2015年01月22日

「七夕の国」がどれだけ面白いか、今から皆さんに説明しようと思います



岩明均先生の代表作って何でしょう、というところから始まるわけです。



多くの方が「寄生獣」を挙げることは疑いないでしょう。現在の連載作である「ヒストリエ」を挙げる人も勿論いるでしょうし、岩明先生の短めな作品が好きな方は、「骨の音」や「ヘウレーカ」、「雪の峠・剣の舞」辺りを挙げるかも知れません。風子スキー、ないしみさ子スキーな方が「風子のいる店」を挙げたとしても全く驚くには当たりません。


私も、当然のことながら寄生獣は超名作だと考えておりますし、特に8巻辺りからの展開の物凄さを超えられる作品はそうそうざらにはあるまいとも思っておりまして、好きなキャラクターは田村玲子さんです。かっこいいですよね。田村さん。8巻終盤の田村さんのセリフなんか鳥肌なしで読むことが出来ません。



とはいえ、「七夕の国」を通してお読みになった方であれば、「同作の完成度はもしかすると寄生獣を越えているかも知れない」という私の評価に、賛同するかはともかく理解はしてくださるのではないか、と私は考えるわけなのです。



以下のテキストは、主に「七夕の国」を未読な方を対象に、核心的なネタバレは避けつつ、思わずちょっと手が滑ってAmazon辺りで七夕の国全4巻をポチらせてしまおう、という目的の元に記載しています。皆さん読みましょう。七夕の国。超面白いです。なお、漫画を読む前にWikipediaを見ることは推奨しません。





七夕の国。岩明均先生による伝奇SF漫画。全4巻。コミックスが発売されたのは1997年から1999年までの期間の筈です。








背景にSF的な要素を数々仕込みながらも、全体的には「東北のとある町、丸川町」と、主人公がもっている奇妙な能力の謎解きという、ミステリーを基調にしたストーリーです。


まずは、背景のお話をします。



・岩明先生と、ストーリーのスケール操作のお話


私、岩明先生の一番凄い所って、「お話のスケールコントロール」だと思うんです。


万事、ストーリーを構築する上では、「ストーリーの範囲」というものをよく考えないといけません。お話の射程距離。どこまでの要素を出して、どこからの要素は出さないか。キャラクターは何人登場させるか。主人公の手が届く距離。描写される範囲。読者に、どこまでの世界観を見せるか。どこまでの範囲は伏せておくか。


ストーリーのスケールを最初から広げ過ぎてしまうと、置いてけぼりにされる読者が多数登場します。一方、ストーリーのスケールを狭め過ぎると、読者の興味を引くことが難しくなりますし、早い段階でお話に飽きてしまう読者も出てきてしまいます。また、お話のスケールを広げ過ぎると、後からまとめきるのが難しくなります。いわゆる「大風呂敷広げ過ぎ」状態です。


岩明先生の作品は、長編短編関わらず、その「お話のスケール」を操作するのが物凄く巧みなのです。なんといいますか、「読者に見せる範囲」「見せる順番」「見せる量」が完璧にコントロールされている、とでもいうのでしょうか。消化不良を起こす程多くなく、空腹感を覚える程少なくなく、読者は知らず知らずの間に岩明ワールドを食べ進めることに夢中になっていく。そして、描写されたあらゆる要素が、一点の隙もなくきちっと回収されていく。



「七夕の国」は、戦国時代の描写から始まります。「丸神山」に築城を行おうとするとある東北の戦国大名と、彼を必死に止めようとする武将「南丸」や「丸神の里」との確執、そして合戦。大名の軍勢に相対するのは数人の里人、本来であれば勝負になる筈はないのに、謎の光と共に死屍累々となる光景。そして、ひるがえる「カササギの旗」。


読者は、この短い導入パートで、「七夕の国」全体を支配する様々な謎、テーマ、伏線を、実は殆ど提示されています。ただし、その伏線は、「謎の光と、倒れる軍勢」という強烈な主題の前に、殆ど隠されていて見えない。物語の序盤、この「謎の光」は、お話の主要なテーマの一つとしてストーリーをけん引します。



しかし、導入パートが終わると、お話はいきなり小さくスケーリングされます。そこに現れるのは、ごく一般的な大学キャンパスと大学生活。主人公として登場するのは、冴えない風体の「南丸(みなみまる)洋二」、通称ナンマル先輩。南丸という苗字から、冒頭の武将との関係は暗示されますが、暫くの間、伝奇SF的な要素はなりを潜めます。


南丸の持つとある特殊能力は、「精神集中をすると紙に小さな穴が空く」という、ただそれだけのもの。そんな彼を呼び出して、彼のルーツを聞きたがる、「丸神ゼミ」の江見先生。丸神の里で時折聞こえる、「窓を開いた者」と、「手が届く者」という不思議なキーワード。ここから、南丸は徐々に徐々に、「自分の能力の本当の意味」と、丸神の里を取り巻く不思議な謎を辿っていくことになります。



視点がナンマル先輩に移ってから始まる、「小さな視点から、徐々に大きくなっていくストーリー」のコントロール。まずは、この「展開の強弱」こそ、七夕の国という漫画の真骨頂だ、と私は考えるわけなのです。




・SFミステリーとしての「七夕の国」


ミステリーとしての七夕の国は、「三巻までに蓄積されてきた謎や伏線が、四巻で怒涛のごとく解決していく」という構成をとっています。


一巻でちりばめられていた様々な要素が、二巻〜三巻で更に増幅されて、四巻で一気に「そういうことだったのか!」という解決を見る。人によって向き不向きはあるかも知れませんが、岩明先生の描写の巧みさもあって、この展開には実に実にカタルシスを感じます。


では、一巻〜三巻の役割は、謎の提示と伏線張りだけなのか?と言うと、そんなことはありません。「七夕の国」では、もう一つ、「特殊な能力に気付いた南丸洋二は、その能力を何に使うのか?」というテーマが明示されておりまして、裏で動いている「丸神の里」とそれにまつわる謎と並行する形で、「自分の能力と向き合う等身大の主人公」というものも描写されます。



この「七夕の国」というお話は、そういう意味で一種の二重構造になっています。一方が、「丸神の里」を中心にした伝奇SFとミステリーの世界。もう一方が、南丸と彼の周囲を中心とした、能力についての紆余曲折を中心とした日常の世界。


ただ「能力」と言ってしまうと、まるで異能バトル漫画のような印象を出してしまうかも知れませんが、伝奇SFミステリーを背景にした「七夕の国」は、決して安易な能力バトル的な展開を選びません。


主人公の「紙に穴を空ける」能力は、二巻のある時点を境に急激な転換を見せ、一種の成長展開のようなカタルシスもあるのですが、物語中盤以降、「現代という時代、普通の生活をしている自分にとって、この能力は一体何の役に立つのか?」という、非常にでかいテーマを南丸は突き付けられます。



これ、結構普遍的なテーマだと思うんですよ。そんなに小回りが利く訳でもない、一面で観れば破壊的な側面に特化した能力を、自分は一体何に使えるのか。能力バトル漫画であれば、主人公には倒すべき敵がいて、その敵を倒す為に自分の力をつぎ込むかも知れませんが、実際のところ、日常的な現実でそんなものはなかなか現れません。



いつもの日常、いつもの現実で、ある日いきなり「かめはめ波」が使える様になったとして、あなたは何に使いますか?



「七夕の国」で、南丸に、あるいは読者に突き付けられた疑問というのは、いってみればそういうものです。


南丸の自問は、例えばバイト先やサークルでの様々な会話や、東丸高志や丸神頼之のような「先輩能力者」との邂逅やその行状の目撃、丸神の里の人々との会話などを経て、最終話でようやく、一つの決着を迎えることになります。




・「七夕の国」の登場人物のお話


ヒロイン的存在である東丸幸子がどう見ても風子、というのは置いておいてですね。いや、さっちゃんとても可愛いと思います。浴衣姿を見せるところとか特に。



私は、岩明先生の描かれるキャラクターについて、「無機質な人間臭さ」とでもいうようなイメージを持っています。人間くさいんだけど、無機質。描写が非常にシャープなので、人間くささがクリアに、ストレートに読み取れる、とでもいうのでしょうか。



本作の主人公である南丸洋二は、岩明先生の作品としては割と珍しい感じの「のんびりした」三枚目キャラクターであり、場面によってはバカ殿と呼ばれたりします。確かに平常、彼は非常におっとりとした感じで描写され、明確な意志を示すこともそれほど多くはありません。ただ、それだけに、「手が届く」能力者として明確に目覚めて以降、彼が時折強い意志を示して行動する部分は、普段とのギャップもあり強い印象を残します。



そんなナンマル先輩の周囲には、幾つかのグループに分かれたキャラクター群が描写されます。まず、序盤にしか登場しませんが、ナンマルのサークルの仲間たち。江見先生を始めとする丸神ゼミの面々。東丸幸子を含む、丸川町の人々。東丸高志と、彼との協力関係で金を儲けている八木原。そして、中盤以降最大のキーパーソンとなる丸神頼之。



丸神頼之を除くと、皆割と「普通な人々が、変わった状況で普通なことをしている」という空気が凄く強いんですよね。一見地味なキャラクターも多いのですが、その実様々な形で「自分のやりたいこと」を通そうとしているのは、知らず知らずに網の目が出来ているようでとても面白い描写だと思います。



個人的には、丸川町周辺の模型を作って40万円を得られるかどうかを始終気にしている、丸神ゼミの多賀谷なんか実にいい味出しているキャラクターだったと思います。徹底して「脇役」なんですが、江美先生や桜木と一緒に、最後の最後までなんだかんだでストーリーに絡み続ける存在感は凄い。


あと丸川町の早野さん。「われわれのような恐ろしい組織が」のところで後ろの二人が吹きだしている場面なんか、同作には珍しい軽いノリのシーンでステキ。



とはいえ、岩明先生の作品に共通したところですが、「全員なんか似たようなTシャツかポロシャツしか着てない」というところは否定できない事実かとは思います。ヒストリエでギリシャ世界という場面を得た岩明先生の躍動感(衣装的な意味で)凄い。


まあさっちゃんはかわいいのであまり気にしないでください。




ということで。長々書いて参りましたが、私が言いたいことは


・七夕の国をまだ読んでない人は今すぐAmazonでポチって読みましょう、出来れば4冊まとめて



という一点のみであり、他に言いたいことは特にないので、皆さんよろしくお願いします。


今日書きたいことは以上です。

posted by しんざき at 19:54 | Comment(9) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月28日

「ロボットに子どもが乗って戦う」という設定に対する、「機動警察パトレイバー」のアンチテーゼについて


パトレイバーのバドのお話です。長文です。多分既出話だと思うんですが、今更なのであまり深く考えないで書きます。アニメ版が手元にないので、基本的に原作準拠の話です。


以下、ネタバレ全開なので原作未読の方はご注意ください。Amazonとかで全巻ポチるといいと思います。




twitterでこんなハッシュタグを見かけました。





最初に思いついたのが、パトレイバーのバドリナート・ハルチャンド、通称バドのことでした。



皆さんよくご存知の通り、「機動警察パトレイバー」において、バドは敵陣営・内海さん率いる企画七課で、「グリフォン」のパイロットとして登場する10歳の少年です。当初、ゲーセンで超難易度レイバー体感ゲームをあっさりとクリアする、明るく不敵な天才少年として登場したバドですが、劇中、彼の数奇な境遇についても次第に明らかになっていきます。


原作後半において、ひとつのキー組織として描かれるのが、表面上は人材紹介サービスとして、裏では非合法の児童の人身売買組織として活動していた「パレット」です。パレットの朱永徳との会話などから、バドは内海の注文によってパレットで育成され、人身売買で内海に買い取られたことが読み取れます。


以後、バドに対する正常な教育の欠如(内海からの接し方、「ちゃんと大人になれるのかね」といったセリフなどから)、それに伴う罪悪感・倫理観の欠如、また彼の無意識的な?家族に対する愛情の飢え(女医に対する態度などから)などは、当初あっけらかんとした性格に見えたバドの描写を深めるにあたって、劇中後半の「パトレイバー」のダークな側面として現れてきます。


物語も終盤となる19巻では、黒崎のセリフなどから「用済みになって捨てられる」ということに強烈な恐怖感を覚えたバドが、企画七課から逃げ出し、主人公の野明の元に転がり込む展開があります。そこからのバドについてのキャラクター掘り下げ、そしてラストの「だってゲームやんか」というセリフに対する野明の反応などは、バドというキャラクターを端的に象徴するものだったといっていいでしょう。「ゆうきまさみの果てしない物語」などから読み取れる限り、ゆうき先生はコンピューターゲームについての親和性を当時あまりお持ちでなかったようで(競馬ゲームなどはなさっていたようですが)、「ゲーム漬け」という状況に対する警鐘のようなものも読み取れます。



最終的に、バドはアメリカの刑事であるブレディ警部の家族に引き取られることが野明への手紙で明かされ、大家族の中で愛情を受けられるハッピーエンドが暗示されてはいるのですが。



この設定、ゆうき先生にそういう意図があったかどうかはともかく、少なくとも当時の文脈としては「巨大ロボットに乗って戦う子ども」という設定に対するアンチテーゼとして動作していたなあ、と。



立ち位置的には、バドは「超強力なカスタムロボットの少年専属パイロット」であり、大人に伍する腕前の所有者でもあり、ライバル(野明)もおり、成長展開もありと、「ロボットものの主人公」としての登場でも違和感がない属性を数々有しています。


しかし、人間としてのバドは、「カスタムロボットを駆る天才パイロット」という属性の代わりに色々なものを欠落させています。


・家族、愛情

・正常な教育

・道徳観、倫理観

・企画七課以外の精神的な拠り所



こういう色々な「欠落」と引き換えにロボットものの主人公をやっているキャラクターって、全然珍しくないんですよね。「主人公に家族がいない」とか「主人公が孤児」といった設定のロボットものって凄く多いですし。「主人公が学校に行っておらず、特殊な教育を受けている」とか、教育場面自体が捨象されている設定とか、倫理観はともかく常識的な感覚が色々欠如している主人公とか、ここでは細かくリストアップしませんが、結構思いつきます。特に、「父母の愛情」とか「まともな、普通の教育」というものを捨象してるロボットものって凄く多いと思います。



「子どもが巨大ロボットに乗る」なんて設定を付与しようとしたら、他の設定で色々無理をさせないと全体の設定に無理が生ずるという側面はあるんじゃないかなあ、と思うんですよね。



機動警察パトレイバーという漫画においては、主人公は普通の大人であり、かつ警察官という職を持っている泉野明ですし、登場キャラクターも大部分は(多少性格にアクはあるとはいえ)まともな大人、まともな社会人ばかりです。また、野明や遊馬、進士といったキャラクターは、これも色々な形態があるとはいえ、「家族」というものもきちんと描写されており、来歴が捨象されません。子どものころどんな教育を受けてきて、それが性格形成にどんな影響を及ぼしているか、ちゃんとした大人の来歴として作中で描かれているんですよね。


要するに、パトレイバーの主要キャラクターは、設定的には非常に「地に足がついた」キャラクターばっかりなんです。普通の背景を普通に持っている。勿論そういう設定が細かく描写されないキャラクターもいますが(後藤隊長とか)



そういう、「大人が仕事として巨大ロボットのパイロットをやっている」世界観だからこそ、余計、バドという「少年パイロット」的なキャラクターの歪みがひとつのテーマになり得たのではないかと。この辺が、パトレイバーを「巨大ロボットに乗って戦う子ども」という設定に対するアンチテーゼとして捉える理由です。


1988年という当時、こういう設定をリアリティ全開で描写したゆうきまさみ先生は本当に凄いと思うわけなんです。



って、ここまで書いてきて思ったんですが、上記のような話って例えば作品インタビューとかで言及されたりしてましたかね?「大人が仕事としてパイロットをやっている」という設定についてのくだりは何かで読んだこともあるような。だったらすいません。



取り敢えず私が言いたいことをまとめておきますと、


・パトレイバー面白いですよね。

・バドは立ち位置的には「巨大ロボットものの少年パイロット」っぽい。

・でも色々設定がダーク。

・少年パイロットって設定自体無理があるよね、みたいなアンチテーゼとして読み取ることも可能かなー、と。

・パトレイバーは「ちゃんとした大人、ちゃんとした社会人」が主人公グループであるロボットものとして特異な立ち位置だったなー、と。

・ただしちゃんとした社会人としての太田さんの行動について若干の議論の余地があることは認める

・進士さんのサラリーマン感は異常。



全然まとめになってませんが、これくらいにしときます。いや、太田さんちゃんとした社会人だと思うんですけどね。勤怠非常にまじめだし。同じ職場だと疲れそうな側面もあるけど。


今日書きたいことはこれくらいです。





posted by しんざき at 10:25 | Comment(3) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月19日

黄金聖闘士とボジョレ・ヌーボーの共通点について


聖闘士星矢の話なんですが、当然のごとく下らない話なので、あまり真面目に読むことはお勧めしません。



皆さんよくご存知の通り、聖闘士星矢の世界観では、聖闘士同士の序列があります。特に序盤の銀河戦争編〜十二宮編においては、この序列がかなり厳密に、かつ重要性をもって描写されます。




聖衣(クロス)を持たない雑兵を最底辺として、主人公が所属している青銅聖闘士が序列の下位グループ。白銀聖闘士が中位グループ、12人しかいない黄金聖闘士が最上位グループであって、Wikipedia上では
おおむね拳速がマッハ1前後のものが青銅、2 - 5で白銀、光速が黄金の標準的な実力である[注 5]。
と記載されています。黄金聖闘士すごいですよね。光速ですよ光速。物理学に正面から喧嘩を挑んで爆砕している辺りは、流石車田先生としか言いようがありません。



格闘系少年漫画では、「序盤・中盤のボス」が、強さ上の「型落ち」をすることが多いです。序盤、散々主人公たちを苦しめた強敵が、新たな敵にあっさりやられてしまうことで、新キャラの強さを強烈に印象づけるアレです。インフレ云々を抜きにしても、話のスケールがでかくなればなるほど、序盤のキャラクターの相対的立ち位置が低くなってしまうことは仕方ないことだともいえます。



ところが、聖闘士星矢においては、星矢たち青銅一軍グループが作品を通して物凄い成長をしながらも、「中盤のボス」であるところの黄金聖闘士が、物語最終盤まで「型落ち」し切らず(全くしない訳ではないですが)、一つの「実力の天井」であり続けます。流石に冥王編の神クラスの連中相手には旗色が悪くなりますが、特にシャカやムウ、サガやアイオリアといった一線メンバーは、物語の最終盤まで「最強の一角」として描写され続けています。


この辺が、聖闘士星矢という漫画の、ひとつの特筆すべき点であると私は思います。


まあ、デスマスクやアルデバランといった一部の連中は、若干かませっぽい演出をされてしまった部分もありますが、12人(+1人)の内の大部分は「最強の一角」から最後まで退きません。嘆きの壁の展開が一つの象徴かと思いますが、聖闘士星矢というお話全体を見ても、黄金聖闘士の存在感は最後まで大きいままなのです。



早い話、黄金聖闘士は、お話上「弱く見えないように」非常にまめにメンテナンスされ続けたキャラクターたちである、ということが出来ると思います。



さて。そんな黄金聖闘士ですが、簡単に型落ちさせられない実力者という設定の為もあってか、黄金聖闘士内の序列というものは非常に難しく、作中では「黄金聖闘士同士が戦えば千日戦争になるかお互いが消滅する」などと描写されたりしています。


その端的な表出として、Wikipediaの「黄金聖闘士」の項目の表現が興味深かったのでちょっと引用してみます。強調は筆者。




〇牡羊座のムウ
サイコキネシス、テレポーテーションなどの超能力を最も得意とする。その力は全聖闘士の中でも最強と謳われており[2]、デスマスクが憎まれ口と共に対決を避け、シャカが一目置き、時に助力すら求めるほど。

〇牡牛座のアルデバラン
聖闘士の中でも並ぶ者のない剛を誇り、「黄金の野牛」の異名を持つ。

〇双子座のサガ
実力は黄金聖闘士の中でも群を抜き[9]、その拳は銀河の星々をも砕くといわれ、相手を意のままに操る精神攻撃も得意とする

〇双子座のカノン
海皇ポセイドン編前半においてはその威圧感・存在感、後半においては実力の一端を示し、かつてサガと闘ったことがある一輝が「実力はまさにサガの生き写し」と認めていた。

〇獅子座のアイオリア
冥闘士ですら「黄金の獅子」と称した実力の持ち主で、黄金聖闘士の中でも一、二の屈強を誇る

〇乙女座のシャカ
黄金聖闘士でも「最も神に近い男」と呼ばれるほどの実力者で、仏陀の転生と言われている。

〇天秤座の童虎
サガからは、老齢ながら全聖闘士中で最強と評されていた

〇蠍座のミロ
最強の黄金聖闘士の一人であるカノンに対しても、ほぼ互角に戦える程の戦闘力を持つ。

〇射手座のアイオロス
その実力は、最強の聖闘士を謳われたサガと同等またはそれ以上といわれる

〇山羊座のシュラ
黄金聖闘士の中でも突出した体術の使い手で[26]、その動作に追いつく者は数少ない
特に手刀の威力は黄金聖闘士中でも最強

よしちょっと待て。


なんでしょうこの本家争い感。多彩な最強表現のジェットストリームアタック。実に味わい深い表現の集団殺法であることは見てとって頂けると思います。


サイコキネシスというフィールドに限定されているようにも読めるムウ(とはいえ終盤での描写はシャカよりつえーんじゃねえかこいつ、といった内容でしたが)、体術に限定されているシュラあたりはまだしも、群を抜いていたり、並ぶものがなかったり、一、二の屈強を誇る人がやや多過ぎるように感じます。


特に、「最強のカノンとほぼ互角」というミロや、「サガと同等またはそれ以上」などというアイオロス辺りの表現に強い既視感を感じると思っていたら、ボジョレ・ヌーボーでした。例のアレです。



2014年版ボージョレ字面だけ格付け

1.2005年「ここ数年で最高」
2.2006年「昨年同様良い出来栄え」
3.2003年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
4.2011年「50年に一度の当たり年」「05年や09年産に匹敵する仕上がり」
5.2009年「50年に1度の出来栄え」
6.2002年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
7.2001年「ここ10年で最高」

結局どれが最強なんだよ、というのは恐らくタブーというか、最強議論スレが熱くなる展開なわけです。


つまりこれは、「毎年売りたい」ボジョレと同様、「みんな最強」という設定によって黄金聖闘士という立ち位置自体が保全され続けてきたことを意味していると思うんですね。若干数名最強表現が観測出来ない人もいますけど。


なんというか、一種の循環論法というか、誰ひとりモブキャラには落とさない、という強い意志が感じられて非常に好感がもてます。


まあ、これも、「作中最強格」といった立ち位置を大事に大事にメンテナンスされ続けた、黄金聖闘士の特殊性を表す一つの証左ではないかと私は思うわけです。



全然関係ないですが、聖闘士星矢がもたらした「星座同士のヒエラルキー」による悲喜劇は勿論今更言うまでもない訳でして、大体において蟹座やうお座の人間はふたご座やしし座、おとめ座に対してなんらかのコンプレックスを抱えてしまうものです。


上記ヒエラルキーは、デスマスクが活躍したエピソードGやギガントマキア、マニゴルドが超かっこよかった「聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話」などが世に出た今でも、完全に払しょくされたとは言い難い状況かと思います。




げに恐ろしきは聖闘士星矢という漫画の影響力と言うべきでしょうか。まあ蟹座については、元々の神話でも「ヘラクレスが戦ってるところに乱入しようとしたら1フレで踏みつぶされた」という、むしろヘラはなんでこんなヤツを星座にしてるんだよという残念神話の持ち主なので仕方ないともいえるかも知れませんが。


なお、この話の展開で察知頂けるかも知れませんが、筆者の星座は当然のごとく蟹座であることを記して結句としたいと思います。



今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 19:46 | Comment(9) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月02日

俺たちは原作版ナウシカにおけるクロトワさんのかっこよさをもっと痛感するべきだと思います


原作版ナウシカのお話です。20年前の漫画とはいえ、かなりネタバレ全開なので、未読の方には当記事をお勧めしません。代わりに今すぐAmazon辺りで原作版ナウシカ7冊をポチることを強くお勧めします。後悔はさせません。



原作版ナウシカで、私が特に好きなシーンが二つあります。今日の話はその内片方がメインなんですが、もしかすると他の人が聞いたら「え?そんなとこ?」と言うシーンかも知れません。



それは、最終巻である7巻のラストの直前。ヴ王が息を引き取るシーンで、ヴ王はクシャナに王位を譲る宣言をした後、こう話します。


「王宮は陰謀と術策の蛇の巣だ ゴミの如き王族、血族がひしめいておる」

「だがひとりも殺すな ひとりでも殺すとわしと同じに次々と殺すことになるぞ」


この場面はこの場面で、道化が思わぬ役割を果たすことになったり、ヴ王が超いい味を出していたり、これまでの経緯を踏まえるとクシャナさんの表情が絶妙だったりと味わいどころ満載の場面ではあるのですが、この時、ある人物のリアクションが更に絶妙なのです。



そう。それは、天を仰いだ呆れ顔で、心中「よくいうよ」と独白するクロトワさん。



私、「風の谷のナウシカ」におけるクロトワさんの持ち味というか、ポジショニングというか、重要性はこの一場面に凝縮されていると思うのです。



冷静に考えてみてください。そんじょそこらの漫画では、この「よくいうよ」という台詞、挟めないと思うのです。



原作風の谷のナウシカという漫画は、4巻から先どんどんずんずん重さを増していき、特に6巻以降はシリアス展開のオンパレードです。絶望的な状況の中、その絶望と最後まで付き合い続ける(戦い続ける、のではなく)ナウシカと、その周りの人々との群像劇が風の谷のナウシカ後半の主要なテーマであることは言うまでもありません。


で、このヴ王死去のシーン、このすぐ次のページでは長い物語が終劇を迎えるという超重要シーンであり、ナウシカと双璧をなす主役級キャラであるクシャナの最後の決着がつく超シリアスシーンであり、一国の王が死を迎える超厳粛なシーンでもあります。「綺麗に終わらせる」なら、茶化すような言葉を挟む部分ではありません。



しかしここで、最後の最後まで斜に構えた皮肉っぽい見方を提示することが出来、しかもそれがごく自然であり、全く展開を崩さないというのが、クロトワさんのポジショニングの凄いところであり、彼を描き切った風の谷のナウシカという漫画の凄いところであると私は思うのです。



正直なところ、「風の谷のナウシカ」という作品において、特に5巻以降は、「人間味のあるキャラクター」というのが徐々に減っていきます。まあ状況が状況なので仕方ないといえば仕方ないですが、ナウシカは虚無と戦いながらもそのカリスマ性を最後まで遺憾なく発揮する浮世離れしたキャラクターであり続けますし、セルムもご存知の通りのキャラクターだし、ユパ様にせよチャルカにせよ墓所の主にせよ、それぞれ「超シリアス」なキャラクター揃いです(勿論これは、決してそれぞれのキャラクターに魅力がないという意味ではありません)

5巻以降のメインキャラで、多少なりと俗人っぽい部分を露出させたのって、多分皇兄ナムリスくらいじゃないでしょうか。



しかし、そんな中、クロトワさんは、クロトワさんだけは最後の最後まで「皮肉っぽいが野心あふれる切れ者」であり続けます。「世俗の人間」であり続けます。登場の当初から、ずっとそのポジションを変えないのです。


たとえば、ボロボロになりながら療養中「風呂に入りてえ…」とボヤいたり。ナウシカについていこうと結束する一団を見て「姫様姫様みんな姫様」と皮肉を発したり。クシャナにマスク越しに水を飲ませてもらいながら「このマスクを作ったヤツは自分で試してみたんですかね」と不平を漏らしたり。クシャナを救出しつつ「次は鎧無しで抱きたいねえ」と女好きなところを見せたり。



言ってみれば、「どんどん人間味をなくし、シリアス分を増していった物語の中で、最後まで「普通の人間」としての孤塁を守った」キャラクターだと思うんですよね。



この漫画、ナウシカの人的影響力が凄過ぎて、出てくるキャラクター出てくるキャラクター皆ナウシカのシンパになってしまうんですが。

そんな中でもクロトワさんは、たとえば3巻、ナウシカが船からメーヴェで脱出して、思わず助けに駆け出しつつも「俺はクシャナのところにいかにゃあ」と思い直したり、カイを失ったナウシカが泣き崩れているところに「まただよ馬一匹死んだだけであの有様だ」とつぶやいたり、最後まで「ナウシカに取り込まれない」んです。



この首尾一貫した「俗人っぷり」こそが、クロトワさんの凄さであり、クロトワさんのかっこよさの源泉だと私は思うわけなんです。



この下敷きがあったからこそ、クロトワさんは最後の最後で「よくいうよ」と皮肉っぽい台詞を呟けたし、あの場面でクロトワさんなら当然そう呟くだろうと納得出来るし、最後の最後で一服の清涼剤みたいな名台詞になっていると思うんですよね。いや、勿論、あの台詞を加味しなくても、風の谷のナウシカのラストはラストできちんと感動的だし素晴らしいんですが。



まあ何はともあれ、この記事は「クロトワさんは超かっこいいので皆さんクロトワさんのやばさをもっと知るべきだと思います」というだけの記事であり、他に言いたいことは特にないことを申し添えておきます。



ちなみに、私が好きな原作シーンのもう一方は、やはりクロトワとクシャナの7巻での会話、


「殿下、マントを見つけてきました。風が強いですぜ」

「このままで良い、マントはある」「へッ!?」

「ナウシカがつけている…」


のところです。


クシャナもいいですよね。色々と。映画版の唯一の欠点はクシャナが悪役になってしまっていたところだと思います。



今日はこの辺で。


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posted by しんざき at 23:03 | Comment(3) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月20日

「戦闘力・・・たったの5か・・・ゴミめ」という台詞は何故凄いのか

ドラゴンボールの話です。ラディッツさんの話ともいいます。既出かも知れませんがまあ気にしないことにします。



皆様よくご存じの通り、「戦闘力・・・たったの5か・・・ゴミめ」というのは、ドラゴンボールの17巻におけるラディッツさんの初登場シーンにおいて、猟銃を持った農夫のおっさん相手に、ラディッツさんがスカウターの表示を読んで言い放った言葉です。Web界隈の様々なセンテンスの中でも、かなり著名な部類に入る言葉だと思います。「バルス」を戦闘力53万としても、戦闘力100,000くらいはいくんじゃないでしょうか。


この言葉、数ある様々な漫画の名言の中でも、トップレベルに「一言で物語上の色んな役割を担っている言葉」の一つだと思います。


私が考える限り、この台詞には、大きく5つくらいの役割があります。



1.今後、物語に「戦闘力」という軸が加わることの宣言

2.上記に関連して、「スカウター」というアイテムの役割を明示

3.戦闘力の基準として、「銃をもった成年男性」が戦闘力5くらい、という非常に分かり易く誤解の余地が少ない物差しを明示

4.かつ、新キャラクターの勢力がどの程度脅威となり、どういう文化を持っているのかを明示

5.ラディッツというキャラクターの性格、キャラづけを明示



簡単に見ていってみましょう。



1.今後、物語に「戦闘力」という軸が加わることの宣言


有名な話だと思いますが、ドラゴンボールという漫画で「戦闘力」という言葉が使われたのは、ラディッツ登場時のこの台詞が最初です。これ以前は、どんなに強いヤツが現れても、そいつの強さは数値化されませんでした。亀仙人も、天津半も、ピッコロ大魔王も、マジュニアも、これ以前の時点では強さの物差しをあてられていません。


これ以降、スカウターというアイテムを導入されたドラゴンボール世界は、「戦闘力」という新たな物差しを縦横無尽に利用します。


新たな敵が現れた時、「戦闘力」という分かり易い数値は、その脅威を読者に知らしめるのにうってつけでした。


戦闘力に差がある状況からの大逆転を演出する時、Z戦士達の「自分の意思で戦闘力を操作出来る」という設定はうってつけでした。


インフレ展開という批判は当時からあったとは思いますが、ドラゴンボールのインフレは、少なくともフリーザ編くらいまでは、議論の余地なく「面白いインフレ」でした。「面白いインフレ」は少年漫画の一つの王道だと私は思います。


この、「戦闘力という物差しの物語への導入」というのが、まずは件の台詞の一番の役割だったことは論を俟たないでしょう。




2.上記に関連して、「スカウター」というアイテムの役割を明示


なんかかっこよさげな新アイテムが出てきた時。多くの場合、そこには「説明」の必要が生じます。時には独り言で、時にはもくもく台詞で、時には第三者の解説で、誰かが読者に向かって、「このアイテムにはこんな効果があるんだよ」と解説するのです。この時、解説が不自然な場合もあれば自然な場合もあります。


何かを「解説」する時、それをどれだけ自然に、スムーズに行えるかは、物語を描写する人の一つの腕の見せ所でもあります。



スカウターの「解説」は、驚愕する程に自然であり、瞠目する程にスムーズでした。上記のたった一言と、「ピピ…」という効果音と、農夫のおっさんのシルエットだけで、「ああ、これは相手の強さを表示する為のアイテムなんだな」という説明が、殆ど誤解を許さない程の明確さで読者に提示されるのです。


「戦闘力」という言葉の物凄い分かり易さもこの理解に一役買っているでしょう。戦闘する力。1ナノグラムの誤解の余地もありません。


こと「誤解の招きにくさ」という点においては、先達である「キン肉マン」の「超人強度」という言葉すら超えているかも知れません。この辺り、鳥山先生の言葉のチョイスには舌を巻く他ありません。



3.戦闘力の基準として、「銃をもった成年男性」が戦闘力5くらい、という非常に分かり易く誤解の余地が少ない物差しを明示


これも、「分かり易さ」という一点に資する話なのですが。


ドラゴンボールという漫画において、基本「銃」というのはお笑い用の小道具であり、序盤のごく一時期を除いて、主要キャラクター達相手には殆ど意味をなしません。銃は、ドラゴンボールの主役キャラクター達に当たりませんし、当たっても効きません。レッドリボン軍本部にカチ込んだ悟空が、ライフルの一撃を「いってーー!」の一言で済ませたのは、その側面を端的にあらわしているといえるでしょう。


とはいえ、勿論言うまでもなく、一般人の我々にとって「銃」というものは恐るべき脅威です。大抵の場合、銃で撃たれると大変痛いし大怪我をします。一般の人間で銃に対する耐性をもっているのはチャック・ノリスとスティーブン・セガールくらいのもんです。


レッドリボン軍編などを見ていればわかる通り、ドラゴンボールの劇中の「銃」の役割は、いわば「超強い人達」と「一般人」の境界線をさす記号なのです。


「戦闘力5」という端的な数字によって、今までは描写でしか表現されなかった「境界線」が、非常に明確な形で可視化されました。「銃をもった一般人」という、いわば普通の人の天井が、5。戦闘力5。


ここから、後に出てくる悟空の「戦闘力416」ですとか、マジュニアの408といった数字、更にその遥か上を行くラディッツの「1500」といった数字が、圧倒的な説得力と迫力を持って読者の前に現れる訳です。



4.新キャラクターの勢力がどの程度脅威となり、どういう文化を持っているのかを明示

5.ラディッツというキャラクターの性格、キャラづけを明示


件の台詞は、多くの場合ある程度の説明を必要とする「新キャラクター、新勢力の位置づけ」というものも、一発で済ませてしまっています。


「戦闘力が低い→ゴミ」という新キャラクター(ラディッツ)の決め付けから、読者はいろんなことを知ったり、予想することが出来ます。


・新キャラクター、ないし新勢力が、強さを非常に重視する価値観を持っていること

・同じく、強くないものに対して非常に冷淡かつ冷酷であること

・スカウターという、地球にはない技術を持っていること

・そこから、いろんな新技術の登場が予想されること→お話がSF的な展開になりそうだ、ということ


盛りだくさんです。



何よりも凄いことは、上の1〜3までも含めて、これら全てが「説明」を一言も要さず、本当にキャラクターの自然な一言で為されていることだ、と思うのです。たった一言。たった一言で、新しく登場させた物差し、新キャラクター、新設定、新技術のお披露目から新勢力の示唆までやってのける鳥山先生は、やはり天才だと私は思うわけなのです。



「戦闘力たったの5」という言葉で始まったサイヤ人-フリーザ編は、同じくフリーザの部下がトランクスに向かって発した「戦闘力たったの5」という言葉で幕を引き、以降スカウターは登場しなくなり、やがて「キリ」という新しい強さの物差しが出てきたりもする訳ですが。


なにはともあれ、この「戦闘力たったの5」という台詞が一つの象徴であり、鳥山先生自身も恐らく意識的に、「最初と最後」にこの台詞を使われたのではないかと私は思います。



大概長くなりました。「ドラゴンボールすごいね!」ということ以外言いたいことは特にありませんので、今日はこの辺で。



posted by しんざき at 21:38 | Comment(9) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月11日

ウーロンは何故「ギャル」ではなく「ギャルのパンティ」を選択したのか?

ドラゴンボールの話なんですが。



タイトルから想像に難くないとは思うが、以下の文章が心の底からどうでもいい議論であり、読んだら読んだだけ時間を無駄にするであろうことは事前に御承知おきの上お読み頂きたい。時間を大切にする方はここから先を読み進めるべきではない。



皆さんよくご存じの通り、「ギャルのパンティおくれーっ!!!!」というのは故事成語の一種であり、漫画「ドラゴンボール」の二巻において、ドラゴンボールを奪取したピラフ一味の願いが神龍に叶えられることを阻止する為、ウーロンが咄嗟に横から当該のセリフを叫び、願いに割り込んだことに由来する。


結果として、世界征服の望みが叶えられることはなくドラゴンボールは四散し、ピラフの野望は頓挫を余儀なくされる。二巻時点でドラゴンボール世界を救ったのは実はウーロンであり、作中全体を通しても、世界に対する貢献度ランキングでウーロンのランクはそこそこ高い。


ウーロンが活躍する場面は「ドラゴンボール」作中でも数少なく、ドラゴンボール最序盤、まだ同作が「格闘漫画の金字塔」ではなく「冒険活劇コメディ」だった頃の重要なハイライトであったことは議論を俟たないだろう。



ここで一つの疑問が浮上する。つまり、ウーロンは何故咄嗟に「ギャル」それ自体ではなく「ギャルのパンティ」を選択したのか?



今回の記事では、ウーロンの選択のリスク・リターンを評価し、彼に他の選択肢はあり得たのか、彼の選択は戦略的に正しかったのか、ということを考察してみたい。



○議論の前提


・「ギャル」という言葉は、今でこそ大時代的に聞こえるが、当時、ないしドラゴンボールの世界観上では「若い女子」という程度の意味であることを了解しておきたい(1巻でブルマなども普通の言葉として用いている)。本稿でも、この後その意味で使用する。

・「パンティ」という言葉についてもそれに準ずる

・ピラフの願いに割り込むという関係上、思考時間は極めて短かったし、願いの文字数も限られていた。ここにも注意が必要である。

・ウーロンの目的を「ピラフの願いの阻止」のみと規定した場合、その目的は100%達成されていることも認識されるべきである。


上記を前提として考えてみたい。



○より良い選択があり得たのかどうか、という考察


結論から先に言うと、「ギャルのパンティおくれ」というのは極めてローリスクかつローリターンな選択であった、と言えるのではないかと考えられる。



ウーロンについては、wikipediaに詳しい記載がある。




また、一巻の記載などから、


・ウーロンが女好きであること

・物語当初は、怪物のふりをして女の子を攫ったりしていたこと

・ただし、攫った女の子には我が物顔で振る舞われていたこと(その為か、「大人しい女の子が欲しかった」といった台詞が見られる)


が分かる。


つまり、ウーロンには「女の子を獲得したい」という願望が元々あったが、それに失敗した経験もあった。これは重要なポイントである。



単にハイリターンを求めるのであれば、「ギャルのパンティおくれ」より「ギャルおくれ」の方がリターンが大きいことは議論を俟たないだろう。ギャルのパンティは元よりギャルから生産されるものであり、生産元を確保すれば継続しての獲得が見込めるし、パンチラその他の副次的報酬を獲得出来る可能性もあり、リターンは極めて大きい。ウーロンの当初の目的(嫁探し)を考えても、こちらの選択肢のメリットは大きかった筈である。



ただ、単純に「ギャル」を獲得することを願いにするという選択は、様々なリスクを孕んでいる。


・獲得したギャルの気が強い場合、当初のウーロンの状況のように、むしろウーロンが迫害される可能性がある

・二巻で当初クリリンが連れてきたようなヘビー級体格のギャルが選定される可能性もある

・ランチさんが獲得される可能性もあり、場合によってはウーロンの命が危ない

・まかり間違って人造人間18号でも召喚された日にはジェノサイドな展開が繰り広げられて200%死ぬ

・ギャルが神龍の好みで選定される場合、神龍顔のギャル、ないしナメック星人のギャルなどが選定される可能性も否定出来ない


ハイリスクである。


上記のようなリスクを避ける為には、「ギャル」という言葉を可能な限り具体的な内容に置き換えなくてはいけない。(ex.「黒髪清楚系美少女おくれーーーー!!」など)


しかし、ウーロンが願いを言った場面はまさにピラフが願いを口にするその瞬間であり、リスクを軽減できる言葉を口に出来るだけの思考時間も、長い単語を口にするだけの余裕もない。



そこからウーロンは、「最小限のリスクである程度のリターンが得られ、かつ世界征服阻止の目的が達成出来る」選択を咄嗟に選んだのではないか、ということと、その背景には彼が一度美少女の獲得に失敗している、ということによる防御的心理が存在するのではないか、ということが推定出来る訳である。



こうして考えると、ウーロンの選択は決して誤ったものではなく、むしろあの差し迫った状況においては最善に近い選択だったのではないか、と考えることが出来る。



僅かな思考時間で「ギャルのパンティ」という願望丸出しの願いを割り込ませつつ、ローリスクな選択肢をきっちり選んでいる辺り、ウーロンというキャラクターはなかなか軽視出来るものではない。ともすればモブになりがちなお供キャラクターにも活躍の場面を与える鳥山先生の手腕、その才覚に感動を覚えるのは一人私のみであろうか。


上記までの議論をまとめると、



・ギャルのパンティ獲得はローリスクローリターンな選択肢である

・「ギャルおくれ」という願いは意外と危ないので注意が必要

・咄嗟にローリスクな選択をとるウーロンは思ったより思慮深いキャラなのではないか

・ところでギャルのパンティが割とシンプルだったのは、あれは誰の趣味なのか。神龍の好みである可能性も否定出来ない

・そもそもあのパンティはどこから現れたものなのか。神龍がどこかから持ってきたものなのか、妙な力で生成されたものなのか

・まあ、あれがどこかから持ってこられたものであり、今頃世界のどこかで突如誰かがノーパンになっている、と考えた方が夢や希望があってその分人類が平和に近づくと思う



という、このブログが始まって以来か、というレベルに激しくどうでもいい結論が導き出せるわけである。よかったですね。>私


今日はこの辺で。
posted by しんざき at 21:52 | Comment(18) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月16日

エリア88に見る、少年漫画的「さすが」というカタルシス または「最初から強い主人公」のお話

少年漫画には、というか漫画には、読む人を「気持ちよくさせる」「満足させる」要素がたくさん含まれている。ここでは、フロイトに倣ってこれらの要素をカタルシスと呼ぼう。


一般的な戦闘もの少年漫画において、勿論カタルシスの種類はたくさんあるのだけれど、大きなものとして二つ、対照的なカタルシスがあると思う。



「まさか」のカタルシスと、「流石(さすが)」のカタルシスである。



「まさか」のカタルシスというのは、要するに逆転のカタルシスだ。最初周囲から見くびられていた主人公が、「まさか」と思われる中強敵を倒すことによる気持ちよさ。弱かった主人公が、努力して超強くなる気持ちよさ。大ピンチに陥った仲間チームが、「まさか」と思われる大逆転をして勝利を収める気持ちよさ。


まあ戦闘もの少年漫画なんか、最終的には予定調和的に主人公が勝つものが大多数だとは思うけれど。それでも、そこに至る「まさか」という気持ちよさを演出するのは作者の腕の見せ所であり、この気持ちよさの大小がその漫画の面白さに影響する部分は大きいと思う。


昔、「少年漫画の「爽快感」について、または「はじめの一歩」の構造問題」でもこの辺の話は書いた。お暇ならご一読頂けると幸い。



一方で、「まさか」のカタルシスに対して「流石」のカタルシスというものもあるよなーと思って、その為に例として思いついたのがエリア88なのである、という話なのだ。



・エリア88とは。


戦闘機漫画の超傑作ですので読んでない人は読むべきだと思います。


中東のアスラン王国の外人傭兵部隊、作戦区域の名をとって「エリア88」と呼ばれる百戦錬磨の戦闘機乗り達の群像劇。


詳しくはWikipediaでも。





・エリア88における主人公の特性。


一言でいうと、エリア88は超強い人たちの集団だし、その中でも風間真は最初から超強い


この漫画において、主人公集団である傭兵部隊「エリア88」は全員が全員一騎当千のパイロット揃いであり、空戦能力では物語最序盤から最強である。これは、物語中盤以降、「プロジェクト4」などの強力な敵部隊が出てきた後も、基本的な構図としてはずっと変わらない。


そして、主人公である「風間真」は、物語の最初からエリア88のトップエースであり、「強い人たちの中でも特に強い人の一人」として描写されている。空戦能力で明確に「シン以上」として描写されているキャラクターは実は作中一人もいない(マリオとか微妙だが、生き残るのも能力の内、と明言されている)為、シンを「作品中最強」と考えてもおかしくはないだろう。


最強の主人公チームに最強の主人公。これがエリア88の主役勢である。



・エリア88における「カタルシス」の正体。


勿論最強だからといって無敵という訳ではなく、エリア88の傭兵たちや風間真は、時には苦戦するし時には撃墜される。補給が干上がって大ピンチになることもあるし、政治状況の変化によって、エリア88の存在自体が危うくなったりすることもある。そういった点で、細かい「逆転のカタルシス」はもちろんあるのだが、「周囲からみくびられている」ところからの逆転とか、「最初は弱い主人公が成長する」といった王道的逆転のカタルシスは、エリア88からほとんど切り捨てられているわけだ。



もし「逆転のカタルシス」を重視するのであれば、エリア88は「まだトップエースではなかった頃のシン」「戦闘機に乗り始めたばかりの頃のシン」が主人公でも成立した。当初は強くなかった主人公が、経験と努力を積んで強くなる、というのも少年漫画の一つの王道だ。



それに対して、「シンが最初から最強」であったことによって生まれた効果は幾つかあると思う。


一つは、物語描写上のリソース。「シンが強くなる」という過程を省いたことによって、エリア88序盤の物語展開は非常にシャープなものとなっている。「強いからといって即生き残れるわけではない」という傭兵部隊のシビアさとか、シンが傭兵部隊に入る経緯であるとか、傭兵部隊ならではの厳しい人間関係であるとか、色々なシビアな描写が物語当初から為されるのは、エリア88という漫画の重要な味の一つだ。これは、主人公が強くなる過程を描写しながらでは決して出来なかった描写だろう。



そしてもう一つが、「さすが」というカタルシスの存在、だと私は思うのである。



・少年漫画における「さすが」というカタルシスとは。


要は、「強い主人公・強い味方が期待通りの活躍をする」ということによる満足感。


最強の主人公キャラが圧倒的に敵をねじ伏せるという気持ちよさ。最強の味方チームが下馬評通りに優勝することによる気持ちよさ。



これは恐らく、「頼もしさ」とでもいうべき要素が根底にあるのではないか、と私は思う。あとは主人公、味方と自分を同一視した時の全能感とか。「凄いヤツ」という事前の評価を裏書きする楽しさとか。



エリア88において、シンや傭兵達は往々にして「流石」であるとか「噂通り」といった表現を使われたり、使ったりする。これは、作中で彼らに期待される役割が「最強の部隊」であり、かつその評価が満たされる活躍が描写された、という意味になる。まさにこれが、私の考える「流石というカタルシス」である。



こういったカタルシスは、勿論エリア88に限定されたものではなく、王道的な少年漫画でもいろんなところで描写されている。それは、主人公に対する頼もしい、あるいは超強力な先輩(例えばはじめの一歩における鷹村とか)であったり、あるいは時折登場するジョーカー的な味方キャラ(例えばるろうに剣心における比古清十郎とか)の活躍であったりする。


「主人公キャラが最初から強い」という漫画も当然色々あって、上で挙げたるろうに剣心だってそうだし、トライガンのヴァッシュも最初からガンマンとして最強だし、ヘルシングのアーカードなんかも最初から最後まで最強だし、他にもたくさんあると思う(勿論これは「主人公がそれ以上成長しない」という意味ではないし、「主人公がピンチにならない」という意味でもないが)。



そして、これらに通底する気持ちよさとして「流石」というカタルシスがある、と私は思っているわけである。




長くなったのでまとめてみよう。


・エリア88は超面白いので皆さん読みましょう。

・エリア88は「主人公が最初から強い」漫画であって、それでストーリーが深くなった部分とかあると思う。

・漫画には、「まさか」という逆転によって得られる気持ちよさと、「流石」という期待通りの展開によって得られる気持ちよさがある。

・「主人公が最初から強い」漫画では、「流石」という気持ちよさが結構大きいと思う。

・関係ないけど、シンをカテゴライズするとしたら「天然キザ」ではないかと声を大にして主張したい。

・サキがシンに「すまない、その塩とってくれないか?」と言う。シンは「投げるぜ、いいか?」といった後放り投げ、サキが受け取る。その何気ないシーンがなんとなく好きなので奥様にそう言ったら、「腐女子的資質があるってことだよ!」と突如興奮し始めた。やめろ!私に変な資質を見出すな!



なんか良くわからないけれどこんな感じにまとまったわけである。よかったですね。>私



今日はこの辺で。


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(関連)




posted by しんざき at 12:01 | Comment(15) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月29日

あなたが漫画版「風の谷のナウシカ」を読むべき三つの理由。

世の中には原作厨という生き物がいる。


ある作品について、映画版と原作があった場合、原作の方を無条件で信奉して、映画版だけしか知らない人に対して無闇に原作を勧める、あるいは映画版しか知らない人を見下す、といった行動をとる人たちであり、一般的には嫌われる傾向にある、と思う。



ところで、私はある三つの作品に関して原作厨である。


映画版しか知らない人を見下す気は毛頭ないが、少なくともこの三作について、映画版しか知らない人がいれば私は強力に原作を勧める。買え、と言う。買って読め、という。



その三つの作品とは、ゲド戦記、はてしない物語、そして風の谷のナウシカである。



本エントリーでは、映画版ナウシカと原作ナウシカの重要な違いをいくつか挙げ、以て原作ナウシカを読む理由として論じたい。Webにおいては気が遠くなるほどに既出話だろうが知ったことではない。一応、ネタバレは可能な限り避ける。



・理由その一:映画版には土鬼(ドルク)諸侯連合が出てこない。


そもそも映画版ナウシカは、全七巻構成である風の谷のナウシカの、二巻の時点で作成されたお話である。


その為当然といえば当然なのだが、お話は原作に比べて大幅に削られている(というかその時点で存在してない)し、登場しないキャラクター、描写されないエピソードも山ほどある。基本的には、3巻以降のエピソードは全て丸々映画版には存在しないと考えていい。



その中で、お話全体にとくに深くかかわってくるのが土鬼(ドルク)諸侯連合である。



原作において、ナウシカ世界は「二大勢力とその周辺勢力」の関わり合いを中心に描かれている。二大勢力というのはトルメキアと土鬼(ドルク)諸侯連合であり、風の谷はペジテ市などの他小都市と共に、基本的にはトルメキアに与する勢力「辺境諸国」として、二大勢力の争いに巻き込まれていく立場である。


この「巻き込まれる」というのが重要な点で、勢力としては「風の谷」も「ペジテ市」も徹頭徹尾脇役である。原作には、「辺境諸国」や「蟲使い」や「森の人」などを含め、様々な脇役勢力が山ほど登場する。そういった、「大小無数の勢力のそれぞれの代表者が繰り広げる群像劇」みたいな側面も、原作の重要な要素の一つだったと思う。



ところが映画版では、土鬼という二大勢力の片割れがすっぽり抜けている為、シナリオ上重要な場面となる「王蟲の暴走」を起こす勢力がペジテ市になっている。そして、風の谷はトルメキアから侵攻を受ける立場となっている。映画世界においては、「風の谷」と「ペジテ市」は、トルメキアと並んで完全に「物語の当事者」である訳だ。


結果的に、勢力図だけみると、映画版は「トルメキア」「風の谷」「ペジテ市」で完結してしまっている。


このことがお話に与える影響は大きい。土鬼の関係者が全部丸々出ないのは当然のことだとしても、原作における「ナウシカ世界の広さ」みたいなものは、映画版では完全に捨象されている。



世界の広さを味わえない。これが、「原作を読むべき理由」の一つ目だ。



ちなみに、断っておくのだが、私は「映画版も原作のような勢力立てにするべきだった」とは思っていない。


仮にナウシカが七巻まで出た後に映画版が作られていたとしても、映画版の構成はやはり二巻くらいまでにするべきだったと思う。二時間でそれ以上の内容を描くのは、何をどう考えても無理がある。二時間で起承転結を作るには、どうしてもシーンを絞る必要があり、その点「二巻まで」という区切りはストーリーとして恐らく最適だ。


とはいえ、映画版は映画版での完成形であるにしても、やはり原作での「ナウシカ世界の味わい」というものは是非読んでみるべきだ、と私は思う訳なのである。



・理由その二:映画版ではキャラクターの立ち位置がちがう。


端的にいうと、映画版ではクシャナさんが悪役である。



その一で述べた勢力の描写の問題で、映画版の劇中、トルメキアは「風の谷に侵攻してきた大敵」として描写される。その為、クシャナさんは「当面の敵のボス格」という扱いであった。これは大きな問題だ。



勿論原作においても、登場当初クシャナさんは悪役寄りの立ち位置だった。ただ、彼女の目的は飽くまで秘石であって侵攻ではなかったし、族長のジルはトルメキア軍によって殺されたりはしなかった。かつ、2巻までの時点でも、クシャナさんは要所要所で器の大きさを見せつけていたし、映画版にところどころあるような悪役的台詞もほとんど見られなかった。


ちなみに、クロトワさんの扱いも随分異なる。原作においては、クロトワさんは当初「トルメキア上層部同士の確執」を体現するような立ち位置にあった。トルメキア上層部のさまざまな思惑がクロトワさんを通じて描写されることによって、クシャナさんのキャラクター、クシャナさんの事情にも深みが出ていた訳である。


クロトワさんが切れ者っぷりを随所随所で発揮し、クシャナさんとの駆け引きの末、クシャナさんの部隊の参謀格に納まる絡みは、非常にいい味出しまくりな原作名シーンの一つであると思う。

「それとも破滅への罠か」のくだりは、映画版の聊か芝居がかった台詞よりも、原作の方がシブくてかっこいい、とか思ったりもする訳である。



一言でまとめると、クシャナさんもクロトワさんも原作の方がかっこいい。



そのあたりについても、映画版では相当部分が捨象されている。仕方ないこととはいえ、少々残念だ。クシャナさんがナウシカの裏の主人公であることは今更言うに及ばないが、特に3巻、4巻辺りの主人公は間違いなくクシャナさんとクロトワさんである。読むべきである。



・理由その三:3巻以降には怒涛の名シーンが山ほどある。


勿論1巻、2巻にも十分に名シーンはあり、それは映画版に生かされている訳なのだが、正直なところ3巻から向こう、ナウシカは怒涛の展開、名シーンの連射である。



なにをどう言おうと、映画版には第三軍の攻城戦がない。マニ族の僧正やチャルカが出てこない。ケチャやセルムが出てこない。粘菌が出てこない。神聖皇帝ズが出てこない。皇兄とユパ様の絡みがない。クロトワとミトたちの絡みがない。ヴ王も出てこない。オーマが出てこない。当然ながら墓所すら出てこないわけである。こればっかりはどうにもフォローの仕様がないところなのである。


その一で挙げた土鬼(ドルク)諸侯連合にも、本来味のあるキャラクター達が山のように登場し、それぞれに様々な思惑を持って動きまわっている訳だ。そういった、「広いフィールドで、たくさんのキャラが動き回っている感」も、原作版ナウシカの重要な味の一つだったと思う。読むべきである。



ところで、超個人的になのだが、「映画版より原作の描写の方が好みでない」というキャラクターが一人だけいる。


主人公のナウシカである。


様々なところで言われているとは思うが、原作中盤以降、ナウシカは少々重いものを抱えこみ過ぎ、キャラクターから若干人間みを失っているように感じる。まあシナリオ上仕方ないことなのだとは思うし、その分周囲のキャラクターが魅力あり過ぎなのでいいのだが。この辺りは、是非原作をお読みになってご判断頂ければと思う。



ということで、あなたが映画版ナウシカを見ている見ていないはもはやあまり関係なく、とりあえず「風の谷のナウシカ」全7巻を買って通読すべきである、と再度断言して、このエントリーの〆としたいと思う。



はてしない物語についてはまたいずれ。






posted by しんざき at 19:23 | Comment(6) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月30日

レッドリボン軍はどうすれば世界を征服することが出来たのか。

ドラゴンボールの話なんですが。



レッドリボン軍とはなにかというと、世界征服を企む悪の軍団である。




ドラゴンボールの作品中、レッドリボン軍は「世界最悪の軍隊」との評価を持ち、世界各地に轟く悪名がお茶の間でもおなじみであり、警察や軍隊でも手が出せなかったとの描写が見える。おそらく、現在でいうメキシコマフィアのような存在だったのだろう。


ところが、世界征服の手段としてドラゴンボールの探索に手を出したことをきっかけに悟空と衝突し、最終的には悟空一人に本部にカチ込まれ、あっさり壊滅する。「一部の超強い人たちに比べれば軍隊とかお笑いでしかない」というのがドラゴンボール世界の特徴だと思うが、その典型的な被害者であると言える。


この記事では、「レッドリボン軍はなぜ世界征服できなかったのか」「レッドリボン軍が世界征服する為にはどうすればよかったのか」ということをなんとなく考察してみたい。



1.世界征服の定義と行動目標設定


レッドリボン軍の首脳陣が「世界征服」のゴールラインとしてどこを設定していたのかは今一つ判然としないが、ドラゴンボールの世界設定を参照するに、

地球全土は、ひとつの連邦国家として統治されている。
連邦国家における中央集権体制によって全権を握っているのが、キングキャッスルに住む国王[6]である。
という記載がある為、ピッコロ大魔王が行ったような「キングキャッスルの攻略と実権の奪取」が一つのマイルストーンになるのだろうと思われる。


キングキャッスルの戦力は、例えばピッコロとかセルのようなチート戦闘力の保有者にしてみればデコピン一つで壊滅させられる程度のものではあるが、一般的な軍隊として考えれば精強なのだろうと推測出来る。一応、「ドラゴンボール世界の一般的な軍隊の中では最強」というくらいの格付けとして考えておこう。


ここでは、仮に


・キングキャッスルの軍隊を攻略すること

・キングキャッスルの支配状態を維持すること


を、世界征服の一つの定義としてみる。



2.レッドリボン軍の失敗の原因


Wikipediaにドラゴンボール世界の年表があったので、ちょっと当たってみる。



エイジ750
4月18日
レッドリボン軍のシルバー隊がドラゴンボール探索を始める。
5月7日
第21回天下一武道会開催。ジャッキー・チュンが優勝。
砂漠にあるピラフの秘密基地においてレッドリボン軍が六星球を手に入れる。
牛魔王の村で悟空がチチと再会(無印)。
ギラン一族のグルグルガムによりせき止められていたナムの村の干上がった川が、孫悟空により流れ始める(無印)。
5月8日
レッドリボン軍のマッスルタワーが、悟空により壊滅する。
5月9日
ペンギン村で悟空とブルー将軍が闘う。ブルー将軍、則巻アラレに撃退される[2]。
聖地カリンの闘いで、ボラが桃白白に殺される。悟空、桃白白に敗れる。
5月10日~5月12日
悟空がカリン塔に登り修行。
5月12日
悟空、桃白白を倒し、レッドリボン軍本部も壊滅させる。
占いババの宮殿で、悟空が亡き孫悟飯じいちゃんと再会する。
悟空、神龍によってウパの父ボラを生き返らせる。

結論から先に書くと、レッドリボン軍の最大の失敗は「ドラゴンボールを探し始めたタイミング」だったのではないか、と考えられる。


上でも書いたが、ドラゴンボール世界は、基本的に「一部の超人が暴力的なまでに強く、一般的な戦力はそれと比較すれば単なるお笑い」という世界である。


そこから考えると、超人候補の一人である悟空が、順調に超人として成長していく過程で「ドラゴンボール探しの競争相手」として登場してしまい、遠慮会釈なく悟空を敵に回してしまった時点で、既にレッドリボン軍の最終的な敗北は決定事項となっていたと考えていいだろう。


物語中盤以降、例えばナメック星編辺りで皆が地球のドラゴンボールのこととか忘れてそうな時期にドラゴンボールを集めていれば、意外とあっさり集め切れたんじゃねーの、とか思わないでもない。タイミングが悪すぎた訳である。



といっても、まだ物語序盤の時点では悟空の戦闘力もたかが知れたものであった訳であり、逆転のチャンスもなかった訳ではない。例えば桃白白がちゃんと悟空にトドメをさしておけばー、とかそういう想定も出来る。


とはいえ、たとえこの時点でドラゴンボールを集め切って世界征服をしていたとしても、結局数年後にはピッコロがしゃしゃり出てきたり、更にその後には空からラディッツが落っこちてくることを考えれば、数年天下に終わる可能性が高いことが考えられるだろう。短期的な目標達成ならともかく、長期的な世界征服の維持を考えるならば、間違っても良策とは言えない。


つまり、そもそも「ごく一般的な悪の軍隊であるレッドリボン軍が、一般的な状況で世界征服をし、世界征服状態を維持する」という手法をとる時点で、次から次へと強敵がぽっと出てくるドラゴンボール世界では、どこかで崩壊することが決定づけられている。この方法ではダメなのだ。



3.レッドリボン軍はどうすれば世界を征服することが出来たのか。


じゃあどうすればいいの、という話で。


チート戦力に対抗できないのであれば、チート戦力に対抗せずに済む方法を考えるか、自分もチート戦力を保有するか、のどちらかの方法しか取ることは出来ない。


魔人ブウまで考慮に入れると流石に無理ゲーだが、最低限ピッコロやラディッツ程度に対抗出来る戦力は、と考えれば、レッドリボン軍側にも戦力が想定出来ない訳ではない。そう、レッドリボン軍にはドクター・ゲロがいる。


人造人間シリーズやセルはドクターゲロが作ったのだ。曲りなりにもチート戦力を開発出来、軍が壊滅すれば復讐に燃える程度の忠誠心をもった技術者が自陣営にいるのだから、それを利用しない手はない。


ドクター・ゲロがそもそもセルや人造人間シリーズを作った動機が「レッドリボン軍を壊滅させた悟空達への復讐」だったという時点でifとしては微妙だが、取りうる戦略としては、


・ドクターゲロが人造人間17号や18号を完成させるまでひたすらおとなしく地方で万引きでもして時間をつぶしておき、完成したらチート戦力として運用する


という手が一応ある。全てはドクター・ゲロ頼み。いけいけドクター・ゲロ。頑張れドクター・ゲロ。


17号や18号やセルがレッド総帥の命令を聞く可能性は本当にあるのか、とかそういう難しい話は一旦おいて置く。



次に、「チート戦力に対抗せずに済む方法」があるかどうか、ということを考える。


要するに、世界征服状態になってもチート戦力に目をつけられなければそれでいいのだ。ドラゴンボールにどの程度の万能性があるかが問題だが、悟空達が地球のドラゴンボールのこととか忘れてる間にこっそりとドラゴンボールを集めて、「レッドリボン軍が世界征服してるのが普通な世の中に」とかそういう願いを叶えてもらうことが出来れば、それで目標は達成出来るかもしれない。


ただこの際は、


・神様は生存していること

・ピッコロ大魔王は退場後であること


の二点の条件が必要であり、これが意外と難しい。ピッコロ大魔王と神様は一心同体なのであり、ドラゴンボールは神様がいないと効果を発揮しない。デンデが来た後は当然チート戦力ズが地球に駐留中である。


と考えると、


ピッコロや悟空などのチート戦力がナメック星に行く程度の時期までひたすら万引きでもして時間をつぶし、チート戦力が地球外に行ったらこっそりドラゴンボールを集め、願いを叶えてもらう


という戦略は意外と現実的なのではないかと思う。



大概長くなったのでまとめてみる。


・ドラゴンボール世界は基本的に悪の軍団に優しくない。

・というか、通常の軍隊戦力全般に優しくない。

・レッドリボン軍世界征服は基本的に無理ゲー。

・ドラゴンボール集めは競争相手がなるべく少ない時を狙うしかない。

・ドクター・ゲロをおだてあげて頑張ればある程度なんとかなるかも知れない。

・なにはともあれチート集団不在の時期を狙うべき。


という、もう心底どうでもいい結論が出せるわけである。よかったですね。>私


今日はこの辺で。
posted by しんざき at 19:24 | Comment(18) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月18日

では、後藤隊長はいかにして特車二課第二小隊をまとめているのか。

当然のことながら続きがあるわけだ。こちらを書かないと話が終わらない。


昨日のエントリーでも触れたが、「機動警察パトレイバー」という作品には、非常に特異な上司キャラクターが、内海さんの他にもう一人いる。そう、他ならぬ主人公たちの上司、特車二課第二小隊の後藤隊長である。


後藤隊長は第二小隊を束ねる立場であり、物語当初からその「不気味なおじさん」的雰囲気を遺憾なく発揮しているキャラクターでもあり、知略に長けたキャラクターでもあり、普段はだらけており、締める時は締め、サンダル履きでその辺を闊歩していたりする。初期は随所随所でギャグを挟むキャラクターだったが、後半になるにつれて「切れ者」の側面がクローズアップされていったように思う。


私自身は、この後藤隊長こそ「機動警察パトレイバー」という作品が生んだ最も「味のある」キャラクターであり、前回の内海課長と並んで「影の主役コンビ」とでも言うべき立ち位置なのではないかと思っているのだが、まあ個人的な感想はとりあえず置いておく。


後藤隊長は、所属しているのが警察組織という時点でちょっと特殊ではあるが、それでもマネージャーな訳であり、彼のマネージャーとしてのスタンスを分析してみる、というのも面白そうな議論になりそうだ。


前回の内海課長と比較する形で、「後藤隊長はどうやって第二小隊をまとめているのか?」という点について、やはり漫画・映画内部の展開に触れながら考えてみたい。既出かも知れないけどまあ気にしない。



・内海課長との比較を中心とした、後藤隊長の特徴。


まず最初にこの二人を比較してみよう。この二人には、共通している点もあるが、割と対照的な部分も多い。てきとーに抽出してみる。


a.内海課長も後藤隊長もキレモノである。

b.内海課長も後藤隊長も基本的には緩く寛容であり、あまり部下を叱責しない。

c.内海課長程には後藤隊長は世渡り上手ではない。

d.内海課長は基本的に趣味全開の人だが、後藤隊長はゆるいように見えて、趣味やプライベートが殆ど見えない。周囲との間にそれなりに壁がある。


それに加えて、後藤さんにはマネージャーとして、以下のような特徴があると思う。


e.自分で直接指導/フォローするというよりは、「部下(熊耳さんや遊馬)を示唆して指導させる」という描写が多い。

f.上記と関連して、人事配置に意を用いる描写が多い。

g.後藤隊長は有事と平時の使い分けがはっきりしている。



読んで字のごとくのものが多いが、いくつか触れてみたい。


a.内海課長も後藤隊長もキレモノである。
後藤「つまりだ。暴走事故がプログラムのバグの結果ではなく、意図的にプログラムされたものだったら、と言っとるんだよ」
まず、これについては言うに及ばない。内海課長が「知略に長けた趣味の人」であるのに対し、後藤隊長は往年のカミソリ後藤である。物語の随所随所で出してくるそのめったやたらに深い洞察には、読者の度肝を抜くこと甚だしい。



b.内海課長も後藤隊長も基本的には緩く寛容であり、あまり部下を叱責しない。
後藤「俺は強制や命令は、嫌いだからね」
これにもそれ程特筆するべき部分はない。ただし、同じ寛容さでも、内海課長と後藤隊長の寛容さは根本的な部分で異なっているようにも思える。


前回エントリーでは私は、内海課長の寛容さは「人心掌握の一貫」ではあるまいかという推測を書いた。一方後藤隊長は、cでも触れることだが、あまり積極的に「人心を掌握」しようとしているように見えない。少なくとも、「うまくコミュニケーションをとって、思うように動いてもらおう」というスタンスは、後藤隊長にはあんまりない。


一方、後述するが、後藤隊長には「人員の配置」に意を用いる描写が多く、「キャスティングをやった後は役者の自主性に任せる」というようなスタンスがある。その点、「支配していないように見えて支配している」内海課長とは対照的であると思う。内海さんは「非委任型の緩さ」後藤隊長は「委任型の緩さ」とでも言うべきであろうか。



c.内海課長程には後藤隊長は世渡り上手ではない。


社長や極東マネージャーなど数多い人脈をバックにしている内海課長に対して、後藤隊長はそれ程人間関係の立ち回りには長けていない。というより、そもそも人間関係での「立ち回り」にそこまでのリソースを割いていないように見える。


劇場版1の台詞だが、
片岡「それがわからんのですよ。だいたい警備部の依頼で捜査課の人間が動くなんて、あの後藤っておっさん、ありゃ何者ですか」
松井「カミソリ後藤ってな、本庁じゃ有名なワルさ」
片岡「そんな切れ者が、何で埋立地なんかでくすぶってるんです」
松井「だからさ。切れすぎたんだよ」
この辺の展開でも分かるとおり、後藤隊長は保身とか如才ない立ち回りとは基本的に無縁な人なわけであり、その点も内海課長とは対照的である(内海さんは自由奔放に見えて、極東マネージャーなど有力なコネに対しては一切逆らっていないが、そういう描写が後藤さんにはない)


課長の説教を受け流したりであるとか、のらりくらりと色んなことをかわしている様にも見えるが、案外人間関係的には不器用なところがある人なのかも知れない、と思える。



d.内海課長は基本的に趣味全開の人だが、後藤隊長はゆるいように見えて、趣味やプライベートが殆ど見えない。周囲との間にそれなりに壁がある。


これは読んで字のごとく、後藤隊長は劇中でもっとも謎の多い人物の一人である。内海課長は結構、プライベートと仕事を区別していないように見受けられる部分があるが、後藤隊長はとにかく劇中(つまり仕事中)プライベートの気配を見せない。この辺、内海課長がとかく「壁を作らない」人であるのに対して、後藤隊長はある程度「壁を作って」いるようにも見える。勿論、普段は緩くいー加減な感じなわけで、話しかけにくい上司かというと全然そんなことはないのだが。


この辺は、内海さんと後藤隊長の立ち位置の差にも原因があるかも知れない。内海さんが「趣味で悪役をやっている人」ならば、後藤さんは「仕事として正義の味方をやっている人」なのだ。描写に違いがあっても当然といえばいえる。



さて、ここからは後藤隊長独自の描写から読み取れる部分である。



e.自分で直接指導するというよりは、部下(熊耳さんや遊馬)を示唆して指導させるという描写が多い。

f.上記と関連して、人事配置に意を用いる描写が多い。
後藤「あー」「進士じゃ太田を抑えられんか…」
後藤「カウンセリングはお前がやれ」篠原「俺がですか?」後藤「パートナーでしょ」
後藤「答える義務はないけどね…」「ミスキャストがあったら監督は降りるぜ」
人事面のお話である。


後藤隊長は、正面切って部下の指導や精神的フォローをすることは、実はあんまりない(時々遊馬と飲みにいったり、野明を諭したりはしているが)。ただ、人事配置に気を使って、部下の動きが結果として上手く回るようにという試みや、あるいは誰かを示唆してその人に他の部下をフォローさせる、といった行動は頻繁にやっている。


例えば、物語序盤で、太田機のバックアップを進士さんから熊耳さんに変更したりであるとか。一方、今度はショック療法を狙って太田と遊馬を組ませてみたりであるとか。


熊耳さんを野明と同居させてみたりであるとか、野明の自信喪失を遊馬にバックアップさせたりであるとか。


警察組織なので当然といえば当然だが、巡査部長である熊耳さんをナンバー2(本人曰く学級委員)に設定して、細かい人間関係のフォローは熊耳さんにやってもらう、といった描写が目立つ。つまり後藤隊長のスタンスは、「チームではお互いにお互いをフォローさせる」という点に尽きるのではないかと思う。人のキャスティングには気を使って、後は部下の自主性に任せる。この辺り、マネージャー的というよりは野球チームの監督的だ。そして、なによりも「部下を信頼している」という一点の証左でもある。


この辺の、人事に関する試行錯誤という描写は内海課長にはない。まあ、これは劇中描写の問題であって、実際は黒崎くんをナンバー2に据えることを含めてあーだこーだやったのかも知れないが、どちらかというと「そこまで気を使ってない」ように見える。


一方、内海課長に見られた「ギャップ」は、多少性質が違うが後藤隊長にもある。


g.後藤隊長は有事と平時の使い分けがはっきりしている。
後藤「おい、のぼせるなよ」「仕事の順番間違ってるんじゃないか?」
南雲「まったく感心しちゃうわねー」後藤「なにが?」南雲「後藤さんのタフさ加減よ」「いつ寝てるの?」後藤「普段。」
普段は昼行灯で通っている後藤隊長だが、その分有事の際真剣になるとその迫力は強烈である。まあ警備の人なのだから有事と平時の切り替えがあるのは当然っちゃ当然なのだが、それでもその「落差」には強烈な印象が残る。


4巻で初めてグリフォンが登場した時の、普段とはうって変わった真剣な表情を始めとして、どこかに余裕を残しながらも「締める時は締める」上司として、部下に「有事の際は頼れる」という姿を見せることによって、後藤隊長が信頼を得ている部分は間違いなくあるであろう。別に計算して行われていることではないだろう、と思うが。


まあ、「普段実力を隠している人がたまに真剣になる」というのは、「チャラチャラした若者が席を譲るといい人に見える」理論と同様、ギャップ効果として有効なんじゃないかなあ、という結論は内海課長と共通していると思う。



簡単にまとめてみると。


・後藤隊長は、内海課長程には人間関係上の立ち回りに長けていないように思える。

・後藤隊長のスタンスは、どちらかというと「上手い具合に人事をキャスティングして、後は各々の自主性に委ねる」「自分が直接フォローするのではなく、チームのメンバーを示唆してフォローさせる」というスタンスであるように思える。

・これは部下を信頼していないと出来ないことだなあ、と思う。

・「平時はのらりくらり、有事には真剣」というギャップは後藤隊長にもあって、その点が隊員の信頼感を補強している点はありそう。ギャップ重要という点は内海さんと同じ。

・後藤さんの名言は数ありますが、「みんなで幸せになろうよ」とか「富士山が見えそうだ」とか好きです。

・後藤さんは不気味かっこいいですよね。特に劇場版1の後藤さんは神がかっていた。


うん、最後の方関係ないね。


二日続けて長文になりましたが、とりあえずこれくらいで。

posted by しんざき at 18:41 | Comment(19) | TrackBack(3) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月17日

内海さんはいかにして企画七課をまとめているのか。

「機動警察パトレイバー」をご存知ない方には間違いなくワケワカラン話であることを先にお詫びしておく。読んだことがない人は読んでみるべきだと思う。面白いので。




以下、基本的に漫画版準拠の話である。長文なのでお暇な時に。


内海さんとは一体誰のことかというと、「機動警察パトレイバー」という漫画・アニメの登場キャラクターである。


内海さんは悪役である。そして、内海さんは課長である。巨大国際企業「シャフト」の企画七課を束ねる立場であり、様々な策略謀略権謀術数を巡らしつつ、グリフォンとイングラムを戦わせて遊んだり、上司をおちょくって遊んだり、特車二課を襲撃したり、たまに南米に飛ばされたりする。



基本的には内海さんは「趣味で悪役をやっている」人物であり、それは作中「悪役らしくなってきたなあ」といった台詞や、「知略に長けた趣味の人」といったコピーにも現れている。彼は組織人であると同時に趣味の人なのだ。色んな創作の中でも特異な「悪役」であり、同時に特車二課の後藤隊長と並んで、非常に特異な「上司」キャラクターでもあると思う。



作中最大の悪役、かつ作中最強の遊び人として描かれる内海さんなのだが、彼は曲がりなりにも組織人なわけであり、部下もちゃんといる。そして、展開を見る限り、彼には結構企画七課内での人望があるようで、曲者揃いと見える企画七課内で、内海課長に逆らう者は殆どいない(黒崎くんが稀に逆らうが、彼は内海課長一の忠臣でもある)。


また、彼はシャフト社内でもきちんと立場を築いているようであり、偉いさん達の前でプレゼンしたり、社長から庇いだてされたり、極東マネージャーのような人脈をもっていたりする。



一見のらくらと、自分の趣味だけの為に日々をすごしている内海さんが、いかにして企画七課をまとめているのか。マネージャーとしての内海さんを分析してみるというのは、なかなか興味深い議論になりそうだ。


本エントリーでは、「マネージャーとしての内海課長」に着目して、作中の幾つかのシーンを題材に、彼の人心掌握術の秘密を探ってみたい。



私が考える内海課長の「マネージャーとしての特徴」は以下の通りである。


a.滅多に笑顔を絶やさない。自分が「趣味人」であることを周囲に隠さない。

b.上記に加えて、自分にも他人にも基本的に寛容であり、雰囲気的には非常に緩い。

c.基本的に部下と目線が同じ。また、部下を趣味に巻き込む。

d.上司に対して公然と意見を言う/逆らう姿勢を部下に見せる。

e.冷徹な時は冷徹であり、それを隠さない。


一つ一つ見ていってみよう。尚、引用する台詞は諸事情により基本的に記憶頼みで書いている為、細部の正確さを欠く点についてはご容赦頂きたい。


a.滅多に笑顔を絶やさない。人とのコミュニケーションに非常に気安い。

b.上記に加えて、自分にも他人にも基本的に寛容であり、雰囲気的には非常に緩い。
後藤「年がら年中笑ってるような男らしいよ」
内海「怒るなよ。こっちだって腸が煮えくり返る思いなんだから」森川「すいません、とてもそうは見えなかったもので…」
内海「ちょっと間が悪かったかね、ゆっくりでいいよ」

内海課長の基本的なスタンスは、「笑顔」と「緩さ」だと思う。彼は滅多に笑顔を絶やさない。そして、彼は滅多に部下を叱責しない。


内海さんは悪役らしからぬ社会性の高さで一部に著名だが、まずその重要な点として、作中で描写されている範囲だけでも非常にコミュニケーション能力が高いことが挙げられるだろう。ゲーセンで偶然出会っただけの野亜と遊馬に平気な顔で声をかけ、自分を監視にきたSSSのメンバーを丸め込みにかかり、部下は口説くわ上司はだまくらかすわ、とにかく話術に長けている。


悪人が交渉術に長けているのはよくあることだが、内海さんの特徴としては、笑顔がもたらす柔和さが、会話のし易さに拍車をかけている、ということが言えるだろう。彼の表情は「顔自体が笑ったような作り」などと熊耳に評されているが、その辺を利用している部分もあるのかも知れない。


特に部下に対しては滅多にキツい口調にならないことも合わせて、まずはその「一見した甘さ」というものが部下やその他とのコミュニケーションを助けていることが推測出来る。



c.基本的に部下と目線が同じ。また、部下を趣味に巻き込む。

内海「ぼくがいない間、何をすればいいか分かってるね?」
黒崎「わかってますよ」「何もしなければいいんでしょ?」
細かい話なのだが、内海課長は部下と会話をする時、あんまり部下との目線に「段差」を作らない。


例えば、引用台詞、内海課長が南米に行く直前、部下とことの顛末を話し合う際にも、全員思い思いにつったったり机に寄りかかったり、立ち話の風情である。その場には通常の会議のようなフォーマットはなく、また内海課長と課内のメンバーの間に立ち位置の差もない。


これ以外にも、彼が部下、あるいは部下的立ち位置の人と話し合う場面は、基本的に非常に「気安い」。例えば、グリフォン開発者の磯口や森川と輪投げをしながら話し合ったり、コーヒー飲みながら秘密工場で青砥たちと悪巧みをしてみたり、とかく部下との間に心理的な壁を作らない人物であることが伺える。
「僕達からグリフォンを奪った報いだ。安い代償じゃないか」
上記は、野亜のイングラムとグリフォンの初対決の後、SSSのトラックを爆破した後の台詞だ。これも細かい話だが、内海課長は企画七課や自分の周囲を「僕たち」と規程する発言を随所で行っている。


本来は自分ひとりの趣味で色んな悪事を行っている彼なのだが、上記の心理的な壁の薄さと合わせて、黒崎くんたちやグリフォン開発者を「僕達」の一部として趣味的な悪事に巻き込んでいくのは、彼の一つのテクニックなのではないかと私は考えたりする。


つまり、自分の「緩さ」と「敷居の低さ」を軸に、企画七課という集団の「サークル化」を行っているのではないか、という推測がひとまず出来る。



d.上司に対して公然と意見を言う/逆らう。また、その姿勢を部下に見せる。

e.冷徹な時は冷徹であり、それを隠さない。
内海「こちらの尻に火をつけた人がいまして、専務…」「あんたが悪いよ。」
内海「あんな暴力バカどもが何人死んだところで、どれ程の損失だ」
上記では「甘さ」「緩さ」とサークル化で部下との敷居を低くしているという話を書いたが、一方内海さんは、「サークルの外部」に対しては結構冷徹であり、悪役らしい悪役っぷりを発揮したりもする。


勿論内海さんは勤め人なので、基本的には徳永専務辺りから命令がきたらちゃんと従うのだが、場合によってはざっくりと逆らったり、公然と敵愾心を表明したりする。あと、徳永専務の顔をがんがん蹴りつけたりする。いや、あれはちょっと状況が特殊だが。


上記サークル化と合わせて考えると、


・内向きの集団を「我々」と規程した上で、外部に「敵」を作成することで、内向きの集団をまとめる。

・普段の「甘さ」との差分としての冷徹な一面を表明することによって、いわゆるギャップ効果を演出している。


という推測が出来る。


集団がまとまるのに最も必要なのは敵、というのはよくある話なのだが、内海課長は特に物語後半、特車二課、あるいは徳永専務をはじめとするシャフト上層部を「敵」と設定して立ち回っている節がある。これも、企画七課という集団をまとめる一助になっていると考えることは不自然ではないだろう。


また、以前恋愛におけるギャップ効果の話が盛り上がったことがあった。突き放されたり優しくされたりといった感情動作が繰り返されると、ギャップ効果によって恋愛感情が盛り上がる、というような話である。


上記のギャップ効果とは少々話が違うが、「内向きには甘い」「外向きには厳しい」といった姿勢が、部下の掌握に役立っていると見ることが出来る。甘さと冷徹さを巧みに使い分けることを、内海課長が人心掌握術の一貫として用いているという推測も可能であろう。




まとめると、内海課長は「笑顔と緩さを軸にして「内向きの甘さ」と「集団のサークル化」を演出している」「それに対して、外部集団を敵として設定し、敵愾心を表明することによって、内向きの結束力を高めている」といったような、割とどうでもいい結論が導けるのではないかと思った次第である。よかったですね。>私




言うまでもないことだが、上記は全て私の勝手な想像なので、妥当なのかどうかは勿論知らない。あと劇場版、実は2より1の方が好きだったりするんですが皆さんいかがですか。零式かっこいいですよね。



続き書きました。



posted by しんざき at 18:30 | Comment(14) | TrackBack(4) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月16日

能力系の漫画がインフレしにくい理由。

作者の発想力の限界がインフレの限界だから。



昨日のエントリーの続きというか補足というか。はてブでこんなコメントを頂いたので、自分でもちょっと考えてみた。

Layzie 考察 同時期に人間では無理!な技出してたジョジョがあるけど、インフレしてないのも面白いよね。ワンピースも実はジョジョとかと同じ流れだと思ってる。特殊能力の制限的な意味で。最近違うようになってるけど。
先に断っておくと、私はそもそも「インフレ展開」が悪いことだとは思わない。むしろ、少年漫画の性格とインフレ展開は方向性が合致しており、批判されるとしたら「画一的な展開描写」の方であるべきだと思っている。(参照:少年漫画考 その二・「インフレ経済学」の崩壊)


その上で、「インフレ」という部分に絞って考えてみると。当然のことだけれど、天井があればそれ以上に強さはインフレしない。


昨日のエントリーで「ステゴロでの限界」と書いたのはまさにこれで、素手での格闘には「素手で出来る範囲内での格闘描写」という厳然たる「インフレの天井」がある。バキの様な絵であればまた話は別だが、ドラゴンボールという舞台においては、この天井を越えたキャラクターを出すのは難しかった筈だ。


インフレ展開は、そもそも「強い敵を出す為」のものである。そこから考えると、「天井下のドラゴンボール」ではどんな強敵が出現可能か。


「素手」という縛りの元では、例えばピッコロ大魔王はそこまでの猛威を奮えない。天津飯すらちょっと厳しい。ヘタをすると桃白白辺りが天井になるんではないか。それはそれでアリだと思うけど。



ジョジョやある時期からのハンターハンターの様な「能力バトル漫画」では、インフレ展開が基本的に起こりにくい。多分理由は幾つかある。


・能力バトル漫画の面白さの肝は、「能力の特殊性」「特殊な能力がどう活躍するか」にある。

・よって、作者は「能力の特殊性」を描写しなくてはいけない。つまり、特殊な能力と、その能力が活躍する為の舞台を考えなくてはいけない。

・必然的に、「パワーの数値的な強弱」だけで勝負を成立させることが出来ない。「何故その能力が勝ったか」の理由づけを考えなくてはいけない。


例外も色々あるだろうけど、多分大筋ではこんな感じなんじゃないかと。


例えばジョジョで言うと、第三部以降、大部分の戦いにおいて基礎的なパワーは主人公側が上回っている。それでも主人公側はしばしば苦戦する。それは何故かというと、舞台が能力バトルであり、戦闘の有利・不利はパワーだけでは決まらないからだ。


典型的なところで、例えば第三部のダービー戦。戦闘自体は承太郎がダービーを殴り倒せば一秒で終わるが、そこでお話が終わらないのは、「ギャンブルでの勝負」という搦め手の舞台に乗らざるを得ない展開になったからだ。ジョジョはこういう搦め手の舞台だらけで、搦め手だからこそ輝く敵が山ほど描写されている。


こういう状況では「戦闘力」の様な形でのインフレは発生しない。これも同じく当然の話で、「作者の発想」と「作品の成立」という二つのバランス以上に強力な敵は存在出来ないから。


能力バトル漫画の作者は、作品をぶっ壊さない程度に、説得力のある「強力な敵」を描かなくてはいけない。その上で、面白い能力バトルの舞台を作ってその敵を主人公達に打ち破らせなくてはいけない。いってみれば、能力バトル漫画というものは「作者にとっての頭脳戦」なのである。新人漫画家さんの挫折率が高いことも当然といえば当然なのである。



「作者の発想」がちょっと不調をきたし、「作品の成立」とのバランスが揺らぐ時、能力バトル漫画もインフレを起こす。「強すぎる能力」というものが描写されてしまうのである。能力バトル漫画において、強すぎる能力は作品を破壊する爆弾である。能力をころころ変えることが出来ない以上、「主人公の成長」によって「強すぎる能力」を打破することは難しいから。戦闘力のインフレとは比べものにならない、言ってみれば少年漫画的なタブーだ。


例えばジョジョの話をすれば。ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムは間違いなく能力的インフレを起こしていたが、あれは第五部のラストだったから問題はなかった。メイド・イン・ヘブンもラスト近かったが、あれは正直かなり際どいラインだったと思う。


一方のハンターハンターは、敢えて「戦闘力」的要素を取り入れてそちら方面でのインフレを起こすことによって、能力的なインフレを避けようとしている様に見えた。例えば現状、キメラアントさん達は戦闘力的にインフレしきっているが、それは「能力的インフレ」ではないので「能力バトル」という土俵上では逆転の目はいくらでもある。ここからどう転がっていくのか知らないけれど。


ワンピースも能力バトル漫画だと思うけれど、こちらは正直「自然(ロギア)系」が軒並み能力的インフレを起こしている気がする。もっとも、「ボス的キャラクター」のロギア系には明確な弱点が設定してあったり、それ以外のロギア系とは直にやり合う展開にならなかったりで、上手いこと展開でフォローしている様に見える。ハンターハンターと同じく、この先どうなっていくのかは当然分からない。最終的には海楼石というワイルドカードが効果を発揮したりするんだろうか。



そういえば、ワンピースもハンターハンターも、能力バトル漫画でありながら「戦闘力」的指標を取り入れている。ワンピースでは「賞金額」ハンターハンターでは「オーラ」である。


最近の能力バトル漫画では、二つの指標でバランスをとりながら話を展開するのがスタンダードになりつつあるのかなあとか思ったけど、これはまあ思いついただけだから別にいいや。



補足のつもりが、なんかまた長くなってしまった。一行目で結論は書いたので、今日はこれくらい。

posted by しんざき at 16:07 | Comment(17) | TrackBack(1) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月15日

ドラゴンボール的「転回」とウルトラマンの関係。

後期のドラゴンボールには「技」がないな、とふと思った。



格闘漫画としてドラゴンボールを考えると、ある時点からちょっと特殊な方向に行くことが分かる。通常の格闘漫画なら当たり前にある筈の、腕や足を使った「技」が消えるのだ。序盤では普通にあった、ジャン拳であるとか猿拳であるとか、狼牙風風拳といった技が影も形もなくなるのだ。


その代わり何が出てくるかというと、「必殺技」だ。「光線技」だ。かめはめ波とかギャリック砲とかヘルズフラッシュとか、手とか目から色々出るあーゆーソレだ。


多分この現象は、最初の天下一武闘会辺りから既に傾向として現われていたと思う。それでも悟空とジャッキー・チュンの決着は、最後はなんだかんだで体術でついたが、以降の天下一武闘会では、体術的な「技」がメインで出てくることはほぼなくなる。突きや蹴りでの「どつきあい」は純然たる前座となっていき、戦いの主要な部分は光線気弾の乱れ飛びで構成される様になるのである。


Wikipediaに面白い項目があったので、ちょっと参照リンクをしてみる。




スクロールバーを見れば一目瞭然といえるだろう。「体術系の技」と「気功弾、光線系の技」のこの圧倒的な数の差はどうだ。天空X字拳の置いてけぼりっぷりに悲哀を感じずにはいられない。



「前座としての格闘技」「メインを飾る光線技」というキーワードを考えると、ふと思い浮かぶ作品がある。そう、「ウルトラマン」である。


ウルトラマンファミリーは、怪獣としばらくの間空手や柔道を使ってじゃれあった後、時間内きっちりにスペシウム光線や八つ裂き光輪を使って怪獣にとどめをさす(たまにさせないこともあるが)。これは様式美でもあり、ウルトラマンの凄さを表現する為の演出でもあり、「必殺技による分かりやすい決着」を描く為の手順でもあった。


ドラゴンボールという漫画は、格闘漫画にウルトラマン的手法を持ち込んだ作品といえるのではないかと私は考える。



少し思考を前に戻してみよう。



ドラゴンボールに先立つ格闘漫画としては、例えばタイガーマスクが、そしてその後継としてのキン肉マンが思い浮かぶ。


キン肉マンという漫画において、登場人物達は人間ではない。超人である。超人であるが故に、彼らは通常の漫画的表現の束縛から自由になった。敵を月まで吹っ飛ばそうが、ホールの天井まで軽々ジャンプしようが、誰も文句が言えない世界がそこにはあった。



しかし、彼らは手から色々出さない。目から色々出さない。時折「何か出てきた(レインボーシャワーとか)」ことがあったとしても、それはキン肉マンという漫画においては飽くまで「搦め手」であって、最後に勝負を決めるのは体を使った「技」であり、「スープレックス」であり、「ツープラトン」であった。


これは、キン肉マンの超人たちが演じる戦いが、徹頭徹尾「プロレス」であったからに他ならない。彼らはそのフィールドから一歩たりとも出ることはなかった。これはこれで、キン肉マンとはそういう作品なのだから批判される様なことではない。



一方のドラゴンボールは、当初存在した「拳法」という呪縛を、かめはめ波という技を突破口として木っ端微塵にしてしまった。


ドラゴンボールはインフレ的演出の元祖の様に言われることが多い。だが、そもそもドラゴンボールがインフレ「出来た」のは何故か?格闘漫画にウルトラマン的手法を持ち込んだから、「手とか目から色々出る」という技が喧嘩のメインになったからこそ、ドラゴンボールはインフレすることが出来たのである。光線と光線がぶつかって大爆発を起こしたり、山が吹っ飛んだりクレーターが出来たりしたからこそ、当時の読者は「戦闘力●●万」という数字に説得力を感じることが出来たのである。


ドラゴンボールの「インフレ展開」、いってみれば数値戦は、通常の格闘漫画から「ウルトラマンと格闘漫画の折衷」的漫画に変化したからこそ生まれ得たものだった。「気弾」とか「衝撃波」といったテーマと、鳥山先生の描画力が組み合わさったからこそ描けた展開だった。


「パンチやキックのみで一切光線とか出さないけど超強いフリーザ」など想像出来るだろうか。「気を一切使わない」筈の人造人間編ですら、戦いのメインはすぐに光線だのファイナルフラッシュだのという方面に移っていった。これは、何よりも「ステゴロだけでは表現出来る強さに限界がある」という絶対的な制約の為に生じた展開でもあろう。



ということで、まとめてみる。


・ドラゴンボールの、「どつき合う」→「手から色々出す」という展開はウルトラマン的だと思う。

・ウルトラマン的要素を導入することなしでは、ドラゴンボールの「インフレ展開」はありえなかった。

・ウルトラマンのパロディとしてスタートしながら、ウルトラマン的にならなかった格闘漫画がキン肉マンだなあとも思ったよ。

・ところでマンモスマン悪役化しちゃうの?ウォーズマン死ぬの?

・ウォーズマンってホント人気の割に貧乏くじばっか引いてる印象がありますよねー。

・ところで天空X字拳のナムさんのこともたまには思い出してあげてください。



そろそろ昼休みも終わるのでそんな感じで。

posted by しんざき at 12:54 | Comment(9) | TrackBack(1) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月15日

書評もどき:レイ・ブラッドベリ「十月はたそがれの国」



改めて書く程のことじゃないかも知れないが。



ホラーの肝は、「踏み越えさせ方」である。



あらゆるホラーに共通していることだが、「最初から非日常」というホラー作品は、基本的にあんまり怖くない。開幕から恐怖シーンが上映されているホラー映画を想像してみるといい。最初っからジェイソン大暴れの13金は、単なる怪獣映画でしかない。最初からリング終幕の映像が流れていたとしても、普通の人は「なにそれ」と思うばかりだろう。怖さは、日常の、少なくとも日常に準ずる導入があって初めて演出される。



それは何故かというと。ホラーの怖さというのは、落ちる恐怖、つまづく怖さだからである。観客は、最初は「日常」という磐石な足場に立っている。同じく、舞台がSFであろうが異世界であろうが、ホラーの導入も「日常」の上に立っており、それによって読者の視点を作品の中へと誘っている。「日常」といういつもの足場に立っている筈が、気付くと崖との境界を踏み越えていた、暗い谷底に落ち込んでいるまさにその瞬間だったという、その無重力感がホラーの怖さなのだ。



「十月はたそがれの国」。久々にブラッドベリを読みたくなって、ラファティやケストナーと一緒に図書館から借りてきた。もう何度も読んでいる作品ではあるが、読む度に引き込まれる。ちょっと書評の真似事をしてみたくなった。


ブラッドベリは、勿論ホラー作家ではない。かといってファンタジー作家という訳でもないし、ひょっとするとSF作家ですらないかも知れない。ただ、たとえば本書で著されている「ファンタジーホラー」とでもいうべき作品群において、彼の「踏み越えさせ方」は、並のホラー小説の比ではない。


そこには、最初から「境界線の向こう側」が見えている。読者には、何かが違う、何かがおかしいというのが見えているのだ。しかしそれは半透明の膜の向こう側で展開されている様なもので、読者の立ち位置は「日常」から一歩も出ていない。読み進めていく内に、読者も気付かない内に「踏み越え」は済んでいて、読者は結末まで読み進んでから「ここだったのか」という無重力感を味わうことになる。


「怖さ」をメインにおいた作品ではないものが多いので、絶対量として「怖い」という程ではないが、この無重力感はブラッドベリの味のひとつだと私は思う。この辺のギャップの演出というのは、「何かが道をやってくる」の様な長編小説でもあちらこちらに盛り込まれている気がする。

「彼らはどこから来たのか?闇路からだ。彼らはどこへ行くのか?墓場だ。血が彼らの血管を脈うたせるのか? 否、夜の風だ。」(レイ・ブラッドベリ「何かが道をやってくる」)
訳者に負う所も多いなあとは思う。というか、ブラッドベリ作品を訳す訳者さんって大変だなあと。ラヴクラフト作品よりはましかも知れないけど。


いくつか、ネタバレにならない程度に収録タイトルに触れてみる。


「骨」:骨が痛む男の話。無重力感の真骨頂。正直後味は悪い。ただ、この話に関しては、冒頭の挿絵も無しではないと思う。


「使者」:体の弱い少年と、彼に外の空気を連れてくる犬の話。最後でちょっと訳が失敗している気がする。原文読んでみたい。


「群集」:交通事故の周囲に、常に現れる不思議な群集の話。都市伝説チック。寒気の演出、かな。


「びっくり箱」:古い田舎家に住む母子の話。叙述トリック、か。読み返した時のギミックの多さに驚く。


「大鎌」:訪れた家で、老人の遺体と、耕すべき畑と、大鎌を見つけた男の話。星新一が何かの作品で本歌取りをしてた様に思う。


「ある老母の話」:ホラーに類すると思うんだけど、ティルディ伯母の余りの強引さが全てを弾き返しているお話。


「集会」:ポォ的な世界観。


「ダッドリー・ストーンのふしぎな死」:この作品だけ、なんつーか他と違うなーと。全然違うなーと。いや、最後にこれというのは、まさに「デザート」という感じで私はスキなんですけど。


最盛期で突如執筆を絶った小説家が、自らその理由を語るお話。これ、やっぱりブラッドベリ自身の願望なんでしょうか。どっちかというと「ウは宇宙船のウ」の様な、割と爽やかなお話。



この辺で。また「ウは宇宙船のウ」辺りにも触れてみたい。




posted by しんざき at 10:35 | Comment(3) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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