2016年09月28日

我々は「炎上すれば炎上する程喜んじゃう人」にどう対処すべきか


むかーし、むかし。といっても今でも板(掲示板)によっては貼られることがあるようですが、「2ちゃんねる」のいろんな板の共通AAとして、こんなものが貼られていたことがありました。表示が崩れてたらすいません。


 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
 || ○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。
 || ○重複スレには誘導リンクを貼って放置。ウザイと思ったらそのまま放置。
 || ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
 ||  ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
 || ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを
 ||  与えないで下さい。              Λ_Λ
 || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて   \ (゚ー゚*) キホン。
 ||  ゴミが溜まったら削除が一番です。       ⊂⊂ |
 ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_      | ̄ ̄ ̄ ̄|
      (  ∧ ∧__ (   ∧ ∧__(   ∧ ∧     ̄ ̄ ̄
    〜(_(  ∧ ∧_ (  ∧ ∧_ (  ∧ ∧  は〜い、先生。
      〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
        〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ

荒らしというのはこの場合、「掲示板やチャットに不適切な投稿をし、正常な運用を妨害する行為のこと。及びそのような行為をする者」を指します。定義や程度も色々ですが、2ちゃんねるに限らず、昔からこういう人たちはネットにたくさんいました。愉快犯的な人もいましたし、天然な人もいました。

大筋、「荒らしは放置、反応してしまった時点で負け」というのは、「2ちゃんねる」においては共通見解、常識の一種として動作していたと思います。11年くらい前に書いたんですが、「荒らしを「ごくありふれた存在」と見なすことで、結果的にトラブルが発生することを防いでいる、あるいはトラブル自体の存在価値を下げている」ということが、2ちゃんねるにおける一般的な荒廃対策の一つでした。荒らしは「どこにでも沸く」ものだったんですね。



最近、この「荒らしはスルー」という言葉について思い出すケースが増えました。

勿論ケースバイケースだとは思うんですが。webには「PV至上主義」及び「PVをお金に変える仕組み」というものが存在しておりまして、中にはPVを欲するあまり、意図的に炎上を引き起こすような言論を駆使する人、というものが見受けられます。注目中毒、影響力中毒ですね。

こういう人は、上記のような言葉でいうところの「荒らし」と認識してしまっても問題ないように思います。

そういう人たちは、自分に批判的な指摘や意見がいくら舞い込んでも、却って「これでPVが増えた」と喜んじゃうんですね。更に、Webには「注目されている人」を無条件でもてはやすような勢力もいて、炎上することで却って「信者」を増やしてしまうことすらあります。彼らが寄せられた意見によって考えを変えることは決してありませんし、2度、3度と同じような炎上を狙う為に、また同じ行為を繰り返すだけです。


早い話、「炎上を起こすと喜んじゃう人」というのがいて、そういう人に対しての一番の対応法は「スルー」なんじゃないかなー、と。我々は2ちゃんの過去の教訓から、それを学んでもいいんじゃないかなあ、と。


ちょっと面倒なのは、「放置することによって却って悪影響が発生する」ケースですよね。

炎上にもいろんなパターンがあると思うんですが、例えば典型的なところで


・医療ネグレクトを勧める記事
・明確に誤った知識を広めるような記事
・虚偽を元に他者を誹謗するような記事

などについて言えば、たとえ放置出来る人が放置しても、それを観測して信じてしまう人が出ればその分悪影響が広まってしまう訳で、「放置すれば放置する程ひどいことになる」というケースも確かに存在します。


ただ、一つ確実に言えるのは、

「感情を煽ることを目的にした記事に対して、感情を煽られてしまえば相手の注文通りです」

ということだと思うんです。


例えば、明確に誤っているテキストが炎上目的で投下されて、放っておくとそれを信じてしまう人が出る、というような状況であっても、感情任せにどーっと人格批判を寄せる、というのは投下者の意図通りである可能性がある。とすれば、単に冷静に「その意見は誤っている」というテキストだけを提示し、それ以外は一切アクセスを寄せない、という、いわば「準スルー」とでもいうような対応がもっとも適しているんじゃないかなあ、とは思います。「誤っている」ということは明示しつつ、煽られない。


そして、例えば単純に「非常に偏った知見をこれ見よがしに開示するような記事」であるとか、「単に人気があるものにケチをつけるだけの記事」であるとか、あからさまに「炎上PV狙い」といえるような記事については、これはもう「完全スルー」が一番なんじゃないかと。そうすることが一番、「Webにおける彼らの影響力を下げる」ということにつながるんじゃないかと、私は思います。



ここ最近、WebにおけるPV至上主義って本当に誰も幸せにしないなーと思うことしきりでして、それが少しでも緩和されればいいなあ、と思うところ大です。

その為にも、「人を嫌な気分にさせつつPVを稼ぐこと」が目的のような人達が一切報われない世界に来て欲しいなーと。その一助として、時には「2ちゃんねる」の教訓を思い出してもいいんじゃないかな、と考える次第であります。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 09:36 | Comment(12) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月28日

「面白い記事を書く、という能力」はどうやって育つのかなあ、という話


ちょっと、妥当なアプローチをするのがなかなか難しい問題だとは思うんですが、一応私の考えを書いてみます。


整理からはじめると、テーマは

○「面白くはないけれど、PVは稼げるという技術」について
○「面白い記事を書く、という能力」について

の大きく二点になります。

防御線ですらない当たり前の大前提として、「面白いかどうか」というのは人によりますしジャンルによりまして、客観的な評価軸なんてものが最初から存在しない、ということは確認しておきたいです。私の記事は私にとってちょう面白いですし、けれどそれが他の人にとっても面白いかどうかは知ったこっちゃないですし、人によってはコピペノウハウ記事が面白い人もいるのかも知れません。私にはちょっと理解出来ませんが。

なので、以下の「面白い」は、基本的に「私にとって面白い」だと思ってお読みください。


○「面白くはないけれど、PVは稼げるという「技術」について


はてなの大御所id:p-shirokuma先生が、こんな記事を書いてくださいました。



大筋として、私とp-shirokumaさんのスタンスは通底していると思いますので、反論という訳でもないのですが。

 とにかく、「その人にしか書けないこと」を書いて「しかも面白い」って、難しい人には難しいのでしょう。控え目に言っても、全員が一定レベルの「日記」「ご意見開陳」「論評」を書けるわけではありません。

 一方、“はてなブックマーク互助会”“面白さを無視したコピペ記事大量生産”といった方法は、努力さえすれば、誰でも実現可能です。どんなにつまらない人間でも、面白いかどうかはともかく一定のPVや読者数を稼げるという意味では、こちらのほうが優れているのではないでしょうか。
はてなブログには沢山の新人ブロガーが参入し、そのなかには、面白い記事が量産できるわけではないけれどもPVが喉から手が出るほど欲しい人も混じっていました。そういう、従来ならブログ世界で救われないはずのつまらない人達に救いの手を差し伸べたのが、誰にでも再現可能なブログ技術と、その技術を提供する人達でした。なるほど、提供者達が崇拝されるのもわかるような気がします。

「技術」の評価は、第一義的には、それが目的に沿っているかどうか、で為されるべきです。この場合の目的は、「ブログの記事でPVを稼ぐこと」になるかと思いますので、「どこかで見たようなノウハウ記事の引き回し」「それらの再利用・再生産」という技術を駆使して、「月に○○PV」といった記事を書いている人たちがいる以上、その技術にはある程度評価するべき有効性があるのでしょう。


ただ、その先には何があるのかなあ、と。それによって何が育つのかなあ、と。


以下、ちょっとシャドーボクシングになってしまうかも知れませんが。

インターネットにあまり価値がない情報が撒き散らされるという問題をおいておいても、コピペや既存記事引き回しによって育つ能力は「コピペ材料を探してくる能力」と「若干文章をアレンジする能力」だけです。PVを一時的にでも稼ぐことは可能かも知れませんが、自分で「新しいコンテンツ」を生み出していない以上、そこには「その先」がありません。

言い方を変えると、地力がつかない。

技術は、「目的に沿っているか」ということ以外に、「発展性があるかどうか」という点でも評価されなくてはなりません。そういう意味では、「量産型ブログ運営術」と呼ばれるものには、大きな瑕疵があると思います。

剣豪は、農民マスケット兵よりもずっと強いかもしれない。しかし、マスケット銃が普及し農民兵が簡単に訓練できるようになり、それを前提とした戦術が普及するにつれて、個人的な技芸は人並み程度でも構わないと考える人が増えるようになり、剣豪は以前ほどリスペクトされなくなります。

マスケット銃を生み出す「火薬」の技術は、更にその先、「化学」や「ライフリング」といった技術に繋がっています。だからこそ価値が大きい。ただ、「量産型ブログ運営術」は一体どこに繋がっているのかなあ、と。


いや、勿論、PV稼ぐのも大事なことなんだろうと思いますよ。読まれているというモチベーションがないとそもそもブログ続かない、というのもそうなんだと思いますし。PVがマネタイズに繋がるならそれはそれでよいことだと思いますし。ただ、ブログだけで言うほど稼げてる人っているのかな、という疑問はないではないんですが。ブログや有料メルマガだけで稼げるならサロンとかコンサルとかくそ面倒くさいことする必要ないんじゃごにょごにょ。



○「面白い記事を書く、という能力」について


多分なんですが、「面白い記事を書く能力」って、育つと思うんですよ。


どこかから出来合いのものを見つけてきてそれをアレンジするのではなく、自分で材料を拾ってきて、自分で考えて、面白そうなものに仕上げて、人にも見える場所においておく。

それを繰り返すことで、徐々に「色んな人にとって面白い記事」を生み出せる頻度や可能性が上がっていく。これは、あらゆる分野、あらゆる場面で有用なノウハウの塊です。civ4でいえば、それこそ「筆記」ですよね。筆記やアルファベットは、決して陳腐化しません。


私が考える、「その人にしか書けない」って、そういうことです。
誰かの思考の正確なトレースは、他の誰かには出来ない。だから、「面白いものに仕上げようという、その人なりの工程」が入ったものは、その人にしか書けない。そういう意味では、書評だろうが、考察だろうが、日記だろうが、何かのレビューだろうが、「その人にしか書けないもの」ってのは成立すると思うんですよね。私、自分が書く書評は自分にしか書けないだろうと勝手に思ってますし。(そもそも書きたいかどうかは置いておく)

冒頭に書きましたが、「面白いかどうか」は人によって、ジャンルによって異なりますから、結果的に「たくさんの人にとって面白い」記事が生まれるかどうかは確率の問題です。ただ、その確率は、努力次第で高めることが出来るし、その確率を高める能力は育てることが出来る。それが私の考えです。


けれどそれは、多分、「量産型ブログ運営術」といえるようなものだけを摂取していると、育たない。


今、ある程度長く個人ブログ界隈で生き残っている人たちって、多かれ少なかれ、みんな上のようなことをやってきた人たちだと思います。時には泥をなめながら、時には誰にも読まれないことに絶望しながら、必死で上記サイクルを回してきた人たちから生まれる文章って、少なくとも私にとっては「なにこれすげー面白い」ってなるヒット率が非常に高いんですよ。


ただ、この過程でのモチベーションの維持、というのはどうしても難しい問題ですよね。やっぱり、「書いても書いても誰も読んでくれない」というのは結構な失望を生んでしまうものかも知れませんから。


私自身は、どうも自分の記事が好きすぎて、自分で自分の記事を読んでるだけで「なにこれおもしれえ」となっちゃうちょっとアブナイ人なので、ブログを始めて11年、モチベーションの問題には余り突き当たりませんでした。

これは断言出来ると思うんですが、「面白い」はまず、「自分にとって面白い」から始まります。自分以上に、自分の面白さを面白がれる人はこの世に存在しません。

私は、「うるせえ周りは黙ってろ」「俺が、俺にとって面白いことを書いてるんだ、文句あんのかコラ」というスタンスに近いですし、そういうスタンスの人が増えて欲しいなあ、と思っています。それは何故かというと、そういうスタンスで続けることこそが、「面白い記事を書く能力」という「技法」に繋がっているからだ、と思うからです。

そして、そういうスタンスでブログを続けていると、比較的「誰にも読んでもらえない」という状況に対する耐性が上がるので、「生き残り」が増える可能性も割と高いんじゃないかなあ、と、そう思ったりしているわけです。面白い記事は、観測さえ出来ればいつかはPVに繋がるんじゃないかなあ、と。

そういう意味でも、いわゆる「誰にでも書ける」大量生産記事って弱いと思うんですよね。あれ、書いてて自分で「これおもしれえ!」と思えるのでしょうか。多少PVがついても、それがないと結構モチベ的につらいんじゃないかと思ったりするんですが。

まあ、勿論泥臭い話ばかりではなく、もしかすると他にも「面白い記事を書く能力」を育てる技術ルートはあるのかも知れませんけどね。私の考えは、こと「書く」というフィールドにおいては古臭いかも知れません。それでも、あらゆる時代、あらゆる場面で、こういうアプローチは有効だ、とは思っていますが。


事実、クソ面白くないブログまでもがインターネットを汚しながら成果の果実を手に入れています。ええ、彼らの技術とブログは、旧式の石炭火力発電所のようにやがて陳腐化していくに違いありません。でも、その頃には一回り新しい、やはり再現可能な技術がメディア工学者によって開発され、提供されていることでしょう。

上のような意味で、彼らが手に入れている「果実」は、私が手に入れたい「果実」とは随分違うもののようなので、そういう点で私は「脅威」はあまり感じていません。ただ、「量産型ブログ運営術」的なものがあんまり増えると、私にとって面白いものが生まれる可能性が減るし、観測もどんどんしにくくなってしまいますので、何とかなって欲しいなあ、と思って書いたのが先日の記事、という次第です。

これからも、随所随所で「こっちのみーーずはあーまいぞ」という記事は書いていきたいと思います。ほーたる来い。



と。結構長くなってしまいましたので簡単にまとめておきますと、

・いわゆる「量産型ブログ運営術」とでもいう物には、「PVを稼ぐ」という目的において一定の価値があると思います
・けれど、その技術の発展性については私は疑問です
・面白いものを作ろうとしてれば、その内面白いものを作れる(可能性が上がる)能力は身に付くと思うなあ
・けど誰にも見てもらえない時期はモチベーションの維持が難しいので、「俺おもしれえ!」モードに入れるといいですよね
・今の時代に創元のアドベンチャーゲームブックの記事とか書いてると、「誰がこれ読むんだろう」という感覚はだんだん麻痺してくるというかすげーどうでも良くなってきて超楽しくなってくるのでみんな創元のゲームブック記事書くといいです。俺読むよ。
・全然関係ないですけれどciv4天帝は全くクリアが見えなくて逆に楽しくなってきました。シレン4の浜辺の魔洞に近い
・マンサ氏ね


というよくわからない感じになるわけです。よかったですね。

今日はこの辺で。

posted by しんざき at 07:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

「その人にしか書けないこと」が読めるのがブログであって欲しい


いろんなことをぶん投げて書くんですが。


「その人にしか書けないこと」がたくさん読める、そういうのが「個人ブログ」であって欲しい。


誰にでも書ける、どっかで見たような、そんな記事が大量に載っているのが「個人ブログ」であって欲しくない。


もちろん、「結果的に他の人と内容被ってしまった」を防ぐことが出来ないのがブログというメディアではありますけれど、それでも、スタンスとしては「こんなこと書くのは俺しかいねえ!」というのを堅持していきたいですし、「こんなこと書くのは俺しかいねえ!」というのが溢れたブログを読みたいなあ、と私は思うんです。

何より、私自身がブログの読者であり続ける為に、「その人にしか書けないブログ」を目指すブロガーにこそ増えて欲しい。



増田(はてな匿名ダイアリーの通称)で、こんな記事があがっていました。

「今月はアクセス数○万いきましたー」とか「○円もうかりましたー」やらの記事は、
「同じような記事ばっかで飽きたよー」とはおもったけどそれまでだったんだ。

「効率的にクリックさせる広告の置き方」とか「SNS連携ボタン作りました」とかの話ばっかになってるのも、
つまらないし、それはそれで技術系記事かなと思って読んではいたんだ。

でも、最近は「30分で1記事書く方法」とか「○年続けないといけない」とか「1日○記事」とか「量産」とか「1000文字」とか
およそ読ませることを考えてない、読者が苦痛に感じようとなんだろうとbotがそれっぽく判断すればそれでいいという話ばかりで、読まされてる感じが強くて心が折れたというか、「読む意味あるのかな」ってつい思ってしまった。

これ、正直私、同感なんですよ。個人的には、「効率的にクリックさせる広告の置き方」とか「SNS連携ボタン作りました」の時点で、既に「not for me」だったんですが。


「ブログで稼ぐ為には」みたいな、「金銭収入というはっきりした尺度」を全面に押し出す人たちがなんか随分増えたなあ、とは少し前から思っていました。別に、マネタイズは悪いことだとは全然思わないし、「ブログでお金稼ぎ」自体はいいんじゃないの、まあ確かに私もブログでお金入ってくるとうれしいなあ(面倒だから殆どやってないですが)、程度に考えていました。


ただ、その「はっきりした尺度」があり、その尺度を多くの人が共通の価値として持ち始めると、今度は「その尺度を達成すること」だけがメインになってしまうんですね。つまり、「ブログに何か書きたい」というよりは、「ブログでお金を稼ぐ為のテクニックだけが気になる」という人が増えてきた。で、その「テクニック」に基づいて、例えばノウハウ記事とか、収入の報告記事とかがどんどん前面に出てきた。

挙句の果てには、ここ最近「一つの記事に時間かけるより、オリジナルコンテンツじゃなくても大量に記事挙げた方がいい」とか書いてる記事まで見かけました。「誰にでも書けること」を大量に持ってきてPVを稼ぐ。「俺にしか書けないことを書く」とは真逆ですよね。


ひでーなー、というか、「not for me」が進み過ぎて、私にとってはつまらんことこの上ない状況だなあ、と。


確かに、「ブログで金稼ぎ」的なコンテンツを読んで、「ブログで金稼ぎ」に興味を持つ人が増えれば増える程、そういうブロガー向けの薄いノウハウを検索する人も増えるのかも知れないですし、PVも増えて収益が上がるのかも知れません。マッチポンプ感あふれる見事な戦略だなあと感心はするわけですが。


ただ、コンテンツとしてそういうの面白いの?っていうのは、本当にぜんっぜん気にしないんだなあ、と。ブログはメディアであり、コンテンツであるのに、「面白さ」っていう根本的なものを置いていって、そこに未来はあるのかなあ、と。



勿論、ブログに何を書くかは個人の自由なんで、そういう記事を書くことを否定は出来ません。ただ、「それは私には面白くないから、私は読まないよ」というだけです。

ただ、悪いことに、「読まない記事」が増え続けると、「読みたい記事」を観測することがどんどん難しくなってしまうんですよ。


余りにも「私が読みたいもの」が観測しにくくなり過ぎてきたので、そこは私も「自由に書く」権利を行使して、上のようなことを書きたくなった次第です。もうちょっと乱暴にいうと、「知るか、つまらんからつまらんっつってるだけだ」って言い方になるんですが。


どっかで見たようなコピペが大量に氾濫するくらいなら、何の変哲もない日記記事の方が遥かに面白い、と、少なくとも私は思います。日記は、少なくとも、「その人にしか書けないコンテンツ」ではある。誰かと同じ一日が、他の誰かに全く同じように起こる訳ではない。「その人にしか書けない」という時点で、そのコンテンツには十分な価値がある、と私は思うんです。


ニッチなコンテンツが増えれば増える程、少なくとも私は楽しい。だから私は、「2016年の現在、こんな記事の需要が地球上のどこにあるんだ?」という記事だろうと、気にせず書き続ける。誰が読むのかって、私が自分で読むから。目下、バルーンファイトの対戦攻略記事と、civ4天帝のクリアレポート書きたいです。まあ、後者については、そもそも本当にクリア出来るのかというのがかなり怪しいんですが。


「俺にしか書けない記事」を書いて欲しい。「あなたにしか書けない記事」を読みたい。


そういう意味では、「他の人のブログを参考に」なんて一切しない方がいいと思うんですよ。「記事が被らないように軽くチェックする」くらいならいいかも知れないですが、「ああいうブログを書きたい」「あんなブログを作りたい」「あんなブロガーになりたい」なんて、わざわざ劣化コピーになるようなことやって一体どうするんですか?


「俺が!俺が楽しいから!俺にしか書けない、この記事を書いてるんだ!!!!」


というくらいに、俺の俺による俺感が溢れたブログが、ブログ界隈にどんどん増えていくことを、願ってやみません。何よりも、私自身が「ブログの読者」であり続ける為に。


今日書きたいことはそれくらい。



posted by しんざき at 11:30 | Comment(6) | TrackBack(1) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月24日

器の話「ばっかり」だと、中身の話はいつ始まるのかなあ、とか思ってしまう


酒瓶についてあーだこーだ話すのも嫌いじゃないんですが、やっぱり酒が飲みたいなあ、などと思ってしまうわけでして。

この記事で書きたいことは三つだけです。


1.ブログってただの箱じゃないのかなあ。どっちかというと、私は箱よりも中身の方に興味あります。
2.ただ、ブログをただの箱として認識しない層、というのも増えてるのかも知れないですね。そこを狙うなら戦略としてはありかも知れないですが。
3.けど、箱論って短いスパンでネタが尽きがちなんでそれは気をつけた方がいいんじゃないかと。


順番にいきます。


1.ブログってただの箱じゃないのかなあ。どっちかというと、私は箱よりも中身の方に興味あります。

ここ最近はダラバーCSやら長男とのリアル謎解きやらで、あんまりネット界隈の話題を観測してなかったんですが、なんだかブログ論っぽいものがあちこちで盛り上がっていたみたいですね。

しんざきは、ブログ論というものは勿論嫌いではないんですが、ブログそれ自体の話とか、ブログ関連のノウハウの話「ばっかり」だとあんまり面白くないなあ、と感じてしまいます。

ブログを大きくするのはゲームとして面白いですし、ブログそれ自体についてあーだこーだ議論を戦わせるのも、ブログに興味を持っている人間としては嫌いではないです。事実、今もこうやってブログについてあーだこーだ話している訳ですし。

ただ、現実問題として「ブログでPVを稼ぐコツ」だとか、「人目に触れやすいタイトル」だとか、「ブログを書く際のスタンス」だとか、アフィリエイトを絡めた運営方法だとか、おススメ記事にそういうタイトルばっかり並んでいるのを観ると、いまひとつ、こうなんというか、首を45度くらい傾けてモニターを見てしまいます。


何故かというに、ブログというものそれ自体は単なる入れ物であって、ソフト無しのハードが単なる箱であるのと同様、そこに入れる物無しではただの箱に過ぎないと、少なくとも私は認識しているから。

ブログが入れ物だとすれば、メインになってくるのはその中身です。で、そこに何を入れるの?という。私個人は、どちらかというとそっちに興味があります。



2.ただ、ブログをただの箱として認識しない層、というのも増えてるのかも知れないですね。そこを狙うなら戦略としてはありかも知れないですが。

勿論、「ブログそれ自体」の話に強く興味を持つ層、というのもあって。言うまでもないブロガー、つまりブログを運営している人たち。更に言えば、「ブログで何か書く」という表現ツールではなく、例えば影響力を高める為の、あるいは利益や収益を生むツールとしてブログを捉えている人たちが、そこに該当するように思います。目的が具体的であれば、その目的を達成する為の手段に関心が引かれるのは当然です。

ここ最近、一部のブロガーさんたちは、ブログを運営することによるメリットを強調して、上記のような「表現手段としてというより利益を生むためのツールとしてブログを捉えている人たち」を増やし、その人たちを自分の客層として取り込むという、言ってみれば表現とマーケティングを同時に実行する人が若干数いらっしゃるように見受けられます。

ノウハウを表現するのと同時に、そのノウハウに興味をもつ層を増やす、という戦略ですね。これ、実に巧みにやってらっしゃる人もいるんですよ。

その運営方針自体は、戦略としてうまいなーと素直に感心します。最初から「ブログなんてただの箱」と捉えている層には「はてな?」と思われるかも知れませんが、ネットにもそういう層ばっかりじゃありませんものね。


ブログを「表現するための箱」として捉えている層と、「何らかの利益を産む為のツール」として捉えている層の軋轢。そういうものが、ここしばらく結構な頻度で可視化されているように思います。どっちがいい、どっちが悪いって話じゃないんですけどね。魅力を感じるゾーンの違い、くらいの話です。



3.けど、箱論って短いスパンでネタが尽きがちなんでそれは気をつけた方がいいんじゃないかと。

タコが自分の足を食うというとちょっと言いすぎかも知れないですが、一点心配するとすれば、ブログ運営のノウハウなんてそんなにバラエティ豊富なもんじゃないので昔からの話題の再生産になりがちで、その分話題のホットさが維持出来る期間が短いんじゃないかという点ですね。数年前のはてブをさかのぼってみるだけでも、今盛んに話に上がっている内容と大体同じような内容が観測出来ますし。

プレイヤーは盛んに入れ替わるけど結局やってることは同じ、というのも、あまり面白い話ではありません。水戸黄門はある種の伝統芸能ですが、流石にもうちょっと入れ替わるスパンが長いですし。プレイヤーから見ても、入れ替わり入れ替わり、3年後に生き残っている面子はほんの一握り、というのは結構しんどい話だと思います。

勿論、こんなことは外野から見た余計な心配であって、実際には「ブログそれ自体」についての話にもどんどんブレイクスルーが起きていく可能性も否定はしません。


ただ、やはり個人的には「その箱には何が入ってるの?」という、箱を開けたときのわくわく感がなんといっても大好きなので、「箱の中に色んな面白いものが詰まっている」ブログが、引き続き増え続けていくことを願ってやみません。


願わくは、皆様の入れ物が、今後もずっと長く、素敵な中身でいっぱいになっていきますように。ブログ界隈の一層の発展を祈念しております。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 23:11 | Comment(2) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月03日

Seesaaから10年間見つめ続けた「はてな村」について


一言で言うと、「なんか楽しそうでうらやましいけど、だからといって入っていきたいか?と言われるとぶんぶん首を横に振る」という場所でした。

「自分はあの中にいないんだ」という安心感と、「あの中に入ったら面白いかもなあ」という実現させる気もない願望。嫉妬と、恐怖感と、羨望と、優越感と、劣等感が、全てちょっとずつ入り混じった感情だったのかも知れません。



今から、ちょっと昔話をします。

2004年の11月に、それまでやっていた趣味のwebページを畳んでブログを始めました。seesaaを選んだことに深い理由はありません。当時は、ブログを始めることがプチブームになってまして、ブログサービスの比較ページなんてものもまだあちこちにありましたので、それらの中から「どれにしようかな」で適当に選んだ結果です。

そのころはまだ「はてな」のことを、「Googleで検索するとなんか妙な上位によくわからんQAサイトが引っかかってくるよく分からんサービス」としか認識していなかった、と思います。よく覚えていませんが、確かあれが人力検索はてなだった、筈です。もしかするとはてなキーワードだったかも知れませんが。


そんな中、「はてなの人たち」とでもいうべき存在を認知したのは、当時流行っていた「ブログ論」みたいなものを、私も幾つか書いていたことがきっかけだったと思います。


当時、id:ekkenさん、通称「えっけん」さんという人がいました。えっけんさんが書かれる内容は、時には極論が混じりつつもうなずける部分が多く、当時色々と考える種を頂きました。亡くなったという噂も聞くんですが、どうなんでしょうか。

そのえっけんさんが書かれていた内容をきっかけにして、私は「はてなダイアリーの人々」という、いわば総体としての「はてな村」の存在を知りました。彼らははてなブックマークというサービスで、お互いのダイアリーに対して「これはひどい」というタグと論難を延々貼り付けあっているように見えました。


「はてな村の人々」は、当時、私にはこんな風に見えました。

・インフラ的に非常に「顔が見えやすい」、ブロガー個人として認知しやすい、されやすい
・共感を呼びそうな記事にはあまり反応せず、突っ込みどころを見つけたら容赦なく手斧を叩き込む
・手斧を叩き込まれた方もすごい勢いで反撃する
・ダイアリーとはてなブックマークが二層構造になっており、それぞれ少しずつ違うたたき合いをしている
・とはいえとりあえずたたき合いには変わりない
・はてなブックマークを更にブックマークしてよくわからない言い合いをしている
・いくつかのレイヤーに明確に分かれており、しかもそのレイヤーの存在を個々人が認識している
・「はてな」というサービスに愛着、ないしアイデンティティをもっている人が多い



最後のはもしかすると単なる私の勘違いかもしれません。まあ、どの項目についても、非常に個人差が大きな話です。もめ事や手斧の投げ合いが、それ以外のエントリーよりも観測しやすかった、という事情も当然あるでしょう。

とにかく、「IDとしてお互いを認識しあっている人たち」が、「何かもめ事の種があるとわーっと集まってきて喧々諤々始まる」という光景は、私にとって、結構なカルチャーショックでした。

これは今更の議論ですが、「はてブとダイアリー」という二重構造が、はてなブロガー達の顔を見えやすくしていた、という側面はあったのでしょう。はてブをつけあうことで、お互いのIDも認知される。そして、はてブが自分のブログを大きくもする。この二つのインフラは、実に見事な相互作用を有していた、と思います。
(関係ないですが、メタはてブタワーの存在は今でも私の理解を超えています)

正直なところ、単純に「うらやましい」という感情もあったと思います。


seesaaでは、当時から今に至るまで、そこまで濃いユーザー間交流が発展してきませんでした。一部のブロガーさんを中心に一時的に何かが盛り上がることはあっても、それは飽くまでそのブロガーさん個人の求心力であって、インフラが保証したものでも永続するものでもありませんでした。何よりseesaaには、「seesaaブロガーが、同じseesaaブログを見に行く動機になる仕組み」がありませんでした。それは、お互いの顔を見えやすくするという点では重大な欠損でした。

そして今では、seesaaで長いことアクティブに更新し続けている個人ブログはかなりの少数派です。私が昔から観測している中では、もしかするとLSTYさんくらいではないでしょうか。

それに対して、はてなブックマークというインフラを有していたはてなは、「はてな村」という一つの集団として、常に様々なタレントを輩出し続けていました。すげー面白い人たちがたくさんいました。


はてなには、ある一時期(もめ事を核として)わーーーーーっと存在感を輝かせる人と、常に一定の存在感を静かに放ち続けている人の、二つのレイヤーがあるように思いました。そして、いつも変わらず、時には頭を沸騰させながらわーっとたたき合ったり、時には一つの話題で盛り上がったり、時にはわれ関せずで自分の好きなことを語ったりしているように見えました。

当時、「はてなの方を向いて」書いた記事は、実は結構な数あります。というか、ブログ自体の話が絡む記事は、大体はてなの話題に影響されて書いたもののような気がします。

例えばこの記事。

何故Webで揉め事が盛り上がるかというと

当時は、id:Marco11さんとか、id:hashigotanさんが話題になることが多かった時期だったと思います。そのあたりを考えながら書いたらMarco11さんご本人からブコメを頂いて、結構びっくりしたような記憶があります。

この辺の記事も、それぞれ、その時期にはてなで起こっていた騒動を見て書いたものだったように思います。

「個人的な問題でも一般化したい病」について
ただ口汚いだけのテキストを、「毒舌」というラベルで救済するのはそろそろやめにしようよ


こうしてはてなを観測しながら、私自身もはてブを始めたりもしましたが、はてなでブログを書いて存在感を出せる気は全くしませんでしたし、手斧が飛び交う中で自分が生き残れる気もしませんでした。その考えは今から振り返っても全く正しかっただろうと思います。だから、私は今でも、たまーにこうしてはてなの方を向いてお喋りをしながら、seesaaでブログを書き続けています。いやまあ、seesaaで存在感を出せているかどうかは全くの別問題なのですが。


そうして10年が経ちました。


当たり前ですが、コミュニティは生き物なのであって、変化し続けないコミュニティは死んだコミュニティ以外存在しません。はてなも、外から眺め続けている限り、常に変化し続けているように見えます。そして、もめ事の頻度、性格、規模なんかも、昔とは随分変わってきたように思います。


昔の方がよかったなあ、とは正直あんまり思いません。昔のダイアリーでもはてブでも、色々面白い面があると同時に、山のような問題もあったと思います。ベクトルが多少変わっても質量は近似しています。


ただ、あの頃からずっと変わらず、楽しそうにブログを書き続けているはてなの人たちを見ていると、私は何か安心するのです。人が入れ替わり続けても、総体としては変わらず「はてな」であり続ける。そして、その中でも、いつまでも変わらない熱量(多寡はともかく)で書き続けている人もいる。

そんなはてなを見ていると、私ももうしばらく、だらだらとseesaaでブログを書き散らしていきたいなー、と。

そうして、私が昔はてなからたくさんの「考え方のヒント」をもらったように、私も誰かにヒントを与えることが少しでもあるといいなあ、と思うのです。
posted by しんざき at 19:46 | Comment(1) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月02日

不自由になっているのは、多分ブログやWebそれ自体じゃなくて


例えば私たちが普段使っているブログサービスだとか、例えば私たちの情報収集手段だとか、例えば書き手としての私たちであるとか、例えば私たちの観測範囲それ自体とか、そういうもんなんじゃないかなあ、と思うのです。


こちらの記事を拝読しました。

最近、ブログが不自由になってきたと思いませんか?

特に反論とか意見提示とかではなく、上記の記事を読んで思いついたことを根拠なしに書きます。

箇条書きで言いたいことを書くと、下記の通りになります。


・id:orangestar先生の所感、ないし慨嘆は、感覚としては分かる。閉塞感みたいなものは正直感じる
・けれど、少なくとも私に関して言えば、多分観測者としての感じ方、あるいは立ち位置の問題なんだと思う

・昔のWebって、確かに野放しだったし、わけが分かんないものがたくさんあふれていた。楽しかった。
・けど、よく考えてみると、昔の自分が遊んでいた場所だって、別に「Webの全部」ではなかった。一部のブログとか、一部のニュースサイトとか、一部のWebサービスが重なりあって創り上げた、Webの一角。凄い広いけど、Web全体としてみればほんの一角

・そして、その後何が起きたかって、まずは「私、ないし私たちが遊んでいた場所にたくさん人が入ってきた
・たくさん人が増えることによって、人目も増えれば、細かいことで騒ぎ立てる人も、よく分からない批評をする人も当然増える。
・多分、私が直接感じている閉塞感はこれが原因だと思う
はてなにせよ、既存のWeb論壇にせよ、早い話使い込まれ過ぎてしまったのだ。観測されるインフラが整って、寸評を入れる人のインフラも整って、独特で傷つきやすい人は弾き出されるサービスになった。けれどそれ自体は、ただ「人が増える」というだけのことによって発生する当然の変化だ。
・特に、そういった場所で長いこと書き続けている人は、非常に衆目に捕捉されやすくなっている。閉塞感が出ない方がおかしい

・そして、根拠はないけれど、私の観測範囲の外で、Web界隈はまだまだまだまだまだまだ広がっているんだと思う。
・多分、私が知らないところで、また訳のわからないカオスな世界が広がり続けているんだと思う。人がいないWebサービスがいくつもいくつも発生し続けていて、中にはしぶとく生き残っているものもあるんだと思う。そういうところで、わけのわからないことを言っている人も、一顧だにされないテキストを書いている人も、多分いるんだと思う。
・そもそも、単に捕捉されていない、単に可視化されていないだけの人も、まだまだ山ほどいるんだと思う。
・けれど、多分、私は観測者としてそれについていけていないんだ。既にLINEすら世界としては古いけれど、私なんかLINEですら何が起きているのか、何が起きていたのかよく分からない。日本語圏を離れるとより一層分からない。

「あるコンテンツが面白くなくなってきたと感じたら、まずコンテンツの質の低下ではなく、自分の感性の劣化を疑え」というのは金言だと思う

・Webってすごい広いよ。いい意味でも悪い意味でも。

・人が増えて自由が失われる、という側面もあるけれど、悪くない側面もあると思う。デマや、悪意だけで書かれた情報が撃墜されやすくなったりとか。野放しの頃は色々ひどかった
昔のwebが、こういう事件を起こした世界だった、ってことも、私たちは忘れちゃいけないと思うんですよ


・そして、以上のことを踏まえて、私には三つの選択肢がある。
・「これではいかん!新しい世界をもっと開拓しなければ!」と奮起して観測範囲の外に飛び込むか、
・閉塞感と適当に付き合いつつ、今のエリアで過ごしていくか、
・多少でも過ごしやすくなるように、今のエリアを改善していくことに努めるか。

・どれがいいかなー。

・箇条書きとか言いつつ全然箇条書きになってないけど、言いたいことは大体言ったのでもうこれでいいや。



・今日書きたいことはこれくらいです。
posted by しんざき at 11:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月30日

今だからこそ、「実名/匿名」問題を個人的に総括してみる。

早い話、「実名/匿名」という基準と、「責任/無責任」という軸を結びつけて語る時代はとっくの昔に終わった、という話に落ち着くんじゃないかと思う。


先日Twitter周辺で、「匿名批判」を声高に論じている人を久々に見かけた。その際、この人は何をいっておるんじゃろうな、みたいな違和感を感じたので、ちょっと自分の中でその違和感をまとめてみたくなった。今更なあ、と自分でも思わないでもないが、整理の為ということでご容赦願いたい。

以下はおはなしの要点。


・匿名批判の中核は、実名を出すかどうか、ということよりも「発言にリスクをとっているかとっていないか」「発言に責任をとっているかいないか」という部分にあると思う。

・しかし、実名であること、匿名であることがどの程度のリスクになるか、というものは人それぞれであって、責任ある発言・無責任な発言を保証するものではない。ありふれた名前の人、珍しい名前の人、実生活と容易に結び付けられる発言をしている人、そうでない人、それぞれ実名匿名のリスクは異なる。

・つまり、「実名か匿名か」という問題は議論の本質ではない。実名であっても無責任な発言をする人はいるし、匿名であっても失うものを持ち、責任ある発言をしている人はいる。

匿名性と「無責任な発言」というものが無条件に結び付けられる土台、というものがどこかにあると思う。

・で、その土台を形成した主要な要因は、多分古き2ちゃんねるに代表される、匿名掲示板に対するイメージだと思う。ネットといえば2ちゃん、2ちゃんといえば匿名での無責任な書き込み、というような連想が残留している人は多分いて、そういう人にとっては未だに「匿名であること」が攻撃対象になる。(これは飽くまで構図であって、実際に2ちゃんを意識しているかどうかとはあんまり関係がない)

・ただ、「2ちゃん的なあり方」というのはもうかなり前からWebの主要なシーンではなくなってきていて、今は匿名IDでも様々なもの、様々な繋がりを「所有する」時代になった。「実名/匿名」という軸と「責任/無責任」という軸は、ソーシャルメディアの発展と共にとうの昔に分離していると思える。

・端的にいうと、「2ちゃん的なもの」ニアリイコール「匿名性と無責任な発言の結合」というものがネットの象徴である時代は、とうの昔に終わった。匿名性がWebの最大の特徴であった時代は、既に終わった。

・名前というのはネット上の人格の数ある属性の一つでしかなく、実名だろうと匿名だろうとたいして関係はない。リスクがあるという意味では、一般人の実名が露見するよりも、使用している複数のWebサービスのIDや位置情報、住所等が横断的にバれた方がよほどリスクがでかい

・上記の諸々とは別に、「実名で過ごすメリットデメリット、匿名で過ごすメリットデメリット」というのは勿論あると思う。ただそれは、批判するしないの話ではなく、単にどちらを選択するか、というだけの話だ。


あれ、言いたいことを大体言ってしまったぞ。


一言で私の感じた違和感をまとめてしまうと、「一体いつまで「2ちゃん的なもの」を匿名の象徴みたいに考えてるんだ」ということ、だと思う。批判するなら無責任な発言の方であって、匿名性ではないだろう、と。

私は個人的に、実名であることのメリットをさして感じる立場にはないということと、1998年くらいから使っている「しんざき」というHNに愛着があることから、今でもしんざきという名前で過ごしている。私はしんざきという名前をそれなりには大事に思っているし、そこまで無責任な発言をしてこの名前を汚してはいないつもりである。客観的に見ればどうなのか分からないが。


来年以降も、しんざき名義でのらくらとテキストを発信していくつもりなので、お見捨てなくお付き合い頂ければ幸いという他ない。
posted by しんざき at 12:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月18日

「生き方の一般化」が無理過ぎる話

要は、勇気がないんでしょ?
[悪意]id:guri_2という、こいつが生きているからこの世界は駄目なんだというような糞野郎を、このリルリルが貴重な時間を浪費して罵倒してあげる

この辺を見ていて、ふと思ったこと。

ここしばらく、「ポジティブ vs ネガティブ」であるとか、「生き方強者 vs 非生き方強者」という様な論争を頻繁に見る。


まず第一に。当たり前の結論から先に言うと、こういった「生き方」的なものを一般化することは本来不可能である。

人間の人生というのは、生まれた瞬間から扇形に枝分かれしていく。生まれた当時は同じ赤ん坊でも、「ある人の十年」と「他のある人の十年」が同じである可能性は、当たり前だが皆無である。

経済状況から現在の環境、好み、人間関係、果ては思考から性格まで無限のパターンが存在するのに、「ある人にとって適した生き方」が「他の人にとっても適した生き方」である可能性が、一体どれだけ存在するというのか。

世の中のあらゆるライフハックからは、「このライフハックは、飽くまで著者にとって有効だったライフハックであって、あなたにも適合するかどうかはさっぱり保証出来ませんよ」という但し書きが抜け落ちている。

勇気のある無しだ、ポジティブだネガティブだ、その辺の話は一から十まで「人それぞれ」という言葉でしか表現し得ないものであって、「正しい・正しくない」ではなく「適している・適していない」という軸でしか語り得ないものである。

しかし、ブログの文言として表現する際に「人それぞれ」とか「私の場合は」とか、いちいち全ての言葉に注意書きを付加していたら鬱陶しくて仕方ないから。ある程度一般化しないとテキストとして格好のつけ様がないから、人は「生き方」議論を一般化するのだ。本来は不可能なことなのである。

これ自体は、別に悪いことではない、と思う。表現の話だ。


で。


ライフハックの発信者の側には、上記の「本来一般化には無理がある」という当然の前提を、把握している人もいれば把握していない人もいる。「自分だけの、自分にとっての理想のスタンス」が他人にとっても理想のスタンスである筈だ、と考える人は、意外なことに割といる様なのだ。そういった人は、「他人も自分の様に生きるべきだ」という確信をもって、自分の生き方を啓蒙する。

勿論そうでない人もたくさんいて、そういった人は「これは飽くまで俺の場合だけど」という逃げ道をどこかに残しつつ、最大限の一般化を試みる訳だ。


それに対して、ライフハックの受信者の側にも、「わかっている人」と「わかっていない人」が、多分、いる。


「一般化の無理具合」を認識している人は、「自分にとっての話」としては生き方議論を受け取らない。冷めた目線であれ、暖かな目線であれ、彼らがライフハックに向けるのは他人事を見る視線だ。勿論、発信者の一般化に無理を感じれば、そこに反発する人もいる。これは多分「アホか、それはお前にとっての話だろう、押し付けんな」という形をとると思う。


「一般化の無理具合」を認識していない人は、生き方議論を「自分にとっての話」として受け止めてしまう。時には頑張ってその「生き方」を実践しようとして、あるいは成功し、あるいは失敗する。そして時には、「生き方」の一般化の無理っぷりを認識しないままに、「何でこんな生き方を押し付けるんだ」「その生き方はおかしい」という種類の反発をする。


私は、上のリンク先の様な議論を見ていて、こう思う。

思考遊びとして「生き方」議論をするのは面白い。けれど、「生き方」は否定出来ない。そして「生き方」は押し付けられない。

「誰かにとって」の正解は、「あなたにとって」の正解じゃない。


上記リンクに対する反応であるとか、ブクマその他のコメントを見ていると、「一般化」に伴う負荷が妙に過大になっている様な、そんな気がする。人の生き方を自分に当てはめ過ぎる人もいれば、妙に過剰に反発する人もいる様な、そんな風に見える。勿論、「人は人」という前提の上で、人の生き方のいいとこ取りをすることは悪いことではない、とも思うのだが。

もしかすると皆わかっていてやっているのかも知れず、その場合私の様な頓珍漢は野暮の極みを言っていることになるのかも知れんが、ちょっと前提を確認しておきたくなった訳だ。

「無理は承知の上」なのかなあ、と。



関連:「個人的な問題でも一般化したい病」について


posted by しんざき at 09:12 | Comment(3) | TrackBack(1) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

ブログの加齢を考える。


ちょっとじじむさいことを考えてみたくなったので、考えてみることにする。


一般論として、「年をとる」ということは、人生の総量における「過去分」のパーセンテージがどんどん増加していくということである。

およそ老化に伴うありとあらゆる現象は、上記段落の延長で表現可能だ。体の老化は、身体的な「過去分」アーカイブが蓄積していくことによって発生する。精神的な老化、例えば物事に新鮮味がなくなっていくというのは「人生経験」という過去分の蓄積によるもの、と表現することが可能である。


勿論、この「過去分の蓄積」にはいい面も悪い面もある。過去分のアーカイブがいい感じに溜まって、その人のレベルアップに寄与する加齢を即ち成長と呼ぶ。過去分のアーカイブが量的に澱んで、その人の在り方に様々な制限を加える加齢を即ち老化と呼ぶ。

「経験を活かして次に繋げることが出来る」ことが成長で、「経験に制約されて次に踏み出せなくなる」ことが老化、かも知れない。


ブログも、多分、成長もすれば老化もすると思う。いい感じに過去分のテキストが溜まっていって、読んでくれる人も増え自分の文章にも幅が出る、というのが「成長という加齢」だ。過去分のテキストに縛られてそこから外れたものが書けなくなり、段々ブログを書くのが面白くなくなってしまう、というのはおそらく「老化という加齢」だろう。

ブログを成長させる為にはどうすればいいだろう。


多分、話は「過去ログを活かす方法」「過去ログとの付き合い方」ということになっていくんだろうと思う。既出、既出が気になってキーボードが重くなってくれば、それは老化。過去ログの方向性が気になって、新しい発想が書けなくなってくれば、それは老化。

一般化する気は全然ないけれど、例えばこういうやり方をすればいいのかなあ、という方法はいくつか思いついた。

・過去ログの「続き」を考える。
・過去ログと今の自分の「差分」を検証する。それをネタに思考を発展させる。
・過去ログへのリンクをガンガン貼る。過去ログを根拠にエントリーを書く。
・既出を怖がらない。既出=補強と考えて憚らない。
・「専門性」を求めて来てくれる読者を意識し過ぎない。専門性に幻想を抱かない。読者を信頼する。


なんかあんまり実行してない気もするな。

大体読んだままだが、例えば5番目。一昔前、「ブログを書くコツ」的な話で、「専門性が高ければ高い程受ける」みたいな項目があったと思う。これ自体は間違いじゃないと思うし、自分の強みを持つというのは重要なことだとも思うけれど、これを「初心者の為の言葉」に位置づけてしまった点については、功罪で言うと罪の方が大きかったんじゃないかと私は考える。

専門性は諸刃の剣だ。ブログの専門性が高ければ高い程、そのブログが話題的に煮詰まっていく可能性も上がるし、発想を発展させることも難しくなる。

そして、「専門性が高いから読者が来てくれるんだ」と考えてしまうと、リピーターが離れてしまうことを恐れてますます「外れた」記事を書きにくくなってしまう、という側面も結構あるんじゃあるまいか。

大抵の書き手の専門性なんて、突き詰めたところで高が知れている。大多数の読者は、そのブロガーの専門性ではなく、そのブロガーが発する言葉を読みに来ていると、私はそう思うけれど。心配しなくても、読者は読まない時は読まないし、読む時には多少外れてても読んでくれるさ、と、私はそう思うけれど。

ということで、不倒城的には次の様な方針になる。

・専門性とかあんまり気にしないで、書きたいことをガンガン書く。
・過去ログは、まあ、たまに読み返す。それで何か思いついたら書く。
・気が向いたら過去ログにリンクを貼る。


アレ?上で書いたこと全然実行してなくね?


それはそうと。上の議論とは一度断絶するけれど、そういえば、昔世話になった編集者さんがこんなことを言っていた。

「一週間前の自分は赤の他人」

文章を書く上では、まあそういう考え方もアリなんだろうなあ、と。

posted by しんざき at 00:24 | Comment(5) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

ただ口汚いだけのテキストを、「毒舌」というラベルで救済するのはそろそろやめにしようよ

世界があまり変わらないのでブログやめようかと思う
 政治的な左右を問わず、相変わらず汚い言葉で自分の感じている正義を主張する大小の声にちょっとうんざりして。
こちらを読んで、ふと思ったこと。ブクマでもそのまんま書いたことだし、正直タイトルの時点で完結してしまってる訳だが。

汚い言葉、というか。問題は汚い言葉じゃなくて、「強い言葉」と「汚い言葉」を混同している人、だと思う。汚い言葉を使うことの印象だけに目がくらんで、その印象が説得力を強化するという幻想を抱えて。

そして、その混同を自覚しないままに、自分の文章の吐き散らし方を「芸風」「持ち味」だと思い込んでしまう人、でもあると思う。前者がレベル1なら後者はレベル2だ。

レベル3になると、ただ思い込んでしまうだけならまだしも、これが自分の芸風なのだと周囲に喧伝してしまう人、という称号を入手してしまう。この辺にくるとそろそろ引き返せない。後戻りをしようにも、振り向けば「過去ログ」という巨大な障害が、天を衝かんばかりにそびえたっている。


「毒舌」という言葉が随分安くなったなあ、と思う。理由はよく分からないが、いつごろからか、単に口汚いだけのテキストを指して「毒舌」という言葉が割り振られる傾向が強くなってきた、気がする。単に暴言を書き連ねているだけの文言に「毒を吐く」というラベルが貼られている現場をよく見かける様になった、気がする。


違うだろう、と。それは「毒舌」という言葉に失礼だろう、と、私は思う。利用価値の無い毒など存在しないのだ。毒舌が毒舌である為には、そこに薬になる成分が含まれていないといけない。毒舌なんてラベルを、そんなにお気楽に使っちゃいけないのだ。

お気楽に用いられた「毒舌」ラベルは、単なる暴言をごくありふれたレベルの文言として免罪し、次から次へと「ただ汚い」言葉を量産していく。それこそ伝染病の様に。

口汚さが説得力を高めるなんてことは絶対にない、と私は思っている。むしろ、口汚いテキストというのは、ただそれだけで重大なハンデを抱えている、と私は思っている。「口汚い」というポジションは、あまりに明確過ぎるから。そこに客観性を乗せるのは至難の業だから。

だというのに、口汚さが説得力を高めると勘違いしてしまう人の数が減ることはない。その理由のひとつが、「毒舌」というラベルにあるんじゃなかろうか、とも私は思うのだ。


凄く念の為に書いておくと、私は「毒舌」が嫌いではない。「毒」を読みたくないと思ったことは一度もないし、言葉狩りをする意図もない。毒も薬も、Webの面白さの重要なエッセンスだ。

ただ、自分のことを毒舌家だと考えている人には、自分のブログのカテゴリーに「毒舌」という一項を用意している人には、一度は立ち止まって頭を傾けて見る義務がある、と私は考える。



この言葉は本当に「毒」を称するにふさわしい言葉なのか、と。

単なる「汚れ」だったりはしないよな、と。
posted by しんざき at 22:03 | Comment(10) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月30日

正しい陰口の叩き方

はてブのコメントが陰口とかちゃんちゃらおかしいですよ、HAHAHA。


率直に言って、「はてなブックマークのネガティブコメントが陰口かどうか」というレベルでの議論をしている人は、そもそも陰口というものを理解していないと言わざるを得ない。陰口素人、陰口ノービス、アマチュアかげぐちゃーである。

陰口の真髄とは何か。それは本人には直接届かないということであり、めぐりめぐって何かの拍子に本人の耳に入る、ということこそまさに陰口を陰口たらしめるエッセンスな訳である。

めぐりめぐるサイクルに本人の意図が届き得ない不快感、発生源が不明瞭ないやらしさ、反論の仕様がない理不尽な情報伝達方式、こういった要素なしに陰口を陰口とは呼ばない。

そこから考えると、アクセス履歴から僅か1クリックで手が届くはてブにおけるネガティブコメントなど、陰口から最も遠い位置にあるテキストであると言う他ない。本人の目の前で、正面切って悪口雑言たれているのとそれ程変わらない。喧嘩を売るのも買うのも大いに結構だと思うが、それを陰口のつもりで行うのは重大な錯誤であると言えよう。

Webにおける「距離の短さ」というものを舐めてはいけない。Web上の人にWebで意見する、という時点で、そこに陰口など成立しない。


少し話は変わる。


この辺の距離感の錯覚というものは、Web全域に渡って色々な問題を発生させている様にも思う。「陰口」のつもりで書いた文言が怖い人達に目をつけられて、大炎上してさあ大変、みたいな状況は凄く頻繁にみる。


何故炎上するかというと。Webにおいて、Web上で強い人々に目をつけられてしまうから炎上する訳である。

どうせ陰口を叩くなら、徹底してネチネチとやるべきなのである。相手が反撃手段をもっているところで陰口を叩いて、かつ反撃されてからあわてふためいてどうするのだ。卑屈さ成分が足りない。未熟極まると言わざるを得ない。


つまり、「正しい陰口の叩き方」というのは以下の一文に集約される。

・Webで強い人はリアルで批判し、リアルで強い人はWebで批判するのが正しい陰口だ!




あ、私ですか?陰口は本人の目の前で言う様にしてますけど。

このエントリーは陰口ですか?いいえ、クリリンです。

posted by しんざき at 16:12 | Comment(5) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月07日

書くということは、読む人の時間を削り取ること。

昔、出版業界の端っこの端っこくらいでバイトをしていた時、色んな人の言葉をつぎはぎして思ったこと。


本を買ってもらうということは、お金をもらうということだ。

本を読んでもらうということは、時間をもらうということだ。

お金は返すことも出来るかも知れないが、時間は決して返金出来ない。だから、文章を書くということには、ある人の人生をその時間分削りとるという覚悟が要る。


今、私は何かを書く仕事はしていない。その代わりブログを書いている。

お金をもらうこともないし、お金を払うこともないし、それでも読んでくれる人はいる。それは本当にありがたいことだと思うんだけど、「人生を削りとる覚悟」というものは、依然として、あるいは前以上に重要であり続けている。「読みたくない人は読まないだろう」というのは全くその通りなんだけど、書き手がそれを拠り所にするのは単なる逃避だ。


長文を書くのは、本当に怖い。長文を読むのに必要な時間に見合うものを、果たして私は提供出来るだろうか。出来たかも、と思うことも、出来なかったんじゃねえかなあ、と思うこともある。それでも、ゼロよりは符号つきの数字の方がましだろうと信じて、私は送信ボタンを押す。


私は今後も書きたいことを書き続ける。誰かの為ではなく自分の為に書く文章も、正直結構ある。ただ、書きたいことをブログという「読んでもらえる」場所に書く以上、覚悟はいつも忘れないでいようと思う。


私の文章を読んだことで削られた人生の、その十分の一にでも見合うものを、私の文章を読んでくれる人に差し出せます様に。


posted by しんざき at 17:30 | Comment(3) | TrackBack(1) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

人は何故、体験談や経験談に「釣り」「ネタ」と指摘せずにはいられないのか。

あなたは、あるいは私は、何の為に「釣り乙」「ネタ乙」というコメントを書き込むのだろうか。放流される予定の魚に、「お前は釣られたんだぞ」と言い含めてやる理由は何だろう?


はてな匿名ダイアリーであるとか、2ちゃんであるとか。
主に匿名畑の掲示板でよく見るのだが、何か体験談、経験談っぽいものが書き込まれ、それにある程度以上の反響や共感が集まった場合、その中には「釣り」「ネタ」と指摘する声が割とある。結構ある。大体ある。


「釣り」「ネタ」というのは、この場合は「実話ではない、創作・妄想」という様な意味になると思う。体験談・経験談に対して「実話じゃないでしょ」「(釣り|想像|妄想)でしょ」と指摘する・あるいは野次る声をしばしば見る、という話である。

その「声」には、きちんとした根拠と説得力を備えたものもあれば、そうでもないものもある。


考えたいことは、大きく分けて二つある。

・釣りを指摘する効果について。
・釣りを指摘する意味について。


順番にいこう。

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posted by しんざき at 16:09 | Comment(6) | TrackBack(1) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月28日

「NGワード機能=ツンデレホイホイ」説。

実は「NGワードに入れればいいじゃん」と言う防御線を張る為に存在している気がするんですよね、アレ。


順番にいこう。

・NGワード機能とは何か。

例えば2ちゃん専用ブラウザ等に実装されている、「NGワードが含まれているレスは非表示にする」という機能。NGワード自体は自分で設定して、それが含まれているレスは存在しないものとして扱われる。


・何の為にあるのか。

一般的には、荒らしのID・名前などを設定して、荒らしが書き込んだレスを丸ごと飛ばす為に存在するものだとされている。されているのだ。


勿論それは嘘ではない。ないのだが、この機能、実際の所荒らしに反応したくてたまらない人対策としての効用の方が大きい気がする。

何度か書いているが、世の中には「憤慨したくてたまらない人」というのがたくさんいるし、「スルーしたということを強調したくてたまらない人」というのもたくさん存在する。2ちゃんにおける、「そういう人々」の含有率は割と高い。

「そういう人々」は、シカトレベルが高い人ならば反応もしない様なレスにいちいちつっかかり、スレを(一部の人にとって)大混乱させたりする。荒らしであろうがなかろうが、本筋から外れた話を延々させられるのは、スレの住人にはたまったものではない。


しかし、そこにはNGワード機能がある。燦然と輝いている。


彼らは、言われる。「そんなに気に入らないならNGにしろ」と。

彼らは、言う。「今日のNGリスト=○○」と。


勿論、実際には彼らはNGリストに追加などしていない。憤慨や負の感情を求めてネットをする人は、決して本心では「気に入らない書き込み」をスルーしようなどと思わないものなのだ。しかし、現に「スルーする方法」はそこにある。彼らは、「自分がスルーしたこと」を周囲にアピールしたいという、ただそれだけの為にNGリストという言葉を使う。


これこそがツンデレホイホイである。


表面的には「NGワード化」して自分のスルー力を周囲にアピールしてしまったものだから、彼らにとって「気に入らない書き込み」は不可視になった。しかし、彼らは憤慨に飢えて止まない。実際には見えない筈の「気に入らない書き込み」を貪る様に読み、憤慨し、しかしツンデレホイホイに引っかかった彼らには、それに言及する術がない。

その結果、彼らはホイホイの中であがく訳である。「レス番飛びまくりwww」と。


スレを正常に運用するにあたって、NGワード機能というのは二重の防御力を発揮しているといっていい。一つは、荒らしに対して。もう一つは、荒らしに反応せずにはいられない人々に対して。実際に使われるかどうかには何の関係もなく、荒らしに反応せずにはいられない人々は、「NGに入れろ」の一言で黙らざるを得なくなる。

この辺、私は2ちゃん及び2ちゃんブラウザの性悪説構造の中に、極めて高い完成度を見る。流石、荒らしが常態化した環境での歴史を積み上げてきただけのことはあるなあ、と思う。思うのだが、NGワード機能の発祥がどこなのか知らんので、実際に誰をリスペクトするべきなのかは謎である。



まあ、それはいいや。話変わって、はてなブックマークについてである。

最近、はてなブックマークにおいて「NGワード機能つければいいんじゃね?」と思うことが多くなった。

特定のIDのブックマークコメントを不可視にする機能はあるみたいだけど、あるNGワードに反応してエントリーごと不可視にする機能は、どうやらまだないみたいだ。

はてなブックマーク界隈にも、「憤慨や負の感情を求めて」注目エントリーを見ている人は、たくさんいる様に思える。別にそれ自体は悪いことだとは思わないけど、それに加えて、「じゃあ読まなきゃいいのに」と思う様なコメントをつけられる方もたまにいらっしゃる。


そういった人に対して「NGに入れればいいんじゃないですか?」という呼びかけを行った時、ホイホイは果たして効力を発揮するのか否か。気になる。




関連:人は何故、「読むと不快になる文章」をわざわざ読みたがるのか。
mixiと2ちゃんの比較論
ブログ観測者問題・追加。
posted by しんざき at 13:50 | Comment(2) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月29日

Webの「キー局」としてのGoogleと、TBSの共通点。

自分の中でちょっとしっくり来たので、なんとなく書き残しておく。既出かどうかは気にしないことにする。


あらゆるメディアには、情報ツールとしての側面と、評価・認証機関としての側面という二面性がある。

ニュース番組がニュースを流す。ニュースという情報を電波に乗せる、「こんな事件があったよ」という情報をお茶の間に放映する、この場合ニュース番組は情報ツールとして機能している。

ニュース番組がそのニュースの内容について、あるいはニュースで報じている事物について、なんらかの評価を付け加えるとする。例えば、「この事件良くないですよね」と付け加える。この場合、ニュース番組は評価機関として機能している。ニュースを流すこと自体が、あるニュースの正しさを認証するということでもあり、この場合もニュース番組は評価機関に近い役割をもっているといえるだろう。


情報は、素の状態ではそっけない。素の状態で情報を流しているだけだと視聴者に受けない→影響力が減ずるから、評価という付加価値をつけて情報の価値を上げる。それが「評価機関」としてのメディアの働きであり、利益を追求する企業としての姿勢でもある筈だ。

多分、ここまでは前提と考えていいだろう。


最近TBSが色々と叩かれていた。この前の初音ミク絡みの騒動だとか、亀田家絡みの話を見るに、乱暴に総括すると「情報ツールとしてメディアを捉えている」文脈と、「評価・認証機関として機能しようとした」TBSの軋轢があった、様に私は感じたのだ。


この前の初音ミク絡みの番組は分かりやすかった。「初音ミクというソフトがありますよ、こんな機能がありますよ、というのは素の情報だ。そこに、「でも、使っている人がこんなんですよ、オタクキモいですよね」という評価を乗せる。これは評価機関としてのメディアの機能である。で、後者の方にWebの一部のヒトビトがエラい文句をつけた、というのがこの前の騒ぎの要約だったと思う。

まあ、この騒ぎについては「評価の内容」が刺激的だったもんで際立っていると思うんだけど。Webのメディア批判の殆どは、「評価機関としてのメディア」を叩いている、という共通点をもっている様に思う。

評価が捏造までいくのはまあ論外だが、とにかく評価が行き過ぎると叩かれる。Web界隈では、評価には極めて厳密な公平性を求められる(本来「公平な評価」「客観的な評価」なんてものはこの世に存在しないと思うが)。というか極端な話「情報ツールに過ぎないメディアが、評価なんて生意気なことをするな」という方向性になっている文脈が結構ある様な気がするのだな。


敢えて極論すると、Webの多くの言論は、メディアに「情報ツールに徹する」ことを要求している、様に私には見える。


以前、毎日新聞の新特集関連で香ばしい事態が発生している件について。で、ちらっとこんなことを書いた。
商業メディアのパワーソースは影響力であるから、影響力を確保する為に自社の報道には偏向をかける。繰り返すが、これは商業メディアにとって「当然のこと」なのだ。

一方、Webの言論は「情報ソースに偏向をかけること」を許容しない。

偏向と言うと聞こえが悪いが、これ、「偏向→評価」に置き換えると今回の構図に大体当てはまるのかなーと思った。


一方、ちょっと興味深く思ったのがGoogleに絡んだ騒ぎだ。

当然のことだが、GoogleやYahoo!の様な検索エンジンも、情報ツールとしての側面と、認証・評価機関の側面としての二面性をもっている。

検索エンジンは、基本的には「検索語と関係するページを表示する」という情報ツールであるが、同時に「このページは検索語と関係していますよ」ということを保証する認証機関でもある。そして、SEO対策だのGoogle八分だのを見ていれば分かる通り、「表示順位」という絶対的な評価方法を有してもいる。


Googleの評価機関としての側面が、実はTBS他大手メディアと本質的に変わらないということを、あんまり意識していない人が多い気がする。Googleは、それが有効だと思えばいつでも「えげつない」やり方で評価機関としての側面を前面に出すことが出来るのだ。そして、WebにおけるGoogleの影響力は、言うまでもなく巨大である。

この前の初音ミクに絡んだGoogle騒ぎは、結局勇み足だったんじゃねえかなと見えなくもないが(ちゃんと追いかけていないので、結局真相がどうだったのかは良く知らないが)、ともあれ随分センセーショナルな騒ぎになった。それは何でかというと、メディアとしてのGoogle、「情報ツール」ではなく「評価機関」としてのGoogleが、今まで余りそれを意識していなかったユーザー達につきつけられたから、という側面もあるんじゃなかろうか。


Googleはまず第一に情報媒体であり、情報ツールであると同時に評価機関でもあり、そして何よりも企業である。Webを代表するツールだったGoogleが、企業として「Webの理屈」から乖離し始めた時、TBSを批判している様な人達はどんな反応を示すのだろうか。
posted by しんざき at 18:30 | Comment(4) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月18日

ブログ=ボトルメール、という距離感。


私は多分、ブログをボトルメールとして書いていると思う。反応も、ボトルメールに対する反応、として捉えている気がする。


勿論、全てのカテゴリーを、という訳ではないし、中には「読んで欲しい誰か」を具体的に意識して書く時もあるけれど。多分、全記事中の半分くらいは、私のブログはボトルメールだ。

紙に自分の書きたいことだけを書き込んで、瓶に詰める。そして、Webの海に向かって放り込む。誰かに読んでもらうつもりで書いてはいるが、誰に届くかは分かりゃーしない。届かないで海底に沈むかも知れないし、でかい魚に食われるかも知れない(バルーンファイト風)。

で。流した瓶に反応がある時もあれば、ない時もある。ただ、実際のボトルメールと同じく、反応には幾つかの種類があると思う。


・水に投げこんだ時の波紋:PVやアクセス数

・別の瓶に入って返事が返ってくる:言及リンクや反論TB

・浸ってたら、横で見ていた人から話しかけられた:ブログコメント

・何だかすげえ大きな瓶が返ってきた、と思って見てたら中から人がたくさん出てきた:ニュースサイトに取り上げてもらう

・海の家に戻ってみたら、机上のノートにどういう訳か色々と感想が書いてあった:SBM(はてブとか)のコメント

・津波(瓶を流してみたら、何故か津波が襲来してきた):リアル知人から電話で感想を言われる

・元寇(瓶を流してみたら、何故か艦隊が襲来してきた):会社バレ



大体上記の様なイメージ。


だから、距離感としてはコメントは近い。かなり近い。近過ぎて、カテゴリーによってはたじろいでしまうことがある、というのも事実である。勿論、話しかけてもらうことは基本的に好きだし、日記なんかはまた別だが。

そして、「別の瓶が返ってくる」という距離感が、私は大好きだ。だから、よそのブログやニュースサイト様に言及してもらえるのは特段嬉しい。ただ、元々の距離感が「瓶に詰めた手紙のやり取り」である為、なんとなくお返事が思いつかない、という場合も割とある。すいません。

たまに爆弾が入った瓶が返ってくるのは不徳のいたす所とゆーか。まあ、それはそれで嬉しいです。

で、上の例だとブクマコメントがあたかも怪奇現象であるかの様に書いてある気もする。まあ怪奇現象というのはそれはそれでいいとして、私はブクマコメントの距離感は嫌いではない。海の家に戻ってノートをめくるかどうかは、瓶を投げた人の自由意志なのだ。見たくない時は、見ない。単純にそれが好きなのかも知れない。

会社バレは幸いしてないです。津波は何度か来ました。今後どうなるかは知ったこっちゃありません。


と、大体以上の様なことを。まなめさんの紹介されているブロガーなら不特定多数に向けて情報発信する方がよいを読んで、私の場合はどんなつもりで書いてるのかなーとか考えることをトリガーにして、行き当たった訳である。私は現時点で十分わがままなので、これ以上わがままになるのもあれかなーとは思うけど。


とはいえ。距離感に関わらず、自分が書いたものを少なくとも誰かは読んでくれている、というのは、本当にありがたいことである。皆さんありがとうございます。

これからもたくさん瓶を投下するつもりなので、気が向いたら拾ってやってください。
posted by しんざき at 00:06 | Comment(3) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月15日

「個人的な問題でも一般化したい病」について

症候群、といってもいい気がする。


恋愛論とか最たるものなんだけど。世の中には、「どう考えても特殊な状況における個人的な問題なんだけど、それを一般的な問題にしたい、凄くしたい」という病気にかかっている人がたくさんいる。そりゃもう数限りなくいる。

新聞やテレビといったマスメディアが、例えば特殊な事件をネタにしてWebやオタク、アニメやゲームといったものを一般的に叩くことに憤る人は多い。が、翻ってみると、「特殊なネタ→一般化」を駆使する病というのは、マスメディアに限らずあたり一面に蔓延しているのである。もうこれは風土病などというレベルの騒ぎではない。数十年も前から発生している、思考的疾患のアウトブレイクである。

かく言う私も「一般化病」を長年患っている患者の一人である。筋金入りの患者といってもいい。病気自慢を貫徹する為にも、ひとつこの病気について一般化を行ってみよう。一般化病患者の辞書に「自己撞着」とか「自分を客観視」などという軟弱な単語は載っていないのだ。


まず、要件箇条書き。


・この病気は、「何かを論じる」というツールをもっている人が広く罹患し得る病気である。

・自分の狭い範囲での体験、一部の特殊なケース、2ちゃんのログ、場合によっては勝手な妄想をネタに、「日本における」とか「ネット社会では」とか「一般的な合コンにおいて」といった、凄く広い範囲に当てはめるのが一般的な症状である。

・根底には、「特殊論よりも一般論の方が説得力がある・あるいは面白い、読者に受ける」という反応欲求がある様な気がする。

・特徴は、「一般化具合が無理過ぎ」という一言で表せる。



定義はこんなもんか。

典型的な文脈には、以下の様なものがある。

・電車で偶然マナーの悪い若者を見つけた → 現在の日本のマナー低下に衝撃を受ける
・人間関係がひどいことになっている夫婦がいた → 今の時代、結婚なんかするもんじゃない
・アニメ好きの犯罪者発見 → これだから二次元は
・火浦功が十年何も書いてない → SF作家の余りの怠惰さには深刻な憤りを覚える

最後のはなんか違う気もするな。まあいいや。

ともかく、ゆとり世代からmixi犯罪予告、はてな村やら団塊の世代に至るまで、「一般化の対象」は数限りなく存在する。

勿論、「その一般論は実際のところ正しいのか、間違っているのか」はこの議論に直接関係がない。正しい場合も間違っている場合もあるだろう。この病気の特徴は、統計あるいは根拠の欠如、それに伴う論理の飛躍である。

本来、「具体例→一般化」というのは非常に重要な思考法であり、基本的極まる論法でもあるのだ。正しく使うのであれば、これ以上にない程有用な文章術の筈なのである。

問題は、一般化した場合の結論が綺麗にまとまり過ぎて、ついつい無理な題材でも一般化したくなってしまうということに尽きる。一般化の誘惑という名前をつけてもいい。「これこれこーゆー特殊なケースがあったよー」というだけのテキストよりも、「故に、この様な結論が出せる」というテキストが後ろにくっついていた方が、文章が格好良くまとまるのである。

様々なブログを見渡すと、上の様な文言は数限りなく発見出来る。「自分の体験」という特殊なケースをWebに発信する際、一般的な結論をくっつけたいという欲求は、どんな場合でも強いものである様だ。(繰り返すが、一般化したい病患者の辞書に自己客観視という単語は存在しない)

安易な一般化とは、つまり説得力のドーピングなのだ。このドーピングに親しみ過ぎてしまった時、人は「個人的な問題でも一般化したい病」の患者となる。


Google先生にお伺いを立てた所、実に分かりやすい形でこの症状が現れているエントリーを見つけたので、一つ参照しておこう。

合コン二元論と恋愛観。

色恋沙汰なんぞ人それぞれと言っておきながら、同じ筆でこの一般化っぷり。これはひどい。


まあ、アレです。根拠がない時は根拠がないことを自覚して書いた方がいいよね、とか。無理過ぎる一般化は流石によーく考えてから書いた方がいいよね、とか。無理に一般化しなくても、特殊なケースだけでも十分楽しいですよ、とか。大体そんな。


(追記 07/10/15 13:42)---------------------------------------

余談だが、私は「世の中のライフハックの大半は、一般化病の症例の一つ」という偏見に取り付かれている。今のところ偏見が解ける気配がない。


(追記と訂正 07/10/15 18:48)-------------------------------
文中、「火浦功が十年何も書いてない」という記述がありますが、Webで調査を行ったところ、「火浦功が多分五年くらい何も書いてない」の誤りであることが分かりました。

全国の火浦功の皆さん、及びSF作家の皆さんに 深くお詫び申し上げます。

ところで「大怒涛」って文庫化されてないんですか?
posted by しんざき at 13:02 | Comment(8) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

SBMの同調圧力を防ぐ為のたった一つの方法

ブクマする前に他の人のブックマークコメント読まない様にすればいいんじゃないの?


はてなブックマーク - はてな村民は、声の大きいヤツに同調し、魔女狩りを行う最低の村か?

なんか知らんが元記事が編集されている。この程度の記事を運営が削除するとかアホですかという感じなので、多分書いた人が自分で編集したんだろう。一応ぐぐるのキャッシュはこっち。


いや、なんとゆーか、上の記事とか、記事のブクマでの議論がどうもピンとこなかったので原因を考えてみた。

同調圧力うんたらがどうしても気になるのなら、冒頭に書いた様なルールに従えばいいし、なんならシステム的にそういう制限を加えることも不可能ではない(やる意味があるのかどうかは疑問だが)。

そもそも「ブクマをするのは他の人のコメントを読んでから」という発想自体私になかったので、一体何の話をしてるんだろうと最初思った。先にコメントを一通り読んでからブックマークする方が一般的なんだろうか。脊髄反射ブックマークしてる人の方が多いんじゃないかと勝手に思ってるけど。


結局のところ、SBMでの同調圧力なんてものは取り沙汰する程のことじゃなく、それこそ「同調圧力(笑)」と記載してもいい程度のものである様な気がする。第一感における人間の反応なんか「同調・拒否・保留」の三つの内どれかに大体落ち着くもんであって、記事によってはそれが割と偏る、というだけの問題なんではないかとか思う。

特に記事を読んでの第一感、つまり脊髄反射での偏り方は割と激しくなる傾向がある。2ちゃんのコピペブログとか読んでると分かる。SBMのブックマークでも、一覧の最初の方と最後の方では全体的に偏り方が変わっていて、最初にブックマークした人の脊髄反射っぷりが際立って面白いことが結構ある。この辺は分析してみると面白そうだ。誰かもうやってそうだけど。

コメント同士での会話・議論・同調なんてのはそれこそまた別の問題だろう。こっちは語り尽くされてそうだから気にしないことにする。


と、ブックマークについてちょっと思ったこと、以上。


posted by しんざき at 09:58 | Comment(6) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月20日

批判の批判に思うこと。

ちょっと迷ったけど、気になったから書く。

サヨ、カスラック、マスゴミ批判で一丁上がり!
こうした光景は昨今のネット界隈でも見られるからだ。たとえば「左翼」と「JASRAC」と「マスコミ」の3点セット。これらを「サヨ」、「カスラック」、「マスゴミ」に置換してアジビラまがいの文章を書いている手合いからは、確固たる思想信条は感じられない。

何故確固たる思想信条が感じられないかというと、そもそも思想信条が読み取れる様な書き方をしていないからだろう。単純な話である。

そこに本当に思想信条が存在しないのかどうか、単に時流に流されているだけなのか、それとも書いてないだけで実は深い根拠があるのか、んなこたあWebに存在する文言を読むだけじゃ分かりはしない。そこにあるのは、「根拠の明示なく(=思想信条の表現不足)口汚い論難・総括をした(=サヨとかカスラックとかマスゴミとか)」という厳然たる罪であり、
あわよくばアルファブロガーから好意的に言及されたり、個人ニュースサイトに紹介されたり、はてなブックマークの人気エントリーになればいいという、浅ましい欲望しか感じられない。

この様にたたかれるのは、まあ仕方ないことではあるんだろう。

勿論ここにはブーメランが潜んでいるんだけど、一旦回避して話を続ける。
しかしいま、カスラック批判やマスゴミ批判を憑り付かれたように書いているひとたちは、そんな自分を「はしたない」と将来、思うのだろうか。

上記の「罪」を分解して繰り返してみよう。ここで書かれている様な「ひとたち」の、反省するべき罪は何だろうか。

・明確な(背景or思想信条or根拠)の明示を怠った。
・口汚い総括を行った。

この二点に関しては、まあ、「はしたない」と感じるに十分であろうと私も思う。私自身は、「口汚いということは、アクセス数を稼ぐのと同時に言説の説得力を大幅に低下させる」と思っているんだが、まあWebも色々だなあ。と。


で、だ。「サヨ、カスラック、マスゴミ批判」「アジビラまがい」という総括に、私は若干の口汚さを感じるのだけど、その点どうなんだろう。大塚氏に関する前段と結語が根拠ってことなんだろうか。私自身は、例示されている様な大塚氏の言説と、「いわゆる」つきのマスコミ批判やJASRAC批判を同列に語ること自体が既に飛躍じゃないかと思うんだけど。


もっと単純に書くとこうなる。「思想信条を欠いた総括を批判している人の総括に、思想信条が明示されてないのはどうなんだ」と。

更に単純に書くと一言になる。「これ、ブーメランじゃね?」

ここからは所感。というか、ブーメランか。

思うに、「同文中に明確な思想・根拠の明示がない、批判的な総括」というものは、かつてはメディアの側の専売特許だったのではなかったか。この武器を、発祥以来メディアは一瞬たりとも手放したことがないんじゃないか、と私は思う。たとえば週刊誌広告のヘッドラインが代表的な例だろう。ヘッドラインでの総括の仕方なんて、メディア界の隅っこの隅っこに生息していた私でさえ指導を受けたことがある。

根拠を常に隙なく明示しなくてはならない、なんてルールは存在しないし、仮に存在したとしたらひじょーに文筆は窮屈になる。だから私は、「根拠の薄い批判」を否定はしない。私だってやっていることだ。

ただ、どちらかというとメディア側の文法に長けている人が、Webの「根拠薄き総括」を批判するというのは、ちょっとずるいんじゃないかなあとか思わないでもない訳だ。
posted by しんざき at 01:58 | Comment(5) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月07日

「主流でないこと」こそがブログの価値を上げる。


なんか、色んなところと微妙に話題が被る様な気もするけれど、まあ折角書いたのだからアップしてみよう。

「注目を引かない話題」それ自体に価値を認めてもいいんじゃないかなーという話。私自身の指標である。


5年ぶりくらいに会った知人が、ブログをやっていた。

かつてよく顔を合わせていた頃は、WebのWの文字もタイピング出来ない様なヤツだったので、ちょっとびっくりした。はてブの注目エントリで見かけたこともあるブログだったので、二度びっくりした。取り敢えず名前は出さないが、その内こっそりリンクするかも知れない。

で、その知人と一つ二つ、ブログに関して話をした。一点が、反応欲求と送信欲求の話。以前にもちらっと書いたけど、また折を見て補足する。とはいえ、「ブログを書くモチベーションは、書きたいという欲求と、反応が欲しいという欲求の二軸で説明出来る」ということと、「二種の欲求のバランスが崩れるといい結果を招かない」という考えに特段変化はない。


で、もう一つが、ブクマされる記事、されない記事という話だ。


話はソーシャルブックマーク、例えばはてなブックマークに収束する。

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posted by しんざき at 13:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする