2017年06月04日

増田の痴漢についての認識にアホかと思ったのでつられてみます

釣られてみます。ちなみに書いている人は30台後半の妻子持ち男性です。

だって痴漢がそんなにひどいなら車なり自転車なりで通勤するなり徒歩圏に引っ越すなりすればいいじゃないですか
現状で均衡しているならその程度の脅威ってことでしょう

・痴漢が電車だけで発生するものだと思っている(参考:こんな時間、場所がねらわれる)
・「徒歩圏で引っ越す」「車なり自転車なりで通勤する」ということがそもそも不可能、ないし極めて困難な人の存在をガン無視している(車を持っていない/持てない人が、例えば東京なら山手線圏内の職場の「自転車圏内」「徒歩圏内」に引っ越すことがどれだけ困難かは少し考えれば分かる)
・痴漢の為にライフスタイルを変えることを被害者側に強いることがそもそもおかしい
・そもそも「痴漢に遭いたくなければ〇〇すればいい」ということ自体が不当な自己責任論以外の何物でもない
・というか何で痴漢の存在をそんなに矮小化したがるの?冤罪の話するなら、「冤罪もひどいけど痴漢もひどい」「どっちも改善しないといけない」でいいじゃないですか

指摘したくなったことはそれくらいです。

なんつーか、別にこの増田に限らないんですが、痴漢被害を「大したことない問題」ないし「被害者側の問題」にしようとする人ってwebでもかなり頻繁に見かけるような気がします。個人的には、痴漢加害者でもない人が、痴漢被害を矮小化したくなる意味がよくわからないんですけどね…。痴漢冤罪はそりゃ大きな問題ですが、基本的には司法や警察の守備範囲の問題であって、痴漢と痴漢冤罪を対立させて考えるような話じゃないじゃないですか。なんで自己責任論にしたがるんですかね?

まあもちろん、例えば解決策の方向性の一つとして、企業が通勤困難でない地域にサテライトオフィスを作って女性はそこに通ってもらうとか、SOHOを推進するとかならそれはそれでアリだと思いますが、「その負担を被害者側に負わせ」「しかも、それをしていないことを理由に痴漢被害を矮小化しようとする」のはアホかとしか言いようがないのではないでしょうか。

取り敢えずそれくらいです。

下記は関連エントリー。

posted by しんざき at 10:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月02日

アニメやラノベだけがオタクコンテンツではない、という話

こんな記事を読んだんですが。

これは実際に90年代の後半をオタクとして過ごした人に聞きたいんだけど、『スレイヤーズ』より大きなオタク向けコンテンツってなかったよね。
『ポケモン』『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』『ビバップ』とか、一般向け人気も伴ってその後に格付けが入れ替わった作品も多いけど、当時、実際に生きていたころは『スレイヤーズ』以上の大きなものってなかった気がするんだ。
だって、そのころオタクやってた人で『スレイヤーズ』ノータッチって無理でしょ。

色強調は筆者。

一つの例として、世の中には「ゲーム専従オタク」というのがいて、そういう人はアニメにもライトノベルにも脇目も振らずにゲームばっかりやってた、というのは知っておいていただきたいなーと思いました。

私はゲーマーというかゲーム専従オタクでして、特にアニメというものは昔から殆ど見ていません。別に嫌いだったわけではなく、単にゲームをやり過ぎてアニメに回すリソースがなかったのです。「エヴァンゲリオン」も観ていませんし、多分その辺の有名どころのアニメは軒並み観ていません。何が有名なのか自体よくわかっていないのですが、最後にちゃんと見たアニメが「トムとジェリー」と「オズの魔法使い」だったので観ていないことは間違いないです。

ゲーム専従オタクである私の印象で言うと、90年代後半というのは格ゲーの黄金期であり、「ストZERO・ストZERO2」「ヴァンパイアハンター/セイヴァー」「KOF」「サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣」「バーチャファイター3」「鉄拳2」辺りがもの凄い盛り上がりを見せていました。どれが最大のコンテンツか、というのは難しい話ですが、99年に出た「ストリートファイターIII 3rd ストライク」が、格ゲーブームの一つのマイルストーンになったというのは間違いないところでしょう。

家庭用で言えばプレステ/セガサターンを中心に「デジタルノベル」「恋愛ゲーム」というジャンルが全盛を迎えた頃だったと思います。ときめきメモリアルのPCE版が出たのは94年なので90年代後半とは言えないかも知れませんが、成人向け・全年齢向け問わず、滅茶苦茶な盛り上がりを見せたコンテンツはたくさんありました。恐らく、家庭用で言えば「サクラ大戦」「サクラ大戦2」PC畑で言えば「同級生2」か「To Heart」「Kanon」「AIR」辺りが最大のコンテンツだったのではないでしょうか。センチメンタルグラフィティなんかもすごい盛り上がってましたよね。

参考になりそうなサイトを見つけたのでリンクしてみます。


一方、90年代後半というのは、格闘ゲームの影で滅茶苦茶面白いSTGがガンガン生まれていた時代でもありました。96年の「レイストーム」「バトルガレッガ」「19XX」97年の「怒首領蜂」「Gダライアス」98年の「レイディアントシルバーガン」「グラディウス4」辺りは、どんなに間引いて考えても絶対に外せないところです。STG自体がゲームのメインステージとは言えなかったので、最大のコンテンツというくくりで考えるのは難しいところですが、個人的には「俺の90年代後半はレイストームと共にあった」と言ってしまいたい気分です。

PS/SSを中心に家庭用RPGが滅茶苦茶に盛り上がった時期でもありましたよね。元記事でもポケモンの名前は出ていますが、97年の「FF7」を筆頭に、「サガフロンティア」「女神異聞録ペルソナ」「幻想水滸伝」「ゼノギアス」「ゼルダの伝説 時のオカリナ」辺りのタイトル名は挙がってもいいような気がします。



すいません、単に「オタクコンテンツの話をするならゲームも仲間に入れて欲しいなー」と言いたいだけの記事でした。というか、私はゲーム専従オタクなのでゲームの話しかできませんが、他にも色々オタクコンテンツというのはあったと思います。ミリオタとか歴オタとかSFオタとか、安易にひとくくりにすると多分戦争が起こります。オタクコンテンツ広過ぎ問題。


一旦それくらいです。


posted by しんざき at 10:57 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月31日

子どもを叱った時、「ごめんなさい」をゴールにする必要は必ずしもない気がする


「叱る」時のゴールは「ごめんなさい」で本当に正しいのか?という話です。

しんざきは三児の父です。長男は9歳小学4年生、長女次女は5歳の双子で、幼稚園の年長さんです。


子どもが「ごめんなさい」と言えないから親子ともに煮詰まって疲弊してしまうケース、って結構あるような気がしています。というか、観測している範囲ではすごーーく多いです。

子どもが何か良くないことをしたとします。例えばおもちゃを粗末に扱ったり、いたずらで棚を滅茶苦茶にしたり。当然親は叱ります。

この時、一通り「何がいけなかったのか」「何がダメだったか」を伝えるのはいいんですが、その後「ごめんなさいは!?」というところでトラブルになるケースがしばしばあります。子どもから、するっと「ごめんなさい」という言葉が出てこない。親としては、「ごめんなさい」と言わせないとお説教が終わらないから、いつまでもその場が収拾しない。振り上げた拳が下せない。何故素直にごめんなさいが言えないのか、と悩んだ親御さん、相当な数いるんじゃないでしょうか。時によっては、「なんでごめんなさいが言えないの!」なんて怒声が聞こえてくる場合もままあります。大変ですよね。


ただ。勿論子どもにもよるし、状況にも、年齢にもよる話なんですが、私、必ずしも「「ごめんなさい」と言わせないとお説教が終わらない」と考える必要はないんじゃないかなーと思ってまして。

「叱る」ことのゴールは、別に「ごめんなさい」じゃなくていい、煮詰まるくらいなら「ごめんなさい」がゴールと考えない方がいいんじゃないかな、と。端的に言うとそう考えているんです。


勿論、親が子どもを叱った時の「理想のルート」は、


1.親が何をダメだと思っているのかが子どもに伝わる
2.子どもがその内容に納得する
3.子どもが自分の行為を反省する
4.反省した内容を口に出す(ごめんなさい)


ということになると思います。

けどこれって、重要なのは1,2であって、4はある意味「親が納得する為の儀式」に過ぎないと言えば過ぎないんですよね。

いや、儀式が重要じゃない、って話じゃありません。相手に謝罪の意志を示す、というのはとても大事なことです。相手に「自分は悪いことをした、と思っている」と納得してもらうことも大事だし、その練習をすることも必要なことです。それはそれで必要なんです。

けど、それは多分最優先事項じゃない。

こと「子どもを叱る」という時には、何より大事なのは1と2なんですよね。まず何よりも、「何がダメなのか」「お父さん/お母さんは何故、何をダメと考えているのか」を伝えなくてはいけない。それを理解してもらわなくてはいけない。子どもの倫理観、判断基準を形作る為の、これが最優先事項だと思うんですよ。

つまり、「理解」まで行っていれば、取りあえず「叱った」目的の大部分は達成出来ていると考えていいんじゃないかなあ、と。それを判断する為には、別に「ごめんなさい」という言葉は必要なく、子どもがちゃんと聞く姿勢をとれていれば十分なんじゃないかなあ、と。


「理解」と「納得」の間にはそこそこの広さの谷があります。「納得」する為には、理性だけでなく、感情的にもその言葉を受容しなくてはいけません。

そして、多くの子どもは、感情を統制することに慣れていません。「頭ではわかるけど、感情的には納得できない」という状態をどうにかするには時間が必要です。「謝罪の言葉を口にする」には更にもう一段階、感情の制御が必要です。

実際のところ、「どう見ても子どもが悪いのに、すぐごめんなさいが言えない」理由って殆どこれだと思うんですよ。理解は出来る。けれど感情がついてこない。皆さん、子どもの頃ってそうじゃありませんでした?「頭ではわかるけど、感情として謝りたくない」時ってたくさんありませんでした?

これについては、何より必要なのは時間です。子どもはただでさえ感情を制御することに慣れていないんだから、まず「感情を落ち着かせる」為のインターバルとなる時間を作ってあげないといけないと思うんですね。

この、「理解する」「納得する」「感情を落ち着けてごめんなさいと言う」というプロセスをきちんと踏まないと、子どもは間違った学習をしてしまいかねないと思うんです。つまり、「納得していなくても、理解していなくても、取りあえずごめんなさいと言っておけば親は引き下がる」という、ごめんなさいさえ言っておけばいいんだろ、的な学習は、あんまりよろしくないものなのではないかと。

けれど、世の中そうそうゆっくり時間をとっていられる時ばっかりではないので、待てない時には「とにかく叱る理由はちゃんと説明する」「説明をちゃんと聞いた、と判断出来たら、ごめんなさいを言えなくても取りあえずよしとする」という判断をするのも時にはアリなんじゃないかなあ、と。「なんでごめんなさいっていえないの!」と追い詰める・追い詰められるよりはその方がいいんじゃないかなあ、と。



繰り返しになりますが、「ごめんなさい」と言わなくてもいい、という話じゃないんです。ごめんなさいときちんと口にする練習は必要だし、自分の感情を落ち着かせる練習も必要です。

ただ、その練習にはある程度ちゃんと時間が必要ですよね、と。

「叱る」という行為の本来の目的、「何がいけないのか理解してもらう」「子どもに善悪の判断基準を伝える」ということを考えれば、必ずしも「ごめんなさい」にこだわらなくてもいいんじゃないか、と。「ごめんなさい」にこだわって、親子ともに疲弊したり、子どもが誤った学習をしてしまうくらいなら、一旦その場を収めてゆったり時間をとってもいいんじゃないかと。


そんな風に考えたのです。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 14:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て・子どもたち観察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

熱血物語SP今更買ったら超絶面白かった

ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

正直なところ、頭のどこかで、「熱血物語のリメイクだろ?」と思ってました。「昔散々やったしなー、まあ時間出来てからでいいか…」とか思ってました。

違いました。リメイクじゃありませんこれ。

ダウンタウンシリーズの新作です。




ダウンタウン熱血物語SP。2016年10月27日、アークシステムワークスから発売。

ダウンタウン熱血物語なので、当然のことながら主人公は「くにお」。夢見町や花園町を舞台に、喧嘩をしたり買い食いをしたりゲーセンでゲームをやったりしながら、くにおが所せましと暴れまわります。

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確かに基本的な筋立てやゲームシステムはかつての「ダウンタウン熱血物語」を下敷きにしてるんですけど、内容はもうぜんっぜん新しくなってます。

・必殺技の数が山ほど増えている
・もちろんアイテムも装備も山ほど増えている
・ストーリーはマルチイベント形式になっていて、原作と同じ展開になるとは限らない(というかなってない)
・イベントはもう何から何まで完全に新しい内容ばっかり
・原作でさらーっとしか語られていなかった部分がやたら掘り下げられている
・マップも全然変わっており、やたら広くなっている
・くにおのステータスやスキル・装備といった概念がすげー広くなっており、育て甲斐がありまくる
・操作方法も、3DSのコントローラーに適したものに変更されている(カスタマイズ可能)
・ゲーム内ゲームの「FoDD」もきちんと作り込まれていてちゃんと面白い

これくらいの点は断言しちゃっていいと思うんですよ。

これら、おなか一杯山盛りの新要素が、きちんと「ダウンタウンシリーズ特有の、いい意味でごちゃごちゃした、動かしているだけで面白いベルトスクロールアクション」にきちんと盛り付けられている。動かしていて楽しいし、育って楽しいし、必殺技が増えて楽しいし、イベントが見れて楽しい。なんなのこの楽しさは?

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とにかく、今回の熱血物語SPは、まず「くにおを育てるのがやたら楽しい」んですね。

序盤のくにおは正直かなり弱く、大運動会とか時代劇の感覚でいると雑魚敵にもそれなりに苦戦します。キックしても1ずつしかダメージ与えられないし、向こうからは平気で10とか20とか喰らったりする。これ軌道に乗せるのが結構大変でした。難易度「軟派」でもそうなんだから、「硬派」だったら何をかいわんや。

しかし、ゲームがちょっとずつ軌道に乗ってくると、くにおはどんどん強くなります。投げでもキックでもがしがしダメージ入るようになりますし、その辺の物を拾ってぶん殴ってもいい。相手から距離をとって、相手が走ってきたらジャンプキックで撃墜、なんて戦い方でしのぐことも出来て、この辺の「戦い方の工夫キャパシティの広さ」は流石ダウンタウンって感じですよね。

そして、頑張ってお金を溜めて「マッハキック」や「マッハパンチ」「ナッツシュート」みたいな必殺技を買えたら、いきなり世界が変わります。マッハキックでサクサク敵を倒していけることの感動・爽快感といったら。なんでしょうこれ、ドラクエで言うと「はがねのつるぎ」を買えた時の感動に近いでしょうか。

今回は、必殺技が使っている内に進化するようになっていまして、「マッハキックII」とか「ナッツミサイル」にパワーアップしたら更にサクサク戦えるようになります。他校の不良とかガンガン蹴散らせて超楽しい。

装備も様々、学ランやらボンタンやら部位によって効果が変わり、レアな装備なんかもありまして、装備を収集する楽しみもありまくります。

しかし、サクサク戦えるからといって「簡単になる」というわけでは全然なく。一部の名のある強敵は、パラメータから行動ルーチンまできっちりと強く、どんなにくにおを鍛えても苦戦する時はすげー苦戦します。この辺、達成感型ゲーマーとしてはうれしい限りとしか言えません。

どうも、「硬派」やそれ以上の難易度では、「くにおのレベルを上げきってからが本番」というような難易度であるらしく、その点今から楽しみです。

あと、ある条件を満たすと使えるようになる、様々な「超必殺技」。これもやたら種類があって面白いわけですが。

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これ、ボスも全然遠慮なく使ってきたりするので、油断するとこちらが瞬殺されたりします。ボス戦での超必殺技の演出は本作のハイライトの一つと言えるでしょう。

これらの楽しさの前提になる、「アクション部分が楽しいかどうか」というのは、そりゃもう熱血物語シリーズの肝入りなので何をかいわんやです。レスポンスは素晴らしく良く、慣れていくごとにくにおの操作がなじみ、攻撃にせよ防御にせよ「うまくいった時の爽快感」が物凄いです。

相手の動きを先読みして攻撃を刺していくとか、複数の敵に囲まれた時の切り抜け方とか、戦術的な工夫の余地もありまくります。工夫がハマった時の満足感は、今までのダウンタウンシリーズすべてと比較しても出色のものだと言っていいでしょう。



一方イベントについてなんですが、


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今回イベントはほんとーーに激増しておりまして、「熱血物語」ではよくわからなかったところも補完されまくっています。「りき」や「ごうだ」「りゅういち・りゅうじ」などのおなじみの面々だけではなく、行進曲やその後のダウンタウンシリーズで出てきたキャラクターも山ほど登場しているのもうれしいところ。冷峰四天王にせよ、にしむらやごうだにせよ、かみじょうややまもとにせよ、キャラクターの背景がやたら掘り下げられています。あと、ごだいは相変わらず何考えてるのかよくわからないです。

あと、まえだやさおとめといった面々もちゃんと登場してきて、しっかりくにおと顔なじみになっているのも個人的には嬉しいポイント。町民も激増しており、話を聞いていると結構色々、今作だけではなく他のシリーズにも関連しそうな話が聞けて大変面白いです。

ちなみに上記画像は、はせべ登場シーン。グラフィックやたら綺麗じゃないですか?

周回前提のバランスのようで、さらっと進めているだけでは出会えないイベントもかなりあるようです。最初の内は喧嘩三昧で町をうろつきながら、周回を重ねるごとに色んなイベントに出会えるようになっていく、という感覚で楽しめる模様。


取り敢えず、さくっと一周プレイした感じ、

・最初は土地勘を身に着けることに専念(どこに何があるのか把握する)
・序盤は、レベルが上がったら「運」を上げた方がいい(敵がお金を落とすかどうかが運依存)
・その後はパンチなりキックなり、主に使用する攻撃方法を上げていくのが良さそう
・やられても特にデメリットはないのでガンガン喧嘩していきましょう

という辺りがコツになりそうです。


長々と書いて参りましたが、言いたいことは

熱血物語SP超楽しいのでシリーズのファンは(ファンじゃなくても)是非買うべきです

という一点だけであり、他に言いたいことは特にありません。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。


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posted by しんざき at 07:06 | Comment(3) | TrackBack(0) | レトロでもないゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月29日

人力キャベツ太郎botが、カールの東日本での販売停止を受けて思ったこと


いつ、いかなる商品であろうとも、「売れないから売られなくなる」「売れないから手に入らなくなる」ということはあり得るのだ、ということ。

だから我々は、「なくなったら困る」という程度に好きな物には、積極的にお金を使っていかなくてはいけないのだ、ということ。

お金を使う以外にも、その商品を支える手段は多分色々とあるのだ、ということ。



勿論、今回のカールの一件が、果たして消費者層の努力で回避できたのか、というのは正直難しいところです。カールの売り上げは、ピーク時の年間190億円から、直近では60億円規模まで落ちていたそうです。130億円の売り上げ減というのは、そんじょそこらの根性論で取り返せるものではありません。消費者からすれば、そもそも売上の推移自体観測しにくい。それは勿論、そうなんです。

ただ、カールの地域限定販売停止で嘆いている人たちの数を見ていると、これ本当にもうちょっとどうにかならなかったんかな、というのは思わないでもないです。中には、「カール好きだったのになー全然買ってなかったけど」みたいなことを言う人までいて、「いや好きなら買おうよ、買って食べようよ」とはどうしても思ってしまうんです。


だって、お菓子は、食べる人が買わないと売れないのだから。在庫が溜まってコストがかさむだけで、企業はどんどんダメージを受けていくのだから。当たり前の話ですが。

確かに、個人の力はたかが知れています。一人が何千円、何万円分もカールを食べることは(短い期間では)出来ない。が、消費者は純然たる「個人の集合」であって、わけの分からない概念的な代物ではない。結局、個人が買わなければ売り上げは出来ないのです。「個人の力はたかが知れている」からといって、結局個人が買わないと何も始まらない。たかが個人、されど個人です。

そして、買うだけがその商品を応援する手段ではない。



ところでここにキャベツ太郎というお菓子があります。さくっとソース味でとても美味しく、かつ小袋でも20円で30玉程度が摂食出来るという超絶好パフォーマンスを誇っている素晴らしいおやつです。あとおなかが減った時に食べると空腹を癒すことが出来る。素敵。日本人は、いや地球人類はもっとキャベツ太郎を食べるといい。


私は勿論、個人的にキャベツ太郎を愛好しており、しょっちゅうキャベツ太郎を大人買いしては摂取しています。

そして、恐らく日本全土でもトップ100くらいには入るであろうというくらい普段からキャベツ太郎について話したり、ツイートしたり、ブログ記事を書いたり、欠かさずキャベツ太郎に関するツイートをふぁぼっています。

私はこの活動をキャベツ太郎botとしての業務と定義しており、普段からキャベツ太郎botを名乗っています。特に「Twitterでキャベツ太郎ツイートをふぁぼった数ランキング」を作ったら銀河系全てを見回してもトップ3からは落ちないでしょう。この点には自信があります。


たかがふぁぼ、と思いますか?私は、されどふぁぼ、だと思います。


お菓子は、特に大人になってしまうと、そこまで日常的なものではありません。むしろ、段々と手にとる頻度が落ちていってしまうものです。駄菓子なんか特にそうです。

だから、ふとコンビニなりスーパーなりでキャベツ太郎を見かけた時、「あ、そういえばこれ美味いって言ってたヤツがいたな」と思い出してもらう効果、というのは決して小さなものではないと思うのです。そういうことが積み重なって、波及して、バカにならない売上にならないとも限らない。


実際に効果があるない以上に、私は「この商品が無くなる前に、もっと頑張っておけば良かった!!」と思いたくないのです。出来ることがもっとあったかも知れない、と思いたくない。だから出来ることをやっている。それだけの話なのです。


私はいつも、キャベツ太郎ツイートをしたり、キャベツ太郎ツイートをふぁぼる時、「私利私欲の為にやっています」と言っています。これは偽悪でも露悪でもなんでもなく額面通りの事実でして、みなさんが「美味しい!」と思うかどうかには全く関係なく、1円でもキャベツ太郎の売り上げにつながるなら何でもやる、と思っているからやっていることなのです。

あと本当に会社の直下のファミリーマートはいい加減キャベツ太郎を入荷して欲しい。アンケート30枚くらい「キャベツ太郎を入荷するべき」と投書したくらいでアンケート箱を撤去しないで欲しい。

いつか、儚くもキャベツ太郎が販売停止になる、ということもあるかも知れない。そうなったらあとはもう自作するしかねえな、と思ってはいるのですが、それでも、そんな未来が来ないように、少しでも先になるように、私は私に出来ることをやっていくつもりです。


そして、これは多分、お菓子の話に限らない。ゲームでも、漫画でも、音楽でも、その他あらゆることについて、「好きなものが無くなる前に、出来ることをやる」というのが消費者のあるべき態度なのだ、と私は考えています。だから私は、好きな漫画や好きなゲームは、買うだけではなく、読んだ人が買いたくなるような情報を発信したいと思い、そうやっています。


好きなものにお金を使いましょう。好きなものの話をしましょう。好きなものの為に。自分の為に。


私は、そうするべきだ、と思います。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

天の川を見ようと思った。

天の川を見ようと思った。


何がきっかけだったのか、もうさっぱり覚えていない。私は8歳か9歳だった筈だから、もう30年近く前のことだ。父は出張に行っていた。兄と私は22時には就寝だし、エレクトーンの先生をやっていた母は、授業がある日にはほぼ私たちと同じ時間に寝てしまう。その日は確か、普段しない昼寝までして、夜寝ずに家を抜け出す計画を立てていたのだ。


天の川を見ようと思った。


よく覚えているのが、「夜でも、周りが明るいと天の川は見えない」「明るいところで見えるのは明るい星だけ」という話を聞いたことだ。それと一緒に、例えばシリウスとか、北極星とか、金星とか、明るい夜でも見えやすい星を幾つか教えてもらった、と思う。父にだったか、母にだったか。もしかすると兄にだったかも知れない。

ただ、その中に天の川は含まれていなかった。なんでも、天の川は、周りに明かりがないところでしか見えないらしいのだ。当時住んでいたのは関東地方のとある地方都市で、都会とまでは言わないにせよ、田舎というには若干人口が多い都市だった。夜でもそこまで星が見えるような場所ではなかったのだ。


じゃあ、裏山に行けばいい。


当時住んでいた家には、「裏山」があった。家から出て5分もダッシュすれば、すぐに道は上り坂になり、幾つか枝分かれしながら山の中に入っていく。自分たちが裏山と言っていただけで、多分緑地公園か何かだったのだろうと思う。ただ、子供の視点からすればそれはまさしく「山」であって、ちょっと入り込むとすぐにアスファルトが消えてなくなる道も、転校した友人からの連絡のようにふっつりと途切れる街灯も、私にとってみれば秘境といって良かった。当時私は、しょっちゅうその裏山に入り込んでは、狸を見つけて追いかけたり、道ですっ転んで頭を8針縫ったりしていた。

裏山に行けば、街灯がないところがたくさんある。見晴らしがいい場所の心当たりもある。裏山に行けば、きっと天の川が見えるに違いない。私はそう思った。


4月だったか5月だったか。夏になる少し前だったと思う。晴れた日だった。

多分なのだが、無意識下では「裏山に行ったくらいで天の川は見えない」というのはわかっていたのだろう、と思う。そうでなければ、親に連れていってもらえば済む話だ。

なにせ自宅から5分の場所だ。空の明るさは、家の真ん前の道路から空を眺めるのとそれ程変わらない。「天の川なんて見えないよ」と言われることが、おそらく頭のどこかではわかっていたからこそ、親にも兄にも内緒で、一人夜の山に抜け出すなんて無鉄砲なことを考えたのではないか、と今では思う。


なんにせよ私は、「天の川を見るんだ」と固く決意して、夜、寝静まった布団部屋から抜け出した。重たい懐中電灯まで持ち出して、音が立たないように気を付けながら、家の玄関のドアを開けて、閉めた。


夜の街が広がっていた。夜の街の道路の色は、普段と違って真っ黒だった。


私の家はそこそこ厳格な家で、特に子どもが寝る時間については厳しかった、と思う。夜22時以降に起きていていい日は大晦日だけで、その日だけは私と父二人で「ゆく年くる年」を見るのが通例になっていた。だから、21時過ぎに外出したことなど、当時一度もなかった。

わくわく半分、怖さ半分くらいだったと思う。裏山につくまではちゃんと街灯もあり、懐中電灯など必要ないのに、わざわざ懐中電灯をつけて、足元を照らしながら歩いた。人通りも殆どなかった。今から考えると、良く誰にも見とがめられなかったものだと思う。変質者の一人もいなかったことも、幸運という他ない。随分無鉄砲なことをしたものだと思う。

裏山までに、何度か懐中電灯を消して空を眺めてみた。多分、今、東京で見るよりは多少星の数も多かったろうとは思うが、頭の上に広がっているのはいつもとなんの代り映えもしない夜空だった。それでも裏山に行けば綺麗な星空が見える筈だと、そう信じて足を進めた。

行く場所は決めてあった。以前も書いたことがあるが、その裏山には、ちょっと道から外れたところに、ぽっかりと空いた空間のようなところがある。そこであれば、開けた空が見える。そこからなら天の川が見えるに違いない。

無謀もいいところだ。その空間に出るためには、結構長い距離茂みの中をガサゴソと通り抜けなくてはいけない。昼であればまだしも、夜、懐中電灯の光を頼りにたどり着けるような場所ではない。小さな山とはいえ、切り立った場所もあれば穴もある。小さいけれど川だってある。冗談抜きで、遭難していてもなんの不思議もなかったのだ。


あの瞬間のことは、今でもよく覚えている。何度か懐中電灯の光を消して、空を眺めては、木々に阻まれて殆ど空も見えないことを確認していた。足元は既にアスファルトではなく、むき出しの地面だった。風で草が鳴る音だけはひっきりなしにしていた。


何度目かにスイッチを入れた時、光が急に小さくなって、そして消えた。


最初はよく状況が呑み込めなかったと思う。スイッチをしょっちゅう切ったり入れたりしていれば、電池を消耗しやすいのは当たり前のことだ。暫くは、無意味に懐中電灯のスイッチをオンオフし続けた。スイッチを切って、少し待ってから入れなおせば、一瞬小さな光はつくのだが、それもすぐにつかなくなった。


真っ暗闇だ。時間は23時に近かったと思う。


えらいことになった、と、思った筈だ。進むどころか、戻ることだってままならない。昼間だったら目をつぶったって歩ける、と思っている程度に慣れた裏山だったが、夜の山は完全に別世界だ。真っ暗な中、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

確か泣きはしなかった筈だが、完全に頭が真っ白で泣くどころではなかった、というのが正直なところだと思う。


明かりが見えたような気がした。


裏山の道は曲がりくねっている。林を隔てて、だいぶ下の方だった。確かに、木と木の隙間に明かりがちらちらと見える。

人魂、みたいな代物ではない。間違いなくライトだった。ただ、車のヘッドライトなのか、自転車のライトなのか、懐中電灯のライトなのか、そこまではわからなかった。道を歩いて、上に上ってきているように思えた。


母か兄が探しに来たんだろうか。最初そう思ったのだが、流石に裏山を真っ先に探しにくる、なんてことはちょっと考えにくいと思った。見回りの人か、警備の人か、あるいは怖い人か。前者なら助けてもらえるかも知れないが、後者だとまずい。

そのころには、目もだいぶ慣れていた。最初に書いたが、夜だからといってそこまで暗い場所ではない。目が慣れていなかったから真っ暗闇に思えただけで、最初から歩こうと思えば歩ける程度の光量はあったのだ。


ライトの正体がわからない。


なるべく足音を立てないように、静かに下の方に歩き始めた。夜の山の中を、多少の光はあるにせよ、懐中電灯もなしで歩く。これも相当無鉄砲な話で、今同じことをやれと言われても絶対やりたくない。

しばらく歩いた。ライトの主が見えたら、とりあえずは道の脇に隠れて、相手がなんなのか確認するつもりだった。


ところが、私は最後までライトの主に遭わなかった。


この理由だけが、今でも分からない。その位置までの裏山の道は一本道だ。上に上ってきているのなら、降りる途中で出会わない訳がない。ライトの主が誰であれ、急に引き返したのでなければ、途中で出会わない筈はないのだ。

しかし私は、誰にも出会わないでアスファルトの道まで戻った。そこからは普通に街灯がある。人に遭わないようなるべく注意しながら家まで駆け戻って、気づかれないように布団部屋に戻って、布団に潜り込んで寝た。母と兄はずっと寝ていたようだった。鍵をあけっぱなしにしていたのだから、その点でも不用心な話だ。


今日、夜のコンビニに買い物に行った時、ふと感じた風の温度があの時と同じで、急に上のようなことを思い出した。


全然大した話ではない。子どもが一人、夜の街を探検に出かけて、途中で明かりを無くして慌てて帰ってきた。たったそれだけの話。ただ、「ライトの主は誰だったのか」ということだけが、小さな、ほんの小さな謎として残っている、たったそれだけの話。


私が天の川を実際に見れたのは、そのずっとずっと後。確か、大学生になってから、サークルの合宿での話だったと思う。白く煙ったような夜空を見て、「あー、これが天の川なのかー」と、随分単純に感動した記憶がある。


ちなみに、懐中電灯はいつの間にかなくなってしまっていた。普段は使いもしない懐中電灯で、かなり長いこと無くしたことにも気づかれなかったが、多分数年経ったくらいの頃、母が「あれ、懐中電灯どこいったっけ…」といったことがあった。私もその時まで、上の話をほとんど忘れていたが、急に思い出した。知らない振りをした。


それだけの話なのだ。

今日書きたいことはそれくらい。



posted by しんざき at 20:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

長男の一言から、ジョージ・マロリーの名言について考えた話

ところで先日、「神々の山嶺」を全巻買ってきて読んだんです。超面白かったです。

めっちゃ面白かったです



夢枕獏先生原作、谷口ジロー先生の作品ということもあって以前から気になっていたんですが。

先日、全然関係ないところで、長男(9歳)と「ジョージマロリーがエベレストに登れたのかどうかはまだ判明していない」という話をしてみたら、謎好きな長男が「マロリーの話気になる!」と言い出しまして。ちょうどいいので、マロリーのカメラが物語のキーアイテムになっている、「神々の山嶺」を買ってきたんです。

私と、長男と、あと登山が好きな奥様まで読みまして、全員一致で「超面白かった」という感想に。面白いですよね、神々の山嶺。長男は特に5巻の展開に感動したみたいで、しばらくはその話ばっかりしてました。

とはいえ、漫画の感想自体はまた別のタイミングで書こうと思ったんですが。今日書きたい内容は別件です。


皆さんご存知の通り、ジョージ・マロリーはイギリスの登山家で、後に「そこに山があるから」という言葉として伝わる名言の主として著名です。


これ、実際にはこういうやり取りだったそうで。

取材者:「Why did you want to climb Mount Everest?」

マロリー:「Because it's there.」

つまり、「何故あなたはエベレストに登りたかったのですか?」「そこにあるからだ」っていうことですよね。この言葉が、後に名言として残り、日本では「そこに山があるから」っていう言葉として残っていたりする、という訳です。実際にマロリーの発言なのかどうか疑われる部分もあるみたいですが、まあ一旦気にしないことにしましょう。


ところで、先日しんざき奥様のお菓子作りの話になりまして。しんざき奥様がお菓子作りに並々ならない熱意を燃やしているという話で、奥様「そこにケーキがあるからだ!」って言ったんですね。

その時長男、

「マロリーみたいに適当なこといってるー」

って言ったんです。

この「適当発言」って解釈が、個人的に結構新鮮でして。つまり長男は、マロリーの「Because it's there.」を、「適当に返された言葉」とみなしたらしいんです。

一般的な感覚だと、「そこに山があるから」ってガチの名言じゃないですか。普通に考えれば、「適当」なんて感覚じゃないわけですし、凄い荘厳な言葉のように思えるわけです。

ただ、改めて冷静に考えてみると、


「何故あなたはエベレストに登りたいのですか?」


って本当に「いい質問」でしょうか?

私の所感としては、これどっちかというとインタビュアーが楽をしているような、あまり筋が良くない質問のような気がするんですね。プロの領域に踏み込んでない。答えの内容を相手に全投げしている。それ聞いてどうすんだよ、インタビュアーとしてどんな答えを期待してるんだよ、みたいな。例えばイチローに「何故あなたは野球をするのですか?」って聞いてもそれはただの愚問じゃないですか、多分。

それに対して、たまたま返された「Because it's there」というシンプルな言葉が、たまたま美しく、たまたま印象的で、しかもその後の経緯もあってたまたま有名になった。これ自体は、インタビュアーの功績かって言われると多分違うと思うんですよ。

そこから考えてみると、マロリーの視点からすれば「くだらない質問がきたから適当に答えた」だったのかも知れない。

いや、「かも知れない」ですけどね。実際どうなのか分かりませんよ。ただ、真面目にいい質問だと思ったのなら、もうちょっと語数を費やして答えそうな気もしますけれど。

既にその言葉を「名言」として認識している我々大人には、そういう発想がしにくいと思うんですね。


一方、先入観なんて何もない9歳児である長男は、その名言を「しょーもない質問に返された適当な返答」と解釈した、と。

なるほど確かにそうかも知れない。言われてみれば、この短いシンプルな三語は、「答えても仕方ない質問をシャットアウトする為の三語」とも解釈出来ないことはない。子どもが先入観なしにエピソードを摂取するとこうなるのか、と。結構感心した次第なのです。


自分が面白いと思った作品を、家族も読んでくれるというのはとても楽しいです。「面白い」という感想が一致すると更に嬉しいです。だから私は、自分が好きな作品を、奥様や子どもたちにもお勧めするのが好きです。

けれど、単に共有出来るという以上に、自分が気付いていなかった視点まで子どもから出てくると、こりゃ本当に面白い、すげーエンターティメントだなーと思うわけなんですよ。子ども視点超面白い。


今後とも、色んな作品を家族と共有していって、あーだこーだ作品について言い合いたいなーと思った次第なのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 12:26 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

怪文書を頂いたので折角なので記事上で回答してみる

滅多にないことですが、怪文書を頂きました。

メール.png

メールアドレスを公開しているのにろくにメールが来ず、たまにきたと思ったら「あなたに100万ドル当たる権利を差し上げます」とかそんなメールばっかりでして、非コミュ勢としては日本語で意志疎通出来そうなメールが来ただけで舞い上がらざるを得ないので、折角だからということで記事にしてみました。

当初コピペなのかと思ったんですが、ぐぐってみるとそうでもなさそうです。正直ガチなのか釣りなのか判断に迷うところですが、面白いのでガチと考えて反応させて頂きます。


>あなたのブログは広告を貼っていないですよね?

スマホで見ると、ページ真ん中あたりから下の方にスライドする、どう考えてもいやがらせとしか思えないタイプの広告が出現するみたいです。アレ、私自身本気でうざいと思ってるんで、有料サービスでもいいから非表示に出来ないか悩んでるんですが…seesaaさんなんとかなりませんか。

面倒だし特にブログで稼ぐ気もないのでPC版には広告貼ってないですね。


>では検索順位に上になっていてもメリットないですよね?

特にないですね。大昔「マネジネント」ってtypoしたエントリーが、未だに当該単語でトップに表示されるのは本当にどうにかして欲しいと思ってます。おいいい加減にしろよGoogle。


あとてにをはには気を付けた方がいいと思います。


>何のメリットもないのに検索順位が上にきていてとても迷惑です。

そうですか。ちなみに参考までに、どんな単語で私の検索順位が上になってしまっているんでしょうか?迷惑をかけてしまって申し訳ないので是非教えて欲しいです。

多分、一般的な単語でこのブログが上の方に出てくることってあんまりないと思うんですが…「ムスカさん」とかですかね?


まあ個人的な所感としては、Googleに言ってくださいってのとSEOの一つもやってないブログに負けてどうすんのもうちょっと頑張ったらどうですかってのが半々です。


>他のブログをやっているひとたちにもとても迷惑だと思います。

存在しない不特定多数を自分と同意見とみなして説得力ドーピングを行おうとする手法にはあまり感心しません。一人の力でがんばりましょう。


>公益のためにもブログを消してもらえないでしょうか。

知らんがな。


>誠意のある回答と対応をお願いします。

以上、真心を込めた回答とさせていただきます。よろしくお願い致します。



posted by しんざき at 12:50 | Comment(14) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

「例のセーター」が定着しなかった理由は、本当にネタ消費速度の問題なのか?

id:orangestarこと小島アジコ先生の、この記事を拝読しました。

どんどんと、コンテンツとか話題の消費速度って上がって行ってるし、(もし、適宜流行の話題について行こうとするならば、だけれども)情報を提供する側も、それに合わせた速度が要求される。何か話題になるような出来事があったら、その6時間後には、もうそれに対する文章なり記事なりを投下しないと、見てもらえない。3日あいたら、「なぜ今更その話を…」って思われるし1週間もたてば「そういえばそんな話題もあったな…」みたいな感じ。

みんなが、コンテンツや話題をものすごい速度で後ろに放り投げるようになるのも時代の流れかもしれない。

ちょっとざっくりした話になるんですが、ご容赦ください。

これ、小島アジコ先生のおっしゃるところも分かるんですが、個人的にはちょっと違う所感を持っておりまして。

つまり、「コンテンツ消費速度が速くなったと言うより、元々一瞬で消費される様なネタでも、webのドーピング効果で可視化されるようになった」ということなんじゃないかなあ、と思っているんです。また、「webでコンテンツが定着するには、再利用性が何より重要である」ということもあるのかも知れません。


現在のwebで長く残るコンテンツやネタが存在しないかというと、実際のところそういう訳ではないんですよね。ミーム化、テンプレ化して長く消費され続けているネタって、Web上にはたくさんあります。


例えば様々なネットスラング。なんJ発のアレとか、淫夢ネタのそれとか、いい悪いはおいておいて、取りあえず完全に定着はしましたよね。


電車の車内における男性の発言がミーム化して定着したりとか、ドラマで頻繁に出てくる擬声語が定着したりとかも、webなんかではよくある話です。アニメや漫画発のも多いですね。まどマギネタとか、カイジネタとか。「ヤツは四天王の中でも最弱…」とか。最近だとけもフレのしんざきお兄さんネタとか、もう完全にwebで定着したと言ってしまってもいいんじゃないでしょうか。

あるいは、なんらかのエピソードを核にした、種々のテンプレや定型句。2ch発のミームがwebで定着した、みたいな例もありますよね。「ちょっと田んぼの様子みてくる」とか、「※ただしイケメンに限る」とか、既に「当初は2chで発祥したネタテンプレだった」ということ自体認識されていないものも今じゃ多いんじゃないでしょうか。

あるいは種々の画像ネタ。横山三国志の色々とか、神々の山嶺の食事シーンとか。デスノートの「ダメだこいつ…早くなんとかしないと…」やらヒストリエの「よくもだましたなああああ!」みたいに、漫画の一部分が定型文的に使いまわされるようになっている現象も、いい悪いはともかく「コンテンツが定着して長く消費され続けている」と言っていいんじゃないでしょうか。AAネタもこれに該当するかも知れないですね。


これ、何がキーワードになるって、多分「発展性」とか「汎用性」みたいなものがキーワードになると思うんですよ。もうちょっと言ってしまうと、「いじりやすい・使い勝手がいいネタは定着しやすい」


例えばTwitterでもfacebookでもSNSでも、ちょっとずつテンプレをいじって面白い文章を作って、それを展開して、みたいな消費形態って結構一般的ですよね。場面場面に当てはめて、二次的にウケをとれるネタは再利用しやすい、あるいは定着しやすい。二次利用が、更にどんどん拡散して、様々な人が共通してそのネタを使うようになる。そういう意味で、「ネタの消費速度が上がった」とは一概に言うことは出来なくって、むしろ一部の分野では「ネタの再利用率が以前より遥かに向上して、一つのネタが使いまわされる度合いが増えた」とすら言えると思うんですよ。


それに対して、例えば「例のセーター」って言われるものとか、「例の紐」って言われるものって、「ネタとしての再利用性、再利用の容易さに劣る」とはいえると思うんですね。絵師さんならまだ話は別ですが、一般の人があれ改変して再利用するのって無理じゃないですか多分。頑張っても、実際にその服買ってきて、着てみて、画像アップして、とかそれくらいのネタ利用しかできないわけですよ。それだけのネタに数千円払いますかっていうと、やっぱ結構ハードル高い。

つまり、例えば「奇抜な服」的なネタは、一回「うわなんだこれエロい」ってなるとその先がない。絵師さんであればその服をテーマにしてキャラクターに着せて、といった感じで再利用できるかも知れないけれど、一般の人はそういう再利用をすることが出来ない。だから定着しにくい。

これに限らず、「元々長く定着するようなコンテンツではなかった」ものってたくさんありますし、そういうのは以前からすぐ消えてた、と思うんですよ。話題にすらならなかったかも知れない。

けれど、元来「再利用できない」ことで一瞬で消えるようなコンテンツであっても、瞬間風速的には盛り上がっているのが可視化されるから、「一瞬盛り上がってすぐ消えた」ように見える。

一部のコンテンツが「一瞬で消える」ように見えているとしたら、その理由はむしろ、消費速度の速さよりもそういった「webにおける可視化」と「webでの再利用性の有無」というところにあるんじゃないかなあ、と。私はそんな風に思うわけです。


こうして考えてみると、webで何かのコンテンツを定着させたかったら、何よりも「再利用性」を重視するべきなのではないか、ということが言えるような気がしてきます。ただこれについては、もうちょっとちゃんと材料を集めないといけない気がするので、また機会を改めようかと思います。


今日書きたいことはそれくらいです。



posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

「キン肉マン」が38年の旅を越えてたどり着いた場所

先週、「キン肉マン」完璧超人始祖編のweb連載が、ついに、ついに最終回を迎えました。

皆さん読みましたか?完璧超人始祖編。まだ読んでない人は是非単行本を買ってでも読みましょう。損はさせません。

巻数で言うと、36巻までが王位争奪編までの、言ってみれば20世紀のキン肉マンで、37巻は外伝的な読み切り作品、38巻以降が2012年から始まった「完璧超人始祖編」のキン肉マンです。60巻がシリーズ最終巻になる、筈です。まだ出てませんが。




かつて、キン肉マンのテーマって、割と分かりやすい「逆転と超克」の物語だった、と思うんですよ。以前書いた「流石」と「まさか」で言うと、極めて「まさか」に寄った物語。


最初期のギャグ漫画時代・怪獣退治編を例外として、キン肉マンは殆ど常に、「大逆転」を主軸に据えたストーリーであり続けました。普段は「ダメ超人」としての描写を専らとしているキン肉スグルに、次から次へと襲い掛かる大ピンチ。それに対して、頼もしい仲間たちと、友情パワーや火事場のクソ力を武器にしたキン肉マンによる、大逆転と大勝利。超人オリンピック編でも、悪魔超人編でも、黄金のマスク編でも、完璧超人編でも、王位争奪編でもそうでしたよね。

キン肉マンは、常に窮地に立たされますし、常に臆病風に吹かれますし、けれど常にそこから立ち上がり、最後には窮地を打ち破る。普段かっこ悪いからこそ、かっこいい。それがキン肉マンでした。

そして、キン肉マンの「窮地の打ち破り方」の描写は、本当に卓絶していました。プロレスに「超人」という要素を掛け合わせて、既存の枠を打ち破った「超人プロレス」。そこでの駆け引き、つばぜり合い、時には搦め手、そして大逆転。この描写こそが、キン肉マンという漫画を不朽の名作にした最大の要因であることは論を俟たないでしょう。

キン肉マンは、ジャンプの三大原則である「友情」「努力」「勝利」を最も忠実に体現した漫画の一つだった、ともいえると思うんです。


ただ、旧作キン肉マンの一つの特徴として、「対戦相手は飽くまで超克の対象であり、(少なくとも一度は)否定されることになる」という点があることは否めないと思います。もうちょっとぶっちゃけると、「主人公の逆転を描く為に、敵キャラが一度は割を食うことになる」ということです。

例えば黄金のマスク編の悪魔将軍は、途中までは圧倒的な強さとカリスマを欲しいままにしましたが、終盤はあんな感じでした。バッファローマンは最後に改心してしまいましたし、ネプチューンマンは、いきなり正体を現したネプチューンキングの部下のような描写になり、最後はアレやコレやな感じでした。フェニックスは、途中まではミステリアスな強さをもった知性派だったんですが、やはり終盤は色々小悪党っぽい感じが出てしまいました。

言ってしまうと、旧作キン肉マンの唯一の「弱点」は、「敵役の立ち位置を貫徹させられなかった」あるいは「悪役が最後まで魅力的な悪役として描かれてこなかった」ことなのではないかと、少なくとも私は思うのです。これは、ゆで先生ご自身が「この作品は前作を超えるものにはならない」とおっしゃったという、キン肉マン二世でも引き続いた問題だったと思います。

これが悪かった、ってわけじゃないんです。これはこれで、キン肉マンの重要な「味」の一つではあったと思いますし、話の展開としても好みの問題です。


ところで。


以降は、核心には触れないつもりですが、一応ネタバレになるので注意して頂ければと思うのですが。

38巻からの完璧超人始祖編では、この点が完全に、完璧に、これ以上ないくらいに払拭されていました。本当に、同じ人がこの漫画を描いたのか…!?と思ってしまう程の凄まじい払拭ぶりでした。

完璧超人始祖編は、そもそも「旧作キャラが入り乱れる三つ巴戦」として始まりました。完璧無量大数軍の襲来に、正義超人の唯一の代表として孤軍奮闘するテリーマン(とジェロニモ)、そこに割って入るのがブラックホールやステカセキングという時点で、旧作ファンとしてはもう感動し過ぎて涙が止まらないくらいでしたが、何よりもすげえ!!!と思ったのが、「悪魔超人が、悪魔超人のままで完璧超人たちと戦っている」ということなんです。

彼ら、慣れあわないんですね。決して正義超人と「協力」したりはしないし、正義超人軍として戦っている訳でもない。「悪魔超人は悪魔超人であって、決して正義超人に与しているわけではない」というスタンスを、それこそ最後の最後まで崩さない。

その首尾一貫ぶりは、満を持して登場した悪魔六騎士、そして悪魔将軍の登場でピークに達します。最後の最後まで、悪魔将軍は自らのスタンスを譲らない。かつて自分を倒した男(キン肉マン)を認めながらも、決して自分を折りはせず、勿論なれ合うこともなく、自分の「目的」に忠実であり続けるのです。

そしてこれは、完璧無量大数軍、更にその上に立つ完璧超人始祖達にも同じことが言えます。たとえ敗北することになったとしても、自分が信じているものだけは決して折らない。立ち位置を変えない。


認めるけれど、折れない。勝とうが負けようが、「譲れないもの」はそのまま保持し続ける。だから、たとえ敗れたとしてもその大義は変わらないし、輝きを失わない。

私は、かつてキン肉マンで、ここまで「敵役が最後までかっこいいままだった」シリーズを他に知りません。


これ、旧作キン肉マンでは見ることが出来なかった、「最後までブレない強大な敵役」という概念そのものだったと思います。キン肉マンならではの熱い描写はそのままに、三つの勢力が最後まで輝きを失わず、それぞれの終着点にたどり着いてみせた。上記の言葉を使えば、「まさか」の熱さに、「流石」の熱さが追加された、ともいえると思います。


とにかく滅茶苦茶かっこいいんですよ、悪魔将軍も、悪魔六騎士たちも、ネメシスも、ザ・マンも、勿論他の始祖たちも。その強さ、その威風、威容もさることながら、「ブレないが故に、たとえ歩み寄らなくてもお互いに認め合うことが出来る」その一貫したスタンスが彼らを輝かせていたんだと思います。


この「ブレなさ」があったからこそ、今回の「完璧超人始祖編」の最後の戦いが、「キン肉マンとネメシス」ではなく、「悪魔将軍とザ・マン」という戦いであり。しかもネメシス編以上に熱く、印象的で、キン肉マンという作品の中でも指折りに素晴らしい一戦になったのだと私は思うわけです。

勿論、敵役のブレなさだけが「完璧超人始祖編」のすばらしさではありません。引き伸ばし、出し惜しみのなさ。「まさかそこでその伏線が回収されるのか!?」の意外性。きっちりと立ち位置を下げてからの大逆転を見せるキン肉マン。きっちりと実力を見せつける旧作強豪たちと、それ以上の活躍を見せる新キャラたち。本当に結果が予想できない、一つ一つの戦いの熱さ。随所随所で発揮されるゆで理論の「分かっている」感。ついに、ついに大敵を下してみせたザ・ニンジャ。

この隙が無さ過ぎるエンターティメント性は、現在連載中のすべての漫画を見渡しても出色のものだったと思います。


かつて旧作キン肉マンは、「逆転と超克の物語」を熱く描写することによって、不朽の名作になりました。


そして今、完璧超人始祖編は、「認め合い、しかし歩み寄らず、お互いを尊重する」物語を描くことによって、かつてのキン肉マンを越える作品になった、と私は思います。今、この時代に、キン肉マンという題材でこの作品を描き切ってみせた、ゆでたまご両先生には本当に感嘆する他ありません。今後の新シリーズも楽しみにさせていただきます。

ゆでたまご先生、まずは本当にお疲れ様でした。素晴らしい作品をありがとうございます。


今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする