2017年12月08日

しんざきにとってラヴクラフト作品は何故怖くないのか


主語小さい記事です。

いや、twitterではネタとしてこういうこと書きましたけど、

実際には触手がどうとか触腕がどうとかって、多分枝葉の問題だと思うんですよ。

だって、ラヴクラフト作品で「触手」「触腕」みたいな描写が出てくる、というか「宇宙的怪異」がある程度直接描写される話ってごくごく一部ですもんね。多分、全体の2割あるかないかってところなんじゃないでしょうか?クトゥルフ神話全体だったらもっと一杯あるんですけどね。

これはどちらかというと「ホラー」というジャンルの受け取り方とか、楽しみ方の話なんですが。


私、ホラーの肝って、「踏み外させ方」だと思うんですよ。


つまり、「さっきまで日常だったのに、いつの間にか日常を踏み外していた」という、いってみれば浮遊感。あれなんかおかしいぞおかしいぞ、と思いながら読み進めて、どこかで「既に日常を踏み外して落下していた」という感覚。後から読み返して、「ここだったのか」と気づく戦慄。

少なくとも私が、ホラーを読んで「怖さ」を感じるところってそこなんですよね。

怖いホラーって、凄く「日常」を描くのが上手いと思うんですよ。ついさっきまで和気あいあいと、ごく普通の日常を送っていたのに、ある瞬間から異様な情景に、異様な世界になる。日常描写がリアルであればある程、それが「実は壊れていた」と気付く時の恐怖感が大きくなる。

いわば、日常風景でゲージ溜めて、そのゲージで一気に超必を撃つ、みたいな話なんだと思うんです。少なくとも私は、「日常ゲージ」がある程度溜まってないとあんまり怖くない。それも、「怖くなるぞ怖くなるぞさあ怖くなるぞ」っていう前振りがある怖さじゃなくって、「あれ、なんか変だな…日常の筈なのに…あれ?あれ?」ってなる方が怖い。

要するに、物語序盤からすぐ怖い話が始まったり、「怖くなるぞ」っていうタメが明確な作品ってあんまり怖くないんです。

で、そういう意味では、ラヴクラフト作品って「日常ゲージ溜め」はあまり行われないんですよね。勿論タイトルにもよるんですが、割と早い段階で「日常」は終わるし、場合によっては最初の時点で既に日常が終わっていたりする。「怪異の存在明示」が結構早いんです。

ただ、これは決して「ラヴクラフト作品がつまらない」という訳ではないということは念押しさせてください。私にとって、「ホラーとしての」ラヴクラフト作品はあまり怖くない、というだけの話であって、「宇宙的怪異」を描いているラヴクラフト作品は十分面白いですし、楽しめます。「時間からの影」とか「宇宙からの色」とか超面白い。

ただ、飽くまで「ホラーとして」の話であれば、「冷気」とか「家のなかの絵」なんかはかなり怖いと思います。ムニョス先生こわい。あと「神殿」も結構こわいかも。

ちなみに、以下は初心者の方におススメ出来るラヴクラフト作品の記事なんで、よかったら読んでみてください。面白いですよ。ラヴクラフト。たまにSAN値は削られますけど。





ところで、全然話が飛ぶんですが、私レイ・ブラッドベリの作品って大好きで。特に大好物なのが「何かが道をやってくる」と「10月はたそがれの国」の二作なんですけど。

ブラッドベリって、そもそも別にホラー作家ではなくって、時にはSFを、時にはファンタジーを書くっていう感じの、言ってみれば「幻想作家」なんですけど。

ただ、ブラッドベリの「踏み外させ方」って物凄いと思うんですよ。正直そこらのホラー小説よりよっぽど怖い。「あれ?あれ?日常の筈なのに…」からの浮遊感がすごーーーい上手いんです。

そういう意味で、上でも挙げた「10月はたそがれの国」と「何かが道をやってくる」は超お勧めです。よかったら一度読んでみてください。



「10月はたそがれの国」については以前書きました。その時も「踏み外させ方」の話をしました。



「何かが道をやってくる」についてはまたその内ちゃんと書こうと思います。


ということで、今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 07:37 | Comment(3) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月25日

「足を引っ張る味方」の役割について、あるいはワールドトリガーすごいよねという話

こんなまとめを目撃しました。


物語における「トラブルメーカー」とか「足を引っ張る味方役」みたいなものを提起して、その存在についての好き嫌い、みたいな話ですね。これ自体は、最終的に好みの問題だと思うのでどうこういう話ではないのですが。


ただ、物語上の役割として「トラブルメーカー」「足を引っ張る味方役」について考えてみると、「展開に起伏がつけやすい」「「ピンチからの脱出」を演出する小道具として便利」ということは一般的に言えると思います。


何度か書いてるんですが、創作には、割と大きな面白さ配分として「まさか」と「さすが」の二つの気持ち良さというものがある、と私は思っています。「まさか」というのが、ピンチからの逆転とか、舐められている主人公が力を見せつけたり大成長して周囲をびっくりさせる、要は逆転の気持ち良さ。「さすが」というのが、最初から強いと認められているキャラクターが評価通りの活躍をする、要は信頼の気持ち良さ。

で、今回は特に「まさか」の話なんですけど。

物語上で「まさか」を演出する為には、「味方の立ち位置を下げる」ないし「敵の立ち位置を上げる」ことのどちらかが必要になります。「逆転させるんなら、まずどっちかが有利/不利にならないとダメじゃん!」という話。当たり前のことですよね。この立ち位置というのは、元々の強さだったり、展開上の有利不利であったり、とにかく物語上の「その時点の有利さ」だと思ってください。

この「立ち位置の上げ下げ」をどれくらい説得力を持って行うか、というのは、その作者さんの腕の見せ所です。ここで説得力がないと、そのお話は急に嘘くさくなってしまいます。「頭脳戦の筈なのに敵がバカ過ぎ」って言われちゃったり、「展開が都合良すぎ」とか言われちゃうお話は、ここで「立ち位置の上げ下げ」を上手く行えていない、と考えることが出来ると思います。

で、この時、「立ち位置を下げる手段」のパターンって色々あるんですけれど、その時「足を引っ張る味方」「トラブルメーカー」って、お話の構成上凄い便利なんですよ。

勿論お話には色んなパターンがあるんですけれど、

・そのキャラクターのフォローや反発という形で、ごく自然に他のキャラの評価を上げることが出来る
・相対的に他のキャラクターの有能さ・頭の良さを強調することが出来る
・キャラクターの個性づけを強調することが出来る
・場合によってはそのキャラを排除、ないし何等かのマイナスを付与する(そのキャラがひどい目にあうとか)ことで読者の溜飲を下げることが出来る
・「敵を有利にする」要素だけに頼らずに済む

この辺りはぱぱっと挙げることが出来ます。例えば、「頑迷で物分かりの悪い味方の無能上司」みたいなキャラだったら、そのキャラを手ひどくやりこめることで味方キャラの株を上げる、とか。「味方の中の、力自慢だけど頭は悪い」みたいなキャラだったら、ピンチを作った上で戦闘で活躍させることで挽回させる、とか。

あと、結構大きなところで「頭がいいキャラを作る為には、頭が悪いキャラとの対比がないと難しい」という問題がありまして。相対的な頭の良さを演出する為に、敢えて頭が悪いキャラを出す、というのはよくある手段です。


まあ、勿論描写の良い悪い好き嫌いはあると思うんですけど、「足を引っ張る味方」というのは、ストーリーテリング上ではとても便利な存在なんだよ、というのは言えると思います。


ところで。

いきなり話がものすっごい飛ぶんですけど、ワールドトリガー、みなさんご存知ですか?面白いですよねワートリ。葦原先生がご快復して続きを描いて頂けるのを心待ちにしております。


以前、ワールドトリガーについてはこんなことを書きました。


で、このワールドトリガーを読んで、もう一つ凄いなーと思ったのが、この漫画「足を引っ張る味方」とか「立ち位置を下げる為に、敢えて無能描写されてるキャラ」というのが、本当に殆どいないんですね。いや、勿論やられ役的なキャラはいないこともないんですが、いかにもトラブルメーカーとか、いかにも無能そうなキャラっていうのが、いない。話が通じないキャラがいない。


例えばボーダーで言うと、ボーダー内の人たちって皆基本凄い「ちゃんと仕事をしている人たち」ばっかりで、わざわざ足を引っ張るような「イヤなキャラ」というのが本当にぜんっぜんいないんですよ。

時には主役勢と敵対することもあるけれど、ちゃんと話も通じるし交渉も出来るし、必要に応じて柔軟な姿勢も見せるボーダー上層部とか。鬼怒田さんなんか、最初は「頑迷キャラかな?」と思わせておいて、実はぜんっぜん有能なキャラでしたしね。

誰もかれも、戦況を的確に判断して、きちんと押し・引きが出来ているA級・B級上位隊員勢とか。

勿論ミスをしないわけではないけれど、一人ひとりがちゃんと自分の仕事をわきまえて行動しているC級・B級中位・下位隊員勢とか。新三バカですら、まあすごいちっこい部分ですけど仕事してるわけです。

「話が分からない」「自分の仕事をしていない」というキャラが、いない。強いて言うと太刀川チームの唯我なんてギャグキャラめいた感じですけれど、彼も別に物語の役割上では「足を引っ張る」キャラクターではなく、むしろ三雲を鍛えるのに協力する方のキャラクターですし。色々わがまま言うという点では香取さんとかちょっとトラブルメーカー寄りの描写でしたけど、それでもランク戦中はきちんと自分の仕事をして、最大限自分のチームの得点を取る為に最善の行動をしようとしてますしね。


これ、特にアフトの大規模侵攻の時の描写が顕著で、「敵も味方も全員、ちゃんと自分の仕事をしている」「誰も「足を引っ張る」ヤツがいない」「その上で、味方がちゃんと大ピンチになる」「その上で、ちゃんと逆転のカタルシスもある」という、よく考えると物凄いことをやってると思うんですよね。アフトクラトル側も、まあエネドラがちょっと暴走キャラですけど、ちゃんと「敵をひきつける」という仕事は遂行していて、ボーダーの指揮官まで引っ張りだしている。皆物凄い「有能な強敵」なんですよ。

「勝負」の描写をする時、「勝因と勝因のぶつかり合い」だけで逆転を描き切るのってかなり難しいんですよね。

勝因って、書くの結構難しいんです。現実でも、勝因のない勝利はあっても、敗因のない敗北はない、とか言いますしね。「どっちかが強かった」だけだと話は作りにくいし、逆転のカタルシスも演出しにくい。

どちらかというと、どちらかに明確な「敗因」があった方が、読者も分かりやすいし、勝敗に説得力をつけることも出来る。で、その「敗因」にも、無能な味方とか、トラブルメーカーのミスって本来便利に使えるんですけれど。

けれどワールドトリガーの、特に大規模侵攻戦って、「誰もミスらしいミスをしてない」んです。これ凄い。「敗因」がない。相手をひきつける役はひきつける役で、ちゃんと戦略上での得点を挙げてる。それでも、随所随所で相手の仕事を上回る仕事をするキャラクターがいて、結果として「ピンチからの逆転」で主役側が勝利を収めている。


こういう展開をきちんと描ける人って、そうざらにはいないんじゃないかと思います。


勿論、上で書いた通り「味方の足を引っ張るキャラ」って物語展開上は凄い有用な要素ですし、私自身はそんな嫌いでもないんで、「そういうキャラがいない方がいい」ってことは全然ないんです。いていいし、使われていい。

けれど、「そういうキャラが全くいない」上で「ちゃんとした逆転」を描いている、ワールドトリガーってのはつくづく凄い作品だなーと、ついベタ褒めしたくなった次第なわけです。

繰り返しになりますが、葦原先生の一刻も早いご快復を祈念しております。

今日書きたいことはそれくらいです。











posted by しんざき at 06:49 | Comment(10) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

「映画大好きポンポさん」の感想と、「まさか」と「さすが」の同時並行バランス、という話

「映画大好きポンポさん」を買いました。


いや、実はPixivに掲載されていた版で既に読んでいたんですが、大変楽しませて頂きましたし、長男やしんざき奥様も好きかもなーと思って書籍版で買っておこうと思ったんです。相変わらず面白かったですし、長男も大変楽しく読んでおりました。「ブラドックが出てきてから特に面白かった!」だそうです。

で、長男とも話していて、この作品は「まさか」と「さすが」のバランスがとても素晴らしいなーと思ったので、ちょっとそれについて書いてみたくなりました。ネタバレが混じるのでお気をつけください。

私は、漫画や小説の面白さを考える時に、「まさか」と「さすが」の二つのカタルシスが結構重要だと考えていて、以前からちょくちょくこれについての話をしています。あ、カタルシスというのは、まあ「気持ち良さ」という程度に読み替えてください。

まずは定義の話をします。


1.「まさか」と「さすが」のカタルシス、とは。

「まさか」というのは、要は逆転の気持ち良さ。周囲から評価されていない、あるいは弱い立ち位置のキャラクターが、「まさか」と思えるような大活躍をしたり、素晴らしい成長振りを見せたり、強敵に大逆転勝利をしたり。今まで舐められていたキャラが周囲を瞠目させる、といった展開は、この「まさかのカタルシス」の定番の展開です。「弱いキャラが大逆転すると気持ちいいよね?」という話です。


一方、「さすが」というのは、要は信頼の気持ち良さ。最初から高い評価を受けている、あるいは強い立ち位置のキャラクターが、期待通りの、あるいは周囲を納得させるような活躍をした時の気持ち良さ。師匠系立ち位置のキャラが無双したり、周囲が「流石〇〇だ」とつぶやくような活躍をした時の気持ち良さがこちらです。「強いキャラが大活躍すると気持ちいいよね?」という話です。

この二つの使い方が上手い、あるいはバランスが良い漫画や小説には、読者を気持ちよくさせる瞬間がたくさん含まれています。特に少年漫画の名作は、大体がこの二つを巧みに使い分けている漫画ばかりだと私は考えています。

これを前提に、「映画大好きポンポさん」について考えてみましょう。


2.「映画大好きポンポさん」におけるキャラクターの立ち位置。

映画大好きポンポさんには、主役といって良さそうなキャラクターが多分2人います。

一人が、タイトルにもなっているポンポさん。彼女は、映画界の巨匠ペーターゼン(多分ウォルフガング・ペーターゼンから名前を取っているのでしょう)の孫娘で、幼少の頃からその薫陶を受け、映画に関する才能からコネクションからリーダーシップから、様々な物を受け継いでいます。彼女は、「泣かせ映画で観客を感動させるより、おバカ映画で感動させる方がかっこいい」という持論の持ち主で、B級映画に分類されるような映画を作ってはヒットさせる、映画製作の達人として描写されます。

もう一人が、ポンポさんの助手のジーンくん。彼は、子どもの頃から「映画の中だけが僕の世界だった」という映画マニアで、ポンポさんから「ダントツで眼に光がなかった」と言われる、まあ言ってしまえば卑屈で自己評価が低いキャラクターです。物語は、彼の才能の開花を軸として動きます。

他、ミスティアやナタリー、あるいはブラドックといったキャラも勿論メインキャラクターなのですが、まずはこの二人、非常に対照的な二人のキャラクターが「映画大好きポンポさん」の主役、といっても特に問題ないでしょう。


3.「映画大好きポンポさん」における「まさか」と「さすが」の配分。

で、みなさんお分かりかと思うんですが、この漫画において、ポンポさんは「さすが」のキャラクターであり、ジーンくんは「まさか」のキャラクターです。二人は、漫画における役割を完全に分割しています。

ポンポさんは、インタビュー冊子で作者さん自身が語っているように、言ってみれば「無敵」のキャラクターであって、作品世界においては最初から最後まで最強です。映画というフィールドにおいて、作る作品作る作品全てヒットし、真面目に脚本を書けばサクっと大作を完成させるポンポさん。彼女は、周囲からの評価通りの活躍を軽々と飛び越え、ナタリーやジーンくんといったキャラクターの救済までこなしてしまいます。この漫画におけるスーパーヒーローです。

一方のジーンくんは、物語開始当初、周囲からなんの評価も受けておらず、自己評価の低さもしばしば描写されます。彼は、ただ一人ポンポさんによって、「社会に居場所がない人間特有の追い詰められた目をしている」というところを買われ、クリエイターとしての潜在能力の大きさに期待されています。

そんなジーンくんの(漫画的な)見せ場が、以下の二か所であることは多分間違いないでしょう。

・「MARINE」の予告映像を作り、コルベット監督とポンポさんから評価された場面
・マーティン・ブラドックの指揮の経験についてすらすらと語り、ブラドックから感心される場面

これ、「映画マニアとしての彼の才能、知識がまさに周囲から認められた瞬間」であって、彼の人生が結実した場面であると同時に、「弱い主人公が周囲の評価を覆す大活躍をして、周囲に認められる」その瞬間でもあるんですよね。まさに、上記でいうところの「まさかのカタルシス」のお手本のようなシーンだと思います。そして最終的に、ジーンくんは彼の周囲だけではなく、映画界において大きく評価されることになる訳です。

ポンポさんが活躍すると、読者には「強いキャラクターが期待通り活躍する」さすがのカタルシスが提供されます。

ジーンくんが活躍すると、読者には「弱いキャラクターが周囲の評価を覆す大逆転をする」まさかのカタルシスが提供されます。

映画大好きポンポさんという漫画において、「まさか」と「さすが」のカタルシスは、キャラクターごとに完全に分断されています。これは例えば、ミスティアとナタリーの二人の関係でも(ポンポさんとジーンくん程明確ではないですが)言えることです。

「映画大好きポンポさん」は、勿論描写自体上手いし背景知識も深いしとても面白い訳ですが、少なくとも私が楽しめた理由の一番大きなところは、この「カタルシスの配分」だと思っています。

キャラクターの役割を分けることによって、「まさか」と「さすが」のカタルシスを同時並行で読者に感じさせる、この物語展開はとても上手いなーと。読んでいて気持ちいいなーと。そんな風に、勝手に感心した次第なのです。


ちなみに、キャラクターの役割が「まさか」と「さすが」で分割されている作品自体は他にもたくさんありまして、例えば初期の「はじめの一歩」なんかその典型だったと思います。鷹村が「さすが」のキャラクターで、一歩が「まさか」のキャラクターでしたよね。一歩が段々強くなってしまって、キャラクターの役割配分が途中から上手くいかなくなっちゃった感も多少あったりもするんですが。SLAM DANKとかアイシールドなんかもそんな感じ(「まさか」キャラと「さすが」キャラの分割同時描写)でしたかね?


「映画大好きポンポさん」の話に戻りますと、各キャラクターの好きな映画三作について、おまけ漫画で掘り下げられていたのも個人的に面白かったです。特にポンポさんが痛快。

私自身は、映画自体あんまり見てないんで好きな映画三作っていうと子猫物語とゴジラとゴーストバスターズ(初代)とかになっちゃいますが、好きなレトロゲーム三作なら色々書けるかも知れません。


まあなにはともあれ、映画大好きポンポさん面白いですよねーと。PIXIV発の漫画っていうのも盛り上がって欲しいなーと思ったんで、長々書かせて頂いた次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。










posted by しんざき at 07:00 | Comment(1) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

「キン肉マン」が38年の旅を越えてたどり着いた場所

先週、「キン肉マン」完璧超人始祖編のweb連載が、ついに、ついに最終回を迎えました。

皆さん読みましたか?完璧超人始祖編。まだ読んでない人は是非単行本を買ってでも読みましょう。損はさせません。

巻数で言うと、36巻までが王位争奪編までの、言ってみれば20世紀のキン肉マンで、37巻は外伝的な読み切り作品、38巻以降が2012年から始まった「完璧超人始祖編」のキン肉マンです。60巻がシリーズ最終巻になる、筈です。まだ出てませんが。




かつて、キン肉マンのテーマって、割と分かりやすい「逆転と超克」の物語だった、と思うんですよ。以前書いた「流石」と「まさか」で言うと、極めて「まさか」に寄った物語。


最初期のギャグ漫画時代・怪獣退治編を例外として、キン肉マンは殆ど常に、「大逆転」を主軸に据えたストーリーであり続けました。普段は「ダメ超人」としての描写を専らとしているキン肉スグルに、次から次へと襲い掛かる大ピンチ。それに対して、頼もしい仲間たちと、友情パワーや火事場のクソ力を武器にしたキン肉マンによる、大逆転と大勝利。超人オリンピック編でも、悪魔超人編でも、黄金のマスク編でも、完璧超人編でも、王位争奪編でもそうでしたよね。

キン肉マンは、常に窮地に立たされますし、常に臆病風に吹かれますし、けれど常にそこから立ち上がり、最後には窮地を打ち破る。普段かっこ悪いからこそ、かっこいい。それがキン肉マンでした。

そして、キン肉マンの「窮地の打ち破り方」の描写は、本当に卓絶していました。プロレスに「超人」という要素を掛け合わせて、既存の枠を打ち破った「超人プロレス」。そこでの駆け引き、つばぜり合い、時には搦め手、そして大逆転。この描写こそが、キン肉マンという漫画を不朽の名作にした最大の要因であることは論を俟たないでしょう。

キン肉マンは、ジャンプの三大原則である「友情」「努力」「勝利」を最も忠実に体現した漫画の一つだった、ともいえると思うんです。


ただ、旧作キン肉マンの一つの特徴として、「対戦相手は飽くまで超克の対象であり、(少なくとも一度は)否定されることになる」という点があることは否めないと思います。もうちょっとぶっちゃけると、「主人公の逆転を描く為に、敵キャラが一度は割を食うことになる」ということです。

例えば黄金のマスク編の悪魔将軍は、途中までは圧倒的な強さとカリスマを欲しいままにしましたが、終盤はあんな感じでした。バッファローマンは最後に改心してしまいましたし、ネプチューンマンは、いきなり正体を現したネプチューンキングの部下のような描写になり、最後はアレやコレやな感じでした。フェニックスは、途中まではミステリアスな強さをもった知性派だったんですが、やはり終盤は色々小悪党っぽい感じが出てしまいました。

言ってしまうと、旧作キン肉マンの唯一の「弱点」は、「敵役の立ち位置を貫徹させられなかった」あるいは「悪役が最後まで魅力的な悪役として描かれてこなかった」ことなのではないかと、少なくとも私は思うのです。これは、ゆで先生ご自身が「この作品は前作を超えるものにはならない」とおっしゃったという、キン肉マン二世でも引き続いた問題だったと思います。

これが悪かった、ってわけじゃないんです。これはこれで、キン肉マンの重要な「味」の一つではあったと思いますし、話の展開としても好みの問題です。


ところで。


以降は、核心には触れないつもりですが、一応ネタバレになるので注意して頂ければと思うのですが。

38巻からの完璧超人始祖編では、この点が完全に、完璧に、これ以上ないくらいに払拭されていました。本当に、同じ人がこの漫画を描いたのか…!?と思ってしまう程の凄まじい払拭ぶりでした。

完璧超人始祖編は、そもそも「旧作キャラが入り乱れる三つ巴戦」として始まりました。完璧無量大数軍の襲来に、正義超人の唯一の代表として孤軍奮闘するテリーマン(とジェロニモ)、そこに割って入るのがブラックホールやステカセキングという時点で、旧作ファンとしてはもう感動し過ぎて涙が止まらないくらいでしたが、何よりもすげえ!!!と思ったのが、「悪魔超人が、悪魔超人のままで完璧超人たちと戦っている」ということなんです。

彼ら、慣れあわないんですね。決して正義超人と「協力」したりはしないし、正義超人軍として戦っている訳でもない。「悪魔超人は悪魔超人であって、決して正義超人に与しているわけではない」というスタンスを、それこそ最後の最後まで崩さない。

その首尾一貫ぶりは、満を持して登場した悪魔六騎士、そして悪魔将軍の登場でピークに達します。最後の最後まで、悪魔将軍は自らのスタンスを譲らない。かつて自分を倒した男(キン肉マン)を認めながらも、決して自分を折りはせず、勿論なれ合うこともなく、自分の「目的」に忠実であり続けるのです。

そしてこれは、完璧無量大数軍、更にその上に立つ完璧超人始祖達にも同じことが言えます。たとえ敗北することになったとしても、自分が信じているものだけは決して折らない。立ち位置を変えない。


認めるけれど、折れない。勝とうが負けようが、「譲れないもの」はそのまま保持し続ける。だから、たとえ敗れたとしてもその大義は変わらないし、輝きを失わない。

私は、かつてキン肉マンで、ここまで「敵役が最後までかっこいいままだった」シリーズを他に知りません。


これ、旧作キン肉マンでは見ることが出来なかった、「最後までブレない強大な敵役」という概念そのものだったと思います。キン肉マンならではの熱い描写はそのままに、三つの勢力が最後まで輝きを失わず、それぞれの終着点にたどり着いてみせた。上記の言葉を使えば、「まさか」の熱さに、「流石」の熱さが追加された、ともいえると思います。


とにかく滅茶苦茶かっこいいんですよ、悪魔将軍も、悪魔六騎士たちも、ネメシスも、ザ・マンも、勿論他の始祖たちも。その強さ、その威風、威容もさることながら、「ブレないが故に、たとえ歩み寄らなくてもお互いに認め合うことが出来る」その一貫したスタンスが彼らを輝かせていたんだと思います。


この「ブレなさ」があったからこそ、今回の「完璧超人始祖編」の最後の戦いが、「キン肉マンとネメシス」ではなく、「悪魔将軍とザ・マン」という戦いであり。しかもネメシス編以上に熱く、印象的で、キン肉マンという作品の中でも指折りに素晴らしい一戦になったのだと私は思うわけです。

勿論、敵役のブレなさだけが「完璧超人始祖編」のすばらしさではありません。引き伸ばし、出し惜しみのなさ。「まさかそこでその伏線が回収されるのか!?」の意外性。きっちりと立ち位置を下げてからの大逆転を見せるキン肉マン。きっちりと実力を見せつける旧作強豪たちと、それ以上の活躍を見せる新キャラたち。本当に結果が予想できない、一つ一つの戦いの熱さ。随所随所で発揮されるゆで理論の「分かっている」感。ついに、ついに大敵を下してみせたザ・ニンジャ。

この隙が無さ過ぎるエンターティメント性は、現在連載中のすべての漫画を見渡しても出色のものだったと思います。


かつて旧作キン肉マンは、「逆転と超克の物語」を熱く描写することによって、不朽の名作になりました。


そして今、完璧超人始祖編は、「認め合い、しかし歩み寄らず、お互いを尊重する」物語を描くことによって、かつてのキン肉マンを越える作品になった、と私は思います。今、この時代に、キン肉マンという題材でこの作品を描き切ってみせた、ゆでたまご両先生には本当に感嘆する他ありません。今後の新シリーズも楽しみにさせていただきます。

ゆでたまご先生、まずは本当にお疲れ様でした。素晴らしい作品をありがとうございます。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

「ドラえもん のび太の宇宙小戦争」のドラコルルさんがあまりにも有能過ぎて辛い

唐突に何を言っているのかと思われるかも知れませんが、大長編ドラえもんの話です。

以前も書いた通り、私は藤子F不二雄先生の漫画版大長編ドラえもんが大好きでして、以前こんな記事を書いたりしました。


といっても全部読破した訳ではなく、通して読んだのは夢幻三剣士くらいまでなんですが。

上の記事でも書いたんですが、私が好きな漫画版「大長編ドラえもん」の順位は以下の通りとなります。

1.のび太の大魔境
2.のび太の宇宙開拓史
3.宇宙小戦争
4.海底鬼岩城
5.日本誕生

で、これも以前書いたんですが、大長編ドラえもんの見せ場はなんといっても「大ピンチからの大逆転」だと思います。

大長編において、のび太やドラえもん達はしばしば強力な敵と対峙することになります。そして、時には絶体絶命の大ピンチに陥ります。勿論最後にはピンチを脱して強敵に打ち勝つことになる訳ですが、ピンチが大きければ大きい程、敵が強ければ強い程、ピンチを脱した時のカタルシスが大きくなることは説明不要かと思います。

ただ、みなさんご存知の通り、ドラえもんはチート能力を数々有するひみつ道具の持ち主なので、実際にはなかなかピンチに陥る余地が小さいわけです。ドラえもんの科学力は大抵の敵よりも数段進んでおり、科学力・技術力で完全にドラえもんに優越しているのは、せいぜい日本誕生のギガゾンビくらいのものです(次点で恐竜ハンター)。

その為、ドラえもん達は

・敵の物量が圧倒的
・何かの事情で、ひみつ道具の使用が出来ない・ないしひみつ道具の使用に制限がかかっている

というパターンのどちらかでピンチになることが多いです。前者はたとえば海底鬼岩城や鉄人兵団、後者は大魔境とか魔界大冒険ですよね。

純粋に敵方の有能さでピンチになるパターンというのは、実はそれ程多くないんですね。

そんな中、「敵がすごい有能」というパターンでドラえもん達が大ピンチに陥る作品が2作あります。

一作が、冒頭リンクでも挙げた「宇宙開拓史」。ギラーミン先生、めっちゃ漢らしい上に超有能ですよね。本当、映画版をどうしてあんな展開にしてしまったのかわからない。

で、もう一作が、「宇宙小戦争」のドラコルル長官だ、と私は考えているわけです。スモールライトによってのび太たちが小さくなって、自分たちと同じ体格になっているという事情こそあれ、それ以外には特にひみつ道具の制限もない中、のび太たちはドラコルル長官率いるPCIAに徹底的に追い詰められます。


そこで今日は、上記ランキングの3位に入っている宇宙小戦争(リトルスターウォーズと読みます)、その中でも特に敵方のキャラクターである「ドラコルル長官」についてクローズアップして書いてみて、みなさんにもドラコルル長官のヤバさを実感して頂きたいと思います。

ネタバレが含まれますので、以下は折りたたみます。読んだことない人は是非読んでみてください、宇宙小戦争。超面白いことは保証します。







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2017年01月05日

「究極超人あ〜る」をげんしけん好きな人に勧めるのは間違っているかも知れない

ちょっと前なんですが、こんな記事を見かけました。



究極超人あ〜る、ご存知ですか?ゆうきまさみ先生が描かれた、いわゆる写真部であるところの「光画部」と、そこに現れたアンドロイド「R・田中一郎」を中心とした高校ドタバタコメディです。サンデーへの掲載が1985年からの3年間なんで、もう30年前の漫画ってことになりますが。



私自身は「究極超人あ〜る」が好きですが、ある作品が面白いかどうかは人それぞれです。そして、「面白くない」と感じたものを無理に面白がる必要はないんじゃねーの、とも私は思います。だから、究極超人あ〜るが面白くない、という話なら全然かまわないと思うんです。

ただ、この方がどうなのかは知りませんが、私の知人でも以前、「究極超人あ〜るの何が面白いのかよくわからん」と言っている人がいたんです。

その人とちょっと話をしまして「あー」と思ったことなんですが、彼、「げんしけんが好きだったらこれも読んどけ」って言われてあ〜るを勧められたらしいんですね。

確かにありましたよね以前。「げんしけん」や「銀の匙」みたいな、緩めのサークルもののルーツとして、究極超人あ〜るが取り上げられた文脈。

それはちょっと「入り方」を間違えたかもな、と私、思ったんです。期待していたものがそこにない、というちょっと不幸な入り方。もしかしたら同じようなルートをたどってしまった人、結構いるんじゃないかと。


確かに、「オタク系サークルの日常をクローズアップした作品」として究極超人あ〜るを考えれば、げんしけんのルーツとして考えてもおかしくはないと思うんです。実際、げんしけんの作中でも、割と最初の方であ〜るのオマージュとおぼしき描写がいくつかありましたよね。


ただ、漫画の立て付けというか、物語の類型としては、げんしけんと究極超人あ〜るって全然違います。正反対に近いと思います。

何故かというと、げんしけんが「日常をクローズアップした群像劇」であるとすれば、究極超人あ〜るは「異邦人ものコメディ」であるからです。



「げんしけん」には勿論様々なキャラクターが登場し、様々な人間模様を繰り広げます。ただ、彼らはほぼ例外なく「作中の日常」にパッケージされた人達、言い方を変えると「(変わったところはあっても)普通の人達」であって、個々に色々なドラマや事情を抱えてはいるものの、それらが作品世界の枠を踏み越えることはありません。「異常」があっても「異質」はない、とでもいうんでしょうか。かつ、げんしけんは「群像劇」であり、だれか一人を中核に一本のストーリーを構成した物語ではありません。途中からはラブコメ的要素もかなり濃くなります。


一方、「究極超人あ〜る」は、R・田中一郎という「異邦人」をクローズアップして、彼が出力する異常性、異質性を物語の中核として話が進む作品です。

あーる1.png

1巻におけるあ〜るの登場シーン。学ランの自転車姿で池から飛び出してくる、というのは相当インパクトがある登場の仕方ですよね。

彼は首が抜けますし、首が周りますし、怪力を発揮して鉄格子をあっさり曲げますし、味方コートからバスケのゴールを何十本も連続して決めますし、懐から電源プラグを取り出してお米を炊きます。何故ならアンドロイドだから。

そして、あ〜るの作品中でもそれはきちんと「異常なこと、異質なこと」であり、周囲は(慣れることはあっても)きちんとそれに振り回されます。あ〜るは実にオーソドックスな「異邦人」なのです。

勿論個々のストーリーとしては、さんごやしいちゃん、鳥坂先輩やその他のキャラクターがクローズアップされることもありますし、Rの影が薄いことも勿論あるんですが、基本的なお話の作りは大体Rが何かしらのトラブルの焦点になることを起点に動きますし、Rの産みの親である成原博士は随所随所で滅茶苦茶なトラブルを起こしますし、物語はR・田中一郎が池から登場することに始まり、彼が池から登場するところで終わります。


以前も書きましたが、「異邦人もの漫画」というのはいわゆる異人類型の物語構成を使った漫画でして、勿論いろんな名作があります。オバQしかり、うる星やつらしかり、レベルEしかり、ワッハマンしかり。




定義はというと多分

・ある世界観や文化から隔絶された「異邦人」が主人公、あるいは準主人公といったメインキャラである

・異邦人が生み出す軋轢が、周囲または異邦人自身の戸惑いを生み、それが頻繁に物語の主軸になる

という辺りになるかと思います。特に初期の究極超人あ〜るはピッタリここに当てはまるんですね。中盤以降はあ〜るの影が薄いこともありますが、それでも随所随所で彼は異質性を前面に出しますし、物語の起点になります。


あ〜るは、「自分の異質性で周囲を戸惑わせる」タイプの異邦人です。彼が「周囲との軋轢に戸惑う」描写は、多分作中で1回もない筈です。あ〜るの異質性で周囲がドタバタするのを見て、読者は楽しむ。

あーる2.png

ことあるごとに首を引っこ抜かれるあ〜る。関係ないですが、「でかい頭だな君は」のコマは、遠く「機動警察パトレイバー」で、後藤隊長と太田さんの最初の会話としてセルフオマージュされます。

また、基軸がコメディだから当然と言えば当然なんですが、究極超人あ〜るの人間関係の描写はかなりさらっとしてるんですよね。光画部の面々は仲は良いんですが、個々で仲が深まったり逆に仲違いしたり、という描写は滅多にありません。唯一それっぽいのは3巻のしいちゃん光画部離脱の辺りくらいでしょうが、それもすぐ元の鞘に収まります。あ〜るが何を考えてるのかは終始よくわかりませんし、ラブコメ展開も(全くという訳ではないのですが)殆どありません。

その点も、例えばげんしけんが「緩いながらも段々と変遷していく人間関係、人間模様」を一つの重要なエッセンスにしているのとは大きく異なるところで、げんしけん好きな人にあ〜るをお勧めしにくい理由の一つでもあります。


そこから考えると、「げんしけんが好きな人」よりも「オバケのQ太郎が好きな人」の方が、究極超人あ〜るという漫画を楽しめる確率は遥かに高いのではないか、と私は考えるわけなのです。いや、私はどっちも好きですが。


最初に書いた通り、私自身は「究極超人あ〜る」が好きなんですが、内容自体は結構ベタなコメディなんで、好き嫌いは人によって分かれそうな気はします。ベタな学園ドタバタものが好きな人であれば、結構読んで損はしないんじゃないかと思いますので、未読な方はいかがでしょうか。7巻でしたっけ、京都・奈良への修学旅行編とか好きです。


あと大戸島さんごさんは可愛いと思います。



長々書いて参りました。1ミリグラムも新年っぽさがないエントリーでしたが、今更のことなので気にしないことにします。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 12:46 | Comment(4) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

岩明均作品で一番美人なヒロインは「雪の峠・剣の舞」の渋江内膳の奥さんではないのか

いや、私、岩明ヒロインって全般的にすげー可愛いと思っている派閥なんですが、その中でもトップなのが内膳奥さんなのではないか、という意見の持ち主でございまして。


「雪の峠、剣の舞」については以前も書きました。私自身はこの作品を、岩明先生の短中編の中でも、いや日本の一巻完結型の短中編全部を見渡してもトップクラスに面白い一作だと考えております。

以前書いたエントリーは↓です。


以下、一応画像が多いので折りたたみます。

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posted by しんざき at 21:25 | Comment(3) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月28日

桜玉吉先生の「日々我人間」を買いました

大変面白いのです。

近所の本屋で、桜玉吉先生の「日々我人間」を無事入手した!!あと小林銅蟲先生のめしにしましょうも。

「日々我人間」は、週刊文春に玉吉先生が連載している、半ページ日記漫画を単行本化した一冊。いつ出るかはたまた出ないのか、とやきもきしていたのですが、ついに手にとれる日がまいりました。

個人的に近所の本屋を応援しているので近所の本屋で購入。横長、箱状のカバーつきのちょっと面白い装丁です。
一緒に写っているのは同じタイミングで購入した、小林銅蟲先生の「めしにしましょう」。こちらもおもしれーです。

漫玉日記の各シリーズもそうなんですが、桜玉吉先生の日記漫画の特徴を一言でいうと「恐るべきリアリズム」という言葉になるのではないかと思います。私生活垂れ流し、手加減無用直球勝負、「ああ、これ本当にそのまんま書いてるんだろうなあ」と感じさせまくること大なわけです。

前半は漫喫日記でもあった「漫画喫茶での生活」をひたすらそのまんまに描写、後半は伊豆の山荘での生活をリアリズムたっぷりに描写、という構成になっているんですが、始まり当初こそ「文春での連載」ということに若干の手探り感があったのかな?と思わせる部分も多少あるものの、途中からどんどんページを埋め尽くしていく玉吉節。かつての「しあわせのそねみ」の遺伝子を如実に感じさせるその作風は、長年の玉吉ファンをして「これだよこれ!」と言わしめるに十分な玉吉ワールドです。いや本当、冷静に考えるとメインキャラクターが玉吉先生一人しか存在しないわけですが、どんどん入り込んでしまう感は素晴らしい。

ちなみに、伊豆編の後半は完全に「周囲の色んな生き物との闘い日記」みたいな感じになっていて非常に面白いです。ムカデ擬人化シリーズ笑いました。あと、「運転していてつらかった経験」のトップに、しあわせのかたちで出ていた「カエルが多い田んぼ道」の話が出ていて懐かしさ満開でした。

玉吉先生って、特に私のような昔からのファンにとっては「親戚のおじさん」のようなイメージが強い部分があるんじゃないか、と思うんです。なかなか会えないけれどたまに消息を聞く親戚の面白いおじさん。だから、話全体がすごく身近に感じられるようなところがあるんですね。以前も書きましたが、玉吉先生くらいファンが頻繁に体調の心配をする漫画家さんもなかなかいないだろうと思いますので、是非健康に漫画家活動を続けていっていただきたいと思うところ大です。

なにはともあれ、本が売れて玉吉先生が多少なりと潤ってくれるといいなーと私は思いますので、皆さんもいかがですかぽちっと。50代漫画家おじさんのリアルな生活が観測できることは保証します。




今日はそれくらいで。
posted by しんざき at 23:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

今さらになって「ワールドトリガー」一気読みしたら超面白かった、ないし「汎用的な能力バトル」の話

いやーもっと早く読んどけばよかったです。なんで読んでなかったんだっけかなあ。我ながら見る目がない。


言うまでもなくワールドトリガーはジャンプの連載漫画なわけで、漫画記事読む人だったら知らない人の方が希少だと思うんですけど、今までちゃんとチェックしてなかったんですよ私。ちらちらみてはいたんですけど。

けど、最近のランク戦辺りからちょっと気になりまして、ちゃんと1巻から通して読んでみたらまあ面白いのなんの。「近界(異世界)からの侵略」という舞台設定だけ見れば割とよくある話かと思うんですが、敬遠してたら損しました。


この漫画、一応分類的には「トリガーという武器を使った能力バトル」ものになると思うんですけど、「汎用ものの能力バトル」というか。一部の例外を除いて、「一点ものの能力」があんまり登場しないんですよね。


能力バトル漫画の肝は、「能力の多彩さ」と、「その能力を使った戦略・戦術」です。で、大体の能力バトル漫画の場合、「あるキャラクターの能力は、そのキャラクターしか持ってない」んですよね。キャラクターはそれぞれ、「性質的に、自分にしか絶対出来ない」ことをもっていて、そこから個性や戦術を構築している。

ところが、ワールドトリガーの場合、黒トリガーやサイドエフェクトという例外を除くと、殆どのキャラクターが汎用の「ノーマルトリガー」を使っている。しかも、黒トリガーにしても、劇中すぐに使わなくなってしまったり、あるいは何人かで使いまわしたり出来てしまう。遊真にしても迅にしても、黒トリガー使ってる時期ってほんの一時ですしね。

「戦闘において、根本的にその人しか使えない能力」というものが、普段はあんまり出てこないんです。(出力的には、千佳の狙撃とか生駒旋空とかありますけど)

つまり、登場人物の大多数は、「量産型の、他の人でも同じことが出来る能力」を使っていて、それでもその中で「その人にしか使えない戦術」とか、「その人なりの工夫」とか、「圧倒的な精度、出力」みたいな要素でちゃんとキャラ分けがされていて、しかもそれにちゃんと納得感がある。

これ、「安易な一点もの能力と、それによる多彩さに頼らない」っていう意味で、すごーーい難しいことをやってらっしゃると思うんです。すごいなーと。


特にボーダー内でのランク戦については、長距離・中距離・短距離とそれぞれの守備範囲を軸に、「チームとしての戦術、作戦、駆け引き」が凄くきちんと描かれていてめっさ面白いわけです。一人一人がちゃんと自分の仕事をしていて、スプラトゥーンのような「役割わけバトル」という側面があります。分業超重要。

あと、主人公の一人である三雲が、「ちゃんと弱い」キャラであることも好感が持てます。「一見弱そうで、でも実はすごい潜在能力が」とかじゃないんですよね。素質があるわけでもないし、経験を積んでいるわけでもない。強い人と正面からぶつかると全然歯が立たないし逆転の目もない。だからこそ、自分も強くなれるようにあがきながらも、なによりチームとして、全体として勝てるように工夫する。

なんというか、「キャラクターの仕事っぷりにものすごい説得力がある」とでもいうのでしょうか。


読んでいて思ったんですが、多分ワールドトリガーの面白さって三つの局面があって、

・超強い人たちが超強い活躍をする、「さすが」の局面:トリオン兵相手の闘いとか
・敵もものすごい強い連中が出てきて大ピンチになって、そこから逆転するカタルシス:近界民大規模襲撃とか
・チームプレイとしての戦術がすごい精度で描写される:ランク戦とか

それぞれ、面白さの質が違っていて、色んな角度から楽しめる漫画だなーと思ったわけです。まあ、迅さんの能力ちょっとチート過ぎじゃね?とか細かい点はあったりしますけど、それはそれで面白い。

キャラクターとしては、太刀川さんや北添さんのやる気のなさがお気に入り。あと、「高圧的なんだけどちゃんとすごい実績や能力がある」鬼怒田さんもいい味出してますね。千佳にだだ甘いところも好感が持てます。また、小南さんは可愛いと思います。

ここ最近では、生駒隊の全く会議してないっぷりが非常に楽しかったです。生駒達人さんいい味出しまくりですね。ナスカレー食べたくなりました。


なにはともあれ、引き続き追いかけて参りたいと思いますので、先行ファンの皆さまよろしくお願い致します。
posted by しんざき at 23:51 | Comment(2) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月29日

漫画版「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」の終盤の展開が完璧過ぎる

長男はドラえもん好きでして、ここ最近の「映画 大長編ドラえもん」はだいたい欠かさず観ています。なんだか次の作品は南極が舞台のようで、狂気山脈のような展開を個人的には期待してるんですが、恐らくショゴスとかは出てこないと思います。

私もかつてドラえもんを摂取して育った者の一人ではあるわけなのですが、実はアニメ版や映画版は当時あんまり観ておらず、私が触れていたのはもっぱら漫画版でした。そして、「大長編ドラえもん」もほぼコミックスで読んでおりました。

で、私が好きな原作「大長編ドラえもん」の順位は以下の通りとなります。

1.のび太の大魔境
2.のび太の宇宙開拓史
3.宇宙小戦争
4.海底鬼岩城
5.日本誕生

初期の作品ばっかりなのは仕様です。

で、以前新旧魔界大冒険の比較をしてみたりもしたんですが、個人的には新版よりも旧版の描写の方が好きであることが多く、特に『宇宙開拓史』についてはギラーミンの描写の問題があり、強く旧原作漫画版押しです。

旧原作のギラーミン先生超かっこいいですよね。「わたしはどんな強い相手もおそれない。同時に、弱い相手も見くびらない主義です」とか、見た目でなめられ勝ちなのび太の銃の腕前をひと目で見抜くところとか、大物っぷりが凄まじいと思います。大長編の敵方の中でも1,2を争う好きなキャラクターです。

で、私が宇宙開拓使と海底鬼岩城を推していると知った長男が、「昔の宇宙開拓史や海底鬼岩城を読みたい」というので、最近原作版「宇宙開拓史」を見つけて買ってきました。

で、改めて読みなおしまして、特に終盤の展開があまりにも完璧過ぎて思わず笑っちゃうくらい感動したので、ちょっと感動ポイントを書いてみます。

当然ネタバレが含まれるので、未読の方はご注意ください。というか、原作買って読むことをお勧めします。超面白いです、原作宇宙開拓史。





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posted by しんざき at 23:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月12日

岩明均先生の「雪の峠、剣の舞」は想像を絶する程面白いので皆さんに全力でおススメしようとおもいます。



歴史ものの創作で何よりも難しいのは「何でもない出来事を面白く書く」ことではないかなあ、とおもうのです。


歴史上重要な出来事であれば、それを面白く描き出すことはそこまで困難なことではないかも知れません。重要なイベントには、重要な出演キャラクターが複数関わっているものです。キャラクターが大物ばかりであって、主要キャラクターたちには大小無数のエピソードと数々の脇役たちが関わっているのですから、そこから「面白そうなこと」を抽出することは難しくない。勿論、それをどう描写するかは創作者の腕の見せ所なわけですが。


それに対して、「歴史上地味な出来事を面白く描き出す」というのは困難を極めます。地味というのは、大勢から注目される程のエピソードが発生しなかったということでもあり、つまり「エピソードの面白さ」だけで勝負することが出来ない。どんなエピソードが実際には存在したのか?ということを細かく検証し、足りないところを想像で補い、全体を矛盾なく構成し、更にそれを詳しくない読者にも面白く感じられるように描写しなくてはならない。

この過程が、まるで強風の中針の穴に糸を通すような困難事であることは、皆さんご想像いただけるとおもいます。


ところで、「寄生獣」や「ヒストリエ」「七夕の国」などで著名な岩明均先生は、それをある短編漫画でごく自然に、ごくあっさりとやってのけています。


「雪の峠・剣の舞」。単行本は2001年刊行、2004年に文庫化。「雪の峠」と「剣の舞」の、二編の歴史漫画を納めた、一巻完結の中編集です。しんざきが今まで読んだ一巻完結の漫画の中で、面白さと完成度のバランスについてはぶっちぎりトップではないか、とおもっている一冊でもあります。



「剣の舞」もひっじょーーーに面白いです。主要キャラクターが疋田文五郎(景兼)と上泉信綱、といえばわかる人にはそれだけでわかるでしょうが、フィクションを取り混ぜつつもカタルシスと切なさをバランスよく盛り込むその手腕は、勿論それだけで岩明先生の物凄さがわかる作品ではあります。


ですが、このエントリーでは、特に「雪の峠」についてのお話を中心に書かせて頂こうとおもいます。


・地味なエピソードと、すさまじいまでの「お話」のまとまり具合。


「雪の峠」のテーマというか、お話の中核は「佐竹家の築城」です。合戦でもなければ、群雄割拠の群像劇でもありません。


皆さんよくご存知の通り、佐竹家は元々常陸(現在の茨城県)を拠点としていた戦国時代の大名であって、関が原で中立、ないしやや西軍寄りの立ち位置をとった結果、紆余曲折の末出羽国(現在の秋田県)に転封されました。

佐竹氏は、「鬼義重」と言われた義重が当時既に当主から退いており、佐竹義宣が後を継いでいました。関が原の戦いでは東軍西軍いずれにつくか、親子間で意見の対立があったとも言われていますが、作中では最終的には西軍寄りの立ち位置を保った形になっており、その結果としての改易に家内でも不満の声が上がっている状態でした。

そんな中、出羽国における佐竹家の居城の場所を定めたいという評議が義宣より持ち上がり、それをきっかけに佐竹家の旧臣と、新勢力となる義宣の部下の間で対立が持ち上がることになります。


城を、どこにするか。


多くの「歴史もの」の創作、しかもテーマを絞った短編としては、かなり地味な部類のテーマであることはお分かり頂けるかと思います。無論徳川家も関わってはきますが、主要な登場人物の9割は佐竹家内部の人々に限られます。話のスコープは極めて限定されているわけです。


地味なテーマ。歴史上そこまで(一般的には)著名でもないエピソード。なら、お話も地味なのか?

というと、それがもうものすっげえ面白いのです。


まず、上で書いた「新当主である義宣とその腹心たち」と「義重時代から家中をしきってきた旧臣たち」それぞれのキャラクターと関わり具合がひっじょーーに面白い。リアリティがあり、どこか無機質でありながら、それぞれ非常に人間くさい、この絶妙な味わいを出せるのは正しく岩明先生ただ一人ではないか、と私はおもいます。


主役格となるのが佐竹家の新当主、佐竹義宣とその腹心、「渋江内膳」。渋江内膳は、渋江政光の通称であって、出羽久保田藩の家老となって藩政の改革を行った、実在の人物です。


こちらが佐竹義宣で、

義宣.png

こちらが渋江内膳。

内膳.png

渋江内膳は勿論優秀な人物であって、作中でも経済の勘所をよくわきまえた能吏として描写されてはいるのですが、一見するとそこまで「切れる」人物には見えない描き方がされています。のんびりした所作で、一面「七夕の国」の主人公南丸洋二のようなおっとりとした雰囲気があります。

新たに家中をまとめる秩序を作ろうと、佐竹義宣と渋江内膳を中心とした何人かのグループは、経済的な側面を重視した新たな府を、出羽は窪田に築こうとします。


一方、いわゆる「武断派で、頭の堅い旧臣」の代表格として描かれているのが、川井伊勢守。

伊勢.png

川井伊勢守以外にも、旧臣派閥として描写されるキャラクターは何人かいます。彼らは、関が原の戦いにおいても東軍につくことを主張した人たち。当然、義宣が決めた西軍寄りの態度、およびそれに端を発する改易には不満を持っています。また、長年の戦国時代の考えが抜けず、経済的な考え方はよくわからない。更に、渋江内膳を始めとした新参者が、自分たちより中核に近い位置で藩政に関わっているのがとてもとても気にいらない。


そして、客分家臣という立ち位置故か、川井たちとは若干距離を置いているようにも見えますが、義宣・内膳のグループには対立することになる梶原美濃守。

梶原.png


かつて足利義氏に仕えていた関係で、作中の時代では既に故人となっている上杉謙信とも面識があるという設定になっています。上杉謙信のエピソードをしょっちゅう旧臣たちにねだられて、ちょっと辟易しているのが上の画像。めっちゃイケメンおじいちゃんです。

彼は築城や軍略に明るく、川井ら旧臣たちに担がれて、渋江内膳の提案に対する反対案を提出し、内膳や義宣に対する旧臣たちの発言力を確保しようとすることになります。

お話は、主にこの梶原美濃守と、渋江内膳の知恵比べを中心として進むことになります。


この対立関係のリアリティがすごい。


新当主としての地位を固めたい義宣。

義宣を助けつつも、家中になるべく波風を立てたくない内膳。

喧嘩する気満々の川井ら旧臣。

川井らに若干呆れつつも、本気を出して内膳案を潰そうとする梶原美濃守。


その他、一見旧臣の味方をするように見せかけつつも、内心では義宣に助け舟を出そうとする前当主・義重(史実では「鬼」と呼ばれた猛将だったらしいですが、この作品中では優しいおじいちゃんという感じです)や、内膳の応援をしてくれる筆頭家老の和田安房守を含めて、おのおのの感情の動き、行動の仕方が実に味があり、まるで現在の会社組織における人間関係を見ているかのように細やかなのです。


この短編、徹頭徹尾「関が原後」の時代小説でありながら、会議あり書類作成あり飲みニケーションありと、随所随所で現代のサラリーマン生活を思い出させるようなところもあります。新進気鋭のサラリーマン、渋江内膳に明日はあるのか!?


老練な梶原美濃守に追い詰められ、知恵を絞る渋江内膳。彼が打つ秘策とは。


この辺の知恵比べの妙味、また最後にもってくる爽やかなカタルシスには、そんじょそこらの時代漫画では味わえないくらいの清清しさがあります。実話を下敷きにしつつも、きっちり漫画的なカタルシスを読者に提供しつつ漫画的に閉める岩明先生のテクニックは、ほんとーに物凄いと私はおもうわけです。


ちなみに、上の方で「サラリーマン的」と書きましたが、この作品、最後の解決法まである種現実の会社組織で使えそうな「組織論」的な解決法になっています。「そうだよなー。そりゃこの人にそういわれちゃどうしようもないよなー」というような、問答無用の説得力があります。

興味をもたれた方は、是非ご一読を。



・一方、「剣の舞」についても少し。

こちらはこちらで、「雪の峠」よりはだいぶヒロイックな感じですが、疋田文五郎という強力なキャラクターを中心に、見事にまとまったお話になっています。

実在の剣豪をそのまま描くのではなく、まったくの架空キャラクター「ハルナ」を主役に据えている辺りが岩明先生一流のテクニック。実話に即したリアリティという点では「雪の峠」に譲るかも知れませんが、重たさと気楽さ、そしてどこか寂漠とした悲壮感が絶妙にブレンドされている辺り、こちらも十二分に「歴史漫画」としての名作に数えるべき完成度になっているとおもいます。

取りあえずハルナはかわいいとおもいますので、雪の峠に興味を持った方はこちらも是非。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 23:50 | Comment(1) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

火ノ丸相撲は何故想像を絶する程面白いのか


とにかく火ノ丸相撲が面白いのです。



火ノ丸相撲は、週刊少年ジャンプで連載中の高校相撲漫画です。主人公の「潮火ノ丸」は、小柄な体躯でありながら極限まで体を鍛え上げ、体格のハンデをものともしない王道の相撲をとる。そんな彼が入部した、部員一名の弱小部、大太刀高校相撲部。そんな火ノ丸と、大太刀高校相撲部の活躍が描かれる漫画です。


正直申し上げまして、当初連載が開始した時は、「高校相撲の漫画かー、うっちゃれ五所瓦みたいな感じかなー。またニッチなところ来たなー」と思っていました。ニッチ狙いの短期連載なのかな、長期はちょっと難しいかもなあ、などと思ってしまっていました。

否。千遍否。私の見る目の無さをここまで痛感したことはありません。


恐らく火ノ丸相撲は、2年くらい前から現在に至るまで、今のジャンプの全漫画の中で最も「少年漫画としての王道」を行っている少年漫画です。超熱いし超面白い。


このエントリーでは、火ノ丸相撲の面白いと思う要素について列挙しまして、それら一つ一つについて説明していきたいと思います。みなさんには単行本の購入を強くお勧め致します。

私が考える、火ノ丸相撲の特に面白いと思う要素は以下の二つです。


・「逆転」と「期待通り」の爽快感のバランスが素晴らしい
・主人公やその周辺、及びライバルのキャラクター達に好感が抱きやすい
・相撲の描写の迫力がとにかく凄い
・主人公が突き当たる壁のリアリティが非常に高く、それを乗り越える為の鍛錬やパワーアップに納得感がある
・普通の相撲の描写と、いわゆる「必殺技」の描写のバランスがいい



この中でも特に、

・「逆転」と「期待通り」の爽快感のバランスが素晴らしい
・主人公、及びライバルのキャラクターに好感が抱きやすい

の二点について記載してみたいと思います。


・「逆転」と「期待通り」の爽快感のバランスが素晴らしい


特に格闘系、スポーツ系の少年漫画について、私は二つのキーワードで、その面白さの7割くらいを説明出来るんじゃないかと思っています。


私は随分前から、そのキーワードを「「まさか」の爽快感」と「「さすが」の爽快感」と呼んでいます。


「まさか」の爽快感というのは、要するに逆転が起きた時の爽快感、気持ちよさです。周囲から見くびられていた主人公や仲間たちが、強豪相手に大金星を挙げた時の爽快感。大ピンチに陥った主人公チームが、追い詰められた状況から大逆転した時の爽快感。これは、勝負ごとがメインとなっているあらゆる少年漫画で重要な気持ちよさだと思います。「まさか」の爽快感を演出するのが上手い漫画は、それだけで名作といってしまってもいいくらい読んでいて爽快感があります。


「さすが」の爽快感というのは、要するに「強い主人公・強い味方が期待通りの活躍をする」ということによる満足感です。読者が感情移入している味方側のキャラクターが、期待通りの活躍をする。圧倒的な力で強敵をねじふせる。ジョーカー的な味方キャラがものすごい描写と共に敵を一掃する。こちらの爽快感、気持ちよさも、少年漫画において重要なファクターの一つです。

昔の記事でもこの辺のところは書きました。お時間ある方は下記記事でも読んでみてください。


火ノ丸相撲は、上記「まさか」と「さすが」の配分が絶妙である上、お話の構造上、全く無理なく「まさか」と「さすが」がバランシング出来るようにできています。


この漫画の主人公である潮火ノ丸は、「かつては『国宝級・鬼丸国綱』とまで称されたが、体格に恵まれなかった為中学時代は無名だった」「中学の3年間徹底的に体を鍛え上げ、真っ向勝負を是とする相撲で高校横綱を目指す」という設定の持ち主です。まさに、「小兵がでかいヤツを、真っ向勝負でねじ伏せる」というのが火ノ丸相撲のテーマです。


「圧倒的強さを持っていても不思議ではない経歴・研鑽」と「相撲という競技において致命的とも言えるハンデ」が、お話の中核として最初から同居している。これはつまり、火ノ丸が強豪と戦うだけで、「突きつけられたハンデを打ち砕く」という「まさかの爽快感」と、「強豪である火ノ丸が活躍する」という「さすがの爽快感」が、ごく自然に演出されるということを意味します。

しかも、体格というハンデは基本的に解消されることがないものなので、今後火ノ丸がいくら鍛錬を重ねてパワーアップしても、話の構造上はずっと「小柄という体格故の大ピンチ」と「それに対しての大逆転」が不可分となります。そして、相撲という「無差別級の力と力のぶつかり合いであり、つく時には一瞬で勝負がつく」という、それこそ全く読者を油断させない題材。


これらが、少年漫画のストーリーの作り上本当に絶妙過ぎる要素だと思うんですね。


格闘もの少年漫画の基本が、「友情(仲間集め)、努力(パワーアップ)、勝利」であることは今更いう間でもないと思いますが、上記爽快感のバランスと合わせて、火ノ丸相撲のテーマはこれに完璧に合致しています。そして、それを相撲シーンの凄まじい描写力が強力にサポートする。


後述しますが、主人公である火ノ丸が非常に好感が持てるキャラクターであることもあり、読者はごく自然に火ノ丸に感情移入することが出来ます。火ノ丸が臨む試合も、ある時は圧倒的な力で相手をねじ伏せて周囲を瞠目させ、ある時は大ピンチの連続から大逆転を決める、熱い試合揃い。火ノ丸が数々の相撲に挑み、時には勝利し、時には敗北するだけでも、読者は少年漫画の醍醐味を存分に味わうことが出来る、ということです。


まずは、この「二つの爽快感のバランス」を、火ノ丸相撲という漫画の中核部分だと言ってしまいたいと思います。



・主人公、及びライバルのキャラクターに好感が抱きやすい


当然、少年漫画を彩るのは様々なキャラクター達なのですが、「火ノ丸相撲」においては、火ノ丸の周囲の人々、火ノ丸の前に立ちふさがる人々、火ノ丸に期待する人々を含め、実にいい味出しているキャラクターが満載です。

勿論、その筆頭は主人公の潮火ノ丸です。非常に相撲にひたむきで、時には強烈な殺気を放ち、時には泥臭く負の感情をあらわにすることもあるが、基本的には真面目な好青年(ちょっと機械に疎い)。

大きなハンデを抱えながらも相撲に打ち込む、という設定の関係もあるとは思うのですが、彼は普段実に前向きで真摯です。しかし一方、勝利への執着というのはとても大きく、それが試合の描写に現れることもしばしばあります。


序盤の試合で特に印象的なのは、「三日月宗近」と称される、国宝・沙田との一戦です。


中学時代敵がなかった沙田は、地区予選決勝トーナメントで相対することになった火ノ丸との相撲で、初めて味わう緊張感を楽しみます。その顔には笑みすら浮かび、火ノ丸も同じように勝負を楽しんでいるだろうと思った瞬間、


何を笑っていやがる


勝負の中での心の交流を、凄まじい殺気のこもった表情でガン拒否する火ノ丸。笑うのは勝って土俵を下りてから。普通の少年漫画であれば、お互いに勝負を楽しむライバル同士の描写も一つの王道である訳ですが、それを切って捨てる描写もこの漫画の重要な味わいの一つだと思います。


あと、この漫画って「イヤなヤツ」があまりレギュラーとして登場しないんですね。たまに出てくるイヤなヤツや軽薄なヤツは大概すぐ退場する連中ばかりで、レギュラーキャラは大概根がまっすぐな、好感が持てるキャラクターばかりです。人によっては(キャラクター的な)毒の薄さを物足りなく感じるかも知れないですが、スポーツ漫画として読んでいて気持ちいいのは重要なところだと思います。

例えば、当初はおどおどしたところが目につくばかりだったけれど、徐々に、徐々に相撲部部長としての自覚を持ち、端々で強者の風格を漂わせ始めた小関部長(最新話ではまたなんかエラいことになってますが)。

例えば、当初は典型的な「更正した悪役チンピラキャラクター」として出発しながら、様々なエピソードを経て相撲部になくてはならない存在として成長していく五條佑真。

例えば、空気が読めない設定ではあるものの、格闘技に対する真摯さは火ノ丸と通ずるものがあり、強敵とも伍する存在になる國崎千比路。

例えば、火ノ丸にあこがれ、自分も真っ向勝負の相撲をとりたいと目指しながら、勝利の為にそれすら捨てる覚悟をした三ツ橋 蛍。

例えば、相撲に対する真摯さでは火ノ丸たちにひけをとらず、軍師的な立ち位置を明確にしながら、一般常識については残念メガネ以外の何物でもない辻桐仁。

みんな、それぞれ「キャラクターが立った」連中揃いで、生き生きとしていることこの上ありません。

その他周囲の面々もみんなそれぞれ味のある連中ばかりなのですが、ここ最近では火ノ丸に目を賭けてくれる柴木山親方がお気に入り。天王寺咲さんの登場も併せて、柴木山部屋編は実に楽しいエピソードだったと思います。



と、いうことで。

他にも火ノ丸相撲の面白さ要素は山のようにあるとは思うのですが、長くなってきたので今回はこの辺で締めたいと思います。

未読の方には是非ご一読をお勧め致します。面白いですよ、火ノ丸相撲。





今日はこの辺で。

posted by しんざき at 20:02 | Comment(10) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月02日

しんざきが全力でお勧めする漫画23選・後編

どうもしんざきです。


引き続き、お勧め漫画23冊の紹介を続けます。世界中どこにも需要がなかったとしても、書き上げねばならない時がある…!!


以下、一応ネタバレはなるべく避けて、その漫画のおすすめどころを挙げていく形態をとります。粗筋程度には触れるかも知れません。




○エリア88 十一巻


十一冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十一巻です。


閑話休題が終わり、いよいよ物語がゴールを見据えて動き出す巻、と言っていいでしょう。


エリア88から3年を経て除隊するカール・ベンディッツのエピソードを一つ挟んで、いよいよ神崎の陰謀が本格的に動き始めます。「プロジェクト4」が始動するのです。


この後、劇終までシンやエリア88の仇敵となり続けるプロジェクト4。武器商人たちを一か所に集めた神崎の狙いとは。


その傍ら、キムのキャラクターがこの巻辺りからさらに掘り下げられ始めます。「ヒバリの巣」のエピソードを起点に、意外と人好きのする面もあるグエンの動きもこの巻の見どころ。そして、11巻の終盤には、ゲイリー・マックバーンをはじめとする、プロジェクト4の精鋭パイロットたちが姿を見せ始めます。エリア88の、「空戦漫画」としての真骨頂がここから始まります。


「「くそくらえ」と返信しておきましたがね…」「いいぞ…最高だ!!」




○エリア88 十二巻


十二冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十二巻です。


ゲイリー率いるプロジェクト4空戦隊と、エリア88との戦いが始まります。ミッキー・サイモンとゲイリー・マックバーンが旧知の中であり、思わぬ再会が描かれるのもこの巻のハイライト。また、前巻で対空地雷の為に墜落しながらも生きていたグエンが、頑張って徒歩でエリア88に帰還しようとするエピソードもなかなかいい味出してます。88メンバーに「死んだんじゃなかったのか?」と言われまくるグエン、意外と馴染んでます。


今まで、基本的には「政府軍と反政府軍」の戦いだったエリア88ですが、この巻からぼちぼち、「それ以外の勢力」が様々に話に絡み始めます。次巻以降始まる、「戦争を伴った国際関係を描写するエリア88」の端緒ともいえるでしょう。


砂嵐にまかれて離着陸ができないエリア88に、マッキンレーがどうにか帰還しようとするエピソードもお気に入り。コミカルなところはとことんコミカルな辺りに、傭兵集団の図太さがよく表れています。


「そりゃ…どうも…。信用してもらう為に生きてる訳じゃない…生き残ってるから信用がついて回るだけだ」

「じゃあな…死ぬなよ!予定が狂う」



○エリア88 十三巻


十三冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十三巻です。


プロジェクト4との熾烈な空戦から十三巻は始まります。今までも様々なピンチ、様々な被害を経験してきたエリア88ですが、「空戦の腕前としても88と同等」という集団がきちんと描写されたのは、実は劇中ここが初めてになります。


「セイレーン」ことセラが一時的に88の捕虜になるのですが、見張り番を仰せつかったキムと喧々諤々の言い争いになるシーンがこの巻の見どころ。以降、この二人はある意味姉弟のような感じで、味のあるコンビをしばしば組むことになります。毅然としたセラに思わず涙してしまうラウンデル少佐かわいい。


一方、この巻の後半で、政府軍の戦争の行方は大きく、大きく動き始めます。プロジェクト4と神崎が加担した反政府軍は、一気にアスランへと押し寄せます。追い詰められたザク国王と、エリア88の命運は。


「片方のエンジンが死にかかった猫より、腹ペコのライオンの方が有利だろうが!」



○エリア88 十四巻


十四冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十四巻です。


アスランの陥落により、外人部隊としてのエリア88は存亡の危機に陥ります。外人傭兵という立場としては圧倒的不利になったにも関わらず、88に残った一部の88メンバーと、サキとのきずなが描かれるのが作品全体を通じても上位の、大きな今巻のハイライト。


一方、シンにとっては、この巻が重大な転機になります。間もなくプロジェクト4の総攻撃が始まる、というタイミングで、「ザク国王を連れてフランスに飛べ」と命じられたシン。複雑な心境を抱えつつパリへ飛んだシンは、そこでフランス空軍のローラン・ボッシュ氏と出会い、次巻以降の重大な展開が幕を開けます。中盤の佳境ともいえる、アフリカ編が始まるのです。


ボッシュ氏と飛ぶことになり、フランス空軍のメンバーに実力を見せつけるシン、という場面も、この巻の名場面の一つでしょう。「さすが」のカタルシスに該当すると思います。


「おれがくたばるのを見るのはいいが、見物料は高くつくことになる…お前らの命で払ってもらうぞ!」「覚悟のうえだ!」「そうだな…」「妥当な線だ!」




○エリア88 十五巻


十五冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十五巻です。


ついに、エリア88への総攻撃が始まります。雲霞のごとき戦闘機の大部隊を前に、エリア88のメンバーは、決死の脱出を兼ねた最後の総攻撃を行います。そんな中、サキとラウンデルが彼らに与えた指示の内容とは。


一方、パリに場面を移した物語は、平和になじむことのできないシンを描きだします。南アフリカでの作戦に誘われ、ボッシュ氏に連絡をとるシンがであったのは、エラー・ニップル・マップ・スラッシュの4人の傭兵部隊。彼らとともにバンバラに飛ぶことになる

シン。「エリア88の生き残り」というだけで即座に戦闘能力の高さを信用される、88の名声というものも「さすがのカタルシス」表現に一役買っています。


ここから始まるアフリカ編は、空戦描写こそ薄くなるんですが、しんざき的にはエリア88の中でも特にお気に入りなエピソード群の一つです。一方、プロジェクト4の陰謀も、更に一段階歩を進めることになります。



「おれが思うに、パンドラの犯した罪でもっとも重いのは…一番最後に希望をだしてしまったということだ」



○エリア88 十六巻


十六冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十六巻です。


この巻では、話のメインが完全にアフリカ編に移ります。


傭兵たちとともに、当初大統領を警護し、仕組まれたクーデターのタイミングで彼らを脱出させようとするシン達。一方、当初は「仕組まれたクーデター」を演出する筈が、密かに計画を変えるボッシュ。大統領たちとともに、どうやってボッシュの手から脱出するか?ここでのシン達の行動と判断は、間違いなくエリア88中盤の山場です。それぞれの特殊能力を生かして、バンバラから脱出しようとするシンたち傭兵部隊の運命は如何に。


一方の新88は、古いメンバーを失いつつ新しいメンバーも加え、静かにプロジェクト4への反撃を始めます。苦しい台所事情の中、どうにかこうにかやりくりを続けるサキの心労がしのばれる巻でもあります。サキさんマジ苦労人。


「男の尊厳か…そんなの…もってると…」「重くて…疲れ…る…ぜ…」



○エリア88 十七巻


十七冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十七巻です。


この巻では、アフリカ編が一つの決着を見ます。「たった一人で千人を相手に出来る男」ボッシュとシンの戦い。熾烈を極める追跡戦と、次々に倒れる傭兵たち。88と同等かそれ以上にギリギリの戦いの末に、シンが手にした結末とは。


個人的には、この巻の主役はどう考えてもマップだと思います。メルセデス・ベンツの特殊車両「ウニモグ」を駆り、ボッシュも驚愕するほどの山岳突破を見せるマップ。シンをして「まるで戦闘機で急上昇しているみたいだ」と言わしめるその運転技術は、車漫画としても一見の価値があります。


さりげなく今後いろいろ苦労しそうなエラーに幸あれ。


一方、88側の話も動き始めます。プロジェクト4によるスエズ侵攻計画に、ブラシア空軍の救出計画。苦しい台所事情の88ですが、反撃開始です。ラウンデルと二人、頑張って88をやりくりするサキが引き続き苦労人過ぎて泣けます。


「全機装弾完了!いつでも散歩にでられます!」「30ミリ砲かついで散歩もないもんだが…」



○エリア88 十八巻


十八冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十八巻です。


ブラシあ空軍を救って、プロジェクト4に一矢を報いた88ですが、その後手痛い反撃を受けることにもなります。苦しい台所事情に致命傷を受けた88に、向けられた助け舟とは。


そして、ここにきてついにシンが日本に帰国し、物語は新たな展開を迎えます。海音寺八兵衛を中心として、日本で登場する様々な重要人物。そして、シンをあきらめかけていた涼子とシンの運命が、ついに再び交錯します。このあたりの描写は、「逆転のカタルシス」に近いものがあると思います。


「さすがのカタルシス」から、追い詰められた状況からの逆転を予感させる「まさかのカタルシス」への転換。ここから、物語は「終盤」に向かって大きくかじ取りしていくことになります。


細かい話なんですが、プロジェクト4のスエズ侵攻作戦に絡んで、この巻では「エジプト」という国名が出ているのですが、後になってスエズは「タンドリア」の領土ということになってます。やっぱり実際の国名はいろいろまずかったんでしょうか。


「艦番は88!エリア88がこの艦の名前だ!!」



○エリア88 十九巻


十九冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十九巻です。


エリア88、プロジェクト4、海音寺老から公安、ブラシアやシンに至るまで、様々な勢力が独自の考えで行動をはじめ、長い物語はいよいよ決着に向かって動き始めます。本格的なプロジェクト4との総力戦を前に、準備を整えようとする88とサキ達。束の間の平和を味わうシンと涼子。一方、心情的にはシンに味方しつつも、国際的な世情を考えると冷徹にならざるを得ない海音寺老。彼の述懐には一読の価値があります。


一方、なんだかんだいって戦闘機に乗ってると嬉しいミッキーたち88のメンバーのやり取りもなかなかの見どころ。キムセラコンビも継続中です。


「ウォーレン、久々の実弾演習だ、しっかりやんな!!」「へーへー、腰抜かさんよーにがんばります」



○エリア88 二十巻


二十冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の二十巻です。


意外なことに、このあたりから「出産」というものが、一つのテーマとして顔をだし始めます。愛と出産という言葉が、最終巻ではより重い意味をもって戻ってきます。


一方、88側では、十巻くらいぶりに「旧エリア88」が物語に再登場します。サキやミッキーたちの古巣である、壊滅後のエリア88。そこを偵察にきたキムセラコンビが目撃したものとは。若干ホラーっぽい展開が楽しめる巻です。夜間に88の様子を見に行くところなんてちょっとゾクゾクしちゃいますね。一方、「お化けが出るんだもん」のセラは可愛い。


「サキがもっとも信頼する七人」という言葉が初めて出てくるのもこの巻です。


そして、束の間の平和を満喫していたシンに、まさかの連絡が入ります。シンと、物語の中核をなす過去の事実を話し合おうとする旧知の人物とは。このことをきっかけに、いよいよシンも、物語最終盤に関わっていくことになります。そして神崎は、ついに自らアスランに入り、ゲイリー・マックバーンに命じてスエズ侵攻作戦を開始しようとします。


「枯木も山のにぎわいというだろうが!!このテの基地には、幽霊の10人や20人、アクセサリーだとおもえ!!」「メチャクチャいう人やな」



○エリア88 二十一巻、二十二巻、二十三巻


十把一絡げ、という訳ではありません。21巻から先、エリア88という漫画は疾風怒濤の展開となり、粗筋を少し書いただけでも読者の楽しみを奪ってしまうと判断出来るのです。


ただ、エリア88とプロジェクト4の最終決着、そしてシンと神崎の最終決着については、どこをめくっても山場でないシーンはない、と言ってしまっていいでしょう。ゲイリー・神崎のコンビも結構息があったいい味コンビである他、それぞれの因縁、生と死、親と子、国と国の問題についても、それまで貼られていた様々な展開が、23巻に至って見事に収束し、物語は終幕を迎えます。


ことここに至ると、話はもはや空戦だけのことではなく、陸戦、海戦、経済戦、思想戦、外交戦、すべての問題がストーリーに絡んできます。これだけの要素を話に巻き込みつつ、最終的には全てを終結させる、新谷先生のストーリー構成にはもはや舌を巻く他ありません。読まずに死ねるかレベルの素晴らしい最終盤です。


一点だけ口を突っ込むとすれば、「神崎は一体いつの間にあそこまで空戦強くなったんだ…」という点がないではないですが、まあ些末な点なので気にしなくていいと思います。あと、最後の最後のシンの上記が、まさかのX-29(本当の最後はタイガーシャークですが)だというのも物語の出色だといっていいでしょう。


21巻から先一気読みをしてしまうと、スタッフロールが頭の中で実際に動いているような感動を得られることは間違いありません。


いくつか、個人的に気に入っているセリフだけ挙げておきます。


「黙って見るしかないじゃないか。歌でも歌えってのかよ…」


「普通に生きて…普通に死ぬためにここにきたのさ…」


「あばよマーチン、荷物はアリゾナに送ってくんな!」


「88より離陸するのは本日が最後である!」


「そう…サキがこの戦いを生き残ったら…」「こんな死神みたいなジジイとは二度と取り引きはせんだろうな…」


「ラウンデル…なにか…いったか?」



ということで、ここまで長々と書いてまいりましたが、今回挙げた漫画はすべて冗談抜きで超お勧めの漫画ばかりですので、未読の方は是非とも読んでみるべきだと思います。愛蔵版でもなんら問題ありません。さあ!だまされたと思って!!!!





関連エントリーも挙げておきます。




ということで今日はこの辺で。

posted by しんざき at 02:13 | Comment(1) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

しんざきが全力でお勧めする漫画23選・前編


どうもしんざきです。


最近「ブログ主がお勧めする漫画○選」という記事をたびたび見つけますもので、不倒城でも触発されて一度やってみようと思いました。どの漫画も自信をもってお勧め出来る作品ばかりですので、みなさんちょっと手が滑って大人買いしたりするといいんじゃないかと思います。需要があるかどうかはしったこっちゃありません。


以下、一応ネタバレはなるべく避けて、その漫画のおすすめどころを挙げていく形態をとります。粗筋程度には触れるかも知れません。




○エリア88 一巻



一冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の一巻です。


今更いちいち言うまでもなく、エリア88はエースパイロット「風間真」通称シンを中心として描かれる、外人傭兵部隊「エリア88」の物語です。物語の当初で示されるのは、エリア88、あるいは外人傭兵部隊の戦いにおけるあまりのシビアさ、そしてこの物語が「群像劇」であることの提示。


エリア88一巻において、読者はその当初から、シンがエースパイロット中のエースパイロットであり、エリア88の中でも1,2を争う腕利きであることを知らされます。そして、1話の当初から「戦闘の結果で報酬が得られる」「戦闘機を買う資金や燃料・弾薬費は自分もち」「命令違反のペナルティは5000$」といった、様々な金絡みのルールを提示されます。さらに、腕利きであるエリア88メンバーやシンといっても、墜落することもあれば撃墜されることもある、ということを認識することになるのです。


また、物語を通して重要なメンバーであるサキ、ミッキー、マッコイ、神崎といったキャラクターが中心人物として登場する一方、ショートエピソードの主人公として元イギリス空軍のボリスや、ジェット時代のレシプロ乗りモーリスといったキャラクターも、非常に味わい深く描写されます。このあたりが、「パイロットとしてのエリア88メンバー」を群像劇として描く、エリア88という漫画のエッセンスだともいえるでしょう。


「シン…かえったら俺の部屋の電気…消しといてくれよな…」



○エリア88 二巻


二冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の二巻です。


すいません、この時点でこの記事の先が読めた人が大量にいるかと思いますが、うんざりした時点でブラウザの×ボタンを押してください。たぶん右上の方にあると思います。


二巻の当初において、お話の主人公は突如としてシンから切り替わります。そう、六木剛こと戦場カメラマンのロッキーが登場するのです。


彼は、物語上「一般人から見たエリア88と外人傭兵」を描写する役割を担っていると思います。日本人である彼は、シンとも交流を深めるのですが、それ以上に「負傷して戻ってきたのに、薬用アルコールを頭にぶっかけて即また出撃する」男、グレッグに度胆を抜かれます。後の主要人物になるグレッグ、二巻で初登場です。ロッキーが驚愕する中、エリア88の他のメンバーが慣れっこで笑っていることから、88メンバーの豪胆さが強調されていると思います。


ロッキーを中心としたアスランの描写は、いくつかの謎と伏線を残しつつ、もっと終盤に意外な形で再度読者の前に現れることになります。


また、物語後半には、日本に帰る為に、傭兵部隊の違約金150万ドルを貯めようとしているということが明かされます。ここで登場する「脱走兵キラー」の三人組と、エリア88メンバーのやり取りも物語上のハイライトの一つ。また、反政府軍の傭兵部隊「ウルフ・バック」が登場するのも、重要な1シーンと言えるでしょう。腕利きの集まりであるエリア88の中で、更に上位メンバーとして提示されるフーバーやランディ、バクシーなどは、この後々にも登場してきます。


「命は大切にせんとなあ」

「そうじゃよ。だいじにすれば一生使えるからな」




○エリア88 三巻


三冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の三巻です。


尚、上記二行は基本的にコピペ改変ですのでこの後もずっと変わりません。ご了承ください。


三巻では、物語当初、イタリアのアクロバットパイロット「マリオ」が登場します。エリア88としては珍しい憎まれ役のキャラクターですが、「空戦能力は重要だが、それ以上に生き残る能力が重要」という、エリア88のシビアさを強調するような役割を担っていると思います。また、もう一人のスポットライトキャラクターが、二巻で登場したフーバー。彼の指揮っぷりが、仲間たちにも信頼されていることが示されます。


物語後半では、シンの恋人である涼子と秘書の安田さん、この二人のキャラクターとサキの運命が交錯します。飛行機にしかけられた爆弾を排除するためにサキが選んだ手段は何か。また、これをきっかけに、シンと涼子は思わぬ接点を取り戻すことになります。


他、義手・義足のパイロット「鉄腕」ことキャンベルがこの巻で登場する他、マッコイにもらったカップヌードルを前にニヤニヤしているところが三巻最高の名場面であることは言うまでもないでしょう。シンかわいい。


「殺し方のうまいやつなら生かし方も心得ているはずだ…だてにエリア88のナンバー1,2といわれているわけじゃあるまい!」



○エリア88 四巻


四冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の四巻です。


この巻では、開始当初についにシンと神崎がお互いがいる位置を認識する他、後のエリア88を巻き込む陰謀が胎動し始める巻です。武器商人のジュゼッペ・ファリーナと神崎との接触、涼子とシンの過去の出会いの描写、涼子の父の津雲氏の登場、ジョゼやジュリオラの登場など、後の主要キャラとなる人々がわんさか初登場しまして、「エリア88の物語」というものが本格的に動き出すのがこの巻だといえるでしょう。


導入部が終わり、物語が始まる。その転換点が四巻だと私は考えています。


また、この巻ではシンとサキの間にある事件が起き、後にサキが追うある病気の要因が作り出されます。これが最終巻までいろいろと関わってくるわけなんですが、それについてはまた後ほど。


F-14とサーブ・ドラケンが模擬選をやるあたりは、戦闘機マニアにはたまらないシーンだと思います。というか、この漫画をきっかけに戦闘機マニアになった人も多いのではないでしょうか。


ちなみに、この巻では大和航空スイス支店の沢さんが非常にいい味出しています。安田さんに一目ぼれした沢松之助さんの運命は。


「俺たちは外人部隊…紙キレよりも薄い己の命… 燃え尽きるのにわずか数秒…」




○エリア88 五巻


五冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の五巻です。


五巻は、ファリーナ氏が本格的に活動を始め、エリア88が更なる陰謀に巻き込まれる、物語序盤の重大な転換点です。当初、ヘリコプター基地であるエリア85に派遣される、グレッグ、シン、ジェンセン、キャンベル、マロリー。彼らを襲う無人戦闘機と、数々の新兵器。その傍ら、ヨーロッパで治療を始めるサキと、涼子たちの再開。物語上のポイントが山積みされている巻でもあります。


ゲーム版エリア88をご存じの方であれば、砂漠を走る「地上空母」がついにこの巻で登場する、というところでピンとくるものがあるかと思います。どこから現れているか分からない無人機と、その謎を解こうとするグレッグやシンたち。以降数巻にわたって88と激戦を繰り広げる、地上空母のケレン味は後の様々な戦闘機ゲームにも大きな影響を与えていると思います。


ヘリパイロットたちに説教をするグレッグの言葉は、ずっと後になって読者たちの前に再登場することになります。


ちなみに、後の主要キャラクターであるケンやウォーレンが、さりげなく物語上に初登場するのもこの巻です。ほぼ一瞬ですが。


「命を粗末にするのはおれたちだけでたくさんだ…そのためにおれたちは高い金をもらってやとわれているんだ…」「俺たちは傭兵だ…帰る故郷もないし…立て直す人生も…ない…」



○エリア88 六巻


六冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の六巻です。


この巻では、ついに地上空母の存在を認識したエリア88と、地上空母の戦いが本格的に始まります。ヨーロッパから戻ってきたサキも加えて、エリア88メンバーが総力をかけて戦う、その行方は。


物語序盤において、シンやミッキーとファリーナ氏が、ひょんなことから接触する描写も六巻のハイライトだといえるでしょう。意外に憎めないキャラクターだったファリーナ氏と、ミッキーやシンのやり取りも非常にいい味を出しています。シンとミッキーの脱出行は、エリア88中盤以降ではなかなか見られなくなるコミカルな場面。ファリーナ氏も大爆笑してましたけど。


日本の大和航空、その社長に就いた神崎のエピソードも引き続き続いているのですが、ここで大和航空にも重大な事件が起きます。エリア88だけではなく、別勢力の悲喜劇もきっちり描かれる辺り、群像劇としての「エリア88」の真骨頂といってもいいでしょう。陰謀に巻き込まれた安田さんを、意外なキャラクターが助けたりもします。サキと涼子たちとのかかわりも見どころの一つ。


「こいつをもっていけば、マッコイだって腰を抜かすさ」



○エリア88 七巻


七冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の七巻です。


物語冒頭、サキから涼子のことを知らされ、自分がエリア88にやってきた経緯を話すことになるシン。6巻までのエピソードが回収され、その後に繋がっていくワンシーンです。シンの話を聞かされたサキの判断は。


地上空母との戦いも佳境ですが、この巻では、地上空母が有する秘密兵器「グランド・スラム」がその姿を現します。地上を走る空母である地上空母に対して、地中を進む大型ミサイルであるグランド・スラム。グランドスラムに狙われたエリア88とシンたちが、どうやって基地の破壊を食い止めようとするのか、そこが七巻の重要な展開です。


また、サキの弟である王子リシャールが、本格的に物語上で動き始めるのもこの巻です。当初反政府軍の重要人物として扱われているリシャールですが、彼の本音は政府軍との和平。面従腹背をとらざるを得ないリシャールの行動も、七巻の注目ポイントといっていいでしょう。


「ここの連中で、死んでいくのに犬死にでないやつなんているのかい?」



○エリア88 八巻


八冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の八巻です。


グランドスラム、そして地上空母との戦いをきっかけに、物語が大きく動き始めます。


アスラン王国の内部が本格的に描写され始めるのがこの巻。基地としてのエリア88にも大きな転換点となる事件が起きます。アスラン市内に入ったサキやシンと、同じくアスランに入国していた涼子や安田さんの運命は。


五巻からこっち、敵陣営の中核として常に存在感を発揮し続けていた地上空母との決着がつく巻でもあります。多くの犠牲を出した地上空母戦ですが、最後の最後まで「エリア88という存在の特殊性」が描写され続ける巻でもあります。一方、神崎の蠢動が、八巻の序盤で静かに再始動します。


様々な意味で、この巻が「エリア88の前半の終わり」という位置づけであることは論を俟たないでしょう。この後、サキやシン達は部隊の再編制の為ギリシャに飛び、物語はしばし中東を離れることになります。ギリシャの訓練施設のボスであるラウンデルも、後々の重要キャラクターです。


「午前2時ジャスト!悪魔よ…出ていけ!」



○エリア88 九巻


九冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の九巻です。


この巻では、前半、エリア88の再編成の話がひと段落します。傭兵という形ではなく、正規空軍の階級を持つことになったシン達。ここで一時的にコンビを組むことになる、ミッキー-ケンのコンビや、シン-ウォーレンのコンビなどは後々にも微妙に絡んできます。ミッキーとケンの軽いノリがいい味出してます。


一方、終盤まで絡んでくる主要キャラクターの一人、キム・アバがついに登場するのもこの巻。師弟関係ともいえるシンとのやり取りが、シビアながらも部下思いという、シンのキャラクターを表現してもいると思います。エリア88を通してのシンの代表的な乗機である、F-20タイガー・シャークもこの巻で登場します。新生エリア88基地である、山岳基地88も男の子回路を刺激すること大です。


なお、この巻では、谷の間を戦闘機が飛ぶことになる、「オペレーション・タイトロープ」がついに発動されるということで、ある意味歴史的な巻だともいえるでしょう。後々、エースコンバットシリーズで定番になるトンネルミッションの原型がここにあります。損失率15%と言われる、オペレーション・タイトロープの結果は十巻に持ち越されることになります。


個人的には、この巻冒頭でのサキとミッキーのやり取りがお気に入り。


「300メートルで離陸して、ヤケコゲのオリーブを買わされるのはだれだと思う?」「大型ヘリでいってきヤース」




○エリア88 十巻


十冊目は、やはり何と言っても戦闘機漫画の金字塔「エリア88」の十巻です。


お話は、グレッグの過去が描写されるところから始まります。当時、デンマークで「逃がし屋」をやっていたグレッグ。彼が外人傭兵部隊にくることになった理由とは。


オペレーション・タイトロープが終わり、命令違反で独房に叩き込まれつつも、その命令違反の為に被害を防げた為、皆から差し入れをもらいまくるキムの描写もお気に入り。外人傭兵部隊であるエリア88の雰囲気が、正規部隊化後もそのまま残っていることが描写されていると思います。


個人的には、エリア88での食堂での描写が、全編をわたっても結構強く心に残っています。司令官でありながら、傭兵たちと同じ食堂で食事をするサキ。彼の人望の一端がここで表現されます。


総じて、物語上は閑話休題といった感がある十巻ですが、「トンキン湾の人食いどら」ことグエン・ヴァン・チョムが登場することを含め、後々の伏線になる描写も結構隠れています。


「一人でやる方が気楽でいいからさ…」



さて。まだ十冊しかお勧め漫画を紹介していませんが、致命的なことにseesaaの文字数制限に引っかかってしまいました。続きは後編に持ち越そうと思います。


posted by しんざき at 17:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月27日

よつばと!とオバQの共通点、ないし異邦人ものというジャンルについて


「よつばと!」は、構造的には「オバケのQ太郎」と相似していると思うんです。



いや、今更の話かも知れないんですけど。



漫画とか小説の中で、結構メジャーなジャンルとして「異邦人もの」「異人もの」というものがあります。ある社会に、「その社会の外の人」「その社会とは根本的に違う存在」が入ってきて、その存在と周囲との軋轢を中心に展開する諸々のお話をさす、と思います。


この「異邦人もの」にも色んな分類がありまして、例えば「行き先」が読者側かそうでないかとか、「異人」が文化ギャップに戸惑うのか異人を迎え入れる周囲が戸惑うのかとか、まあさくっと書くのは難しいくらい色々あるんですが。



漫画業界で「異邦人もの」の第一人者といえば、やはり何と言っても藤子F・Aの両先生だと思います。例えばオバケのQ太郎、ジャングル黒べえ、怪物くん、チンプイ、ウメ星デンカ、ポコニャン、モジャ公などなどなど、この辺ぜーんぶ「異なる文化・社会の人が、我々の社会にやってきて様々な事件が起こるコメディ」つまり異邦人ものです。プロゴルファー猿にもそういう側面はありますし、キテレツ大百科でいうとコロスケも「異邦人」でしたし、21エモンだって異邦人もの(この場合異人は21エモン)です。


例えば「うしおととら」。例えば「寄生獣」。例えば「うる星やつら」。例えば「鉄腕バーディ」。例えば「道士郎でござる」。「Dr.スランプ」とか「レベルE」辺りもそうかもですね。


新しくは、例えば「聖☆おにいさん」とか、「テルマエ・ロマエ」なんかも「異なる社会からの異邦人」がメインテーマになる物語ですよね。


まあ古今東西、「異人もの」というのは山のようにある訳です。



で。「異邦人もの」の骨子は、「文化や思想の違いと、それに振り回されるキャラクター」であることが多いです。ガラスの壁がなんなのかわかんなくて四苦八苦するとらとか、日本の経済理念が理解出来ないウメ星デンカに振り回される太郎とか、そういうのですね。


で、この「文化摩擦」には割とはっきりとした方向性が二種類あって、



「異邦人」に振り回される周囲が戸惑うのか、


周囲になかなかあわせられない、ないし周囲とのギャップに「異邦人」が戸惑うのか、



この二種類が明確な方向性として表現されることが多いです。つまり、「振り回される側はどちらなのか」というお話。



例えば、「鉄腕バーディ」において、「戸惑う」側はむしろ異邦人のバーディである場合が多いです。まあ、「つとむと一体化してしまっている上にそれを周囲に隠さないといけない」という事情が大きいんですけど、バーディが割と生真面目な性格なので、どちらかというと「我々の現代社会に未来人が合わせようとして戸惑う」という描写が大きかったと思います。


「聖☆おにいさん」や「テルマエ・ロマエ」なんかもこちらですよね。日本の文化や科学技術に驚愕するルシウスは、「周囲に振り回される異邦人」の代表格ではないかと(4巻以降の伊藤編では逆転しましたが)。意外なようですが、「うしおととら」におけるとらなんかも、どちらかというとこっち寄り(現代社会にとらが戸惑う)だったと思います。とら、結構科学技術に弱いんですよね。



一方、例えば「ウメ星デンカ」や「オバケのQ太郎」なんかでは、「異邦人」であるデンカやQ太郎が現代社会に戸惑うという描写は殆どなく、振り回されるのは周囲であることが殆どです。ウメ星デンカやQ太郎が「自分たちの常識」に基づいて行動する時、周囲は大騒ぎになります。こちらのジャンルでは、基本的には「異邦人」が周囲に戸惑うことは少なく、彼らを基準点とした周囲との軋轢がコメディ的に描かれることが多いです。


全体としては、多分こちらのジャンルに該当する作品の方が多いと思います。タルルートくんとか、魔界探偵ネウロなんかもこちらですよね。物語開始当初のドラゴンボールも、恐らくこちらを意識して描かれていたんじゃないかなあ、と思います。



「ドラえもん」はキャラ立てとしては異邦人ものなんですけれど、ちょっと特殊なのは「基本的にドラえもんと周囲の文化に軋轢が発生しない」ということだと思います。一巻の当初こそ若干の軋轢が発生しますが、それは殆ど一瞬で収束します。基本的にはドラえもんは現代社会に戸惑いませんし、周囲はドラえもんの異質性に振り回されず、「22世紀から来たネコ型ロボット」というドラえもんが、むしろ当然の存在のように周囲に許容されます。ドラえもんの異質性は、ほぼ「ひみつ道具」を通してしか出力されないのです。これについては、また項を改めて書いてみたいと思います。





で。



上のようなカテゴライズをした時、私は「よつばと!」も「異邦人もの」に該当すると考えるのですが、これについてお話する際、意外と意見が分かれます。つまり、よつばと!を異邦人ものとして認識する人と、違うんじゃないの?と考える人がいます。



多分この理由は、よつばが「異邦人」としての属性と、「幼児」としての属性、両方を持っているからじゃないかなー、と思います。



少なくとも「よつばと!」のシナリオの当初、よつばは「幼児としても変わった幼児」として描写されて、基本的には周囲がそれに振り回される、という構成だったと思います。よつばの髪は緑色ですし、よつばはありとあらゆることを楽しむことが出来る無敵の幼児ですし、よつばがはっきりと外国人として認識される描写もあります。そういう点では、「異邦人」が周囲を振り回す、異邦人ものの典型的な側面も「よつばと!」にはあると思うんですよ。


ただ、物語が進むにつれてこの異質性はどんどん吸収されていきまして、よつばはどちらかというと「異邦人」ではなく「元気な幼児」として、周囲に包容されていきます。よつばはやっぱりいろんな事件を引き起こすんですが、それが「異邦人が引き起こす事件」ではなく、「元気な幼児が引き起こす事件」になっていくんですね。そして、よつばと!世界の周囲の人たちは極めて包容力が高いので、その辺の事件をほぼ吸収しきってしまうという。そのため、「異邦人と周囲との軋轢」が目立たなくなっている側面はあるかも知れません。


そういう意味で、よつばの幼児としての側面にフォーカスした場合には、よつばと!は異邦人ものから外れるのかなあ、などと今は考えているわけなのですが。



いい感じでまとまりもなくなってきたので何となくまとめを書いておきます。



・異邦人ものには、大きく分けて「周囲を異邦人が振り回す」パターンと「周囲に異邦人が振り回される」パターンがあります

・よつばと!は前者の異邦人ものだと思ってたけど見方を変えるとちょっと違うかも知れない

・それはそうとウメ星デンカは面白かったと思います

・怪物くんを観たヤツは30代以上だ!ジャングル黒べえを観たヤツは良く訓練された30代以上だ!

・全然関係ありませんが、藤子A先生のしんざき的最高傑作は「マネーハンター・フータくん」だと思います



今日書きたいことはそれくらいです。皆さんまた明日。



posted by しんざき at 10:03 | Comment(1) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月30日

ドラゴンボールは、何故「体を重くする」という修行方法を非常に頻繁に用いたのか


ドラゴンボールの話です。既出議論である可能性は極めて高いですが気にしないでください。私も気にしません。


鳥山明先生はドラゴンボールにおいて、「体を重くする」という修行方法を、劇中初期から終盤まで、非常に頻繁に採用されていました。


・亀仙人に師事し、20kgの亀の甲羅をつけて農作業や牛乳配達などをする(その後40kg)

・ピッコロとの戦闘の直前まで非常に重たい胴着を着ている(脱いだ時に周囲瞠目)

・重力が非常に大きい界王星での修行

・宇宙船の中での高重力装置を用いての修行

・ベジータがカプセルコーポレーションに作ってもらった重力増幅装置


体に重りをくくりつけるなり、重たい服を着るなり、重力を増やすなりして、とにかく体を重くする。重たくなった体で普通に動ける/闘えるようになる。


で、重りを取り除くとあら不思議。超速く動ける!やたら力がついている!!


非常にわかりやすいですよね。



むかーし書きましたが、少年漫画における一番基本のテーマは、「対立構造とその超克」、早い話が「勝負」です。ジャンプのテーマが「友情・努力・勝利」であることはまさにその端的な現れでして、


・友情=友人・仲間を得る

・努力=努力して強くなる

・勝利=で、勝つ


という、非常にわかりやすい三段構えになっています。


勿論、ジャンプ漫画の代表格といっても過言ではないドラゴンボールが、天下一武闘会が劇中に出現してからこっち、この三段構えの展開を忠実に回し続けたのは今更言うまでもないことです。




で、多くの格闘漫画において、「努力」はニアリイコールで「修行」という言葉に言い換えることが出来ます。である為、「ある格闘漫画が「修行」をどう描写するか」というのは、その作品を描く人のスタンスが直接現れる、非常に重要なファクターになります。


「体を重くする」という修行以外でも、鳥山先生は、あまり「手のこんだ」修行を描写されません。他の格闘漫画ではありがちな、「必殺技を身に着ける為の特殊な修行」であるとか。「一見何の関係もなさそうな動作の繰り返しなんだけど、実は重要な技を身に着ける為の伏線になっていた」であるとか。これら修行方法も少年漫画の一つの王道なんですが、鳥山先生はこういった「特別な意味がある」系の修行を(少なくとも漫画版では)ほとんど描写されてないんですね。


例えば、ピッコロと闘う前の悟空のパワーアップは、「超神水を飲んで苦痛を乗り越える」という形で行われました。さらにその前、カリン塔での修行は「カリン様を追いかけている間にいつの間にか強くなる」というものでしたし、精神と時の部屋でも基本は「闘っている間に強くなる」という方式でした。



一番「特別な意味を持った修行」に近い描写って、せいぜい天津飯の魔封波の特訓と、あとはなんでしょう、界王拳の修行も微妙だし、フュージョンの特訓くらいじゃないでしょうか。あれもギャグっぽかったですけど。



私の考えなんですが、多分これには、二つの意味があると思います。


・「強くなる」という描写について、身近さ、リアリティ、わかりやすさを重視した

・ドラゴンボールの強さの描写が、基本的には「技の優劣」ではなく「戦闘力の多寡」であった為、「技を身に着ける為の修行」が重要ではなかった


特に序盤から中盤において、鳥山先生は、「強さの分かりやすさ」「修行の説得力」を非常に重視されていたように思われます。20キロの甲羅を背負って日々を過ごす。下ろした時には早くなる、強くなる。怒濤の分かりやすさ。明日から自分の家でも出来そうな程のシンプルさです。


「自分でも出来そう」「自分でも強くなれそう」と思えるほどのリアリティ以上に強いものが、他にあるでしょうか。初期のドラゴンボールが、その「強さの分かりやすさ」が故に人気を博した、という側面は決して弱くないと思うのです。


一方、これも昔書きましたが、中盤以降のドラゴンボールがいわば「数値戦」を導入し、お互いの戦闘力、ないしそれに類するものの多寡が勝敗を左右する重要なファクターになっていったことは周知の通りです(勿論、数値戦の上での逆転劇も頻繁でした)




他のさまざまな格闘漫画が、「力の多寡」の他に「技の優劣、相性」という要素を導入して、それに基づく逆転劇を描写していたのに対して、ドラゴンボールは最後までその方法をとらなかった。これは、勿論鳥山先生の漫画的描写力がずば抜けていた為に、わざわざ複雑な要素を導入するまでもなかった、という側面も強いとは思いますが、なにより「分かりやすさ」「説得力」を鳥山先生が最重視されていた、そのことの表出なのではないかと私は思う訳です。



極言してしまうと、「ドラゴンボール」という漫画の面白さの源泉、中核にして最強のキーワードは「分かりやすさ」ではないか、と。「体を重くする」という修行方法は、言ってみればその象徴のようなものなのではないか、と。



この辺を結論として、本エントリーを閉じたいと思います。皆様ごきげんよう。

posted by しんざき at 13:07 | Comment(17) | TrackBack(1) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月29日

児童小説「だれも知らない小さな国」シリーズ(特に二作目)が何故超面白いのか、今から皆さんに説明しようと思います


どうもしんざきです。


先日、こんな記事を拝見しました。






こちらに書いてあることはその通りで、佐藤さとる先生の「だれも知らない小さな国」とそのシリーズ作品は超面白い訳なんですが、上記記事ではそこまで内容までは踏み込まれていない為、「小さな国」シリーズを全巻所持している上寝物語に長男に読み聞かせている私が、ちょっと書き加えてみたくなりました。



ちなみに、しんざきの好みで、超面白い児童小説、及び児童小説シリーズを10作選ぶとしたら以下のようになります。小学校中学年〜高学年向けくらいの作品が多いですが、基本どれも、今大人が読んでも面白い作品ばかりだと思います。



・はてしない物語(ミヒャエル・エンデ)

・ゲド戦記 三巻まで(ル=グウィン)

・「だれも知らない小さな国」シリーズ(佐藤さとる)

・エーミールと探偵たち(エーリッヒ・ケストナー)

・飛ぶ教室(エーリッヒ・ケストナー)

・こまったさんのスパゲティ(寺村 輝夫)

・船乗りクプクプの冒険(北杜夫)

・ドリトル先生の動物園(ヒュー・ロフティング)

・火曜日のごちそうはヒキガエル(ラッセル・E・エリクソン)

・「マガーク少年探偵団」シリーズ(エドマンド・ウォレス・ヒルディック)

・ルドルフとイッパイアッテナ(斉藤 洋)

・二年間の休暇(ジュール・ベルヌ)

・よわむしおばけ(わたなべめぐみ)

・二分間の冒険(岡田淳)


10作より多く見えるって?細かいことは気にしない方がいいです。



今更細かく書くまでもない著名作・傑作ばかりではありますが、上記10作についてはまた色々書くとして。




まずは一作目、「だれも知らない小さな国」について軽くお話したいと思います。多少ネタバレが混じります。



○それは、日常の中に平気な顔して隠れている、小さな小さな非日常のお話。


まずこれを言わないと始まらないと思うので書きますが、「だれも知らない小さな国」シリーズは、小人たちと、彼らと心を通わせた人間たちとの絆の物語です。



「だれも知らない小さな国」という物語の舞台は、戦前〜戦後間もなく、今よりもだいぶ森や林が多かった時代です。


物語導入時、主人公である「ぼく」は、小人の存在を知りません。ひょんなことから素晴らしい遊び場である「小山」を見つけた「ぼく」は、同じく偶然の積み重ねで、その小山に伝わる小人の物語を知り、やがて小人の存在を追い求めるようになっていきます。


物語の序盤のテーマが、「主人公は、どうやって小人たちと出会うに至るのか」ということである点については議論を俟たないでしょう。ただ、この時の描写が本当に、「ぼく」が普段過ごす平凡な日常をこまやかに描写して、読者は知らず知らずの内に、「自分たちの隣にも小人がいるんじゃないか」という程の、リアリティに満ちた臨場感を味わうことになります。


この物語の小人たちに与えられた、「動きが速すぎて、通常は人間たちには見えない」という設定が、これがまた絶妙でして、読者は時にはやきもきしたり、時にはユーモアを楽しみながら、「自分たちと異なる存在」と「ぼく」の出会いが、本当に幸せなものになる場面を目撃することになります。


しかし、勿論これは物語の本当に序盤の話。「だれも知らない小さな国」の凄いところは、ここから、「ぼく」と小人たちが、いかにして協力し合い、運命共同体になっていくのかを、本当に自然な流れで描いていくところです。


彼らは、時には一緒に何かを創り上げ、時には大きなピンチに立ち向かいながら、お互いなくてはならない存在になっていきます。この辺りの、「異なる存在同士が絆を深めていく」描写、その描写の気持ち良さこそが、コロボックルシリーズの大きな大きな特色の一つである、というのは言ってしまって問題ないでしょう。



「ぼく」にせよ、小人たちにせよ、峯のおやじさんやおちび先生のような彼らを取り巻くキャラクターにせよ、どのキャラクターも実に好感がもてる、ステキなキャラクターばかりであるところも特筆すべきところでしょう。特に小人たちは本当にタレント揃いでして、この巻に登場するヒイラギノヒコ、カエデノヒコ、エノキノヒコの三人組などは、後々のシリーズまで重要なキャラクターであり続けます。



そして。これはシリーズ全体を通しての話なのですが、「だれも知らない小さな国」には、ある種のミステリー、「謎解き」的な要素も隠されています。序盤に提示された小さな小さな伏線が、終盤、見事な流れで解決する爽快感は、自作、「豆つぶほどの小さな犬」にも引き継がれている要素です。


取り敢えず、終盤、おちび先生が小山を訪ねてきた時の会話は、一言一句印象に残るすばらしいセンテンス揃いです。心して読むことをお勧めします。



○コロボックル通信社の活躍。


さて。実は話はここからな訳です。


上記の通り、一作目の「だれも知らない小さな国」は、それ単体でも十二分に面白い児童小説でした。が、シリーズとしての「だれも知らない小さな国」が傑作になったのは、間違いなくこの二作目、「豆つぶほどの小さないぬ」の功績だと私は思います。



「豆つぶほどの小さないぬ」では、いきなり主人公が交代します。なんと、人間視点から小人視点の話になるのです。


言ってみれば、一作目で「小人と出会った」読者たちは、二作目でいきなり「小人になる」ことになる訳です。日常から非日常への架け橋を渡ったと思ったら、次は自分自身が非日常の側に立つ番。まず、この舞台立ての急激な転回が、読者をコロボックル世界に強力に引き込みます。


「豆つぶほどの小さないぬ」の主人公は、「風の子」ことクリノヒコ。彼は、スギノヒコ=フエフキや、ヤナギノヒコ=ネコ、サクラノヒコ=サクランボやカエデノヒコ=ハカセ、更にはクルミノヒメ=オチビといった、魅力的なコロボックルのキャラクターたちと共に、かつてコロボックル世界に溶け込んでいた筈の生き物、「マメイヌ」の捜索をすることになります。



この時の描写がまた、佐藤さとる先生の真骨頂と言うわけで、一作目で「ぼく」の日常が描かれた時と同等、もしくはそれ以上の細やかさで、「コロボックルたちの日常」が描かれることになります。ああ、こんな国、ある。きっとある。それくらいのリアリティをもって描写されるコロボックル小国の活き活きとした情景は、読者を「コロボックルの仲間たち」の一員とするに十分過ぎるものです。



お話としても、「マメイヌはどこにいるのか?」「マメイヌはどうしているのか?」というところから、「竹林」という言葉が重要なファクターになる中盤の捜索に至る数々の冒険や謎解きに加え、一部ではコロボックル同士の恋愛模様まで描かれる、様々な要素が見事に組み合わさって一つのストーリーを形作っています。コロボックルシリーズの中でも、私が「豆つぶほどの小さないぬ」を最大の名作だと考えている所以です。



勿論この後、3作目、4作目、5作目と、コロボックルシリーズは更なる発展を遂げていく訳ではあるのですが、未読な方には、まずこの最初の二冊だけでも一読されることをお勧めします。「日本を舞台にしたファンタジー」という舞台立てがお嫌いでない方であれば、楽しめることについては保証します。



さて。結構長くなったので、今日はこれくらいにしておきます。次はまた別の児童小説の話でも。



posted by しんざき at 21:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月22日

「七夕の国」がどれだけ面白いか、今から皆さんに説明しようと思います



岩明均先生の代表作って何でしょう、というところから始まるわけです。



多くの方が「寄生獣」を挙げることは疑いないでしょう。現在の連載作である「ヒストリエ」を挙げる人も勿論いるでしょうし、岩明先生の短めな作品が好きな方は、「骨の音」や「ヘウレーカ」、「雪の峠・剣の舞」辺りを挙げるかも知れません。風子スキー、ないしみさ子スキーな方が「風子のいる店」を挙げたとしても全く驚くには当たりません。


私も、当然のことながら寄生獣は超名作だと考えておりますし、特に8巻辺りからの展開の物凄さを超えられる作品はそうそうざらにはあるまいとも思っておりまして、好きなキャラクターは田村玲子さんです。かっこいいですよね。田村さん。8巻終盤の田村さんのセリフなんか鳥肌なしで読むことが出来ません。



とはいえ、「七夕の国」を通してお読みになった方であれば、「同作の完成度はもしかすると寄生獣を越えているかも知れない」という私の評価に、賛同するかはともかく理解はしてくださるのではないか、と私は考えるわけなのです。



以下のテキストは、主に「七夕の国」を未読な方を対象に、核心的なネタバレは避けつつ、思わずちょっと手が滑ってAmazon辺りで七夕の国全4巻をポチらせてしまおう、という目的の元に記載しています。皆さん読みましょう。七夕の国。超面白いです。なお、漫画を読む前にWikipediaを見ることは推奨しません。





七夕の国。岩明均先生による伝奇SF漫画。全4巻。コミックスが発売されたのは1997年から1999年までの期間の筈です。








背景にSF的な要素を数々仕込みながらも、全体的には「東北のとある町、丸川町」と、主人公がもっている奇妙な能力の謎解きという、ミステリーを基調にしたストーリーです。


まずは、背景のお話をします。



・岩明先生と、ストーリーのスケール操作のお話


私、岩明先生の一番凄い所って、「お話のスケールコントロール」だと思うんです。


万事、ストーリーを構築する上では、「ストーリーの範囲」というものをよく考えないといけません。お話の射程距離。どこまでの要素を出して、どこからの要素は出さないか。キャラクターは何人登場させるか。主人公の手が届く距離。描写される範囲。読者に、どこまでの世界観を見せるか。どこまでの範囲は伏せておくか。


ストーリーのスケールを最初から広げ過ぎてしまうと、置いてけぼりにされる読者が多数登場します。一方、ストーリーのスケールを狭め過ぎると、読者の興味を引くことが難しくなりますし、早い段階でお話に飽きてしまう読者も出てきてしまいます。また、お話のスケールを広げ過ぎると、後からまとめきるのが難しくなります。いわゆる「大風呂敷広げ過ぎ」状態です。


岩明先生の作品は、長編短編関わらず、その「お話のスケール」を操作するのが物凄く巧みなのです。なんといいますか、「読者に見せる範囲」「見せる順番」「見せる量」が完璧にコントロールされている、とでもいうのでしょうか。消化不良を起こす程多くなく、空腹感を覚える程少なくなく、読者は知らず知らずの間に岩明ワールドを食べ進めることに夢中になっていく。そして、描写されたあらゆる要素が、一点の隙もなくきちっと回収されていく。



「七夕の国」は、戦国時代の描写から始まります。「丸神山」に築城を行おうとするとある東北の戦国大名と、彼を必死に止めようとする武将「南丸」や「丸神の里」との確執、そして合戦。大名の軍勢に相対するのは数人の里人、本来であれば勝負になる筈はないのに、謎の光と共に死屍累々となる光景。そして、ひるがえる「カササギの旗」。


読者は、この短い導入パートで、「七夕の国」全体を支配する様々な謎、テーマ、伏線を、実は殆ど提示されています。ただし、その伏線は、「謎の光と、倒れる軍勢」という強烈な主題の前に、殆ど隠されていて見えない。物語の序盤、この「謎の光」は、お話の主要なテーマの一つとしてストーリーをけん引します。



しかし、導入パートが終わると、お話はいきなり小さくスケーリングされます。そこに現れるのは、ごく一般的な大学キャンパスと大学生活。主人公として登場するのは、冴えない風体の「南丸(みなみまる)洋二」、通称ナンマル先輩。南丸という苗字から、冒頭の武将との関係は暗示されますが、暫くの間、伝奇SF的な要素はなりを潜めます。


南丸の持つとある特殊能力は、「精神集中をすると紙に小さな穴が空く」という、ただそれだけのもの。そんな彼を呼び出して、彼のルーツを聞きたがる、「丸神ゼミ」の江見先生。丸神の里で時折聞こえる、「窓を開いた者」と、「手が届く者」という不思議なキーワード。ここから、南丸は徐々に徐々に、「自分の能力の本当の意味」と、丸神の里を取り巻く不思議な謎を辿っていくことになります。



視点がナンマル先輩に移ってから始まる、「小さな視点から、徐々に大きくなっていくストーリー」のコントロール。まずは、この「展開の強弱」こそ、七夕の国という漫画の真骨頂だ、と私は考えるわけなのです。




・SFミステリーとしての「七夕の国」


ミステリーとしての七夕の国は、「三巻までに蓄積されてきた謎や伏線が、四巻で怒涛のごとく解決していく」という構成をとっています。


一巻でちりばめられていた様々な要素が、二巻〜三巻で更に増幅されて、四巻で一気に「そういうことだったのか!」という解決を見る。人によって向き不向きはあるかも知れませんが、岩明先生の描写の巧みさもあって、この展開には実に実にカタルシスを感じます。


では、一巻〜三巻の役割は、謎の提示と伏線張りだけなのか?と言うと、そんなことはありません。「七夕の国」では、もう一つ、「特殊な能力に気付いた南丸洋二は、その能力を何に使うのか?」というテーマが明示されておりまして、裏で動いている「丸神の里」とそれにまつわる謎と並行する形で、「自分の能力と向き合う等身大の主人公」というものも描写されます。



この「七夕の国」というお話は、そういう意味で一種の二重構造になっています。一方が、「丸神の里」を中心にした伝奇SFとミステリーの世界。もう一方が、南丸と彼の周囲を中心とした、能力についての紆余曲折を中心とした日常の世界。


ただ「能力」と言ってしまうと、まるで異能バトル漫画のような印象を出してしまうかも知れませんが、伝奇SFミステリーを背景にした「七夕の国」は、決して安易な能力バトル的な展開を選びません。


主人公の「紙に穴を空ける」能力は、二巻のある時点を境に急激な転換を見せ、一種の成長展開のようなカタルシスもあるのですが、物語中盤以降、「現代という時代、普通の生活をしている自分にとって、この能力は一体何の役に立つのか?」という、非常にでかいテーマを南丸は突き付けられます。



これ、結構普遍的なテーマだと思うんですよ。そんなに小回りが利く訳でもない、一面で観れば破壊的な側面に特化した能力を、自分は一体何に使えるのか。能力バトル漫画であれば、主人公には倒すべき敵がいて、その敵を倒す為に自分の力をつぎ込むかも知れませんが、実際のところ、日常的な現実でそんなものはなかなか現れません。



いつもの日常、いつもの現実で、ある日いきなり「かめはめ波」が使える様になったとして、あなたは何に使いますか?



「七夕の国」で、南丸に、あるいは読者に突き付けられた疑問というのは、いってみればそういうものです。


南丸の自問は、例えばバイト先やサークルでの様々な会話や、東丸高志や丸神頼之のような「先輩能力者」との邂逅やその行状の目撃、丸神の里の人々との会話などを経て、最終話でようやく、一つの決着を迎えることになります。




・「七夕の国」の登場人物のお話


ヒロイン的存在である東丸幸子がどう見ても風子、というのは置いておいてですね。いや、さっちゃんとても可愛いと思います。浴衣姿を見せるところとか特に。



私は、岩明先生の描かれるキャラクターについて、「無機質な人間臭さ」とでもいうようなイメージを持っています。人間くさいんだけど、無機質。描写が非常にシャープなので、人間くささがクリアに、ストレートに読み取れる、とでもいうのでしょうか。



本作の主人公である南丸洋二は、岩明先生の作品としては割と珍しい感じの「のんびりした」三枚目キャラクターであり、場面によってはバカ殿と呼ばれたりします。確かに平常、彼は非常におっとりとした感じで描写され、明確な意志を示すこともそれほど多くはありません。ただ、それだけに、「手が届く」能力者として明確に目覚めて以降、彼が時折強い意志を示して行動する部分は、普段とのギャップもあり強い印象を残します。



そんなナンマル先輩の周囲には、幾つかのグループに分かれたキャラクター群が描写されます。まず、序盤にしか登場しませんが、ナンマルのサークルの仲間たち。江見先生を始めとする丸神ゼミの面々。東丸幸子を含む、丸川町の人々。東丸高志と、彼との協力関係で金を儲けている八木原。そして、中盤以降最大のキーパーソンとなる丸神頼之。



丸神頼之を除くと、皆割と「普通な人々が、変わった状況で普通なことをしている」という空気が凄く強いんですよね。一見地味なキャラクターも多いのですが、その実様々な形で「自分のやりたいこと」を通そうとしているのは、知らず知らずに網の目が出来ているようでとても面白い描写だと思います。



個人的には、丸川町周辺の模型を作って40万円を得られるかどうかを始終気にしている、丸神ゼミの多賀谷なんか実にいい味出しているキャラクターだったと思います。徹底して「脇役」なんですが、江美先生や桜木と一緒に、最後の最後までなんだかんだでストーリーに絡み続ける存在感は凄い。


あと丸川町の早野さん。「われわれのような恐ろしい組織が」のところで後ろの二人が吹きだしている場面なんか、同作には珍しい軽いノリのシーンでステキ。



とはいえ、岩明先生の作品に共通したところですが、「全員なんか似たようなTシャツかポロシャツしか着てない」というところは否定できない事実かとは思います。ヒストリエでギリシャ世界という場面を得た岩明先生の躍動感(衣装的な意味で)凄い。


まあさっちゃんはかわいいのであまり気にしないでください。




ということで。長々書いて参りましたが、私が言いたいことは


・七夕の国をまだ読んでない人は今すぐAmazonでポチって読みましょう、出来れば4冊まとめて



という一点のみであり、他に言いたいことは特にないので、皆さんよろしくお願いします。


今日書きたいことは以上です。

posted by しんざき at 19:54 | Comment(8) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月28日

「ロボットに子どもが乗って戦う」という設定に対する、「機動警察パトレイバー」のアンチテーゼについて


パトレイバーのバドのお話です。長文です。多分既出話だと思うんですが、今更なのであまり深く考えないで書きます。アニメ版が手元にないので、基本的に原作準拠の話です。


以下、ネタバレ全開なので原作未読の方はご注意ください。Amazonとかで全巻ポチるといいと思います。




twitterでこんなハッシュタグを見かけました。





最初に思いついたのが、パトレイバーのバドリナート・ハルチャンド、通称バドのことでした。



皆さんよくご存知の通り、「機動警察パトレイバー」において、バドは敵陣営・内海さん率いる企画七課で、「グリフォン」のパイロットとして登場する10歳の少年です。当初、ゲーセンで超難易度レイバー体感ゲームをあっさりとクリアする、明るく不敵な天才少年として登場したバドですが、劇中、彼の数奇な境遇についても次第に明らかになっていきます。


原作後半において、ひとつのキー組織として描かれるのが、表面上は人材紹介サービスとして、裏では非合法の児童の人身売買組織として活動していた「パレット」です。パレットの朱永徳との会話などから、バドは内海の注文によってパレットで育成され、人身売買で内海に買い取られたことが読み取れます。


以後、バドに対する正常な教育の欠如(内海からの接し方、「ちゃんと大人になれるのかね」といったセリフなどから)、それに伴う罪悪感・倫理観の欠如、また彼の無意識的な?家族に対する愛情の飢え(女医に対する態度などから)などは、当初あっけらかんとした性格に見えたバドの描写を深めるにあたって、劇中後半の「パトレイバー」のダークな側面として現れてきます。


物語も終盤となる19巻では、黒崎のセリフなどから「用済みになって捨てられる」ということに強烈な恐怖感を覚えたバドが、企画七課から逃げ出し、主人公の野明の元に転がり込む展開があります。そこからのバドについてのキャラクター掘り下げ、そしてラストの「だってゲームやんか」というセリフに対する野明の反応などは、バドというキャラクターを端的に象徴するものだったといっていいでしょう。「ゆうきまさみの果てしない物語」などから読み取れる限り、ゆうき先生はコンピューターゲームについての親和性を当時あまりお持ちでなかったようで(競馬ゲームなどはなさっていたようですが)、「ゲーム漬け」という状況に対する警鐘のようなものも読み取れます。



最終的に、バドはアメリカの刑事であるブレディ警部の家族に引き取られることが野明への手紙で明かされ、大家族の中で愛情を受けられるハッピーエンドが暗示されてはいるのですが。



この設定、ゆうき先生にそういう意図があったかどうかはともかく、少なくとも当時の文脈としては「巨大ロボットに乗って戦う子ども」という設定に対するアンチテーゼとして動作していたなあ、と。



立ち位置的には、バドは「超強力なカスタムロボットの少年専属パイロット」であり、大人に伍する腕前の所有者でもあり、ライバル(野明)もおり、成長展開もありと、「ロボットものの主人公」としての登場でも違和感がない属性を数々有しています。


しかし、人間としてのバドは、「カスタムロボットを駆る天才パイロット」という属性の代わりに色々なものを欠落させています。


・家族、愛情

・正常な教育

・道徳観、倫理観

・企画七課以外の精神的な拠り所



こういう色々な「欠落」と引き換えにロボットものの主人公をやっているキャラクターって、全然珍しくないんですよね。「主人公に家族がいない」とか「主人公が孤児」といった設定のロボットものって凄く多いですし。「主人公が学校に行っておらず、特殊な教育を受けている」とか、教育場面自体が捨象されている設定とか、倫理観はともかく常識的な感覚が色々欠如している主人公とか、ここでは細かくリストアップしませんが、結構思いつきます。特に、「父母の愛情」とか「まともな、普通の教育」というものを捨象してるロボットものって凄く多いと思います。



「子どもが巨大ロボットに乗る」なんて設定を付与しようとしたら、他の設定で色々無理をさせないと全体の設定に無理が生ずるという側面はあるんじゃないかなあ、と思うんですよね。



機動警察パトレイバーという漫画においては、主人公は普通の大人であり、かつ警察官という職を持っている泉野明ですし、登場キャラクターも大部分は(多少性格にアクはあるとはいえ)まともな大人、まともな社会人ばかりです。また、野明や遊馬、進士といったキャラクターは、これも色々な形態があるとはいえ、「家族」というものもきちんと描写されており、来歴が捨象されません。子どものころどんな教育を受けてきて、それが性格形成にどんな影響を及ぼしているか、ちゃんとした大人の来歴として作中で描かれているんですよね。


要するに、パトレイバーの主要キャラクターは、設定的には非常に「地に足がついた」キャラクターばっかりなんです。普通の背景を普通に持っている。勿論そういう設定が細かく描写されないキャラクターもいますが(後藤隊長とか)



そういう、「大人が仕事として巨大ロボットのパイロットをやっている」世界観だからこそ、余計、バドという「少年パイロット」的なキャラクターの歪みがひとつのテーマになり得たのではないかと。この辺が、パトレイバーを「巨大ロボットに乗って戦う子ども」という設定に対するアンチテーゼとして捉える理由です。


1988年という当時、こういう設定をリアリティ全開で描写したゆうきまさみ先生は本当に凄いと思うわけなんです。



って、ここまで書いてきて思ったんですが、上記のような話って例えば作品インタビューとかで言及されたりしてましたかね?「大人が仕事としてパイロットをやっている」という設定についてのくだりは何かで読んだこともあるような。だったらすいません。



取り敢えず私が言いたいことをまとめておきますと、


・パトレイバー面白いですよね。

・バドは立ち位置的には「巨大ロボットものの少年パイロット」っぽい。

・でも色々設定がダーク。

・少年パイロットって設定自体無理があるよね、みたいなアンチテーゼとして読み取ることも可能かなー、と。

・パトレイバーは「ちゃんとした大人、ちゃんとした社会人」が主人公グループであるロボットものとして特異な立ち位置だったなー、と。

・ただしちゃんとした社会人としての太田さんの行動について若干の議論の余地があることは認める

・進士さんのサラリーマン感は異常。



全然まとめになってませんが、これくらいにしときます。いや、太田さんちゃんとした社会人だと思うんですけどね。勤怠非常にまじめだし。同じ職場だと疲れそうな側面もあるけど。


今日書きたいことはこれくらいです。





posted by しんざき at 10:25 | Comment(3) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月19日

黄金聖闘士とボジョレ・ヌーボーの共通点について


聖闘士星矢の話なんですが、当然のごとく下らない話なので、あまり真面目に読むことはお勧めしません。



皆さんよくご存知の通り、聖闘士星矢の世界観では、聖闘士同士の序列があります。特に序盤の銀河戦争編〜十二宮編においては、この序列がかなり厳密に、かつ重要性をもって描写されます。




聖衣(クロス)を持たない雑兵を最底辺として、主人公が所属している青銅聖闘士が序列の下位グループ。白銀聖闘士が中位グループ、12人しかいない黄金聖闘士が最上位グループであって、Wikipedia上では
おおむね拳速がマッハ1前後のものが青銅、2 - 5で白銀、光速が黄金の標準的な実力である[注 5]。
と記載されています。黄金聖闘士すごいですよね。光速ですよ光速。物理学に正面から喧嘩を挑んで爆砕している辺りは、流石車田先生としか言いようがありません。



格闘系少年漫画では、「序盤・中盤のボス」が、強さ上の「型落ち」をすることが多いです。序盤、散々主人公たちを苦しめた強敵が、新たな敵にあっさりやられてしまうことで、新キャラの強さを強烈に印象づけるアレです。インフレ云々を抜きにしても、話のスケールがでかくなればなるほど、序盤のキャラクターの相対的立ち位置が低くなってしまうことは仕方ないことだともいえます。



ところが、聖闘士星矢においては、星矢たち青銅一軍グループが作品を通して物凄い成長をしながらも、「中盤のボス」であるところの黄金聖闘士が、物語最終盤まで「型落ち」し切らず(全くしない訳ではないですが)、一つの「実力の天井」であり続けます。流石に冥王編の神クラスの連中相手には旗色が悪くなりますが、特にシャカやムウ、サガやアイオリアといった一線メンバーは、物語の最終盤まで「最強の一角」として描写され続けています。


この辺が、聖闘士星矢という漫画の、ひとつの特筆すべき点であると私は思います。


まあ、デスマスクやアルデバランといった一部の連中は、若干かませっぽい演出をされてしまった部分もありますが、12人(+1人)の内の大部分は「最強の一角」から最後まで退きません。嘆きの壁の展開が一つの象徴かと思いますが、聖闘士星矢というお話全体を見ても、黄金聖闘士の存在感は最後まで大きいままなのです。



早い話、黄金聖闘士は、お話上「弱く見えないように」非常にまめにメンテナンスされ続けたキャラクターたちである、ということが出来ると思います。



さて。そんな黄金聖闘士ですが、簡単に型落ちさせられない実力者という設定の為もあってか、黄金聖闘士内の序列というものは非常に難しく、作中では「黄金聖闘士同士が戦えば千日戦争になるかお互いが消滅する」などと描写されたりしています。


その端的な表出として、Wikipediaの「黄金聖闘士」の項目の表現が興味深かったのでちょっと引用してみます。強調は筆者。




〇牡羊座のムウ
サイコキネシス、テレポーテーションなどの超能力を最も得意とする。その力は全聖闘士の中でも最強と謳われており[2]、デスマスクが憎まれ口と共に対決を避け、シャカが一目置き、時に助力すら求めるほど。

〇牡牛座のアルデバラン
聖闘士の中でも並ぶ者のない剛を誇り、「黄金の野牛」の異名を持つ。

〇双子座のサガ
実力は黄金聖闘士の中でも群を抜き[9]、その拳は銀河の星々をも砕くといわれ、相手を意のままに操る精神攻撃も得意とする

〇双子座のカノン
海皇ポセイドン編前半においてはその威圧感・存在感、後半においては実力の一端を示し、かつてサガと闘ったことがある一輝が「実力はまさにサガの生き写し」と認めていた。

〇獅子座のアイオリア
冥闘士ですら「黄金の獅子」と称した実力の持ち主で、黄金聖闘士の中でも一、二の屈強を誇る

〇乙女座のシャカ
黄金聖闘士でも「最も神に近い男」と呼ばれるほどの実力者で、仏陀の転生と言われている。

〇天秤座の童虎
サガからは、老齢ながら全聖闘士中で最強と評されていた

〇蠍座のミロ
最強の黄金聖闘士の一人であるカノンに対しても、ほぼ互角に戦える程の戦闘力を持つ。

〇射手座のアイオロス
その実力は、最強の聖闘士を謳われたサガと同等またはそれ以上といわれる

〇山羊座のシュラ
黄金聖闘士の中でも突出した体術の使い手で[26]、その動作に追いつく者は数少ない
特に手刀の威力は黄金聖闘士中でも最強

よしちょっと待て。


なんでしょうこの本家争い感。多彩な最強表現のジェットストリームアタック。実に味わい深い表現の集団殺法であることは見てとって頂けると思います。


サイコキネシスというフィールドに限定されているようにも読めるムウ(とはいえ終盤での描写はシャカよりつえーんじゃねえかこいつ、といった内容でしたが)、体術に限定されているシュラあたりはまだしも、群を抜いていたり、並ぶものがなかったり、一、二の屈強を誇る人がやや多過ぎるように感じます。


特に、「最強のカノンとほぼ互角」というミロや、「サガと同等またはそれ以上」などというアイオロス辺りの表現に強い既視感を感じると思っていたら、ボジョレ・ヌーボーでした。例のアレです。



2014年版ボージョレ字面だけ格付け

1.2005年「ここ数年で最高」
2.2006年「昨年同様良い出来栄え」
3.2003年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
4.2011年「50年に一度の当たり年」「05年や09年産に匹敵する仕上がり」
5.2009年「50年に1度の出来栄え」
6.2002年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
7.2001年「ここ10年で最高」

結局どれが最強なんだよ、というのは恐らくタブーというか、最強議論スレが熱くなる展開なわけです。


つまりこれは、「毎年売りたい」ボジョレと同様、「みんな最強」という設定によって黄金聖闘士という立ち位置自体が保全され続けてきたことを意味していると思うんですね。若干数名最強表現が観測出来ない人もいますけど。


なんというか、一種の循環論法というか、誰ひとりモブキャラには落とさない、という強い意志が感じられて非常に好感がもてます。


まあ、これも、「作中最強格」といった立ち位置を大事に大事にメンテナンスされ続けた、黄金聖闘士の特殊性を表す一つの証左ではないかと私は思うわけです。



全然関係ないですが、聖闘士星矢がもたらした「星座同士のヒエラルキー」による悲喜劇は勿論今更言うまでもない訳でして、大体において蟹座やうお座の人間はふたご座やしし座、おとめ座に対してなんらかのコンプレックスを抱えてしまうものです。


上記ヒエラルキーは、デスマスクが活躍したエピソードGやギガントマキア、マニゴルドが超かっこよかった「聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話」などが世に出た今でも、完全に払しょくされたとは言い難い状況かと思います。




げに恐ろしきは聖闘士星矢という漫画の影響力と言うべきでしょうか。まあ蟹座については、元々の神話でも「ヘラクレスが戦ってるところに乱入しようとしたら1フレで踏みつぶされた」という、むしろヘラはなんでこんなヤツを星座にしてるんだよという残念神話の持ち主なので仕方ないともいえるかも知れませんが。


なお、この話の展開で察知頂けるかも知れませんが、筆者の星座は当然のごとく蟹座であることを記して結句としたいと思います。



今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 19:46 | Comment(9) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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