2016年09月29日

無断転載やパクりが何故「悪いこと」なのか、可能な限り簡単に説明する

それは、元の作品やテキストを作った人から、いろんな利益や権利を「奪う」「傷つける」「横取りする」ことだから、なのです。これを「著作権侵害」といいます。

著作権侵害はれっきとした犯罪でして、罰則もあります。罰金が発生することもあります。

誰かが著作権侵害をすることによって、例えば「その作品を作った人」が本来得られる筈だった称賛、金銭的利益、知名度といったものが、他の人に横取りされたりします。それは、その作品を作った人にとっての不利益になります。

作品やテキストを作れる人が不利益を受けると、結果的に作品を作れる人、作品を作ろうと思う人が減る可能性があります。作品を作れる人が減れば、世の中から面白い作品が減ります。だから無断転載やパクりは、結果的にみんなの首を絞めること、自分の首を絞めることでもあります。

パクる人、無断転載をする人たちは、要するに「自分では何も面白いものを作れないけどチヤホヤされたい、お金を儲けたい」という人たちなので、そういう人たちの為に「自分で面白いものを作れる人たち」が損をして、面白いものを作れる人が減ってしまうのは大変な損失です。だから、パクリや無断転載は糾弾されなくてはいけません。なによりも、面白いものを作れる人が増え続ける為に、ということです。



以上の話は、「著作権侵害」という言葉を思いっきりはしょって説明したことです。思いっきりはしょっているだけに細部は色々とアレなので、以下、もうちょっとだけ細かく説明してみます。既に著作権が何かわかっている方には当たり前のことしか書いてませんが、ご容赦ください。


1.「著作権」ってそもそも何なの?


一言でいうと、小説や、音楽や、絵や、映画、写真などの「著作物」を作った人が持っている権利のことです。

「著作権」という言葉には色々な権利が含まれているのですが、これもざっくり言うと「ある著作物を作った人だけが、その著作物を利用出来るんです」という言葉になると思います。

その著作物を作ったと主張出来る人も、その著作物を公表出来る人も、その著作物に自分の氏名を表示できる人も、その著作物を改変出来る人も、その著作物を売って儲けることが出来る人も、全て基本的には「作った人(著作者と言います)」だけだよ、というルールが著作権法です。



2.「著作物」って何なの?ただの文章も著作物っていうの?

言います。ただし、例外もあります。

著作物の定義は、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」です。著作物にも色々な種類がありまして、論文や小説、音楽、歌詞、絵画、彫刻、漫画などの他、写真やプログラム、建築物なんかも著作物の範疇に含まれます。他にも色々あります。


上記の定義に当てはまらない、例えば単なる事実の記録、絵や図の模倣品、ごく短い表現や文章などは著作物として認められないことにはなります。

(その為、例えばtwitterのツイートが著作物にあたるのかどうか、といった点についてはいろんな見解があります。リツイート機能を使わないツイートパクリがTwitterの規約違反であることについては変わりありませんが)



3.著作者自身がWebで公開しているんだったら、それを転載したりパクるのは自由じゃないの?

全然違います。

著作権法には、「公衆送信権等」という権利が定義されています。「著作者は、その著作物について、公衆送信(自動公衆送信の場合にあつては、送信可能化を含む。)を行う権利を専有する。」つまり、「著作物をたくさんの人に送信したり、あるいはインターネットでダウンロードできる状態にする権利は著作権者しか持ってないよ」ってことなんですね。


なので、例えば著作権者以外がWebに著作物をアップすれば、それは基本的に著作権法違反です。著作権者自身が公開しているかどうか、はなんの関係もありません。



4.著作権者以外が著作物を扱ったら例外なく著作権法違反なの?

例外もないことはないです。

著作権には、「著作権の制限」という項目が定められています。こういうケースの場合、それは著作権の範囲外だよ、という項目ですね。


ここでは、例えば「教科書に掲載するのはセーフ」であるとか、「自分だけで楽しむならセーフ」「営利を目的としない音楽演奏ならセーフ」みたいなセーフ条項も設定はされています。

ちょっと重要なのは「引用」の項目ですね。

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

引用の条件については「自分の主張が主であり、著作物は従でなければならない」「引用箇所が明確でなければならない」といった明確な条件がありますので、まあ丸パクリが引用にならないことについて疑問の余地はありません。ちょっとだけ語尾を変えたり、一行だけ感想を付け加えたり、というのも引用には当たらないでしょうね。


あともう1点、「著作者の許諾があるならセーフ」という条項もあるにはありますが、これも無断転載に適用されないことは言うまでもないでしょう。




5.まとめると何が言いたいの?

ここ最近、「パクり」「無断転載」という事例を観測することがあまりに多く、しかも割と若年の人に「著作権」という言葉の理解自体がないケースも散見されましたので、可能な限りシンプルに書いてみたい欲求に駆られました。自分の子どもに説明する時なんて言おうかな、という意識でもあります。

言いたいことは

・ややこしい部分もあるけれど、取りあえずパクリや無断転載はダメだよ!!!
・著作者がイヤな気分になると結局めぐりめぐって自分が困るからみんな無断転載はやめようね!!
・無断転載や丸パクリで金儲けしてる人たちはお願いだから滅びてください

という3点だけであり、他には特にないことを最後に申し添えておきます。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 17:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

大人になるってことは、思ったほど「大人になる」ってことじゃなかった

ちょっととりとめもない話になるかも知れません。


私は子どもの頃、「大人になる」ということについて、「出来上がる」ということなのかな、というイメージをなんとなく持っていました。少なくとも、「積み上げてきたものが、一通り積み上がる」ということではあるんだろう、というイメージを持っていました。


私の周囲にいた大人たちは、皆ある程度以上きちんとしていて、自分を制御出来ていて、自信に満ちていて、私に話す内容も説得力がある。少なくとも、子どもの頃の私にはそう見えていました。彼らは、少なからず「出来上がった」人間に見えました。

私が、かなり幸運な環境にいたということは確かなんでしょう。私の目から見ても、「反面教師」と言えるような大人は殆ど観測出来ませんでした。私はそこまで抑圧されることもありませんでしたし、倫理的におかしいんじゃないか?と思うような行為を見ることも殆どありませんでした。

だから私は、「大人」というもののイメージを、「なんだかすごくしっかりしたものだ」という形で持ち続けることが出来ました。

私は子どもの頃から、要らないことをあれこれ考え、たまには思い悩み、ただ大体はいい加減で、これ以上ないくらい自分に甘く、基本的に怠け者でした。必死だったこともあったような気はしますが、大体の場合、なんだかんだゆるゆると切り抜けてきたように、今となっては思います。


20歳になり、30歳になりました。私は独立して、結婚して、1回転職して、3人の子どもを持って、今では自分が家族を支えなくてはいけない身になりました。


当たり前のことなのかも知れないですが、私の精神は子どもの頃からの地続きで、大きく変わったという気は全くしていません。「大人になった」ということが「出来上がる」ということなのだとしたら、少なくとも主観的には、私は全く「出来上がって」いません。

私は相変わらず、要らないことをあれこれ考え、たまには思い悩み、ただ大体はいい加減で、これ以上ないくらい自分に甘く、基本的に怠け者のままであり続けています。私が、「大人になったなあ」と自分で思えたことは、これまで一度もありません。


ただ、ひとつ、なんとなく分かったのは、多分昔私の周囲にいた大人たちも、程度の差こそあれ、今の私とそんなに違いはしなかったんだろうなあ、ということです。

私の「大人フィルター」とでもいうべきものが強くって、しばらくの間忘れていたけれど、そういえば時には、彼らがしょーもないことを愚痴っていたこともあったような気がする。妙にテンションが低いなーと思ったことも、疲れてるなーと思ったこともあったような気がする。それでも、子どもの目から見れば、彼ら大人は十分以上に大人だったわけですが。


おそらく彼らも、あれこれ思い悩み、時にはいい加減で、怠け者で、会社に行きたくない日もあって、それでも頑張って「子どもの前での大人」をやり続けていたんだろうなあ、と、今となっては思うのです。


大人というのは、「出来上がった人」「積み上がった人」では、多分なかった。いや、中にはそういう大人もいるのかも知れないのですが、どうやらそういう大人ばかりではなかった。


とすると、大人になるというのは結局どういうことだったんだろう。


今でも答えは出ていません。ただ、自分が大人であろうとそうでなかろうと、自分に出来ることだけを真剣にやろう、ということだけは決めています。


子どもに対して真剣に接しよう。
自分で生きる力を身に着けられるように、自分で考える力を身に着けられるように、過干渉でなく、不干渉でなく、出来る接し方をしよう。
出来る範囲で健康に気を付けよう。
家族が食べられる程度に収入を確保し続けよう。


幸いなことに、私の人生の方向性は、守るものを持つ以前よりはずっと単純になりました。今の私は、自分がどっちに進んで行きたいのか、何の疑いもなく確信出来ています。

だから私は、自分が進んで行きたい方向に進み続けようと思っています。

怠け者でありながら、あれこれ思い悩みながら、それでも自分が信じた方向になんとか進んでいく内に、いつか「大人になった」と思えるかも知れない。


そんな風に思う次第なのです。
posted by しんざき at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

子どもの泣き声を完全に防げないとしたら、どんな妥協案があるんだろう


正直なところ、結論が出る話でもないんですが。


こんなお話を読みました。


これ、どうしたもんなのかなー、と。妥協案ってどっかにあるのかなーと考え込んでしまいまして。

リンク先のご家庭の場合、最終的に引っ越しをされて、それで事態を収束されたわけですが、引っ越しなんて本来なら最終手段ですし、金銭的、その他の事情で引っ越しが出来ない家庭の場合、これ本当に詰んじゃうよなーと。そういう場合どうすればいいんだろう、と。


先に自分の立場を明示しておくと、しんざきは3児の父です。上が小3の男の子、下が4歳の長女次女の双子。幸い今までは、周囲が子育て家庭ばかりでお互い様だったこともあり、また騒音が大きな問題にならない環境で、泣き声がしんどい時期は過ぎ去りつつあります。ご理解のある周囲に感謝するばかりです。


で、冒頭リンクの話に戻るんですが。

ブコメを見ても、大多数の人は子どもの泣き声に寛容でいてくださっています。それは本当にありがたいことで、実際殆どの場合、子どもの泣き声って許容して頂いていると思うんです。ご許容頂いている皆さま、本当にありがとうございます。


ただ、中には勿論、「そうはいっても騒音は騒音」「自分の子どもならともかく、他人の子どもの泣き声まで我慢出来ない」というご意見もありまして、いや正直、そのご意見もよくわかりまして。

親としては、申し訳ございません、努力してるんですが限界がありまして、なんとかご理解を、という他ないんですが、今回のケースの「隣人」という方も、結局はその辺、どうやっても許容出来ないケースだったのだろうと推測されます。



まず第一に、これは一般的に言ってしまっていいと思うんですが、子どもの泣き声を「完全に」防ぐことは正直不可能なんです。


もちろん、子どもによってある程度個人差はありますし、年齢によってもだいぶ変わってはきますが、少なくとも生後六カ月〜1,2歳くらいの時期であれば、何をどう頑張っても大泣きすることを防ぐことが出来ないケースは頻繁にあるでしょう。3歳くらいから多少コントロールが出来るようになる子もいますが、それだってもちろん個人差があります。

親は勿論、子どもが大泣きしたらあの手この手で泣き止ませようとするわけですが、それにしたって限界があります。乳児の頃なんて躾がどうとか以前の問題ですし、気を引いて泣き止ませようにもそもそも周囲のものを見てもくれない、なんてこと全然珍しくありません。

たとえ気を引くことが可能な子どもであっても、毎度毎度おやつで釣る訳にもいかないですし、ギャン泣きしてる子どもにテレビ見せたってiPad見せたって泣き止まない時には泣き止みません。余程分かりがいいお子さんを育てているご家庭以外、これは大抵の親御さんに理解していただけると思います。


つまり、

「どんなに頑張っても努力しても、子どもの泣き声を防ぐことが出来ないケースはある」
「その頻度は、子どもによっても変わるし年齢によっても変わる」

という二点は、ある程度前提として考えるべきだと思うんですね。子どもは「泣くのが普通」なんです。これ、別に「だから泣き止ませようと努力しなくてもいい」という話でもないですし、「親の開き直り」ととられてしまうとちょっと困ってしまうんですが。最大限泣き止ませようと努力した上で、それでも泣くのがふつう。

リンク先の隣人の方が、それを承知されていたのかどうかはちょっと分かりません。わかっていても我慢出来ないものは我慢できない、ということもあるでしょうし。


その上で。


冒頭リンクのご家庭は、記述内容を見ても、恐らく通り一遍の対策は全てやられたのだろうと推察します。子どもが泣き始めたら窓も閉められたでしょうし、何か気を引こうとも試みられたでしょうし、例えばトイレやお風呂場にこもって防音を試みられたこともあったでしょう。

が、恐らく建物の防音性の関係もあり、それでも泣き声が隣家に届くことを防げなかった。恐らく、ご近所付き合い的にも難しいところがあったのではないかと推測します。


こういうケース、本当にどうすればいいんでしょうね?どこかに「引っ越す」以外の落としどころってないんでしょうか?


・親は泣き止ませる為に最大限努力している
・が、完全に泣き声を防ぐことは出来ていない
・住居の防音性が優れていない

という状態で、仮に

・金銭的、その他の問題で引っ越しも出来ない


としたら、一体どんな解決法があり得るのか。

揶揄ではなく、割と真面目に、「隣人」側に立つ人に「どんな落としどころを期待するのか」というところを伺ってみたいなーと思いました。妥協点って存在するのかなあ。突き詰めると本当に、警察事案になってしまうので何か平和な解決法はないのかと考えてはいるんですが。


今回の件とは直接関係ないんですが、以前、「公共の場で泣く赤ちゃんについて」は下記のような記事を書きました。



頑張って育児をされている親御さんのハードルが、少しでも下がることを願って止みません。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 10:12 | Comment(13) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月12日

創作における「リアリティ」の意味と、細かいことが気になる人、気にならない人のお話


この記事で書きたいことをまとめると、以下のような感じになります。


1.漫画や小説、映画などの創作における「リアルな設定」「考証」「リアリティ」といったものは、要するに視聴者を没入させる為の手段であって、目的ではありません

2.リアリティがどこまで気になるか、言い方を変えるとどこから「嘘っぽく」感じてしまうかというのは、ファールラインの問題であって、ジャンルによりますし人によります

3.嘘っぽく感じようが、リアルに感じようが、それは感覚の違いの話なので、お互い否定しない方が平和だと思います

4.自分の「面白い」「つまらない」という感覚を信じるのが大事ですよね


よろしくお願いいたします。


ということで、大体言いたいことはまとめてしまったので、以下は補足です。


まず最初に、リアリティとは何なのか。辞書的にいうと「真実性」とか「迫真性」とかいうことになるんですが、要するに「いかに本当っぽく思えるか」「いかに現実のように思えるか」というのがリアリティの本義である、筈です。

それが実際に現実である必要は全くなく、「視聴者・読者がそこに現実を感じるかどうか」がリアリティなので、ファンタジーものだろうがSFだろうが「リアリティ」のあるなしという話はついてまわります。ドラゴンボールだろうが、ジョジョだろうが、ウルトラマンだろうが、「リアリティ」論はテーマになり得ます。

リアリティがあれば、読者はその作品に没入出来る。リアリティがなければ、視聴者はその作品に没入出来ない。基本的に、創作の受けとり手は「その作品に没入出来れば出来る程」その作品を楽しむことが出来るので、「リアリティが優れている」作品の方が楽しみやすい傾向があるんですね。

要は、「リアリティがあるかないか」というのは、「その作品に没入してもらう為」の手段であり、尺度です。歴史を忠実に再現しようということが目的の作品でもない限り、リアリティそれ自体は「楽しんでもらう」為の手段であって、別に「リアルそのものを描く」ことは目的ではない、という話なんですね。ここまでは、別に一般的に語ってしまっていいと思います。


で。


漫画やゲームの話をしていると、たまーに「リアリティ」について驚く程感覚が違う人がいて、ちょっとびっくりすることがあります。


例えば、設定上の瑕疵について細かく指摘して、「この作品はダメ」と断言する人。

例えば、ちょっとした人物描写の行き違いについて論じて、「描写が嘘っぽい」と批判する人。


これ、別に「それはダメ」って話じゃないんです。ただ、私があんまり細かいアラや瑕疵に気づかないというか、たとえ気づいても全体として没入出来ればあまり気にならない方なので、正直「なんでそんな細かいこと気にすんのかな?」って感じてしまうことが多かったんですね。ここに、妙なすれちがいがある。


最近気づいたんですが、

・「リアリティ」を損なっていると感じるファールラインというのは、場所も感度も人によって物凄く違っていること
・更に、人によっては、ファールラインを越えた時点で、その作品全体を嘘っぽく感じてしまうこともあるということ
・更に更に、わずかでも「嘘っぽさ」を感じた時点で、作品全体を「つまらない」と感じてしまう人もいるということ

この辺が、その「すれちがい」の原因だと思うんです。


ちょっと前、こんな増田を読みました。


正論です。言われてみたら、そりゃそうですよね。って話なんですが
どうもこの、リアリティないセンサーが発達してる人が一定数いて
そういった人達は、リアリティないセンサーに反応が出てしまうと
急激に映像作品がつまんなく見えてしまうように感じ取れました。

騙された側は素直に騙されて、よかったよかったと言うので問題ないんですが
騙されなかった人達は
「みんな騙されるな!言うほど面白くないぞ!目を覚ませ!これはリアリティがないぞ!!」
って言ってしまうんですよね。


これ、凄くいろーーーんな作品に同様のことが言えると思っていまして。

私はゲームが好きなので、ゲームにたとえて話すんですが。例えば昔、「エースコンバット」というゲームについて、やはり「リアリティ」を問題にする人たちが実際にいました。


いわく。戦闘機にこんなにたくさんミサイルが積めるわけがない。いわく。戦闘機がこんな飛び方が出来るわけがない。いわくレーダーが云々、速度が云々、通信が云々。

そういったことを一通り指摘して、エースコンバットというゲームを「駄作」と断定するのが、そういった論の着地点でした。最近は流石にあんまり観なくなりましたが、「1」や「2」の頃は割とよく見る論調だったんです。


いやもう、指摘自体は全然間違いじゃないんですよ。「本物の戦闘機」というものをゴールとするならば、そりゃあエースコンバットはゴールを描写してはいないんです。

ただ、少なくとも私は、別に「本物の戦闘機」なんて求めてないんですよね。ただ、「戦闘機に乗ってる気分」「敵を撃墜している気分」になれればいい。もっといえば面白ければいい。その点、エースコンバットというゲームは、私にとって物凄く「リアリティ」がある作品だったんです。

要は、見ている部分も、求めているものも、問題としている部分も全然違ったんですね。まあ、なかには単に「戦闘機についての知識」を誇示したいだけの人もいたのかも知れませんが、そういった人たちにしても、エースコンバットが「not for me」だったことは間違いない事実でしょう。


これはちょっと極端な例なんですが、漫画でもゲームでもアニメでも映画でも、いろーーーんなジャンルで同じことが起きてるんじゃないかなあ、と。


例えば細かい科学考証なんて気にならない人もいて、けれど気になる人には気になって気になって、気づいた瞬間「こんなことも考証できてないのか、駄作だな」って思ってしまう。細かい人物の設定や感情描写に気づかない人もいて、けれど気になる人には気になって気になって、気づいた瞬間「これ矛盾してるじゃないか、つまんねー」って思ってしまう。


こればっかりは、要はファールラインの問題、「not for me」になってしまうかどうかのしきい値の問題であって、いい、悪いの話ではないんじゃないかと。


ただ、上の増田でも書いてあるんですが、時には「気になる人」が「目を覚ませ!これはリアリティがないぞ!!」と周りに呼びかけ始めてしまって、そこで「気にならない人」との間で衝突や軋轢が発生してしまうこともあるようなんですね。ジャンルによっては戦争になることもありますし、まああまりリアリティのあるなしで喧嘩してもしょーもないと私は思うんです。

「この作品にはリアリティがない!!」と感じて、そう主張するのは、全然問題ないと思うんです。ただ、他の人が感じている「リアリティ」までぶっ壊しにかかるのは、ちょっとどうかと思わないでもないです。別に、「自分が気になることが気になっていない人」にまで、水をぶっかけて回る必要はないんじゃないかな、と。


大事なことは、「自分の感覚を信じること」「けれど他人の感覚は否定しないこと」なのではないか、と。


私自身は、正直いって「細かいことはあまり気にならない人」ですし、それで損をした記憶があまりないので、今後も細かいことは気にしないで作品を享受しようと思っています。そして、「面白い」と思ったら細かいことを気にしないままに「これ面白いぞ!!」と主張します。「つまらない」と思ったらそう主張するかも知れませんが。


けれど、「細かいことが気になる」人の感じ方を否定はしませんし、それはそれで尊重しますただし、自分が「面白い」と感じたことについては妥協しませんし、たとえ「これはリアリティがないぞ!!」という意見に接しても、それを受けて評価を翻したりもしません。

そういうことも含めて、みんな「自分の感じ方」を主張出来る場所としてブログやってるといいんじゃないかなーとも思うんですが、まあそれは余談。

大体の人はそうしているんじゃないかなあ、と思いもするんですが。水をぶっかけあってプライベート・ライアンの世界になるよりは、そういったスタンスの方が世の中平和なんじゃないかなあ、と思った次第なわけです。



皆が幸せになれることを願ってやみません。



ということで、今日書きたいことはそれくらい。



posted by しんざき at 22:35 | Comment(6) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

「ジ・アトラス」における「ジ」がものすごくかっこいいという話

今からちょっと、すげー伝わりにくいであろう話をしようと思います。精一杯頑張りますが、私の言語能力には(割と低いところに)限界がありますので、伝わる人にだけでも伝わって欲しいという気持ちでいっぱいです。

英語の定冠詞の「ザ」ってあるじゃないですか。The。ザ・グレート・ラグタイムショーとかロウ・オブ・ザ・ウエストとか、あとバック・トゥ・ザ・ミーの出っ歯とかでみなさんにも著名ですよね。

で、あれ、母音の前だと発音変わったりするじゃないですか。ザじゃなくて、ジ、とかズィ、に。これ正確に言うと、母音の前だけじゃなくて強調の度合が強い場合にも変化したりするらしいですけど、まあ細かいことはどうでもいいんです。

この「ジ」って、私の個人的な感覚によると、明らかにザよりかっこいいと思うんですけど、まずこの段階で伝わりますでしょうか。伝わってますかね。あ、前列右側あたりのお客さん、大丈夫ですか?

いやほら、例えばジ・エンブリオンとか、ジ・エンドとか、ジ・オとか、センター・オブ・ジ・アースとか、なんというか凄く「ジ」が輝いてみませんか?ジ・オがザ・オだったらいやじゃないですか。お前どこのサオ竹やさんだよ、ってなりません?シロッコが「たけやーーー、さおだけーーーー」とか言ってるところとか想像すると、素直にジュピトリスでこつこつ頑張っとけばよかったのにジャミトフさん暗殺したりするからそんなことになるんだよ、とか思いますよね。思いませんか。うん、思わないかも。


で、そんな「ジ」のかっこよさブーストの中でも、最強にかっこいいというか、最も「ジ・」という定冠詞が光り輝いているのが


ジ・アトラス


あまりにもかっこいいのでもう一回書きます。


ジ・アトラス


だと思う、というのが今回の記事で私が言いたいことなわけです。めちゃくちゃかっこよくないですか?ジ・アトラスって言葉。超声に出して読みたい日本語ナンバーワンですよ。日本語じゃないけど。

だいたい、英語のタイトルをカタカナ日本語にすると妙にださくなる、というケースって多いと思うんです。「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」とか書くとあんまりかっこよくないと思いませんか?

けれど、ジ・アトラスに限っていえばカタカナの方が原題よりも遥かにかっこいいと私は思うんですよ。 「The Atras」よりも「ジ・アトラス」の方がかっこいい。間違いない。

なんでしょう、このかっこよさ。合計わずか5文字という絶妙なシンプルさ、「アトラス」という言葉自体の強そう感、更にそこに濁点が加わることによるパワーアップ感もさることながら、やはり「ジ」という語感のその圧倒的な力強さが核心的なパワーを発していると私は思うんですけど。


勿論いうまでもなく、ジ・アトラスは大航海時代をテーマにしたゲームなんですけれど、光栄の大航海時代なんかとは全然趣が異なり、「提督を派遣して世界の未踏領域を探索させるんだけど、提督が持って帰った報告を信じるか信じないかで世界自体が変化する」という独特なシステムで超面白いわけです。どんな突拍子もない報告であろうと、それを信じるとその通りの世界になる。なんかわけのわからないクリーチャーがいる大陸が出来たり、逆にアメリカ大陸が存在しなかったり、すごいおもしろ世界が作れたりするわけです。VCで出ないんでしょうか、ジ・アトラス。出たら買うんですが。


ということで、言いたいことはタイトルの時点で全ていったのでこれくらいにしておきます。


posted by しんざき at 16:18 | Comment(5) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

貧乳好きとロリコンを混同することは断固許容できない

タイトルで言いたいことの8割程は言いましたので、以下は補足です。忙しい方はブラウザのバックボタンとかで前のページに戻られること強くをお勧めします。

まず前提として、法に反したり人に迷惑をかけたりしない限り、趣味・嗜好はその人の自由であり貴賎はない、ということは確認させて頂ければと思います。天は趣味の上に趣味を作らず。嗜好の上に嗜好を作らず。犯罪に走らない限り、嗜好を否定出来る者は誰もいません。

その上で主張させて頂きますと、

「貧乳好きとロリコンははっきりと違う嗜好であって、混同されるべきものではない」

ということは申し上げておきたいです。


先日、こんな記事を書きました。


この記事の骨子は、要するに「貧乳好きには、ピュア貧乳好きと貧乳コンプレックス好きの大きな二つの派閥があって、その二つは結構別物だよ」ということでした。

で、この記事に対する反応で、「貧乳って要するにロリコンだろ?」というような、いささか短絡的な反応をする方がいらっしゃったのです。

これについては、私は明確に「否」と申し上げておきます。確かに、この二つの嗜好を同時に持っていらっしゃる方もいるかとは思いますが、少なくとも同じものではない。

もう少し言いますと、少なくとも「貧乳コンプレックス好き」について言えば、ロリコンとは明確に一線を画している嗜好だと申し上げることが出来ます。


何故なら、「貧乳コンプレックス好き」の骨子である、「膨らんでいない胸に対するコンプレックス」は、少なくともある程度成長期を過ぎていないと発生しにくいものだから(全く発生しないとまでは言いませんが)。

貧乳コンプレックスは要は精神的な特徴です。そして、多くの場合、貧乳コンプレックスは周囲との比較、あるいは「あるべき自分」との比較によって発生するべきものです。

そこから考えると、貧乳コンプレックスは、むしろ成長期を過ぎた大人の女性とこそ相性が良い。胸の大きさを気にする大人の女性とか、貧乳コンプレックス好きにおいては極めて一般的な嗜好対象であるわけです。必ずしもロリコンと貧乳コンプレックス好きが矛盾するわけではないのですが、方向性としては相反すらしています


ピュア貧乳好きにしても、「大人の女性の貧乳」を強く好む方は多くいらっしゃるでしょう。「全体として小さい」よりも、「体格は普通だが胸だけ小さい」という方が発生するギャップは大きい。そういったギャップにこそ魅力を感じる方も数多くいる、という厚生省の調査結果もある程です。嘘ですが。


貧乳とロリコンを同一視する向きについては、見解の是正を強くお願いすると共に、いずれの陣営からも迫害の対象になることが多いロリ巨乳好きなどという趣味に関しても、「趣味に貴賎なし」という精神で暖かく見守るべきなのではないか、と主張して、まずは私の意見とさせていただきたいと思います。よろしくお願い致します。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 23:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月31日

「報酬が出れば、お金目当ての人が来るかもしれない」という一言に見る「無償の熱意信仰」について

Twitterで、いのちの電話についてのこんな話を拝見しました。

元ツイートは、こちらの方のツイートですね。すいません、ツイート引用したら引用記事の画像表示がめちゃくちゃ大きくなってしまったんで、リンクでご勘弁を。いのちの電話の人手不足の話題の他、確かに記事中に「報酬が出れば、お金目当ての人が来るかもしれないと質の低下を懸念」という文言が確認できます。

はやい話、元記事は「お金目当ての人」を単純に落として、「お金目当てではない人」を無条件に持ち上げている文章のように見えます。

いのちの電話は、ボランティアであるどころか、相談員になる為に有料の講義を受ける必要がありますね。受講料は4万5000円かかるようです。人の生き死ににかかわる仕事ですから、きちんとしたスキルが必要なのはわかるんですが、決して安い値段ではないですよね。

下記は相談員の募集ページ。


これ、ある程度一般化しちゃっていいと思うんですけど、「報酬目当てではない、自発的なやる気、熱意」みたいなものを、なぜか無条件に「報酬目当てのやる気、熱意」よりも高く評価しちゃう意識、って結構あちこちで見られるような気がするんですよ。報酬が出ないというのにやりたいというのは、これはよほど熱意があるに違いない!という感じの意識ですかね。

「お金目当てではなく、お金抜きででもやりたいという人の方が誠実であり、熱意があり、信頼できる」という信仰。「無償の熱意信仰」とでも言うべきでしょうか。


確かに、「無償でも奉仕する」という熱意、ないし自己犠牲精神は尊いものだ、とは思います。そこを否定するつもりはありません。それに、もちろん「いのちの電話」について言えば、そもそもお金が入ってくるような事業ではないので、現実問題無償の相談員に頼る他ない、という事情は多分あるんでしょうけど。


それでも、「報酬が出れば、お金目当ての人が来るかもしれない」というテキストについては、私はちょっと疑問を感じます。そもそも、「お金目当て」というのはそんなに忌避されるべきものなのか?という話ですよね。


これについては、ご存知の方も多いと思うんですが、漫画「らーめん才遊記」において、芹沢先生が非常に印象的なセリフをおっしゃっています。

芹沢.png

面白いですよね。らーめん才遊記。いや、漫画としては私「らーめん発見伝」の方が好きなんですが、芹沢達也先生のファンブックとしては才遊記の方が優れているかもしれません。本筋ではないんでここでは詳しく書きませんが。

金の介在しない仕事が一概に無責任になるかどうかはともかくとして、「お金が介在してこそ責任が発生する」ということについては、私は芹沢先生のセリフを全面的に支持します。「お金をもらうからにはきっちりやらなきゃな」というのは、私だってそう思いますもん。

そこから考えると、「お金目当ての人」を「仕事を頼む対象」として忌避するのは、それはちょっと妥当ではないですよね。少なくとも、仕事を頼む側としては、「無償で頼む」という以上「無償で頼めること」以上を期待してはいけないと思うんですよ。

もっと言ってしまうと、「なんでそこまで「ボランティア」ってことを神聖視するのかなあ?」と。

少なくとも「不況が長引くにつれて、ボランティアをやめて仕事を始める人が出るなど徐々に減少し」なんてことはお金を出していない以上当たり前のことですし、そんなわかりきったことを前に「人手不足」なんていってるのはちょっと思考回路が春模様過ぎるんじゃないかと考えざるを得ません。「無償で時間を割いてくれる」人は、「無償で時間を割くことが出来る」人がいなくなれば当然存在しなくなります。当たり前です。


繰り返しになりますが、「ボランティア(=無償労働)」自体を否定するつもりはないんですよ。無償で人の為に働いている人たちはえらいなーと思いますし、現実問題そういったボランティアの人々の働きによって支えられているインフラだってある訳ですしね。いのちの電話だって、相談員にお金を払うようなスキームではおそらくやっていけないんでしょう。


ただ、「お金目当ての人が来るかも」という言葉で、無条件に「無償の労働」の方を持ち上げるのは、それはちょっと違うんじゃないかなあ、と。仕事に対して責任を感じる感じないという話でいえば、そりゃ「お金目当ての人」の方がきちんと責任を感じやすいのが当然なんじゃないかなあ、と。そして、本当に人手が必要なのであれば、ちゃんとスキームを考えてでも有償労働の方にシフトするのが本来あるべき姿なんじゃないかなあ、と。


そんな風に思った次第なのです。
posted by しんざき at 12:55 | Comment(8) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月29日

漫画版「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」の終盤の展開が完璧過ぎる

長男はドラえもん好きでして、ここ最近の「映画 大長編ドラえもん」はだいたい欠かさず観ています。なんだか次の作品は南極が舞台のようで、狂気山脈のような展開を個人的には期待してるんですが、恐らくショゴスとかは出てこないと思います。

私もかつてドラえもんを摂取して育った者の一人ではあるわけなのですが、実はアニメ版や映画版は当時あんまり観ておらず、私が触れていたのはもっぱら漫画版でした。そして、「大長編ドラえもん」もほぼコミックスで読んでおりました。

で、私が好きな原作「大長編ドラえもん」の順位は以下の通りとなります。

1.のび太の大魔境
2.のび太の宇宙開拓史
3.宇宙小戦争
4.海底鬼岩城
5.日本誕生

初期の作品ばっかりなのは仕様です。

で、以前新旧魔界大冒険の比較をしてみたりもしたんですが、個人的には新版よりも旧版の描写の方が好きであることが多く、特に『宇宙開拓史』についてはギラーミンの描写の問題があり、強く旧原作漫画版押しです。

旧原作のギラーミン先生超かっこいいですよね。「わたしはどんな強い相手もおそれない。同時に、弱い相手も見くびらない主義です」とか、見た目でなめられ勝ちなのび太の銃の腕前をひと目で見抜くところとか、大物っぷりが凄まじいと思います。大長編の敵方の中でも1,2を争う好きなキャラクターです。

で、私が宇宙開拓使と海底鬼岩城を推していると知った長男が、「昔の宇宙開拓史や海底鬼岩城を読みたい」というので、最近原作版「宇宙開拓史」を見つけて買ってきました。

で、改めて読みなおしまして、特に終盤の展開があまりにも完璧過ぎて思わず笑っちゃうくらい感動したので、ちょっと感動ポイントを書いてみます。

当然ネタバレが含まれるので、未読の方はご注意ください。というか、原作買って読むことをお勧めします。超面白いです、原作宇宙開拓史。





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posted by しんざき at 23:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

「俺の嫌いなものが褒められているのが許せない病」の人が面倒くさい

ゲームキャストさんで、こんな記事を読みました。


おっしゃっていることは首肯することしきりで、

 「あのゲーム、好きなのに人気がない!」というあなた。
「自分の好きなゲームは儲からずに消えていく」というあなた。
嘆いている暇はない。全員揃って好きなゲームのレビューを投稿したり、Twitterで面白さを語るべきだ。島本和彦先生の「シン・ゴジラ」ばりにポジティブに面白さを語れば、あなたの言葉はゲームにとってプラスになる。
大事なことだよなあ、と思うわけです。

以前から何回か書いているんですが、何かのことを「好きだ!」と表明するのって、リスクばっかり大きくって、その割に自分に対するリターンは少なくって、だからこそ大事なことだと思うんですよね。

作者さんのところに声が届くっていうのもそうですし、どこかの誰かが、それを見て「自分の好きなもの」に興味をもってくれるだけでも、それって素晴らしいことだと思うんですよ。

で、だからこそ、私は「好き」を表明するハードルなんて、低ければ低い程いいとも思っているんですが。

残念ながら、世の中には「自分が嫌いなものを、他人がほめていることが許せない」という人たちが結構いるようで。

冒頭、ゲームキャストさんのコメントを見てちょっと「うーん」と思ってしまったんですが、

さっそく悪意を増幅するような書き込みをして本当に申し訳ないのですが、さすがに書き込まずにはいられないので。

いったい、ゲーキャスさんは、いつから、Cygamesの宣伝屋に成り下がったんですか?

グラブルのことなんてなかったかのようにCygamesのゲームをひたすら持ち上げるゲーキャスさんがもう信じられないというか、スマホゲーム界の良心がまた一つ失われた気分というか、なんと言っていいのか・・・もう、もう・・・・

とか、
どんなゲームにも熱をもって接するユーザーはいるものです。

人の居ないゲームで熱を持った少数ユーザーの個々のツイート内容を出して「このゲームは熱い」なんて仰っていると、メディアとしての信頼を失いますよ。

とか。

ただたんに「このゲームが面白い!」と言っているだけの記事に、なんでこんな言葉を吹き付ける人がいるんだろうなあ、と。大変に面倒くさい人たちだなあ、と。他人の「面白い!」を、一体どういう根拠で否定しようとしているんでしょうか、と。

まあ、読んでいるとCygames憎しの人で、Cygamesが運営しているというだけでそのゲームを敵視している人のように見えますけれど、「自分が嫌いなものが褒められている」ことくらいスルーしてあげられないのかなあ、と。


「自分が嫌いなもの」を自分で批判するのは全然問題ないと思うんですよ。それは尊重されるべき一つの意見です。

「自分が好きなものを批判されている」ことに憤ることも、それもまあ、程度にもよりますがある程度仕方ないとは思うんです。

ただ、企業ですらない一サイト運営者が、自分が嫌いなものについて「これが好き」と言っているからって、大目にみてあげられないもんなんでしょうか。それくらいの余裕ももてないもんなんでしょうか。

「これが嫌い」というなら、それこそ自分で「これが嫌いだ!!」とブログでもなんでも書けばいいと思うんですよ。別に、他の人の「好きだ!」にわざわざ水をぶっかける必要はない。


こういう人たちが、何かを「好きだ!」ということに対するコストを上げて、Webから「○○が好きだ!」というテキストを減らしているんじゃないか、とすら思います。それ、結果的には誰も幸せにならないと思うんですよ。

うちみたいな辺境ブログですら、ベタ褒めエントリー書くと大体20に1か2くらいは「俺が嫌いなものを褒めるな」っていうベクトルの非難が来ますからね。よくよく見逃せないんだなあと。


不倒城は、そういう「俺の嫌いなものが褒められているのが許せない病」の人にも負けずに、これからも褒めたくなったものをベタ褒めし続けたいなあ、と思います。そして、そういう人が増えていってくれればなあ、と思う次第です。

「好きだ!」ということのハードルが、可能な限り低くなることを。そして、Webが「○○が好きだ!」というテキストを気楽に放流出来る場所になることを、願ってやみません。

今日書きたいことはそれくらいです。
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posted by しんざき at 23:31 | Comment(23) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

「貧乳好き」における二つの派閥と、それに関する考察


今から始める話は、女性の胸囲に関するものすっっっごく下らない話でして、読めば読んだだけ皆さんの時間を無駄にすること請け合いです。無駄な時間の在庫がかなりあって困っている、という方以外はブラウザの×ボタンを押してください。多分右上の方にあると思います。




大変遺憾ながら、世の中には「女性の胸囲について特定の嗜好をもっている男性」という人種がいまして、早い話いわゆる巨乳好きと貧乳好きというふたつの派閥があります。


観測範囲の問題なのかも知れませんが、私が知るかぎり「巨乳好き」派閥はかなりの一枚岩に見えます。彼らは、細かい好みの差こそあれ、大筋では「女性の大きな胸は素敵ですね」という確固たる統一された価値観でまとまっており、そこに大きな分裂は見受けられません。


ところが一方、私が知るかぎり、貧乳派閥には大きく分かたれた二つの派閥があります。


つまり、「ピュア貧乳好き」と「貧乳コンプレックス好き」です。


以下、統計的な要素はぶったぎって話を進めます。


前者は、純粋に「小さな胸」ないし「小さめな胸」が好き、という派閥です。外観、美観を含め、比較的純粋に胸それ自体を追い求めているように見受けられる為、彼らには「ピュア」の称号が冠せられています(民明書房調べ)


一方、後者は「小さな胸に対して何らかのコンプレックスをもっている女性の姿」ないしそのコンプレックス自体を愛好している、という、冷静に考えるとかなり変化球な嗜好です。彼らは、女性の小さな胸それ自体というよりは、「自分の胸の小ささを気にしている女性」に対してより強く傾倒します。「自分の胸を大きくしようとして頑張っている女性」などは、彼らの嗜好の対象として非常に一般的なものです。


勿論、二つの派閥の間に完全に互換性がないわけではなく、「前者寄り」「後者寄り」「ピュアとコンプレックス好きの真ん中くらい」という層もそれぞれ存在はするのですが、この「貧乳コンプレックス」というものが、貧乳好き派閥の中でかなり大きな要素になっていることは間違いありません(私調べ)。



「巨乳に対してコンプレックスを持っている女性」に対する愛好というのは、勿論あるのですが、そこまで多く観測できるわけではありません。少なくとも、「巨乳コンプレックス」が巨乳好き陣営の中でそこまで大きな存在になっているようには見受けられません。細かな好みのうちの一系統、という風に見えます。


つまり、「コンプレックス」が大きな要素を担っているかどうか、という点で、巨乳好きと貧乳好きは非対称なのです。


これは何故なのか。


私が考える理由は、「存在と非存在の差」です。


つまり、「巨乳好き」陣営には、「大きな胸」という具体的な実体をもった嗜好の対象がある。なので、その実体自体が嗜好の中核となり得るし、実際にそうなっている。


が、「貧乳好き」陣営は、要するに「ない」ことが嗜好の中核です。「ない」ものは、その実体が嗜好の中核になりにくい。

なので、「ない」上で、その実体を確たるものとして認識している層と、認識出来ない層、ないし認識が曖昧な層がある。そして、認識出来ない層は、ある程度精神的なものにその嗜好の中核を求めざるを得ない。

なので、「貧乳を気にしている」「貧乳を恥ずかしがっている」という、あたかも精神的な特徴のような要素を嗜好の中核にしている人が存在しているのではないか、と私は考えるわけです。


要は、「貧乳」という言葉を、純粋に「胸の形状」として捉える層と、「精神的な特徴」として捉える層がいるのではないか、というのが私の自説なのです。


「巨乳好き」と「貧乳好き」は、全く同じ系統のプラスとマイナスのようにくくられがちではありますが、本来全然別の軸をもった別の好みであって、単純に比較出来るようなものではないのです。単純に比較するのであれば、「巨乳好き」と「ピュア貧乳好き」を比較しないといけない。

そこが混同され勝ちな状況は、実は結構大きな問題なのではないか、と思い今回ペンをとった次第です。皆さまのお考えはいかがでしょうか。



全っっっっ然余談なんですが、エロマンガなのかエロ小説なのか、出展がどこなのか知りませんが、「小さな胸の方が感度が良い」とかいう俗説なのか都市伝説なのか、意外とそういう信仰を持っている男性がいるように思います。あれ、なんかそういう根拠とかってあるんでしょうか。以前知人と、「単なる都市伝説だ」「いや、何らかの統計があるに違いない」「そもそも感度とは何か」といった気持ち悪い激論になったことがあるんですが。どなたか、ご存知でしたら教えてください。



ということで長々と下らない話を書いて参りました。言いたいことはだいたい言ったので、ここでは単に、このブログをしんざき奥様も観測しているという事実のみ記して結句としたいと思います。

今日書きたいことはこれくらい。

posted by しんざき at 23:34 | Comment(9) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月19日

NHKが貧困報道でねつ造をした、という件がちょっとよくわからない

(追記しました。忙しい方は最後の部分だけお読みください)

ちょっとよくわからなかったので。


「NHKが貧困の実態についての報道をして、その中で出てきた女子高生が、実際には貧困生活とはとても思えない生活についてのツイートをしていた」

その為、NHKの報道は「やらせ」ないし「ねつ造だ」、という話のようです。まとめサイト界隈でがーーっと吹き上がっており、Twitterにもそれが波及しております。まとめサイトにアクセスがいくのもなんなのでリンクは貼りませんが。

ちょっと追っかけてみたところ、元の報道はこれのようです。


当たり前のことですが、NHKの報道が「ねつ造」だというなら、この中に嘘、存在しない話が含まれていなくてはいけません。
この、今まとめサイトなどで対象として挙げられている女子高生についての記述を参照してみると、

希望する専門学校への進学を諦めた高校3年生のうららさんは「みんなが当たり前に持っているものが自分の家にはない。みんなが普通にできることが、自分の家ではとても困難。自分は貧困なのかもしれないと思った」と話しました。

