ説得力があるお話だったと思います。

ただ、3.14っていう中途半端な数字が役に立つこともあるんだよ、と。少なくとも私にとっては、何人かの生徒を算数嫌いから救い出せた、結構大事なフックだったんだよ、と。

そんな側面もあるということをお伝え出来たらなあ、と思ってこの記事を書きました。


今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 00:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

プロに対して、ネットで見た情報だけを情報源に批判をふっかけるのは避けた方がいい

いや、わざわざ書くまでもない、当たり前の話のような気はするんですが。


ちょっとふぁぼるのを失念していたんですが、Twitterで、「最近、患者さんが「ネットで見たんだけど」という情報を元に医療方針に色々文句を言ってくる」というお医者さんがいた、というような話を観測しました。まあ、ちょこちょこ聞く話だとは思います。


私、ちょっと前にこれと同じ様な話を、前の会社で同期だった友人から聞きました。彼はアプリケーションエンジニアでして、その時は患者の側でした。

その時、私は彼とこんな会話をしました。


元同期「この前○○の再検査で医者にかかったんだけどさあ」

私「あー、なんか大変だったみたいね」

元同期「別に文句言った訳じゃないんだけどさ、「ネットではこの症状は××って書いてあったんだけどどうなんですかねー?」って言ったらすっげえ嫌な顔されて、「体調に関して、ネットの情報を鵜呑みにするのはやめてください」って言われたわ」

私「いやそりゃそうだろ。お前、クライアントに「ネットではiOSアプリの開発は簡単って書いてあったんだけど、この工数かかり過ぎじゃないの?」とか値切られたら「じゃあそれ書いた奴に作らせろや」ってブチ切れるだろ?」

元同期「あーーー…それはブチ切れるわ…というか俺一回同じようなこと言われて実際にブチ切れたわ…」

私「マジか」

元同期「それでその客先と保守契約解除になっちゃって俺めっちゃ怒られて始末書書いたわ……」

私「なんかごめん」


いやまあ、このたとえ話が適切だったのかはちょっとよくわかりませんが。

ただ、一つ言えることとして、「仕事をしてもらっているプロに向かって、「ネットに○○って書いてあったんだけど(だからお前の意見はおかしい)」というのは、場面にもよりますが基本的には超失礼」ということは、当然の常識として認識しておいた方がいいんじゃないかなあ、と思いました。

だって、ネットでたまたま見つけた情報を、お金を支払っているプロの発言より信用するというのは、「私は、あなたが持っている専門知識よりも、どこの誰が書いたかわからないWebの情報を信用しています」と言っているのと同じことですもんね。



いや、まあ、多角的に情報収集すること、その手段の一つとしてネットを参照すること自体は、もちろん全然構わないと思うんですよ。Webの情報が時として非常に貴重かつ重要であって、思いもよらなかった解決法がそこから見つかることだってありますもんね。


ただ、幾つか認識しておきたいこととして、

・Webの情報は、別にあなたの為に書かれたものではなく、あなたの個別の事情や状況など何も勘案されていない
・Webの情報は玉石混交であって、場合によっては虚実ごちゃまぜでもあって、それ「だけ」を信じるのは非常に危険である(特に医療については)
・情報発信者が誰かが明示されていない場合、その情報は全くのド素人が書いたものかも知れない。そしてあなたにそれを判断する術はない

という点はあると思うんですよね。というか、Webで情報収集する際、必ず頭に入れておかなくてはいけない必須認識なのではないかと。



以前、「安易な気づき」の危険さについて、何度か書いたことがありました。


今までなんとなく信じていたことが否定されて、「そうだったのか!知らなかった!」となる。既存観念の否定に始まる気づきというのは、時として非常に気持ちよく、魅力的です。

ただ、その気づきが本当に妥当なものなのかどうか、保証してくれる人は誰もいません。例えばそれが「既存の医療に対する否定」であったりすると、話は非常に厄介で、即座に自分の身の危険としてふりかかってくることになりかねません。


Webで情報を収集する際は、くれぐれも「それが本当に妥当なものなのか」慎重に判断しないといけないなー、と。

ましてや、それを「お金をとっているれっきとしたプロ」に投げつけるなどということは、よほどのことがない限りド慎重にした方がいいんじゃないかなー、と。


そんなことを改めて考えた次第なのです。


今日書きたいことはそれくらい。




posted by しんざき at 17:11 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

「説明書を読まなくても遊べるように考えるのが当然」という概念が割と最近のもの、ということは忘れてはならない

タイトルで完結しているんですが。


レトロゲームを遊んだり評価する時に、「説明不足過ぎわけわからん」という言葉を聞くことはよくあります。

「昔のゲームはシンプルだった」と述懐されることが時折ありますが、実際のところ「昔のゲーム」というのは括りとしてはちょっとデカ過ぎます。「ドンキーコング」や「ギャラクシアン」辺りの最初期の固定画面型アクションゲームやSTGならまだしも、ある程度時代を下ったRPGやSLGの中には、今のゲームですら相手にならない程複雑なゲームが山ほどあります。悪魔城ドラキュラIIを、アイギーナの予言を、バベルの塔を遊んだうえで、それでもなお「昔のゲームはシンプルダナー」と言える人が、果たしてどれほどいるでしょうか。

最近のスマホゲームなんて非常にシンプルなタイトルが山ほど出ている訳で、「昔のゲーム = シンプル、最近のゲーム = 複雑」なんて図式を単純に信じてしまっている人は、昨今のゲーム事情をよくご存知ない方と断定してもいいくらいでしょう。


それはそうと。

近年こそ、「ユーザーは説明書を読まないもの」というのはデベロッパーにとってある程度常識になっておりますし、ゲーム内で様々なチュートリアル的な工夫が行われることも珍しくはなくなっておりますが、かつてはそれは「常識」ではなかった、ということは頭の片隅においておく必要があると思うのです。

遊び方、だけの話ではありません。ストーリーが、世界観が、ゲーム攻略上の重要なヒントが、説明書にはしばしば記載されていたのです。ワルキューレのクジラについてだって、ドラクエ3のオリビアの呪いについてだって、説明書を読めばちゃんとヒントが書いてありました。


かつては、説明書は「セットで読む」ことが想定されたものだった。

かつてのゲームは、「一緒に説明書を読んでもらう」ことを想定されてデザインされていた。


となると、「説明不足過ぎ」「理不尽過ぎ」という言葉をゲームに投げつける前に、まず「自分がこのゲームの説明書を読んでいない」ということは計算に入れておいてしかるべきなのではないかなあ、と私は思うのです。


いや、勿論、工夫自体は色々とありました。別に、「説明書を読まないユーザー」「説明書無しで貸し借りされるゲーム」というものが、最近まで開発者に感知されなかった、という訳ではありません。ゲーム開発者は、ゲーム内だけでなるべく多くの情報をユーザーに届ける為に、色々な工夫をしてきました。

例えば、「なかまにするならせんし そうりょ まほうつかいのさんにんがいいぜ。ひっく!」と教えてくれる酔っ払い。

例えば、ジャングルウォーズで「こらこらパンツをはきなさい」と、さりげなく装備コマンドの存在を示唆してくれるお父さん。

ただ、それらは徹頭徹尾「追加の工夫」であって、必要な数多くの情報が、説明書に詰め込まれていたことに変わりはないのです。

かつてのゲームの説明書は、教科書であり、参考書であり、小説であり、辞典でありました。説明書には、そのゲームの遊び方が、世界観が、キャラクターが、製作者がユーザーに届けたい思いが、そのままに詰まっていたのです。

「げーむのせつめいしょ」というサイト様があります。ファミコン、スーファミの色々なタイトルの説明書内容を記載しているサイトで、いつも色々な情報を参考にさせて頂いています。


たとえば、「キングオブキングス」という名作ファンタジーシミュレーションがあります。非常に良く出来たゲームなのですが、当時のファミコンキッズたちが、説明書なしでそのゲームシステムを理解することはかなり困難でした。



たとえば、「株式道場」というゲームがあります。ゲーム自体がエラい複雑なこともさることながら、その説明書の密度は凄まじいもので、中にはゲームと直接関係ない株式の用語の記載までありました。



たとえば、STG面での謎解きの理不尽さが時折話題になる「スーパースターフォース」の説明書には、各ステージの謎のヒントがきちんと記載されています。



説明書の重要性、そして説明書の凄まじいバラエティというものを、少しは感じて頂けるでしょうか。


つまるところ私が言いたいことは、

・一見理不尽に見えるゲームタイトルでも、実は説明書に色々書いてあるかも知れないからあながち理不尽とも言い切れない
・説明書は、もしも手元にあるならばきちんと保存し、ちゃんと読むべきである
・ゲームの説明書はただ読んでるだけでも十分面白い
・ところで半熟英雄の説明書でアドバイスを書いているバケラッタ・こんど〜さんは一体何者なのでしょうか


ということだけであり、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 20:22 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月16日

エスカレーターの問題を真剣に解決しようと思ったら多分インフラ的に対応するしかない

というか、インフラ的に対応すれば一発で解決するので、もうインフラ的に対応しちゃえばいいんじゃないかと思います。


こんな記事を読みました。

エスカレーターに乗っている最中に転倒する事故を減らそうと千葉市は、エスカレーターでは歩いたり走ったりせず、立ち止まって乗るよう呼びかける取り組みを始めました。
市によりますとエスカレーターは、立ち止まって乗ることを前提に設計されていますが、急いでいて歩くなどしている人のために片側を空ける習慣が定着しています。千葉市内では、おととし、エスカレーターで転ぶなどして30人余りが救急搬送されたということです。

なにせ問題が「片側を開ける」という誤ったマナーの定着と同調圧力なので、呼びかけだけで改善するのはかなり困難、ないし時間がかかると思います。「エスカレーターで右側に立っていた為に、後ろから歩いていた客とトラブルに」みたいな話もしばしば挙がります。なんだかんだで私自身、自分が右側に立って後ろに人が大量に並んでいれば、恐らく落ち着かないと思います。


とはいえ、エスカレーターでの片側寄りや歩行が事故の一因となるのはおそらく事実のようで、日本エレベーター協会さんのFAQでも「走ったり歩いたりしてはいけない」と明記されております。


「本来であれば歩行するようには作られていない」インフラに対して、「歩行しやすいように片側を開ける」ということがマナーとして定着しているというのは、冷静に考えると異常な状態です。また、「片側は空いているけれど誰も空いた側を歩いていない」という状況もよく見る話で、純粋にエスカレーターの輸送可能人員が半分になってしまって非常に効率が良くない。


ちなみに、「エスカレーターで片側を空けていると、荷重が片方に寄って故障の原因に」という話も読んだのですが、こちらは明確なソースが見当たりませんでした。実際に荷重による偏摩耗が故障の原因になった例ってあるんでしょうか?どなたかご存知だったら教えてください。


ともあれ、単純に「歩けないようにする」というだけであればインフラで解決すれば一発なわけで、幾つか方策を考えてみました。


○エスカレーター乗機位置の前方・後方に柵を設ける

横から見るとこんな感じです。

エスカレーター.png

つまり、前に行く際に柵があって、そこを越えるのにコストを必要とすれば良い。前方・後方に柵状のものがせり出すような作りにしてやれば、「エスカレーターを歩く」こと自体が困難になり、エスカレーターを歩く人は消滅。必然的に片側寄りのマナーも消滅する筈です。


○段差の高低差を広げる

同じく障害的なアプローチ。

エスカレーターその2.png

単純に段差を高くしてやれば、段差を乗り越えてまでエスカレーターを歩こうとするチャレンジングスピリッツな人の数は逓減し、結果的に片側寄りのマナーも消滅する筈です。ただコレ、後方に足を踏み外した時にかなり危ないので、結局柵的なアプローチは必要かも知れないですが。手すりを掴めばまあ大丈夫かも知れん。


○手すりと手すりの間に棒を渡す

考え方としては柵と同様。
エスカレーターその3.png


ただ、「下からせり出す」のではなく、「左右の手すりを渡っている」というのがポイント。結果的には籠のような形になり、同じくエスカレーターを歩くことは困難になる筈です。え?絵の意味が分からない?考えるな、感じるんだ。


恐らくどのアプローチも技術上はシンプルかと思うのですが、実施に至るコストについては全く考えておりません。

ご検討の程よろしくお願い致します。

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posted by しんざき at 12:06 | Comment(13) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月09日

Appbankさんの問題について、すごく基本的なところから、なるべく簡単な解説を試みてみます

なんか、一連の流れをみていて、ふとなるべくわかりやすい形で解説してみたい衝動に駆られました。

既出だとは思うのですが、「コーポレート・ガバナンス」とか「企業コンプライアンス」といった言葉について、あまりご存知でない方向けの一般的な解説記事です。

ご存知の方には読む価値がない内容なのでご了承ください。



株式というものがあります。会社に参加する権利、みたいなもので、株式会社は株を持っている人のものです。多く持っている人程、その会社での発言権が大きいです。

・株式は、売ったり買ったりすることが出来ます。買いたい人(会社に参加したい人)が多いと、株式の値段は上がります。反対に下がることもあります。

・「株式上場」という制度があります。会社の株を証券取引所が扱うことで、たくさんの投資家がその株を売買できるようにする制度です。株式公開とか、IPOとか呼ばれることもあります。

・株式上場は、投資家にとってはその会社に投資することが容易になるというメリットがありますし、会社にとってはたくさんの資金を調達することが可能になるというメリットがあります。

・けれど、株式上場をするためには、幾つかの厳しい基準をクリアしないといけません。たくさんの投資家に株を取引きしてもらう訳ですから、しっかりとした信頼性のある会社でないと上場させられないよ、ということです。

・例えば「どれくらいの間、安定して事業を継続しているか」とか、「どれくらいの利益を挙げているか」とか、「どれくらいの株数があって、株式を安定して取引することは可能か」とか。他にも色々あります。

・その中に、「反社会的勢力との関わりがないこと」という基準があります。つまり、会社が暴力団や暴力団関係企業の資金源に使われると社会的に非常に良くないので、そういった勢力とかかわりがある会社は上場させてはいけないよ、という決まりなんですね。

・こういうことについて、ちゃんと法令に基づいて健全にやってるよ!というのを常に社内でチェックすることを企業コンプライアンスといいます。また、コンプライアンスを含めて、企業経営を健全に進めていくこと自体をコーポレート・ガバナンスといいます。

上場した企業は、コンプライアンスをきちんと行い、「うちは大丈夫だよ!」とか、「こんなことがあったよ!ごめんなさい!改善します!」ということを、株主や社会にきちんと開示・説明しなくてはいけません。

・これを企業の社会的責任とか、説明責任といいます。

・さて。上場する際の様々な基準については、会社を上場させる「証券会社」が責任を持つことになります。

・ここで、「監査法人」という人たちが出てきます。

・監査法人は、企業が健全な経営をしているかどうか厳しくチェックして、「この企業はちゃんとやってるよ」という監査結果を出してくれる会社です。株式上場する場合には、監査法人の「問題ないよ」という監査報告が必要です。ちゃんと適切なお金の使い方をしてるよ、といった点も、企業が提出した書類を元に監査法人がチェックします。

・監査法人が「大丈夫!」と言って、証券会社も「よし、監査法人も大丈夫と言ってるな。うちのチェックもOKだ。じゃあ取引所で取引してもOK」となれば、株式会社は上場することが出来ます。監査法人に「ダメじゃね?」と言われると上場できません。監査法人自身も、いい加減なチェックをしてると各処から怒られます。



さて。ここまでは一般的な話です。ここからが本題。


今回、Appbankは2015年10月15日に「東証マザーズ」という株式市場に上場しました。主幹事(主に株を取り扱う証券会社)は野村證券、監査したのはトーマツさんという監査法人で、日本の四大監査法人の一角です。(ちなみに、四大監査法人は「新日本」「あずさ」「トーマツ」「PwCあらた」ですが、今新日本監査法人は東芝の問題でエラいことになってますし、あずさもオリンパスの問題で怒られました。案外監査法人さんのポカというのはあるもんです)

当然、Appbankもトーマツさんによって、「この会社は大丈夫!」というチェックをしてもらった上で上場した、ということになります。


ところが、12月になって「元役員の業務上横領」などという事件が判明してしまったようです。この経緯は、Appbank自身によって開示されています。上記の通り、上場会社には「たくさんの投資家に投資してもらう」という関係上、自社の怪しいところは全部きちんと開示しないといけないという責任があるんですね。


当該元役員の方は、2015年の4月まではAppbankの役員であり、9月までは支払経理業務に携わっていたということで、時期的には上場審査の時期と被る可能性が高いです。

横領自体も、「株主のものである資産を、会社の利益と関係ないところに横流ししていた」という超大問題なわけですが、もし万一、この対象が反社会的勢力であって、「役員」という会社のど真ん中にいる人に反社会的勢力とのつながりがあったということになれば、「アレ?反社会的勢力とは関わりがないから上場出来たんじゃないの?」というところに抵触する、より一層の超大問題なわけなのです。

上記の通り、上場企業には社会的責任や説明責任があるので、これらの疑いについてはきちんと「こういうことだったんだよ!だから大丈夫!」とか、「こういうことでした!ごめんなさい!改善しました!」といった説明を詳細にしなくてはいけません。上の調査報告も、その責任に基づいて開示されたものです(こういう、企業からのいろんな説明や開示をIRといいます)

ただ、今回一部メディアの方は、「いや、それ説明になってないんじゃないの?」という突っ込みを入れている、ということなんですね。

その突っ込み内容は、突っ込んでいる記事の方を読んでいただければと思います。




ところで。

もし万一、上場企業に「会計監査が全然できてないじゃん」とか、「反社会的勢力とつながってんじゃん」ということが判明した場合、その企業は監理ポストに入ったのち、上場廃止になる場合があります。

上場廃止の基準は下記のページなどにまとまっています。

有価証券報告書等に虚偽記載を行った場合であって、直ちに上場を廃止しなければ市場の秩序を維持することが困難であることが明らかであると当取引所が認めるとき

ま、本当に反社チェックに引っかかって上場廃止されるケースはかなり稀なようですが。


今、Appbankの株式には、「○○円で買うよ!!」という値段がついていて、みんながその値段で取引をすることが出来ます。Appbankの株は今、株式公開によって高い水準になっているので、売却すれば大きな利益を手にすることが出来ます。

ただ、万一、万一上場廃止された場合には、そういった「市場での取引」というのはできなくなってしまうんですね。倒産しない限りは、株券の価値がゼロになるということはありませんが、市場外で取引をする場合には「その株を引き取ってくれる人」を見つけなくてはいけません。何かの問題で上場廃止になった場合、その株券を引き取ってくれる人を見つけるのは結構大変です。


上記までの話とは全く全然関係ないんですが、今Appbankの株は、かなりの割合を役員の方が保持されています(特にベンチャー企業としては、まったく珍しいことではありません)。

参照:

ここで、「180日間のロックアップ」と記載されているのは、IPOしてから180日は株式を売れないよ、ということです。10月15日に上場ですから、4月中旬くらいまでは株を売れないということになります。まあ、万が一にも上場廃止なんてことにはならないでしょうし、大した問題ではないですよね。問題ない問題ない。


何にせよ、疑義がすべて明らかになって、Appbankが今後とも健全な経営を続けていかれることを、強く望んでやまないというわけです。今後とも状況を観測してまいりたいと思います。



長々書いてまいりましたが、今日書きたいことはそれくらい。



(追記 2016/02/10 18:17)
すいません、一点記事を訂正させてください。
「監査法人の役割についての記載に誤りがある」というご指摘がありました。
IPOにおける監査法人の役割は、企業が提出した財務諸表(企業の経営状態とか、お金の状態などを示した書類)の監査に限定されており、反社状況のチェック等は行わないですね。巨額の業務上横領についてはなんで見逃したの、という話にはなるかもしれませんが。

当該している部分については記述を削除しました。失礼しました。

posted by しんざき at 18:56 | Comment(76) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月06日

ぼちぼちはてなブックマークを見るのをやめようと思う

正確には、ホッテントリはまだしも、少なくとも


はもうみなくてもいいんじゃないかという気が最近してきた。

元より、個人的に注目しているブログについてはRSSフィードでチェックしていたし、時事ネタをチェックするなら職場の新聞や新聞社のニュースサイトを見れば事足りる。技術的なニュースについての情報収集であれば技術サイトで見た方が遥かに精度が高いし、もう少し限定した範囲内でどんな記事が人気になっているのかという情報すら、twitterなり、まなめはうすのような個人ニュースサイトなりをいくつか見れば十分チェック出来ていたのだ。

私は、はてブの新着エントリーリストを、「自分がチェックしていなかった無名の面白い個人ブログを、誰か知らないはてブユーザーが拾い上げてくれること」を期待して見ていた。


そして、その機能はずっと、ずっと前に死んでいた。とっくの昔に分かっていたことを、今の今まで惰性と、ほんの少しの希望が繋ぎ止めていたのだ。


今となっては、はてブの新着エントリーリストには、いくつかのカテゴリーの「私が見たいと思わないもの」が散らばっているだけになっている。

・一部の悪質なゲーム系・アニメ系まとめサイトと、有象無象のそのフォロワー
・エントリーが上がった直後、光の速さで共感ブクマが3つつくポジティブなブログ運営記事
・新聞社のニュースサイトでチェック済の時事ネタ記事
・RSSフィードでチェック済の観測対象ブログ記事
・どこかで見た情報をつなぎ合わせただけのNAVERまとめとその眷属

ここに、私が見たいものは、ない。正確には、あるのかも知れないが、とっくの昔に観測出来なくなってしまった。

なんだろう。他に、はてブの新着エントリーリストで観測できるものはあるんだろうか。みんなは、はてブの新着エントリーリストを、何を期待して見ているんだろうか。


今に始まったことではない。やっと気づいたのか、と言われれば一言もない。万事、私の対応は遅いのだ。ブログのデザインも、そろそろ変えようかなーと思いながら11年くらい経ったがまだ変えていない。多分あと11年くらいしたら変えると思う。


ただ、今までずっと持ち続けていた一抹の希望を捨てるにあたって、ちょっと書き残しておきたくなった。それだけの話なのだ。


posted by しんざき at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする