2013年07月18日
「最近ぼくあんまり褒めてもらってないよ?」
と、奥様が、恐らくお手伝いをした後の長男(6歳)に言われた、らしい。子供たちを寝付かせた後、夕飯中に奥様から聞いた。
一歳半の双子の世話に手一杯で、両親とも確かに長男に向ける視線の密度が薄くなっていたかも知れない。「ごめんね、○○くんなんでも自分で出来ちゃうからつい当たり前になっちゃってたねー」と奥様が褒めてあげると、「うれしいーー!」と凄く素直に喜んでいた、という話。
この話を聞いて、いくつか考えたこと。身内自慢のようで恐縮なのだが、私的な記録として。
・言わないとなかなか伝わらないから、自分の気持ち、自分がしたいこと、してもらいたいことを素直に言葉にしよう、というのは口すっぱく言っていたので、その効果が出ていそうなことはとても良いことだと思う。
・褒められて嬉しい、という気持ちを素直に表に出せることも、同じくとても良いことだと思う。双子たちにもそう教えてあげたい。
・親としても、手伝ってくれるということにちゃんと感謝してあげたいし、褒めてあげたい。
・時と場合によっては、「ぼく頑張ってるよ!褒めて!」という気持ちを抑制した方がいい時も、勿論ある。けどそれは、少なくとも6歳の今の時点で考える必要はない、と思う。多分。
・一方、「褒めて!」と言われた時、同じくストレートに褒め言葉を口に出来た奥様も流石だと思う。褒め慣れていないと、案外タイミングを逃してしまい勝ちになりそうだ。
・褒めるのも、褒められるのも、慣れていないと案外難しい。家庭内に限らず、すっと褒めて、すっと褒められるように心がけたいなーと思う。
・何はともあれ、素直に育っている様子なのは何より。このまま、自分と、周囲の世界が好きな子に育ってくれるよう、親としても協力してあげたい。
今日考えたことはそれくらい。
2013年03月28日
ドミニオンが初歩の算数習得とか、初等教育に有用なんじゃないかという話
うちの長男の話です。
長男(5歳)は最近、補助輪無しで乗れるようになった自転車を喜んで乗り倒したり、レゴ教室に行きたがったり、お友達とおままごとをしたりと色々遊んでいますが、相変わらずドミニオンにははまっています。休日自宅で空いた時間が出来ると、必ず「ぱぱドミニオンしよう!」とせがんできます。
で。流れとしましては、自宅にあったドミニオンマニアックスの「ドミニオンクイズ」という文字列を長男(5歳)が目にとめて、「ぱぱこれ解いて!」などと言い始めまして。簡単な方を何問か説明してあげたら、自分も解いてみたくなったようでして。
で、ドミマニのクイズは流石に5歳児には難しいので、もっと簡単に「こういう手札で、市場を使ったら金貨を引いてきました。何が買えるでしょう?」とか問題を出してあげたら喜んで指折り数えて考えるようになりました。
そうこうしていたら、なんだか最近、「30えんあれば植民地2まいと属州1まい買えるねーー!」とか、ドミニオンで「たくさんお金を出した時のお買いもの状況」を色々妄想するようになった訳です。いやまあ、「お買いもの増えてないと植民地1枚しか買えないよ?」と厳しく指導した訳なんですが。
ただこれ、冷静に考えると30 = (11 * 2) + 8という計算を頭の中でやってるということで、ドミニオン効果なかなかハイレベルなんじゃないかと思いました。
ということで、ドミニオンが教育に良いように思える点というのは、
・ゲーム中、非常に頻繁に、初歩の足し算・掛け算の計算をすることになる。結果、初歩の算数が自然と身につく
・ルールの習得、ルールを遵守するという練習が出来る
・「相手の番をきちんと待つ」という練習が出来る
・先読み、戦術的思考の練習が出来る
なかなかいいんじゃないかと思う訳です。
特に、初歩的な計算の繰り返しについては、毎回お金カードを指折り数えるだけでも「自発的に算数に取り組む」という習慣づけになるんじゃないかなーと。一回の対戦で下手すると数十回の計算をすることになる訳で、下手な算数ドリルよりも反復効果は高いかも知れません。
ルールの順守とか相手の番を待つという点は、勿論ドミニオンに限らず、将棋でもオセロでも、ターン制のゲームは皆同じ練習が出来ます。ドミニオンの場合、遊ぶ人数が変わったり、サプライによって1ターンの長さが変わったりするので、そういう点では色々変化があっていいかも知れません。
先読み、戦術思考については、「ああすると、こうなる」「ああするよりこうする方が勝てそう」というのを考える練習が出来る訳で、これも将棋や囲碁にも通じるものがあり、いい頭の運動になると思います。
何よりも、これら全て「完全に自発的に、むしろ親にせがんでやっている」というのが良い点で、面白い遊びというものはホント食いつきがいいですし、その遊びに関することは自分からどんどん吸収しようとするんですね。考えてみると、私も昔、ゲームや漫画絡みで随分色々頭の運動もしたし、色んな知識を吸収したような気がします。
とにかく「やりたい遊びを自分からやる」「その中から色んなものを身につける」というのは、なかなか他に代えがたいいい経験だし、邪魔せず伸ばしてあげたいなあ、と思う訳です。いや、勿論外での運動もさせてあげないとですが。
一方、ドミニオンが教育に良くないように思える点というのは、
・ハーレムとか拷問人とか変な言葉覚える
この点だけはちょっとどうかと思ったり思わなかったりする訳です。幼稚園で「ハーレムってカードがねー!」とか言ってないだろうな息子さん。
今日書きたいことはこれくらいです。
2013年02月26日
「今日、幼稚園で何があった?」という質問が息子に嫌がられていた理由
長男(幼稚園年中)と話していた際、ふと気付いたこと。よく考えてみればごく当然のことだったのだが、今まではっきりと認識出来ていなかったので、ちょっと書きとめておきたくなった。
子供たちや奥様と一緒に、風呂に入った時の話である。
我が家の風呂は、比較的早風呂である。とはいえ、風呂に入りながらも色々と話す。
息子さんとばしゃばしゃお湯をいじりながら、私はなんとはなしに、「今日、幼稚園で何があったー?」と聞いた。この時、彼は「もう、そんなにいろいろ聞かないでよー」という嫌がり方をしたのである。
ん、色々?
私が聞いたのは、「幼稚園でどんなことが起きたか」という一点だけであり、別に「色々な質問」をした訳ではない。そして、この質問をする前にしていた話は、お風呂で遊ぶおもちゃについての話であり、特段何か質問をした訳でもない。
実は、この質問に対して息子さんが難色を示すのは、初めてのことではない。いつもは「えー、わかんないよー」とか「覚えてないよー」といった難色の示し方をする為、私が話の方向性を変えて、息子さんと先生や友達の間で起きたことの話を聞くのが定型パターンだ。
この展開について深く考えていなかった私は、彼が単純に「幼稚園の話」をするのがイヤなのかなーなどと思っていたのだが、ふと奥様が横から口を挟んだ一言で謎が解けた。
奥様はこういった。
「開かれた質問だから答えにくいんじゃない?」
臨床心理士であり、元スクールカウンセラーである奥様は、するっと心理学用語を使うことがある。開かれた質問というのは、話者に自由な応答を促す、具体的な方向性が定められていない質問、のことである筈だ。
この時ようやく、息子さんが「いろいろ聞かないでよ」と言った意味が分かった。
彼の頭の中では、「幼稚園で起きたこと」というのは、「色々」としか形容しようがない、非常に雑然とした状態で蓄積されている。それは、友達と遊んだ記憶であり、先生のお話を聞いた記憶であり、歌を歌った記憶であり、お弁当を食べた記憶だ。
「幼稚園で起きたこと」というのはそれら全てを包括した言葉であり、一言で「幼稚園で起きたこと」と聞かれても、彼にとっては「色々起きたこと」について一遍に聞かれているようにしか受け取ることが出来ない、ということだったのだ。いや、多分、だが。
大人は、例えば「今日会社であったこと」という漠然としたテーマについて、自分で適当に一つを抽出して、適当に四捨五入した内容を話すことが出来る。それは、相手が求めているのが単なるイメージ的な総括であり、「会社であった全て」について聞きたい訳ではない、ということが分かっているからだ。
しかし、子供はその前提を承知していない。「幼稚園であったこと」というのは、基本的には、幼稚園で起きた全て、を指す。その為、「色々あった」ということをどう説明していいか分からず、途方に暮れてしまっていた、というのが彼の難色の正体だったのではないか、と私は思ったのである。
そこで私が、質問を「幼稚園で、休み時間になった時どんな遊びをしたか」に変えると、息子さんは喜んで、幼稚園で今流行っている「どろけい」について話し出してくれた。曰く、遊ぶ人数は場合によって違う。先生がどろぼうの基地を地面に書いてくれる。先生が一緒に混じることもある。今日は警察で何人捕まえた。とても楽しかった。
質問を具体的な方向に変えること自体はいつものことだが、今までその理由は「なんとなく」だった。ただ、私は今まで重大な勘違いをしており、彼は決して「幼稚園について話すのがイヤ」だった訳ではなかったのである。具体的に、こちらが何を知りたいのか提示してあげれば、彼にはそれに応じて伝えたいことが溢れる程あったのである。
これを今までしっかり認識していなかったことについては、反省することしきりである。
「質問をする時は具体的に」というのは、インタビューやコミュニケーションの基礎のキの一つである。そして、それは決して大人同士だけの話ではなく、子供にも、あるいは子供にこそ、大人以上にポイントを明確にした質問をする必要がある、ということを、私は今日学んだ。
もちろん、時には「開かれた質問」が有用な場合もあるだろうし、それが子供の表現力の形成に必要な場面もあるだろうが、「今自分が具体的な質問をしていない」という自覚なしに開かれた質問をするのは、それは単なる大人側の錯誤だ。
上記のような展開を受けて、私は当面「幼稚園で何があった?」とは聞かないことにした。同じく、彼が小学校にいってからも、「今日学校で何があった?」とはなるべく聞かないようにしよう、と思う。
自分がどんなテーマについて聞きたいのか、ちゃんと考えよう。で、そのテーマから、息子さんが言いたいことをどんどん引っ張り出そう。大人の側だけが、毎度「今日あったこと」という漠然としたテーマを子供に押し付けて楽をするのはやめよう。
私に関する限り、そんな風に思った。
子供たちや奥様と一緒に、風呂に入った時の話である。
我が家の風呂は、比較的早風呂である。とはいえ、風呂に入りながらも色々と話す。
息子さんとばしゃばしゃお湯をいじりながら、私はなんとはなしに、「今日、幼稚園で何があったー?」と聞いた。この時、彼は「もう、そんなにいろいろ聞かないでよー」という嫌がり方をしたのである。
ん、色々?
私が聞いたのは、「幼稚園でどんなことが起きたか」という一点だけであり、別に「色々な質問」をした訳ではない。そして、この質問をする前にしていた話は、お風呂で遊ぶおもちゃについての話であり、特段何か質問をした訳でもない。
実は、この質問に対して息子さんが難色を示すのは、初めてのことではない。いつもは「えー、わかんないよー」とか「覚えてないよー」といった難色の示し方をする為、私が話の方向性を変えて、息子さんと先生や友達の間で起きたことの話を聞くのが定型パターンだ。
この展開について深く考えていなかった私は、彼が単純に「幼稚園の話」をするのがイヤなのかなーなどと思っていたのだが、ふと奥様が横から口を挟んだ一言で謎が解けた。
奥様はこういった。
「開かれた質問だから答えにくいんじゃない?」
臨床心理士であり、元スクールカウンセラーである奥様は、するっと心理学用語を使うことがある。開かれた質問というのは、話者に自由な応答を促す、具体的な方向性が定められていない質問、のことである筈だ。
この時ようやく、息子さんが「いろいろ聞かないでよ」と言った意味が分かった。
彼の頭の中では、「幼稚園で起きたこと」というのは、「色々」としか形容しようがない、非常に雑然とした状態で蓄積されている。それは、友達と遊んだ記憶であり、先生のお話を聞いた記憶であり、歌を歌った記憶であり、お弁当を食べた記憶だ。
「幼稚園で起きたこと」というのはそれら全てを包括した言葉であり、一言で「幼稚園で起きたこと」と聞かれても、彼にとっては「色々起きたこと」について一遍に聞かれているようにしか受け取ることが出来ない、ということだったのだ。いや、多分、だが。
大人は、例えば「今日会社であったこと」という漠然としたテーマについて、自分で適当に一つを抽出して、適当に四捨五入した内容を話すことが出来る。それは、相手が求めているのが単なるイメージ的な総括であり、「会社であった全て」について聞きたい訳ではない、ということが分かっているからだ。
しかし、子供はその前提を承知していない。「幼稚園であったこと」というのは、基本的には、幼稚園で起きた全て、を指す。その為、「色々あった」ということをどう説明していいか分からず、途方に暮れてしまっていた、というのが彼の難色の正体だったのではないか、と私は思ったのである。
そこで私が、質問を「幼稚園で、休み時間になった時どんな遊びをしたか」に変えると、息子さんは喜んで、幼稚園で今流行っている「どろけい」について話し出してくれた。曰く、遊ぶ人数は場合によって違う。先生がどろぼうの基地を地面に書いてくれる。先生が一緒に混じることもある。今日は警察で何人捕まえた。とても楽しかった。
質問を具体的な方向に変えること自体はいつものことだが、今までその理由は「なんとなく」だった。ただ、私は今まで重大な勘違いをしており、彼は決して「幼稚園について話すのがイヤ」だった訳ではなかったのである。具体的に、こちらが何を知りたいのか提示してあげれば、彼にはそれに応じて伝えたいことが溢れる程あったのである。
これを今までしっかり認識していなかったことについては、反省することしきりである。
「質問をする時は具体的に」というのは、インタビューやコミュニケーションの基礎のキの一つである。そして、それは決して大人同士だけの話ではなく、子供にも、あるいは子供にこそ、大人以上にポイントを明確にした質問をする必要がある、ということを、私は今日学んだ。
もちろん、時には「開かれた質問」が有用な場合もあるだろうし、それが子供の表現力の形成に必要な場面もあるだろうが、「今自分が具体的な質問をしていない」という自覚なしに開かれた質問をするのは、それは単なる大人側の錯誤だ。
上記のような展開を受けて、私は当面「幼稚園で何があった?」とは聞かないことにした。同じく、彼が小学校にいってからも、「今日学校で何があった?」とはなるべく聞かないようにしよう、と思う。
自分がどんなテーマについて聞きたいのか、ちゃんと考えよう。で、そのテーマから、息子さんが言いたいことをどんどん引っ張り出そう。大人の側だけが、毎度「今日あったこと」という漠然としたテーマを子供に押し付けて楽をするのはやめよう。
私に関する限り、そんな風に思った。
2012年11月28日
今日の長女と次女観察記録 12/11/28
長女と次女は双子である。12月初め産まれなので、間もなく一歳になる。大変元気である。
寝返りが打てるようになったのが5月頃だったと思う。
ハイハイが出来るようになったのが多分7月か8月くらいで、最近はかなり驚くべき速度でハイハイをするし、ドヤ顔でつかまり立ちもするし、私が三階でくつろいでいるとぴゃーぴゃー言いながら姉妹で階段を上ってきてパパのぼりを始めるし、離乳食をあげようとすると手から奪い取って自分で食べようとするし、私が寝転がっていると笑顔で突進してきて当然の権利のようにすね毛を抜こうとしてくる。
ぼちぼちお互いの存在を意識し始めたようで、以前はどうも「なんかたまに私のおもちゃがどっかになくなるな」という程度の、言ってみれば自然現象のように意識していた風であるところ、最近はお互いの目が合っているのをたびたび見かけるようになった。
主に奥様の御蔭で、健やかに育ってくれていると思う。「こどもリーダー」を任命した息子さんと、仲の良い三人兄妹になってくれるといいなあ、と思う。
で、長女と次女は双子とはいえ、既にそれぞれ結構性格が異なり、対比してみると色々と面白い。観察記をつけてみたくなった。
現在の長女と次女の性格の違い。
長女の特徴:基本的に内弁慶。普段は気が強いが、知らない場所、知らない人など想定外・知識外の状況に弱いらしく、知らない遊び場で抱っこから下されたりすると泣くことがある。気が強く見える割に、万事、割と臆病で慎重である。
抱っこされるのが好きで、抱っこをねだって泣くことが頻繁にあるし、下ろされると泣くことも頻繁にある。降りたがることは滅多にない。
愛想はそんなによくなく、外だとあまり笑わない、と思っていたが、最近は結構笑うようになった。
水に非常に強いらしく、風呂で髪を洗う時、頭からざばーーっとお湯をかけても全く泣かないし、湯船ではすぐ潜水したがる。目を離すと怖い。泳ぎがうまいのかも知れない。
次女の特徴:基本的にマイペースでのんびり屋。想定外の状況には長女よりは強く、のんびり屋に見える割に結構向こう見ずであり、初めて訪れた公園でも、地面に下ろされるとガンガン芝生の上をセメたりする。家の階段を上り始めたのも次女が先だった。ただ、場所によっては泣く。
抱っこされたい時もあるが、それ程抱っこされることは好きではないらしく、下ろせと主張することも多い。足をたんたん振るのが自己主張らしい。
非常に愛想がよく、何か面白いことがあるとにへーっと笑うし、目が合うと外さない。
水には弱いらしく、頭にお湯をかけられるとヒーンと泣くし、湯船に入ると抱っこしてきて離さない。この辺は私の血を感じる。
長女と次女を観察するのも、息子さんを観察するのに負けず劣らず面白いので、追っていろいろ書いてみたいと思う。
今日はこの辺で。
2012年11月19日
息子の読書傾向の変遷について、メモ書き。
息子さんは5歳と4か月になる。大体、8時から9時くらいの間には寝る。
そして、夜寝る前に、息子さんに絵本を読み聞かせたりお話をしたりする。
大体、息子さんが寝る前のスケジュールは以下のように決まっている。
夕飯を食べる→夕飯の間に沸かしておいたお風呂に入る(この前後に私が帰宅することが多い)→歯を磨いて頭を乾かす(この間自分でパジャマを着る)→布団部屋に移動する→息子さんが事前に選んでおいた絵本を(私か奥様が)読み聴かせる→電気を消す→私が「総武線のそうちゃん」のお話をする→寝る。
私がどの時点で帰宅するかの違いはあるが、この順番が前後することは滅多にない。
で、息子さんには「お気に入りの絵本」があって、お気に入りの絵本は何度もリクエストするが、そこまででもない絵本が複数回リクエストされることは、同じく滅多にない。
ここ数か月のお気に入りの絵本は、大体下記のようなラインナップである。
ベンジーのふねのたび
「ベッドのしたになにがいる?」
もぐらバス
さむがりやのサンタ
こんやはどんなゆめをみる?
きょうりゅうのかいかた
ちなみに、この中で「さむがりやのサンタ」は、私が子供のころお気に入りだったから、という理由で何度か勧めている内に好きになった、という側面が強いかも知れない。「きょうりゅうのかいかた」は、男の子と女の子の兄妹が、大きい動物を飼いたいからということでお父さんにねだったら恐竜を連れてきた、というなかなか豪快な本である。知らない人はご一読ありたい。
最近は「図鑑もの」も好むようになってきた。なるほどkidsシリーズとか。特に電車ものが好き。
なるほどkids
一方、3歳頃は、下記のような絵本を好んでいた、と記憶している。最近はあまりリクエストしない。
ぐりとぐら
14ひきのあさごはん
ぎょうれつぎょうれつ
でんしゃがゴットン
しろくまちゃんぱんかいに
こうしてみると、ある程度傾向が見えてくるような気がする。
以前好んでいた絵本は、基本的には「日常生活の描写」をしたものがメインだった。多少のイベントは勿論あるが、大筋は散歩をしたり、電車に乗ったり、買い物に行ったり、そういう内容が主だ。そこまで大きな起伏はない。
それに対して、最近読む絵本の傾向としては、
・なにかしら突拍子もない/非日常的なイベントが発生する
・なにかしら知識が身につく
のいずれかの傾向が強い気がする。
これは、「日常」というものが本人の感覚にも定着して、日常ものよりも非日常ものの刺激を好むようになった、あるいは知的好奇心が強くなってきたということではないかなーと推測するわけであるが、今後も傾向の変化を記録すると面白いかもと思ったので、随所で記録していきたい。
ちなみに、最近は「長い話の分割読み聞かせ」もだいぶ好きになってきたようで、三冊くらい、長い話をクリアした。
プラス・トリックをとりもどせ (スーパーばあちゃん)
モモちゃんとアカネちゃんの本
だれも知らない小さな国
ただ、この中で「だれも知らない小さな国」は聊か長く、かつ途中の展開が平坦だったらしく、まだいまいち入り込めない様子だった。しかし、前二作には結構のめり込んでいた。そろそろマガーク探偵団くらいはいけるかも知れない。
その内、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」辺りを読ませてあげたいのだが、あれは流石に読み聞かせはキツいので、まずは一人で長い本が読めるようになるところかなー。
いずれにしても、読み聞かせの傾向の変化にも子供の成長を感じたりするこの頃なわけでした。
今日はこの辺で。
そして、夜寝る前に、息子さんに絵本を読み聞かせたりお話をしたりする。
大体、息子さんが寝る前のスケジュールは以下のように決まっている。
夕飯を食べる→夕飯の間に沸かしておいたお風呂に入る(この前後に私が帰宅することが多い)→歯を磨いて頭を乾かす(この間自分でパジャマを着る)→布団部屋に移動する→息子さんが事前に選んでおいた絵本を(私か奥様が)読み聴かせる→電気を消す→私が「総武線のそうちゃん」のお話をする→寝る。
私がどの時点で帰宅するかの違いはあるが、この順番が前後することは滅多にない。
で、息子さんには「お気に入りの絵本」があって、お気に入りの絵本は何度もリクエストするが、そこまででもない絵本が複数回リクエストされることは、同じく滅多にない。
ここ数か月のお気に入りの絵本は、大体下記のようなラインナップである。
ベンジーのふねのたび
「ベッドのしたになにがいる?」
もぐらバス
さむがりやのサンタ
こんやはどんなゆめをみる?
きょうりゅうのかいかた
ちなみに、この中で「さむがりやのサンタ」は、私が子供のころお気に入りだったから、という理由で何度か勧めている内に好きになった、という側面が強いかも知れない。「きょうりゅうのかいかた」は、男の子と女の子の兄妹が、大きい動物を飼いたいからということでお父さんにねだったら恐竜を連れてきた、というなかなか豪快な本である。知らない人はご一読ありたい。
最近は「図鑑もの」も好むようになってきた。なるほどkidsシリーズとか。特に電車ものが好き。
なるほどkids
一方、3歳頃は、下記のような絵本を好んでいた、と記憶している。最近はあまりリクエストしない。
ぐりとぐら
14ひきのあさごはん
ぎょうれつぎょうれつ
でんしゃがゴットン
しろくまちゃんぱんかいに
こうしてみると、ある程度傾向が見えてくるような気がする。
以前好んでいた絵本は、基本的には「日常生活の描写」をしたものがメインだった。多少のイベントは勿論あるが、大筋は散歩をしたり、電車に乗ったり、買い物に行ったり、そういう内容が主だ。そこまで大きな起伏はない。
それに対して、最近読む絵本の傾向としては、
・なにかしら突拍子もない/非日常的なイベントが発生する
・なにかしら知識が身につく
のいずれかの傾向が強い気がする。
これは、「日常」というものが本人の感覚にも定着して、日常ものよりも非日常ものの刺激を好むようになった、あるいは知的好奇心が強くなってきたということではないかなーと推測するわけであるが、今後も傾向の変化を記録すると面白いかもと思ったので、随所で記録していきたい。
ちなみに、最近は「長い話の分割読み聞かせ」もだいぶ好きになってきたようで、三冊くらい、長い話をクリアした。
プラス・トリックをとりもどせ (スーパーばあちゃん)
モモちゃんとアカネちゃんの本
だれも知らない小さな国
ただ、この中で「だれも知らない小さな国」は聊か長く、かつ途中の展開が平坦だったらしく、まだいまいち入り込めない様子だった。しかし、前二作には結構のめり込んでいた。そろそろマガーク探偵団くらいはいけるかも知れない。
その内、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」辺りを読ませてあげたいのだが、あれは流石に読み聞かせはキツいので、まずは一人で長い本が読めるようになるところかなー。
いずれにしても、読み聞かせの傾向の変化にも子供の成長を感じたりするこの頃なわけでした。
今日はこの辺で。
2012年11月16日
子どもにプレゼントをあげる時に考えている三つのこと、あるいは仮面ライダーウィザードの指輪について。
クリスマスプレゼントについて考える時期になってきた。
1.「何かを欲しい」と強く望む心、というものを持ち続けて欲しい。
2.「欲しい何かを手に入れる為に頑張る」という気持ちを持って欲しい。
3.「欲しいものを手に入れた時のうれしい気持ち、感謝する気持ち」を持ち続けて欲しい。
子どもにプレゼントをあげる時、上のようなことを考える。
友達同士であれば、プレゼントをあげる時に裏であれこれ考えるのもあまりほめられた話ではないかも知れないが、私は親なので、やはり「それが子供に及ぼす影響」を考えない訳にはいかない。
「何かが欲しい」という欲求は、究極的には「生きる力」とイコールだと思う。だから、純粋に「何かが欲しい」と望む力は持ち続けていって欲しい。これが最初だ。
「何かが欲しい」という気持ちをプラスにする為に、「その何かを手に入れる為に頑張る」体験をさせてあげたいし、「何かを手に入れた時に嬉しい」という気持ちを育んで欲しい。これは多分、大人になってもずっと、必要なことであり続けるんじゃないかと思う。「欲しいものは何でも買ってあげる」という方針がダメなのは、多分その為だ。
で、実際に、その「何かが欲しい」という気持ちにこたえる機会に、親は一体どういうスタンスをとるべきなのか。色々と考えているのだが、なかなか結論は出ない。結論は出ないままに、手探りで進めている。多分これは、どんな親でも同じなのではないだろうか。
一応、うちでは、「子どもに何かを買ってあげる」ことについて、こんな方針でいる。
・おもちゃ等は、基本的には誕生日、クリスマス、お祭りのような記念日にだけ買ってあげる。「何か欲しい!」と言われたら、「そういう日まで、その欲しい!っていう気持ちをとっとくんだよ!」と言う。
・本や書籍は、「欲しい!」と言われたら、上記に関わらずなるべく買ってあげる。私が本好きだし、親に同じように本を買ってもらって育った為である。
・それとは別に、何か「凄く頑張った」という時には、そのご褒美として何か買ってあげる時はある。
・「ありがとう」はどんな時でも忘れない。
妥当な方針なのかどうかは、正直よく分からない。ただ、今のところ、息子さんは何か買ってもらった時物凄く全身全霊で喜ぶし、買ってもらったおもちゃは飽きずに大事に遊ぶし、買ってもらえないといつまでも地団太ということもないし、基本的には健やかに育ってくれているのではないか、と思う。何か間違えたとしても、それを成長の過程で克服してくれることもあるだろう。
また、上記とは別に、祖父や祖母が子供におもちゃを買うことはあるし、それはまあ黙認というか、ありがたいことではあるので何も言っていない。親は甘えてばかりいられる存在ではない為、時には祖父母で甘え分を補給することもあるだろう。そうした存在がいるのはありがたいことである。
で。それとはあまり関係なく、ずっと「おもちゃといえばプラレール」と電車一辺倒だった息子さんが、最近ついに「仮面ライダーウィザードの指輪が欲しい」と言い出した。
おもちゃ販売、特に最近の仮面ライダーものおもちゃの販促の熾烈さについては認識していた為、事前に調べてみたが、これがまたなかなかのものだ。
仮面ライダーウィザードリング
・指輪には「変身指輪」と「魔法指輪」があり、それぞれ複数の種類がある
・それとは別に変身ベルトというものもあり、セットで遊ぶようになっている
・指輪にも、ガチャガチャで出るもの、お店で買うもの、ばんそうこうなど色々ある
なんかすげーなあ。販促からの要請で番組が作られるのは昔からよくあることだが、その辺も結構徹底しているということなのだろう。親御さんや大きなお友達による争奪戦も結構熾烈、という話だ。
値段はともかくとして、この年から収集欲に目覚められても若干困る。今のところ息子さんは、プラレールに比べてそれ程深刻にウィザード指輪が欲しい訳ではないようだし、指輪ならなんでもよさそうな雰囲気もあるが、状況は慎重に進行していこうと思う次第である。
今日はこの辺で。
2012年11月09日
子育てにおいて、「真剣に考えて、真剣に褒めること」が大事なんじゃないか、と思った。
Togetterで、こんなまとめをみた。
間違ってほめた子供は、けっこう大変なことになる
先に断っておく必要があるのだが、私の読み方と、ここで論じられているmedtoolzさんの言いたいことは、若干ずれていると思う。これは多分、スコープの違いが原因だ。
medtoolzさんは、絵画についての技術論やセミナー、コーチングなどに触れられている点から読み取る限り、多分子供といってもある程度大きな、例えば小学生以上の子が、技術を身につける際に気をつけなくてはいけないこと、といったスコープで語られているのではないかと思う。おそらく「親にとっての子育て」に限らない話の筈だ。
で、私の子供はまだ5歳と1歳未満であって、まだ技術習得について考えられる地点までたどり着いていない。その為、私のスコープは「技術習得やコーチングの前の、親にとっての「褒めて伸ばす」という育て方について」という多少偏った視点になる。
それを前提にした上で、私が思う「褒める時気をつけるべきこと」について考えてみたい。
子供にとって「褒められる」という体験が非常に大きなものであることは間違いないと思うし、特に小さな子供は「褒められた」→「これは「いいこと」なんだ」という学習をする傾向が強い、と思う。少なくともうちの子はそうである。
となると、本来だったらあまり褒められたことではない行為を、間違って褒めてしまったりすると、間違った内容を成功体験として強く心に残してしまい、これが後々尾を引いたりする。これは多分普遍的な話だ。なんでもかんでも褒めればいいってもんじゃない、というのは全くその通りだ。「あ、これでいいんだ」と思って欲しい点を、的確に褒めないといけない。
そこから考えると、重要なことは
・「それは本当に褒めるべきことなのか真剣に考えること」
・「褒めるとして、「どこを褒めているのか」をきちんと伝えること」
なのではあるまいか。これを厳密に行わなくてはいけないとしたら、確かに「褒めるコスト」というものは非常に大きい。単純にコストを重視すると、「褒めるよりも叱った方が安定」という話も頷ける。
もっとも、教育ではなく親子の子育てという話であれば、関係は基本的に一対一なのであるし、コストを気にして向き合うような関係性であってはいけないだろう、と思う。私は、少なくとも、「偉い」と思ったらそれを褒めたい。
真剣に考えて、真剣に褒めること。その為に、真剣に向き合うこと。少なくとも親と子の一対一の関係であれば、これがとてもとても重要になることは論を俟たないだろう。真剣に褒める為には、真剣に向き合わなくてはいけない。なんでもかんでもホイホイ褒めればいいというものではない。これは肝に銘じておきたいと思う。
一方、
小さい子は、まだ「正解を得る」以前に、「正解にたどり着く為にどんな努力をすればいいか」ということが分からない。「無駄な努力」が無駄であるかどうか以前に、まず「努力をすることの意味」が身についていない。
その為、「とりあえず努力をしてみる」という一つのスタンス、「コストをかけてみる」という一つのスタンスの存在は、最初に教えてあげないといけない。そのコストをかけるべきかかけないべきか、判断する前の問題なのだ。
だから、たとえ正解を出せなかったとしても、正解を出すために努力をしたとすれば、「その努力について」は褒めてあげるべきだ、と私は思う。より良い努力のし方を考える、つまり「無駄な努力と有益な努力の区別」をするのは、努力をすることの意味を知った後でいい。その為にも「「どこを褒めているのか」をきちんと伝えること」」は重要だと思う。
繰り返しになるが、medtoolzさんの言いたいことととは多分ずれていると思う。その上で、上記まとめを読んだ私が考えたことは、こんな風にまとめることが出来る。
・褒めるという行為が子供に及ぼす影響は非常に大きい。
・その為、なんでもかんでも褒めていたら、子供は本来成功体験ではないものまで成功体験として記憶してしまう。これはあんまりよろしくない。
・だから、親が子供を褒める時は、真剣に考えて、真剣に褒めなくてはいけない。
今後とも、息子さんや娘さんズと向き合うときは、真剣さを忘れないようにしたい、と思った。
今日はこれくらいで。
間違ってほめた子供は、けっこう大変なことになる
先に断っておく必要があるのだが、私の読み方と、ここで論じられているmedtoolzさんの言いたいことは、若干ずれていると思う。これは多分、スコープの違いが原因だ。
medtoolzさんは、絵画についての技術論やセミナー、コーチングなどに触れられている点から読み取る限り、多分子供といってもある程度大きな、例えば小学生以上の子が、技術を身につける際に気をつけなくてはいけないこと、といったスコープで語られているのではないかと思う。おそらく「親にとっての子育て」に限らない話の筈だ。
で、私の子供はまだ5歳と1歳未満であって、まだ技術習得について考えられる地点までたどり着いていない。その為、私のスコープは「技術習得やコーチングの前の、親にとっての「褒めて伸ばす」という育て方について」という多少偏った視点になる。
それを前提にした上で、私が思う「褒める時気をつけるべきこと」について考えてみたい。
成果に到達できなかった人に対して、その過程をほめてしまうと失敗するし、正しい工程を踏まずに、たまたまいい成果に到達できた人をほめてしまっても、同様に失敗する。「正しくほめる」ことは、だからほんとうに難しいし、全行程見張ってないといけないから恐ろしく面倒くさい
しつけの歩留まりみたいなので論じるのなら、親御さんがそこまで教育にリソースを割けず、なおかつ教育というものに対する知識や経験を欠いているのなら、ほめるよりも叱って叩くやり方をしたほうが、実は子供にとって安全なんじゃないかと思える多分これは、「本来「成功」というべきではないものを褒めてしまうことで、誤った成功体験をさせてしまうことによる弊害」という話に集約出来るんじゃないかなあ、と思った。
子供にとって「褒められる」という体験が非常に大きなものであることは間違いないと思うし、特に小さな子供は「褒められた」→「これは「いいこと」なんだ」という学習をする傾向が強い、と思う。少なくともうちの子はそうである。
となると、本来だったらあまり褒められたことではない行為を、間違って褒めてしまったりすると、間違った内容を成功体験として強く心に残してしまい、これが後々尾を引いたりする。これは多分普遍的な話だ。なんでもかんでも褒めればいいってもんじゃない、というのは全くその通りだ。「あ、これでいいんだ」と思って欲しい点を、的確に褒めないといけない。
そこから考えると、重要なことは
・「それは本当に褒めるべきことなのか真剣に考えること」
・「褒めるとして、「どこを褒めているのか」をきちんと伝えること」
なのではあるまいか。これを厳密に行わなくてはいけないとしたら、確かに「褒めるコスト」というものは非常に大きい。単純にコストを重視すると、「褒めるよりも叱った方が安定」という話も頷ける。
もっとも、教育ではなく親子の子育てという話であれば、関係は基本的に一対一なのであるし、コストを気にして向き合うような関係性であってはいけないだろう、と思う。私は、少なくとも、「偉い」と思ったらそれを褒めたい。
真剣に考えて、真剣に褒めること。その為に、真剣に向き合うこと。少なくとも親と子の一対一の関係であれば、これがとてもとても重要になることは論を俟たないだろう。真剣に褒める為には、真剣に向き合わなくてはいけない。なんでもかんでもホイホイ褒めればいいというものではない。これは肝に銘じておきたいと思う。
一方、
たぶん「正解のあるものをほめてはいけない」という原則があるんだと思う。正解が決まっているものには必ず序列が生まれて、ほめることと正解を否定することとがトレードオフの関係になってしまう。子育てのフィールドに限定して言えば、これは必ずしもそうとも言い切れないかも、と感じた。
小さい子は、まだ「正解を得る」以前に、「正解にたどり着く為にどんな努力をすればいいか」ということが分からない。「無駄な努力」が無駄であるかどうか以前に、まず「努力をすることの意味」が身についていない。
その為、「とりあえず努力をしてみる」という一つのスタンス、「コストをかけてみる」という一つのスタンスの存在は、最初に教えてあげないといけない。そのコストをかけるべきかかけないべきか、判断する前の問題なのだ。
だから、たとえ正解を出せなかったとしても、正解を出すために努力をしたとすれば、「その努力について」は褒めてあげるべきだ、と私は思う。より良い努力のし方を考える、つまり「無駄な努力と有益な努力の区別」をするのは、努力をすることの意味を知った後でいい。その為にも「「どこを褒めているのか」をきちんと伝えること」」は重要だと思う。
繰り返しになるが、medtoolzさんの言いたいことととは多分ずれていると思う。その上で、上記まとめを読んだ私が考えたことは、こんな風にまとめることが出来る。
・褒めるという行為が子供に及ぼす影響は非常に大きい。
・その為、なんでもかんでも褒めていたら、子供は本来成功体験ではないものまで成功体験として記憶してしまう。これはあんまりよろしくない。
・だから、親が子供を褒める時は、真剣に考えて、真剣に褒めなくてはいけない。
今後とも、息子さんや娘さんズと向き合うときは、真剣さを忘れないようにしたい、と思った。
今日はこれくらいで。
2012年09月10日
最近の対息子さん事案について、奥様と私で方針が違ったこと 12/09/10
例によって、可視化も有用かも知れないと思い、書く。
息子さん、5歳。幼稚園年中さん。9月からすっかり年長さんになるつもりだったらしいのだが、まだ年中さんだと聞いてきょとんとしていたらしい。
で、最近、息子さんが若干「出来ないかも知れないこと」を怖がる、ないし嫌がる傾向が出てきたように思う。
例えば、公園のアスレチック等で、以前は登れたジャングルジムに「怖いー」といって登らない。高所恐怖症の気配もあるかも知れないが。
同じく公園の雲梯など、出来ないかも知れない遊具に挑戦することを嫌がる。
例えば、補助輪無し自転車の練習を途中で嫌がってやめてしまう。
例えば、私とお相撲をとって、以前は一度負けても何度もかかってきたのに、一度負けると他の遊びに行ってしまう。
一過性のものかも知れないが、「成功体験だろうが失敗体験だろうが、とにかく色々体験させてあげたい」という親のスタンスからすると、いまひとつ心配だ。
以前から、性格的に「負けず嫌いで慎重」というところはあった。その辺はどちらかというと私より奥様に似ている気がする。ちなみに、長女も性格的にはそちら寄りの様に思い、一方次女はどちらかというと私に似ていて無謀っぽい。
勿論、無理やりやらせても改善する問題ではないことは分かっている。高所恐怖症なんか、こじらせて本格的なトラウマになってしまったら大変だ。自転車の練習なんかは、嫌だったとしても無理に頑張らなくてはいけない時もあるかも知れないが、それにしても時期は選んだ方がよかろう。
で、これについて私と奥様のスタンスは割と違っていて、一言で言うと私は「励ましつつ見守る」奥様は「あの手この手で焚き付ける」スタンスを取り始めている。
私の方は、基本的に「やってみたら意外と簡単かもよー?やってみたらー?」と声をかけつつ、息子さんが嫌がったら無理には薦めない。まあ気分が変わるのを待つか、という方針。この前は、これで怖がっていたアスレチックをクリア出来ていた。
奥様の方は、基本的に叱咤勉励。厳しいことは言わないが、「やっちゃえやっちゃえー」という感じでけしかける。息子さんも割とノルことがあって、この前はこれで私に向かって相撲の連戦を挑み、私も意外と苦労させられた。手加減はしないが。
どちらが刺さるかはよくわからないし、夫婦で方針を一致させないといけない、ということもないだろうから、暫くはこのまま、息子さんと遊びつつ見守ろうと思う。
なんにせよ、成功体験にせよ失敗体験にせよ、息子さんに様々な体験をさせてあげて、色々な思いを味あわせてあげることが出来れば、幸甚なことこの上ない。
今日はこれくらいで。
息子さん、5歳。幼稚園年中さん。9月からすっかり年長さんになるつもりだったらしいのだが、まだ年中さんだと聞いてきょとんとしていたらしい。
で、最近、息子さんが若干「出来ないかも知れないこと」を怖がる、ないし嫌がる傾向が出てきたように思う。
例えば、公園のアスレチック等で、以前は登れたジャングルジムに「怖いー」といって登らない。高所恐怖症の気配もあるかも知れないが。
同じく公園の雲梯など、出来ないかも知れない遊具に挑戦することを嫌がる。
例えば、補助輪無し自転車の練習を途中で嫌がってやめてしまう。
例えば、私とお相撲をとって、以前は一度負けても何度もかかってきたのに、一度負けると他の遊びに行ってしまう。
一過性のものかも知れないが、「成功体験だろうが失敗体験だろうが、とにかく色々体験させてあげたい」という親のスタンスからすると、いまひとつ心配だ。
以前から、性格的に「負けず嫌いで慎重」というところはあった。その辺はどちらかというと私より奥様に似ている気がする。ちなみに、長女も性格的にはそちら寄りの様に思い、一方次女はどちらかというと私に似ていて無謀っぽい。
勿論、無理やりやらせても改善する問題ではないことは分かっている。高所恐怖症なんか、こじらせて本格的なトラウマになってしまったら大変だ。自転車の練習なんかは、嫌だったとしても無理に頑張らなくてはいけない時もあるかも知れないが、それにしても時期は選んだ方がよかろう。
で、これについて私と奥様のスタンスは割と違っていて、一言で言うと私は「励ましつつ見守る」奥様は「あの手この手で焚き付ける」スタンスを取り始めている。
私の方は、基本的に「やってみたら意外と簡単かもよー?やってみたらー?」と声をかけつつ、息子さんが嫌がったら無理には薦めない。まあ気分が変わるのを待つか、という方針。この前は、これで怖がっていたアスレチックをクリア出来ていた。
奥様の方は、基本的に叱咤勉励。厳しいことは言わないが、「やっちゃえやっちゃえー」という感じでけしかける。息子さんも割とノルことがあって、この前はこれで私に向かって相撲の連戦を挑み、私も意外と苦労させられた。手加減はしないが。
どちらが刺さるかはよくわからないし、夫婦で方針を一致させないといけない、ということもないだろうから、暫くはこのまま、息子さんと遊びつつ見守ろうと思う。
なんにせよ、成功体験にせよ失敗体験にせよ、息子さんに様々な体験をさせてあげて、色々な思いを味あわせてあげることが出来れば、幸甚なことこの上ない。
今日はこれくらいで。
2012年08月13日
昔、小学生に割り算の筆算教えてた時の教え方晒す
その内うちの子用に必要になりそうなので、備忘録的に。
昔というのは十数年前。一応このやり方で、大体の子は三桁÷二桁の割り算の筆算ができるところまでもってこれてた。教職免許もちではないので、実際の教壇でどう教えるのかは知らない。
対象者は、「割り算の筆算が分からない」という子。対象年齢は小学校高学年、場合によっては中学校低学年。三桁÷二桁なのは、二桁×二桁の掛け算が出来るかどうかもついでに確認出来るから、というのが理由。
仮に、205÷17という割り算の問題を想定する。途中の掛け算がシンプルなのと、余りが1出るので教えやすい、というのが理由。当時も大体この式を使っていた。
前提その一。教え方をステップ化して、どこでつまづくかを確認する。全部一度に理解出来る子は、少なくとも私が教えた中では滅多にいなかった。また、小4くらいで算数が苦手な子は、かなり初歩でつまづいたままなんとなく放置している場合もあるので、慎重に「つまづく場所」の発掘を行う。
前提その二。筆算というものは、幾つかのルールの集合である。ルールには、存在理由を細かく説明した方がいいものと、「そういうものなんだ」と流した方が理解が早いものがある。特に記法は殆どが後者で、桁数の概念が理解出来ないとどうしても理解出来ない場合が多い。どうしても「なんでこう書くの?」「なんでこうなるの?」と聞いてくる子には、一通り教え終わった後、はじめに戻って教えてあげる。(ただし、そういう疑問を持つ子は学習能力や学習意欲が高いので、そもそも事細かに教えなくても分かってしまう場合が多い)
以下は実際に教えるステップ。
1.「割り算という計算は、ある数の中に、別の数が何個はいるのかな?ということを当てる計算です」筆算以前の概略説明。ちなみに、「割る・割られる」という言葉は混乱の元なので、筆算の勉強中は封印していた。「割り算」という言葉自体が割り算を分かりにくくしている、と今でも思う。
2.205÷17の筆算式を板書。「205という数字に、17は何個入るのかなーということを当てます。筆算という便利なやり方があります。こんな風に書きます」記法は流した方がいい。覚えられるかどうかだけの問題。
3.「17は、「1」と「7」の二つの数字から出来ているので、まず二つの数字同士で比べます」重要なルール。桁数の考え方は、筆算の技術的には必要ないので、最後まで出来て、まだキャパシティがありそうなら後からおまけとして教える。よく出来たからご褒美に秘密を教えてあげる、として教えると食いつきがいい。
4.「20の中に17は入るかな?」数の大小の比較が出来るかどうかを確認。ここでつまづく子も、ごく少ないがいる。つまづいたら戻ってそちらの説明。
5.「17は20の中に何個入るかな?」4の延長だが、初歩の暗算が出来るかどうか一応確認。ここでつまづく子もいる。つまづいたら勿論確認。ちなみに、ここでつまづく場合二桁÷一桁の筆算に一旦切り替えた方が良い。
6.「はい、20の中に17は1個入るね。上に1と書いて、下に入った17を書きます」記法ルールなのでさらっと流す。覚えているかどうかは後から確認すればいい。
7.「20の中に17が1個入りました。けど、まだ数字が残ってるね。20の中に17を入れると、後数字がいくつ余るかな?」二桁同士の引き算が出来るかどうかの確認と、「余り」の概念の導入。割とつまづく子が多いステップ。引き算でつまづかない子については、単純に記法ルールとして流した方が覚えが早い場合が多い。
8.「3余ったね。けれど、205÷17の、残った5の数字がまだあります。これと3を合体させてやらなくてはいけないので、こうやっておろしてきます」記法ルール。つまづく子の数はそれなり、という印象。ただ、ここでつまづくと若干厄介で、「とにかく覚える」以外に解決方法があまりない。別の式で反復する。
9.「はい、35という数字が出来ました。35の中に、17はいくつ入るかな?」同じやり方で繰り返し。ここで、35÷17という、簡単だけど基本は分かっていないといけない、という計算が出てくるのが205÷17という式のメリット。
10.「35の中に、17は2つ入るね。17が2つあると幾つになるでしょう?」二桁×一桁の掛け算が出来るかどうかの確認。つまづいたら戻る。
11.「35の中に、17が2つで、34が入りました。1が残るね。1の中に17は入るかな?」余りの概念の定着。7で触れていると、ここでつまづく子は少ない。
12.「はい、数字を読んでみましょう。205の中に、17は12個入って、1余る、ということになります。確認してみようか。17×12は幾つになる?」検算のやり方と、二桁×二桁の計算が出来るか確認。出来ない場合そちらの勉強に遷移。
以上12ステップ。思い出しながら書いたら勉強になった。
今後必要になりそうな備忘録的内容に関してはまた書く。
昔というのは十数年前。一応このやり方で、大体の子は三桁÷二桁の割り算の筆算ができるところまでもってこれてた。教職免許もちではないので、実際の教壇でどう教えるのかは知らない。
対象者は、「割り算の筆算が分からない」という子。対象年齢は小学校高学年、場合によっては中学校低学年。三桁÷二桁なのは、二桁×二桁の掛け算が出来るかどうかもついでに確認出来るから、というのが理由。
仮に、205÷17という割り算の問題を想定する。途中の掛け算がシンプルなのと、余りが1出るので教えやすい、というのが理由。当時も大体この式を使っていた。
前提その一。教え方をステップ化して、どこでつまづくかを確認する。全部一度に理解出来る子は、少なくとも私が教えた中では滅多にいなかった。また、小4くらいで算数が苦手な子は、かなり初歩でつまづいたままなんとなく放置している場合もあるので、慎重に「つまづく場所」の発掘を行う。
前提その二。筆算というものは、幾つかのルールの集合である。ルールには、存在理由を細かく説明した方がいいものと、「そういうものなんだ」と流した方が理解が早いものがある。特に記法は殆どが後者で、桁数の概念が理解出来ないとどうしても理解出来ない場合が多い。どうしても「なんでこう書くの?」「なんでこうなるの?」と聞いてくる子には、一通り教え終わった後、はじめに戻って教えてあげる。(ただし、そういう疑問を持つ子は学習能力や学習意欲が高いので、そもそも事細かに教えなくても分かってしまう場合が多い)
以下は実際に教えるステップ。
1.「割り算という計算は、ある数の中に、別の数が何個はいるのかな?ということを当てる計算です」筆算以前の概略説明。ちなみに、「割る・割られる」という言葉は混乱の元なので、筆算の勉強中は封印していた。「割り算」という言葉自体が割り算を分かりにくくしている、と今でも思う。
2.205÷17の筆算式を板書。「205という数字に、17は何個入るのかなーということを当てます。筆算という便利なやり方があります。こんな風に書きます」記法は流した方がいい。覚えられるかどうかだけの問題。
3.「17は、「1」と「7」の二つの数字から出来ているので、まず二つの数字同士で比べます」重要なルール。桁数の考え方は、筆算の技術的には必要ないので、最後まで出来て、まだキャパシティがありそうなら後からおまけとして教える。よく出来たからご褒美に秘密を教えてあげる、として教えると食いつきがいい。
4.「20の中に17は入るかな?」数の大小の比較が出来るかどうかを確認。ここでつまづく子も、ごく少ないがいる。つまづいたら戻ってそちらの説明。
5.「17は20の中に何個入るかな?」4の延長だが、初歩の暗算が出来るかどうか一応確認。ここでつまづく子もいる。つまづいたら勿論確認。ちなみに、ここでつまづく場合二桁÷一桁の筆算に一旦切り替えた方が良い。
6.「はい、20の中に17は1個入るね。上に1と書いて、下に入った17を書きます」記法ルールなのでさらっと流す。覚えているかどうかは後から確認すればいい。
7.「20の中に17が1個入りました。けど、まだ数字が残ってるね。20の中に17を入れると、後数字がいくつ余るかな?」二桁同士の引き算が出来るかどうかの確認と、「余り」の概念の導入。割とつまづく子が多いステップ。引き算でつまづかない子については、単純に記法ルールとして流した方が覚えが早い場合が多い。
8.「3余ったね。けれど、205÷17の、残った5の数字がまだあります。これと3を合体させてやらなくてはいけないので、こうやっておろしてきます」記法ルール。つまづく子の数はそれなり、という印象。ただ、ここでつまづくと若干厄介で、「とにかく覚える」以外に解決方法があまりない。別の式で反復する。
9.「はい、35という数字が出来ました。35の中に、17はいくつ入るかな?」同じやり方で繰り返し。ここで、35÷17という、簡単だけど基本は分かっていないといけない、という計算が出てくるのが205÷17という式のメリット。
10.「35の中に、17は2つ入るね。17が2つあると幾つになるでしょう?」二桁×一桁の掛け算が出来るかどうかの確認。つまづいたら戻る。
11.「35の中に、17が2つで、34が入りました。1が残るね。1の中に17は入るかな?」余りの概念の定着。7で触れていると、ここでつまづく子は少ない。
12.「はい、数字を読んでみましょう。205の中に、17は12個入って、1余る、ということになります。確認してみようか。17×12は幾つになる?」検算のやり方と、二桁×二桁の計算が出来るか確認。出来ない場合そちらの勉強に遷移。
以上12ステップ。思い出しながら書いたら勉強になった。
今後必要になりそうな備忘録的内容に関してはまた書く。
2012年07月02日
息子さんが歯磨きを嫌がった事案について、考えたこと。 12/07/02
いつも通り、こういうことが可視化されるのも悪くはないと思うので、備忘録的に書いておきます。
【経緯】
・夜寝る前、息子さんが遊びを切り上げさせられて拗ねる。
→寝る前の歯磨きをしたくないと言い出す。
→いつもなら強制執行をするのだが、わがままを途中で切り上げる練習というのもさせてあげた方がいいか、と思ったので放置する。私、電気を消して寝た振り。
→息子さん、段々困り始める。「パパと仲直りしたいけどー」とか、「あんまり遅くまで起きてるのイヤだけどー」とか、聞こえるように独り言を言い出す。
→長女、次女を寝かしつけていた奥様助け舟。「「けどー」ってつけると独り言になっちゃうよ。何かして欲しい時は、ちゃんと「○○してください」って言うの」
→またしばらく逡巡した後、「ぱぱ、歯磨きしてください」とちゃんと言える。歯磨きをして、おはなしをして、9時20分くらいに就寝。
【考えたこと】
・奥様の助け舟は素晴らしかったと思う。言いにくいこと、言いたくないことでも、勇気を出してきちんと言葉にする練習は、今後もさせてあげたい。どんなことでも、言葉にすることは最重要。
・まあ、「パパ、のど乾いた」「のど乾いたらなんていうの?」「お水ください」みたいな会話はいつもしているが。
・私のやり方が適していたかどうかはよくわからない。意地っ張りなところを貫くことも時には重要だと思う。最終的には笑って寝られたので悪くはなかったと思うけれど。
・散々逡巡したのは、「口先だけで片付けることが出来ない」という性格もあるのかと思った。
・「寝る前は必ず歯磨き」「夜更かしは良くないこと」という習慣が定着しているのは5歳児的にはいいことだと思う。
取り敢えずこれくらいで。
【経緯】
・夜寝る前、息子さんが遊びを切り上げさせられて拗ねる。
→寝る前の歯磨きをしたくないと言い出す。
→いつもなら強制執行をするのだが、わがままを途中で切り上げる練習というのもさせてあげた方がいいか、と思ったので放置する。私、電気を消して寝た振り。
→息子さん、段々困り始める。「パパと仲直りしたいけどー」とか、「あんまり遅くまで起きてるのイヤだけどー」とか、聞こえるように独り言を言い出す。
→長女、次女を寝かしつけていた奥様助け舟。「「けどー」ってつけると独り言になっちゃうよ。何かして欲しい時は、ちゃんと「○○してください」って言うの」
→またしばらく逡巡した後、「ぱぱ、歯磨きしてください」とちゃんと言える。歯磨きをして、おはなしをして、9時20分くらいに就寝。
【考えたこと】
・奥様の助け舟は素晴らしかったと思う。言いにくいこと、言いたくないことでも、勇気を出してきちんと言葉にする練習は、今後もさせてあげたい。どんなことでも、言葉にすることは最重要。
・まあ、「パパ、のど乾いた」「のど乾いたらなんていうの?」「お水ください」みたいな会話はいつもしているが。
・私のやり方が適していたかどうかはよくわからない。意地っ張りなところを貫くことも時には重要だと思う。最終的には笑って寝られたので悪くはなかったと思うけれど。
・散々逡巡したのは、「口先だけで片付けることが出来ない」という性格もあるのかと思った。
・「寝る前は必ず歯磨き」「夜更かしは良くないこと」という習慣が定着しているのは5歳児的にはいいことだと思う。
取り敢えずこれくらいで。
2012年05月31日
「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す
ちょっと前、「子どもに「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と言われた時、「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」と返すのが最強」とかいうコピペをみて、心底アホかと思った。まさか親や教育者が本気にはしないと思うが、こういう一言は容易に知性を殺す。
「お前は何の役に立つの?」という言葉には、勿論「お前も今は役に立たないけれど、将来は役に立つだろう?それと同じだ」という含意があると思われる。子どもはこの含意を理解しない。「お前は役に立たない」と受け取る。これは、言ってはいけない言葉だ。こういう言葉が、子どもから学習自体を奪う。
子どもはどんな時に「こんなこと勉強して何の役に立つの?」というかというと、要はその分野が面白くない時、意味が分からない時、とにかくその勉強をしたくない時に言うのであって、つまり「どんな役に立つのか」→「役に立たないでしょ?」というのは勉強しないことの理由づけないし口実なのであり、飽くまで手段であって目的ではない(ソースは俺)。
つまり、こういう言葉を言う時、その子供はそもそも「その知識が役に立つとは思っていない」のだ。「役に立つ」という言葉の意味にもよるが、もしかすると実際にそうなのかも知れない。身に着けても直接使わない知識というものは、実際ある。
だが、大人はそれを承知の上で、「知識はどんな風に生きてくるのか」ということを力説し、また「役に立つこと」を実感させてあげないといけないと思う。直接、その場で勉強をさせる為ではない。知識を身に着けることの重要さ、というものを教える為だ。
それを教えることは大人の義務であり、その教え方を考えることは大人の義務だ。少なくとも、「将来役に立つから黙ってやっておけ」などと言ってはいけない。
要は、「大人も思考放棄してはいけない」ということだ。少なくとも私はそう思う。
-----------------------------------------------------------------------
上記までで、実は書きたいことの半分は書いた。
で。じゃあ一体どういう風に教えればいいのか、という話なのだが。
以下、「子ども」という言葉は、私は小学校高学年から中学校くらいを想定して使っていることをご承知おきいただきたい。
多くの子どもに、「将来」という言葉は刺さらない。将来というのは、大抵の子供にとって、今まで生きた年月と同じ程度の時間を積み上げないと届かない、曖昧模糊とした概念だ。「将来なりたい職業」といった、もやもやとした想像と一緒に想起される言葉だ。
子どもには、何か別の方法で、「今何の役に立つのか」「今まで何かの役に立ったのか」を伝えてあげないといけない。
そして、それ以上に、「役に立つ」という言葉自体の概念を広げてあげなくてはいけない。もしかするとこの方が重要かも知れない。
どういう教え方が刺さるのか、というのは子供それぞれ、年代にもよるし環境にもよると思うけれど、ざっくりした方向性はあると思う。以下は私の考えだが、実際に効果があるかどうかは分からないし、今後修正するかも知れない。
・「役に立つ」ということを指して、どういうことを想定しているのかを確認し、それ以外でも知識が生きてくる場面というものはあるのだ、ということを説明する。
・その上で、現実に、知識がどのような場面で生きているのか、を具体的に説明する。
・子供に、「すぐに役には立たないけれど、何らかの体験が後で役に立った」という、実際の成功体験をさせてあげる。
まず最初に。「何の役に立つの?」と言われた時、多分一番初めに確認しなくてはいけないのは、「役に立つ」の定義だ。
子どもはまだ視野がそこまで広くはないので、「役に立つ」といった時、それが指している対象は意外と狭かったり、曖昧だったりする。例えば「仕事をする時使うかどうか」といった、ごく限定されたフィールドであり、かつその「仕事」のイメージ自体が固まっていない場合は多い(ソースは俺)。
それに対して、「知識が役に立つ場面」というのは、勿論仕事上で役に立つ場合も多々あるだろうが、実際にはもっとずっと広範だ。「役に立つ」という言葉自体が示している広さ、というものを教えてあげないといけない。
例えば、「二次方程式なんて何の役に立つの?」と聞かれたとする。
まず直接的には、私はシステムの仕事をやっているので、コーディング上二次方程式の概念が出てくる部分は山のようにある。二次方程式を知っていないと解決出来ないロジック、というのも山のようにある。コーディングで使うこともあれば、二次曲線をグラフに書き出す必要に迫られることもある。これは、もっとも直接的に「役に立つ」場面だ。
次に、「二次方程式という概念」を知っていることによって学ぶことが出来たこと、というものもある。最も端的な例として、プログラムの変数。xやyに一時的に数字を代入する、という概念を知っているかどうかで、もっと違う知識を手に入れる為の鍵を持っているかどうかの分かれ目が発生する。
こういった、「違う知識にアクセスする為のパスポートとしての知識」というのは、とても重要な考え方だ。
あるいは、「世界史なんて何の役に立つの?」と聞かれたとする。
直接的には、例えば一部の金融の情報などを仕入れる時、あるいは誰かにリーチする為のレポートを書く時、バックボーンとなる知識がないと話にならない、というものがある。例えば、EUR圏経済の話をする時、ヨーロッパの国際情勢の複雑さ、ヨーロッパの各国がどんな風に絡み合ってきたか、というようなことをざっくりとでも知っていないと、訳が分からないことになる。これが日本史でも、アジア史でも同じようなことが言える。
一方、「歴史というものに対する考え方」の重要性。世界史を勉強して一番に学ばなくてはいけないのは、「物事には多面的な見方がある」ということだ。ある事実とそれに伴う解釈が、別のどこかから見ても同じ形になるとは限らない、ということ。こういった見方が出来るかどうかというのは、それこそ人間としての器に影響しかねない重大事となる。
ほんの、ほんの一例だが、他にも山のような具体例がある筈だ。直接に「その知識」を知っているかどうかということももちろん重要だが、それ以上に、その沿革。知識の身に着け方、他の知識へのリーチ、誤った知識からの防御。そういった様々な「知識の重要性」というものを、大人は子どもに伝えなくてはならない。
それともう一つ、重要かも知れないと私が思っていることが、
・子供に、「すぐに役には立たないけれど、何らかの体験や学習が後で役に立った」という、実際の成功体験をさせてあげる。
という、言ってみれば「成功体験の機会」を子どもに作ってあげること。
そういった、「後から芽が出る」という体験をたくさんしている子どもであれば、学習や勉強についても同じような受け取り方をしてくれるかも知れない。勿論押しつけではない程度に、私も機会があれば、自分の子どもとそういった話をしてみようかと思う。
さて、大概長くなった。昼休みもぼちぼち終わりなので、今日はこれくらいで。
「お前は何の役に立つの?」という言葉には、勿論「お前も今は役に立たないけれど、将来は役に立つだろう?それと同じだ」という含意があると思われる。子どもはこの含意を理解しない。「お前は役に立たない」と受け取る。これは、言ってはいけない言葉だ。こういう言葉が、子どもから学習自体を奪う。
子どもはどんな時に「こんなこと勉強して何の役に立つの?」というかというと、要はその分野が面白くない時、意味が分からない時、とにかくその勉強をしたくない時に言うのであって、つまり「どんな役に立つのか」→「役に立たないでしょ?」というのは勉強しないことの理由づけないし口実なのであり、飽くまで手段であって目的ではない(ソースは俺)。
つまり、こういう言葉を言う時、その子供はそもそも「その知識が役に立つとは思っていない」のだ。「役に立つ」という言葉の意味にもよるが、もしかすると実際にそうなのかも知れない。身に着けても直接使わない知識というものは、実際ある。
だが、大人はそれを承知の上で、「知識はどんな風に生きてくるのか」ということを力説し、また「役に立つこと」を実感させてあげないといけないと思う。直接、その場で勉強をさせる為ではない。知識を身に着けることの重要さ、というものを教える為だ。
それを教えることは大人の義務であり、その教え方を考えることは大人の義務だ。少なくとも、「将来役に立つから黙ってやっておけ」などと言ってはいけない。
要は、「大人も思考放棄してはいけない」ということだ。少なくとも私はそう思う。
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上記までで、実は書きたいことの半分は書いた。
で。じゃあ一体どういう風に教えればいいのか、という話なのだが。
以下、「子ども」という言葉は、私は小学校高学年から中学校くらいを想定して使っていることをご承知おきいただきたい。
多くの子どもに、「将来」という言葉は刺さらない。将来というのは、大抵の子供にとって、今まで生きた年月と同じ程度の時間を積み上げないと届かない、曖昧模糊とした概念だ。「将来なりたい職業」といった、もやもやとした想像と一緒に想起される言葉だ。
子どもには、何か別の方法で、「今何の役に立つのか」「今まで何かの役に立ったのか」を伝えてあげないといけない。
そして、それ以上に、「役に立つ」という言葉自体の概念を広げてあげなくてはいけない。もしかするとこの方が重要かも知れない。
どういう教え方が刺さるのか、というのは子供それぞれ、年代にもよるし環境にもよると思うけれど、ざっくりした方向性はあると思う。以下は私の考えだが、実際に効果があるかどうかは分からないし、今後修正するかも知れない。
・「役に立つ」ということを指して、どういうことを想定しているのかを確認し、それ以外でも知識が生きてくる場面というものはあるのだ、ということを説明する。
・その上で、現実に、知識がどのような場面で生きているのか、を具体的に説明する。
・子供に、「すぐに役には立たないけれど、何らかの体験が後で役に立った」という、実際の成功体験をさせてあげる。
まず最初に。「何の役に立つの?」と言われた時、多分一番初めに確認しなくてはいけないのは、「役に立つ」の定義だ。
子どもはまだ視野がそこまで広くはないので、「役に立つ」といった時、それが指している対象は意外と狭かったり、曖昧だったりする。例えば「仕事をする時使うかどうか」といった、ごく限定されたフィールドであり、かつその「仕事」のイメージ自体が固まっていない場合は多い(ソースは俺)。
それに対して、「知識が役に立つ場面」というのは、勿論仕事上で役に立つ場合も多々あるだろうが、実際にはもっとずっと広範だ。「役に立つ」という言葉自体が示している広さ、というものを教えてあげないといけない。
例えば、「二次方程式なんて何の役に立つの?」と聞かれたとする。
まず直接的には、私はシステムの仕事をやっているので、コーディング上二次方程式の概念が出てくる部分は山のようにある。二次方程式を知っていないと解決出来ないロジック、というのも山のようにある。コーディングで使うこともあれば、二次曲線をグラフに書き出す必要に迫られることもある。これは、もっとも直接的に「役に立つ」場面だ。
次に、「二次方程式という概念」を知っていることによって学ぶことが出来たこと、というものもある。最も端的な例として、プログラムの変数。xやyに一時的に数字を代入する、という概念を知っているかどうかで、もっと違う知識を手に入れる為の鍵を持っているかどうかの分かれ目が発生する。
こういった、「違う知識にアクセスする為のパスポートとしての知識」というのは、とても重要な考え方だ。
あるいは、「世界史なんて何の役に立つの?」と聞かれたとする。
直接的には、例えば一部の金融の情報などを仕入れる時、あるいは誰かにリーチする為のレポートを書く時、バックボーンとなる知識がないと話にならない、というものがある。例えば、EUR圏経済の話をする時、ヨーロッパの国際情勢の複雑さ、ヨーロッパの各国がどんな風に絡み合ってきたか、というようなことをざっくりとでも知っていないと、訳が分からないことになる。これが日本史でも、アジア史でも同じようなことが言える。
一方、「歴史というものに対する考え方」の重要性。世界史を勉強して一番に学ばなくてはいけないのは、「物事には多面的な見方がある」ということだ。ある事実とそれに伴う解釈が、別のどこかから見ても同じ形になるとは限らない、ということ。こういった見方が出来るかどうかというのは、それこそ人間としての器に影響しかねない重大事となる。
ほんの、ほんの一例だが、他にも山のような具体例がある筈だ。直接に「その知識」を知っているかどうかということももちろん重要だが、それ以上に、その沿革。知識の身に着け方、他の知識へのリーチ、誤った知識からの防御。そういった様々な「知識の重要性」というものを、大人は子どもに伝えなくてはならない。
それともう一つ、重要かも知れないと私が思っていることが、
・子供に、「すぐに役には立たないけれど、何らかの体験や学習が後で役に立った」という、実際の成功体験をさせてあげる。
という、言ってみれば「成功体験の機会」を子どもに作ってあげること。
そういった、「後から芽が出る」という体験をたくさんしている子どもであれば、学習や勉強についても同じような受け取り方をしてくれるかも知れない。勿論押しつけではない程度に、私も機会があれば、自分の子どもとそういった話をしてみようかと思う。
さて、大概長くなった。昼休みもぼちぼち終わりなので、今日はこれくらいで。
2012年05月07日
奥様と、長男について子育て会議をしたことについて 12/05/06
あんまりブログに書くようなことじゃないんじゃ、とも思ったが、こういうのが可視化されるのも有益かも知れないと思い、今後の為に議事録的なメモ を残しておこうかと思う。
息子さんは基本とても素直に育ってくれていると思うのだが、直近で二つばかり、若干揉めたケースがあって、それについて親としてした対応の評価、 現況、及び親としての今後の方針とか考えてみた。
なお、文中「息子さん」とか「奥様」とか記載してはいるが、当然実際にはそんな呼び方をしていないことはお断りしておく。
以下、一応議事録。
ケース1:息子さんが幼稚園にいくのを嫌がったケース
経緯:五月になって、息子さんが幼稚園に行く日の朝、腹痛を訴えて幼稚園に行くのを嫌がった、ということ が二、三日続いた。
幼稚園に行く前に泣くということはよくあったが、定常的な腹痛というのは初めて。色々他の事情もあって、奥様が二日程は休ませた。
推測:「ストレス性の腹痛だろう」というのは私と奥様の意見一致。ストレス性腹痛はストレスの原因が解決 しないと根本的に解決されないので、ストレスの原因を考えないといけない。
幼稚園が嫌なのか、というと本人曰くそうでもないらしく、ただ「お弁当が多すぎる」ということのみ嫌な点として挙げたとのこと。あちこちから話を聞いている限り、友達との関係も悪くなさそう。
とはいえ、恐らく
・幼稚園で、年中組になって環境が変わったことによるストレス
・双子が産まれて、奥様を独り占めできなくなったことによるストレス
→もしかすると、自分の留守中双子と奥様だけになることへの嫉妬?
が主因なのではないかなー、と、奥様との話し合いでは思った。私の所感としては、前者七割後者三割。
今後の方針:年中組に馴染んで、幼稚園が楽しくなれば原因の大部分は解決するとはおもった。ただ、そもそも腹痛で休んでいては馴染もうにも馴染めない。つまりストレスの原因が解決しない。
その為、奥様と相談して、
・朝お腹が痛くなっても、可能な限り幼稚園に連れていくこと
・その際、なるべくなら無理やりではなく、息子さんの希望や腹痛についてちゃんと聞いた上で、息子さんから「頑張る」という気持ちになるのが望ま しいと思われること
・幼稚園の先生はこういうことの専門家である為、状況を共有して、多少曖昧な聞き方でも「どうすればいいですかね?」的な助言をもらうといいと思 うこと
などを決めた。
成功体験でも失敗体験でも、子供は糧にすることが出来る。ただ、そもそも体験を積む機会がないとどうにもならない。親がするべきなのは、体験を積 む為の環境作り。
とにかく、息子さんの言い分はちゃんと聞こう、というのは前提だと思った。
・現時点での結果:今朝も「お腹が痛い」「幼稚園行けないかも」といい出したが、私が会社から電話して、 「お腹痛いのは大変だけど、それは体さんがまだ年中さんに慣れてないからで、幼稚園にいきさえすれば段々よくなる」という方向で説得。やっぱりだいぶぐずぐずしたが、最後には 「がんばって幼稚園いく」という方向になってくれて、無事通園。
いつも通りなのだが、幼稚園に行った後は元気になってくれたらしい。よく頑張ってくれたと思う。今後もあるかも知れないが、とりあえずひと安心。
双子に対する嫉妬、みたいな要素については、出来る範囲で息子さんをひいきしてあげる、土日は私がたくさん遊ぶ、という点では以前からの方針通り。
ケース2:息子さんがお友達の家に遊びにいくのを嫌がったケース
経緯:奥様が事前に、幼稚園での息子さんお友達の家に遊びに行くと約束していた。
ところが、当日朝になって、「行かない」「パパとプラレールで遊んでたい」と言い出して大泣きした。
親としては、事前に行くと言っていたこと、行くと約束していたことを気分で覆して欲しくはない。一方息子さんとしては、動機は「新しいプラレール を買ったから」「パパがうちにいるから」家で遊びたいということであって、「やくそくしたのはボクじゃない」という点も筋は通っている。
推測:「やくそくしたのはボクじゃない」というところについては、独立心の芽生え、みたいなものはあるの だと思う。ただ、現実問題今はまだ、息子さんは「自分で約束して、自分で遊びにいく」という単独行動は出来ない訳で、お友達と遊ぶ場面のセッティ ングというのは基本母親同士のお話になってしまう。そこはやむを得ない。
独立心の芽生えは歓迎すべきことである。ただ、気分で事前の予定を簡単に覆す、というのは良くない。そこの妥結点を探さなくてはいけない。
対応:まずは息子さんの希望と「何故行きたくないのか」というものを(大泣きの合間に)聞き出し、じゃあ どうすればいいか、というのを(大泣きの合間に)話し合ってみた。
・新しいプラレールで遊びたい→新しく買ったプラレールをお友達の家に持っていって遊べばいいんじゃ?
・パパと遊びたい→そんなに長いことお友達の家で遊んでなくていい、帰ってきたらたくさん遊ぼう
という方針で、特に前者が彼の中では納得の種になったらしく、「京成すかいらいなー(新しく買ったプラレール)じまんしてくる!」といきなり切り 替わった。その後、お友達の家に行ってからは、予想通り楽しく遊べたらしい。帰ってきてからいっしょに銭湯にいった。
・まとめ
・今のところ、息子さんの言い分をきちんと聞き出した上で親との妥協点を探す、という方針はうまくいっていると思う。今後も継続したい。
・とにかく拒絶や頭ごなしは避けたい。
・とはいえ、「泣けば自分の希望が通る」という状況もよくないと思うので、親として譲れない箇所はきちんと保持する。奥様の意見ではあんまり心配 なさそうだけど。
・土日は息子さんとたくさんあそびます。
今日はこれくらいで。
息子さんは基本とても素直に育ってくれていると思うのだが、直近で二つばかり、若干揉めたケースがあって、それについて親としてした対応の評価、 現況、及び親としての今後の方針とか考えてみた。
なお、文中「息子さん」とか「奥様」とか記載してはいるが、当然実際にはそんな呼び方をしていないことはお断りしておく。
以下、一応議事録。
ケース1:息子さんが幼稚園にいくのを嫌がったケース
経緯:五月になって、息子さんが幼稚園に行く日の朝、腹痛を訴えて幼稚園に行くのを嫌がった、ということ が二、三日続いた。
幼稚園に行く前に泣くということはよくあったが、定常的な腹痛というのは初めて。色々他の事情もあって、奥様が二日程は休ませた。
推測:「ストレス性の腹痛だろう」というのは私と奥様の意見一致。ストレス性腹痛はストレスの原因が解決 しないと根本的に解決されないので、ストレスの原因を考えないといけない。
幼稚園が嫌なのか、というと本人曰くそうでもないらしく、ただ「お弁当が多すぎる」ということのみ嫌な点として挙げたとのこと。あちこちから話を聞いている限り、友達との関係も悪くなさそう。
とはいえ、恐らく
・幼稚園で、年中組になって環境が変わったことによるストレス
・双子が産まれて、奥様を独り占めできなくなったことによるストレス
→もしかすると、自分の留守中双子と奥様だけになることへの嫉妬?
が主因なのではないかなー、と、奥様との話し合いでは思った。私の所感としては、前者七割後者三割。
今後の方針:年中組に馴染んで、幼稚園が楽しくなれば原因の大部分は解決するとはおもった。ただ、そもそも腹痛で休んでいては馴染もうにも馴染めない。つまりストレスの原因が解決しない。
その為、奥様と相談して、
・朝お腹が痛くなっても、可能な限り幼稚園に連れていくこと
・その際、なるべくなら無理やりではなく、息子さんの希望や腹痛についてちゃんと聞いた上で、息子さんから「頑張る」という気持ちになるのが望ま しいと思われること
・幼稚園の先生はこういうことの専門家である為、状況を共有して、多少曖昧な聞き方でも「どうすればいいですかね?」的な助言をもらうといいと思 うこと
などを決めた。
成功体験でも失敗体験でも、子供は糧にすることが出来る。ただ、そもそも体験を積む機会がないとどうにもならない。親がするべきなのは、体験を積 む為の環境作り。
とにかく、息子さんの言い分はちゃんと聞こう、というのは前提だと思った。
・現時点での結果:今朝も「お腹が痛い」「幼稚園行けないかも」といい出したが、私が会社から電話して、 「お腹痛いのは大変だけど、それは体さんがまだ年中さんに慣れてないからで、幼稚園にいきさえすれば段々よくなる」という方向で説得。やっぱりだいぶぐずぐずしたが、最後には 「がんばって幼稚園いく」という方向になってくれて、無事通園。
いつも通りなのだが、幼稚園に行った後は元気になってくれたらしい。よく頑張ってくれたと思う。今後もあるかも知れないが、とりあえずひと安心。
双子に対する嫉妬、みたいな要素については、出来る範囲で息子さんをひいきしてあげる、土日は私がたくさん遊ぶ、という点では以前からの方針通り。
ケース2:息子さんがお友達の家に遊びにいくのを嫌がったケース
経緯:奥様が事前に、幼稚園での息子さんお友達の家に遊びに行くと約束していた。
ところが、当日朝になって、「行かない」「パパとプラレールで遊んでたい」と言い出して大泣きした。
親としては、事前に行くと言っていたこと、行くと約束していたことを気分で覆して欲しくはない。一方息子さんとしては、動機は「新しいプラレール を買ったから」「パパがうちにいるから」家で遊びたいということであって、「やくそくしたのはボクじゃない」という点も筋は通っている。
推測:「やくそくしたのはボクじゃない」というところについては、独立心の芽生え、みたいなものはあるの だと思う。ただ、現実問題今はまだ、息子さんは「自分で約束して、自分で遊びにいく」という単独行動は出来ない訳で、お友達と遊ぶ場面のセッティ ングというのは基本母親同士のお話になってしまう。そこはやむを得ない。
独立心の芽生えは歓迎すべきことである。ただ、気分で事前の予定を簡単に覆す、というのは良くない。そこの妥結点を探さなくてはいけない。
対応:まずは息子さんの希望と「何故行きたくないのか」というものを(大泣きの合間に)聞き出し、じゃあ どうすればいいか、というのを(大泣きの合間に)話し合ってみた。
・新しいプラレールで遊びたい→新しく買ったプラレールをお友達の家に持っていって遊べばいいんじゃ?
・パパと遊びたい→そんなに長いことお友達の家で遊んでなくていい、帰ってきたらたくさん遊ぼう
という方針で、特に前者が彼の中では納得の種になったらしく、「京成すかいらいなー(新しく買ったプラレール)じまんしてくる!」といきなり切り 替わった。その後、お友達の家に行ってからは、予想通り楽しく遊べたらしい。帰ってきてからいっしょに銭湯にいった。
・まとめ
・今のところ、息子さんの言い分をきちんと聞き出した上で親との妥協点を探す、という方針はうまくいっていると思う。今後も継続したい。
・とにかく拒絶や頭ごなしは避けたい。
・とはいえ、「泣けば自分の希望が通る」という状況もよくないと思うので、親として譲れない箇所はきちんと保持する。奥様の意見ではあんまり心配 なさそうだけど。
・土日は息子さんとたくさんあそびます。
今日はこれくらいで。
2012年02月21日
「子どもが生まれて得られたもの」について、改めて考えてみる。
最初に自分の立場を明示しておくと、私は一男二女をもつ30過ぎの父親である。
直接子どもたちと過ごしている時間については奥様程ではないかも知れないが、「育児の手伝い」ではなく、自分も育児の主役として子どもたちに接してはいるつもりだし、使える限りの時間を子どもたちと過ごす為に使っているつもりである。
以下、r911の日記様を読んで思ったこと。
r911さんが本来おっしゃりたいことからは外れているかも知れないし、最終的な結論は変わらないかも知れないが、感じたことをそのまま書く。
メリットデメリットに落とし込む話でもないとは思うが、もし「物理的なメリット」というものを無理やり想定するとしたら、それは例えば子どもを育てることで得られるお金とか、あるいは子どもが提供してくれる手伝いの手とか、あまり「メリット」として親が期待するべきものではなさそうに思うから。
物理的なデメリットやリスクなら、いちいち例示するまでもなく、そりゃ山のようにあるだろう。お金もかかるし時間もかかる、事故や病気のリスクも増える。ただ、だからといって、それらと引き換えに「精神的に得られるもの」を手放したいとは私は全く思わないし、その点は奥様もそうだ。断言出来る。
子どもが生まれたことによって何を得られたか、ということを、自分について改めて考えてみる。一部、身も蓋も無いことも書く。以前似たようなことを書いたので、被っている部分も多いかも知れない。
・子どもの成長という、夫婦共通の物凄く興味深いコンテンツ
・働く際の強烈な目的意識
・間違っても死ねないなあ、という危機意識
・自分に無条件に依存するものがいる、ということによる問答無用の自己肯定
・仕事から帰ってきた時、子どもが嬉しそうににへーっと笑うところを見た際の多幸感
・早く仕事を済ませようというモチベーション
・知らない人との大量のコミュニケーション機会
・妻子もちの上司・同僚から向けられるよく分からない連帯感、信頼感
・孫を滅多やたらに可愛がってくれる父母の後半生の生き甲斐
・大量の運動機会
私にとっては、なにもかも途方もなく貴重なものばかりだ。
私の中で、子どもの成長というものはやはり「コンテンツ」なんだろうなあ、とは正直思う。
自分と接した内容、会話した内容、褒めたこと、叱ったこと、そういうものが子どもの中で息づいていくことが、子どもの成長って本当に凄い、と思わせてくれる。一方で、時には私の予想や想像を超えた反応を見せてくれることもしばしばあって、子どもだからって舐めてかかれないなあ、と思わせてくれる。育児神ゲー。
時には私が何か間違ったことを教えてしまうかも知れないが、そんな中でも多分、子どもたちは自分の力でそれを修正してくれるだろう。そう思ったりすることもある。
子ども視点で物事を見る機会も増え、なんだかんだで「大人の視点」以外で物事を見ることが少なくなってきたこの年、今でも新鮮な感覚をしばしば味わえるのも幸せなことだと思う。
「面白い公園」と「そうでもない公園」の違いを、子どもの視点で真剣に考える日がまさかくるとは思わなかったし、子どもが大人とは全く違う基準で「面白い」「面白くない」を決めるものだ、ということも学ぶことが出来た。子どもは、遊びの師匠だ。
一方、誰しも言うことなのかも知れないが、子どもがいることによって発生する「目的意識」というものはそりゃもう物凄い。人生の目的、みたいな、思春期の若者であれば3年くらい悩んでも結論が出なさそうなテーマの答えが、いきなりどかんと眼前に出現する。その問答無用感はデコゲーのオープニングと比して遜色ない。
人によっては勿論、子育てを人生の目的の一つと位置づけることに違和感を覚えるのだろう、と思う。私自身は、奥様や、子どもたちの為に人生を費やせるのであれば、それはそれ程悪くないなあ、と思っている。人生の目的が一つでないといけない、ということもないだろうが、「誰かを幸せにする」「自分も幸せになる」ということが、目的として不足だとは全く思わない。
書くまでもないことだとは思うが、上記は全て私にとっての特殊論であり、一般化するつもりは全くない。「だから子どもを持つべき」などと間違っても言う気はない。そんなことは個人的な問題の最たるものであり、誰に対しても口出しすべきではないことだ。
ただ、育児のデメリットや困難さなんてどうせほっといてもそこら中に書かれているのだから、バランス的には「育児によって得られるもの」というテキストがもうちょっとあってもいいんじゃないかなあ、それは別に悪いことじゃないんじゃないかなあ、などと考える次第である。多分結婚についても同じことが言えると思う。
思ったこと、以上。
直接子どもたちと過ごしている時間については奥様程ではないかも知れないが、「育児の手伝い」ではなく、自分も育児の主役として子どもたちに接してはいるつもりだし、使える限りの時間を子どもたちと過ごす為に使っているつもりである。
以下、r911の日記様を読んで思ったこと。
r911さんが本来おっしゃりたいことからは外れているかも知れないし、最終的な結論は変わらないかも知れないが、感じたことをそのまま書く。
現代の子育ては、物理的なデメリットが結構が多いのだが、一方で、精神的なメリット面が妙に強調されているのではないか?ということを書きました。まあ、そりゃしょうがないんじゃないかなあ、と思った。
引き換えにするものが多い分、精神的な価値(ていうか、メリットっっぽいものってそのくらいしかないかも?)を強調するのではないか、と。
メリットデメリットに落とし込む話でもないとは思うが、もし「物理的なメリット」というものを無理やり想定するとしたら、それは例えば子どもを育てることで得られるお金とか、あるいは子どもが提供してくれる手伝いの手とか、あまり「メリット」として親が期待するべきものではなさそうに思うから。
物理的なデメリットやリスクなら、いちいち例示するまでもなく、そりゃ山のようにあるだろう。お金もかかるし時間もかかる、事故や病気のリスクも増える。ただ、だからといって、それらと引き換えに「精神的に得られるもの」を手放したいとは私は全く思わないし、その点は奥様もそうだ。断言出来る。
子どもが生まれたことによって何を得られたか、ということを、自分について改めて考えてみる。一部、身も蓋も無いことも書く。以前似たようなことを書いたので、被っている部分も多いかも知れない。
・子どもの成長という、夫婦共通の物凄く興味深いコンテンツ
・働く際の強烈な目的意識
・間違っても死ねないなあ、という危機意識
・自分に無条件に依存するものがいる、ということによる問答無用の自己肯定
・仕事から帰ってきた時、子どもが嬉しそうににへーっと笑うところを見た際の多幸感
・早く仕事を済ませようというモチベーション
・知らない人との大量のコミュニケーション機会
・妻子もちの上司・同僚から向けられるよく分からない連帯感、信頼感
・孫を滅多やたらに可愛がってくれる父母の後半生の生き甲斐
・大量の運動機会
私にとっては、なにもかも途方もなく貴重なものばかりだ。
私の中で、子どもの成長というものはやはり「コンテンツ」なんだろうなあ、とは正直思う。
自分と接した内容、会話した内容、褒めたこと、叱ったこと、そういうものが子どもの中で息づいていくことが、子どもの成長って本当に凄い、と思わせてくれる。一方で、時には私の予想や想像を超えた反応を見せてくれることもしばしばあって、子どもだからって舐めてかかれないなあ、と思わせてくれる。育児神ゲー。
時には私が何か間違ったことを教えてしまうかも知れないが、そんな中でも多分、子どもたちは自分の力でそれを修正してくれるだろう。そう思ったりすることもある。
子ども視点で物事を見る機会も増え、なんだかんだで「大人の視点」以外で物事を見ることが少なくなってきたこの年、今でも新鮮な感覚をしばしば味わえるのも幸せなことだと思う。
「面白い公園」と「そうでもない公園」の違いを、子どもの視点で真剣に考える日がまさかくるとは思わなかったし、子どもが大人とは全く違う基準で「面白い」「面白くない」を決めるものだ、ということも学ぶことが出来た。子どもは、遊びの師匠だ。
一方、誰しも言うことなのかも知れないが、子どもがいることによって発生する「目的意識」というものはそりゃもう物凄い。人生の目的、みたいな、思春期の若者であれば3年くらい悩んでも結論が出なさそうなテーマの答えが、いきなりどかんと眼前に出現する。その問答無用感はデコゲーのオープニングと比して遜色ない。
人によっては勿論、子育てを人生の目的の一つと位置づけることに違和感を覚えるのだろう、と思う。私自身は、奥様や、子どもたちの為に人生を費やせるのであれば、それはそれ程悪くないなあ、と思っている。人生の目的が一つでないといけない、ということもないだろうが、「誰かを幸せにする」「自分も幸せになる」ということが、目的として不足だとは全く思わない。
書くまでもないことだとは思うが、上記は全て私にとっての特殊論であり、一般化するつもりは全くない。「だから子どもを持つべき」などと間違っても言う気はない。そんなことは個人的な問題の最たるものであり、誰に対しても口出しすべきではないことだ。
ただ、育児のデメリットや困難さなんてどうせほっといてもそこら中に書かれているのだから、バランス的には「育児によって得られるもの」というテキストがもうちょっとあってもいいんじゃないかなあ、それは別に悪いことじゃないんじゃないかなあ、などと考える次第である。多分結婚についても同じことが言えると思う。
思ったこと、以上。
2011年12月03日
双子が産まれるに至るまでの淡々とした記録。
以前と同じように、単なる私的記録として書き残しておく。
奥さんのお腹にいるのが二卵性双生児だということは、早くから分かっていた。このご時世正直不安もあったが、そろそろ二人目が欲しいな、と思った時に授かった命だ。出来ることを全力でやろう、と決めた。
五月頃から奥様のつわりがひどくなって、六月の初めくらいまで、一日中立てないような状態が続いた。息子さん共々、奥様の実家で預かってもらっていた。
この時期は私の仕事が忙しかったこともあり、息子さんには随分負担をかけたと思う。幼稚園にも通い始めた矢先だった。8月にリリースが終わってからは可能な限り遊んであげているが、それでも奥様は自分の体で手一杯なことが多く、甘えたいのに甘えられないことは随分多かったろう。本当に頑張ってくれたと思う。
9月10月は小康状態というところだったが、11月下旬、子宮口が若干開き気味ということで、奥様が管理入院になった。この時、子宮口の直径が3cmになっていたらしい。
今日明日産まれるという話ではなかったが、予定日は12月下旬だ。随分早い。何しろ双子なので、その内来るかもと予想はしていたが、やはりそれなりにしんどかった。奥様のお母さんが泊りがけで息子さんの世話をしにきてくれた。私の父母も、週末は息子さんをこういう時、頼ることの出来る身内がいるということについては、感謝の二文字以外の言葉がない。
12月7日くらいからはもう陣痛促進剤使っていいかも、という話を聞いた。とすると産まれるのは8日か9日辺りかなー、と勝手に見当をつけていた。
12月3日の0時過ぎ、出血が始まった、けど収まるかも、というメールが奥様から届いた。ボランティア演奏と後輩の結婚式の予定が入っている日だったのであややーと思い、何とか回避してもらえんものかと正直思ったが、4時頃陣痛が始まったという連絡がきた。一も二もなく家を飛び出してタクシーを捕まえた。
ボランティア演奏については、朝方主催の人にメールで詫びをいれた。なんとかするから奥さんのそばにいてやれ、といわれた。ありがたかった。
病院に着いた頃は、まだ奥様の陣痛はそこまで切迫した感じではなかった。分娩室は、一見するとホテルの一室という風情で、想像していたような手術室のイメージとはだいぶ違った。コーンスープを買ったり、奥様の汗を拭いたりして過ごした。経緯は順調らしかった。
それ程眠くはなかったが、後がキツいから寝ておけといわれて、一、二時間ソファーで休ませてもらった。その後、ぼちぼち産まれそうだと呼ばれた。
息子さんの時もそうだったが、分娩室で父親の具体的な仕事は殆どない。ただ、奥様の苦痛に共感して、それに耐えるのが自分の仕事だと思ったので、奥様の枕元で、たまに奥様の体をさすりながら大人しく座っていた。看護婦さんの人数は随分多く、それ程心配することもなさそうだと思った。それでも、奥様の口から漏れ聴こえてくる苦痛の声はそれなりに響いた。勿論、実際に苦痛を感じている奥様に比べれば何ほどのこともないし、血を見るのも私は平気だ。たまに手を握った。
7時55分、一人目が生まれて、すぐにぎゃーぎゃー泣き出した。女の子だった。一通り体を拭いてから抱っこさせてもらった。抱っこした時にはもう落ち着いていて、割とすぐに目は開いた。まだ明るいか暗いかしか分からない目で、辺りをきょろきょろ見回しているように見えた。
ようこそ世界へ。なるほど、Hello Worldってこういう時の言葉なのかな、と脈絡もなく思った。娘さん一号を抱いて、娘さん二号が出てくるのを見守ろう、と声をかけた。
二人目が生まれたのは8時13分。帝王切開も想定していたので、自然分娩だったのは本当に、奥さんも娘さんも頑張ったと思う。脂汗をかきながらもほっとしたような顔をしている奥様の汗を拭いて、髪の毛をなでた。ジュースを飲ませた。娘さんは二人とも元気なようだった。
親族には報告の電話をかけた。この時息子さんは、私の父母の家に泊まりにいっていたが、「赤ちゃん産まれたよー」といったら、「だれのあかちゃん?ぼくの?あかちゃんあるく?」などと寝ぼけたことを言っていた。明日じっくり言い聞かせてやろうと軽く決意した。
その後、二人揃って奥様の体にのぼり、初乳を飲んだ。娘さん一号は、なにやらすぐ気がそれるようで、おっぱいが口から外れてはぎゃーぎゃー泣いていた。娘さん二号は、一心不乱におっぱいを飲んでいた。どうも性格にも結構差があるようだ。
その後、奥様のお母さんもかけつけてくれて、赤ちゃんを追いかけて入院病棟に行った。産後病棟は、管理入院で入っていた産前病棟とは全く雰囲気が違っていて、あちらこちらから赤ちゃんの泣き声がした。妙に耳に心地よかった。あー、息子さんを育てた経験からか、赤ちゃんの泣き声が随分いい音に聴こえるようになったなー、と思った。
その後診察を受けて、若干低血糖である以外は二人とも至極健康、という話を聞いた。一人目2190g、二人目1990g。やはり体重は軽めなので、一二週間は入院することになるらしかった。午後遅くまで奥様に付き添って入院病棟にいて、その後後輩の結婚式にいって乾杯の音頭をとった。
これが、私の私的な、双子が生まれるに至るまでの顛末だ。いつか読み直す時の為に、淡々と書き残しておきたいと思う。
私は三児の父になった。父親としての自覚はあるつもりだが、自分がきちんと「父親」になれているかどうかは、まだ分からない。ただ、それでも、全力で父親になって、いつか三人とも、「生まれてきて良かった」と心から思えるような人生にしてあげられるよう、力を尽くしたいなあと私は思っている。
奥さんのお腹にいるのが二卵性双生児だということは、早くから分かっていた。このご時世正直不安もあったが、そろそろ二人目が欲しいな、と思った時に授かった命だ。出来ることを全力でやろう、と決めた。
五月頃から奥様のつわりがひどくなって、六月の初めくらいまで、一日中立てないような状態が続いた。息子さん共々、奥様の実家で預かってもらっていた。
この時期は私の仕事が忙しかったこともあり、息子さんには随分負担をかけたと思う。幼稚園にも通い始めた矢先だった。8月にリリースが終わってからは可能な限り遊んであげているが、それでも奥様は自分の体で手一杯なことが多く、甘えたいのに甘えられないことは随分多かったろう。本当に頑張ってくれたと思う。
9月10月は小康状態というところだったが、11月下旬、子宮口が若干開き気味ということで、奥様が管理入院になった。この時、子宮口の直径が3cmになっていたらしい。
今日明日産まれるという話ではなかったが、予定日は12月下旬だ。随分早い。何しろ双子なので、その内来るかもと予想はしていたが、やはりそれなりにしんどかった。奥様のお母さんが泊りがけで息子さんの世話をしにきてくれた。私の父母も、週末は息子さんをこういう時、頼ることの出来る身内がいるということについては、感謝の二文字以外の言葉がない。
12月7日くらいからはもう陣痛促進剤使っていいかも、という話を聞いた。とすると産まれるのは8日か9日辺りかなー、と勝手に見当をつけていた。
12月3日の0時過ぎ、出血が始まった、けど収まるかも、というメールが奥様から届いた。ボランティア演奏と後輩の結婚式の予定が入っている日だったのであややーと思い、何とか回避してもらえんものかと正直思ったが、4時頃陣痛が始まったという連絡がきた。一も二もなく家を飛び出してタクシーを捕まえた。
ボランティア演奏については、朝方主催の人にメールで詫びをいれた。なんとかするから奥さんのそばにいてやれ、といわれた。ありがたかった。
病院に着いた頃は、まだ奥様の陣痛はそこまで切迫した感じではなかった。分娩室は、一見するとホテルの一室という風情で、想像していたような手術室のイメージとはだいぶ違った。コーンスープを買ったり、奥様の汗を拭いたりして過ごした。経緯は順調らしかった。
それ程眠くはなかったが、後がキツいから寝ておけといわれて、一、二時間ソファーで休ませてもらった。その後、ぼちぼち産まれそうだと呼ばれた。
息子さんの時もそうだったが、分娩室で父親の具体的な仕事は殆どない。ただ、奥様の苦痛に共感して、それに耐えるのが自分の仕事だと思ったので、奥様の枕元で、たまに奥様の体をさすりながら大人しく座っていた。看護婦さんの人数は随分多く、それ程心配することもなさそうだと思った。それでも、奥様の口から漏れ聴こえてくる苦痛の声はそれなりに響いた。勿論、実際に苦痛を感じている奥様に比べれば何ほどのこともないし、血を見るのも私は平気だ。たまに手を握った。
7時55分、一人目が生まれて、すぐにぎゃーぎゃー泣き出した。女の子だった。一通り体を拭いてから抱っこさせてもらった。抱っこした時にはもう落ち着いていて、割とすぐに目は開いた。まだ明るいか暗いかしか分からない目で、辺りをきょろきょろ見回しているように見えた。
ようこそ世界へ。なるほど、Hello Worldってこういう時の言葉なのかな、と脈絡もなく思った。娘さん一号を抱いて、娘さん二号が出てくるのを見守ろう、と声をかけた。
二人目が生まれたのは8時13分。帝王切開も想定していたので、自然分娩だったのは本当に、奥さんも娘さんも頑張ったと思う。脂汗をかきながらもほっとしたような顔をしている奥様の汗を拭いて、髪の毛をなでた。ジュースを飲ませた。娘さんは二人とも元気なようだった。
親族には報告の電話をかけた。この時息子さんは、私の父母の家に泊まりにいっていたが、「赤ちゃん産まれたよー」といったら、「だれのあかちゃん?ぼくの?あかちゃんあるく?」などと寝ぼけたことを言っていた。明日じっくり言い聞かせてやろうと軽く決意した。
その後、二人揃って奥様の体にのぼり、初乳を飲んだ。娘さん一号は、なにやらすぐ気がそれるようで、おっぱいが口から外れてはぎゃーぎゃー泣いていた。娘さん二号は、一心不乱におっぱいを飲んでいた。どうも性格にも結構差があるようだ。
その後、奥様のお母さんもかけつけてくれて、赤ちゃんを追いかけて入院病棟に行った。産後病棟は、管理入院で入っていた産前病棟とは全く雰囲気が違っていて、あちらこちらから赤ちゃんの泣き声がした。妙に耳に心地よかった。あー、息子さんを育てた経験からか、赤ちゃんの泣き声が随分いい音に聴こえるようになったなー、と思った。
その後診察を受けて、若干低血糖である以外は二人とも至極健康、という話を聞いた。一人目2190g、二人目1990g。やはり体重は軽めなので、一二週間は入院することになるらしかった。午後遅くまで奥様に付き添って入院病棟にいて、その後後輩の結婚式にいって乾杯の音頭をとった。
これが、私の私的な、双子が生まれるに至るまでの顛末だ。いつか読み直す時の為に、淡々と書き残しておきたいと思う。
私は三児の父になった。父親としての自覚はあるつもりだが、自分がきちんと「父親」になれているかどうかは、まだ分からない。ただ、それでも、全力で父親になって、いつか三人とも、「生まれてきて良かった」と心から思えるような人生にしてあげられるよう、力を尽くしたいなあと私は思っている。
2011年10月21日
息子さんを見ていて、「非を認める」や「謝る」ということについて考えさせられたこと。
昨夜からの顛末をちょっとメモしておく。
・息子さん(4歳)、奥様が作業をしている後ろで、奥様のハサミで奥様の髪をちょっと切ってしまう
・その夜、私が息子さんに諮問するが、息子さん「きってないよ?」と嘘をつく
→この時は、状況証拠しかなかった為、私が「じゃあ信じる」といって終了
・翌朝、奥様が「ママの髪切った人、はーい!」と誘導尋問をしたら、勢いで「あい!」と手を挙げてしまう
・「パパに嘘ついたこと謝らなきゃでしょー?」と奥様に言われて、散々逡巡した後私に謝る
こんな感じでした。
幾つか考えたこと。
・子供に限らず、「自分の非を認めて、謝る」ということは物凄いエネルギーを必要とするんだなあ、ということ
・いたずらをするのは子供の仕事なので全くかまわないが、悪いことをした時はきちんと反省して謝らなくてはいけない、ということを、今後息子さんにどう教えていくかなあ、ということ
・けれど、口先だけで謝る人にもなってほしくないなあ、ということ
・きちんと、「何が悪かったのか」ということについては納得するように説明しないといけない、ということ(今回の場合、悪かったのは髪を切ったことというより嘘をついてごまかしたこと)
・勿論、大人にも非があったら子供にちゃんと謝らなくてはいけない、ということ
まず、子供はいたずらもするし、嘘もつく。そりゃ当たり前だ。子供が純真で無邪気だなどというのは、完全無欠な大人の幻想であり、そういう世界は絵本の中にしか存在しない。いたずらをするのは子供の仕事でもある。
ただ、自分の非をごまかして謝らない人にはなって欲しくないので、「悪いことをしたらきちんと謝らなくてはいけない」ということは学んで欲しい。その為には、「嘘をつくと結局皆嫌な気分になるだけ」ということが分かってもらえればいいのではないかなー、とも思うし、親も間違えたらきちんと謝るという姿勢を見せる必要があるのではないかな、とも思う。ただ、何が悪いのか分からないまま謝って欲しくもないので、根気強くそういうことは教えてあげなくてはいけない。
自分の子供の頃を思い出しても、「反省してもらう」というのは非常に難しいとは思うのだが、まあ「何が悪かったのか」を納得するまで教えた上で、きちんと叱るしか方法は多分ないのだろう、と思う。
ただまあ、「自分の非を認める」っていうことは、大人ですらなかなか出来ない人がいるのだから、やっぱり子供にとっても大変なことなのだろう、とは思う。負けん気みたいなものも失って欲しくはないし。難しい。
今回の場合、最初「髪を黙って切る」ということの何が悪いのか分からなかった、という点はあった気がする。よくなかったのはその後嘘をついたことだけど。まあ、その点は帰ってからフォローしてみる。
以上、今後とも継続した課題。
・息子さん(4歳)、奥様が作業をしている後ろで、奥様のハサミで奥様の髪をちょっと切ってしまう
・その夜、私が息子さんに諮問するが、息子さん「きってないよ?」と嘘をつく
→この時は、状況証拠しかなかった為、私が「じゃあ信じる」といって終了
・翌朝、奥様が「ママの髪切った人、はーい!」と誘導尋問をしたら、勢いで「あい!」と手を挙げてしまう
・「パパに嘘ついたこと謝らなきゃでしょー?」と奥様に言われて、散々逡巡した後私に謝る
こんな感じでした。
幾つか考えたこと。
・子供に限らず、「自分の非を認めて、謝る」ということは物凄いエネルギーを必要とするんだなあ、ということ
・いたずらをするのは子供の仕事なので全くかまわないが、悪いことをした時はきちんと反省して謝らなくてはいけない、ということを、今後息子さんにどう教えていくかなあ、ということ
・けれど、口先だけで謝る人にもなってほしくないなあ、ということ
・きちんと、「何が悪かったのか」ということについては納得するように説明しないといけない、ということ(今回の場合、悪かったのは髪を切ったことというより嘘をついてごまかしたこと)
・勿論、大人にも非があったら子供にちゃんと謝らなくてはいけない、ということ
まず、子供はいたずらもするし、嘘もつく。そりゃ当たり前だ。子供が純真で無邪気だなどというのは、完全無欠な大人の幻想であり、そういう世界は絵本の中にしか存在しない。いたずらをするのは子供の仕事でもある。
ただ、自分の非をごまかして謝らない人にはなって欲しくないので、「悪いことをしたらきちんと謝らなくてはいけない」ということは学んで欲しい。その為には、「嘘をつくと結局皆嫌な気分になるだけ」ということが分かってもらえればいいのではないかなー、とも思うし、親も間違えたらきちんと謝るという姿勢を見せる必要があるのではないかな、とも思う。ただ、何が悪いのか分からないまま謝って欲しくもないので、根気強くそういうことは教えてあげなくてはいけない。
自分の子供の頃を思い出しても、「反省してもらう」というのは非常に難しいとは思うのだが、まあ「何が悪かったのか」を納得するまで教えた上で、きちんと叱るしか方法は多分ないのだろう、と思う。
ただまあ、「自分の非を認める」っていうことは、大人ですらなかなか出来ない人がいるのだから、やっぱり子供にとっても大変なことなのだろう、とは思う。負けん気みたいなものも失って欲しくはないし。難しい。
今回の場合、最初「髪を黙って切る」ということの何が悪いのか分からなかった、という点はあった気がする。よくなかったのはその後嘘をついたことだけど。まあ、その点は帰ってからフォローしてみる。
以上、今後とも継続した課題。
2011年06月21日
今日のしんざきが息子さんの保育参観にいってきた話 11/06/21
今日は午前半休をとって、幼稚園の保育参観というものに行ってきました。
息子さんや息子さんのお友達、その他園児たちがわきゃわきゃと大挙しているのを観察してきたわけですが。
幼稚園の活動をじっくり見たことは初めてですし、幾つか個人的に気づいたことがあるので書きとめておこうと思います。
あ、一般的な話をするつもりは毛頭ありませんし、珍しいエピソードも多分それ程出てきませんので悪しからず。
息子さん:長男。3歳と11ヶ月。幼稚園年少。好きなもの:キュウリ、おっとっと
私:三十路初頭。ケーナ吹き。好きなもの:キャベツ太郎
息子さんが通っている幼稚園:カトリック系。一クラス10人くらいで、多分少人数主義なんだと思う。担任の先生はいるが、それ以外にも2,3人手伝いの先生がいる。
○参観した光景の概要
9:30自転車で息子さんを抱えて通園
10:20くらいまで自由時間、息子さんブロックで遊んだりお友達と追いかけっこをしたり
10:20くらいから園児たちが外に借り出されて、音楽に合わせて体操
10:40くらいから室内に移動、先生と手遊びをしたり歌を歌ったりお話を聞いたり(カトリック系幼稚園なのでキリスト教っぽい話だった)
11:15くらいから工作の時間、紙で出来た魚に飾り付け
12:00くらいからお弁当の時間。参観時間終了、息子さんにバイバイして私退出
○息子さんの人間関係について
自由時間の行動を見ていて思ったこと。息子さん、コップを出してきてそこに飲み物を入れるマネをして、その辺の人に振舞う、おままごと遊びをしていた。
で、大人は相手をしてくれるわけで、「おいしーねー♪」とか言われて息子さんご機嫌なわけだが、子供は自分のやりたいことをやっているわけで、あんまり乗ってくれない。その辺見てると、まだ息子さん、「お友達に合わせて遊ぶ」ということはあんまり出来ていなかったように思う。つまり、自分のしたい遊びを他人に推進することは出来るが、友達がしている遊びに合わせてそれに混ぜてもらうことに習熟していない。
これは、大人にたくさん遊んでもらった成功体験の裏返しかなあ、とか思ったのだが、奥様に言わせると「4歳前後の男の子なんて皆そうじゃない?」とのこと。そんなもんか。
あと、暫く見ていたら女の子二人組みのところに混ぜてもらってちゃっかり二人と手を繋いで遊んでいたりもしたので安心した。
○クラスでの息子さんの行動について
やはりパパがいるとそっちに注意を引かれるらしく、始終私に抱きつきにきたりしていたのでその点は普段通りではなかった気がするが、思ったより先生のお話も行儀よく聞けていたし、ハサミを使った工作も上手に出来ていた。よく頑張った。
息子さんは割りとはしっこい方だと思うのだが、クラスにはもう一人はしっこいと思われる女の子がいて、なんか割とその子と張り合っているようなところもあった。ライバルがいるのは良いことだ。その女の子の方がだいぶポーカーフェイスというか、クールなのだが。
関係ないが息子さんのクラスの女の子は可愛い子(ただし平均3歳)が多い。近所には幼馴染の女の子(2歳)もいるし、息子さん随分恵まれた環境だな。本人に「クラスで誰が一番好き?」と聴くと「○○くん!(男の子の名前)」という答えが返ってくるけど。
自分で棚に置いた折り紙のお魚の存在を忘れて、「だれかぼくのおさかなしらないー?」とか聞いていた息子さんはいい味出してました。
あと、体操では「えーびもかーにも甲殻類」とかなんかシュールな歌詞の曲で踊ってました。有名な曲らしいですね。お母さんが一人、「うちでえびかに良く言ってるから何かと思ってたけど、これだったのね!」とか言ってらっしゃいました。
取り敢えず今日はこれくらいで。
息子さんや息子さんのお友達、その他園児たちがわきゃわきゃと大挙しているのを観察してきたわけですが。
幼稚園の活動をじっくり見たことは初めてですし、幾つか個人的に気づいたことがあるので書きとめておこうと思います。
あ、一般的な話をするつもりは毛頭ありませんし、珍しいエピソードも多分それ程出てきませんので悪しからず。
息子さん:長男。3歳と11ヶ月。幼稚園年少。好きなもの:キュウリ、おっとっと
私:三十路初頭。ケーナ吹き。好きなもの:キャベツ太郎
息子さんが通っている幼稚園:カトリック系。一クラス10人くらいで、多分少人数主義なんだと思う。担任の先生はいるが、それ以外にも2,3人手伝いの先生がいる。
○参観した光景の概要
9:30自転車で息子さんを抱えて通園
10:20くらいまで自由時間、息子さんブロックで遊んだりお友達と追いかけっこをしたり
10:20くらいから園児たちが外に借り出されて、音楽に合わせて体操
10:40くらいから室内に移動、先生と手遊びをしたり歌を歌ったりお話を聞いたり(カトリック系幼稚園なのでキリスト教っぽい話だった)
11:15くらいから工作の時間、紙で出来た魚に飾り付け
12:00くらいからお弁当の時間。参観時間終了、息子さんにバイバイして私退出
○息子さんの人間関係について
自由時間の行動を見ていて思ったこと。息子さん、コップを出してきてそこに飲み物を入れるマネをして、その辺の人に振舞う、おままごと遊びをしていた。
で、大人は相手をしてくれるわけで、「おいしーねー♪」とか言われて息子さんご機嫌なわけだが、子供は自分のやりたいことをやっているわけで、あんまり乗ってくれない。その辺見てると、まだ息子さん、「お友達に合わせて遊ぶ」ということはあんまり出来ていなかったように思う。つまり、自分のしたい遊びを他人に推進することは出来るが、友達がしている遊びに合わせてそれに混ぜてもらうことに習熟していない。
これは、大人にたくさん遊んでもらった成功体験の裏返しかなあ、とか思ったのだが、奥様に言わせると「4歳前後の男の子なんて皆そうじゃない?」とのこと。そんなもんか。
あと、暫く見ていたら女の子二人組みのところに混ぜてもらってちゃっかり二人と手を繋いで遊んでいたりもしたので安心した。
○クラスでの息子さんの行動について
やはりパパがいるとそっちに注意を引かれるらしく、始終私に抱きつきにきたりしていたのでその点は普段通りではなかった気がするが、思ったより先生のお話も行儀よく聞けていたし、ハサミを使った工作も上手に出来ていた。よく頑張った。
息子さんは割りとはしっこい方だと思うのだが、クラスにはもう一人はしっこいと思われる女の子がいて、なんか割とその子と張り合っているようなところもあった。ライバルがいるのは良いことだ。その女の子の方がだいぶポーカーフェイスというか、クールなのだが。
関係ないが息子さんのクラスの女の子は可愛い子(ただし平均3歳)が多い。近所には幼馴染の女の子(2歳)もいるし、息子さん随分恵まれた環境だな。本人に「クラスで誰が一番好き?」と聴くと「○○くん!(男の子の名前)」という答えが返ってくるけど。
自分で棚に置いた折り紙のお魚の存在を忘れて、「だれかぼくのおさかなしらないー?」とか聞いていた息子さんはいい味出してました。
あと、体操では「えーびもかーにも甲殻類」とかなんかシュールな歌詞の曲で踊ってました。有名な曲らしいですね。お母さんが一人、「うちでえびかに良く言ってるから何かと思ってたけど、これだったのね!」とか言ってらっしゃいました。
取り敢えず今日はこれくらいで。
2011年02月01日
「ルールを定める」ことと、子育てについての最近の雑感。
息子さんは3歳7ヶ月になった。よく喋るし、よく笑うし、たまに泣くし、我侭も言う時は言う。
で、親としては、子供のわがままに対するアウト-セーフのラインを結構考えたりする訳である。ある程度自分の欲求を制御する術は身につけて欲しいし、かといって何でもかんでもアウトだと、それはそれで「欲しいという感情を表に出すこと」をスポイルしてしまう気がする。
この辺は勿論私だけの問題ではなく、奥様ともちょくちょく話し合いながら大体の方針を決めていたりもする。こういう時、夫婦間の倫理感がそれ程ずれていないのは助かる。
現在うちの家庭では、幾つかは妥協しないルールを設けていると思う。
例えば。
・お風呂を上がる時は10数えてから。
・ご飯をおもちゃにしない。
・出されたものはちゃんと食べる。
・とにかく残さない。ただし、食べ切らなかった場合は大人に食べてもらってもいい。
・ただし、あまり食べられなかった場合は食後のデザートは無し。
・ご飯の前にはおもちゃを片付ける。
・食べる前と後には「いただきます」「ごちそうさま」を言う。
・ご飯の時間、寝る時間になったらやりかけの遊びでも中断する。
・「ありがとう」「ごめんなさい」はちゃんと口に出して言う。
・人が遊んでいるもの、使っているものはとってはいけない。順番はちゃんと守る。
まあ些細なものばかりだが、どうでもいいが食事関係のルールばっかりだな。勿論、上に書いていること以外でも、基準に基いて叱ることはままあるし、もうちょっと大枠でのルールも当然ある。
こういうものは、一度決めたら揺るがさないのが重要なんじゃないかなあ、と、私は思っている。あと、父母の間で方針の不一致が発生しないことも重要だ。子供には「ルール」や「ルールに従うこと」を学習することも必要で、その為にはルールの側が揺らいではいけない、と思う。
ただ、ルールはルールとして、子供には「自分は大切にされている」ということを実感することも必要だな、と思っている。
ルールは基本子供の欲求と相反するものばかりなので、ルール以外で息子さんが何か「したいこと」を出してきた時は、出来る限り聞いてあげたいと思うし、休日にはなるべく頑張ってはいる。普段は奥様の方に負担をかけていると思うが。
この辺のバランス調整は難しいと思うし、そういったバランス調整を試行錯誤していくことが子育てってことなんだろうなー、と漠然と思っている。そういう意味で、子育てと親育てはつくづく同義語だ。
そんなことを考えながら。今後とも、息子さんとセットで親としてもレベルを上げていきたいと思う。
で、親としては、子供のわがままに対するアウト-セーフのラインを結構考えたりする訳である。ある程度自分の欲求を制御する術は身につけて欲しいし、かといって何でもかんでもアウトだと、それはそれで「欲しいという感情を表に出すこと」をスポイルしてしまう気がする。
この辺は勿論私だけの問題ではなく、奥様ともちょくちょく話し合いながら大体の方針を決めていたりもする。こういう時、夫婦間の倫理感がそれ程ずれていないのは助かる。
現在うちの家庭では、幾つかは妥協しないルールを設けていると思う。
例えば。
・お風呂を上がる時は10数えてから。
・ご飯をおもちゃにしない。
・出されたものはちゃんと食べる。
・とにかく残さない。ただし、食べ切らなかった場合は大人に食べてもらってもいい。
・ただし、あまり食べられなかった場合は食後のデザートは無し。
・ご飯の前にはおもちゃを片付ける。
・食べる前と後には「いただきます」「ごちそうさま」を言う。
・ご飯の時間、寝る時間になったらやりかけの遊びでも中断する。
・「ありがとう」「ごめんなさい」はちゃんと口に出して言う。
・人が遊んでいるもの、使っているものはとってはいけない。順番はちゃんと守る。
まあ些細なものばかりだが、どうでもいいが食事関係のルールばっかりだな。勿論、上に書いていること以外でも、基準に基いて叱ることはままあるし、もうちょっと大枠でのルールも当然ある。
こういうものは、一度決めたら揺るがさないのが重要なんじゃないかなあ、と、私は思っている。あと、父母の間で方針の不一致が発生しないことも重要だ。子供には「ルール」や「ルールに従うこと」を学習することも必要で、その為にはルールの側が揺らいではいけない、と思う。
ただ、ルールはルールとして、子供には「自分は大切にされている」ということを実感することも必要だな、と思っている。
ルールは基本子供の欲求と相反するものばかりなので、ルール以外で息子さんが何か「したいこと」を出してきた時は、出来る限り聞いてあげたいと思うし、休日にはなるべく頑張ってはいる。普段は奥様の方に負担をかけていると思うが。
この辺のバランス調整は難しいと思うし、そういったバランス調整を試行錯誤していくことが子育てってことなんだろうなー、と漠然と思っている。そういう意味で、子育てと親育てはつくづく同義語だ。
そんなことを考えながら。今後とも、息子さんとセットで親としてもレベルを上げていきたいと思う。
2010年12月16日
子育てにおける、漫画やゲームについての私の考え。
それ程時事ネタを受けての話ではなく、以前からの抱負のようなもの。時事ネタとは離れた文脈で読んで頂けると幸い。
私自身は、漫画だのゲームだのを散々摂取して今日まで来た訳だし、いかがわしい知識や創作物にも時には触れることもあったと思うし、その上で今、こうしている。
それなりには大量のコンテンツを吸収してきたと思うし、それなりにはまともに育ったと思うし、育ててもらったとも思う。そういう点については、私は自信を持っている。
だから、私は、その自信を元に、二つのことを信じている。
子供にはちゃんと判断力があり、何か大人が「いけないこと」だと考えていることに触れたとしても、きちんと判断して、時には自ら軌道修正をして育つことが可能だ、ということ。
親がきちんと接すれば、子供からコンテンツを隠蔽するようなことをしなくても、多分ちゃんと育ってくれるのだ、ということ。
私には大した意見はない。ただ、色んな創作物やゲームを食べて育ってきた人間として、何か創作物やゲームに対して恩返しが出来ることがあるかというと、自分の子供にどう接するか、ということに落ち着く気がする。
大人が教えたがらないことでも必要に応じてきちんと教えて、Webにも漫画にもゲームにも触れたいなら触れてもらって、ほら立派に育ちました、って人に言えるような子育てをしたい。そんな風に思っている。
色々な情報やコンテンツに、偏見なく、かつ敬意をもって接する人になってくれればいいなあ、と。
多分それが、Webやゲームや漫画を食って育った私から、Webやゲームや漫画へのささやかな恩返しになると思う。
私自身は、漫画だのゲームだのを散々摂取して今日まで来た訳だし、いかがわしい知識や創作物にも時には触れることもあったと思うし、その上で今、こうしている。
それなりには大量のコンテンツを吸収してきたと思うし、それなりにはまともに育ったと思うし、育ててもらったとも思う。そういう点については、私は自信を持っている。
だから、私は、その自信を元に、二つのことを信じている。
子供にはちゃんと判断力があり、何か大人が「いけないこと」だと考えていることに触れたとしても、きちんと判断して、時には自ら軌道修正をして育つことが可能だ、ということ。
親がきちんと接すれば、子供からコンテンツを隠蔽するようなことをしなくても、多分ちゃんと育ってくれるのだ、ということ。
私には大した意見はない。ただ、色んな創作物やゲームを食べて育ってきた人間として、何か創作物やゲームに対して恩返しが出来ることがあるかというと、自分の子供にどう接するか、ということに落ち着く気がする。
大人が教えたがらないことでも必要に応じてきちんと教えて、Webにも漫画にもゲームにも触れたいなら触れてもらって、ほら立派に育ちました、って人に言えるような子育てをしたい。そんな風に思っている。
色々な情報やコンテンツに、偏見なく、かつ敬意をもって接する人になってくれればいいなあ、と。
多分それが、Webやゲームや漫画を食って育った私から、Webやゲームや漫画へのささやかな恩返しになると思う。
2010年10月26日
子育てについて漠然と考えている指針、及び、多分子育てに一番大事なたった一つのこと
息子さんは三歳三ヶ月である。たくさんしゃべるし、たくさん走り回るし、我侭も割りと言うし、たくさん笑う。
当たり前だが私と奥様にとって息子さんは初めての子供なので、「育て方」というものについては全くの手探りである。どう接すれば幸せに育ってくれるのか、日々あれこれ考えながら息子さんと遊んだりお話をしたりして、しかしそれが正しいという保障は地上に存在しない。難儀な話である。
そんな中でも、なんとなくだけど、大雑把な指針が自分の中に出来つつある。正しいのかどうかは全然分からないけれど、今後忘れない為にも、メモ的に書いておきたい。
大きな指針は、私の中に二つしかない。
・自分を好きになって欲しい。他人を好きになって欲しい。
・社会で生きていくにあたって困らない程度の倫理観、規範を持たせてあげたい。
まず私の中に、「世界って結構いいものなんじゃないか」っていう根本認識みたいなものがあって、この認識で私が損をした記憶があまりないので、これを息子さんにももたせてあげたいなあと思っている。で、その根っこの方には、私が割りと自分好きであり、他人も割りと好きであり、要するに人間が好きという部分があるんじゃないかなあと思っている。
要するに、自分や他人に対する信頼感、人を好きになる能力、みたいなものを持たせてあげたい。どこかで壁にぶつかることは勿論あるんだろうけど、それはその時考えればいい。
で、その為に何をすればいいかなーって考えてみると、結局「コミュニケーションや遊びの成功体験を積ませてあげる」ということと、「いわゆる「よくないこと」をしたらきちんと失敗体験として認識させてあげる」ということ、これをあんまり急がないでやればいいんじゃないかなあ、となった。
人と話をしてみて、ちゃんと話が出来た。人と遊べて、楽しかった。そういうことが多分成功体験だ。そういう「人とかかわって楽しい」ことが重なれば、多分「人生って結構楽しい」っていう基本的な土台につながってくんじゃないかなあ、と思ってる。私の場合、そうだったと思う。
で。
規律とか倫理観の方の話をすると。息子さんと話す限り、3歳児の認識能力というものは結構侮れなくて、「どういうことはしてはいけない」「どういうことはしなくてはいけない」というのを、既に結構分かっている。勿論、こちらが口すっぱく言っているから、ということもあるのだが。
しかし、3歳児はいかんせんまだ子供なので、頭では分かっていてもこれはしたくない、これはしたい、ということがままある。本能のまま突っ走りたい部分が非常に大きい。
これには結局のところ、「していいこと、してはいけないこと」を根気強く言い含めて、叱るべき時には叱りつつ、自制心とか自律心みたいなものがだんだん育ってくるのを待つしかないのかなあ、などと思う。
上で書いたことを簡単に換言すると、「いわゆるいいことをしたら褒める、いわゆるよくないことをしたら叱る」「こちらがして欲しいことをしてあげる」「たくさん話をする、話を聞く」といった、当たり前のことに落ち着くんじゃないかと思う。当たり前のことだけど、掘り下げてみると多分そういうことだ。
で。
上の二つ以前の問題で、多分一番重要なのは、これなんじゃないかと思う。
・親が幸せな姿を子供に見せること
私の、せいぜい10数年程度の経験に照らしての話なのだが、子供の幸せの要件の中に、「親も幸せそうである」っていうのはかなり大きな位置を占めているのではないか、と思うのだ。子供の幸せと親の幸せを別会計にしているテキストをたまに見るけれど、それは多分違うんじゃないか、と思うのだ。
だから、私にせよ奥様にせよ、今の幸せを大事に、息子さんと一緒に享受していこうと考えている。それが絶対条件だと私は考えている。
まあ、木の上に立って見るのが親の仕事だから、当然どっかに限界はあるんだろうけど。今後もゆるゆるとやろうかと思う。
息子さんがいつの日か、「生まれてきて良かったなあ」としみじみ実感してくれますように。
当たり前だが私と奥様にとって息子さんは初めての子供なので、「育て方」というものについては全くの手探りである。どう接すれば幸せに育ってくれるのか、日々あれこれ考えながら息子さんと遊んだりお話をしたりして、しかしそれが正しいという保障は地上に存在しない。難儀な話である。
そんな中でも、なんとなくだけど、大雑把な指針が自分の中に出来つつある。正しいのかどうかは全然分からないけれど、今後忘れない為にも、メモ的に書いておきたい。
大きな指針は、私の中に二つしかない。
・自分を好きになって欲しい。他人を好きになって欲しい。
・社会で生きていくにあたって困らない程度の倫理観、規範を持たせてあげたい。
まず私の中に、「世界って結構いいものなんじゃないか」っていう根本認識みたいなものがあって、この認識で私が損をした記憶があまりないので、これを息子さんにももたせてあげたいなあと思っている。で、その根っこの方には、私が割りと自分好きであり、他人も割りと好きであり、要するに人間が好きという部分があるんじゃないかなあと思っている。
要するに、自分や他人に対する信頼感、人を好きになる能力、みたいなものを持たせてあげたい。どこかで壁にぶつかることは勿論あるんだろうけど、それはその時考えればいい。
で、その為に何をすればいいかなーって考えてみると、結局「コミュニケーションや遊びの成功体験を積ませてあげる」ということと、「いわゆる「よくないこと」をしたらきちんと失敗体験として認識させてあげる」ということ、これをあんまり急がないでやればいいんじゃないかなあ、となった。
人と話をしてみて、ちゃんと話が出来た。人と遊べて、楽しかった。そういうことが多分成功体験だ。そういう「人とかかわって楽しい」ことが重なれば、多分「人生って結構楽しい」っていう基本的な土台につながってくんじゃないかなあ、と思ってる。私の場合、そうだったと思う。
で。
規律とか倫理観の方の話をすると。息子さんと話す限り、3歳児の認識能力というものは結構侮れなくて、「どういうことはしてはいけない」「どういうことはしなくてはいけない」というのを、既に結構分かっている。勿論、こちらが口すっぱく言っているから、ということもあるのだが。
しかし、3歳児はいかんせんまだ子供なので、頭では分かっていてもこれはしたくない、これはしたい、ということがままある。本能のまま突っ走りたい部分が非常に大きい。
これには結局のところ、「していいこと、してはいけないこと」を根気強く言い含めて、叱るべき時には叱りつつ、自制心とか自律心みたいなものがだんだん育ってくるのを待つしかないのかなあ、などと思う。
上で書いたことを簡単に換言すると、「いわゆるいいことをしたら褒める、いわゆるよくないことをしたら叱る」「こちらがして欲しいことをしてあげる」「たくさん話をする、話を聞く」といった、当たり前のことに落ち着くんじゃないかと思う。当たり前のことだけど、掘り下げてみると多分そういうことだ。
で。
上の二つ以前の問題で、多分一番重要なのは、これなんじゃないかと思う。
・親が幸せな姿を子供に見せること
私の、せいぜい10数年程度の経験に照らしての話なのだが、子供の幸せの要件の中に、「親も幸せそうである」っていうのはかなり大きな位置を占めているのではないか、と思うのだ。子供の幸せと親の幸せを別会計にしているテキストをたまに見るけれど、それは多分違うんじゃないか、と思うのだ。
だから、私にせよ奥様にせよ、今の幸せを大事に、息子さんと一緒に享受していこうと考えている。それが絶対条件だと私は考えている。
まあ、木の上に立って見るのが親の仕事だから、当然どっかに限界はあるんだろうけど。今後もゆるゆるとやろうかと思う。
息子さんがいつの日か、「生まれてきて良かったなあ」としみじみ実感してくれますように。
2010年07月23日
「むかしばなし」をする夜。
ちょっととりとめもない話をする。
息子さんは3歳になった。夜20時を過ぎると寝る時間である。
あわただしく息子さんの歯を磨いて、私が早く帰れた時は3人で、早く帰れなかった時は奥様と息子さんであわただしくお風呂に入って。嫌がる息子さんをとっ捕まえてドライヤーをかけ服を着せ、私と息子さんは大体奥様よりも先に寝支度が出来て二人で布団に転がる。
時にはごろんごろんとお相撲ごっこをし、時には絵本や紙芝居を読んで、きゃっきゃとした息子さんの声を聞いている内に奥様が部屋に入ってきて、お母さんの顔で息子さんの横に寝転がる。電気を消す。真っ暗な部屋の中でも、息子さんはしばらくごろんごろんと転がる。息子さんの寝相はひどい。翌朝、布団の上にそのまま寝続けているケースは極めて稀である。
最近、暗くなった部屋の中で、息子さんが「おはなししてー?」と言うようになった。
息子さんにお話をせがまれて、私はふーむ、と考える。時には奥様に投げる。時にはその日一日の自分の行動について話す。時には即興で何か話を作る。息子さんは、大体「でんしゃのお話」をして欲しい、と言う。「そうぶせんのおはなし」や「ぎんざせんのおはなし」を要望されることもある。大抵何を話しても喜ぶ。
時折、むかしばなし、を聞かせるようになった。「むかしむかし、あるところに」で始まる諸々のお話。桃太郎は話した。浦島太郎も話した。白雪姫も話した。赤頭巾ちゃんも、まあ余り細部に踏み込まない程度に話した。昨日はかぐや姫も話した。
昔話をしていると、「分かりやすい話」がどうやって形作られるのかがよく分かる。「昔むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました」この一言だけで、時間と、場所と、キャラクターの設定が終わる。息子さんはほんのこの一言だけで、暗い中目を輝かせて「つづきは?つづきは?」と食いついてくる。凄いなあ、と思う。話の作りっていうのはこうあるべきだなあ、とも思う。
それと同時に、お話を聞かせたり絵本を読んだりというのは、「情報の伝達」なのではなく、飽くまで「意思疎通」なのだなあ、とも思う。息子さんはさかんにあいのてを入れる。息子さんのあいの手に反応して話が進むこともあれば、とんでもない方向にブッ飛ぶこともあり(この前は桃太郎がいつの間にかアメリカに渡って大統領になっていた)、話が終わって「おしまいー?」と残念そうに言われたりすることもある。話の途中で息子さんがすやすや寝ていることも、ある。当然ある。
「おはなし」は、話す側と聞く側によって変容していく。当たり前の話だ。
ここで、私は二つのことを考える。
一つは、数限りなく夜子供が寝ている横での「お話」に使われていて、それでも核となる部分が変わらない、「むかしばなし」というものは凄い力を持っているんだなあ、ということ。
もう一つは、抽象的なのだが、何かを伝えたり残したりしていくってこういうことなのかなあ、ということ。夜、暗い中寝転がっている息子さんに語りかける言葉が、だんだんだんだん降り積もって、息子さんという人間の中に何かが形成されていくのかなあ、ということ。
かつて私がそうだったように。かつて私が聞いた話を、今、つぎはぎのように思い出しながら息子さんにしているように。
いつか息子さんも、誰か別の人に桃太郎や浦島太郎の話をする時が来るのかなあと思いながら、私は息子さんの「おはなししてー?」という声を聞く。そんなとりとめもない話。
息子さんは3歳になった。夜20時を過ぎると寝る時間である。
あわただしく息子さんの歯を磨いて、私が早く帰れた時は3人で、早く帰れなかった時は奥様と息子さんであわただしくお風呂に入って。嫌がる息子さんをとっ捕まえてドライヤーをかけ服を着せ、私と息子さんは大体奥様よりも先に寝支度が出来て二人で布団に転がる。
時にはごろんごろんとお相撲ごっこをし、時には絵本や紙芝居を読んで、きゃっきゃとした息子さんの声を聞いている内に奥様が部屋に入ってきて、お母さんの顔で息子さんの横に寝転がる。電気を消す。真っ暗な部屋の中でも、息子さんはしばらくごろんごろんと転がる。息子さんの寝相はひどい。翌朝、布団の上にそのまま寝続けているケースは極めて稀である。
最近、暗くなった部屋の中で、息子さんが「おはなししてー?」と言うようになった。
息子さんにお話をせがまれて、私はふーむ、と考える。時には奥様に投げる。時にはその日一日の自分の行動について話す。時には即興で何か話を作る。息子さんは、大体「でんしゃのお話」をして欲しい、と言う。「そうぶせんのおはなし」や「ぎんざせんのおはなし」を要望されることもある。大抵何を話しても喜ぶ。
時折、むかしばなし、を聞かせるようになった。「むかしむかし、あるところに」で始まる諸々のお話。桃太郎は話した。浦島太郎も話した。白雪姫も話した。赤頭巾ちゃんも、まあ余り細部に踏み込まない程度に話した。昨日はかぐや姫も話した。
昔話をしていると、「分かりやすい話」がどうやって形作られるのかがよく分かる。「昔むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました」この一言だけで、時間と、場所と、キャラクターの設定が終わる。息子さんはほんのこの一言だけで、暗い中目を輝かせて「つづきは?つづきは?」と食いついてくる。凄いなあ、と思う。話の作りっていうのはこうあるべきだなあ、とも思う。
それと同時に、お話を聞かせたり絵本を読んだりというのは、「情報の伝達」なのではなく、飽くまで「意思疎通」なのだなあ、とも思う。息子さんはさかんにあいのてを入れる。息子さんのあいの手に反応して話が進むこともあれば、とんでもない方向にブッ飛ぶこともあり(この前は桃太郎がいつの間にかアメリカに渡って大統領になっていた)、話が終わって「おしまいー?」と残念そうに言われたりすることもある。話の途中で息子さんがすやすや寝ていることも、ある。当然ある。
「おはなし」は、話す側と聞く側によって変容していく。当たり前の話だ。
ここで、私は二つのことを考える。
一つは、数限りなく夜子供が寝ている横での「お話」に使われていて、それでも核となる部分が変わらない、「むかしばなし」というものは凄い力を持っているんだなあ、ということ。
もう一つは、抽象的なのだが、何かを伝えたり残したりしていくってこういうことなのかなあ、ということ。夜、暗い中寝転がっている息子さんに語りかける言葉が、だんだんだんだん降り積もって、息子さんという人間の中に何かが形成されていくのかなあ、ということ。
かつて私がそうだったように。かつて私が聞いた話を、今、つぎはぎのように思い出しながら息子さんにしているように。
いつか息子さんも、誰か別の人に桃太郎や浦島太郎の話をする時が来るのかなあと思いながら、私は息子さんの「おはなししてー?」という声を聞く。そんなとりとめもない話。
