2012年08月13日

昔、小学生に割り算の筆算教えてた時の教え方晒す

その内うちの子用に必要になりそうなので、備忘録的に。

昔というのは十数年前。一応このやり方で、大体の子は三桁÷二桁の割り算の筆算ができるところまでもってこれてた。教職免許もちではないので、実際の教壇でどう教えるのかは知らない。

対象者は、「割り算の筆算が分からない」という子。対象年齢は小学校高学年、場合によっては中学校低学年。三桁÷二桁なのは、二桁×二桁の掛け算が出来るかどうかもついでに確認出来るから、というのが理由。


仮に、205÷17という割り算の問題を想定する。途中の掛け算がシンプルなのと、余りが1出るので教えやすい、というのが理由。当時も大体この式を使っていた。


前提その一。教え方をステップ化して、どこでつまづくかを確認する。全部一度に理解出来る子は、少なくとも私が教えた中では滅多にいなかった。また、小4くらいで算数が苦手な子は、かなり初歩でつまづいたままなんとなく放置している場合もあるので、慎重に「つまづく場所」の発掘を行う。

前提その二。筆算というものは、幾つかのルールの集合である。ルールには、存在理由を細かく説明した方がいいものと、「そういうものなんだ」と流した方が理解が早いものがある。特に記法は殆どが後者で、桁数の概念が理解出来ないとどうしても理解出来ない場合が多い。どうしても「なんでこう書くの?」「なんでこうなるの?」と聞いてくる子には、一通り教え終わった後、はじめに戻って教えてあげる。(ただし、そういう疑問を持つ子は学習能力や学習意欲が高いので、そもそも事細かに教えなくても分かってしまう場合が多い)

以下は実際に教えるステップ。

1.「割り算という計算は、ある数の中に、別の数が何個はいるのかな?ということを当てる計算です」筆算以前の概略説明。ちなみに、「割る・割られる」という言葉は混乱の元なので、筆算の勉強中は封印していた。「割り算」という言葉自体が割り算を分かりにくくしている、と今でも思う。

2.205÷17の筆算式を板書。「205という数字に、17は何個入るのかなーということを当てます。筆算という便利なやり方があります。こんな風に書きます」記法は流した方がいい。覚えられるかどうかだけの問題。

3.「17は、「1」と「7」の二つの数字から出来ているので、まず二つの数字同士で比べます」重要なルール。桁数の考え方は、筆算の技術的には必要ないので、最後まで出来て、まだキャパシティがありそうなら後からおまけとして教える。よく出来たからご褒美に秘密を教えてあげる、として教えると食いつきがいい。

4.「20の中に17は入るかな?」数の大小の比較が出来るかどうかを確認。ここでつまづく子も、ごく少ないがいる。つまづいたら戻ってそちらの説明。

5.「17は20の中に何個入るかな?」4の延長だが、初歩の暗算が出来るかどうか一応確認。ここでつまづく子もいる。つまづいたら勿論確認。ちなみに、ここでつまづく場合二桁÷一桁の筆算に一旦切り替えた方が良い。

6.「はい、20の中に17は1個入るね。上に1と書いて、下に入った17を書きます」記法ルールなのでさらっと流す。覚えているかどうかは後から確認すればいい。

7.「20の中に17が1個入りました。けど、まだ数字が残ってるね。20の中に17を入れると、後数字がいくつ余るかな?」二桁同士の引き算が出来るかどうかの確認と、「余り」の概念の導入。割とつまづく子が多いステップ。引き算でつまづかない子については、単純に記法ルールとして流した方が覚えが早い場合が多い。

8.「3余ったね。けれど、205÷17の、残った5の数字がまだあります。これと3を合体させてやらなくてはいけないので、こうやっておろしてきます」記法ルール。つまづく子の数はそれなり、という印象。ただ、ここでつまづくと若干厄介で、「とにかく覚える」以外に解決方法があまりない。別の式で反復する。

9.「はい、35という数字が出来ました。35の中に、17はいくつ入るかな?」同じやり方で繰り返し。ここで、35÷17という、簡単だけど基本は分かっていないといけない、という計算が出てくるのが205÷17という式のメリット。

10.「35の中に、17は2つ入るね。17が2つあると幾つになるでしょう?」二桁×一桁の掛け算が出来るかどうかの確認。つまづいたら戻る。

11.「35の中に、17が2つで、34が入りました。1が残るね。1の中に17は入るかな?」余りの概念の定着。7で触れていると、ここでつまづく子は少ない。

12.「はい、数字を読んでみましょう。205の中に、17は12個入って、1余る、ということになります。確認してみようか。17×12は幾つになる?」検算のやり方と、二桁×二桁の計算が出来るか確認。出来ない場合そちらの勉強に遷移。


以上12ステップ。思い出しながら書いたら勉強になった。

今後必要になりそうな備忘録的内容に関してはまた書く。

posted by しんざき at 08:23 | Comment(5) | TrackBack(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月02日

息子さんが歯磨きを嫌がった事案について、考えたこと。 12/07/02

いつも通り、こういうことが可視化されるのも悪くはないと思うので、備忘録的に書いておきます。


【経緯】
・夜寝る前、息子さんが遊びを切り上げさせられて拗ねる。
→寝る前の歯磨きをしたくないと言い出す。
→いつもなら強制執行をするのだが、わがままを途中で切り上げる練習というのもさせてあげた方がいいか、と思ったので放置する。私、電気を消して寝た振り。
→息子さん、段々困り始める。「パパと仲直りしたいけどー」とか、「あんまり遅くまで起きてるのイヤだけどー」とか、聞こえるように独り言を言い出す。
→長女、次女を寝かしつけていた奥様助け舟。「「けどー」ってつけると独り言になっちゃうよ。何かして欲しい時は、ちゃんと「○○してください」って言うの」
→またしばらく逡巡した後、「ぱぱ、歯磨きしてください」とちゃんと言える。歯磨きをして、おはなしをして、9時20分くらいに就寝。


【考えたこと】
・奥様の助け舟は素晴らしかったと思う。言いにくいこと、言いたくないことでも、勇気を出してきちんと言葉にする練習は、今後もさせてあげたい。どんなことでも、言葉にすることは最重要。
・まあ、「パパ、のど乾いた」「のど乾いたらなんていうの?」「お水ください」みたいな会話はいつもしているが。
・私のやり方が適していたかどうかはよくわからない。意地っ張りなところを貫くことも時には重要だと思う。最終的には笑って寝られたので悪くはなかったと思うけれど。
・散々逡巡したのは、「口先だけで片付けることが出来ない」という性格もあるのかと思った。
・「寝る前は必ず歯磨き」「夜更かしは良くないこと」という習慣が定着しているのは5歳児的にはいいことだと思う。


取り敢えずこれくらいで。

posted by しんざき at 12:43 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月31日

「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す

ちょっと前、「子どもに「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と言われた時、「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」と返すのが最強」とかいうコピペをみて、心底アホかと思った。まさか親や教育者が本気にはしないと思うが、こういう一言は容易に知性を殺す。

「お前は何の役に立つの?」という言葉には、勿論「お前も今は役に立たないけれど、将来は役に立つだろう?それと同じだ」という含意があると思われる。子どもはこの含意を理解しない。「お前は役に立たない」と受け取る。これは、言ってはいけない言葉だ。こういう言葉が、子どもから学習自体を奪う。


子どもはどんな時に「こんなこと勉強して何の役に立つの?」というかというと、要はその分野が面白くない時、意味が分からない時、とにかくその勉強をしたくない時に言うのであって、つまり「どんな役に立つのか」→「役に立たないでしょ?」というのは勉強しないことの理由づけないし口実なのであり、飽くまで手段であって目的ではない(ソースは俺)。

つまり、こういう言葉を言う時、その子供はそもそも「その知識が役に立つとは思っていない」のだ。「役に立つ」という言葉の意味にもよるが、もしかすると実際にそうなのかも知れない。身に着けても直接使わない知識というものは、実際ある。


だが、大人はそれを承知の上で、「知識はどんな風に生きてくるのか」ということを力説し、また「役に立つこと」を実感させてあげないといけないと思う。直接、その場で勉強をさせる為ではない。知識を身に着けることの重要さ、というものを教える為だ。

それを教えることは大人の義務であり、その教え方を考えることは大人の義務だ。少なくとも、「将来役に立つから黙ってやっておけ」などと言ってはいけない。


要は、「大人も思考放棄してはいけない」ということだ。少なくとも私はそう思う。


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上記までで、実は書きたいことの半分は書いた。

で。じゃあ一体どういう風に教えればいいのか、という話なのだが。

以下、「子ども」という言葉は、私は小学校高学年から中学校くらいを想定して使っていることをご承知おきいただきたい。


多くの子どもに、「将来」という言葉は刺さらない。将来というのは、大抵の子供にとって、今まで生きた年月と同じ程度の時間を積み上げないと届かない、曖昧模糊とした概念だ。「将来なりたい職業」といった、もやもやとした想像と一緒に想起される言葉だ。

子どもには、何か別の方法で、「今何の役に立つのか」「今まで何かの役に立ったのか」を伝えてあげないといけない。

そして、それ以上に、「役に立つ」という言葉自体の概念を広げてあげなくてはいけない。もしかするとこの方が重要かも知れない。


どういう教え方が刺さるのか、というのは子供それぞれ、年代にもよるし環境にもよると思うけれど、ざっくりした方向性はあると思う。以下は私の考えだが、実際に効果があるかどうかは分からないし、今後修正するかも知れない。

・「役に立つ」ということを指して、どういうことを想定しているのかを確認し、それ以外でも知識が生きてくる場面というものはあるのだ、ということを説明する。
・その上で、現実に、知識がどのような場面で生きているのか、を具体的に説明する。
・子供に、「すぐに役には立たないけれど、何らかの体験が後で役に立った」という、実際の成功体験をさせてあげる。



まず最初に。「何の役に立つの?」と言われた時、多分一番初めに確認しなくてはいけないのは、「役に立つ」の定義だ。

子どもはまだ視野がそこまで広くはないので、「役に立つ」といった時、それが指している対象は意外と狭かったり、曖昧だったりする。例えば「仕事をする時使うかどうか」といった、ごく限定されたフィールドであり、かつその「仕事」のイメージ自体が固まっていない場合は多い(ソースは俺)。


それに対して、「知識が役に立つ場面」というのは、勿論仕事上で役に立つ場合も多々あるだろうが、実際にはもっとずっと広範だ。「役に立つ」という言葉自体が示している広さ、というものを教えてあげないといけない。


例えば、「二次方程式なんて何の役に立つの?」と聞かれたとする。

まず直接的には、私はシステムの仕事をやっているので、コーディング上二次方程式の概念が出てくる部分は山のようにある。二次方程式を知っていないと解決出来ないロジック、というのも山のようにある。コーディングで使うこともあれば、二次曲線をグラフに書き出す必要に迫られることもある。これは、もっとも直接的に「役に立つ」場面だ。

次に、「二次方程式という概念」を知っていることによって学ぶことが出来たこと、というものもある。最も端的な例として、プログラムの変数。xやyに一時的に数字を代入する、という概念を知っているかどうかで、もっと違う知識を手に入れる為の鍵を持っているかどうかの分かれ目が発生する。

こういった、「違う知識にアクセスする為のパスポートとしての知識」というのは、とても重要な考え方だ。


あるいは、「世界史なんて何の役に立つの?」と聞かれたとする。

直接的には、例えば一部の金融の情報などを仕入れる時、あるいは誰かにリーチする為のレポートを書く時、バックボーンとなる知識がないと話にならない、というものがある。例えば、EUR圏経済の話をする時、ヨーロッパの国際情勢の複雑さ、ヨーロッパの各国がどんな風に絡み合ってきたか、というようなことをざっくりとでも知っていないと、訳が分からないことになる。これが日本史でも、アジア史でも同じようなことが言える。

一方、「歴史というものに対する考え方」の重要性。世界史を勉強して一番に学ばなくてはいけないのは、「物事には多面的な見方がある」ということだ。ある事実とそれに伴う解釈が、別のどこかから見ても同じ形になるとは限らない、ということ。こういった見方が出来るかどうかというのは、それこそ人間としての器に影響しかねない重大事となる。


ほんの、ほんの一例だが、他にも山のような具体例がある筈だ。直接に「その知識」を知っているかどうかということももちろん重要だが、それ以上に、その沿革。知識の身に着け方、他の知識へのリーチ、誤った知識からの防御。そういった様々な「知識の重要性」というものを、大人は子どもに伝えなくてはならない。



それともう一つ、重要かも知れないと私が思っていることが、

・子供に、「すぐに役には立たないけれど、何らかの体験や学習が後で役に立った」という、実際の成功体験をさせてあげる。

という、言ってみれば「成功体験の機会」を子どもに作ってあげること。

そういった、「後から芽が出る」という体験をたくさんしている子どもであれば、学習や勉強についても同じような受け取り方をしてくれるかも知れない。勿論押しつけではない程度に、私も機会があれば、自分の子どもとそういった話をしてみようかと思う。



さて、大概長くなった。昼休みもぼちぼち終わりなので、今日はこれくらいで。
posted by しんざき at 12:36 | Comment(56) | TrackBack(4) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月07日

奥様と、長男について子育て会議をしたことについて 12/05/06

あんまりブログに書くようなことじゃないんじゃ、とも思ったが、こういうのが可視化されるのも有益かも知れないと思い、今後の為に議事録的なメモ を残しておこうかと思う。

息子さんは基本とても素直に育ってくれていると思うのだが、直近で二つばかり、若干揉めたケースがあって、それについて親としてした対応の評価、 現況、及び親としての今後の方針とか考えてみた。

なお、文中「息子さん」とか「奥様」とか記載してはいるが、当然実際にはそんな呼び方をしていないことはお断りしておく。


以下、一応議事録。


ケース1:息子さんが幼稚園にいくのを嫌がったケース

経緯:五月になって、息子さんが幼稚園に行く日の朝、腹痛を訴えて幼稚園に行くのを嫌がった、ということ が二、三日続いた。
幼稚園に行く前に泣くということはよくあったが、定常的な腹痛というのは初めて。色々他の事情もあって、奥様が二日程は休ませた。

推測:「ストレス性の腹痛だろう」というのは私と奥様の意見一致。ストレス性腹痛はストレスの原因が解決 しないと根本的に解決されないので、ストレスの原因を考えないといけない。

幼稚園が嫌なのか、というと本人曰くそうでもないらしく、ただ「お弁当が多すぎる」ということのみ嫌な点として挙げたとのこと。あちこちから話を聞いている限り、友達との関係も悪くなさそう。

とはいえ、恐らく

・幼稚園で、年中組になって環境が変わったことによるストレス
・双子が産まれて、奥様を独り占めできなくなったことによるストレス
→もしかすると、自分の留守中双子と奥様だけになることへの嫉妬?

が主因なのではないかなー、と、奥様との話し合いでは思った。私の所感としては、前者七割後者三割。

今後の方針:年中組に馴染んで、幼稚園が楽しくなれば原因の大部分は解決するとはおもった。ただ、そもそも腹痛で休んでいては馴染もうにも馴染めない。つまりストレスの原因が解決しない。

その為、奥様と相談して、

・朝お腹が痛くなっても、可能な限り幼稚園に連れていくこと
・その際、なるべくなら無理やりではなく、息子さんの希望や腹痛についてちゃんと聞いた上で、息子さんから「頑張る」という気持ちになるのが望ま しいと思われること
・幼稚園の先生はこういうことの専門家である為、状況を共有して、多少曖昧な聞き方でも「どうすればいいですかね?」的な助言をもらうといいと思 うこと

などを決めた。

成功体験でも失敗体験でも、子供は糧にすることが出来る。ただ、そもそも体験を積む機会がないとどうにもならない。親がするべきなのは、体験を積 む為の環境作り。

とにかく、息子さんの言い分はちゃんと聞こう、というのは前提だと思った。

・現時点での結果:今朝も「お腹が痛い」「幼稚園行けないかも」といい出したが、私が会社から電話して、 「お腹痛いのは大変だけど、それは体さんがまだ年中さんに慣れてないからで、幼稚園にいきさえすれば段々よくなる」という方向で説得。やっぱりだいぶぐずぐずしたが、最後には 「がんばって幼稚園いく」という方向になってくれて、無事通園。

いつも通りなのだが、幼稚園に行った後は元気になってくれたらしい。よく頑張ってくれたと思う。今後もあるかも知れないが、とりあえずひと安心。

双子に対する嫉妬、みたいな要素については、出来る範囲で息子さんをひいきしてあげる、土日は私がたくさん遊ぶ、という点では以前からの方針通り。



ケース2:息子さんがお友達の家に遊びにいくのを嫌がったケース

経緯:奥様が事前に、幼稚園での息子さんお友達の家に遊びに行くと約束していた。
ところが、当日朝になって、「行かない」「パパとプラレールで遊んでたい」と言い出して大泣きした。

親としては、事前に行くと言っていたこと、行くと約束していたことを気分で覆して欲しくはない。一方息子さんとしては、動機は「新しいプラレール を買ったから」「パパがうちにいるから」家で遊びたいということであって、「やくそくしたのはボクじゃない」という点も筋は通っている。

推測:「やくそくしたのはボクじゃない」というところについては、独立心の芽生え、みたいなものはあるの だと思う。ただ、現実問題今はまだ、息子さんは「自分で約束して、自分で遊びにいく」という単独行動は出来ない訳で、お友達と遊ぶ場面のセッティ ングというのは基本母親同士のお話になってしまう。そこはやむを得ない。

独立心の芽生えは歓迎すべきことである。ただ、気分で事前の予定を簡単に覆す、というのは良くない。そこの妥結点を探さなくてはいけない。


対応:まずは息子さんの希望と「何故行きたくないのか」というものを(大泣きの合間に)聞き出し、じゃあ どうすればいいか、というのを(大泣きの合間に)話し合ってみた。

・新しいプラレールで遊びたい→新しく買ったプラレールをお友達の家に持っていって遊べばいいんじゃ?
・パパと遊びたい→そんなに長いことお友達の家で遊んでなくていい、帰ってきたらたくさん遊ぼう

という方針で、特に前者が彼の中では納得の種になったらしく、「京成すかいらいなー(新しく買ったプラレール)じまんしてくる!」といきなり切り 替わった。その後、お友達の家に行ってからは、予想通り楽しく遊べたらしい。帰ってきてからいっしょに銭湯にいった。




・まとめ

・今のところ、息子さんの言い分をきちんと聞き出した上で親との妥協点を探す、という方針はうまくいっていると思う。今後も継続したい。

・とにかく拒絶や頭ごなしは避けたい。

・とはいえ、「泣けば自分の希望が通る」という状況もよくないと思うので、親として譲れない箇所はきちんと保持する。奥様の意見ではあんまり心配 なさそうだけど。

・土日は息子さんとたくさんあそびます。



今日はこれくらいで。
posted by しんざき at 21:22 | Comment(1) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月21日

「子どもが生まれて得られたもの」について、改めて考えてみる。

最初に自分の立場を明示しておくと、私は一男二女をもつ30過ぎの父親である。

直接子どもたちと過ごしている時間については奥様程ではないかも知れないが、「育児の手伝い」ではなく、自分も育児の主役として子どもたちに接してはいるつもりだし、使える限りの時間を子どもたちと過ごす為に使っているつもりである。

以下、r911の日記様を読んで思ったこと。

r911さんが本来おっしゃりたいことからは外れているかも知れないし、最終的な結論は変わらないかも知れないが、感じたことをそのまま書く。
現代の子育ては、物理的なデメリットが結構が多いのだが、一方で、精神的なメリット面が妙に強調されているのではないか?ということを書きました。

引き換えにするものが多い分、精神的な価値(ていうか、メリットっっぽいものってそのくらいしかないかも?)を強調するのではないか、と。
まあ、そりゃしょうがないんじゃないかなあ、と思った。

メリットデメリットに落とし込む話でもないとは思うが、もし「物理的なメリット」というものを無理やり想定するとしたら、それは例えば子どもを育てることで得られるお金とか、あるいは子どもが提供してくれる手伝いの手とか、あまり「メリット」として親が期待するべきものではなさそうに思うから。

物理的なデメリットやリスクなら、いちいち例示するまでもなく、そりゃ山のようにあるだろう。お金もかかるし時間もかかる、事故や病気のリスクも増える。ただ、だからといって、それらと引き換えに「精神的に得られるもの」を手放したいとは私は全く思わないし、その点は奥様もそうだ。断言出来る。

子どもが生まれたことによって何を得られたか、ということを、自分について改めて考えてみる。一部、身も蓋も無いことも書く。以前似たようなことを書いたので、被っている部分も多いかも知れない。


・子どもの成長という、夫婦共通の物凄く興味深いコンテンツ
・働く際の強烈な目的意識
・間違っても死ねないなあ、という危機意識
・自分に無条件に依存するものがいる、ということによる問答無用の自己肯定
・仕事から帰ってきた時、子どもが嬉しそうににへーっと笑うところを見た際の多幸感
・早く仕事を済ませようというモチベーション
・知らない人との大量のコミュニケーション機会
・妻子もちの上司・同僚から向けられるよく分からない連帯感、信頼感
・孫を滅多やたらに可愛がってくれる父母の後半生の生き甲斐
・大量の運動機会



私にとっては、なにもかも途方もなく貴重なものばかりだ。


私の中で、子どもの成長というものはやはり「コンテンツ」なんだろうなあ、とは正直思う。

自分と接した内容、会話した内容、褒めたこと、叱ったこと、そういうものが子どもの中で息づいていくことが、子どもの成長って本当に凄い、と思わせてくれる。一方で、時には私の予想や想像を超えた反応を見せてくれることもしばしばあって、子どもだからって舐めてかかれないなあ、と思わせてくれる。育児神ゲー。

時には私が何か間違ったことを教えてしまうかも知れないが、そんな中でも多分、子どもたちは自分の力でそれを修正してくれるだろう。そう思ったりすることもある。

子ども視点で物事を見る機会も増え、なんだかんだで「大人の視点」以外で物事を見ることが少なくなってきたこの年、今でも新鮮な感覚をしばしば味わえるのも幸せなことだと思う。

「面白い公園」と「そうでもない公園」の違いを、子どもの視点で真剣に考える日がまさかくるとは思わなかったし、子どもが大人とは全く違う基準で「面白い」「面白くない」を決めるものだ、ということも学ぶことが出来た。子どもは、遊びの師匠だ。


一方、誰しも言うことなのかも知れないが、子どもがいることによって発生する「目的意識」というものはそりゃもう物凄い。人生の目的、みたいな、思春期の若者であれば3年くらい悩んでも結論が出なさそうなテーマの答えが、いきなりどかんと眼前に出現する。その問答無用感はデコゲーのオープニングと比して遜色ない。

人によっては勿論、子育てを人生の目的の一つと位置づけることに違和感を覚えるのだろう、と思う。私自身は、奥様や、子どもたちの為に人生を費やせるのであれば、それはそれ程悪くないなあ、と思っている。人生の目的が一つでないといけない、ということもないだろうが、「誰かを幸せにする」「自分も幸せになる」ということが、目的として不足だとは全く思わない。


書くまでもないことだとは思うが、上記は全て私にとっての特殊論であり、一般化するつもりは全くない。「だから子どもを持つべき」などと間違っても言う気はない。そんなことは個人的な問題の最たるものであり、誰に対しても口出しすべきではないことだ。

ただ、育児のデメリットや困難さなんてどうせほっといてもそこら中に書かれているのだから、バランス的には「育児によって得られるもの」というテキストがもうちょっとあってもいいんじゃないかなあ、それは別に悪いことじゃないんじゃないかなあ、などと考える次第である。多分結婚についても同じことが言えると思う。


思ったこと、以上。
posted by しんざき at 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月03日

双子が産まれるに至るまでの淡々とした記録。

以前と同じように、単なる私的記録として書き残しておく。


奥さんのお腹にいるのが二卵性双生児だということは、早くから分かっていた。このご時世正直不安もあったが、そろそろ二人目が欲しいな、と思った時に授かった命だ。出来ることを全力でやろう、と決めた。

五月頃から奥様のつわりがひどくなって、六月の初めくらいまで、一日中立てないような状態が続いた。息子さん共々、奥様の実家で預かってもらっていた。

この時期は私の仕事が忙しかったこともあり、息子さんには随分負担をかけたと思う。幼稚園にも通い始めた矢先だった。8月にリリースが終わってからは可能な限り遊んであげているが、それでも奥様は自分の体で手一杯なことが多く、甘えたいのに甘えられないことは随分多かったろう。本当に頑張ってくれたと思う。


9月10月は小康状態というところだったが、11月下旬、子宮口が若干開き気味ということで、奥様が管理入院になった。この時、子宮口の直径が3cmになっていたらしい。

今日明日産まれるという話ではなかったが、予定日は12月下旬だ。随分早い。何しろ双子なので、その内来るかもと予想はしていたが、やはりそれなりにしんどかった。奥様のお母さんが泊りがけで息子さんの世話をしにきてくれた。私の父母も、週末は息子さんをこういう時、頼ることの出来る身内がいるということについては、感謝の二文字以外の言葉がない。

12月7日くらいからはもう陣痛促進剤使っていいかも、という話を聞いた。とすると産まれるのは8日か9日辺りかなー、と勝手に見当をつけていた。

12月3日の0時過ぎ、出血が始まった、けど収まるかも、というメールが奥様から届いた。ボランティア演奏と後輩の結婚式の予定が入っている日だったのであややーと思い、何とか回避してもらえんものかと正直思ったが、4時頃陣痛が始まったという連絡がきた。一も二もなく家を飛び出してタクシーを捕まえた。

ボランティア演奏については、朝方主催の人にメールで詫びをいれた。なんとかするから奥さんのそばにいてやれ、といわれた。ありがたかった。

病院に着いた頃は、まだ奥様の陣痛はそこまで切迫した感じではなかった。分娩室は、一見するとホテルの一室という風情で、想像していたような手術室のイメージとはだいぶ違った。コーンスープを買ったり、奥様の汗を拭いたりして過ごした。経緯は順調らしかった。

それ程眠くはなかったが、後がキツいから寝ておけといわれて、一、二時間ソファーで休ませてもらった。その後、ぼちぼち産まれそうだと呼ばれた。

息子さんの時もそうだったが、分娩室で父親の具体的な仕事は殆どない。ただ、奥様の苦痛に共感して、それに耐えるのが自分の仕事だと思ったので、奥様の枕元で、たまに奥様の体をさすりながら大人しく座っていた。看護婦さんの人数は随分多く、それ程心配することもなさそうだと思った。それでも、奥様の口から漏れ聴こえてくる苦痛の声はそれなりに響いた。勿論、実際に苦痛を感じている奥様に比べれば何ほどのこともないし、血を見るのも私は平気だ。たまに手を握った。

7時55分、一人目が生まれて、すぐにぎゃーぎゃー泣き出した。女の子だった。一通り体を拭いてから抱っこさせてもらった。抱っこした時にはもう落ち着いていて、割とすぐに目は開いた。まだ明るいか暗いかしか分からない目で、辺りをきょろきょろ見回しているように見えた。

ようこそ世界へ。なるほど、Hello Worldってこういう時の言葉なのかな、と脈絡もなく思った。娘さん一号を抱いて、娘さん二号が出てくるのを見守ろう、と声をかけた。

二人目が生まれたのは8時13分。帝王切開も想定していたので、自然分娩だったのは本当に、奥さんも娘さんも頑張ったと思う。脂汗をかきながらもほっとしたような顔をしている奥様の汗を拭いて、髪の毛をなでた。ジュースを飲ませた。娘さんは二人とも元気なようだった。

親族には報告の電話をかけた。この時息子さんは、私の父母の家に泊まりにいっていたが、「赤ちゃん産まれたよー」といったら、「だれのあかちゃん?ぼくの?あかちゃんあるく?」などと寝ぼけたことを言っていた。明日じっくり言い聞かせてやろうと軽く決意した。


その後、二人揃って奥様の体にのぼり、初乳を飲んだ。娘さん一号は、なにやらすぐ気がそれるようで、おっぱいが口から外れてはぎゃーぎゃー泣いていた。娘さん二号は、一心不乱におっぱいを飲んでいた。どうも性格にも結構差があるようだ。


その後、奥様のお母さんもかけつけてくれて、赤ちゃんを追いかけて入院病棟に行った。産後病棟は、管理入院で入っていた産前病棟とは全く雰囲気が違っていて、あちらこちらから赤ちゃんの泣き声がした。妙に耳に心地よかった。あー、息子さんを育てた経験からか、赤ちゃんの泣き声が随分いい音に聴こえるようになったなー、と思った。

その後診察を受けて、若干低血糖である以外は二人とも至極健康、という話を聞いた。一人目2190g、二人目1990g。やはり体重は軽めなので、一二週間は入院することになるらしかった。午後遅くまで奥様に付き添って入院病棟にいて、その後後輩の結婚式にいって乾杯の音頭をとった。


これが、私の私的な、双子が生まれるに至るまでの顛末だ。いつか読み直す時の為に、淡々と書き残しておきたいと思う。


私は三児の父になった。父親としての自覚はあるつもりだが、自分がきちんと「父親」になれているかどうかは、まだ分からない。ただ、それでも、全力で父親になって、いつか三人とも、「生まれてきて良かった」と心から思えるような人生にしてあげられるよう、力を尽くしたいなあと私は思っている。

posted by しんざき at 23:57 | Comment(8) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

息子さんを見ていて、「非を認める」や「謝る」ということについて考えさせられたこと。

昨夜からの顛末をちょっとメモしておく。

・息子さん(4歳)、奥様が作業をしている後ろで、奥様のハサミで奥様の髪をちょっと切ってしまう

・その夜、私が息子さんに諮問するが、息子さん「きってないよ?」と嘘をつく
→この時は、状況証拠しかなかった為、私が「じゃあ信じる」といって終了

・翌朝、奥様が「ママの髪切った人、はーい!」と誘導尋問をしたら、勢いで「あい!」と手を挙げてしまう

・「パパに嘘ついたこと謝らなきゃでしょー?」と奥様に言われて、散々逡巡した後私に謝る

こんな感じでした。

幾つか考えたこと。

・子供に限らず、「自分の非を認めて、謝る」ということは物凄いエネルギーを必要とするんだなあ、ということ

・いたずらをするのは子供の仕事なので全くかまわないが、悪いことをした時はきちんと反省して謝らなくてはいけない、ということを、今後息子さんにどう教えていくかなあ、ということ

・けれど、口先だけで謝る人にもなってほしくないなあ、ということ

・きちんと、「何が悪かったのか」ということについては納得するように説明しないといけない、ということ(今回の場合、悪かったのは髪を切ったことというより嘘をついてごまかしたこと)

・勿論、大人にも非があったら子供にちゃんと謝らなくてはいけない、ということ



まず、子供はいたずらもするし、嘘もつく。そりゃ当たり前だ。子供が純真で無邪気だなどというのは、完全無欠な大人の幻想であり、そういう世界は絵本の中にしか存在しない。いたずらをするのは子供の仕事でもある。

ただ、自分の非をごまかして謝らない人にはなって欲しくないので、「悪いことをしたらきちんと謝らなくてはいけない」ということは学んで欲しい。その為には、「嘘をつくと結局皆嫌な気分になるだけ」ということが分かってもらえればいいのではないかなー、とも思うし、親も間違えたらきちんと謝るという姿勢を見せる必要があるのではないかな、とも思う。ただ、何が悪いのか分からないまま謝って欲しくもないので、根気強くそういうことは教えてあげなくてはいけない。

自分の子供の頃を思い出しても、「反省してもらう」というのは非常に難しいとは思うのだが、まあ「何が悪かったのか」を納得するまで教えた上で、きちんと叱るしか方法は多分ないのだろう、と思う。

ただまあ、「自分の非を認める」っていうことは、大人ですらなかなか出来ない人がいるのだから、やっぱり子供にとっても大変なことなのだろう、とは思う。負けん気みたいなものも失って欲しくはないし。難しい。

今回の場合、最初「髪を黙って切る」ということの何が悪いのか分からなかった、という点はあった気がする。よくなかったのはその後嘘をついたことだけど。まあ、その点は帰ってからフォローしてみる。

以上、今後とも継続した課題。

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2011年06月21日

今日のしんざきが息子さんの保育参観にいってきた話 11/06/21

今日は午前半休をとって、幼稚園の保育参観というものに行ってきました。

息子さんや息子さんのお友達、その他園児たちがわきゃわきゃと大挙しているのを観察してきたわけですが。
幼稚園の活動をじっくり見たことは初めてですし、幾つか個人的に気づいたことがあるので書きとめておこうと思います。

あ、一般的な話をするつもりは毛頭ありませんし、珍しいエピソードも多分それ程出てきませんので悪しからず。

息子さん:長男。3歳と11ヶ月。幼稚園年少。好きなもの:キュウリ、おっとっと
私:三十路初頭。ケーナ吹き。好きなもの:キャベツ太郎
息子さんが通っている幼稚園:カトリック系。一クラス10人くらいで、多分少人数主義なんだと思う。担任の先生はいるが、それ以外にも2,3人手伝いの先生がいる。

○参観した光景の概要
9:30自転車で息子さんを抱えて通園
10:20くらいまで自由時間、息子さんブロックで遊んだりお友達と追いかけっこをしたり
10:20くらいから園児たちが外に借り出されて、音楽に合わせて体操
10:40くらいから室内に移動、先生と手遊びをしたり歌を歌ったりお話を聞いたり(カトリック系幼稚園なのでキリスト教っぽい話だった)
11:15くらいから工作の時間、紙で出来た魚に飾り付け
12:00くらいからお弁当の時間。参観時間終了、息子さんにバイバイして私退出


○息子さんの人間関係について
自由時間の行動を見ていて思ったこと。息子さん、コップを出してきてそこに飲み物を入れるマネをして、その辺の人に振舞う、おままごと遊びをしていた。

で、大人は相手をしてくれるわけで、「おいしーねー♪」とか言われて息子さんご機嫌なわけだが、子供は自分のやりたいことをやっているわけで、あんまり乗ってくれない。その辺見てると、まだ息子さん、「お友達に合わせて遊ぶ」ということはあんまり出来ていなかったように思う。つまり、自分のしたい遊びを他人に推進することは出来るが、友達がしている遊びに合わせてそれに混ぜてもらうことに習熟していない。

これは、大人にたくさん遊んでもらった成功体験の裏返しかなあ、とか思ったのだが、奥様に言わせると「4歳前後の男の子なんて皆そうじゃない?」とのこと。そんなもんか。

あと、暫く見ていたら女の子二人組みのところに混ぜてもらってちゃっかり二人と手を繋いで遊んでいたりもしたので安心した。


○クラスでの息子さんの行動について
やはりパパがいるとそっちに注意を引かれるらしく、始終私に抱きつきにきたりしていたのでその点は普段通りではなかった気がするが、思ったより先生のお話も行儀よく聞けていたし、ハサミを使った工作も上手に出来ていた。よく頑張った。

息子さんは割りとはしっこい方だと思うのだが、クラスにはもう一人はしっこいと思われる女の子がいて、なんか割とその子と張り合っているようなところもあった。ライバルがいるのは良いことだ。その女の子の方がだいぶポーカーフェイスというか、クールなのだが。

関係ないが息子さんのクラスの女の子は可愛い子(ただし平均3歳)が多い。近所には幼馴染の女の子(2歳)もいるし、息子さん随分恵まれた環境だな。本人に「クラスで誰が一番好き?」と聴くと「○○くん!(男の子の名前)」という答えが返ってくるけど。


自分で棚に置いた折り紙のお魚の存在を忘れて、「だれかぼくのおさかなしらないー?」とか聞いていた息子さんはいい味出してました。

あと、体操では「えーびもかーにも甲殻類」とかなんかシュールな歌詞の曲で踊ってました。有名な曲らしいですね。お母さんが一人、「うちでえびかに良く言ってるから何かと思ってたけど、これだったのね!」とか言ってらっしゃいました。


取り敢えず今日はこれくらいで。
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2011年02月01日

「ルールを定める」ことと、子育てについての最近の雑感。

息子さんは3歳7ヶ月になった。よく喋るし、よく笑うし、たまに泣くし、我侭も言う時は言う。

で、親としては、子供のわがままに対するアウト-セーフのラインを結構考えたりする訳である。ある程度自分の欲求を制御する術は身につけて欲しいし、かといって何でもかんでもアウトだと、それはそれで「欲しいという感情を表に出すこと」をスポイルしてしまう気がする。

この辺は勿論私だけの問題ではなく、奥様ともちょくちょく話し合いながら大体の方針を決めていたりもする。こういう時、夫婦間の倫理感がそれ程ずれていないのは助かる。

現在うちの家庭では、幾つかは妥協しないルールを設けていると思う。

例えば。

・お風呂を上がる時は10数えてから。
・ご飯をおもちゃにしない。
・出されたものはちゃんと食べる。
・とにかく残さない。ただし、食べ切らなかった場合は大人に食べてもらってもいい。
・ただし、あまり食べられなかった場合は食後のデザートは無し。
・ご飯の前にはおもちゃを片付ける。
・食べる前と後には「いただきます」「ごちそうさま」を言う。
・ご飯の時間、寝る時間になったらやりかけの遊びでも中断する。
・「ありがとう」「ごめんなさい」はちゃんと口に出して言う。
・人が遊んでいるもの、使っているものはとってはいけない。順番はちゃんと守る。

まあ些細なものばかりだが、どうでもいいが食事関係のルールばっかりだな。勿論、上に書いていること以外でも、基準に基いて叱ることはままあるし、もうちょっと大枠でのルールも当然ある。

こういうものは、一度決めたら揺るがさないのが重要なんじゃないかなあ、と、私は思っている。あと、父母の間で方針の不一致が発生しないことも重要だ。子供には「ルール」や「ルールに従うこと」を学習することも必要で、その為にはルールの側が揺らいではいけない、と思う。

ただ、ルールはルールとして、子供には「自分は大切にされている」ということを実感することも必要だな、と思っている。

ルールは基本子供の欲求と相反するものばかりなので、ルール以外で息子さんが何か「したいこと」を出してきた時は、出来る限り聞いてあげたいと思うし、休日にはなるべく頑張ってはいる。普段は奥様の方に負担をかけていると思うが。

この辺のバランス調整は難しいと思うし、そういったバランス調整を試行錯誤していくことが子育てってことなんだろうなー、と漠然と思っている。そういう意味で、子育てと親育てはつくづく同義語だ。


そんなことを考えながら。今後とも、息子さんとセットで親としてもレベルを上げていきたいと思う。
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2010年12月16日

子育てにおける、漫画やゲームについての私の考え。

それ程時事ネタを受けての話ではなく、以前からの抱負のようなもの。時事ネタとは離れた文脈で読んで頂けると幸い。


私自身は、漫画だのゲームだのを散々摂取して今日まで来た訳だし、いかがわしい知識や創作物にも時には触れることもあったと思うし、その上で今、こうしている。

それなりには大量のコンテンツを吸収してきたと思うし、それなりにはまともに育ったと思うし、育ててもらったとも思う。そういう点については、私は自信を持っている。


だから、私は、その自信を元に、二つのことを信じている。


子供にはちゃんと判断力があり、何か大人が「いけないこと」だと考えていることに触れたとしても、きちんと判断して、時には自ら軌道修正をして育つことが可能だ、ということ。

親がきちんと接すれば、子供からコンテンツを隠蔽するようなことをしなくても、多分ちゃんと育ってくれるのだ、ということ。



私には大した意見はない。ただ、色んな創作物やゲームを食べて育ってきた人間として、何か創作物やゲームに対して恩返しが出来ることがあるかというと、自分の子供にどう接するか、ということに落ち着く気がする。

大人が教えたがらないことでも必要に応じてきちんと教えて、Webにも漫画にもゲームにも触れたいなら触れてもらって、ほら立派に育ちました、って人に言えるような子育てをしたい。そんな風に思っている。

色々な情報やコンテンツに、偏見なく、かつ敬意をもって接する人になってくれればいいなあ、と。

多分それが、Webやゲームや漫画を食って育った私から、Webやゲームや漫画へのささやかな恩返しになると思う。

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2010年10月26日

子育てについて漠然と考えている指針、及び、多分子育てに一番大事なたった一つのこと

息子さんは三歳三ヶ月である。たくさんしゃべるし、たくさん走り回るし、我侭も割りと言うし、たくさん笑う。

当たり前だが私と奥様にとって息子さんは初めての子供なので、「育て方」というものについては全くの手探りである。どう接すれば幸せに育ってくれるのか、日々あれこれ考えながら息子さんと遊んだりお話をしたりして、しかしそれが正しいという保障は地上に存在しない。難儀な話である。

そんな中でも、なんとなくだけど、大雑把な指針が自分の中に出来つつある。正しいのかどうかは全然分からないけれど、今後忘れない為にも、メモ的に書いておきたい。

大きな指針は、私の中に二つしかない。


・自分を好きになって欲しい。他人を好きになって欲しい。
・社会で生きていくにあたって困らない程度の倫理観、規範を持たせてあげたい。



まず私の中に、「世界って結構いいものなんじゃないか」っていう根本認識みたいなものがあって、この認識で私が損をした記憶があまりないので、これを息子さんにももたせてあげたいなあと思っている。で、その根っこの方には、私が割りと自分好きであり、他人も割りと好きであり、要するに人間が好きという部分があるんじゃないかなあと思っている。

要するに、自分や他人に対する信頼感、人を好きになる能力、みたいなものを持たせてあげたい。どこかで壁にぶつかることは勿論あるんだろうけど、それはその時考えればいい。

で、その為に何をすればいいかなーって考えてみると、結局「コミュニケーションや遊びの成功体験を積ませてあげる」ということと、「いわゆる「よくないこと」をしたらきちんと失敗体験として認識させてあげる」ということ、これをあんまり急がないでやればいいんじゃないかなあ、となった。


人と話をしてみて、ちゃんと話が出来た。人と遊べて、楽しかった。そういうことが多分成功体験だ。そういう「人とかかわって楽しい」ことが重なれば、多分「人生って結構楽しい」っていう基本的な土台につながってくんじゃないかなあ、と思ってる。私の場合、そうだったと思う。

で。

規律とか倫理観の方の話をすると。息子さんと話す限り、3歳児の認識能力というものは結構侮れなくて、「どういうことはしてはいけない」「どういうことはしなくてはいけない」というのを、既に結構分かっている。勿論、こちらが口すっぱく言っているから、ということもあるのだが。

しかし、3歳児はいかんせんまだ子供なので、頭では分かっていてもこれはしたくない、これはしたい、ということがままある。本能のまま突っ走りたい部分が非常に大きい。

これには結局のところ、「していいこと、してはいけないこと」を根気強く言い含めて、叱るべき時には叱りつつ、自制心とか自律心みたいなものがだんだん育ってくるのを待つしかないのかなあ、などと思う。


上で書いたことを簡単に換言すると、「いわゆるいいことをしたら褒める、いわゆるよくないことをしたら叱る」「こちらがして欲しいことをしてあげる」「たくさん話をする、話を聞く」といった、当たり前のことに落ち着くんじゃないかと思う。当たり前のことだけど、掘り下げてみると多分そういうことだ。


で。

上の二つ以前の問題で、多分一番重要なのは、これなんじゃないかと思う。


・親が幸せな姿を子供に見せること


私の、せいぜい10数年程度の経験に照らしての話なのだが、子供の幸せの要件の中に、「親も幸せそうである」っていうのはかなり大きな位置を占めているのではないか、と思うのだ。子供の幸せと親の幸せを別会計にしているテキストをたまに見るけれど、それは多分違うんじゃないか、と思うのだ。


だから、私にせよ奥様にせよ、今の幸せを大事に、息子さんと一緒に享受していこうと考えている。それが絶対条件だと私は考えている。


まあ、木の上に立って見るのが親の仕事だから、当然どっかに限界はあるんだろうけど。今後もゆるゆるとやろうかと思う。

息子さんがいつの日か、「生まれてきて良かったなあ」としみじみ実感してくれますように。
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2010年07月23日

「むかしばなし」をする夜。

ちょっととりとめもない話をする。

息子さんは3歳になった。夜20時を過ぎると寝る時間である。

あわただしく息子さんの歯を磨いて、私が早く帰れた時は3人で、早く帰れなかった時は奥様と息子さんであわただしくお風呂に入って。嫌がる息子さんをとっ捕まえてドライヤーをかけ服を着せ、私と息子さんは大体奥様よりも先に寝支度が出来て二人で布団に転がる。

時にはごろんごろんとお相撲ごっこをし、時には絵本や紙芝居を読んで、きゃっきゃとした息子さんの声を聞いている内に奥様が部屋に入ってきて、お母さんの顔で息子さんの横に寝転がる。電気を消す。真っ暗な部屋の中でも、息子さんはしばらくごろんごろんと転がる。息子さんの寝相はひどい。翌朝、布団の上にそのまま寝続けているケースは極めて稀である。


最近、暗くなった部屋の中で、息子さんが「おはなししてー?」と言うようになった。


息子さんにお話をせがまれて、私はふーむ、と考える。時には奥様に投げる。時にはその日一日の自分の行動について話す。時には即興で何か話を作る。息子さんは、大体「でんしゃのお話」をして欲しい、と言う。「そうぶせんのおはなし」や「ぎんざせんのおはなし」を要望されることもある。大抵何を話しても喜ぶ。


時折、むかしばなし、を聞かせるようになった。「むかしむかし、あるところに」で始まる諸々のお話。桃太郎は話した。浦島太郎も話した。白雪姫も話した。赤頭巾ちゃんも、まあ余り細部に踏み込まない程度に話した。昨日はかぐや姫も話した。


昔話をしていると、「分かりやすい話」がどうやって形作られるのかがよく分かる。「昔むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました」この一言だけで、時間と、場所と、キャラクターの設定が終わる。息子さんはほんのこの一言だけで、暗い中目を輝かせて「つづきは?つづきは?」と食いついてくる。凄いなあ、と思う。話の作りっていうのはこうあるべきだなあ、とも思う。


それと同時に、お話を聞かせたり絵本を読んだりというのは、「情報の伝達」なのではなく、飽くまで「意思疎通」なのだなあ、とも思う。息子さんはさかんにあいのてを入れる。息子さんのあいの手に反応して話が進むこともあれば、とんでもない方向にブッ飛ぶこともあり(この前は桃太郎がいつの間にかアメリカに渡って大統領になっていた)、話が終わって「おしまいー?」と残念そうに言われたりすることもある。話の途中で息子さんがすやすや寝ていることも、ある。当然ある。


「おはなし」は、話す側と聞く側によって変容していく。当たり前の話だ。


ここで、私は二つのことを考える。

一つは、数限りなく夜子供が寝ている横での「お話」に使われていて、それでも核となる部分が変わらない、「むかしばなし」というものは凄い力を持っているんだなあ、ということ。

もう一つは、抽象的なのだが、何かを伝えたり残したりしていくってこういうことなのかなあ、ということ。夜、暗い中寝転がっている息子さんに語りかける言葉が、だんだんだんだん降り積もって、息子さんという人間の中に何かが形成されていくのかなあ、ということ。

かつて私がそうだったように。かつて私が聞いた話を、今、つぎはぎのように思い出しながら息子さんにしているように。


いつか息子さんも、誰か別の人に桃太郎や浦島太郎の話をする時が来るのかなあと思いながら、私は息子さんの「おはなししてー?」という声を聞く。そんなとりとめもない話。

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2010年02月08日

息子さんを見ていて、「優しさ」の根っこは他人の嬉しさに対する共感なんじゃないかなあ、と思った。

当たり前の話なのかも知れないけど。

息子さんは、結構厳密に成功体験・失敗体験の学習をしている。つまり、「こういうことをすると怒られる」「こういうことをすると喜ばれる/褒めてもらえる」ということをいちいち記憶しているように見える。


で、最近息子さんが「気遣い」的な行為をある程度出来るようになった。

例えば奥様がテーブルに足をぶつけて痛がったりしていて、私が「ママ痛がってるよ?」とか誘導してやると「まま、いたいいたい、ないないよー」などといいつつ慰めたり背伸びをして頭を撫でたりする。抱きつくこともままある。

多分、この時の行動選択の基準は「自分がされた時嬉しかったこと」なんだと思う。単なる想像だけど。

で、奥様が「優しいねー」とか褒めるとにへらーーと喜ぶ。人が痛がっている横できゃっきゃ飛び跳ねている。

で、次から、特に誘導がなくても、似たような状況では自分から慰めにいく。たまに誤解して全然痛くない時に慰めにいったりもするが、まあそれはそれで、こちらが喜んであげると息子さんも喜ぶ。

つまり、「他人が喜ぶ」という報酬を受けることを成功体験として学んで、それを求めて「優しい」行動をとろうとしている、様に見える。成功体験の学習と、「他人が喜ぶと自分も嬉しい」という共感。多分ごく順当な成長なんだと思う。これが繰り返しによって身につくと、「自然と優しい行動がとれる」人になるんじゃないだろうか。

きっとそれはいいことなんだと思う。

そこから考えると、子供に「優しい行い」が出来る様になってもらいたいとしたら、子供の気遣いをちゃんと評価してあげる、目に見える形でちゃんと喜んであげる、というのが一番重要な気がする。感情を素直に出すのが一番重要な気がする。


「ありがとう」と言える様にしてあげたかったら、まず自分がちゃんと「ありがとう」と言おう。当たり前のことなのかも知れないけど、多分そういうことなんだろう。

以上、今後の心構えとして。
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2009年11月27日

子育ては、ある人の一生を常に左右し続けること。

タイトルで完結。

以下はちょっと雑然とした文章になる。


「親の責任」って言う言葉はよく聞くが、それについて親から見た言い換えっていうものをあんまり読まない気がする。


親の責任って何かというと、多分、「ある人間の一生を、いとも簡単に左右してしまう立場にある」ということを自覚することだ、と思う。


命名がその最初の機会だと思うけれど、親が子供に接する時というのは、常に「この子のこの後の人生、これで変わるかも」という機会の連続だ。いや、普段はそこまで深く考えてたら子供と遊んでられないけど、つきつめるとそういうことだ。

自分の言葉が、ずっと後まで子供の記憶に残るかも知れない。

それを思うと、子供に語りかける為には一種の覚悟がいるし、そんじょそこらの覚悟で名前なんてつけられない。一生背負う物が荷物になってしまうとしたら、それこそ子供に顔向け出来ない。


ちゃんと挨拶出来る子になって欲しいなあ、と思う。ちゃんと感謝出来る子になって欲しいなあ、と思う。私は、私なりの「ちゃんとした」人というビジョンを漠然と持っていて、出来れば息子さんに、楽しく過ごしながらも、だんだんとそういう人に近付いていって欲しいなあ、と思う。それは親のエゴなんてものじゃないし、親の押し付けってものでもないと思う。多分それこそが親の責任だ。


親のどんな一言も、どんな行動も、息子さんの今後にずっと残り続けるかも知れない。それも分かっていて、そして親が失敗することもこれから何度もあるだろうけど、私は努力するつもりだし、多分息子さんも、色んな障害を乗り越えて健全に育ってくれるだろうと思う。そう信じているし、そうなる様に頑張る。


息子さんが生まれて、もうすぐ2歳5ヶ月になる。よく走るし、よく喋る。私が帰っていくと、けらけらと笑ってとびついてくる。とびつかれたら全力で遊ぶ。


たまに、叱られる。叱られるとしゅんとする。しゅんとする姿を見るのはあまり好きではないけれど、それでも私は叱ろうと思う。

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2009年08月01日

子供が小さい時、父親の最大の仕事は「母-子のラインに割り込むこと」だと思った

最近、息子さんが新幹線を「しゅっしゅぽっぽ」と呼ぶ時がある。SLと勘違いしている気がしてならない。

という話はおいといて。


今日は久々に余裕があったので、奥様息子さん連れで目黒周辺を探検してきた。イタリア料理ビュッフェで食事をしたり、駅ビルで探検スネークごっこをしたり、神社を散歩したりと色々。

で、ちょっと思ったこと。二歳を過ぎて、そろそろ息子さんと奥様の「遊びの嗜好」みたいなものが乖離する気配を見せているのかなあ、と。

息子さんは探検スネークごっこをエラく喜んだ。例えば駅ビルの人があんまりいないゾーンとかで、角から向こうの様子を伺ったり、足音を殺して階段を上ったりすると、息子さんはきゃっきゃと笑う。手を叩く足を踏み鳴らす。潜伏する気ねえ。かなりのテンションである。

ただ、奥様の方は、「喜ぶ息子さんを見ていると楽しい」という感想ではあったが、探検ごっこに参加することは出来なかった。当たり前だ、スネークは徹頭徹尾男性である。物陰に隠れて敵が出てこないか様子を伺うのは、足音を殺して周囲からの視線をかわして進む(むしろ視線が集まりそうな気もするが)のは、根本的に男の子の遊びである。


で、タイトルの様なことを考えた。


特に幼稚園や保育園にお子様が通い始めるまでの間、家庭ではガチガチの母親-子供ラインが形成されることが多い。父親が仕事にいっている間、かなりの率で彼女らは一対一になる。いってみれば、母親と子供だけの世界になってしまう訳である。

私の家庭の場合。これが奥様にとって相当キツいことは当然だが、おそらく息子さんにとっても結構キツい。甘えたい時も暴れたい時も遊びたい時息子さんにはある訳だが、奥様にそれを許容する余裕が十分あることの方がむしろ少ないだろう。勿論、そういう「許してもらえないタイミング」から、息子さんは社会性みたいなものを学んでいくんだろうけど。

とはいえ、息子さんにとって、一番長く一緒にいられる人、唯一一緒に寝られる人、ご飯を食べさせてくれる人が奥様であることは間違いない。


「母親-子供」のラインは強固である。子供にとってはそれだけで充足してしまうし、それだけで完結してしまう。だからこそ、父親はがんがんそこに割り込んでいって、時には双方に余裕をもたせ、時にはお子様に「母親との世界とは違う場所」を見せてあげなくてはいかんのではないかなあ、とか思った次第である。


取り敢えず息子さんと遊ぶのは割と楽しいです。その内色々遊びを教えこんで、厚い父親の壁というものを思い知らせてあげる予定(手加減する気ゼロ)


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2009年07月03日

息子さんにおける「また」と「もっと」の関係。

奥様の指摘によって気付いたこと。

最近、息子さんが「また」という言葉を使える様になった。例えば、夕飯前におもちゃから離れざるを得なかった時、「でんちゃ、またあとねー」とか。遊びにきていた知人が帰宅する時に「またねー」とか。

で。文脈的には、これらの言葉は「もっと」が使われていた場面で使用されている様な気がする。何か物足りない時、何か遊び足りない時、彼は「も、も」とか「もっとー」とか言う。この欲求は即時的なもので、基本的にその場で満たされないとあんまり満足出来ない。泣く。

それに対して、「また」は。この場合の意味としては「また欲しい」「また遊びたい」という意味、つまりはonce moreとかagainの意味で似ているが、当然のことながらその場で満たされなくてはいけないものではない。明日でも遊べる。明日でもいい。

「もっと」は即時的、「また」は非即時的。

つまり、息子さんの中に「時間」の概念が出来始めた様な気がする。多分長期記憶野とか、その辺の何かが活発に動作し始めた証拠の一つなんだろうと思うんだが、この辺私は門外漢なのでよく分からない。とにかく、「今遊べなくても後で遊べる」という概念が息子さんの中に出来てきたことは、どうも確かな様だ。


人間は、どうやら、「後で」が理解出来る様になるまでそれなりの時間を必要とする。今あるものは、基本的にはそこにあり続けるんだ、ということが理解出来る様になるまでそれなりの時間を必要とする。


そこから考えると、「また」と「もっと」って語源的に何か関係あるんだったっけなーと思ったんだが、その辺学生時代の専門であった筈なのに完全に忘れている。あれーどうだっけ。「もっと」は多分「勿と」だよ・・・な?ううん、思いだせん、というか記憶がないってことは関係ないんだろうか。機会があったら調べてみる。


とりあえず今日おもったこと、それくらい。
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2009年06月19日

今日のしんざきと軽く息子さんの話 09/06/19

昨日奥様から聞いたのだが。

奥様友人が持ってきてくれたゼリーの空き箱を抱えて、息子さんがとてとて寄って来たと思ったら、こう言われたという。

「こえ、かったの?(これ、買ったの?だと思う)」

昨日お友達が持ってきてくれたのよー、と応えると、続けて

「なか、ないねえ」

と言われたらしい。その時は一つゼリーが余っていたので、一緒に食べてめでたしめでたし、という結末だったらいしのだが。

この話を聞いた時、「へーー」と感動すると同時に、軽微な違和感というか、いってしまえば軽い恐怖感の様なものを感じた。

多分こういうことだと思う。

息子さんは随分色んな言葉を喋る様になったが、その大部分はまだ余り意味をなさないひとりごと、あるいはこちらの質問に対する応答であり、主体的に「ことば」を喋るには至っていなかった。あるいは、「言葉を使ったコミュニケーション」にはまだ至っていなかった、という言い方の方が正しいかも知れない。

言葉を換えると、コミュニケーションという話においては、まだ息子さんは私の中で「人間」になっていなかった。

そこに、自分から「疑問の提示と確認」というコミュニケーションを求めてきた息子さんに対して、私は多分、意識のどこかで「人でないものが人間になった」という恐怖というか、畏怖みたいなものを感じだんだと思う。まあ実際はそんなおおげさな話でもないが、深く掘り下げると多分そういうことだ。

息子さんはそろそろ二歳。基本的にはいい子だが、結構色々な場面で「自我」を感じる面が増えてきた。

ここからがいよいよ子育ての激戦区なんだろうなあ、と。奥様と協力しつつ、気長にやっていこうと思う。



・逆転検事クリア。

ネタバレは控えるが、もうちょっとぎりぎりの勝負が欲しかったというか、ちょっと追い詰め甲斐が足りない様に思った。リアル性なんて誰も求めていないだろうから、もっと荒唐無稽な仕組みをクローズアップしても良かったのではなかろうか。

御剣を動かすのは楽しかったし、いい味出してる会話やキャラもいたが、全体的にやや消化不良な印象。続編が出たらもっとケレン味をばかすか詰め込んで欲しい。

ということで、今は逆転裁判3をやり直していたりとか。この辺は本当に逆転の嵐というか、ケレン味たっぷりな話ばっかりだよなあ。

「華麗なる逆転」は、確かに逆転裁判シリーズの締めとしてふさわしい出来だったと思う。

posted by しんざき at 11:33 | Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

息子さんを見ていて、二語文と想像力の関連について考えてみた。

息子さんはもうすぐ二歳な訳だが、最近おままごとをする様になった。

ナスのおもちゃや、二つの積み木をマジックテープでくっつけた物体をおもちゃのナイフでぶった切っては、お皿に乗せて「どーじょ」と渡してくる。どうも彼の中では料理が想定されているらしい。食べる真似をするとけらけらと喜ぶ。

で、ちょっと思ったこと。息子さんを見ているとどうも、「二語文」を使える様になると同時に想像力パラメーターが跳ね上がった様な気がする。

二語文を使える様になったのは比較的最近だ。多分ここ一、二ヶ月ではないだろうか。主語と述語。英語的に表現すると、SVだったりSCだったりする。

「バス、いないねぇー」「パパ、こっち」「ぶーぶー、あったねぇ」など。まだ目的語は使えない様だ。

で。おままごとの際に判明したことなのだが、彼はおもちゃのナイフで料理をする前、「宣言」を行うのである。 おもちゃの積み木を差して、高らかに「これ、ぱんぱん(パンのこと)」と主張するのである。なんということはないブロックを差して、「これ、ばちゅ(バスのこと)」と謳うのである。で、その後そのブロックを「ぶーぶー」言いながら引きずりまわしたりする。

どうも、「主語 + 述語」という言葉が使いこなせると同時に、「これは○○である」という想定というか、定義付けという遊びも明確になった様な気がする。以前からその片鱗めいたものはあった様な気もするが、ここまではっきりと自他に主張する様になったのは多分最近だ。


認知言語の人が聞いたらなんというか分からないが、私の中では「あー、言語あっての想像力なんだなあ」と納得した次第である。


と、今日の息子さん観察記ここまで。
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2009年04月10日

子供がピタゴラスイッチを好む理由

「力点と作用点の間に距離がある」現象を好む本能、みたいなものがある気がする。

以下、私の息子さんを見ていて思ったこと。

息子さんは、「何かをすると、離れたところで何かが起きる」ということに凄く興味を示す。例えば、階段の電気のスイッチ。例えば、ドアやクーラーのリモコン。例えば、手を離すと段々を車がすべり降りていくおもちゃ。

こういったものに対して、息子さんは極めて強い反応を示す。最初、手元での操作が離れたところで何かしらの反応を示す時、息子さんは目をまんまるくする。何度も繰り返したがる。繰り返すごとににまーーーっと笑う。

なんだろう、これ。

推測その一。「影響範囲を広げたいという欲求」の変形。手元から遠くまで、自分のしたいことの意志が伝わる、ということに何らかの快感がある。

推測その二。「自分の手を離れたところに何かが伝わっていく」という、いわば動力に対する興味。中で何が起きているかはよく分からないが、離れたところに何かが動力として伝わっている、これは一体なんだ、と。


まあ細かいことは本人に聞いてみないと分からないが。もうちょっと意思疎通が出来る様になったら聞き込みしてみる。

こういった欲求とか好奇心の延長に、一時期のドミノブームとか、ピタゴラスイッチの人気みたいなものがあるんじゃないかなあ、と何となく思った。

あ、息子さんボキャブラリーはまた幾つか増えて、現在はピタゴラススイッチのことを「チッチ」と呼んでいます。その後「ミミ」というのは、どうもピタゴラスイッチ・ミニのことらしい。


あ、ちなみに、力点とか作用点といった言葉の厳密な使い方はよく分かっていません。間違ってたら生暖かく見守ってやってください。
posted by しんざき at 18:16 | Comment(4) | TrackBack(1) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月30日

子供が生まれて変わったことを、掛け値なく本音で考えてみた。

お子様が生まれて一年と四ヶ月くらい経った。


総合的に考えて、私は息子さんが我が家に来訪してくれたことに凄く感謝しているし、息子さんが一年と四ヶ月健康に育ってくれていることに凄く感謝しているし、息子さんを健康に育ててくれている奥様や周りの人々に凄く感謝している。

しかし、Webを見ていると「子供が生まれて何が起こったか」ということを、男性視点でホントーに本音で書いてある記事は割と少ない様に思った。私の感謝を前提にしても、生活が大きく変わったのは事実であって、変化の中には得たものも得にくくなったものもある筈だ。

そこで、私は真剣に考えてみた。子供がうちにやってきて、私の生活はどう変わったか?何を得て、何を得にくくなったのか?

以下、色々とミもフタもない書き方をするのでお気を悪くした人はすみません。


得たもの
・働く際の強烈な目的意識
・膨大な夫婦間の会話のタネ
・早く仕事を済ませようというモチベーション
・(特に妻子もちの)上司・同僚に対する膨大な世間話の材料
・誰にも文句を言われない「帰る理由」「誘いを断る理由」
・知らない人との大量のコミュニケーション機会
・縁者との関係回復
・息子さんの成長、という興味深いコンテンツ
・運動機会
・子供視点との同一化
・帰って息子さんと顔をあわせた時に息子さんがにやーーっとする笑顔


得にくくなったもの
・夫婦二人の時間、特に夜の外出機会
・外食、特に飲み屋に行く機会
・夫婦揃って参加する飲み会、会食
・休日に一人だらだらする時間
・継続的に必要となるであろうお金
・据え置きゲーム機でゲームをする時間
・整理整頓されたリビング(ただし、これは子供が生まれる以前からの問題だったような気もする)



補足してみる。

・働く際の強烈な目的意識
・早く仕事を済ませようというモチベーション


仕事関連のお話。

息子さんが就寝する時間は決まっている。つまり私は、息子さんが就寝する時間までに帰宅しないと起きている息子さんに会えない。寝る前の息子さんのにへらーーっとした顔を見れないのは、私にとっても割と残念だ。その為、以前にも増して強烈に「さくっと帰る」というモチベーションが強まった。

さくっと帰る為には、さくっと帰っても誰にも文句を言われないクオリティで仕事をしなくてはいけないし、さくっと帰っても誰にも文句を言われないポジションを維持しなくてはいけない。この目的意識は結構強烈だ。ついでに、上司がさくっと帰れば部下もさくっと帰りやすい。多分一石四鳥くらいの効果はあるんじゃないかと思う。


・膨大な夫婦間の会話のタネ
・(特に妻子もちの)上司・同僚に対する膨大な世間話の材料


読んで字の如く。

夫婦間の話で言えば、もともと会話のタネに困っていた訳でもないが、話す内容は大幅に増加した。お互いにとって「凄く関心のあるテーマ」が1カテゴリーできたという意味では、確かに夫婦間の良化に寄与すると思う。旦那が子育てや家事にきちんと参画しないと意味をなさないだろうし、私は極力そうしているつもりだけど。

職場での話をすれば、自分から話題に持ち出すとウザいかも知れないのであまり能動的にはなっていないが、話を振られた時には話題が尽きない。お子様がいる上司や同僚に対しては、質問をするという形式での話も振りやすい。ここぞとばかりに先輩顔をして気持ちよくなってくれる上司もいる。


・知らない人との大量のコミュニケーション機会

息子さんを連れていると超話しかけられる。おばちゃん、おじいちゃんおばあちゃんのみならず、女子大生女子高生とかにもけっこー話しかけられる。この前近所の大学の学祭にいったら、理系男子の集団まで釣れた。恐るべし息子さん。

まあ、この場合父親はおまけなので、話したくない時は会釈だけするくらいでもいいんじゃないかと思う。

・息子さんの成長、という興味深いコンテンツ

この前まで赤ん坊だった生き物がなんかだんだん人間になっていく、というコンテンツは個人的に超興味深い。エンターテインメントとしての価値があると思う。
最近は言語学的な分析を開始出来そうな勢い。何言ってるんだろうなアレ。


・運動機会

考えてみるとあの生き物、鉄アレイとかより重い。抱っこして駈けずり回っている回数を考慮すると、相当の運動になっているんじゃないだろうか。来年辺り上半身ムキムキかも知れん。


・子供視点との同一化

行き慣れた場所へ行く時も、「まだ見たことがない感覚」を体感出来るというか。記憶が真っ白な息子さんの立場になることで、色んな物を凄く新鮮に捉えることが出来ている様な気がする。


・縁者との関係回復

数年前からは信じられない程会う機会が増えた。まあ、勿論私の存在はおまけのおまけのおまけであって、彼らの目的は孫なのだが。っつーか結構人が変わりましたあの人たち。

まあ親孝行にはなったんじゃないかなあ。やっぱ人生の一線を引いた人にとっては、「自分の血がなんだかんだで今後も残る」っていうのは嬉しいことなんだろう、と思う。

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一方、以下は得にくくなったものについての補足。

・夫婦二人の時間、特に夜の外出機会
・外食、特に飲み屋に行く機会
・夫婦揃って参加する飲み会、会食


流石にこれは得にくくなった。息子さんはまだ食事一回分お行儀よく座っていることは出来ないし、夜就寝中の息子さんをおいて出かけるなどということは勿論出来ないので。あと、インドアの遊びも全体的にしにくくなった気がする。コンサートだの映画だのには流石に行けない。もともとそんなに行ってない気もするけど。

バイキングなど、立って歩いても不自然でない外食屋さんにはそんなに問題なく行けるし、実際結構いっている。


・休日に一人だらだらする時間
・据え置きゲーム機でゲームをする時間


だいぶ少なくなった。私が息子さんの相手が出来る時はなるべくしてあげたいし、奥様にはその間多少は休んで欲しいので。

家事に関わる時間も増えたので、必然的に一人でふらっと出かける時間も減った。

とはいえ、息子さんが昼寝をしている時とか乳を飲んでいる時とか、なんだかんだで結構サボっている様な気はする。ちなみに、据え置き機には水をぶっかけられたりする恐れもあるので、現在テレビの奥にPS2が置いてあるだけである。夜、息子さんが寝た後はやろうと思えば割と出来る。


・継続的に必要となるであろうお金

息子さんは健康であることもあり、今のところそこまで感覚がないけど、学費やらなにやかやで今後は色々かかってくると思う。目的意識の一部でもある。


・食/住の選択幅

流石にもう狭い家には住みにくいと思う。あと、ジャンクも食べにくくなった。考えてみると、住居にかかるお金も「継続的に必要になるお金」ではあるな。


・整理整頓されたリビング

息子さんは遠慮会釈なく色んなものを引っ張りだしたり撒き散らしたりするので、当然の如くリビング・ダイニングは散らかる。
もともとそこまで秩序だった生活をしている訳ではないのでまあ大して気にならないが、神経質な人には大変だろうなあ、とは思う。


取り敢えず、自分の思考の整理の為に上記の様なまとめ。また気がついたことは書き足す。
posted by しんざき at 21:33 | Comment(4) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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