2015年01月26日

「とにかく、待つ」と「とにかく、聞く」が、何故子育てで凄く大事なのか


結論を先に書くと、

・「感情に整理をつける」ということはどんな人間でも大変であって、特に子どもにはその練習をさせてあげないといけないから。
・「ちゃんと聞いてもらえている」「ちゃんと待ってもらえている」という認識は、自己肯定感の獲得の中で物凄く大事だから。


難しいことだけど大事だよなあ、と思うわけです。


子どもに限らない話なのかも知れませんが、ここでは子育てに限定した話として書きます。


しんざき家には、7歳の長男と、3歳の双子の長女次女がいます。以前から勢いがつくとおしゃべりが止まらない長男に加え、長女次女もえらいよく喋るようになりましたので、家庭内は超にぎやかです。

以前、お片付けをしない長男が怒られてへそを曲げてしまった時の話を書きました。この時、長男は、「頭では「片付けないといけない」とわかっているのに、感情が整理出来なくって意地を張ってしまっている」という状態だ、と私は推測しました。


私は、こういう時には、なるべく「とにかく待つ」を選択するようにしています。

既に「片付けないといけない」ということを説明されている以上、何度も繰り返して言い聞かせるのは、むしろ子どもの自尊心にとって逆効果だと思うから。大体の人にとって、「頭で分かっているのに感情の整理が出来ない」という状態で一番重要なのは、言葉よりもむしろ時間だから。

これって普遍的な話だと思うんですよね。大体、ある程度大きくなってきた子どもって、親が言うようなことは頭で理解してるんですよ。理屈で親が正しいことは分かる。けれど、感情がそれについていかない。時には、頭の中がぐるぐるして、言いたいことがまとまらない。そんな時、親ががーんと怒鳴りつけても、その場では無理やり親の言う通り行動するかも知れないけれど、納得して次に結び付けられるかというと、多分案外難しい。しんざき家の場合、下の長女次女はともかく、7歳の長男はもうそういう時期だと思います。


こういう時必要なのは、多分、「親が待ってくれること」なんじゃないかと。


私は、昔から割と気が長い方でして、一時間二時間ぼーっと待っているのは特段苦でもありません。そして、この「気が長い」という性格で今まで損をした記憶がないので、出来れば自分の子ども達にも、気が長い人になってくれればなあ、と思っています。少なくとも、「待つ」という行為に耐性がある、「待てる」子に育ってくれるといいなあ、と思います。


で、自分の育てられ方を思い起こすに、「待てる」ようになった一番の要因は、「とことん待ってもらっていたから」「とことん聞いてもらっていたから」だと思うんですね。


いや、勿論、ケースバイケースだったと思うんですよ。学校に行く前、電車での乗り換えの時、寝る時間が近い時、往々にしてせかされたことはあったと思うんです。ただ、本当に感情がこんがらがった時、言葉で無理やり納得させられたり、対話を拒絶されたりして理不尽な思いを味わった記憶が、振り返ってみると、無い。

普通、理不尽な思いをしたり、悔しい思いをした時の記憶って、相当に残りやすいと思うんです。それが、私の場合、親との対話でそういう思いをした記憶がないので、相当恵まれた育て方をしてもらっていたんだなあ、と。

私は比較的自己肯定感が強い、というかあまり根拠のない自信にあふれている方なのですが、その根っこにはそういう、私の親が私に対してしてくれた接し方もあったのではないかと思うのです。

だから、私も、自分の子どもにそういう風に接したい。


ちょっと前、はてなでこんな記事を拝見しました。

愚痴に具体的な助言をしたくなる理由

これも大事な話だなあ、と。

感情が整理出来ない時には、とにかく聞いて欲しいし、とにかく待って欲しい。そういう時に、言葉で無理やり納得させられても、残るのは理不尽な記憶だけなんじゃないか、と私は思うわけなんです。

で、そういう時に、「とにかく聞く」「とにかく待つ」を選択することが出来れば、子どもの「待てる」度合や自己肯定感にプラスの影響があるのではないかなあ、と。結局、「親が自分の為にどれだけ時間を使ってくれるか」って、子どもの自己評価に凄く重要な話だと思うんですよ。



いや、難しい話だと思いますよ。「待つ」「聞く」という行動は、時間も使えばエネルギーも使います。めっちゃ使います。

実際の所、日々の生活は時間に縛られるものでして、いつまでも子どもを待っていては、日常生活は運営出来ません。しんざき家でも可能な限り子どもは21時に寝せたいわけで、お腹が減った子どもにご飯を食べさせるにも、子どもが散らかした部屋を片付けたり片付けさせたりするにも、エネルギーは非常に必要なわけで、例えば日々3人の子どもと対決し続けている私の奥様なんか、更に一層の負荷を強いられてしまうことは想像に難くありません。

だから、何でもかんでも「待つ」のではなく、子どもの感情がこんがらがった、ここぞという時に「待つ」。


で、子育てってのは勿論両親の共同作業なんですが、こういう時の為にこそ、両親の内余裕がある方が、「待つ」「聞く」を担当出来ればいいなあ、私は可能な限り「待つ」「聞く」を補完していきたいなあ、と思ったりする訳なんです。

今後も、リソースが許す限り、「待つ」「聞く」を選択するよう心がけていきたい、と思います。いや、ご飯時にいつまでも食べなかったりしたらそりゃ急かしますが。


結論は最初に書いてしまったので、補足はこれくらいにしておきます。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 19:43 | Comment(1) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月13日

長男(7歳)が「進め!キノピオ隊長」にはまった、または初めて自分の意志で買ったゲームのお話 2015/01/13


しんざき家では、とある事情で、2014年のクリスマスプレゼントが「好きなおもちゃをパパに買ってもらえる券」になっていました。

で、息子さん、かなり長いこと「プラレール 曲線鉄橋セット」と天秤にかけて、「進めキノピオ隊長」で迷っていました。電車の中で見たCMが面白そうだった、というのが入り口です。

結局後者に決めまして、先日私と一緒に買いにいきました。このゲームが、彼にとって「自分から欲しいと言い出して手に入った初めてのゲーム」ということになります。

進め!キノピオ隊長

確か、私にとっては、「自分から欲しいと言い出して手に入った初めてのゲーム」はナッツ&ミルクでした。隔世の感があります。

買った直後は文字通り飛び上がって喜んでおりまして、うちで遊び始めたところ、見事にハマりました。18面くらいまで来たようですが、今のところすげー楽しんでいて、私に話しかけてくるときもキノピオ隊長の話ばっかりです。なんか、18面がボス面らしく超難しいとかなんとか。

まだしんざき自身はあまり遊べていないのですが、息子さんを見ていて思ったことが何点か。


○「進め!キノピオ隊長」のゲーム自体についての感想

・キノピオという、子どもにとってもキャッチーなキャラと、「マップを歩き回ってダイヤやスターを見つける」というシンプルな目的
・「パッドを動かすと画面も動く」という仕組みが非常に直感的、しかも見た目もダイナミックで面白さがひと目で分かる
・さすが任天堂というべきか、導入や入り口は子どもにとっても何の抵抗もないもので、敷居が低く入り口は実にスムーズ
・操作もシンプルなので、ほぼアクションゲーム未経験(Hearthstoneとかしかやってない)の小1でも問題なく遊べている
・ただ、一本橋をわたるときとか、細かい操作はまだ苦手のようで、何度も橋から落ちたりして結構焦れていた
・見ていて思ったのだが、「操作出来る方向が多すぎる(アナログ入力なので)」という側面はありそう
昔のマッピーやロードランナーなんか、「動ける方向」が基本二方向しかなかったから、流石にそれに比べると、操作自体の複雑さは上がっているというべきなんだろうなあ
・ただ、適応できないかというとそうでもなく、ゆっくり考えて操作出来る面については特段問題なさそう。きゃーきゃー言いながら遊んでいた
・カブを引っこ抜いて敵にぶつけたりヘイホーがいたりする辺りが完全に夢工場ドキドキパニック
・中ボス戦が完全に火吹き山の魔法使い(名前もそのまんま)
・息子さん、「敵への対処」とか「タイミングを見計らう」という辺りがまだかなり苦手な様子。キョロへいのロール神殿辺りでも相当苦戦していた
・けど辛抱強く遊べているし、凄く真剣に考えながら遊べてもいるので、思考力とか忍耐力を育てる役にも立ちそう


○親としての感想

・奥様も「進め!キノピオ隊長」を始めて楽しんでいるっぽい(奥様は元々パズルゲーマー)
・面の解き方についてあーでもないこーでもないと盛んに息子さんと会話をしていたり、私を含めた家族で楽しめているので、まずは買って良かったなー、と感じている
・やはりたまに、どうしてもクリア出来なくてパパに頼りたくなる時があるらしいが、なるべく自分の力で解かせたい
・その為、回数制限つきの「パパボンバーシステム」を考えた
・一日考えてもどうしても解けないステージがある時、回数制限つきでパパを召還出来るブラックパパボンバーシステム(ダラ外のパクリ)
・ボンバーカードを3枚支給した。補給の方法は検討中
・火吹き山の中ボスはパパがクリアしました
・「初めて自分の意志で買ってもらったゲーム」が凄い面白いゲームだった、という点では、いい成功体験をさせてあげられたなあ、と。
・今のところメリハリはついているようなので心配はしていないが、これからも健全にゲームと付き合っていって欲しいなあ。


という感じです。

まずは、私自身キノピオ隊長を遊んでみて、自分で楽しさを味わってみようかなあと思う次第です。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 23:15 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月05日

長女次女(3歳双子)をアンパンマンミュージアムに連れていったら!?(゚Д゚)みたいな顔してフリーズした


どうも、視界に入ってくるアンパンマン関連アイテムが余りにも多過ぎて、どれから遊べばいいのか見当がつかず硬直してしまっていたようです。子どもって面白そうなものが多過ぎるとたまに固まりますよね。


ということで、日曜は長女・次女連れでアンパンマンミュージアムに行ってました。

今回は、長男がもう既にアンパンマンを卒業しており、かつ次女が「ぱぱとあんぱんまんいくの!!」という主張を泣いて譲らなかった為、珍しく私-長女-次女、奥様-長男という2パーティに分かれての行動で(いつもは、別行動にしても私-長男の男組ペアになることが多い)、長男はみなとみらいのボーネルンドに行ってました。

奥様抜きで、私・長女・次女の三人行動というのはかなり珍しく、若干不安もあったのですが、まあ終わってみればなんとかなった感じです。

最初フリーズしていた長女次女も暫くすると再起動して、.ヾ(・∀・)ノ゚みたいな感じで釜飯どんの釜飯作りエリアできゃーきゃーいって遊んだり、アンパンマン号に上ろうとしたり、スタッフオンリーのドアに突撃しようとして係員さんに止められたり、なんかキッズコーナーでかごに色んなおもちゃを入れてお買い物ごっこをしたり、着ぐるみカレーパンマンをべしべし叩きまくったりしてました。総じて楽しそうでしたので良しとします。

帰り、「駅までは抱っこなしで歩く」と決めたところ、次女がえらいパパ抱っこを求めて道の真ん中に寝転がってぎゃん泣きしたりもしましたが、一応、かなりの行程を自分で歩けるようにもなり、長女次女の成長を実感した一日でした。長男は長男で、ボーネルンドで4時間近くたっぷり遊べたようでなにより。


それにしてもアンパンマンは、低年齢の幼児において恐るべき吸引力を発揮するヒーローです。造形のシンプルさがポイントなんでしょうか。

長男も、一時期かなりアンパンマンに入れ込みを見せていたんですが、5歳くらいにはもう卒業していた記憶がありますので、多分2〜4歳くらいがコアターゲット層なんだと思います。




全然関係ありませんが、(多分)長男の小学校の話の人づてで、クラスで今何流行ってるの?というところで「コナン」という言葉が出たことがありまして。

あれ妖怪ウォッチじゃないんだー、名探偵コナンとか結構人気あるのかな、と思ってよく聞いてみたら、のこされ島がどうとかおじいがどうとか、どう聞いても未来少年コナンだったということがありました。いや、なんか誰かのお父さんがブルーレイボックスか何か持ってたみたいですが、小学生案外すげえ、と思った話です。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 22:27 | Comment(3) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月26日

子育てにおける「妥協」の大事さ

ちょっととりとめもないこと書きます。あんま具体的な話ではないです。


なんというか、「妥協」って悪い意味で使われること多いし、妥協がよろしくない時ってのも確かにあるんですけれど、実際にはすげえ大事な概念だと思うんです。妥協。妥協すごく大事。


なぜかというと、「ちょうどいいところ」と「理想」と「現実」がそれぞれずれていた時、「ちょうどいいところ」を探す方法は妥協しかないから。

なぜかというと、「Aさんの理想」と「Bさんの理想」が乖離していた時、戦争を起こさずに仲良くする方法は妥協しかないから。


仕事とか、人間関係とか、色んな場面に当てはまると思うんですけど、今、私は子育てのことを念頭においています。子育てにおいて、妥協、多分すごく大事。


子育ての指標とか、子育てのライフハックとかありますよね。「○○な子に育てる為の××の方法」とか、ああいうの。

勿論、いいこといってる時もありますし、適度に取り入れる分には凄くいいんですけど、ああいう指標とかものさし的なものって、突き詰めようとすると親も子どもも凄くしんどいんですよ。「何かから外れられない」って凄くしんどい。

何でかというと、子どもというのは元々ゆらゆらとしているもので、ひとつところに留まれる生き物ではないから。なかなかまっすぐ進み続けられる生き物ではないから。

ゆらゆら揺れる存在である子どもに何かを突き詰めさせようとするのって、ゆらゆら揺れる存在である子ども相手に、親が何かを突き詰めようとするのって、ものすげーストレスかかります。「親と子ども」というのも、結局は人間関係ですから、長く続けられないと意味がない。つまり、子育てというのは、「長く続けられる」やり方でやらないと意味がない。


いや、勿論、妥協せず、突き詰めて、どこかに上り詰める、何かを大成させる子ども、そういう子育てもあると思いますよ。ただ、多分そういうのは本当に、楽しめる、突き詰められるから出来ることであって、正直私にはそういうの、無理そうです。


私の子育てにおける指標で、これは突き詰められそうだなーというのは、ただ一個だけ。


自分と、自分がいる世界を好きになって欲しい。


ホントこんだけです。他人と折り合いをつけつつも、まず自分が大好きでないと人生やってられない。

だから、その為にも、四角四面にならずに、あちこち妥協しながら風通しがいい子育てをしてあげたいなあ、と、私はそんな風に思うわけです。
posted by しんざき at 23:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月28日

片づけない息子さん(7歳)を前に、久々に叱り方を考えたことと、感情をコントロールするのにかかる時間の話


基本的には、

・「してはいけないことをした」場合、叱る
・「しなくてはいけないことをしてない」場合、待つ


様にしている。

私のやり方である。正しいのかどうかはよくわからない。というか、正しい叱り方などというものはこの世に存在せず、その時その時で適しているかどうかがあるだけなのだろう。だから、常に、「この叱り方は正しいんだろうか」というのは考えるようにしている。


いつも通り、そのうち自分で読み直して得るものもあるだろうということで、今日あったことを書き残しておく。


しんざき家の長男は7歳、小学一年生。長女次女は双子で、いずれも来月3歳になる。

今日、私が仕事から帰ったのは21時前だった。いつもなら、奥様・長男長女次女は既に入浴を終えており、寝る前に合流して一緒に寝るタイミングだが、その時はまだ皆リビングにいて、若干不穏な空気だった。どうも、3人でハッピーターンを食べて、包装袋をその辺にまき散らしたか何かしたらしい。奥様が叱ったからだろう、長女はわんわん泣いており、次女は逃げ回っており、長男はどたばたしている風情だった。私がいない間、一人で三人を相手にしている奥様の苦労がしのばれる。マジで。

包装袋は既に片づけられていた。最後に床に残っていたのは、乱雑にまき散らされた息子さんのランドセルとその中身だった。

もう時間も時間だったので、少なくとも長女次女はお風呂に入れないといけない。そこで私がバトンタッチして、奥様は三階に行って長女次女をお風呂に入れ始めた。しんざき家のお風呂と寝室は三階にある。お風呂に入った後、湯冷めせずに布団にくるまれる生活の知恵である。


さて。ランドセルと教科書を片づけるよう指示された長男は、リビングに転がって片づけをガン拒否する構えである。何やら意地を張っているように見えた。


奥様と息子さんはいずれも非常に意地っぱりであり、かつ極端に負けず嫌いである。

小学一年生である息子さんは、もう既に「出したものは片づけないといけない」ということは理解している。そして、私が、出しっぱなしの状態を許容しないこと、出した物は出した人が片づけないと認めないことも分かっている。然るに、奥様に怒られて片づけをするのが、なんか負けたような気がしていやなのだろう。

つまり、理性ではわかっているが、感情が言うことを利かない状態なのだろう、と私は考えた。となれば、もういちいち私が「片づけなさい」と叱責することによるメリットはないし、片づけないといけない理由を言い聞かせる必要もない。長男が感情と理性を整合させればよい。


で、コマンド「待つ」を選択した。


私は生来気が長い方であり、1,2時間程度ぼーっとしているのは別段苦でもない。「パパ、(息子の名前)くんがお片付けするの待ってるからねー」とだけ言って、階段に座った。こうなると私はテコでも動かないし、片づける以外に風呂および寝室に行く道はないのだ、ということは息子さんに伝わるようにした。


5分経った。息子さんは寝た振りをしている。

15分経った。「もうママお風呂はいっちゃったから片づけても遅いでしょー」とかなんとか言っている。放っておいた。

30分経った。のろのろとリビングに這いずって、なんだかんだ抵抗しつつ、散らばっていた教科書やノートを片づけ始めた。片づけ終わった後、「ちゃんと出来たなー偉いなー」と褒めて、風呂に連れていった。まだ若干ふてくされていたが、シャンプー付けにしてばしゃばしゃきゃーきゃー体を洗う頃には機嫌は治っていた。


結果的には片づけられたので、多分、今回についてはコマンド「待つ」は妥当だったのだろう、と思う。


理性では分かっているのだ。小学生には、もう十分な理性が備わっている。しかし、感情を制御することは、頭で考えることよりずっと難しい。感情を落ち着かせるには時間が要る。大人ですら感情を鎮めるのは難しいのだから、子どもにとってみればなおさらだろう。となれば時間を与えてあげれば良い。私はそう考えた。


ただ、コマンド「待つ」には弊害も大きい。例えばこれが、奥様が長女次女を見ていられない状態だったら、私は長女次女を長時間放っておかないといけない。寝る時間は確実に遅くなって、今日の場合は22時を過ぎた。日中の忙しい奥様など、コマンド「待つ」など選択しようがないだろう。

待ってもらうまでもなく、ある程度強いて自分を動かす練習、みたいなものもいずれは必要だと思う。いつもいつも、気分を切り替えるのに十分な時間がある訳でもない。

だから、コマンド「待つ」以外に、もっと適したやり方もあったかも知れない。そこは考えないといけない。


後から奥様に聞いてみたところによると、「叱られて言うことを聞くと負けたような気になる」のだという。私にはない感覚だが、どうも負けず嫌いというのはそういうものらしい。負けず嫌いというのも、勝負ごとのパワーの源として貴重な属性だ。スポイルはしたくない。


息子さんの負けず嫌いと折り合いをつけながら、きちんと片づけることを習慣づけてあげられる回答、というのも多分どこかにあるのだろう。今後もいろいろ模索していきたいと思う。


今日あったこと、以上。
posted by しんざき at 23:27 | Comment(1) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月03日

よそ様の子育ての話とか、子育てにおけるパパ・ママの意志統一のお話とか


Twitterで、こちらの記事に言及して欲しいなー、というようなお話を伺いました。

orangestarの日記:オッス!オラ、イクメン!いっちょやってみた結果がこれだよ!!

