2019年09月30日

次女が「計算得意になる!」と張り切り出したので計算特訓を始めた

長女次女、小学二年生。次女は獣医になりたいので算数頑張るそうです。目標があるのは良いことです。

具体的には、「今のレベルより簡単な計算を大量に、時間を測りつつ毎日やる」というアプローチをとることにしました。昔公文をやっていた奥様の提案です。

長女の方は当初そこまで乗り気ではなかったんですが、次女がやっていることは長女も大体やりたくなるので、折角なのでということで二人一緒にさせています。ただし二人一緒にやらせると競争始めて気が散るのでタイミングをずらしています。

勉強は、基本的に「勉強しなさい」と言ってやらせても身にはなりません。言うだけ無駄です。親が出来る最大のことは「その気になっている時に環境を整えて習慣化させてあげること」です。上手く習慣化すれば良し、習慣化しなかったら向いてなかったかーと思って次の機会を気長に待ちます。

計算プリントは当初自作しようかと思ってたんですが、探してみると丁度いいのがあるわあるわ。取り敢えずこちらのサイトさんのプリントを使わせてもらっています。

引き算.png
こんな感じの問題がわんさかおいてあるので、適当な枚数印刷してあげます。今出来るレベルより多少下のレベルから始めてあげるのがポイントで、サクサク出来るので自信がつくし、お手軽なので嫌にならないし、基礎的なところがほぼ無意識で出来るようになるので今後も計算ミスが減る。基礎的な部分の取りこぼしも確認出来るという一石四鳥です。サクサク出来るようになったら段々問題のレベルを上げていきます。

で、毎回時間を測って記録してるんですが、一週間くらい経ったのでグラフにしてあげました。

特訓グラフ.png

普通にExcelです。Googleドキュメントにしようかと思ったけどどうせ家庭内でしか見ないのでやめておきました。取り敢えず「繰り上がりのある足し算」と「繰り下がりのある引き算」を1枚ずつやっているのでグラフが二本あります。そしたらきゃっきゃ喜び始めてこれはこれでモチベーションになったらしい。ついでにグラフの見方も教えてあげました。軸がなんかおかしいけど気にしてはいけない。

やはり「結果がすぐに可視化される」「一回の練習自体はせいぜい5分とかそんなもん」というのは割と継続し易いようで、取り敢えず三日坊主にはならなかったので、しばらく続けてみて、その内自分でプリント印刷まで出来るように環境を整えてあげようと思います。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月05日

不死鳥のように復活した「総武線のそうちゃん」の話

長男がまだ小さい頃、読み聞かせとはまた別に、部屋が暗くなってから「総武線のそうちゃん」のお話をしていました。

長男は小さい頃からプラレールが大好きで、電車絡みの話をするとやたら食いつきがよかったので、在来線や東京メトロの路線名を勝手にキャラクターに仮託して、私がその場で適当な話をでっちあげていたのです。端的に言って「きかんしゃトーマス」の丸パクリのような構図ですが、長男はそうちゃんの話が大好きで、毎晩毎晩「そうちゃんの話して!」「今日のそうちゃんは?」とせがまれました。

今調べてみたら、昔にも不倒城でこの件について書いていました。以下の記事です。


息子さんが夜寝る前に帰れた時、私は息子さんに「お話」をせがまれる。もう2年以上前くらいから続いている、電車擬人化系ハートフルストーリー「総武線のそうちゃん」のお話である。

息子さんが電車好きだったから始めたお話であって、端的に言うと機関車トーマスのパクリ「総武線のそうちゃん」や「中央線のちゅうちゃん」、「山手線のやまちゃん」などの適当感あふれる擬人化キャラクターズが色々な騒動を起こすストーリーなのだが、流石に2年も続けていると思いつく展開も尽きてくる訳で、正直新しい展開を考えるのはブログ書くより大変である。


これを書いた2012年の時点で「2年以上前から続いている」ということなので、大体長男が3・4歳くらいの頃から話していたようです。我ながらよくまあ毎晩ストーリーをでっちあげたものだと思います。

別にネタ切れになったことだけが原因ではなく、長男が自分で本を読むようになって、長女次女への読み聞かせにシフトしたくらいから、自然とそうちゃんの話はしなくなっていきました。長男は色んな本を読むようになり、また本物の電車についてのイメージも固まってきて、「そうちゃんの話して!」とせがまれることもなくなってきました。

言ってみれば、しんざき家において、「総武線のそうちゃん」は役目を終えました。少なくとも私はそう思っていました。

ところで最近、長女次女を寝付かせる時、「お話」をせがまれることが妙に増えました。

理由の一つは、長女次女も7歳になって、もう絵本にせよ児童書にせよ自分からサクサク読めるようになったことではないかと思います。長女次女は漫画も好んで読み初めまして、「ドラえもん」や「よつばと」辺りは特にお気に入りのラインナップになっています。結果、夜寝る前の布団部屋の時間では、長女も次女も自分で読みたい本を持ち込んで読むようになって、読み聞かせの頻度は減ってきました。

ただ、どうも「パパに何か読んでもらう」というのがないのが何故か物足りないようで、電気を消してさあ寝るか、となってから、「ねえパパお話して!」と言い出すようになったのです。最初の内は、適当にその場ででっちあげた昔話風のお話をしていたのですが、すぐにバリエーションも尽きました。

そこで、なんということなく「総武線のそうちゃん」の話の再利用をしてみたところ、これまた意外なことに、長女も次女も喜んで聞くのです。「今日はそうちゃんは!」とか「そうちゃんして!!」などと言われるようになって、そうちゃんまさかの大復活です。

いや別に、長女も次女も特段電車好きでもなんでもないんですよ。プラレールには全く興味を示しませんし、長男が新型車両がどうとかいう話をしてもなんのことやらという感じ、長時間電車に乗るのは基本的に嫌がります。

ところが、「電車擬人化」という、めちゃ男の子向けにチューニングされた設定のお話を長女も次女も気に入ったので、こりゃ不思議なこともあったもんだなあと。もしかすると、「親がお話を作ってくれる」というそれだけで子どもには十分なのかも知れませんし、案外知っている無生物が擬人化するというテーマはそれだけで男女問わずキャッチ―なのかも知れません。まあなんにせよ喜んでくれるのは良いことだと思います。

そんなわけで、最近は夜ごと、昔大量に作ったそうちゃんバリエーションストーリーを思い出すよう必死に記憶棚をかき回したり、その場で適当なストーリーをでっちあげようと奮戦したりしているわけです。先日はそうちゃんが月にいって、戻ってきたと思ったら無人島に落ちてそうちゃん無人島サバイバルストーリーになりました(乗客は乗ったまま)。大体車掌さんにそうちゃんが怒られるのがオチです。

引き続き、子どもたちの為のストーリーテラーとして精進したいと思う次第です。

今日書きたいことはそれくらい。
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2019年02月21日

我が家における五味太郎先生の絵本お気に入り打率が途方もない件

しんざき家では、ほぼ毎晩絵本の読み聞かせをします。皆で布団にくるまってから絵本を一冊読んで、その後電気を消して寝ます。

長男が小さい頃から始めた習慣ですが、長男は小3くらいからもう読み聞かせではなく自分で本を選んで読むようになりましたので、今はもっぱら長女次女に読み聞かせをしています。長女と次女は代わりばんこに絵本を選びます。順番を抜かされそうになると泣きます(主に次女が)。

絵本は買うこともあるのですが、多くは図書館に頼っています。図書館に子どもたちを連れていって、読みたい絵本を選ばせます。で、まとめてどさっと借ります。目黒区はその点大変ありがたく、一度に20冊もの冊数を借りられる上返すのは区内のどの図書館でもOKなので、利用し倒させて頂いております。

で、やはり子どもたちにも「お気に入りの絵本」「そんなにお気に入りでもない絵本」というものがありまして、お気に入りの絵本は何度も読み聞かせ希望スタックに入り、図書館でも何度も借りたり本屋で買って欲しいとせがまれたりするのですが、何が凄いって五味太郎先生の絵本のお気に入り打率が凄い。今まで、五味太郎先生の絵本を読み聞かせて、それがお気に入りにならなかったことがない。打率10割です。

年齢層的には3歳〜5歳くらいボリュームゾーンの本が多いんですが、長女次女は今でもちょくちょく読み返したりしています。



たとえば、ご存知の方も多いであろう「きんぎょがにげた」。「金魚鉢から逃げ出した金魚が、部屋のあちこちに隠れている」という筋立てなんですが、幼少期の子どもたちは3人が3人ともこの絵本大好きで、延々「ここ!」「あ、ここ!いたーー!」などときゃっきゃしていました。何十回読み聞かせたかわかりません。



「きいろいのはちょうちょ」。少年がちょうちょを追いかける話なのですが、各ページちょうちょの部分に穴が空いていて、ちょうちょだと思っていたらめくってみると実は…!というのが繰り返される話。これも子どもたち全員お気に入りでして、何度も繰り返して読みました。最後の最後、本当にちょうちょが出てくるんですが、もう「あれはちょうちょじゃない!」と疑念民になって無視する少年に対して、「あ、ちょうちょいるのにー!」と次女が大騒ぎするのが専らでした。



「なんとなく」。パン屋さんとか、警察官とか、買い物のおばさんが出てきて、「なんとなく」自分の仕事とは全く関係ないことを始める、というお話。通行人のおばさんがなんとなく表彰台に登ったり、パン屋さんがなんとなく車を作ったりします。これも今まさにお気にいりでして、寝る前に限らずしょっちゅう読み聞かせています。



「だれかがいます」。イラストの中に参ページだれかが隠れていて、それが何かな?というのを考える。ページをめくると意外な正体にびっくり、というような本。


ことわざ絵本。これも有名だと思うんですが、色んなことわざとセットで、五味太郎先生のイラストと、先生一流の独自解釈やらオリジナルのことわざやらが付記されています。上四冊よりは微妙に年齢層が高いかも。

他にも色々あるんですが、きりがないので一旦ここまで。

こうしてざーっと並べてみると、これらの五味作品の共通点として、

・適度な奇想天外さ、意外性
・自分から働きかけることが出来るゲーム性
・非常に短いスパンでの答え合わせ

というものがあるような気がします。

つまり、まず何よりも「意外性」がある。ちょうちょだと思ったものが信号だったり、風船だったりする。で、それ自体、全くの出鱈目という訳ではなく、ちゃんと納得が出来る程度の振れ幅なんですよね。奇想天外なんだけど、奇想天外過ぎない。距離感覚が適度。

で、そこに対して、「自分から働きかけることが出来る」「絵本からの問いかけがある」。これも重要だと思うんです。「金魚はどこ?」と聞かれる。「ここに隠れているのはなに?」と聞かれる。読み聞かせの時にも、親が子どもを絵本世界に巻き込みやすいと思うんですよね。

で、それも、紙芝居のような風情で、親がページをめくると即答え合わせになる訳で、子どもの興味が持続しやすい。これはもう、小さい子が皆好きになるわけだよなーと思う次第なんです。


親になって自分の目が変わったと思うことの一つは、「絵本に対する感受性が昔より明らかに増したなー」と思うことです。なんというか、絵本の凄さ、絵本の面白さにやっと気づいた、とでもいうのでしょうか。子どもの頃には気付かなかった面白さ、子どもの頃には分からなかった上手さみたいなものに、最近感心させられることしきりです。

五味太郎先生が物凄いことはもはや私の中では既定事実なんですが、他にも林明子先生の滅茶苦茶な絵の上手さに最近ようやく気付いたり、山脇百合子先生の絵の余りの分かりやすさに戦慄したりということが頻繁なので、それについてもまた書きたいと思います。

今日書きたいことはそれくらいです。

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2019年02月18日

長女が初めて知らないお友達と遊べた

ちょっとしたことだが、記録として。

7歳双子の長女次女をしばしば公園に連れていく。特に予定がない土日は、大体私がどこかしらの公園に長女次女を連れ出す。幾つか長女次女お気に入りの公園があって、大抵午前中にそのどこかに行く。で、お昼になったら帰ってきて、自宅でまったりしていた長男奥様と一緒にお昼を食べる。

近所に自転車に乗れる公園があって、我が家の子どもは3人とも、そこで自転車に乗れるようになった。言ってみれば、我が家にとっての自転車道場だ。

補助輪なしで自転車に乗れるようになってからも、長女次女はちょくちょくそこに遊びに行きたがる。かつての長男がそうだったようにだ。その公園で一通り自転車に乗ってから、その近くのもっと大きな公園に移動して、そこで遊び倒すのが二人のお気に入りのコースである。

次女が社交的で、公園でも知らない子にどんどん話しかけて一緒に遊んでは「新しいおともだちできた!!」と報告してくるのに対して、長女はどちらかというと人見知りで、知らない子と遊ぶということが苦手だった。

長女的には、まず誰よりも次女と一緒に遊びたいのだ。長女は次女が大好きで、どこに行くにも次女が「行く」と言うと取り敢えず一緒に行きたがる。一方、ちょくちょく次女に意地悪をして泣かせたりもするので、メンタルとしては完全に小学生男子である。

が、根が人見知りなために、次女が誰か知らない子と遊んでいると、たとえ次女に「一緒にあそぼ!」と誘われても輪に入りにいけない。次女と遊びたいのに、次女が知らない子と一緒にいるから一緒に遊べない、と、長女的にはストレスになっていることが伺えた。

長女にとって、「次女と自分の二人の世界」が一番重要であって、そこに割って入ってくるお友達は、もしかすると一種の侵略者なのかも知れなかった。

そんな時は、長女は大体私のところにきて、私に抱っこを求めたり、あるいは私を連れ出して一緒に遊ぼうとしたりする。勿論付き合うのは全然かまわないのだが、恐らく本心では同じ輪に入りたい、というか単に次女と遊びたいと思っているであろうところ、どうしたもんかなあと考えていた。「一緒に遊ばないの?」と言いたくなるところだが、親があれこれ口を出すのも逆効果かも知れんしなあ、と、しばらくは静観してみるつもりだった。

自転車に乗れる公園の後、いつも通り公園のはしごをした。公園の中に幾つかの遊び場が分かれて配置されていて、そこには大きな滑り台もあれば、ブランコも砂場も、皆で乗ってぐるぐる回る遊具もある。

最初の内は長女と次女の二人でキャッキャ遊んでいたところ、同年代のお友達がいるとすぐに話しかける次女が、新しくお友達を作った。その公園の滑り台はそこそこスピードが出る。次女とそのお友達の二人は、きゃーきゃー言いながら手をつないで滑り台を滑り始める。それを見て、長女がベンチに座っている私の方に走ってきた。

「パパ、ブランコ押して」

いつも通り。

「滑り台はもういいの?」

「いいの。抱っこ」

ブランコに行くと言ったのに、私に抱っこを求めてきた。ベンチに座って長女を抱っこしながら、やっぱり本心では次女と遊びたいんだろうなあ、もしかすると焼きもちを焼いているのかもなあ、と思っていた。「早くブランコに連れてって!」ともいわず、ちらちらと滑り台の方を見ている。

さてどうしようかな、と思っていたら、次女がお友達の手を引いてこっちに走ってきた。

「ね、(長女の名前)ちゃんも一緒に滑らない?」

次女が誘いに来てくれることはしばしばあるが、お友達まで連れてくることは結構珍しい。次女なりに気をつかってくれているのかも知れない。

「滑らない」

長女はぷいっと反対の方を向く。すると、次女は唐突にお友達の紹介を始めた。

「この子ね、〇〇ちゃんって言うの。長女ちゃん、挨拶して!」

〇〇ちゃんは、長女次女よりも少しだけ年下に見えた。実際まだ幼稚園に通っているらしい。空気を読んでいるのかどうか、特にきょとんとした感じもはにかんでいる様子もなく、長女と次女を交互に見ている。物怖じしない子だなーと思った。

長女は知らない子に挨拶をするのが苦手である。固まったままの長女に対して、ちょっとだけ助け船を出そうかと思った。

「〇〇ちゃん、こんにちは。ほら長女ちゃん、こんにちはは?」

「…こんにちは」

「こんにちは!」

曲りなりにも挨拶出来た。その後、重ねて遊びに誘うでもなく、次女はお友達の手を引いて、あっさりと滑り台の方に走っていった。その後、ほんの少しだけ驚いた。

「わたしもいく」

長女が、特に私が何も言わなくても、自分から私の膝を降りて、滑り台の方に走って行ったのである。ほへーと思って見つめていた私の前で、今度は次女がまた別の男の子に声をかけて、滑り台で遊ぶ人数は4人に増えた。

私が知る限り、少なくとも長女次女が小学校に上がってからは、これは「長女が公園で、全く知らない友達と一緒の輪の中で遊べる」最初の事例だ。

その後は、特に何か起こるでもなく、きゃっきゃと子どもたちで遊んでいた。滑り台から移動して、皆でぐるぐる回る球形の遊具に移動した。私が遊具を回していると、その内他の子どもたちも増えた。恐縮するお母さんも周囲に集まってきた。手が痛くなった。

帰り路、自転車に乗りながら長女に聞いてみた。

「今日は知らない友達と遊べたなあ」

「次女ちゃんが紹介してくれたから平気だったの!」

はー、と感心した。

まず何よりも、わざわざお友達を引っ張ってきてくれた次女に感謝すべきであることは間違いない。次女がどこまで考えていてくれていたのかはよく分からないが、やはり長女に気を遣ってくれてはいたのだと思う。ただ、もう何度も「遊ぼう」「遊ばない」を繰り返していた次女が、辛抱強く長女を誘ってくれたことについては、次女の我慢強さは本当に大したものだ。

一方、挨拶というきっかけがあったからとはいえ、私の膝の上という安住の地を捨ててお友達と遊ぶことを選んだ長女の勇気も、本当に大したものだと思う。私には「人見知り」という感覚は正直よく分からないが、恐らく重い重い扉を無理やり押し開くような感覚だったに違いない。その一つのきっかけになったのだから、挨拶というものはつくづく馬鹿にならないと思う。

勿論、これは長女次女が成長する過程での、ほんの一場面に過ぎない。来週同じことがあったとして、長女がまた同じように遊べるかというと、それは全く分からない。進んでは戻り、進んでは戻りして、少しずつ自分の社交能力を耕していくものなんだろうなと、そんな風には思う。

ただ、後々振り返って、「そういえばこれが転機だったなあ」とふと思い出すこともあるかも知れない。そう思って、この細かい話をわざわざ書き残しておく気になった。数限りないエピソードの内のたった一つだけど、いつでも読み返せるようにここに残しておく。

長女次女の世界が更に広がりますように。そう思うばかりである。


今日書きたいことはそれくらい。





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2019年02月01日

次女の感受性が強すぎてちょっと心配

感受性という言葉が適切なのかどうかはよくわからない。備忘録というか、ちょっと子ども観察の記録として書き残しておきたくなった。特に結論が出るような話ではない。

次女は割とすぐ泣く方で、以前から「食べきれるかどうか心配になってしまう」ということで給食の前に度々泣いており、なんなら自宅での夕飯前にも「お料理が多すぎたから」ということでしくしく泣き始めてしまったりする。別に全部食べ切らなくてもいいと言っているし、食べてしまった後はけろっとしているのでそこまで心配はしていないのだが、ただちょっと心配性なのかな?と思ってはいた。

それ以外でも、例えば鉛筆をなくしたと言っては泣くし、宿題の量が多いと言っては泣くし、おもちゃが見つからないと言っては泣く。泣くといってもぎゃあぎゃあ泣く感じではなく、むしろ涙をぽろぽろこぼすような泣き方で、見つけた当初は泣いた原因が分からないので親としては割と慌てる。まあ奥様が上手くって、無理に泣く理由を聞き出そうとはせず、ただ黙って抱っこして「泣くのは全然いいけど、ちょっとずつ理由が話せるようになるといいね」というスタンスなので、プレッシャーは多分特にかかっていない、と思う。

ただ、最近ちょっとびっくりした。

仕事がだいぶ忙しくて、いつもよりちょっと遅めに帰宅して、流石に疲れたなーとリビングでぼーっとしていたら、なんか次女がぽろぽろ泣き始める。「どうしたの?」と言ってみたら、しばらくしてから「パパがかなしそうだったから」と言うのだ。

別に私は悲しみに暮れていたわけではなく、単に今日は仕事きつかったーと放心していただけなのだが、確かにいつものように子どもたちに笑顔を向けたり、色々話を聞こうとしていなかったのは確かだ。ただ、その程度の変化でも、次女の泣きアンテナには引っかかってしまうのだなーと、正直ちょっと心配になった。

感受性が強いのは悪いことではない。泣くのだって一過性のものである可能性は大いにある。ただ、単に「身近な人が悲しそう」というのが、泣いてしまうくらい次女にとっては心配なことであるというのは、ちょっと世の中から受けるストレスが過大になり過ぎてしまわないか、とその点が聊か不安なのだ。

次女は気遣いさんであって、人の世話をやくのも好きだし人が喜ぶのを見るのも好きだし、端的に言うととても優しい気質だ。そこは明確に次女の美点だと思うのだが、一方で一つ一つの事象を重く捉え過ぎてしまう、すぐ自分のストレスにしてしまうというのは、生きていく上では結構苦しい要素かも知れない。いや、涙という形でストレスを外に出せている、という見方も出来るのかも知れないが。

人生を泳いでいく際には「なんかあっても気にせず受け流す」というスキルは絶対に必要であって、今後次女にはちょっとずつそのスキルを身に着けさせてあげないといけないよなあ、と思っている。やり方が思いついている訳ではないが。

一方の長女は、例えば長女と次女が寝ている私に飛び乗ってきて、私が大げさに痛がってみせると、にまーっと笑って喜んでストンピングをしてくる(次女は心配して泣く)。精神的に頑健そうで頼もしい限りなのだが、勿論逆に外に出てこないだけという可能性はあるので、予断なく見守っていきたいなーと思っている次第である。
posted by しんざき at 07:00 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月07日

るらら港北のアメイジングワールドが楽しすぎる件

正月は奥様方実家に帰省してまして、私も時間があったので子ども達と散々遊び倒してました。

近所の公園やら神社やら色々行ったんですが、小1長女次女が一番喜んだのが、何度か行ったことがある「アメイジングワールド るらら港北」です。

長女次女とアメイジングワールドにきた!!開店直後でがらっがらで素晴らしい

まだ開店直後だったので子どもも少なく、手加減無用で走り回れるので超大喜びの長女次女。写真だとちょっとわかりづらいと思うんですが、めっちゃ広いんですよ、ここ。

るらら港北って、横浜ブルーラインの「センター南」ないし「センター北」からちょっと歩いたところにあるんですが、ここの室内遊び場であるアメイジングワールドが、すげー充実してる癖に割と穴場なのか、案外空いていることが多いんです。


料金は、休日でも一人1200円で終日遊び放題、途中退出も自由、中の飲食コーナーでデリバリも可能と、この手の室内遊び場の中ではかなりリーズナブルな料金体系。中にいるとすごい速さで時間過ぎるんで、一日いるつもりなら相当なコストパフォーマンスです。

奮戦する長女

こんな感じのプチボルダリングやら。

ブログ用

こんな感じで登れる遊具やら。

ブログ用

子ども達に一番キャッチ―なのは、入ってすぐのゴム製巨大滑り台ですね。これ、滑り台にたどり着くまでもちょっとしたアスレチックみたいになっていて、大人も普通に入れるので子どもたちと追いかけっこするのもなかなか楽しいです。大人の体重がかかると滑り台めっちゃへこむんで、それもなかなか楽しいみたいです。

ブログ用

定番のボールプールも当然完備。他、おままごとコーナーとか、ブロックを積みまくれるコーナーとか、壁一面に落書き出来るコーナーとか、ゴムのホイールに入ってハムスターのごとくぐるぐる回れるコーナーとか、当然トランポリンなんかもありまして、子どもはうっかりすると昼ごはん食べるのも忘れて遊んじゃうんでどっかで説得して連れ出さないといけません。

あと、一番奥に謎のバギー風ミニカーに乗って遊べるコーナーがあるんですが、あれ、何故かハンドルを左右に振るだけで前に進んじゃうんですよ。なんでしょうアレ。前方に進むモーメントがないような気がするんですが、何等かの魔法の力でも働いているんだろうか。

また、イベントコーナーなんかもありまして、大体2時間くらいに1回、様々なイベントが発生して子ども達を楽しませてくれます。今回は電動の小型コミューターに乗れるイベントとか、スタンプラリーとか、餅つき大会なんかもありました。毎度、子どもを楽しませるためにエライ努力をしてくださっていることがよくわかり、スタッフの皆さんには頭が下がります。

というわけで、おそらく小学校低学年くらいまではベストマッチ、うっかりすると小学校高学年でも普通に遊べちゃうんじゃないかってくらい充実した室内遊び場ですので、港北近郊の方は遊びに行ってみられてはいかがでしょうか、という話でした。うちの長女次女も遊んだ後つやっつやしてましたマジで。夜は速攻撃沈。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 23:40 | Comment(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月03日

子どもに言うことを聞かせたい時は圧倒的に〇〇大会の実況中継をするのが良い

例えばの話、「道を歩く時、走らせないでゆっくり歩かせたい」というケースの場合、「最後まで歩く大会」を開催します。

で、実況中継します。登場選手は長女と次女です。(実際には名前で呼んでいます)

「さあ、最後まで歩く大会、いよいよ中盤戦にさしかかりました!果たして長女ちゃんと次女ちゃんは最後まで走らずに歩き切ることが出来るでしょうか!」

「ではここで長女監督にお話をうかがってみます!現場のパパレポーターさん!」

「はい!長女監督、今回の試合のポイントはいかがでしょうか!」

「えっとー、えっとー、がんばります!」

「では次女コーチ、選手にかける期待の程をおきかせください!」

「きたいのほどってなに?」

「はい、パパレポーターさんありがとうございました!さあ、いよいよ試合は終盤にさしかかりました!広い歩道!上りやすい段差など数々の誘惑があります!ゆうわくを乗り越え…乗り越えたーーー!!長女次女チーム、優勝です!!」

こんな感じで、優勝したらヒーローインタビューをしてあげます。どうも、長女次女の場合このヒーローインタビューが楽しみな節がありますので結構念入りにやります。

「それではヒーローインタビューです!優勝した長女選手、今回の試合の一番のポイントはどこだったでしょうか?」

「えっと、えっと、うれしいです!」

「ありがとうございました!では次女選手、長女選手とのコンビプレイがさえわたりましたが、事前の練習などは念入りに行われましたか?」

「じぜんのれんしゅうってなに?」

こんな感じなんですが、これでぴたっと走らないで落ち着いて歩いて帰れるようになりましたので、上を読んだだけだと全然乗ってないように見える次女も実際には結構楽しんでいると思います。

長女次女は小学一年生なんですが、長男が小3くらいまでは通用しましたので、子どもにもよりますが小学校低学年くらいまでは結構有効にいけると思います。乗りがいい子ならもうちょっといけるかも。

この方法にも勿論メリットデメリットがありまして、

【メリット】
・〇〇大会の部分を変えれば割となんにでも応用出来る
・親の気合さえあればそれなりの長期間持たせることが出来る
・ごっこ遊びが好きな子には特に有効
・親側も語彙力を鍛えられる

【デメリット】
・場合によっては走らせるよりも疲れる
・ネタ切れとの闘いが案外辛い
・近くに人がいると社会性に若干ダメージを受ける

それ程のデメリットではありませんね。


ということで、今日も長女次女と散々遊び倒してから無事に帰宅に成功しましたので後はだらだらします。

そういえば新年あけましておめでとうございます。今年も、旧年にも増した適当さで適当にやりますので皆さんも適当によろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 17:25 | Comment(2) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月25日

長男が妹の手作り蝋燭を褒めているのを聴いて、すごいなーと思った話

すいません、完全なる身内褒めエントリーなんですが、感心したのでちょっと書かせてください。子どもは遠慮なく積極的に褒めていくスタイルです。

長男、11歳。長女次女、7歳の双子。小学1年生です。

いや、話自体は本当にちょっとしたことなんですけど。

先日、図工の授業か何かで、長女と次女がろうそくを作って持って帰ってきたんです。多分クリスマスに使うキャンドルを意図しているものだと思うんですけど、最近の小学校って色々授業工夫してますよね。

私も見せてもらったんですが、長女のがこんな感じでした。

長女が作った蝋燭

白い蝋燭の上に、色付きの蝋を溶かして塗り固めてるみたいですね。規則正しく図形が並んでて、綺麗だなーと思います。

一方次女のはこんな感じでした。

次女の蝋燭

これはこれで全然綺麗でとてもいいと思うんですが、単純に長女の蝋燭と見比べてしまうと、「規則正しさ」とか「丁寧さ」というステータスでは一歩を譲るかも知れません。

長女と次女って、双子の割に全然似てませんで、絵や美術関連でも長女は技巧派、次女は感覚派って感じだったんですよね。前も一回書いたことあるんですけど。


それはそうと、丁度私がいる時、長女と次女が長男のところに、「みてーー!!」って言いながら蝋燭持っていっていたんです。自慢したかったようでした。

それに対して長男、長女の蝋燭にはこう言いました。

「丁寧だし綺麗だねー。色の並びがいいよね」

一方、その後見せられた次女の蝋燭に言ったのは、こうです。

「ダイナミックで自然だねー。花畑みたい」

いや、身内褒めですいませんが、すげえな、と思いまして。

私が感心したのは、大体以下のような点です。

・長女次女、それぞれの蝋燭にそれぞれの長所を見つけてあげられている
・しかもそれがちゃんと的を射ている
・こどもリーダーとして、長女次女をちゃんと褒めてあげられている
・多分長女次女もそれが分かっていて長男を信頼している
・褒め言葉の語彙が豊富

これくらいのことは言えるんじゃないかなーと。

まずこの蝋燭、単純に大人的な価値観で見てしまうと、「長女の方が上手」って評価してしまい兼ねないと思うんですよ。確かに、一見「綺麗に並んでいる」とだけ見えるのは長女の蝋燭の方なんです。これは、「丁寧さ」「規則正しさ」っていう尺度が、大人にとって分かりやすい評価軸であることに由来しています。

ただ、「丁寧」とか「規則正しさ」っていうのも、単なる評価の尺度の一つに過ぎないのであって、小1の頃からそんなんもんに縛られる必要もない筈なんですよね。まず、自分が表現したいことを表現するのが重要であって、それ以外のことは後から考えればいい。そういう意味で長女次女の蝋燭に優劣なんかないんです。

そこで、見た目の分かりやすい尺度に左右されずに、ちゃんと次女の蝋燭にも良さを見つけてあげられている、というのが一点目。

で、「適切に褒めてあげる」って、結構な高等テクニックっていうか、ある程度度量が必要なことなんですよね。「褒める」ということ自体、慣れてないとするっとは出来ないことです。大人でも、他人を褒めるのが苦手な人、います。「褒める心理的ハードル」ってバカにならないんですよね。

けど、長男は、まだ小5の身で「ちゃんと人を褒められている」。しかもそれでちゃんと長女次女それぞれ喜んでいるわけで、それぞれの「褒められたいポイント」を的確に捉えている、ってことなんですよね。まあ次女、最初は「ダイナミック」って言葉の意味がよくわかんなかったみたいなんですが、取りあえず褒められているということはちゃんと分かったようです。

私もそれぞれ褒めましたけど、そこまで刺さったかっていうと長男程ではなかったかも知れないです。

長男はこどもリーダーというわけで、いつも実に長女次女の面倒をちゃんと見てくれているんですが、リーダーとしてチーム内のモチベート管理まで出来てるの凄いなーと。こういうの、大人になってのマネジメントにも通じるところがあると思うんですよ。

で、長女と次女も、多分それが分かっているからこそ、長男のところに「にいにみてーー!」って言いにいったと思うんですよね。この人は適切に見てくれている、と長男のことを信頼している。これ、多分普段から、ちゃんと接していないと難しいことだと思うんですよ。

で、「褒めるボキャブラリー」ってのも結構難しい話でして、私もちょくちょく語彙が仕事しなくなるんですけど、単に「上手」とか「綺麗」とかだけじゃなくて、ちゃんとそれぞれに見合った言葉の使い方が出来ている、ってのも感心したポイントです。褒める語彙、って心理的な財産だよなーと。

大体以上のようなことに感心したわけなんです。勿論長男も、後から上のような話で褒めたんですけどね。

まあ、子どもたちはまだ小学生なわけで、引き続き長男長女次女の人間関係も色々あると思うんですが、色々ありつつも仲良く楽しく暮らしていってくれたらいいなあ、と、感心すると共にそういう風に考えた次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:13 | Comment(2) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月06日

子どもにとって「給食」は恐るべき強敵であるという話

大した話ではないです。

最近、家に帰ると、次女がまず喜んで報告しにきてくれることがあります。

こんな内容です。

「きょうのきゅうしょくはー、ななななな、なんと!!!(間)」
「なかないでー、へらさないでー、ぜんぶ食べられました!!」

と言われると、ぱちぱちぱちーと私は盛大な拍手をする訳なんですが。

これ、そもそも何でこういう報告が来るようになったかというと、次女にとって「給食」というのは一大強敵であって、夏休み前くらいまでは毎回給食の前に泣いちゃってたからなんです。

元々、次女にはややデリケートなところがありまして、大人から見ると「ちょっとしたこと」で泣いてしまうことがしばしばありました。

例えば、お絵かきで思うような線が引けなかった時とか。遊びに行くとき、持っていくつもりだったおもちゃを忘れてしまった時とか。

勿論、大人から見れば「ちょっとしたこと」であっても、子どもからすればそれは一大事なのです。なので、泣いたらその都度慰めつつ、少しずつ世界と自分の想定のギャップを埋められるようになるといいなあと思っていました。

で、小学校に行き始めて、何で泣いているかというと給食です。どうも、特に4月、5月の頃は、給食の前に毎回泣いてしまっていたらしいんです。

理由を聞いてみると、「食べきれるか不安になっちゃうから」ということらしくって。量を減らせば、食べようと思えば全部食べられるようなんですが、それでも涙は出てしまう様子。

最初は「先生によほどプレッシャーをかけられているんだろうか?」とちょっと心配したんですが、話を聞いてみるとそういう訳でもなく。まあ確かに「残さず食べられるように頑張ろうね」くらいのことは(全員向けの言葉として)言われているのでしょうが、無理してまで食え食えという感じでもありません。それでも、次女にとっては「給食」というのは大変なプレッシャーだったんです。

よく考えてみると、多くの子どもにとって、小学校の給食というのはほぼ初めての「自分用にカスタマイズされたわけではない」ご飯なんですよね。

例えば幼稚園のお弁当であれば、量も入っている食べ物も、割と柔軟にカスタマイズしてもらえます。勿論家庭の方針次第ですが、どうしても食べられないものは入れないでもらえるし、食べきれる量は大体親に把握されているでしょう。これは勿論外食の時も、自宅でのご飯の時も大体同じです。

そこに対して、初めて「(多少の調整は出来るものの)自分だけにカスタマイズされたわけではない、対集団用のご飯」に相対しなくてはいけないと。それは確かにめげてしまう子が出ても不思議ではないなーと。

次女、別に好き嫌いが多いとか、アレルギーで食べられないものがあるという訳じゃないんですよ。大抵のものは食べられる。ただ、元々小柄なのであんまり量が食べられない。その辺は当然、この先の成長との、栄養学的なせめぎ合いでもあります。

なので、奥様や担任の先生とも相談しまして、当面食べきれるように量は減らすけれど、少しずつ減らさないで食べられるようになれるといいなーと。そんな感じで見守っていたわけです。

すると、新学期になってのここ最近、「泣かなかった!」「減らさないで食べきれた!!」と報告されることが増え、ついには「今日はおかわり出来た!!!!」なんて言葉まで飛び出すようになりまして、まあ最近ようやく一安心、という次第だったわけです。

「毎日泣いてる」ということを聞いた時には、ちょっとこれ大丈夫かな、何か対策を考えないといけないかな、と慌てたりもしたんですが、今のところは、長い目で見ることにしてよかったなーと。

ニコニコ顔の次女を見てほっとした、という、それだけの話だったのです。

ちなみに、デリケートな次女に対して長女はかなりマイペースでして、実際食事中に気が散りまくるので食べ終わるのは次女以上に遅いんですが、本人今のところ何も気にしている様子はなく、「今日の〇〇はおいしかった」「××はちょっと嫌いだった」とか報告してくれます。こちらはこちらでゆっくり見守って参りたいと思います。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 08:57 | Comment(3) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月03日

長男に「オクトパストラベラー、レベルいくつになった?」と朝一で言われて

なんだか、ひどく懐かしいものを感じました。

オクトパストラベラーを始めました。レトロゲーマーとしては色々な意味でツボを突かれまくりでして、現在かなりの勢いでハマっています。


サイラス先生でプレイを始めまして、その辺をぶらぶらしている内にトレサ・オルベリク・プリムロゼが仲間になって、今朝アーフェンも仲間になったところです。多分ゲームとしてはまだ全然序盤だと思うんですが、ようやく戦闘での戦い方のコツとか、戦術の作り方みたいなものが分かってきた感じです。

ゲーム自体のちゃんとしたレビューはもうちょっと話を進めてから書こうと思っているんですが、取りあえず現時点で「ロマサガシリーズが好きだった人」「SFC時代のスクウェアRPGが好きだった人」は問答無用で買っていい、というところまでは断言していいんじゃないかと感じています。戦闘システムについて、BDFFに似ている部分もあるんですが、ゲーム自体にはそこまでBDFFみはないです。

で、このゲーム、長男が気に入るかは正直分かんなかったんですよ。長男、2DRPGって今までやったことがないんです。彼が今までやったゲームって、例えば「進め!キノピオ隊長」とか「スプラトゥーン」とか「逆転裁判」とか「ゼルダBotW」とか「ゴーストトリック」とかでして、まあ全然毛色が違うことは間違いない。少なくともターン制戦闘のRPGって一回もやってないんです。

2DRPG独特の手探り感とか、ターン制戦闘の駆け引きとか、そういうの気に入るかは正直微妙かもな、と思っていたんですが、

蓋を開けてみたら超ハマりました。長男今、わざわざ早起きしてオクトパストラベラーやってますし、この前は「テレビの時間減らすからその分ゲームやっていい時間増やして」と交渉までされました。

聞いてみると、「色々探しながらあちこち探検するのが凄い面白い!」とか「敵をブレイクした時が気持ちいい!」とか感想が返ってきまして、あー、こういうのも好きだったか、と。長男がやりたがらなかったら久々にswitch持ち出してがっつり遊べるな、と思っていた私の目論見は見事に外れた訳ですが、まあそれはそれ。楽しいゲームが生活の張り合いになるのは良いことだと思います。

で、親子の会話の1テーマに「オクトパストラベラーの話」というのが加わったわけなんですが、今朝、長男が起きてくるなり「オクトパストラベラー、レベル幾つになった?」と聞かれまして。

なんかすごく色んなものがフラッシュバックしました。

ああ、そうだった。「レベル」っていうのは、進行具合を共有する指標として、一番分かりやすいものだった。強さを比較するのに、一番端的な指標だった。

ドラクエIIで、FF3で、

小学校の土日明けに、休み明けに、学校の帰りに、友達と「今のレベル」を言い合ったものだった。

何より、「友達と自分の進行状況を比べ合う」っていうの、なんだか物凄い楽しかったんですよね。なんでしょうアレ、相手が自分より進んでいたら悔しかったし、自分が相手より進んでいればなんだか誇らしくって、それもゲームの楽しさの重要なエッセンスの一つだった。

で、「〇〇をクリアして××にいった辺り」っていうのもそれはそれで進行の共有になるんですが、何より一番分かりやすいのが「レベル」だったんですよね。このレベルなら大体どこの辺り、自分より進んでいるか進んでいないかっていうのが一瞬で分かった。


いや、正直、オクトパストラベラーにおいて「レベル」が進行度の基準になるかっていうと、ちょっと怪しいんです。オクトパストラベラーってすっごい自由なゲームなんで、人によって進め方が変わります。パーティメンバーも変われば、行く地方の順番も、稼ぎ方のスタンスも変わります。

だから、同じくらいのレベルでも、全然違う地方で別々のことをしてる、というのは全然珍しくないと思います。

ただ、かつて自分たちが満喫した「ゲームの進行状況を共有する楽しさ」というものに、長男も自分自身でたどり着いて、しかもその象徴がかつて存在した「レベル」という指標で。その「共有する楽しさ」というものに、父親である自分も参加出来ている、というのが、なんだかひどく感慨深かったのです。


いや、多分実際にはそこまでおおげさな話ではありません。長男は、例えば友達と一緒にスプラトゥーンやARMSを遊んでいますし、それぞれのタイトルで、それぞれのゲームの話を共有していました。

ただ、「レベル」という言葉をトリガーに、自分が歩んできたゲーム遍歴みたいなものを、長男も同じように歩んでいるんだなあ、ということと。

私がそうしてきたように、長男も今後、ゲームといい関係を築いていってくれればいいなあ、ということを、なんだかしみじみ感じたもので、こうして書き残しておきたくなった次第なわけです。


ちなみに、オクトパストラベラー自体については、夏休みアドバンテージを存分に生かしている長男の方が、今のところ私よりだいぶ進んでいるようです。悔しいので大人深夜夜更かしパワーで取り返そうと思います。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 08:08 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月15日

「ぼくの思う正しい親」以外は親失格と見なす人たち

意外と面倒な話だなー、と思うんですよ。

こんなニュースを観測しました。


パートナー男性が赤ちゃんの面倒を見ている一方で、ホールさんはリラックスした様子でジュースを飲みながらスマホに目を向けている。
ほのぼのとした一家だんらんの風景なのだが、このホールさんの姿に「けしからん」と眉をひそめる人もいた。「出産した直後にスマホを見るなんて子供がかわいそう」「子供よりもスマホ優先?」といった非難の声が多数あがったのだ。なかには、ホールさんが手にしている飲み物のチョイスにまで難癖をつける人もいたようだ。


この件自体については、「こういう話ってどこでもあるもんなんだなー」と思ったんです。

どうも、育児って非常に「他人のやっていることに口出しをしたくなる」ジャンルのようでして。育児のご経験がある人も、ない人も、「育児はこうあるべき」というイメージを非常に強く持っている人が、どうもかなり多いように思うんですね。これ、年齢層あんまり関係ないように思います。

最近は下火になってますが、定期的に遡上に乗る話として、子ども用の安全ハーネスの話があります。


流れる映像やイラストはどれも「犬の散歩」状態で子供を歩かせハーネスがピーンと張らせて親がそれを握っているもの。場所も公園内など比較的安全な場所のおだやかなイメージを喚起させるものばかり。無くても何とかなるんじゃない?という感想を引き出したいのかな?と思えるような。

その映像のあとに、毒舌が売りの俳優が「言葉の通じる相手にすることじゃない」と一蹴し、ママタレントさんが「手をつながないと」と育児論を展開し、オネエタレントさんが「親が目を離さなければいいんじゃないか」と添える。


迷子ハーネスについては、webではだいぶ価値や必要性が定着したような気もしますが、それでもまだこういう論調を観測することはありますよね。一方、webを離れて話を聞いていると、今でも「ぎょっとする」とか「あんなもの使うなんて信じられない」という言い方をする人は実際にいらっしゃいます。私のソースは町内会ですけど。

ただ、迷子ハーネスの件はともかくとして、今でも、子どもに対して悪影響を与えそうな(と、見る人が考えた)親の行為や振舞いに対して、がーーっと批判が集まることはしばしば観測出来ます。冒頭のケースなんてその典型ですよね。

こういうのって、大体の場合、「育児はこうあるべき」という自分の中のイメージと、観測した光景の食い違いによって起こるんですよ。愛情をもった母親なら、子どもを片時も手放さないに違いない。抱っこして、おっぱいをあげて、愛情をもった眼差しで子どもを見つめているに違いない。一緒に歩く時は、大事に手をつないで歩いてあげるに違いない。それ以外の光景を許容出来ないんですよね。

「ぼくの思う正しい親」以外は親失格。極端な話、そういう風に短絡的に脊髄反射してしまう人って、webにもweb外にも実はたくさんいるんじゃないかなーと。そう思ってしまうんです。



分からないでもない部分もあるんです。つまり、迷子ハーネスの件もそうなんですが、見る側として「ネグレクト」とか「虐待」と繋げて考えてしまう、連想してしまう側面ってどうしてもあるんだろう、とは思うんですよ。

例えば、スマホにかかりっきりで、子どもが泣いてもわめいてもずっと放置している親だとか。

例えば、子どもに暴力をふるう親だとか。子どもを閉じ込めて家から出さない親だとか。

時折観測出来る児童虐待関連のニュースを見てしまうと、どうしてもそういう想像に強烈な拒否反応が出てしまうことは理解出来ます。そこが、「自分が思う正しい親」とのギャップに拍車をかけてしまう側面って、多分あるんだろうと思うんですよ。

これは、明確な線引きは難しい、ファウルラインの問題ではあります。局面局面での行為を、これはネグレクト、これはネグレクト傾向、これはネグレクトではない、と線引きをするのは、一般人にとっては難しいことです。「正しい親」から外れているように見える一場面だけを切り取れば、あたかも親が子どもをネグレクトしている、あるいは虐待しているように見えてしまうこともあるのかも知れません。



ただ、一般論として申し上げれば、大部分の親はファウルラインのだいぶ手前で頑張って育児を続けており、時にはイライラすることもあれば、時には育児から逃げ出したくなることもありつつ、なんとかバランスをとって、愛情をもって子どもに接していると思うんですよ。

その、バランスをとっている親に対してさえ、「親失格!」などという声を投げつけるのは、どう考えても妥当なこととは言えないと思うんです。

家庭の事情、子どもの事情というのは、ただでさえ外野からは極端に分かりにくいことです。子どもに多動傾向がある、だから迷子ハーネスをつけておかないとすぐにでも道路に飛び出してしまいかねない、といった事情は、外野から判断することは出来ません。子どもをヒステリックに怒鳴りつけているように見える親のお子さんは、もしかすると聴力がやや弱く、大きな声で話しかけないと聴こえないのかも知れません。子どもを放置してスマホをいじっているように見える親は、もしかすると一日中子どもの面倒を見て疲労困憊して、ほんの数分気力を回復させているところなのかも知れません。

要は、「親がとっている行動が妥当かそうでないかというのは、ぱっと見で判断できるようなことではない」ということなんです。

そういうところに罵声を投げかけることが、どれだけ親のハードルを上げることなのか、どれだけ親に心的負担を加増するものなのかということは、もうちょっと共通認識になってもいいんじゃないかなあと思うんですよ。

親のハードルは極力下がった方がいいし、社会はなるべく子育てをする親に優しくていい。いや、私だって育児をしている父親ですから、我田引水といえば我田引水なんですけど、少子化を問題として考えるのであれば、少なくとも社会がそっちに寄るべきだ、というのは決して暴論ではないと思うんです。


勿論、子どものネグレクト、あるいは虐待などということは痛ましいことであって、「これはファウルラインの向こう側なんじゃないか」と思ったことがあるならば、例えば児童相談所に連絡してみる、といったことをすることは必要なのでしょう。それが悪いというわけではないんです。

ただ、例えば街中でほんの一瞬見えた光景であるとか。webでちょっとだけ観測出来た光景であるとか。

そういう、「自分の思う正しい親」から外れたように見える光景に対して、即時罵声を投げることについては、ちょっと慎重であって頂ければなあと。

そう思うばかりなのです。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 01:44 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月04日

小学校入学が子どもにとってどれだけしんどいイベントなのか簡単に解説します


こちらの記事を拝読しまして、ちょっと思ったことを書きます。

小学校入学というイベントは、大人で例えると「転職したら、いきなり引継ぎも何もなくタスクが3〜4倍になった」くらいの負荷になると考えてよろしいかと思います。

例えば、仮に「幼稚園から公立小学校」という環境の変化を考えるとしたら、


・幼稚園では親に送ってもらっていたのが、小学校では子どもたちだけでの集団登校、場合によっては自分ひとりで登校しないといけない
・幼稚園では基本荷物を親に用意してもらっていたのが、小学校では「ちゃんと自分で用意しなさい」と言われる
・幼稚園では時間割などというものはなかったのに、小学校ではいきなり「時間割を見ながら明日の授業の準備をする」というタスクが生じる
・幼稚園ではそこまで体系だった勉強などしていなかったのに、小学校ではいきなり「国語」やら「算数」やら「社会」やら、耳慣れない言葉と共に慣れない勉強が始まる
・幼稚園では宿題など滅多になかったのに、小学校ではいきなりほぼ毎日宿題が出るようになる
・幼稚園で3年間慣れた園舎が、いきなりバカでかい「学校」などというマップに変動し、右往左往しなくてはいけない
・幼稚園では自分が最年長だったのが、いきなり最年少になり、周囲一面に自分より大きな人たちがうようよし始める
・幼稚園で見知った顔がどかどか変動して、一から人間関係構築をやり直さないといけない
・お弁当が「給食」になり、親がしてくれていた配慮がデフォルトではなくなる。
・色んな「係」を担当しなくてはいけなくなる。
・「お道具箱」だの「ランドセル」だの、いきなり自分が管理しないといけない荷物が激増する


結構な感じではないでしょうか。しかもこれを、成長段階的には「幼稚園の年長さん」と何も変わらない子どもが求められるわけなんですよ。

勿論、家庭によっても、幼稚園の環境や子どもそれぞれの環境によっても上記は色々変わってくるとは思うんですが、基本的に「滅茶苦茶な環境の変化」であることについては例外がないと思うんですよ。うちの場合幼稚園だったんですが、恐らく「保育園→小学校」のクラスチェンジでも事情はそれ程変わらないと思います。

しかも、ただ環境が変わるだけならまだしも、やらないといけないタスク、気にしなくてはいけない注意事項がバカスカ増える。更にその上、「園児」から「小学生」にランクアップしたことで、親の態度も微妙に変わり、今までよりも色んなことを「自分で」やるように求められるようになる。

となると、幼稚園の頃にはふつうに出来ていた子どもが、ちょっと混乱してしまって色々スムーズにできなくなってしまうのは、何の不思議もないことだと思うんです。むしろ、こんな環境の変化に簡単についていける子どもがいたとしたら、その方が物凄い。相当な例外です。

転職経験がおありの方ならわかると思うんですが、基本、転職してまともに戦力になれるまでって、最低でも数週間から数か月はかかるものなんですよね。引継ぎもいれば、環境に慣れる時間も要るし、スキルやタスク処理ノウハウのキャッチアップだって必要です。どんなに「即戦力」という触れ込みの人だってそれは変わりませんで、半年経ってもまだ適応仕切れない、みたいな人だって別段珍しくありません

環境変化のキャッチアップって、基本的にめっちゃ大変なんです。誰にとってもそうです。

大人にとってみれば小学校のタスクなんて「たかが」かもしれないんですが、子どもスケールで考えればそれらはみんな恐ろしい強敵、今まで見たことも聞いたこともなかったようなおどろおどろしいタスク群なんですよ。ドラクエで例えるとすれば、今までアリアハンでちょこちょこ戦っていれば済んでいたところ、いざないの洞窟を経ずにいきなりアッサラーム周辺に放り込まれるようなものなんです。

とすれば、子どもがちょっとまごまごしてしまっても、「これは当然の引継ぎ・適応期間なんだ」と考えて、長い目で見てあげてもよろしいし、多少は甘えさせてあげてもよろしいんじゃないかなーと。大人と同様、子どもでも勿論適応の早い遅いってあると思いますが、それって別に能力とイコールの話でもないですしね。勿論、環境の変化ってこの先何度もありますし、いつかは適応しなくてはいけないことではあるんですが。

といってもまあ、準備や宿題が出来ていなければせかさないわけにはいかないし、周囲の子どもがちゃんとできてるように見えれば焦らざるを得ない、というのはそれはそれでよく分かるんですが。ただ、「小学校入学」イベントがとんでもない高難度イベントである、ということだけは、広く認識されてもいいんじゃないかなーと考えた次第です。

しんざき家の話で言うと、長女次女が今年の4月に同じく小学生になったんですが、やはり最初は色々大変でして。次女は給食の度に泣くし、長女は全然宿題やらないしで、最近ようやく改善の兆しが見えてきた、くらいのものです。

「その内慣れる」の「その内」のスパンは可能な限り長くとりつつ、適度にせかして適度に甘えさせて、まあ長い目でみてあげたいなーと思うわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:06 | Comment(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月22日

小学校の学校公開で「インタビュー」の授業を見て色々と感心した話


先日、長男・長女・次女の3人が通っている小学校で、学校公開があったんです。

学校公開って、皆さん知ってますか?いわゆる授業参観なんですけど、長男の小学校だとオープンキャンパスみたいな体裁になっていて、近所の人とかも授業を見学出来るんですよ。勿論名簿に名前とか書かないといけないんですけど。

で、今年から、しんざき家は子どもが3人同じ小学校に通い始めましたんで、まああっちに行ったりこっちに行ったり大忙しだったわけなんですが。とはいえ、長男が通っている小学校は色々と授業に工夫も多く、興味深いなーと思うケースが多いんで、毎年楽しみにしているんです。

当たり前のことなんですが、やはり小学校の教育というのも、私が小学生だったころからは随分様変わりしておりまして。これは良くなったなあと思うこともあれば、これは昔の方がよかったんじゃないかなあと思うこともあるんですが、全体的に見れば「今の小学校教育すげーな」と感心することの方が多いです。面白いです、小学校の授業。

今回個人的にいたく感心したのが、国語の授業での「きいて、きいて、きいてみよう」というタイトルの内容でして。平たく言うとインタビューの授業なんですよ。

授業の形式はこうです。


・生徒が3人一組に分かれる
・3人が、それぞれ「話し手」「聞き手」「記録役」に分かれる
・「聞き手」が「話し手」に対して、テーマに沿った質問をする。テーマは事前に相談して決めておく
・「話し手」は聞き手にされた質問に答える
・「記録役」はそれを記録する
・一回が終わったら、役目を交代して繰り返す

面白い授業ですよね?私が子どものころは、こういう授業受けた記憶がありません。調べてみると国語学習の指導案に載っていたんで、恐らくここ数年でやるようになった授業なんだろうと思うんですけど。


で、長男は同じ班の女の子に、「猫について」というテーマで聞いていたんです。ただ、例えば「猫を好きになったきっかけ」とか「どんな猫が好きか」とか、通りいっぺんの質問に一問一答で答えてしまうと、その後がなかなか続かないんですね。一回の時間は5分と設定されていたんですが、多分2分半くらいで終わってしまっていたと思います。一周目は、大体の班が3分もちませんでした。

で、これは先生がうまいのかもしれないんですが、1回終わると、先生が振り返りの時間を作って、生徒同士で振り返りをさせるんです。その時、ちょこちょこヒントになりそうな言葉を投げていくんですよ。

「みんな、なかなか質問が質問に繋がらなかったなー」と。

「みんながいつも、次から次へと色んなこと聞きたくなることって、どんなことかな?」と。

例えばゲームの話とか、サッカーの話とか声が上がる中、

「じゃあ、それとインタビューがどう違うか、どうすれば話を広げられるのか考えてみようか」と。

これって、要はブレインストーミングとPDCAサイクルですよね。短い時間でアイディア出しをして、次の回での工夫に繋げる。で、それをすぐにまた次の機会に繋げる。

で、生徒同士で色々意見を出し合って、質問の内容や記録のやり方を変えたりして。2回目、3回目では、5分ぴったりでインタビューを終えられる班も出来ていました。長男は長男で、「電車について」というテーマで質問を受けていて、うまいこと話を広げたり、質問を誘ったりということが出来ていました。

見ていて思ったこの授業のメリットって幾つかあって、

・話の広げ方、聞き方、質問の仕方など、一般的なコミュニケーションスキルについて考える機会になる
・コミュニケーションをする上で一番重要なことが、相手に対する興味・関心であることに気付く機会になる
・短いスパンでのPDCAの練習になる
・手法を自分で考えて、それを試す、ということの重要さに気づく機会になる
・クラスの友人同士の相互理解の一助にもなる

これくらいのメリットはあるなーと思ったんですよ。いや勿論、先生がどれくらいクラスを統制出来ているかとか、クラスの人間関係の状況にもよるんでしょうけど。

多分これって、この授業だけでどうこうというより、色んなスキルの「スタート地点」になる授業だと思うんですよね。自分で何かを考える種になる授業。

父母が来ていたからみんな気合入ってたのかな?と思って長男に聞いてみたところ、「いつも大体こんな感じだよ」と言ってたので、普段から生徒のみんなの授業に臨むスタンスは悪くないんだと思います。これは多分先生がうまいからだと思うんですが。

他のクラスを覗いても、どの先生も色んな工夫をされてるなーと感心することしきりでして。最近、小学校の先生とか小学校の授業って、いろんな批判にさらされるケースが多いですが、中の人たちは本当に頑張ってるんだなーと感じ入ったわけなのです。

全然余談なのですが、1年生の国語のクラスは「大きなかぶ」の朗読をしていました。

みんなが文章を忠実になぞっている中、株が抜けたシーンに独自に「すっぽーーーん!」という効果音をつけた次女のセンスは、やはり常人離れしているなーと感服した次第です。彼女の国語力の発展が楽しみです。ちなみに長女は、「足し算を続けるとどんどん数が大きくなっていく」という事象の面白さにハマっている由。

引き続き、楽しい小学校生活を送っていって欲しいなーと思うばかりです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 07:07 | Comment(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月08日

長女なかなか宿題出来ない問題


ちょっとしんざき家の家庭環境の話をする。特に山もなければオチもない、ただの日記である。

4月から、長女と次女が小学校に通い始めた。

当初、二人とも共通の問題として「給食が多い」ということを挙げ、次女は給食を前に泣いてしまうこともしばしばあった(なんでも、食べきれないんじゃないかと不安になると泣いてしまうそうなのである)ようだが、段々と給食と付き合うペースも理解出来てきたようで、元気に通っている。最近は、「班の中で一番に給食食べられたの!」などと報告してくることもあった。

長女と次女はいずれも6歳である。双子ではあるが、容姿も違えば性格も違う。同じ環境で、同じ接し方をしているのにこんだけ変わるもんなのか、というのは驚く程である。

長女はマイペースであり、かつ頑固でもある。どうも自分なりの世界をかなり強く持っているようで、叱られても理由が納得出来るまでは決して謝らないし、嫌いな食べ物は強硬に食べない。集中力が凄く、集中し始めると全く周囲の言葉が聴こえなくなる。次女にいたずらをして泣かせることも多いが、どうも姉としての責任感はちゃんと持っているようで、次女が泣いていると慰めにいってあげたりもする。片づけは極めて不得意としている。

次女は社交的であり、泣き虫でもある。片づけが得意であり、切り替えも速く、タスクは基本ぱっぱと片づけてしまう。好奇心旺盛で、分からないと思ったら即座に「これは何で?」「これは何で?」と聞く。飲み込みは速いようで、自分が悪いと思ったら割とすぐに謝る。しかし、どうも完璧主義のような側面があるようで、何かうまくいかないかも知れない、上手くいっていないと思ったら泣き出してしまうことがしばしばある。

個性などというもってまわった言葉ではないが、長女、次女それぞれの持ち味というものは、これからの人生もずっとついて回るものであり、それぞれの強みは生かして、弱みは補いながら生きていけるようにしてあげたいなあと思う。褒めるところは褒めるし、叱るところは当然叱らないといけないが、叱り方については考えものだ。その行動が、それぞれの持ち味に根差しているものだとすれば、出来れば持ち味は否定せず、行動で補えるような叱り方をしてあげたい。難しいんだけど。

宿題の話をする。

長男、長女次女が通っている小学校は結構宿題が多い学校で、長女次女にももう宿題が出始めている。内容は平仮名の書き取りで、毎回プリント2,3枚の書き取りをしなくてはいけない。

上記した通り次女はぱっぱとタスクを片づけてしまうので、こちらが何も言わなくてもすぐに宿題は終わらせてしまう。なんでも、宿題が残ったままだと不安なのだそうだ。とても偉いと思う。

一方、長女はかなり宿題を後残しにしてしまう。ここ最近だと、夕食の直前まで宿題に手をつけず、私や奥様に指摘されて渋々始めて、周りに気をとられたり泣いたりしながら散々時間がかかり、夕食の時間が押してしまうというのがよくあるパターンである。大体において、私や奥様が隣に座って、「そこの書き順はこうだよ」とか「あとちょっとだから頑張って」とか、声かけをしてあげないと進まない。

勿論、ついこの間まで幼稚園に通っていて、鉛筆をもってプリントに向かうなど初めての経験なのが長女次女だ。どちらかというとサクサク出来ている次女の方が例外であって、長女もいずれはペースがつかめるようになるのだろう。

ただ、問題が2つある。


しんざき家は基本的に9時就寝と決まっていて、9時を過ぎてしまうと絵本の読み聞かせが出来ないというルールになっている。子どもに一番重要なのは睡眠時間だ。その為、夕食が遅くなり、就寝時間が押してしまうのはそれなりに大きな問題である。ぐずぐずやっていればある程度急がせない訳にもいかない。

もう一点は、サクサク宿題を片づけている次女に対して、長女が「次女ちゃんが出来ているのに自分は出来ない」といったコンプレックスを持ってしまうのではないか、ということだ。「次女は出来てるんだから」といった、比較するような言葉は使わないようにしてはいるが、早く出来た次女は偉いので褒めてあげたい。次女は褒められて自分は褒められないとなれば、内心気にしていない訳はないだろうなーとは思う。


一番良いのが、長女も学校から帰ってすぐに宿題をやってしまう、という習慣が出来ることなのは間違いない。ただ、その為には長男、次女の協力が不可欠だ。長男や次女が遊んだりテレビを観たりしていると、どうしても長女も釣られてしまうからである。

そこで、「こどもリーダー」である長男に相談をした。

「長男。長女ちゃんが宿題なかなか出来なくててこずっている」

「ぼくも昔は苦労したからねえ」

歴戦の戦士の風情である。長男は塾の宿題も最近自力で片づけられるようになり、もはや学校の宿題など敵ではないらしい。

「そこでお願いなんけど、学校から帰ってきたあと、長女ちゃんに宿題やろうって声かけてあげてくれない?で、その間はテレビとかちょっと我慢してくれるとありがたい」

「いいよ。ちゃんと見とくから」
頼もしい。

長女にも聞いてみたところ、やはり夜まで宿題が出来ていないという状況は問題だとは思っているようで、「学校から帰ってからすぐ出来る」と宣言した。上手くいくのかどうか分からないが、改善するかどうか1,2週間は様子を見てみるつもりである。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(3) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月13日

長男寝相問題が日々深刻化している

大体において子どもの寝相などというものはある程度エキセントリックなことになるものであって、親はどうやって寝冷えを防ぐかを考えるばかりなのですが、今日になって「布団部屋のドアが開かない問題」というのが発生しました。

しんざき家は一斉就寝方式をとっており、布団部屋に家族5人分の布団を敷き詰めて、そこで私・奥さま・長男長女次女が雑魚寝をしています。長女は大体奥様、次女は大体私にくっついて寝たがるのですが、小五の長男は比較的フリーポジションです。

子どもを寝付かせるタイミングで寝落ちして、ふと目が覚めたのが午前1時頃。しゃあない明日の準備だけでも、ということでちょこちょこ作業をして、さて改めて寝るかということで布団部屋に戻ろうとすると、ドアが開かない。全く開かない。

感触からすると、どうもこういう状態になっているっぽい。

布団部屋.png
分かりやすいイラストですね。

というか、長男は普段は大体↓図の赤〇の布団で寝ていて、ただ彼かなりの暑がりなので涼しい場所を探して段々布団の下の方までずれてくることがあって、足がひっかかってドアが開かないということはよくあることなのですが、今回はかつてないレベルでドアが開かない。
布団部屋2.png
つい1時間前までは、まあ多少横向きの角度にはなっていたものの一応布団で寝る体制を保持していたのに、何でこんなに移動してきてるんだヨガテレポートか。ダルシムか。手とか伸びるのか。

私一人の問題なら別にどっかその辺で寝ればいい話なのですが、次女は夜中に起きて私が横にいないと泣くので、帰還を簡単にあきらめるわけにもいきません。というかなるべく次女が起きるまでに戻りたい。

長男を起こしたくもないしどうしたものか。どなたか、寝ている小学生の寝相を遠隔でコントロールする方法とかご存じないでしょうか。

取り敢えず、これを書いているのが午前2時半くらいで、これからいろいろと試行錯誤してみるので、経緯については朝にでも追記します。

(2:36)
もう一度寝相チェンジが発生すればいいんだから言うても割と簡単に入れるようになる筈、と思っていたんですが、「ドアが冷たくて体をくっつけていると気持ちいい」状態になっている可能性があることに気づきました。

つまりドアを暖めれば自然と逃げていくのでは?

(2:40)
平和裏にドアを暖める方法が思いつかないのでとん挫

(2:50)
太陽作戦がダメだったので北風作戦(寒い長男が布団をかぶりに戻る)を考えていたところ、ドアをちょこちょこしていた長男が寝相で反対側に動いたので部屋に入れました。すかさず長男を持ち上げて布団に移動。

しょーもないオチですいません。寝なおします。
posted by しんざき at 02:30 | Comment(2) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

長女次女が自分たちで絵本を音読するようになってきて、読み聞かせ卒業の時が近づいてきた

長女次女、6歳。つい先日幼稚園を卒園しまして、今は小学校入学を前にして待ちきれずランドセルを出してきて、ランドセル背負っては「かわいいでしょ!」と褒め言葉を要求してくる、プリキュア好きの双子女児です。

しんざき家では絵本読み聞かせの習慣があり、長男が多分1,2歳くらいから、毎晩寝る前に好きな絵本を選ばせて、私か奥様が読み聞かせをしています。

長男はいつからか自分で自分の好きな本を読むようになりましたので、それ以降は双子に対して読み聞かせをしていました。読み聞かせは長女次女にとっても楽しみらしく、「ほら、あんまりゆっくりしてると絵本読む時間がなくなるよー」と言うと焦って寝る支度にかかりますし、どの絵本を選ぶかで喧嘩になったりもします。大体の場合、一日ごとに交代で絵本を選ばせます。

時期によってどんな絵本を好むかは異なるんですが、好きな絵本の傾向というのは結構明確に分かれており、最近の次女のお気に入りはブリッグスの「サンタのなつやすみ」です。


私はかつて、同じくブリッグスの「さむがりやのサンタ」が好きだったので、この辺次女と私はセンスが似ているのかも知れません。


一方の長女は、次女よりは絵が可愛くって台詞が少ない絵本がお気に入り。最近は「いつもいっしょに」をリクエストすることが多いです。


ただですね。ここ2週間くらいちょっと読み聞かせ態勢に異変が生じ始めており。次女や長女が、「私が読むからパパは聞いてて!」と言い出すことが増えてきたんですよ。

以前から、絵本の台詞の一部分だけを、「ここはわたしがよむから!」と言ってつまみ食い的に音読することはあったんですが、最近はもう一冊丸々自分たちで読むこともあり、私あんまり要らないんじゃと思うくらいです。

長女と次女はピアノ教室に通っていて、そのピアノ教室でも良く待ち時間なんかに読み聞かせをしてもらっていたらしいのですが。その時、どこかのページを読ませてもらったら「上手だねー!」と褒められたらしく。それ以来、特に次女は読み聞かせに自信を持ったようで、パパを聴衆にして長女次女劇場を開催することになった次第なのです。


あー、もう自分で読めるようになってくると、ぼちぼち読み聞かせも卒業なのかなーと。

勿論、別に以前から単独での読書をしていなかったわけではなく、絵本を自分で読んだり、漫画をめくったりといったことはあったんですが、「読み聞かせ」というものがなくても自分で音読出来るようになってきた、となると、段々長男のようにめいめい好きな本を寝る前に読むようになるんだろうなーと。


10年くらい続けてきた「読み聞かせ」という慣習も、そろそろする機会がなくなるのかと思うと、色々と感慨深いなーと思った次第なわけです。


全然余談なんですが、「絵本作家さんの画力」ってあんまり話題にならないですよね。上手い人は滅茶苦茶上手いっていうか、「絵本ぢから」とでもいうべき力があって、それが高い人は本当にすごいなーと思います。私が特に滅茶苦茶上手いなーと思っているのは、まあベテランなんですが山脇百合子先生と林明子先生です。




これについてはまたその内書きたいなーと思っております。

今日書きたいことはそれくらいです。



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posted by しんざき at 12:51 | Comment(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月26日

子どもの「なぜ?」という疑問には、「全力で考えて答えた上で、可能なら興味を発展させてあげる」というのが最適解のような気がする

この記事を読みました。


何度も書いている通り、育児に「最適解」というものは多分存在せず、子どもによって、親によって、家庭によって、時期によって、「適したやり方」「その時妥当なやり方」というのは変わってくる、と思います。

ただ、しんざき家で現在やろうとしている考え方、子どもとの接し方は、上記の記事とはだいぶ方向性が違っていて、それについて書いてみようかなーと思いました。

それなら、この機会を生かして、とても大事なのに見過ごされがちなスキル、すなわち自分で答えを導き出す能力を磨くように仕向けるのです! お子さんに「なぜだと思う?」と尋ねてみてください。

即座に答えを返す(あるいはインターネットで調べた知識の受け売りで「それは、光のエネルギーが波として伝わって……」と説明する)代わりに、子どもに自分の頭で考えるよう促すのは、賢いやり方と言えるでしょう。これなら、ただ人に聞くのではなく、自分なりに分析をするという大切なスキルを、子どもに身につけさせられます

うーん?と思いまして。

いや、勿論、「自分で答えを導きだす能力」「自分なりに考える習慣」というのは大事ですよ。超大事。何でもすぐ答えを与えられていては、そういう能力や習慣が育たない、という考え方も分かります。

ただ、それを実現する為の方針として、単に「なぜだと思う?」と反問するのは正しいのかな、最適なのかな、と。

そればっかやっていると、「大人に対して、自分の興味を提示する」ということに対する喜び、嬉しさみたいなものが削がれちゃったりはしないかな、と思うんですよ。


何故かというと、まず第一に、「なぜだと思う?」だけでは情報のやり取りとして成立していないからです。子どもが持った「興味」という情報に対して、親が情報を返せていない。

会話というのは情報のやり取りです。ギブアンドテイクではないですが、自分が出した情報に対して、相手からも情報が返ってくる。そういうやり取りが楽しいし、会話の成功体験にもなるんですよね。やっぱ、「打ったら響いた」っていうのって嬉しいんですよ。

それが、言ってみると反問ってリフレクなんですよ。出した情報が、そのまんま返ってくる。ただ「せっかく持った興味が満たされない」というだけの話ではなく、コミュニケーションとして成功していないんです。

時にはリフレクも必要かも知れませんが、それがいつもということになると、むしろ「何言っても情報が返ってこない」ということを子どもが学習してしまうかも知れません。


第二に、「大人の側も真剣に考える」というスタンスを見せられていない

子どもって、結構難しいこと聞いてきます。調べるならかなり真剣に調べないといけないようなこと、ググるにもそこそこテクニックが必要になりそうなこと、平気で聞いてきます。

単に「空は何で青いの?」程度の質問であっても、凄く厳密に答えるなら光の屈折やら目の受容やら、可視光についてとか考えないといけないでしょう。勿論年代によってはそんなこと説明しても分からないので、何か適度に翻訳した答え方を考えないといけない。どこまで答えるか、どこまで考えるかというのも、結構難しい問題なんです。

それに対して、「ちゃんと考えて、全力で答えてあげる」という姿をちゃんと見せてあげるって、「この人はちゃんと真剣に接してくれているんだ」という信頼感や、「物事に対してきちんと考える」というスタンスを育てる為に、多分大事なことなんじゃないかと思うんですよ。


私の親は、「私の出した何気ない質問に対してめっちゃ真剣に考える」人達でした。時には「いやちょっとそこまで考えんでも」と突っ込みたいことすらありましたし、何やら色々調べ始めて、答えが返ってくるまで偉い時間がかかったこともありました。

ただ、そういう「ちゃんと答えが返ってくる」ということで、私から「自分で答えを導きだす能力」が失われたかというと、多分そういう訳でもないんですよね。むしろ、「ああ、考えるってこうやるのか」「調べるってこうやるのか」ということを学べたことの方が大きかったような気がします。

だから、私は今でも、子どもの疑問に対しては出来る限り真剣に考えて真剣に答えるし、後から自分の答えは正しかったのか?を考え直したりもするし、ちょっと違ったなーと思ったら「ごめん、昨日答えたの、ちょっと違った」と言ったりもします。

勿論時間がかかる話なので、あんま時間がない時はある程度適当に答えちゃったりもするんですけどね。


もちろん、子どもの興味というのは貴重な機会なので、「ただ答えを出して終わり」というのでは勿体ない、というのは事実です。最近、「興味ドリブン」という言葉について色々と考えます。「子どもの興味」というのはチャンスであって、機会であって、なるべく生かしてあげたい。

これは塾講師をしていた時の経験則なんですが、「興味が更に次の興味に繋がる子」というのはめっちゃ強いです。適切な問題設定さえしてあげれば、自分からどんどん次の課題を見つけて、ぐんぐん知識を身に着けていってしまう。以前、そういう「興味が連鎖する子」についての記事を書いてみたりしました。


子どもは本当に色んなことに興味を持ちます。で、「これなんで?」と聞いてきます。この時、それがどんなにちょっとしたこと、どんなにバカバカしいことであっても、出来るだけ真面目に答えてあげる。

で、ある知識を得た後、更にそれが別の知識につながるともっと楽しい、という経験をさせてあげる。そういう経験の積み重ねが大事なんじゃないかなあ、と。

だから、私が考える「子どもの興味に対する最適解」というのは、

・子どもの疑問に対して、まずは真剣に考えて真剣に答えてあげる
・テーマによっては、「自分の考えはこうだけど、そっちはどう思う?」というように議論してあげる
・出来る場合には、他の発展系の知識に繋がる話をしてあげる

ということになるんじゃないかなあ、と思っています。

例えば、「空は何で青いの?」という話であれば、そこから「空以外の青いものは何で青いのか」「青いってどういうことなのか」「見えるってどういうことなのか」みたいな話につなげてみる、とか。

自分でも分からないことがあれば、「これは今は分かんないから調べてから答えてあげる、パパの宿題」と持ち帰ってみるとか。

以前、こんなことを書きました。この時も、そもそも妥当な答えかどうかわからなかったので、随分色々と考えました。



いや、勿論、いつもいつもそんなことしてると1日が48時間あっても足りやしないので、出来る範囲で、出来る時には、ということですけどね。たまにこういう会話がある、というだけでも随分違うんじゃないかなあ、と思っているんですよ。


取りあえず、「子どもの興味」というものが貴重な機会である、ということだけは間違いない事実だと思うので、それをどうやって生かせばいいかなあ、というのは、今後も含めて考えていきたいと思う次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。




posted by しんざき at 08:00 | Comment(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

育児寛容・不寛容議論を極論で突き詰めても多分誰も幸せにならない

まず最初に、言いたいことをまとめます。

・子どもの声が、「うるさい」と感じる人にとっては騒音になってしまうのは当然のことです
・中には子どもの声を「うるさい」と感じない人もいるかも知れませんが、それは特殊ケースだと考えるべきです
・その上で、子どもの声が公共の場で発生し得るというのもある程度仕方がないことです
・親としては、出来る限り子どもが騒がしくしてしまうことをセーブしたいと思って、そう努力しています
・例外もあるかも知れませんが、大体の親はそうだと思います
・ただ、どうしても限界というものが出てきてしまうケースもありまして、多少のお目こぼしを頂けると大変ありがたいです
・というか大体の方は、多少うるさくても我慢してお目こぼし頂いているように思います。大変ありがとうございます
・極論もあるけれど、皆結構優しいですよ
・世の中「子どもの声を受け入れろ、受け入れないのはおかしい」と言っている騒音許容過激派やら、子どもの声なんか公共の場から一切排除しろという子ども排除過激派ばかりではなく、というかそういう人は本当にごくごく一部なので、あまり議論を突き詰めて極論にしない方がいいと思うんですよ

言いたいことは以上です。よろしくお願いします。

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さて、書きたいことは書き切ってしまったので、あとはざっくばらんにいきます。

インターネット上では、時折育児、特に「子育て世帯が周囲に及ぼす迷惑と、それに対するスタンス」という話がめっちゃ盛り上がることがあります。そのパターンにも色々ありまして、例えばベビーカーを電車の中で使うことの是非とか、定期的に観測出来ますよね。


で、そんな時、割と決まって見られる論法が、「お互いに極端な方向に振った仮想敵を設定すること」でして。


例えば、育児世帯側は、「子どもや育児親の行動を一切許容しない排除論者」を仮想敵にして、その不寛容さを責めたり、不寛容社会を嘆いたり、であるとか。

例えば、非育児世帯側は、「子どもの迷惑行動を一切顧みない馬鹿親」「一方的に寛容さを求める身勝手な育児世帯」を仮想敵にして、育児世帯を断罪したりであるとか。


いや、極端な人、いますよ。確かにいます。そこまで極論に振らんでも、という人もいます。子どもを騒ぎっぱなしにさせて、全く周りの迷惑を顧みない親というのも、私はあんまり観測してませんけどいるこたぁいるんでしょう。

ただですね、サイレントマジョリティじゃないですけど、実際のところ、「極端なケース」というのは全体を見ればごくわずかだからこそ極端なケースだと思うんですよ。


当たり前のことですが、子どもの声というのは高いし通るし、非常にうるさいです。そりゃ勿論、「子どもの声大好き」という人も中にはいますし、子どもがいくら騒いでても気にならないという人もいるんでしょうが、そんなのは一般ケースとして考えるべきケースでは全くありません。

実際に育児を行っている、一人の親として凄く思うのは、「社会の殆どの人達は結構寛容だ」ということです。

親として、勿論なるべく子どもが静かにしていられるように、周りに迷惑をかけないようにと考えて、なるべく注意してはいますけれど、もっと子供が小さな頃とか、やはり電車の中で子どもが大泣きしちゃったり、大きな声を出しちゃったりといったことはありました。子どもを年中引きこもらせるわけにもいきませんから、公共の場での子どもの声を完全に防止、というのはやっぱり難しいんですよ。

ただ、そういう場合も、勿論内心五月蠅いなあと思われる方も多かったと思うんですが、殆どのケースでは皆さんにこやかに対応してくださり、中には子どもに優しい声をかけてくださったり、席を譲ってくださったりということもそりゃもう何度もありました。ありがたい限りとしか言いようがありません。

ただ、これは勿論「そういう風に寛容にあるべきだ」という話ではなく、寛容でいてくれることに感謝しつつそれに甘えないようにしよう、という個人レベルでの気持ちである訳なのですが。実際にご迷惑をかけてしまっている方には、申し訳ないという思いしかありませんし、なるべく改善に向けようと努力は続けていくつもりです。

で、同じように、なるべく頑張っているし、かつ周囲の寛容さに感謝している親って、結構たくさんいると思うんですよ。というかそれが大部分だと思います。

実際、育児世帯として色々と助けて頂いている側としては、「もっと寛容であるべき」だなんてとても言えません。「いや、皆現時点で結構寛容ですよ?」という一言です。


要は、「結局社会を回していくためには、皆がちょっとずつ歩み寄るしか現実的な解答ってないよね」ということでもあるし、「特に突き詰めなくても、社会って結構歩み寄りで回ってると思いますよ?」ということでもあるんですよ。


こういう問題って、突き詰めれば突き詰める程色々と相いれないところが出てきてしまう話であって、基本的には「突き詰めても誰も幸せにならない」案件になることが多い気がしているんですよ。

結局みんな「極端な仮想敵」を設定して議論するけれど、その議論には一体どれだけの意味があるのかな、と。その極端な仮想敵は議論が届くところには存在しないし、流れ弾がばしばし極端じゃない人たちにあたりまくるだけなんですよね。

私としては、育児世帯にしても非育児世帯にしても、極論がバンバン飛び交って、普通に頑張っている子育て世帯のハードルだけがむやみやたらに上がりまくったり、普段から寛容にしてくださっている非子育て世帯の方々が無意味に責められたような気になるのは誰も幸せにならないし、出来たら避けた方がいいんじゃないかなあと思うんです。特に、ネットだと極論ばっかりがむやみに可視化されやすいんで。


端的に言うと、育児関係であんま極端な仮想敵設定するのやめませんか、と。皆結構頑張ってるし、我慢してくれてますよ、と。


勿論、個別に見れば、各論として解決しなくてはいけない問題も色々あるとは思うんですが。こと育児とか子どもの迷惑という話については、総体的には「結局日和った意見が最適解」というケースは結構多いと思いますし、育児日和見主義者として、今後とも日和った意見を積極的に発信していきたいと思う次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 17:25 | Comment(2) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月28日

長女に「とおくのものは何で小さく見えるの?」って言われて答えたんだけどそもそも合ってるのかどうか自信がない

お風呂の中で、長女に

「とおくのものは何で小さく見えるの?」

と聞かれました。

長女と次女は双子でして、先日6歳になりました。来年小学生です。

昨日はお友達やお友達のお母さんたちが家に遊びにきていて、ご飯も皆で食べていました。で、しんざき奥様が片づけやらなにやらでまだ忙しそうだったので、私が長女次女をお風呂に入れることにしまして、ざーーっと頭やら体やらを洗った後湯舟に漬かっていました。

幼児の常として、文脈とか話の流れとか、そういうものは基本一切なく、まるで天から何かの啓示が落ちてきたように、長女や次女は非常に唐突な質問をします。その時も、直前まではお友達と遊んでいた話をしていたのに、何故か長女はいきなり哲学的な質問を投げかけてきました。

「えーーーーとね」

咄嗟に5秒程時間を稼ぎました。

私は中学の頃からの筋金入りの文系でして、正直なところ物理や生物にはあまり自信がありませんし馴染みもありません。ただ、こういう子どもの疑問というものは生もので、興味を満たされれば満たされる程次の興味に繋がる傾向があるので、なるべくならその場で、ある程度妥当な回答を返してあげたいとは思っています。あんまり時間を空けてしまうとすぐ他のものに興味が移ってしまうので。


遠くの物が小さく見えるのは何故だ?


なんだっけこれ、視野とか視差の話だろうと思うんだけど、多分網膜上に入ってくる対象物の面積っていうか、光の角度っていうか、とにかく網膜上に占める割合で決まる筈だよな。あれ、左目と右目があるのはどう考えればいいんだ?っていうか6歳児になんていえば伝わるだろう。

喋りながら考えました。

「パパも上手に説明出来るかわかんないけど。今分かる分だけでいい?」

「うん」

「まず、大きく見えるってどういうことかなーってことなんだけど」

スポンジを拾って、長女の顔のすぐ前に出しました。

「これ、スポンジ、おっきく見えるよな」

「うん。パパよりおっきい」

パパわたしもー、と次女が言うので同じことをしてあげながら、

「長女ちゃんの目の中には、光を感じとって「あ、そこに物がある」っていうセンサーがあります」

「ひかり?」

「そう光」

「スポンジ光ってないよ?」

「電気から出てる光に照らされて、その光が跳ね返って目に入ってきてるから、スポンジからも光はきてるの。真っ暗だと何にも見えないだろ?あれは光が目に跳ね返ってこないから」

「そっかー」

「で、物が近くにあると、その光が目に対してひろーーく跳ね返ってくるの」

「ひろく?」

「うん。っていうか、跳ね返ってきた光が、目に入ってくる範囲が広くなる、っていうのかな。水たまりに石落として、じゃぱーんってなった時、近くにいるとたくさんかかるだろ?あれと同じ」

「うんうん」

「けど遠くなると、ちょっとしか跳ね返ってこない」

スポンジを離しました。

「ほらだんだんちっちゃくなるだろ?これは、跳ね返ってくる光が、長女ちゃんの目のセンサーにだんだんせまーくしか入ってこなくなるから」

「小さくなる!」

「だからもっと遠くにあるものはもーっと小さくなるんだよ」

「そっかー」

というような感じで、一応この時点で長女が納得した様子なので、話はここで終わりました。正直、私の説明が頭に入ったというよりも、「スポンジが実際に離れていって小さくなった」という事象で納得したような気がしています。


で、識者の方に伺いたいんですが、これ、私が言ってることってある程度妥当ですか?それとも全然違いますか?


多分、厳密に考えれば、対象物が網膜に像を結ぶ時の角度っていうか、どれだけの範囲が視野の中で占められるのか、というのが「目に見える時の物の大きさ」ってことになるんじゃないかって思ったんですが、どうもこれを上手く説明出来る気がしません。かつ、6歳児にわかるように説明出来る気がしません。

どなたか、もし分かりやすく説明出来る方法をご存知でしたら教えてください。私の言うことが根本的に間違ってたら何かの機会に訂正しますので。


今日書きたいことはそれくらいです。


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posted by しんざき at 07:58 | Comment(8) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月09日

【情報募集】お風呂での謎の水滴遊びについて

あの、すごーく説明するのが難しいんですが、皆さん子どもの頃お風呂入る時、お風呂の縁に水滴を垂らして、たまった水滴を「島」とか「大陸」とかみなして大きくしたり川を作ったり逆にこぼれないようにしたり、とかいう遊びしたことありますか?

いや、分かりにくいと思うので図示するとですね、


こんな感じで水滴をたらして、


水滴1.png

こんな感じでお風呂の縁に水がたまるわけです。ほら、あるじゃないですか。表面張力とか。表面張力は偉大。表面張力がなければ地球の光景はどうなっていたでしょうか。
水滴2.png

図があるととても分かりやすくなりましたね。

で、あまり大きくし過ぎると水が流れだしてしまうので、絶妙なところでストップさせたりであるとか。

逆に、川を流して箱庭的な情景を作ったりとか。

大きな水滴溜まりで小さな水滴溜まりを吸収したりとか。流れ出さないように、なるべく大きな水滴溜まりを作って「大陸」とか称したりとか、実際の地図を再現しようとしたりであるとか、スケールの限界に挑戦したりであるとか。

結構領土争い的な要素もあって面白かったんですよ。なんつーか、ポピュラスとかシムシティみたいな箱庭的遊びの原型というべきでしょうか。


先日、長男10歳と一緒に風呂に入っていたらですね、長男がぽたぽたと水滴を垂らしていてですね。

「何やってるの?」と聞いてみたら、まさに

「大陸作ってるの」

と言ったんですよ。彼的には、「川が出来ちゃって流れ出すと負け」らしいんですが、あーあったあったそういうルールも。

いや、私、上記みたいな遊びは別に教えてないんですよ?しんざき家、お風呂は割と早風呂というか、子供3人入れないといけないんで、ゆっくり余裕をもってお風呂に浸かれるタイミングがあんまりないんですよ。子どもたち同士ではきゃっきゃ遊んでるんですけどね。

つまり、特段伝達も伝承もしていないというのに、「お風呂の縁での島作り」「大陸作り」という謎の遊びがいつの間にか長男に伝わっていた、あるいは長男が独自でそこにたどり着いていたということで、これはもしかすると結構子どもに普遍的な遊びだったりはしないかと。

「お風呂の縁での箱庭遊び」ってやるもんなんだなあ、と軽く感動した次第なんです。

で、皆さんにお尋ねしたいのですが、上記のような遊び、子供の頃やってました?

やってたとしたら、その遊び何て呼んでましたか?軽くぐぐってみてもちょっとこの遊びが一般的かどうかよくわからなかったんですよ。

もし皆さんご存知であれば、この遊びに一般的な名前があるのかどうかも含めて知りたいと思うので、情報提供の程よろしくお願いいたします。


今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 08:53 | Comment(8) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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