うららさんは、小学5年生のときに両親が離婚し、現在は一緒に暮らす母親が働きながら家計を支えていますが、経済的に厳しい状況です。自宅のアパートには冷房はなく、夏の時期はタオルに包んだ保冷剤を首に巻き、暑さをしのぐ毎日です。自分の家が経済的に厳しいことについて実感させられたのは、中学時代の授業だったといいます。パソコンを持っていなかったうららさんは、授業で先生に「ダブルクリックして」とか「画面をスクロールさせて」などと言われても、ついていくことができませんでした。母親からは千円ほどのキーボードだけを買ってもらい、一生懸命練習したことは忘れることができない出来事でした。

進路を選ぶ3年生の夏を迎えたうららさん。絵が好きで、アニメのキャラクターデザインの仕事に就きたいと、専門学校への進学を希望していましたが、入学金の50万円を工面することが難しく、進学は諦めました。

この辺りの記述がそれに該当しそうです。

それに対して、まとめサイトなどを参照していると、

・部屋に豊富な画材や調度などがある
・2万円程度の高価なイラスト画材を保有している
・1000円以上のランチを頻繁に食べている
・7,800円のEXILEなどの舞台鑑賞(S席) をしている
・ワンピースグッズなどについての散財について記載している

といったことが、「ねつ造報道である」ということの根拠とされている、ように見受けられます。


うん。よくわからん。


少なくとも、ここまでで提示している情報からでは、私には「NHKの報道はねつ造である」という判断をすることが出来ません。

皆さんよくご存知の通り、貧困には「絶対的貧困」と「相対的貧困」の二種類があります。絶対的貧困とは、「必要最低限の生活水準を維持するための食糧・生活必需品を購入できる所得・消費水準に達していない」こと。

一方、OECDが定義している「相対的貧困率」は、「等価可処分所得の中央値の半分の金額未満の所得しかない人口が全人口に占める比率」のことを指しています。


で、これもみなさんよくご存知だと思うんですが、相対的貧困の家庭が、「目先の散財」をしてしまうことは全く珍しいことではありません。むしろ、収入的に長期的な展望が持てないからこそ、目先の短期的な散財をしてしまい、それが余計相対的な貧困の度合に拍車をかけてしまう、というのは実によくある話です。(エンゲル係数の高さが貧困と相関がある、なんて話はよく出てきます) で、これが嘘かどうかは、可処分所得が分からないと判明しません。

そこから考えると、今出てきている情報だけで、「この女子高生は貧困じゃない!!」→「ねつ造だ!!」という論理展開は、ちょっと私には意味が分からないです。


いや、分かんないですよ。実際に、この女子高生の方は上記の「相対的貧困」に当てはまっておらず、定義的な意味でも「貧困」とは言えないのかもしれません。上で紹介されているような、「夏の時期はタオルに包んだ保冷剤を首に巻き」というような記載が偽りなのかもしれません。その場合はNHK報道を「ねつ造」と呼ぶことに問題はありませんし、実際にこの後そういう事実が判明するかもしれませんし、そういう謝罪が出るかもしれません。その可能性を否定はしないです。(率直にいって、エピソードなどについて若干おおげさに報道している可能性は割と高い、とは思っています。それをねつ造と呼ぶかは別問題ですが)

ただ、それと、現時点でNHKをねつ造呼ばわりして、女子高生をたたくのが適当なのかどうか、というのは全く別の問題です。


私が言いたいことは、

・今出ている表面上の情報だけで「こんなの貧困じゃない!」「NHKねつ造!!!」とかって騒ぐのはなんか違うんじゃねえ?

ということ、それだけです。


上記の「相対的貧困」の定義がある以上、「こんな色々買ってるヤツを貧困とはいわねえ!!」と騒ぐことには、1ミリグラムの意味もありません。ある貧困な人が、他の貧困な人の足を引っ張ることほど非生産的なこともありません。絶対的貧困以外を貧困と認めないのであれば、それこそ貧困に対する対処なんてできないですよ。4畳半で、調度もなにもないような家庭しか貧困と認めないんですか?って話です。

そして、「ねつ造をしているメジャー放送局」という藁人形が怒りの対象としてあまりに魅力的であるが故にこそ、ちょっとの情報だけでがーーっとみんな盛り上がってしまう。ちょうどいい「怒りの対象」に石をぶつけまくってしまう。まさに、私が何回か書いている、「分かりやすい悪役」案件です。


私が言いたいのは、単にみなさんちょっと落ち着きませんか?っていう、それだけです。脊髄反社でがーーっと吹き上がっていたら、喜ぶのはまとめサイトばっかりですよ。


取り急ぎ、今日書きたいことはそれくらいです。


(追記:2016/08/19 21:58)
なんか面白いことになっていたので、たまには追記してみます。

上記文章を読んで頂ければわかりますが、私が言ってることはおおまかに三点でして、

1.散財しているからといって即「貧困でない」ということは出来ない
2.それも含めて、「現段階で見えている情報だけでは」「NHKの報道は捏造である」ということは出来ない
3.みんなすぐ吹き上がらないで落ち着きましょうよ

だけです。他のことは上のエントリーでは言っていないというか、例えば相対的貧困がどうとかは上の補足です。NHKの報道姿勢の話なんてしてませんし、この報道が妥当なのかどうかの話もしてませんし、件の女子高生のお金の使い方の是非についてなんて全く言ってませんのでご承知おきください。


で、いつもお手紙食べる黒ヤギさんなのも申し訳ないので、面白いブコメを拾ってお返事しようと思います。

id:Midasさん
間違ってる。もしも相対的貧困の方がブログ主のいう通り深刻な問題(世に問うべき)なら「2000円のランチおいしいですぅ」とだけ言ってればいい(わざわざ「キーボードしか買えなくて…(涙」みたいな話をする必要ない)から
「相対的貧困の方が深刻な問題(世に問うべき)」と書いた記憶がないんですが、上記文章のどの辺がそう読めたのか、後学の為に教えていただけないでしょうか。


id:fusanosuke_nさん
恐ろしいほどの浪費癖のせいで結果的に進学出来なくなっているのは確かに問題。浪費を止めれば入学金50万は出せたはず。でもこれを「貧困」と括るのはどうなんでしょうね。

id:b_taroさん 理屈としては理解できるが、浪費しまくって金がないから貧困、と言われても納得しかねる

「貧困」は単に定義の問題なので、浪費癖がどうとかは貧困かどうかとは関係ないと思いますよ。「浪費を止めれば○○」というのは確かに議論する価値がありますが、ここで書いていることとは別の問題です。


あと、twitterとか見てると、「チケットやワンピース我慢すればパソコンくらい買えた筈!」「だからねつ造!」とかいうすごい謎理論の人がいらっしゃるようですが、ちょっと思いつきませんでした。ユーモアのセンスが素晴らしいですね。元の文章はお読みだったんでしょうか。


そんな感じで。

posted by しんざき at 17:37 | Comment(492) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

単なるパズル問題に「これが解けたらIQ○○以上」とか言って流すの正直やめて欲しい


「こういう面白い問題があるよ!」じゃ目を引きにくいからって、「IQ○○以上」とかいう無根拠なラベルつけるの、IQに対する誤解に拍車をかけそうなので正直やめて欲しいです。


と、言いたいことはタイトルと上の一行で完結してしまったんですが、一応若干補足してみます。


こういうこというと、「あんなの本気にしてるやつなんかいるの?」とか、「いいじゃん単なるお遊びなんだから」とか擁護する人、大体いるんですが、「本気にしてる人」は必ず一定数以上いるんですって。問題としては、(無根拠なものに一見科学的なラベリングをしているという意味で)血液型による性格診断とか、ニセ科学みたいなものに近いです。変な差別感情を生んでしまいかねないところとか、本来科学的に信頼できるものの信頼度を巻き添えで落としてしまったり、といったところも同じです。


今更いちいち説明するまでもないことかもしれませんが、一応念のため、念のために書いておきますと、


・IQにはいくつかの種類・いくつかの計測方法がありますが、いずれも複数の(一般的にはかなり大量の)質問に答えて統計的に結果を導くもので、「これが解けたらIQいくつ」とか言えるものではありません
・必然的に、「IQ○○の問題」「IQ××以上の問題」とかいうものもこの世に存在しません
・「IQを計測する」という場合には、「それがどんな種類のIQで」「どの計測方法を用いるのか」が必ず明確に存在する筈です(明示されているかはともかく)
・そういう基準がないものは単なるおまじない、ないし占いです


「何当たり前のこと書いてんだ」と思われるかもしれませんが、「当たり前のこと」が案外「当たり前のこと」として認識されていないことを、我々は何度も眼前に見ています。


元より、「IQ」とか「知能指数」というのは、扱っている領域が領域であることもあり、色々と誤解・混同されがちです。

たとえば、一番大きな括りでも、IQには「生活年齢に対して精神年齢がどれだけ成長しているか」を基準としたもの(いわゆる従来のIQ)と、「同じ年代の集団の中でどの程度知能が発達しているか」を基準としたもの(DIQ)の二種類があります。で、それに対して、例えばビネー式とかウェクスラー式とか、ウェクスラー式の中にも更に何種類もあったりとか、いろんな計測方法、統計基準があるわけです。細かく知りたい人は後で挙げる参考書籍でも読んでみてください。

IQが高いからといって無条件に勉強が出来るわけではありませんし、IQと相関がある分野もない分野もあります。なにせ「頭の良さ」「知性」という、ただでさえ曖昧な領域の話なので、IQの意味や概念というのは非常にデリケートなのです。


そんなところに、PVやRT数稼ぎなんて目的で、変なものを叩き込んで欲しくないなあ、と。



別に「こういう面白い問題があるよ!解いてみて!」でいいじゃん、と思う訳です。「これ解けた人すげえ!」だけで十分じゃん、と思う訳です。

それだけだとなかなかRTしてもらえなかったりブクマがもらえなかったりするからといって、「IQ」というれっきとした科学的な指数、しかも色々と誤解されがちな指数を客引きに利用するのはやめて欲しい、と思う訳です。それだけです。


単にパズル問題を楽しんでいるだけの人には申し訳ないですが、こういう指摘は継続的にした方がいいと思ったので書いてみました。いや、問題としては面白いんですけどね。ホントに。


ちなみに、もし知能指数や知能検査についてある程度まとまった情報が欲しいという方がいたら、個人的には下記の書籍をお勧めします。


新しい知能観に立った―知能検査基本ハンドブック -




特に、知能検査の毀誉褒貶や様々な問題点にまで触れた、辰野先生の「知能検査基本ハンドブック」は良書だと思います。上記で触れた、知能指数に関する様々な誤解についても触れられています。

滝沢先生の「発達心理学からみたIQ」は、元々教育心理学寄りの方ですので、教育心理学に興味がある方には面白いと思います。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 10:55 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月17日

【ブログ読書感想文】「プラネテス」のロックスミスさんをテーマに、「責任の取り方」について考えてみる。

プラネテスのお話です。既出話かもしれませんが、まあwebに既出はつきものなので勘弁してやってください。

この記事のお品書きは下記のような感じになります。


1.「プラネテス」の紹介とロックスミスさんの登場
2.ロックスミスさんの特殊性
3.ロックスミスさんの「責任」とは何だったのか
4.ロックスミスさんとクヌート王子の比較論



