2018年08月03日

長男に「オクトパストラベラー、レベルいくつになった?」と朝一で言われて

なんだか、ひどく懐かしいものを感じました。

オクトパストラベラーを始めました。レトロゲーマーとしては色々な意味でツボを突かれまくりでして、現在かなりの勢いでハマっています。


サイラス先生でプレイを始めまして、その辺をぶらぶらしている内にトレサ・オルベリク・プリムロゼが仲間になって、今朝アーフェンも仲間になったところです。多分ゲームとしてはまだ全然序盤だと思うんですが、ようやく戦闘での戦い方のコツとか、戦術の作り方みたいなものが分かってきた感じです。

ゲーム自体のちゃんとしたレビューはもうちょっと話を進めてから書こうと思っているんですが、取りあえず現時点で「ロマサガシリーズが好きだった人」「SFC時代のスクウェアRPGが好きだった人」は問答無用で買っていい、というところまでは断言していいんじゃないかと感じています。戦闘システムについて、BDFFに似ている部分もあるんですが、ゲーム自体にはそこまでBDFFみはないです。

で、このゲーム、長男が気に入るかは正直分かんなかったんですよ。長男、2DRPGって今までやったことがないんです。彼が今までやったゲームって、例えば「進め!キノピオ隊長」とか「スプラトゥーン」とか「逆転裁判」とか「ゼルダBotW」とか「ゴーストトリック」とかでして、まあ全然毛色が違うことは間違いない。少なくともターン制戦闘のRPGって一回もやってないんです。

2DRPG独特の手探り感とか、ターン制戦闘の駆け引きとか、そういうの気に入るかは正直微妙かもな、と思っていたんですが、

蓋を開けてみたら超ハマりました。長男今、わざわざ早起きしてオクトパストラベラーやってますし、この前は「テレビの時間減らすからその分ゲームやっていい時間増やして」と交渉までされました。

聞いてみると、「色々探しながらあちこち探検するのが凄い面白い!」とか「敵をブレイクした時が気持ちいい!」とか感想が返ってきまして、あー、こういうのも好きだったか、と。長男がやりたがらなかったら久々にswitch持ち出してがっつり遊べるな、と思っていた私の目論見は見事に外れた訳ですが、まあそれはそれ。楽しいゲームが生活の張り合いになるのは良いことだと思います。

で、親子の会話の1テーマに「オクトパストラベラーの話」というのが加わったわけなんですが、今朝、長男が起きてくるなり「オクトパストラベラー、レベル幾つになった?」と聞かれまして。

なんかすごく色んなものがフラッシュバックしました。

ああ、そうだった。「レベル」っていうのは、進行具合を共有する指標として、一番分かりやすいものだった。強さを比較するのに、一番端的な指標だった。

ドラクエIIで、FF3で、

小学校の土日明けに、休み明けに、学校の帰りに、友達と「今のレベル」を言い合ったものだった。

何より、「友達と自分の進行状況を比べ合う」っていうの、なんだか物凄い楽しかったんですよね。なんでしょうアレ、相手が自分より進んでいたら悔しかったし、自分が相手より進んでいればなんだか誇らしくって、それもゲームの楽しさの重要なエッセンスの一つだった。

で、「〇〇をクリアして××にいった辺り」っていうのもそれはそれで進行の共有になるんですが、何より一番分かりやすいのが「レベル」だったんですよね。このレベルなら大体どこの辺り、自分より進んでいるか進んでいないかっていうのが一瞬で分かった。


いや、正直、オクトパストラベラーにおいて「レベル」が進行度の基準になるかっていうと、ちょっと怪しいんです。オクトパストラベラーってすっごい自由なゲームなんで、人によって進め方が変わります。パーティメンバーも変われば、行く地方の順番も、稼ぎ方のスタンスも変わります。

だから、同じくらいのレベルでも、全然違う地方で別々のことをしてる、というのは全然珍しくないと思います。

ただ、かつて自分たちが満喫した「ゲームの進行状況を共有する楽しさ」というものに、長男も自分自身でたどり着いて、しかもその象徴がかつて存在した「レベル」という指標で。その「共有する楽しさ」というものに、父親である自分も参加出来ている、というのが、なんだかひどく感慨深かったのです。


いや、多分実際にはそこまでおおげさな話ではありません。長男は、例えば友達と一緒にスプラトゥーンやARMSを遊んでいますし、それぞれのタイトルで、それぞれのゲームの話を共有していました。

ただ、「レベル」という言葉をトリガーに、自分が歩んできたゲーム遍歴みたいなものを、長男も同じように歩んでいるんだなあ、ということと。

私がそうしてきたように、長男も今後、ゲームといい関係を築いていってくれればいいなあ、ということを、なんだかしみじみ感じたもので、こうして書き残しておきたくなった次第なわけです。


ちなみに、オクトパストラベラー自体については、夏休みアドバンテージを存分に生かしている長男の方が、今のところ私よりだいぶ進んでいるようです。悔しいので大人深夜夜更かしパワーで取り返そうと思います。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 08:08 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月15日

「ぼくの思う正しい親」以外は親失格と見なす人たち

意外と面倒な話だなー、と思うんですよ。

こんなニュースを観測しました。


パートナー男性が赤ちゃんの面倒を見ている一方で、ホールさんはリラックスした様子でジュースを飲みながらスマホに目を向けている。
ほのぼのとした一家だんらんの風景なのだが、このホールさんの姿に「けしからん」と眉をひそめる人もいた。「出産した直後にスマホを見るなんて子供がかわいそう」「子供よりもスマホ優先?」といった非難の声が多数あがったのだ。なかには、ホールさんが手にしている飲み物のチョイスにまで難癖をつける人もいたようだ。


この件自体については、「こういう話ってどこでもあるもんなんだなー」と思ったんです。

どうも、育児って非常に「他人のやっていることに口出しをしたくなる」ジャンルのようでして。育児のご経験がある人も、ない人も、「育児はこうあるべき」というイメージを非常に強く持っている人が、どうもかなり多いように思うんですね。これ、年齢層あんまり関係ないように思います。

最近は下火になってますが、定期的に遡上に乗る話として、子ども用の安全ハーネスの話があります。


流れる映像やイラストはどれも「犬の散歩」状態で子供を歩かせハーネスがピーンと張らせて親がそれを握っているもの。場所も公園内など比較的安全な場所のおだやかなイメージを喚起させるものばかり。無くても何とかなるんじゃない?という感想を引き出したいのかな?と思えるような。

その映像のあとに、毒舌が売りの俳優が「言葉の通じる相手にすることじゃない」と一蹴し、ママタレントさんが「手をつながないと」と育児論を展開し、オネエタレントさんが「親が目を離さなければいいんじゃないか」と添える。


迷子ハーネスについては、webではだいぶ価値や必要性が定着したような気もしますが、それでもまだこういう論調を観測することはありますよね。一方、webを離れて話を聞いていると、今でも「ぎょっとする」とか「あんなもの使うなんて信じられない」という言い方をする人は実際にいらっしゃいます。私のソースは町内会ですけど。

ただ、迷子ハーネスの件はともかくとして、今でも、子どもに対して悪影響を与えそうな(と、見る人が考えた)親の行為や振舞いに対して、がーーっと批判が集まることはしばしば観測出来ます。冒頭のケースなんてその典型ですよね。

こういうのって、大体の場合、「育児はこうあるべき」という自分の中のイメージと、観測した光景の食い違いによって起こるんですよ。愛情をもった母親なら、子どもを片時も手放さないに違いない。抱っこして、おっぱいをあげて、愛情をもった眼差しで子どもを見つめているに違いない。一緒に歩く時は、大事に手をつないで歩いてあげるに違いない。それ以外の光景を許容出来ないんですよね。

「ぼくの思う正しい親」以外は親失格。極端な話、そういう風に短絡的に脊髄反射してしまう人って、webにもweb外にも実はたくさんいるんじゃないかなーと。そう思ってしまうんです。



分からないでもない部分もあるんです。つまり、迷子ハーネスの件もそうなんですが、見る側として「ネグレクト」とか「虐待」と繋げて考えてしまう、連想してしまう側面ってどうしてもあるんだろう、とは思うんですよ。

例えば、スマホにかかりっきりで、子どもが泣いてもわめいてもずっと放置している親だとか。

例えば、子どもに暴力をふるう親だとか。子どもを閉じ込めて家から出さない親だとか。

時折観測出来る児童虐待関連のニュースを見てしまうと、どうしてもそういう想像に強烈な拒否反応が出てしまうことは理解出来ます。そこが、「自分が思う正しい親」とのギャップに拍車をかけてしまう側面って、多分あるんだろうと思うんですよ。

これは、明確な線引きは難しい、ファウルラインの問題ではあります。局面局面での行為を、これはネグレクト、これはネグレクト傾向、これはネグレクトではない、と線引きをするのは、一般人にとっては難しいことです。「正しい親」から外れているように見える一場面だけを切り取れば、あたかも親が子どもをネグレクトしている、あるいは虐待しているように見えてしまうこともあるのかも知れません。



ただ、一般論として申し上げれば、大部分の親はファウルラインのだいぶ手前で頑張って育児を続けており、時にはイライラすることもあれば、時には育児から逃げ出したくなることもありつつ、なんとかバランスをとって、愛情をもって子どもに接していると思うんですよ。

その、バランスをとっている親に対してさえ、「親失格!」などという声を投げつけるのは、どう考えても妥当なこととは言えないと思うんです。

家庭の事情、子どもの事情というのは、ただでさえ外野からは極端に分かりにくいことです。子どもに多動傾向がある、だから迷子ハーネスをつけておかないとすぐにでも道路に飛び出してしまいかねない、といった事情は、外野から判断することは出来ません。子どもをヒステリックに怒鳴りつけているように見える親のお子さんは、もしかすると聴力がやや弱く、大きな声で話しかけないと聴こえないのかも知れません。子どもを放置してスマホをいじっているように見える親は、もしかすると一日中子どもの面倒を見て疲労困憊して、ほんの数分気力を回復させているところなのかも知れません。

要は、「親がとっている行動が妥当かそうでないかというのは、ぱっと見で判断できるようなことではない」ということなんです。

そういうところに罵声を投げかけることが、どれだけ親のハードルを上げることなのか、どれだけ親に心的負担を加増するものなのかということは、もうちょっと共通認識になってもいいんじゃないかなあと思うんですよ。

親のハードルは極力下がった方がいいし、社会はなるべく子育てをする親に優しくていい。いや、私だって育児をしている父親ですから、我田引水といえば我田引水なんですけど、少子化を問題として考えるのであれば、少なくとも社会がそっちに寄るべきだ、というのは決して暴論ではないと思うんです。


勿論、子どものネグレクト、あるいは虐待などということは痛ましいことであって、「これはファウルラインの向こう側なんじゃないか」と思ったことがあるならば、例えば児童相談所に連絡してみる、といったことをすることは必要なのでしょう。それが悪いというわけではないんです。

ただ、例えば街中でほんの一瞬見えた光景であるとか。webでちょっとだけ観測出来た光景であるとか。

そういう、「自分の思う正しい親」から外れたように見える光景に対して、即時罵声を投げることについては、ちょっと慎重であって頂ければなあと。

そう思うばかりなのです。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 01:44 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月04日

小学校入学が子どもにとってどれだけしんどいイベントなのか簡単に解説します


こちらの記事を拝読しまして、ちょっと思ったことを書きます。

小学校入学というイベントは、大人で例えると「転職したら、いきなり引継ぎも何もなくタスクが3〜4倍になった」くらいの負荷になると考えてよろしいかと思います。

例えば、仮に「幼稚園から公立小学校」という環境の変化を考えるとしたら、


・幼稚園では親に送ってもらっていたのが、小学校では子どもたちだけでの集団登校、場合によっては自分ひとりで登校しないといけない
・幼稚園では基本荷物を親に用意してもらっていたのが、小学校では「ちゃんと自分で用意しなさい」と言われる
・幼稚園では時間割などというものはなかったのに、小学校ではいきなり「時間割を見ながら明日の授業の準備をする」というタスクが生じる
・幼稚園ではそこまで体系だった勉強などしていなかったのに、小学校ではいきなり「国語」やら「算数」やら「社会」やら、耳慣れない言葉と共に慣れない勉強が始まる
・幼稚園では宿題など滅多になかったのに、小学校ではいきなりほぼ毎日宿題が出るようになる
・幼稚園で3年間慣れた園舎が、いきなりバカでかい「学校」などというマップに変動し、右往左往しなくてはいけない
・幼稚園では自分が最年長だったのが、いきなり最年少になり、周囲一面に自分より大きな人たちがうようよし始める
・幼稚園で見知った顔がどかどか変動して、一から人間関係構築をやり直さないといけない
・お弁当が「給食」になり、親がしてくれていた配慮がデフォルトではなくなる。
・色んな「係」を担当しなくてはいけなくなる。
・「お道具箱」だの「ランドセル」だの、いきなり自分が管理しないといけない荷物が激増する


結構な感じではないでしょうか。しかもこれを、成長段階的には「幼稚園の年長さん」と何も変わらない子どもが求められるわけなんですよ。

勿論、家庭によっても、幼稚園の環境や子どもそれぞれの環境によっても上記は色々変わってくるとは思うんですが、基本的に「滅茶苦茶な環境の変化」であることについては例外がないと思うんですよ。うちの場合幼稚園だったんですが、恐らく「保育園→小学校」のクラスチェンジでも事情はそれ程変わらないと思います。

しかも、ただ環境が変わるだけならまだしも、やらないといけないタスク、気にしなくてはいけない注意事項がバカスカ増える。更にその上、「園児」から「小学生」にランクアップしたことで、親の態度も微妙に変わり、今までよりも色んなことを「自分で」やるように求められるようになる。

となると、幼稚園の頃にはふつうに出来ていた子どもが、ちょっと混乱してしまって色々スムーズにできなくなってしまうのは、何の不思議もないことだと思うんです。むしろ、こんな環境の変化に簡単についていける子どもがいたとしたら、その方が物凄い。相当な例外です。

転職経験がおありの方ならわかると思うんですが、基本、転職してまともに戦力になれるまでって、最低でも数週間から数か月はかかるものなんですよね。引継ぎもいれば、環境に慣れる時間も要るし、スキルやタスク処理ノウハウのキャッチアップだって必要です。どんなに「即戦力」という触れ込みの人だってそれは変わりませんで、半年経ってもまだ適応仕切れない、みたいな人だって別段珍しくありません

環境変化のキャッチアップって、基本的にめっちゃ大変なんです。誰にとってもそうです。

大人にとってみれば小学校のタスクなんて「たかが」かもしれないんですが、子どもスケールで考えればそれらはみんな恐ろしい強敵、今まで見たことも聞いたこともなかったようなおどろおどろしいタスク群なんですよ。ドラクエで例えるとすれば、今までアリアハンでちょこちょこ戦っていれば済んでいたところ、いざないの洞窟を経ずにいきなりアッサラーム周辺に放り込まれるようなものなんです。

とすれば、子どもがちょっとまごまごしてしまっても、「これは当然の引継ぎ・適応期間なんだ」と考えて、長い目で見てあげてもよろしいし、多少は甘えさせてあげてもよろしいんじゃないかなーと。大人と同様、子どもでも勿論適応の早い遅いってあると思いますが、それって別に能力とイコールの話でもないですしね。勿論、環境の変化ってこの先何度もありますし、いつかは適応しなくてはいけないことではあるんですが。

といってもまあ、準備や宿題が出来ていなければせかさないわけにはいかないし、周囲の子どもがちゃんとできてるように見えれば焦らざるを得ない、というのはそれはそれでよく分かるんですが。ただ、「小学校入学」イベントがとんでもない高難度イベントである、ということだけは、広く認識されてもいいんじゃないかなーと考えた次第です。

しんざき家の話で言うと、長女次女が今年の4月に同じく小学生になったんですが、やはり最初は色々大変でして。次女は給食の度に泣くし、長女は全然宿題やらないしで、最近ようやく改善の兆しが見えてきた、くらいのものです。

「その内慣れる」の「その内」のスパンは可能な限り長くとりつつ、適度にせかして適度に甘えさせて、まあ長い目でみてあげたいなーと思うわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:06 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月22日

小学校の学校公開で「インタビュー」の授業を見て色々と感心した話


先日、長男・長女・次女の3人が通っている小学校で、学校公開があったんです。

学校公開って、皆さん知ってますか?いわゆる授業参観なんですけど、長男の小学校だとオープンキャンパスみたいな体裁になっていて、近所の人とかも授業を見学出来るんですよ。勿論名簿に名前とか書かないといけないんですけど。

で、今年から、しんざき家は子どもが3人同じ小学校に通い始めましたんで、まああっちに行ったりこっちに行ったり大忙しだったわけなんですが。とはいえ、長男が通っている小学校は色々と授業に工夫も多く、興味深いなーと思うケースが多いんで、毎年楽しみにしているんです。

当たり前のことなんですが、やはり小学校の教育というのも、私が小学生だったころからは随分様変わりしておりまして。これは良くなったなあと思うこともあれば、これは昔の方がよかったんじゃないかなあと思うこともあるんですが、全体的に見れば「今の小学校教育すげーな」と感心することの方が多いです。面白いです、小学校の授業。

今回個人的にいたく感心したのが、国語の授業での「きいて、きいて、きいてみよう」というタイトルの内容でして。平たく言うとインタビューの授業なんですよ。

授業の形式はこうです。


・生徒が3人一組に分かれる
・3人が、それぞれ「話し手」「聞き手」「記録役」に分かれる
・「聞き手」が「話し手」に対して、テーマに沿った質問をする。テーマは事前に相談して決めておく
・「話し手」は聞き手にされた質問に答える
・「記録役」はそれを記録する
・一回が終わったら、役目を交代して繰り返す

面白い授業ですよね?私が子どものころは、こういう授業受けた記憶がありません。調べてみると国語学習の指導案に載っていたんで、恐らくここ数年でやるようになった授業なんだろうと思うんですけど。


で、長男は同じ班の女の子に、「猫について」というテーマで聞いていたんです。ただ、例えば「猫を好きになったきっかけ」とか「どんな猫が好きか」とか、通りいっぺんの質問に一問一答で答えてしまうと、その後がなかなか続かないんですね。一回の時間は5分と設定されていたんですが、多分2分半くらいで終わってしまっていたと思います。一周目は、大体の班が3分もちませんでした。

で、これは先生がうまいのかもしれないんですが、1回終わると、先生が振り返りの時間を作って、生徒同士で振り返りをさせるんです。その時、ちょこちょこヒントになりそうな言葉を投げていくんですよ。

「みんな、なかなか質問が質問に繋がらなかったなー」と。

「みんながいつも、次から次へと色んなこと聞きたくなることって、どんなことかな?」と。

例えばゲームの話とか、サッカーの話とか声が上がる中、

「じゃあ、それとインタビューがどう違うか、どうすれば話を広げられるのか考えてみようか」と。

これって、要はブレインストーミングとPDCAサイクルですよね。短い時間でアイディア出しをして、次の回での工夫に繋げる。で、それをすぐにまた次の機会に繋げる。

で、生徒同士で色々意見を出し合って、質問の内容や記録のやり方を変えたりして。2回目、3回目では、5分ぴったりでインタビューを終えられる班も出来ていました。長男は長男で、「電車について」というテーマで質問を受けていて、うまいこと話を広げたり、質問を誘ったりということが出来ていました。

見ていて思ったこの授業のメリットって幾つかあって、

・話の広げ方、聞き方、質問の仕方など、一般的なコミュニケーションスキルについて考える機会になる
・コミュニケーションをする上で一番重要なことが、相手に対する興味・関心であることに気付く機会になる
・短いスパンでのPDCAの練習になる
・手法を自分で考えて、それを試す、ということの重要さに気づく機会になる
・クラスの友人同士の相互理解の一助にもなる

これくらいのメリットはあるなーと思ったんですよ。いや勿論、先生がどれくらいクラスを統制出来ているかとか、クラスの人間関係の状況にもよるんでしょうけど。

多分これって、この授業だけでどうこうというより、色んなスキルの「スタート地点」になる授業だと思うんですよね。自分で何かを考える種になる授業。

父母が来ていたからみんな気合入ってたのかな?と思って長男に聞いてみたところ、「いつも大体こんな感じだよ」と言ってたので、普段から生徒のみんなの授業に臨むスタンスは悪くないんだと思います。これは多分先生がうまいからだと思うんですが。

他のクラスを覗いても、どの先生も色んな工夫をされてるなーと感心することしきりでして。最近、小学校の先生とか小学校の授業って、いろんな批判にさらされるケースが多いですが、中の人たちは本当に頑張ってるんだなーと感じ入ったわけなのです。

全然余談なのですが、1年生の国語のクラスは「大きなかぶ」の朗読をしていました。

みんなが文章を忠実になぞっている中、株が抜けたシーンに独自に「すっぽーーーん!」という効果音をつけた次女のセンスは、やはり常人離れしているなーと感服した次第です。彼女の国語力の発展が楽しみです。ちなみに長女は、「足し算を続けるとどんどん数が大きくなっていく」という事象の面白さにハマっている由。

引き続き、楽しい小学校生活を送っていって欲しいなーと思うばかりです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:07 | Comment(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月08日

長女なかなか宿題出来ない問題


ちょっとしんざき家の家庭環境の話をする。特に山もなければオチもない、ただの日記である。

4月から、長女と次女が小学校に通い始めた。

当初、二人とも共通の問題として「給食が多い」ということを挙げ、次女は給食を前に泣いてしまうこともしばしばあった(なんでも、食べきれないんじゃないかと不安になると泣いてしまうそうなのである)ようだが、段々と給食と付き合うペースも理解出来てきたようで、元気に通っている。最近は、「班の中で一番に給食食べられたの!」などと報告してくることもあった。

長女と次女はいずれも6歳である。双子ではあるが、容姿も違えば性格も違う。同じ環境で、同じ接し方をしているのにこんだけ変わるもんなのか、というのは驚く程である。

長女はマイペースであり、かつ頑固でもある。どうも自分なりの世界をかなり強く持っているようで、叱られても理由が納得出来るまでは決して謝らないし、嫌いな食べ物は強硬に食べない。集中力が凄く、集中し始めると全く周囲の言葉が聴こえなくなる。次女にいたずらをして泣かせることも多いが、どうも姉としての責任感はちゃんと持っているようで、次女が泣いていると慰めにいってあげたりもする。片づけは極めて不得意としている。

次女は社交的であり、泣き虫でもある。片づけが得意であり、切り替えも速く、タスクは基本ぱっぱと片づけてしまう。好奇心旺盛で、分からないと思ったら即座に「これは何で?」「これは何で?」と聞く。飲み込みは速いようで、自分が悪いと思ったら割とすぐに謝る。しかし、どうも完璧主義のような側面があるようで、何かうまくいかないかも知れない、上手くいっていないと思ったら泣き出してしまうことがしばしばある。

個性などというもってまわった言葉ではないが、長女、次女それぞれの持ち味というものは、これからの人生もずっとついて回るものであり、それぞれの強みは生かして、弱みは補いながら生きていけるようにしてあげたいなあと思う。褒めるところは褒めるし、叱るところは当然叱らないといけないが、叱り方については考えものだ。その行動が、それぞれの持ち味に根差しているものだとすれば、出来れば持ち味は否定せず、行動で補えるような叱り方をしてあげたい。難しいんだけど。

宿題の話をする。

長男、長女次女が通っている小学校は結構宿題が多い学校で、長女次女にももう宿題が出始めている。内容は平仮名の書き取りで、毎回プリント2,3枚の書き取りをしなくてはいけない。

上記した通り次女はぱっぱとタスクを片づけてしまうので、こちらが何も言わなくてもすぐに宿題は終わらせてしまう。なんでも、宿題が残ったままだと不安なのだそうだ。とても偉いと思う。

一方、長女はかなり宿題を後残しにしてしまう。ここ最近だと、夕食の直前まで宿題に手をつけず、私や奥様に指摘されて渋々始めて、周りに気をとられたり泣いたりしながら散々時間がかかり、夕食の時間が押してしまうというのがよくあるパターンである。大体において、私や奥様が隣に座って、「そこの書き順はこうだよ」とか「あとちょっとだから頑張って」とか、声かけをしてあげないと進まない。

勿論、ついこの間まで幼稚園に通っていて、鉛筆をもってプリントに向かうなど初めての経験なのが長女次女だ。どちらかというとサクサク出来ている次女の方が例外であって、長女もいずれはペースがつかめるようになるのだろう。

ただ、問題が2つある。


しんざき家は基本的に9時就寝と決まっていて、9時を過ぎてしまうと絵本の読み聞かせが出来ないというルールになっている。子どもに一番重要なのは睡眠時間だ。その為、夕食が遅くなり、就寝時間が押してしまうのはそれなりに大きな問題である。ぐずぐずやっていればある程度急がせない訳にもいかない。

もう一点は、サクサク宿題を片づけている次女に対して、長女が「次女ちゃんが出来ているのに自分は出来ない」といったコンプレックスを持ってしまうのではないか、ということだ。「次女は出来てるんだから」といった、比較するような言葉は使わないようにしてはいるが、早く出来た次女は偉いので褒めてあげたい。次女は褒められて自分は褒められないとなれば、内心気にしていない訳はないだろうなーとは思う。


一番良いのが、長女も学校から帰ってすぐに宿題をやってしまう、という習慣が出来ることなのは間違いない。ただ、その為には長男、次女の協力が不可欠だ。長男や次女が遊んだりテレビを観たりしていると、どうしても長女も釣られてしまうからである。

そこで、「こどもリーダー」である長男に相談をした。

「長男。長女ちゃんが宿題なかなか出来なくててこずっている」

「ぼくも昔は苦労したからねえ」

歴戦の戦士の風情である。長男は塾の宿題も最近自力で片づけられるようになり、もはや学校の宿題など敵ではないらしい。

「そこでお願いなんけど、学校から帰ってきたあと、長女ちゃんに宿題やろうって声かけてあげてくれない?で、その間はテレビとかちょっと我慢してくれるとありがたい」

「いいよ。ちゃんと見とくから」
頼もしい。

長女にも聞いてみたところ、やはり夜まで宿題が出来ていないという状況は問題だとは思っているようで、「学校から帰ってからすぐ出来る」と宣言した。上手くいくのかどうか分からないが、改善するかどうか1,2週間は様子を見てみるつもりである。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(3) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月13日

長男寝相問題が日々深刻化している

大体において子どもの寝相などというものはある程度エキセントリックなことになるものであって、親はどうやって寝冷えを防ぐかを考えるばかりなのですが、今日になって「布団部屋のドアが開かない問題」というのが発生しました。

しんざき家は一斉就寝方式をとっており、布団部屋に家族5人分の布団を敷き詰めて、そこで私・奥さま・長男長女次女が雑魚寝をしています。長女は大体奥様、次女は大体私にくっついて寝たがるのですが、小五の長男は比較的フリーポジションです。

子どもを寝付かせるタイミングで寝落ちして、ふと目が覚めたのが午前1時頃。しゃあない明日の準備だけでも、ということでちょこちょこ作業をして、さて改めて寝るかということで布団部屋に戻ろうとすると、ドアが開かない。全く開かない。

感触からすると、どうもこういう状態になっているっぽい。

布団部屋.png
分かりやすいイラストですね。

というか、長男は普段は大体↓図の赤〇の布団で寝ていて、ただ彼かなりの暑がりなので涼しい場所を探して段々布団の下の方までずれてくることがあって、足がひっかかってドアが開かないということはよくあることなのですが、今回はかつてないレベルでドアが開かない。
布団部屋2.png
つい1時間前までは、まあ多少横向きの角度にはなっていたものの一応布団で寝る体制を保持していたのに、何でこんなに移動してきてるんだヨガテレポートか。ダルシムか。手とか伸びるのか。

私一人の問題なら別にどっかその辺で寝ればいい話なのですが、次女は夜中に起きて私が横にいないと泣くので、帰還を簡単にあきらめるわけにもいきません。というかなるべく次女が起きるまでに戻りたい。

長男を起こしたくもないしどうしたものか。どなたか、寝ている小学生の寝相を遠隔でコントロールする方法とかご存じないでしょうか。

取り敢えず、これを書いているのが午前2時半くらいで、これからいろいろと試行錯誤してみるので、経緯については朝にでも追記します。

(2:36)
もう一度寝相チェンジが発生すればいいんだから言うても割と簡単に入れるようになる筈、と思っていたんですが、「ドアが冷たくて体をくっつけていると気持ちいい」状態になっている可能性があることに気づきました。

つまりドアを暖めれば自然と逃げていくのでは?

(2:40)
平和裏にドアを暖める方法が思いつかないのでとん挫

(2:50)
太陽作戦がダメだったので北風作戦(寒い長男が布団をかぶりに戻る)を考えていたところ、ドアをちょこちょこしていた長男が寝相で反対側に動いたので部屋に入れました。すかさず長男を持ち上げて布団に移動。

しょーもないオチですいません。寝なおします。
posted by しんざき at 02:30 | Comment(2) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

長女次女が自分たちで絵本を音読するようになってきて、読み聞かせ卒業の時が近づいてきた

長女次女、6歳。つい先日幼稚園を卒園しまして、今は小学校入学を前にして待ちきれずランドセルを出してきて、ランドセル背負っては「かわいいでしょ!」と褒め言葉を要求してくる、プリキュア好きの双子女児です。

しんざき家では絵本読み聞かせの習慣があり、長男が多分1,2歳くらいから、毎晩寝る前に好きな絵本を選ばせて、私か奥様が読み聞かせをしています。

長男はいつからか自分で自分の好きな本を読むようになりましたので、それ以降は双子に対して読み聞かせをしていました。読み聞かせは長女次女にとっても楽しみらしく、「ほら、あんまりゆっくりしてると絵本読む時間がなくなるよー」と言うと焦って寝る支度にかかりますし、どの絵本を選ぶかで喧嘩になったりもします。大体の場合、一日ごとに交代で絵本を選ばせます。

時期によってどんな絵本を好むかは異なるんですが、好きな絵本の傾向というのは結構明確に分かれており、最近の次女のお気に入りはブリッグスの「サンタのなつやすみ」です。


私はかつて、同じくブリッグスの「さむがりやのサンタ」が好きだったので、この辺次女と私はセンスが似ているのかも知れません。


一方の長女は、次女よりは絵が可愛くって台詞が少ない絵本がお気に入り。最近は「いつもいっしょに」をリクエストすることが多いです。


ただですね。ここ2週間くらいちょっと読み聞かせ態勢に異変が生じ始めており。次女や長女が、「私が読むからパパは聞いてて!」と言い出すことが増えてきたんですよ。

以前から、絵本の台詞の一部分だけを、「ここはわたしがよむから!」と言ってつまみ食い的に音読することはあったんですが、最近はもう一冊丸々自分たちで読むこともあり、私あんまり要らないんじゃと思うくらいです。

長女と次女はピアノ教室に通っていて、そのピアノ教室でも良く待ち時間なんかに読み聞かせをしてもらっていたらしいのですが。その時、どこかのページを読ませてもらったら「上手だねー!」と褒められたらしく。それ以来、特に次女は読み聞かせに自信を持ったようで、パパを聴衆にして長女次女劇場を開催することになった次第なのです。


あー、もう自分で読めるようになってくると、ぼちぼち読み聞かせも卒業なのかなーと。

勿論、別に以前から単独での読書をしていなかったわけではなく、絵本を自分で読んだり、漫画をめくったりといったことはあったんですが、「読み聞かせ」というものがなくても自分で音読出来るようになってきた、となると、段々長男のようにめいめい好きな本を寝る前に読むようになるんだろうなーと。


10年くらい続けてきた「読み聞かせ」という慣習も、そろそろする機会がなくなるのかと思うと、色々と感慨深いなーと思った次第なわけです。


全然余談なんですが、「絵本作家さんの画力」ってあんまり話題にならないですよね。上手い人は滅茶苦茶上手いっていうか、「絵本ぢから」とでもいうべき力があって、それが高い人は本当にすごいなーと思います。私が特に滅茶苦茶上手いなーと思っているのは、まあベテランなんですが山脇百合子先生と林明子先生です。




これについてはまたその内書きたいなーと思っております。

今日書きたいことはそれくらいです。



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posted by しんざき at 12:51 | Comment(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月26日

子どもの「なぜ?」という疑問には、「全力で考えて答えた上で、可能なら興味を発展させてあげる」というのが最適解のような気がする

この記事を読みました。


何度も書いている通り、育児に「最適解」というものは多分存在せず、子どもによって、親によって、家庭によって、時期によって、「適したやり方」「その時妥当なやり方」というのは変わってくる、と思います。

ただ、しんざき家で現在やろうとしている考え方、子どもとの接し方は、上記の記事とはだいぶ方向性が違っていて、それについて書いてみようかなーと思いました。

それなら、この機会を生かして、とても大事なのに見過ごされがちなスキル、すなわち自分で答えを導き出す能力を磨くように仕向けるのです! お子さんに「なぜだと思う?」と尋ねてみてください。

即座に答えを返す(あるいはインターネットで調べた知識の受け売りで「それは、光のエネルギーが波として伝わって……」と説明する)代わりに、子どもに自分の頭で考えるよう促すのは、賢いやり方と言えるでしょう。これなら、ただ人に聞くのではなく、自分なりに分析をするという大切なスキルを、子どもに身につけさせられます

うーん?と思いまして。

いや、勿論、「自分で答えを導きだす能力」「自分なりに考える習慣」というのは大事ですよ。超大事。何でもすぐ答えを与えられていては、そういう能力や習慣が育たない、という考え方も分かります。

ただ、それを実現する為の方針として、単に「なぜだと思う?」と反問するのは正しいのかな、最適なのかな、と。

そればっかやっていると、「大人に対して、自分の興味を提示する」ということに対する喜び、嬉しさみたいなものが削がれちゃったりはしないかな、と思うんですよ。


何故かというと、まず第一に、「なぜだと思う?」だけでは情報のやり取りとして成立していないからです。子どもが持った「興味」という情報に対して、親が情報を返せていない。

会話というのは情報のやり取りです。ギブアンドテイクではないですが、自分が出した情報に対して、相手からも情報が返ってくる。そういうやり取りが楽しいし、会話の成功体験にもなるんですよね。やっぱ、「打ったら響いた」っていうのって嬉しいんですよ。

それが、言ってみると反問ってリフレクなんですよ。出した情報が、そのまんま返ってくる。ただ「せっかく持った興味が満たされない」というだけの話ではなく、コミュニケーションとして成功していないんです。

時にはリフレクも必要かも知れませんが、それがいつもということになると、むしろ「何言っても情報が返ってこない」ということを子どもが学習してしまうかも知れません。


第二に、「大人の側も真剣に考える」というスタンスを見せられていない

子どもって、結構難しいこと聞いてきます。調べるならかなり真剣に調べないといけないようなこと、ググるにもそこそこテクニックが必要になりそうなこと、平気で聞いてきます。

単に「空は何で青いの?」程度の質問であっても、凄く厳密に答えるなら光の屈折やら目の受容やら、可視光についてとか考えないといけないでしょう。勿論年代によってはそんなこと説明しても分からないので、何か適度に翻訳した答え方を考えないといけない。どこまで答えるか、どこまで考えるかというのも、結構難しい問題なんです。

それに対して、「ちゃんと考えて、全力で答えてあげる」という姿をちゃんと見せてあげるって、「この人はちゃんと真剣に接してくれているんだ」という信頼感や、「物事に対してきちんと考える」というスタンスを育てる為に、多分大事なことなんじゃないかと思うんですよ。


私の親は、「私の出した何気ない質問に対してめっちゃ真剣に考える」人達でした。時には「いやちょっとそこまで考えんでも」と突っ込みたいことすらありましたし、何やら色々調べ始めて、答えが返ってくるまで偉い時間がかかったこともありました。

ただ、そういう「ちゃんと答えが返ってくる」ということで、私から「自分で答えを導きだす能力」が失われたかというと、多分そういう訳でもないんですよね。むしろ、「ああ、考えるってこうやるのか」「調べるってこうやるのか」ということを学べたことの方が大きかったような気がします。

だから、私は今でも、子どもの疑問に対しては出来る限り真剣に考えて真剣に答えるし、後から自分の答えは正しかったのか?を考え直したりもするし、ちょっと違ったなーと思ったら「ごめん、昨日答えたの、ちょっと違った」と言ったりもします。

勿論時間がかかる話なので、あんま時間がない時はある程度適当に答えちゃったりもするんですけどね。


もちろん、子どもの興味というのは貴重な機会なので、「ただ答えを出して終わり」というのでは勿体ない、というのは事実です。最近、「興味ドリブン」という言葉について色々と考えます。「子どもの興味」というのはチャンスであって、機会であって、なるべく生かしてあげたい。

これは塾講師をしていた時の経験則なんですが、「興味が更に次の興味に繋がる子」というのはめっちゃ強いです。適切な問題設定さえしてあげれば、自分からどんどん次の課題を見つけて、ぐんぐん知識を身に着けていってしまう。以前、そういう「興味が連鎖する子」についての記事を書いてみたりしました。


子どもは本当に色んなことに興味を持ちます。で、「これなんで?」と聞いてきます。この時、それがどんなにちょっとしたこと、どんなにバカバカしいことであっても、出来るだけ真面目に答えてあげる。

で、ある知識を得た後、更にそれが別の知識につながるともっと楽しい、という経験をさせてあげる。そういう経験の積み重ねが大事なんじゃないかなあ、と。

だから、私が考える「子どもの興味に対する最適解」というのは、

・子どもの疑問に対して、まずは真剣に考えて真剣に答えてあげる
・テーマによっては、「自分の考えはこうだけど、そっちはどう思う?」というように議論してあげる
・出来る場合には、他の発展系の知識に繋がる話をしてあげる

ということになるんじゃないかなあ、と思っています。

例えば、「空は何で青いの?」という話であれば、そこから「空以外の青いものは何で青いのか」「青いってどういうことなのか」「見えるってどういうことなのか」みたいな話につなげてみる、とか。

自分でも分からないことがあれば、「これは今は分かんないから調べてから答えてあげる、パパの宿題」と持ち帰ってみるとか。

以前、こんなことを書きました。この時も、そもそも妥当な答えかどうかわからなかったので、随分色々と考えました。



いや、勿論、いつもいつもそんなことしてると1日が48時間あっても足りやしないので、出来る範囲で、出来る時には、ということですけどね。たまにこういう会話がある、というだけでも随分違うんじゃないかなあ、と思っているんですよ。


取りあえず、「子どもの興味」というものが貴重な機会である、ということだけは間違いない事実だと思うので、それをどうやって生かせばいいかなあ、というのは、今後も含めて考えていきたいと思う次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 08:00 | Comment(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

育児寛容・不寛容議論を極論で突き詰めても多分誰も幸せにならない

まず最初に、言いたいことをまとめます。

・子どもの声が、「うるさい」と感じる人にとっては騒音になってしまうのは当然のことです
・中には子どもの声を「うるさい」と感じない人もいるかも知れませんが、それは特殊ケースだと考えるべきです
・その上で、子どもの声が公共の場で発生し得るというのもある程度仕方がないことです
・親としては、出来る限り子どもが騒がしくしてしまうことをセーブしたいと思って、そう努力しています
・例外もあるかも知れませんが、大体の親はそうだと思います
・ただ、どうしても限界というものが出てきてしまうケースもありまして、多少のお目こぼしを頂けると大変ありがたいです
・というか大体の方は、多少うるさくても我慢してお目こぼし頂いているように思います。大変ありがとうございます
・極論もあるけれど、皆結構優しいですよ
・世の中「子どもの声を受け入れろ、受け入れないのはおかしい」と言っている騒音許容過激派やら、子どもの声なんか公共の場から一切排除しろという子ども排除過激派ばかりではなく、というかそういう人は本当にごくごく一部なので、あまり議論を突き詰めて極論にしない方がいいと思うんですよ

言いたいことは以上です。よろしくお願いします。

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さて、書きたいことは書き切ってしまったので、あとはざっくばらんにいきます。

インターネット上では、時折育児、特に「子育て世帯が周囲に及ぼす迷惑と、それに対するスタンス」という話がめっちゃ盛り上がることがあります。そのパターンにも色々ありまして、例えばベビーカーを電車の中で使うことの是非とか、定期的に観測出来ますよね。


で、そんな時、割と決まって見られる論法が、「お互いに極端な方向に振った仮想敵を設定すること」でして。


例えば、育児世帯側は、「子どもや育児親の行動を一切許容しない排除論者」を仮想敵にして、その不寛容さを責めたり、不寛容社会を嘆いたり、であるとか。

例えば、非育児世帯側は、「子どもの迷惑行動を一切顧みない馬鹿親」「一方的に寛容さを求める身勝手な育児世帯」を仮想敵にして、育児世帯を断罪したりであるとか。


いや、極端な人、いますよ。確かにいます。そこまで極論に振らんでも、という人もいます。子どもを騒ぎっぱなしにさせて、全く周りの迷惑を顧みない親というのも、私はあんまり観測してませんけどいるこたぁいるんでしょう。

ただですね、サイレントマジョリティじゃないですけど、実際のところ、「極端なケース」というのは全体を見ればごくわずかだからこそ極端なケースだと思うんですよ。


当たり前のことですが、子どもの声というのは高いし通るし、非常にうるさいです。そりゃ勿論、「子どもの声大好き」という人も中にはいますし、子どもがいくら騒いでても気にならないという人もいるんでしょうが、そんなのは一般ケースとして考えるべきケースでは全くありません。

実際に育児を行っている、一人の親として凄く思うのは、「社会の殆どの人達は結構寛容だ」ということです。

親として、勿論なるべく子どもが静かにしていられるように、周りに迷惑をかけないようにと考えて、なるべく注意してはいますけれど、もっと子供が小さな頃とか、やはり電車の中で子どもが大泣きしちゃったり、大きな声を出しちゃったりといったことはありました。子どもを年中引きこもらせるわけにもいきませんから、公共の場での子どもの声を完全に防止、というのはやっぱり難しいんですよ。

ただ、そういう場合も、勿論内心五月蠅いなあと思われる方も多かったと思うんですが、殆どのケースでは皆さんにこやかに対応してくださり、中には子どもに優しい声をかけてくださったり、席を譲ってくださったりということもそりゃもう何度もありました。ありがたい限りとしか言いようがありません。

ただ、これは勿論「そういう風に寛容にあるべきだ」という話ではなく、寛容でいてくれることに感謝しつつそれに甘えないようにしよう、という個人レベルでの気持ちである訳なのですが。実際にご迷惑をかけてしまっている方には、申し訳ないという思いしかありませんし、なるべく改善に向けようと努力は続けていくつもりです。

で、同じように、なるべく頑張っているし、かつ周囲の寛容さに感謝している親って、結構たくさんいると思うんですよ。というかそれが大部分だと思います。

実際、育児世帯として色々と助けて頂いている側としては、「もっと寛容であるべき」だなんてとても言えません。「いや、皆現時点で結構寛容ですよ?」という一言です。


要は、「結局社会を回していくためには、皆がちょっとずつ歩み寄るしか現実的な解答ってないよね」ということでもあるし、「特に突き詰めなくても、社会って結構歩み寄りで回ってると思いますよ?」ということでもあるんですよ。


こういう問題って、突き詰めれば突き詰める程色々と相いれないところが出てきてしまう話であって、基本的には「突き詰めても誰も幸せにならない」案件になることが多い気がしているんですよ。

結局みんな「極端な仮想敵」を設定して議論するけれど、その議論には一体どれだけの意味があるのかな、と。その極端な仮想敵は議論が届くところには存在しないし、流れ弾がばしばし極端じゃない人たちにあたりまくるだけなんですよね。

私としては、育児世帯にしても非育児世帯にしても、極論がバンバン飛び交って、普通に頑張っている子育て世帯のハードルだけがむやみやたらに上がりまくったり、普段から寛容にしてくださっている非子育て世帯の方々が無意味に責められたような気になるのは誰も幸せにならないし、出来たら避けた方がいいんじゃないかなあと思うんです。特に、ネットだと極論ばっかりがむやみに可視化されやすいんで。


端的に言うと、育児関係であんま極端な仮想敵設定するのやめませんか、と。皆結構頑張ってるし、我慢してくれてますよ、と。


勿論、個別に見れば、各論として解決しなくてはいけない問題も色々あるとは思うんですが。こと育児とか子どもの迷惑という話については、総体的には「結局日和った意見が最適解」というケースは結構多いと思いますし、育児日和見主義者として、今後とも日和った意見を積極的に発信していきたいと思う次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 17:25 | Comment(2) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月28日

長女に「とおくのものは何で小さく見えるの?」って言われて答えたんだけどそもそも合ってるのかどうか自信がない

お風呂の中で、長女に

「とおくのものは何で小さく見えるの?」

と聞かれました。

長女と次女は双子でして、先日6歳になりました。来年小学生です。

昨日はお友達やお友達のお母さんたちが家に遊びにきていて、ご飯も皆で食べていました。で、しんざき奥様が片づけやらなにやらでまだ忙しそうだったので、私が長女次女をお風呂に入れることにしまして、ざーーっと頭やら体やらを洗った後湯舟に漬かっていました。

幼児の常として、文脈とか話の流れとか、そういうものは基本一切なく、まるで天から何かの啓示が落ちてきたように、長女や次女は非常に唐突な質問をします。その時も、直前まではお友達と遊んでいた話をしていたのに、何故か長女はいきなり哲学的な質問を投げかけてきました。

「えーーーーとね」

咄嗟に5秒程時間を稼ぎました。

私は中学の頃からの筋金入りの文系でして、正直なところ物理や生物にはあまり自信がありませんし馴染みもありません。ただ、こういう子どもの疑問というものは生もので、興味を満たされれば満たされる程次の興味に繋がる傾向があるので、なるべくならその場で、ある程度妥当な回答を返してあげたいとは思っています。あんまり時間を空けてしまうとすぐ他のものに興味が移ってしまうので。


遠くの物が小さく見えるのは何故だ?


なんだっけこれ、視野とか視差の話だろうと思うんだけど、多分網膜上に入ってくる対象物の面積っていうか、光の角度っていうか、とにかく網膜上に占める割合で決まる筈だよな。あれ、左目と右目があるのはどう考えればいいんだ?っていうか6歳児になんていえば伝わるだろう。

喋りながら考えました。

「パパも上手に説明出来るかわかんないけど。今分かる分だけでいい?」

「うん」

「まず、大きく見えるってどういうことかなーってことなんだけど」

スポンジを拾って、長女の顔のすぐ前に出しました。

「これ、スポンジ、おっきく見えるよな」

「うん。パパよりおっきい」

パパわたしもー、と次女が言うので同じことをしてあげながら、

「長女ちゃんの目の中には、光を感じとって「あ、そこに物がある」っていうセンサーがあります」

「ひかり?」

「そう光」

「スポンジ光ってないよ?」

「電気から出てる光に照らされて、その光が跳ね返って目に入ってきてるから、スポンジからも光はきてるの。真っ暗だと何にも見えないだろ?あれは光が目に跳ね返ってこないから」

「そっかー」

「で、物が近くにあると、その光が目に対してひろーーく跳ね返ってくるの」

「ひろく?」

「うん。っていうか、跳ね返ってきた光が、目に入ってくる範囲が広くなる、っていうのかな。水たまりに石落として、じゃぱーんってなった時、近くにいるとたくさんかかるだろ?あれと同じ」

「うんうん」

「けど遠くなると、ちょっとしか跳ね返ってこない」

スポンジを離しました。

「ほらだんだんちっちゃくなるだろ?これは、跳ね返ってくる光が、長女ちゃんの目のセンサーにだんだんせまーくしか入ってこなくなるから」

「小さくなる!」

「だからもっと遠くにあるものはもーっと小さくなるんだよ」

「そっかー」

というような感じで、一応この時点で長女が納得した様子なので、話はここで終わりました。正直、私の説明が頭に入ったというよりも、「スポンジが実際に離れていって小さくなった」という事象で納得したような気がしています。


で、識者の方に伺いたいんですが、これ、私が言ってることってある程度妥当ですか?それとも全然違いますか?


多分、厳密に考えれば、対象物が網膜に像を結ぶ時の角度っていうか、どれだけの範囲が視野の中で占められるのか、というのが「目に見える時の物の大きさ」ってことになるんじゃないかって思ったんですが、どうもこれを上手く説明出来る気がしません。かつ、6歳児にわかるように説明出来る気がしません。

どなたか、もし分かりやすく説明出来る方法をご存知でしたら教えてください。私の言うことが根本的に間違ってたら何かの機会に訂正しますので。


今日書きたいことはそれくらいです。


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posted by しんざき at 07:58 | Comment(8) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月09日

【情報募集】お風呂での謎の水滴遊びについて

あの、すごーく説明するのが難しいんですが、皆さん子どもの頃お風呂入る時、お風呂の縁に水滴を垂らして、たまった水滴を「島」とか「大陸」とかみなして大きくしたり川を作ったり逆にこぼれないようにしたり、とかいう遊びしたことありますか?

いや、分かりにくいと思うので図示するとですね、


こんな感じで水滴をたらして、


水滴1.png

こんな感じでお風呂の縁に水がたまるわけです。ほら、あるじゃないですか。表面張力とか。表面張力は偉大。表面張力がなければ地球の光景はどうなっていたでしょうか。
水滴2.png

図があるととても分かりやすくなりましたね。

で、あまり大きくし過ぎると水が流れだしてしまうので、絶妙なところでストップさせたりであるとか。

逆に、川を流して箱庭的な情景を作ったりとか。

大きな水滴溜まりで小さな水滴溜まりを吸収したりとか。流れ出さないように、なるべく大きな水滴溜まりを作って「大陸」とか称したりとか、実際の地図を再現しようとしたりであるとか、スケールの限界に挑戦したりであるとか。

結構領土争い的な要素もあって面白かったんですよ。なんつーか、ポピュラスとかシムシティみたいな箱庭的遊びの原型というべきでしょうか。


先日、長男10歳と一緒に風呂に入っていたらですね、長男がぽたぽたと水滴を垂らしていてですね。

「何やってるの?」と聞いてみたら、まさに

「大陸作ってるの」

と言ったんですよ。彼的には、「川が出来ちゃって流れ出すと負け」らしいんですが、あーあったあったそういうルールも。

いや、私、上記みたいな遊びは別に教えてないんですよ?しんざき家、お風呂は割と早風呂というか、子供3人入れないといけないんで、ゆっくり余裕をもってお風呂に浸かれるタイミングがあんまりないんですよ。子どもたち同士ではきゃっきゃ遊んでるんですけどね。

つまり、特段伝達も伝承もしていないというのに、「お風呂の縁での島作り」「大陸作り」という謎の遊びがいつの間にか長男に伝わっていた、あるいは長男が独自でそこにたどり着いていたということで、これはもしかすると結構子どもに普遍的な遊びだったりはしないかと。

「お風呂の縁での箱庭遊び」ってやるもんなんだなあ、と軽く感動した次第なんです。

で、皆さんにお尋ねしたいのですが、上記のような遊び、子供の頃やってました?

やってたとしたら、その遊び何て呼んでましたか?軽くぐぐってみてもちょっとこの遊びが一般的かどうかよくわからなかったんですよ。

もし皆さんご存知であれば、この遊びに一般的な名前があるのかどうかも含めて知りたいと思うので、情報提供の程よろしくお願いいたします。


今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 08:53 | Comment(8) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

赤ちゃんだけじゃなくて子どもは正直いってめちゃくちゃ可愛い

赤ちゃんの世話は地獄みたいに大変ってことはインターネットで読んで知ってたけど
こんなに可愛いって知らなかったよ!早く言ってよ?
毎日楽しいよ
うんとですね、しんざき家10歳の男の子と5歳の双子女児がいるんですけれど、勿論赤ちゃんの頃も可愛かったけれど、5歳10歳の今になってもめちゃくちゃ可愛いし遊んでて死ぬほど楽しいし会話してるとすげー嬉しいですよ。さすがに長男は10歳にもなったし男の子なんで面と向かって可愛いとは言ってないですが、内心では超絶可愛いし大きくなってくれて凄い頼もしいしこんな生き物が生まれてきてくれてありがとう…!!哺乳類すごい…!!としか思っていません。長女次女の方はホントもう物凄く可愛い。客観的に見て天使。こんな可愛い生き物が成長してちゃんと人間らしくなって、しかも日本語を使ってコミュニケーションしてくれるとか、ホント人類ってものすげー進化したなと思います。これは何?SF?って感じ。

ただまあなんていうのか、これ私自身にも抵抗感がある話なんですけど、何故か無条件で子どもを愛でるのが憚られるっていうか、遠慮されがちな空気とか、あるいは子ども可愛いっていう言葉に対して反発がある向きってあるような気がするんですよね。


例えば、可愛いのはいいけど大変でしょ?とか。子育て大変って言わないと許されない雰囲気、とか。

子どもがいない家庭に対して悪いでしょ、ちょっとは遠慮しなよ、とか。

男親だから言えるんでしょ、大変なこと全部母親に押し付けてるでしょ、とか。

可愛いのは今だけでしょ、反抗期になったらそんなこと言えなくなるよ、とか。


上の記事にも、「そう思えるのは最初だけ。」とか知った風に水ぶっかけようとしてるトラバとかありますよね。

ただ、個人的には、そういうの全部ひっくるめて、うるせえ可愛いものは可愛いんだ知るかバーーカ、と言ってしまいたいです。

いや、そりゃ子育て大変な面も勿論ありますよ?いうこと聞かない時は言うこと聞きませんし、叱らなきゃいけないことも勿論あります。なかなか泣き止まなくて、何時間か抱っこしたまま防音性が高い風呂場にこもったこととか、なかなか寝付いてくれなくっておんぶしたまま夜中に部屋の中を歩き回ったこととかもありました。そういう苦労話なら、そりゃ幾らでも出来ます。

けど大変な分全部差し引いてお釣りが大量にくるくらい可愛い。すごい可愛い。

これについては、勿論しんざき奥様はすごーーい頑張ってくれているし感謝しかないんですけれど、それでも私も胸を張れる程度には父親として育児をやってきたと思っていますし、その上で奥様私含めての統一見解だと思っています。

「可愛いのは今だけ」みたいな言葉も、正直信用してませんし信用してなくて正しかったなーと思ってます。2歳、3歳の頃「今が一番かわいい時期」とか言われたけれど、5歳、10歳の今あの時より更にかわいいやん、と。この点、「今だけよー」みたいに言ってくる人には、今だけちゃうわ今後どんどん更にかわいくなるわ、と言い放ってしまっていいと思っています。思春期反抗期は勿論、どんな風に自意識を表出してくれるのかなー親としてどのように接していこうかなーと思うと今からドキドキワクワクします。

勿論、家庭によって色々事情は異なることはよく分かりますし、時にはよそのご家庭から不愉快に思われてしまうかも知れない、というのもそれはそれで分かります。

ただ、そういうことに配慮ばっかしていると、誰も「俺は幸せだ」という話が出来なくなるじゃないですか。それはそれで、ちょっと社会として不健全だと思うんですよ。今幸せな人は、それをちゃんと表明していいと、少なくとも私は思うんですよ。


赤ちゃんのころだけじゃない。育てば育った分だけ別の可愛さが見えてきて、それは可愛さだけじゃなくて頼もしさとか人と人としてのコミュニケーションとか新しい発見みたいなものもあって、もう育児超エンターティメントです。

今後も引き続き、親として育児エンターティメントを全力で楽しみながら、子ども共々成長していきたいと思った次第です。よろしくお願いします。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:03 | Comment(2) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月07日

小さな子どもがやっていることをやめさせたい時、「そろそろやめなさい」というよりも有効かも知れない方法

「あと何秒するー?」と聞いてみると、比較的短い時間と労力で切り上げさせることが出来る場合が多い、気がしています。いや、子どもにもよると思いますが。

当たり前のことだったらすいません。多分これ、実施出来る時期がある程度決まっていて、特に数を覚え始めの頃〜小学校に上がる前、くらいだと割と効果的なんじゃないかなーと。

長男が小さい時もやったんですけれど、長女次女は現在5歳でして、50まで数えられるか数えられないか、くらいの段階です。

例えばそろそろ公園から帰らないといけないのにまだ遊びたい時とか。例えばお布団をかぶってまだ寝たい時、あるいは添い寝して欲しい時とか。

「ほら、そろそろ時間だよー」とか、「そろそろやめなさいー」とか言っても、なかなか聞かない時があります。やっぱりまだ子どもなので、そこはそれ、自分の欲求コントロールを学んでいない段階です。親に言われると余計に意固地になっちゃう子、とかもいます。

こんな時、「じゃああと何秒やるか決めてくださーい」というと、例えば「10秒!」とか「30秒!」とか、割と短い時間を自分で宣言して、しかもその秒数が切れると結構納得して素直に切り上げる、ということが割と頻繁なんですよ。

長女や次女を見ている限り、これ、

・まだそこまで大きい数を知らないので、大きい数を思いつかない
・覚えたばかりの知識を使うことが出来るのが嬉しい
・ともかく、親ではなく自分の意志で自分の予定を決められるのが嬉しい
・嬉しいし気分も変わるのであまり執着しないで切り上げられる

この辺の要素が重なって起きている現象であるように思います。

子どもって勿論大人に憧れるもので、「自分で決める」という経験をまだあまりしたことがないので、どんな細かいことであっても、「行動予定を自分で決められる」というだけで結構嬉しいものみたいなんですね。で、「自分で決められる」となると、目先も変わって今こだわっている遊びにもそこまで執着しないで済むっぽいんです。

こだわりが強い子だと、切り上げさせようにも意地を張ってなかなか切り上げられず、親も子どもも疲弊してしまうって結構あるもので、目先を変えて自発的に切り上げさせるって成長の上でも割と大事なんじゃないかなーと思いました。多分、こういうの繰り返すことで「自分の欲求を適当なところで抑制する」スキルみたいなものも上がっていくと思うんですよね。

更にちょっとアレンジして、例えば「隊長!残り行動時間を何秒か決めてください!」みたいな感じで、ごっこ遊びっぽくすると余計に有効である、場面も多い気がします。あと、抱っこして歩くことをせがまれた時、「じゃあどの電信柱まで抱っこする?」とか聞くと、大人しく降りてくれる場合もあります。

実はこれ、別に私が思いついたわけではなく、しんざき奥様が割と頻繁にこのやり方で長男の遊びを切り上げさせているのを見てラーニングしたんです。しんざき奥様は、この手の子どもコントロールで色々と卓越した技をもっています。奥様えらい。奥様かわいい。

これが、もうちょっと大きくなってしまうと、ちょっとひねくれて「1万秒!!」とか「いちおくびょう!」とか、うっかりすると「むりょうたいすうびょう!!」とか言い出してしまうのであまりうまくいかなくなったりするんですが、多分小学校に上がる前くらいだったら有効な場面もあるんじゃないかと思い、共有してみようと思いました。

書くまでもないとは思いますが、お子さん次第、あるいはその時のお子さんの気分次第で有効な場合もあれば無効な場合もあると思いますので、その点はご承知おきください。

今日書きたいことはそれくらいです。

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posted by しんざき at 07:25 | Comment(3) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月25日

電車のドアが閉まる音を再現しようとしていた君へ


電車に乗っていると、正面の座席に親子連れが座った。

お父さんに抱っこされた小さな男の子は、まだ1歳になっていないように見える。きゃっきゃしながら辺りに手を出そうとして、その度にお母さんになだめられていて、夫婦お二人は周囲に気を使ってなかなか大変そうだった。

あー、つい数年前はうちもあんな感じだったよなあ、としみじみした。個人的には、他のご家族のお子さんが多少騒いでもなんということはないので、それ程頑張って頂かなくてもいいとは思うのだが、周囲のことも考えるとそうもいかないだろう。しんざき家もそうだ。

そんな中、全然大したことじゃないのだが、面白いことに気が付いた。


その男の子が、駅につく度に、大きく息をつくように「しーーーーーーっ」と言うのだ。で、その度に、「どうだ!」と言わんばかりにお父さんを見る。

お父さんは、「そうだね、しーーだね」と言って、静かにさせる仕草をする。男の子はきょとんとしている。

あー。そうだ、あったあった。私には、男の子が何をやっているか、何をやろうとしているか、その見当がついた。


彼は、駅について、ドアが開く時、閉まる時の、空気が漏れるような音を口で再現しようとしているのだ。しかも、その音は結構再現度が高かった。


なんで私にそれが分かったかというと、なんということはない、うちの長男も同じことをやっていたからだ。彼は随分長い間その仕草をしていて、私にもしばらくはその意味が分からなかった。もう少し大きくなって、長男がかたことで話せるようになった時、私は彼から初めて、その音の意味を聞いたのだ。


〇〇くんは、しーーってしてるのなんで?


あのね、どあ、してうの。


ドア、してるの。

そう聞いた時の新鮮な感動は、今でも忘れられない。

そうだったのか、この子はずっと、ただただシンプルに、自分に聞こえた音を自分で再現しようとしていたのか。周りの世界を、自分なりの解釈で表現しようとしていたのか。

正確にあの頃のことだったのかよく覚えていないのだが、私はその頃から、「こどもと言葉でコミュニケーションが出来る」というのがいかに凄いことなのか、いかに楽しいことなのかを学んでいった、と思う。自分に全くなかった視点に気付かせてくれる。自分に全くない感覚を提示してくれる。それは、まるで120度の視界が急に360度になるような、不思議で鮮烈な驚きだった。


だから私は、そのお父さんに話しかけることはしなかった。「ドアの音を真似してるのかも知れないですね」とも言わなかった。


いつかきっと、お父さんと男の子との間に、あの時の私と同じような鮮烈なコミュニケーションが成立しますように。

人間と人間との間の、不思議な意思疎通が親子間の絆に変性していきますように。


私はただただ、そう思ったのだ。

私が降りる駅がきた。ドアが開いた。

ドアの前に立った私のすぐ横で、男の子が再び、「しーーーーっ」と言った。


posted by しんざき at 23:21 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月13日

しんざき家でお手伝いお小遣い制が試験導入されました

されました。

長男10歳、小学4年生。長女と次女は5歳の双子、来年から小学1年生。

しんざき家では、現在定額のお小遣い制度をとっておらず、何か必要なもの、欲しいものがあったら都度相談ということになっています。おもちゃやプラレールは、ありがたいことに色んな方から頂いたり、誕生日に買ってあげたりするんで今のところ特に不足にはなっておらず、日々のおやつは割と普通に買ったりしてるんで、今のところあまり必要になっていない、という事情もあります。

ただ、最近、特に長女と次女が「じぶんのお金でおやつ買いたい」というリクエストを熱烈に出したらしく、じゃあってことで奥様がお手伝いお小遣い制を導入したわけです。

といっても金額は可愛いもので、

・お布団片づけ:7円
・雑巾かけ:10円
・洗濯物取り込み:5円
・掃除機かけ:5円

とかこんな感じです。他にも項目はあったと思いますがうろ覚え。

長女次女はまだお金の価値の感覚はまるでないのですが、「とにかく自分で働いてお金がもらえる」ということで大喜び・大はりきりしているらしく、やたら積極的にお手伝いをしています。意外といったらなんですが、ある程度お金の概念が出来ている長男も積極参加している模様。「1日10円稼いだら一年間で3650円もたまる!」と言っています。何にせよ、自分で稼ぐというのは嬉しいみたいですね。

ルールとして、「お片づけ、お着換えなど、元々しなくてはいけないことはちゃんとした上でないとお手伝いは出来ない」ということ。どうも、次女はともかく長男と長女はお片づけが苦手な傾向があるので、その辺改善されるといいなあと思いました。

一応、この制度自体メリットデメリットというか、いいこととリスクがあるなーとは考えたんです。


【良いこと】
・積極的にお手伝いに参加してくれるようになるかも
・お金の大事さが実感出来るかも
・金銭感覚が身に着くかも
・お金を管理することによって初歩の算数が身に着くかも
・家事のスキルが身に着くかも

【リスク】
・お金が絡まないとお手伝い的な行動をしないようになるかも
・なんでもお金をねだるようになるかも

といったところです。

導入してから1週間ちょっと経つんですが、現在のところリスクに該当しそうな部分は特になく、課題にはなっていません。まあ、しばらくは見守ってみようかなーと思います。

一方、長女次女は数十円稼いだところで勢い込んでおかしのまちおかに連れていってもらったようなのですが、「お金は使うと減る」ということをまだ認識していなかった模様。「パパやママがお買い物する時は、いつも返してもらってるから返してもらえるんだと思ってた…」とのこと。それはお釣りです。

結局、「減る」という現実を受け入れられず、まだ自分のお金でおやつは買えていないようです。まあ、いずれ金銭感覚もついてくれば、適切なお買い物が出来るようになると思います。

ちなみに長女と次女、「今おかね17こたまった!」「わたしは14こ!」みたいに、お金を「個数」で数えているので、まだいまいち単位は理解出来ていないようです。これもその内教えてあげないとなーと。

長男の方は、プラレールの線路が買えるまでじっくり貯蓄する方針である模様。これはこれで頼もしいと思いました。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:00 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月05日

エルゴめっちゃ便利ですよね

エルゴっていうのはこういうのです。いわゆる抱っこひもの凄いの、って感じです。



下の子も5歳になりまして、流石に抱っこ紐を使う機会もなくなりました。今後の私の人生において、再び再び抱っこひもと接触する機会があるのかどうか、かなり微妙なところです。孫でも出来て、かなりがっつり子育てサポートすることにでもなったら分かりませんが。

とはいえ、子どもが2歳くらいまでの頃はホントにもうエルゴベビー大活躍でしたし、うっかりすると3歳くらいまでは普通に使ってました。我が家には未だ、長男用、長女用、次女用の3つのエルゴが安置されています。長男用は使い込み過ぎてぼろぼろになってしまったので、わざわざ長女用次女用に新しいのを買ったのです。

エルゴの凄いところは、

・リュックでも背負うレベルで装着が簡単
・子どもの重さが上手いこと分散されて、肩や背中が非常に楽
・子どもを覆う面積が広いので、なんか子どもが安心する
・おんぶと抱っこ両対応なので、ちょっと根性があれば双子を同時に輸送することが出来る

という感じになります。

長男が生まれてしばらくは、おんぶ紐やら抱っこ紐やらいろいろ試したんですが、まあどれもなかなか大変なんですね。不安定だったり装着に手間がかかったり。大体、子ども抱っこして出かける時なんて多かれ少なかれ急がなくてはいけないわけで、装着に時間がかかるってのは大きなデメリットです。その点エルゴは超楽。ベルト止めて、子どもをよっこらしょと引き上げて、腕を通して、首の後ろでパチンと止めるだけ。この手間のかからなさは凄いメリットです。

子どもも子どもで、なんかエルゴは安心感が非常に高いらしく、よく喋るようになった後でも何かと言うと「えるご!えるごして!」といってエルゴをリクエストするわけです。こちらとしては「ぼちぼち歩いてもいいんじゃね?」という頃にも抱っこをねだるので、少々困ったこともありましたが、それでも抱っこ紐なしで抱っこして輸送するよりも遥かに楽だし遥かに安全です。長女次女がどっちも寝てしまって往生した時とか、エルゴなしだったらどーなってたことやらって感じです。

我が家は長女次女が双子なので、おんぶ + 抱っこのダブルエルゴというのもしばしばやっていたのですが、これ流石に相当体力がいるので、ダブルエルゴでお出かけの後はへとへとになるのが常でした。ただ、エルゴなしだとそもそもお出かけ自体が困難なので、体力消費軽減に相応の効果があるのは確実だと思います。対象が一人だとめっちゃ楽です。

育児は何しろ体力勝負なので、体力の消耗を避けるオプションは可能な限り選択していった方がよろしいかと思います。エルゴはそれなりに高価なのですが、値段に見合ったお勧め度合はあるとお勧めさせて頂きます。

web上で抱っこ紐に関する話を見て、ふとエルゴについて書きたくなった、というだけの記事でした。

今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 18:27 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

「子どもの教育に悪いかどうか」という点で言えば、少年誌のエロ表現の話とか超どうでもいい


先日Books&Appsさんに、こんな記事を寄稿させていただいたんです。


子どもの性教育についての話ですね。ぼちぼちちゃんと考えないといけない時期になってきたので、基本的な方針について確認しておきたくなった為に書いた記事です。具体的に何をどういう風に教えるか、という点についてはまた改めて、奥様と相談しつつ考えていこうと思っています。

で、実はこれとは全然リンクさせて考えてなかったんですが、最近少年誌のエロ表現について一部界隈で議論になってたみたいなんです。こちらの話です。(リンク先には少年誌レベルでの裸体描写があるので、お嫌いな方は踏まないようお気をつけください)



なんか、上記に関連して、「手塚治虫の漫画は綺麗な漫画で女性にもやさしかった」的な発言をよりにもよって田中圭一先生にふっかけて、一瞬で撃墜されるという心温まるシーンもあったようですね。元ツイートは消えてるみたいですけど。

実は私自身は、この話すげーどうでもいいと思ってまして。正直あんまり観測してなかったんです。

何故かというと、「個人的に少年漫画の性表現嫌い」という話なら外から文句をつける筋合いの話ではない(何かを嫌うのも、「何かが嫌い」だと表明するのも完全に個人の自由です)し、一般的な「子どもの教育に悪影響が」という話なら的外れなので論評する必要もない、と思っていたからです。


私自身は、少なくとも自分の方針としては、

「子どもの性倫理観については、きちんとした性教育こそが何より重要であって、それがちゃんと出来ている前提であれば、少年誌程度の性表現なんか枝葉の問題ですらなくどうでもいい」

という考えの持ち主です。


これは多分人によって考え方が違うと思うんですが、私は「子どもの判断力」「子どもの倫理観」というものを結構信頼しておりまして、「きちんと理由をつけて規範を教えられている限り、多少の逸脱はあったとしても、子どもはちゃんとした判断で自分を律することが出来る」と思っています。勿論、テンション高くなって暴走しちゃうこととかはあるんで、「教えさえすれば後は気にしなくていい」って話じゃないんですけどね。大筋というか大事なところでは、子どもはちゃんとした判断力を自分で育むことが出来る、と思っているんですよ。

で、「実際に異性と接する時に重要な規範というのは何か?」という話で言うと、それは根っこのところで、「相手の性を理解して、尊重すること」以外にはないと思うんですよ。だから、親としては、この規範を土台として育ててあげたいし、それを教えることこそ「性教育」だと思います。これについては冒頭記事で書いたことなので、そちら参照して頂ければ。


で、きちんと「相手の性の理解、尊重」という土台が出来ている子が、「少年漫画にセクハラ描写があるから自分もこれやっちゃおう」「あ、こういうこと実際にやっていいんだ」なんて思ったりすんのかなー?と思うわけです。


自分に照らしたとしても、私自身は「んなわけねーだろ」としか思わないんですが、そう考えない人も結構いるんですかね?


私は、「親の教育の方が、そこらのコンテンツよりも遥かに影響がでかい」と思っています。「コンテンツの影響力は間違いなくある」「しかしその上で、一つのコンテンツの影響力なんて、親の影響力に比べれば吹けば飛ぶようなものだ」とも思っています。


だから、「少年誌のコンテンツの性描写なんて、子どもの教育という点でいえば超どうでもいい」としか思わないわけなんです。これが、例えば四六時中エロ漫画しか読まない、とかならまた話は別なのかも知れないですが、たかがジャンプの性表現ですよ?ほんの数ページの話で目くじら立てるとか、端的に言ってリソースの無駄遣いなんじゃないかな、と思わないでもないんですよね。

実際のところ、ああいう表現に過敏に反応している人は、自分では漫画を殆ど読んでおらず、ジャンプのこともエロ漫画雑誌程度にしか捉えていないんじゃないか、とも思いますけどね。


ただ、これは飽くまで「少年誌の性表現批判」についての話なので、「個別の家庭でどんな方針をとるか」というのはまた話が別だと思います。その点では、私はid:topisyuさんのお話に賛同します。

下記は、topisyuさんがこの件について書かれた記事。実は被言及頂いていて、その被言及から初めてこの話ちゃんと追いかけました。アンテナが鈍くてすいません。

一部を引用させていただきます。


では、こういう親が、親として不適切かといえば、物事はそんな簡単ではなく。フィクション作品から物凄く影響を受ける子もいますし、セックスや暴力についての正しい知識を伝えられる親も多くはありません。子どもと信頼関係が築けていないと子どもは聞く耳を持たないし、ゆっくり一緒に話せる時間的・精神的余裕ももちろん必要です。

要は、子どもから"不快な"表現を排除したい親の中には、その表現のフォローしきれないと思っている人がいるということを言いたくて。不安な親はいるんですよね。

だから、表現が適切かどうかの議論と同時に、親がどうやって子どもにセックスや暴力を伝えるかというのもセットで話題にしたほうがいいと私は考えています。例えば、紙屋さんも紹介された『わたしのはなし』『ぼくのはなし』みたいな本に触れたりとか。 


いつもながらバランスがとれた考え方だなーと感心させて頂いております。

こういう部分は各論の問題であって、家庭それぞれ、子どもそれぞれ、親それぞれです。事情が個別過ぎて、一概に「この程度の表現で、ジャンプ自体を読ませないなんておかしい」という言い方をするべきではない、と思います。「フォローし切れない」という部分だって、一概に親の目や手が行き届いていない、と断ずるべき話ではない。

そういう家庭の方針をフォローする為にも、細やかなゾーニングというのがあるのは理想なのかも知れません。まあ、ゾーニングにしても、ジャンプのあの程度の表現を一体どうゾーニングするんだ?という話ではありますが。。。


ざっくりまとめてしまうと、

・少年誌の性表現を「行き過ぎている」と嫌うのは個人の自由である
・が、一般的な性表現の規制という話であれば、少年誌レベルの性表現とか枝葉の問題過ぎて論評に値しないと思う
・ちゃんとした性教育で、「相手の性を尊重する」っていう土台を作ってあげること、大事。超大事
・けど、更に各論に落として、それぞれの家庭の教育方針っていう話であればケースバイケース過ぎて一概に言えない

大体上記のような内容になるわけです。言いたいことは以上です。



全然関係ないんですが、ジャンプといえば、最近私・奥様・長男で仲良くワールドトリガーにハマっておりまして、孤月がどうとかスコーピオンがどーとかかゾエさんがいい味出してるとか二宮だ太刀川だ修だ遊真だ、と漫画トークをしています。長男的には太刀川さんがお気に入りらしいです。

面白いですよね。ワールドトリガー。個人的なイチ押しキャラは生駒さんなんですが、奥様的には「王子が強烈過ぎて生駒の印象があんまりない」そうです。生駒隊いいキャラ揃いだと思うんだけどなあ。

葦原先生のご体調の快復を強く祈念しております。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:47 | Comment(3) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月31日

子どもを叱った時、「ごめんなさい」をゴールにする必要は必ずしもない気がする


「叱る」時のゴールは「ごめんなさい」で本当に正しいのか?という話です。

しんざきは三児の父です。長男は9歳小学4年生、長女次女は5歳の双子で、幼稚園の年長さんです。


子どもが「ごめんなさい」と言えないから親子ともに煮詰まって疲弊してしまうケース、って結構あるような気がしています。というか、観測している範囲ではすごーーく多いです。

子どもが何か良くないことをしたとします。例えばおもちゃを粗末に扱ったり、いたずらで棚を滅茶苦茶にしたり。当然親は叱ります。

この時、一通り「何がいけなかったのか」「何がダメだったか」を伝えるのはいいんですが、その後「ごめんなさいは!?」というところでトラブルになるケースがしばしばあります。子どもから、するっと「ごめんなさい」という言葉が出てこない。親としては、「ごめんなさい」と言わせないとお説教が終わらないから、いつまでもその場が収拾しない。振り上げた拳が下せない。何故素直にごめんなさいが言えないのか、と悩んだ親御さん、相当な数いるんじゃないでしょうか。時によっては、「なんでごめんなさいが言えないの!」なんて怒声が聞こえてくる場合もままあります。大変ですよね。


ただ。勿論子どもにもよるし、状況にも、年齢にもよる話なんですが、私、必ずしも「「ごめんなさい」と言わせないとお説教が終わらない」と考える必要はないんじゃないかなーと思ってまして。

「叱る」ことのゴールは、別に「ごめんなさい」じゃなくていい、煮詰まるくらいなら「ごめんなさい」がゴールと考えない方がいいんじゃないかな、と。端的に言うとそう考えているんです。


勿論、親が子どもを叱った時の「理想のルート」は、


1.親が何をダメだと思っているのかが子どもに伝わる
2.子どもがその内容に納得する
3.子どもが自分の行為を反省する
4.反省した内容を口に出す(ごめんなさい)


ということになると思います。

けどこれって、重要なのは1,2であって、4はある意味「親が納得する為の儀式」に過ぎないと言えば過ぎないんですよね。

いや、儀式が重要じゃない、って話じゃありません。相手に謝罪の意志を示す、というのはとても大事なことです。相手に「自分は悪いことをした、と思っている」と納得してもらうことも大事だし、その練習をすることも必要なことです。それはそれで必要なんです。

けど、それは多分最優先事項じゃない。

こと「子どもを叱る」という時には、何より大事なのは1と2なんですよね。まず何よりも、「何がダメなのか」「お父さん/お母さんは何故、何をダメと考えているのか」を伝えなくてはいけない。それを理解してもらわなくてはいけない。子どもの倫理観、判断基準を形作る為の、これが最優先事項だと思うんですよ。

つまり、「理解」まで行っていれば、取りあえず「叱った」目的の大部分は達成出来ていると考えていいんじゃないかなあ、と。それを判断する為には、別に「ごめんなさい」という言葉は必要なく、子どもがちゃんと聞く姿勢をとれていれば十分なんじゃないかなあ、と。


「理解」と「納得」の間にはそこそこの広さの谷があります。「納得」する為には、理性だけでなく、感情的にもその言葉を受容しなくてはいけません。

そして、多くの子どもは、感情を統制することに慣れていません。「頭ではわかるけど、感情的には納得できない」という状態をどうにかするには時間が必要です。「謝罪の言葉を口にする」には更にもう一段階、感情の制御が必要です。

実際のところ、「どう見ても子どもが悪いのに、すぐごめんなさいが言えない」理由って殆どこれだと思うんですよ。理解は出来る。けれど感情がついてこない。皆さん、子どもの頃ってそうじゃありませんでした?「頭ではわかるけど、感情として謝りたくない」時ってたくさんありませんでした?

これについては、何より必要なのは時間です。子どもはただでさえ感情を制御することに慣れていないんだから、まず「感情を落ち着かせる」為のインターバルとなる時間を作ってあげないといけないと思うんですね。

この、「理解する」「納得する」「感情を落ち着けてごめんなさいと言う」というプロセスをきちんと踏まないと、子どもは間違った学習をしてしまいかねないと思うんです。つまり、「納得していなくても、理解していなくても、取りあえずごめんなさいと言っておけば親は引き下がる」という、ごめんなさいさえ言っておけばいいんだろ、的な学習は、あんまりよろしくないものなのではないかと。

けれど、世の中そうそうゆっくり時間をとっていられる時ばっかりではないので、待てない時には「とにかく叱る理由はちゃんと説明する」「説明をちゃんと聞いた、と判断出来たら、ごめんなさいを言えなくても取りあえずよしとする」という判断をするのも時にはアリなんじゃないかなあ、と。「なんでごめんなさいっていえないの!」と追い詰める・追い詰められるよりはその方がいいんじゃないかなあ、と。



繰り返しになりますが、「ごめんなさい」と言わなくてもいい、という話じゃないんです。ごめんなさいときちんと口にする練習は必要だし、自分の感情を落ち着かせる練習も必要です。

ただ、その練習にはある程度ちゃんと時間が必要ですよね、と。

「叱る」という行為の本来の目的、「何がいけないのか理解してもらう」「子どもに善悪の判断基準を伝える」ということを考えれば、必ずしも「ごめんなさい」にこだわらなくてもいいんじゃないか、と。「ごめんなさい」にこだわって、親子ともに疲弊したり、子どもが誤った学習をしてしまうくらいなら、一旦その場を収めてゆったり時間をとってもいいんじゃないかと。


そんな風に考えたのです。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 14:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月02日

長男が、多分初めて「勉強わからない」に突き当たった話



いつも通り、こういう話を可視化するのも意味があるかなーと思ったので書いてみます。


長男、9歳。小学4年生になって一カ月。

最近になって、長男「一度塾というものに行ってみたい」というようなことを言い出しまして。お友達の中で中学受験を見据えて塾に行き出した子が何人かいることと、最近中学の文化祭なんかに行ってみて、「中学というのはこういうところなのか」ってちょっとお勉強意識が出て来たらしいんですね。

自分が中学受験を体験していないこともあって、私は正直、まだ小4の頃から塾なんか行かなくてもいいんじゃないのかなー?とも思っていたんですが、折角本人がやる気を出しているので、体験入塾をさせてあげたんです。ちょっと聞いてみた感じでは、「学校の勉強よりずっと難しい、けど面白い」みたいな、割と前向きな感想が出てきているようで、ああ悪くないのかな、と思ってたんです。


昨日の話です。帰りがいつもよりちょっと遅くなりまして、20時半くらいだったでしょうか。いつもならお風呂に入って寝る準備にかかっているところ、しんざき奥様と長男は何やら二人で算数の問題に向かい合っていて、なんか久々に空気が煮詰まっているように見えたんです。奥様の言葉を長男が受け入れない、聞かない、的な拗ねモードです。奥様もちょっと困っているように見えました。


ざっくり状況を確認してみると、算数の図形の問題で、図形の周囲の長さとか、図形の一部分の面積なんかかを限られた情報から導きだす、「あー、学校ではあんまりやらないよね」的な問題で長男が苦戦しているようでした。


あったあったこういう問題。しんざきは昔、補習塾で数年バイトをしていたことがありましたので、算数を教えるのは割と得意です。奥様には長女次女を寝かしにかかるミッションに入ってもらって、バトンタッチ。


パパと勉強してみる?と言うと、長男こっちを向かないで、何か黙々とレゴブロックを片づけ続けています。ああ、なんか抱えてるなーというか、何か我慢してるなー、と。


取りあえずちょっと気を緩めてあげたいと思って、「長男偉いなー、こんな難しい問題、こんな時間まで勉強するの大変だったろ」と言ったら、なんと長男、いきなり泣き出しちゃったんですね。


ああ、辛かったんだなあ、と。


正直長男、今までは、あまり学校の勉強に苦戦したことってなかったと思うんですよ。算数も国語も、自分では得意だって言ってましたし、分からないところも見当たらない。小学校時点ではあんまり珍しくない、一種の無敵モードですよね。

それが、学習塾っていう全然別のフィールドに出てみたら、いきなり「解き方が分からない」「理解出来ない」問題がぱかすか出てきた。自信家の長男にとっては多分、何よりもそれがショックだったんだろうなーと。


勉強で一番難しいことって何か、ってご存知ですか?


当たり前みたいですけれど、それは、「分からない」に対応することなんです。


「分からない」に突き当たった時、どう対処するか。対処出来るリソースをどうやって探すか。そもそも、「分からない」を明確に意識すること、言語化することが出来るか。人に頼ることが出来るか、教えてくれる人を見つけることが出来るか、見つけられないとしたら自分で調べることが出来るか、理解出来る参考書を探すことが出来るか。


これ、当たり前のようだけど、当たり前に出来ることじゃないんですよ。「分からない」に突き当たった時、そもそも「分からない」を言語化することも意識することも出来ず、勿論人に聞くことも出来ず、なんとなく分からないまま通り過ぎちゃう子、山ほどいます。ものすごーーーくたくさんいます。多くの場合、それは取返しが付かないくらい「分からない」が積み上がった後、やっと発見され、対処が可能かどうか(主に大人によって)検討されることになります。周囲の環境も含めて、正直運次第って部分もないではないです。


「分からない」を解決する為にはどうすればいいか、っていうノウハウはたくさんあります。けれどこれも、経験しないままだとずっと身につかない。小学校、中学校でずっと「分からない」を経験しないまま通り過ぎて、高校になって初めて「分からない」にぶち当たって、どうすればいいか分からず落ちこぼれちゃう子、とかも全然珍しくありません。

「分からない」を認識してそれに立ち向かうことって、それだけで、ある種の訓練というか、慣れを必要とすることなんですよね。「分からない」にある程度慣れていないと、そもそも自分が分からないことが分からない。分からないことを見過ごしてしまうんです。「分からない」を直視するのって、精神的にも結構大変なことです。

だから、ごくごく初期の段階で「分からない」を発見してきちんと対処出来る、っていうのは凄く難しいし、貴重なことなんです。


そういう意味では、長男は凄くいい経験が出来たなあ、と。まだほんのちょっとの期間だけど、塾に行きたいって自分で言い出して、いきなり「分からない」に突き当たって、しかもそれをちゃんと持って帰ってこれたってのはとても偉いなあ、と。更に、やたら忙しい時間なのにそれをちゃんと拾ってくれた奥様もありがたいなあ、と。


泣き出した長男は、しばらく抱っこしていたら落ち着きました。

その算数の問題自体は、なにせ昔何十人も教えていた問題なので、教えることは簡単でした。ただ、折角なので、「いくつもやり方があって、その中から自分に合ってそうなやり方を選ぶ」っていう経験はさせてあげたいなーと思いまして、何パターンか解き方は教えてあげました。多分一回じゃ身につかないんで反復させてあげないとなって思ってるんですけれど。


それはそれとして、傷ついているであろう長男の自信のフォローはしてあげないとなーと思いまして。最近長男ドラクエにハマってるんで、こんなたとえ話をしてみました。


長男は、今アリアハンからロマリアに出てきたところなんだ、と。

ロマリアに行くといきなり敵が強くなるのは当たり前のことで、苦戦するのも当然のことで、それはちゃんとゲームの展開に沿ってるんだ、と。

ロマリアの敵は経験値も多いから、あっという間にレベルが上がってちゃんと倒せるようになるから、ちょっとびっくりしたかも知れないけど、全然心配することはないんだ、と。

ただしいきなりアッサラームに行くと死ぬからよせ、と。


そしたらどうもたとえ話が刺さったらしく、きゃっきゃ笑って、その後は割と元気になりました。良かったです。


いきなりアッサラーム行くと死にますよね。やりました昔。あと昔奥様が、「ちょっと今日の夕飯は冒険かも」って言ったから「ドラクエ3でたとえるとどの辺?」って聞いたら「ロマリアに着いた直後、何も考えずにアッサラームの方にいったくらい」って答えが返ってきたことがありまして、あの時は「らめえええええ」と思いました。


「分からない」は発見することこそが一番難しいんだ、という話でした。


ということで、ちょっとした話でしたが、今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 18:54 | Comment(14) | TrackBack(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

いつかきっと、君はパパエレベーターに「いいよそんなことしないで」と言うのだろう


昨日、長男が寝ませんでした。


以下は、なんということのない、しんざき家のある一晩の話です。

長男、9歳。4月から小学四年生。長女と次女、5歳の双子。いずれも春から幼稚園の年長さん。

しんざき家は比較的タイムスケジュールが明確な家でして、子どもは基本21時には就寝します。20時にご飯を食べ終わって、皆でお風呂に入って、がーーっと寝る準備をして、21時には一家で布団にくるまって電気を消すのが理想のスケジュールです。

仕事の都合で、私が夕飯に間に合わないのはそんなに珍しいことではないのですが、幸い寝る時間に間に合わないことは余りありません。お風呂に一緒に入って、布団には5人で一緒にくるまって、子どもたちが全員寝付いてから親だけ起きてきて、ご飯を待ってくれているしんざき奥様と22時くらいに夕飯を食べる。それが、しんざき家で一番多いパターンです。


昨日、長男が寝ませんでした。


5歳の双子はなにせまだ幼児なので、パパ・ママが添い寝してくれないと寝られませんし泣きます。大体の場合、長女はママにくっついて寝たがりますし、次女は私に腕枕をしてもらいたがります。必然、親は二人とも、まずは長女次女にくっついて寝ることになります。長女は特に寝付きが良いので、長女が寝付いた後、奥様が移動して長男に添い寝してあげることもあります。

いつもは長男は、長女次女の反対側に位置して寝るか、ちょっと離れたポジションでごろごろしている内にいつの間にか寝ている、ということが常だったんですが。ここ数日、「長女 奥様 次女 私」というポジションが取られることが多く、「また(長女)ちゃんがママの横占領してるー」と長男が不平を言うことが続いていたのです。


不平を言いつつもいつの間にか寝ていることの方が多いですし、たまには私や奥様が早めに移動して添い寝してあげることもあったので、そこまで心配はしていなかったんですが。ただ、長男だってまだ9歳ですし、不公平を感じる部分もあったのかも知れません。


昨日長男は、いつも通り電気が消えてから、「また長女ちゃんがママの横占領してるー」と不平を言いました。「長女ちゃんすぐ寝るから、そしたら(長男)の横にいってあげるから」と奥様が答えました。



長男は、しばらくごろごろした後、おもむろに身を起こして、壁にもたれかかってじーっと座っていたのです。



月明かりが僅かに差し込む中、長男が身を起こしているシルエットは、私の目にはひどく印象的に写りました。いつもなら「ほら寝よう」と声をかけて寝させるところなんですが、なんだかそういうのが躊躇われました。


恐らくなんですが、長男はこの夜、「今日は絶対ママと寝る」と決意したんだろう、と思います。聞けば良かったんですが、電気が消えた中でお話をして、長女次女を起こしてしまってもいけません。

少し経った後、いつもはもうちょっとぐずぐずしている次女がすぐに寝付いたので、私は長男に声をかけました。「パパと一緒に寝る?」長男はゆるゆるとこっちに近づいてきましたが、「その前にトイレにいく」と、そっとささやき声で言いました。

しんざき家のトイレは階下にあります。長男はまだ、深夜に1人でトイレに行くのを嫌がりますので、長男がトイレにいく時は大抵私が起こされます。長男が用を足す僅かの間、私は長男に買ったてんとう虫コミックスのドラえもんを読みます。


長男がトイレから出てきてから、私は聞いてみました。「パパエレベーターする?」

長男は、ちょっと嬉しそうににやーっとして、「うん」と言いました。


パパエレベーターというのは、単に「パパが抱っこして階段を上がる」という、それだけのことです。長男の体重は、今30キロにちょっと届かないくらいです。流石に多少重いですが、まだ腰に来る程ではありません。長男をぎゅっと抱っこして、私はゆっくり階段を登りました。長男は、私の背中に腕を回していました。


子どもは皆抱っこ好きですが、しんざき家の3人はとみに抱っこ好きです。特に長女と次女は隙あらば親に抱っこしてもらいたがります。長男は流石にそこまででもないですが、今でも抱っこされると喜びます。

その後布団部屋に戻ったところ、長女は既に寝付いていて、奥様が長男と添い寝してくれました。さっきまで壁際にもたれかかっていた長男は、すぐに寝付きました。


これが、昨晩起きたことの全てです。この後私は奥様と夕飯を食べながら、長男が寝なかったことについて夫婦で情報交換しました。


長男の名誉の為に言い添えておきます。彼は確かに甘えん坊ですが、普段はとてもお兄ちゃんな甘えん坊です。私は彼に「こどもリーダー」という役職を任命しており、長女次女にも「お兄ちゃんの言うことちゃんと聞くんだよ」と言ってあります。長男が長女次女の面倒を見てくれると、私は彼に「流石こどもリーダーだな!」と声をかけます。自分がこどもリーダーであることは、長男の中では一つのプライドになっており、きちんとしたリーダーシップを見せてくれます。


ただ彼は、それと同時に、まだまだパパやママを独り占めにしたいし、抱っこされたいし、添い寝されたいのです。そしてそれは、私と奥様にとっても、大きな贈り物でもあります。まだ長男は、パパエレベーターに対してにやーっと喜んでくれるのです。


いつかきっと、長男は「パパエレベーターする?」と言われた時「いいよそんなことしないで」と言うのでしょう。「もうそんな年じゃないよ」と言うのかも知れませんし、その頃には長男の一人称は「ぼく」ではなく「おれ」になっているかも知れません。それは、5年後かも知れませんし、3年後かも知れませんし、1年後かも知れません。


だから、今、長男がパパエレベーターに喜んでくれることを、私は出来る限り大事にしたいと思っています。


子どもが甘えてくれる、という時間はいつか必ず失われますし、失われるべきです。「子どもが甘えてくれなくなる」というのは親にとって一つの喪失ですが、親は必ずその喪失を目指さなくてはいけません。だから私は、いつか長男や長女や次女が、「もう抱っこなんて年じゃないよ」と言う言葉を口にするのを目指し続けています。

それでも、まだ子どもが素直に甘えてくれる間は、親もそれに甘えてもいいものだと思っています。それも一種の助走距離になるのだろう、と思っています。


昨日、長男が寝ませんでした。


大事な時間でした。

posted by しんざき at 06:39 | Comment(4) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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