いやもう、まずは奥様共々、日々育児お疲れさまでございます、という点には尽きます。

前提として、パパとママの間に意見の不一致があった場合、パパとママの間ですり合わせるべき話であって、部外者がどちらか一方を否定する必要はないですよね、というかするべきではないですよね、というのは思います。

子どもと接するのは大変大変楽しいことなんですけれど、やはりストレスがかかる点も多々あるのは事実で、子どもと長く接している側によりストレスがかかるもんだとは思うんですが、部外者が更によってたかってストレスを増やす必要もないと思うんですよね。どうなんでしょうか。

まあ勿論、ブログに公開されている時点で、そういうことも織り込んだ上でいろんな意見を募ってらっしゃるのかも知れないですし、私もそう考えたのでこんな記事書いてるんですが、ブクマコメを見ていて、ややや皆様どうかもう幾分穏便に、とはちょっと思いました。

その上で、
ただ、なんかいま一つピンと来ないというか、納得できないというか…。
子どもが食事の前にチーズを食べたがっています。
しかしお母さんから「もうすぐご飯だから駄目。泣くなら泣きなさい。泣いてもチーズは出ぬ」
ってなってる時にチーズあげちゃう上、その後のダラダラ食べ2時間コースに付き合う系イクメンの問題点を三つ以上挙げよ。
という点に始まるお話について、「納得できない」と書かれているので他者の意見を求められているという前提の上で、どちらかというと私はこっち寄り、という感じで意見を書いてみたいと思います。

私の意見は端的にこういうことになります。

・命令系統の統一はめっちゃ大事
・泣いている子どもを「泣き止ませないといけない」ということは必ずしもないと思う(場合にもよる)
・ひとつの事案にどれくらいの時間を費やすか、というのは程度問題
・総合すると、スタンス的にはどちらかというと奥様寄り


最初に自分の立ち位置を書いておきますと、三児の父です。長男は七歳、長女・次女は双子で共に二歳九ヶ月、子どもと接している時間では妻に到底及ばないのですが、一応全力で子どもと関わっているつもりではあります。

一点ずついきます。

・命令系統の統一はめっちゃ大事

命令系統というか、基準、ものさしの話でしょうか。

子どもは勿論まだ「やっていい基準」「良くない基準」、いわば基本的な倫理意識、規範意識というのを身に着けていない生物ですので、親がそれを与えてあげなくてはいけません。早い話、やっちゃダメなことは「ダメ」といわないといけませんし、やって欲しいことは奨励して、出来たら褒めてあげないといけません。

パパとママは、子どもにとってはある種「既に社会に出ている先輩」でもあり、「自分が目指すべきモデルケース」でもあるので、ここでの「ものさし」が一致していることはひっじょーーに重要です。

この時、パパとママの振る舞いや意見に大きく乖離があった場合は、子どもは「あれ、どっちに従えばいいのん?」となるので結構困ります。子どもは強かなので、単に自分の欲求にあった方に段々寄っていったりして、これもまたパパ・ママの乖離の一因になっちゃったりします。

「ものさし」が統一されていれば、子どもが学びやすくなる。言ってしまえばそれだけです。

まあ、何でもかんでもパパとママの意見が一致するわけもないので、時に意見の食い違いが出るのも当たり前のことではあります。そんな時も、

・少なくとも子どもの前では意見の不一致を見せない
・後で適宜話し合って不一致を是正する


ということが超重要だと思いますし、事実まさにこれをやってらっしゃるとは見受けられるのであんまり問題ないかとは思うのですが。一応、しんざき家でも都度都度意見の不一致がないか矯正してるつもりではあるんですが、後でこれ読んでもらって確認します。

あ、パパママの意見不一致を見せないといっても、パパママ両方同じ内容で叱る、というのは子どもの逃げ道を塞いでしまうので避けて、片方は「よしよし、パパのいった通り出来るよねー」といった感じでフォローに回るといいらしいですね。両方ボケも突っ込みもやる、といった感じで。


二点目。

・泣いている子どもを「泣き止ませないといけない」ということは必ずしもないと思う(場合にもよる)
お前の育児がすごくウエット(子どもに対して可哀想という態度で接し過ぎ)と言われたんですがそこになんとか出来る手があるのに、なんともしないでおくと、傷つく、というか、親に対して不信感を持つようになりそうだし、そうすると、将来人間関係に不信感を持つ子になるってどっかで読んだ気がするので、で、自分が家に言える状態で子ども泣いたり不機嫌だったらそうするしかないじゃないですかーですかー。
この気持ちというか危機感、私もよく分かりまして、子どもが泣いてる時には早く対処してあげようよーとか思うこともあるんで、いわば「泣かれることに対する危機感」を否定するところでは全くないです。

ただ、そういう危機感を持っているからこそ、id:orangestarさんが恐らく、子どもが泣くケースを一括して考えておられるのではないかなー、と思い至りました。

私が考える限り、子どもが泣くケースには大きく分けて二つあります。

1.生理的にどうしようもない理由で泣くケース
2.上記以外で、自分の要求を通すために泣くケース


正直、結構境目は曖昧なんで、これも結局「どこまでを1に、どこまでを2に分類するか」というのは夫婦間の決めの問題なんですが。

1は、たとえば転んじゃって痛みで泣いてる時とか、起きたばっかりで超眠いのに隣にママやパパがいないから泣いてるケースとか、そういうのですね。「寂しいから泣く」というのも私基準ではこっちです。

2は、たとえばおもちゃが欲しいのに買ってくれないとか、もっと遊びたいのに帰ると言われたとか、そういう時泣くヤツです。

私が思うに、1は可能な限り早くフォローする必要がありますが、2はケースバイケースというか、必ずしも対応する必要がないです。むしろ、普段1をきっちりフォローしてあげた上で、2をフォローしないことによって、子どもがすばやく「規範」を学べるようになると思います。

子どもの信頼感というのも程度問題であって、上記で言うと「生理的にどうしようもない理由」できちんとフォロー出来ていれば、「ああ、パパやママはどうしようもない時はちゃんと来てくれるんだな」という感覚はちゃんと育つと思うんですよね。

どうしても2のケースで泣き止ませたい、けど要求には応じたくない、という時には、単に抱っこしてあげたり寄り添ってあげればいいんじゃないでしょうか。しんざき家ではそんな感じです。

「食欲」というか、「何か食べたい」ということ自体は生理的な問題なので、1と2どちらに分類するか微妙な部分もあるんですが、ご飯のサイクルがちゃんとあるのであれば、それ以外のサイクルで何か食べようとする要求は2に分類していいように思います。この辺はパパママ間で決めることですけど。


三点目。

・ひとつの事案にどれくらいの時間を費やすか、というのは程度問題

文字通りではあって、別に場合によってはあるひとつの事件に対して二時間三時間使ってもいいとは思うんですが。
その2時間があれば他のことが出来る、手を掛けられる分MAXまでやるっていうのは長期的には正解ではない。
この点は、単に「奥様にとって他にやって欲しいことがあるけれど、リソースの使い方の問題でそれが満たされていない」というリソースマネジメント的な事情が見て取れるので、そこが意志疎通によって改善されれば良いだけなのでは、とは思いました。

うちの場合は、私と妻がどちらも時間空いている場合、私は子どもたちの「ご本読んで」攻撃に対処し続けていることが多いですし、妻もどちらかというとそれを奨励しているっぽいので、延々子どもに時間使ってることの方が多い気はしますが。


まあ、何はともあれまとめると、私が言いたいことは

・パパママ間での意志疎通超重要ですよね。
・子育て大変ですよね。
・いつもお疲れさまです。

という三点だけであり、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。



以下は関連エントリー。
しんざき家の結婚生活が(多分)上手くいっている理由
posted by しんざき at 01:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月01日

小学校に通い始めた子供の親として、いじめについて事前にやっておけそうなこと


長男は6歳であって、4月から小学校に通い始めた。早いものである。

幸いというか、幼稚園については、私自身かなり子どもたちと関わる機会も多く、仲良くやっているところを実際に見ることが出来ていたし、多少の喧嘩はあれ、一方的ないじめというところまで発展するところはなく、大過なく卒園することが出来た、と思う。

が、当然だが、小学校からは色々と難しい。子どもの自意識も多いに発達する時期だし、自意識と自意識のぶつかり合いでトラブルも増える。いじめの心配も増える。

長男がいじめに遭うことも勿論心配だが、長男がいじめに参加するようなことも、決してあって欲しくはないことだ。ただ、あって欲しくないからといって、発生する可能性がなくなるわけではない。

いじめ自体は、いくら防止しようとしても、必ずどこかしらで起きてしまうことだ。子どもの集団が一日に何時間も共同生活を送るのだから、そこで何の事件も起きない方がおかしい。

となると、考えるべきことは、「もしいじめが発生してしまった時、長男や周囲の子の傷をなるべく小さくする為にはどうすればいいのか?」ということのように思う。


いじめに遭う、いじめに参加してしまうことについて、なるべく傷を小さくとどめる為に、どんなことが出来るかなーと考えてみた。


・親子の会話は密にして、軽いところからなるべく話しやすい関係を作っておく。
・それでも話せない時は話せないので、サインをなるべく見逃さないように、けど気を付け過ぎないようにする。
・なるべく一緒にお風呂に入る。
・「良い子でなくてはいけない」と思わせないように、褒め方は気を付ける。
・同じクラスの他の親御さんとはつながりを作っておく。
・担任の先生とも話せる機会はなるべく話しておく。担任の先生の人となりや様子はなるべく把握しておく。



これくらいは思いついた。今後の為にメモ書きしておく。


・親子の会話は密にして、軽いところからなるべく話しやすい関係を作っておく。

これはまあ当然のことだし、現在もやろうとしているが、子供は育つに従って、親と可能な限り会話したくない時期を大体経験するので、その時はちゃんと適切な距離をとってあげないといけない。まあ、小学校高学年くらいまではなんとかなるだろう。

あと、親が大げさに反応し過ぎると、子供としては相談しにくくなってしまいそうな気がする。リアクションはさらっとにした方がよさそうに思う。


・それでも話せない時は話せないので、サインをなるべく見逃さないように、けど気を付け過ぎないようにする。

親との関係がどんなものであれ、いじめられたこと、いじめに参加してしまったことについて、話せない時は話せない。となると、親としてはなるべく、話せない子供が発するサインを捉えないといけない。とはいえ、探るようなことになっては多分子どものプライド的に逆効果になるだろうし、距離感を考えつつ。

なんかこんなものもあった。

いじめのサイン発見シート

内容が妥当なものかどうかは、似たようなサイトを色々比較して慎重に考えてみないといけないけれど、ちゃんと検証すれば参考にはなりそう。


・なるべく一緒にお風呂に入る。

お風呂でのコミュニケーションは馬鹿にならないと思う。まあいつまで入るんだ、という問題はあるが、男の子だし小学校中学年くらいまでは入ってもよさそうな気がする。

長男は銭湯が好きなので、銭湯に足しげく通うのも悪くなかろうと思う。


・「良い子でなくてはいけない」と思わせないように、褒め方は気を付ける。

親が「良い子である」ということを褒めるがために、「良い子でないといけない」という意識が出来てしまい、いじめに遭ったことを相談出来なくなってしまう、というような話を聞いた。

偉かったら当然褒めてあげたいのだが、その際も「いい子」であることを褒めるのではなく、「頑張ったこと」「良いことをしたこと」を褒めてあげるのがいい、ような気がする。


・同じクラスの他の親御さんとはつながりを作っておく。

いじめの発生についても、いじめが起きた時の解決についても、どんな親御さんがいるのかの把握と、情報交換が出来る人間関係の構築は、あるに越したことはないと思う。注意した方がよさそうな親御さんがいる場合は事前に把握も出来るし、万一自分の子どもが加害側に回ってしまった時も、早めに共有してもらえる可能性がある。

そう考えると、PTAの活動とかもちゃんとするべきなんだろうなーと思う。大変そうだけど。


・担任の先生とも話せる機会はなるべく話しておく。担任の先生の人となりや様子はなるべく把握しておく。

担任の先生が頼りになる人であって、情報を共有してくれる人であればそんなに問題はない。最近は色々と、担任の先生が頼りにならない場合のことも聞くので、そういう場合は事前に気を付けて、アラートのレベルを一段上げておく必要があるかも知れない。勿論、緊急時以外に口出しをするつもりはないが。

幸い、今の長男の担任はベテランであって、色々お話をしている限り信頼出来る方のようだ。引き続き関係は構築していきたい。


ざーっと考えてみた。奥様とも相談してみる。

一番大事なことは、多分、真剣に考えるのをやめないことだろうと思う。今はまだ一年生で、そこまでシビアな状況にはなっていないが、今後色々と難しい場面も増えるだろうと思う。そんな時にも、常に奥様とは相談しつつ、家族で問題を乗り越えていければと思う。
posted by しんざき at 20:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月23日

「叱る側は、自分がプレゼンターだと自覚しないといけない」と言われたこと。


ちょっと昔話をする。

数年は前の話だ。その時私は、ひょんなことから高校時代の旧師と飲むことになった。


私は現在は関東在住なのだが、中学・高校時代は名古屋にいた。名古屋と東京は近いようで遠い。高校時代の旧友はfacebookを通じて割と頻繁に飲みの誘いをしてくれるのだが、殆ど顔を出すことが出来ず、常々申し訳なく思っていた。私が高校の頃の連中の同窓会に顔を出せたのは、ここ15年でたった2回だけであり、それでも声掛けをし続けてくれるまめな友人には感謝する他ない。

で、その時は、同窓会云々とは何の関係もなく、仕事関係でたまたま名古屋に足を向けることになった。午前中で所用は終わり、半日丸々体が空いたので、記憶にある場所をぶらぶら歩いた。地元のゲーセンが潰れていることを確認したり、近所の公園のアスレチックが健在であることを確認したりした。


その後、私が通っていた高校にぶらっと立ち入った時、廊下で旧師と遭遇した。


男子校でなければ誰何されるところだったのかも知れない。私は正門からのこのこと学校に入り込んだ訳だが、会釈した守衛さんにも主事さんにも一言も声をかけられることなく、昔自分が通っていた校舎を、特に目当てもなくぶらぶら歩いていた。考えてみれば不用心な話だが、もしかすると顔を覚えられていたのかも知れない。現役の頃も、卒業生が訪ねてくるということはそれ程珍しいことではなかった。

時間的には放課後であった筈だが、その時間、仏教校の週次行事である全校集会が行われていることを私は覚えており、現役生に遭遇することは全くなかった。

で、3年の頃の教室の辺りで、唐突に旧師に行き当たった。


おい、なんだお前こんなところで。

いやあ、と私は答えた。ちょっと通りがかりまして。

一杯いけるか。おごってやる。


実のところ、誰かしら先生に会えるかなーと期待はしていた。会えなければ会えないでもいいか、と思っていたが、その時は随分タイミングが良かったらしい。先生の行きつけの店に連れていってもらった私は、ただ酒を飲みながら随分色々な話をした。


その時話してもらったことの中に、一つ、妙に印象に残っている言葉がある。

叱る人間はプレゼンターであり、叱責はプレゼンテーションである」という言葉だ。

もしかすると当たり前の話なのかも知れない。だが、私にとってこの言葉は一つの標定であり、ここではそのままに書く。


旧師の「叱り方」が上手い、というのは高校の頃から認識していたことである。がーーっと凄い勢いで叱るのだが、叱る要点が整理されており、勢いの割にちゃんと頭に入る。叱り終わった後は、繰り返すということがない。私も何度か叱られたことはあるが、納得感がない叱責、というものの記憶があまりない。

その話を向けた時、こう言われた。

しんざき、お前部下出来たか。後輩出来たか。

そりゃまあ、何人か。そう私は答えた。

そうか、じゃあいいことを教えてやる。

「叱るってことは、プレゼンだ」と。


叱るというのは、何の為に叱るのか?何か、子供なり生徒なりが、「よくないこと」「直した方がいいこと」をしたから、その再発防止の為に叱るのだ。

であれば、「再発防止」という目的を達成する為には、二つのステップが必要になる。

1.「叱られた理由」「何故叱っているか」「何がいけなかったのか」を正確に伝達、共有すること。
2.「どう反省すればいいか」「再発防止する為にどうすればいいか」を正確に共有すること


この二点を達成出来ない叱責には何の意味もない。単なる叱る側の自慰行為だ。


だとすれば、叱る側は、「どうすればこの二点を達成出来るか」「どうすれば叱った理由を伝達出来るか、共有出来るか」を考えなくてはいけない。

目的が明確であり、正確な伝達が必要で、その為に順序立てて叱らなくてはいけない。だから、叱責はプレゼンだ。そう、旧師は言った。


「感情的ではいけない、ロジカルでないといけない?」と言ったら、「違う」と言われた。違う。必ずしもそうじゃない。

大事なのは、「叱られた側が叱られた理由を正確に認識して、反省・再発防止というゴールを共有出来ること」だ。

だから、例えば「叱られた理由」と「反省」が明明白白で、共有が既に終わっているならば、表面上感情的になっても別段問題はない。感情的に伝えた方が強烈に印象に残って、結果として「叱られた理由の定着」「再発防止」が効果的になる生徒というのは、確かにいる。


「ただ感情的になるだけで、叱る理由の伝達を放棄している」叱責は愚の骨頂だ。まあ、再発防止策が共有出来たとして、それが実行できるかどうかは別の話だけどなあ。旧師は、そう言って笑った。

この話は大体ここまでで、後は他の話に紛れて、「叱責はプレゼン」という言葉は流れていった。



三児の親になって、なんだかんだで子供を叱る機会は多くなった。そんな中、つい最近、上の話をふいっと思い出した。

考えてみると、奥様がよく言っている、「叱られたわけ、分かった?」っていう質問は、重要な質問だなあ、と。

ただがーっと叱るだけだと、子供はただただ萎縮して、ごめんなさい、というだけだ。それだけでは、叱る理由も、再発防止策も共有出来ない。その叱り方には何の意味もない。

「何故叱られているのか」「今後どうすればいいのか」を共有するというゴールに辿りつけないと、叱ることに意味はないんだよなあ、と、改めてそう思った。


勿論、共有出来たとして、それが実行できるかどうかはまた別だ。それはそれでいい。一度叱っただけで改善出来るような子供はこの世に存在しない。


親の仕事は、多分、考えることだ。どうすれば子供に、言いたいことが共有出来るのか。少しでも子供の心に残る言葉は、どんな言葉か。


旧師の言葉も一つのヒントとして、これからも考え続けよう、と、そう思ったわけなのである。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 18:21 | Comment(4) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月10日

今日のしんざきと最近の子ども達のはなし 14/06/10


毎朝走っている。

小学校に入学した息子さん(もうすぐ7歳)は枕元に目覚まし時計を導入したのだが、朝の6時にその時計がじゃんじゃんでかい音で鳴る際、家族5人の中でその音で起きるのが私一人、という体たらくである。奥様・長男・長女・次女の4人は、大抵の場合目覚まし音をがんスルーして寝ている。これは何だ、揃って寝起きが奥様似なのか。

まあ、私が二度寝する中息子さんも大体6時40分くらいには起きるので、その後二人で近所を走っている。大した距離でもペースでもない。距離的には精々1キロかそこらだと思う。ただ、走るとカレンダーにシールを貼ることが出来、シールが20個溜まるとご褒美(ドラえもんのコミックか、欲しい本一冊か、マクドナルド一回)というシステムからか、めげることもなく結構続いている。尚、雨の日はパスしている。

最近私の帰宅が遅いことが多く、夜にあまり会話出来ないから、ということで早起き目的で始めたのだが、いい感じで習慣になってきてなかなか良いのではあるまいかと思う。走っている間に昨日の学校の話など聞けるということもあり、今後も出来る限り続けていきたい。


ちなみに、ここ最近の息子さんは「ポケモンメガリング」というおもちゃを起点にポケモントレッタ熱が再発しており、なんだかよくわからないがバシャーモをメガ進化させて喜んでいる。良く知らないのだが、なんだろうなメガ進化って。あと、相変わらずパパにだっこされて玄関に下りる「パパエレベーター」がお気に入り。20キロ超あるので重い。


一方の長女、次女(2歳半)。すげー喋るようになった。だいぶ意思疎通が出来る。

次女については、昨日の夜寝かしつけをしている時、なかなか寝付かない次女が、寝たふりをしている私と奥様の間を「わたしのぱーぱ、わたしのまーま」って言いながらごろごろ転がってて、たまに「わたしのぱー、まーま」って言い間違えて言い直してるのが大変かわいかった。

長女については、着替えストライキ実施中。お風呂の後なり、起きた後なり、私が着替えさせようとするとどういうわけか大変嫌がる時がある。「ほら着替えよー?」というと「ないない!」と激しい反発。意志が固いのは悪いことではないのだが、どうしたものか。

二人とも、お散歩もだいぶするようになってきた関係もあり、私と息子さんが走りにいくとき「いっしょに、はしりいくーー!」などと着いてこようとするのだが、流石にまだジョギングは無理なのであの手この手で気を逸らして男組でジョギングにいくようにしている。たまに泣く。


まあそんな感じで、相変わらず楽しく子育てを満喫しています。

今日はそれくらい。
posted by しんざき at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月05日

子どもは甘えることによって大人になる(という側面もある)、という話


子どもを見ていて思ったことシリーズ。

必ずしも厳しくすることばかりが躾じゃないんだよなあ、というお話です。一般論のつもりはあんまりなく、飽くまで我が家限定の話です。


長男は6歳。埼玉県某所に私の実家がありまして、たまに泊まらせてもらいにいきます。大体祖母(私の実母)に、西武線某駅まで迎えにきてもらって、私がそこまで長男を連れていくのが定番パターンです。

じいじばあばはとにかく孫ラブなので、そりゃもう実家では息子さん甘え放題です。散々甘えさせてもらって、つやつやして戻ってきます。

ただ、以前から思ってはいたんですが、実家から戻ってくる度に、なんか大人びて帰ってくるんですよね。息子さん。


これは、実家ばかりの話ではなく、我が家でも同じなんですが、「たっぷり甘えられる→甘えん坊になる」という訳でも、どうもないように思えます。むしろ、「甘えたい時にちゃんと甘えられる→成長する」である、ような気がしています。


これ、少なくとも私の長男の場合、「甘えたいという欲求が満たされる」ことによって、自我がきちんと形成されたりとか、精神基盤が安定するとか、周囲の世界が好きになるとか、そういう効果が出ているように思います。


いや、勿論普段甘え放題な訳じゃないんですよ。むしろ息子さん、下に妹が二人いますので、普段は「こどもリーダー」として下の子たちの見本になることが求められます。なにしろ私が、「パパがいない時は長男がパパの代わり」といい含めてありますんで、むしろ長男的には厳しい環境なんじゃないかと思います。

けれど、あるいはだからこそ、メリハリをきかせて、普段厳しくしている反面、甘えられる時にはたっぷり甘えさせてあげることによって、欲求不満とかがなるべく溜まらないようにしてあげたいなあ、と思ったりする次第なのです。そういう点でも実家には感謝しきり。


あと、全然関係ないのですが、今日「ねえねえパパ、欲しいものがあるんだけど」と言われて、なんか新しいおもちゃかと思ったら「いのうえようすいのCD」とか言い始めました。どうも、実家の車の中でずっと井上陽水が流れていたようで、「ありがとう」とか「氷の世界」とか気に入ったらしいです。


いやまあ、いいんですけどね。はい。名曲揃いですし。ただ、傘がないとか喜んで聞いてる6歳児ってちょっとどうなの。

posted by しんざき at 23:17 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

こどもたちを見ていて、「言葉で意思が通じる」というのは物凄いことだなあ、と思った。

そんなに大した話じゃないのだが。

長女次女は共に2歳3か月。
最近、ようやくカタコトで言いたいことを表現できるようになってきた。

「牛乳飲みたいの?」と言えば、それが合っている時には「のみたいの。」と答える。
「そろそろ寝ようか?」と言えば、目をこすりながら「ねない!」と返答する。
私が帰ってきたところを見れば飛び上がって喜びながら「ぱぱおかえい!!」と言う。
私がパソコンに向かっていると、当然のように膝に乗っかってきて、モニターを指差して「あんぱんまんみたいの」とのたまう。ひどい時には、所有者である私に大して「ろいてー(どいて)」などと要求する。

時折「○○(長男の名前)、ねてうの(寝てるの)?」といった二語文を使う時もあり、言ったことが通じて、それにマッチした言葉が帰ってきた時のドヤ顔には相当ドヤドヤしいものがある。

で、長男の時にも思ったのだが、改めて認識した。


「言葉で意思疎通が出来るようになる」というのは、凄いことだ。


当たり前だが、言葉を形作る音節と、その意味の間に直接の相関はない。「ことば」というのは、単に「こ」と「と」と「ば」という、三つの文字の連続に過ぎない。

それが、二、三年程の経験をつむことによって、「意味」と結びつき、言語になる。


単なる「文字の連続」が、意味を持つものだと理解出来るまでに、一体どれだけの反復が必要なのか。

そして、その「意味を持った言葉」によって、自分の考え、自分の欲求、自分の感情を表現できるようになり、それが相手に通じるというのは、一体どれだけの喜びなのか。



長男も、長女も、次女も、カタコトが使えるようになってから、本当に嬉々として喋りまくるようになった。単に「泣いたら察してもらえる」ではなく、「自分の言葉が通じる」ということが嬉しくて嬉しくて仕方がないのだろう。

ゼロからのスタート、単に「何となく聞こえる音」が、言葉となり、更に自分がその言葉を口に出来るようになる、というのは、文字通り世界が広がる体験に違いない。言葉を覚えたばかりの子供以上に、「言葉を使う」ということに喜びを見出している人種を、私は他に知らない。

一言で言うと、「言葉を使えない状態」から、「言葉を使えるようになった状態」へのパワーアップ感、レベルアップ感が物凄い。ドラクエIIで言うと、さっきまでこんぼう装備だったのがいきなりいなづまのけんを装備したようなものである。


で。


これは単に気分だけの問題なのだが、子供たちを見ていて、子供たちの視点を共有することは、結構ある。端的に言うと、「子供の気分になる」ということになる。


思った。「言葉すげえ」と。「言いたいこと書けるのすげえ」と。


私自身、ほんの30年ちょっと前にようやく日本語が使えるようになったのだと思うと、今、こうして、「自分の言いたいことを言葉で表現できている」というのは、本当に奇跡的なことなんだと思う。我々は、言葉の貴重さ、言葉の凄さをもっと認識するべきだ。言葉やばい。


ということで、子供の気分になった私は、改めて「言葉が使える」という状態のパワーアップ感に感動したし、言葉を大事に使っていきたいと思った訳である。

今日言いたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 22:06 | Comment(4) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

6歳の長男とお風呂に入りながら話したこと、ないし「調べなければ分からないこと」と「考えれば分かること」


帰り際に次女が深く寝入ったので、奥様が次女を寝かしつけている間に、私が長男6歳・長女2歳をお風呂に入れた。わしゃわしゃと体を洗わせ、わしゃわしゃと頭を洗い、容赦なくざばーーっと流した後湯船に放り込むだけの簡単なお仕事である。

その時長男と話した内容が、妙に刺さったというか、えらく真剣に聞いていたので、割と適したたとえ話だったかなーと思い、記録代わりに会話のログを残しておく。

発端は、太陽や木星の大きさについて話していたことだった。

息子「ねーパパ、もくせいって一番大きいの?太陽より大きいの?」
私「地球よりずっと大きいけど、太陽程は大きくないよ。太陽は、太陽系で一番大きい」
息子「太陽は木星の何倍くらい大きいの?千倍くらい?」
私「んーー、球の大きさ(半径のつもりで言っている)だけなら10倍とかそれくらいじゃないのかな?重さはもっとずっと太陽の方が重いけど」
息子「大きいのと重いのは違うの?どれくらい重いの?」
私「ちゃんと覚えてないや。後で調べてあげる」
息子「えー、考えてよーー

ここで、私はちょっと口を止めた。一つには、息子さんがまだ「調べないと分からないこと」と「考えれば分かること」の区別が厳密についていないなあ、ということに気付いたからである。

言うまでもないが、「木星と太陽の重量比」というものは純然たる知識であって、知っているかどうかの問題であり、考えて分かるようなもんではない。ただ、「知識を得ること」「知識を元に考えること」は勿論重要であって、その大事さをついでに教えられないかなあ、とこの時思った。


私「んーー。太陽が木星よりどれくらい重いかは、調べないと分からない。考えれば分かることと、調べないと分からないことがあるんだよ」
息子「えー。どんなこと?」
私「さっき、(息子の名前)、二つのこと言ったよな。「大きいのと重いのは違うの?」と、「どれくらい重いの?」って」
息子「うん」
私「このスポンジ持ってごらん。軽いよな」
息子「うん」
私「(スポンジにお湯を吸わせる)大きさ変わんないけどさっきより重いよな」
息子「うん」
私「何でかな?」
息子「んー、スポンジの中にお湯がたくさん入ってるから」
私「うん、良く分かったな。そういうこと。「お湯を吸ったスポンジが重くなる」っていうのは、実際やってみないとわからないこと。これが、「調べないと分からないこと」。で、「何でそうなるのかな?」とか、「大きいのと重いのは違うの?」っていうのは、調べたことを元に、「考えれば分かること」」
息子「そっかあ」
私「この前さ、(息子の名前)、パパに教えてくれたよな?線路のレールって鉄で出来てるんだよな?」
息子「うん。本にそう書いてあったんだよ」
私「(まあ正確には鋼かも知らんが)「線路が何で出来てるか?」ってのは、本で調べないとわかんないことだよな?」
息子「うん」
私「じゃあ、線路は何で鉄で出来てるんだろ?」
息子「んんーー?」
私「鉄ってどんな?」
息子「んーー。黒くて、かたい。あっ。かたくて丈夫だから?」
私「うん、良く出来た。一番の理由は、硬くて頑丈で、傷つきにくいから。これは、「調べたことを元に、考えれば分かること」」
息子「うん、うん」
私「こうやって、「色んなことを調べて、調べたことを元に考える」ことが勉強っていうんだよ」
息子「そっかー」
私「ただ、調べたことを元に考えるのは凄く大事なんだけど、考えたことが間違ってたり、調べたことがちょっとおかしかったりすることもあるから、考えた後また調べることも大事。もっと色々分かって、考えも変わったりする」
息子「線路のことも?」
私「多分ね」

だいぶはしょっているが、大体の会話は上記のような感じだった。この後、息子さんがお風呂の中で、おもちゃの電車を喜々として走らせている横で、長女は魚のおもちゃをがじがじとかじっていた。

で、今私は、息子さんが寝付いた後線路について調べて、炭素鋼の圧延材について知ったりしている。日々勉強である。


私が教えたかったことは、三つだけ。

・世の中には、「調べないと分からないこと」と「調べたことを元に、考えれば分かること」がある。
・大事なのは、「調べる」と「考える」両方やることと、考えた後も調べることをやめないこと。どっちかだけではダメ。
・そういうことを上手くやるための練習が勉強。



こういうことが、少しずつでも息子の中に根付いてくれればいいなー、と思い、私的な記録として残しておく。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 22:47 | Comment(27) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月06日

電車の中で泣く赤ちゃんについての当たり前のお話



下記を読んで考えたこと。最終的には当たり前の話に着地しますんで暇な人だけどうぞ。


Togetter:子供が車内で騒いでいたら 舌打ちぐらいはしてもいい?


そもそもこの話自体「ケースバイケースじゃね?」の一言で終わりっちゃ終わりなんですが、若干の一般化を試みてみます。


最初に自分の立場を明示しておくと、私は三児の父親です。上の長男は6歳で、だいぶ分別もつきましたので、公共の場に限らず注意されたら静かに出来ますし、派手にすっころびでもしなければ泣くこともありません。

一方、下の二人は双子の姉妹で、両方2歳になってひと月くらい経った辺りです。こちらは泣きます。割と頻繁にぎゃんぎゃん泣きます。


まず前提として。個人差もあると思うんですが、少なくとも2歳から3歳くらいまでの乳幼児は、どんなにいい子だろうが、何をどうやっても泣く時は泣きます。

2歳くらいまでの乳児というのは、ようやく社会性めいたものが芽生え始めたばかりの頃であって、まだ半分方は動物です。この頃の子どもに躾なんざ出来たもんじゃありませんし、怒ってもあやしてもわめいても泣き落としても泣く時ゃ泣きます。一応、1歳半も過ぎると多少気をそらすことは出来るようになりますが、それにも限界はあります。


それと、もう一方の前提として、乳幼児を連れて公共の場に出ない、というのは不可能です。まあ、「飛行機に乗せない」とか、葬祭に連れていかないくらいのことはまだ出来ると思います(これも状況次第かも知れません)が、相当環境に恵まれない限り、現代日本の一般的な家庭において、「電車に乗らない」「外食しない」「人が多いところに出かけない」レベルの縛りを2,3年以上に渡って設けるのはちょっと現実的ではありません。

いや、勿論家庭次第だとは思いますよ。物凄く経済的に恵まれた家庭なら、ベビーシッターを雇ったり毎回保育園に乳児を預けたり出来るのかも知れません。地域によっては、自家用車でかなりの移動機会をカバー出来るのかも知れません。ただ、これは、正負いずれにしても「家庭次第」の話でして、不可抗力を完全に取っ払うことは文字通り不可能です。


早い話、「親がどんなに頑張っても、公共の場での子供の泣き声を完全に防ぐことはほぼ不可能」ということなんです。


話はその前提を置いた上でのことだと思うんですね。

例えば上記リンクもそうなんですが、「公共の場の子育て」の話については、親・子供寄りの立場にせよ、その逆の立場にせよ、聊か極端に走りがちだなーという印象を以前から持っておりました。両陣営とも、どうも「仮想敵」を作り過ぎなような気がするんですね。


邪推なんですが、反・親子陣営のみなさんは、例えばこんな仮想敵を想定されることが多いようにお見受けします。


・ぎゃんぎゃん泣いたり大騒ぎする子供(しかも小学生くらい)をよそにぺちゃぺちゃ喋ったりスマホで遊んだり、とにかく「子持ち」という立場に胡坐をかいて公共への迷惑を屁とも思わない親

いや、実際そういう親御さんいるみたいですよね。たまに。そういう人が非難の対象になるのは致し方ないところだと思うんです。

ただ、そういう一部の親が一般化されて、子連れクラスタ全体への非難になるのは、いやいやまあまあ、気持ちは分かりますがそんな親御さんばっかじゃないですしちょっと待ってくださいよ、と思わないでもないです。


一方、親子陣営に近い立ち位置の人にも、こういう極端な仮想敵設定をしている人はいます。

「ベビーカーで電車に乗るな」という傲慢さ!それなら他人が産んだ子に将来の年金や社会福祉の負担を押しつけるな

これも正直、「いやまあ落ち着け」という言葉をかけたくなる論調ですよね。こちらは、完全に「子育てに一切理解を示さず、ただひたすらに不寛容な独身男性・独身女性」を仮想敵に据えているように見受けられます。


ただこれ、大変面白みのない着地点で申し訳ないんですが、「そんな極端なケースばっかりじゃないんだから、まあ落ち着いてお互いちょっとずつ配慮しましょうよ」で済むし、済ませるべき案件じゃないかと思うんですよ。


私自身は親の立場なので、「まま、お騒がせして申し訳ない限りなんですが、こちらもなるべく努力はしますんで、多少お目こぼし頂けると大変ありがたいです」というスタンスです。実際のところ、上で挙げている「仮想敵」に類する親なんてほんの一握りで、あとの大部分の親はそんな感じなんじゃないかと私は思いますが。


で、親子陣営でない立ち位置の方々も、大多数は寛容でいてくださっていると思うんですよね。いや、内心は迷惑だなーとお思いなのではないかとは思いますが、殆どの方はそういった感情を表には出されませんし、一方、うちの乳児どもがご機嫌よく笑いかけたり手を振ったりしたら手を振りかえしてくださる方ばっかりです。


そういった方々には大変感謝をしつつ、勿論こちらはご迷惑をかけている立場ですので、泣き声に不快感を覚えている方には、ひたすら「どうもすみません」「なんとかご理解を」と言う他ありません。泣く子を静かにさせようと勿論努力はしますが、不快感を紛らわす為に舌打ちの一つもしたい方がいれば、そりゃまあ仕方ないんじゃないかとは思います。それで不快感を受けたとしてもまあ公平な話でしょう。

要するに、「お互い気遣いが出来るといいけど、気遣いは強制するもんでもないよね」というだけの、そりゃもう当然の話なんですよ。



ということでまあ、言いたいことをまとめると、

・親は出来るだけ泣く子をあやす努力はするべきです
・ただ、限界や不可抗力もある、ということは知って頂けると大変ありがたいです
・ちょっとずつお互い歩み寄れるといいですよね。


と、大変あたりさわりのない内容に着地するわけです。どうしましょうね。


あと、全然関係ないですが、男の子が騒いだ時には、耳元で「しっ…!まずい、静かにするんだ…!」「囲まれている…!いいか、気づかない振りをしろ…!父さんから離れるな…!」と突如サスペンス劇場遊びの世界にすると、6歳児くらいならマジ覿面に静かになるんで大変お勧めです。

今日書きたいことはこれくらい。
posted by しんざき at 21:04 | Comment(41) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月05日

「子どもにゲームを買ってあげてはいけない理由」自体が親の甘えじゃないだろうか

子どもにゲームを買ってあげると何がまずいかなー、と考えるわけです。


で、例えば

「ゲームに夢中になって、お友達や親とのコミュニケーション不全になる」とか、
「ゲームをやり過ぎて目が悪くなる」とか、
「ゲームをやり過ぎて勉強時間や運動の時間が足りなくなる」とか、


そういう話がよく出るわけですよね。

その度に思うのが、いや、そこは叱れよと。やり過ぎだったら止めろよ、と。


確かにいますよね。ファミレスでとか、食事中とか、本来なら家族でコミュニケーションをとるべきタイミングで、ずーっとゲームしてる子とか。私自身も、そりゃないんじゃないの、と思うことはあります。

別にゲームに限った話じゃないんですが、子どもは楽しいことだったら当然夢中になりますよね。ちょっと夢中になると、自分では歯止めなんてききゃあしないわけです。

けど、同じくゲームに限らず、「今はそれをやるべきタイミングじゃない」というのは当然あるわけで。要するにTPOを教えなくちゃいけないわけですが、そんなもん当然の親の役目、当然の親の仕事でしょうと。


「それをやるべきじゃないタイミング」を子どもが認識出来なかったら、親は「いや、今はそれやっちゃ駄目だよ」と教えてあげなくてはいけません。それでも子どもが言うことを聞かなかったらきちんと叱ってあげなくてはいけません。それは、親子の間の当然のコミュニケーションのひとつです。

そういったコミュニケーションがとれないんだったら、ゲームを買ってあげようが買ってあげまいが、親子の間が上手くいくわきゃありません

つまり、

「親子のコミュニケーションの妨げになるから」

という理由で子どもにゲームを買って上げないこと自体、

「親子のコミュニケーションを放棄している」

宣言と同等のことなんじゃないか
、と私は思ってしまうわけなんです。


子どもとたくさんコミュニケーションをとらなくてはいけない、子どもにたくさん注目してあげないといけない、ちゃんと躾をしなくちゃいけない、なんてこたぁ当然というか、言うまでもないことなんですよ。そこに、ゲームを買う買わないなんて何の関係もないんです。

そこさえ抑えておいてあげれば、ゲームだけでなく世の中色々面白いこともある、なんてことは当然のように子どもは学び取るとも思うんですよね。少なくとも私はそうでした。


一応自分の立場を明示しておきますと。私は子どもの頃からのゲーム好きでして、一時期はゲームの合間に人生を送っているようなこともありましたが、それでも一応はまっとうな人生を送っているつもりですし、今現在それなりの家庭を築いてもいるつもりです。

顧みると、「TPOをわきまえろ」ということについては、何度も何度も親に言われていたとは思うんですよね。そこは、同じことを自分の子どもにも教えてあげないといけない、と。

そして、今私の息子さんは6歳でして、ドミニオンと言うカードゲームだけでなく、ぼちぼち電源ゲームにも興味を示し出してはおります。まだ、飽くまで「父親と同じ遊びをしたい」という欲求に立脚したものではあるようですが。


特に子どもが興味を示さなければやらせるつもりもありませんでしたが、やりたがるのであれば、いつかは親と同じ世界を見せてあげよう、と。そこがすげー面白い世界なんだと教えてあげよう、と。けれど、そこだけが面白いわけではなく、他にも面白いことは勿論あるんだよ、ということも教えてあげよう、と。たくさん、たくさん一緒に遊ぼう、と。


私はそんな風に考えています。


あ、ただ、基本的に攻略にヒントは出さないようにしておこうとは思いますが。理不尽ゲーに苦労するのもまたゲーマー人生なので。ロマンシアとかドラゴンズレアとか。あと、対戦ゲームでは基本的にかなり高い壁になってあげなくてはいけないとも思っております。マッスルタッグマッチとか。



ちなみに、「ゲームは時間の無駄」的な議論については、「そすか、じゃあ時間の無駄じゃないことだけやって人生過ごしてください」の一言で終わりですので、特段他に言うことはありません。

今日書きたいことは以上です。

-------------------
(追記 12:22)
一応、念のために書いておきたいのですが。

私は、「子どもにゲームを買ってあげるべき」とは言っていませんし、「ゲームを買ってあげてはいけない理由は存在しない」とも言っていません。

ただ、「ゲームを買ってあげてはいけない理由」として標題に挙げたようなものは親の甘えなんじゃないの、ということだけが私の意見です。(あとロマンシアの難易度が頭おかしいこと)よろしくお願いいたします。
posted by しんざき at 08:41 | Comment(22) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月17日

木登りのコツについて子供に教えている話と、撤退戦の重要さと、いつか何かと結びつくような言葉を渡してあげたいなあという話

上の子(6歳)に教えていることの中に、「木や高いところに登る時は、降り方を良く考えてから登れ」ということがある。


私は基本的にバカなのであって、つまり高いところが大好きだし風邪もあまりひかない。これは昔からの話である。

で、高いところが大好きである故に、高いところに登るのも大体好きだ。木に登ったり、フェンスに登ったり、公衆便所の天井に登ったり、そこから落っこちて頭を10針程縫ったりする。頻繁にする。

多分、幼少時から数えると3桁近くは、高いところから落っこちる経験をしていると思う。一種のエキスパートである。


これは、そんな私の単なる経験則なのだが、


「ケガをするのは、登る時より降りる時」というものがある。


大体において、「登っている途中」という状態は案外危なくないものなのだ。危険は、これ以上登れなくなった時、ないし、一通り満足してさあ降りるか、という時に発生する。

登った時には使えた足場に、どういう訳か足が届かなかったりする。あるいは、角度の問題で足場自体が使えなかったりする。さあ大変だ。どうやって降りよう。


大体、ケガはそういう時に発生する。たとえば無理して飛び降りる時であるとか。目算を無視して降りようとして足を滑らせたりであるとか。

そんな時、「事前に降り方を考えているかどうか」というのはかなり重要だ。下から見て、「ああ、降りる時はああ降りればいいな」という目算を立てておく。事前のシミュレートがあるかないかは天地の差だ。多少でも考えを及ばせておくと、若干無理がある場所だったとしても、なんだかんだで無傷で降りられたりする。


ケガをするのは子供の仕事の一部みたいなもんであって、命に関わらなかったり、後にひかないようなケガであったら別段ケガしてもかまわんだろうとは思うわけなのだが、まあそれでも、心構えの一環としては、「木や高いところに登る時は、降り方を良く考えてから登れ」ということを教えている。

長男は元々慎重派であることもあって、一応それを頭に入れて遊んでいるように見える。


で。最近思ったのだが、これは結構普遍的な思考法かも知れない。


万事、「登っている時」「攻めている時」というのは、なんだかんだでそれ程足場を気にしなくてもガンガン進めたりする。隙が発生するのはふと立ち止まった時、ないし後戻りをする時であり、その時「戻る時はどうするか」というのを事前に考えているかどうか、ということでリスクはだいぶ違う。


勿論、「撤退戦の重要さ」というのは一般的な話だ。ただまあ、こどもの頃から「撤退」のことまで考えなくてもいいとは思うので、そこまで細かく説明する気はないが、いつか、「ああ、そういえば、親父がこんなこと言ってたなあ」というような形で、実際の経験と結びついてくれるといいんじゃないかなあ、と思う次第である。


頭の中のどこかに残っていて、ふとした拍子に実際の思考と繋がる。そんな種のような言葉を、こどもに残してあげられればいいなあ。

私は、そんな風に思っている。

posted by しんざき at 22:14 | Comment(3) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月08日

長男を特別扱いしたい

改めて思ったこと。

先日、奥様の所用によって、私が一人で子ども達を見る機会が2回くらいあった。メンバー構成は、長男(6歳)、長女(1歳10ヵ月)、次女(1歳10ヵ月)の3人パーティーである。

長女次女は、暫く前から歩いたり走りまわったりといった自立行動型突進幼女にランクアップしており、かなり行動が凶悪化している。

取り敢えず引っ張れるものは引っ張り落とす。箱はひっくり返す。絵本は「おぶちぇー(読んで、の意)」と言いながら私の顔面に叩きつける。重くなってきたおむつはズボンごと脱いで下半身すっ裸になる。私が寝転がっていると、取り敢えず腹の上に乗ってびょんびょん飛んでは私の腹にヒップアタックをくらわす。私が「ぐぇ」とか声を出すと、振り返って罪のない顔で「らいじょうぶー?」と言う。最近覚えた言葉だ。

自分でダメージを与えて、自分で「らいじょうぶー?」と心配する。これを、通常世の中ではマッチポンプと呼ぶ。

ということで、流石の私も割と長女次女にかかりっきりになった。

で、この間息子さんは慣れたもので、そこまで私に「遊んでー」と言うでもなく、プラレールで遊んだりレゴで遊んだりトムとジェリーのDVDを観たりしていたのだが。

この時私は、いかん、と思った。これは息子さんに甘えている、と。

「ごめんなー、(長男の名前)。パパなかなかあそべなくてー」
「うん、さびしいけど、しかたないねー」

ここで、「寂しい」けど「仕方ない」というのを両方言語化出来るところは、息子さんの凄いところだ、と思う。とはいえ、「さびしい」という感情が厳然と存在することに変わりはない。私と奥様両方いれば、どちらかが(主に私が)長男につきっきりになることも出来るが、普段、私が仕事中などそうもいかないだろう。


以前から、「下に双子がいる」「親が双子にかかりきりになる」ということによる、長男の寂しさ、不公平感というものについてはかなり気にしていた。だから、色々な工夫をして、「長男びいき」をしているつもりではいた。


・「子どもリーダー」という役職を作って、「(息子さんの名前)はこどもリーダーだからなー」「流石こどもリーダーだなあ」と、ことあるごとに強調したり、褒めてあげたりする。

・「にいにを見習うんだぞー?」「ほら、にいにはちゃんとやってるよー」と、長男を持ち上げる形で長女次女に言い聞かせる。

・リビングに長男エリアを作る。そこには柵を設けて、長女次女は入れないようにする。プラレールとか作って遊んでいる。

・機会を作って一対一で遊びにいく。銭湯にいったり、サイクリングにいったり、電車旅にいったり、ゲーム会にいったり。

・甘えられる時は甘えさせてあげる。あと、じいじばあばの家にたまに泊まりに行かせて、目いっぱい甘えさせてもらう。


こんな感じで、ある程度「特別扱い」することで、少しでも普段の寂しさ、不公平感というものを薄めてあげられればいいなあ、と改めて思った。

実際、正しい、というか適しているのかはよく分からない。何はともあれ、「自分も愛されているんだ」という認識だけは、息子さんがずっと失わないで済むようにしてあげたいなあ、と心から思う。


今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 21:48 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月16日

ここ数日の次女との戦いについて

例によって、可視化も多少は有用かと思い、備忘録も兼ねて書いておく。

長男、6歳。長女次女、共に1歳10ヶ月。

長女次女の方は、最近だいぶ言葉を理解するようになり、もうこちらが言っていることは結構理解出来ている様子。一方、喋れる言葉はまだ限定されており、「あっち」「あんぱんまん」「おみずちょらい(お水ちょうだい)」「だっこじゃーじゃー(抱っこして、の意味らしい)」「うん」「やら(やだ、らしい)」「ないない」「おっぱい」など、使いこなせる言葉は数語。

もう長男の方は、付きっ切りでなくても勝手に寝られるようになって久しいのだが、長女次女はまだおっぱいを飲みながらでないと寝られない年である。ダブル授乳でおとなしく飲めない時は、片方がおっぱいを飲んで、もう片方はうろちょろしている、という状況になる。やはり、双子育児だとどうしてもこういう状況が避けられない。

先月くらいまで、長女がおっぱいを飲んで寝付かされている間、次女の面倒を私が見る、という状況が多かった。その際、暗い部屋にいると次女が泣くので、長女長男にうるさいか、と思って私の部屋に次女を避難させて、アンパンマンの動画を見せたりすることもあった。


で、最近これがちょっと問題になってきた。どうも、「長女が寝ている間にパパに遊んでもらえる」という状況に味をしめてしまったらしく、本来自分が寝る時間でも、何かにつけて私に連れ出してもらおうとするようになったのである。暗い部屋で抱っこしていると、「おみずちょらい」と泣く。連れ出してお水を飲ませたら、今度は「あんぱんまん」と動画をねだる。(ちなみに、私がいない時はあっさり寝るらしい)

どうも、このままだと悪い習慣になってしまいそうな予感がした。

本来、9時にも近くなったら部屋を暗くして寝る時間なのであり、お布団から出ていい時間ではない。まだルールを理解出来る年かは微妙だが、「夜にはおとなしく寝るんだよ」という習慣をつける為に、次女が泣いても部屋から連れ出さないことに決めた。「おみずちょらい」といったら勿論お水は与えるが、その後は泣いても抱っこしたまま外に出さない。長女も長男も寝ている・ないし寝ようとしている状況なので、これは結構根性は要る。とはいえ、しつけ、習慣付けを始めるのに早すぎる時期ということはない、と思う。

ただ、ちょっと迷うのが、次女の泣きが「パパとあそびたい」ということからきていること。次女はなかなかのパパ大好きっこで、パパがいない時は割とおとなしいらしい。

気をつけていること。

・泣いても、黙って寝かせようとするのではなく、「暗くなったら寝る時間であること」「遊びの時間ではないこと」「寝たら大きくなれること」を言い聞かせる。
・外に連れ出さない代わり、抱っこは密にしてあげる。放っておかれているわけではない、ということを意識させる。
・最終的には、「おっぱい飲んで寝よう」と説得する。

まだ始めて数日なのでどんな結果になるかは分からないが、今日のところは、20分くらい泣いた後おっぱいを飲んで寝てくれた。暫くは根性入れて次女との戦いに臨もうと思う。

今日書きたいことはそれくらい。
posted by しんざき at 21:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

息子さんが偉いなーと思ったことと、大人に対する信頼感のお話。


本当に本当にちょっとしたことなのだが、書いておきたくなったので書く。ちょっとしたことの割りに長いので、興味がある方だけどうぞ。


今日の夕食時の話である。近所のから揚げ専門店でから揚げを買ってきて、ゆで野菜やらサラダやら卵豆腐やら、バラエティ豊かな食卓であった。私は次女に、奥様は長女に、主に食事を与えていた。

長女次女はまだ一歳半である為、手づかみでがつがつ食べることも頻繁なのだが、その時はたまたま、何かの拍子に長男(6歳)が手を汚して、その後椅子の背で手を拭いたように見えた。すかさず奥様が「こーら」と言った。

「椅子で手拭いちゃ駄目でしょ?」

息子さんは、違うよー、と言った。後ろのタオルを取ろうとしただけだよ、と。

誤魔化している感じはなかったので、本人的に、椅子で手を拭こうという意図がないのは事実だったのだろう。

行動の意図と行動の結果が合致しないことはままある。で、行動の意図が良くないことである時はそれについて叱るべきだし、行動の結果が良くない時はそう明示してあげるべきだ。二つがワンセットでない場合、私も奥様もそれ程叱らない。

手を拭くつもりがないのは分かったけれど、椅子が汚れちゃうから気をつけな、ということで特に何事もなくその場は収まった。

その時私は、長男が偉いなーと思ったのでそう言った。確かこんな風な言い方をしたと思う。


「パパもママも、間違った叱り方をしちゃうことはあるから、その時ちゃんと「自分がどうするつもりだった」ってことが言えるのは偉いなあ」


ニュアンスとしてはそんな感じだ。

私は、「自分の考えはこうだ」とか、「自分の意図はこういうものだったんだ」と主張するのは大事なことだ、と思っている。私や奥様は、「意図と結果が両方叱るべきだった時」強く叱る傾向があると思うので、子供の意図を勘違いした場合、妥当な叱り方が出来ない。そういう時、子供が意図をちゃんと主張してくれることは良いことだし、とても大事なことだ。そう思っている。


ただ、その後、別の場所でこんな意見も聞いた。

「例えば学校とかでは、そういう時「言い訳するな」って怒られそうだし、そういう時の対処も教えた方がいいんじゃあ」であるとか、別の人からは「言い訳ばっかり上手になるんじゃあ」であるとか。

なるほど、そういう側面もあるのかも知れない。実際、話が通じない場面も世の中にはあるし、話が通じない人も世の中にはいる。時には意図について話さないことが良い結果を生むこともあるかも知れないし、言い訳をしない人が高く評価される場合もある。


ただ、それを考慮に入れた上で、私自身は上記の方針を変えることはなさそうだ。


大人は、少なくとも親は、まず第一に「世界に対する、大人に対する信頼感」というものを育ててあげないといけない、と思う。この場合、大事なのは、「話せば分かってくれるんだ」という信頼感だ。

確かに、「言い訳するな!」と怒る人、というのは実際にいる。話が通じない場面、話が通じない人とめぐり合うことはある。ただ、スタート地点から「言い訳するな!」と拒絶され続ければ、子供は反論しても無駄だと思って押し黙るだけになってしまい、大人に対しての信頼感の欠如に行き着いてしまう。言ってみれば、「意図を分かってもらうことに対する諦め」を学習してしまう、と思う。

それは多分、良くないことだ。


理不尽な場面に対応するためには、理不尽でない場面もあるんだ、という認識が必要なんじゃないか、と思っている。例えば学校で、例えば他の場面で、「言い訳するな!」と怒られることはあるかも知れないが、それに対応する方法は、多分その時学べばいい。少なくとも親は、「大人相手でも、ちゃんと話せば話は通じるんだ」ということを認識させてあげることに注力するべきなんじゃないか、と私は思った。


だから私は、子供の「言い訳」をしっかり聞き続けようと思う。その上で、子供の意図がやっぱり叱るべきものなのであれば、その時はきっちり叱る。


そんな具合で、ちょっとしたことをきっかけに、我が家での私の方針を再確認した。妥当な方針かどうかは分からないが、まあ息子さんなら、多少間違ったことを親がしても軌道修正してくれるだろう。


今日考えたことはそれくらい。
posted by しんざき at 22:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月29日

「怖くてもがんばれ!」と「怖かったら無理しなくていいよ」のバランスについて


なんだか二件続けて育児関連の記事ですが、不倒城はレトロゲームブログです。レトロゲームブログです。


今頭を悩ませていること。

長男(6歳)は比較的慎重派であって、知らない状況、危ないかも知れない遊具などには尻込みすることが多い。

先日熱海にいった際、ホテルのプールにウォータースライダー(といっても大型プールのような本格的なものではなく、20秒くらいで終わるもの)があった為、それを息子さんにも勧めてみたら、「こわいからやりたくない」という。

他のプール遊びもしながら、彼自身スライダーが気になるようでちらちら見るのだが、勧めてみるとその度に「いや」という返事が返ってくる。

勿論、純粋まじりっけ無しに「怖い!」「嫌だ!やりたくない!」だったらそんなもんそもそも勧めないのだが、遊びながらちょっとずつ聞いてみると、どうも息子さん、幾つか複雑な感情を抱いているらしい。

・「やってみたら楽しいかも」「やってみたいかも」という感情もある。
・パパ(私)がウォータースライダーやジェットコースター大好き人間なので、自分もパパのようにやってみたい。(ないし、パパに負けたくない?)
・ディズニーランドのビッグサンダーマウンテンも、怖かったけど乗ってみたら楽しかった。
・けど怖い。
・もしかすると、怖がりな自分がイヤだ?(不明。なんとなくの推測)


というように、複数の感情の葛藤があるようなのだ。

以前幼稚園への通園を嫌がった時にあったように、彼はストレスを抱えると「お腹が痛い」と言い出すことがある。この時も、周囲は無理にスライダーを勧めていないにも関わらず、息子さんは一時期腹痛を訴えたりもして、葛藤がストレスになってしまっていたことが窺えた。

結局この時は、ウォータースライダーのことは忘れて他のプールで一緒に遊び、最終的には「楽しかったーー!」で終わったのだが、親としては何点か考えあぐねる部分がある。

箇条書きにしてみると、

・この手のことをあまりコンプレックスにさせたくないし、トラウマになったりしたらもっと困る。だから無理はさせたくない。
・しかし、「最初は怖かったけど、やってみたら楽しかった」「意外と平気だった」という成功体験もさせてあげたい。実際、慣れたらジェットコースターもウォータースライダーも大して怖いもんではないし、楽しいものだ。上述したが、ディズニーではこのパターンで成功した。
・「怖いこと、イヤなことに立ち向かう、乗り越える」という機会もたくさん与えてあげたい。
・幼稚園の時もそうだったが、多少無理をしてでも実行しないと、そもそも葛藤が解決出来ない。
・とはいえ、現実問題、怖いもんは怖いんだからしょうがない。


ウォータースライダーの話は飽くまで一例であって、こういう場面は他にも色々ある。

実際のところ、「怖くても頑張れ!ちょっとは無理しよう!」と背中を押してあげることも必要なのだろうし、「怖いなら無理しなくていいよ!」と安心させてあげることも、ケースバイケースで必要なのだろう


難しいのはバランスだ。


もう少し大きくなったら平気な顔して出来るようになるんじゃあ、と思う一方、チャンスを与えてあげなかったらいつまでも怖いままでは、という疑念もある。どれくらいのバランスが最適なのか、頭を巡らせるばかりである。

尚、息子さんはジェットコースター・ウォータースライダーのような「こわい遊具」以外については、イヤなこと、やりたくないことにも頑張って取り組めたりするので、、挑戦者魂、克己心がない訳では全くない、ということは付け加えておきたい。


なにはともあれ旅行自体は非常に楽しかったので、また子供たちを色んな場所に連れてってあげたいなあと思う次第。


ちなみに我が家では、上記の通り私がジェットコースター・フリーフォール・ウォータースライダー大好き人間であり、遊園地で状況が許せばほぼジェットコースターオンリーで回る。一方、奥様は乗り物酔いをすることもあり、コーヒーカップすら忌避するジェットコースター大嫌い人間である。ウォータースライダーは一度乗ってみたが、「速くって怖かったので目つぶって寝ころがった」ってそれは余計加速するだけである。

昔の東京マリンには、最大斜度60°とかいう気が狂ったような超楽しいウォータースライダーがあったのだが、東京マリンごとなくなってしまって残念極まりない。


今日考えたことはこれくらい。
posted by しんざき at 18:33 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月25日

うちの奥さんの、子供への読み聞かせ方がすごい


スクールカウンセラー時代に身に着けたスキルかなんかなんだろうか。

長男(6歳)は本が大好きで、最近は自分一人でも読むが、昔から読み聞かせをねだることが多い。「この本読んでーー」と持ってきて、こちらが何をしていようとお構いなく太ももにどすんと座ってくる。最近は、下の双子も「ちゃー」とか「ぴゃー」とか言いながら絵本を持ってきては、なんだか分からない言語で読み聞かせを要求するようになった。

本が好きなのはいいことだと思うので、読み聞かせをねだられたら、可能な限り腰をすえて読んであげるようにしている。この頃は、「だれも知らない小さな国」のような、ある程度長い児童小説も、ちょっとずつ辛抱強く聞けるようになってきた。私がいるときは私がねだられることが多いが、奥様が読み聞かせをすることも結構ある。

で、今日、奥様が「星からおちた小さな人」を読み聞かせをしているのを横で聞いていて、色々凄いと思った。(飽くまで私視点で凄いと思ったのであって、一般的にどうなのかは知らない。やっている人には普通のことなのかも知れない)


脇で聞いていて、凄いなーと思ったこと。

・静かに聴かせようとしない。むしろ子供の無駄口を誘発する。
・聞いている途中で子供が何か思いついたら、一度ぴったり中断して全部喋らせる。本中の単語を聞いて「○○みたいだねー?」と息子さんが口を挟んだら、「え、○○ってなに?」というように。
・話の途中で、ちょこちょこわき道に逸れる。すぐ本線に戻るのかと思いきや、ぐんぐんそこから発展する。
・この「○○さん」って誰のことだろうねー?とか、この○○って何だろうねー?とか、ちょくちょく自分からわき道に逸れ、本の中の言葉について子供に振る。それについて子供が答えると、そこからまた話を膨らませる。
・最後に、「今のお話、どんな場所だったー?」という様な感じで、お話全体を振り返る。



一言で言うと、「聞かせる」んじゃなくて「会話」になってる。お話を聞かせること、お話の内容を伝えること自体が目的じゃなくて、お話を起点に、子供とそのお話について会話することが目的。

確かにそうだ。子供への、本の読み聞かせというのは本来こうあるべきなのかも知れない。幼稚園で、小学校で、図書館の読み聞かせコーナーで、こういう聞かせ方が出来る人はいた。

ただ、たとえば児童館なんかで他の親御さんの聞かせ方など聞いていると、どちらかというと「お話の内容を伝える」ことがメインの人の方が多かった、ような気はする。私も、どちらかというとそうかも知れない。

「お話の内容を伝える」ことが目的なので、わき道は飽くまでわき道であって、基本、話が逸れたら子供の注意を元に戻そうとする。「うん、○○だねー。じゃあ続き聞こうか?」とか。「ほら、ちょっと静かに聞きなー?」という様に。

奥様のやり方は違った。逸れたら基本的に逸れっぱなしであり、そのまま息子との会話に遷移する。その会話が一通り落ち着いたら、やっと元に戻る。会話と、それに伴う思考がメインなのである。

5,6歳くらいの子が相手であれば、少なくともうちの息子さんなんかが相手であれば、そういった「お話を起点にしたお話」を入り口にして、自分でも思考を口にして、子供の思考と絡めてあげた方が、結果的にはお話が頭に入るのではあるまいか


やっている人にとっては、例えば私の奥様にとっては、多分上記は当たり前の話なのだろう。ただ、私自身にとっては案外頭になかったやり方であり、そういったやり方をする人がすぐ身内にいたということはそこそこ驚きであった為、ちょっと書き記しておきたくなった。


一対少数だから出来るやり方、というようなところはあるのだろう。例えば、小学校のクラスの授業でこういう聞かせ方はちょっとやりにくそうだ。ただ、聞かせ方としてはとても面白いと思ったので、暫くは私も真似してみようと思った。


今日考えたことはこれくらい。
posted by しんざき at 21:32 | Comment(31) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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