順番にいきましょう。当然ながらネタバレが含まれますので、未読の方はご注意ください。えらい長文なのでお暇な時にでもどうぞ。

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posted by しんざき at 00:13 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月15日

失礼な質問は失礼な質問であって、取材だからといってそれは免罪されない


何点か気になることがあったので、釣られてみます。



指摘したいことを箇条書きでまとめてしまうと、下記のような感じになります。

・「「なれ合い」の関係ではない」というのは、「失礼なだけの質問(というか揶揄)をしても許される」という意味ではない
・裏にどんな意図があり、結果があったとしても、失礼な質問は失礼な質問であってそれが免罪されたりはしないし、失礼さを指摘されるのは当然である
・マスコミが他者に対して失礼な言葉を投げかけても許されるべきである、といいたいのであれば、マスコミも他者からの失礼な言葉を許容すべきであり、それを許容しないのはダブルスタンダードである
・選手間の人間関係を切り出したいのであれば、他に適切な質問がいくらでもある
・そもそも質問自体が単なる揶揄であり、それほど優れた質問だとは思われない
・選手に失礼な質問を投げかけることで、取材嫌い・マスコミ嫌いの選手を増やし、今後の取材に支障を来す可能性を無視している
・タイトルが意味不明。なにとなにが「完全に逆」なのか本文中に記載がない


大体これくらいのことを考えました。


まず第一に、「失礼な言葉を投げかけて、それに対する反応を引き出す」ということが、非常にメディア側に偏った論理でして。「取材だから」という理由が、「人間と人間の対話における倫理」というものに優先されるとしたら、それはおかしいと思うんですよね。取材の為なら失礼なこと言っていいの?「いい」というのだとしたら、それは誰が決めたの?という話でして。


それに加えて、単純に技術的な話にしても、「マスコミの取材嫌いの人がますます増える」ことによるデメリット、リスクは考えないのかなーと、その点は単純に不思議です。

先日も、吉田沙保里選手が今後の取材に際し報酬を要求する方針、みたいなニュースが出て、これもメディア側の理屈で偉い不評寄りに書かれていましたけれど、いい悪いの話ではなく、今後もこういう話ってどんどん増えると思うんですよ。かつて、広く情報発信するルートが極めて限られていた時代であればともかく、現状「影響力」っていうものはどんどん多様化する方向に動いているわけで、その分「取材によって得られるメリット」というのは相対的に縮小していきます。それに対して、「取材によって発生するデメリット・リスク」というものがどんどん大きくなっていけば、取材を忌避する向きってますます増えていって、色々やりにくくなっていくんじゃないかなーと思うんですが。


別に法律で禁止されているわけでもありませんから、「失礼な質問をしてはならない」とまでは別に思いませんが、「失礼さは失礼さで、批判されるのは当然だし、それによって嫌われるリスクってのも勿論承知してるんですよね?」っていう話ではあります。

あと、

皆さんは「マスゴミが!」と口汚く罵りますが、どこの国の記者の質問かは分かりませんが、彼の質問によって

・内村選手は反論の機会を得て
・2位・3位の選手がどれだけ内村航平という選手をリスペクトしていて
・彼らの受け答えから、彼ら3人の競技以外の側面・人間関係まで垣間見えた

気はしませんか?

これ、内村選手は反論というか単に言下に否定しただけだし、オレグ選手がその場で明確に反論してくれたのは単にそれが「分かってない」質問だったからであって、質問自体が「良い質問」だったとは全く思わないんですが。「こいつ、分かってねーな」と思われる質問が「良い質問」とはとても言えない、ということは一般的な認識ですよね?

体操の採点基準って、例えば「芸術点」みたいな外から見て分かりにくい基準ではなく、「難度」と「実施」の二つに分かれて、極めて明確に採点基準が設けられているので、実際に「審判の好き嫌い」が割り込む余地って正直あまりないんですよね(全くないとまでは言いませんが) 。

参考までに、国際体操連盟発表の採点規則がまとまったページを貼っておきますので、興味がある方は見てみてください。


こういうことを理解した上で、更に例えばボーダーライン上の採点についての細かい突っ込みとかが出来るのであれば、それは「良い質問」「鋭い質問」と言ってもいいかもしれませんが、単に「審判の好き嫌い」くらいにしか言及できないのであれば、それは程度が低いだけの揶揄です。


あと、枝葉の突っ込みなんですが、

「海外メディアが内村選手に「失礼な質問」をしたって?いや、それは完全に逆です。」

「何」と「何」が完全に逆なのか、私の読解力ではいまいち読解できなかったんですが、本文中に記載ってあったでしょうか。読み落としていたんだったら申し訳ないですが。


まあ、気になったことはそれくらいです。

posted by しんざき at 16:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月07日

念のため言っておきますが、EM菌はニセ科学で「すら」ありませんからね

例えばこれ、EM菌のご本尊である比嘉照夫氏の、れっきとした記名記事なわけですが。


そのためには何かいいことや、危険から身が守られたり、最悪な状況が、逆に力となって最善の結果が現れた場合、それらはすべてEMのおかげであると考えることがスタートです。すなわちEMは神様だと考えることです。

1.EM製品を身に着けていたので交通事故に遭っても大事に至らなかった。
2.EM生活をしていると大きな地震が来てもコップ一つも倒れなかった。
3.EM生活をしていると電磁波障害が減り、電気料金も安くなり、電機製品の機能が高まり寿命も長くなった。
4.EMを使い続けている農場やゴルフ場の落雷が極端に少なくなった。
5.EM栽培に徹していると自然災害が極端に少なくなった。
6.EM生活を続けていると、いつの間にか健康になり人間関係もよくなった。
7.EMを使い続けている場所は事故が少なく安全である。
8.学校のイジメがなくなり、みんな仲良くなった。
9.動物がすべて仲良くなった。
10.すべてのものに生命の息吹が感じられるようになった。
11.EMで建築した家に住むようになり、EM生活を実行したら病人がいなくなった。
12.年々体の調子がよくなり、頭もよくなった。
13.EMの本や情報を繰り返しチェックし確認する。
14.いろいろな事が起こっても、最終的には望んだ方向や最善の結果となる。

これを読んでも「ん?何か変じゃね?」とか「いやいや、ごめん、何いってんのこの人?」と思わない人は、恐らく日本において多数派ではない、と私は信じたいです。

こんな、「交通事故に遭っても大事に至らない」なんて、交通安全のお守りみたいな話を科学的に証明出来ると考える人が、一体この世のどこにいるんですかって話です。

要するにEM菌って根っこから宗教なんですよ。「疑似科学なのかどうか」議論する意味すらないです。元々世界救世教との関係性を指摘されてはいますが、ご本尊の発言を見ていてもマジモンの宗教。「いいことはEMのおかげにし、悪いことが起こった場合は、EMの極め方が足りなかったという視点を持つようにして」とか本気で言っちゃう人が提唱者ですからね。

それを、なんか実効性もまともな検証もない論文群とか、微生物群がどうとか、ちょっと調べただけだと「肥料かなんかかな?」と思わせる程度にはカバリングして、あちこちに潜り込ませてるのがEM菌のフォロワーの皆さまです。少なくとも、宗教的な意味でEMを信奉していない皆さまには、「EM菌は宗教である」という認識はきちんと持っておいていただきたいです。

特に、小中学校や幼稚園での活動については本当に大きな問題だと思っていて、上記のような認識をもっておらず、なんとなく「有用な菌類なのかな?」という程度に考えている公的機関の関係者の皆さまには、


「今のところ、子どもたちへの害は確認されていない。なぜこのように大騒ぎになっているのか……」

正直武雄市云々はどうでもいいんですが。上記のような宗教的な要素が、れっきとした教育機関に入り込んできた時保護者がどう感じるか、それくらいの視点はもっておいていただきたいです。健康被害がどうとかの問題ではないです。


以下は参考記事。


そうなんですよねー本当に…。


今日書きたいことはそれくらい。




posted by しんざき at 13:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポケモンGOの今後についての期待と、よくわからないポケモンGOくさし記事についての所感

色々おもしろいなーと思ったので、書いてみます。

  


最初に確認しておきたいのは、「ポケモンGO自体はまだ全然「これから」のコンテンツ」ということです。



非常に強力な集客の仕組みを持っていながら、ポケモンGOはまだそれを殆ど前面に出していません。伝説ポケモンも実装されていません。そんなのは当たり前の話で、リリースされて一月そこそこしか経っておらず、しかもユーザー集めは順調にいっているという段階で、そんな強力なテコ入れをする必要など地球上に存在しないわけです。


一方、ポケモンGOではバグも発見されていますし、これが修正の対象となっていることも既に公表されています。


https://twitter.com/PokemonGoApp/status/761301330967326720?ref_src=twsrc%5Etfw


バグの対策にかぎらず、オンラインゲームというのはアップデートを繰り返して徐々にシステムやコンテンツを整備・拡充していくものですので、これから幾つものアップデートが打たれて、コンテンツの質量ともに充実していくであろうことは既定路線です。伝説ポケモンの実装は何かしらのイベントと一緒にリリースされるでしょうし、恐らく新ポケモンの追加リリースもされるのでしょう。企業や商店とのタイアップのフレームワークが公表されるかも知れませんし、現在ポケストップなどで問題とされていることについて、様々な対策が打たれることも予想出来ます。


個人的には、対人戦の要素、中間ゴールの要素をもっと充実させて欲しいなーとは考えておりまして、野良の対人戦と絡めて「ポケモンバトル」的なものが実現すると面白いだろうなと思っているのですが、まあそんなこと開発チームが考えていないわけがないので、今後に注目したいところです。



最初期にすごい勢いでわーーーっと流行るというのはコンテンツとしての強力さの証明であり、一方飽きるのが早い人がすぐ離れるのはどんな分野でも当たり前のことなので、「飽きた」という声を現段階で拾い集めることに意味は全くありません。母数がこれだけ多ければ、合わない人、飽きる人もそりゃそれなりの数いるでしょ、というだけの話です。


アクティブユーザー数の統計については、こちらがよくまとまっています。


「ポケモンGO」男性のアクティブユーザー数はTwitter超え【ヴァリューズ調査】

http://markezine.jp/article/detail/24902



早い話、「ユーザーをものすごい数抱えていて、かつコンテンツが充実するのはこれから」という状態な訳です。プラットフォームとしての期待値はものすっごい高いと思います。



ただ、web上では「ポケモンGOくさし」がひとつのジャンルとして成立しているようで、まあ私みたいに釣られる人が多いからなんでしょうけれど、あまり出来がよくないくさしも散見されます。


ポケモンGOが広告を使っていないため、広告業界から敵視されている云々、という話も聞きますが、「流行ってるものに取り敢えずケチをつけたい」という程度のものもみられて、そういうのは本当にしょうもないなあというか、何も生み出せない人たちなんだろうなあという感があります。


以下の記事はそんなポケモンGOくさし記事の一つのようですが、ちょっと面白いピントのずれ方をしていたので紹介してみます。


ポケモンGO、地方は「ただただ迷惑」…人増えても「金落とさず」、混乱対策のコスト増

http://netallica.yahoo.co.jp/news/20160806-07046252-bjournala


ポケモンGOは、都心部の公園や緑地、あるいはもともと人が多い都市部に人が集まりやすい仕組みになっているので、「地方の町おこし」というものを期待するようなツールではありません。「東京にはおらず、地方に行かないと捕獲出来ないポケモン」など、少なくとも今の時点では一匹も存在しません。「ポケモンGOプレイヤーが、ポケモンGOのために、都市部からわざわざ地方に足を運ぶ」動機自体が存在しないわけです。


同じ地方内で、普段足を運ばない人がその地方内の商店街などに足を運ぶ効果は期待できるかもしれませんが、例えば「東京から地方へ人が流れる」効果というものは現段階ではありません。鳥取砂丘のポケストップにしたって、主要な対象層は鳥取近隣の人たちでしょう。


そのため、ここでいう「観光客を呼び寄せる効果を期待している観光協会の幹部」などという存在は、そもそも実在を疑われるわけですが、それ以外にもよくわからないところはあります。

トレーナーは現地に足を運んでも、目的はポケモンGOなのですから日帰り客も多い。そうなると、宿泊が伴わないので地元への経済効果は薄い。地元の飲食店やお土産店で消費してくれるかといえば、これも怪しい。そもそも、地方の商店は東京のコンビニエンスストアほど品揃えもよくありませんから、東京から来るトレーナーたちはコンビニでおにぎりやパンを買い込んでから来る人も多いです


上で書いた通り、ここでいう「東京からくるトレーナーたち」というのが一体何のためにこの「地方都市」に来たのかは謎ですが、例えば世田谷公園の自販機が一時的に売り切ればかりになった実例があるように、ポケモンGOプレイヤーが「地元の飲食店やお土産店で消費しない」というのは明らかに疑問です。何かそういう統計でもあるんでしょうか。


千林商店街にはポケストップが11カ所あり、商店街を歩けば自然とモンスターを集めることができる。商店街はここに着目して、商店街の危機を打開するためにキャラクターを呼び寄せるアイテム「ルアーモジュール」を絶え間なく使い、モンスターの出現率をアップさせた。モンスター目当てで、多くの人が訪れるようにする取り組みで集客を図ろうと必死だ。


これについては、30日に行われたイベントをすぐまた6日、7日に再開催しているようですので、おそらくそれ相応の効果があったのだろうと推定されます。これを見ても、ポケモンGOプレイヤーが集まることによる地元の消費効果はそれ相応にあったのでしょう。頭が良い施策だなーと感心するわけですが、


千林商店街でモンスターゲットだぜ大作戦!リターンズ!


これについて、当該記事ではさらに続けて、


同様の試みは、あちこちの観光地で試行されている。昨今、日本の観光業界は外国人観光客にターゲットを絞って集客に力を入れてきたが、早くも爆買いブームは去った。また、外国人観光客を相手にしたくても、外国語が理解できない商店主は多い。高齢の商店主にいたっては、いまだ外国人アレルギーが強く、経済効果があったとしても外国人観光客が増えることにいい顔をしない。

いきなり爆買いの話になるのが文章のつなぎ方的にさっぱり理解できないんですが…ポケモンGOプレイヤーは日本語が通じない人しかいない、とかそういう話なんでしょうか?もしかするとピカチュウ語で話しかけたら返事をしてくれるかもしれません。「ピ」と「カ」と「チュウ」だけで言語を構成してみることをお勧めいたします。


目的がポケモンGOだけでは、観光客は訪れても通り過ぎるだけで滞在してもらえない。滞在してもらえなければ、地元への経済効果は少ない。

いやだから、ポケモンGOが目的であればそもそも都市→地方に人は流れないから、増える顧客は地元繁華街への日帰り顧客だけですってば。。。


どうせ地方とポケモンGOの関連について書くのであれば、例えば希少ポケモンの巣を特定期間地方都市に作ることを提言するとか、そっちの方がまだ面白い議論になるのではないかという気もするんですが、どうなんでしょうか。



この記事だけの話ではないのですが、ポケモンGO批判記事をいろいろとみていると、「根本的にポケモンGOの仕組みを理解しないまま、なんかいい加減な知識とイメージだけで書いている」記事がいくつも発掘できてなかなか面白い感じです。いい加減記事捕獲の方がポケモン捕獲よりうっかりすると面白いんじゃないかと思うくらいです。


皆さまには、「なんとなく流行ってるものにケチをつけるだけ」の記事になど惑わされず、楽しみたいコンテンツを楽しみたいように楽しむことをお勧めいたします。



今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 10:53 | Comment(3) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月05日

不知火舞の胸揺れに感じる問題点と、「揺らすなら隠せ」という提言

以下の文章は、タイトルから想像出来る水準を更に15メートルくらいぶっちぎってくだらない話である為、読めば読んだだけあなたの時間を無駄にすること請け合いである。少しでも自分の時間を大切にする人には、下記の文章を読むことをお勧めしない。


この文章をまとめると

・不知火舞の胸揺れは、「既に露出することで存在を主張している胸が、更に揺れる」ということで、二重の自己主張という非常に「しつこい」ないし「押しつけがましい」胸揺れになってしまっている
・鮮烈な印象はギャップ効果からこそ生み出されるものであり、本来主張されていないものがさり気なく主張される、という形が望ましい
・つまり、「胸揺れ」という表現を使うのであれば、胸それ自体は隠すべきである、と強く主張したい

以上三行になる。読者諸賢にはご了承頂きたい。


まずは、参考資料として下記動画をご覧頂ければと思う。


餓狼伝説2の頃からの不知火舞のグラフィックの進化を記録しているという、人類の歴史上非常に有益な動画であって、製作者の方には敬意を表したい。


上記動画を暫く見て頂けると、当然のことながら不知火舞の胸揺れ表現がどのように変遷してきたか、ということも理解出来るであろう。

餓狼伝説2・ガロスペ時点では、顕著に胸揺れ表現が観測できるのは勝利ポーズ時のみであるところ、KOF'94以降は普段の立ちグラフィックから揺れまくっていることを見てとって頂けるのではないかと思う。全体的に言って、餓狼の本シリーズよりも、KOFやカプエスなどのお祭りゲームの方が、より舞の衣装の露出が上がっているということも同時に確認出来る。


ここで問題としたいのは、特にKOFなどの舞で顕著なのだが、舞の胸揺れ表現が非常に「押しつけがましい」ものになってしまっているのではないか、という問題だ。


そもそも、ゲームやアニメにおける「胸揺れ」表現というものが、キャラクターの動きを胸に仮託することで、胸の存在をより一層強調するものであることは論を俟たないだろう。

自然に胸が動くことによって、視聴者の視線を胸に集める。動きがない状態よりも動きがあった方が注意をひきやすいことは、カエルが餌を捕食する際動いていないものを視認できないという例を挙げるまでもなく、生物の本能としての常識である。

それに対して、ゲームやアニメには、「水着その他の露出度が多い衣装を使ってキャラクターの肌色度数を上げる」という表現も存在する。こちらも同じく、露出度が上がった肌色部分に対して、特に男性読者の視線を集めやすくする効果を持っていることは、今更いちいち議論をする必要もないところであろう。


早い話、描画表現において、「胸を揺らす」という表現と「露出度を上げる」という表現は効果が被っているのである。相乗効果というものの存在を否定はしないが、本来あるべき「ギャップ効果」というものを台無しにしてしまうのではないか、というのが私の持論だ。

舞.png

一目瞭然であるが、不知火舞というキャラクターの衣装の露出度はもとより非常に高い。餓狼2の時点でも大概だったと思うが、KOFなどではその傾向がより一層顕著になっている訳である。

そこに対して、更に「露骨な胸揺れ」という表現手法を追加した結果、我々は、いや少なくとも私は、「ほーら露出度が高い胸が揺れてるぞー。見ちゃうだろー」という、製作者のあけすけな意志を感じてしまうのだ。これが、私が「不知火舞の胸揺れは非常に押しつけがましい」と感じる理由である。


これが例えば、「普段は露出度が低い衣装を着ているキャラクターが、たまの水着姿で揺れる」というのであれば、その表現を受け入れるにやぶさかではない。衣服を着ている状態では胸が大きいことに気付かれていなかった、などという状況であれば更に言うことはない。

が、不知火舞というキャラクターは、単体で既に「格ゲー女性キャラの露出度アップ」の象徴のような高露出度キャラクターである。ゲームをしている限り、彼女は24時間体制で露出度が高い。そこにギャップ効果など生まれようがなく、表現上非常に勿体ないことをしてしまっているのではないか、とすら思えるのだ。(同じことは、例えばデッドオアアライブなどのような3Dゲームにも言える)


私は提言したい。つまり、

「揺らすなら隠せ」

と。

普段露出度が低い、うっかりすると胸の存在を忘れがちな頃に、ふとした胸揺れ表現によって鮮烈に印象づけられる胸の存在。それこそがプレイヤーに対して、強烈なギャップ効果をもたらし得るものになり、その胸揺れ表現の尊さが増すのではないか、と私は考える。

例えば私は、同じSNKキャラで言えば「麻宮アテナ」のグラフィックを非常に高く評価しているのだが、

アテナ.png

こういった露出度が低い、更に言えば胸自体の存在感も控えめであるところに、わずかな胸揺れ表現がつく。そういったところにこそ、人は感動とやすらぎを感じるのではないだろうか?(シリーズの一部タイトルの勝利ポーズでは揺れていた筈である)

普段強調されないものが、ふとした瞬間にクローズアップされる。そういった表現こそ大いに尊ばれるべきである、と、つまり私が言いたいことはそこに尽きるのだ。

ちなみに、アテナのグラフィック自体は、個人的に'95時点のものが至高ではないかと考える。残念ながら、'95ではアテナに胸揺れ表現らしきものはなかった筈である。更に付け加えると、同じくSNKのサムライスピリッツでは、初代サムスピでのみ、ナコルルの時間切れ負けポーズに胸揺れ表現があった筈である。そういった表現については大きく称揚して然るべきであろう。

ちなみに、「実際には胸揺れ表現はなかったんだけど、もしこのキャラにさり気ない胸揺れがあったらすっごい感動したのになあ」というキャラ代表は、天外魔境真伝の絹です。よろしくお願いします。(ここだけ敬体)

ということで長々と書いてきた。結論については既に最初に書いてあるので、ここでは単に、このブログをしんざき奥様も観測しているという事実のみ記して結句としたい。

今日書きたいことはこれくらい。

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posted by しんざき at 19:25 | Comment(20) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

本当に参考にすべき失敗例は、基本的に可視化されない


先に書きたいことをまとめておくと、

・可視化されているのは生き残った人だけ、あるいはまだ失敗していない人だけ
・本当に大きなリスクは言及されないし、それらのリスクに引っかかった人は単に観測できなくなる
・今可視化されている例からだけ判断し、追いかけるのは危険
・何かにチャレンジする時はちゃんと事前に想像力は働かせた方がいい
・あなたにチャレンジを勧める人は、あなたの人生に対してなんの責任も負わない

の5点になります。忙しい人は上記だけ読んでブラウザを閉じてやってください。


今から当たり前のことを書きます。


何かにチャレンジする時には、当然のことながら、リスクとリターンを考えるべきです。最大リスクにはどんなものがあるのか。それに対して得られるリターンは何か。どんなチャレンジをする際も、その辺は最低限考えておいて然るべきです。

なので、本来、「リターンにはどんなものがあるのか」というのと同じくらい、「リスクにはどんなものがあるのか」という情報は大事なわけです。


ただ、別にwebに限らないと思うんですが、何かのチャレンジについて、「本当に参考にすべき失敗例」が可視化される機会は滅多にありません。本当にありません。


可視化されているように見える失敗例は、殆どの場合

・ある程度成功している人、ある程度軌道に乗っている人が、「俺にもあんな苦労があった」的に、自己顕示の一環として開示する失敗例
・集客などのフックの為に用意された、致命的とは言えない失敗例

のどちらか、あるいはその両方です。


本当に致命的な、「最大リスク」に該当するような失敗例を経験してしまった人は、単にいなくなります。正確には、ごく短い期間で観測できなくなります。

凄く期間を置いてから、また観測できるようになる(復活する)ことも稀にはありますが、そんな場合でも、本当に参考になる「失敗事例」を聞くことが出来る機会は稀です。やはり人間、取り返しがつかないような失敗については触れたくないし思い出したくもない、ということなんでしょうか。

一言でいうと、「失敗例は成功例よりもずっと見えにくい」んです。


例えば、webにおいて、何人かの人たちが新しい試みをするとします。ばーーっとその試みのリターンが喧伝されます。とても華やかに見えます。

けれど、その試みにおいて、「本当に失敗してしまった人」は単に「あれ?そういえばあのひと、最近みないね?」という程度にwebから消えてしまうだけなので、一部の華やかそうに見える成功例だけが可視化され続ける、ということになります。


チャレンジをすることは悪いことではありません。ですが、チャレンジをする際、成功例「だけ」を参考にするのはとてつもなく危険です。しかし、世の中「参考にすべき失敗例」はなかなか見えにくいようにできています。

だから、チャレンジをする前に、「そのチャレンジに伴うリスクは何かな?」という点については、きちんと想像力を働かせなくてはいけない、ということになるわけです。



大体想像して頂けると思いますが、私は今、例えば「ノマド・ライフ」であるとか、もうちょっと古くは「1円起業」のような、ちょっと前にいち時期流行って、最近あまり聞かなくなったものを思い浮かべています。

あの頃、盛んにそれらの言葉を喧伝していた人たちは、今ではまた別なものを喧伝し続けています。そして、そういった言葉に乗っかって「別の道へのチャレンジ」をしてきた人たちの中で、まだ観測できる人はほんの一握り、いや一握り以下です。

それらの一握りに入っていない人は、「これこれこういった成功をした」「これこれこういった失敗をした」という形跡すらなく、ただただ見えなくなりました。web上に存在しなくなりました。たまに、「あれ?あのひとそういえば最近観ないな?」と思って検索をすると、更新が途絶えて二年くらい経つブログが観測される、という程度の状況です。殆どホラーです。


そして現在は、そういった手あかがついたバズワードの他に、新しい魅力的な言葉がまた色々と考えだされ、喧伝され始めているように思います。


繰り返しになりますが、チャレンジすることは悪いことではない、と思います。ただ、「成功例だけを判断材料にチャレンジする」ことは、決して賢明なこととは言えません。そして、あなたに数々の成功例を提示する人達は、あなたの人生に対してなんの責任も負いません。


失敗例は極めて観測し辛い、ということだけは念頭に、皆様には「よいチャレンジ」をしていただければと思う次第です。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 11:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

殺人事件被害者の実名報道について、またいつも通りのメディア側論法が出てきたんで思ったことを書く

以前も似たようなこと書いたんですが。


この論法、観る度に新鮮な不快感に包まれますし本当によくわからないんですが、

相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人が刺殺された事件をめぐり、神奈川県警は障害者への配慮などを理由に被害者の実名公表を拒んだ。戦後最大級の犠牲者を出した殺人事件にもかかわらず、「誰が亡くなったのか」という事実確認に障壁を設け、被害者の足跡や遺族の思いなどを世に伝える機会を奪った形だ。

さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。

「メディアが実名を報道するかどうかは、警察ではなくメディアが責任を持って判断することだ。当局による恣意(しい)的な情報選別は、都合の悪い情報の隠蔽(いんぺい)にもつながりかねない。『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」と批判している。

遺族が公表を希望しているならともかく、「公表されないことを強く希望」しているわけですよね。

糾弾されるべき対象の情報ですらなく、何の罪もない殺人事件の「被害者」の情報なんですよね。

「『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」なんて言葉がさらっと出てきてますけど、遺族感情以上に優先されなくてはいけないことって一体なんなんでしょうか。「実名報道がされない」ことによって失われるものって、そんな重要なものなんでしょうか。

「社会が悲しみや怒りを共有」って、それ自体何がどう重要なのかよくわからないいい加減なマジックワードですけれど、単に「無抵抗な被害者がこれこれこういう経緯で殺されました」では怒りや悲しみが共有されないんですか。そこに実名が付け加えられることによって、いったい何が新たに共有されるんでしょうか。

今回の件なんて、もし被害者の実名情報が公開されでもしたら、被害者遺族にこころない誹謗中傷がわんさか寄せられるなんてこと、いつも以上に明白なのに、そんな被害者遺族の事情なんてどうでもいいってことなんでしょうか。被害者遺族の生活が破壊されることよりも、実名報道によって共有されるものの方が重要ですか。


この手の「被害者実名報道の是非」の話が出る度に、上記に列挙したような疑問が沸いてきますし、それについて納得できる回答に出会ったことがありません。


今回の事件が、規模的にも戦後最大の事件ということでもあり、非常に痛ましい事件であることについては何の疑いもありません。
ただ、そうであればこそ、せめて「そっとしておいて欲しい」と願う被害者遺族のプライバシーくらい守られるべきなんじゃないかと。

今回のような事件を「防止」するような施策を考えることは非常に難しい気もしますが、仮に「今後の対策」を考えるにしても、そこに被害者の実名情報が一体なぜ必要なのかと。


結局のところ、被害者の実名情報や個々のプライバシー情報が「コンテンツ」として扱われている、というのが現在の実情であって、それが被害者遺族のプライバシーよりも重要だとは私にはどうしても思われない、というのが私の考えなわけです。


今回の事件、事件が発生したのが障害者施設だったということで、普段の報道とだいぶ雰囲気が異なることは間違いないように思います。
それが「障害者差別」だと言われればそうなのかも知れないですが、それならば「他の殺人事件についても被害者や被害者遺族のプライバシーが守られる」という方向で平等にするべきですし、是非今後そのような方向に動いて欲しいと強く願っています。


手前みそですが、以前似たようなテーマで書いた記事は下記の通りです。



今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 08:57 | Comment(5) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

ブログが主なのか、ブロガーが主なのか。


ここしばらく感じていた違和感をようやく言葉に出来たので、ちょっと書いてみようかと思います。


私は、ブログが主で、ブロガーが従だと思っていました。今でもそう思っています。


一般的なものであれば、「人があって、創作がある」のかもしれないですが、少なくともブログにおいては、「ブログがあって、ブロガーはそのおまけ」だと思っています。


何故ならインターネットだから。


すいません、この「何故ならインターネットだから」という言葉、私にとっては「これだけで説明が済む」っていうくらい大きな力を持ったマジックワードなんですが、普通の人にとってはそうでないことが予想されるので、もうちょっと補足します。



私は11年「不倒城」を書き続けており、不倒城にそれなりに思い入れを持っています。一番重要なのは「書きたいこと書く」ですが、結果としていろんな人に不倒城を読んでもらえれば嬉しいなーと思っていますし、不倒城の知名度が上がれば嬉しいなーと思っています。(注:この場合不倒城は「レトロゲームブログである不倒城」のことを指しますが、一旦それは置いておきます)

ただ、別にそこに、このブログを書いている「しんざき」という名前がくっついている必要はないのです。このブログを書いているのがしんざきだというのはどうでもいいことであって、何ならしんざさでもシソザキでもなんら問題はなく、極論しんざきと不倒城を結びつけるものが何ひとつなくたって構わないと思っています。


しんざきというネット上の人格は確かに存在しており、それはそれで色んな活動をしていますが、それはケーナ吹きであり、人狼プレイヤーであり、一レトロゲーマーであり、キャベツ太郎ソムリエの名前であって、「不倒城」の筆者である必要は全くない、とでもいうのでしょうか。


言ってみれば、私には間違いなく承認欲求がありますが、その承認欲求は「しんざき」ではなく徹頭徹尾「不倒城」を向いているのです。不倒城には有名であって欲しいですが、「しんざき」が有名になる必要はビタイチないのです。

何故ならインターネットだから。


私が知っているインターネットは、かつて「顔がない世界」でした。


顔がない人たちが、いろんな面白いことを書いて、書いて、書いて、それで私が好きなインターネットが出来上がっていました。そこに書かれたものを誰が書いたのかはさっぱりわかりませんでしたが、けれどそこに書いてある数々の「面白いもの」が、私は好きでした。

インターネット上のテキストは、そのテキスト自体が重要なものであって、そのテキストを「書いた人」が問題になるのは、そのずっとずっとずっと後でした。「え、○○を書いてたのってあなただったの!?」ということが驚きになることはあっても、「××さんが書いた○○」なんて看板が重要になることは稀有なことでした。


それがあまりに自然なことだったから、ブログがあったとして、「ブロガー」が露出する必要なんて全くないんじゃないか、とすら私は思っているのです(現実問題、流石にそれではいろいろと不便過ぎるので、最低限の繋がりは保っていますし、ブログ内でもしんざきを名乗ってはいますが)



「ブロガーのブランドイメージ」という言葉を、私がさっぱり理解出来なかったのは、つまりそういうことなのです。

ブロガーはブログを有名にしたいものなんじゃないの?と私は思っていたのです。ブロガーが、ブログではなく、自分の「イメージ」を作る必要がどこにあるの?と。

ブロガーが、ブログを離れて、ブロガー単品として活動しはじめるに至っては、完全に私の認識と主客が逆転してしまって、漫画全く描かないのに何故か言論人として有名になってる漫画家、みたいなイメージを抱いてしまっていました。すいません誰とは言いませんが。




ただこれ、いい悪いの話ではなく、単に文化の違いなんだと思います。私がかつて「顔がない」インターネットに余りにも馴染みすぎていたのと同じように、「まず顔があって、そしてブログがある」という文化に馴染んでいる人も多いんだろう、とは想像が出来ます。


文化の違いを無理にすり合わせる必要はありませんし、スタンスを無理に変える必要もありません。そういう意味では、「あ、これ文化の違いだ」と気づけたので、私は随分気楽になりました。


私はこれからも不倒城でレトロゲーム記事とそれ以外の記事を書き続けますが、皆様もしよろしければ、それらは「しんざきの記事」ではなくあくまで「不倒城の記事」だと認識頂ければ幸いです。


そして、ずっとずっと未来、いつかどこかで、「え、あれ書いてたのお前だったの!?」という言葉を少しでも聞くことができれば、それは私にとって本望というしかないなあ、とそんな風に思うのです。


posted by しんざき at 00:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする