要は、勇気がないんでしょ?
[悪意]id:guri_2という、こいつが生きているからこの世界は駄目なんだというような糞野郎を、このリルリルが貴重な時間を浪費して罵倒してあげる
この辺を見ていて、ふと思ったこと。
ここしばらく、「ポジティブ vs ネガティブ」であるとか、「生き方強者 vs 非生き方強者」という様な論争を頻繁に見る。
まず第一に。当たり前の結論から先に言うと、こういった「生き方」的なものを一般化することは本来不可能である。
人間の人生というのは、生まれた瞬間から扇形に枝分かれしていく。生まれた当時は同じ赤ん坊でも、「ある人の十年」と「他のある人の十年」が同じである可能性は、当たり前だが皆無である。
経済状況から現在の環境、好み、人間関係、果ては思考から性格まで無限のパターンが存在するのに、「ある人にとって適した生き方」が「他の人にとっても適した生き方」である可能性が、一体どれだけ存在するというのか。
世の中のあらゆるライフハックからは、「このライフハックは、飽くまで著者にとって有効だったライフハックであって、あなたにも適合するかどうかはさっぱり保証出来ませんよ」という但し書きが抜け落ちている。
勇気のある無しだ、ポジティブだネガティブだ、その辺の話は一から十まで「人それぞれ」という言葉でしか表現し得ないものであって、「正しい・正しくない」ではなく「適している・適していない」という軸でしか語り得ないものである。
しかし、ブログの文言として表現する際に「人それぞれ」とか「私の場合は」とか、いちいち全ての言葉に注意書きを付加していたら鬱陶しくて仕方ないから。ある程度一般化しないとテキストとして格好のつけ様がないから、人は「生き方」議論を一般化するのだ。本来は不可能なことなのである。
これ自体は、別に悪いことではない、と思う。表現の話だ。
で。
ライフハックの発信者の側には、上記の「本来一般化には無理がある」という当然の前提を、把握している人もいれば把握していない人もいる。「自分だけの、自分にとっての理想のスタンス」が他人にとっても理想のスタンスである筈だ、と考える人は、意外なことに割といる様なのだ。そういった人は、「他人も自分の様に生きるべきだ」という確信をもって、自分の生き方を啓蒙する。
勿論そうでない人もたくさんいて、そういった人は「これは飽くまで俺の場合だけど」という逃げ道をどこかに残しつつ、最大限の一般化を試みる訳だ。
それに対して、ライフハックの受信者の側にも、「わかっている人」と「わかっていない人」が、多分、いる。
「一般化の無理具合」を認識している人は、「自分にとっての話」としては生き方議論を受け取らない。冷めた目線であれ、暖かな目線であれ、彼らがライフハックに向けるのは他人事を見る視線だ。勿論、発信者の一般化に無理を感じれば、そこに反発する人もいる。これは多分「アホか、それはお前にとっての話だろう、押し付けんな」という形をとると思う。
「一般化の無理具合」を認識していない人は、生き方議論を「自分にとっての話」として受け止めてしまう。時には頑張ってその「生き方」を実践しようとして、あるいは成功し、あるいは失敗する。そして時には、「生き方」の一般化の無理っぷりを認識しないままに、「何でこんな生き方を押し付けるんだ」「その生き方はおかしい」という種類の反発をする。
私は、上のリンク先の様な議論を見ていて、こう思う。
思考遊びとして「生き方」議論をするのは面白い。けれど、「生き方」は否定出来ない。そして「生き方」は押し付けられない。
「誰かにとって」の正解は、「あなたにとって」の正解じゃない。
上記リンクに対する反応であるとか、ブクマその他のコメントを見ていると、「一般化」に伴う負荷が妙に過大になっている様な、そんな気がする。人の生き方を自分に当てはめ過ぎる人もいれば、妙に過剰に反発する人もいる様な、そんな風に見える。勿論、「人は人」という前提の上で、人の生き方のいいとこ取りをすることは悪いことではない、とも思うのだが。
もしかすると皆わかっていてやっているのかも知れず、その場合私の様な頓珍漢は野暮の極みを言っていることになるのかも知れんが、ちょっと前提を確認しておきたくなった訳だ。
「無理は承知の上」なのかなあ、と。
関連:「個人的な問題でも一般化したい病」について
2008年03月18日
2008年03月09日
ブログの加齢を考える。
ちょっとじじむさいことを考えてみたくなったので、考えてみることにする。
一般論として、「年をとる」ということは、人生の総量における「過去分」のパーセンテージがどんどん増加していくということである。
およそ老化に伴うありとあらゆる現象は、上記段落の延長で表現可能だ。体の老化は、身体的な「過去分」アーカイブが蓄積していくことによって発生する。精神的な老化、例えば物事に新鮮味がなくなっていくというのは「人生経験」という過去分の蓄積によるもの、と表現することが可能である。
勿論、この「過去分の蓄積」にはいい面も悪い面もある。過去分のアーカイブがいい感じに溜まって、その人のレベルアップに寄与する加齢を即ち成長と呼ぶ。過去分のアーカイブが量的に澱んで、その人の在り方に様々な制限を加える加齢を即ち老化と呼ぶ。
「経験を活かして次に繋げることが出来る」ことが成長で、「経験に制約されて次に踏み出せなくなる」ことが老化、かも知れない。
ブログも、多分、成長もすれば老化もすると思う。いい感じに過去分のテキストが溜まっていって、読んでくれる人も増え自分の文章にも幅が出る、というのが「成長という加齢」だ。過去分のテキストに縛られてそこから外れたものが書けなくなり、段々ブログを書くのが面白くなくなってしまう、というのはおそらく「老化という加齢」だろう。
ブログを成長させる為にはどうすればいいだろう。
多分、話は「過去ログを活かす方法」「過去ログとの付き合い方」ということになっていくんだろうと思う。既出、既出が気になってキーボードが重くなってくれば、それは老化。過去ログの方向性が気になって、新しい発想が書けなくなってくれば、それは老化。
一般化する気は全然ないけれど、例えばこういうやり方をすればいいのかなあ、という方法はいくつか思いついた。
・過去ログの「続き」を考える。
・過去ログと今の自分の「差分」を検証する。それをネタに思考を発展させる。
・過去ログへのリンクをガンガン貼る。過去ログを根拠にエントリーを書く。
・既出を怖がらない。既出=補強と考えて憚らない。
・「専門性」を求めて来てくれる読者を意識し過ぎない。専門性に幻想を抱かない。読者を信頼する。
なんかあんまり実行してない気もするな。
大体読んだままだが、例えば5番目。一昔前、「ブログを書くコツ」的な話で、「専門性が高ければ高い程受ける」みたいな項目があったと思う。これ自体は間違いじゃないと思うし、自分の強みを持つというのは重要なことだとも思うけれど、これを「初心者の為の言葉」に位置づけてしまった点については、功罪で言うと罪の方が大きかったんじゃないかと私は考える。
専門性は諸刃の剣だ。ブログの専門性が高ければ高い程、そのブログが話題的に煮詰まっていく可能性も上がるし、発想を発展させることも難しくなる。
そして、「専門性が高いから読者が来てくれるんだ」と考えてしまうと、リピーターが離れてしまうことを恐れてますます「外れた」記事を書きにくくなってしまう、という側面も結構あるんじゃあるまいか。
大抵の書き手の専門性なんて、突き詰めたところで高が知れている。大多数の読者は、そのブロガーの専門性ではなく、そのブロガーが発する言葉を読みに来ていると、私はそう思うけれど。心配しなくても、読者は読まない時は読まないし、読む時には多少外れてても読んでくれるさ、と、私はそう思うけれど。
ということで、不倒城的には次の様な方針になる。
・専門性とかあんまり気にしないで、書きたいことをガンガン書く。
・過去ログは、まあ、たまに読み返す。それで何か思いついたら書く。
・気が向いたら過去ログにリンクを貼る。
アレ?上で書いたこと全然実行してなくね?
それはそうと。上の議論とは一度断絶するけれど、そういえば、昔世話になった編集者さんがこんなことを言っていた。
「一週間前の自分は赤の他人」
文章を書く上では、まあそういう考え方もアリなんだろうなあ、と。
2008年03月03日
ただ口汚いだけのテキストを、「毒舌」というラベルで救済するのはそろそろやめにしようよ
世界があまり変わらないのでブログやめようかと思う
汚い言葉、というか。問題は汚い言葉じゃなくて、「強い言葉」と「汚い言葉」を混同している人、だと思う。汚い言葉を使うことの印象だけに目がくらんで、その印象が説得力を強化するという幻想を抱えて。
そして、その混同を自覚しないままに、自分の文章の吐き散らし方を「芸風」「持ち味」だと思い込んでしまう人、でもあると思う。前者がレベル1なら後者はレベル2だ。
レベル3になると、ただ思い込んでしまうだけならまだしも、これが自分の芸風なのだと周囲に喧伝してしまう人、という称号を入手してしまう。この辺にくるとそろそろ引き返せない。後戻りをしようにも、振り向けば「過去ログ」という巨大な障害が、天を衝かんばかりにそびえたっている。
誤解を恐れずに書くとすれば、「毒舌」という言葉が随分安くなったなあ、と思う。理由はよく分からないが、いつごろからか、単に口汚いだけのテキストを指して「毒舌」という言葉が割り振られる傾向が強くなってきた、気がする。単に暴言を書き連ねているだけの文言に「毒を吐く」というラベルが貼られている現場をよく見かける様になった、気がする。
違うだろう、と。それは「毒舌」という言葉に失礼だろう、と、私は思う。利用価値の無い毒など存在しないのだ。毒舌が毒舌である為には、そこに薬になる成分が含まれていないといけない。毒舌なんてラベルを、そんなにお気楽に使っちゃいけないのだ。
お気楽に用いられた「毒舌」ラベルは、単なる暴言をごくありふれたレベルの文言として免罪し、次から次へと「ただ汚い」言葉を量産していく。それこそ伝染病の様に。
口汚さが説得力を高めるなんてことは絶対にない、と私は思っている。むしろ、口汚いテキストというのは、ただそれだけで重大なハンデを抱えている、と私は思っている。「口汚い」というポジションは、あまりに明確過ぎるから。そこに客観性を乗せるのは至難の業だから。
だというのに、口汚さが説得力を高めると勘違いしてしまう人の数が減ることはない。その理由のひとつが、「毒舌」というラベルにあるんじゃなかろうか、とも私は思うのだ。
凄く念の為に書いておくと、私は「毒舌」が嫌いではない。「毒」を読みたくないと思ったことは一度もないし、言葉狩りをする意図もない。毒も薬も、Webの面白さの重要なエッセンスだ。
ただ、自分のことを毒舌家だと考えている人には、自分のブログのカテゴリーに「毒舌」という一項を用意している人には、一度は立ち止まって頭を傾けて見る義務がある、と私は考える。
この言葉は本当に「毒」を称するにふさわしい言葉なのか、と。
単なる「汚れ」だったりはしないよな、と。
政治的な左右を問わず、相変わらず汚い言葉で自分の感じている正義を主張する大小の声にちょっとうんざりして。こちらを読んで、ふと思ったこと。ブクマでもそのまんま書いたことだし、正直タイトルの時点で完結してしまってる訳だが。
汚い言葉、というか。問題は汚い言葉じゃなくて、「強い言葉」と「汚い言葉」を混同している人、だと思う。汚い言葉を使うことの印象だけに目がくらんで、その印象が説得力を強化するという幻想を抱えて。
そして、その混同を自覚しないままに、自分の文章の吐き散らし方を「芸風」「持ち味」だと思い込んでしまう人、でもあると思う。前者がレベル1なら後者はレベル2だ。
レベル3になると、ただ思い込んでしまうだけならまだしも、これが自分の芸風なのだと周囲に喧伝してしまう人、という称号を入手してしまう。この辺にくるとそろそろ引き返せない。後戻りをしようにも、振り向けば「過去ログ」という巨大な障害が、天を衝かんばかりにそびえたっている。
誤解を恐れずに書くとすれば、「毒舌」という言葉が随分安くなったなあ、と思う。理由はよく分からないが、いつごろからか、単に口汚いだけのテキストを指して「毒舌」という言葉が割り振られる傾向が強くなってきた、気がする。単に暴言を書き連ねているだけの文言に「毒を吐く」というラベルが貼られている現場をよく見かける様になった、気がする。
違うだろう、と。それは「毒舌」という言葉に失礼だろう、と、私は思う。利用価値の無い毒など存在しないのだ。毒舌が毒舌である為には、そこに薬になる成分が含まれていないといけない。毒舌なんてラベルを、そんなにお気楽に使っちゃいけないのだ。
お気楽に用いられた「毒舌」ラベルは、単なる暴言をごくありふれたレベルの文言として免罪し、次から次へと「ただ汚い」言葉を量産していく。それこそ伝染病の様に。
口汚さが説得力を高めるなんてことは絶対にない、と私は思っている。むしろ、口汚いテキストというのは、ただそれだけで重大なハンデを抱えている、と私は思っている。「口汚い」というポジションは、あまりに明確過ぎるから。そこに客観性を乗せるのは至難の業だから。
だというのに、口汚さが説得力を高めると勘違いしてしまう人の数が減ることはない。その理由のひとつが、「毒舌」というラベルにあるんじゃなかろうか、とも私は思うのだ。
凄く念の為に書いておくと、私は「毒舌」が嫌いではない。「毒」を読みたくないと思ったことは一度もないし、言葉狩りをする意図もない。毒も薬も、Webの面白さの重要なエッセンスだ。
ただ、自分のことを毒舌家だと考えている人には、自分のブログのカテゴリーに「毒舌」という一項を用意している人には、一度は立ち止まって頭を傾けて見る義務がある、と私は考える。
この言葉は本当に「毒」を称するにふさわしい言葉なのか、と。
単なる「汚れ」だったりはしないよな、と。
2008年01月30日
正しい陰口の叩き方
はてブのコメントが陰口とかちゃんちゃらおかしいですよ、HAHAHA。
率直に言って、「はてなブックマークのネガティブコメントが陰口かどうか」というレベルでの議論をしている人は、そもそも陰口というものを理解していないと言わざるを得ない。陰口素人、陰口ノービス、アマチュアかげぐちゃーである。
陰口の真髄とは何か。それは本人には直接届かないということであり、めぐりめぐって何かの拍子に本人の耳に入る、ということこそまさに陰口を陰口たらしめるエッセンスな訳である。
めぐりめぐるサイクルに本人の意図が届き得ない不快感、発生源が不明瞭ないやらしさ、反論の仕様がない理不尽な情報伝達方式、こういった要素なしに陰口を陰口とは呼ばない。
そこから考えると、アクセス履歴から僅か1クリックで手が届くはてブにおけるネガティブコメントなど、陰口から最も遠い位置にあるテキストであると言う他ない。本人の目の前で、正面切って悪口雑言たれているのとそれ程変わらない。喧嘩を売るのも買うのも大いに結構だと思うが、それを陰口のつもりで行うのは重大な錯誤であると言えよう。
Webにおける「距離の短さ」というものを舐めてはいけない。Web上の人にWebで意見する、という時点で、そこに陰口など成立しない。
少し話は変わる。
この辺の距離感の錯覚というものは、Web全域に渡って色々な問題を発生させている様にも思う。「陰口」のつもりで書いた文言が怖い人達に目をつけられて、大炎上してさあ大変、みたいな状況は凄く頻繁にみる。
何故炎上するかというと。Webにおいて、Web上で強い人々に目をつけられてしまうから炎上する訳である。
どうせ陰口を叩くなら、徹底してネチネチとやるべきなのである。相手が反撃手段をもっているところで陰口を叩いて、かつ反撃されてからあわてふためいてどうするのだ。卑屈さ成分が足りない。未熟極まると言わざるを得ない。
つまり、「正しい陰口の叩き方」というのは以下の一文に集約される。
・Webで強い人はリアルで批判し、リアルで強い人はWebで批判するのが正しい陰口だ!
あ、私ですか?陰口は本人の目の前で言う様にしてますけど。
このエントリーは陰口ですか?いいえ、クリリンです。
率直に言って、「はてなブックマークのネガティブコメントが陰口かどうか」というレベルでの議論をしている人は、そもそも陰口というものを理解していないと言わざるを得ない。陰口素人、陰口ノービス、アマチュアかげぐちゃーである。
陰口の真髄とは何か。それは本人には直接届かないということであり、めぐりめぐって何かの拍子に本人の耳に入る、ということこそまさに陰口を陰口たらしめるエッセンスな訳である。
めぐりめぐるサイクルに本人の意図が届き得ない不快感、発生源が不明瞭ないやらしさ、反論の仕様がない理不尽な情報伝達方式、こういった要素なしに陰口を陰口とは呼ばない。
そこから考えると、アクセス履歴から僅か1クリックで手が届くはてブにおけるネガティブコメントなど、陰口から最も遠い位置にあるテキストであると言う他ない。本人の目の前で、正面切って悪口雑言たれているのとそれ程変わらない。喧嘩を売るのも買うのも大いに結構だと思うが、それを陰口のつもりで行うのは重大な錯誤であると言えよう。
Webにおける「距離の短さ」というものを舐めてはいけない。Web上の人にWebで意見する、という時点で、そこに陰口など成立しない。
少し話は変わる。
この辺の距離感の錯覚というものは、Web全域に渡って色々な問題を発生させている様にも思う。「陰口」のつもりで書いた文言が怖い人達に目をつけられて、大炎上してさあ大変、みたいな状況は凄く頻繁にみる。
何故炎上するかというと。Webにおいて、Web上で強い人々に目をつけられてしまうから炎上する訳である。
どうせ陰口を叩くなら、徹底してネチネチとやるべきなのである。相手が反撃手段をもっているところで陰口を叩いて、かつ反撃されてからあわてふためいてどうするのだ。卑屈さ成分が足りない。未熟極まると言わざるを得ない。
つまり、「正しい陰口の叩き方」というのは以下の一文に集約される。
・Webで強い人はリアルで批判し、リアルで強い人はWebで批判するのが正しい陰口だ!
あ、私ですか?陰口は本人の目の前で言う様にしてますけど。
このエントリーは陰口ですか?いいえ、クリリンです。
2007年12月07日
書くということは、読む人の時間を削り取ること。
昔、出版業界の端っこの端っこくらいでバイトをしていた時、色んな人の言葉をつぎはぎして思ったこと。
本を買ってもらうということは、お金をもらうということだ。
本を読んでもらうということは、時間をもらうということだ。
お金は返すことも出来るかも知れないが、時間は決して返金出来ない。だから、文章を書くということには、ある人の人生をその時間分削りとるという覚悟が要る。
今、私は何かを書く仕事はしていない。その代わりブログを書いている。
お金をもらうこともないし、お金を払うこともないし、それでも読んでくれる人はいる。それは本当にありがたいことだと思うんだけど、「人生を削りとる覚悟」というものは、依然として、あるいは前以上に重要であり続けている。「読みたくない人は読まないだろう」というのは全くその通りなんだけど、書き手がそれを拠り所にするのは単なる逃避だ。
長文を書くのは、本当に怖い。長文を読むのに必要な時間に見合うものを、果たして私は提供出来るだろうか。出来たかも、と思うことも、出来なかったんじゃねえかなあ、と思うこともある。それでも、ゼロよりは符号つきの数字の方がましだろうと信じて、私は送信ボタンを押す。
私は今後も書きたいことを書き続ける。誰かの為ではなく自分の為に書く文章も、正直結構ある。ただ、書きたいことをブログという「読んでもらえる」場所に書く以上、覚悟はいつも忘れないでいようと思う。
私の文章を読んだことで削られた人生の、その十分の一にでも見合うものを、私の文章を読んでくれる人に差し出せます様に。
本を買ってもらうということは、お金をもらうということだ。
本を読んでもらうということは、時間をもらうということだ。
お金は返すことも出来るかも知れないが、時間は決して返金出来ない。だから、文章を書くということには、ある人の人生をその時間分削りとるという覚悟が要る。
今、私は何かを書く仕事はしていない。その代わりブログを書いている。
お金をもらうこともないし、お金を払うこともないし、それでも読んでくれる人はいる。それは本当にありがたいことだと思うんだけど、「人生を削りとる覚悟」というものは、依然として、あるいは前以上に重要であり続けている。「読みたくない人は読まないだろう」というのは全くその通りなんだけど、書き手がそれを拠り所にするのは単なる逃避だ。
長文を書くのは、本当に怖い。長文を読むのに必要な時間に見合うものを、果たして私は提供出来るだろうか。出来たかも、と思うことも、出来なかったんじゃねえかなあ、と思うこともある。それでも、ゼロよりは符号つきの数字の方がましだろうと信じて、私は送信ボタンを押す。
私は今後も書きたいことを書き続ける。誰かの為ではなく自分の為に書く文章も、正直結構ある。ただ、書きたいことをブログという「読んでもらえる」場所に書く以上、覚悟はいつも忘れないでいようと思う。
私の文章を読んだことで削られた人生の、その十分の一にでも見合うものを、私の文章を読んでくれる人に差し出せます様に。
2007年12月06日
人は何故、体験談や経験談に「釣り」「ネタ」と指摘せずにはいられないのか。
あなたは、あるいは私は、何の為に「釣り乙」「ネタ乙」というコメントを書き込むのだろうか。放流される予定の魚に、「お前は釣られたんだぞ」と言い含めてやる理由は何だろう?
はてな匿名ダイアリーであるとか、2ちゃんであるとか。
主に匿名畑の掲示板でよく見るのだが、何か体験談、経験談っぽいものが書き込まれ、それにある程度以上の反響や共感が集まった場合、その中には「釣り」「ネタ」と指摘する声が割とある。結構ある。大体ある。
「釣り」「ネタ」というのは、この場合は「実話ではない、創作・妄想」という様な意味になると思う。体験談・経験談に対して「実話じゃないでしょ」「(釣り|想像|妄想)でしょ」と指摘する・あるいは野次る声をしばしば見る、という話である。
その「声」には、きちんとした根拠と説得力を備えたものもあれば、そうでもないものもある。
考えたいことは、大きく分けて二つある。
・釣りを指摘する効果について。
・釣りを指摘する意味について。
順番にいこう。
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はてな匿名ダイアリーであるとか、2ちゃんであるとか。
主に匿名畑の掲示板でよく見るのだが、何か体験談、経験談っぽいものが書き込まれ、それにある程度以上の反響や共感が集まった場合、その中には「釣り」「ネタ」と指摘する声が割とある。結構ある。大体ある。
「釣り」「ネタ」というのは、この場合は「実話ではない、創作・妄想」という様な意味になると思う。体験談・経験談に対して「実話じゃないでしょ」「(釣り|想像|妄想)でしょ」と指摘する・あるいは野次る声をしばしば見る、という話である。
その「声」には、きちんとした根拠と説得力を備えたものもあれば、そうでもないものもある。
考えたいことは、大きく分けて二つある。
・釣りを指摘する効果について。
・釣りを指摘する意味について。
順番にいこう。
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2007年11月28日
「NGワード機能=ツンデレホイホイ」説。
実は「NGワードに入れればいいじゃん」と言う防御線を張る為に存在している気がするんですよね、アレ。
順番にいこう。
・NGワード機能とは何か。
例えば2ちゃん専用ブラウザ等に実装されている、「NGワードが含まれているレスは非表示にする」という機能。NGワード自体は自分で設定して、それが含まれているレスは存在しないものとして扱われる。
・何の為にあるのか。
一般的には、荒らしのID・名前などを設定して、荒らしが書き込んだレスを丸ごと飛ばす為に存在するものだとされている。されているのだ。
勿論それは嘘ではない。ないのだが、この機能、実際の所荒らしに反応したくてたまらない人対策としての効用の方が大きい気がする。
何度か書いているが、世の中には「憤慨したくてたまらない人」というのがたくさんいるし、「スルーしたということを強調したくてたまらない人」というのもたくさん存在する。2ちゃんにおける、「そういう人々」の含有率は割と高い。
「そういう人々」は、シカトレベルが高い人ならば反応もしない様なレスにいちいちつっかかり、スレを(一部の人にとって)大混乱させたりする。荒らしであろうがなかろうが、本筋から外れた話を延々させられるのは、スレの住人にはたまったものではない。
しかし、そこにはNGワード機能がある。燦然と輝いている。
彼らは、言われる。「そんなに気に入らないならNGにしろ」と。
彼らは、言う。「今日のNGリスト=○○」と。
勿論、実際には彼らはNGリストに追加などしていない。憤慨や負の感情を求めてネットをする人は、決して本心では「気に入らない書き込み」をスルーしようなどと思わないものなのだ。しかし、現に「スルーする方法」はそこにある。彼らは、「自分がスルーしたこと」を周囲にアピールしたいという、ただそれだけの為にNGリストという言葉を使う。
これこそがツンデレホイホイである。
表面的には「NGワード化」して自分のスルー力を周囲にアピールしてしまったものだから、彼らにとって「気に入らない書き込み」は不可視になった。しかし、彼らは憤慨に飢えて止まない。実際には見えない筈の「気に入らない書き込み」を貪る様に読み、憤慨し、しかしツンデレホイホイに引っかかった彼らには、それに言及する術がない。
その結果、彼らはホイホイの中であがく訳である。「レス番飛びまくりwww」と。
スレを正常に運用するにあたって、NGワード機能というのは二重の防御力を発揮しているといっていい。一つは、荒らしに対して。もう一つは、荒らしに反応せずにはいられない人々に対して。実際に使われるかどうかには何の関係もなく、荒らしに反応せずにはいられない人々は、「NGに入れろ」の一言で黙らざるを得なくなる。
この辺、私は2ちゃん及び2ちゃんブラウザの性悪説構造の中に、極めて高い完成度を見る。流石、荒らしが常態化した環境での歴史を積み上げてきただけのことはあるなあ、と思う。思うのだが、NGワード機能の発祥がどこなのか知らんので、実際に誰をリスペクトするべきなのかは謎である。
まあ、それはいいや。話変わって、はてなブックマークについてである。
最近、はてなブックマークにおいて「NGワード機能つければいいんじゃね?」と思うことが多くなった。
特定のIDのブックマークコメントを不可視にする機能はあるみたいだけど、あるNGワードに反応してエントリーごと不可視にする機能は、どうやらまだないみたいだ。
はてなブックマーク界隈にも、「憤慨や負の感情を求めて」注目エントリーを見ている人は、たくさんいる様に思える。別にそれ自体は悪いことだとは思わないけど、それに加えて、「じゃあ読まなきゃいいのに」と思う様なコメントをつけられる方もたまにいらっしゃる。
そういった人に対して「NGに入れればいいんじゃないですか?」という呼びかけを行った時、ホイホイは果たして効力を発揮するのか否か。気になる。
関連:人は何故、「読むと不快になる文章」をわざわざ読みたがるのか。
mixiと2ちゃんの比較論
ブログ観測者問題・追加。
順番にいこう。
・NGワード機能とは何か。
例えば2ちゃん専用ブラウザ等に実装されている、「NGワードが含まれているレスは非表示にする」という機能。NGワード自体は自分で設定して、それが含まれているレスは存在しないものとして扱われる。
・何の為にあるのか。
一般的には、荒らしのID・名前などを設定して、荒らしが書き込んだレスを丸ごと飛ばす為に存在するものだとされている。されているのだ。
勿論それは嘘ではない。ないのだが、この機能、実際の所荒らしに反応したくてたまらない人対策としての効用の方が大きい気がする。
何度か書いているが、世の中には「憤慨したくてたまらない人」というのがたくさんいるし、「スルーしたということを強調したくてたまらない人」というのもたくさん存在する。2ちゃんにおける、「そういう人々」の含有率は割と高い。
「そういう人々」は、シカトレベルが高い人ならば反応もしない様なレスにいちいちつっかかり、スレを(一部の人にとって)大混乱させたりする。荒らしであろうがなかろうが、本筋から外れた話を延々させられるのは、スレの住人にはたまったものではない。
しかし、そこにはNGワード機能がある。燦然と輝いている。
彼らは、言われる。「そんなに気に入らないならNGにしろ」と。
彼らは、言う。「今日のNGリスト=○○」と。
勿論、実際には彼らはNGリストに追加などしていない。憤慨や負の感情を求めてネットをする人は、決して本心では「気に入らない書き込み」をスルーしようなどと思わないものなのだ。しかし、現に「スルーする方法」はそこにある。彼らは、「自分がスルーしたこと」を周囲にアピールしたいという、ただそれだけの為にNGリストという言葉を使う。
これこそがツンデレホイホイである。
表面的には「NGワード化」して自分のスルー力を周囲にアピールしてしまったものだから、彼らにとって「気に入らない書き込み」は不可視になった。しかし、彼らは憤慨に飢えて止まない。実際には見えない筈の「気に入らない書き込み」を貪る様に読み、憤慨し、しかしツンデレホイホイに引っかかった彼らには、それに言及する術がない。
その結果、彼らはホイホイの中であがく訳である。「レス番飛びまくりwww」と。
スレを正常に運用するにあたって、NGワード機能というのは二重の防御力を発揮しているといっていい。一つは、荒らしに対して。もう一つは、荒らしに反応せずにはいられない人々に対して。実際に使われるかどうかには何の関係もなく、荒らしに反応せずにはいられない人々は、「NGに入れろ」の一言で黙らざるを得なくなる。
この辺、私は2ちゃん及び2ちゃんブラウザの性悪説構造の中に、極めて高い完成度を見る。流石、荒らしが常態化した環境での歴史を積み上げてきただけのことはあるなあ、と思う。思うのだが、NGワード機能の発祥がどこなのか知らんので、実際に誰をリスペクトするべきなのかは謎である。
まあ、それはいいや。話変わって、はてなブックマークについてである。
最近、はてなブックマークにおいて「NGワード機能つければいいんじゃね?」と思うことが多くなった。
特定のIDのブックマークコメントを不可視にする機能はあるみたいだけど、あるNGワードに反応してエントリーごと不可視にする機能は、どうやらまだないみたいだ。
はてなブックマーク界隈にも、「憤慨や負の感情を求めて」注目エントリーを見ている人は、たくさんいる様に思える。別にそれ自体は悪いことだとは思わないけど、それに加えて、「じゃあ読まなきゃいいのに」と思う様なコメントをつけられる方もたまにいらっしゃる。
そういった人に対して「NGに入れればいいんじゃないですか?」という呼びかけを行った時、ホイホイは果たして効力を発揮するのか否か。気になる。
関連:人は何故、「読むと不快になる文章」をわざわざ読みたがるのか。
mixiと2ちゃんの比較論
ブログ観測者問題・追加。
2007年10月29日
Webの「キー局」としてのGoogleと、TBSの共通点。
自分の中でちょっとしっくり来たので、なんとなく書き残しておく。既出かどうかは気にしないことにする。
あらゆるメディアには、情報ツールとしての側面と、評価・認証機関としての側面という二面性がある。
ニュース番組がニュースを流す。ニュースという情報を電波に乗せる、「こんな事件があったよ」という情報をお茶の間に放映する、この場合ニュース番組は情報ツールとして機能している。
ニュース番組がそのニュースの内容について、あるいはニュースで報じている事物について、なんらかの評価を付け加えるとする。例えば、「この事件良くないですよね」と付け加える。この場合、ニュース番組は評価機関として機能している。ニュースを流すこと自体が、あるニュースの正しさを認証するということでもあり、この場合もニュース番組は評価機関に近い役割をもっているといえるだろう。
情報は、素の状態ではそっけない。素の状態で情報を流しているだけだと視聴者に受けない→影響力が減ずるから、評価という付加価値をつけて情報の価値を上げる。それが「評価機関」としてのメディアの働きであり、利益を追求する企業としての姿勢でもある筈だ。
多分、ここまでは前提と考えていいだろう。
最近TBSが色々と叩かれていた。この前の初音ミク絡みの騒動だとか、亀田家絡みの話を見るに、乱暴に総括すると「情報ツールとしてメディアを捉えている」文脈と、「評価・認証機関として機能しようとした」TBSの軋轢があった、様に私は感じたのだ。
この前の初音ミク絡みの番組は分かりやすかった。「初音ミクというソフトがありますよ、こんな機能がありますよ、というのは素の情報だ。そこに、「でも、使っている人がこんなんですよ、オタクキモいですよね」という評価を乗せる。これは評価機関としてのメディアの機能である。で、後者の方にWebの一部のヒトビトがエラい文句をつけた、というのがこの前の騒ぎの要約だったと思う。
まあ、この騒ぎについては「評価の内容」が刺激的だったもんで際立っていると思うんだけど。Webのメディア批判の殆どは、「評価機関としてのメディア」を叩いている、という共通点をもっている様に思う。
評価が捏造までいくのはまあ論外だが、とにかく評価が行き過ぎると叩かれる。Web界隈では、評価には極めて厳密な公平性を求められる(本来「公平な評価」「客観的な評価」なんてものはこの世に存在しないと思うが)。というか極端な話「情報ツールに過ぎないメディアが、評価なんて生意気なことをするな」という方向性になっている文脈が結構ある様な気がするのだな。
敢えて極論すると、Webの多くの言論は、メディアに「情報ツールに徹する」ことを要求している、様に私には見える。
以前、毎日新聞の新特集関連で香ばしい事態が発生している件について。で、ちらっとこんなことを書いた。
偏向と言うと聞こえが悪いが、これ、「偏向→評価」に置き換えると今回の構図に大体当てはまるのかなーと思った。
一方、ちょっと興味深く思ったのがGoogleに絡んだ騒ぎだ。
当然のことだが、GoogleやYahoo!の様な検索エンジンも、情報ツールとしての側面と、認証・評価機関の側面としての二面性をもっている。
検索エンジンは、基本的には「検索語と関係するページを表示する」という情報ツールであるが、同時に「このページは検索語と関係していますよ」ということを保証する認証機関でもある。そして、SEO対策だのGoogle八分だのを見ていれば分かる通り、「表示順位」という絶対的な評価方法を有してもいる。
Googleの評価機関としての側面が、実はTBS他大手メディアと本質的に変わらないということを、あんまり意識していない人が多い気がする。Googleは、それが有効だと思えばいつでも「えげつない」やり方で評価機関としての側面を前面に出すことが出来るのだ。そして、WebにおけるGoogleの影響力は、言うまでもなく巨大である。
この前の初音ミクに絡んだGoogle騒ぎは、結局勇み足だったんじゃねえかなと見えなくもないが(ちゃんと追いかけていないので、結局真相がどうだったのかは良く知らないが)、ともあれ随分センセーショナルな騒ぎになった。それは何でかというと、メディアとしてのGoogle、「情報ツール」ではなく「評価機関」としてのGoogleが、今まで余りそれを意識していなかったユーザー達につきつけられたから、という側面もあるんじゃなかろうか。
Googleはまず第一に情報媒体であり、情報ツールであると同時に評価機関でもあり、そして何よりも企業である。Webを代表するツールだったGoogleが、企業として「Webの理屈」から乖離し始めた時、TBSを批判している様な人達はどんな反応を示すのだろうか。
あらゆるメディアには、情報ツールとしての側面と、評価・認証機関としての側面という二面性がある。
ニュース番組がニュースを流す。ニュースという情報を電波に乗せる、「こんな事件があったよ」という情報をお茶の間に放映する、この場合ニュース番組は情報ツールとして機能している。
ニュース番組がそのニュースの内容について、あるいはニュースで報じている事物について、なんらかの評価を付け加えるとする。例えば、「この事件良くないですよね」と付け加える。この場合、ニュース番組は評価機関として機能している。ニュースを流すこと自体が、あるニュースの正しさを認証するということでもあり、この場合もニュース番組は評価機関に近い役割をもっているといえるだろう。
情報は、素の状態ではそっけない。素の状態で情報を流しているだけだと視聴者に受けない→影響力が減ずるから、評価という付加価値をつけて情報の価値を上げる。それが「評価機関」としてのメディアの働きであり、利益を追求する企業としての姿勢でもある筈だ。
多分、ここまでは前提と考えていいだろう。
最近TBSが色々と叩かれていた。この前の初音ミク絡みの騒動だとか、亀田家絡みの話を見るに、乱暴に総括すると「情報ツールとしてメディアを捉えている」文脈と、「評価・認証機関として機能しようとした」TBSの軋轢があった、様に私は感じたのだ。
この前の初音ミク絡みの番組は分かりやすかった。「初音ミクというソフトがありますよ、こんな機能がありますよ、というのは素の情報だ。そこに、「でも、使っている人がこんなんですよ、オタクキモいですよね」という評価を乗せる。これは評価機関としてのメディアの機能である。で、後者の方にWebの一部のヒトビトがエラい文句をつけた、というのがこの前の騒ぎの要約だったと思う。
まあ、この騒ぎについては「評価の内容」が刺激的だったもんで際立っていると思うんだけど。Webのメディア批判の殆どは、「評価機関としてのメディア」を叩いている、という共通点をもっている様に思う。
評価が捏造までいくのはまあ論外だが、とにかく評価が行き過ぎると叩かれる。Web界隈では、評価には極めて厳密な公平性を求められる(本来「公平な評価」「客観的な評価」なんてものはこの世に存在しないと思うが)。というか極端な話「情報ツールに過ぎないメディアが、評価なんて生意気なことをするな」という方向性になっている文脈が結構ある様な気がするのだな。
敢えて極論すると、Webの多くの言論は、メディアに「情報ツールに徹する」ことを要求している、様に私には見える。
以前、毎日新聞の新特集関連で香ばしい事態が発生している件について。で、ちらっとこんなことを書いた。
商業メディアのパワーソースは影響力であるから、影響力を確保する為に自社の報道には偏向をかける。繰り返すが、これは商業メディアにとって「当然のこと」なのだ。
一方、Webの言論は「情報ソースに偏向をかけること」を許容しない。
偏向と言うと聞こえが悪いが、これ、「偏向→評価」に置き換えると今回の構図に大体当てはまるのかなーと思った。
一方、ちょっと興味深く思ったのがGoogleに絡んだ騒ぎだ。
当然のことだが、GoogleやYahoo!の様な検索エンジンも、情報ツールとしての側面と、認証・評価機関の側面としての二面性をもっている。
検索エンジンは、基本的には「検索語と関係するページを表示する」という情報ツールであるが、同時に「このページは検索語と関係していますよ」ということを保証する認証機関でもある。そして、SEO対策だのGoogle八分だのを見ていれば分かる通り、「表示順位」という絶対的な評価方法を有してもいる。
Googleの評価機関としての側面が、実はTBS他大手メディアと本質的に変わらないということを、あんまり意識していない人が多い気がする。Googleは、それが有効だと思えばいつでも「えげつない」やり方で評価機関としての側面を前面に出すことが出来るのだ。そして、WebにおけるGoogleの影響力は、言うまでもなく巨大である。
この前の初音ミクに絡んだGoogle騒ぎは、結局勇み足だったんじゃねえかなと見えなくもないが(ちゃんと追いかけていないので、結局真相がどうだったのかは良く知らないが)、ともあれ随分センセーショナルな騒ぎになった。それは何でかというと、メディアとしてのGoogle、「情報ツール」ではなく「評価機関」としてのGoogleが、今まで余りそれを意識していなかったユーザー達につきつけられたから、という側面もあるんじゃなかろうか。
Googleはまず第一に情報媒体であり、情報ツールであると同時に評価機関でもあり、そして何よりも企業である。Webを代表するツールだったGoogleが、企業として「Webの理屈」から乖離し始めた時、TBSを批判している様な人達はどんな反応を示すのだろうか。
2007年10月18日
ブログ=ボトルメール、という距離感。
私は多分、ブログをボトルメールとして書いていると思う。反応も、ボトルメールに対する反応、として捉えている気がする。
勿論、全てのカテゴリーを、という訳ではないし、中には「読んで欲しい誰か」を具体的に意識して書く時もあるけれど。多分、全記事中の半分くらいは、私のブログはボトルメールだ。
紙に自分の書きたいことだけを書き込んで、瓶に詰める。そして、Webの海に向かって放り込む。誰かに読んでもらうつもりで書いてはいるが、誰に届くかは分かりゃーしない。届かないで海底に沈むかも知れないし、でかい魚に食われるかも知れない(バルーンファイト風)。
で。流した瓶に反応がある時もあれば、ない時もある。ただ、実際のボトルメールと同じく、反応には幾つかの種類があると思う。
・水に投げこんだ時の波紋:PVやアクセス数
・別の瓶に入って返事が返ってくる:言及リンクや反論TB
・浸ってたら、横で見ていた人から話しかけられた:ブログコメント
・何だかすげえ大きな瓶が返ってきた、と思って見てたら中から人がたくさん出てきた:ニュースサイトに取り上げてもらう
・海の家に戻ってみたら、机上のノートにどういう訳か色々と感想が書いてあった:SBM(はてブとか)のコメント
・津波(瓶を流してみたら、何故か津波が襲来してきた):リアル知人から電話で感想を言われる
・元寇(瓶を流してみたら、何故か艦隊が襲来してきた):会社バレ
大体上記の様なイメージ。
だから、距離感としてはコメントは近い。かなり近い。近過ぎて、カテゴリーによってはたじろいでしまうことがある、というのも事実である。勿論、話しかけてもらうことは基本的に好きだし、日記なんかはまた別だが。
そして、「別の瓶が返ってくる」という距離感が、私は大好きだ。だから、よそのブログやニュースサイト様に言及してもらえるのは特段嬉しい。ただ、元々の距離感が「瓶に詰めた手紙のやり取り」である為、なんとなくお返事が思いつかない、という場合も割とある。すいません。
たまに爆弾が入った瓶が返ってくるのは不徳のいたす所とゆーか。まあ、それはそれで嬉しいです。
で、上の例だとブクマコメントがあたかも怪奇現象であるかの様に書いてある気もする。まあ怪奇現象というのはそれはそれでいいとして、私はブクマコメントの距離感は嫌いではない。海の家に戻ってノートをめくるかどうかは、瓶を投げた人の自由意志なのだ。見たくない時は、見ない。単純にそれが好きなのかも知れない。
会社バレは幸いしてないです。津波は何度か来ました。今後どうなるかは知ったこっちゃありません。
と、大体以上の様なことを。まなめさんの紹介されているブロガーなら不特定多数に向けて情報発信する方がよいを読んで、私の場合はどんなつもりで書いてるのかなーとか考えることをトリガーにして、行き当たった訳である。私は現時点で十分わがままなので、これ以上わがままになるのもあれかなーとは思うけど。
とはいえ。距離感に関わらず、自分が書いたものを少なくとも誰かは読んでくれている、というのは、本当にありがたいことである。皆さんありがとうございます。
これからもたくさん瓶を投下するつもりなので、気が向いたら拾ってやってください。
2007年10月15日
「個人的な問題でも一般化したい病」について
症候群、といってもいい気がする。
恋愛論とか最たるものなんだけど。世の中には、「どう考えても特殊な状況における個人的な問題なんだけど、それを一般的な問題にしたい、凄くしたい」という病気にかかっている人がたくさんいる。そりゃもう数限りなくいる。
新聞やテレビといったマスメディアが、例えば特殊な事件をネタにしてWebやオタク、アニメやゲームといったものを一般的に叩くことに憤る人は多い。が、翻ってみると、「特殊なネタ→一般化」を駆使する病というのは、マスメディアに限らずあたり一面に蔓延しているのである。もうこれは風土病などというレベルの騒ぎではない。数十年も前から発生している、思考的疾患のアウトブレイクである。
かく言う私も「一般化病」を長年患っている患者の一人である。筋金入りの患者といってもいい。病気自慢を貫徹する為にも、ひとつこの病気について一般化を行ってみよう。一般化病患者の辞書に「自己撞着」とか「自分を客観視」などという軟弱な単語は載っていないのだ。
まず、要件箇条書き。
・この病気は、「何かを論じる」というツールをもっている人が広く罹患し得る病気である。
・自分の狭い範囲での体験、一部の特殊なケース、2ちゃんのログ、場合によっては勝手な妄想をネタに、「日本における」とか「ネット社会では」とか「一般的な合コンにおいて」といった、凄く広い範囲に当てはめるのが一般的な症状である。
・根底には、「特殊論よりも一般論の方が説得力がある・あるいは面白い、読者に受ける」という反応欲求がある様な気がする。
・特徴は、「一般化具合が無理過ぎ」という一言で表せる。
定義はこんなもんか。
典型的な文脈には、以下の様なものがある。
・電車で偶然マナーの悪い若者を見つけた → 現在の日本のマナー低下に衝撃を受ける
・人間関係がひどいことになっている夫婦がいた → 今の時代、結婚なんかするもんじゃない
・アニメ好きの犯罪者発見 → これだから二次元は
・火浦功が十年何も書いてない → SF作家の余りの怠惰さには深刻な憤りを覚える
最後のはなんか違う気もするな。まあいいや。
ともかく、ゆとり世代からmixi犯罪予告、はてな村やら団塊の世代に至るまで、「一般化の対象」は数限りなく存在する。
勿論、「その一般論は実際のところ正しいのか、間違っているのか」はこの議論に直接関係がない。正しい場合も間違っている場合もあるだろう。この病気の特徴は、統計あるいは根拠の欠如、それに伴う論理の飛躍である。
本来、「具体例→一般化」というのは非常に重要な思考法であり、基本的極まる論法でもあるのだ。正しく使うのであれば、これ以上にない程有用な文章術の筈なのである。
問題は、一般化した場合の結論が綺麗にまとまり過ぎて、ついつい無理な題材でも一般化したくなってしまうということに尽きる。一般化の誘惑という名前をつけてもいい。「これこれこーゆー特殊なケースがあったよー」というだけのテキストよりも、「故に、この様な結論が出せる」というテキストが後ろにくっついていた方が、文章が格好良くまとまるのである。
様々なブログを見渡すと、上の様な文言は数限りなく発見出来る。「自分の体験」という特殊なケースをWebに発信する際、一般的な結論をくっつけたいという欲求は、どんな場合でも強いものである様だ。(繰り返すが、一般化したい病患者の辞書に自己客観視という単語は存在しない)
安易な一般化とは、つまり説得力のドーピングなのだ。このドーピングに親しみ過ぎてしまった時、人は「個人的な問題でも一般化したい病」の患者となる。
Google先生にお伺いを立てた所、実に分かりやすい形でこの症状が現れているエントリーを見つけたので、一つ参照しておこう。
合コン二元論と恋愛観。
色恋沙汰なんぞ人それぞれと言っておきながら、同じ筆でこの一般化っぷり。これはひどい。
まあ、アレです。根拠がない時は根拠がないことを自覚して書いた方がいいよね、とか。無理過ぎる一般化は流石によーく考えてから書いた方がいいよね、とか。無理に一般化しなくても、特殊なケースだけでも十分楽しいですよ、とか。大体そんな。
(追記 07/10/15 13:42)---------------------------------------
余談だが、私は「世の中のライフハックの大半は、一般化病の症例の一つ」という偏見に取り付かれている。今のところ偏見が解ける気配がない。
(追記と訂正 07/10/15 18:48)-------------------------------
文中、「火浦功が十年何も書いてない」という記述がありますが、Webで調査を行ったところ、「火浦功が多分五年くらい何も書いてない」の誤りであることが分かりました。
全国の火浦功の皆さん、及びSF作家の皆さんに 深くお詫び申し上げます。
ところで「大怒涛」って文庫化されてないんですか?
恋愛論とか最たるものなんだけど。世の中には、「どう考えても特殊な状況における個人的な問題なんだけど、それを一般的な問題にしたい、凄くしたい」という病気にかかっている人がたくさんいる。そりゃもう数限りなくいる。
新聞やテレビといったマスメディアが、例えば特殊な事件をネタにしてWebやオタク、アニメやゲームといったものを一般的に叩くことに憤る人は多い。が、翻ってみると、「特殊なネタ→一般化」を駆使する病というのは、マスメディアに限らずあたり一面に蔓延しているのである。もうこれは風土病などというレベルの騒ぎではない。数十年も前から発生している、思考的疾患のアウトブレイクである。
かく言う私も「一般化病」を長年患っている患者の一人である。筋金入りの患者といってもいい。病気自慢を貫徹する為にも、ひとつこの病気について一般化を行ってみよう。一般化病患者の辞書に「自己撞着」とか「自分を客観視」などという軟弱な単語は載っていないのだ。
まず、要件箇条書き。
・この病気は、「何かを論じる」というツールをもっている人が広く罹患し得る病気である。
・自分の狭い範囲での体験、一部の特殊なケース、2ちゃんのログ、場合によっては勝手な妄想をネタに、「日本における」とか「ネット社会では」とか「一般的な合コンにおいて」といった、凄く広い範囲に当てはめるのが一般的な症状である。
・根底には、「特殊論よりも一般論の方が説得力がある・あるいは面白い、読者に受ける」という反応欲求がある様な気がする。
・特徴は、「一般化具合が無理過ぎ」という一言で表せる。
定義はこんなもんか。
典型的な文脈には、以下の様なものがある。
・電車で偶然マナーの悪い若者を見つけた → 現在の日本のマナー低下に衝撃を受ける
・人間関係がひどいことになっている夫婦がいた → 今の時代、結婚なんかするもんじゃない
・アニメ好きの犯罪者発見 → これだから二次元は
・火浦功が十年何も書いてない → SF作家の余りの怠惰さには深刻な憤りを覚える
最後のはなんか違う気もするな。まあいいや。
ともかく、ゆとり世代からmixi犯罪予告、はてな村やら団塊の世代に至るまで、「一般化の対象」は数限りなく存在する。
勿論、「その一般論は実際のところ正しいのか、間違っているのか」はこの議論に直接関係がない。正しい場合も間違っている場合もあるだろう。この病気の特徴は、統計あるいは根拠の欠如、それに伴う論理の飛躍である。
本来、「具体例→一般化」というのは非常に重要な思考法であり、基本的極まる論法でもあるのだ。正しく使うのであれば、これ以上にない程有用な文章術の筈なのである。
問題は、一般化した場合の結論が綺麗にまとまり過ぎて、ついつい無理な題材でも一般化したくなってしまうということに尽きる。一般化の誘惑という名前をつけてもいい。「これこれこーゆー特殊なケースがあったよー」というだけのテキストよりも、「故に、この様な結論が出せる」というテキストが後ろにくっついていた方が、文章が格好良くまとまるのである。
様々なブログを見渡すと、上の様な文言は数限りなく発見出来る。「自分の体験」という特殊なケースをWebに発信する際、一般的な結論をくっつけたいという欲求は、どんな場合でも強いものである様だ。(繰り返すが、一般化したい病患者の辞書に自己客観視という単語は存在しない)
安易な一般化とは、つまり説得力のドーピングなのだ。このドーピングに親しみ過ぎてしまった時、人は「個人的な問題でも一般化したい病」の患者となる。
Google先生にお伺いを立てた所、実に分かりやすい形でこの症状が現れているエントリーを見つけたので、一つ参照しておこう。
合コン二元論と恋愛観。
色恋沙汰なんぞ人それぞれと言っておきながら、同じ筆でこの一般化っぷり。これはひどい。
まあ、アレです。根拠がない時は根拠がないことを自覚して書いた方がいいよね、とか。無理過ぎる一般化は流石によーく考えてから書いた方がいいよね、とか。無理に一般化しなくても、特殊なケースだけでも十分楽しいですよ、とか。大体そんな。
(追記 07/10/15 13:42)---------------------------------------
余談だが、私は「世の中のライフハックの大半は、一般化病の症例の一つ」という偏見に取り付かれている。今のところ偏見が解ける気配がない。
(追記と訂正 07/10/15 18:48)-------------------------------
文中、「火浦功が十年何も書いてない」という記述がありますが、Webで調査を行ったところ、「火浦功が多分五年くらい何も書いてない」の誤りであることが分かりました。
全国の火浦功の皆さん、及びSF作家の皆さんに 深くお詫び申し上げます。
ところで「大怒涛」って文庫化されてないんですか?
2007年09月18日
SBMの同調圧力を防ぐ為のたった一つの方法
ブクマする前に他の人のブックマークコメント読まない様にすればいいんじゃないの?
はてなブックマーク - はてな村民は、声の大きいヤツに同調し、魔女狩りを行う最低の村か?
なんか知らんが元記事が編集されている。この程度の記事を運営が削除するとかアホですかという感じなので、多分書いた人が自分で編集したんだろう。一応ぐぐるのキャッシュはこっち。
いや、なんとゆーか、上の記事とか、記事のブクマでの議論がどうもピンとこなかったので原因を考えてみた。
同調圧力うんたらがどうしても気になるのなら、冒頭に書いた様なルールに従えばいいし、なんならシステム的にそういう制限を加えることも不可能ではない(やる意味があるのかどうかは疑問だが)。
そもそも「ブクマをするのは他の人のコメントを読んでから」という発想自体私になかったので、一体何の話をしてるんだろうと最初思った。先にコメントを一通り読んでからブックマークする方が一般的なんだろうか。脊髄反射ブックマークしてる人の方が多いんじゃないかと勝手に思ってるけど。
結局のところ、SBMでの同調圧力なんてものは取り沙汰する程のことじゃなく、それこそ「同調圧力(笑)」と記載してもいい程度のものである様な気がする。第一感における人間の反応なんか「同調・拒否・保留」の三つの内どれかに大体落ち着くもんであって、記事によってはそれが割と偏る、というだけの問題なんではないかとか思う。
特に記事を読んでの第一感、つまり脊髄反射での偏り方は割と激しくなる傾向がある。2ちゃんのコピペブログとか読んでると分かる。SBMのブックマークでも、一覧の最初の方と最後の方では全体的に偏り方が変わっていて、最初にブックマークした人の脊髄反射っぷりが際立って面白いことが結構ある。この辺は分析してみると面白そうだ。誰かもうやってそうだけど。
コメント同士での会話・議論・同調なんてのはそれこそまた別の問題だろう。こっちは語り尽くされてそうだから気にしないことにする。
と、ブックマークについてちょっと思ったこと、以上。
はてなブックマーク - はてな村民は、声の大きいヤツに同調し、魔女狩りを行う最低の村か?
なんか知らんが元記事が編集されている。この程度の記事を運営が削除するとかアホですかという感じなので、多分書いた人が自分で編集したんだろう。一応ぐぐるのキャッシュはこっち。
いや、なんとゆーか、上の記事とか、記事のブクマでの議論がどうもピンとこなかったので原因を考えてみた。
同調圧力うんたらがどうしても気になるのなら、冒頭に書いた様なルールに従えばいいし、なんならシステム的にそういう制限を加えることも不可能ではない(やる意味があるのかどうかは疑問だが)。
そもそも「ブクマをするのは他の人のコメントを読んでから」という発想自体私になかったので、一体何の話をしてるんだろうと最初思った。先にコメントを一通り読んでからブックマークする方が一般的なんだろうか。脊髄反射ブックマークしてる人の方が多いんじゃないかと勝手に思ってるけど。
結局のところ、SBMでの同調圧力なんてものは取り沙汰する程のことじゃなく、それこそ「同調圧力(笑)」と記載してもいい程度のものである様な気がする。第一感における人間の反応なんか「同調・拒否・保留」の三つの内どれかに大体落ち着くもんであって、記事によってはそれが割と偏る、というだけの問題なんではないかとか思う。
特に記事を読んでの第一感、つまり脊髄反射での偏り方は割と激しくなる傾向がある。2ちゃんのコピペブログとか読んでると分かる。SBMのブックマークでも、一覧の最初の方と最後の方では全体的に偏り方が変わっていて、最初にブックマークした人の脊髄反射っぷりが際立って面白いことが結構ある。この辺は分析してみると面白そうだ。誰かもうやってそうだけど。
コメント同士での会話・議論・同調なんてのはそれこそまた別の問題だろう。こっちは語り尽くされてそうだから気にしないことにする。
と、ブックマークについてちょっと思ったこと、以上。
2007年08月20日
批判の批判に思うこと。
ちょっと迷ったけど、気になったから書く。
サヨ、カスラック、マスゴミ批判で一丁上がり!
何故確固たる思想信条が感じられないかというと、そもそも思想信条が読み取れる様な書き方をしていないからだろう。単純な話である。
そこに本当に思想信条が存在しないのかどうか、単に時流に流されているだけなのか、それとも書いてないだけで実は深い根拠があるのか、んなこたあWebに存在する文言を読むだけじゃ分かりはしない。そこにあるのは、「根拠の明示なく(=思想信条の表現不足)口汚い論難・総括をした(=サヨとかカスラックとかマスゴミとか)」という厳然たる罪であり、
この様にたたかれるのは、まあ仕方ないことではあるんだろう。
勿論ここにはブーメランが潜んでいるんだけど、一旦回避して話を続ける。
上記の「罪」を分解して繰り返してみよう。ここで書かれている様な「ひとたち」の、反省するべき罪は何だろうか。
・明確な(背景or思想信条or根拠)の明示を怠った。
・口汚い総括を行った。
この二点に関しては、まあ、「はしたない」と感じるに十分であろうと私も思う。私自身は、「口汚いということは、アクセス数を稼ぐのと同時に言説の説得力を大幅に低下させる」と思っているんだが、まあWebも色々だなあ。と。
で、だ。「サヨ、カスラック、マスゴミ批判」「アジビラまがい」という総括に、私は若干の口汚さを感じるのだけど、その点どうなんだろう。大塚氏に関する前段と結語が根拠ってことなんだろうか。私自身は、例示されている様な大塚氏の言説と、「いわゆる」つきのマスコミ批判やJASRAC批判を同列に語ること自体が既に飛躍じゃないかと思うんだけど。
もっと単純に書くとこうなる。「思想信条を欠いた総括を批判している人の総括に、思想信条が明示されてないのはどうなんだ」と。
更に単純に書くと一言になる。「これ、ブーメランじゃね?」
ここからは所感。というか、ブーメランか。
思うに、「同文中に明確な思想・根拠の明示がない、批判的な総括」というものは、かつてはメディアの側の専売特許だったのではなかったか。この武器を、発祥以来メディアは一瞬たりとも手放したことがないんじゃないか、と私は思う。たとえば週刊誌広告のヘッドラインが代表的な例だろう。ヘッドラインでの総括の仕方なんて、メディア界の隅っこの隅っこに生息していた私でさえ指導を受けたことがある。
根拠を常に隙なく明示しなくてはならない、なんてルールは存在しないし、仮に存在したとしたらひじょーに文筆は窮屈になる。だから私は、「根拠の薄い批判」を否定はしない。私だってやっていることだ。
ただ、どちらかというとメディア側の文法に長けている人が、Webの「根拠薄き総括」を批判するというのは、ちょっとずるいんじゃないかなあとか思わないでもない訳だ。
サヨ、カスラック、マスゴミ批判で一丁上がり!
こうした光景は昨今のネット界隈でも見られるからだ。たとえば「左翼」と「JASRAC」と「マスコミ」の3点セット。これらを「サヨ」、「カスラック」、「マスゴミ」に置換してアジビラまがいの文章を書いている手合いからは、確固たる思想信条は感じられない。
何故確固たる思想信条が感じられないかというと、そもそも思想信条が読み取れる様な書き方をしていないからだろう。単純な話である。
そこに本当に思想信条が存在しないのかどうか、単に時流に流されているだけなのか、それとも書いてないだけで実は深い根拠があるのか、んなこたあWebに存在する文言を読むだけじゃ分かりはしない。そこにあるのは、「根拠の明示なく(=思想信条の表現不足)口汚い論難・総括をした(=サヨとかカスラックとかマスゴミとか)」という厳然たる罪であり、
あわよくばアルファブロガーから好意的に言及されたり、個人ニュースサイトに紹介されたり、はてなブックマークの人気エントリーになればいいという、浅ましい欲望しか感じられない。
この様にたたかれるのは、まあ仕方ないことではあるんだろう。
勿論ここにはブーメランが潜んでいるんだけど、一旦回避して話を続ける。
しかしいま、カスラック批判やマスゴミ批判を憑り付かれたように書いているひとたちは、そんな自分を「はしたない」と将来、思うのだろうか。
上記の「罪」を分解して繰り返してみよう。ここで書かれている様な「ひとたち」の、反省するべき罪は何だろうか。
・明確な(背景or思想信条or根拠)の明示を怠った。
・口汚い総括を行った。
この二点に関しては、まあ、「はしたない」と感じるに十分であろうと私も思う。私自身は、「口汚いということは、アクセス数を稼ぐのと同時に言説の説得力を大幅に低下させる」と思っているんだが、まあWebも色々だなあ。と。
で、だ。「サヨ、カスラック、マスゴミ批判」「アジビラまがい」という総括に、私は若干の口汚さを感じるのだけど、その点どうなんだろう。大塚氏に関する前段と結語が根拠ってことなんだろうか。私自身は、例示されている様な大塚氏の言説と、「いわゆる」つきのマスコミ批判やJASRAC批判を同列に語ること自体が既に飛躍じゃないかと思うんだけど。
もっと単純に書くとこうなる。「思想信条を欠いた総括を批判している人の総括に、思想信条が明示されてないのはどうなんだ」と。
更に単純に書くと一言になる。「これ、ブーメランじゃね?」
ここからは所感。というか、ブーメランか。
思うに、「同文中に明確な思想・根拠の明示がない、批判的な総括」というものは、かつてはメディアの側の専売特許だったのではなかったか。この武器を、発祥以来メディアは一瞬たりとも手放したことがないんじゃないか、と私は思う。たとえば週刊誌広告のヘッドラインが代表的な例だろう。ヘッドラインでの総括の仕方なんて、メディア界の隅っこの隅っこに生息していた私でさえ指導を受けたことがある。
根拠を常に隙なく明示しなくてはならない、なんてルールは存在しないし、仮に存在したとしたらひじょーに文筆は窮屈になる。だから私は、「根拠の薄い批判」を否定はしない。私だってやっていることだ。
ただ、どちらかというとメディア側の文法に長けている人が、Webの「根拠薄き総括」を批判するというのは、ちょっとずるいんじゃないかなあとか思わないでもない訳だ。
2007年08月07日
「主流でないこと」こそがブログの価値を上げる。
なんか、色んなところと微妙に話題が被る様な気もするけれど、まあ折角書いたのだからアップしてみよう。
「注目を引かない話題」それ自体に価値を認めてもいいんじゃないかなーという話。私自身の指標である。
5年ぶりくらいに会った知人が、ブログをやっていた。
かつてよく顔を合わせていた頃は、WebのWの文字もタイピング出来ない様なヤツだったので、ちょっとびっくりした。はてブの注目エントリで見かけたこともあるブログだったので、二度びっくりした。取り敢えず名前は出さないが、その内こっそりリンクするかも知れない。
で、その知人と一つ二つ、ブログに関して話をした。一点が、反応欲求と送信欲求の話。以前にもちらっと書いたけど、また折を見て補足する。とはいえ、「ブログを書くモチベーションは、書きたいという欲求と、反応が欲しいという欲求の二軸で説明出来る」ということと、「二種の欲求のバランスが崩れるといい結果を招かない」という考えに特段変化はない。
で、もう一つが、ブクマされる記事、されない記事という話だ。
話はソーシャルブックマーク、例えばはてなブックマークに収束する。
続きを読む
2007年07月31日
人狼BBSが僕達に教えてくれたこと。
「信じてもらうこと」と「信じさせること」は、似てる様でいて実は全然違うこと。
ゲームに勝つために重要なのは、「自分が何を語るか」ではなく、「自分の言葉をどの様に受け取ろうとする人が多数派なのか」だったりする、ということ。
発言が支持されるか支持されないかは、発言内容以上に、その発言を向けている層に依存するということ。そして、時としてたった一人に支持されるだけで十分ゲームをひっくり返せるということ。
不利な流れ、自分の発言が悪くとられる流れになったら、ちょっとやそっとの努力じゃ押し返せないこと。
続きを読む
ゲームに勝つために重要なのは、「自分が何を語るか」ではなく、「自分の言葉をどの様に受け取ろうとする人が多数派なのか」だったりする、ということ。
発言が支持されるか支持されないかは、発言内容以上に、その発言を向けている層に依存するということ。そして、時としてたった一人に支持されるだけで十分ゲームをひっくり返せるということ。
不利な流れ、自分の発言が悪くとられる流れになったら、ちょっとやそっとの努力じゃ押し返せないこと。
続きを読む
2007年06月13日
何故Webで揉め事が盛り上がるかというと
何よりそれは「分かりやすい」からなのだな。
ある頭のいい人が、何か頭の良さそうなことを言っている。頭が良さそうな文言は往々にして難しいから、ついていけない人は興味をもたない。
その頭のいい人に、誰かが喧嘩をふっかける。当然二つの立場からの議論になる。対立が起きると、議論は途端に分かりやすくなる。分析もしやすくなる。
何故かというに、大体の場合において、相対評価は絶対評価より遥かに容易だからだ。自分で基準を考えるより、基準を元に比較する方がずっと楽なんである。論文のテクニックに「対立軸の明確化」ってものがあるのはその為だ。
参照:数日待ったが全然はてブが付かねぇ。どーなってんだ。
理事長のお言葉より、対立軸が明示されている痛いニュースの方が分かりやすい。いい例というべきなんだろう。
議論が揉め事に発展すると、双方がお互いの弱点を指摘し始めるから、議論は更に分かりやすくなる。この辺になってくると、「どちらが好きか」「どちらに肩入れするか」というレベルでの分かりやすさも味わえる。この分かりやすさを「臨場感」と言い換える人もいるだろう。プロ野球を観戦するのと似た様なもんだ。
臨場感という意味では、「自分が軽く手を出す口を出す」なんてことをすると、更に揉め事は楽しくなる。プロ野球のテレビの中で、自分が打席に立てる様なもんだ。多くの人は野球の素人なんで当然三振するけど、参加すること自体は非常に楽しい。だからブログは炎上する。
なんかまだ分かりにくい気がするな。いつも通り少年漫画でたとえてみることにする。
少年漫画の基礎テクニックにも、「対立を明確にしよう」というものがある。別に善でも悪でもなくてかまわないから、とにかく「○○対××」という構図を作る。泥門対王城とかそういう。
すると物語にメリハリが出る。キャラが動き出す。他にも幾つもメリットがある。少年漫画の編集者さんが、必ず「少年漫画には強い敵が必要」というのはその為だ。
聞きかじりだが、幾つか挙げてみよう。
・対立から生じる対比によって、双方の強さ・弱さを明確に出来る。
・読者に対して、「どちらに肩入れをするか」という面での臨場感を与えることが出来る。
・双方のパワーバランスの変化を描写するだけで起伏に富んだ物語が作れる。
・最終的に、「勝負が終わった」ことによるカタルシスを読者に与えることが出来る。
「悟空が一人で飯食ってるだけのドラゴンボールはただのニート漫画だけど、べジータと戦い始めるとなんだか面白いよ理論」とでも言おうか。
まあ、「フリーザ様が一人で「ほっほっほ」とか笑ってるだけだとただのキモ漫画だけど、悟空と戦いはじめると神漫画だよ理論」でも勿論構わないし、固有名詞がワンピースや幽遊白書に換わっても特に文句はない。
結論としては、揉め事が盛り上がる理由は、少年漫画に対立が導入される理由とほぼイコールであるということになるんじゃないだろうか。
ただ、少年漫画の登場キャラ達は、往々にしてモブに優しくない。揉め事が時に荒野を作り出すのはその為だ。
揉め事に中途半端に口を出した挙句、当事者に過剰反応されてエラい勢いでボロボロになってる人などを時折見ると、「邪魔だ!」の一言で舞台から排除される通行人Aが想起されて涙が止まらない。
天下一武道会を観戦するのは楽しいが、自分の戦闘力は十分把握した上で、口を出すにしても戦闘の余波で消し炭になったりはしない様、重々注意したいものだ。どうせ突っ込むなら徹底的に、というところ。
私自身はラディッツに「ゴミめ!」って言われる程度の戦闘力しかないから、テレビを見ながらぽかんと口を開けている的ポジションでいいや。
しかし一つだけ気になるのだが、Webの揉め事に「終わった後のカタルシス」ってものは大抵の場合皆無ですな。あれはなんでだろ。登場キャラが皆フリーザ様なんかな。
参照:少年漫画と少女漫画の境界線はどこにあるのか・その一。
ある頭のいい人が、何か頭の良さそうなことを言っている。頭が良さそうな文言は往々にして難しいから、ついていけない人は興味をもたない。
その頭のいい人に、誰かが喧嘩をふっかける。当然二つの立場からの議論になる。対立が起きると、議論は途端に分かりやすくなる。分析もしやすくなる。
何故かというに、大体の場合において、相対評価は絶対評価より遥かに容易だからだ。自分で基準を考えるより、基準を元に比較する方がずっと楽なんである。論文のテクニックに「対立軸の明確化」ってものがあるのはその為だ。
参照:数日待ったが全然はてブが付かねぇ。どーなってんだ。
理事長のお言葉より、対立軸が明示されている痛いニュースの方が分かりやすい。いい例というべきなんだろう。
議論が揉め事に発展すると、双方がお互いの弱点を指摘し始めるから、議論は更に分かりやすくなる。この辺になってくると、「どちらが好きか」「どちらに肩入れするか」というレベルでの分かりやすさも味わえる。この分かりやすさを「臨場感」と言い換える人もいるだろう。プロ野球を観戦するのと似た様なもんだ。
臨場感という意味では、「自分が軽く手を出す口を出す」なんてことをすると、更に揉め事は楽しくなる。プロ野球のテレビの中で、自分が打席に立てる様なもんだ。多くの人は野球の素人なんで当然三振するけど、参加すること自体は非常に楽しい。だからブログは炎上する。
なんかまだ分かりにくい気がするな。いつも通り少年漫画でたとえてみることにする。
少年漫画の基礎テクニックにも、「対立を明確にしよう」というものがある。別に善でも悪でもなくてかまわないから、とにかく「○○対××」という構図を作る。泥門対王城とかそういう。
すると物語にメリハリが出る。キャラが動き出す。他にも幾つもメリットがある。少年漫画の編集者さんが、必ず「少年漫画には強い敵が必要」というのはその為だ。
聞きかじりだが、幾つか挙げてみよう。
・対立から生じる対比によって、双方の強さ・弱さを明確に出来る。
・読者に対して、「どちらに肩入れをするか」という面での臨場感を与えることが出来る。
・双方のパワーバランスの変化を描写するだけで起伏に富んだ物語が作れる。
・最終的に、「勝負が終わった」ことによるカタルシスを読者に与えることが出来る。
「悟空が一人で飯食ってるだけのドラゴンボールはただのニート漫画だけど、べジータと戦い始めるとなんだか面白いよ理論」とでも言おうか。
まあ、「フリーザ様が一人で「ほっほっほ」とか笑ってるだけだとただのキモ漫画だけど、悟空と戦いはじめると神漫画だよ理論」でも勿論構わないし、固有名詞がワンピースや幽遊白書に換わっても特に文句はない。
結論としては、揉め事が盛り上がる理由は、少年漫画に対立が導入される理由とほぼイコールであるということになるんじゃないだろうか。
ただ、少年漫画の登場キャラ達は、往々にしてモブに優しくない。揉め事が時に荒野を作り出すのはその為だ。
揉め事に中途半端に口を出した挙句、当事者に過剰反応されてエラい勢いでボロボロになってる人などを時折見ると、「邪魔だ!」の一言で舞台から排除される通行人Aが想起されて涙が止まらない。
天下一武道会を観戦するのは楽しいが、自分の戦闘力は十分把握した上で、口を出すにしても戦闘の余波で消し炭になったりはしない様、重々注意したいものだ。どうせ突っ込むなら徹底的に、というところ。
私自身はラディッツに「ゴミめ!」って言われる程度の戦闘力しかないから、テレビを見ながらぽかんと口を開けている的ポジションでいいや。
しかし一つだけ気になるのだが、Webの揉め事に「終わった後のカタルシス」ってものは大抵の場合皆無ですな。あれはなんでだろ。登場キャラが皆フリーザ様なんかな。
参照:少年漫画と少女漫画の境界線はどこにあるのか・その一。
2007年05月12日
はてな匿名ダイアリーと2ちゃんの比較論
「増田と2ちゃんの比較論」の方が語呂がいいだろか。
今更の話題かも知れないけど、まあいいや、適当に書く。既出ならごめんなさい。
はてな匿名ダイアリー、いわゆる「増田」が面白い。私自身ははてなのIDを持っていないので読む専だが、匿名の人同士の混沌とした会話というか自分語り+@というか、ある意味脈絡のない内容から突然活発な議論が始まる様子というのは、新鮮な様などこか懐かしい様な、色んな意味で楽しい。
いきなり話が展開するが、Web上の情報集積にはざっくりいって二種類あると思う。個人への集積と話題への集積である。
あるWeb上の人格があって、「その人の発言」という形で情報がストックされていく形式を「個人への集積」と考える。例えばブログや一昔前のテキストサイト、mixiの日記、匿名じゃない方のはてなダイアリーなんかはこっちだろう。
Web上の人格には従属せず、「あるテーマについて」という形で情報がストックされていく形式を「話題への集積」と考える。Yahoo!ニュースの様な企業のニュースサイト、一部の専門サイト、大多数のWiki、当然Wikipediaなんかもこっちになる筈だ。
まあ、要はGoogle先生のお手並みというか、Web上での情報整理の話なのだが。
この前、はてな匿名ダイアリーと2ちゃんの類似性について書いている書き込みをどっかで見た。同じ「匿名での大規模コミュニケーション」という表層だけを見ると似ているかも知れないが、多分この二つは全く違う。
2ちゃん上のコミュニケーションというのは、混沌としている様で実は結構厳密である。2ちゃんでの会話は「板」と「スレ」に支配される。板違い、スレ違いのことを書くと叩かれる。2ちゃんというのは、実は凄くはっきりした「話題への集積」の場なのだ。
一方で「はてな匿名ダイアリー」はどちらになるかというと、多分どちらでもない。一昔前に隆盛したティーカップ掲示板の様な、「何かに従属しない集積」というか。それらしい言葉を使えば「非従属集積」、平たく言えば「未整理集積」って感じになるだろう。匿名だから個人には従属しないし、日記だから話題にも従属しない。でもトラバはあるし、会話も出来る。自然発生的に会話の流れが出来ることも頻繁にある。
一言で言うと、2ちゃんは結構厳密に「情報が整理された」場だが、匿名ダイアリーはそれとは対極で、「未整理な状態」が特徴の場である、ということになるだろうか。
匿名ダイアリーは結構読みにくいんで、Viewerが欲しいなあと思ったことがある。いっそDelphiか何かで作っちまうか、とも考えたんだが、なんとなく野暮な気がして手が止まった。Viewerで、整理された状態であれを読んでも、もしかするとあんまり楽しくないんじゃないかと、ちょっと思ったからだ。
先ほどTeacupの名前が出たが、「未整理集積」に関してはべつに新しいものじゃない。それどころか、かつての草の根ネットや当初のNiftyを考えると、「先祖帰り」と言ってもいい様なものだ。今では「未整理」の方が珍しくなっているというのは、ネット上での情報整理形式が、かつてとは比べものにならない程整備されたという意味でもある。勿論Googleの存在も大きい。
見方を変えると、これだけインフラが整ったWebで、未整理状態の匿名ダイアリーが盛り上がっている状況というのは、それだけでも結構面白い。はてラボはWebサービスの実験場だということだが、この「匿名ダイアリー」がどんなところに着地するのか、傍観者として楽しみでもある。
でもまあそれとは別に、増田ビューワは正直欲しいなあ。言及先の再帰ポップアップくらいでもいいから。暇になったら挑戦してみようかしらん。
今更の話題かも知れないけど、まあいいや、適当に書く。既出ならごめんなさい。
はてな匿名ダイアリー、いわゆる「増田」が面白い。私自身ははてなのIDを持っていないので読む専だが、匿名の人同士の混沌とした会話というか自分語り+@というか、ある意味脈絡のない内容から突然活発な議論が始まる様子というのは、新鮮な様などこか懐かしい様な、色んな意味で楽しい。
いきなり話が展開するが、Web上の情報集積にはざっくりいって二種類あると思う。個人への集積と話題への集積である。
あるWeb上の人格があって、「その人の発言」という形で情報がストックされていく形式を「個人への集積」と考える。例えばブログや一昔前のテキストサイト、mixiの日記、匿名じゃない方のはてなダイアリーなんかはこっちだろう。
Web上の人格には従属せず、「あるテーマについて」という形で情報がストックされていく形式を「話題への集積」と考える。Yahoo!ニュースの様な企業のニュースサイト、一部の専門サイト、大多数のWiki、当然Wikipediaなんかもこっちになる筈だ。
まあ、要はGoogle先生のお手並みというか、Web上での情報整理の話なのだが。
この前、はてな匿名ダイアリーと2ちゃんの類似性について書いている書き込みをどっかで見た。同じ「匿名での大規模コミュニケーション」という表層だけを見ると似ているかも知れないが、多分この二つは全く違う。
2ちゃん上のコミュニケーションというのは、混沌としている様で実は結構厳密である。2ちゃんでの会話は「板」と「スレ」に支配される。板違い、スレ違いのことを書くと叩かれる。2ちゃんというのは、実は凄くはっきりした「話題への集積」の場なのだ。
一方で「はてな匿名ダイアリー」はどちらになるかというと、多分どちらでもない。一昔前に隆盛したティーカップ掲示板の様な、「何かに従属しない集積」というか。それらしい言葉を使えば「非従属集積」、平たく言えば「未整理集積」って感じになるだろう。匿名だから個人には従属しないし、日記だから話題にも従属しない。でもトラバはあるし、会話も出来る。自然発生的に会話の流れが出来ることも頻繁にある。
一言で言うと、2ちゃんは結構厳密に「情報が整理された」場だが、匿名ダイアリーはそれとは対極で、「未整理な状態」が特徴の場である、ということになるだろうか。
匿名ダイアリーは結構読みにくいんで、Viewerが欲しいなあと思ったことがある。いっそDelphiか何かで作っちまうか、とも考えたんだが、なんとなく野暮な気がして手が止まった。Viewerで、整理された状態であれを読んでも、もしかするとあんまり楽しくないんじゃないかと、ちょっと思ったからだ。
先ほどTeacupの名前が出たが、「未整理集積」に関してはべつに新しいものじゃない。それどころか、かつての草の根ネットや当初のNiftyを考えると、「先祖帰り」と言ってもいい様なものだ。今では「未整理」の方が珍しくなっているというのは、ネット上での情報整理形式が、かつてとは比べものにならない程整備されたという意味でもある。勿論Googleの存在も大きい。
見方を変えると、これだけインフラが整ったWebで、未整理状態の匿名ダイアリーが盛り上がっている状況というのは、それだけでも結構面白い。はてラボはWebサービスの実験場だということだが、この「匿名ダイアリー」がどんなところに着地するのか、傍観者として楽しみでもある。
でもまあそれとは別に、増田ビューワは正直欲しいなあ。言及先の再帰ポップアップくらいでもいいから。暇になったら挑戦してみようかしらん。
2007年05月01日
いじめ報道と、産科医減少問題って構造が同じなんじゃないか。
と、思った。すいません長いです。
Webとも関係がない話じゃないんだが、メタ議論になるとブーメランが返ってきそうなんで、ちょっと気をつけながら書く。
まずは紹介してみよう。近畿圏の産科医問題に関しては、天漢日乗さんが以前から、詳細に綴られている。
「マスコミたらい回し」というシリーズ、どの様なスタンスをとるにせよ一度は全部読むことをオススメしたいのだが、取り敢えず一つ挙げてみよう。
「マスコミたらい回し」とは? (その45) ネットにカルテ流出ってホント?
物凄く乱暴に要約すると、奈良県の大淀病院で起こった妊婦死亡事故を端緒にした、メディアの感情的な病院バッシングによって、奈良県周辺での医療機関、特に産婦人科の医療体制が軒並み崩壊しつつある、というお話だと思う。
続きを読む
Webとも関係がない話じゃないんだが、メタ議論になるとブーメランが返ってきそうなんで、ちょっと気をつけながら書く。
まずは紹介してみよう。近畿圏の産科医問題に関しては、天漢日乗さんが以前から、詳細に綴られている。
「マスコミたらい回し」というシリーズ、どの様なスタンスをとるにせよ一度は全部読むことをオススメしたいのだが、取り敢えず一つ挙げてみよう。
「マスコミたらい回し」とは? (その45) ネットにカルテ流出ってホント?
物凄く乱暴に要約すると、奈良県の大淀病院で起こった妊婦死亡事故を端緒にした、メディアの感情的な病院バッシングによって、奈良県周辺での医療機関、特に産婦人科の医療体制が軒並み崩壊しつつある、というお話だと思う。
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2007年03月26日
許せないブロガーと、怒れないブロガー。
あんまポジティブな話じゃないが。
随分昔、「書く」ことで食っていければいいなーと思ったことが、そういえばあった。一時期それに近いバイトもしていたんだが、結局諦めた。諦めて正解だったと今では思っている。
何故かというに、多分私には「許せんと思う能力」が決定的に欠けている。
文章を書くという行為は二段階に分かれる。「発想」と「表現」である。書いて面白いことを思いつくかどうかが「発想」のパートであり、それを上手く文章に書けるかどうかが「表現」のパートである。
「表現」は、その種類こそ数限りなく存在するが、要するに技術だ。技術は練習によって磨かれる。
本を一度も読んでいない人でも、努力次第で売り物になる文章力を手に入れることは可能だ。志賀直哉や三島由紀夫の語り口を身につけることだって、それ相応の時間をかければ出来るだろう。
一方の「発想」は、努力次第で引き出しを多くすることは当然可能だが、最終的には才能だ。「多くの人を引き付けるネタ」を安定して発想出来るかどうかは、徹頭徹尾センスの問題である。
そして多分、「発想」の強烈なブースターというか、重要な1パーツを担っているのが「何かを許せないと感じる能力」なんではないか、と思う。
批判能力とか、怒りんぼパワーとか、色んな言葉で言い換えることが出来るだろう。
ブログを書くこと、それ以上にブログを読むことによって、かつて薄々感じていたことをつくづく実感した。コラム、エッセイ、時事ネタ記事からブログ論や一部の創作に至るまで、「これは許せん」という感情から生み出される発想というのは、本当に豊富なのだ。パワーに溢れているのだ。
ブログ界隈でいえば、例えば一時期隆盛したトラックバック問題。匿名実名議論。リンクフリー問題。
ブログに留まらない問題なら、例えばウヨサヨ論争。政治論、マスコミ論、世評、全ては「ある対象への批判」時にはある対象の否定、場合によってはあら探しに立脚している。ずっと昔から例外なく。
そして、「許せん」という思いは、いい意味でも悪い意味でも読む人を引き付ける。何かを肯定する記事よりも、何かを否定する記事の方が視線を集めるものなのだ。
でなければ週刊誌は売れないし、はてなブックマークで「これはひどい」タグが隆盛することもない。悪い側面の話では、例えばブログの炎上とか2ちゃんの一部の板の繁栄も、全ては「許せんという感情」に根ざしている。
「許せん」という議論が建設的、論理的である場合もあれば、そうでない場合もある。取り敢えずそれは置く。
何かを否定しようという欲求が明確だから、色々な材料が思いつく。発想が沸く。論争を呼ぶ。
そして、何かを否定する指針が明確だから、明確な結論を導くことが出来る。読む側からすれば非常に分かりやすい。
私には「嫌いなもの」があんまり無い。
「嫌いなこと」もあんまり無い。
私は多分、何かを分析したり思考実験にかけることはそれなりに出来る、と思う。何かおかしいと感じたり、おかしいと感じた理由をつきつめたりすることもまあそれなりには出来る、と思う。
でも、それはつまり書き手としてのパワーには欠けているのだ。何かおかしいかな、という違和感を感じても、まあそういうのもありなんじゃないかね、と私は思ってしまう。それ以上突き詰めるところまでなかなか辿り着けない。突き詰めたとしても、明確な結論はあんまり出ない。ネット上の論争のトリガーになることなんか到底無理だ。
だから、私は多分、「発想」を常に必要とされる職業では食えなかっただろうと思う。
Web上で怒っている人を見る時、私は色んな感想を持つ。勿論、その人が怒っている内容に考えさせられる。それがトリガーになって自分で色々と考えることもあるし、そんなこと気にして疲れないんかな、と思うことも時にはある。
そして、「こう怒れるのは凄いな」と思うことも、揶揄でも皮肉でもなんでもなく、ある。結構よくある。
Web上での議論を遠慮する必要なんかどこにもない。批判や怒りがない静かなWebなんかつまらない。「怒れる資質」をもっている人には、やり過ぎない程度にばきばき頑張って欲しいと思う。
そんな中、「怒れないブロガー」としてひっそりのらくらと書き続けていくにはどうしたもんかなー、と、私はなんとなく考えている。
随分昔、「書く」ことで食っていければいいなーと思ったことが、そういえばあった。一時期それに近いバイトもしていたんだが、結局諦めた。諦めて正解だったと今では思っている。
何故かというに、多分私には「許せんと思う能力」が決定的に欠けている。
文章を書くという行為は二段階に分かれる。「発想」と「表現」である。書いて面白いことを思いつくかどうかが「発想」のパートであり、それを上手く文章に書けるかどうかが「表現」のパートである。
「表現」は、その種類こそ数限りなく存在するが、要するに技術だ。技術は練習によって磨かれる。
本を一度も読んでいない人でも、努力次第で売り物になる文章力を手に入れることは可能だ。志賀直哉や三島由紀夫の語り口を身につけることだって、それ相応の時間をかければ出来るだろう。
一方の「発想」は、努力次第で引き出しを多くすることは当然可能だが、最終的には才能だ。「多くの人を引き付けるネタ」を安定して発想出来るかどうかは、徹頭徹尾センスの問題である。
そして多分、「発想」の強烈なブースターというか、重要な1パーツを担っているのが「何かを許せないと感じる能力」なんではないか、と思う。
批判能力とか、怒りんぼパワーとか、色んな言葉で言い換えることが出来るだろう。
ブログを書くこと、それ以上にブログを読むことによって、かつて薄々感じていたことをつくづく実感した。コラム、エッセイ、時事ネタ記事からブログ論や一部の創作に至るまで、「これは許せん」という感情から生み出される発想というのは、本当に豊富なのだ。パワーに溢れているのだ。
ブログ界隈でいえば、例えば一時期隆盛したトラックバック問題。匿名実名議論。リンクフリー問題。
ブログに留まらない問題なら、例えばウヨサヨ論争。政治論、マスコミ論、世評、全ては「ある対象への批判」時にはある対象の否定、場合によってはあら探しに立脚している。ずっと昔から例外なく。
そして、「許せん」という思いは、いい意味でも悪い意味でも読む人を引き付ける。何かを肯定する記事よりも、何かを否定する記事の方が視線を集めるものなのだ。
でなければ週刊誌は売れないし、はてなブックマークで「これはひどい」タグが隆盛することもない。悪い側面の話では、例えばブログの炎上とか2ちゃんの一部の板の繁栄も、全ては「許せんという感情」に根ざしている。
「許せん」という議論が建設的、論理的である場合もあれば、そうでない場合もある。取り敢えずそれは置く。
何かを否定しようという欲求が明確だから、色々な材料が思いつく。発想が沸く。論争を呼ぶ。
そして、何かを否定する指針が明確だから、明確な結論を導くことが出来る。読む側からすれば非常に分かりやすい。
私には「嫌いなもの」があんまり無い。
「嫌いなこと」もあんまり無い。
私は多分、何かを分析したり思考実験にかけることはそれなりに出来る、と思う。何かおかしいと感じたり、おかしいと感じた理由をつきつめたりすることもまあそれなりには出来る、と思う。
でも、それはつまり書き手としてのパワーには欠けているのだ。何かおかしいかな、という違和感を感じても、まあそういうのもありなんじゃないかね、と私は思ってしまう。それ以上突き詰めるところまでなかなか辿り着けない。突き詰めたとしても、明確な結論はあんまり出ない。ネット上の論争のトリガーになることなんか到底無理だ。
だから、私は多分、「発想」を常に必要とされる職業では食えなかっただろうと思う。
Web上で怒っている人を見る時、私は色んな感想を持つ。勿論、その人が怒っている内容に考えさせられる。それがトリガーになって自分で色々と考えることもあるし、そんなこと気にして疲れないんかな、と思うことも時にはある。
そして、「こう怒れるのは凄いな」と思うことも、揶揄でも皮肉でもなんでもなく、ある。結構よくある。
Web上での議論を遠慮する必要なんかどこにもない。批判や怒りがない静かなWebなんかつまらない。「怒れる資質」をもっている人には、やり過ぎない程度にばきばき頑張って欲しいと思う。
そんな中、「怒れないブロガー」としてひっそりのらくらと書き続けていくにはどうしたもんかなー、と、私はなんとなく考えている。
2007年01月06日
「総括」する側、される側。
前のエントリーの続き、になりそう。すいません長文です。
私がのんきにレトロゲームで遊んでいる間に、世の中は賑やかに移り変わっている様だ。浦島太郎になる日も近い。
先日の記事の関連エントリなどつらつらと覗いて回っていると、面白いやりとりを見つけた。ちょっと長いが経緯を追ってみよう。
メディアはマッサージである(池田信夫 blog様)
『死ぬ死ぬ詐欺』 を 『死ね死ね詐欺』 と言い換えないでください(シム宇宙の内側にて様)
またなにやら2ちゃんねるが遡上に上がっているが、池田氏は過去のエントリなども拝読するに基本的には2ちゃんねるをよく思われていない方。レスの抽出の仕方などを見るに、fw0氏はおそらく日常的にある程度2ちゃんを使っておられる方だろう。
続きを読む
私がのんきにレトロゲームで遊んでいる間に、世の中は賑やかに移り変わっている様だ。浦島太郎になる日も近い。
先日の記事の関連エントリなどつらつらと覗いて回っていると、面白いやりとりを見つけた。ちょっと長いが経緯を追ってみよう。
メディアはマッサージである(池田信夫 blog様)
『死ぬ死ぬ詐欺』 を 『死ね死ね詐欺』 と言い換えないでください(シム宇宙の内側にて様)
またなにやら2ちゃんねるが遡上に上がっているが、池田氏は過去のエントリなども拝読するに基本的には2ちゃんねるをよく思われていない方。レスの抽出の仕方などを見るに、fw0氏はおそらく日常的にある程度2ちゃんを使っておられる方だろう。
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2006年11月02日
ブログ観測者問題・追加。
命題その8:ある時事ネタ「○○」が存在する時、「○○には興味はないので触れない」「○○はどうでもいいが」とわざわざ書く人は○○をスルー出来ていない。
命題その9:○○に本当に興味がないブロガーは、そもそも○○についてエントリーを書かない。
結論その4:Web上で、ブロガーの興味の欠如を観測することは出来ない。
うん、こっちの方がなんとなく観測者問題っぽいぞ。何か違う気もするが。
ブログにおいて、「どうでもいいが」「興味はないが」という言葉の多寡は何かのバロメータになる様な気がする。スルー出来ないけど、スルーしたとアピールはしたいココロ。ほっときたいけどほっとけない。ああ、ツンデレ度か。
そもそも本当にどうでもいいことや興味がないことには触れもしない訳で、うちの奥様など興味がないことはシャレ抜きでガンスルーである。私は、彼女がYahoo!スポーツのリンクをクリックしたことを未だかつて目撃したことがない。オリンピック期間だろうがワールドカップだろうが盆だろうが正月だろうが、興味がないもんは興味がないらしい。見上げた徹底ぶりである。
ちなみに、不倒城を「どうでもいいが」で検索してみたら15個くらいのエントリーが引っかかった。ツンデレ度15/450くらいか。多いのかどうかは知らない。
ツンデレ好きな人は、Googleで「興味はないのだが」「どうでもいいが」で検索すると楽しいよ!楽しいよ!
ところで、「ツンデレ」の語意に対する私の認識は合っているんでしょうか。まあどうでもいいんですが。
ブログ観測者問題・スルー論
命題その9:○○に本当に興味がないブロガーは、そもそも○○についてエントリーを書かない。
結論その4:Web上で、ブロガーの興味の欠如を観測することは出来ない。
うん、こっちの方がなんとなく観測者問題っぽいぞ。何か違う気もするが。
ブログにおいて、「どうでもいいが」「興味はないが」という言葉の多寡は何かのバロメータになる様な気がする。スルー出来ないけど、スルーしたとアピールはしたいココロ。ほっときたいけどほっとけない。ああ、ツンデレ度か。
そもそも本当にどうでもいいことや興味がないことには触れもしない訳で、うちの奥様など興味がないことはシャレ抜きでガンスルーである。私は、彼女がYahoo!スポーツのリンクをクリックしたことを未だかつて目撃したことがない。オリンピック期間だろうがワールドカップだろうが盆だろうが正月だろうが、興味がないもんは興味がないらしい。見上げた徹底ぶりである。
ちなみに、不倒城を「どうでもいいが」で検索してみたら15個くらいのエントリーが引っかかった。ツンデレ度15/450くらいか。多いのかどうかは知らない。
ツンデレ好きな人は、Googleで「興味はないのだが」「どうでもいいが」で検索すると楽しいよ!楽しいよ!
ところで、「ツンデレ」の語意に対する私の認識は合っているんでしょうか。まあどうでもいいんですが。
ブログ観測者問題・スルー論



